• 武人の栄誉 義烈空挺隊


    ◇◇◇告知◇◇◇
    1月30日に予定していた倭塾は、講演が入ってしまったため開催中止です。
    (Facebookのイベントページは削除したのですが、画面が出てしまうようですが、中止です)
    次回倭塾は、2月23日になります。


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     世界中、どこの国でも、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰しています。「自由の国」米国でも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えています。硫黄島で戦った兵士たちのことも、銅像にして讃えています。硫黄島は、米国領ではありません。自国領でなくても、外国との戦いに勇敢に挑んだ軍人は、国の誇りであり名誉であり、なにものにも替えがたい名誉だからです。

     国防だけではありません。

     永世中立国スイスでは、フランスのルイ王朝を守って戦い死んでいったスイス傭兵たちの武勲を、ライオン像に託して残し、讃えています。戦って生きても、戦って死んでも、その栄誉を語り継ぐのが、世界の常識です。けれど日本だけがそれをしていません。その結果、子供たちは自分の国を誇ることを知らず、その子供が長じて、国軍の長であることさえもわきまえず、世界に恥をさらす政治家に育ったりしています。

    奥山道郎義烈空挺隊大尉
    奥山道郎陸軍大尉



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    沖縄戦は、昭和20年3月26日から6月23日まで、約3ヶ月続いた戦いです。

    このとき米海軍が戦艦から沖縄本土めがけて撃ち込んだ艦砲射撃の砲弾は、ただ爆発するだけでなく、火薬の中に無数の鉄片が仕込んでありました。

    このため爆弾の炸裂や爆風による被害だけでなく、幼子を背負って逃げるご婦人の背後で砲弾が炸裂すし、飛散した鉄片がその子の肉を切り裂き、必死で丘を越えてようやく逃げおおせた若い母親が背中を見ると、我が子の首がなかった、そんな光景が日々繰り返されました。

    昼夜を問わない米艦隊によるこの砲撃は「鉄の暴風」といわれました。
    6月だけで、撃った砲弾や銃弾は680万発です。
    当時、本島南部にいた人の数を考えると,1人あたり約50発です。

    下の写真は、砲撃で蜂の巣のようになった、当時の沖縄の写真です。

    砲撃で蜂の巣のようになった沖縄
    砲撃で蜂の巣のようになった沖縄-1


    写真にみえる水たまりのようなもの、それが砲弾の跡です。
    写真の上の方は林だったのでしょう。それが丸焼けになっているのがわかろうかと思います。
    地上にいる日本の軍人たちは、このような状況の中を戦い、また沖縄の民間人の人々は避難していたのです。

    このような、まるで嵐のような艦砲射撃が終日繰り返され続けた沖縄ですが、その地上への砲撃がピタリと止む瞬間がありました。
    上空に、日本の飛行機が飛来したときです。
    そうです。特攻機です。

    特攻機がやってくると、米艦隊の砲火は地上への砲火ではなく、対空砲火一色に切り替わるからです。
    その間に、地上にいる人々は、急いで防空壕を出て、さらに奥地へと逃げました。
    そのときだけは、艦砲射撃を気にすることなく逃げることができたからです。

    ですから沖縄の人たちは、特攻機が飛んでくると、逃げながら、走りながら、胸の中で上空のパイロットに手を合わせたといいます。
    飛行機に乗っているのは、自分たちよりはるかに年下のまだ十代の若い兵隊さんです。
    その兵隊さんが、ほんの数機、ほんの数名で、海を埋め尽くす米艦隊に挑んでくれている。
    絶対に生きて帰れる見込みがないのに、それでも立ち向かっていってくれている。

    その若い兵隊さんのおかげで、自分たちは逃げれる。
    それはいってみれば、子に戦わせて親が逃げる、そんな気持ちだったかもしれません。

    沖縄戦について、様々な評価があります。
    けれどひとつはっきりしているのは、日本は沖縄での猛烈な市街戦に、手をこまねいていたわけでは決してなかった、ということです。
    すでに制空権制海権を奪われていた中で、それでも日本は沖縄を救うため、必死の防衛戦を挑んでいました。

    沖縄戦が始まった十日後には、戦艦大和が出撃しました。
    帰りの燃料のない、片道切符です。
    その大和には、沖縄の女性たちに届けるための10万個の生理帯も乗っていたといいます。

    特攻機も連日出撃しました。
    戦闘機に爆弾をくくりつけて出撃したもの、重爆撃で特攻したもの、飛行練習用の複葉機で出撃したものなど様々です。

    海上からも、小さなモーターボートに爆弾を装着した攻撃邸による特攻、さらには地上戦そのものでも、自分の体に爆弾を括り付けて、敵の戦車に体当たり突撃するといった、まさに命を的とした戦いが繰り広げられました。
    そのことごとくが、沖縄を、そして祖国を守るための行動だったのです。

    そして、こうした攻撃の中に、空挺隊による米軍基地への強襲攻撃も行われました。

    空挺隊というのは、敵の真っただ中にいきなり降り立って、敵基地を破壊する任務を帯びた部隊です。
    遮蔽物のない敵の飛行場のど真ん中に飛びこむのです。生きて帰れる可能性は皆無です。

    空挺隊の乗る飛行機は、速度の遅い爆撃機です。
    敵の猛烈な弾幕の中を、無事、敵基地のど真ん中に降り立てる保証はありません。
    途中で、飛行機もろとも撃墜され、搭乗している空挺隊員が海の藻屑と消える可能性さえ否定できません。

    その空挺隊には、136名の志願兵がいました。
    編成されたのは、昭和19年の終わり頃です。

    義烈空挺隊奥山隊
    義烈空挺隊奥山隊


    空挺隊は、当初はサイパンを目標に猛訓練を繰り返していました。
    けれど、突入前にサイパンが玉砕してしまう。
    次いで硫黄島に突撃しようと準備を進めるけれど、これも立ち消えになってしまいました。
    そして昭和20年5月、空挺隊は、沖縄作戦に出撃したのです。

    その空挺隊の名前は「義烈空挺隊」と名付けられました。
    出撃が決定した日、義烈空挺隊・隊長の奥山道郎大尉(死後昇進で大佐)は、次のような遺書を三角兵舎内の隊長室で書き残しています。

    ======
    遺書
    昭和二〇年五月二二日

    この度、義烈空挺隊長を拝命。御垣の守りとして敵航空基地に突入いたします。
    絶好の死に場所を得た私は、日本一の幸福者であります。只々感謝感激の外ありません。
    幼年学校入校以来12年諸上司の御訓戒も今日のためのように思われます。
    必成以って御恩の万分の一に報わる覚悟であります。
    拝顔お別れ出来ませんでしたが、道郎は喜び勇んで征きます。
    二十有六年の親不孝を深くお詫びいたします。

    お母上様  道郎
    =======

    「幼年学校入校以来」とあります。
    陸軍幼年学校というのは、旧制中学一年または二年で就学する超難関校でした。
    全国から学業優秀、身体頑健な選りすぐりの少年が集められ、徹底した英才教育が行われた学校です。

    奥山隊長にとって、陸軍幼年学校出身であるというこは誇りだったし、愛する祖国を護る使命感は、まさに骨肉に沁み込んだものだったのです。

    奥山隊長は、学業優秀であることに加え、体力も人一倍優れ、運動神経も素晴らしかったそうです。
    西郷さんを思わせるような堂々たる風采です。誰とでも明るく気軽に話す闊達な性格で、部下たちの信望も厚い方だったそうです。

    昭和20年5月24日夕方、義烈空挺隊の136名は、熊本の「健軍飛行場」から12機の九七式重爆撃機に十一~二名ずつ分乗して飛び立ちました。

    途中、4機がエンジントラブルで基地に引き返し、残り8機のうちの6機が、米軍に占領された沖縄の読谷飛行場に、2機が嘉手納飛行場に突入しました。
    午後10時11分のことでした。

    読谷飛行場では、基地上空に突入した6機のうち5機が、激しい対空砲火によって撃墜されています。
    そして残る一機が、滑走路に胴体着陸を強行しました。

    パイロットは着陸と同時に戦死されたそうです。
    飛行中に対空砲を浴び、半壊状態になっていた飛行機を、自分も敵弾を受けて肉体の一部を吹き飛ばされながら、それでも最後の最後まで操縦桿を放さず、着陸成功とともに絶命したものとみられています。
    彼は機内で突っ伏した状態で死んでいる写真が残されています。

    米軍読谷飛行場に突入した義烈空挺隊の乗った陸軍97式重爆撃機
    義烈空挺隊03


    強行着陸した九七式重爆撃機の搭乗員は14名、空挺隊員は12名でした。
    彼らは、群がる敵兵に応戦する傍ら、駐機中の敵航空機33機を破壊損壊させ、米兵20名を死傷させ、さらに飛行場にあった航空燃料用7万ガロンを炎上させ、さらには約8時間に渡って、飛行場を完全に機能停止に陥らせました。

    その武功たるや、まさに凄まじいの一語に尽きます。
    そして約2時間の戦いで、重傷で意識を失っていた一名を除き、全員が戦死されました。

    空挺隊のメンバーは、出撃前、それぞれの隊員たちが乗る搭乗機の前で、ひとりひとりが、自分の故郷のある方角に向かって、深々と頭を下げています。
    それは、自分を育ててくれた故郷への感謝であり、またその故郷を守るためという決意でもあったことでしょう。

    出撃前に故郷に礼をする空挺隊員たち
    出撃前に故郷に礼をする隊員たち


    彼らは出撃前に、血の出るような猛訓練を重ねています。
    訓練して、訓練して、それでも足らずにまだ訓練して、そうして136名が12機に分乗して出撃しました。
    けれど飛行機は、その途中で7機が墜落し、4機がエンジン不調で帰投、突入できたのは、わずか1機です。

    訓練を重ねても、途中で飛行機そのものが撃墜され、敵陣に突入さえできないままに死を迎えることもある。
    そのことを知っていながら、彼らは猛特訓を重ね、出撃していきました。

    そして最後の最後まであきらめず、ようやくパイロットを含めた14名が米軍に占領された敵基地に突入し、およそ2時間の壮絶な戦いの上、基地を使用不能に破壊して、全員が討ち死にしました。

    彼らは、なんのために戦ったのでしょう。
    私は、沖縄戦の是非論を議論する気はありません。
    ただ、こうして必死に戦い、散って行かれた人たちがいた。その心を、その歴史を、私たちは同じ日本人として、決して忘れてはならないと思うのです。

    世界中、どこの国でも、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰しています。
    「自由の国」米国でも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えています。
    硫黄島で戦った兵士たちのことも、銅像にして讃えています。
    硫黄島は、米国領ではありません。
    自国領でなくても、外国との戦いに勇敢に挑んだ軍人は、国の誇りであり名誉であり、なにものにも替えがたい名誉だからです。

    国防だけではありません。
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    戦って生きても、戦って死んでも、その栄誉を語り継ぐのが、世界の常識です。

    けれど、日本だけがそれをしていません。
    その結果、子供たちは自分の国を誇ることを知らず、その子供が長じて、国軍の長であることさえもわきまえず、世界に恥をさらす政治家に育ったりしています。

    日本を取り戻す。
    そのために自分にできることを少しずつ積み重ねていく。
    毎日コツコツと、積み重ねていくそれが大事なのだと思います。


    お読みいただき、ありがとうございました。
    ※この記事は2018年の記事の再掲です。
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    一昔前までは、四十を過ぎたら自分の顔に責任を持てと言われました。
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    人の生き様や人生は、顔に出ます。
    もっとも最近は、一昔まえよりも栄養状態が良くなっていますので、だいたい今の年齢から15歳を引くと、昔の年代になるそうです。

    たとえば、
    いま55歳なら、昔の40歳くらい。
    いま75歳なら、昔の60歳くらい、という感じです。
    ということは、いまの35歳が、昔の20歳の青年?(笑)
    でも、なんとなく、納得できてしまう気もします。

    日々の心の持ち方は、やはり外面に出るものです。
    国も同じです。
    他所の国の悪口ばかりを言い、その国から技術を盗んで、お金持ちになった国もあります。
    そうした国では、反日であることが、まるで国是になっているわけですが、そういう実態が世に知られていないうちは、それなりの人気になるけれど、15年も経過すると、徐々に実情がバレてきます。
    さらにその国の人々の心の歪みが、顔の歪みにもなってしまいます。
    だから整形手術が大流行して、無理やりイケメンや美女を人造で作るのですが、それも歳をとると、だんだん崩れてくる。

    若い頃、先輩から、
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    その母の姿が、20年後、30年後の相手の女性の姿だから、というわけです。
    男も同じです。
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    ただ、日々を精進して、自分なりに一生懸命に生きようとするとき、同じ生きるなら、つながりを大切にし、一隅を照らすような生き方をしていきたいと思っています。

    ちなみに日本語にはもともと「愛(=LOVE)」という概念がありません。
    「愛」という漢字はあって、もちろん愛別離苦(あいべつりく)とか、敬天愛人などといった「愛」を含む熟語は昔から存在していますから、仏教とともに「愛」という概念が渡来したのでしょうけれど、その「愛」も、渡来当時は「おもふ」と読むのがならわしです。

    つまり日本人にとっての愛は、「おもふ」ことです。
    英語のLOVEは、自分の内側といった意味合いがあります。
    基本が個人主義ですから、その個人である自分の内側にあるもの、それがLOVEだというわけです。
    自分自身そのものです。
    ですから、我が故郷を愛しているという英語は、私は故郷を自分の内側にある自分自身と一体のものと思っている、といった意味になります。

    これが悪しき方向に発展したものが、同じLOVEでも、自己の欲望のままに、といいったニュアンスです。
    近年のハリウッド映画では、愛をもっと広義な人類愛的なものとして理解し主張するものが増えてきました。
    愛は決して欲望を満たすだけのものではなく、普遍的な思いやりの心のことである、といった意味あいに使われるようになってきたわけです。
    これは日本文化の影響といえるかもしれません。

    その愛が、競争して奪うことから、対象となるものへの思いやりや、「おもふ」ことに昇華すると、世界は変わります。
    このとき、重要な役割を担うのが、万年の単位で続く日本の文化です。


    お読みいただき、ありがとうございました。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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