• アヘン戦争の真実


    人生を拓く鍵は、これまでとは異なる考え方の上にのみ存在するといいます。
    国の形を変える鍵もまた同じです。
    とりわけ戦後は何かと歴史を歪めて教えられています。
    このアヘン戦争のお話も、これまでの認識とまったく異なることに驚かれることと思いますが、真実を知ることは時代を拓く鍵になると思っています。

    20190315 阿片戦争
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    阿片戦争(あへんせんそう)といえば、多くの人々の一般的認識は
    「日本の幕末の頃、
     大英帝国がChinaに
     阿片を無理矢理
     売り付けようとして起こした
     侵略戦争」
    といったイメージであろうかと思います。

    実際はどうだったのでしょうか。
    なるほど当時の英国が、七つの海を征する植民地国家であったことは事実です。
    けれど本当に英国は、Chineseを麻薬漬けにするために阿片を大量にChinaに持ち込んでいたのでしょうか。

    「阿片窟(あへんくつ)」という言葉もあります。
    阿片の吸引所です。
    そこには阿片中毒になった男女が、もうもうと立ちこめる阿片の煙の中で、性的モラルを失って薬物とセックスに浸り込んでいるといったイメージで語られるところです。
    では実際にそのような場所があったのでしょうか。

    歴史は、現在の価値観で図ろうとすると、大きな間違いを犯します。
    ここは、当時の時代の価値観や実勢を振り返って、再考したいところです。
    そういう視点でこの時代を見ると、実はこの時代、阿片を含めて、いま言われるいわゆる「麻薬類」の販売、所持、吸引などが、まったく規制外であったことがわかります。

    たとえば、有名なシャーロック・ホームズは、コカイン常習者です。
    ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」は、薬物で酩酊状態になったときの世界観を表現した小説です。

    なかでも阿片は、麻薬どころか、むしろ沈痛・咳止め・睡眠導入、性的興奮などの効果のある「嗜好品(しこうひん)」として、普通にそこらで売られていた商品でした。

    そもそも当時の阿片は、精製がさほどよくありません。
    ですから阿片の吸引で、日常生活に異常をきたすような重度の中毒者など生まれようもなかったのです。

    このことはタバコを例にとるとわかりやすいかもしれません。
    ニコチンは、精製したものは、少量でも即死に至る劇薬です。
    けれどタバコを吸ったからといって、ショックで死ぬ人はいません。これと同じです。

    阿片は芥子(けし)の実から生産されます。
    芥子(けし)という植物は、赤くて大きな花を咲かせます。
    花が散ると、花があった根元に丸いふくらみが残ります。
    これが芥子坊主(けしぼうず)で、この芥子坊主にナイフなどで切り込みを入れると、中から乳液状の液体が出てきます。
    これを乾燥させて、黒い粘土状にしたものが阿片です。

    ちなみに阿片を精製して、アルカロイドを抽出すると「モルヒネ」になります。
    モルヒネは戦時中、痛み止めとして広く使われていたのは、みなさまご存知の通りです。

    そのモルヒネの純度をさらに高めると「ヘロイン」になります。
    ヘロインまでくると、依存性が格段に高くなり、幻覚症状などがひどくなります。

    ちなみにアルカロイド(天然由来の有機化合物)の抽出技法が確立されたのは、日本で言ったら江戸時代中期の文化元(1804)年のことです。
    ドイツの薬剤師ゼルチュネルが、阿片からモルヒネの分離抽出に成功しました。

    いまではアルカロイド(天然由来の有機化合物)の抽出技法が、カフェインをはじめとして、様々な医薬品に役立てられています。
    それらの技術は、もともと阿片からモルヒネ成分の抽出技術が土台になっているのです。

    要するに、この時代、阿片について、これが毒物や麻薬であるという認識はまったくなくて、咳止め、痛み止めなどに広く使われていたものであったわけです。
    すこし抵抗のある話かもしれませんが、当時は阿片が男女兼用の子作り用の興奮剤としても広く用いられていたのだそうです。

    そもそも阿片と人類の歴史は古く、いまから5400年前のメソポタミアでは、すでに芥子の栽培がされています。
    5000年前のイランの石版には、古代シュメール人が、芥子からどうやって乳液を採取したかについてが書かれています。

    4000年前には、芥子はヨーロッパや、中東、中央アフリカなどで広く栽培されていたし、3500年前のエジプトでも阿片が積極的に製造されていた事がパピルスの文書で明らかになっています。
    いずれも、麻薬や金儲けのための薬物としてではなく、鎮痛剤や、睡眠導入剤、子作り剤などとして普及していたものです。

    このような次第から、阿片はシルクロードを経由して、古くからChinaに医薬品として持ち込まれました。
    三国志に登場する医師の華佗(かだ)が用いた麻酔薬も阿片です。

    その阿片が日本にやってきたのは室町時代のことで、日明貿易(勘合貿易とも呼ばれる)における輸入品のひとつとして日本にもたらされています。
    この頃は阿片は日本では「阿芙蓉(あふよう)」と呼ばれ、医療用の鎮痛剤として、ほんの少量流通していたにすぎません。

    ちなみによく時代劇などで、長崎奉行が悪徳商人と結託して、阿片を密輸して遊女などに吸わせて中毒にさせて我がものにしたり、密貿易で大儲けをしたりなどという筋書きが描かれますが、これは大嘘です。
    実際には江戸中期までは、あくまで阿片は沈痛、解熱、麻酔、睡眠薬としての医師の専管物でしたし、そもそも当時は阿片の麻薬性自体が、まったく世に知られていなかったからです。

    阿片が、日本国内で広く流通するようになったのは、幕末の頃です。
    なぜ普及したかというと、浪士たちが斬り合いをして、大怪我をしたからです。
    その鎮痛剤として、阿片が大量に国内に出回るようになりました。
    この頃の日本では、江戸中期に国内での芥子栽培や、阿片抽出技法が確立されていたのです。

    さて、こうして鎮痛のための特効薬としての阿片は、1830年代には、世界貿易の主役となりました。
    とりわけ大英帝国の東インド会社が精製したインド・ベンガル産の阿片は、とびきり品質が良く、効き目の高い特産品として世界中に広く輸出されました。

    誤解をしてはいけないので、しつこく書いておきますが、それは「悪質な麻薬」としてではなくて、あくまで健全な嗜好品・医薬品として輸出されていたし、用いられていたし、流通していたのです。

    医薬品というのは、少量でも高単価です。
    当時の英国は、インドの宗主国でしたから、極端に安い土地と労働力で阿片を栽培していました。
    これはつまり、高品質な阿片の原価を極端に安く生産できたことを意味します。
    ところが完成した阿片の売価は、ものすごく高値なのです。
    つまり英国の東インド会社における阿片貿易は、極端に効率性の良い商品だったのです。
    おかげで東インド会社は、ベンガル阿片でたいへんな利益をあげています。

    Chinaは人口の多いところです。
    ほとんどの国民は、貧困のどん底暮らしでしたが、官僚たちは大金持ちで、そのお金持ちの官僚の数が他国と比べて半端なく多いのも、いまも昔も変わらないChinaの実態です。
    英国は(というより英国の東インド会社は・・という方が正解なのですが)、Chinaとの阿片貿易で巨利を得るわけです。

    あたりまえのことですが、Chineseだって傷を負えば痛いのです。
    ところが阿片を用いれば、痛みの負担なく手術を受けられるし、副作用も起こらない。
    英国が進出した頃の清国は、中央政府の支配力が弱化して、国内が荒れていましたから、怪我人も非常に多い。
    しかも民族性で、相手が怪我をして動けなくなると、かさにかかって暴力をふるい続けるのがChineseの特徴です。
    そこに、鎮痛・除痰・睡眠・性的興奮効果があて、品質の良い阿片がもたらされたのです。
    売れてあたりまです。

    けれど、このことが大きな問題を起します。
    だいたい他の誰かが大もうけしていると知ると、すぐにそれを真似して、粗悪品を「安かろう、悪かろう」で売りまくるのが今も昔も変わらないChineseの行動パターンで、阿片が儲かるとわかると、芥子をChina国内で大量に栽培して、英国阿片の半値で、これが売買されるようになるのです。
    ただし粗悪品です。

    これだけなら、まだ良かったのです。
    問題は、その商売のやり方です。

    英国の貿易は民間会社が行なうものです。
    そして民間会社の安全を、英国が国家として軍を出動して確保します。
    なぜなら民間会社の営業活動は、英国民に利益をもたらすものだからです。

    これに対しChinaの場合、民間が商売で設けると、そこにかならず官僚が割り込んできて、法外な賄賂をとるようになり、さらには商売そのものを官営にしてしまいます。
    すると値段も吊り上がるのです。
    結果、英国製の高品質阿片も、China産の粗悪品阿片も、売価は同じ、という状況になります。

    もちろん英国産の阿片の方が、品質が安定していて、はるかに効き目が良い。
    売れるのは、当然英国産ばかりになります。

    さて、当時英国は、陶磁器や茶などをChinaから大量に買い付けていました。
    一方で良質な阿片をChinaに販売していたわけです。

    ところが英国の阿片がたいへんな人気なことから、英国の貿易収支は大黒字でした。
    つまりChina側からみれば、対英貿易は大赤字ということになります。
    このため貿易通貨としての銀が、Chinaから大量に流出してしまいます。

    当時のChina政府は、清朝です。
    このことに青くなった清朝政府は、二つの理由から、阿片の輸入の規制に乗り出します。

    ひとつは、国内産の阿片商売の独占のため。
    もうひとつは、銀の流出阻止のためです。
    そして阿片問題解決のための英国との交渉の特命大臣として林則徐(りん・そくじょ)を任命して上海に向かわせました。

    さてここで、
    「なるほど。
     China政府が規制したのなら
     英国産の阿片は
     輸入が相当減ったのだろうなあ」
    と思うのが、日本人のお人好しなところです。
    Chinaでは、そうは問屋が卸しません。

    中央政府が規制しても、現場ベースでは、官僚たちが規制を盾に多額の賄賂をとって英国阿片を黙認し、大儲けしていたのです。
    特命大臣の林則徐など、まさにこれで大儲けしてしまいます。

    結局、官僚の賄賂の分だけ、Chinaで流通する英国阿片の値が高くなっただけで、阿片の流通はまるで止まらない。
    当然、清国内の銀の流出も止まらない。

    こうなるといきなり過激になるのも、Chinaの特徴です。
    なんと清朝政府は、天保9(1838)年、英国産阿片を吸引した者は死刑にするという御触れを出します。
    要するに、英国産の阿片は使うな、使うならChina産の阿片を使え、というわけです。

    いくら言うだけ番長のChinaの御触れでも、実際に死刑になる人が出ると、英国の東インド会社は警戒しなければならず、当然、特命大臣の林則徐に猛抗議をしました。

    けれど今度は林則徐も強硬です。
    「今後一切阿片を清国に持ち込まないと
     誓約書を差し出せ」
    と英国側に申し入れたのです。

    Chineseにとっては、誓約書というのものは、一時しのぎのための建前の、ただの紙きれでしかない、というのが常識です。
    別に、紙くらい、いくらでも書けば良いではないか、と彼らは考える。

    けれど西欧社会では、誓約書を差し出すことは、イコール、契約を交わすことです。
    破れば法外な損害賠償を請求される危険を考えなければなりません。
    英国人も逮捕される危険がある。
    つまり誓約書を差し出すことは、今後の商売そのものの根幹にかかわると考えるわけです。
    当然、英国は、これを拒否しました。

    ところが民間貿易というのは複雑なもので、同じ英国商船でも、トマス・カウツという商船は、阿片以外の商材を扱っていたことから、ハイハイと、気軽に誓約書を書いてしまいます。
    「トマス・カウスが書いたのに、
     なぜ他の船は書けないのか。」
    清国官僚の林則徐にしてみれば、実に不思議なことでしかありません。
    貿易は貿易、あくまで誓約書だけは先に出しなさいと、さらに強硬に英国側に申し入れます。

    英国にしてみれば、阿片を規制してこれまでさんざん法外な賄賂をとったあげく、こんどは誓約書を差し出せ、阿片交易に関わりのない船が誓約書を出したのだから、他の船も誓約書を出せという話です。
    誓約書を書いたら、今度は何を出せと要求されるのかわかったものではありません。

    当時、英国政府を代表して対清国貿易の観察を行っていたチャールズ・エリオット卿は、他の商船までトマス号に便乗して誓約書を出そうとしたから、これを軍艦を出して引き止めました。
    そして正面から堂々と清国政府に対して阿片貿易再開を書面で申し入れました。

    ところが清国特命大臣の林則徐は、これを軽く口頭で「拒否します」と答えました。
    エリオット卿は、大英帝国を代表して書面で要求書を出したのです。
    これを口頭で却下した。
    まさに失礼千万です。

    そもそも昔の国際交易というのは、根底に法がありません。
    「約束を守らないなら、
     武力をもってお答えする」
    という軍事力が背景となって、国際貿易の安全性が担保されていたのが、19世紀の国際交易世界です。

    チャールズ卿は、事態の趨勢を英国議会に報告しました。
    英国議会は賛成多数で清国に対する武力による威嚇を承認しました。
    こうして天保9(1838)年11月3日に勃発したのが、阿片戦争です。

    繰り返しになりますが、この当時、阿片は規制された麻薬ではありません。
    正当な医薬品として広く用いられていた普及品です。

    さて、開戦許可をもらったエリオット卿は、いきなり上海にいた清国海軍を全滅させ、その日のうちに清国首都の北京近郊にある天津にまで英国海軍を進出させます。
    これは清国政府にとっては、大きな圧力です。

    当時の清国というのは、人口が3億5000万人です。
    今の人口の15億という数字が頭にある皆様は、え、そんなに少ないの?と思われるかもしれません。
    けれど記録にある事実で知る当時のChinaの人口はそんなものです。

    そもそも、現在China共産党が保持する、チベット、ウイグル、満州は、清国ではありませんし、いまと違って、当時のChinaの食料事情は極端に悪かったのです。
    Chinaが人口を激増させたのは、戦時中に日本がChineseたちに農業指導をし、農地を開墾させたことが理由です。
    つまり、食えるようになった分だけ、人口が増えたにすぎません。

    さて、当時の清国の人口から、清国が動員できる軍事力は、20万人程度であったとされています。
    装備も、旧式です。
    武装は主に青龍刀です。
    これでは大砲や銃といった火力を持つ英国軍の前にひとたまりもありません。
    つまり、国際関係において、清国は弱小国です。
    要するに、戦えば必ず負けるという状況にあったわけです。

    よく、当時の清国をして、
    「眠れる獅子とよばれる大国だった」
    などという教科書や教師がいますが、大嘘です。
    獅子どころか、ハムスター程度の弱国でしかなかったのです。

    では何故、英国などの列強は、Chinaを植民地にしなかったのか、という疑問が残ろうかと思います。
    その理由は、ひとつにはChinaが広大であることが挙げられようかと思います。
    けれど、もっと大きな理由は、Chinaが清国政府という外来王朝であったことです。

    そもそも欧米が東洋諸国を植民地支配した諸国では、華人、つまりChineseの漢人たちを、支配地の統治のために用いています。
    たとえばマレーシアなら、そもそものマレー人達を支配するのに際して、マレー半島に住む少数民族である漢人たちに、準支配者としての地位を与え、彼らに利権を与えることで、マレー人の反乱を阻止し、国土を制してきたのです。
    これを「分断統治」といいます。
    同じ国に住む貧しい少数民族に利権を与え、これを用いることで自分たちは直接には手を汚さずに現地人を支配し、収奪するという手法がとられていたのです。

    これに対しChinaは、はじめから逆転した状態にあります。
    少数民族である女真人(満州人)が、大多数の国民である漢族を支配しています。
    しかもその漢族たちは、東亜各地で、自分たちの植民地支配の手伝いをしてくれています。

    ならば、その大多数いる漢人たちに清国政府打倒ののろしをあげさせれば良いではないかと思われるかもしれませんが、そうはできない。
    なぜなら、女真人たちに支配された漢人たちが、あまりに無教養で使い物にならない。

    日本は、東亜諸国において、支配者となっていた白人と、こうした華人(漢人)たちを駆逐し、現地の人々に国家としての独立を果たさせました。
    そのために日本は、被支配階層となっていた現地人達に猛烈な訓練を施し、教養を与え、現地人による現地人のための行政機構を作り、その運営まで指導しています。
    これは日本に、現地の支配ではなく、現地人による自治こそが彼らにとっての幸せ、という現地の独立という明確な意思があったからのことです。
    植民地支配しようとするなら、現地人に教養を与えたり、行政機構を与えたりするのは、まったく逆効果です。
    つまり日本の行った東亜各地の統治は、植民地支配とは程遠いものであったということです。

    阿片戦争が勃発した当時のChinaは、欧米列強から見たら、少数民族の清朝が政権をとって支配しています。
    つまり漢族が女真族に植民地支配されているという状況です。
    Chinaを植民地支配するなら、この清朝政府を支配下に置くか、新たに別な少数民族を清朝に代わる統治者に据える必要があります。

    ところがそれを行えば、既に植民地支配している東南アジア地域の華人(漢族)たちが反乱を起こす危険がある。
    こうなると、二兎を追う者は一兎を得ずとなります。
    このような微妙な国際政治のバランスの中で、ただただChinaにいる漢人たちのレベルが低かったから、当時のChinaは植民地統治されずに済んでいた、というのが実際の歴史です。

    こうした背景の中で、英国艦隊が、北京のすぐそばに、姿を現したわけです。
    これは日本で言ったら、江戸湾に黒船が現れたというのとまったく同様の大事件です。
    清朝政府は上を下への大騒ぎになる。

    清朝政府は、英国艦隊を前にすると、いとも簡単に、阿片の取り締まりのための特命大臣だった林則徐を解任し、阿片交易についても態度を軟化させてしまいます。

    けれど、ここまで来たら、英国もただで引き下がるわけにはいきません。
    なぜなら軍事展開をした以上、そのために使った費用をちゃんと賠償してもらわなければならないからです。

    そのために英国は、賠償金として香港の割譲を要求しました。
    清国は、これを拒否しました。
    阿片の輸入を認めてやったんだから、それでいいだろう、というわけです。

    そこで天保12(1841)年1月7日、香港割譲を拒否した清国に対し、英国は艦隊攻撃を開始しました。
    圧倒的な軍事力の差を見せつけたのです。
    英国艦隊を前に布陣していた清国軍は、まさに瞬く間に、木っ端微塵に粉砕されてしまいます。

    さらに2月には英国艦隊は、黄档・永安・靖遠・鎮遠・威遠・鞏固の諸砲台を砲撃して陥落し、3月には黄埔を占領してしまいます。
    清国側はほとんど一方的な損害を被ります。
    この戦いで、捕虜だけで数千人、戦死者は数万の規模に達したといわれています。
    まさに清国の完敗となったのです。

    エリオット卿は、ここで広東市内への進入を停止させ、外交交渉への移行を提案して、戦闘を休止させます。
    ところが清国側は、外交交渉を受け入れるとみせかけながら、5月まで広州付近に陸兵を集結させます。
    そして5月21日の深夜、陸兵を小舟に乗せ、広州湾に浮かぶ英国艦船に、奇襲攻撃をしかけたのです。

    どうやったかというと、タキギを満載した船を夜陰にまぎれて英国艦隊に近づけ、英国軍艦に放火し、火勢に乗って英国人たちを皆殺しにしようとしたのです。
    それだけを聞くと、なにやら理にかなっている作戦と思うかもしれませんが、それはあくまで英国艦隊が、Chinaの艦隊と同じ木造戦艦だった場合のことです。
    ご存知の通り、当時の英国艦隊は、鉄鋼戦艦です。
    そもそも作戦が甘いと言わざるを得ません。

    近づこうとしたChineseたちの軍船は、英国軍艦の歩哨に、事前に発見され、百隻以上あったChineseの木造軍船は、瞬く間に英国軍艦の重砲火によって、撃沈され、全滅してしまいます。
    さらに英国は、英国海軍陸戦隊2万4000を広東に上陸させ、陸上に残存した清国兵を蹴散らし、広東市街の砲台を占領しました。
    China兵たちは、慌てて広東城内に逃げ込みます。

    エリオット卿は、あまりのChina軍のだらしなさに、これ以上の進撃はもはやなぶり殺し以外のなにものでもないと判断し、進撃を停め、広東城に立てこもる奕山、祁貢という二人の将軍に対して、賠償金600万ドルの支払いと、China兵の退去をすれば占領した砲台のChinaへの返還をもちかけました。
    二人のChinaの将軍は、これを受け入れ、China兵を退去させ、賠償金を支払います。

    ところが、ここで二つの事件が起こりました。
    これも日本人なら、ちょっと考えられない出来事です。

    何があったかというと、ひとつは、清国の二人の将軍は、清国の道光帝に対して、まるで真逆の報告をしたことです。
    どういう内容かというと、
    「広東湾の戦いにおいて、
     英兵は溺死者、死傷者が多く、
     清国側の損害は軽微。
     戦いはChina側の
     大勝利に終わった。」
    というものです。

    客観的にみれば、あきらかにデタラメの報告です。
    しかしChinaでは、このように報告しないと、極刑に遭うどころか、将軍の親族一同全員が、きわめて残忍な方法で皆殺しにされてしまうのです。

    ふたつめが、二人の将軍による賠償金600万ドルの支払いです。
    報告の内容から、当然、清国政府から賠償金を支出してもらうことはできません。
    つまり、二人の将軍は、自分たちの力で、600万ドルをかき集めなければならない。
    そこでどうしたかというと、広東城内に住むありとあらゆる民間人から、金という金をかき集め、文句を言う者は殺しまくって支払ったのです。

    これではなんのための軍なのかと思われるかもしれませんが、外来王朝である清朝政府にとっては、漢人など、人ですらなかったのですから、当然といえば当然の行動でしかないし、これが古来から続くChinaの文化です。

    騙されたのは、清国皇帝の道光帝だけではありません。
    英国代表のエリオット卿も、この二人の将軍が、「清国政府を代表しての恭順の回答」と信じ、5月30日、英国軍を約束通り広東から退去させるのです。

    この退去に際して、ひとつの事件が起こっているので紹介します。
    それは広東郊外の三元里という場所です。

    撤収して港に向かう英国軍に対し、「平英団」を名乗るChineseの集団が、英国軍に殴り込みをかけたのです。
    この事件で、英国側はインド兵1名が死亡しただけで、「平英団」は壊滅し、算を乱して逃げ出しました。
    要するに単なる小競り合いにすぎない事件ですし、ただの民間人の集まりの青龍刀を手にした「平英団」と、豊富な火力を持った英国正規軍では、そもそも勝負にもなりません。

    この「平英団」のメンバーは、おそらく広東場内で、奕山、祁貢の両将軍たちに身内を殺され、悲しみの中に寄り集まって、英国軍に無茶な戦いを挑んだ人たちであったであろうといわれています。
    要するにろくな武器も持っていないし、英国正規軍との戦いは、竹槍部隊と重戦車の戦いのようなもので、勝負にならないのです。

    ただ、この三元里での平英団による襲撃事件のことが、ウイキペディアの解説では、まるで異なる内容に書き換えられていました。
    おもしろいので、ご紹介します。

    ~~~~~~~~~~~
    【三元里事件】
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%85%83%E9%87%8C%E4%BA%8B%E4%BB%B6

    1841年5月、イギリス軍は広州城において靖逆将軍愛新覚羅奕山ら清の首脳部と停戦協定を締結していたが、一部のイギリス軍は郊外の三元里で略奪や暴行事件を起こし民衆の怒りを買っていた。
    このため三元里並びに周辺郷村の民衆1万余が決起して水勇統領林福祥らの指揮の元「平英団」を名乗り、ヒュー・ゴフ少将が率いるイギリス軍を包囲して攻撃した。

    このとき民衆が手にしていたのは大刀や長矛などの伝統的な武器であり、本来であれば銃砲を有するイギリス軍に敵うべくもない戦力ではあったが、
    民衆は地の利を得ていて巧みに遮蔽物に隠れながら戦うことができたこと、
    大雨によりイギリス軍の火砲が使用不能に陥ったことなどの条件に恵まれ、
    数で優位に立つ平英団は徐々にイギリス軍を包囲、殲滅の危機に陥れた。

    このため英軍は清朝の広州知府であった余保純に停戦協定違反を抗議し、併せて戦後の報復を示唆して平英団を解散させ、包囲を解くように求めた。
    このため清当局によって平英団は解散させられ、戦闘は終結した。
    ~~~~~~~~~~~

    もっともらしく書かれていますが、大嘘です。
    だいたいもし英国軍が包囲殲滅されるという事件が起こっていなら、このあと徹底的な報復戦が行われています。それが当時の戦争なのです。

    実際に起こったのは、先に述べた通り、インド人兵1名が死亡しただけでしかない。
    こうやって歴史をねつ造するのは、Chinaの伝統的お家芸だということです。

    もうひとつ、書いておきます。
    ではなぜ、それだけ圧倒的な武力を持っていた英国が、そのまま北京にまで攻め込み、一気に紫禁城を制圧して清国政府を壊滅させなかったのか、ということです。

    答えは簡単です。
    戦争とは、国家の目的遂行のための究極の手段であるからです。

    当時の英国にとって、阿片戦争は、あくまで阿片貿易継続のために行なったものにすぎません。
    仮に紫禁城を制圧し、女真人による外来王朝である清朝政府を打ち倒し、漢民族による政権をChinaに誕生させたら、どうなるのでしょう。

    漢人たちは、英国が東亜諸国の植民地統治するために、あくまで少数民族の準支配階層として、汚れ役をやるための手足として使っている人たちです。
    その手足に、広大な領地を持った自前の国家を与える?
    植民地統治というものは、あくまで民族を分断統治することが大原則です。
    分断のはずが、漢民族に国家を与えるたら、それは統合を与えることになります。

    いままで、英国人にとっての被支配階層であった東亜諸国の漢人たちに、広大な国家を与えたら何が起こるか。
    下手をすれば英国が統治している東亜諸国の植民地で面倒な反乱が続発しないとも限らないのです。
    そんなバカなことをするくらいなら、まだ女真人による外来王朝をChinaに継続させておいた方が、英国にとって、まだメリットがあるというものです。

    さて、こうして天保13(1842)年8月29日、清国と英国の両国は、南京条約を調印して、阿片戦争を終結させました。
    そのときの南京条約で、清は英国に、多額の賠償金の支払いと香港の割譲、それから広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めました。
    さらに翌年には虎門寨追加条約を締結して、英国に対する治外法権と、関税自主権の放棄、最恵国待遇をすることを認めています。

    これらはすごいことです。
    英国がそこまでしたならと、これに便乗して、米国、フランスなども清国政府を脅かして、それぞれ望厦条約、黄埔条約を締結しました。
    相手が弱腰と見るや、すかさず自国の権益を図る。
    おそろしいことですが、これが先進国と言われる世界のやり方です。
    結果、清国は国力をさらに低下させることになりました。

    さて、以上が阿片戦争のおおまかな流れです。

    学校などで習ってイメージしている阿片戦争の内容と、かなり違っているので驚かれた方も多いのではないかと思います。
    しかし、時代背景をキチンとみれば、逆に私たちが教わって来たいわゆる「常識」が、実はとんでもなく非常識きわまりないものでしかないことにお気づきいただけると思います。

    戦後の日本は、ちゃんとした歴史認識を失い、政治的に歴史を捻じ曲げるという、おかしな癖を持つ国になってしまいました。
    歴史というのは、過去にあった出来事などを、ひとつのストーリーとして記述するもののことをいいます。
    ですから「どのように記述しようが(勝った側を負けたと記述しようが)ストーリーになっていれば歴史である」という見方もできないことはありません。

    けれども、同時に歴史は「科学」でもあります。
    科学というのは、再現性のあるもののことを言います。
    「これをこのようにしたら、結果は必ずこうなる」という、事実に客観的に整合性を与えるものが科学です。
    従って歴史も、登場人物や全体の流れが過去の事実とそれによる結果が、客観的に整合性がとれ、かつ、再現性がなければ、それは歴史の名に値しないものです。
    いわゆる神話が歴史と異なるといわれるの理由はそこにあります。
    歴史は魔法や神通力ではないのです。

    阿片戦争について言えば、どんなに清国側に正義があったと主張しようが、その後の事実を見れば、この戦い以降、英国は清国のおよそ南半分を事実上植民地として手に入れているのです。
    それはつまり、清国が敗れたということです。
    しかし、それは「英国の横暴によるものであったのか」と言われれば、答えはNOです。
    当時の阿片は合法的なものであったからです。

    ちなみに・・・・
    駅の構内や、オフィスビル、あるいは大規模商業施設などに行くと、小さくて狭い喫煙所があって、喫煙者は、その狭い喫煙所に閉じ込められてタバコを吸っています。
    そんな姿を見て、
    「あれって、なんだかまるで
     昔の阿片窟みたいだね」
    と言った人がいました。

    けれど当時のChinaに阿片窟など存在しません。
    あったのは医療施設で治療を受けている人たちが、阿片を吸引して、痛みを和らげていた姿です。
    もし、当時のChineseたちが、いまの日本の喫煙所を見たら、きっとこれを阿片窟ならぬ、異様な「煙草窟」とでも言うのではないでしょうか。

    ※この記事は2012年5月の記事のリニューアルです。

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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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