• 「人でなし」が最大の侮辱言葉となる国の素晴らしさ


    「人」というのは、ごくわずかな特定の人ばかりを指すものではありません。
    民こそが「おほみたから」であり、民衆のひとりひとりが、誰もが「人」として生きていくことができる社会こそが大事です。
    そうであればこそ、古来我が国では、「人でなし」を最大の侮辱言葉としてきたのです。

    20180524 5月の花
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    日本の社会は、誰もが「人」であることを重視してきた社会です。
    だからこそ盗みや争いごとをするような者のことを、「人でなし」と言いました。
    人であることを大切にした社会であるからこそ、最大の侮辱の言葉が「人でなし」だったのです。

    その日本が最近ではどうでしょうか。
    テレビや新聞の社会面は毎日「人でなし」の報道ばかりです。
    私たち日本人にとっての現在の未来の理想像は、「人でなし社会」なのでしょうか。
    そうではないはずです。

    日本は神話の昔から人々が、誰もが「よろこびあふれる楽しいクニ」を生きることができるように、あらゆる創意工夫と努力が払われ続けてきた国です。
    そういう国に生まれながら、私たちは子孫に「人でなしのクニ」を残すのでしょうか。

    『令集解(りょうのしゅうげ)』というのは、いまから千年以上前の西暦868年頃に編纂されたもので、惟宗直本(これむねのなおもと)という、当時の法律家の学者による、私的な養老令の注釈本です。
    律令は、律が刑法、令が民事法を意味します。
    我が国では律令はなんどか交付されていますが、内容を見ると民事法の令が主体で、律については、律自体が未完成であったり、注釈本もなかったりで、あまり重視されていなかった様子が伺えます。
    つまり我が国は律が不要なほど治安が良かったということです。
    『令集解』は、その民事法の令の解説書にあたるのですが、もともとは全部で50巻あったとされ、このうちの36巻が現存しています。

    さて、その『令集解』に『古記』として、いまから千三百年くらいまえの738年頃に成立した大宝令の注釈書が断片的に引用されています。
    さらにその『古記』のなかに、さらに古い文献が「一云(あるにいわく)」として引用されています。
    なんだかやっかいですが、『令集解』の中に『古記』が引用されていて、その『古記』が、さらにもっと古い文献を引用していて、それが「一云」として、『令集解』に書かれているわけです。
    つまり「一云」というのは、西暦でいうと5〜600年代の様子です。

    その「一云」として引用された文献の名前は伝わっていません。
    いませんが、これが実におもしろい史料なのです。
    なにが「おもしろい」かといいますと、6〜7世紀頃の日本の庶民の生活の模様が、そこに書かれているのです。
    この時代の天皇や貴族のことを書いたものはありますが、庶民生活の模様を書いたものはとてもめずらしいものです。

    では、どのように庶民の生活が書かれているのでしょうか。
    原文は漢文です。
    これをいつものねず式で現代語訳してみます。
    すごくおもしろいですから、ちょっと読んでみてください。

     ***

    日本国内の諸国の村々には、村ごとに神社があります。
    その神社には、社官がいて、人々はその社官のことを「社首」と呼んでいます。

    村人たちが様々な用事で他の土地にでかけるときは、道中の無事を祈って神社にお供え物をします。
    あるいは収穫時には、各家の収穫高に応じて、初穂を神社の神様に捧げます。
    神社の社首は、そうして捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付け、その利息を取ります。

    春の田んぼのお祭りのときには、村人たちはあらかじめお酒を用意します。
    お祭りの当日になると、神様に捧げるための食べ物と、参加者たちみんなのための食事を、みんなで用意します。
    そして老若男女を問わず、村人たち全員が神社に集まり、神様にお祈りを捧げたあと、社首がおもおもしく国家の法を、みんなに知らせます。

    そのあと、みんなで宴会をします。
    宴会のときは、家格や貧富の別にかかわりなく、ただ年齢順に席を定め、若者たちが給仕をします。

    このようなお祭りは、豊年満作を祈る春のお祭りと、収穫に感謝する秋のお祭りのときに行われています。


     ***

    いかがでしょうか。
    これがいまから1300年前の、日本の庶民の姿です。

    なかでも特徴的なのが、
    「宴会のとき、家格や貧富の別にかかわりなく、ただ年齢順に席を定め、若者たちが給仕をする」
    というくだりです。
    社会的身分や貧富による差異ではなく、ただ「年齢順」に席順が決まるというのです。

    集まる場所は神社です。
    その神社の氏子会館でお祭りの打ち合わせをし、終わればみんなでいっぱい飲む。
    こうした習慣は、いまでも全国各地に残っている習慣です。
    しかもおもしろいことに、お祭りの打ち合わせに集った人たちにとって、互いの社会的身分や地位などは、まるで関係ありません。
    「俺は◯◯社の部長だ」と言ったところで、お祭りの打ち合わせには何の関係もない。
    こうした伝統は、なんと千年以上も前から続いているものだということが、わかるのです。

    世界中どこの国においても、宴席であろうがなかろうが、席次は身分や力関係によります。
    ところが古くからの日本社会では、男女、身分、貧富の別なく、単純年齢順だというのです。
    しかもこうした習慣は、いまでもちゃんと残っています。

    このことが何を意味しているかというと、日本社会は古くから身分や貧富の差よりも「人であること」を重視してきた、ということです。

    と、ここまでが『令集解』の「一云」に書かれていることですが、実は、同じことが『魏志倭人伝』にも書かれています。
    『魏志倭人伝』は、3世紀の末に書かれたものです。
    つまりそこにあるのは、3世紀頃(西暦200年代)の日本の姿です。
    いまから1800年くらい前の様子です。

    何と書かれているかというと、
    その会同・坐起には、
     父子男女別なし。
     人性酒を嗜む

    です。

    会同というのは、簡単にいえば、お祭りの際の宴会のことです。
    その宴会の「坐起」つまり席順です。
    その席順には「父子男女別なし」とあるわけです。
    つまり、身分の上下や貧富の差や男女に関わりなく、みんなで酒を楽しんでいるよ、と書かれているわけです。

    つまり、この『魏志倭人伝』に書かれている3世紀後頃の日本の庶民の様子は、そのまま「一云」に書かれている日本の庶民の姿につながります。
    要するに我が国は歴史が途切れていないのです。

    もうひとつの「一云」の重要なポイントは、村人たち全員が集まった祭事のときに、「社首がおもおもしく国家の法を、みんなに知らせていた」というくだりです。
    このことは、中央政府の発する御触れ等が、神社のネットワークを経由して、全国津々浦々に情報が伝達されていたということを意味します。
    税の徴収や治安の維持等は国司の仕事ですが、民間へのさまざまな示達は神社がこれを担っていたわけです。

    いまでも収穫の季節には神社に「奉納」として米俵が積まれたり、お酒が備えられたりします。
    また神社の建物は、たいてい高床式の建物になっています。(岩などが御神体の神社は別です)。
    これが何を意味しているかというと、仏教伝来前の神社では、お米の収穫のための種籾の保管をし、翌年には苗を育て、その苗を各農家に配り、また災害時の備蓄食料は、神社がこれを保管していたということです。

    ある由緒ある、代々世襲の神社の宮司さんとお話したことがありますが、その宮司さんは、新米を食べたことがないといいます。
    新穀は万一のときの非常用備蓄食料として保存し、またそこから苗を育てる。
    備蓄米は、およそ二年分備蓄し、3年経過した古米から食べ始めるのだそうです。
    だから新米は食べたことがないと。

    このことを「一云」は、「神社の社首は、そうして捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付け、その利息を取ります」と記述しているわけです。
    いまはその役割を、地域の農協が行っています。
    つまり、古い時代の日本では、神社=農協であったわけです。

    『魏志倭人伝』に書かれている3世紀初頭の日本は、弥生時代の終わり頃にあたります。
    その弥生時代を担った人々は、縄文時代の日本人と同じ日本人です。
    その弥生時代の日本人が、大和朝廷を築き、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和を経て、平成のいまの世に生きています。

    そしてその間、ずっと日本は日本としての歴史は、断絶することなくつながっています。
    そうした日本の歴史において、村落共同体や神社のもっていた役割、あるいは祭事のもっていた役割は、とても大きなものであったといえると思います。
    そして、そういう社会基盤があったからこそ、日本は歴史がつながっています。

    『魏志倭人伝』は、他にも「盗窃せず、諍訟少なし」とあります。
    日本人は盗みをはたらかず、争いごとも少ないというのです。
    当然です。
    天然の災害の多い日本では、人々が日頃から互いに助け合って生きていかなければ、災害時に生き残ることさえも難しくなってしまうからです。

    近年の我が国では、大陸や半島の文化があたかも良いものであるかのように宣伝されてきました。
    天皇という紐帯を持たないそれら諸国諸民族では、自分と自分をとりまくわずかな家族しか信頼することができず、他人から物を奪い、自分だけが贅沢三昧な暮らしをすることが、あたかも正義であるかのように宣伝され、正当化されています。

    しかしそのことが多くの人々にとって、かならずしも愛と喜びと幸せと美しさのある人生をもたらさないことは、すこし考えたら誰の目にも明らかなことです。
    「人」というのは、ごくわずかな特定の人ばかりを指すものではありません。
    民こそが「おほみたから」であり、民衆のひとりひとりが、誰もが「人」として生きていくことができる社会こそが大事です。
    そうであればこそ、古来我が国では、「人でなし」を最大の侮辱言葉としてきたのです。

    ※この記事は2014年5月の記事のリニューアルです。

    日本をかっこよく!
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  • アッツ島の戦いと山崎保代中将


    山崎保代中将は、「いざ!」と声をかけました。そして古式にのっとり、左手に日の丸を持ち、右手で軍刀を抜き放ちました。古い昔から、我が国では左が上です。山崎中将は、攻撃部隊の先頭に立ちました。生き残った全員を引き連れて、先頭に立って山の斜面を駆け上って行きました。動ける者全員が、あとに続きました。
    突撃は、まさに鬼神とみまごうばかりのものでした。
    米軍は大混乱に陥りました。
    日本軍は、次々と米軍陣地を突破しました。
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    それでも日本軍の進撃は止まりません。
    そしてついに、米軍上陸部隊の本部にまで肉薄しました。あと一歩で上陸部隊の本陣を抜くところまで行きました。
    しかしここまできたとき、ようやく体勢を整えた米軍が、火力にものをいわせて、猛然と機銃で反撃に出ました。
    味方の兵が、バタバタと倒れました。そして山崎中将以下全員玉砕されました。
    戦いが終わり、静寂がアッツ島を包んだとき、累々と横たわった日本の突撃隊の遺体の先頭に、山崎中将のご遺体がありました。

    アッツ桜
    20180524 アッツザクラ
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    5月29日は、アッツ島守備隊が玉砕(昭和18年(1943))した日です。
    写真にある花は「アッツ桜」です。
    ちょうど今頃の季節に咲く花です。

    この花の本当の名前はロードヒポキシスといいます。
    原産地は南アフリカ共和国のドラケンスバーグ山脈周辺の高原です。
    北の外れのベーリング海峡に浮かぶ島の花ではありません。
    日本人だけが「アッツ桜」と呼んでいます。

    なぜこの花が日本で「アッツ桜」と呼ばれているのか。
    時は70年ほどさかのぼります。
    昭和18(1943)年5月のことです。

    カムチャッカ半島から、北米大陸のアラスカにかけて、転々と連なる島々がアリューシャン列島です。
    列島は、北米に近い方から順に、ラット諸島、ニア諸島と呼ばれています。
    そのニア諸島のいちばん西のはずれにある小さな島が、アッツ島です。

    昭和18年5月29日、アッツ島に進出していた日本軍2,650名が、約一ヶ月間にわたる激しい戦いの末、全員散華されました。
    その報に接したとき、ある園芸店の店主が、アッツ島守備隊の方々の死を悼んで、店頭にあったロードヒポキシスに、「アッツ桜」と名前を付けました。

    アッツ桜は、桜科の植物ではありません。
    ユリ科です。
    球根植物です。
    ひとつの球根から伸びた茎の先に、一輪の美しい花を咲かせます。

    けれどきっとアッツ桜と命名した園芸店主は、国を想い北の果てで散って行かれた島の守備隊の面々に、この花を捧げたかったのだろうと思います。
    たった一軒の、小さな花屋さんの小さな名付けが、宣伝など何もしなくても、あっという間に全国に広がりました。

    いまもこの花は、花屋さんの店頭で「アッツ桜」として売られています。
    日教組やマスコミが、いくら自虐史観を刷り込んでも、日本人の心には、人の痛みを知る心がちゃんと残っているのです。

     *

    アッツ島の戦いは、大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となった戦いです。
    アッツ島は米国アラスカ州アリューシャン列島のニア諸島最西部にある島です。
    日本は、この島に昭和17(1942)年9月18日に進出しています。
    駐屯隊の人数は、2,650名です。
    全部が軍人ではありません。ほとんどが土木作業員でした。
    理由は、ここに領土防衛のための飛行場を建設するためでした。

    米国にしてみれば、西の外れの島嶼であり、人も住まず、米国沿岸警備隊の巡回以外には誰も上陸さえしないところであるとはいえ、米国領土の一部が日本によって占領されたわけです。
    ですから米国は、まさに大軍を用いて、この島の奪還を計っています。

    領土というのは、それほどまでに大切なものなのです。
    我が国は竹島や北方領土を勝手に専有されて抵抗さえしませんが、それは本来の国家のあるべき姿ではないのだということを、私たちは学ぶ必要があります。

    アッツ島の北側面


    そのような次第から米国は、昭和18年には、大艦隊を率いて、アッツ島にやってきました。
    そのときのアッツ島守備隊の司令官は、山崎保代(やまさきやすよ)大佐(没後二階級特進で中将、以後中将と呼びます)でした。
    山崎中将は、いよいよ米軍が攻めて来るとなった昭和18(1943)年4月18日、アッツ島に赴任となったのです。

    山崎中将は、山梨県都留市の出身です。
    代々僧侶の家でした。
    子供のころからたいへん優秀で、名古屋の陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校は25期生です。
    陸軍任官後は、シベリアに出兵し、昭和3年の斉南事件にも出動しています。

    ※斉南事件
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2249.html

    潜水艦でアッツに到着した山崎大佐は守備隊に、水際防御ではなく、後の硫黄島と同じ敵を島の内部に引き込んで戦う作戦を指示しました。

    アッツ


    中将は、もし米軍がこの島を攻めてくるなら、きっと大艦隊・大部隊でくるだろうと予測していたからです。
    敵は大部隊、こちらは、わずかな兵力です。
    けれど、その米軍を一日でも長くこの島にひきつけ、寡兵で彼らと五分の戦いをするには、内陸部に引き込んで戦う以外にないと、情勢を読んだのです。

    はたして守備隊の前に、5月5日米軍があらわれました。
    予想通りの大艦隊です。
    米軍は、戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」、護衛空母「ナッソー」に加え、多数の輸送艦を引き連れていました
    上陸部隊の人数だけでも、1万1000人という大部隊です。

    守る日本軍は、わずか2,650名。
    このうち純粋な戦闘員は、半数もいません。

    アッツ島の日本兵


    アッツ島のあたりは、たいへん深い霧が発生するところです。
    米軍は、洋上で天候回復を待ち、5月12日に島への上陸作戦を開始しました。
    やり方は、その後の島での戦いと同じです。
    小さな島いっぱいに、アリの這い出る隙間もないくらい艦砲射撃と空爆を行ってから、大部隊を上陸させるのです。

    山崎大佐率いる守備隊は、地中に掘った穴に隠れて、その艦砲射撃と空襲をやり過ごしました。
    巨大な爆弾が落ちる度に、穴の中は地面が振動し、天井が崩れ落ちました。
    けれど、じっと我慢しました。
    いよいよ海岸線に敵が上陸してきても、何もしないで、じっと我慢しました。

    そして敵がいよいよ島の奥深くまで侵入して来たとき、山崎中将以下の兵達は、一斉に火砲の火ぶたを切りました。
    そして激しい戦いの末、米軍の第17連隊を壊滅し、さらに一個大隊で押し寄せた米軍と真っ向から対峙して、これを海岸線まで退けました。

    しかし、衆寡敵せず。
    約二週間の昼夜をわかたぬ激闘の末、日本側は28日までにほとんどの兵を失ってしまいました。

    この戦いに参加した辰口信夫軍医が遺した日記が、後日、米軍によって発見されています。
    辰口医師の日記は 敵上陸の1943年年5月12日から始まって、玉碎前日の29日で終わっています。
    そのわずか18日間の短い日記です。

    5月29日の最後の日記を引用します。
    「夜20時、地区隊本部前に集合あり。
     野戰病院も参加す。
     最後の突撃を行ふこととなり、
     入院患者全員は自決せしめらる。

     僅かに33年の生命にして、
     私はまさに死せんとす。
     但し何等の遺憾なし。
     天皇陛下萬歳。
     聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとするところなり。

     18時、総ての患者に手榴弾一個宛渡して注意を与へる。

     私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻妙子よ、さようなら。
     どうかまた合う日まで幸福に暮らして下さい。

     美佐江様
     やっと4歳になったばかりだが、
     すくすくと育ってくれ。
     睦子様
     貴女は今年2月生まれたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。
     政様 お大事に。

     こーちゃん、すけちゃん、まさちゃん、みっちゃん。
     さようなら。」

    辰口氏は、軍医です。
    おそらくは山崎中将と、最後までご一緒されたのでしょう。

    文中にあるように、29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決したあと、山崎中将は、まだ動ける生存者全員、本部前に集合させています。
    集まった兵は、この時点でわずか150名です。

    山崎中将は、今日までよくぞ戦ってくれたと、ひとりひとりをねぎらいました。
    次に、通信兵に
    「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」
    との電文を本部に打電するよう命じました。

    中将は、
    「いざ!」
    と声をかけました。
    そして左手に日の丸を持ち、右手で軍刀を抜き放ちました。
    これもまた古式にのっとったものです。
    古い昔から、我が国では左が上位です。

    山崎中将は、攻撃部隊の先頭に立ち、生き残った全員を引き連れて、先頭に立って山の斜面を駆け上って行きました。
    動ける者は、残る全員、あとに続きました。
    死ぬ、とわかってもなお、最後の特攻攻撃を行ったのです。

    突撃は、まさに鬼神とみまごうばかりのものでした。
    米軍は大混乱に陥りました。
    日本軍は、次々と米軍陣地を突破しました。

    米兵の死体がそこらじゅうに転がりました。
    それでも日本軍の進撃は止まりません。

    そしてついに、米軍上陸部隊の本部にまで肉薄しました。
    あと一歩で、上陸部隊の本陣を抜くところまで行きました。

    しかしここまできたとき、ようやく体勢を整えた米軍が、火力にものをいわせて、猛然と機銃で反撃に出ました。
    味方の兵が、バタバタと倒れました。
    そして山崎中将以下、全員が玉砕されたのです。

    戦いが終わった後、累々と横たわる日本の突撃隊の遺体の先頭には、山崎中将のご遺体がありました。
    これは米軍が確認した事実です。

    これは不思議なことです。
    山崎中将は、突撃攻撃の最初から、先頭にいたのです。
    先頭は、いちばん弾を受けます。
    おそらく途中で何発も体に銃弾を受けたことでしょう。
    その度に、倒れられたかもしれません。

    それでも中将は、満々たる闘志だけで、撃たれては立ち上がり、また撃たれては立ち上がって、そしてついに味方の兵が全員玉砕したときにも、山崎中将は突撃隊の先頭に這い出て、こときれたのです。

    享年51歳でした。
    山崎大佐以下、2,650名の奮戦については、米軍戦史において、次のように書かれています。
    「突撃の壮烈さに唖然とし、
     戦慄して為す術が無かった。」
    そしてさらに米軍戦史は、山崎大佐をして「稀代の作戦家」と讃えています。

    山崎保代中将
    山崎保代中将


    このアッツ島の玉砕戦について、当時大本営参謀だった瀬島竜三氏が、その手記「幾山河」の中で、次のような事実を書かれています。

    「アッツ島部隊は非常によく戦いました。
     アメリカの戦史に
     『突撃の壮烈さに唖然とし、
      戦慄して為す術が無かった』
     と記されたほどです。
     それでもやはり多勢に無勢で、
     5月29日の夜中に、
     山崎部隊長から参謀総長あてに、
     次のような電報が届きました。

     『こういうふうに戦闘をやりましたが、
      衆寡敵せず、
      明日払暁を期して、
      全軍総攻撃をいたします。
      アッツ島守備の任務を果たしえなかったことを
      お詫びします。
      武官将兵の遺族に対しては、
      特別のご配慮をお願いします』

     その悲痛な電報は、
     『この電報発電と共に、
      一切の無電機を破壊をいたします』と、結ばれていました。

     当時アッツ島と大本営は無線でつながれていたのですが、
     全軍総攻撃ののちに
     敵に無線機が奪われてはならないと破壊し、
     アッツ島の部隊は玉砕したわけです。

     この種の電報の配布第一号は天皇です。
     第二号が参謀総長、
     第三号が陸軍大臣となっていまして、
     宮中にも各上司の方には全部配布いたしました。

     そして翌日九時に、
     参謀総長・杉山元帥がこのことを
     拝謁して秦上しようということになりまして、
     私は夜通しで上秦文の起案をし、
     御下問奉答資料もつくって、
     参謀総長のお供をして、
     参内いたしました。
     私どもスタッフは、
     陛下のお部屋には入らず、
     近くの別の部屋に待機するわけです。

     それで杉山元帥は、
     アッツ島に関する奏上を終わらせて、
     私が待機している部屋をご存じですから、
     『瀬島、終わったから帰ろう』と、こうおっしゃる。

     参謀総長と一緒に車に乗るときは、
     参謀総長は右側の奥に、
     私は左側の手前に乗ることになっていました。
     この車は運転手とのあいだは、
     厚いガラスで仕切られていました。

     この車に参謀総長と一緒に乗り、
     坂下門を出たあたりで、
     手帳と鉛筆を取り出して、
     『今日の御下問のお言葉は、
      どういうお言葉がありましたか。
      どうお答えになりましたか。』
     ということを聞いて、
     それをメモして、
     役所へ帰ってから記録として
     整理するということになっていました。

     車の中で何度もお声をかけたのですが、
     元帥はこちらのほうを向いてくれません。
     車の窓から、ずっと右の方ばかりを見ておられるのです。
     右のほう、
     つまり二重橋の方向ばっかり見ておられるわけです。

     それでも、その日の御下問のお言葉と参謀総長のお答えを伺うことが私の任務ですから、
     『閣下、本日の奏上はいかがでありましたか』と、重ねてお伺いしました。

     そうしたら、杉山元帥は、ようやくこちらのほうに顔を向けられて、
     『瀬島、役所に帰ったら、
      すぐにアッツ島の部隊長に電報を打て』
     と、いきなりそう言われた。

     それを聞いて、
     アッツ島守備隊は無線機を壊して突撃してしまった
     ということが、すぐ頭に浮かんで、
     『閣下、電報を打ちましても、
      残念ながらもう通じません』と、お答えした。

     そうしたら元帥は、
     『たしかに、その通りだ』と、うなずかれ、
     『しかし陛下は自分に対し
      アッツ島部隊は最後までよく戦った。
      そういう電報を、杉山、打て』
     とおっしゃった。
     だから瀬島、電報を打て」と、言われた。

     その瞬間、ほんとに涙があふれて……。

     母親は、事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。
     陛下はそう言うお気持ちなんだなあと、
     そう思ったら、もう涙が出てね、
     手帳どころじゃなかったですよ。

     それで、役所へ帰ってから、陛下のご沙汰のとおり、
     『本日参内して奏上いたしたところ、
      天皇陛下におかせられては、
      アッツ島部隊は
      最後までよく戦ったとのご沙汰があった。
      右謹んで伝達する』
     という電報を起案して、
     それを暗号に組んでも、
     もう暗号書は焼いてないんですが、
     船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて、
     電波を送りました。」

    なぜそこまでして、私たちの父祖は戦ったのでしょう。
    敵の大艦隊、味方の4倍以上もの大部隊、圧倒的な火力を持つ敵に対して、最初から勝ち目がないことは、誰の目にもあきらかだったことでしょう。
    それでもなお、白旗をあげることなく、最後まで戦いました。
    どうしてでしょう。

    このことについて、西洋史にもその答えの一部を見ることができます。
    近世までのヨーロッパでは、各国ごとに国王がいました。
    国王は国境の利権のために、隣国と戦争をしました。

    兵は傭兵です。
    傭兵は体が資本ですから、死んでしまっては稼ぐことができません。
    ですから、少しだけ戦って、負けそうになったら、すぐに白旗を掲げるし、その場から逃げ出しました。

    指揮官は貴族です。
    その貴族は、跡取り息子が近衛兵として国王の側近に仕えていました。
    前線でその貴族が裏切れば、息子が処刑されるという関係にありました。

    ですから戦いは形ばかりで、負けそうなら最初から戦わないし、いきなり攻められて負けそうになったらすぐに降参して、次の機会を待つというのが一般的でした。
    ところがナポレオンが登場して、国民国家という概念が生まれ、兵たちは自ら志願して、国のためにどこまでも、いつまでも戦うようになりました。

    戦えばすぐに逃げる兵と、どこまでもいつまでも戦い抜く兵の戦いです。
    ナポレオンの軍はヨーロッパ最強となり、戦争の様態を大きく変化させました。
    そしてこれ以降、君主国であっても法のもとに国民と利益を共有するという立憲君主制が生まれ、あるいは国民国家としての民主主義国が誕生するようになりました。
    なぜなら民主国家の兵の方が、君主国の傭兵よりもはるかに強かったからです。

    ナポレオンというのは、18世紀の後半から19世紀の初頭にかけて生きた人です。
    つまり西洋における国民国家という概念は、18世紀以降になってようやく生まれた概念であるわけです。

    ところが日本では、7世紀には公民(おほみたから)という概念がありました。
    国家最高の存在であられる天皇は国家最高の権威であって、政治権力の行使をしません。
    政治権力を行使するのは、太政官であったり、関白であったり、将軍であったり内閣総理大臣であったりと、名称や職権は時代とともに変化していますが、役職者が政治権力を担いました。
    その役職者に、認証を与えるのが、天皇の役割です。
    政治権力を与えられた政治権力者(役職者)が統治する対照は、国家最高の権威である天皇の「たから」たちです。
    こうした社会体制の仕組みを「シラス(知らす、Shirasu)」といいます。
    日本は天皇のシラス国なのです。

    このことについて拙著『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』のAmazonレビューで、温泉大好きさんが極めて明快なコメントを書いてくださいました。
    以下引用します。

    「多くの日本人は、
     『天皇との紐帯を
      日々実感しながら
      生きることが出来るという、
      日本人だけに許された特権は、
      日本人以外の全ての人間にはなく、
      彼らは悉(ことごと)く、
      そのような実感を享受できない
      気の毒な状態に置かれている。』
     という当たり前の事実を理解できない。
     この実感を享受できないことが、
     どれほど不憫なことであるかは、
     数多くの事例が示してくれている。
     彼らにとっては、
     わずかな身内以外は、
     たとえ同じ国籍の人間であっても
     得体の知れない他人であり、
     彼らの犠牲の上に
     自分だけがいい思いをすることに
     何の痛痒も覚えない。
     だから、ヨーロッパでもアメリカでも、
     大企業の経営者は、
     日本人が首を傾げるような法外な報酬を手にして踏ん反り返り、
     恬(てん)として恥じない。
     中国でも共産党幹部が、
     これまた法外な資金を海外に貯め込んでいることは、
     周知の事実である。
     また総務省が毎年刊行している『犯罪白書』によると、
     ヨーロッパの主要国の犯罪発生率は、
     日本のおおむね5~6倍である
     (アメリカは約3倍だが、
      これは単に、把握されていない
      犯罪が多いからに過ぎない)。
     これこそが、
     二言目には「神」の名を口にする人たちの実態である。
     如何に宗教を信仰しようと、
     おおみたからの実感が得られないと、
     人心はここまで荒廃するのである。」

    日本人は、誰もが天皇を尊敬しています。
    けれどそれは、特定宗教団体が◯◯会長を個人崇拝しているというのとは、まるで違います。
    天皇という存在によって、わたしたちひとりひとりが私有民や私有物とならない自由を与えられている。
    そのことへのありがたさと感謝が日本人にとってあたりまえの感覚です。

    だからこそ、一兵卒に至るまで、たとえ我が身を銃弾で失っても、なお、戦い、守るべき大切なものを護ろうとしたのです。
    同時に山崎中将は、そういうたいせつな大御宝である兵達の命を、自分の命令ひとつで失わせてしまうという責任の重さの自覚があるからこそ、這ってでも突撃隊の先頭に出られて絶命されたのです。

    果たして現代日本人にできるでしょうか。
    体の半分を吹き飛ばされても、それでも前に出て戦うことが。

    かつて日本人は、そういう意味で一体となった国でした。
    そしてその民の心を、陛下ご自身もよくご理解してくださっていました。
    だからこそ陛下は、誰もいなくなったアッツに向けて、電文を飛ばすようにお命じになられたし、それを聞いてみんなが涙をこぼしたのです。
    日本は、そういう国です。
    兵が死んだのが、奴隷が死んだのと同じと思う国なら、こういうことは起こりません。

    そしてアッツで立派に戦い散って行かれた仲間たちがいて、その仲間たちの死を悼んだ園芸店主がいて、その花に「アッツ桜」と名前をつけたら、誰も宣伝などしていないのに、いつの間にか日本中のみんながその花を「アッツ桜」と呼んでいるのです。
    それは、いまも続いています。

    私は、アッツ島で戦い、散って行かれた山崎中将以下2,650名の英霊の方々を誇りに思います。
    そして同時に、この赤い小さな花に、彼らへの追悼と感謝の心をこめて「アッツ桜」と命名し、その名を今に伝えている日本人という民族を、とても誇りに思います。

    アッツ島に散っていかれた英霊に感謝。

    日本をかっこよく!
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  • 深くて温かい日本古来の『結び』の知恵


    縄文の女神像に象徴されるように、日本人は1万年以上もの昔から、女性にある種の神秘を感じ、女性を大切にしてきました。
    男女とも互いに対等であり、互いの違いや役割をきちんと踏まえて、お互いにできることを相手のために精一杯こなしていこうとしてきました。
    日本人は、そうやって家庭や村や国としての共同体を営んできました。
    これが「結び」です。
    日本人の知恵は、はるかに深くて温かなものなのです。

    山形県舟形町にある西ノ前遺跡出土・縄文の女神像
    20220529 縄文の女神
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%A5%9E
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    結婚したカップルのことを「夫婦」といいますが、実はこれは戦後から使われるようになった言葉です。
    戦前は「めおと」という言葉を使っていました。「めおと」は漢字で書いたら「妻夫」で、「妻」が先、「夫」が後です。

    現代でも多くの男性が妻のことを「かみさん」と呼びますが、それは女性が家の神様だからです。なぜ神様なのかは、縄文時代の土偶から推測することができます。
    子を産む力は、女性にしか備わっていない。
    命を産み出す力は、まさに神様の力です。
    さらに、日本の最高神は天照大御神様であられ、それは女性神であるといわれています。

    おもしろいもので、今から1400年ほど前に渡来した仏教では、「女人五障説」などといって、女性はけがれていて成仏も悟りも開くこともできないと説かれていました。
    もっとも宗派によっては女人成仏を説いたり、女性が最高の称号を授与されたりするものもあるそうですから一概にはいえません。

    ついでに申し上げると、キリスト教では、女性のイブは、アダムの肋骨の一本から生まれ、神の戒めを破ってリンゴの実をかじり、エデン追放の原罪を作った悪者とされています。
    宗教家のマルティン・ルターは、
    「女児は男児より成長が早いが、そ
     れは有益な植物より雑草のほうが
     成長が早いのと同じである」
    などと説いています。ちょっとひどい言い方ですね。

    西洋はレディー・ファーストの文化もあり、日本人からすると女性がとても大切にされているように見えますが、西洋文化の根源になっている宗教観は、どうやら違っているようです。

    イスラム教では、コーランに、「女は男の所有物である」と書かれています。

    「どの宗教が正しいか」といった、宗教論争をするつもりは毛頭ありません。
    むしろ、そのように対立的に物事をとらえること自体、いかがなものかと思っています。

    大切なことは、「そこから何を学ぶか」という謙虚な姿勢だと思うからです。
    なぜ学ぶのかといえば、先人の知恵を活かし、自分自身の人生や集団や社会の新しい未来を築くためです。
    頭から否定するのでは、そこから何も学べません。
    対立ではなく、活かすこと。

    日本は八百万の神々の国だといわれますが、つまり日本は多神教国家であるということです。
    多神教国家は世界にカ国ありますが、日本はその中で世界最大の人口を持つ国家です。

    宗教によりひとつの価値観(神)しか認めないとなると、異なる価値観とは常に「対立的」になります。
    一方、多神教というのは、多様な価値観を認めるということで、さまざまなものからいいところを学び、活かしていきます。
    だから、日本には太古の昔から、宗教間で起きるような対立に関して、概念そのものがありません。

    そもそも日本人は対立を好みません。
    たとえば、縄文時代でも男と女はどちらも不可欠な存在なのだから、互いに協力し合い、共存して、互いのいいところや特徴を活かし合いながら、一緒に未来を築いてきたのです。

    これは「対立関係」ではなく、「対等な関係」です。
    そして「対等」とは、相手をまるごと認めながら、双方ともに共存し、共栄していこうという考え方です。

    女(メス)には子を産む力が備わり、男(オス)には体力があります。
    縄文時代は女が安心して子を産み育てることができるよう、外で一生懸命働いて、産屋を建て、村の外で食料を得てくるのが男の役割でした。
    そうすることで愛し合う男女は子をもうけると、今度は子どもたちの未来のために、互いに役割分担して共存し、協力し合って、子どもたちの成長を守り、子孫を繁栄させます。

    実際問題、学者や評論家たちは、ジェンダーフリーだとかいろいろなことをいいますが、現実ではどのご家庭でも、妻と夫が互いに相手の尊厳を認め合い、助け合い、支え合う対等な存在として生きているのではないでしょうか。

    だいたいよく漫談などにありますが、結婚前には「俺は亭主関白になる」などと大見得をきっていた夫も、結婚してからは妻に頭が上がらない、という話が多いのではないでしょうか。
    「誰のおかげで生活できていると思っているんだ!」なんてセリフとんでもない。
    給料だっていったんは全部妻にわたし、夫は妻からおこづかいをもらうという家庭が大半です。

    このシステムは日本ならではです。
    男尊女卑、女尊男卑、あるいはジェンダーフリーといったものは、基本的にその発想のもとに「対立」があります。
    けれど、そもそも男女を「対立」と考えること自体おかしなことです。
    この世には男と女しかいないのです。
    大切なのは互いの違いをしっかりとわきまえ、お互いにできること・できないことを区別して、互いの良い点を活かしていくことだと思います。
    それが「対等」です。

    根っこのところに、そういう「対等」という観念がないから、
    「男女は、互いの権力の確保と
     相手に対する支配のために、
     常に闘争をする存在」などというおかしなご高説がまかり通ったりするのだろうと思います。

    縄文の女神像に象徴されるように、日本人は1万年以上もの昔から、女性にある種の神秘を感じ、女性を大切にしてきました。
    男女とも互いに対等であり、互いの違いや役割をきちんと踏まえて、お互いにできることを相手のために精一杯こなしていこうとしてきました。
    日本人は、そうやって家庭や村や国としての共同体を営んできました。
    これが「結び」です。
    日本人の知恵は、はるかに深くて温かなものなのです。


    ※小名木善行著『縄文文明』P40より

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  • 良い未来くんに来てもらうには


    日頃から整理整頓をきちんとして、あたたかく未来くんをお迎えできるように、生活にも余裕をもたせていく。
    そうすると類は友を呼びますから、良い未来くんがやってきます。
    反対に、なんでもかんでも捨てることばかり、小さくなることばかりしていたら、やってくる未来くんも、小さな未来しかやってきません。

    20220526 未来
    画像出所=https://www.irasutoya.com/2017/05/blog-post_48.html
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    最近は断捨離(だんしゃり)なんて言葉が流行っていて、なんでもかんでも捨てよう、身を縮めようということがもてはやされているのだそうです。
    なにかに願掛けを行う場合も、「酒を辞めます」とか「タバコを辞めます」とか、とにもかくにも、止めるたり、絶ったりすることばかり。
    どうもなじめないのです。

    現実問題として、日本経済はこの30年間ずっと横ばい。
    おかげで30年間のグロスのGDPの伸びは、世界212カ国中、第211位。
    やった!ブービー賞だ!などと喜んでいる場合ではないのです。
    経済成長が下位だった諸国は、どこもみんな内乱状態あって政府がまったく機能しなかった国々です。
    そんな諸国よりも、日本の経済成長は低かったのです。
    これは笑えない話です。

    この30年間、政治は、様々な改革と称することをやってきました。
    改革によって経済を活性化させるのだ!と言い続けてきました。
    けれど、これが現実です。

    日本の大卒の初任給は20万円。
    30年前も20万円。
    30年前には米国も20万円でした。
    けれど、いまの米国は45万円です。

    そんな経済が成長しない中にあって、メディアを通じて盛んに
    「断捨離しよう」
    「何かを我慢しよう」
    ということが言われ続けてきました。

    経済が成長しないのですから、庶民が自衛のために、それまで普通にしていた贅沢や嗜好を罷めるというのは、それはやむを得ない選択といってしまえばそれまでなのですが、どうにも納得できないのです。

    いまから半世紀ほど前になるでしょうか。
    月賦百貨店の丸井が、テレビのCMで
    「なにかひとつは贅沢を」
    というキャッチコピーを流してたいへんな評判になりました。

    背広でもドレスでも宝石でも時計でも、コーヒーでも、何かひとつくらいは贅沢をしようではないか、というこのコピーは、国内消費を活性化し、その後の高度成長経済を支える要素のひとつとなったといわれています。

    早い話、クルマも同じです。
    いまどきのクルマは、20万キロくらい走ってもびくともしないし、ちゃんとメンテしていれば40万キロくらい、普通に走り続けることが可能です。
    それだけ性能も耐久性もあがっているからです。

    けれど、高度成長の頃は、3万キロくらいで買い替えのサイクルに入っていました。
    6万キロも乗ったら過走行車といわれ、10万キロ乗ったら、いつ壊れるか不安とさえいわれたものです。
    ですからいきおい買い替えが盛んに行われ、そのことが車の消費を支え、メーカーの売上を伸ばし、雇用を生んでいました。
    いまでも車関係の従事者は、その家族を含めればおよそ2千万人と言われています。人口の6分の1です。

    いまでは、国内のクルマの買い替えのサイクルは、7.1年なのだそうです。
    さらに自動車保有世帯の3分の1は、10年以上、同じ車に乗り続けているというデータもあります。
    けれど消費者側の買い替えの希望サイクルは3年です。
    ここに乖離があります。
    その乖離を埋めるのが、政治の役割です。
    やればできるのです。
    なぜなら、日本は戦後、それをやってきたし実現してきた実績を持つからです。

    なんでもそうですが、物事が進まないというのは、
     やる気がない
     やる能力がない
    のふたつにひとつか、その両方です。

    日本の経済が30年間横ばいで成長がなかったということについて、日本に、景気を上向かせるだけの能力がなかったということは、まずありません。
    昔もいまも、日本人の能力は高い。

    ということは、日本経済が上向かなかったのは、そうしようとするやる気が政治になかったということです。
    日本経済をよくしない政治なんて、政治の名に値するのでしょうか。
    そもそも必要なのでしょうか。

    昔の人は未来のことを、未だ来ていないお客様だと考えていました。
    どのようなお客様に来ていただくのかは、いまの心がけ次第だというわけです。

    日頃から整理整頓をきちんとして、あたたかく未来くんをお迎えできるように、生活にも余裕をもたせていく。
    そうすると類は友を呼びますから、良い未来くんがやってきます。
    反対に、なんでもかんでも捨てることばかり、小さくなることばかりしていたら、やってくる未来くんも、小さな未来しかやってきません。

    断捨離は良いことです。
    ですからそれを否定はしません。
    しませんが、加点方式で、何かを得ていく、そういう選択があっても良いように思います。

    ちなみに願掛けをするとき、多く人が「なにかを罷める」という方向に向かいますが、筆者は逆に、何かひとつ、あたらしいことをする、という方向に進むことにしています。
    良い未来に来てもらうためには、やはり来てもらえるように成長しなければならないと思うからです。


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  • 万物すべてに心あり


    かつて婚礼の儀に際しての定番となってたお能の謡曲の「高砂」。
その「高砂」は、自然界の生きとし生けるものは、草木土砂や風の動きや水の音にまで、すべて私たち人間と同じ「心」が宿っていると説く演目です。そこから自然界のもたらす四季の流れにさからうことなく、自然体で生きるという思考や行動が生まれ、そのことが千年の松のように末長い夫婦の愛をもたらすと謡(うた)っているのです。


    20220526 高砂
    画像出所=https://sandaya-honten.co.jp/takasago-last-minute-lecture/
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    お能に「高砂(たかさご)」という演目があります。
    このお能で謡(うた)われる謡曲の中の一節は、かつては婚礼の儀に際しての定番曲となっていました。
    以下のものです。

     高砂や
     この浦(うら)船(ふね)に帆(ほ)をあげて
     この浦(うら)船(ふね)に帆(ほ)をあげて
     月もろともに出(い)で汐(しほ)の
     波の淡路(あはぢ)の島影(しまかげ)や
     遠く鳴尾(なるを)の沖(おき)すぎて
     はや住の江に着(つ)きにけり
     はや住の江に着(つ)きにけり


    舞台は9世紀の醍醐天皇の治世に播磨国(いまの兵庫県)の高砂の浦に立ち寄った神主(かんぬし)のもとに、一組の老夫婦が現れるところからはじまります。
    その老夫婦に神主が、
    「このあたりに高砂の松があると聞きました。
     それはどの木のことを言うのですか?」とたずねます。すると老人が、
    「いまワシが木陰を清(きよ)めているこの木が
     高砂の松ですよ」と答える。

    神主が続けて、
    「住之江(大阪市住之江区)の松に
     相生(あいおひ)の名がありますな。
     ここと住吉とは遠く国を隔(へだ)てているのに、
     どうして相生の松というのでしょう」
    このように問うと、
    「つまらないことを言うものではありません。
     山海万里(さんかいばんり)隔(へだ)てていても、
     心はたがいにつながるものです。
     妹背(いもせ)の道は遠くないのです」
    と老人が答えるわけです。

    「妹背(いもせ)の道」というのは、現代語では「夫婦の道」と訳されますが、実はもう少し深い意味があります。
    妹は妻のことですが、その妻を背負っての人生の道が妹背です。
    逆に妻が背負った夫のことは「吾が背子(せこ)」と言います。
    たがいに背負い、背負われて、ともに人生をすごすのが、夫婦(めおと)の道とされてきたのです。

    近年は通勤カバンにもリュックが流行るようになりました。
    手で持つカバンに比べて、リュックは両手が使えるだけでなく、重たい荷物でも背負えば、割と楽に持ち運ぶことができます。
    では、そのリュックが、人の体重程もあったらどうでしょう。
    背中の荷物が肩に食い込む。
    足腰に重量がかかる。
    昔の人の「荷を背負う」は、いまのリュックより、かなり重たいものであったのです。

    そんな重たい荷物より、実はもっと重たい荷物が、互いの配偶者というわけです。
    重い荷物を背負って長い道のりを行けば、途中で荷物を放り出したくもなる。
    けれど、さいごまでそれを背負っていかなければ、彼岸にたどり着くことができないのです。
    だから背負う。
    だから歩く。

    「人の世は重き荷を背負いて坂道をゆくが如し」と説いたのは徳川家康ですが、その言葉は、室町前期のお能の演目に、すでにちゃんと説かれているわけです。

    お能は、武家文化として定着したもので、およそ殿様と呼ばれる人であれば、お能の謡曲の何曲かは、みずから舞い踊り、また謡曲も暗誦できたものでした。
    当然、その謡曲の意味もしっかり学ぶ。
    意味がわからなければ、舞えないのです。当然のことです。

    そして殿が舞う謡曲に、この「高砂」などがあるわけです。
    加えて「高砂」は、婚礼の際の謡いとして、広く世間一般にも知られた曲でした。
    つまり「高砂」は、世間の常識であったわけです。
    そしてその常識が、配偶者をして「降ろすことのできない生涯背負った背中の荷物」というものであったわけです。
    さらにその常識は、配偶者が互いに遠く離れていても(物理的に離れていても)、どんな遠くにあったとしても、互いに心は繋がっている。
    それを象徴しているのが、相生(あいおい)の松だ、というわけです。

    この点は、西洋風の恋愛至上主義と、我が国の夫婦の道という文化の違いでもあります。
    西洋では、もともと女性はゼウスが男性を堕落させるためという目的をもって造ったものという原理があり、男性が美しい女性を手に入れて所有するまでだけを重視します。
    これに対し日本の文化は、もとより男女は対等な存在であり、その対等な男女が晴れて夫婦となってからの長い歳月を重視します。

    お見合い結婚などがその典型で、極端に言えば、恋愛期間などなくてもよろしい、というのが日本的価値観であったわけです。
    なぜなら、夫婦の愛は、燃えるものではなくて、育むものだからです。
    燃える炎はいつかは消えます。
    しかし育む愛は永遠のものです。

    お能は、こうした神主と老夫婦のやり取りからはじまるのですが、いくつかの名言が謡曲のなかに含まれます。
    たとえば、

    「それ草木、心なしとは申せども、
     花実(くわじつ)の時をたがえず
     陽春(やうしゆん)の、
     徳をそなえて南枝(なんし)の花は
     はじめてひらく」

    草木には心がないというけれど、四季の花は咲く時期を間違えないでしょ?
    しかもそのことは、千年の時を超えても変わることがない。
    つまりちゃんと、ルールを違えずに生きている。
    生きているということはつまり、心がある、ということだと言うわけです。

    「草木土砂、風声水音まで、
     万物にこもる心あり。
     春の林の東風(こち)に動き、
     秋の虫の北露(ほくろ)に鳴くも
     皆、和歌の姿ならずや」

    草木土砂や風の動きや水の音など、あらゆるものには、人と同じく「心」がある。
    「和歌の姿」というのは、察する姿です。
    あらゆるものが、互いの心を察し合って生きている。
    そして「察する心」には、物理的距離など関係ないのです。

    そういうことを大切にしてきたのが、日本の文化です。

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  • 心あてに折らばや折らむ


    政治のことを「色物(いろもの)」と言います。
    虹を見たらわかります。
    虹は七色と言われ、虹を見ると赤から黄色、青の色があるのがわかりますが、ではどこまでが赤で、どこから黄色になり、青になるのか、その境界線はきわめて曖昧です。
    しかし境界は曖昧でも、それでもやっぱり赤は赤、青は青です。

    20190425 凡河内躬恒
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    百人一首の29番に凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌があります。

     心あてに折らばや折らむ
     初霜の置きまどはせる白菊の花

    (こころあてに おらはやおらむ はつしもの
     おきまとはせる しらきくのはな)

    歌を現代語訳すると、
     あてずっぽうにでも、折れるなら折ってしまおう。
     初霜が降りているのと見惑わせる白菊の花
    となります。

    凡河内躬恒は、身分は決して高くなかった人ですが、後年、藤原公任(ふじわらの きんとう)によって、三十六歌仙のひとりに選ばれました。
    紀貫之(きの つらゆき)とも親交のあった和歌の世界のエリートです。
    そしてこの凡河内躬恒は、たいへんに思慮深い、深みのある歌を多く詠む大歌人(詠み口深く思入りたる方は、又類なき者なり)と言われた人でもあります。

    ところがこの歌を正岡子規は、
    「初霜が降りたくらいで
     白菊が見えなくなるわけがないじゃないか」
    と酷評しています。
    このため多くの訳も「霜の降る寒い朝に、白菊の花を折ろうと思っても、霜か白菊か区別がつかないよ。仕方がないから、あてずっぽうに折ってしまおう」といった、あくまでも霜と白菊に限定した解釈しかなされていいないようです。

    正岡子規が指摘しているように、いくら霜が白いといっても、菊の花と霜の区別くらい、誰だって簡単に見分けがつくことです。
    では、そんな歌のどこが名歌といえるのでしょうか。

    実はこの歌を読み解く最大のキーワードは「白菊」です。
    菊の御紋は、いったいどういう人たちが用いるものでしょうか。
    わたしたちがよく知る「錦の御旗」に代表される菊の御紋は、皇室の御紋で、正式名称は「十六八重表菊」といいます。
    戦前までは、皇族になると同じ「菊の御紋」であっても花びらの数が違っていて「十四一重裏菊」の御紋になります。

    また、有栖川宮様、高松宮様、三笠宮様、常陸宮様、高円宮様、桂宮様、秋篠宮様なども、それぞれ菊の御紋をお使いになっておいでになりますが、それぞれ図案はご皇室の「十六八重表菊」とはデザインが異なるものになっています。
    ご興味のある方は、ネットなどでお調べいただいたら良いですが、要するに菊の花というのは、そのままご皇室を暗示させる用語になります。

    そして「霜(しも)」は、同じ音が「下(しも)」です。
    つまり凡河内躬恒は、たとえご皇族であったとしても、下との境目の見分けがつかないなら、手折ってしまえ!と言っているのです。
    凡河内躬恒は、日頃はとてもおだやかな人であったと伝えられています。
    けれどその穏やかな人が、この歌では実はものすごく過激な発言をしているのです。

    所有を前提とする社会では、上の人は下の人を所有(私有)しますから、下の人が上の人を批判したり、「手折ってしまえ」などと過激な発言をしたら、その時点で殺されても仕方がないことになります。
    ところが、歌がうまいとはいっても、身分は下級役人でしかない凡河内躬恒が、このような過激な発言をしても、まったく罪に問われることはない。
    つまり、この歌は、ひとつには凡河内躬恒が生きた9世紀の後半から10世紀の前半にかけての日本、つまり千年前の日本に、ちゃんと言論の自由があったことを証明しています。

    この歌の意味は、詠み手の凡河内躬恒が「白菊と霜の見分けがつかない阿呆」なのではありません。
    菊の御紋は、一般の民衆を「おほみたから」としているのです。
    ですから権力者が統治する下々の人々は、権力者から見たときに、それを「おほみたから」とするご皇室の方々と同じ位置にあるのです。
    そういうことがわからないなら、それがたとえ御皇族の方であったとしても、「手折ってしまえ」と凡河内躬恒は詠んでいるのです。

    初霜と白菊は、同じようにみえるものであっても、その本質がまるで異なるものです。
    そして民衆は「支配するもの」ではなくて、
    民衆は、天皇の「おほみたから」です。
    ところが、権力を得ようとする人や、権力に安住する人、あるいは権力を行使する人は、ややもすれば、自分よりも下の人を、自分の所有物と履き違えます。
    その区別は、実はとてもむつかしい・・つまり両者はとても似ているのです。

    言葉にすれば「シラス」と「ウシハク」の違いです。
    けれど、その違いは、権力に目がくらむと、まったく見えないものになります。
    なぜなら「シラス」も「ウシハク」も、どちらも統治の基本姿勢のことであり、「統治」という意味においては、白菊と霜の白い色のように、同じ色をしているからです。

    政治のことを「色物(いろもの)」と言います。
    虹を見たらわかります。
    虹は七色と言われ、虹を見ると赤から黄色、青の色があるのがわかりますが、ではどこまでが赤で、どこから黄色になり、青になるのか、その境界線はきわめて曖昧です。
    しかし境界は曖昧でも、やっぱり赤は赤、青は青です。

    だからこそ我が国は、古来から「シラス」を統治の根本としてきました。
    けれど、いつの時代にも「ウシハク」人はいるのです。
    その違いがわからないなら、「心あてに折らばや折らむ」、
    つまり当てずっぽうでも良いから折ってしまえ(放逐してしまえ!)と凡河内躬恒は詠んでいます。

    これを我が国の高位高官の人が言ったというのなら、いささか傲慢さを感じてしまうのですけれど、身分の低い凡河内躬恒が、うたいあげたところに、この歌の凄みがあります。

    百人一首の歌の順番には、歌を解する上において、とても大きな意味があるのです。
    そしてこの歌は28番歌の源宗于(みなもとのむねゆき)と並んで、我が国の統治の在り方の本質を、わたしたちに厳しくもやさしく教えてくれている歌なのです。

    (出典:『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』)

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  • 義和団事件と大陸出兵


    誰しも子や孫を持ってみたらわかることですが、子や孫の幸せを願わない父母や祖父母なんてこの世にいません。
まして個人主義などといういかがわしいものがまだ存在せず、人が共同体として生きることが当然とされていた少し前までの日本では、常に誰に対してもどこに対しても、愛し愛され、ともに平和を守ってより良い時代を築きたいというという意思は、国民共通の意思であり覚悟でさえありました。
    そんな日本は戦前まで、中国大陸に兵を出していました。だから日本は中国を侵略したのだという人がいます。
    とんでもない言いがかりです。

    20190512 義和団事件
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    日露戦争が起こる四年前の明治三十三(1900)年のことです。
    北京で「義和団事件」が起こりました。
    義和団というのは中国の伝統的な武芸と宗教が結びついた拳法結社です。
    なんとこれを信仰して拳を行えば、刀で斬られても槍で突かれても銃で撃たれても、体は傷つかず、死ぬこともないという、これまたすごい宗教結社だったわけです。
    そして当時、義和団は、まさに不死身の肉体を使って「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンにし、外国人や中国人のキリスト教信者などを襲撃していたのです。

    こうした義和団のような結社が中国国内で暴れた最大の理由は、明治27(1894)年の日清戦争による清国の敗北があります。
    中国共産党の毛沢東は、実は歴史の変造の名人で、中国混乱のきっかけを阿片戦争に置いたりしていますが、これは大きな間違いです。
    第一に当時の阿片は、世界中どこも麻薬のような御禁制の品物という認識を持っていません。
    睡眠導入や痛み止めなどの効果のある嗜好品として、普通に一般の商店で売買されていた品物です。
    特に英国が経営するインド産の阿片は上物とされて世界中で歓迎されていましたから、阿片は英国の輸出用の主要特産物でした。

    ところがあまりにも中国でこの阿片が売れるものだから中国で中国産の偽造粗悪品が出回り、一方で清朝当局が英国との貿易赤字解消のために英国からの阿片輸入を規制して、自国産の阿片流通を独占しようとしたものだから、争いになったものです。
    英国は北京近くまで軍艦をすすめ、結果として清国は英国の言い分を飲んで一件落着となりましたが、事件自体は清王朝の存続を何ら揺るがすような大事には至っていません。

    ところが日清戦争による清朝の敗北は、清国というよりも欧米列強に強い影響を与えました。
    中国における利権拡大を目論む列強に、日本の存在がきわめて大きな障害と認識されるようになったのです。
    このことはすこし考えたらわかることです。
    日本と清朝がもし手を結べば、欧米列強にとっては、それは東洋最大の脅威を招くからです。

    ですから三国干渉をして、日本に遼東半島を返還させ、それをロシアがとりあげ、イギリスは威海衛を分捕っただけでなく、フランスとの均衡のためと主張して香港島対岸の九龍を奪い、そのフランスは広州湾を奪い、ドイツは膠州湾と青島をそれぞれ清国からむしりとっています。
    中国の民衆からしたら、こうした列強による領土の侵蝕は不快なものです。
    その民衆の不快と不安に対するひとつの応答が、拳法結社としての義和団であったわけです。

    その義和団は、明治三十三(1900)年五月、二〇万の大軍となって北京南西八キロにある張辛店を襲い、駅舎に火を放って電信設備を破壊しました。
    当時の北京には、清国王朝と外交交渉をするための欧米の列強外交団が滞在していました。
    外交団は、清国政府に暴徒を鎮圧するように要求しました。
    そしてその一方で天津港に停泊する列国の軍艦から、各国の海軍陸戦隊四百名余を、急遽北京に呼び寄せました。
    このとき日本からも、軍艦愛宕から二十五名の将兵が北京に入っています。

    人数を考えたらわかるのですが、この時点で列強は、清王朝による暴徒鎮圧を期待していました。
    だからこそ防衛のために呼び寄せたのは、十一カ国の兵員の合計が、わずか四百だったのです。
    ところが清王朝は何もしない。何も動かない。
    動かないまま六月四日には、北京〜天津間を結ぶ鉄道が、義和団によって破壊されてしまいます。
    これはたいへんなことです。
    なぜなら鉄道の破壊は、北京に滞在している各国の外交団が、陸に孤立することになるからです

    当時、北京にある公使館職員の最初の犠牲者は、日本の杉山書記官でした。
    彼は救援部隊が来ないかと北京城外に出て戻ろうとしたところを、なんと清国の警備部隊に捕まり、生きたまま心臓を抉り抜かれてしまったのです。

    この事件によって、北京在住の十一カ国の外交公使団は、頼みの綱の清国の官憲までが義和団の側に立っていることを知ります。

    五月十三日、公使館区域に四〜五百人の義和団が襲いかかってきました。
    列強の陸戦隊の兵士たちは、銃で果敢に応戦し、これを撃退します。
    けれど、防衛にあたってくれているはずの清国官兵は何も動こうとしない。

    翌十四日になると、今度は義和団の暴徒は、外国公使館区域に隣接する中国人のキリスト教信者たちが住む地域を襲います。
    そこは列強の陸戦隊の守備の外側です。
    男たちの凄まじい怒号と女たちの悲鳴が、遠くはなれた公使館区域まで聞こえたそうです。
    そしてこの日一日で惨殺された中国人キリスト教徒は、千人を超えたものとなりました。

    六月十九日になると、清国政府は、二十四時間以内に外国人全員が北京から退去するようにと通告してきました。
    周囲をぐるりと義和団に包囲されているのです。
    ようやく堡塁を築いて銃で応戦しているのに、そこを出て行けとなれば、それは即、死を意味します。
    あまりの通告に、ドイツの大使が抗議に赴いたのですが、清国政府に到着する前に、清国兵にいきなり銃撃されて即死しています。

    そして翌二十日からは、命令に背いたことを理由に、地域の警備についていた(何もしなかった)清国兵たちが、堂々と義和団と一緒になって外国人公使街への攻撃を始めました。
    義和団の暴徒たちの武器は、青龍刀や槍などですけれど、清国兵は正規軍です。
    彼らは堂々と大砲まで持ち出して、公使館区域を攻撃しはじめたのです。

    こうしてはじまった義和団事件は、単に義和団という民間拳法結社の暴動にとどまらず、ついには清国の権力者だった西太后によって、首都・北京在住の外国人を人質にとって、諸外国への宣戦布告、外国人公使街への清国正規軍の投入に至りました。

    北京の外国人公使街というのは、東西に約九百メートル、南北が約八百メートルの四角く囲まれた小さなエリアです。
    そこに英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインの欧米十カ国と日本公使館が置かれていました。

    そこには約四千人の外国人公使、およびその子女たちがいました。
    防備にあたった各国の海軍陸戦隊の兵隊さんたちの数は、全部合わせてもたったの四百です。
    そこに義和団の二20万、清国正規軍10万が投入され、攻撃をしかけてきました。

    戦いは約百日続きました。
    このとき、各国の公使やその妻子たちが絶賛したのが、わずか25名の日本兵でした。
    とにかく強い、強い。

    当時、英国公使館は各国の公使館の中でも、もっとも壮大な建物でした。
    そこには各国の婦女子が収容されていました。
    その英国公使館の正面を清国兵が砲弾で破り、開いた穴をめがけて数百の義和団の暴徒たちが青龍刀や牛刀を振りかざし、奇声をあげて襲いかかって来たのです。
    正面を守り銃で応射していた英国兵も、その迫力に後退を余儀なくされました。

    「このままでは、英国公使館がやられる」
    誰もがそう思ったとき、どこからともなく、わずか8名の日本兵が、その場にやってきました。
    先頭にいたのが安藤大尉です。
    彼は暴徒の前に躍り出ると、たちまち抜き打ちざまに手にした軍刀で義和団の暴徒を切り伏せます。
    たちまち安藤大尉の前に、義和団の暴徒たちの死体が転がる。
    目にも止まらぬ早業です。
    のこりの日本兵たちも。声もたてずに暴徒を切り伏せます。
    そのあまりの凄さに、暴徒たちは浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出しました。

    この安藤大尉たちの奮戦は、イギリス公使館に避難していた人々の目の前で行われたため、日本兵の勇敢さは賞賛の的となり、のちのちまで一同の語りぐさとなっています。

    ピーター・フレミングという米国人のジャーナリストが、このとき北京にいて、その一部始終を目撃し、それを「北京籠城」という本にしているのですが、その中に、「あるイギリス人の義勇兵が見た、とても人間業とは思えない光景」というのがあります。

    「そのとき、私は隣の銃眼で監視立っている日本兵の頭部を銃弾がかすめるのを見ました。瞬間、真赤な血が飛び散りました。ところが彼は後ろに下がろうとはしません。軍医を呼ぼうともしない。『くそっ』というようなことを叫んだ彼は、手ぬぐいを取り出すと、はち巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように敵の看視を続けたのです。」

    「戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本兵は、ヨーロッパ兵のように泣き叫んだりしませんでした。彼は口に帽子をくわえ、かみ締め、少々うなりはしたが、メスの痛みに耐えました。手術後も彼らは沈鬱な表情一つ見せず、むしろおどけて、周囲の空気を明るくしようとつとめていました。日本兵には日本婦人がまめまめしく看護にあたっていたが、その一角はいつもなごやかで、ときに笑い声さえ聞こえていました」

    「長い籠城の危険と苦しみです。欧米人たち、なかでも婦人たちは暗くなりました。中には発狂寸前の人もいました。だから彼女たちは日常と変わらない日本の負傷兵の明るさに接すると心からほっとし、看護の欧米婦人は、みんな日本兵のファンになってしまいました」

    「戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。」

    ピーター・フレミングの「北京籠城」は全米で大ヒットとなり、その後、なんとチャールトン・ヘストン主演で、「北京の55日」という名のハリウッド映画になりました。この映画でチャールトン・ヘストンは、アメリカ軍将校として大活躍するのですが、実は、この役の現実のモデルが、指揮をとっていた柴五郎中佐(後に陸軍大将)です。

    北京に、救援のための各国混成連合軍がやっと到着したのが8月13日です。
    総勢1万6千のうちの約半数は、日本から駆けつけた福島安正少将旗下の第五師団です。
    その他ロシア3千、英米が各2千、フランスが800などです。
    日本軍の数が多いのはあたりまえのことです。
    日本が地理的にいちばん近い。

    救援隊がやってくると、翌日には西太后の一行が北京から西安に向けて逃げ出しました。
    清国の首都北京から、政府がなくなってしまったのです。
    このため北京市内では生残った義和団や清国兵による暴力や略奪が横行しました。

    そんな中で、各国との協議によって日本に割り当てられた占領区は、いちはやく治安が回復します。
    日本軍は横行する強盗や窃盗、無頼漢らを容赦なく捕えて厳罰に処したのです。
    また暴行・略奪をした外国人兵士(その筆頭がロシア兵)を捕え、彼らの軍司令部に突き出しました。
    そのため他国の占領区域から、日本占領区域に移り住む市民が後を絶たず、町は日に日に繁昌したといいます。

    さらに日本は、清国を守るために、清国皇族の慶親王に「一刻も早く北京に戻り、列国と交渉を始めなければ、清国はその存立が危ない」と使者を送り、一日も早い清国の安定のための努力もしています。

    いまでは考えられないことですが、この時代、世界で認められた公式な政府がない地域は「無主地」として、列国が分け取りにしてよい、というのが世界のルールだったのです。
    実際、義和団鎮圧後になって、北京での義和団事件にまったく参加していなかったドイツが、治安の回復後になって続々と大軍を送り込み、北京で稼ぎそこなった分を他の諸都市で略奪しはじめていました。
    またロシアは、義和団事件直後に、2万の兵力を満州に送り込んでそこを占領し、各国の軍隊が引き上げたあとも、そこに居座り続けました。

    事件後、ようやく政府機能を取り戻した清国と、各国は賠償会議を開きました。
    このとき最大の賠償金を吹っかけたのがロシアで、一番少なかったのが日本です。
    イギリスは日本の五倍、戦後にやってきたドイツがイギリスの2倍、わずかな兵を出しただけのフランスは日本の2倍(出兵数の比では日本の100倍)を要求しています。
    義和団の乱に乗じて、自分の政治権力の強化をはかった西太后は高い代償を払うことになったのです。

    この事件後の会議で、攻められた側の11カ国と攻めた側の清国が交わした条約が
    「北清事変に関する最終議定書」です。
    略して「北京議定書」とも呼ばれます。
    欧米では「Boxer Protocol」、
    現代中国ではその年をとって「辛丑条約」とも呼んでいます。

    「北京議定書」によって交わされた条約内容は、およそ次のような内容でした。
    [1]日本,ドイツへの謝罪使の派遣
    [2]責任者の処罰
    [3]賠償金四億五千万両の支払い
    [4]公使館区域の設定と同地域における外国軍の駐兵
    [5]北京=山海関等十二の要地における外国軍の駐屯
    [6]天津周辺二十里以内での中国軍の駐留禁止
    [7]外国人への殺害が行われた地域での五年間の科挙停止
    [8]排外主義的団体への中国人の加入禁止
    [9]各地の官吏に対する排外暴動鎮圧の義務化

    この中に書かれた賠償金4億5千万両というのは、利払いまで含めると総額が8億5千万両にものぼるたいへんな金額です。
    当時の清国は、年間予算が約1億両です。

    時代はこの後、日露戦争(1904)、第二次世界大戦(1914)、支 那事変(1937)、大東亜戦争(1941)と進みますが、昨今よく聞かれる、「日本の軍がなぜ中国にいたのか」という疑問に対する答えが、この義和団事件と、事件後に交わされた「北京議定書」です。

    清国はこの議定によって、まさに天文学的な賠償金を支払うことになりました。
    たとえ国母という圧倒的な清国内の政治的地位があったとしても、いかがわしい新興宗教団体と手を握り、暴徒を挑発して他国の公使館を攻めるなどという行為は、いかなる時代にあっても許されるべきことではありません。
    西大后の軽挙によって、清国は政治運営のための経済までも追いつめられてしまうのです。

    政府の弱化は、結果として中国国内の治安をますます悪化させることになりました。
    国内には腐敗した軍閥が割拠し、その後も外国人への襲撃が相次ぎます。
    そして日本を含む列国は、居留民や領事館保護のために、中国各地への駐兵を余儀なくされたのです。

    一方、この事件後に混乱に乗じて満州を軍事占領したロシアは、その後も着々と満州の兵力を増強していきました。
    当時のロシアは、国家予算も兵力も、日本の10倍です。
    さらにロシアが朝鮮北部の旅順にまで軍事要塞を構築するにおよぶと、このまま黙視すれば、ロシアの極東における軍事力は日本が太刀打ちできないほど増強されることが明らかになります。
    日本政府は、手遅れになることをおそれ、ついにロシアとの開戦を決意します。
    こうして起こったのが日露戦争です。


    (著者注)義和団事件の模様には伊勢雅臣氏の「国際派日本人養成講座二二二号」、経緯については自由社刊「新しい歴史教科書」を参考にさせていただきました。
    ※この記事は『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人 第3巻』からの引用です。

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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
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