• 暖炉のススと日本的日常


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    ススがたまれば煙突掃除をする。
    これはしなければならないことです。
    掃除をすることで、人々はまた暖をとれるようになります。


    山本五十六の手紙
    山本五十六氏の手紙
    画像出所=http://kurumenmon.com/gokokujinjya/gokokujinjya.html
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    明治以降の日本では、義務教育があたりまえになっています。
    それはとても良いことです。
    けれど、その大本をたどってみると、必ずしも良いことばかりではない・・・というのが今日のお話です。

    義務教育などの「学制」は、明治5年に敷かれました。
    これによって、全国一律の、いわゆる国民教育が行われるようになりました。
    ではそれまではどうだったのかというと、基礎教育は民間の寺子屋が行っていました。

    寺子屋は義務教育ではありませんから、当然、教育を受ける子と受けない子ができてしまいます。
    けれど、江戸時代の識字率は、98%あったという説もあり、これは、実は、もしかすると現代日本よりもはるかに優れた教育がなされていたことを示します。

    なぜなら、当時の文は筆字です。
    しかも草書体や続け文字が多用されていました。
    現代日本人で、果たして、そうした文字を読める人がどれだけいるでしょうか。

    トップに張った写真は、山本五十六の手紙です。
    出だしのところだけ、活字にしてみると、
    「拝啓
     益々御清健、このたびは浦波号にて
     南洋を御視察相成候よし
     奉多謝。世上机上の空論
     を以て国政を弄ぶの際、躬行
     以て自説に忠ならむとの真摯
     なる御心掛けには敬意を表候
     但し海に山本在り以って御安心な
     どは迷惑千万にて小生は単に
     小敵たりとも侮らず大敵たりとも
     懼れず」
    と書いてあります。

    改行位置などは、上の写真のままですが、それでも上の文字を直接読める人は少ないと思います。
    私にも、正直、読めません。

    活字は、写真をクリックしていただくと、掲載ページに飛びますが、これをコピペさせていただいたものです。

    要するに言い換えれば、当時の水準をもってするならば、現代日本人の識字率は、おそらく1%にも満たないのです。
    もちろん、活字があるから良いではないかという考え方もあろうかと思います。
    けれど、活字によって私たちは、手書き文字を読み解く際の、いわゆる「行間を読む」ことや、あるいは書体や字の様子から、そこに文字としては書かれていない、相手の気持ちや思いを察するという能力が、著しく減退してしまっていることもまた事実なのではないかと思います。

    山本五十六は、昭和の人です。
    幕末や明治の人ではありません。
    亡くなったのが昭和18年ですから、ほんの79年前には生きていた人であり、それが手紙であるということは、この手紙を受取る人もまた、上の写真の文字をちゃんと読むことができたということです。
    そんな日常の文字を、私たちはすでに読めなくなっています。

    外国語ではありません。
    日本語です。
    それが読めない。書けない。
    それでいながら、私たちは、しっかりとした国語教育を受けてきたといえるのでしょうか。
    それが教育の成果なのでしょうか。

    明治時代に敷かれたこの学制ですけれど、実は、明治6年の徴兵令とセットになっています。
    なぜそのようなことが行われたのかといいますと、当時は欧米列強に対抗するために、富国強兵を推進せざるを得なかったのです。
    そのために国民皆兵、徴兵令を敷かざるを得なかったのですが、ところがいざ実際に全国から徴兵をしようとすると、言葉が通じない。

    当時の明治政府のお偉方は、皆、薩長の出の人です。
    それぞれ、薩摩弁、長州弁です。
    徴用兵は、全国です。
    言葉が違うのです。
    そのため、たとえば長州の元武士が、「前へ進め!」と号令をかけても、号令を受ける側には、まるで言葉が通じない。
    方言というのは、それほどまでにきついものだったのです。

    ちなみに戊辰戦争は、武士同士が戦いました。
    武士にももちろん方言やなまりはありましたが、彼らには全国共通の武士言葉がありました。
    それが「お能」の言葉です。

    当時の武士というのは、半農の足軽クラスは別ですが、ある程度の石高をいただく武士は、江戸詰めがあって、他藩の武士との交流がありました。
    その際に用いられた言葉が、お能の言葉だったのです。
    ですから武士は、歌舞伎や芝居などは、婦女であっても観てはならないものとされていました。
    観てよいのはお能だけです。
    お能は、ご覧になった方もおいでになると思いますが、歌がうたわれています。
    その歌言葉が、全国の武士たちの共通語となっていたのです。

    ところが庶民は、お能を観ません。
    とりわけ農村部では、いわゆる旅芸人や農村歌舞伎のようなものが親しまれましたが、それらも各地によって、それぞれ言葉が違います。
    つまり地方に住む限り、方言しか用いることはないのです。

    しかし、方言で言葉が通じないからと、欧米列強に植民地化されるわけにはいきません。
    そこで明治政府が行ったことが、学制を敷いて、全国共通語の普及を図ることでした。

    ちなみに、この徴兵に関して、いまでもそうなのですが、日本人は行進が下手です。
    いまでも自衛隊の行進は、北朝鮮やChinaの軍隊と比べても、小学生の運動会と同じレベルという人もいます。
    それが良くないと言っているのではありません。
    おそらくそんなことを思う日本人は皆無であろうと思います。
    そもそも日本には、行進という概念自体がなかったのです。

    そもそも武士の行軍は、全員が足並みをそろえて、イチ、ニ、イチ、ニという行進などしません。そういう伝統もありません。
    武道は、基本、すり足であり、腿を上げて、歩くという身に危険をもたらす行軍は、武道にはないのです。
    常住坐臥、いつにても体を入れ替え、毛筋一本で敵の刃をかわせるようにするのが武道の心得です。
    その武道家が、武士であり、大挙して進軍するのです。
    そこにイチ、ニ、イチ、ニはありません。
    外国の軍隊と異なり、我が国の武士は、奴隷兵ではないのです。

    そういう次第ですから、日本には、イチ、ニ、イチ、ニとリズムをとるという習慣がありません。
    このことが明治のはじめに西洋人から指摘されて問題となり、
    「日本人はリズム感が欠けているから行進ができないのだ」
    とまで言われるようになりました。

    そこで、このリズム感を養うために取り入れられたのが、学校における音楽教育です。
    昔の文部省唱歌にシンパシーを感じる人は多いと思いますが、それらの歌がなぜ教育カリキュラムの中に取り入れられたのかと言えば、実は、軍事教練の際に必要なリズム感を養うという目的のためです。
    ですから戦後、というかこの2〜30年くらいの間に、学校教育のなかから文部省唱歌が崩れ、もっとリズム感の溢れた軽音楽としての、New Musicや、JーPOPなどが採り入れられるようになったのは、むしろ明治以降のひとつの流れの中にあるともいえることです。

    同時にこの時代、欧米列強諸国が、共通してキリスト教徒であったことも問題となりました。
    欧米では、いわゆる道徳観、倫理観は、宗教によってもたらされるものです。
    ところが日本には、それに匹敵する宗教がない。
    実はあるのですが、日本社会ではそれは特別なものではなく、あまりにも日常的な常識になっていたから、日本人に宗教という自覚自体がなかったのです。

    そこで明治3年には、いわゆる廃仏毀釈の太政官布告が発布されています。
    神道をキリスト教に代わる日本的一神教に見立てようとしたのです。
    いまにしれみれば、ずいぶんと乱暴な話ですが、その乱暴は、明治7年ごろまで、全国のお寺の大伽藍が破壊され、由緒ある仏像が次々に破壊されるろいう狼藉にまで及ぶ事態となりました。
    外国にかぶれると、ありえないことが日常になるというお手本のような出来事です。

    さらに、全国の寺子屋で使われていた「実語教」と「童子教」が廃止になりました。
    両者とも、江戸時代の高い民度を築いた、極めて教育効果の高い洗練された教科書だったのですが、その内容に、お寺等への喜捨寄進を推奨する内容が書かれていたことが、廃止の理由となりました。
    そして、これらに変わる新たな教育の柱として、廃仏毀釈運動のさなかに出されたのが、教育勅語であったわけです。

    教育勅語は、素晴らしい内容です。
    その教育勅語によって、失われたものもありました。

    それが、「師道」です。
    「師道」は、言葉としては「指導」に置き換えられてしまいました。
    けれど、江戸時代までの教育において、「師道」はきわめて厳格なものでした。

    童子教には、師の前にあっては、常に姿勢をただすようにとありました。
    時代劇などで、上司が入室してくると、それまで大激論をしていた若侍たちが、いっせいに正座して身をただし、「御家老殿、お帰りなさいませ」などと全員が頭を垂れる姿が描かれたりしますが、まさにそれが、幼年教育から徹底して仕込まれた寺子屋教育であったわけです。
    そうした師道が、実は、明治の学制公布後に崩れるのです。

    それでも明治の中頃までは、江戸時代の教育を受けてきた人が教師であったために、教育の厳格さはある程度保たれました。
    ところがこれが昭和初期くらいになりますと、明治以降の教育制度の中で育った教師が、学校の教師を務めるようになります。

    ある程度の年齢になれば誰にでもわかることですが、生まれてからずっと、毛筋一本の間違いもない立派な師匠などという人はいません。
    立派な師匠というのは、本人の自覚や努力もさりながら、周囲の生徒や親たちが、立派な師匠だと称えるから、立派になるのです。
    ところが、周囲のそうした称えがなくなるとどうなるかというと、師匠(この場合は教師)は、ただ教えるだけの人になります。
    教室に教師が入ってきても、起立、礼、着席の習慣さえも失われていく。
    すると生徒の支えを失った教師は、ますます教えるだけの人になってしまうわけです。
    つまり、師道が指導に変わってしまうのです。

    昭和初期には、青年将校たちが、陛下の側近の閣僚たちの暗殺を企てる事件が起こりました。
    似たような事件で、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変がありますが、これを行った実行犯たちは、元水戸藩士や、薩摩藩士でしたが、いずれも「脱藩した後」に、この犯行に及んでいます。
    現職の藩士という立場、つまり、現役の陸軍将校という立場で、陛下の兵を率いて事件を起こすということなど、江戸時代にはまったく考えられないことであったのです。
    江戸の常識と昭和の常識では、それだけの開きがあるのです。
    226事件を良いとか悪いとか評価しているわけではありません。
    教育の崩壊についての話をしています。

    私たち日本人が、大切なものを失ったのは、必ずしも戦後だけの話ではなくて、もっと以前から、その喪失は始まっていたのです。
    繰り返しますが、それが良いとか悪いとかいうのではありません。
    良い面もあり、また失われて悪い面もあった。
    そういうことを、しっかりと踏まえて、私たちは、より良い未来を築いていく責任があるのだと思います。

    なんでもかんでも戦前が良く、戦後は何もかもが悪いというような、二律相反論を展開される方もいますが、そういう対立的な姿勢が、ほんとうはいちばんいけないものです。

    働き蟻はよく働くのですが、中に2割くらい、ぜんぜん仕事をしない蟻がいるのだそうです。
    そこで実験として、その「働かない」働き蟻を群れから取り除きます。
    すると、「働き者」の蟻ばかりになるはずなのですが、そうはならないのだそうです。
    残った蟻の中で、やはり2割が働かなくなる。

    世の中の全部がよくなれば、その良くなった中に、悪いものがまた生まれるのです。
    善悪は紙の裏表です。
    だからいつの時代にも悪はあるというのが、古くからの日本の教えであり、古事記の教えです。
    古代において、カマドは暖炉として暖かさを与えてくれ、そのカマドの上には祭壇が飾られました。
    けれど、だからこそカマドには真っ黒いススがたまるのです。
    そのスス(悪)を抱えながら、ときどき、ススを取り除いたりして、よりよい日々を築いていくことこそが大事なのです。

    戦前、つまり明治元(1868-1869)年から、終戦の昭和20(1945)年まで、ちょうど73年です。
    そのわずか73年の間に、戊辰戦争、西南戦争、佐賀の乱、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日華事変、大東亜戦争と、8回も大きな戦役がありました。
    そういう時代が、果たして本当に良い時代といえるのか。
    むしろ、平和という意味においては、戦後の77年は、一度も日本は戦争による死者を出していません。

    もちろん、戦後に失われた多くのものもあります。
    要するに、戦後日本というのは、良い面もあれば、悪い面もあるのです。
    そして現在は、戦後77年の真っ黒いススが、だいぶたまってしまったというのが実際のところです。
    ススがたまれば煙突掃除をする。
    これはしなければならないことです。
    掃除をすることで、人々はまた暖をとれるようになります。


    ※この記事は2017年1月の記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 右大将道綱母


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    百人一首にある右大将道綱母の歌
     嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は
     いかに久しきものとかは知る
    この歌は、ただやみくもに、寂しいと泣いている女性の姿の歌ではありません。
    強い信念をもって、女の戦いを立派に果たして行った、一人の美しい乙女の、心のつよさを詠んだ歌です。

    20170121 トンボ3
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    右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)というのは、平安中期に正二位大納言にまで昇った藤原道綱の生母のことです。
    この女性の歌が、百人一首53番にある次の歌です。

     嘆きつつ
     ひとり寝る夜の
     明くる間は
     いかに久しき
     ものとかは知る

    藤原道綱母は、衣通姫(そとおりひめ)、小野小町(おののこまち)と並ぶ、本邦三大美女のひとりです。
    ちなみに世界三大美女といえば
     クレオパトラ
     トロイヤ戦争のギリシャのヘレネ
     楊貴妃
    と言われていますが、この3人、3人ともに、あまりに美人であったために、国を傾け、城を滅ぼしてしまっています。
    だから美女のことを、傾国(けいこく)とか、傾城(けいせい)と呼びます。
    美しすぎるがゆえに、男の心を溶かし、国を傾けてしまうというわけです。

    これに対し、本邦三大美女は、いずれも外見も美しかったでしょうけれど、それ以上に心根の美しさが高く評価された美女です。
    衣通姫は、古事記に描かれた女性で、一大恋愛叙事詩の主人公となっている女性です。
    5世紀のはじめ、第19代允恭天皇の時代、木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と恋におち、二人は激しく歌の応酬をするのですが、最後は遠隔地に飛ばされた木梨軽皇子のもとに行き、二人で心中しています。
    この悲恋の物語は、「ひなぶり」といって、宮中の楽舞にもなりました。

    小野小町は、これは有名です。9世紀の女性です。
    今日のお題の藤原道綱母は、10世紀の女性です。
    『蜻蛉日記(かげらふにっき)』の著者としても有名です。

    生まれは承平六年(936年)、没が長徳元年(995年)、享年は59歳であったと伝えられています。
    父は正四位下・伊勢守の藤原倫寧(ともやす)です。
    この父は、いまでいうなら、地方の税務署長を転任し続けた人で、もちろん一般世間の目でみれば、大成した人になるのですが、中央の朝廷内においては、地方回りの出世競争からは落第した、いわば下級官吏のように見られていた人でした。
    ところがその娘は、たいへんな美人であったことから、政界の実力者である藤原師輔(もろすけ)の息子の藤原兼家(かねいえ)の目にとまり、その夫人になるわけです。

    夫である藤原兼家は、他にも妻がいて、子供もいました。
    その子が後年、藤原氏の全盛時代を謳歌した藤原道長です。
    道長といえば、
     この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
     かけたることも なしと思へば
    の歌で有名ですが、この道長が文学を愛したおかげで、紫式部や和泉式部などの女流文学が花咲く時代を迎えたりしています。

    さて、このような情況の中で、兼家は道綱母を見初めるわけです。
    すでに兼家は結婚して、子供もいるとはいえ、当時は一夫多妻制ですし、子供はよく死んだのです。
    ですから家柄を維持するためには、なんとしても、男の子がほしいし、それも万一の場合の保険といったら語弊があるかもしれませんが、ある程度数をつくっておかなければならないという事情もありました。
    ですから、正妻がいても、他の女性と関係を持ちます。

    そして、通い婚社会ですから、男性が、女性の家に通いました。
    女性の家というのは、当然のことですが、その女性の両親が一緒に住んでいます。
    親は、もちろん、誰が通ってきているのか承知しています。
    道綱母の実家の両親からしてみれば、娘が兼家の子を得るということは、一門の大出世と、娘の幸せの両方をいっぺんに手に入れることになります。
    ですから、当然、娘には、「早く子を!」と願ったことと思います。

    ところが、子が、できないのです。
    兼家は、相当、この道綱母を気に入っていたらしく、三日に空けず通っていたのですが、それでも子が生まれない。
    子がなければ、いつ捨てられても仕方がないというのが、側室の辛いところです。
    ですから、道綱母の立場は、その時点では、相当微妙なものがあったわけです。

    そんなときに詠まれた歌が、今日のお題の
     嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は
     いかに久しきものとかは知る
    です。
    ざっと意味を現代語訳しますと、
    「悲しみを抱いてひとりで寝る夜の夜明けまでの間の時間がどんなに長いものか、あなたはご存知かしら」といった意味になります。

    当時の道綱母の不安を象徴している絵があります。
    それが下の絵です。

    20170121 石山寺縁起絵巻


    この絵にまつわる物語が、道綱母の書いた『蜻蛉日記』の「石山詣」にあります。
    いつものねず式で、おもいきった現代語訳をしてみます。

    「でね、その日はとっても暑い日だったのだけど、
     石山寺に十日くらい行っちゃえって思い立ってさ、
     こっそり行っちゃえって思ったから、
     兄弟にも知らせずに明け方に走って出発したんだ。

     賀茂川のほとりまできたときには、追いかけてくる人もなくて、
     有明の月がとっても明るかったけれど、道行く人もなくてね、
     河原には死人が伏せてるよなんて、前におどかされていたけど
     恐ろしいって感じることもなかった。

     栗田山あたりまできたとき、
     ずっと小走りだったからちょっと苦しくなって、
     少し休んだら涙がこぼれてきたわ。
     変な女よね。
     道行く人は、どう思ったか知らないけど、
     みんな、ただ黙って通り過ぎて行った。

     山科あたりまで来たとき、空が明るくなった。
     道行く人って、どうしてあんなに足が速いのだろう。
     みんな私のことを追い越して行く。

     午後の遅い時間になって、ようやく石山寺に着いた。
     お寺の休憩所で、横になれる設備があったので、
     行ってすこし横になったのだけど、そこでもずっと泣いていた。

     夜になって、軽食をとったあと、御堂に上った。
     悩みごとを仏さまに申しあげようとしたのだけれど、
     涙があふれて言葉にならなかった。

     本堂で泣き明かして、明け方になって下がって、すこしまどろんだ。
     そのとき、この寺のお坊さんと思しき人が、
     銚子に水を入れて持って来てね、私の右膝にかけたの。
     おどろいて、目を覚ました。
     仏は、何をおっしゃりたかったのだろうと考えていたら、
     また悲しくなった。」

    ここにある「お坊さんが右膝に水をかけた」というシーンが、上にある絵になっているわけです。
    上の文に、石山寺に行くのに、早朝、夜明け前に家を出て、午後の遅い時間になって、やっと寺に着いたという描写があります。
    京都にある道綱母の家から石山寺までは、およそ23キロの道程です。
    当時の貴族の女性ですから、わずかな供回りの人を連れて、牛車か輿に乗って石山寺に向かったのかもしれないし、あるいは徒歩であったのかもわかりません。
    いずれにせよ、23キロといえば、女性の足で休憩を入れて8〜9時間の道程です。

    では、どうして道綱母は、そんなにまでして、石山寺詣をしたのでしょうか。
    しかも文からすると、なにやら悲壮感さえも漂っています。

    実は、その石山寺、聖武天皇の勅願による天平19年のご創建で、後年、紫式部が源氏物語の執筆のために篭ったことでも有名なのですが、その御本尊は如意輪観世音菩薩です。
    この菩薩は、懐妊と安産の仏様です。
    つまり道綱母は、このとき、どうしても懐妊したくて、意を決して石山詣をしているわけです。

    では、今日のお題の歌、
     嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は
     いかに久しきものとかは知る
    は、どのようなシチューションで詠まれた歌なのでしょうか。
    実は、そのことも、『蜻蛉日記』に書かれています。
    これまた、ねず式で現代語訳してみます。

    「九月になって夫の藤原兼家が出て行ったときにね、
     文箱があったので、ほんのてなぐさみに、その箱を開けてみた。
     そしたら中に、他の女性に贈る手紙があった。
     あさましいこととは思ったわよ。
     でも、その手紙を見てしまったの。
     だってこんなところに他の女性に渡す文があるということは、
     もう私のもとに通わないってことかもしれないって思ったの。
     
     そういえばね、十月の中頃にも、
     三夜続けてお帰りにならない日があったわ。
     そのときは彼はつれなく、
     「ちょっとしばらく(外泊を)試してみただけだよ」
     なんて言ってた。

     こないだのときは、夕方近くに
     「内裏(だいり)に用事があるから」って出ていったわ。
     あれって思ったから、家人に命じて後をつけてもらったの。
     そしたら内裏じゃなくて、町の小路に車をお停めたって。
     「やっぱり」って思った。
     とっても悲しかった。
     だからといって、なんて夫に話したら良いかも分からない。

     二、三日たったとき、明け方に門をたたく音がした。
     夫が帰ってきたと分かったわ。
     でも、気が進まなくて門を開けさせないでいた。
     そしたら例の家とおぼしきところに帰って行ったわ。

     翌朝に、このままではいけないと思って、
       なげきつつひとり寝る夜のあくるまは
      いかに久しきものとかは知る
      って、いつもよりもすこしあらたまって書いて、
     夫の寝ている枕元に飾ってあったすこし色褪せた菊に、
     この歌を挿しておいた。
     夫から返事がきたわ。

      げにやげに
      冬の夜ならぬ槙の戸も
      遅く開くはわびしかりけり

     (そのとおりだよ。
      冬の夜が明けるのを待つのはつらいものだが、
      冬の夜でもない槙の戸がなかなか開かないのも
      またつらいものだよ)
     と書かれてありました。

     それにしても、ここまで怪しいことをしておいて、
     しかも度々他の女のもとに通っているのに、
     ちょっとは内裏に本当に行ったりして
     取り繕ったりもすればまだ可愛げがあるのに、
     そんなことすらもしようとしないなんて、
     ますます不愉快な思いが、限りなく続いてしまう。」

    つまりこの歌は状況から、どうやら嫉妬を詠んだ歌のようにみえます。
    普通、嫉妬に身を焦(こ)がした女性の様子を「美しい」とは言いません。

    ところがこの歌を詠んだときの道綱母は、十八歳頃です。
    まだ子はいません。
    翌年には一人息子の道綱が誕生しているのですが、先ほども申しましたように、当時は通い婚社会です。
    そして身分ある人は、血を絶やさないために、複数の子をつくらなければなりません。
    夫の藤原兼家にしてみれば、いくら道綱母のことを愛していたとしても、子づくりのためには、他の女性のもとに通わなければならないのです。

    一方、道綱母にしてみれば、親からも「早く子を」とせっつかれています。
    ですから本人にも焦りがあります。
    兼家のことが大好きという気持ちもあります。
    だから兼家の行動は、頭では理解できるのです。
    でも、つらい。

    実は、そんな気持ちの日常を綴った文学が、彼女が書いた『蜻蛉日記』です。
    「かげらふにつき」と読みますが、かげろうというと、なんとなくイメージは「ウスバカゲロウ」の消えてしまいそうな、か細いイメージかと思います。
    けれど、そっちのカゲロウは、漢字で書いたら「蜉蝣」です。
    彼女の日記は、「蜻蛉」です。
    これは「かけらふ」とも読みますが、もともと、トンボのことです。
    つまり、『蜻蛉日記』は、実は「トンボ日記」なのです。

    そのトンボですが、トンボは飛行中に空中に前進だけでなく停止することができます。
    けれど、後ろには下がれない。
    そこからトンボは古来、勝ち虫と呼ばれ、何があっても前に進む、決して後ろに下がらないことの象徴として、特に武人に愛された生き物です。
    戦国武将の前田利家の兜(かぶと)は、だから黄金のトンボです。

    つまり道綱母は、
    「どんなに辛かったり悲しかったり悔しかったりして、
     泣いてばかりの日々であったとしても、
     私は絶対に後ろに引き下がらない」
    という固い決意を持っていたから、日記のタイトルを「ドンボ日記」としているのです。

    そういう意味からすると、石山詣にしても、どうしても懐妊したい。子がほしいという願いであったとわかります。
    けれど、それでも、不安がある。

    上にある石山寺縁起絵巻の絵柄で、お坊さんが道綱母の右足に水をかけていました。
    実は、その右足の膝の痛みというのは、昔から、「逃げたい、見たくない、コワイ、不安などの霊障によるものとされてきたのです。
    そこに石山寺のお坊さんが水をかけたというのですが、寝ている布団の上から水をかけたら、布団が濡れてしまいます。
    つまり、これは彼女の夢なのです。
    そして夢の中で、観世音菩薩が、お坊さんの姿になって出てこられて、右膝の痛み、つまり彼女の不安や逃げ出したいと思う気持ちを洗い流してくれたのです。

    彼女は、このあとすぐに妊娠しています。
    つまり石山寺は、見事な霊験があったわけで、これはお寺の宣伝になりますから、その様子が絵巻にまでなっているわけです。

    人であれば、誰もが不安な気持ちや、悲しい気持ちを味わうものです。
    毎日はそんな繰り返しかもしれません。
    けれど、それでも強くあろう、前向きであろうとし続けた。
    その毎日を彼女は日記として綴り、これが『蜻蛉(トンボの)日記』として世に出たのです。

    『蜻蛉日記』は、源氏物語や枕草子よりも少し前の女流文学になります。
    女流日記文学としては、これが日本最古(つまり世界最古)の文学です。
    そしてその日記は、世の多くの女性たちに勇気を与え、私も書いてみたいと思う女性たちによって、平安女流文学の花咲く時代が到来しています。

    彼女は、生まれた子をたいへんに可愛がったのでしょう。
    成人したときの彼は、すこしおっとりとした性格の子に育ったようです。
    そんな我が子に、父の兼家は宮中において、意図して出世を遅らせました。

    これは、ある意味、やむをえない措置です。
    異母兄弟の長男の道長は、嫡子ですから、当然、みるみるうちに出世させて高い地位に就けます。
    しかし、異母兄弟の次男まで同じように出世させたら、宮中を私物化していると、余計な詮索をされることになります。
    ですから、道綱は、下級役人、しかも今風に言ったら、軍隊に入れています。

    軍というところは、男たちの殿堂です。
    気の荒い男もいます。
    ですから道綱は、兵たちに侮られないようにと弓を猛特訓しました。
    そしてついには、当第一の弓の名手とまで呼ばれるようになるのです。
    そして人柄の優れた道綱のもとには、道綱のためなら死んでも良いとまで言ってくれる部下たちが集いました。
    だから寛和の変(986年)が起きた時、彼はいちはやく兵をまとめて、父の危機を救っています。

    そうなると、兼家からすれば、道綱は「俺の命を救ってくれた男だ」ということになります。
    彼を出世させ、重用しても、どこからも苦情は来なくなる。
    こうして道綱は、いっきに従三位に昇進、頭角を現し、大納言に至り、兄の道長を助けて、藤原氏の栄光の時代を築いていきます。

     嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は
     いかに久しきものとかは知る

    この歌は、ただやみくもに、寂しいと泣いている女性の姿の歌ではありません。
    強い信念をもって、女の戦いを立派に果たして行った、一人の美しい乙女の、心のつよさを詠んだ歌です。


    ※この記事は2017年1月の記事の再掲です。
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  • 信長の天下統一と庶民の願い


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    日本の未来を築くのは私達、いまを生きる日本人です。
    その未来を、より良い未来にしたいのなら、私達自身が、より良い未来のために、建設的な意思を持つ必要があります。
    誰かがやってくれるのを待つとかいった他力本願ではなく、私達自身が歴史の当事者として目覚めていく。
    そこに、私達庶民のための未来が拓けるのです。

    20220119 織田信長
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    足利義満が明国皇帝から「日本国王」の称号をもらうよう運動を始めたのが応永7年(1400年)です。
    これにより日本には、旧来の天皇を中心とする天下と、明国から任じられた日本国王を中心とする経済大国であるという、異なる二つの価値観が生まれ、それが価値観の混乱となって戦国時代が始まりました。
    応仁の乱が起こったのが、その66年後の応仁元年(1467年)のことです。

    最終的にこれを鎮め、日本がふたたび天皇を中心とする天下として、天下布武(天下に武(たける)を布(し)く)ことが、弾正家である織田信長によって明言され、その信長が天下をほぼ平定し、続く秀吉が関白に任じられたのが天正13年(1585年)です。
    それは義満の時代から185年目のことでした。

    信長の天下統一は、当時にあっては「弾正家が立ち上がった」というものでした。
    自国の経済的利益を最優先してきた戦国大名たちの、自国経済優先、そのためには戦いも辞さずという時代下にあって、多くの庶民が、武者となって信長のもとに馳せ参じて信長の軍団に参加し、また信長とともに戦う道を選んだのは、多くの庶民の中に、古くからある日本的価値観を取り戻すべきという明確な意思が生まれていたからです。

    これはそう解釈するしかないのです。
    なぜなら、信長の軍団に入っても、武者たちは土地を与えられるわけでもなく、ただ「兵」として戦わされるだけなのです。
    特別な贅沢ができるわけでもない。
    特別たくさんの賃金がもらえるわけでもない。

    もちろん、働き口を求めてという人も中にはいたでしょうけれど、当時にあって土地をもらえない(耕作地を与えられない)にも関わらず、そこに多くの人材が集まり、大軍団が構築されたということは、そこには個人の欲得を超えた何かがなければ、そのようなことは起こり得ないのです。

    つまり、長く続く戦乱の世を終わらせたい。平和な国にしていきたい。そのために自己の命を犠牲にしてでも、歴史の中の一員として、自己の最大を尽くしたい。
    そう思う人達が、信長の軍団に、自ら手弁当で参加したのだし、そうした人たちが、圧倒的多数になってきたから、信長の軍団は、常に大軍を構成することができたのです。

    そもそもこの時代、土地を持たず、耕作期に縛られずに、一年中戦うことができる軍団を持つことができたのは、信長だけです。
    ところが信長は、チャイナやロシアのように、村に兵がやってきて、無理やり若者を兵として拉致するようなことなどしていません。
    信長のもとに、諸国から陸続と武者が集まってきたことを、単に腕自慢の乱暴者たちが集っただけだとか、諸国で食いっぱぐれた、盗賊団のような浪人者(乱暴者)たちが集まっただけだったなどと解釈することは無理があります。
    志を持つ若者が集ったのです。
    だから信長の軍団は強かったのです。

    つまり、我が国の歴史は、庶民によって築かれてきた、という視点を忘れてはいけないのです。
    信長による天下統一の事業は、信長の野心によって、無理やり村から兵を集めてきて、戦(いくさ)に狩り出すというものではありません。
    むしろ事実は逆で、自分も戦国乱世を終わらせるために一役買いたいと思う教養ある若者達が全国に現れ、そういう若者たちを支援する大人たちがいて、その若者たちが、世を正すべき弾正(弾正というのは、宮中にあって不条理を正す役割を与えられた官職)が立ち上がったことを好感して、信長の元に陸続と集ったことで、信長の軍団が肥大化し、強力な天下布武が実現されるに至ったというのが、歴史の流れです。

    日本には、上に立つ人が勝手な采配をふるって、世の中を変えるという慣習がありません。
    チャイナや欧米は逆で、上に立つ人が、強大な武力や財力を背景に、自己の権力や財力を背景に、無理やり世の中に仕掛けを行って、時代を前にすすめるということが、歴史を通じて行われてきました。
    ただ、この場合、上から命令されたことを、下の人たちが(多くの場合)自己の意に反して実施しますから、仕事が粗い。
    ですから、手口が見え見えだし、個々の仕事が乱暴で、そこいらじゅうに穴が空きます。

    これに対し、庶民の側が中心になって、自らの思いを実現しようと馳せ参じる我が国は、ひとりひとりが完璧な仕事をしようと努力しますから、いきおい個々の仕事が丁寧に行われます。
    そうして丁寧に行われた仕事の集大成が、世を動かす力となる。

    これは、
     庶民が先か
     権力者が先か
    という問題です。

    誰もそんなことをする気がないのに、権力者が権力にものをいわせて、無理やり時代を前にすすめる。
    このやり方は、短期間に事を成就できる魅力がありますが、下の人達の気持ちが付いて行かないため、結局は、また新たな権力が誕生すると、それによって滅ぼされるという情況が生まれます。

    庶民の気根が整って、ことが前に進む場合は、とにもかくにも、その他大勢である庶民の中に、共通意識が育たなければなりませんから、これにはものすごく時間がかかる。
    けれど、多くの庶民が、ひとつの方向に目覚めたとき、そこから生まれる未来は、まさに庶民のためのものとなります。

    こういう話をしますと、すぐに「いや、フランス革命は庶民の革命だった」などと言い出す人がいますが、フランス革命の実態はそうではありません。ルイ16世に替わって政権を取りたい貴族と、米国の独立戦争で植民地を無理やり手放されることになった英国によって、米独立戦争で財力が疲弊したフランス王室を倒すという工作のもとに扇動され、武器を与えられたパリ市民が、武力暴動を起こしたというのが、フランス革命の実態です。

    パリ市民の、みずからの考えではなく、ほかから与えられ、扇動された革命だったから、王を倒したあとに殺し合いが起こり、65万人もの人の命が断頭台に消えることになったのです。
    よそから与えられた革命、改革が、どれだけ大きな社会的混乱を生むのか、我々は再確認する必要があります。

    さて、義満から秀吉までが185年と書きました。
    黒船がやってきて、日本が欧風化をすすめることになったきっかけとなるパリ万博への参加と、開国派の堀田正睦(まさよし)の老中就任が安政元年(1855年)のことです。
    それから180年後なら、2035年です。

    日本は確実に変わっていくし、変わり続けていくものと思います。
    そしてその変わる方向が、単に一部の権力者や金持ちにとって都合が良いだけの、西洋やチャイナのような歴史にするのか、それとも、庶民が主役となって、庶民の、庶民のための、庶民の国を築くのか。
    後者の庶民の国を築きたいなら、庶民が目覚め、庶民が誇りを持ち、庶民が理性で論理的に考え、行動できる国になっていかなければなりません。

    日本の未来を築くのは私達、いまを生きる日本人です。
    その未来を、より良い未来にしたいのなら、私達自身が、より良い未来のために、建設的な意思を持つ必要があります。
    誰かがやってくれるのを待つとかいった他力本願ではなく、私達自身が歴史の当事者として目覚めていく。
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  • 愛と青春の旅だち 松崎慊堂物語


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     日本人は、どのような社会的立場にあっても、あるいはどのような職業に就いていても変わらない「人としての矜持(きょうじ)」を大切にします。職業には貴賤があっても、その職業を行う人の魂に貴賤はない、というのが日本人の古来の思考です。
     だから、どのような職業であれ、どのような社会的立場でれ、魂を高貴なものに保つことこそを、大切にしてきました。それが、「日本人が日本人であることの、人としての矜持(きょうじ)」です。

    20200119 森田春代
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    渡辺崋山に、高野長英といえば、ともに江戸時代後期の蘭学者として有名です。
    そしてこの二人は、ともに儒学者松崎慊堂(まつざきこうどう)の弟子でもあります。
    なかでも渡辺崋山は、天保十(一八三九)年の蛮社の獄で逮捕されたとき、師匠の松崎慊堂が、老中水野忠邦あてに建白書を出し、そのおかげで死罪を免れています。
    渡辺崋山にとって松崎慊堂は、師匠であるとともに、命の恩人でもあったわけです。

    松崎慊堂は熊本の農家の出身で、幼名を松五郎といいます。
    家が貧しく寺に預けられていましたが、勉強好きだった松五郎は、学問で身を立てようと十三歳で江戸に出ました。
    江戸では浅草の寺の住職に拾われ、寛政二(一七九〇)年には設立されたばかりの、江戸湯島の昌平坂学問所(いまの東大)に入りました。
    さらに江戸一番の儒学者である林述斎のもとで学んで、寛政六年には林塾で塾生のトップである塾生領袖になっています。
    領袖というのは、要するにトップということですが、単に成績が良いというだけでなく、人格識見指導力などにおいても、最高の人材ということを意味します。
    たいへん優秀で、かつ勉強熱心で、人柄も良い、そんな若者だったわけです。

    さて松五郎が、林塾の領袖時代のことです。
    ある日、考え事をしながら歩いていて、町のならず者たちにドスンとぶつかってしまいました。
    そして、彼らが手にしていた酒徳利を割ってしまいました。

    彼らは「ごめんなさい」と松五郎がいくら謝っても、許してくれません。
    それどころか、酔ったならず者たちは、「酒代を出せ!」と大金を迫ってきます。
    ところが松五郎は、書生の身ですから貧乏です。
    「そんな大金はありません」としきりに謝るのだけれど、ならず者たちは、ますます激昂して脅しをかけてきます。

    この様子を、すぐ近くで旅籠の飯盛り女をしていたおすみという女性がみとがめました。
    そしてならず者たちに近づき、
    「あんたたち、よってたかって何やってんのさ」
    と間に割って入ります。

    そして彼らが要求した額を、おすみはその場で全額立て替えて支払いました。
    松五郎は恐縮してしまいます。
    「必ずお金は返します。
     しかしいまはお金がないから、
     分割にしてください」
    とおすみに申し出ました。

    ところが話を聞けば、月二分の生活費でやりくりしているといいます。
    いまでいったら、月三万円です。
    着ているものもみすぼらしい。
    その少ない生活費から払うというのだから、おすみは同情して、
    「分かりました。
     では、月二分を
     私があなたに
     払ってあげましょう」
    と約束してくれたのです。

    それからのこと、毎月毎月、おすみから松五郎のもとにお金が届けられました。
    頂いているうえに、届けてもらうのは申し訳ないからと、途中からは松五郎が自分でもらいに行きました。

    月日がたったある月のこと。今月に限って松五郎が現れません。
    松五郎の住む長屋に行っても不在です。
    それっきり、松五郎から音沙汰がなくなりました。

    おすみは、周りの女性たちから、
    「バカねえ。
     あんた、騙されたのよ」
    と言われてしまいます。

    松五郎は日本を代表する私塾の塾生です。
    おすみは宿場の飯盛り女です。
    飯盛り女というのは要するに、私的売春婦です。
    あまりにも身分が違うのです。

    さらに何カ月かたった、ある日のことです。

    おすみの住む宿屋に、立派な身なりをしたお侍さんが駕籠に乗ってやって来ました。
    そして、宿屋の主人に、
    「おすみさんはいますか?」
    とたずねました。

    呼ばれて奥から出てきたおすみは驚きました。
    あのみすぼらしかった松五郎が、見違えるような立派な姿で、そこに立っているではありませんか。

    松五郎は、懐から六両のお金を出しました。
    「いままでお世話になりました。
     これはお借りしたお金です」
    そう言って、おすみにお金を渡しました。
    「ようやく塾を卒業し、
     掛川藩に教授として
     召し抱えになりました。
     これから掛川に向かいます。
     いままで本当にお世話になりました。
     ありがとうございました」

    そしておすみに、こう言いました。
    「あなたさえよければ、
     私の妻になってください」

    その後、二人はめでたく祝言をあげました。
    まるでリチャード・ギアが主演したハリウッド映画『愛と青春の旅立ち』そのもののようなストーリーですが、こちらは実話です。

    ここで大事なことが二つあります。
    ひとつは、掛川藩にお抱えになったばかりの松五郎が、売春婦であるおすみを妻に迎えているという点です。
    もし日本人が、売春婦を卑しい職業と考えていたのなら、松五郎がおすみを妻にすることはありえません。
    これから藩の若侍たちに学問を教える人物が、卑しい職業の女性を嫁にするなど、許されることではないからです。

    ところが掛川藩は、松五郎の妻のことを全く問題にしていません。
    それどころか藩の重要な任務となった朝鮮通信使の通訳兼交渉役にさえ、松五郎を抜擢しています。

    もうひとつの大事なことは、おすみが宿屋の売春婦でありながら、松五郎に仕送りしたり、ならず者にからまれてカツアゲされたときに、そのお金を代払いしている点です。
    戦後の時代劇などで、売春婦たちは子供の頃に女衒(ぜげん)によって連れてこられ、売春宿の主人に借金漬けにされ、年季があけるまで無理やり働かされたという設定がなされています。
    要するに、そういうのは全部噓っぱちだ、ということです。

    女衒に買われてきたのは事実です。
    仕事ですから、つらいこともあったでしょう。
    けれど経済的には、彼女たちは実に豊かでした。

    当時の売春婦というのは、十七歳から二十七歳くらいまでしか働かせてもらえません。
    それ以降は、それまでに貯めたお金で、自分で小さなお店を開いたりしました。
    売春婦たちには、それくらいの稼ぎと経済的余裕が、実はあったのです

    お店に買われてきたのは六〜七歳のときです。
    店に出るまでの10年は、お店がその娘に徹底した教育を施しました。
    和裁、着付け、三味線に小唄に長唄、読み書きそろばん、日本舞踊、太鼓、琴、小料理など、女性が生きるのに必要なあらゆる分野の教育が行われました。
    幼い頃から雇い入れ、申し訳ないけれど商売に使わせていただく。
    その代わりに、彼女たちが一生食うに困らないだけの貯えと、教養と技能を、しっかりと身につけさせようというのが日本の風俗の伝統であったのです。
    そのために、店に出るまでの10年間、店のお金で徹底した教育が施されたのです。

    商売以上に、人を大事にする。
    それが、私たちの日本です。
    これを可能にしたのは、権力者の上位に、天皇というありがたい存在です。
    権力者は天皇の民である私たち民衆を私物化することができない。
    これが日本古来の国のカタチ(構造)なのです。

    その後、松五郎は、松崎慊堂(まつざきこうどう)と改名して、日本を代表する学者になりました。
    その弟子が、渡辺崋山や、高野長英など、江戸後期の名だたる学者たちです。
    その学者たちが、まだ学生だった頃、その子達の生活の面倒の一切をみたのが、おすみでした。
    おすみは、育った学者たちから、一生を通じてまるで母のように慕われ、この世を去りました。

    日本人は、どのような社会的立場にあっても、あるいはどのような職業に就いていても変わらない「人としての矜持(きょうじ)」を大切にします。
    職業には貴賤があっても、その職業を行う人の魂に貴賤はない、というのが日本人の古来の思考です。

    だから、どのような職業であれ、どのような社会的立場でれ、魂を高貴なものに保つことこそを、大切にしてきました。
    それが、「日本人が日本人であることの、人としての矜持(きょうじ)」です。


    ※この記事は拙著『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第二巻』でご紹介した記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。

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  • 武人の栄誉 義烈空挺隊


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     世界中、どこの国でも、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰しています。「自由の国」米国でも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えています。硫黄島で戦った兵士たちのことも、銅像にして讃えています。硫黄島は、米国領ではありません。自国領でなくても、外国との戦いに勇敢に挑んだ軍人は、国の誇りであり名誉であり、なにものにも替えがたい名誉だからです。

     国防だけではありません。

     永世中立国スイスでは、フランスのルイ王朝を守って戦い死んでいったスイス傭兵たちの武勲を、ライオン像に託して残し、讃えています。戦って生きても、戦って死んでも、その栄誉を語り継ぐのが、世界の常識です。けれど日本だけがそれをしていません。その結果、子供たちは自分の国を誇ることを知らず、その子供が長じて、国軍の長であることさえもわきまえず、世界に恥をさらす政治家に育ったりしています。

    奥山道郎義烈空挺隊大尉
    奥山道郎陸軍大尉



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    沖縄戦は、昭和20年3月26日から6月23日まで、約3ヶ月続いた戦いです。

    このとき米海軍が戦艦から沖縄本土めがけて撃ち込んだ艦砲射撃の砲弾は、ただ爆発するだけでなく、火薬の中に無数の鉄片が仕込んでありました。

    このため爆弾の炸裂や爆風による被害だけでなく、幼子を背負って逃げるご婦人の背後で砲弾が炸裂すし、飛散した鉄片がその子の肉を切り裂き、必死で丘を越えてようやく逃げおおせた若い母親が背中を見ると、我が子の首がなかった、そんな光景が日々繰り返されました。

    昼夜を問わない米艦隊によるこの砲撃は「鉄の暴風」といわれました。
    6月だけで、撃った砲弾や銃弾は680万発です。
    当時、本島南部にいた人の数を考えると,1人あたり約50発です。

    下の写真は、砲撃で蜂の巣のようになった、当時の沖縄の写真です。

    砲撃で蜂の巣のようになった沖縄
    砲撃で蜂の巣のようになった沖縄-1


    写真にみえる水たまりのようなもの、それが砲弾の跡です。
    写真の上の方は林だったのでしょう。それが丸焼けになっているのがわかろうかと思います。
    地上にいる日本の軍人たちは、このような状況の中を戦い、また沖縄の民間人の人々は避難していたのです。

    このような、まるで嵐のような艦砲射撃が終日繰り返され続けた沖縄ですが、その地上への砲撃がピタリと止む瞬間がありました。
    上空に、日本の飛行機が飛来したときです。
    そうです。特攻機です。

    特攻機がやってくると、米艦隊の砲火は地上への砲火ではなく、対空砲火一色に切り替わるからです。
    その間に、地上にいる人々は、急いで防空壕を出て、さらに奥地へと逃げました。
    そのときだけは、艦砲射撃を気にすることなく逃げることができたからです。

    ですから沖縄の人たちは、特攻機が飛んでくると、逃げながら、走りながら、胸の中で上空のパイロットに手を合わせたといいます。
    飛行機に乗っているのは、自分たちよりはるかに年下のまだ十代の若い兵隊さんです。
    その兵隊さんが、ほんの数機、ほんの数名で、海を埋め尽くす米艦隊に挑んでくれている。
    絶対に生きて帰れる見込みがないのに、それでも立ち向かっていってくれている。

    その若い兵隊さんのおかげで、自分たちは逃げれる。
    それはいってみれば、子に戦わせて親が逃げる、そんな気持ちだったかもしれません。

    沖縄戦について、様々な評価があります。
    けれどひとつはっきりしているのは、日本は沖縄での猛烈な市街戦に、手をこまねいていたわけでは決してなかった、ということです。
    すでに制空権制海権を奪われていた中で、それでも日本は沖縄を救うため、必死の防衛戦を挑んでいました。

    沖縄戦が始まった十日後には、戦艦大和が出撃しました。
    帰りの燃料のない、片道切符です。
    その大和には、沖縄の女性たちに届けるための10万個の生理帯も乗っていたといいます。

    特攻機も連日出撃しました。
    戦闘機に爆弾をくくりつけて出撃したもの、重爆撃で特攻したもの、飛行練習用の複葉機で出撃したものなど様々です。

    海上からも、小さなモーターボートに爆弾を装着した攻撃邸による特攻、さらには地上戦そのものでも、自分の体に爆弾を括り付けて、敵の戦車に体当たり突撃するといった、まさに命を的とした戦いが繰り広げられました。
    そのことごとくが、沖縄を、そして祖国を守るための行動だったのです。

    そして、こうした攻撃の中に、空挺隊による米軍基地への強襲攻撃も行われました。

    空挺隊というのは、敵の真っただ中にいきなり降り立って、敵基地を破壊する任務を帯びた部隊です。
    遮蔽物のない敵の飛行場のど真ん中に飛びこむのです。生きて帰れる可能性は皆無です。

    空挺隊の乗る飛行機は、速度の遅い爆撃機です。
    敵の猛烈な弾幕の中を、無事、敵基地のど真ん中に降り立てる保証はありません。
    途中で、飛行機もろとも撃墜され、搭乗している空挺隊員が海の藻屑と消える可能性さえ否定できません。

    その空挺隊には、136名の志願兵がいました。
    編成されたのは、昭和19年の終わり頃です。

    義烈空挺隊奥山隊
    義烈空挺隊奥山隊


    空挺隊は、当初はサイパンを目標に猛訓練を繰り返していました。
    けれど、突入前にサイパンが玉砕してしまう。
    次いで硫黄島に突撃しようと準備を進めるけれど、これも立ち消えになってしまいました。
    そして昭和20年5月、空挺隊は、沖縄作戦に出撃したのです。

    その空挺隊の名前は「義烈空挺隊」と名付けられました。
    出撃が決定した日、義烈空挺隊・隊長の奥山道郎大尉(死後昇進で大佐)は、次のような遺書を三角兵舎内の隊長室で書き残しています。

    ======
    遺書
    昭和二〇年五月二二日

    この度、義烈空挺隊長を拝命。御垣の守りとして敵航空基地に突入いたします。
    絶好の死に場所を得た私は、日本一の幸福者であります。只々感謝感激の外ありません。
    幼年学校入校以来12年諸上司の御訓戒も今日のためのように思われます。
    必成以って御恩の万分の一に報わる覚悟であります。
    拝顔お別れ出来ませんでしたが、道郎は喜び勇んで征きます。
    二十有六年の親不孝を深くお詫びいたします。

    お母上様  道郎
    =======

    「幼年学校入校以来」とあります。
    陸軍幼年学校というのは、旧制中学一年または二年で就学する超難関校でした。
    全国から学業優秀、身体頑健な選りすぐりの少年が集められ、徹底した英才教育が行われた学校です。

    奥山隊長にとって、陸軍幼年学校出身であるというこは誇りだったし、愛する祖国を護る使命感は、まさに骨肉に沁み込んだものだったのです。

    奥山隊長は、学業優秀であることに加え、体力も人一倍優れ、運動神経も素晴らしかったそうです。
    西郷さんを思わせるような堂々たる風采です。誰とでも明るく気軽に話す闊達な性格で、部下たちの信望も厚い方だったそうです。

    昭和20年5月24日夕方、義烈空挺隊の136名は、熊本の「健軍飛行場」から12機の九七式重爆撃機に十一~二名ずつ分乗して飛び立ちました。

    途中、4機がエンジントラブルで基地に引き返し、残り8機のうちの6機が、米軍に占領された沖縄の読谷飛行場に、2機が嘉手納飛行場に突入しました。
    午後10時11分のことでした。

    読谷飛行場では、基地上空に突入した6機のうち5機が、激しい対空砲火によって撃墜されています。
    そして残る一機が、滑走路に胴体着陸を強行しました。

    パイロットは着陸と同時に戦死されたそうです。
    飛行中に対空砲を浴び、半壊状態になっていた飛行機を、自分も敵弾を受けて肉体の一部を吹き飛ばされながら、それでも最後の最後まで操縦桿を放さず、着陸成功とともに絶命したものとみられています。
    彼は機内で突っ伏した状態で死んでいる写真が残されています。

    米軍読谷飛行場に突入した義烈空挺隊の乗った陸軍97式重爆撃機
    義烈空挺隊03


    強行着陸した九七式重爆撃機の搭乗員は14名、空挺隊員は12名でした。
    彼らは、群がる敵兵に応戦する傍ら、駐機中の敵航空機33機を破壊損壊させ、米兵20名を死傷させ、さらに飛行場にあった航空燃料用7万ガロンを炎上させ、さらには約8時間に渡って、飛行場を完全に機能停止に陥らせました。

    その武功たるや、まさに凄まじいの一語に尽きます。
    そして約2時間の戦いで、重傷で意識を失っていた一名を除き、全員が戦死されました。

    空挺隊のメンバーは、出撃前、それぞれの隊員たちが乗る搭乗機の前で、ひとりひとりが、自分の故郷のある方角に向かって、深々と頭を下げています。
    それは、自分を育ててくれた故郷への感謝であり、またその故郷を守るためという決意でもあったことでしょう。

    出撃前に故郷に礼をする空挺隊員たち
    出撃前に故郷に礼をする隊員たち


    彼らは出撃前に、血の出るような猛訓練を重ねています。
    訓練して、訓練して、それでも足らずにまだ訓練して、そうして136名が12機に分乗して出撃しました。
    けれど飛行機は、その途中で7機が墜落し、4機がエンジン不調で帰投、突入できたのは、わずか1機です。

    訓練を重ねても、途中で飛行機そのものが撃墜され、敵陣に突入さえできないままに死を迎えることもある。
    そのことを知っていながら、彼らは猛特訓を重ね、出撃していきました。

    そして最後の最後まであきらめず、ようやくパイロットを含めた14名が米軍に占領された敵基地に突入し、およそ2時間の壮絶な戦いの上、基地を使用不能に破壊して、全員が討ち死にしました。

    彼らは、なんのために戦ったのでしょう。
    私は、沖縄戦の是非論を議論する気はありません。
    ただ、こうして必死に戦い、散って行かれた人たちがいた。その心を、その歴史を、私たちは同じ日本人として、決して忘れてはならないと思うのです。

    世界中、どこの国でも、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰しています。
    「自由の国」米国でも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えています。
    硫黄島で戦った兵士たちのことも、銅像にして讃えています。
    硫黄島は、米国領ではありません。
    自国領でなくても、外国との戦いに勇敢に挑んだ軍人は、国の誇りであり名誉であり、なにものにも替えがたい名誉だからです。

    国防だけではありません。
    永世中立国スイスでは、フランスのルイ王朝を守って戦い死んでいったスイス傭兵たちの武勲を、ライオン像に託して残し、讃えています。
    戦って生きても、戦って死んでも、その栄誉を語り継ぐのが、世界の常識です。

    けれど、日本だけがそれをしていません。
    その結果、子供たちは自分の国を誇ることを知らず、その子供が長じて、国軍の長であることさえもわきまえず、世界に恥をさらす政治家に育ったりしています。

    日本を取り戻す。
    そのために自分にできることを少しずつ積み重ねていく。
    毎日コツコツと、積み重ねていくそれが大事なのだと思います。


    お読みいただき、ありがとうございました。
    ※この記事は2018年の記事の再掲です。
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    一昔前までは、四十を過ぎたら自分の顔に責任を持てと言われました。
    昔、ステキなイケメンだった俳優さんが、歳月を経て、いまではすっかり、まるでヤクザ者のような貧相な顔立ちになっていて驚くことがある一方で、若い頃はそんなでもなかったのに、年をとったら、ものすごくステキな顔立ちになられている方もおいでになります。

    人の生き様や人生は、顔に出ます。
    もっとも最近は、一昔まえよりも栄養状態が良くなっていますので、だいたい今の年齢から15歳を引くと、昔の年代になるそうです。

    たとえば、
    いま55歳なら、昔の40歳くらい。
    いま75歳なら、昔の60歳くらい、という感じです。
    ということは、いまの35歳が、昔の20歳の青年?(笑)
    でも、なんとなく、納得できてしまう気もします。

    日々の心の持ち方は、やはり外面に出るものです。
    国も同じです。
    他所の国の悪口ばかりを言い、その国から技術を盗んで、お金持ちになった国もあります。
    そうした国では、反日であることが、まるで国是になっているわけですが、そういう実態が世に知られていないうちは、それなりの人気になるけれど、15年も経過すると、徐々に実情がバレてきます。
    さらにその国の人々の心の歪みが、顔の歪みにもなってしまいます。
    だから整形手術が大流行して、無理やりイケメンや美女を人造で作るのですが、それも歳をとると、だんだん崩れてくる。

    若い頃、先輩から、
    「嫁さんもらうなら、相手の女性の母に会え」と教わったことがあります。
    その母の姿が、20年後、30年後の相手の女性の姿だから、というわけです。
    男も同じです。
    特に長男は、歳をとると、父親に顔立ちだけでなく、性格まで似てくるそうです。
    もっとも世の中は、「鳶(とんび)が鷹(たか)を生む」なんてことわざがあるくらいで、そうではないケースも多々あるわけですから、必ずしもそうなるとも限らない。

    ただ、日々を精進して、自分なりに一生懸命に生きようとするとき、同じ生きるなら、つながりを大切にし、一隅を照らすような生き方をしていきたいと思っています。

    ちなみに日本語にはもともと「愛(=LOVE)」という概念がありません。
    「愛」という漢字はあって、もちろん愛別離苦(あいべつりく)とか、敬天愛人などといった「愛」を含む熟語は昔から存在していますから、仏教とともに「愛」という概念が渡来したのでしょうけれど、その「愛」も、渡来当時は「おもふ」と読むのがならわしです。

    つまり日本人にとっての愛は、「おもふ」ことです。
    英語のLOVEは、自分の内側といった意味合いがあります。
    基本が個人主義ですから、その個人である自分の内側にあるもの、それがLOVEだというわけです。
    自分自身そのものです。
    ですから、我が故郷を愛しているという英語は、私は故郷を自分の内側にある自分自身と一体のものと思っている、といった意味になります。

    これが悪しき方向に発展したものが、同じLOVEでも、自己の欲望のままに、といいったニュアンスです。
    近年のハリウッド映画では、愛をもっと広義な人類愛的なものとして理解し主張するものが増えてきました。
    愛は決して欲望を満たすだけのものではなく、普遍的な思いやりの心のことである、といった意味あいに使われるようになってきたわけです。
    これは日本文化の影響といえるかもしれません。

    その愛が、競争して奪うことから、対象となるものへの思いやりや、「おもふ」ことに昇華すると、世界は変わります。
    このとき、重要な役割を担うのが、万年の単位で続く日本の文化です。


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  • 谷時中に学ぶ人の上下と師道


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    人の上下というのは、全人格的な上下ではない。
    あくまで社会秩序のための役割分担にすぎない、というのが、日本人の思考です。
    一寸の虫にも五分の魂、なのです。
    それが日本人です。

    20181230 谷時中
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    谷 時中(たに じちゅう、1598-1650)は、土佐出身の、戦国から江戸初期を生きた儒学者です。
    戦国時代、我が国の価値観が混乱し、人を殺したり怪我をさせてもとにかく強ければ良い、強ければ赦されるという、不可思議な道徳観が蔓延しました。
    人々の欲望が刺激され、人は己の欲得のために生きるものという気風が高まり、周辺国からやってきた人々が国内でありえないような犯罪を犯して逃げていくことが日常となった時代でもありました。

    ちなみにお伊勢様の式年遷宮は、太古の昔より国費をもって営まれてきました。
    ところが国費で行われない時代が、我が国の長い歴史において、二回だけあります。
    一度目が応仁の乱に始まる戦国時代の100年です。
    二度目が大東亜の敗戦後の74年です。
    つまり戦国期は、戦後の日本によく似ているということです。

    そうした戦国時代にあって、「師道」を根本にして我が国の価値観、道徳観を取り戻そうとしたのが谷時中です。
    どんなに社会的に身分が高くても、学問の場では師匠が上。
    たとえ相手が大名で、師匠が農民の出であっても、学問の場では師匠が平気で殿様を呼び捨てにする。
    同様に、社会において、上長の前では、部下は必ず常に平伏する。
    それが谷時中の「師道」です。

    谷時中は儒者ですが、ここがChinaの儒教と、日本的儒学の根本的に異なるところです。
    Chinaの儒教は、兎にも角にも人は上下関係を根本にするというものです。
    ですから師匠であろうがなかろうが、殿様の方が身分が高ければ、殿が上、師匠が下です。

    日本でそうはならないのは、日本では、神々のもとにあらゆる階層の人はすべて人として対等であるというシラス国を根本としているからです。
    そのシラスを根本として、その中に上下関係のウシハクを置きます。
    こうすることで秩序が生まれるとしてきたのが、日本だからです。

    要するに谷時中もまた、林羅山と並んで、単にChina式の儒教をありがたがる学者ではなく、我が国の歴史伝統文化に即して、日本的に読み替えて世に秩序をもたらそうとした実学を根本とする人であったわけです。

    そんな谷時中は、彼の師匠から次のような教えを受けたそうです。

    「財は人を殺し、身を滅ぼす。
     すなわち財を得て身を滅ぼすよりは、
     財なくして安全に生きる方が
     ましであるというがいかに。」

    このとき時中は、次のように答えました。
    「財には、もとももと人を殺す心はありません。
     人々が貪欲におちいるから自らの敗亡を招くのです。
     たとえば明灯は、蛾を殺しますが
     これは蛾が自ら火に飛び込んでいるものです。
     このことこそ真に憐れむべきことです。」

    これを聞いた師匠は、時中の明晰に感心したそうです。
    上下関係を尊ぶ儒教界にあって、谷時中は、誰と接するときも同じ態度で、相手が上だからと妙に謙遜してへりくだることもないし、相手の身分が低いからと横柄な態度をとることもない人だったのですが、このためにあるとき、武勇豪傑をもって鳴る人が、時中に大いに怒ったのだそうです。

    「売僧、貴様は何の徳があって生意気な口をきくのか、
     そのワケを説明せよ。
     もし納得出来る答えがないのならば、
     貴様の身と首は、所を異にすると思え」

    そう言って、武士が白刃を時中の喉元に突きつけると、時中は顔色ひとつ変えずに、
    「貴方が殺したいと思うのなら、
     そのようにされるが良い。
     死ぬことも生きることも、
     同じひとつのことです。
     それなのにどうして私が
     死を恐れることなどあると思うのですか?」
    と、ケロリとしている。
    そのあまりに飄然(ひょうぜん)とした態度に、その豪傑は逆に恐縮して刀を納めたそうです。

    時中が生きた時代は、関ヶ原から大阪冬の陣、夏の陣と戦乱が続いた時代で、この時代、書を得るということはとても難しい時代でした。
    それでも時中は、京の都や大阪、長崎にまで書を求め、多くの蔵書を得ようとしました。
    そのためには、たいへんな費用がかかります。
    ついには、家の田畑の多くも転売しています。
    ところが時中は、
    「私は田畑の数百石を子孫に残すのではない。
     聖賢の書を読み、道義を解明し、
     これをこそ後に伝えるのだ」
    そう言って、ついには、食べていくのに必要な田畑だけを遺し、あとは全部売り払ってしまったそうです。

    このような時中を慕って南学塾には、多くの生徒が集まりました。
    土佐の殿様がその名声を聞いて、時中を藩で召し抱えようとして使者を送ったときのことです。
    時中はその使者に答えました。
    「禄を藩からいただいている者が家臣ではありません。
     国にある民を「市井の臣」といい、
     野にある民を「草莽の臣」といいます。
     彼らは等しく藩侯の民です。
     私はたまたま儒学を説き研鑽をしていますが、
     いまだ学問は未熟で、
     王侯の師範に足りるものではありません。」
    と、官位を断っています。

    この態度は歳を重ねても変わらず、ただひたすらに真実を求め続けました。
    そして谷時中が確立したもののひとつが、冒頭の「師道」です。

    谷時中は、
    「師弟の間は君臣の如し」
    と説き、相手が藩の重役であっても、平然と呼び捨てにしました。
    これが無礼であると、刃を向けられたことも、一度や二度ではなかったといいます。

    けれどもこのときに谷時中が確立した師弟の道は、後に「童子教」として日本全国における教育の基本となり、いかなる場合においても、師匠の前にあっては、礼を重んじ、襟を正して正座するということが、あたりまえの常識となっていったのです。

    このブログでもご紹介した野中兼山、山崎闇斎なども、みな、この谷時中の門下生です。
    そして幕末に至るまで土佐藩が裕福な藩でいられたのは、その野中兼山の活躍によるものであり、また、山崎闇斎は水戸学、国学に強い影響を与え、これが本居宣長、賀茂真淵とつながっていきました。

    時中は、江戸時代の初期にあたる慶安2(1650)年、52歳でこの世を去りました。
    谷時中の書は、6巻の文集と、4巻の語録がありますが、これらはすべて門弟たちが収録したものです。

    ひとつの偉大な魂が、次の門人を育て、新しい時代を築くということがあります。
    その最初の石杖となった人は、名もなく石像もなく、特段の懸賞もありません。
    それでも努力を重ね、その努力が世代を経て大きな果実となって稔っていったのが、我が国の文化・学問の歴史です。
    なぜそうなるのか。
    答えは、日本は「庶民が築いてきた歴史を持つ国」だからです。

    学問は個人が名声を得るためのものではなく、また他人から評価いただくものでもありません。
    どこまでも身を律し、次代を築くのが学問です。
    そして、いま、日本を取り戻そうと、忙しい日々の時間を割いて、学ぶことに精をだしておいでになる皆様こそ、新しい日本を、そして新しい世界を築く、石杖となる志士であり獅子です。

    それともうひとつ。
    戦国を終わらせた原動力は、シラス国日本を取り戻そうとする、大きな力でした。
    ただ、そのためにはもうひとつ、シラスを教えるための師道というウシハクが必要でした。
    シラス、ウシハクは対立概念ではありません。
    両者が整ってはじめて大事が成るのです。

    また、日本を取り戻す原動力となるものは、決して外圧のみではありません。
    ひとりひとりの日本人の自覚の覚醒こそが、日本を取り戻すのです。

    世界の歴史は、西洋にせよ、東洋にせよ、特別なリーダーが歴史を築いてきました。
    特別なリーダーが英雄となり、王となり、支配者となりました。
    フランス革命だけが例外的に民衆による革命だと言われますが、実際には米国の独立戦争を支援したフランス国王に対し、米国を失った英国が裏からパリ市民にカネと武器を渡してけしかけた結果、民衆の武装蜂起が起きたとされます。
    結局は、資力財力権力を兼ね備えた人物が、裏からスポンサーとなるから蜂起が起きているのです。

    西洋の歴史は、民衆ではなく、市民が議会を形成し(市民というのは、95%の人口を下に持つ支配層です)、議会だけでは何も決めれないからと、要職を歴任した人が寡頭制の元老院を形成し、元老院が買収されて汚職まみれになることで、これじゃあだめだということで、王が誕生し、王が腐敗して、ふたたび市民が蜂起する・・・つまり「市民議会制→寡頭制→専制君主制」の3つをぐるぐると回っているだけです。
    そしてこのときも、市民というのは、あくまで支配層の人たちをことのみを言います。
    民衆は、ただの所有物であり、奴隷であり、単なる労働力であり、支配層への貢ぐ君でしかないし、その形は、実は現代も同じです。

    チャイナは収奪社会です。
    下の者は、ただ奪われるだけ。
    上に立つ者が、何もかも奪い、地位も名誉もカネも、すべてを独占し、横暴の限りを尽くします。
    だから、下の民衆は、自分を護るために、自分の欲だけに忠実になります。歴史を通じて、そういう国柄です。

    日本は、民衆に奴隷がなく、誰もが大切な「おほみたから」とされてきた国柄を持ちます。
    これは、世界の歴史の中で、ありえないほど、珍しい形です。
    民衆は、自分が大切にされているから、人も大切にします。
    そして、現状否定ではなく、現状をより良くするために、誰もが努力を重ねます。

    だから日本の民衆は、
    官職がある人なら「臣」。
    国にあるなら「市井の臣」、
    野にあるなら「草莽の臣」です。
    誰もが、天皇の「臣」です。

    大臣は天皇の家臣です。
    民衆もまた、天皇の家臣です。
    つまり、どちらも天皇の家臣であって、両者は対等な関係にあります。
    地位の差は、単なる役割分担であって、人格の問題ではないとしてきたのが日本です。

    谷時中が言うように、人の上下というのは、全人格的な上下ではない。
    あくまで社会秩序のための役割分担にすぎない、というのが、日本人の思考です。
    一寸の虫にも五分の魂、なのです。
    それが日本人です。


    お読みいただき、ありがとうございました。
    ※このお話は2017年1月の拙ブログ記事のリニューアルです。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567
○受付時間 
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