今回は、真珠湾攻撃がもたらした意味について考えてみたいと思います。 本質を考え、本質を見抜く思考こそが、これからの日本を築く土台になるのだと思います。
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着底し傾いたアリゾナ

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!!予約受付中 1日遅れになってしまいましたが、12月8日は、真珠湾攻撃が行われた日です。
そこで今回は、真珠湾攻撃がもたらした意味について考えてみたいと思います。
・・・そういえば以前に、当日に書かなかったからと、「書くべき日に書かないのは、ねず公は反日のスパイだ」とコメントしてきた方がいたなあ。。。
あのね、これは私的な個人ブログ(日記)です(笑)
いつ何を書こうが語ろうが、人様からとやかく言われる筋合いのものではないし、また、とやかく云うべきものでもないものです。
どこぞの国の日本語の達者な人達による工作活動の一環なのでしょうけれど、ご苦労なことです。
さて、昭和16(1941)年、ハワイの現地時間では12月7日7時10分、日本時間では12月8日午前2時40分に、日本がハワイオアフ島にある米軍基地に対して、航空攻撃ならびに潜航艇によって攻撃を行いました。
第一波空中攻撃隊を指揮したのが淵田美津雄海軍中佐です。
攻撃に際して「全軍突撃」を表す(ト・ト・ト)を下命します。
そしてその45分後、淵田中佐は、旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電する。
これが「ワレ奇襲ニ成功セリ」の暗号電文です。
この攻撃による米軍の損害は、
戦艦5隻が沈没
駆逐艦2隻 沈没
標的艦1隻 沈没
戦艦3隻 中破
巡洋艦3隻 中破
航空機188機 破壊
航空機155機 損傷
米軍兵士2345人 戦死
という大戦果となりました。
こうして真珠湾攻撃は、世界の戦史上もまれにみる奇襲攻撃の成功例として記憶されるのだけれど、当時、真珠湾でこの奇襲攻撃を観察していた米軍司令部は、日本軍のあまりの攻撃の素晴らしさに、司令官はドイツ軍将校がやっているに違いないと話し合っていたのだそうです。
要するに、日本人はジャップであり、イエロー(黄色人種)なのだから、白人とくらべ劣っているという先入観が、それだけ強かったのです。
真珠湾攻撃の総指揮官だった淵田海軍中佐(当時)は、終戦後も生き残るのですが、終戦直後のある日、3人の大柄な黒人兵が淵田大佐のもとにやってきました。
そしていきなりジープに乗れという。
淵田大佐は、こうして30分ほどジープにゆられ、丸の内の郵船ビルの裏手に連行されました。
そのころ郵船ビルは、米軍将校たちの宿舎に充てられていました。
ビル内には、米軍の白人将校向けのバーもありました。
淵田大佐を連行したのは、そのバーで働かされている米兵です。
バーの楽屋裏に連れ込まれるとき、淵田元海軍大佐は、
「もはやこれまで」と観念したそうです。
ところが、ドアが空けられた途端、そこに集まった大勢の米軍黒人兵たちから大歓迎を受けました。
食いねえ、飲みねえ、と、それはそれはたいそうな歓迎でした。
彼らが異口同音に言うには、
「真珠湾攻撃を誰が一番喜んだと思う?」
「それは、われわれ黒人だよ」
当時、米軍兵士と日本人との交流は米軍ないで固く禁止されていました。
その禁を破ってまで、彼ら米黒人兵たちは淵田大佐を真珠湾攻撃隊長と知って、大歓迎したのです。
これは、パラオ、アンガウル島の玉砕戦を生き残った舩坂弘さんが書いておられるのだけれど、米軍の攻め方というのは、はじめ艦砲射撃やら航空機からの爆弾投下で、徹底的な爆弾による破壊を試みたあと、上陸して日本軍の弾の当たるところに出てくるのは、いつも決まって「黒人歩兵部隊」でした。
戦争ですから、先頭にたつ歩兵は撃たれます。
そして先頭の部隊が撃たれることで、敵の居場所がわかる。
わかったら、そこを艦砲射撃で攻撃するのです。
そして日本軍の弾が飛んでこなくなる頃になってやっと、白人の掃討部隊が前線に出て来る。
要するに黒人は、人として扱われていなかったのです。
テレビや映画などでは、実際のこういう姿は、まず出てきません。
白人の兵隊が勇敢に銃を撃ち、日本軍と戦っているというようなシーンしか放映しない。
けれど、実際の戦闘では、常に敵弾の届く危険なところには、黒人兵が狩り出されています。
それは戦時中のことだから、もう70年も昔のことだから、と思う人もいるかもしれません。
けれど、ボクなどが少年時代だった昭和30年代、40年代頃は、やはりまだまだ白人による人種差別が根強かったし、米国人が、黒人を人として処遇するようになったのは、ほんのこの何十年か前からの、つい最近のことでしかないのです。
日本は、大正8(1919)年に行われた第一次世界大戦のパリ講和会議で、日本の牧野伸顕全権が明確に「人種差別の撤廃」を主張しました。
黄色人種も、黒人も、同じ人間である。人としての尊厳は、人類みな同じであると主張しました。
だから国際連盟の憲章に、人種差別撤廃を謳おうと提案しました。
人種差別はよくないという概念は、いまでは、ほとんどの日本人が「そんなことはあたりまえ」と思っています。
けれど植民地支配が全盛の時代にあっては、優等人種と劣等人種という概念は、ごく一般的な世界の常識でした。
それだけに、「黄色い猿」である日本が人種平等論を提唱することは、植民地の支配によって利益を得ている西欧諸国の、影響力ある大金持ちたちにとって、彼らの財産を放棄させるという、とんでもない危険思想とされたのです。
そしてそれに世界で唯一、抵抗し、逆らい、乾坤一擲の大勝負を挑んだのが日本であり、真珠湾攻撃の開戦であったのです。
W・E・B・デュボイス(William Edward Burghardt DuBois)という人がいます。
米国人で、1868年にマサチューセッツ州で生まれ、1963年にお亡くなりになりました。
このデュボイスという人は、米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人です。
アメリカ合衆国の公民権運動指導者、汎アフリカ主義、ブラック・ナショナリズムの先駆者、全米黒人地位向上協会の創立者でもあります。
昭和11年(1936)年のことです。
彼は、満洲に1週間、中国に10日間、日本に2週間滞在し、「ピッツバーグ・クリア」紙に、「忘れがたい経験」と題したコラムを連載しました。
以下はそのとき掲載された彼の体験談です。
~~~~~~~~~
デュボイスはある日、東京の帝国ホテルでフロントで勘定を払っていました。
そこに“いかにも典型的なアメリカ白人女性”が、さも当然であるかのように、彼の前に割り込みます。
ところが、ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせず、デュボイスへの対応を続けた。
勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をし、それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向いた。
~~~~~~~~~
フロント係の毅然とした態度に、デュボイスは、これまでの白人支配の世界とは違った、新しい世界の幕開けを予感しました。
彼は言います。
「母国アメリカではけっして歓迎されることのない一個人を、
日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。
日本人は、われわれ1200万人のアメリカ黒人が、
同じ有色人種であり、同じ苦しみを味わい、
同じ運命を背負っていることを、
心から理解してくれているのだ。」
さらにこの旅でデュボイスは、日本人と中国人との違いを悟ったといいます。
それは上海での出来事でした。
デュボイスの目の前で4歳くらいの白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、その場をどくように言ったそうです。
すると、中国人の大人たちはみな、あわてて道をあけました。
これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。
デュボイスは語ります。
「上海・・・
この世界一大きな国の世界一立派な都市は、
なぜか白人の国によって支配され統治されている。
それに対して日本は、
有色人種による、有色人種の、
有色人種のための国である」
大東亜戦争が始まると、米黒人社会の世論は割れていきます。
「人種問題はひとまず置いて、
母国のために戦おう」
「勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう」
という意見もあれば、
「黒人を差別するアメリカのために
戦うなんて馬鹿げている」
という意見もありました。
デュボイスは、大東亜戦争を“人種戦争”と捉え、はっきりと次のように語ります。
「アメリカが日本人の権利を認めてさえいれば、
戦争は起こらなかったはずだ」
黒人たちは、白人が日本人を
「イエロー・バスタード(黄色い嫌な奴)」
「イエロー・モンキー(黄色い猿)」
「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」
などと、必ずそこにイエローの文字を入れて形容することに、ますます人種戦争のにおいをかぎつけました。
当時のアメリカ政府は、日本兵は“残虐な未開人である”というイメージを広めようとやっきになっていたのです。
それに対し彼は「ピッツバーグ・クリア」紙で次のように語りました。
「ビスマーク沖での海戦で、
アメリカ軍は多数の日本の艦船を沈めた後、
波間に漂っていた多くの日本兵を
マシンガンで皆殺しにした」
「本土爆撃ではわざわざ人の多く住んでいる場所を選んで、
大人から赤ん坊まで無差別に殺した」
「広島と長崎に原爆が落とされた時、
何万という人間が一瞬にして殺された。
これを残忍と言わずして何を残忍と言おう」
「軍隊の中で差別に苦しめられていた
黒人兵が白人のために、
同じ有色人種である日本人と戦わなければならない理由は、
なにもない」
「ある白人指揮官は、
黒人部隊の95%は戦う気力がまったくない、
と判断を下している。
黒人兵の間では、やりきれない気持ちからの
次のようなジョークがある。
墓石にはこう刻んでくれ。
白人を守ろうと、
黄色人種と戦って
命を落とした黒人
ここに眠る”と」
彼は、大戦中、日系移民は、米国の市民権を持っている人々までも強制収容所に入れられたことについて、米黒人社会は、非常に大きな衝撃を受けたそうです。
第一に、日系アメリカ人だけが収容され、ドイツ系もイタリア系も収容されなかったのは、あきらかに人種偏見のせいである。
第二に、アメリカの市民権を持っている日系人さえもが強制収容されるなら、黒人にも同じ事が起こる可能性がある、という点。
そして彼は、11万5千人もの日系人が、一度にアメリカ人としての自由を奪われるのを、われわれ黒人は黙って見過ごすというのかと語り、ロサンゼルス・トリビューン紙のコラムニストとともに、全米黒人向上協会に呼びかけ、次のような決議文を提出します。
「われわれは人種や肌の色によって差別され、
アメリカ人としての当然の権利を
侵害されることに断固として
反対していかねばならない」
大東亜戦争終戦の後、黒人社会は、収容所から解放されて戻ってきた日系人を歓迎し、温かく迎えます。
彼らは、日系人のために仕事を探したり、教会に招いたりしてくれたのです。
第一次世界大戦が終結した1919年、パリで講和会議が行われました。
このパリ講和会議は、第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことがないために「国際連盟」を創設しようという会議でもあった。
このとき、米国の黒人たちが最大の注目したのが日本でした。
日本は、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲て、講和会議に参加したのです。
日本の全権使節団は、パリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄ります。
このとき「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、黒人社会の指導者4人が、「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、との嘆願書を、日本の使節団に出します。
米国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に嘆願をしているのです。
「われわれ(米国の)黒人は
講和会議の席上で“人種問題”について
激しい議論を戦わせている日本に、
最大の敬意を払うものである。」
これは、全米黒人新聞協会が発表したコメントです。
人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見なしていたのです。
パリ講和会議で、日本の“人種差別撤廃法案”は16カ国中、11カ国の賛成票を得ながら、議長であった米国大統領ウィルソンの「全会一致でない」という詭弁によって退けられます。
全米の黒人たちは、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動を続発させます。
そもそもアメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったのは、日露戦争の時です。
白人の大国に、有色人種の小国が独立をかけて、果敢な戦いを挑んだのです。
冒頭にご紹介したデュボイスは、白人による支配から有色人種を解放してくれる可能性のもっも高い国として、日本を支持しました。
日本が勝てば、やがて“アジア人のためのアジア”を声高に叫ぶ日が来るだろう。
それは、自分たち黒人の母なる大地であるアフリカに同じような声がこだまする前兆となる、と考えたのです。
そしてその考えは、全米黒人教会の意思にもなります。
黒人紙「インディアナポリス・フリーマン」は次のような社説を掲載します。
「東洋のリングで、
茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている。
事実、ロシアは繰り返し何度も、
日本人にこっぴどくやられて、
セコンドは今にもタオルを投げ入れようとしている。
有色人種がこの試合をものにするのは、
もう時間の問題だ。
長く続いた白人優位の神話が、
ついに今突き崩されようとしている」
そして、日露戦争は、有色人種は白色人種に決して勝てない、という白人優位の近代史の神話を事実として否定してみせたのです。
当時、ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、二人が黒人だったことについて、「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように述べています。
「ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、
日系人の病院がどの人種にも、
門戸を開放していることは本当に喜ばしい限りである。
同じ人種の医者に診てもらうことができる安心を
患者は得ることができるのだから」
1923年の関東大震災では、ある黒人が「シカゴ・ディフェンダー」紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書します。
それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めた。
「たしかに我々は貧しい。
しかし今お金を出さなくていつ出すというのか」
同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していきました。
万国黒人地位改善協会は、「同じ有色人種の友人」である天皇に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行ないました。
「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、A・L・ジャクソンは、長い間白人たちの専売特許だった科学や商業、工業、軍事において、飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、震災で大きな打撃を受けたことにより、黒人もまた精神的な打撃を受けた、と分析しました。
なぜなら「日本人は、それまでの白人優位の神話を崩した生き証人」だったからだといいます。
1936年、イタリアがエチオピアを侵略します。
アメリカの黒人たちは、アフリカ唯一の黒人独立国を「最後の砦」として支援しようとしました。
アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事が、アメリカの黒人たちの心を動かしたのです。
「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一成大将が、
「イタリアとエチオピアの争いでは、
日本は中立になるわけにはいかない」
「エチオピアの同胞を助けるためには、
いつでも何千という日本人が
アフリカに飛んでいくだろう」
と明言したことを伝えています。
また「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けたこと、戦闘機の提供まで日本が示唆していたことを特ダネとして報じました。
そして何よりも黒人たちを感激させたのは、エチオピアのハイレ・セラシェ皇帝の甥、アライア・アババ皇太子と日本の皇族・黒田雅子女史の結婚の計画です。
これは実現には至らなかったものの、日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せていた証拠でもありました。
シカゴ・ディフェンダー紙は、
「海を越えた二人の恋は、ムッソリーニによって引き裂かれた」と報じています。
「20世紀の日本人-アメリカ黒人の日本人観」の著者、レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は次のように我々日本人に呼びかけています。
「歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、
それがアメリカ黒人だった。
・・・この本を読んでいただければ、
日本の政治家や知識人たちが
黒人を差別する発言を繰り返したときに、
なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、
心から理解してもらえるはずである」
パリ講和会議における日本の提案は、当時の白人社会にはとてつもなく大きな爆弾であったといえます。
国富の大部分を、人種差別と植民地政策によって得ていた欧米資本家や貴族たちにとって、植民地を失うということは、すなわち国家の崩壊であり、資産家たちの破産を意味するものでもあったのです。
それだけに、人種差別撤廃を堂々と主張する日本は、彼らにとって、どうしても許すことのできない相手でした。
日本をなんとかして封じ込めなければならない・・・そのことは彼らにとっての意思となっていきます。
逆に日本はどうかというと、なにも国際的地位向上のために人種差別を主張したわけではない。
そんな奢りや高慢は、当時の日本にはまったくない。
そのことは、現代、いまだって同じです。
いまでも貧しい国、衛生面で問題のある国、法的整備が遅れている国、学校のない国に、日本人はふつうに出かけ、援助し、協力し、互いの発展を願って活動している。
飢えに苦しんでいる国、病気で苦しんでいる国があるって聞けば、コンビニの店頭で釣銭での寄付だって、多くの日本人が、自分だって決して生活楽じゃないけど、ふつうにやっている。
決して年収の高くない普段、フリーターの青年たちが、ボランティアで実際に海外に出かけ、教育や農業、医療の支援活動をやっている。
そのことは戦前も、現代もなにも変わりがないのです。
日本人はなにも変わっていない。
驕りがなく、謙虚に、互いの発展を願う。ひとりひとりの日本人の中にあるそうしたやさしい気持ちは、戦前も、戦後のいまも、なにひとつかわっていないのです。
日本の主張した“人種差別撤廃”の主張は、単にイエローである日本人自身が欧米と対等につきあえること願ったものだし、貧しく、差別された人々に対し、“四方の海はみなはらから”なのだから、普通に対等の関係を構築しようとしたにすぎない。
そしてそのことが、結果として日米開戦にまで至るし、日本が乾坤一擲の大勝負として、真珠湾攻撃を仕掛ける遠因となっていった。
帝国軍人という名の武士たちは、命がけで戦いました。
そしてその結果、世界の被植民地国家は、いまやことごとく独立し、自国の繁栄を謳歌するようになった。
戦争は、国家間の大義衝突の解決のための最終手段です。
戦争は手段であって、目的ではない。
であれば、人種差別撤廃という日本が唱えた悠久の大義は、結果として達成したことになる。
ならば、間違いなく日本は、戦争に勝ったのです。
※この記事は2011年12月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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