• 教科書にないマレー沖海戦の真実


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    マレー沖海戦の翌日、一機の日本機が、戦闘のあった海域に再度飛来しました。
    何をしにきたのでしょうか。

    20211210 マレー沖海戦
    画像出所=https://twitter.com/hwtnv/status/939618502641463296
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    小名木善行です。

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    12月10日は、マレー沖海戦があった日です。
    この海戦は、大東亜戦争開戦の2日後である1941年12月10日にマレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)と、大英帝国東洋艦隊の間で行われた海戦です。

    よく、戦艦大和は、航空機によって沈められた。時代は航空機主体の時代に変わっていたのに、日本は空母を作らず大艦巨砲主義の巨大戦艦大和を作り、結局、米航空体によって大和は沈められた、といった話を耳にします。
    私も学生時代、学校の先生から、大鑑巨砲主義に傾倒した日本がアホだったと教わりました。
    しかし、これは違います。
    デタラメです。

    世界最初に航空機をもって戦闘態勢の戦艦を沈めたのは日本です。
    これにより世界の海戦の態様が変わりました。
    日本が、変えたのです。
    それがマレー沖海戦です。

    この海戦で、日本は英国海軍が世界に誇る、当時の技術における世界最強戦艦を撃沈しています。
    航空機で戦艦を沈めたという先例なら、タラント空襲、真珠湾空襲などもあるのですが、それらは、停泊中の戦艦を航空機で叩いた、というものです。

    当時は停泊し、エンジン機関を停止している戦艦は、主要な武器が使えなかったのです。
    人に例えれば、寝込みを襲われるようなものです。
    ところが作戦行動中の戦艦というのは、全身鋼鉄の要塞であり、対空防衛力、対潜防御力、攻撃力いずれをとっても、蚊蜻蛉(かとんぼ=航空機の蔑称)くらいで倒せるようなシロモノではないというのが、先の大戦開戦当時の世界の常識だったのです。

    なかでも当時マレーに配備されていた英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、14インチ(35.56cm)砲を10門装備、さらにポムポム砲と呼ばれる対空砲を全身に装備していました。
    この砲は、1分間に6000発もの弾丸を発射するというすさまじい兵器です。

    英国は2年も前から、ヨーロッパ戦線でドイツ・イタリアの航空機に襲われる経験を積んでいましたから、対空戦の経験も充分積んでいました。
    ですから英国の誇るこの大戦艦の前に、当時の技術では、世界中のどの戦艦も敵わないし、どんな航空機攻撃をも撃退されるとされていました。
    プリンス・オブ・ウェールズは、20世紀最強の暴君とも呼べる海の最強戦艦だったのです。

    英国首相のチャーチルは、東洋にある英国領土の植民地利権を守るために、この最強戦艦を旗艦とする艦隊をマレーに派遣しました。
    これによって、いつ日本が攻めてきても、鎧袖一触。
    いつでも打ち払えるだけの用意をしていたのです。

    マレー沖海戦で、日本は、これを沈めました。
    そして、現実に、動いている戦艦が航空機によって沈められたという事例は、今日までの世界のあらゆる海戦の中で、今日ご紹介するマレー沖海戦と、終戦間際に圧倒的な航空機をもって戦艦大和が撃沈された坊ノ岬沖海戦(1945年4月7日)、同様に大多数の航空機をもって戦艦武蔵が沈められた捷一号作戦(1944年10月24日)の3例しか、世界の戦史にないのです。

    この三つの海戦のうち、あとの二つが昭和20年に、まるで雲霞のように空を覆いつくさんばかりの航空機で日本の大和、武蔵が叩かれ、しかも船が沈んだときに、海上に逃れた抵抗できない乗員達にまで航空機からの銃撃と虐殺が行われています。

    ところが日本が昭和16年に行ったマレー沖海戦では、日本は限られたごく少数の航空機で、当時の世界最強戦艦を同時に二隻沈めたのみならず、乗員達の退避のための十分な時間を与え、乗組員たちの命を永らえたのみならず、戦域を逃れて漂流後に沈んだ英国海軍の将兵までも救助しています。

    大鑑巨砲主義だとか、日本軍には知恵がなかったとか、本当に戦後の我々は、いい加減な嘘を垂れ流されてきたものです。
    プロパガンダは、歴史ではないのです。

    さて、大東亜戦争の開戦は、そもそもがChina事変に端を発するものです。
    そしてChina事変で日本に敵対していたのが、蒋介石率いるChina国民党で、なぜ国民党が日本と対抗し得たのかというと、米英がマレー経由で蒋介石に軍事支援物資を送っていたからです。

    軍事的には、この援蒋ルートを叩かなければ、日本に勝機は訪れません。
    そのためには、日本は、陸軍をマレーに進行させ、同時にその補給のため、マレー沖の制海権を把握する必要がありました。

    逆にいえば、当時マレーを植民地支配していた英国にしれみれば、日本にマレー沖の制海権を渡せば、チャイナの紹介席に援助物資を渡せない。
    そうなれば、日本軍の前に蒋介石は敗北せざるを得ず、英国の持つインドの植民地利権も、次には脅かされることになる。

    もう少し詳しく述べると、この海戦よりも2年前の昭和14年9月に、ナチスドイツが第2次世界大戦をスタートしましています。
    そしてナチスドイツは、この2年の間にヨーロッパ全域をほぼ掌握し、この時期には英国への空爆を盛んに行っていました。
    ロンドンも、ナチスドイツの空襲にさらされるようになっていたのです。

    本来であれば、そうした中にあって、英国の誇る最強戦艦は、英国の護りに使うべきところです。
    ところがチャーチルは、そのプリンス・オブ・ウェールズを、英国領インドの東側の防衛ラインであるマレーに派遣しました。
    これはつまり、完全に「対日戦」を意識したものであったということです。

    米国のルーズベルトに要請して、日本を徹底的にイビリまくって挑発する。
    チャイナの蒋介石への援助もそのためのものです。
    挑発して、日本が米国に対して反撃に出れば、日米が戦争になる。
    そうなれば、ルーズベルトは「私は米国民を絶対に戦争に参加させない」との大統領選における米国民への公約を反故にして、戦争を開始できる。
    戦争が開始となれば、日独は同盟関係にあるのだから、米国は、日本だけでなく、ナチスドイツとも戦線を開かなければならなくなる。
    つまり、米国が、ヨーロッパにおける対独戦に、堂々と参戦できる。
    米国がヨーロッパ戦線に参戦すれば、その時点でヨーロッパ全域に戦域を広げて、手一杯状態になっているナチスドイツは、限界ギリギリ、手一杯のところに、新たな敵を迎え撃つことになり、英国侵略どころではなくなる。
    つまり、英国にとって、対ドイツ戦への勝機が訪れる・・・と、これはいかにも政治家であるチャーチルらしい、政治的な絵です。

    ちなみに国際法上、挑発を受けて相手を殴る(つまり戦争を始める)行為は、これは侵略戦争とはみなされません。

    戦争には、
     1 侵略戦争
     2 自衛戦争
     3 制裁戦争
    の三つの区別があります。
    このうち、明らかに国際法上「違法な戦争」とされるのは、1の侵略戦争だけです。
    2は、攻撃を受けての反撃ですから、これは国家存続のための必要な行為です(これを国家生存権といいます)。
    3は、違法な侵略国や、ジェノサイドを行っているような国を、世界の諸国が協調して制裁を科すための戦争であって、これまた必要な行為であって、違法な戦争ではありません。

    日本国憲法が禁止しているのも、ごく一部のわずかな国を除いて、世界中の国々が規制しているのも、侵略戦争だけです。2と3は、日本国憲法上も、完全に合法な行為です。

    従って、昭和16年の大東亜の開戦も、日本は「挑発を受けて開戦した」のですから、これはマッカーサーも後に認めているように、明らかに「自衛戦争」であって、国際法上も完全に合法的な戦争であったのです。

    こうした背景の中にあって起きたのが、マレー沖海戦です。

    英国側は、昭和16年12月8日の日米開戦の6日前である12月2日には、英国最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス、その他駆逐艦4隻で構成するG艦隊をシンガポールのセレター軍港に入港させました。

    これはどういうことかというと、英国はすでに日本が戦争を挑んでくる事を、事前に察知していたし、その日付まで、ある程度承知していた、ということです。
    要するに英国は、日本が攻めて来るように仕掛け、来たところを撃破してやろうと、米国とともに「待ち構えていた」ということです。

    ここは大切なところです。
    日本が真珠湾攻撃を行って、大東亜戦争を開始したのが、12月8日です。
    ところがマレーには、その前日である12月7日に、英国東洋艦隊が、トーマス・フィリップス海軍大将司令長官の指揮のもとZ部隊を編成して、シンガポールを出航しています。
    完全に、日本側の動きは、察知されていたのです。

    先の大戦は、日本の「奇襲攻撃」とされていますが、これで奇襲でもなんでもないことがわかります。
    網を張り、待ち構えている中に、日本が飛び込まされたのです。
    まさに「蟻地獄」です。

    マレー沖海戦で、日本の輸送船団を警護していたのは、金剛と榛名です。
    両艦とも近代化の改装こそ受けていますが、艦齢は27年を越えている老朽船でした。
    最近の自動車は、当時と比べてかなり耐久性の面で向上していますが、それでも27年オチの車となると、いい加減、ボロボロです。
    兵装や装甲の厚さも、巡洋艦程度の実力しかない船です。

    これを、英海軍は、世界最強の戦艦二隻を含む最強艦隊で出迎えました。
    最新鋭艦の戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、当時の英国王ジョージ6世の兄王であるエドワード8世の即位前の名前をいただいた船です。
    いかに自信満々の船であったかがわかります。

    同行するもうひとつの戦艦レパルスも、建造年月こそウエールズより古いものの、装備はウエールズと同じです。
    しかも、それまでにドイツ軍航空機による爆撃を何度も受け、それらを完全に撃退してきているという実践経験の豊富な戦艦です。

    普通の常識で考えれば、余程のアホでも、ここまで戦力が違えば、日本の輸送船団は完全壊滅させられると確信できます。

    では日本はどうしたかというと、とにかく輸送船団を護衛しなくちゃいけない。
    ですからサイゴン(いまのホーチミン)にある航空基地から、航空機(九六式陸攻59機、一式陸攻26機、計85機)を発進させました。
    海上の戦力が乏しいのです。
    空から補わなくちゃならなかったのです。

    そして運良く、英国東洋艦隊を発見します。
    各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到しました。

    戦いは、熾烈なものでした。
    航空機による攻撃を、完全撃退してきた実績を持つレパルスと、それをさらにひとまわりも強化したプリンスオブウエールズが相手です。
    しかもボムボム砲が、弾幕で空を覆いつくしています。

    この戦いで日本側は、陸上攻撃機未帰還3、帰投時の不時着大破1、偵察機未帰還2、その他30機以上に深刻な被害を受けました。
    飛び立った半数が深刻な被害を受けたのです。
    どれだけたいへんな戦いだったかわかります。

    そしてその大激戦の結果、日本はなんと、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと、巡洋戦艦レパルスの両方を撃沈して、沈没させてしまうのです。

    この戦いで、ウエールズ撃沈の報告を聞いた英国チャーチル首相は、「あの艦が!」と絶句し、「戦争全体で(その報告以外、)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と著書の第二次世界大戦回顧録で語っています。
    それだけ、チャーチルにしてみれば、自信満々の日本叩きのための「絶対沈まない船」のはずだったのです。

    マレー沖海戦では、まず戦艦レパルズが沈みました。
    次いでプリンス・オブ・ウェールズが、大破しました。

    プリンス・オブ・ウェールズの艦長のトマス・フィリップス海軍大将は、日本の航空隊に向け、乗員を退艦させるので、30分時間をほしい、と打電しました。

    日本の航空隊は、これをのみました。
    おかげでウエールズの乗員たちは、巡視船エクスプレスに乗り移ることができたし、レパルスの乗員も捜索する時間が与えられ、エレクトラが571名、ヴァンパイアが、レパルスの艦長と従軍記者を含む225名を救助しています。

    その間、日本の攻撃隊は空で待機しました。
    英国軍の救助活動の間、いっさいの攻撃行動をしなかったのです。

    当時の飛行機は、いまの時代にあるようなハイブリット・タイプでも省エネタイプでもありません。
    空で待機していれば、燃料が減り、その減ったところに敵機が、援軍機で攻めて来たら、帰投するガソリンさえもないまま、撃ち落とされなければならなくなるかもしれないというリスクがあります。

    それでも日本の航空隊は、待ちました。

    ウエールズの乗員が全員退艦したあと、トマス司令官が、ひとりデッキに残ったのです。
    彼は海の男です。
    やはり、艦とともに死を選んだのです。

    日本の航空隊は、それを見届けると、上空で全機整列し、一機ずつデッキ前を通過して、トマス艦長に航空機での最敬礼をして、敬意を払っています。
    トマス艦長も、最敬礼で応答しています。

    つまり、日本の航空機が空で待機したのは、まさに武士道そのものであったのです。

    さらに、マレー沖海戦の翌日、一機の日本機が、戦闘のあった海域に再度飛来しています。
    何をしにきたのでしょうか。

    その機は、海面すれすれまで下降すると、現場海面に花束を投下して去って行ったのです。
    敵となり、味方として死んで行った同じ海の男達の敢闘に、弔意を表したのです。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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