• 武術の始まり 建御雷神


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    武術は、一朝一夕に成立するものではありません。何百年、何千年と伝承されていく中で、何人もの天才的武術家が、師匠に教えられた武術にさらに工夫を重ね、それが絶えることなく伝承され続けなければ、成立しえないものです。建御雷神の武術神話が、どれだけ古い昔のものかは、大国主神ゆかりの出雲大社の創建が、いつなのかわからないほど、古い昔であったということ以外はわかりません。それだけ古くから、伝承され、工夫され続けてきた日本古来の武術を、私達がこれからの時代にも、大切に守り抜いていかなければならないと思います。

    神谷宗幣『紙芝居 古事記』
    20220331 建御雷神
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    タケミカヅチノカミは、古事記では「建御雷神」、日本書紀では「武甕槌神」と書かれます。
    葦原の中つ国、つまり地上の国を大いなる国に育てあげた大国主神に、
    「天照大御神(あまてらすおほみかみ)、
     高木神(たかぎのかみ)の命(みこと)以(も)ちて
     問(と)ひに使之(つか)はせり。
     汝(いまし)の宇志波祁流(うしはける)
     この葦原中国(あしはらのなかつくに)は、
     我(わ)が御子(みこ)の所知(し)らす国(くに)と
     言依(ことよ)さし賜(たま)ひき。
     故(ゆゑ)に汝(いまし)の心(こころ)は奈何(いかに)」
    と国譲りを迫った神様です。

     古事記では、このとき建御雷神は、
    「十掬剣(とつかのつるぎ)を抜き放ち、
     その剣を逆さまに波の上に刺し立てると、
     その剣の切っ先の上に大胡座(おおあぐら)をかいて
     大国主神に問い迫った」
    と記述しています。

     日本書紀は少しだけ違っていて、
    「十握剣(とつかのつるぎ)を抜きはなち、
     その剣を地面にさかさまに植えるかのように突き立てて、
     その切っ先の上に堂々と座る」
    と書いています。

    古事記は「海の波の上」、日本書紀は「地面」に剣を突き立てたとしているのですが、両者とも、その切っ先の上に大胡座をかいて座ったというところは一致しています。

    神々の技(わざ)ですから、もちろん本当に剣の切っ先の上に座られたのかもしれません。
    ですが普通には、現実的に、そのようなことは奇術でもなければ、まずありえないことです。
    そんなことは、記紀が書かれた古代においても、誰もがわかることです。
    ということは、これは、別な何かを象徴した記述であるということです。

    大国主神の側は、大軍を擁する大いなる国です。
    そこへ乗り込んだ建御雷神は、いきなり国王であった大国主神に直談判をしています。
    もちろん高天原からの使いですから、直接国王に面会が可能であったとしても、それでも「剣の切っ先の上に大胡座(おおあぐら)」というのは、ありえない描写です。

    この点について、日本書紀は、経津主神(ふつぬしのかみ)と、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の系譜を先に述べています。

     ▼経津主神(ふつぬしのかみ)の系譜
    【祖父】磐裂根裂神(いはさくねさくのかみ)
    【父母】磐筒男(いわつつを)、磐筒女(いはつつめ)
    【本人】経津主神(ふつぬしのかみ)

    ▼武甕槌神(たけみかづちのかみ)の系譜
    【曾祖父】稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)
    【祖父】 甕速日神(みかはやひのかみ)、
    【父】  熯速日神(ひのはやひのかみ)
    【本人】 武甕槌神(たけみかづちのかみ)

    ここで祖父や父として書かれている神々は、古事記では、いずれも火の神が生まれることでイザナミが亡くなったときに、夫のイザナギが子の火の神を斬り、このときに飛び散った血から生まれた神として登場している神々です。
    古事記は、親子というよりも兄弟の神であるかのような記述になっているのですが、日本書紀では親子関係です。

    上に登場する神々は、いずれも剣に関係する神々です。
    磐裂根裂神(いはさくねさくのかみ)は、岩さえも根っこから斬り裂くという御神刀を意味する御神名です。
    子の磐筒男(いわつつを)、磐筒女(いはつつめ)は、それだけ鋭利な剛剣を筒に入れる、すなわち鞘(さや)に収めている状態を示します。
    そこから生まれた経津主神(ふつぬしのかみ)は、日本書紀に登場する神(古事記には登場しない)ですが、後に香取(かとり)神宮(千葉県香取市)の御祭神となる神様です。
    別名を、香取神、香取大明神、香取さまといいます。

     一方、武甕槌神(たけみかづちのかみ)は鹿島神宮の御祭神です。
    香取神宮と鹿島神宮は、利根川を挟んで相対するように位置しています。
    そしてこの両神は、我が国の古来の武神です。
    流派はそれぞれ鹿島神流、香取神道流といいます。
    いずれも我が国武術の正統な系譜であり、とりわけ香取神道流は、現存する我が国最古の武術流儀といわれています。
    いずれも最低でも二千年、もしかしたら数千年もしくは万年の単位の歴史を持つ武術流儀です。

    二千年前なら弥生時代、数千年前なら縄文時代の中期です。
    縄文時代には、人を殺める文化がなかったのですが、それでも集団においては正義が行われなくてはなりません。
    最近の研究では、縄文時代中期には青銅器、弥生時代には、すでに鉄器が使われていたことがわかっていますから、そうした古い時代から、なんらかの刀剣類が用いられていた可能性は否定できません。

    武術というのは、普通なら、体躯が大きくて力の強い者が有利です。
    早い話、どんなに強くても、武術を知らない大人と小学生では、大人が勝ちます。
    当然のことながら、小柄な小学生が、力の強くて大きな大人に勝つためには、なんらかの工夫がいります。
    こうして武術が工夫されます。

    その工夫は、一朝一夕に完成するものではありません。
    天才的技能を持った人が現れ、その技能が伝承され、さらに世代を重ねるごとに技術が工夫され、それが何百年、何千年と蓄積されることで、信じられないような武術になっていきます。

    残念ながら、海外の諸国には、そうした武術の伝承がありません。
    世界中どこの国にも、その歴史において偉大な武術家は何人も現れたことでしょう。伝承も工夫もされたことでしょう。
    けれど、それらは長くても数百年のうちにすべて滅んでいます。
    なぜなら国が滅び、その都度、皆殺しが行われているからです。
    とりわけ強い武術流派は、新政権にとっては恐怖そのものですから、皆殺しどころか、その一族全員が殺されています。
    つまりこの世から消滅しているわけです。

    チャイナがそうですし、西欧でも同じです。
    米国には「マーシャルアーツ(martial arts)」と呼ばれる軍隊格闘技がありますが、マーシャル・アーツという言葉は、実は日本語の「武芸」を英訳した言葉です。文字通り「武の」(martial)「芸」(arts)です。

    ところが日本の武術は、何千年もの昔から工夫され、伝承されてきた武術が、いずれも途切れることなく、世代を越えて磨かれ、工夫されてきた歴史を持ちます。
    とりわけ歴史の中には、何人もの天才としか言いようのない武術家が現れ、技術がさらに工夫されました。
    また武者修行といって、一定の練達者が、遠く離れた他流派の道場に学びの旅をして技術交換をして、さらに技能を高めるといったこともさかんに行われました。

    こうして数百年、数千年と磨かれ続けてきたのが、実は日本の古来の武術です。
    よく中国武術を古いものと勘違いしておいでの方がいますが、中国武術もまた、実は日本の武術が大陸に渡って成立したものだという意見があります。筆者はむしろそれが正しいのではと思っています。

    それにしても、たった二人で、大軍を要する大国主神に直談判するというのは、これは大変なことです。
    もちろん中つ国は敵地ではありませんが、それでも何十、何百という軍勢を前にしての談判ですから、そこで圧倒的な武術が示されたのでしょう。
    このことが、「切っ先の上に大胡座をかいて座った」という描写に集約されているのではないかと思います。

    さらにその後に行われた建御雷神と、大国主神の子の建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いの描写は、我が国古来の武術の姿を垣間見せるものになっています。

    相手となる建御名方神は、千人が引いてやっと動くような大きな岩をひょいと持ってやってたとあります。これは建御名方神が、相当な力持ちであったことを意味します。
    そして、
    「ワシの国に来て、こっそり話をするのは誰だ!」と問い、「ワシと力比べをしようではないか」と申し出ると、「まずはワシが先にお主の腕を掴んでみよう」と、建御雷神の手を取る。
    すると建御雷神の手が、一瞬にして氷柱のような剣に変わり、建御名方神が恐れをなして引き下がったとあります。

    今度は建御雷神が、
    「お前の手を取ろう」と提案して手をとると、その瞬間、建御名方神は、まるで葦の束でも放り投げるかのように、飛ばされてしまいます。
    飛ばされた建御名方神が逃げると、それを遠く諏訪まで追って行って降参させています。

    古事記のこの描写は、「これが我が国の相撲(すもう)のはじまり」と言われますが、力と技のぶつかりあいである相撲よりも、これもまた日本の古武術をそのまま紹介しているものであるようにも読むことができます。

    なぜなら、日本の古武術では、相手に触れられれば、触れられた場所がそのまま凶器のようになり、また、相手に触れれば、その触れた部位を、そのまま相手の急所のようにしてしまいます。
    アニメの「北斗の拳」では、「経絡秘孔をピンポイントで突く」といった描写がなされていますが、それはアニメやマンガのなかでの話です。
    実践で動く相手を対象に、ピンポイントでツボを突くというのは、現実にはよほどの練達者でも難しいものです。
    ですから日本の古武術では、相手に触れたその場所を秘孔にしてしまいます。
    また、相手に触れられれば、その瞬間に触れられたところを凶器に変えてしまいます。
    そして、気がつけば、遠くに投げ飛ばされてしまいます。

    これは、実際に体験した人でなければなかなかわからないことかもしれませんが、実際に、腕が、手が、鋭利な剣となり、また相手をまるで紙人形でも倒すかのように、投げ飛ばしてしまうのです。

    記紀が書かれたのは、いまから1300年前です。
    建御雷神の戦いは、まるで魔法のような武術によって建御雷神が勝利した物語ですが、古事記が書かれた1300年前には、すでにこうした、まるで魔法のような武術が実際に存在していたことを示しています。
    そしてその武術は、現代もなお、実在しています。

    ひとつ経験談(体験談)をお話します。
    それはある古流の武術家の先生の道場を訪問したときのことです。
    先生から抜身の真剣を渡され、「この刀で私に打ちかかって来なさい」というのです。

    いくらなんでも真剣ではこちらが怖いので、「では木刀で」ということになったのですが、全力で大上段から先生に面打ちを仕掛けて来いというのです。
    これは恐ろしいことです。
    下手をすれば先生に大怪我をさせかねない。
    だから遠慮したのですが、
    「構わないから全力で打ちかかってきなさい」と、こうおっしゃる。

    そこまで言われるなら、相手は先生なのだしと腹を決めて、言われた通りに全力で上段から先生に面を打ち込むことになりました。
    先生は防具すら付けていません。
    手に木刀も持っていません。
    つまり何も持っていません。
    だから真剣白刃取りのようなことをするのかな、と思いながら、面を打ち込みました。

    自慢するわけではありませんが、私も(学生時代のことですが)多少の心得はあります。
    面打ちの速さには、多少の自信もあります。
    そこで(本当は怖かったけれど)丸腰の先生に向かい、すり足で距離を詰めながら「エイッ」と木刀を振り下ろそうとしました。

    ところがその瞬間、筆者は凍りついてしまいました。
    先生が腰をすこしかがめて、手刀を突き出したのです。
    それは、ただ手刀を、顔の少し前に突き出しただけです。
    手刀は確実に私の喉元をうかがっていました。

    その結果何が起こったのかというと、振り下ろそうとした私の木刀が停まりました。
    そして身動きがつかなくなりました。
    どうしてよいかわからず、そのまま固まってしまったのです。
    その固まった私から、先生は悠々と木刀を取り上げました。
    気がつけば木刀を打ち込もうとした私は、刀を振り下ろそうとした姿勢のまま、ただ木偶の坊のように突っ立っているだけとなっていました。
    その姿勢のまま木刀を取り上げられ、その姿勢のまま固まっていました。
    この間、ほんの一瞬のことです。
    そしてこれが日本古来の武術の凄みだと理解しました。

    何が起こったのかは、いまだによくわかりません。
    ひとつの理解は、肉体を使って木刀を振り下ろそうとした私は、霊(ひ)を抜かれてしまったのかもしれないということです。
    人は霊(ひ)の乗り物です。
    霊(ひ)を抜かれると、肉体の動きは停止してしまいます。
    そして肉体が停止しているから、先生は悠々と、固まっている私から木刀を奪い取った。
    その間、私の肉体は、ただ固まっているだけった・・・・と、そういうことかもしれません。

    これは筆者が実際に体験したことですが、そこには、スポーツ化した現代武道とはまったく異なる、日本古来の伝統的武術がありました。
    そしてその武術は、こうして経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)にまで遡る、武道の古流の心技体の技術の上に成り立ちます。
    そしてそれは、いわゆる世界の格闘技とは、まったく一線を画する凄みのある世界です。


    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。

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  • 超空の要塞を倒せ!B29と戦った男たちの物語


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    朝鮮戦争であっという間にB29が引退した事実を考えると、もしあと半年大東亜戦争が長引いていたら、あの日本の空襲に猛威を振るったB29も、もっと早くに空に浮かぶただの紙風船になっていたかもしれません。

    B29
    20220327 B29
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     B29は、20世紀最強の空の暴君と評された完全武装の超大型戦略爆撃機です。英語名が「Super fortress」で、これは直訳したら「超空の要塞」です。開発したのはボーイング社です。つまりB29は、今風にいえば「ボーイング29」で、最近就航して話題になった「737MAX10」の80年前の大先輩です。もっともB29の「B」は「Bommer(爆撃機)」を表す記号ですが。
     B29はたいへんな飛行機で、エンジンはターボ搭載の2,200馬力の巨大プロペラを4基搭載。実用上昇高度1万メートル(9,720m)、前後上下左右には12.7mmの機関銃を12門も搭載していて、さらに20mmの巨大機銃が一門備わっています。ですから戦闘機でB29に挑もうにも、全方位、死角がありません。どの方向から挑んでも、機銃ではたき落される。
     さらに飛行高度が高いため(たとえば零戦の上昇高度は6,000メートル)、当時の戦闘機では撃ち落とせない高高度で飛来し、超上空から、その巨体に積んだ爆弾や焼夷弾、ナパーム弾を地上にバラまきました。
     まさに、超空の要塞そのものの飛行機だったのです。

     B29は、大東亜戦争のさなかの昭和17(1942)年9月に就航し、昭和19年後半からは、本格的に実戦配備されました。そして日本本土に飛来し、日本中の大都市を焼土にしました。
     昭和19(1944)年11月以降に行われた東京大空襲では、B29が東京上空にやってきた回数は、なんと106回、一回の空襲でやってくるB29は、100機から500機でした。
     日本は、特別に開発した高射砲や、果敢な特攻作戦でこれに挑むけれど、多勢に無勢であることに加え、高度の問題もある。性能を常識で考えれば、当時の日本の戦力で、B29など落せるはずはありません。ところが日本は、このB29に果敢に挑み、714機を撃墜し、1588機に損傷を与えています。まさに執念の戦いであったのです。
     ちなみに、米軍は、日本本土に出撃するB29の乗組員達に対して、「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の一般市民の捕虜に対する取り扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」と訓示していました。このことは、実に重要な事柄です。日頃「日本人は猿だ、獣だ、野蛮人だ」と戦意を煽っていた米国が、実は、現場においては日本人が戦いの場においても、また民間人ベースにおいてさえ、常に人道的行動をする民族であるということを、米軍の作戦本部は「ちゃんんと知っていた」ということだからです。

     さて、20世紀最強の暴君と呼ばれたB29ですが、そんなにすごい戦略爆撃機ならば、相当長期間運用されるのが普通です。たとえば、爆撃機ではないけれど、みなさんよくご存知のボーイング727なんて飛行機は、就航したのが昭和38(1963)年ですが、半世紀経った今でも、しっかりと現役飛行機として空を飛んでいます。意外と飛行機の現役就航期間は長いのです。
     にもかかわらず、みなさんご存知の通り、B29は、ある日を境に、こつ然とこの世から消えてしまっています。
     なぜでしょうか。
     実は、その答えが朝鮮戦争にあります。朝鮮戦争は大東亜戦争終戦から5年目の昭和25(1950)年6月25日から、昭和28(1953)年7月27日の休戦まで、約3年間朝鮮半島で繰り広げられた戦いです。この戦いは北朝鮮によるソウル攻略戦に始まり、韓国軍の一方的敗退によって、米軍が参戦。多国籍軍(連合軍)を編成して、中共軍、ソ連軍、北朝鮮軍と対峙し、最後は米軍が韓国の頭越しに休戦協定を締結することで終わった戦闘です。
     開戦当初、北朝鮮軍はまさに破竹の勢いで、米軍が緊急で派遣した一個師団さえまたたく間に粉砕し、ついには朝鮮半島南端の釜山まで、韓国および連合国軍を追いつめています。
     なにせ北朝鮮軍は、ソ連製の最強戦車であるT型戦車を前面に押し立てていたのです。この戦車は装甲が厚く、鉄砲や機関銃、果てはバズーカ砲にいたるまで、まるで歯がたちません。まさに鉄鋼戦隊そのもので、戦いは一方的に北朝鮮有利にすすめられたのです。
     これを逆転させたのが、釜山の戦いで、T型戦車をことごとく打ち破ったのが韓国軍の金錫源将軍です。彼は日本の陸軍士官学校を卒業して、日本陸軍の将官だった人です。韓国軍が敗退を重ねて、ついに釜山市ひとつを残すのみで、あとは海に追い落とされるだけという情況にまで追い詰められたとき、韓国政府は、はじめて旧日本軍関係者の韓国人を招集したのです。このとき金錫源将軍は、旧日本陸軍出身者で部隊を編成すると、敗退とみせかけて北朝鮮の戦車隊を海岸線におびき出し、そこを米艦隊によって砲撃させることで、北の戦車隊を全滅させました。バズーカ砲では歯がたたない地上の暴君T型戦車も、戦艦の巨大な主砲の前には、まるで紙だったのです。
     この釜山の戦いで勝機をつかんだ韓国および連合軍は、いっきに戦線を取り返し、ついには朝鮮半島の北端に位置する平壌まで攻め上がりました。このときに大活躍したのが、B29だったのです。
     海岸線におびき出せば、さしものソ連製戦車も、艦砲射撃の前では塵にしかなりませんが、戦車が内陸部に深く入り込まれたら、艦砲射撃は届かない。つまり相変わらずソ連製戦車の独り舞台だったわけです。これに対抗する方法として投下されたのが、B29で、B29は地上爆撃用の爆弾だけでなく、ナパーム弾を搭載し、空からT型戦車のいる一帯を、丸焼けにしたのです。いくら戦車が強いといっても、鉄のかたまりです。紅蓮の炎の前に、戦車のなかにいる人間が焼き鳥になってしまったのです。
     こうして米国が投入したB29によって、一説によればナパーム弾を含む60万トンもの爆弾が北朝鮮に投下されています。大東亜戦争で米軍が日本に投下した爆弾が、全部で16万トンですから、それがいかにすさまじいものであったかわかります。この米軍の空からの攻撃で、北朝鮮ではおよそ230万人の民間人が死傷しています。
     こうした米軍の爆撃に、慌てたのが北朝鮮の金日成です。彼は、なんとかしてくれ、とソ連のスターリンに泣きつきました。そこでスターリンが、B29対策用にに導入したのが、ソ連製のジェット戦闘機「ミグ15」です。

     ミグ15は、最大速度が時速1,076km/hです。つまりB29のおよそ二倍の速力があります。そして実用上昇高度は1万5千メートルで、B29よりも5千メートルも高いところを飛ぶことができました。武装は強力な37mm機関砲です。要するにB29よりも、1.5倍も高高度を飛ぶことができ、B29の倍の速度で飛行し、さらに強力な砲門を備えていたわけです。
     ソ連から持ち込まれたミグ戦闘機の前に、世界最強の空の暴君とされたB29は、一瞬にして空に浮かぶ巨大な的になりました。図体がでかい分、マトがでかいのです。しかも飛行速度が遅く、ミグからみたら低空しか飛べない。
     ミグ戦闘機によって、集団で飛来するB29の爆撃隊は、ただの紙になりました。あまりにも次々と簡単に撃墜される。超上空から攻撃してくるミグの砲火から逃れようと、B29が飛行高度を落とせば、地上からは高射砲の餌食です。
     この様子を見ていた金日成は狂喜したといいます。空から降って来る恐怖の大魔王が、まるで紙くずのように撃ち落とされるのです。気持ちはわかる気がします。

     あまりにミグがつよいことから、金日成は、ソ連に頼み込んで、ミグ戦闘機を大量に北朝鮮に仕入れます。そしてこんどは自分たちの手で、米空軍をやっつけようとしました。B29をたたき落とすだけでなく、今度は奪われた朝鮮半島の制空権を自分たちのものに取り返そうとしたのです。
    一方米国は、B29があまりに簡単に撃墜されることから、ついに昭和26年には、B29を第一線から完全に退かせます。そして制空権を取り返すために、同じくジェット戦闘機であるF-86Aセイバーを朝鮮半島に差し向けます。

     こうして世界ではじめて、ジェット戦闘機同士のドッグファイトが行われたのが、朝鮮半島の上空でした。戦績は、4対1で米軍のジェット戦闘機の圧勝だったとされています。こう書くと、なんだか米国製セイバーの方が圧倒的に性能が優れているように見えますが、実はそうでもありません。ジェット戦闘機としての実力は、米ソとも、さほど違いはありませんでした。違いがあったのはパイロットです。
     ソ連軍のパイロットがミグを操っているときには、ミグの被害はほぼゼロでした。けれど米軍がセイバーを投下する昭和27年頃になると、北朝鮮兵士が操縦するミグが朝鮮半島の空を飛ぶようになっていたのです。きわめて簡単な理屈ですが、ジェット戦闘機は地上からの弾の届かない超高空を飛ぶから、墜とされないのです。ところが何を血迷ったか、北朝鮮兵の乗るミグは、米軍のセイバーが現れると、低空に逃れようとしました。低空に来れば、これまたあたりまえのことですが、地上からの高射砲の餌食になります。
     こうして、戦闘機はジェットの時代を迎えました。
     ちなみにジェットエンジンというのは、ものすごく簡単にいうと、プロペラ式エンジンの発達したものです。プロペラ式エンジンは、羽根(プロペラ)を回して、前方にある空気を後方に送り出すことで推進力を得ます。この「プロペラの回転によって後方に送り出される空気」を、狭い穴から思い切り吹き出させたものがジェット気流で、その狭い穴から吹き出す空気の力で、推進力を得ようというのが、要するにジェットエンジンです。ジェットエンジンは、プロペラ機よりも強力な推進力を得ることができますから、当然、これを搭載した飛行機の機体も、より頑丈になものにしなければなりませんし、スピードが早くなった分、機体や翼の形状も変化させなければなりません。
     こうして開発され、実戦配備されたジェット戦闘機が、上にご紹介したミグや、セイバーなのですが、このミグが初飛行したのが、昭和22(1947)年12月30日、セイバーが初飛行したのが、同じく昭和22年10月1日のことです。
     ところが日本では、これに先駆けること二年も前の昭和20(1945)年8月7日、ジェット戦闘機が大空を舞っていました。昭和20年8月7日といえば、その7日後が終戦の日です。つまり終戦の直前に、ジェット戦闘機が日本の空を舞っているのです。
     飛行機の名前を「橘花(きっか)」といいます。エンジンを開発したのは石川島重工業で、機体を開発したのは中島飛行機(いまの富士重工)です。
     「橘花」は、ドイツのメッサーシュミットMe262を参考に作られたジェット機で、8月7日の試験飛行と同時並行で10機が生産体制にはいっていて、さらに続々と量産される予定となっていました。搭乗員としては、予科練甲飛14期生100名と16期生の200名がすでに事前訓練にはいっていました。
     もっともこう書くと「そんなこと言ったって、すでに当時の日本には、飛行機を飛ばすための燃料がなかったではないか」という声も聞こえてきそうです。実はこれも対策が進められていて、なんと赤松や黒松などの松の木から採取する「松根油」を用いた燃料が当時の日本で開発されていました。松根油については、戦後に書かれた資料などをみると、なにやら必死で「役に立たないシロモノだった」と否定してますが、これも実は硫化モリブデンを触媒としてオクタン価を高める技術が当時すでに開発されていて、実際に松の木から採れる油で飛行機を飛ばせる状況になっていたのです。ということは、朝鮮戦争であっという間にB29が引退した事実を考えると、もしあと半年大東亜戦争が長引いていたら、あの日本の空襲に猛威を振るったB29も、もっと早くに空に浮かぶただの紙風船になっていたかもしれません。
     それにしても日本って、とてつもない国ですね。


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    洪思翊陸軍中将
    20220327洪思翊
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E6%80%9D%E7%BF%8A
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     帝国陸軍の中将というのは、並みの努力でなれる役職ではありません。陸軍士官学校をとびきり優秀な成績で卒業し、限りない軍功を立て、人物、識見ともに誰からも尊敬を集めるだけのものがなければ、なれる役職ではない。単なる年功序列でなれるような甘い役職ではないのです。そしてその中将となられた方に、洪思翊(こうしよく)という人がいます。朝鮮半島の出身者です。

     洪思翊中将は、李王家の縁戚でも、かつての朝鮮貴族であるヤンバンの出身でもありません。朝鮮半島の極貧の家庭に生まれ、努力して体力、知力とも優秀な成績を修め、当時の日本の陸軍士官学校を優秀な成績で卒業した人です。彼は軍人として、古今の戦史、戦術に深く通じるだけでなく、四書五経から英語にまで精通し、相撲も武道も強い人でした。

     洪中将は、新しい部隊に赴任すると、居並ぶ日本兵の前での初訓示で、毎回、次のように語ったそうです。
    「自分は朝鮮人の洪思翊である。
     唯今より天皇陛下の御命令により指揮をとる。
     異義のあるものは申し出よ」
    実に堂々とした態度です。

    彼は、当時、多くの同国人から、
    「洪さん、あなたも日本人名に改名したらどうか」と勧められそうです。しかし頑として朝鮮名を名乗り通しました。彼にとって、それはあたりまえのことだったのです。自分が生を受けた自国の名を捨てるということは、自らの郷里や父祖を否定し捨てることになる。朝鮮人である自分は、日本人より遥かに立派に生きてみせる。それが誇りある男の態度というものです。

     彼がまだ大尉だったころ、彼の息子の洪国善が、近所の悪童から「チョーセン、チョーセン」とからかわれたのだそうです。どこにでも悪童はいるものです。そのとき洪思翊は息子に、大英帝国に虐げられても誇りを失わないアイルランド人の例をひき、
    「どんなときでも必ず『私は朝鮮人の洪国善です』とはっきり言いなさい。
     決して『朝鮮人の』を略してはいけない」と諭したそうです。

     洪中将は、終戦時、南方軍総司令部の兵站総監を勤めていました。そしてB級戦犯として、捕虜虐待の罪を着せられ、フィリピンで刑死されました。洪中将が捕虜を虐待したという事実はまったくありません。要するに単なる結論ありきの、戦勝国による復讐裁判です。しかしその茶番裁判に、洪中将は判決のあと、周りの人に笑って答えたそうです。「絞首合格だったよ」と。
     絞首の「こうしゅ」を、徴兵検査の「甲種合格」にかけたのです。そして平然として処刑台に向かわれました。

    辞世の句は、

     昔より 冤死せしもの あまたあり
     われもまたこれに 加わらんのみ

     当時の朝鮮人の中には、洪中将の他にも、日本人部隊を率いて抜群の武勲を立てて、軍人としての最高の名誉褒章である金鵄勲章を授与された金錫源陸軍大佐、陸軍士官学校を抜群の成績で卒業し、終戦時は満洲国軍の中尉となり、後に韓国大統領となった朴正熙、朝鮮出身者でありながら特攻兵に志願し、沖縄の空に散った金尚弼ら14人の航空隊員、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じ、同国の独立のために最後まで戦った梁七星、その他、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名など、多数の人たちがいます。

     昭和18年に行われた朝鮮志願兵の募集(それまで支那事変や大東亜戦争を戦いながら、日本は朝鮮半島での志願兵募集をしていません)には、6300人の募集枠に対し、なんと30万人以上の青年の応募が殺到しています。合格倍率は、なんと48倍です。血書による嘆願も、数百人にのぼり、採用されず、自殺までした青年も現れて、当時の朝鮮総督府を困らせました。

     大東亜戦争に、自ら進んで軍人、軍属として出征したKoreanの青年は合計24万人です。そのうち2万1000人余りが戦死し、いまも靖国神社に祀られています。東京裁判で、A級戦犯として禁錮20年の判決を受け、獄死した東郷茂徳外務大臣も朝鮮人です。

     人は成長することができる生き物です。同様に人種も国家も成長することができるものと思います。民族の誇りというものは、差別されたの強制連行されたの創氏改名を強要されたのと、ありもしないでっちあげで相手を非難したり中傷したりしたら生まれるというものではありません。立派に生きた先人たちに学び、自らも立派に生きようと努力するところに、本当の誇りが芽生え、育まれるのです。

     一部の方々は、筆者を差別主義者だとレッテルを貼って嫌います。
    筆者が、拒否しているのは、韓国や在日コリアン活動方針の反日活動です。
    それは、空想を宣伝し、自分たちを空想で正当化し、自分たちだけの利益を図ろうとし、人々の生活を奪う身勝手な行動だからです。
    まっとうに生きる個々の人ではありません。

     真面目に一生懸命生きようとしているすべての人が、「おほみたから」です。
    それぞれが本分をわきまえ、しっかりと生きていくところに、人にも国家にも幸福があります。
    したがって、これを自己の利益のために破壊する者は、人体のがん細胞と同じです。
    癌細胞は、好きも嫌いもなく、退治しなければなりません。
    けれど、がん細胞を拒否することと、人体そのものを拒否することとは、まったく別次元の問題です。

    洪思翊中将のように、民族として真の誇りがあるのなら、正々堂々と真実を受け入れ、嘘と虚構を排除することです。


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  • ビアク島戦記 渋谷惣作陸軍兵長


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     前線では、本当に苦しく生還の期しがたい戦いでしたし、銃後にあっても空爆によって何もかも焼き尽くされた戦いでした。ただでさえ争いを嫌う日本人です。それだけに戦後の日本人の一般的な気持ちとして、
    「二度と戦争はしたくない」という思いが、どこの国よりも強い。
     しかしその思いを悪用し、故意・悪意をもって日本人を弱化させてきた勢力が、国の内外にあり、近年ではそういう勢力が、日本人から富も安全も安心な生活も奪われることが常態的に起こっています。
     戦争なんて、誰だって嫌です。しかし、そこまで苦しい戦いを、それこそ必死の戦いを、なぜ多くの日本人が行ってきたのか。そのことを考えるとき、私たちは今一度、国のあり方について、果たしてこれまで通りの思考だけで良いものなのか、考え直してみなければならないのではないかと思わされるのです。

    20220327 ビアク島
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%A2%E3%82%AF%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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    3-5 【コラム】ビアク島戦記 渋谷惣作陸軍兵長

     ビアク島の戦いは、後に「北のアッツ、南のビアク」とも言われた壮絶な戦いです。
    アッツ島の戦いでは、日本側の戦死2,638名、生還27名、
    ビアク島の戦いでは、日本側の戦死12,347名、生還86名です。
     以前、東京新聞に次のような記事が出ました。

     ***
    【友思い涙「証人」の孤独】東京新聞 社会部 加古陽治 平成17年10月2日記事
    http://www2.tbb.t-com.ne.jp/shibuya/P_25_shinbun_kigi/shinbun_kigi.htm

     病院の廊下の奥で車椅子の老いた男は何度も泣いた。そのたびに顔がくしゃくしゃになった。昭和19(1944)年5月、米軍の上陸で激しい戦闘の舞台となったインドネシア・ビアク島。1万2千余の日本兵の命を呑み込んだ、この「死の島」から奇跡の生還を果たした元陸軍兵長、渋谷惣作(山形県遊佐町)にこの夏、会った。
     その体験を語る口調は訥々(とつとつ)としている。だが戦友の悲惨な死にふれるたびに、顔をゆがめて泣くのだった。

    「渋谷、水くみに行こう」
     昭和19年5月27日、歩兵第222連隊工兵中隊(盛岡編成)の一員としてビアク島に渡った渋谷は、夜明け前、戦友に誘われボスネック地区の洞窟(どうくつ)を出た。沖合に浮かぶヤーベン島が見えないほどの大艦隊が海を覆っていた。「どれが大和かな」、味方と思ったら、号砲が鳴った。
    「敵襲!」
    大声で叫び、洞窟に戻った。艦砲射撃が鎮まると米兵が大挙して上陸。午後になると洞窟の近くにきた。
    「ニッポンヘイタイいるか」
    なまりのある声で米軍の通訳が呼んだ。
    「はい、おります」
    ひとりがそう応じ、出て行こうとした。
    「やれ」
    すかさず小隊長が部下に命じ、仲間に帯剣で刺された兵士は絶命した。
     しばらくすると、洞窟にドラム缶が投げ込まれ、火を放たれた。中は真っ赤で・・・。とてもとても・・・。もうぜんぜん分からない。意識をなくして、倒れたところが川だった。それで息ができた」
     ゴーゴーと火が燃えさかる。しばらくして意識を取り戻した渋谷は叫んだ。
    「この川の水に顔つけれ。息継ぎが楽だぞ」
    いまも忘れない、おいしい水だった。
     水だけで過ごし、三日目に外に出た。
    野戦病院で一服し、大洞窟にある司令部に合流した。
     整備した滑走路は米軍の手に落ちていた。渋谷たちの任務は、それを使わせないための肉弾攻撃。歩兵も工兵もなく突撃させられ、そのたびに十人、二十人と死んで行った。
    「いよいよ、今日は俺の番だのって思うだけ・・・」

     七月にはいると、支隊長葛目直幸中将が自決し、島での組織的戦闘は終わった。それで渋谷らは死に場所を求めるように戦い続けた。同月末、工兵中隊の残存兵で米軍の車列に最後の攻撃を仕掛け、渋谷ら9人だけが生き残った。
     あとはただ生きるための戦いだった。トカゲやネズミがごちそうだった。人肉を食べた者すらいたという。屈強だった若者は、そこまで追いつめられていた。(※注:あとに引用しますが渋谷さん本人の手記には、この人肉食のことを明確に否定した文章があります。おそらくここは記者か編集部が筆を走らせたものだろうと思います)
     部隊はバラバラ。極限の飢餓状態。食料を盗もうと、三人で米軍施設に近づいたとき、地雷にやられた。ひとりはほぼ即死。同郷で親しかった一等兵の粕谷博も虫の息だった。
    「おれと一緒に帰るぞ」
    「うん」
    「おめえ、(遊佐町)藤崎のどの辺や」
    「学校から三軒目や」
    それが最後の会話になった。夢の中で二人の爪を噛み切り、軍票につつむ。戦友の死の証だった。
    気がつくと近くに白い子犬がいる。ついて行くと畑に出た。
     夢かうつつか、小さなトマトが鈴なりになっている。「博が助けてくれた」そう思い、夢中で食べた。
     昭和19(1944)年10月、渋谷は米軍の捕虜になり、命を永らえた。工兵中隊254人のうち、生き残ったのは3人だけだった。
     だが彼には戦後、新たな闘いが待っていた。あれだけ過酷な戦場に身を置いたのに、軍歴が少し足りないからと恩給ももらえない。あまりにも悲惨な体験談を、地元の人たちは疑いの目で見た。
     渋谷の脳裏には、いろり端の光景が刻まれている。
    「村の人が逃げて帰ってきたと後ろ指をさす」
    「戦友と一緒に死ねば良かった」
    「おれはビアクで何人も殺しているし、死ぬのは怖くない」
    何度もそんな場面が繰り返された。
    「いま思えば戦争後遺症だった」と家族はいう。
    「誰も信じてくれねえ」渋谷は戦場の記憶を封印した。家族と戦友だけが例外だった。

     今年(平成17年)7月、久しぶりに記憶の糸をたどってくれた渋谷は、最後に吐き捨てるようにつぶやいた。
    「もう戦争には行かない」
     約一ヶ月後の8月18日、21世紀までひとり人生を生き抜いた工兵中隊「最後の証人」は、83年の生涯を閉じた。戦友に61年遅れの死だった。
     ***

     ビアク(Biak)島は、インドネシア、パプア・ニューギニアの北西部に位置する小さな島です。大東亜戦争当時、日本はこの島に飛行場を建設しました。昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦に敗れた日本にとって、この島は絶対的国防圏保持のために阿南惟幾大将をして「航空母艦10隻に相当する」といわしめたほどの重要拠点でした。ビアク島に派遣されたのは、支那北部で転戦し、連戦連勝を挙げていた陸軍歩兵第222連隊(秘連隊長葛目直幸陸軍大佐)の3,815名を中心としたビアク支隊でした。海軍からも第28根拠地隊(司令官千田貞敏海軍少将)率いる約1,947名が派遣されました。陸海合わせて、12,433名の守備隊が派遣されたのです。けれどそのうち戦闘員は陸海合わせて4,500名だけでした。残りは飛行場の建設や、その他の作業集団でした。
     冒頭にご紹介した新聞記事の渋谷惣作(しぶやそうさく)さんは、陸軍の工兵隊員です。お生まれは大正11(1922)年、山形県遊佐町野沢のご出身です。
     氏は、15歳で大工の見習いに出られ、昭和17(1942)年12月、20歳で徴兵を受け、岩手県盛岡市の「北部第21部隊・盛岡工兵隊」に、250名の仲間たちとともに配属になりました。
     渋谷さんの回顧録には、当時を振り返って次の文章があります。
    「当時、徴兵期間は20歳から約2年間で、日本国男子として生を受けた者の義務として誰もがその任期を全うすることを当然と受け止め、誇りとしていた。兵役を終えて始めて一人前の男として認められるような風潮が、国民の間に定着していた。」当時の気分が伺えます。
     昭和18年12月25日、日本の1万2000名がビアク島に上陸しました。そして約4ヶ月をかけて島を整備し、飛行場を建設しました。渋谷さんの手記には、飛行場が完成した日のことが書かれています。
    「全部隊を完成したばかりの飛行場に集め、葛目部隊長から訓辞があった。『この編成を以て米英に当たるならば、米英ごときは一蹴である』と繰り返し爛々と輝く目で語った様子を今も脳裏に焼き付いている。第222連隊1万2千有余の将兵は、心ひとつになっていた」
     明るい南の島の太陽のもと、完成した飛行場を前に、葛目連隊長と支隊のみんなの汗にまみれた喜びと決意の笑顔が目に浮かぶようです。

     けれど出来たばかりのその飛行場に、米軍のロッキード戦闘機が飛来しました。昭和19年4月中頃のことです。米戦闘機は、二度にわたって機銃掃射を行い、またたくまに作業中の兵士30余名が亡くなりました。そしてこの日を境に、米軍が島に上陸する5月27日までの40日間、米軍機は毎日やってきました。それも一日3回、判で押したようにやってくる。
     飛来するのは、毎回40機前後でした。毎回爆弾を落として行きました。投下された爆弾は、40日間でおよそ2万発に及びました。
     島のいたるところが穴だらけになり、美しかった海岸線のヤシの木々もことごとく爆弾によってなぎ倒されてしまいました。みんなで作った飛行場も穴だらけにされてしまいました。
     穴だらけでは飛行場が使い物になりません。ですから米軍機が去ると、みんなでスコップで穴を埋めました。
     土方仕事で何が辛いといって、この穴埋め・穴掘り作業ほど辛いものはありません。腕・腰・肩に負担がかかります。筋肉痛でコチコチになった体で、翌日、また作業を続けました。
     その作業は、常に危険と隣り合わせです。また米軍が爆撃にやってくるのです。滑走路には遮蔽物がありません。爆弾の直撃を避けても、爆風によって次々と戦死者が出ました。
     重労働でくたくたになって弱った体に、さらにマラリアが襲いかかりました。米軍が上陸するまでの40日間に、渋谷さんの工兵中隊では4分の1が死んでしまいました。

     5月24日、警戒中の哨戒機から無電がはいりました。
    「空母二隻を含む、連合艦隊がビアク島方向に進行中、数日中に到着の予定」
     運命の5月27日がやってきました。午前4時、沖合の艦隊から、猛烈な艦砲射撃が始まりました。間断なく撃ち込まれる艦砲射撃は、約8時間続きました。地上にあるすべてが破壊しつくされました。
     昼からは、揚陸艇や水陸両用戦車が次々と上陸してきました。上陸した米軍は、揚陸艇から降りるとすぐに、陸に向けてめちゃくちゃに機関銃を撃ってきました。後ろから続く上陸部隊を守るためです。まさに物量にものをいわせた作戦でした。
     港に近い洞窟には、戦車が先頭になってやってきました。洞窟に向かって、まず日本語の通訳が「日本兵いるか」と声をかけます。一見、人道的なようですが、そうではありません。洞窟内部に日本兵がいようがいまいが、米軍の行動は変りませんでした。洞窟にガソリンのたっぷりはいったドラム缶を投げ入れる。火炎放射器でこれを爆発させて洞窟内を焼き払う。さらに後方から戦車で砲弾を洞窟内に撃ち込む。
     洞窟内に入って来て戦果を確認、ということはしません。その必要がないほど、徹底的に焼き払い、砲弾でなにもかも吹き飛ばしました。これによって海岸線付近の洞窟に陣取った守備隊は、ほぼ壊滅してしまいました。
     後方の洞窟にいたビアク支隊は、それでも飛行場を守ろうと、くりかえし肉弾突撃を敢行しました。米軍は、櫓(やぐら)を組んだ上から機関銃で掃射を浴びせました。その都度、日本側に多くの死傷者が出ました。

     6月27日、ビアク支隊が本拠にしていた西洞窟も米軍に制圧されました。
     7月2日、葛目支隊長が自決されました。この時点で残存人員は1,600名余りでした。ビアク支隊は、おのおのがジャングルに散り、敵と出会えば交戦するというゲリラ線に突入しました。
     米軍は、日中活動しました。島中を探しまわったのです。日本側は、昼は山中に隠れ、夜だけ行動しました。

    上の新聞記事に、そのときの様子として次の文章があります。「あとはただ、生きるための戦いだった。トカゲやネズミがごちそうだった。人肉を食べた者すらいたという。屈強だった若者は、そこまで追いつめられてい。」とありますが、先程述べましたように、これは記者か編集者が、故意に筆を走らせたものと思われます。渋谷さんご自身の手記には、人肉食など「していない」と明確に書かれています。原文そのままでご紹介します。
    「昭和19年7月23日、私は満22歳の誕生日をビアク島のジャングルの中で迎えた。既に戦火は止んでいたが、米軍は敗走する日本軍を見つけるため、明るい内は島内をくまなく捜し回っていた。我々は昼は山中に隠れ、夜だけ行動した。
     ここで私達が、何を食料にしていたかを説明しておく。
     ビアク島には、野生の椰子の実やマンゴー、サンゴヤシの新芽、バナナの根(大根のような味)等が、季節に関係なく植生しており、これらを手当たり次第に食べた。
     甘いものばかり食べると、無性に塩分を欲した。
     海水は島周辺にいくらあっても、海岸線は何処も敵がテントを張っていて昼間は行くことが出来なかったが、夜、暗闇にまぎれて海に出て海水を飲んだ。 水筒にも海水を入れておいた。海岸には敵味方の腐乱した遺体が無造作に散乱し、その近くには無数の魚貝が集まっていた。つまり遺体は魚貝のえさになっていたのである。しかし背に腹は代えられず暗闇に紛れて浜辺に出て、種々の貝を捕り、よく食したが、決まって下痢をした。
     出来れば、焼くか煮て食べたいところだったが、火を使うことは出来なかった。煙が立ち敵に発見されるおそれがあったのだ。
     戦友らの名誉のために付け加えておくが、帰国後、特に帰還兵は飢餓に耐えられず、戦友の人肉を食した等の批評をされたことがあったが、そのようなことは、あり得ないことである。当時の我々軍人に、そのような発想は生まれもしないし、また南国の気候は、遺体を1日もしないうちに腐敗させていたのだ。
    (中略)
     この島には私が見た限りでは猿が一番大きな動物であり、人を襲う猛禽類はいなかったことが幸いした。派手な色彩の極楽鳥は良く見かけ、食べ物にしたかったが、とても捕まえられるものではなかった。
     島内のいたるところに激しい戦いの跡が残っていた。散乱する戦友の屍辺りには、血なまぐさい空気が漂っていた。
     南国の暑さで腐敗も早く、既に白骨と化したものも多い。そっと手を合わせつつ、明日の我が身の姿を想像した。」
     渋谷さんが手記で明確に否定し、また他のインタビューでもやはり否定している「人肉食」について、なぜ東京新聞の記者が冒頭の記事で「食べた」と記述したのかは不明です。
     ひとついえることは、このビアフの戦いに限らず、どの戦地にあっても、飢えとマラリアと敵弾の恐怖が続く毎日の中にあってさえ、日本人には戦友の肉を食うなどということは、その発想も行動も、皆無だったということです。だからこそ多くの将兵がガリガリに痩せ細って「餓死」したのです。
     米軍の記録には、
    「日本側の捕虜は、日本人の誰もが極度の栄養失調状態にあったのに対し、朝鮮人、極めて栄養状態が良かった」と書かれています。糧食が途切れた中、彼らが何を食べて良好な栄養状態を保っていたのかは不明です。
     渋谷さんは、出征前には、体重が60キロあったそうです。捕虜になった後、体力を回復させたのですが、それでも帰国した時点での体重は38キロだったそうです。捕虜になり、医療を施され、食事面でもそれなりの待遇を与えられた後でさえ、その体重だったのです。ジャングルで徘徊していたときには、もっと痩せ細っていたことでしょう。
     小名木二郎さんという方がガダルカナルでの体験を絵画等にされているのですが、60キロあった体重が半分の30キロになると、もはや何かにつかまらなければ、自立歩行さえも困難だったといいます。
     けれども私たちの先輩たちは、そこまで追い詰められながら、人としての誇りや尊厳を失わなかったのです。
    渋谷さんの手記にも、「戦友たちの遺体を見かけたら、そっと手を合わせた」の一文があります。それが私たち日本人です。
     渋谷さんの体験記には、上の文に続けて、ちょっとスピリチュアルな出来事が書かれています。感動的なお話なのでご紹介します。
     渋谷さんはこのとき、千葉さん、粕谷さんと三人で行動していました。三人共、ほとんど幽鬼のような姿でした。腹が減ってどうにもならない。そこで三人は、米軍の建設した発電所に、パンを盗みに入ったのです。
    「そのとき粕谷が草むらに敷設した地雷の線にひっ掛かったのである。粕谷の直ぐ近くで一瞬青白い煙がボッーと上がった。私は「地雷」と叫んで伏せたが、立って逃げた二人のすぐ後でドカーンと爆発した。
     千葉幸一は即死。粕谷博は虫の息だった。最期まで行動を共にした千葉幸一。私は粕谷の頭を膝に抱き、『粕谷頑張れ、藤崎に一緒に帰ろう。頑張れ。』と何度も繰り返したが、首を縦に振り頷くが言葉に成らない。
     腹部貫通と大腿部盲貫の重傷である。どうすることも出来ず30分程で死んだ。
     粕谷博の実家は、山形県遊佐町上藤崎、私の実家の野沢から約6キロの村だった。
     私は二人を並べて寝かし、草を被せた。とうとう一人ぼっちになった。
     爆発音で敵が様子を見に来る恐れがあったが、直ぐには立ち去りがたかった。草を分けては二人の顔を何度も見た。祖国に帰り、やりたいことが一杯あったであろう。幾度も激しい砲弾をくぐり抜け、飢えや寂しさと戦い、これまで生きた延びた二人とは、是非、一緒に帰還したかった。良き戦友として、生涯の付き合いになったであろう。
     一人になった私は、どうすれば良いか分からなかった。私も自決しようと思った。そう思うと親、兄弟、親戚のこと、恋しい人のこと、次から次へと浮かび、直ぐには決心が付かないまま浅い眠りに入った。うとうとしては目が覚め、又、死ぬぞと思った。隣には粕谷と千葉の亡骸があった。
     一緒にここで眠るのが自然と思えた。このまま生き延びるより死ぬ方がずっと楽であり簡単に思えた。
     しかし、じっと二人を見ていると、二人は『生きて帰えろ、郷里にこのことを伝えてくれ、お前しかいないじゃないか』と言った。言ったように聞こえた。
     夢か現実(うつつ)か分からない妄想の一夜は続いた。小鳥のさえずりで目が覚めた。朝日が昇りジャングルに命の息吹がまた蘇った。いつになく草木も動物も生き生きして見えた。今度は何としても生きて祖国に帰り、この惨状を伝える必要があると決意した。
     私は二人の亡骸に近寄り、二人の小指の爪をかじり取り、軍票(軍が発行した紙幣)に包んだ。『俺は必ず生きて帰り、この惨状を祖国に伝えよう』と決意し立ち上がった。
     その時である。スピッツに似た白い小犬が50メートル程先を走っているではないか。『この辺りに部落でもあるのか』と思い、その方に歩いた。
     犬は山の木立をぬって走る。犬が見えなくなった所まで行くと、又、犬の尻尾が見えた。こんなことを幾度も繰り返し、何日犬の案内で歩いたか分からないが、広い原っぱに出た。
     そこは軍属が自活のために作った農場だった。小さなトマトが鈴なりに実を付けていた。夢中で食べた。
     食べながら辺りを見渡すと小さな小屋があった。恐る恐る近付くと人が居た。一瞬びっくり、相手もびっくり、お互いに日本兵と分かると笑顔になった。
     『何中隊だ』と尋ねる。
     『歩兵第三大隊第11中隊の泉田源吉上等兵だ』と名乗った。私も同様に名乗った。
     初めて出遭った二人は、これ迄の出来事を色々語り合った。苦しみは分かち合うことで半減するというが、今の二人はそれであった。
     『俺達は、何処に養子に出ても勤まるな』等と久々に笑いが出た。また、『どんなに肉体的苦しみには耐えることが出来ても、孤独には耐えられないことが分かった』等と話し合った。
     同じ苦しみを知る友を得た喜びに、勇気百倍の心境であった。
     それから泉田源吉上等兵(岩手県鳥海村出身)とは捕虜になるまでの約1か月間行動を共にした。
     二人は疲れ果てやせ衰えていた。ただ若さが持つ生命力だけを頼りに生きていた。

     それにしても、あの「白い犬」はどうしたのだろう。以来見かけることはなかったが、私は今でもあの「白い犬」は粕谷達の化身だったと信じている。」

    渋谷さんは、そのあと泉田さんとともに米軍に捕まり、療養を受け、一年半後、日本に復員し、実家に帰りました。そこでマラリアの熱が出ました。
    「家に帰り、気持ちが緩んだのか翌日に少し熱が出た。三日熱マラリアである。熱が上がり悪寒が激しく、震える病気である。妹達が付きっきりで看病したらしく、気が付いたら二人とも枕元にいた。余りの熱と上言に驚いたのは親達で、『せっかく帰って来たのに、ここで死なれては可愛そうだ』と言いながら「村上医者」を呼んだそうだ。
     40度の高熱が続き顔は真っ赤になっていたという。三日熱マラリアという病名のとおり、3日も経ったら熱も下がり平常になった。油汗を流し上言まで言っていた病気が嘘のように治った。祖母が声を掛けて来た。『お前はずいぶん上言を言ってたが、粕谷って何処の人だ』と言う。(そうだったのか)と思った。
     粕谷博は、最後まで一緒にジャングルを共にしたが、最期は目の前で地雷で戦死している。私の生還の陰には、戦友の死という切ない事実があり、どのように粕谷の実家に報告しようかと、ずうーと悩んでいたことだった。それが上言になったのであろう。
     あの時、発電所に行き地雷に触れることが無かったら、一緒に郷里に帰り、本当の兄弟のように付き合えた男だった。『俺だけ帰って来た』等と、どうして粕谷の実家に行けよう。
     しかし祖父母に『早く行った方がいい、だんだん行きにくくなる』と諭され、妹二人に引かせたリヤカーに乗り、約6キ口離れた上藤崎の粕谷の家に向かった。せめて戦死した際、持参軍票に包んだ小指の爪を遺品として持参したかったが、捕虜になったとき、所持品は全て没収されてしまっていた。
     粕谷の両親に、事の次第を話した。きっと息子の生還を期待していたろうに、私に最期の様子を聞いて、きっと無念だったに違いない。しかし額きながらも気強く話しを聞いてくれた。
     粕谷の母が『不思議なことがあります』と教えてくれた。『4月7日夜は障子の戸がサラサラ音がし、なぜか博が帰って来るような気がした。ついさっきは、玄関で『オー』と博の声がしたので玄関を見たが誰も居なかった。驚かすつもりで隠れていると思い、玄関に出て『博、博』 と呼んだ」と言う。
     これらの出来事は、日にちと言い、その時間といい、私が上言で粕谷の名前を呼んでいた時間であり、又、私がリヤカーで粕谷の家に向かっている時間である。
     思えば、山中で虫の息の粕谷を抱き『お前は藤崎だな、一緒に帰るぞ』と何度も叫んだ。粕谷はただ首を縦に振るだけだったが、私に自決を思い止まらせ、以来、その魂は私に付いて来て守り通してくれたのだと思った。
     そう言えばあの時の「白い犬」は粕谷の化身だったのか。鈴なりのトマト畑に私を案内し、泉田源吉上等兵と出会わせたことも、みんな粕谷の御霊のなしたものだったと私は信じている」

     渋谷さんの手記は、いまネットで全文をお読みいただくことができます。少し長いですが、ご興味のおありの方は、是非、ご一読ください。
    【ビアク島からの生還】
    http://www2.tbb.t-com.ne.jp/shibuya/index.htm

     ビアク島で日本軍が建設した飛行場は、米軍に占領され、約3倍の長さの巨大飛行場に生まれ変わりました。そして「モクメル飛行場」と改名され、その後オーストラリア空軍に移管されています。
     他の戦線と同様、ビアク島でも、いまだ多くのご遺骨が放置されたままとなっています。民間の遺骨収集団の努力により、これまでに回収されたご遺骨は約1000柱です。島には、まだまだ多くの私たちの同胞の御柱が眠っています。
     映画「凛として愛」で、故・泉水監督が語られた言葉が蘇ります。
    「戦争に負けたのは仕方がない。
     だが日本人は戦いに敗れても誠実さが必要だった。
     日本という国に、祖国に尽くした幾百万の英霊に、幾千万の先人に、愛をこめて感謝を捧げるべきであった。
     が、果たせなかった。多くの日本人が裏切った。戦勝国による一方的な東京裁判が開かれる中で、戦後の荒廃した日本に赤旗がなびき、社会主義思想が広まり、戦勝国による一方的な裁判が開かれる中で、日本の近代史は偽りに満ちた悪意のもとに大きく書き替えられていった。
     私たちの国には明治維新以来、幾度かの困難に敢然と立ち向かった日本民族の不屈の歴史があります。たった一つしかない命を国家に同胞に捧げた凛とした真実の歴史があります。
     六十数年前、日本はアメリカを始め、世界百十数国を相手に大戦争をした。しかしその戦争は、国家国民の安全と平和を護るため、アジアの安定を築くため、世界の平和を請い願ったものであることに間違いなかった。戦場に出ていった将兵は、みな同じ考えであり、力の限り、彼らは戦った。だが、こと志しと違い、戦いに敗れたことで日本の掲げた理想は実ることはなかった。
     日本は敗れたままでいる。平和を享受する現代日本から遠く離れた異国には、未だ収拾されない将兵の遺骨が山野に埋もれている。いつになったら日本は、戦いに散った将兵を暖かく迎えてくれるのだろうか… 。全国民が祈りを捧げてくれるのだろうか。
     靖國神社に祀られる246万6千余柱の英霊は、未だ侵略戦争の汚名を着せられたままでいる。かつて南方の島々で戦った日本軍に援軍は来なかった。ならば今から援軍を送る。日本を変える援軍を送る。あなた方の真実を、痛みを私たちは伝えていきます」

     前線では、本当に苦しく生還の期しがたい戦いでしたし、銃後にあっても空爆によって何もかも焼き尽くされた戦いでした。ただでさえ争いを嫌う日本人です。それだけに戦後の日本人の一般的な気持ちとして、
    「二度と戦争はしたくない」という思いが、どこの国よりも強い。
     しかしその思いを悪用し、故意・悪意をもって日本人を弱化させてきた勢力が、国の内外にあり、近年ではそういう勢力が、日本人から富も安全も安心な生活も奪われることが常態的に起こっています。
     戦争なんて、誰だって嫌です。しかし、そこまで苦しい戦いを、それこそ必死の戦いを、なぜ多くの日本人が行ってきたのか。そのことを考えるとき、私たちは今一度、国のあり方について、果たしてこれまで通りの思考だけで良いものなのか、考え直してみなければならないのではないかと思わされるのです。

    戦争には、3つの種類があります。
    侵略戦争
    自衛戦争
    制裁戦争
    の3つです。

    ① なにもないのに、何らかの欲望のために、いきなり他国を侵略すれば、それは侵略戦争です。
    ② けれど、挑発を受けて、やむなく開戦に踏み切ったのなら、それは自衛戦争です。
    ③ 制裁戦争は、本来、そうした挑発をした側に対して、集団で行うものを言います。

    制裁戦争は、意味合いが異なりますので、①と②を、深堀りします。
    日本は、挑発を受け、やむなく先の大戦に踏み切りました。
    そうであれば、それは自衛のための戦争②です。
    ところが戦勝国により、日本は①とされました。

    ②の戦争には理由があります。
    その理由をしっかりと掘り下げ、二度と戦争の惨禍を繰り返さないようにすることが、いちばん大切なことです。
    わかりやすく言うなら、そもそも「挑発を受けない国」でいるためには、何が必要なのかということです。

    ②を①と言い換えて、「ごめんなさい、二度としませんから」といえば、カモられ、イジメられ続けることになります。
    ②だと言えば、①にとっては都合が悪いですから、歴史修正主義者だと罵られます。
    堂々と修正を求めるためには、何らかのきっかけが要ります。

    日本には、いま、そうしたきっかけが到来しようとしています。
    我が国が、望むのは、二度とビアク島の悲劇を繰り返さないことです。


    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 日本人と戦争〜アッツの戦いを振り返って


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    紛争が好きな人、戦争で儲けようとする人たちもいます。けれど、世界はそういう人たちのためにあるのではありません。多くの民衆が、豊かに安全に安心して平和に暮らせることこそが、正しい真実です。
    戦争の悲惨を知る日本人だからこそ、日本だからこそ、いまも、そしてこれからも、絶対に戦争の惨禍を繰り返さない。このことを、国民的合意として、強く国際社会に訴え続けて行かなければならないのだと思います。
    また、それができる国になっていくこと。それこそが、日本の進むべき道であると思います。
    現に戦いが始まってから当事国のどちらか一方に肩入れするのではなく、どこまでも人の命を大切にしていく。
    そのことが、日本人として、あるいは日本国として大切なことであると思います。

    20220325 アッツ島
    画像出所=http://masaki-knz.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-54c9.html
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    戦争のお話をします。
    先の大戦で、初めての玉砕戦となったアッツ島のお話です。

    お話に先立って、ひとつ重要なことを申し上げます。
    これは、戦争に関する講演をするときに、必ずみなさんに申し上げていることです。

     我々は、今後決して、
     権力者の野望を満たすために、
     若者のエネルギーを、命を、
     奪ってはならないし、
     また奪われてはならない。


    この言葉は、元海軍航空隊の松本裕昌氏が、著書の『我が予科練の記』に記した言葉です。

    世界では現に紛争が起きています。
    当事国の兵士が何人死んだ、でも本当はもっと死んでいるなどといった報道があります。
    日本人として恥ずかしく思います。
    お亡くなりになった兵士の方、あるいは民間人の方々、そのひとりひとりに家族があり、人生があり、幸せになろうとする意思があったのです。
    何百人とか、そういう十把一絡げではなく、ひとりひとりの命をどこまでも大切にしてく。それが日本人であったのだと思います。

    国際社会は、戦争の悲劇を何度も繰り返しています。
    が、私達日本人にとって大切なことは、そうした戦争による悲劇を二度と繰り返さないこと、繰り返させないことにあるのだと思います。
    それは、どちらか一方の国に肩入れすることではないと思います。

     *

    さて、明治維新以来、アメリカと日本は、親しい友人でした。
    第二次世界大戦は昭和14年(1939年)にはじまっていました。
    日本への石油の輸出が禁輸となったABCD包囲網が形成されたのは、昭和16年7月のことです。
    日米開戦は、その年の12月です。

    なぜあの大戦に至ったのか。
    それは、カネの流れを追えば明らかです。
    文字通り、先の大戦は、カネのための「権力者の野望」によって始まり、続けられ、多くの若者の命を奪ったのです。

    同じことは、いまも続いています。

    そんな中にあって、あらゆる理不尽の中にあっても、最後まで勇敢に戦い散って行かれた先人たちがいました。

    カムチャッカ半島から、北米大陸のアラスカにかけて、転々と連なる島々があります。
    北米に近い方の島々が「ラット諸島」、アジアに近い方の島々が「ニア諸島」です。
    ニア諸島の西のはずれ、つまりアジアに近い方にある大きな島がキスカ島で、それよりもうすこし西側、(アジア寄り)にある小さな島が、アッツ島です。
    北海道よりも、ずっとずっと北にある、とても寒い島です。

    80年前、そのアッツ島を守っていた日本軍守備隊2,650名が、約一ヶ月間にわたる激しい戦いが行われました。
    そしてこの戦いは、大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となった戦いとなりました。

    日本軍がこの島に進出したのが昭和17(1942)年9月18日のことです。
    人数は、2,650名でした。
    目的は、この島に飛行場を建設するためでした。

    アッツ島は無人島でした。
    そして形式的には米国領でした。
    そしてこの島は、米国にとって、1812年の英米戦争以来の、初の外国軍によって米国領土が占領された事例となりました。

    そういうわけですから、米軍はたびたび建設途中のアッツ島に空襲を仕掛けてきました。
    そして昭和18年には、大艦隊を率いてこの島の奪還にやってきたのです。

    このときのアッツ島守備隊の司令官は、山崎保代(やまさきやすよ)陸軍大佐(没後二階級特進で中将・以下陸軍中将で統一します)でした。
    陸軍中将は、いよいよ米軍が攻めて来るとなった、昭和18(1943)年4月18日にアッツ島に赴任されました。
    それは、赴任時点で死ぬと決まった転任でした。
    念の為もうしあげますが、この人事はなんらかの報復人事とか、内部対立とかそういうものではありません。
    寡兵をもって米国の大艦隊と五分に戦うことができる男は、この時点で山崎保代陸軍中将しかいなかったのです。

    山崎保代陸軍中将は、山梨県都留市のご出身の方です。
    代々僧侶の家柄で、子供のころからたいへん優秀で、名古屋の陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を25期生として卒業されました。
    陸軍に任官後は、シベリアに出兵され、斉南事件の際にも出動しています。

    ※斉南事件
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-597.html

    潜水艦でアッツに到着した山崎保代陸軍中将は、守備隊に、水際防御ではなく、後の硫黄島と同じく敵を島の内部に引き込んで戦う作戦を指示しました。
    もし米軍がこの島を攻めてくるなら、きっと大艦隊と大部隊編成でくるだろうと予測したからでした。

    アッツ


    米軍を、一日でも長くこの島にひきつけ、寡兵で彼らと五分の戦いをするには、内陸部に引き込んで戦う以外にない。
    このように読んだ一事をとっても、山崎保代陸軍中将がどれだけ優秀な士官であったかを知ることができます。

    5月5日、守備隊の前に米軍があらわれました。
    まさに大艦隊でした。
    米軍は、戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」、護衛空母「ナッソー」に加え、多数の輸送艦を引き連れていました。

    上陸部隊だけで、1万1000人です。
    守る日本軍は、わずか2650名です。
    しかも日本側には、純粋な地上戦戦闘要員は、半数もいませんでした。

    米軍は、洋上で天候回復を待ち、12日から島への上陸を開始しました。
    それは小さな島いっぱいに、アリの這い出る隙間もないくらい艦砲射撃と空爆を行ったうえでの、大部隊の上陸でした。

    アッツの守備隊は、見事なまでの大奮戦をしました。
    島の奥深くまで侵入して来た米軍第17連隊を壊滅させ、また一個大隊押し寄せた米軍と真っ向から対峙し、これを海岸線にまで後退させました。

    しかし衆寡敵せず、約二週間の昼夜をわかたぬ激闘の末、日本側は28日までにほとんどの兵を失ってしまいました。

    この戦いに参加した辰口信夫軍医が遺した日記が、後日、米軍によって発見されています。
    辰口医師の日記は 敵上陸の1943年年5月12日から始まって、玉碎前日の29日で終わっています。
    18日間の短い日記です。

    5月29日の最後の日記を引用します。

    *******
    夜20時、地区隊本部前に集合あり。
    野戰病院も参加す。
    最後の突撃を行ふこととなり、
    入院患者全員は自決せしめらる。

    僅かに33年の生命にして、
    私はまさに死せんとす。
    但し何等の遺憾なし。

    天皇陛下萬歳。
    聖旨を承りて、
    精神の平常なるは
    我が喜びとするところなり。

    18時、
    総ての患者に手榴弾一個宛渡して注意を与へる。
    私の愛し、そしてまた最後まで
    私を愛して呉れた妻妙子よ、
    さようなら。
    どうかまた合う日まで幸福に暮らして下さい。

    美佐江様
    やっと4歳になったばかりだが、
    すくすくと育ってくれ。

    睦子様
    貴女は今年2月生まれたばかりで
    父の顔も知らないで気の毒です。

    政様 お大事に。
    こーちゃん、すけちゃん、まさちゃん、みっちゃん、

    さようなら。

    ********

    辰口氏は、軍医ですから、おそらくは山崎保代陸軍中将と、最後までご一緒においでだったものと思われます。

    アッツ島の日本兵


    文中にあるように29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決したあと、山崎保代陸軍中将は、まだ動ける生存者全員、本部前に集合させました。
    集まった兵は、この時点でわずか150名でした。

    山崎陸軍中将は、今日までよくぞ戦ってくれたと、ひとりひとりの兵のねぎらいました。
    次に通信兵に
    「機密書類全部焼却、
     これにて無線機破壊処分す」
    と本部への打電を命じました。

    そして「いざ!」と声をかけました。
    山崎保代陸軍中将は、右手に抜き放った軍刀を、左手に日の丸を持たれました。
    このとき、山崎保代陸軍中将は、みんなにニコッと笑顔を向けました。
    そして攻撃部隊の先頭に立つと、生き残った全員を引き連れ、先頭に立って山の斜面を駆け上って行かれました。

    生き残った全員があとに続きました。
    死ぬ、とわかって最後の特攻攻撃を行ったのです。

    この突撃は、まさに鬼神とみまごうばかりのものでした。
    米軍は大混乱に陥りました。
    日本陸軍の突撃隊は、次々と米軍の陣地を突破していきました。
    それはまさに鬼神の進撃そのものでした。

    米軍の死体がそこらじゅうに転がりました。
    そしてついに、突撃隊は、米軍上陸部隊の本部にまで肉薄するのです。
    あと一歩でした。
    上陸部隊の本陣を抜くところまで、迫りました。

    しかしここまできたとき、ようやく体勢を整えた米軍が、火力にものをいわせて猛然と機銃で反撃に出ました。
    味方の兵が、バタバタと倒れました。
    そして我が軍は、全員、散華されたのです。

    戦いが終わった後、累々と横たわる我が軍の遺体の一番先頭に、山崎保代陸軍中将の遺体がありました。
    このことは米軍が確認した事実だといわれています。

    山崎保代陸軍中将は、突撃攻撃の最初から、先頭にいたのです。
    先頭は、いちばん弾を受ける位置です。
    おそらく途中で何発も銃弾を受け、何度も倒れられたことでしょう。
    けれど撃たれては立ち上がり、また撃たれては立ち上がり、そしてついに、味方の兵が全員玉砕したときも、彼は突撃隊の先頭に這い出て、そこでこときれたのであろうと推測されています。

    これが帝国軍人将校の心得です。
    享年51歳でした。

    山崎保代陸軍中将以下、2,650名の奮戦については、米軍戦史が次のように書いています。
    「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった。」
    そして米軍戦史は、山崎大佐をして「稀代の作戦家」と讃えました。

    山崎保代陸軍中将
    山崎保代中将


    このアッツ島の玉砕戦について、当時大本営参謀だった瀬島竜三氏が、その手記「幾山河」の中で、次のような事実を書かれています。

    ********
    アッツ島部隊は非常によく戦いました。
    アメリカの戦史に「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と記されたほどです。
    それでもやはり多勢に無勢で、5月29日の夜中に、山崎部隊長から参謀総長あてに次のような電報が届きました。

    「こういうふうに戦闘をやりましたが、
     衆寡敵せず、明日払暁を期して、
     全軍総攻撃をいたします。
     アッツ島守備の任務を果たしえなかったことを
     お詫びをいたします。
     武官将兵の遺族に対しては、
     特別のご配慮をお願いします」

    その悲痛な電報は、
    「この電報発電と共に、
     一切の無電機を破壊をいたします」
    と、結ばれていました。

    当時、アッツ島と大本営は無線でつながれていたのですが、全軍総攻撃ののちに敵に無線機が奪われてはならないと破壊し、アッツ島の部隊は玉砕したわけです。

    この種の電報の配布第一号は天皇です。
    第二号が参謀総長、
    第三号が陸軍大臣となっていまして、宮中にも各上司の方には全部配布いたしました。

    そして翌日九時に、参謀総長の杉山元帥が、このことを拝謁して秦上しようということになりまして、私は夜通しで上秦文の起案をし、御下問奉答資料もつくって参謀総長のお供をして参内いたしました。
    私どもスタッフは、陛下のお部屋には入らず、近くの別の部屋に待機するわけです。

    それで杉山元帥はアッツ島に関する奏上を終わらせて、私が待機している部屋をご存じですから、
    「瀬島、終わったから帰ろう」
    と、こうおっしゃる。

    参謀総長と一緒に車に乗るときは、参謀総長は右側の奥に、私は左側の手前に乗ることになっていました。
    この車は、運転手とのあいだは、厚いガラスで仕切られていました。

    この車に参謀総長と一緒に乗り、坂下門を出たあたりで、手帳と鉛筆を取り出して、
    「今日の御下問のお言葉は、
     どういうお言葉がありましたか。
     どうお答えになりましたか。」
    ということを聞いて、それをメモして役所へ帰ってから記録として整理するということになっていました。

    車の中で何度もお声をかけたのですが、元帥はこちらのほうを向いてくれません。
    車の窓から、ずっと右の方ばかりを見ておられるのです。
    右のほう、つまり二重橋の方向ばっかり見ておられるわけです。

    それでもその日の御下問のお言葉と参謀総長のお答えを伺うことが私の任務ですから、
    「閣下、本日の奏上はいかがでありましたか」
    と、重ねてお伺いしました。

    そうしたら杉山元帥は、ようやくこちらのほうに顔を向けられて、
    「瀬島、役所に帰ったら、
     すぐにアッツ島の部隊長に
     電報を打て」
    と、いきなりそう言われた。

    それを聞いて、アッツ島守備隊は、無線機を壊して突撃してしまったということが、すぐ頭に浮かんで、
    「閣下、
     電報を打ちましても、
     残念ながらもう通じません」
    と、お答えした。

    そうしたら元帥は、
    「たしかに、その通りだ」
    と、うなずかれ、

    「しかし陛下は自分に対し
     『アッツ島部隊は、
      最後までよく戦った。
      そういう電報を、
      杉山、打て』
     とおっしゃった。
     だから瀬島、電報を打て」
    と、言われた。

    その瞬間、ほんとに涙があふれて……。

    母親は、事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。
    陛下はそう言うお気持ちなんだなあと、そう思ったら、もう涙が出てね、手帳どころじゃなかったですよ。

    それで、役所へ帰ってから、陛下のご沙汰のとおり、
    「本日参内して奏上いたしたところ、
     天皇陛下におかせられては、
     アッツ島部隊は最後まで
     よく戦ったとのご沙汰があった。
     右謹んで伝達する」
    という電報を起案して、それを暗号に組んでも、もう暗号書は焼いてないんですが、船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて電波を送りました。


    ********

    昭和62年(1987年)日米共同により、日本政府がアッツ島に「北太平洋戦没者の碑」を、最後の玉砕地となった雀ケ丘に建立しました。
    そしてこの碑には
    「さきの大戦において
     北太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび
     平和への思いをこめてこの碑を建立する」
    との銘が刻まれました。

    日米ともに、多くの民衆の持つ思いは同じです。
    平和に豊かに安全に安心して暮らしたい。
    家族が戦地に散るようなことがあってはならない。
    だから「平和への思いをこめてこの碑を建立」したのです。

    アッツ島で戦い、散って行かれた山崎中将以下2,650名の英霊の方々を誇りに思います。

    アッツ島慰霊碑
    20200520 アッツ島慰霊碑
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%84%E5%B3%B6


    いまも戦争が起きています。
    紛争と呼びなさいとか言われていますが、国対国が軍事力を用いて戦うなら、それは戦争です。
    そして戦争は、多くの若者の命を奪います。

    それだけではありません。
    第一次世界大戦以降の戦争では、むしろ武器を持たない多くの市民を標的にした戦争が、あたりまえのように行われています。

    紛争が好きな人、戦争で儲けようとする人たちもいます。
    けれど、世界はそういう人たちのためにあるのではありません。
    多くの民衆が、豊かに安全に安心して平和に暮らせることこそが、正しい真実です。

    戦争の悲惨を知る日本人だからこそ、日本だからこそ、いまも、そしてこれからも、絶対に戦争の惨禍を繰り返さない。
    このことを、国民的合意として、強く国際社会に訴え続けて行かなければならないのだと思います。

    また、それができる国になっていくこと。
    それこそが、日本の進むべき道であると思います。
    現に戦いが始まってから当事国のどちらか一方に肩入れするのではなく、どこまでも人の命を大切にしていく。
    そのことが、日本人として、あるいは日本国として大切なことであると思います。

    日本をかっこよく!
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    日本はいつの時代にあっても、どんな時代にあっても、その根底に、常に「民衆が主役」という思考が働きます。
    そしてそれを社会制度にまで高めたものが、「シラス統治」です。
    そんな日本を取り戻す、というよりも、新たに再建するために、立ち上がった政党が参政党です。
    このことが持つ意味は重要です。
    なぜなら庶民が主役という文化をあらためて取り戻すということは、日本のみならず世界を変える大きなインパクトを持つからです。

    20220324 弥生時代の暮らし
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    小名木善行です。

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    世界の動向を考えるに際し、多くの方が勘違いしているのが、世界の国々も、日本と同じ庶民を大切にしている庶民文化の国という先入観を持ってしまっている点にあろうかと思います。
    違います。世界の諸国は、一昔前までは王貴文化、いまはお金持ち文化です。

    もちろん、民主主義国家であれば、政治家は庶民の投票による選挙で選ばれます。
    けれど、普通の人はなかなか選挙に出ることはできませんし、出ても当選することはまずありません。
    なぜなら選挙はお金がかかるからです。
    ということは、自分が大金持ちであるか、あるいはスポンサーがいなければ、なかなか選挙に当選することはないし、当選しても、並み居る政治家の間で、意見力を持つことができません。

    このことは、言い換えれば、一昔前でいうなら、王侯貴族か、王侯貴族の代理でなければ、政治的意見力を持つことができないということです。

    戦争もまた同じです。
    一昔前なら、王侯貴族の、いわば気分で戦争が起こり、その都度、庶民の命が犠牲になりました。
    いまある紛争もまた、お金持ちの都合で起こり、庶民の命が犠牲になっています。

    こうした世界に、待ったをかけることができるようになったのが、ネットの普及です。
    個人が自由に意見を発信できるネットは、ときに真実を暴露します。
    もちろんネットには、多数の意見があがる分、情報は玉石混交です。
    莫大な資金を投入して、ネットの意見を操作する人たちもいます。

    そしていま、日本において、まったく新たな政治がはじまろうとしています。
    それが、参政党です。
    資金なし、人脈なし、スポンサーなしで、庶民が立ち上がって選挙に出て、政治を動かそうとしています。
    これが可能なのは、いまの日本にはまだ、大昔から続く庶民文化、庶民が国を担ってきた歴史の力があるからです。

    日本は、庶民を大切にしてきた国です。
    西郷隆盛の遺訓に、

    「文明とは
     道の普く行はるゝを贊稱(さんしょう)せる言にして、
     宮室の壯嚴、衣服の美麗、外觀の浮華を言ふには非ず」

    という言葉があります。

    なるほど、西洋や東洋の宮殿建築や、王族や貴族の衣服など、それらの外観を観ると、まさに荘厳であり、美麗であり、素晴らしい外観を持っています。
    それはそれで、素晴らしいものです。

    中世までの時代の絵画も同じです。
    西洋も東洋も、極彩色を用いた美しい絵が数多く残されています。
    これに対し、日本の同時代の絵画は、一部に平安貴族の大和絵などはあるものの、多くの絵画は白黒です。
    いまでは、誰でも絵の具や色鉛筆、色紙などで、様々な色彩の色を手にすることができますし、現代人はそれがあたりまえのことと思っています。
    けれど、ほんの数百年前までは、色物といえば、せいぜい藍色と朱色が手に入るくらいで、他の色彩の絵の具や染料は、高価でなかなか手に入らなかったのです。

    雪舟という有名な絵描きがいます。
    15世紀の人物で、水墨画で有名な人物です。
    雪舟は、ほんとうは極彩色で絵を描きたかったのだと言われています。
    けれど、絵の具が高価で手に入らなかった。
    だから墨だけで絵を描くしかなかった。
    でもどうしても、色を使いたかったことが、雪舟の丹頂鶴の絵の、鶴の頭の朱色に現れている、といわれています。
    普通の庶民の出の雪舟には、絵の具を買うことができなかったのです。

    同じ時代、『唐獅子図屏風』、『洛中洛外図屏風』、『聚光院障壁画』などの極彩色の絵を残した狩野永徳は、貴族や大名をスポンサーにすることで、高額な絵の具を手に入れ、極彩色の絵画を残しています。
    要するに、絵師が高額な絵の具を手に入れるためには、スポンサーが必要だったのです。

    このことはチャイナや西洋でも、実は同じです。
    同時代の極彩色の絵画は、いまもたくさん遺されていますが、それらはことごとく、権力者がスポンサーになることで可能になった絵画です。

    建築物もまた同じです。
    とりわけ西洋では、建物も立派、衣服も豪華、調度品や絵画も美しい。
    だから西洋は文化が進んでいて、白黒しかない地味な日本は遅れていた。
    だから日本は洋の東西からさかんに文化を輸入することで、ようやく文化を築いたのだ、そして日本にもたらされた文化は、チャイナ経由と、朝鮮半島経由の二系統によってもたらされたのだ・・・というのが、これまでの立場です。そのように学校で習って来られた方も多いかと思います。

    まったく間違っていると思います。
    日本は庶民文化の国です。
    100人が100円の利益をあげたとき、ひとりが99円を独占し、残った1円を99人で分け合う、奪い合うのではなく、
    100人で100円を公平に分け合ってきたのが日本です。
    ですから、特別豊かな人もいない代わりに、特別貧乏な人もいない。
    もちろん、配分は公平ですから、サボっていれば配分は減りまし、サボりすぎれば食えなくなる。これはあたりまえのことです。
    そして、お金持ちであることよりも、正しく生きることに価値を見出してきたのも日本文化の特徴です。

    そもそも、日本が鎖国をして、海外との窓口を絞っていたのは、近世江戸時代の260年間だけの話でしかありません。
    それまでの日本は、4万年前、2万年前、縄文の昔から、海洋大国です。
    日本人は船を駆使して、世界中と交易をし、世界の人々と交流していました。

    日本から産出される黄金は、世界各地で歓迎されたし、縄文以前の古代文字や哲学、縄文時代の漆器や青銅器、弥生時代の鉄器、古代大和時代の刀剣類などは、まさに世界に革命と言って良いほどの影響を与えています。
    このようなことを申し上げると、あまりにも意外で、にわかには信じられないと思われるかもしれません。
    けれど近年の考古学上の相次ぐ発見を総合すれば、そのような結論にしかならないのです。

    戦時中、チャイナに行った兵隊さんが現地の人と親しくなり、ものすごく高価な茶器でお茶を淹れてもらって、あまりに素晴らしい茶器だから譲ってくれと頼んだら、
    「これは○百年前の日本製ですよ」
    と言われて、びっくりした、といった話が多数伝わっています。
    茶器に限らず、生活用品としての、チャイナの超高級品は、その時代、ことごとく日本製でした。
    このようなことを申し上げると、びっくりされる方が多いかと思いますが、それが事実です。

    チャイナの宋の国は、たいへんに経済的に豊かであったと伝えられています。
    その時代の日宋貿易における日本からの輸出品は、日本刀などの工芸品、陶磁器、絹織物です。(逆に書いているものが多々ありますが、もちろん中には中国製の刀剣や絹織物などを記念品として日本に持ち帰る人はあったろうけれど、実用性に乏しく使いもにならないから、すぐに飽きられてしまっています。
    代わって輸入品は、書籍や香料、画材絵の具などでした。

    要するに、庶民生活に不可欠で、日本の庶民なら誰でも持っているようなものが、宋の国では、日本の国内価格の20倍から400倍で売れたのです。
    もちろんその逆もありましたが、宋のもので日本国内で価値を持ったのは、仏教の経典など、火を付けたら燃えるものばかりです。
    要するに生活必需品ではない。

    ですから簡単に言えば、日本の生活必需品が破格の高価格で売れ、チャイナではあまり価値を持たない経典などが、日本では破格の高価格で売れたのです。

    西洋も同じです。
    ポルトガル人が日本にやってきてから、日本の、一般家庭に置かれる陶磁器が、西洋の貴族の間で破格の高価格で売れるようになりました。
    また、陶磁器を包んでいた紙に描かれた浮世絵は、西洋絵画に大革命を起こしました。
    何が衝撃的だったのかといえば、日本では庶民が主役だったからです。
    これこそが、西洋における実質的な文化大革命となりました。

    古代も同じです。
    青銅器や鉄器は、もともと人が人を殺めるという習慣のない日本では、あくまで農機具として発展したものです。
    ところがこれを輸入した諸外国は、王や貴族の権力を保持するための武器として用いられるようになりました。

    このことは、文化を考える上において、たいへんに重要な事実です。
    なぜなら、いつの時代に於いても、王侯貴族が新たな文明の利器を発明するということは、まず「ない」からです。
    民間の工夫のなかから、文明は現れるのです。
    王侯貴族は、これを高額で手に入れることが、王侯貴族の贅沢になりました。

    今も同じです。
    破格の超高級車に乗る人は、偉い人、お金のある人です。
    けれど、彼らがそれに乗れるのは、そういう車を作ってくれる庶民がいるからです。

    ほんの100年前、運転手付きの高級車にしかなかった車の車内空間の広さと、車の性能、エアコンなどの快適装備の数々は、いまでは主婦が乗る軽自動車に全部付いています。
    あと何年かすれば、運転も自動運転化されますが、そうなれば、運転手付きの車と同じです。
    つまり、超大金持ちか、相当な権力者が、高額を支払って手に入れていた贅沢が、一般の庶民が、安値で手にいれるものになってしまうのです。
    なぜなら、それを作る庶民がいるからです。

    スティーブ・ジョブズのアップルコンピュータや、スマートフォンは、もともとコンピューターオタクだったジョブズが倉庫の中からはじめたものです。
    普通の民間人が、創意と工夫によって巨万の富を築くようになりました。

    発明王とされるトーマス・エジソンは、生涯に1300もの発明や新技術を開発した人物として知られています。
    しかし、もともとは貧しい移民の子です。
    そんな移民の子が、どうしても「1+1=2」が納得できない。
    なぜなら、1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土になるからです。
    それがどうして2個になるのか、理解できない。
    だから彼は、貧乏なだけでなく、落第生でした。

    成人したエジソンは、ようやく夜間電話の交換手になりましたが、当時は電話はまだあまり普及していない。
    ですから、夜間に交換業務が行われることも、まずありません。
    さりとて交換手が居眠りをしても困るので、電話会社は、夜中の間、1時間おきに交換手に「起きてますよ」という信号を、ただ送ることを義務付けていました。
    エジソンは、夜中に起きずに寝れるようにと、時計を使って1時間おきに自動的に信号を送れるようにしてしまいました。
    これがエジソンの発明の始まりです。

    もっともこの発明は、あまりに正確に信号が送られることに不審を抱いた上司にバレ、エジソンはクビになってしまっています。
    クビになったエジソンは、就職のために、放浪の旅に出ています。
    けっして、豊かではない、貧しい青年の姿がそこにあります。
    そして、もっと便利にするためには、と考え続け、それを製品化することで、発明王エジソンが誕生しています。

    世界を大きく変える文化的偉業は、こうして、いつの時代においても、庶民の創意工夫をから生まれています。

    ひとつ明らかに言えるのは、いつの時代にあっても、どんな民族にあっても、王侯貴族は文化を生まない、ということです。
    文明文化を享受するたけです。
    文明文化を開発し、文化を生むのは、常に庶民の力です。

    そしてこのことが、世の中の仕組みをややこしくしています。
    よく言われるロスチャイルドさんとか、ロックフェラーさんとかが陰謀を働いているという説ですが、両者ともに、人の良いおじいちゃんです。
    金持ち喧嘩せずで、生活にも余裕があり、一般庶民によるあるようなガッツはありません。

    ところが民間人が、巨万の富を得るには、そうした大金持ちのフトコロに入り、「こうすれば儲かりますよ」とプロジェクトの提案をし、そのための資金を大金持ちに出してもらうというのが、世界では一般に行われることです。
    日本のエリート大学生は、世のため人のために行政官僚になる道を選びますが、諸外国では、欧米でもチャイナでも、エリート大学生は、世界の仕組みに上手に入り込んで、巨万の富を得ることを選択します。
    つまり民間人が、大金持ちに取り入って、巨額の資金の運用を任せてもらうわけで、そうして得た利益でVIPの仲間入りするのです。

    なるほどそれは手っ取り早い成功法なのであろうと思いますが、この場合、そのほとんどの計略は、破壊活動に結びつくことになります。
    なぜなら、誰かが利益を得るためには、誰かが損をするというのが、経済のセオリーだからです。
    逆にいえば、損を意図的に作り出すことができれば、利益を得ることが可能になるというわけです。

    けれども日本では、どこまでもみんなが豊かに安全に安心して暮らせるようにすることが、「公(おほやけ)」とされます。
    その「公」のために尽くしていくことが、日本人にとっての戦慄すべき正義の姿であり、美しい姿です。
    たとえどんなに利益を得たとしても、それが誰かの損害に結びつくなら、そんなものには何の価値もない、というのが、日本的思考です。

    ここが大事なところで、日本はいつの時代にあっても、どんな時代にあっても、その根底に、常に「民衆が主役」という思考が働きます。
    そしてそれを社会制度にまで高めたものが、「シラス統治」です。
    そんな日本を取り戻す、というよりも、新たに再建するために、立ち上がった政党が参政党です。

    このことが持つ意味は重要です。
    なぜなら庶民が主役という文化をあらためて取り戻すということは、日本のみならず世界を変える大きなインパクトを持つからです。


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    フォントも大きくて読みやすく、また挿絵やマンガも豊富なので、小学校高学年から大人までお楽しみいただける本になっています。
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    20220325 神武天皇



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    そこで本書は、一般の偉人伝と異なり、名もない一庶民をも多く扱っています。
    これこそが、日本の偉人伝です。

    もちろん、歴史上のポイントとなる人物も、しっかり掲載しています。
    上にある絵は、最初にご登壇いただいた、神武天皇のページです。
    クリックすると拡大してご覧いただくことができます。

    フォントも大きくて読みやすく、また挿絵やマンガも豊富なので、小学校高学年から大人までお楽しみいただける本になっています。
    読者の方は、きっとこの本でご紹介した偉人の人生を読んで、涙を流したり、あるいは今を生きる勇気をいただいたりすることでしょう。

    最初の神武天皇の段の原稿です。

    ***********

    一 助け合いを国の形に・・・神武天皇


    「この国は天然の災害が多い。けれどそれが神様から授かった国だ。だから、いざという時に備えて、大きな米倉(こめぐら)をつくり、これを『みやこ(御屋蔵)』と名付けよう。 そうすることで四方八方に住む人々が、大きなひとつ屋根の下に暮らす家族となり、互いに助け合って生きていく。そういう国をつくろうではないか」
     
     今からおよそ二八〇〇年前のことです。そう言って国を建国された天皇がおいでになりました。それが初代天皇であられます神武天皇です。世界中にたくさんの国がありますが、思いやりと助け合いのために生まれた国家というのは、歴史上も、現在の地理上も、世界でただひとつ、日本だけです。

     そういうことを今の日本の学校は教えません。世界中どこの国であっても、国がある以上、必ずその国には建国の歴史があり、その歴史は、これまた必ず学校で教えられ、国民の常識になります。日本だけがそれをしない。
     日本は世界で一番長くて古い歴史を持つ国です。世界に今ある国の中で、二番目に古い歴史を持つ国がデンマークの千年です。三番目が英国の九百年。米国は建国からまだおよそ二五〇年の歴史しかありません。中共(中華人民共和国)はわずか七〇年あまり。韓国も同じです。
     そこでまずはじめに、日本の建国について、みなさまとともに学んでみたいと思います。

     今から二七〇〇年ほど昔、九州の宮崎に、天(あま)照(てらす)大御神(おおみかみ)のお孫さんの、さらに孫(これを玄孫といいます)が吸収の宮崎で暮らしていました。名前を神(かむ)倭(やまと)伊(い)波(わ)礼(れ)毘(ひ)古(この)命(みこと)と言いました。その方のもとに、ある日、塩土老翁(しおつちのおきな)というおじさん(古語で塩は海のこと、土は陸のことを意味します。塩土老翁は、海陸の情報通のおじさんといった意味になります)がやってきました。

    ***

    本の方では、お話はまだまだ続きます。
    というか、ここからが本番です(笑)

    本書は、いわゆる日本人の偉人伝ですが、やはりその最初に描くべきは初代神武天皇であろうと思いました。

    日本という国があるということは、当然のことながら「建国」があったということです。
    そして建国の理念は、必ずその国の方向性を決定づけます。
    これは、企業における創業理念が、その企業の原点となることと同じことです。

    もっというなら、自分の人生をいかようにするかは、年齢に関わりなく、自分の人生の出発点をどこに置くのかによって決まるといえます。

    人生の始まりは、もちろん生まれた時です。
    けれど、生きるための原点となる理念は、出生時ではありません。
    自分が、「こう生きる」と決めたとき、その出発点が、人生の理念であり、原点となります。

    近年は、その原点を、ただ「儲けたい」と考える拝金教の信者が増えているといわれています。
    もちろんなかには、幼年時代の貧しさから、拝金主義を理念とする人もあることでしょう。
    けれど多くの人は、そこを原点としない。

    米国では、(というより、米国の保守の人)たちが、近年、人生の原点としていることは、家族です。
    妻を、夫を生涯愛すると教会で誓ったその日から、生まれ、成人する子供たちをふくめて、家族への愛を人生の原点とする、また、誓った場所である教会を大切にする。寅さん支持層に多いタイプです。

    日本では、ボランティアなどに付く多くの人が、「人の役にたちたい」という原点を持っています。
    ここでいう「人」には、もちろん家族が含まれますが、それ以上に、日本全体を家族とする、つまり日本中がみんな家族なのだから、その家族のために働きたい、生きたいという人が数多くあります。

    それが日本の建国精神です。

    そうであれば、日本の建国精神や建国理念を学び、また建国の経緯を知っておくことは、これは日本人として不可欠な要素であるといえます。

    是非、本編をお手にとってお読みいただければと思います。

    子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』は、4月8日発売、現在、書店、通販等で、予約受付中です。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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