察するという文化なしに、ただやみくもに議論するなら、それは「考えることをしない議論」になります。 考えもなしに、ただ議論するのなら、それは互いに 「言い張る」こ とにしかなりません。 つまり微細な違いをとりあげての強弁や、偽りを真実と言い換える詭弁ばかりが横行することになります。 これでは、互いに議論を交わすことで、より高い次元の知見を得ようとする英語圏のディベートにさえおよばないものとなってしまう。 このことを高松城における清水宗治の行動から考えてみたいと思います。 |
高松城水攻めの図(高松山妙玄寺)

画像出所=https://myougenji.or.jp/about/mizuzeme/
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 戦時中の国民学校(いまの小学校)の6年生の國語の教科書から、「ひとさしの舞」という、高松城水攻めに際しての城主清水宗治(しみずむねはる)の物語を転載します。
ときは天正10年4月、秀吉が信長の命を受けて中国の毛利輝元を攻めたときのことです。
この報を受けた輝元の叔父の小早川隆景は、いちはやく備前、備中の諸城を固く守られたのですが、秀吉の軍勢に押されて、次々に落城し、ついに、高松の一城を残すのみとなりました。
高松城は、周囲をヤマで囲まれた一面の沼地で、道は、わずかに和井元口と、地下口との二筋があるばかりの要害堅固な名城でした。
城主は、知勇兼備の将と言われた清水宗治で、この主のためには生命を惜しまない5千の部下が、城を守っていました。
さすがの秀吉も、これには攻めあぐんでしまうのです。
このときたまたま部将であった黒田孝高が水攻めの計を献じたのを幸い、大堤防を築いて足守川の水を注ぎ込み、さしもの高松城を水浸しにしてしまうところから、この物語は始まります。
*********
【国民学校初等科國語6
二十 ひとさしの舞】
一
高松の城主清水宗治(しみずむねはる)は、急いで天守閣へのぼった。
見渡すと、広い城下町のたんぼへ、濁流がものすごい勢で流れ込んで来る。
「とうとう、水攻めにするつもりだな」
この水ならば、平地に築かれた高松城が水びたしになるのも、間はあるまい。
押し寄せて来てるる波を見ながら、宗治は、主家毛利輝元を案じた。
この城が落ちれば、羽柴秀吉の軍は、直ちに毛利方を攻めるに違いない。主家を守るべき七城のうち、六城がすでに落ちてしまった今、せめてこの城だけでも、持ちこたえなければならないと思った。
宗治は、城下にたてこもっている五千の生命をも考えた。自分と生死を共にするといっているとはいえ、この水で見殺しにすることはできない。
中には、女も子どももいる。
このまま、じっとしてはいられないと思った。
軍勢には、ちっとも驚かない宗治も、この水勢には、はたと困ってしまった。
二
羽柴秀吉と軍を交えるにあたり、輝元のおじ小早川隆景は、七城の城主を集めて、
「この際、
秀吉にくみして身を立てようと思う者があったら、
すぐに行くがよい。
どうだ」とたずねたことがあった。
その時、七人の城主は、いずれも、
「これは意外のおことば。
私どもは、一命をささげて
国境を守る決心でございます」と誓った。
隆景は喜んで、それぞれ刀を与えた。
宗治は、
「この刀は、国境の固め。
かなわぬ時は、城を枕に
討死せよというお心と思います」と、きっぱりといった。
更に秀吉から、備中・備後の二箇国を与えるから、みかたになってくれないかとすすめられた時、宗治が、
「だれが二君に仕えるものか」
と、しかりつけるようにいったこともあった。
こうした宗治の態度に、秀吉はいよいよ怒って、軍勢をさし向けたのであるが、智勇すぐれた城主、これに従う五千の将士、たやすくは落ちるはずがなかった。
すると、秀吉に、高松城水攻めの計を申し出た者があったので、秀吉はさっそくこれを用い、みずから堤防工事の指図をした。夜を日に継いでの仕事に、さしもの大堤防も、日ならずしてできあがった。
折から降り続く梅雨のために、城近くを流れている足守川は、長良川の水を集めてあふれるばかりであった。
それを一気に流し込んだのであるから、城の周囲のたんぼは、たちまち湖のようになった。
三
毛利方は、高松城の危いことを知り、二万の援軍を送ってよこした。両軍は、足守川をさしはさんで対陣した。
その間にも、水かさはずんずん増して、城の石垣はすでに水に没した。
援軍から使者が来て、
「一時、秀吉の軍に降り、時機を待て」
ということであったが、そんなことに応じるような宗治ではない。
宗治は、あくまでも戦いぬく決心であった。
そこへ、織田信長が三万五千の大軍を引きつれて、攻めて来るという知らせがあった。
輝元はこれを聞き、和睦をして宗治らを救おうと思った。
安国寺の僧恵瓊を招き、秀吉方にその意を伝えた。
和睦の条件として、毛利方の領地、備中・備後・美作・因幡・伯耆の五箇国をゆずろうと申し出た。
秀吉は、承知しなかった。
すると意外にも、信長は本能寺の変にあった。
これには、さすがの秀吉も驚いた。そうして恵瓊に、
「もし今日中に和睦するなら、
城兵の命は、宗治の首に代えて助けよう」
といった。
宗治はこれを聞いて、
「自分一人が承知すれば、主家は安全、五千の命は助る」と思った。
「よろしい。明日、私の首を進ぜよう」と宗治は答えた。
四
宗治には、向井治嘉(はるよし)という老臣があった。
その日の夕方、使者を以って、
「申しあげたいことがあります。
恐れ入りますが、ぜひおいでを」
といって来た。
宗治がたずねて行くと、治嘉は喜んで迎えながら、こういった。
「明日御切腹なさる由、
定めて秀吉方から検使が参るでございましょう。
どうぞ、りっぱに最期をおかざりください。
私は、お先に切腹をいたしました。
決してむずかしいものではございません」
腹巻を取ると、治嘉の腹は、真一文字にかき切られていた。
「かたじけない。おまえには、決して犬死をさせないぞ」
といって、涙ながらに介錯をしてやった。
その夜、宗治は髪を結い直した。静かに筆を取って、城中のあと始末を一々書き記した。
五
いつのまにか、夜は明けはなれていた。
身を清め、姿を正した宗治は、巳の刻を期して、城をあとに、秀吉の本陣へ向かって舟をこぎ出した。
五人の部下が、これに従った。
向こうからも、検使の舟がやって来た。
二そうの舟は、静かに近づいて、満々とたたえた水の上に、舷(ふなばた)を並べた。
「お役目ごくろうでした」
「時をたがえずおいでになり、
御殊勝に存じます」
宗治と検使とは、ことばずくなに挨拶を取りかわした。
「長い籠城に、さぞお気づかれのことでしょう。
せめてものお慰みと思いまして」
といって、検使は、酒さかなを宗治に供えた。
「これはこれは、思いがけないお志。
えんりょなくいただきましょう」
主従六人、心おきなく酒もりをした。
やがて宗治は、
「この世のなごりに、ひとさし舞いましょう」
といいながら、立ちあがった。
そうして、おもむろに誓願寺の曲舞を歌って、舞い始めた。
五人も、これに和した。
美しくも、厳かな舞い納めであった。
舞が終ると、
浮世をば 今こそわたれ もののふの
名を高松の 苔にのこして
と辞世の歌を残して、みごとに切腹をした。
五人の者も、皆そのあとを追った。
検使は、宗治の首を持ち帰った。
秀吉は、それを上座にすえて「、あっぱれ武士の手本」といってほめそやした。
**********國語の授業で使われた教材ですから、もちろんいまと同じく漢字の読み書きや、送り仮名、文中の「これ」が何を指すかなどといったことも授業の中に含まれたのですが、当時の文部省の学習指導要綱を見ると、「取扱の要諦」
として、次のように書かれています。
***
文章を読ませて、困難な発音、文字、語句等を指導し、確実に読ませる。
独思や対話の入った文章であるから、地の文と区別して読ませるようにし、清水宗治が切腹して部下を助け、節義をまっとうしたことをわからせる。
読みが進むに従い、清水宗治が水攻めにされた城下町を眺めて主家を案じ、部下の生命を考え、
小早川隆景が七城の城主に言った言葉、
これに対する宗治の態度、
秀吉から降伏を進められたときの立派な態度、
高松城の水攻めの様子、
織田信長の援軍と和睦の条件、
本能寺の変と和睦の成立、
老臣・向井治嘉の忠節、
宗治最期の立派な様子
等を読み取らせる。
文意の理解に即して、話すことを練習する。
また人物を定めて、対話を中心にして劇的に読ませるようにし、読みを深める。 ***
この指導要綱に基づき、教室では、先生が、セリフのところを「〇〇君、ここ読んでみて」、「ほら、もっと感情を込めて!」などとやり、さらに「小早川隆景は、どうして七城の城主にこのようなことを言ったのでしょうか。君はどう思う?」なんて問いかけたわけです。
小学生ですから、意外とこういうときにおもいもかけない答えが返ってくる。
そこで異なる意見を持つ生徒たち同士で、互いに議論を交わさせたりなんていうことも行われたわけです。
議論というのは、その国の言語で行われるものです。
つまり日本人なら、日本語で議論します。
そこには国語力が必要です。
そして議論の奨励は、すでに1400年前の十七条憲法に、「論(あげつらふ)」として、その重要性が説かれています。
上下心をひとつにして、互いに顔をあげて、相手の目を見て議論するのです。
この点、議論を一切認めない西洋式の軍隊では、上官の発言を気をつけの姿勢で聞く時に、兵はまっすぐに前をミたまま、上官の目を一切見てはいけないことになっています。
互いに相手の目を見ながらするのが「論(あげつらふ)」です。
顔《つら》を《あげ》て議論するから、「あげつらふ」と言います。
戦時中の義務教育では、よく軍国青年の育成が図られたと言われます。
もし、兵を作ることが教育の目的なら、生徒は教師を見てはいけないし、自分で考えること、自分の意見を持つこと、議論することは、不要です。
なぜなら、言われたことだけできさえすれば良いからです。
けれど実際に戦時中に行われていた教育は、自分の頭で考えることができる子供を育成するということでした。
そしてそのことは、我が国の教育において、千年以上続く伝統でもあったのです。
我が国の文化は「察する文化」です。
「察する」という技術は、高い教育と、しっかりとした言語能力によって育てられます。
その互いに「察する」という土壌の上に、議論(あげつらふこと)が行われます。
すこし考えたらわかることですが、察するという文化なしに、ただやみくもに議論するなら、それは「考えることをしない議論」になります。
考えもなしに、ただ議論するのなら、それは互いに「言い張る」ことにしかなりません。
つまり、微細な違いをとりあげての強弁や、偽りを真実と言い換える詭弁ばかりが横行することになります。
これでは、互いに議論を交わすことでより高い次元の知見を得ようとする英語圏のディベートにさえおよばないものとなってしまうのではないでしょうか。
そして察する文化がもたらしたもの、それが日本人の「思いやりの心」です。
私たちは未来の子たちから、思いやりの心を失なわせるのでしょうか。それで良いのでしょうか。
※この記事は2020年12月の記事の再掲です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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