• 信長の天下統一と庶民の願い


    ◇◇◇告知◇◇◇
    1月30日に予定していた倭塾は、講演が入ってしまったため開催中止です。
    (Facebookのイベントページは削除したのですが、画面が出てしまうようですが、中止です)
    次回倭塾は、2月23日になります。


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    日本の未来を築くのは私達、いまを生きる日本人です。
    その未来を、より良い未来にしたいのなら、私達自身が、より良い未来のために、建設的な意思を持つ必要があります。
    誰かがやってくれるのを待つとかいった他力本願ではなく、私達自身が歴史の当事者として目覚めていく。
    そこに、私達庶民のための未来が拓けるのです。

    20220119 織田信長
    画像出所=https://mag.japaaan.com/archives/139521
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    足利義満が明国皇帝から「日本国王」の称号をもらうよう運動を始めたのが応永7年(1400年)です。
    これにより日本には、旧来の天皇を中心とする天下と、明国から任じられた日本国王を中心とする経済大国であるという、異なる二つの価値観が生まれ、それが価値観の混乱となって戦国時代が始まりました。
    応仁の乱が起こったのが、その66年後の応仁元年(1467年)のことです。

    最終的にこれを鎮め、日本がふたたび天皇を中心とする天下として、天下布武(天下に武(たける)を布(し)く)ことが、弾正家である織田信長によって明言され、その信長が天下をほぼ平定し、続く秀吉が関白に任じられたのが天正13年(1585年)です。
    それは義満の時代から185年目のことでした。

    信長の天下統一は、当時にあっては「弾正家が立ち上がった」というものでした。
    自国の経済的利益を最優先してきた戦国大名たちの、自国経済優先、そのためには戦いも辞さずという時代下にあって、多くの庶民が、武者となって信長のもとに馳せ参じて信長の軍団に参加し、また信長とともに戦う道を選んだのは、多くの庶民の中に、古くからある日本的価値観を取り戻すべきという明確な意思が生まれていたからです。

    これはそう解釈するしかないのです。
    なぜなら、信長の軍団に入っても、武者たちは土地を与えられるわけでもなく、ただ「兵」として戦わされるだけなのです。
    特別な贅沢ができるわけでもない。
    特別たくさんの賃金がもらえるわけでもない。

    もちろん、働き口を求めてという人も中にはいたでしょうけれど、当時にあって土地をもらえない(耕作地を与えられない)にも関わらず、そこに多くの人材が集まり、大軍団が構築されたということは、そこには個人の欲得を超えた何かがなければ、そのようなことは起こり得ないのです。

    つまり、長く続く戦乱の世を終わらせたい。平和な国にしていきたい。そのために自己の命を犠牲にしてでも、歴史の中の一員として、自己の最大を尽くしたい。
    そう思う人達が、信長の軍団に、自ら手弁当で参加したのだし、そうした人たちが、圧倒的多数になってきたから、信長の軍団は、常に大軍を構成することができたのです。

    そもそもこの時代、土地を持たず、耕作期に縛られずに、一年中戦うことができる軍団を持つことができたのは、信長だけです。
    ところが信長は、チャイナやロシアのように、村に兵がやってきて、無理やり若者を兵として拉致するようなことなどしていません。
    信長のもとに、諸国から陸続と武者が集まってきたことを、単に腕自慢の乱暴者たちが集っただけだとか、諸国で食いっぱぐれた、盗賊団のような浪人者(乱暴者)たちが集まっただけだったなどと解釈することは無理があります。
    志を持つ若者が集ったのです。
    だから信長の軍団は強かったのです。

    つまり、我が国の歴史は、庶民によって築かれてきた、という視点を忘れてはいけないのです。
    信長による天下統一の事業は、信長の野心によって、無理やり村から兵を集めてきて、戦(いくさ)に狩り出すというものではありません。
    むしろ事実は逆で、自分も戦国乱世を終わらせるために一役買いたいと思う教養ある若者達が全国に現れ、そういう若者たちを支援する大人たちがいて、その若者たちが、世を正すべき弾正(弾正というのは、宮中にあって不条理を正す役割を与えられた官職)が立ち上がったことを好感して、信長の元に陸続と集ったことで、信長の軍団が肥大化し、強力な天下布武が実現されるに至ったというのが、歴史の流れです。

    日本には、上に立つ人が勝手な采配をふるって、世の中を変えるという慣習がありません。
    チャイナや欧米は逆で、上に立つ人が、強大な武力や財力を背景に、自己の権力や財力を背景に、無理やり世の中に仕掛けを行って、時代を前にすすめるということが、歴史を通じて行われてきました。
    ただ、この場合、上から命令されたことを、下の人たちが(多くの場合)自己の意に反して実施しますから、仕事が粗い。
    ですから、手口が見え見えだし、個々の仕事が乱暴で、そこいらじゅうに穴が空きます。

    これに対し、庶民の側が中心になって、自らの思いを実現しようと馳せ参じる我が国は、ひとりひとりが完璧な仕事をしようと努力しますから、いきおい個々の仕事が丁寧に行われます。
    そうして丁寧に行われた仕事の集大成が、世を動かす力となる。

    これは、
     庶民が先か
     権力者が先か
    という問題です。

    誰もそんなことをする気がないのに、権力者が権力にものをいわせて、無理やり時代を前にすすめる。
    このやり方は、短期間に事を成就できる魅力がありますが、下の人達の気持ちが付いて行かないため、結局は、また新たな権力が誕生すると、それによって滅ぼされるという情況が生まれます。

    庶民の気根が整って、ことが前に進む場合は、とにもかくにも、その他大勢である庶民の中に、共通意識が育たなければなりませんから、これにはものすごく時間がかかる。
    けれど、多くの庶民が、ひとつの方向に目覚めたとき、そこから生まれる未来は、まさに庶民のためのものとなります。

    こういう話をしますと、すぐに「いや、フランス革命は庶民の革命だった」などと言い出す人がいますが、フランス革命の実態はそうではありません。ルイ16世に替わって政権を取りたい貴族と、米国の独立戦争で植民地を無理やり手放されることになった英国によって、米独立戦争で財力が疲弊したフランス王室を倒すという工作のもとに扇動され、武器を与えられたパリ市民が、武力暴動を起こしたというのが、フランス革命の実態です。

    パリ市民の、みずからの考えではなく、ほかから与えられ、扇動された革命だったから、王を倒したあとに殺し合いが起こり、65万人もの人の命が断頭台に消えることになったのです。
    よそから与えられた革命、改革が、どれだけ大きな社会的混乱を生むのか、我々は再確認する必要があります。

    さて、義満から秀吉までが185年と書きました。
    黒船がやってきて、日本が欧風化をすすめることになったきっかけとなるパリ万博への参加と、開国派の堀田正睦(まさよし)の老中就任が安政元年(1855年)のことです。
    それから180年後なら、2035年です。

    日本は確実に変わっていくし、変わり続けていくものと思います。
    そしてその変わる方向が、単に一部の権力者や金持ちにとって都合が良いだけの、西洋やチャイナのような歴史にするのか、それとも、庶民が主役となって、庶民の、庶民のための、庶民の国を築くのか。
    後者の庶民の国を築きたいなら、庶民が目覚め、庶民が誇りを持ち、庶民が理性で論理的に考え、行動できる国になっていかなければなりません。

    日本の未来を築くのは私達、いまを生きる日本人です。
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    そこに、私達庶民のための未来が拓けるのです。


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  • 愛と青春の旅だち 松崎慊堂物語


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     日本人は、どのような社会的立場にあっても、あるいはどのような職業に就いていても変わらない「人としての矜持(きょうじ)」を大切にします。職業には貴賤があっても、その職業を行う人の魂に貴賤はない、というのが日本人の古来の思考です。
     だから、どのような職業であれ、どのような社会的立場でれ、魂を高貴なものに保つことこそを、大切にしてきました。それが、「日本人が日本人であることの、人としての矜持(きょうじ)」です。

    20200119 森田春代
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    渡辺崋山に、高野長英といえば、ともに江戸時代後期の蘭学者として有名です。
    そしてこの二人は、ともに儒学者松崎慊堂(まつざきこうどう)の弟子でもあります。
    なかでも渡辺崋山は、天保十(一八三九)年の蛮社の獄で逮捕されたとき、師匠の松崎慊堂が、老中水野忠邦あてに建白書を出し、そのおかげで死罪を免れています。
    渡辺崋山にとって松崎慊堂は、師匠であるとともに、命の恩人でもあったわけです。

    松崎慊堂は熊本の農家の出身で、幼名を松五郎といいます。
    家が貧しく寺に預けられていましたが、勉強好きだった松五郎は、学問で身を立てようと十三歳で江戸に出ました。
    江戸では浅草の寺の住職に拾われ、寛政二(一七九〇)年には設立されたばかりの、江戸湯島の昌平坂学問所(いまの東大)に入りました。
    さらに江戸一番の儒学者である林述斎のもとで学んで、寛政六年には林塾で塾生のトップである塾生領袖になっています。
    領袖というのは、要するにトップということですが、単に成績が良いというだけでなく、人格識見指導力などにおいても、最高の人材ということを意味します。
    たいへん優秀で、かつ勉強熱心で、人柄も良い、そんな若者だったわけです。

    さて松五郎が、林塾の領袖時代のことです。
    ある日、考え事をしながら歩いていて、町のならず者たちにドスンとぶつかってしまいました。
    そして、彼らが手にしていた酒徳利を割ってしまいました。

    彼らは「ごめんなさい」と松五郎がいくら謝っても、許してくれません。
    それどころか、酔ったならず者たちは、「酒代を出せ!」と大金を迫ってきます。
    ところが松五郎は、書生の身ですから貧乏です。
    「そんな大金はありません」としきりに謝るのだけれど、ならず者たちは、ますます激昂して脅しをかけてきます。

    この様子を、すぐ近くで旅籠の飯盛り女をしていたおすみという女性がみとがめました。
    そしてならず者たちに近づき、
    「あんたたち、よってたかって何やってんのさ」
    と間に割って入ります。

    そして彼らが要求した額を、おすみはその場で全額立て替えて支払いました。
    松五郎は恐縮してしまいます。
    「必ずお金は返します。
     しかしいまはお金がないから、
     分割にしてください」
    とおすみに申し出ました。

    ところが話を聞けば、月二分の生活費でやりくりしているといいます。
    いまでいったら、月三万円です。
    着ているものもみすぼらしい。
    その少ない生活費から払うというのだから、おすみは同情して、
    「分かりました。
     では、月二分を
     私があなたに
     払ってあげましょう」
    と約束してくれたのです。

    それからのこと、毎月毎月、おすみから松五郎のもとにお金が届けられました。
    頂いているうえに、届けてもらうのは申し訳ないからと、途中からは松五郎が自分でもらいに行きました。

    月日がたったある月のこと。今月に限って松五郎が現れません。
    松五郎の住む長屋に行っても不在です。
    それっきり、松五郎から音沙汰がなくなりました。

    おすみは、周りの女性たちから、
    「バカねえ。
     あんた、騙されたのよ」
    と言われてしまいます。

    松五郎は日本を代表する私塾の塾生です。
    おすみは宿場の飯盛り女です。
    飯盛り女というのは要するに、私的売春婦です。
    あまりにも身分が違うのです。

    さらに何カ月かたった、ある日のことです。

    おすみの住む宿屋に、立派な身なりをしたお侍さんが駕籠に乗ってやって来ました。
    そして、宿屋の主人に、
    「おすみさんはいますか?」
    とたずねました。

    呼ばれて奥から出てきたおすみは驚きました。
    あのみすぼらしかった松五郎が、見違えるような立派な姿で、そこに立っているではありませんか。

    松五郎は、懐から六両のお金を出しました。
    「いままでお世話になりました。
     これはお借りしたお金です」
    そう言って、おすみにお金を渡しました。
    「ようやく塾を卒業し、
     掛川藩に教授として
     召し抱えになりました。
     これから掛川に向かいます。
     いままで本当にお世話になりました。
     ありがとうございました」

    そしておすみに、こう言いました。
    「あなたさえよければ、
     私の妻になってください」

    その後、二人はめでたく祝言をあげました。
    まるでリチャード・ギアが主演したハリウッド映画『愛と青春の旅立ち』そのもののようなストーリーですが、こちらは実話です。

    ここで大事なことが二つあります。
    ひとつは、掛川藩にお抱えになったばかりの松五郎が、売春婦であるおすみを妻に迎えているという点です。
    もし日本人が、売春婦を卑しい職業と考えていたのなら、松五郎がおすみを妻にすることはありえません。
    これから藩の若侍たちに学問を教える人物が、卑しい職業の女性を嫁にするなど、許されることではないからです。

    ところが掛川藩は、松五郎の妻のことを全く問題にしていません。
    それどころか藩の重要な任務となった朝鮮通信使の通訳兼交渉役にさえ、松五郎を抜擢しています。

    もうひとつの大事なことは、おすみが宿屋の売春婦でありながら、松五郎に仕送りしたり、ならず者にからまれてカツアゲされたときに、そのお金を代払いしている点です。
    戦後の時代劇などで、売春婦たちは子供の頃に女衒(ぜげん)によって連れてこられ、売春宿の主人に借金漬けにされ、年季があけるまで無理やり働かされたという設定がなされています。
    要するに、そういうのは全部噓っぱちだ、ということです。

    女衒に買われてきたのは事実です。
    仕事ですから、つらいこともあったでしょう。
    けれど経済的には、彼女たちは実に豊かでした。

    当時の売春婦というのは、十七歳から二十七歳くらいまでしか働かせてもらえません。
    それ以降は、それまでに貯めたお金で、自分で小さなお店を開いたりしました。
    売春婦たちには、それくらいの稼ぎと経済的余裕が、実はあったのです

    お店に買われてきたのは六〜七歳のときです。
    店に出るまでの10年は、お店がその娘に徹底した教育を施しました。
    和裁、着付け、三味線に小唄に長唄、読み書きそろばん、日本舞踊、太鼓、琴、小料理など、女性が生きるのに必要なあらゆる分野の教育が行われました。
    幼い頃から雇い入れ、申し訳ないけれど商売に使わせていただく。
    その代わりに、彼女たちが一生食うに困らないだけの貯えと、教養と技能を、しっかりと身につけさせようというのが日本の風俗の伝統であったのです。
    そのために、店に出るまでの10年間、店のお金で徹底した教育が施されたのです。

    商売以上に、人を大事にする。
    それが、私たちの日本です。
    これを可能にしたのは、権力者の上位に、天皇というありがたい存在です。
    権力者は天皇の民である私たち民衆を私物化することができない。
    これが日本古来の国のカタチ(構造)なのです。

    その後、松五郎は、松崎慊堂(まつざきこうどう)と改名して、日本を代表する学者になりました。
    その弟子が、渡辺崋山や、高野長英など、江戸後期の名だたる学者たちです。
    その学者たちが、まだ学生だった頃、その子達の生活の面倒の一切をみたのが、おすみでした。
    おすみは、育った学者たちから、一生を通じてまるで母のように慕われ、この世を去りました。

    日本人は、どのような社会的立場にあっても、あるいはどのような職業に就いていても変わらない「人としての矜持(きょうじ)」を大切にします。
    職業には貴賤があっても、その職業を行う人の魂に貴賤はない、というのが日本人の古来の思考です。

    だから、どのような職業であれ、どのような社会的立場でれ、魂を高貴なものに保つことこそを、大切にしてきました。
    それが、「日本人が日本人であることの、人としての矜持(きょうじ)」です。


    ※この記事は拙著『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第二巻』でご紹介した記事のリニューアルです。
    お読みいただき、ありがとうございました。

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  • 武人の栄誉 義烈空挺隊


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     世界中、どこの国でも、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰しています。「自由の国」米国でも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えています。硫黄島で戦った兵士たちのことも、銅像にして讃えています。硫黄島は、米国領ではありません。自国領でなくても、外国との戦いに勇敢に挑んだ軍人は、国の誇りであり名誉であり、なにものにも替えがたい名誉だからです。

     国防だけではありません。

     永世中立国スイスでは、フランスのルイ王朝を守って戦い死んでいったスイス傭兵たちの武勲を、ライオン像に託して残し、讃えています。戦って生きても、戦って死んでも、その栄誉を語り継ぐのが、世界の常識です。けれど日本だけがそれをしていません。その結果、子供たちは自分の国を誇ることを知らず、その子供が長じて、国軍の長であることさえもわきまえず、世界に恥をさらす政治家に育ったりしています。

    奥山道郎義烈空挺隊大尉
    奥山道郎陸軍大尉



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    沖縄戦は、昭和20年3月26日から6月23日まで、約3ヶ月続いた戦いです。

    このとき米海軍が戦艦から沖縄本土めがけて撃ち込んだ艦砲射撃の砲弾は、ただ爆発するだけでなく、火薬の中に無数の鉄片が仕込んでありました。

    このため爆弾の炸裂や爆風による被害だけでなく、幼子を背負って逃げるご婦人の背後で砲弾が炸裂すし、飛散した鉄片がその子の肉を切り裂き、必死で丘を越えてようやく逃げおおせた若い母親が背中を見ると、我が子の首がなかった、そんな光景が日々繰り返されました。

    昼夜を問わない米艦隊によるこの砲撃は「鉄の暴風」といわれました。
    6月だけで、撃った砲弾や銃弾は680万発です。
    当時、本島南部にいた人の数を考えると,1人あたり約50発です。

    下の写真は、砲撃で蜂の巣のようになった、当時の沖縄の写真です。

    砲撃で蜂の巣のようになった沖縄
    砲撃で蜂の巣のようになった沖縄-1


    写真にみえる水たまりのようなもの、それが砲弾の跡です。
    写真の上の方は林だったのでしょう。それが丸焼けになっているのがわかろうかと思います。
    地上にいる日本の軍人たちは、このような状況の中を戦い、また沖縄の民間人の人々は避難していたのです。

    このような、まるで嵐のような艦砲射撃が終日繰り返され続けた沖縄ですが、その地上への砲撃がピタリと止む瞬間がありました。
    上空に、日本の飛行機が飛来したときです。
    そうです。特攻機です。

    特攻機がやってくると、米艦隊の砲火は地上への砲火ではなく、対空砲火一色に切り替わるからです。
    その間に、地上にいる人々は、急いで防空壕を出て、さらに奥地へと逃げました。
    そのときだけは、艦砲射撃を気にすることなく逃げることができたからです。

    ですから沖縄の人たちは、特攻機が飛んでくると、逃げながら、走りながら、胸の中で上空のパイロットに手を合わせたといいます。
    飛行機に乗っているのは、自分たちよりはるかに年下のまだ十代の若い兵隊さんです。
    その兵隊さんが、ほんの数機、ほんの数名で、海を埋め尽くす米艦隊に挑んでくれている。
    絶対に生きて帰れる見込みがないのに、それでも立ち向かっていってくれている。

    その若い兵隊さんのおかげで、自分たちは逃げれる。
    それはいってみれば、子に戦わせて親が逃げる、そんな気持ちだったかもしれません。

    沖縄戦について、様々な評価があります。
    けれどひとつはっきりしているのは、日本は沖縄での猛烈な市街戦に、手をこまねいていたわけでは決してなかった、ということです。
    すでに制空権制海権を奪われていた中で、それでも日本は沖縄を救うため、必死の防衛戦を挑んでいました。

    沖縄戦が始まった十日後には、戦艦大和が出撃しました。
    帰りの燃料のない、片道切符です。
    その大和には、沖縄の女性たちに届けるための10万個の生理帯も乗っていたといいます。

    特攻機も連日出撃しました。
    戦闘機に爆弾をくくりつけて出撃したもの、重爆撃で特攻したもの、飛行練習用の複葉機で出撃したものなど様々です。

    海上からも、小さなモーターボートに爆弾を装着した攻撃邸による特攻、さらには地上戦そのものでも、自分の体に爆弾を括り付けて、敵の戦車に体当たり突撃するといった、まさに命を的とした戦いが繰り広げられました。
    そのことごとくが、沖縄を、そして祖国を守るための行動だったのです。

    そして、こうした攻撃の中に、空挺隊による米軍基地への強襲攻撃も行われました。

    空挺隊というのは、敵の真っただ中にいきなり降り立って、敵基地を破壊する任務を帯びた部隊です。
    遮蔽物のない敵の飛行場のど真ん中に飛びこむのです。生きて帰れる可能性は皆無です。

    空挺隊の乗る飛行機は、速度の遅い爆撃機です。
    敵の猛烈な弾幕の中を、無事、敵基地のど真ん中に降り立てる保証はありません。
    途中で、飛行機もろとも撃墜され、搭乗している空挺隊員が海の藻屑と消える可能性さえ否定できません。

    その空挺隊には、136名の志願兵がいました。
    編成されたのは、昭和19年の終わり頃です。

    義烈空挺隊奥山隊
    義烈空挺隊奥山隊


    空挺隊は、当初はサイパンを目標に猛訓練を繰り返していました。
    けれど、突入前にサイパンが玉砕してしまう。
    次いで硫黄島に突撃しようと準備を進めるけれど、これも立ち消えになってしまいました。
    そして昭和20年5月、空挺隊は、沖縄作戦に出撃したのです。

    その空挺隊の名前は「義烈空挺隊」と名付けられました。
    出撃が決定した日、義烈空挺隊・隊長の奥山道郎大尉(死後昇進で大佐)は、次のような遺書を三角兵舎内の隊長室で書き残しています。

    ======
    遺書
    昭和二〇年五月二二日

    この度、義烈空挺隊長を拝命。御垣の守りとして敵航空基地に突入いたします。
    絶好の死に場所を得た私は、日本一の幸福者であります。只々感謝感激の外ありません。
    幼年学校入校以来12年諸上司の御訓戒も今日のためのように思われます。
    必成以って御恩の万分の一に報わる覚悟であります。
    拝顔お別れ出来ませんでしたが、道郎は喜び勇んで征きます。
    二十有六年の親不孝を深くお詫びいたします。

    お母上様  道郎
    =======

    「幼年学校入校以来」とあります。
    陸軍幼年学校というのは、旧制中学一年または二年で就学する超難関校でした。
    全国から学業優秀、身体頑健な選りすぐりの少年が集められ、徹底した英才教育が行われた学校です。

    奥山隊長にとって、陸軍幼年学校出身であるというこは誇りだったし、愛する祖国を護る使命感は、まさに骨肉に沁み込んだものだったのです。

    奥山隊長は、学業優秀であることに加え、体力も人一倍優れ、運動神経も素晴らしかったそうです。
    西郷さんを思わせるような堂々たる風采です。誰とでも明るく気軽に話す闊達な性格で、部下たちの信望も厚い方だったそうです。

    昭和20年5月24日夕方、義烈空挺隊の136名は、熊本の「健軍飛行場」から12機の九七式重爆撃機に十一~二名ずつ分乗して飛び立ちました。

    途中、4機がエンジントラブルで基地に引き返し、残り8機のうちの6機が、米軍に占領された沖縄の読谷飛行場に、2機が嘉手納飛行場に突入しました。
    午後10時11分のことでした。

    読谷飛行場では、基地上空に突入した6機のうち5機が、激しい対空砲火によって撃墜されています。
    そして残る一機が、滑走路に胴体着陸を強行しました。

    パイロットは着陸と同時に戦死されたそうです。
    飛行中に対空砲を浴び、半壊状態になっていた飛行機を、自分も敵弾を受けて肉体の一部を吹き飛ばされながら、それでも最後の最後まで操縦桿を放さず、着陸成功とともに絶命したものとみられています。
    彼は機内で突っ伏した状態で死んでいる写真が残されています。

    米軍読谷飛行場に突入した義烈空挺隊の乗った陸軍97式重爆撃機
    義烈空挺隊03


    強行着陸した九七式重爆撃機の搭乗員は14名、空挺隊員は12名でした。
    彼らは、群がる敵兵に応戦する傍ら、駐機中の敵航空機33機を破壊損壊させ、米兵20名を死傷させ、さらに飛行場にあった航空燃料用7万ガロンを炎上させ、さらには約8時間に渡って、飛行場を完全に機能停止に陥らせました。

    その武功たるや、まさに凄まじいの一語に尽きます。
    そして約2時間の戦いで、重傷で意識を失っていた一名を除き、全員が戦死されました。

    空挺隊のメンバーは、出撃前、それぞれの隊員たちが乗る搭乗機の前で、ひとりひとりが、自分の故郷のある方角に向かって、深々と頭を下げています。
    それは、自分を育ててくれた故郷への感謝であり、またその故郷を守るためという決意でもあったことでしょう。

    出撃前に故郷に礼をする空挺隊員たち
    出撃前に故郷に礼をする隊員たち


    彼らは出撃前に、血の出るような猛訓練を重ねています。
    訓練して、訓練して、それでも足らずにまだ訓練して、そうして136名が12機に分乗して出撃しました。
    けれど飛行機は、その途中で7機が墜落し、4機がエンジン不調で帰投、突入できたのは、わずか1機です。

    訓練を重ねても、途中で飛行機そのものが撃墜され、敵陣に突入さえできないままに死を迎えることもある。
    そのことを知っていながら、彼らは猛特訓を重ね、出撃していきました。

    そして最後の最後まであきらめず、ようやくパイロットを含めた14名が米軍に占領された敵基地に突入し、およそ2時間の壮絶な戦いの上、基地を使用不能に破壊して、全員が討ち死にしました。

    彼らは、なんのために戦ったのでしょう。
    私は、沖縄戦の是非論を議論する気はありません。
    ただ、こうして必死に戦い、散って行かれた人たちがいた。その心を、その歴史を、私たちは同じ日本人として、決して忘れてはならないと思うのです。

    世界中、どこの国でも、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰しています。
    「自由の国」米国でも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えています。
    硫黄島で戦った兵士たちのことも、銅像にして讃えています。
    硫黄島は、米国領ではありません。
    自国領でなくても、外国との戦いに勇敢に挑んだ軍人は、国の誇りであり名誉であり、なにものにも替えがたい名誉だからです。

    国防だけではありません。
    永世中立国スイスでは、フランスのルイ王朝を守って戦い死んでいったスイス傭兵たちの武勲を、ライオン像に託して残し、讃えています。
    戦って生きても、戦って死んでも、その栄誉を語り継ぐのが、世界の常識です。

    けれど、日本だけがそれをしていません。
    その結果、子供たちは自分の国を誇ることを知らず、その子供が長じて、国軍の長であることさえもわきまえず、世界に恥をさらす政治家に育ったりしています。

    日本を取り戻す。
    そのために自分にできることを少しずつ積み重ねていく。
    毎日コツコツと、積み重ねていくそれが大事なのだと思います。


    お読みいただき、ありがとうございました。
    ※この記事は2018年の記事の再掲です。
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  • 愛とLOVEと「おもふ」こと


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    一昔前までは、四十を過ぎたら自分の顔に責任を持てと言われました。
    昔、ステキなイケメンだった俳優さんが、歳月を経て、いまではすっかり、まるでヤクザ者のような貧相な顔立ちになっていて驚くことがある一方で、若い頃はそんなでもなかったのに、年をとったら、ものすごくステキな顔立ちになられている方もおいでになります。

    人の生き様や人生は、顔に出ます。
    もっとも最近は、一昔まえよりも栄養状態が良くなっていますので、だいたい今の年齢から15歳を引くと、昔の年代になるそうです。

    たとえば、
    いま55歳なら、昔の40歳くらい。
    いま75歳なら、昔の60歳くらい、という感じです。
    ということは、いまの35歳が、昔の20歳の青年?(笑)
    でも、なんとなく、納得できてしまう気もします。

    日々の心の持ち方は、やはり外面に出るものです。
    国も同じです。
    他所の国の悪口ばかりを言い、その国から技術を盗んで、お金持ちになった国もあります。
    そうした国では、反日であることが、まるで国是になっているわけですが、そういう実態が世に知られていないうちは、それなりの人気になるけれど、15年も経過すると、徐々に実情がバレてきます。
    さらにその国の人々の心の歪みが、顔の歪みにもなってしまいます。
    だから整形手術が大流行して、無理やりイケメンや美女を人造で作るのですが、それも歳をとると、だんだん崩れてくる。

    若い頃、先輩から、
    「嫁さんもらうなら、相手の女性の母に会え」と教わったことがあります。
    その母の姿が、20年後、30年後の相手の女性の姿だから、というわけです。
    男も同じです。
    特に長男は、歳をとると、父親に顔立ちだけでなく、性格まで似てくるそうです。
    もっとも世の中は、「鳶(とんび)が鷹(たか)を生む」なんてことわざがあるくらいで、そうではないケースも多々あるわけですから、必ずしもそうなるとも限らない。

    ただ、日々を精進して、自分なりに一生懸命に生きようとするとき、同じ生きるなら、つながりを大切にし、一隅を照らすような生き方をしていきたいと思っています。

    ちなみに日本語にはもともと「愛(=LOVE)」という概念がありません。
    「愛」という漢字はあって、もちろん愛別離苦(あいべつりく)とか、敬天愛人などといった「愛」を含む熟語は昔から存在していますから、仏教とともに「愛」という概念が渡来したのでしょうけれど、その「愛」も、渡来当時は「おもふ」と読むのがならわしです。

    つまり日本人にとっての愛は、「おもふ」ことです。
    英語のLOVEは、自分の内側といった意味合いがあります。
    基本が個人主義ですから、その個人である自分の内側にあるもの、それがLOVEだというわけです。
    自分自身そのものです。
    ですから、我が故郷を愛しているという英語は、私は故郷を自分の内側にある自分自身と一体のものと思っている、といった意味になります。

    これが悪しき方向に発展したものが、同じLOVEでも、自己の欲望のままに、といいったニュアンスです。
    近年のハリウッド映画では、愛をもっと広義な人類愛的なものとして理解し主張するものが増えてきました。
    愛は決して欲望を満たすだけのものではなく、普遍的な思いやりの心のことである、といった意味あいに使われるようになってきたわけです。
    これは日本文化の影響といえるかもしれません。

    その愛が、競争して奪うことから、対象となるものへの思いやりや、「おもふ」ことに昇華すると、世界は変わります。
    このとき、重要な役割を担うのが、万年の単位で続く日本の文化です。


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  • 谷時中に学ぶ人の上下と師道


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    人の上下というのは、全人格的な上下ではない。
    あくまで社会秩序のための役割分担にすぎない、というのが、日本人の思考です。
    一寸の虫にも五分の魂、なのです。
    それが日本人です。

    20181230 谷時中
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
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    谷 時中(たに じちゅう、1598-1650)は、土佐出身の、戦国から江戸初期を生きた儒学者です。
    戦国時代、我が国の価値観が混乱し、人を殺したり怪我をさせてもとにかく強ければ良い、強ければ赦されるという、不可思議な道徳観が蔓延しました。
    人々の欲望が刺激され、人は己の欲得のために生きるものという気風が高まり、周辺国からやってきた人々が国内でありえないような犯罪を犯して逃げていくことが日常となった時代でもありました。

    ちなみにお伊勢様の式年遷宮は、太古の昔より国費をもって営まれてきました。
    ところが国費で行われない時代が、我が国の長い歴史において、二回だけあります。
    一度目が応仁の乱に始まる戦国時代の100年です。
    二度目が大東亜の敗戦後の74年です。
    つまり戦国期は、戦後の日本によく似ているということです。

    そうした戦国時代にあって、「師道」を根本にして我が国の価値観、道徳観を取り戻そうとしたのが谷時中です。
    どんなに社会的に身分が高くても、学問の場では師匠が上。
    たとえ相手が大名で、師匠が農民の出であっても、学問の場では師匠が平気で殿様を呼び捨てにする。
    同様に、社会において、上長の前では、部下は必ず常に平伏する。
    それが谷時中の「師道」です。

    谷時中は儒者ですが、ここがChinaの儒教と、日本的儒学の根本的に異なるところです。
    Chinaの儒教は、兎にも角にも人は上下関係を根本にするというものです。
    ですから師匠であろうがなかろうが、殿様の方が身分が高ければ、殿が上、師匠が下です。

    日本でそうはならないのは、日本では、神々のもとにあらゆる階層の人はすべて人として対等であるというシラス国を根本としているからです。
    そのシラスを根本として、その中に上下関係のウシハクを置きます。
    こうすることで秩序が生まれるとしてきたのが、日本だからです。

    要するに谷時中もまた、林羅山と並んで、単にChina式の儒教をありがたがる学者ではなく、我が国の歴史伝統文化に即して、日本的に読み替えて世に秩序をもたらそうとした実学を根本とする人であったわけです。

    そんな谷時中は、彼の師匠から次のような教えを受けたそうです。

    「財は人を殺し、身を滅ぼす。
     すなわち財を得て身を滅ぼすよりは、
     財なくして安全に生きる方が
     ましであるというがいかに。」

    このとき時中は、次のように答えました。
    「財には、もとももと人を殺す心はありません。
     人々が貪欲におちいるから自らの敗亡を招くのです。
     たとえば明灯は、蛾を殺しますが
     これは蛾が自ら火に飛び込んでいるものです。
     このことこそ真に憐れむべきことです。」

    これを聞いた師匠は、時中の明晰に感心したそうです。
    上下関係を尊ぶ儒教界にあって、谷時中は、誰と接するときも同じ態度で、相手が上だからと妙に謙遜してへりくだることもないし、相手の身分が低いからと横柄な態度をとることもない人だったのですが、このためにあるとき、武勇豪傑をもって鳴る人が、時中に大いに怒ったのだそうです。

    「売僧、貴様は何の徳があって生意気な口をきくのか、
     そのワケを説明せよ。
     もし納得出来る答えがないのならば、
     貴様の身と首は、所を異にすると思え」

    そう言って、武士が白刃を時中の喉元に突きつけると、時中は顔色ひとつ変えずに、
    「貴方が殺したいと思うのなら、
     そのようにされるが良い。
     死ぬことも生きることも、
     同じひとつのことです。
     それなのにどうして私が
     死を恐れることなどあると思うのですか?」
    と、ケロリとしている。
    そのあまりに飄然(ひょうぜん)とした態度に、その豪傑は逆に恐縮して刀を納めたそうです。

    時中が生きた時代は、関ヶ原から大阪冬の陣、夏の陣と戦乱が続いた時代で、この時代、書を得るということはとても難しい時代でした。
    それでも時中は、京の都や大阪、長崎にまで書を求め、多くの蔵書を得ようとしました。
    そのためには、たいへんな費用がかかります。
    ついには、家の田畑の多くも転売しています。
    ところが時中は、
    「私は田畑の数百石を子孫に残すのではない。
     聖賢の書を読み、道義を解明し、
     これをこそ後に伝えるのだ」
    そう言って、ついには、食べていくのに必要な田畑だけを遺し、あとは全部売り払ってしまったそうです。

    このような時中を慕って南学塾には、多くの生徒が集まりました。
    土佐の殿様がその名声を聞いて、時中を藩で召し抱えようとして使者を送ったときのことです。
    時中はその使者に答えました。
    「禄を藩からいただいている者が家臣ではありません。
     国にある民を「市井の臣」といい、
     野にある民を「草莽の臣」といいます。
     彼らは等しく藩侯の民です。
     私はたまたま儒学を説き研鑽をしていますが、
     いまだ学問は未熟で、
     王侯の師範に足りるものではありません。」
    と、官位を断っています。

    この態度は歳を重ねても変わらず、ただひたすらに真実を求め続けました。
    そして谷時中が確立したもののひとつが、冒頭の「師道」です。

    谷時中は、
    「師弟の間は君臣の如し」
    と説き、相手が藩の重役であっても、平然と呼び捨てにしました。
    これが無礼であると、刃を向けられたことも、一度や二度ではなかったといいます。

    けれどもこのときに谷時中が確立した師弟の道は、後に「童子教」として日本全国における教育の基本となり、いかなる場合においても、師匠の前にあっては、礼を重んじ、襟を正して正座するということが、あたりまえの常識となっていったのです。

    このブログでもご紹介した野中兼山、山崎闇斎なども、みな、この谷時中の門下生です。
    そして幕末に至るまで土佐藩が裕福な藩でいられたのは、その野中兼山の活躍によるものであり、また、山崎闇斎は水戸学、国学に強い影響を与え、これが本居宣長、賀茂真淵とつながっていきました。

    時中は、江戸時代の初期にあたる慶安2(1650)年、52歳でこの世を去りました。
    谷時中の書は、6巻の文集と、4巻の語録がありますが、これらはすべて門弟たちが収録したものです。

    ひとつの偉大な魂が、次の門人を育て、新しい時代を築くということがあります。
    その最初の石杖となった人は、名もなく石像もなく、特段の懸賞もありません。
    それでも努力を重ね、その努力が世代を経て大きな果実となって稔っていったのが、我が国の文化・学問の歴史です。
    なぜそうなるのか。
    答えは、日本は「庶民が築いてきた歴史を持つ国」だからです。

    学問は個人が名声を得るためのものではなく、また他人から評価いただくものでもありません。
    どこまでも身を律し、次代を築くのが学問です。
    そして、いま、日本を取り戻そうと、忙しい日々の時間を割いて、学ぶことに精をだしておいでになる皆様こそ、新しい日本を、そして新しい世界を築く、石杖となる志士であり獅子です。

    それともうひとつ。
    戦国を終わらせた原動力は、シラス国日本を取り戻そうとする、大きな力でした。
    ただ、そのためにはもうひとつ、シラスを教えるための師道というウシハクが必要でした。
    シラス、ウシハクは対立概念ではありません。
    両者が整ってはじめて大事が成るのです。

    また、日本を取り戻す原動力となるものは、決して外圧のみではありません。
    ひとりひとりの日本人の自覚の覚醒こそが、日本を取り戻すのです。

    世界の歴史は、西洋にせよ、東洋にせよ、特別なリーダーが歴史を築いてきました。
    特別なリーダーが英雄となり、王となり、支配者となりました。
    フランス革命だけが例外的に民衆による革命だと言われますが、実際には米国の独立戦争を支援したフランス国王に対し、米国を失った英国が裏からパリ市民にカネと武器を渡してけしかけた結果、民衆の武装蜂起が起きたとされます。
    結局は、資力財力権力を兼ね備えた人物が、裏からスポンサーとなるから蜂起が起きているのです。

    西洋の歴史は、民衆ではなく、市民が議会を形成し(市民というのは、95%の人口を下に持つ支配層です)、議会だけでは何も決めれないからと、要職を歴任した人が寡頭制の元老院を形成し、元老院が買収されて汚職まみれになることで、これじゃあだめだということで、王が誕生し、王が腐敗して、ふたたび市民が蜂起する・・・つまり「市民議会制→寡頭制→専制君主制」の3つをぐるぐると回っているだけです。
    そしてこのときも、市民というのは、あくまで支配層の人たちをことのみを言います。
    民衆は、ただの所有物であり、奴隷であり、単なる労働力であり、支配層への貢ぐ君でしかないし、その形は、実は現代も同じです。

    チャイナは収奪社会です。
    下の者は、ただ奪われるだけ。
    上に立つ者が、何もかも奪い、地位も名誉もカネも、すべてを独占し、横暴の限りを尽くします。
    だから、下の民衆は、自分を護るために、自分の欲だけに忠実になります。歴史を通じて、そういう国柄です。

    日本は、民衆に奴隷がなく、誰もが大切な「おほみたから」とされてきた国柄を持ちます。
    これは、世界の歴史の中で、ありえないほど、珍しい形です。
    民衆は、自分が大切にされているから、人も大切にします。
    そして、現状否定ではなく、現状をより良くするために、誰もが努力を重ねます。

    だから日本の民衆は、
    官職がある人なら「臣」。
    国にあるなら「市井の臣」、
    野にあるなら「草莽の臣」です。
    誰もが、天皇の「臣」です。

    大臣は天皇の家臣です。
    民衆もまた、天皇の家臣です。
    つまり、どちらも天皇の家臣であって、両者は対等な関係にあります。
    地位の差は、単なる役割分担であって、人格の問題ではないとしてきたのが日本です。

    谷時中が言うように、人の上下というのは、全人格的な上下ではない。
    あくまで社会秩序のための役割分担にすぎない、というのが、日本人の思考です。
    一寸の虫にも五分の魂、なのです。
    それが日本人です。


    お読みいただき、ありがとうございました。
    ※このお話は2017年1月の拙ブログ記事のリニューアルです。
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  • お富さんの物語から損得勘定を考える


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    愛すること、人を大切に思うこと、損得を超えた友情など、そうした幾重にも重なる深い価値観を根本に持つのが人というものです。
    損か得かだけなら、動物や昆虫と何のかわりもありません。
    そのような価値観しか教えることができないものは、教育の名に値(あたい)しません。
    いまの日本の教育現場が荒廃するのもあたりまえです。

    20181231 お富与三郎
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    春日八郎のヒット曲で「お富(とみ)さん」という歌があります。
    古い歌ですが、覚えておいでの方もおいでになるものと思います。

    ♪粋(いき)な黒塀(くろべい) 見越(みこ)しの松(まつ)に
     仇(あだ)な姿(すがた)の 洗い髪
     死んだはずだよ お富さん
     行きていたとは お釈迦さまでも
     知らぬ仏の お富さん
     エーサオー 源治店(げんやだな)

    実はこのお富さんのお話は、江戸時代の歌舞伎で大ヒットした『与話情浮名横櫛(よわなさけ、うきなのよこぐし)』という人情物がもとになっています。
    むつかしい名前の演劇ですが、通称が『切られ与三(きられよさ)』、『お富与三郎(おとみよさぶろう)』、『源氏店(げんやだな)』などとも呼ばれました。

    歌舞伎がもととはいえ、戦前は講談や落語でも数多く扱われ、なんと戦前の修身教科書でも紹介されたお話です。
    つまりそれだけ「お富さん」は、世間的に誰もが知る常識の物語であったわけで、春日八郎は昭和29年にこの歌で大ヒットを飛ばしています。

    昭和29年といえば、サンフランシスコ講和条約によって日本が主権を取り戻して2年目にあたります。
    日本人であることに、あらためて誇りを持つ人々が増えてきたときに、戦前には誰もが知っていた「お富さん」を歌にすることで、昔をなつかしむ多くの人々の心を捉えたわけです。

    では、この物語がどのような物語かというと、江戸の大店の若旦那の与三郎が、ある日、木更津で美しいお富さんに出会い、一目惚れしてしまいます。
    ところがお富さんは、このとき地元のヤクザの親分の赤間源左衛門のお妾(めかけ)さんだったのです。
    情事が露見し、怒った赤間源左衛門は、手下に命じて与三郎をめった斬りにして、海に投げ捨ててしまいます。
    眼の前で愛する与三郎を殺されたお富さんは、入水を図ります。

    ところが・・・!!

    幸いなことに二人とも命をとりとめるのです。
    お富さんは、大手質屋である和泉屋の大番頭の多左衛門に引き取られ、源氏店(げんじだな)と呼ばれる妾宅で何不自由ない暮らしをします。
    一方、与三郎は実家を勘当されて流浪の身となるのですが、三十四箇所の刀傷を売り物に、「切られの与三郎」として悪名を馳せていきます。

    ある日,与三郎は ごろつきの蝙蝠安(こうもりやす)とともに、豪商の番頭宅に強盗に入ります。
    するとそこにお富さんがいる。
    片時もお富さんを忘れることができなかった与三郎は、お富さんを見て驚くと同時に、またしても誰かの囲いものになったかと思うと情けなく、そこで決めの名台詞が入ります。

    「イヤサこれお富、ひさしぶりだなア…
    「そういうお前は」と問いかけるお富さん。
    「与三郎だ」
    そう名乗った与三郎は、手拭いで隠していた顔を見せ、着物の袖をまくって総身に受けた傷を見せます。
    ハッと胸に手を当てるお富さん。
    「死んだと思ったお富、おメエが生きていたとは、お釈迦様でも気が付くめエ」

    そこに主の多左衛門が帰宅します。
    多左衛門は落着き払った態度で、与三郎は誰かと尋ねます。
    お富さんはとっさに「兄(あに)さんです」と言いつくろう。
    与三郎に向かって多左衛門は、
    「お富を囲っているが男女の関係はない」といい、適当な商売でも始めるようにと、与三郎に相当な金を受け取らせます。

    金をもらった蝙蝠安と与三郎が引き上げたあと、店から迎えがきたので、多左衛門はお富さんに自分のお守袋を渡して店へ戻って行きます。
    お富さんが、そのお守り袋を開くと、中に臍の緒書が入っている。
    そして、多左衛門がお富さんの実の兄であったと知ります。

    そこにそっと戻ってきた与三郎。
    お富さんは多左衛門が実の兄であったと知らせ、二人は多左衛門に感謝する・・・。

    とまあ、こんな物語が「お富と与三郎」のお話です。
    修身教科書では、この物語を通じて、兄弟の絆の深さ、大切さ、そして嘘はバレると子どもたちに教えました。

    修身教育の復活を警戒する人たちがいますが、一体何を警戒しているのでしょうか。

    人生は判断の連続です。
    そして人は、情報に基づいて判断を行いますが、判断に際して必要なことが、価値判断のモノサシとなる価値観です。
    その価値観が、儲かるか儲からないか、自分にとって利益があるかないか、といったモノサシしか持たないのでは、損得勘定しかない人間ができあがってしまいます。

    損得勘定がいけないとか、ダメだとか言っているのではありません。
    損得勘定だけではいけないと申し上げています。
    人には、損得では図りきれない愛とか、友情とか、魂の響きがあるのです。

    愛すること、人を大切に思うこと、損得を超えた友情など、そうした幾重にも重なる深い価値観を根本に持つのが人というものです。
    損か得かだけなら、動物や昆虫と何のかわりもありません。
    そのような価値観しか教えることができないものは、教育の名に値(あたい)しません。
    いまの日本の教育現場が荒廃するのもあたりまえです。

    お読みいただき、ありがとうございました。


    ※この記事は2019年1月の記事のリニューアルです。
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  • 漢字渡来以前の日本の文字


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    間違いなく、日本には、漢字渡来以前から文字がありました。
    そしてその文字は、世界最古の文字であり、現代でも日本人はその文字をカタカナとして日常的に使い続けているのです。
    これが論理的な帰結としての、事実です。

    鹿骨
    20180116 占いに使われた鹿骨
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    小名木善行です。

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    日本には漢字渡来以前には文字がなかったと言っている人たちがいます。
    どこを見ているのかと言いたくなります。
    ヒエログラフとも言いますが、欧米の学者さんたちの中には、むしろ日本が古代文字発祥の地ではないかとして研究している人もあるくらいです。
    あるいは、古事記・日本書紀以前の史書や文字は、古代大和朝廷によって消されたのだという人もいます。
    要するに古代の日本に激しい対立や殺し合いが行われたのだと言いたいようなのですが、ぜんぜん違うと思います。

    少し脱線しますが、以前に「江戸しぐさ」をこのブログでご紹介したことがあります。
    ところがその「江戸しぐさ」について、これを普及しようというあるNPOがあります。
    普及してくれようとするその目的はたいへんありがたいのですが、そのNPOがなんと言っているかというと、そのまま転載するとどこと特定されてしまうので要約しますが、
    「幕末戊辰戦争のときに、江戸庶民が大虐殺されて江戸っ子はほぼ全員死んでしまった。
     自分たちはそのなかで生き残った僅かな江戸っ子で、江戸しぐさを継承する唯一の団体である」
    と、このように主張しているわけです。
    いったい、いつ江戸庶民が虐殺されたというのか。
    まったくもってファンタジーとしか言いようがありません。

    ちなみにその幕末期、まさに江戸で開業医をしていた「庶民」のひとりに、手塚治虫さんの祖父がいます。
    我が家の曾祖父も、幕末から明治初期まで江戸住まいです。
    もし本当にそのような虐殺があったのなら、手塚治虫の曾祖父も、我が家の曾祖父も生きていません。
    あまりにも荒唐無稽なファンタジーですが、要するに何かを主張する際に、
    1 自分たちは被害者である。
    2 唯一正当な本家ないし元祖である
    と、必ずそのように主張してファンタジーを繰り広げるのは、日本人のような顔をして日本に住んでいて日本語を話すけれど日本人でない人たちの、まさに伝家の宝刀です。
    千年前の刀伊の入寇の時代から現代に至るまで、あまりにも彼らの言い草は毎度同じパターンすぎて、相手にするのも馬鹿らしい。

    さて実は、日本には漢字渡来以前には文字がなかったという説の延長線上に、カタカナは漢字から派生したという説もあります。
    これなども、あまりにも馬鹿らしい説です。
    たとえば「ア」は漢字の「阿」のつくりの部分の「可」から生まれたなどとしているのですが、それならば「阿」である必要がありません。
    最初から「可」を用いれば良いだけのことです。
    ところが「可」では都合が悪い。
    なぜなら「可」は「か」とは読みますが、「あ」とは読まないからです。
    同様に「カ」は「加」の篇の部分の「力」から生まれたのだと言いますが、漢字の「力」は音読みが「リキ」、訓読みが「ちから」であって、「か」とは読みません。
    要するに、これらもまた作り話でしかないということです。

    では、そもそもカタカナはどこから生まれたかといえば、神代文字であるカタカムナから生まれたという説が、いちばん合理性があるように思えます。

    カタカムナ文字とカタカナの派生
    20180116 カタカムナ文字とカタカナの派生


    カタカムナが発見されたのは昭和24年(1949年)のことで、この文字は、他に八鏡文字(はっきょうもじ)とか化美津文字(かみつもじ)、あるいは上津文字(うえつもじ)とも呼ばれます。
    その信憑性を疑う人もいますが、頭ごなしに否定してかかるというなら、いまの「常識」である「漢字からカタカナができた」という説も、かなり疑わしいものです。
    それなら、可能性は可能性として探っていくのが良いと思います。
    そもそも「漢字以外は文字として認めない」というのは、日本の戦後の敗戦利得者となった日本人のような顔をして日本に住んでいて日本語を話すけれど日本人でない人で、幸か不幸か学者となった人たちの身勝手な言い分にすぎません。

    決めつけは、政治です。
    探求するのが学問です。
    学者の仕事は政治ではありません。

    神代文字には、実に様々な種類があります。
    みなさまよくご存知のホツマ文字、カタカムナ文字、アヒル(阿比留)文字の他にも、
    上津文字、化美津文字、伊予文字、出雲石窟文字、トヨノ文字、山窩文字、豊国文字、春日文字、アソヤマ文字、越文字、アジチ文字、守恒文字、斎部(インべ)文字、惟足(コレタリ)文字、筑紫文字、重定石窟文字、ヤソヨ文字、阿奈伊知文字、マニナ文字、六行成文字、肥人文字、イスキリス文字 、タネマキ文字、種子文字、アイヌ文字、対馬文字、阿比留草文字、日文草書、薩人文字、阿波文字、天狗文字等々、名の知られた文字だけで34種類もあります。
    探せば他にももっとたくさん出てくることでしょう。

    これらの神代文字は、それぞれ毎に、文字のカタチがまったく異なります。
    まるでハングルのように見える文字もあれば、円弧の向きが意味を持つ文字もあります。
    まるでメソポタミアの楔形文字のようなものもあれば、アラビア語のような文字もあります。
    まるで多種多様なのです。
    けれど、それら神代文字に共通しているのが「五十音である」という点です。
    つまり、「五十音である」という点で、神代文字は一致しています。

    20150802 神代文字


    日本は、縄文時代から続く、とてつもなく古い歴史を持った国です、
    どのくらい古いかというと、縄文時代のはじまりが今から約2万年前。
    弥生時代になるのが約3千年前です。
    つまり、縄文時代だけで、1万7千年も続いているのです。

    もっというなら日本では、
    11万年前には、石器が使われ
    3万年前には、加工した石器(磨製石器)が使われ、
    1万6500年前には、世界最古の土器がつくられ、
    1万3000年前には、人の形をした土偶がつくられ、
    1万2500年前には、漆が栽培され、使われていたのです。

    漢字渡来とされる西暦552年から今年(現代)まで、まだ、たったの1463年です。
    文科省指導による歴史教科書では、日本の近代を明治維新以降、現代を戦後と区分していますが、明治維新から現代まで、たったの150年です。
    万年の単位にまでなる日本の歴史からみたら、明治維新はつい昨日のことでしかないし、1500年前もわずか10日前のことでしかないのです。

    日本がそれだけ古い時代から続いているということは、同時にそれだけ古い時代から、様々な文字が研究され、使用されてきた可能性を否定できないということです。

    めずらしく「私は」という語を使わせていただきますが、私は「だから文字は日本で生まれた」とは思っていません。
    万年の単位で考えるとき、その途中にはいまとはまったく異なった地形図があったといえるからです。
    近いところでは、いまから1万8000年前には、氷期の寒冷化のピークが訪れています。
    そしてこの時期の海水面は、いまより140メートル前後も低かったことが知られています。

    そうなると、現在、大陸棚となっているところの多くは、地上に露出します。
    黄海、東シナ海、タイランド湾などの大部分は地上に露出し、日本列島も大陸と陸続きになります。
    つまり海岸線が、いまとはまったく違った様子になります。

    人は食べなければ死んでしまうし、縄文時代の遺跡を見れば、人は海に面したところで生活をしていた(貝塚)ことがあきらかで、しかも氷期でいまよりずっと寒くて人口も少なかった時代であれば、人々はより住みやすい南方に長く住んでいたであろうことは、十分に合理的に説明ができることです。
    そしてそれが万年の単位であれば、そこで行われていた占いから文字が生まれたとしても、何ら不思議はありません。

    ところがその居住地が、温暖化によって次第に海に沈む。
    そうなれば、人々は、いまある海岸線の位置にまで後退して住むようになり、これによって、日本列島、琉球諸島、China、フィリピン、インドネシア、ベトナムなどに、人々が別れて住むようになったであろうことは、これまたごく自然な成り行きであったのであろうと思うのです。

    そういう次第ですから、私は、「日本人がどこからきたのか論」には疑いを持っています。
    日本列島には、北から来た種族と南から来た種族がいた云々という渡来説には、「なぜわざわざ渡来したのか」という素朴な疑問への答えがないからです。

    むしろ、もとはいまある海上のどこかに住んでいた(ひとつだった)ものが、海岸線の変化によって分断され、自然とそれぞれの地域に分かれて住むようになったということのほうが、はるかに説得力があるように思えるのです。
    そしてもとがひとつであるのなら、文字ももとはひとつであったはずです。
    それが長い年月間に、地域ごとに使いやすいようにいろいろと工夫され、発達していった。
    記号を組み合わせて会意文字とする(漢字にする)ということを考えた人たちもいた。
    記号そのものを、もっと書きやすく筆記体化させていった人たちもいた。
    記号の持つ意味を探求して、パターン化していった人たちもいた。
    そしてそういうものの、すべてが、太古のままに生き残ったのが「日本に残されている」ということなのではないかと思うのです。

    つい最近まで(というか最近でも)地方ごとに方言が異なるように、かつてはそれぞれの地方ごとに、その地方の文化を伝えるのに適したいわば「地方文字」もしくは「方言文字」として、様々な「神代から続く文字」があったと考えて、なんら不思議はないのです。

    ここまできて、古事記序文に書かれた天武天皇の御言葉、「諸家が持っている帝紀や本辞」の意味が明らかになってきます。
    諸家が、それぞれ異なる神代文字で書き残していた史書を指しているということです。
    地方ごとに豪族たちが、独自の文字で文書記録を残していたと考えるべきなのです。
    それらはすべて五十音である点は共通しています。
    けれど文字のカタチが全然違う。

    古事記の編纂を命じた天武天皇は、兄の天智天皇の改革路線を踏襲した天皇です。
    その兄の天智天皇の即位は、唐と大規模な戦闘(白村江の戦い)があったわずか10年後です。
    また再び、戦いがあるかもしれないのです。
    実際、唐は日本遠征計画を具体的に立てていましたし、この時代(7世紀)には、鉄は倭国オリジナルではなくなっています。

    古事記にある天武天皇の「いまその誤りを改めなければ、幾年も経ないうちに日本はなくなってしまうであろう」という言葉は、共通の文字を確立して日本国内の意思伝達をひとつの言語で行なうようにしなければ、日本に唐が攻め込んできた時に、日本そのものがなくなってしまうという、強烈な危機感なのです。

    だから天武天皇は、太安万侶に古事記の編纂を命じたのです。
    古事記は、全部、漢字で書かれています。
    けれど、その漢字は、漢文として書かれたのではなくて、漢字の音だけを用いた、つまり漢字をカナとして用いたところが随所にあります。というか、むしろその方が多いくらいです。
    古事記では、その都度漢字の横に「以音」と、注釈がしてあります。
    「以音」というのは、漢字は使っているけれど、音だけを採用していて、その漢字には意味がないという意味です。
    つまり漢字を「カナ」として用いているのです。

    この時代、地方ごとに異なる文字が使われていた一方で、漢字は外国語として日本全国に共通に普及していました。
    だから共通語として、外国語である漢字を使って、全国各地の神代文字で書かれた史書を統一したのだと考えるのは、ごく自然ななりゆきです。

    このことがわかると、古事記と同時期に編纂された日本書紀が、なぜ綺麗な漢文で書かれたのかも説明がつきます。
    日本書紀が美しい漢文で書かれ、これが子供達の教科書になれば、子供達は自国の歴史や道徳を学べるだけでなく、外国語である漢文を、普通に読み書きできるようになります。
    日本に攻め込もうとする唐の人々には、日本語はわかりません。
    ところが日本人は、唐の国の文書を誰もが読み書きできるのです。
    これは戦略上、国防上、ものすごく有利な国家インフラです。

    古事記の文章の構造を読むと明らかなのですが、常に「問題提起」した後に「その回答を示す」という書き方になっています。
    つまり、すべてにおいて「目的を持ってはじめる」という姿勢が一貫しているのです。
    それが日本的思考です。

    外国語を共通語にするということについては、おもしろいエピソードがあります。
    明治時代、大山巌は、会津藩の大山捨松に一目惚れし、二人は結婚しました。
    ところが、大山巌は極端な薩摩弁、捨松は極端な会津なまりです。
    両者とも日本語で話しているのに、二人はまったく言葉が通じない。
    そこで二人は、大山巌が英国に、捨松が米国にそれぞれ留学経験があり、両人とも英語に堪能でした。
    そこで二人は、初デートのとき、なんと英語で会話しながらデートしたのです。

    古事記の時代、天智天皇、天武天皇の時代というのは、
    一方に、日本語の表記が、各地方ごとに全部バラバラで、異なる神代文字が使われているという状況があり、
    一方に、他国侵逼の国難が迫っているという、
    国家緊急時の時代です。
    そのようなときに、どの神代文字を我が国の共通語にするかで、国内で喧々諤々やっていては、もう間に合わないのです。

    であれば、「外国語」として国内に広く普及している漢字を、この際、共通文字として日本語表記に使ってしまえ!というのが、実は、古事記における初の試みであったわけです。

    こうしてカナとして用いられるようになった漢字は、時代とともに万葉仮名となり、そしてそれらがさらに草書体となることによって、ひらかなが生まれました。
    そして神代文字からは、種々の神代文字から「いいとこどり」したカタカナが生まれました。

    つまり、ひらがなも、カタカナも、もともと神代文字があったからこそ生まれた文化なのだと考えた方が、明らかに歴史を合理的に説明できるのです。
    そして日本に、漢字渡来以前に、すでに高度な文化文明が栄えていた事実も、これによって裏付けることができます。
    神代文字は、縄文時代の土器や、弥生時代の石版や、銅鏡、銅矛にも、たくさん見出すことができます。
    いまは、それらが「意味不明のただの模様」として扱われていますが、実は、それが神代文字である可能性が高いのです。

    古事記には序文があります。
    そこには、天武天皇の詔(みことのり)として、次の記載があります。
    「天武天皇は申されました。
     『諸家が持っている帝紀や本辞は、
      事実と異なるし、
      またその多くに虚偽の記述がある。
      いまその誤りを改めなければ、
      幾年も経ないうちに、
      日本はなくなってしまうであろう。
      歴史は国家の大本です。
      そこで巷にある様々な帝紀から撰録し、
      旧辞を取捨選択して、
      偽りを削り、まことを定め、
      後の世に伝えたいと思う。』」

    この詔が発せられたのは西暦681年のことであったと、これは日本書紀にはっきりと特定があります。
    つまりこれは事実であったということです。
    そしてこの詔には、重大な事実の指摘があります。
    「古事記の前に、諸家ごとに、さまざまな史書が伝えられていた」
    という指摘です。

    このことは、実は「古事記以前に書かれた史書があった」というだけにとどまりません。
    古事記以前に書かれていた史書が、諸家ごとに、それぞれの地に古くから伝わる神代文字で書かれていた可能性を示唆するからです。

    一般に、上代の人々には文字がなく、人々は口伝で歴史を伝えたとされています。
    漢字が伝わったのは、仏教伝来と同じく、西暦552年のことであったといいます。
    だから、
    「それまで日本には文字がなかった」
    「カタカナやひらがなは、漢字を変形させて作ったのだ」
    といわれています。

    しかし、仮にもしそうであるならば、
    「なぜ日本語には「ア」から「ン」で終わる五十音があるのか」
    「日本語の五十音は、いつどのように形成されたのか」
    という素朴な疑問に、合理的な説明を行うことができません。
    なぜなら漢字には50音という思想はないからです。

    実は50音というのは、非常に不思議な分類といえます。
    なぜなら、日本語には「が」や「ば」のような濁音もあれば、パピプペポのような半濁音もあります。
    ギャ、ギュ、ギョのような拗音、他にも破裂音、摩擦音、鼻音、はじき音(巻き舌でラと言う時など)、ヤ行、ワ行の子音のように母音に近い接近音もあります。
    つまり、日本語の発音は、50音だけには収まらないのです。

    このことは、裏返しにいえば、50音には、音声の発音とは別に、何か特殊な用途があったことを示唆します。
    このことについての合理的な説明としては、やはり古代において盛んに行われ、古事記にもその事実が記載されている鹿骨占いや亀甲占いが挙げられます。
    鹿骨占いや亀甲占いは、日本に限らず広く東南アジア全体に普及していた占い手法で、鹿の骨などを焼き、このときにできるヒビ割れのパターンで、様々な御神意を得るというものです。
    ヒビ割れのパターンは、「ー」であったり「|」であったり「/」であったり「\」であったり「・」であったり、様々な模様が生まれます。

    長い歳月占いで用いられれば、次第にそのヒビ割れのパターンが類型化され、それぞれに名前が付いても何らおかしくありません。
    そしてそのパターンが記号化されることは、ごくあたりまえに起こることです。
    そして当然、ひとつひとつのパターンには、「音」での名が着いたことでしょう。
    つまり、パターンに「音」が着くようになる。
    すると、今度は、音をパターンで表すようになることも、ごく普通に起こりうることであろうと思います。

    こうして50種の音による記号が完成する。
    その完成された50の音が、それぞれの地方ごとに、図形化されて文字になる。
    これもまたごく自然な行動といえます。

    つまり論理的に考えれば、鹿骨占いがあり、そのヒビ割れ模様がパターン化され、そのパターンごとに一音が割り当てられることで、今度はその記号が、文字として活用されるようになると考えることができるわけです。

    漢字は、象形化された記号の組み合わせによって成り立っている文字ですが、ということは漢字が生まれる以前に、「亻」なら人を表し、「尹」は手にムチを持っている姿という記号化が先に生まれ、普及していなければならないはずです。
    このように考えれば、漢字以前に、一音で何らかの意味を表す記号化されたものを文字として扱う文化が、どこかで先に生まれていなければならないはずなのです。
    そしてそれこそが、日本に残る神代文字なのではないかと思います。

    そもそも「西暦552年の漢字渡来まで、日本には文字がなかった」という説にも疑問があるのです。
    なぜなら、日本に文字を扱う文化がなかったのなら、日本に「金印」が贈られることはありえないからです。
    「漢委奴国王」と記された金印は、江戸時代に福岡県の志賀島で発見されました。
    この金印は、西暦57年に倭国にある奴国の国王が漢に使いを送り、漢の皇帝が授けた金印です。
    このことは、Chinaの史書である『後漢書』に明確に記されています。
    漢字渡来とされる年より、500年近くも前の出来事です。

    みなさまよくご存知の『魏志倭人伝』にも、魏の皇帝が「親魏倭王」と記した金印と、銅鏡100枚を倭国に贈ったと記載されています。
    魏が成立したのは西暦220年、滅亡が265年、つまり3世紀の出来事です。
    ということは、魏から日本に金印が贈られたのは、間違いなく3世紀の出来事です。
    そして「印」というものは、文書に押印するためのものです。
    つまり、1〜2世紀の日本で、文字が存在しなければ、漢の皇帝も、魏の皇帝も、日本に「金印」を贈ることなどありえないのです。

    とりわけChinaにおいて、金印というのは特別な意味を持っています。
    Chinaの印には、玉印、金印、銀印、銅印の区分があります。
    玉印は、象牙でできた印であり、これはChina皇帝だけが用いるものです。
    金印、銀印、銅印は、Chinaの皇帝が下賜する印です。
    これには明確な序列があります。
    オリンピックのメダルと同じです。
    金印をもらえる国は、一等です。それはChinaと対等もしくはそれに近い国力を持った国です。
    銀印をもらえる国は、二等です。それはChina皇帝の傘下にあって郡長程度の国力のある国です。
    銅印をもらえる国は、三等です。それは村長さん程度の国です。

    漢や魏が、倭国を文字も扱えない遅れた国だと認識していたなら、日本には、良くて泥印しか与えられなかったことでしょう。
    そもそも日本に文字を操る文化がなかったのなら、そもそも印を授ける理由さえありません。
    つまり金印が贈られたということは、Chinaの王朝にとって、日本がChinaと対等な国力と文化を持った国であると認識されていたということです。
    残念ながら、Korea半島では、歴史を通じてChina皇帝から金印を下賜されたことは一度もありません。
    Korea半島は、ずっと銅印だけが下賜されました。
    つまり、歴代のChina王朝からみて、歴史を通じてKorea半島は、明確に日本よりも劣る国とみなされていたということです。
    それは、詰めていえば、文化レベルの低い国とみなされていたということです。
    文化レベルの低い国が、はるか高みにある国に向けて「文字を教えてやった」とか、ありえないファンタジーです。

    ちなみに、古代においては、Korea半島の南半分は倭国の領土です。
    つまり倭国とChinaの大帝国は、陸続きでした。
    陸続きであるということは、侵略の危険と常に隣り合わせにある、ということです。
    だからこそ、贈り物をし国交を保ち、敵対したり侵略されたりすることがないように、倭国はChina王朝に気をつかっていたのです。

    そしてChinaの王朝もまた、倭国と敵対することがないよう、金印を贈って倭国を懐柔していたのです。
    つまり、金印授与は、対等なパートナーシップの証であり、当時のChinaにとって、倭国は「征服征圧するより、国交を持ったほうが得である」と認識されていたということです。

    何が「得」だったのでしょうか。
    魏志倭人伝の「魏」は、みなさま大好きな『三国志』に出てくる「魏・蜀・呉」の「魏」です。
    その「魏」には、有名な曹操がいました。
    三国志は、魏の曹操を、憎らしいほど強い奴として描いています。
    つまり、それほどまでに、曹操の軍事力は強かったのです。

    なぜ強かったのでしょうか。
    理由があります。
    魏軍は、鉄製の剣や楯を用いていたのです。
    孫権の呉や、劉備玄徳の蜀は、青銅器製の武器です。
    青銅器の剣と、鉄製の剣が打ち合えば、青銅器の太刀はポキリと折れます。
    圧倒的に鉄製の武器が有利なのです。
    魏軍の兵士は、呉や蜀の軍隊を、武器ごと真っ二つに切り捨てることができたし、青銅器でできた楯を、鉄の槍で貫き通すことができたのです。
    強いわけです。

    では、なぜこの時代に魏だけが鉄製の武器を持っていたのでしょうか。
    これもまた理由があります。
    倭国が鉄を産したのです。
    倭国は、国内でも鉄を掘りましたが、同時にKorea半島の南部でも、さかんに鉄を掘っていました。
    鉄は岩を熱して溶かし出します。
    これを行なうには、高温をあやつる高い技術が必要です。
    そして高い技術は古来、日本のお家芸です。

    倭国は、鉄を生活用品に用いましたが、魏は、倭国から輸入した鉄を武器に使いました。
    魏の国力をもってすれば、Korea半島を奪うことも可能であったかもしれません。
    けれど魏がKorea半島と隣り合っていながらそれをしなかったのは、魏が半島を奪えば、鉄が補充できなくなるからです。
    つまり鉄の生産技術は、倭人たちだけのものだけであったということです。

    Korea半島南部の倭人たちを脅かして、倭人たちが海を渡って本土に帰ってしまえば、魏は鉄の補充ができなくなります。
    それは魏の軍事力の弱化を意味します。
    「ならば、征服するより、対等なパートナーとして付き合うほうが良い」
    というのは当然の帰結です。
    だから金印を贈ったのです。

    この時代のKorea半島に倭人以外で棲息していたのは、濊(わい)族です。
    濊というのは、臭くて汚なくて人間分類することがおこがましい種族という意味です。
    なぜなら濊は、糞尿を意味する汚穢(おわい)の濊であり、しかもそれがサンズイです。
    どれだけ汚くて臭かったかということです。
    果たして、そんな濊族に文化を教えてもらわなければならないような国に、魏は金印を送るでしょうか。

    要するに「漢字渡来まで文字がなかった」と考えるほうが、明らかに不自然です。
    そうではなく、独自の文字を操る文化があったから金印が贈られたのです。
    そして独自の文字があったからこそ、日本には五十音があるのです。
    もっといえば、漢字渡来よりも先に文字があったからこそ、日本語には五十音があるのです。
    それが「神代文字」です。

    神代文字は、文字ではないという人もいるかもしれません。
    しかし伊勢神宮には、稗田阿礼や菅原道真、あるいは源義経などが、まさにその神代文字で奉納した弊が残されています。

    もっと身近にもあります。
    少し古い神社に行ってお守札をいただくと、その中の紙片に、まさに神代文字が書かれています。
    神代文字はファンタジーなどでは決してなく、実際にあったし、いまなお使われている文字なのです。

    さらにいえば、カタカナは、もともと神代文字がもとになって生まれた文字です。
    ひらがなは、漢字のくずし字から生まれたことは、ほぼ常識とされていますが(異論もあります)、カタカナが学校で教えるように、漢字から生まれたとする議論は、あまりにも稚拙です。

    下の図を御覧いただきたいと思います。
    カタカナが漢字の部品から生まれたとする説のものです。

    20222124 カタカナ漢字
    出典:ウィキペディア

    ご覧いただくとわかりますが、「ア」が阿のこざとへんから生まれたが良いとして、「へ」は部のつくりから生まれたとしています。
    「エ」は、江のつくりからとしていますが、「オ」は於のヘンから生まれたとしています。
    どうみてもこの説には無理がありすぎます。

    江戸の昔も、戦前戦中までも、我が国では、ひらがなは女性たちが使う文字、カタカナは男性が使う文字とされていました。
    なぜ男かというと、男系男子という言葉があるように、男性は家系の霊(ひ)を受け継ぐものとされたからです。
    だから使う文字も、神代から続く神代文字を男が用いることが常識とされてきたのです。

    つまり・・・・客観的に視て、日本ではかつて神代文字が使われていた。
    その伝統は、つい戦前戦中まで、カタカナの形でずっと守られ続けてきたし、漢字渡来以前に、すでに神代文字が使われていたことを示す明らかな痕跡(遺物遺構等)が存在しているのです。

    にもかかわらず、このことが秘匿され、公にされず、隠され続けていることには意味があります。
    それは、
    「日本人が誇りと自信を持つと、
     日本人を支配しにくくなる」
    からです。

    日本にも世界にも、人々を支配し、奴隷として収奪しようとする人たちがいます。
    そういう支配者の下請けとなることによって、個人的な利得を得ようとする人たちもいます。
    そういう人たちにとって、日本人が誇りと自信を持つことは、きわめて不都合なのです。

    私は(私などの一人称はねずブロ全編を通じて滅多に使いませんが)、他人から支配されることが嫌いです。
    上司と部下のような関係は、社会秩序の維持という意味で、もちろんその必要は認めますが、それさえも、社会における単なる役割分担であって、人間としての差異を決めるものではないと考えます。
    一寸の虫にも五分の魂です。
    まして人間、魂があるのです。

    だから、人は、いかなる場合においても、人として対等です。
    その対等な人々が、それぞれのポジションで、それぞれの役割に応じて仕事をするのが社会です。
    役職があるから偉いのではない。
    むしろ、役職など持たされたら、しんどいの意味で「えらい」。
    そういうものだと思っています。
    ですから、支配されることには、全力で抵抗します。
    これは、子供の頃から、ずっとそうです。性格だから仕方がない(笑)

    間違いなく、日本には、漢字渡来以前から文字がありました。
    そしてその文字は、世界最古の体系化された文字であり、現代でも日本人はその文字をカタカナとして日常的に使い続けているのです。
    これが論理的な帰結としての、事実です。

    ※記号としての文字らしいものならば、ヨーロッパのラスコーの壁画にも、□やハート型などの記号があり、それらは3万年前のものであるという説が、カナダ・ビクトリア大学人類学博士課程在学中の研究者のボン・ペッツィンガー,ジェネビーブさんの著書『最古の文字なのか?氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く』によって提唱されました。
    しかし、それらは32の体系化された記号ではなく、ヨーロッパ全体の350カ所以上の洞窟にある記号を合計すると32種類になる、というものです。体系化された文字としては、7千年前のシュメール文字が最初となります。
    これに対し、我が国の神代文字は1万5千年前のものが現存しており、しかもその文字は体系化されています。
    その意味で、我が国の神代文字を「世界最古の文字」と書いています。


    ※この記事は2018年1月の記事のリニューアルです。
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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

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