アロハオエの美しい旋律の陰には、侵略者に踏みにじられ祖国を失う悲しみが詠まれています。 そして「アロハオエ」は祖国を失うということがどんなに悲しいことかを伝えているのです。
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ハワイ最後の女王、リリウオカラニ。1895年にプランテーション所有者たちの陰謀によって退位させられてから、20年以上が経過したころの写真。
画像出所=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/21/051700236/
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太平洋の楽園として知られるハワイは、18世紀末に「キャプテン・クックによって発見された」とされています。
そのクックを先頭に、ハワイに来島した白人たちが持ち込んだのが、
貿易商、キリスト教宣教師、麻疹、結核、コレラ、ハンセン病、梅毒・・・でした。
もともと、祖代の倭国(環国)として倭人たちが住んだエリアには、土地所有という概念がありません。
ハワイも同じで、土地は島の人々にとっての共有財産であって、土地に生えているヤシの木やバナナの木は、各家庭の食を支えるものとして、島の1本1本の木に、それぞれの所有者(所有者というより、所有家)が決められていました。
そんなハワイで、欧米から来た白人達は、ただ同然で土地を占領し、またたく間に国土の75%以上を所有。
武器を持たず抵抗できない先住ハワイ人は、クックが来島した頃30万人だった人口が、1872年には5万7千人にまでに減少しています。
そのような情況のもとで、ハワイ諸島統一に立ち上がったのが、有名なカメハメハ大王です。
彼は、欧米人種と対抗するために、明治維新のときの日本と同じように、一方で彼らから武器・弾薬を買い、一方で種々の部族がひしめくハワイ諸島を統一し、ハワイの民衆を護ろうとしました。
武器購入資金は、サトウキビ等の輸出など、国内産業の発展によって賄いました。
しかし輸出相場の変動、疫病の蔓延などにより、国力は徐々に低下していったのです。
そのカメハメハ大王の孫にあたるカラカウワ大王が、1881年に日本に来日しました。
当時の日本は、有色人種で唯一の独立国。有色人種の希望の星だったからです。
カラカウワ大王は、日本の天皇に絶対に会わせまいとする米国の随行員らを出し抜き、日本人通訳のみを連れて、密かに赤坂離宮を訪れて、明治天皇と会見を求めました。
天皇側は夜中の訪問を不審に思ったけれど、とりあえず会見しようということになった。
このときカラカウワ大王は、ハワイ王国の内憂外患の窮状を述べ、5つの協力を日本に求めました。
第一 日本人移民の実現(ハワイ人の人口減少を同一種族である日本人の植民で補う)
第二 やがて王位を継がせる姪のカイウラニ王女と日本皇族・山階宮定麿親王との婚約。
第三 日本・ハワイの合邦(連邦)
第四 日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設。
第五 日本主導による「アジア連邦」の実現。
しかしこのときは、まだ明治維新後わずか14年です。
日本に米国と対抗する力はありません。
さんざん検討のうえ、翌年、 明治天皇はカラカウア王に特使を派遣して、婚姻の議を謝絶しました。
しかし、移民については実現し、1884年、日本・ハワイ移民協約が締結しています。
1885年、ホノルルに到着した第一陣の日本移民のために催された歓迎会には、大王自身も列席され、日本酒が振る舞われ、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会が催されました。
1891年1月 病死したカラカウア王の後を継いで、後継者として指名されていたのが、大王の実妹リリウオカラニ女王です。
1893年1月15日、リリウオカラニ女王はハワイアンに選挙権を与え、市民権を持っていない白人からは選挙権を剥奪するように、憲法を変えようとしました。
宮殿前には、女王を支持するハワイ国民が集まりました。
これに対し米国公使 スティーブンスは、翌16日、「米国人市民の生命と財産を守るために」と、ホノルル港に停泊中の
米軍艦ボストンから、海軍160余名を上陸させ、政府庁舎や宮殿近くを制圧してしまいます。
そして軍艦ボストンの主砲を、イオラニ宮殿に照準を合わせました。
「無駄な血を流させたくない・・・」
リリウオカラニ女王は、退位を決意し、これによりハワイ王国が滅亡しました。
当時のハワイには、日本人25,000人が入植していました。
そこで、急きょ、日本から巡洋艦「浪速」と「金剛」が警備のためにハワイに向けて出港します。
翌2月23日、到着した「浪速」は、米軍艦ボストンの隣に投錨します。
艦長は、若き日の東郷平八郎です。
軍艦ボストンからみたら、これは実に気持ちが悪いことでした。
「浪速」の乗組員は、いっさい、米政府筋の者たちと会おうとせず、黙々と隣に投錨している。
艦首主砲が、ボストンを向いた途端、ボストンの沈没は免れない。
こうして日本の2艦が米人たちに
無言の圧力を与えることで、ハワイ市民の混乱や、市民に対する白人の略奪を阻止したのです。
まさに、戦わずして勝つ!です。
さすがは東郷平八郎です。
ここで登場したカラカウア大王は、キリスト教宣教師によって禁止されていたフラダンスを復活させた、フラの父です。
そして、東郷平八郎氏と親交があったといわれるハワイ王国最後の女王リリウオカラニが作詞作曲したのが、有名な名曲アロハ・オエです。
Aloha 'Oe アロハ・オエ(あなたに愛を)
Ha'aheo ka ua i na pali
Ke nihi a'ela i ka nahele
E hahai ana paha i ka liko
Pua 'ahihi lehua o uka
Aloha 'oe, aloha 'oe
E ke onaona noho i ka lipo
A fond embrace a ho'i a'e au
Until we meet again
山たちこめる雲 霧化し森の間間
さがす谷咲く花 潤(うる)むいのちつぼみ
ふるさと ふるさと
うるわしのああ まほろば
もう一度 抱きしめて
さようなら ふるさと
「まほろば」というのは、素晴らしい場所のことを言います。
そこを「うるむ、うるわし」と表現しています。
「うるむ」は涙でうるむことを掛けています。
「うるわし」は、折り目正しく、美しく、見事なさまです。
つまり、折り目正しく、美しく、見事な、素晴らしい場所であったハワイに、さようなら、と言っています。
アロハオエの美しい旋律の陰には、侵略者に踏みにじられ祖国を失う悲しみが詠まれています。
そして「アロハオエ」は祖国を失うということがどんなに悲しいことかを伝えているのです。
※この記事は2009年1月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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