• ネイションとエスニック


    民族主義(最近では種族主義とも言われるようですが)は、良い結果を生みません。
    そうではなく、国柄という、国民共通の理想をキチンと立てること。
    それが、古代においては、日本書紀であり、万葉集であったとは、これまで何度も説明してきた通りです。
    これからの私たちに必要なことは、日本という国が古代に築いてきたネイションとしての日本の形を、いまあらためて学ぶことで、未来を切り開くことです。

    20200617 高天原
    画像出所=https://www.pmiyazaki.com/takachiho/takamagahara.htm
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    昨日の記事で、冠位十二階と十七条憲法が、うるさくて仕方のない栲衾(たくぶすま)の新羅(しらぎ)問題がひとつの契機となって、この2つがセットとなって詔されたのだ、というお話を書かせていただきました。

    詳細はその記事に書いたので、その意味は前の記事に譲るとして(まだお読みでない方は是非先にそちらの記事のご一読を)、このようなまったく対象的なものを2つ合わせて公布するといったことは、昔の日本ではよく行われたことであり、日本の知恵と呼ぶべきものです。

    つまり、
    冠位十二階は、世の中の秩序を目的としています。秩序というのは、上下関係のことを言います。
    十七条憲法は、身分を越えた話し合いを規定しています。
    しかしこの二つは、対立概念ではありません。
    すぐにおわかりいただけると思いますが、両者は二つあってひとつのものです。
    それは、私たち日本人にとっては、何の不思議もない、当然の事柄に思えます。

    世の中を落ち着かせるために秩序は必要です。
    上の人や国が乗り出してきたら、下は黙る他ないくらいでなければ、世の中のおさまりはつきません。
    なんだかんだ文句があったとしても、部長が「やれ」と言ったら、やらなくちゃいけない。
    それが秩序です。

    その秩序は、支配体制とも置き換えることができます。
    つまり世の中のすべてが支配と被支配の関係によって成り立つ。
    そして支配される側は、いかなる矛盾があったとしても、支配する側の言いなりになるしかない。
    なぜならそれが秩序だからです。

    そしてこうした秩序を明確にすることは、戦時徴用においてきわめて有効です。
    命令一下、すべての物事が整然と進むからです。
    けれど問題もあります。
    支配する側とされる側では、常に圧倒的多数が支配される側です。
    そして支配される側は、常に不利益を被ることになります。

    たとえば国連秩序がそれです。
    国連(United nations)は、世界の軍事を米英仏露中が安全保障理事国として寡占する秩序体制です。
    その国連秩序において、日本は敵国です。
    ですから武装した国連安全保障理事国の中共の漁船が日本に大量にやってきて赤珊瑚を根こそぎ持っていってしまっても、それは日本から見れば許しがたい暴挙ですが、国連秩序の上からは、中共こそが安全保障理事国なのですから、敵国である日本がこれに抵抗するならば、日本に向けて軍事的反撃を行って構わないという理屈になります。
    これに対し日本は抵抗することができない。
    そんなバカなと思われるかもしれませんが、それが世界でオーサライズされた世界共同体としての国連が、国連憲章として定めた秩序であり、日本もそれを批准しているのですから、法理上はそういうことになる。これが現実です。

    昔の米国の南部で、黒人奴隷が雇い主のセガレをボコボコにした。
    その理由が、そのセガレが、ボコボコにした黒人男性の娘を強姦致傷したことへの報復であった。
    にも関わらず黒人奴隷が悪いとされて、その黒人が公開処刑される。
    これは実際にあった話ですし、幕末に日本にやってきたペリーも、当時の琉球においてこれとまったく同じ事件を起こしています。
    秩序というのは、かくも残酷なものなのです。

    しかし天然の災害の多い日本では、古くからの世襲による身分も尊重されたけれど、それ以上に、実務能力が重視されてきました。
    人間の社会の秩序など、自然災害の前にはひとたまりもないのです。
    ですから、日本が秩序だけでなく、別な何かを必要としたことは、容易にご理解いただけると思います。

    その「別な何か」が、理解と納得です。
    災害の多い日本では、みんながその対策の必要性を理解し、納得した上で全員の力を総結集して事にあたる必要があったのです。
    そしてそのために必要なことが、和と論と承詔必謹です。

    和は、わかりやすいと思います。
    一致団結のことを一揆と言いますが、みんなで一致団結して、みんなでなしうる総力を発揮して、みんなのために災害対策にあたるのです。

    論は、こう書いて「あげつらふ」と読みます。
    みんなで一致団結するために、身分の上下を越えて、みんなで話し合うのです。

    そしてみんなが納得して、話が決まったら、それが詔(みことのり)として示されます。
    ひとたび詔が出されたら、個々の意見はさておいて、とにもかくにもそれに従って、みんなで事を成し遂げていく。

    こうしたことが書かれているのが十七条憲法です。
    ですから十七条憲法は、冠位十二階とセットなのです。

    ここに日本の国柄があります。
    単に身分の上下だけでなく、どこまでも理解と納得を重視していく。
    そしてそのためには、民衆に知性が必要です。
    その民衆の高い知性のことを、民度と言います。

    昨今の日本が、欧米や中共風の上下の秩序ばかりが目立つようになってきているのは、裏返しにいえば、日本人が天然の災害の恐怖を忘れ、民度を失っていることによるといえます。

    良い大学を出たから高い知性を持っているのではないのです。
    詰め込みの知識をいくら持っていても、その知識を活用するにあたっては、基本となる価値観が備わっていなければならないのです。

    その価値観のことを「国民精神」と言います。
    国民が国民精神を失うといことは、価値観を失うということです。
    そして価値観を失えば、残るのは上下の秩序だけです。

    私たち日本人は、上下の支配からの自由を、はるか上古の昔から手に入れてきた国柄を持ちます。
    しかしそれは、日本民族(エスニック)だからということではありません。
    日本が、そのような国柄(ネイション)を目指してきたことが重要なのです。

    その意味で、民族主義(最近では種族主義とも言われるようですが)は、良い結果を生みません。
    そうではなく、国柄という、国民共通の理想をキチンと立てること。
    それが、古代においては、日本書紀であり、万葉集であったとは、これまで何度も説明してきた通りです。

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  • 十七条憲法と冠位十二階が定められた理由とは


    十七条憲法は一般に「和をもって貴しとなせ」と、仲良くすることを範とする内容の憲法と誤解されていますが、この十七条憲法が主導しているのは、和ではなく、ちゃんとした議論をして問題を解決しようということです。

    20200608 冠位十二階
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    推古天皇の時代、つまりそれは聖徳太子が政務を司る時代であったわけですが、極めて大きな問題が噴出しています。
    それは、一般によく言われるのは、チャイナに隋の大帝国が出来たことですが、実はもっと身近な問題があったのです。
    それが新羅問題です。

    推古天皇7年(599年)に、日本に大地震が起きるのです。
    このとき百済は日本の朝廷にお見舞いを献上しているのですが、新羅は、日本国内が地震の復興で大変なこの時期に、日本の直轄領であった任那に攻め込むのです。

    朝廷はすぐに1万の兵を起こして新羅に攻め込むのですが、すると新羅の王は恐れかしこまり、すぐに降参して朝廷への服従を誓うのです。
    さらに朝廷に使者を派遣して、朝貢を行うだけでなく、
    「天に神があり、地に天皇がおわします。
     この二神を除いて、
     どこに恐れかしこまるものがあるのでしょうか。
     以後、一切の戦闘行為は行いません。
     また船の舵を乾かさないで、
     毎年必ず朝貢を行います」
    と上奏文を提出するのです。

    そこまで言うのならと、朝廷は半島に派遣していた軍を撤収するのですが、するとすぐに新羅はふたたび任那に侵攻したのみならず、日本に間者(スパイ)を送り込むのです。

    こうした状況から602年には、来目皇子(くめのみこ)を将軍にし、2万5千の兵を立てて新羅征伐を図ろうとするのですが、残念なことに突然、来目皇子が病にたおれてしまいます。
    来目皇子は、そのまま翌603年にはお亡くなりになってしまいます。

    やむなくこの年、来目皇子の兄の当麻皇子(たぎまのみこ)を征新羅軍の将軍にするのですが、同行した妻の舎人姫王(とねりのひめおほきみ)が、旅の途中の明石で急死してしまい、このため新羅征伐はできずに終わります。

    この二つの死には、二つの理由が考えられました。
    ひとつは新羅の工作による変死です。
    そしてもうひとつは、神々が新羅征伐を望んでいないという考え方です。

    新羅は、もともと神功皇后の時代に日本への服属を誓った国です。
    とはいえ、その後もスキを見ては、何かと周辺国に難癖をつけて、他国の財を奪おうとしました。
    そのくせ堂々と兵を差し向ければ、戦わずにすぐに降参するし、あるいはあらゆる裏工作を行って事態を混乱させます。

    では、こうした混乱を起こさせないためには、どのようにすれば良いか。
    ここが思案のしどころです。

    そしてこの中から出てきた答えが、実は、冠位十二階と十七条憲法でした。
    日本は、ワガママで身勝手な他所の国を責めるのではなく、まずは自分たちが率先して秩序のある良い国になっていこうとしたのです。
    古来変わらぬ日本人の姿勢です。

    603年12月こうして冠位十二階が制定されました。
    服属している他国(つまり新羅)を責めるのではなく、まずは日本自体が率先して上下の秩序を明確に示そうとしたのです。

    翌604年元旦に出されたのが十七条憲法です。
    秩序は上下関係ですが、それだけでは日本の国柄に反します。
    ですから上下一体となって、相互に議論を交わすことを「憲法」として発布したのです。

    十七条憲法は一般に「和をもって貴しとなせ」と、仲良くすることを範とする内容の憲法と誤解されていますが、この十七条憲法が主導しているのは、和ではなく、ちゃんとした議論をして問題を解決しようということです。
    この議論のことを、古い言葉で「論(あげつらふ)」と言います。
    現代用語で「あげつらう」といえば、悪意ある批判のこととされてしまっていますが、もともとの「あげつらふ」はそうではありません。

    「あげ」は、「ことあげせず」の言葉にもあるように、相手を「上げる」ことを意味します。
    相手の言葉をちゃんと聞き、その相手の言葉に、自分の言葉を重ねることで、議論を昇華させていくことが「あげ」です。
    「つらふ」の「つら」は「面」、つまり互いの顔です。
    ですから「あげつらふ」は、互いに顔を合わせて、相手の意見を聞き、その意見に自分の意見を重ねていくによって、よりよい議論にたかめていくことです。

    第一条には次のように書いてあります。
    「和をもって貴しとし、人を恨んだり人格攻撃をしてはいけない。
     問題があれば互いに議論を交わしなさい」
    最後の17条では
    「物事はひとりで勝手に決めてはいけない。
     必ずみんなと議論しなさい。
     特に重要なことは、
     必ずどこかに間違いがあると疑って、
     しっかりとみんなで議論をしなさい」
    と書かれています。

    軽々に軍事侵攻をするのではなく、どこまでも話し合いで解決する国柄であることを、まずは率先して日本が示すことによって、新羅もまた、軽々に侵略に走るのではなく、話し合いで物事を解決することを期待したのです。

    ところがその後にどうなったかというと、新羅はまるで現代におけるどこかの政党の誰それみたいに、何も問題がないところで、声を大にして意味不明の大騒ぎをして自己の利益ばかりを図ろうとする。
    それがまるで、みんなが静かに寝たい寝室で、布団を叩いて大騒ぎするような国だということで、新羅に付いたあだ名が「栲衾(たくぶすま)」であったわけです。

    これが7世紀のはじめの出来事です。
    あれから1400年以上経過しましたが、あの国も、あの国から戦後に日本にやってきた人たちも、まるで変わっていないようです。


    ※この記事は2020年6月の記事の再掲です。

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  • 新刊『日本武人史』予約開始


      ───────────────
    次回の倭塾開催は7月17日(日)13時半から。場所は富岡八幡宮・婚儀殿2Fです。
    テーマは「我が国のアイデンティティと日本の政治」です。

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  • 千年後の歴史教科書


    500年後、1000年後の世界の歴史教科書には、20世紀に関する記述として、間違いなく「植民地時代の終焉」という語句(ごく)が入(はい)ると思います。
    これこそ20世紀最大のエポックであり、人類史に残る偉業といえることだからです。
    そしこれを成し遂げたのは、まぎれもなく、私たちと血のつながった若き日の私たちの父祖たちだったし、それを引き起こしたのは間違いなく日本でした。
    そういうことを私たちは、しっかりと知っておく必要があると思います。

    20190625 あじさい
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    ▼20世紀における最大の出来事

    仮にいまから千年後の子供たちが、世界史の授業で20世紀という時代を習うとします。
    そのとき、20世紀を代表する最も大きな出来事は、いったい何だと教わるでしょうか。
    みなさんは、何だと思われますか?

    世界史──つまり人類史において、20世紀を代表する最大の出来事とは・・・?
    私は間違いなく、「植民地支配の終焉」を挙げることになるだろうと思います。

    人が人を差別する時代、しかもそれを国家ぐるみ、民族ぐるみで人種差別し収奪した時代、これがはじまっ
    たのは、16世紀の大航海時代から以降のことです。
    どれいもちろん古代においても奴隷支配という植民地の原型はありましたが、
    ◯対等に戦い、勝負した結果、支配する者と支配される者に別れ、歴史においてその地位が度々逆転した中世以前の戦勝国による支配と、
    ◯大航海時代以降の国家ぐるみ、民族ぐるみで人種そのものを差別し搾取した「植民地支配」とでは、
    その規模も内容もまるで異なっています。

    16世紀以降、アジアやアフリカの有色人種諸国は白人が入植する植民地となり、現地の人々は収奪され、家畜のように扱われ、そして愚民化政策によってただ隷属するだけの民族に仕立て上げられていきました。
    当時の白人たちにとって、被植民者である現地のカラード(有色人種)は、人間ではありませんでした。
    これは誤解されている方もいらっしゃるのですが、人間として扱わなかったのではなく、そもそも白人たちは有色人種を人類とは別の種類の生き物──つまり獣(けもの)であると認識していたのです。

    有名な話ですが、植民地においては、白人の娘さんが部屋で着替えているところに、有色人種の男性(奴隷)が用事で入ってきても、娘さんは平気だったそうです。
    要するに室内に犬や猫が入ってきたのと、まるで同じだったのです。
    もちろん白人女性が着替えているところに、白人男性が入ってきたら、それはもう大騒ぎになります。

    こうした欧米列強による有色人種への植民地支配は、約五百年続いたのです。
    その間、何度かカラード(有色人種)による大規模な反乱なども起こっています。
    インドで1857年に起こったセポイの乱などもその一例です。
    暴動は白人たちの圧倒的火力の前に鎮圧(ちんあつ)され、首謀者(しゅぼうしゃ)たちは大砲の前に縛(しば)り付けられた状態で、大砲を発射され、五体をバラバラに飛ばされて処刑されました。
    なぜそのような残虐(ざんぎゃく)な方法で処刑できたのかといえば、有色人種は人間とみなされなかったからです。

    ▼日本人が自らを犠牲にして果たしたこと

    ところがそうした植民地時代が、20世紀の終わり頃、突然各地で終焉(しゅうえん)を迎えたのです。
    世界中の被植民地国家は次々と独立を果たし、欧米諸国はその富の源である植民地をことごとく失いました。

    それだけではありません。
    かつて被植民地として支配されたカラード(有色人種)国家は、経済面でも急激な成長を遂(と)げ、21世紀となったいまでは、世界の経済の牽引役(けんいんやく)にまで育っています。
    この突然の変化の背景には、何があったのでしょうか。
    五百年続いた絶対的優位の植民地支配が、なぜ、こうも短期間に突然の終息を迎えたのでしょうか。

    これをお読みのみなさんなら、もうお分かりかと思います。
    答えは、日本にあります。

    東洋の辺境にあった島国の日本が、世界でただ一国、カラードでありながら自尊独立のために短期間で国をまとめ、積極的に欧米の文物を取り入れ、瞬く間に欧米列強と肩を並べる強国になったかと思うと、ただ一国で世界最強の誉(ほま)れ高いロシア陸軍を彼らの最も得意とする陸戦で打ち破り、さらに世界最強のバルチック艦隊を壊滅させたのみならず、昭和16年には絶対に負けることがないと信じられた大英帝国の東洋不沈艦隊を壊滅(かいめつ)させてしまいました。

    さらに日本は、植民地支配されていた諸国で白人支配者を追放すると、現地の人々に行政を教え、教育を施し、軍備を整えさせ、彼らの独立自尊を手助けしました。
    その代わりに、日本は満身創痍(まんしんそうい)の焼け野原になりましたが、ついに世界は、植民地支配とい
    う構図を失うに至ったのです。

    その象徴となったのが、昭和39(1964)年の東京オリンピックでした。
    東京オリンピック参加国は、その時点で史上最多の93カ国です。
    なぜ最多なのか。
    新たに独立した世界中の元植民地国が参加してくれたからです。

    東京オリンピックのマラソンで優勝したアベベ選手は、イタリアの植民地から独立したばかりのエチオピアからの参加です。
    ちなみに東京オリンピックの前に開催された1960年のローマオリンピックの参加国は83です。
    1956年のメルボルンオリンピックでは、参加国は67でした。
    1896年に行われたアテネオリンピックでは、参加国はわずか14です。

    東京オリンピックの次に開催されたメキシコシティオリンピックでは参加国は112となり、2012年のロンドンオリンピックでは、ついに参加国は204となりました。
    参加国が増えたということは、それだけ独立国が増えたということです。
    そしてそうなった背景には、間違いなく日本の働きがそこにあるのです。


    ▼日本は戦争目的において勝っていた

    そして、20世紀までの世界史のなかで、自国の利益を度外視してまで周辺諸国の独立と平和のために戦い、勝利を得、それら諸国に莫大な経費をかけて自立を促したという、まさに神様のような国は、日本以外に存在しません。

    韓国人で、韓日文化研究所の朴鉄柱氏は、次のように述べています。
    「大東亜戦争で日本は敗れたというが、
     敗れたのはむしろイギリスをはじめとする
     植民地を所有していた欧米諸国であった。
     彼らはこの戦争によって
     植民地をすべて失ったではないか。」

    まさに、そのとおりです。
    500年後、1000年後の世界の歴史教科書には、20世紀に関する記述として、間違いなく「植民地時代の終焉」という語句(ごく)が入(はい)ると思います。
    これこそ20世紀最大のエポックであり、人類史に残る偉業といえることだからです。
    そしこれを成し遂げたのは、まぎれもなく、私たちと血のつながった若き日の私たちの父祖たちだったし、それを引き起こしたのは間違いなく日本でした。
    そういうことを私たちは、しっかりと知っておく必要があると思います。

    ちなみに、植民地というのは英語で「colony(コロニー)」です。
    ですがおもしろいもので、日本語でコロニーと書かれるときは、生活共同体の意味に用いられるようです。
    英語の「colony」が、日本語では「植民地」「コロニー」と二つのまったく別な言葉に訳されて使われているのです。ちょっとおかしな話です


    ▼不思議の国「日本」

    さて、せっかくここまで書いたので、もうひとつ。
    20世紀の終わり頃から21世紀にかけて、世界の人類に起こった最大のエポックは何でしょうか?

    第一次、第二次世界大戦ではありません。
    それらはいずれも20世紀に終わっています。
    米ソの冷戦でしょうか。
    それも20世紀に終わっています。

    核の開発と利用、人類初の月面着陸、火星探査機の打ち上げ、もちろんそれもあるでしょう。
    けれどそれよりなにより、もっとはるかに大きな出来事があります。
    それは、世界の人口が70億を超えたことです。

    大東亜戦争が終結した頃、世界の人口は約20億人だったのです。
    それがわずか70年足らずで、70億人へと3倍半に増加したのです。
    これは人類史上、初の出来事です。
    地上にこんなにたくさんの人間が住むようになったのは、人類史上、いまをおいてほかにありません。

    1798年に、英国のトマス・ロバート・マルサス(ThomasRobertMalthus)という学者が、『人口論』という本を書きました。
    まさに歴史的名著といわれる本なのですが、その中で彼は、次のように述べています。
    「人口は、幾何級数的に増加する。
     一方、食料の生産能力には限界がある。
     だから人口の増加には一定の限界がある。」

    これはとても重要な指摘です。
    なぜならここに指摘されているとおり、人類は食料の生産能力を超えて生き残ることは不可能だからです。
    マルサスは本の中で、
    「いろいろな研究調査の結果、
     最終的に世界の人口は20億人が限界で、
     それ以上は食糧生産高が間に合わず、
     人口は増加しない」と述べています。
    そしてマルサスの本から150年後の世界は、まさに20億の人口となっていたのです。

    第二次世界大戦の発生原因については、政治学的な考察や、軍事学的な検証、あるいは地政学的なアプローチなど、さまざまな研究がなされています。
    しかし、戦争原因についての統一見解はありません。
    つまり諸説ある状態なのです。

    それら諸説の根本を探っていくと、結局のところ、戦争の原因は貧困と飢え──つまり人口が20億に達し食料供給が限界になった世界が、新たな食料の供給源を求めて奪い合いをしたからだと考えることができます。

    けれどここに、やはりおかしな国が、世界に一国だけありました。日本です。
    日本は満州や中国大陸、東亜諸国や南洋諸島に進出しましたが、そこで何をやっていたかというと、もちろん政治経済軍事的側面もありますが、同時に大変熱心に農業指導をしているのです。

    世界が「自分たちが食うため」に他国を侵略し、その国の食い物を横取りするという挙に出ていた時代に、世界でただ一国、そうした暴力集団を追い払い、現地の人々と一緒になって汗を流して食料生産高の向上を図ろうとしていた──それが日本だったのです。

    事態はそれだけにとどまりません。
    日本は大変な国費をかけて農業生産物の改良をし、なかでも稲塚権次郎氏の開発した小麦は、なんと収量がそれまでの小麦の5倍というすごい品種でした。
    稲塚氏が直接指導した中国の華北産業科学研究所は、まさに中国全土にこの新種の小麦の普及促進と農業指導をして回っていました。
    おかげで華北産業科学研究所の職員は、大東亜戦争終結後も中国に2年間とどまり、その普及活動を継続させられています。

    その結果、何が起こったのでしょうか。
    大東亜戦争当時の中国の人口は約5億人でした。
    それがいまや15億です。
    人口が3倍に増えました。
    3倍の人が「食って生きて」いくことができるようになったのです。

    さらに稲塚氏の開発した小麦は、戦後に起こったインドの大飢饉(だいききん)を救っています。
    飢饉(ききん)によって一億人以上が死ぬと思われたときに、この小麦の改良品種がインドにもたらされ、たく
    さんの命が救われました。
    それ以降、インドで飢饉は起きていません。
    さらに1960年代から90年代にかけて、インドの小麦の収量は3倍に増大。
    その結果、人口まで3倍に増えたのです。

    こうしたことの積み重ねによって、世界の人口は爆発的に増大し、いまや70億に達しようとしています。
    つまり、20世紀の後半から21世紀初頭にかけての、爆発的な人口増加の理由のひとつに、間違いなく日本という国の働きがあるわけです。

    誰しも、人が死ぬのは悲しいことです。
    まして飢(う)えて死ぬなどということは、もっと悲しいことです。
    飢えによって我が子を死なせることになったら、いくら悔いても悔やみきれない悲しみが残ります。
    そうした飢えから多くの人々を救い、子孫を増やすことができるようにしたのだとすれば、それはまさに神の行いといっても過言ではないかもしれません。

    もちろん、世界に奇跡の小麦が普及拡大した背景には、日本以外の多くの国の良心と協力と努力がそこにありました。
    いまの私たちには、こうした先人たちの努力に学び、見習い、未来を担(にな)うという役割が課せられているのではないでしょうか。


    ▼日本の心を取り戻そう!

    せっかくここまで書いたので、もうひとつ書いておきたいと思います。
    文明は必然的に火を使いますから、人類が文明を築いた地域では多くの木が伐採されるため、何もしなければ森林の面積が少なくなっていきます。
    おかげでいまでは、人類の古代文明発祥(はっしょう)の地は、どこもかしこもペンペン草も生えないような砂漠になっています。

    いちど砂漠化した土地に、自然に緑が戻るには、最低でも5千年の歳月がかかるといわれています。
    ところが最近、そうして砂漠化した土地に、緑が戻りつつあります。
    何が起こっているかとクズの普及です。

    クズというのは、漢字で「葛」です。
    葛飾区、葛根湯の「葛」、好きな人も多い葛切りのクズです。
    クズは根が丈夫で、荒れた土地でも生息が可能です。
    日本生まれのこのクズが、世界の砂漠地帯で、砂だらけの土地を緑に変えつつあります。
    もちろん日本人の指導によって、現地の人たちが植えているのです。

    クズの葉は砂漠を覆(おお)って日陰をつくり、日陰は土地を潤(うるお)します。
    そして葉が落ちると、それが腐って腐葉土となります。
    地面に栄養分が戻りはじめるのです。
    そうして何年かたつと、その土地が蘇(よみがえ)り、そこでイモなどの栽培ができるようになります。
    するとますます地味が肥(こ)え、さらに灌漑(かんがい)により水が引かれることによって、いままで何もないただの砂漠だった土地に、なんと何十年かぶりに緑が蘇(よみがえ)るのです。

    見ていてください。
    10年後、50年後、100年後、1000年後、私たちが学生時代に、何もない砂漠地帯と教わり、パジェロがラリーで走るくらいしか使い道のなかった白い大地が、緑豊かな大地として蘇るのです。

    日本を神の国だという人がいます。
    私は、それが本当かどうかは分かりません。
    けれどひとつ言えるのは、戦後、私たち日本人が失った「日本の心」は、皆が幸せに、そして平和に暮らせる社会を皆で築いていこうという、世界の人々が待ちわびている神の心、神の願いと深いところでつながっている、そんな気がするのです。

    「日本を取り戻そう!」という言葉が、私たちの合い言葉になっています。
    それは「日本の心」を取り戻すことでもあり、世界の人々にとって本当に幸せをもたらすものは何なのかを真剣に考え、行動していくことでもあります。
    私たちはいま、それができるかどうかの瀬戸際(せとぎわ)に立っているように思います。


    ※このお話は『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第一巻の「おわりに」に収録したお話です。

    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 朝鮮通信使と柳川一件


    江戸時代の朝鮮通信使に関連して起こった対馬藩の事件は、
    「柳川一件」
    と呼ばれ、学問が空理空論に走ることを戒めた事件として、大切な教訓にされました。
    どんなに勉強ができたり通訳ができたとしても、
    「民を靖(やす)んじる」
    という施政の本義を失ったならば武士ではない。
    どんなに学問ができようが良い大学を出ようが、一見正しげな理屈を言おうが、国を靖んじ民の安寧を離れては「曲学阿世の徒」でしかないということが、きつく武家のいましめとされたのです。

    朝鮮通信使の行列



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    小名木善行です。

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    かつて百済や新羅があった時代、百済王や新羅王の倅(せがれ)、つまり次の国王となる王子は、人質として日本の都に留め置かれました。
    これは日本における伝統的な統治方法で、こうすることによって日本で成長した王子が日本人女性と結ばれる。
    そしてその王子が次の国王になれば、その次の王となる王子は日本人との混血ですから、きわめて平和的に血が混じり、両国が自然と良い関係になっていく。

    この方法を全面的に採り入れたのが元の大帝国で、元もまた征服した各地の王から、後継ぎの王子をカラコルムに人質に取り、子供のうちからモンゴルで過ごさせることによって、モンゴルの言葉や習俗にも通じ、モンゴル人の妻を娶って、次の国王を生んでいました。

    また同時にこのことは、次の国王となる王子が人質になっているということは、その王国が裏切れば、その王子はまっさきに処刑されるわけです。
    つまり、王は、宗主国を裏切れないというわけで、これはどうみても、王子が人質に取られている側が、宗主国の属国となっているということが明らかです。

    これと同じ仕組みが西洋にもあって、国王の側近にあって国王を護るための兵のことを近衛兵と言いますが、その近衛兵というのは、王に従う貴族たちの跡取り息子たちです。
    貴族は、王の命令によって、外地に出征していきますが、もし、その貴族が王を裏切ったり、裏切ったと疑われるような振舞いをすれば、即時、王子は処刑、国許にある貴族の領地や財産も没収、貴族の館に勤める女たちも奴隷として売買されるというのが、近衛兵の仕組みです。
    世の中、決して甘くはないのです。

    ところが戦後の日本の歴史教科書や歴史小説、あるいは韓国の歴史教科書は、百済や新羅が日本に王子を人質として出していたことについて、これを
    「親善大使として、日本に長く逗留させていた」
    などと、まことしやかな嘘を書いていました。

    少し考えれば、親善大使なら、子供時代から青年期に達するまで何年もの間、日本にずっと滞在し続ける理由がありませんから、誰でもこの書き方がおかしいことに気付いてしまうのですが、そのように書いた経験のあるある作家の方に以前伺いましたところ、当時はそう書かないと流通に乗せてもらえなかったのだそうです。

    もっとも韓国の歴史教科書は、新羅や百済の方が日本よりも文化的な上位国であって、遅れた国である日本に王子を「親善大使」として送ったのだと相変わらず強弁しているようです。
    しかし後年の李氏朝鮮は、モンゴルに征服されたとき、やはり王子をモンゴルに送っていますし、これは明らかな人質以外の何ものでもありませんし、日本は新羅にも百済にも李氏朝鮮にも、天皇や将軍の跡取りを人質に送ったことなど、歴史上、ただの一度もありません。
    嘘は、つじつまが合わないから、結局はバレるのです。

    同じように嘘にまみれたものに、江戸時代に朝鮮から来日した朝鮮通信使があります。
    この朝鮮通信使について、Koreaでは
    「徳川幕府が経済的に困窮に陥ったために、
     先進文物を取り入れようと
     李氏朝鮮王に懇願して招いたもの」
    だったと教えているのだそうですが、馬鹿な話です。
    徳川幕府というのは、いまのお金に換算すれば、将軍の個人資産が800兆円に達していた当時にあって、世界最大の大金持ち政権です。
    なにせ世界の金の3分の1を支配していたのです。
    それがどこをどうしたら「徳川幕府が経済的に困窮」となるのでしょうか。

    しかも朝鮮通信使は、毎度600人からの大勢でやってきて、日本国内を対馬から江戸まで旅するのですが、その旅の経費は、毎度、全額日本持ちです。
    「将軍家就任のお祝いにやってきた」というのですから、粗略に扱うわけにもいかないし、彼らに自由行動を認めれば、娘はかどわかすし、暴力は振るうし、放置できないから仕方なく日本側で全部経費の面倒をみながら、彼らの行動を制限するしかなかったのです。

    ちなみに李氏朝鮮では、国王から派遣される巡見使が国内の地方を回るときは、それぞれの滞在先で巡見使の一行の全員が、それぞれの村の若い娘に夜伽を命じ、言うことを聞かなければ、娘が承諾するまで、その娘の眼の前で、その娘の親兄弟をムチでぶっ叩くというのが慣習でした。
    彼らの国ではそれが常識であったとしても、我が国では、村人たちは全員、天子様の大御宝であり、これを護るのが大名や将軍の務めですから、彼らの行動を制約するためには、厳重警護するしかなかったというのが実情でした。
    そこまでしても、よその国に来て、鶏泥棒はするし、畑の作物は勝手に持ち去るし、旅籠に泊めれば、旅籠にある置物から布団、茶碗まで全部持っていってしまう。
    朝になれば、旅籠にちゃんとトイレがあるのに、わざわざ路上に出てフンをする。
    だから江戸時代の末期になると、さすがにあまりに迷惑だからと、対馬で追い返し、追い返すことに成功した対馬守は、その功績で将軍から多額の謝礼を受け取っているのです。

    そういえば、江戸時代のはじめ頃、秀吉の時代に日本にやってきた朝鮮の儒者や職人たちを、李氏朝鮮が「返せ」と言ってきたことがありました。
    職人たちというのは、陶工などの特定の技術知識集団だったのですが、この求めに、儒者はほとんどが帰国を希望したので、日本はあご足つきで、彼らを朝鮮に送り返しました。

    ところが技術職人である陶工たちは、その多くが朝鮮帰還を拒否し、自らの意思で日本に残りました。
    これには理由があって、李氏朝鮮では、陶工たちは白丁(奴隷)であり、収奪の対象であり、最下層の賤民です。
    上から司令されたものを強制的に作らされ、少しでも反抗したり、作ったものが両班の気に召さなければ、極めて残酷な体罰が科せられました。

    ところが日本では、古来、日本社会は技術者(職人)を高く評価され、研究、開発まで面倒をみてくれ、家人まで与えてくれる等の便宜まで図ってくれ、体罰による身の危険もなく、好きなだけ、思う存分に仕事ができる。
    もちろんなかには、それでも日本人を信じられなかったり、どうしても故郷に思い残すところがあって帰国を申し出た者もいたけれど、ほとんどの職人たちは、むしろ日本に残って腕を振るいたいと願ったのです。
    つまり、圧倒的大多数の半島人職人さんたちは、日本に居残ることを希望したのです。

    ところが李氏朝鮮にしてみれば、これが気に入らない。
    あくまでも「返せ!」という。

    このことは、朝鮮との国境を接する対馬の対馬藩にしてみれば、大きな問題です。
    なぜなら対馬藩は、島の田畑に限りがあるため、基本的に海洋からの漁労収入と、日本本土および朝鮮との交易が藩の財政と民政の柱です。
    ですから対馬藩は、領海内での漁業操業の安定化のために徳川幕府と李氏朝鮮の和解を願いました。

    一方、李氏朝鮮は、慶長の役のあと、ようやく明軍の脅威が去り、国情が安定してきた李氏朝鮮は、対馬藩に対して、日本が朝鮮征伐の謝罪をし、捕虜を帰すなら、国交を開いても良いともちかけました。
    いつもの朝鮮の自尊肥大なのですが、言うことをきかなければ武器を持たない対馬の漁民に対して危害を加え、対馬に軍を出すというのですから、放置できない。
    対馬の人たちには、元寇の際の苦い思い出があります。
    皆殺しにされ、女達は強姦され、裸にして軍船に吊るされたのです。

    こうした李氏朝鮮の意向に、対馬藩がどれだけ困ったかは、想像に難くないのですが、当時の日本では、李氏朝鮮を「国」としてさえ認識していません。
    日本人は、民のために国があると考えますが、当時の朝鮮半島は、李氏朝鮮という明と通じた暴力団が、朝鮮半島内を縄張りとして身勝手な暴虐暴政を行っているだけの未開の地域です。
    当時、全世界の鉄砲の半数を保持し、世界最強の軍事大国となっていた日本にとって、そうした朝鮮半島の暴力団との交流は、「外交」の名にさえ値しないと考えられていたのです。
    これは正しい認識というべきです。

    そうはいっても、対馬藩にとっては、相手が暴力団のようなものだからこそ困るのです。
    やむをえず対馬藩主の宗義成は、朝鮮出兵とは無関係の藩内の罪人たちの喉を水銀で潰して声を出せないようにしたうえで、「半島人捕虜」として、李氏朝鮮に差し出しました。

    李氏朝鮮側も、形式が整っていれば「日本が捕虜を帰した」と公式には発表できるため、事実を知りながらこれを黙認して捕虜(実は罪人)たちを受け取りました。
    李氏朝鮮の要求に従ったわけですから、これでひと安心、となるはずでした。

    ところが、ひとつ要求が通ると、ますます増長して要求をエスカレートするのが、古来変わらぬ彼らの特徴です。
    今度は、日本の徳川幕府に、「国書をもって朝鮮征伐行為を謝罪せよ」と言ってきたのです。
    日本にしてみれば、戦いの相手は、あくまでも明国であって、半島は明国の出先機関という認識です。

    困りきった対馬藩(宗家)は、慶長10(1605)年、日本の謝罪国書を勝手に偽造し、李氏朝鮮に提出しました。
    とんでもない、というご意見もあろうかと思いますが、李氏朝鮮は、日本の謝罪さえあれば、それ以上、ことを荒立てることなく、対馬藩の領海への侵害もしないと約束したのです。

    このことは、平成10(1998)年の日韓共同宣言のときの日韓外交と酷似しています。
    このとき日韓共同宣言をまとめたのは、当時外務大臣だった高村正彦氏(衆議院議員、現・自民党副総裁)ですが、氏はこのとき、金大中韓国大統領(当時)から、
    「一度謝れば韓国は二度と従軍慰安婦のことは言わない」と説得され、
    「痛切な反省と心からのおわび」
    を共同宣言に盛り込みました。

    その結果何が起こったかといえば、ひとたび日本政府から「反省とお詫び」を引き出すや、韓国は手のひらを返したように、今度はこの共同宣言をネタにして、慰安婦問題を日韓関係のカードに使い、賠償を要求し、韓国への巨額の財政援助をゴリ押しし、さらに世界中で、日本が半島人をセックス奴隷にしたと宣伝してまわっています。

    日本人の感性では、「綸言汗の如し」といって、ひとたび口に出したなら、それを守るのが信義の道ですが、半島人にはそうした考えはありません。
    ケモノと同じで、「いま」が満足できれば、真実などはどうでもいいのです。
    ケモノにとって約束は、その場限りの言い逃れにすぎないのです。

    実際に、朝鮮半島に渡り、そうした半島人の習性を、日常的に目の当たりにしていた慶長・元和・寛永の頃の日本は、ですからそうした半島人の体質、政情を体験的に熟知しています。
    ですから、家康も、秀忠も、家光も、李氏朝鮮の言い分など、まるで頭から相手にしていません。

    一方対馬藩では、藩主の宗義成の「お詫び文」の偽造に対して、家老の柳川調興(やながわしげおき)が、三代将軍徳川家光に、「嘘はいけない」と藩主の宗義成を告訴しました。
    柳川調興というのは、たいへんな教養人で、China語、Korea語にもよく通じ、古今の書物にも精通する人物です。
    それだけに藩主の二枚舌外交は許せなかったのでしょう。

    江戸幕府内でも、幕府の官僚の一部は、柳川氏の意見を、もっともなことだと評価したようです。
    そこで江戸幕府では、家光の命で、江戸城大広間に、江戸にいた全国の大名を全員総登城させました。
    そして将軍家光の前で、対馬藩主の宗義成と、対馬藩家老の柳川調興を直接対決させました。

    理は、柳川調興にあります。
    嘘はいけないからです。
    まして国書の偽造など、もってのほかです。

    ところが、その場にいた全国大名の総意と、将軍の家光の判断は同じでした。
    結論は、
    「藩主宗義成にお咎めなし」
    というものです。
    そして家老の柳川調興は津軽に流罪になりました。

    なぜでしょうか。
    なぜ嘘はイケナイと言った柳川調興が罰せられ、偽書を書いた宗義成が無罪とされたのでしょうか。
    このことを、私達はしっかりと考えなければならないと思います。

    現実に朝鮮出兵をしてきた全国の大名たちからすれば、民を人として扱わず、民に対して暴虐と貪りの限りを尽くし、平気で奪い、殺し、その肉を食らう李氏朝鮮の一族は、まさに獣であり、国の名に値しないものです。
    獣に対して自己防衛のために偽書を送り、対馬藩の民衆の安寧を図るのは、たびたび熊に襲われる村人たちが、熊に偽の餌を与えて、熊からの被害を食い止めようとするのと同じです。
    つまり、宗義成の行動は、藩主として当然の行いであり、李朝を「人の王朝」と考える家老の柳川調興のほうが、むしろ現実をわきまえない「曲学阿世の徒」であり、その曲学に基づいて藩主を告訴するなど、もっての外だと考えられたのです。
    だから、柳川調興は遠島流罪となったのです。

    江戸の武家社会では、この事件を
    「柳川一件」
    といって、幕末から明治にかけても、学問が空理空論に走ることを戒めた事件として、大切な教訓とされました。

    要するに簡単に言うと、どんなに勉強ができて通訳ができたとしても、「民を靖(やす)んじる」という施政の本義を失っては、国民の生活を守ることはできないし、そういうことでは人の上に立つ武士は勤まらない。
    どんなに学問ができて、良い大学を出ようが、いくら一見して正しげな理屈を言おうが、
    「国を靖んじ民の安寧を離れては、
     曲学阿世の徒でしかない」
    ということによって、この事件を「武家のいましめ」としてきたのです。

    もっとも対馬藩では、この事件で漢籍、朝鮮語に通じた柳川調興がいなくなり、朝鮮と直接交渉ができる通訳がいなくなってしまったため、藩主の宗義成は、幕府に泣きついて京都五山の僧の中から漢文に通じた碩学を派遣してもらい、ようやく外交ができる体制を整えています。

    さて、こうした対馬藩宗家の努力もあって、李氏朝鮮からは、江戸時代を通じて、都合12回、朝鮮からの特使(朝鮮通信使)が、来日しています。
    そして最終回の12回目が、上に述べた対馬差し止めとなった通信使です。

    初回が慶長12(1607)年で、最終回が江戸後期の文化8(1811)年です。
    当初の3回は、国交回復や捕虜返還交渉のためとされていますが、以降の9回は、いずれも、新将軍就任の祝賀のための来日です。

    その朝鮮通信使の第11回目、おおむね朝鮮通信使が、制度として定着していた宝暦14(1764)年の朝鮮通信使の記録が、いまに残っています。

    このときの朝鮮通信使は、徳川家治が第11代将軍に就任したことへの祝賀のための来日です。
    その通信使の一行の中に、金仁謙という者がいて、来日したときの模様を詳細に書き遺しているのです。
    これが「日東壮遊歌」で、本にもなっています。
    希少本で、いまでは古本がすごい高値になっていますが、この本の中に、当時の半島人官僚が見た率直な日本への感想が書かれています。

    そこに次のように書かれています。
    〜〜〜〜〜〜〜
    ●1764年1月22日 大阪

    100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
    大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、 銅の屋根で、黄金の内装だ。
    この贅沢さは異常だ。
    都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。

    Chinaの伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
    世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
    ソウルの繁華街の1万倍の発展だ。

    北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」 と言っている。
    穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
    そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
    嘆かわしく、恨めしい。


    ●1764年1月28日 京都

    街の繁栄では大阪には及ばない。
    しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
    山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
    この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
    悔しい。

    「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
    悔しい。
    この犬のような倭人を全て掃討したい。
    この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。


    ●1764年2月3日 名古屋

    街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。 凄い。
    自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ、この旅で最高だ。
    中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
    朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。

    人々の美しさも最高だ。
    特に女性が美しい。 美しすぎる。 あれが人間だろうか?
    「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、
    美しさを失うだろう。

    (帰路にて)
    名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。
    我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。


    ●1764年2月16日 江戸(東京)

    左側には家が連なり、右側には海が広がっている。
    山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
    楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船。

    全てが大阪や京都より三倍は優っている。
    この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
    女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。
    〜〜〜〜〜〜

    これが来日した朝鮮使節の実際の感想です。

    この感想が、いまから248年前の半島人の日本を見た感想であり、その感想は、当時来日した半島人にとっても、現代日本に来る半島人にとっても、ほとんど変わりがない、ということは注目に値します。

    そして、自分たちが思っていた「我が国が一番」という認識(認知)と、実際に自分の目で見たときの認識(認知)が、あまりにも不一致(不協和)だったとき、本来なら人は他国に倣って自分たちも進化しよう、進歩しようと考えるのがあるべき普通の姿です。
    これを「認知不協和」というのですが、普通はこうした認知不協和は、自国の文化の発展に大きく寄与するものです。

    ところがその認知不協和が、なぜか「嫉妬」になってしまうのが、半島の特徴で、
    実際、金仁謙の上の文にも、
    「悔しい。 この犬のような倭人を全て掃討したい。
     この土地を朝鮮の領土にして、
     朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。」
    と、考えられない不逞な思考に走っている様子が描かれています。

    感情は、とかく低レベルであればあるほど、激しくなります。
    足を踏んだ、踏まない、言葉遣いが気に食わない、肩がぶつかった、ガンを飛ばされた等々です。
    人は、とかく次元の低い感情であればあるほど、過激に走る。

    そういう斜めにしか物事を見れなくなった認知的不協和症状の相手に対しては、関わりをもたないことが、最良の防衛策です。
    相手にせず、関わらず、近寄らない。
    そうすることで、彼らが経済的にも社会的にも追いつめられれば、自然と、反省の息吹も芽生えるというものです。

    さて、その朝鮮通信使ですが、おもしろい絵があります。
    京都大学が所蔵している「鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節」の絵です。

    鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節
    鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節


    この絵は、朝鮮通信使が鶏を盗んで乱闘になっている有名な絵です。
    ご覧いただくとわかります通り、白昼堂々の往来で、朝鮮通信使一行が、日本人の町民からニワトリを強奪し、騒ぎになっている様子がみてとれます。

    場所は辻の中央です。
    ニワトリを奪おうとする朝鮮通信使たち、そうはさせじともみ合う町人たち、足下には明らかに日本人と見られる町民が倒れています。
    通信使を押さえつけようとする町民、ニワトリを奪い取って、別な通信使に渡そうとしている半島人、そうとうな騒ぎであり、乱闘があったことが伺えます。

    日本では、官が民の所有物、たとえばニワトリなどを勝手に泥棒するなどということは、まず考えられないことです。
    なぜなら、官は民のためにあるというのが、官民両方の「常識」だからです。
    けれどそれは、あくまで「日本の常識」であって、「朝鮮の常識」ではありません。

    では、朝鮮ではどうだったのか。
    それについては、明治初期に、日中韓を旅行した英国人女性イザベラ・バードの朝鮮紀行に詳しく紹介されています。

    〜〜〜〜〜〜
    彼らは、たいがい内気で、わたしたちの姿が目に入るとあわてて鶏をひっつかんで隠してしまう。
    伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。
    従者たちは近くの住民たちを脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
    (イザベラ・バード「朝鮮紀行」P133~P137)
    〜〜〜〜〜〜

    要するに1392年から1910年まで、500年続いた李氏朝鮮では、支配階層である貴族(両班)が、庶民(白丁)からニワトリや卵を勝手に奪うのは、支配者としての「当然の権利」であったのです。

    ニワトリや卵だけではありません。
    魚も、食べ物も、穀物も、女性も、欲しいものがあれば、勝手に奪う。
    目の前にアベックがいて、その相手の女性が気に入れば、その場で平気で奪う。
    幼子を連れた若い母親がいて、その母親が気に入れば、その場で蹂躙する。

    日本では「官は民のためにある」が常識ですが、朝鮮半島ではあくまで「民は官のためにある」のです。
    上下関係が何よりも優先する。
    上に立つ者は、下のものをどれだけ犠牲にしても構わない。
    それがあたりまえの常識です。
    それが、朝鮮流儒教です。
    彼の国の常識です。

    この傾向は、いまでも続いています。
    日本では子供に「思いやりのある立派な大人になれ」と教えます。
    けれど、朝鮮では「とにもかくにも人の上に立て」と教えます。

    下になったら、何もかも奪われる。
    だから、どんな卑怯な手を使ってでも上に立った者が勝ちというのが、彼の国の古来変わらぬ常識だからです。
    日本とは、根底にある「常識」が異なるのです。

    同じくイザベラバードの朝鮮紀行に、次の一節もあります。
    〜〜〜〜〜〜
    高級官僚や両班はお付きの行列を連れ、
    行政官の屋敷に泊まり、贅沢な食事をとる。
    快適とはほど遠い宿屋に泊まり、
    村の食べ物をとらなければならないはめに追いこまれたとしても、
    すべて最上のものが選ばれ、
    それに対して代金は支払われない。
    (同上P168)
    〜〜〜〜〜〜

    下々の者が、それによって飢え死にするようなことがあったとしても、官僚は我関せず、なのです。
    自分がその場で贅沢ができればそれで良いと考える。
    日本人にはあり得ない感性です。

    そういう一行が、朝鮮通信使として日本に来たのです。
    宿泊施設の旅館では、部屋にある布団から、花瓶や、食器、掛け軸まで盗まれた。
    朝鮮通信使が去った後の部屋は、まさに「引っ越した後の空き家」状態になったといいます。

    そしてそのことは、何も18世紀の大昔のことばかりではありません。

    昨今の対馬には韓国人観光客が大勢やってくるけれど、例えばタクシーで、降りるときにカネを払わずに走って逃げていく。
    あるいは、料金を払っても、その支払いの際に、五百円玉とそっくりの五百ウォン(価値は十分の一)を混ぜてくる。
    その場で気づいて、注意しても、何事か大声で喚き散らして、泣き寝入りさせられてしまう。

    スーパーでは、並んでいるバナナを、カネも払わずにその場で食べてしまう。
    店員が気づかなければそのまま金を払わずに立ち去る。

    コンビニでは、5、6人の集団でやってきて、一人が支払いをしている間に他の者が万引きする。
    若い女性客は陳列棚の口紅をその場で使って元の棚に戻すので、売り物にならなくなる。
    料理屋には、食べ物を持ち込み、注文しない。

    旅館では、シャンプー、リンス、タオルから、トイレットペーパー、果は部屋に据え置きのテレビまで、残らず持ち去ってしまう。
    部屋や建物を汚し、フロントやエレベーターなどの公共スペースで、平気で大小の用をたす。
    部屋の中で何をするのか、便臭が激しく(日本人女性を騙して部屋に連れ込み、スカトロ行為をしているというウワサあり)、部屋に臭いが付く。
    支払いの段階になってクレームをつけて値切る。

    浴場施設では、湯船の中で平気で石鹸を使い、体を洗う。
    日本人客が嫌がって来なくなり、廃業した温泉もある、等々。
    これが近年の対馬で、実際に起こっていることです。

    山本博文さんが書いた「江戸時代を探検する」 (新潮文庫)には、次の記載があります。
    〜〜〜〜〜〜
    通信使の随員の中には、段々と尊大な行動をする者も現れた。
    出船の時に、前夜 出された夜具を盗んで船に積み込んだり、
    食事に難癖をつけて、
    魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、
    予定外の行動を希望し、
    拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあった。
    〜〜〜〜〜〜

    実は、上に紹介した金仁謙が来日したときの第11回朝鮮通信使の帰り際、ひとつの事件が起こっています。
    明和元(1764)年4月6日のできごとです。

    この日の昼、大阪の長浜の荷揚げ場で、朝鮮通信使の中の下級役人のひとりが、鏡を失くしたと突然騒ぎ出したのです。
    通信使の都訓導(中級官人)の崔天宗という者が、これを咎め、
    「日本人は、盗みの仕方が上手だ」と、悪口を言いました。

    このとき、朝鮮通信使たちの通訳をしていた対馬藩士の鈴木伝蔵は、自分で落して失くしたのか、盗られたのかもまだわからないうちに、日本人を泥棒呼ばわりするのはけしからんと、崔天宗にこのときとばかり、
    「あなたは日本人のことをそのように言うが、あなた方は食事の際に出た食器や飾りの品々を、勝手に持ち帰っているではないか。これをどう思うのか」と言い返したのです。

    すると鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、突然火病を起こして怒り出し、人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も打ち据えました。

    鈴木伝蔵は、自分はあくまで通詞(通訳)であり、朝鮮通信使たちをもてなす立場です。
    だからその場では、我慢しました。
    けれど、下級武士とはいえ、武士は武士です。

    杖で打ち据えられて、ただ黙っていたのでは、武士の一分が立ちません。
    思いつめた鈴木伝蔵は、その夜、崔天宗の喉を槍で突き刺して殺害し、奉行所に自首し、切腹しました。

    よく、朝鮮使節をさして、「日本に儒教をはじめ、さまざまな文化や技術を伝承した」と書いている教科書などがありますが、残念ながら鶏泥棒の文化や技術が、日本に伝承されたという記録はありません。
    つまり、朝鮮使節が日本に文化を伝えたなどという事実は、まったくありません。

    当時の朝鮮からの日本の輸入物は、半島人参と、China産の生糸と絹織物です。
    他方、朝鮮通信使たちが喜んで持ち帰ったのが、サツマイモでした。
    当時の朝鮮は、毎年のように飢饉が発生していたのです。
    ところが日本では、飢饉のとき、サツマイモを栽培(芋は収穫が早い)して、多くの人が助かったという話から、通信士使たちは、種イモだけでなく、植え方、貯蔵法、料理法まで学んで持ち帰り、自分たちのためにこれを栽培したといいます。

    鎖国をしていても、海外の動勢は、国家として常に監視しておかなければならないのは当然のことです。
    ですから、ほんのわずかな窓口での交流は続けましたが、ものめずらしい外国人が来日するとなれば、中央から歌舞伎一座や、相撲興行がやってくるというのと同じで、大歓迎するのが、日本の庶民の常です。
    ですから朝鮮使節を迎えるための踊り、なんていうのも、今に伝えられています。

    ところが、肝心のこの朝鮮使節、実にとんでもない連中で、自称朝鮮国王の使いでありながら、道中で、まるで不良中学生ばりに、道中で悪さばかりする。
    一回の通信使でやってくるのは、だいたい450人くらいの団体です。
    そのうちの100人の水夫が大阪に留まり、350人が、徒歩で江戸向かっています。
    釜山を出発してから、半年くらいの滞在です。
    さらに、朝鮮通信使には、対馬藩から800人の護衛の武士が同行しています。

    800人の警護がいてさえ、朝鮮通信使は、あちこちで問題を起こしたのです。
    幕府は、この朝鮮通信使のために、毎度100万両の予算を計上しています。
    それだけの接待をしたのです。

    けれど、彼ら朝鮮通信使たちは、風呂にはいる習慣がないから臭い。
    日本の旅籠や、街道のあちこちにある茶店には、いまで言ったらコンビニみたいなもので、ちゃんとトイレがあるのに、路上で大小の用をたす。
    朝になると、350人が一斉に、往来の路上で大用をたすことを考えてみてください。
    どれだけ迷惑なことか。

    けれど、街道の村々では、30年に一度のこの朝鮮通信使たちの歓迎のために、歓迎のための踊りや祭りなども企画し、実行しています。
    負の面もたくさんあったけれど、それでも歓迎をする。
    楽しかった思い出を、たいせつにする。
    それが日本人です。

    朝鮮通信使の経路


    そうそう、最後にひとつ。
    朝鮮通信使は、壱岐対馬を通って来日したのですが、壱岐を治める平戸藩では、使節の無事な航海を祈って藩主自らが、邇自神社(にじじんじゃ)に参拝し、順風祈願をしています。
    表向きは、あくまで、無事な航海を願ってのことです。

    けれど、本音は、
    「一日も早く壱岐から出て行ってもらいたい」
    というものであったともいわれています。

    隣人と仲良くする、常に仲良くしたい、というのは、日本人の変わらぬ習性です。
    けれど、まともな人たちなら、そうやって仲良く暮らすことはとても大切なことだけれど、まともでない人たちまでごっちゃにするのは、国民の生活そのものを破壊する原因となります。

    冒頭に掲げた朝鮮通信使一行の図は、まことに豪勢な行列です。
    幕府は、30年に一度の朝鮮通信使の行列のために、莫大な予算を計上して、通信使たちの行列を荘厳しました。
    けれどそれは、あくまで30年に一度のイベント毎だったからです。
    逆にいえば、それだけのおもてなしはするけれど、それ以外には「半島人は来るな!」ということなのです。

    私は、ChinaやKoreaについて、限定的な鎖国を実施せよ、国内にいる在日外国人の通名を廃止せよ、という立場をとり、国政にそのはたらきかけをしていますが、これは民の生活の安全と安穏を保つための、最低限の国の使命であると思っています。

    ※この記事は2012年10月の記事のリニューアルです。

    日本をかっこよく!
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    そしてその動きの中心にあるのは間違いなく日本であり、私達日本人のひとりひとりです。

    20220612 田舎
    画像出所=https://mimpiweb.net/blog/intermarriage/grandmas-countryside-house/
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    そして第一次世界大戦終結後のパリ講和会議(1919年)で、日本は世界に向けて「人種の平等」を高らかに宣言しました。

    この時代、日本を除く世界の先進諸国の冨は、植民地からの収奪によって担(にな)われています。
    人種平等は、なるほど正しい視点ではあるけれど、世界を支配していた国々、それら諸国にあって実際に植民地経営によって巨富を得ていた人たちにとっては、500年続いた家族の繁栄の源泉となる財産のすべてを、ただ一方的に放棄せよというに等しい主張でした。
    日本の主張する「人種平等」は、正しい理想ではあるけれど、世界の富裕層にとっては自分たちの財産を奪うものです。
    ですかからこの瞬間から、日本は世界の列強諸国の敵になりました。

    日本の主張が間違った主張であるならば、日本は悪の枢軸国であり、世界の正義の敵、つまり悪の帝国です。
    悪の帝国ならば、攻めて滅ぼすしかありません。
    ところが日本の主張は、世界中の誰が観ても正しい主張です。
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    そこで世界の富裕層が選択したのは、日本をChinaと戦わせるというものでした。

    この場合、西欧諸国立場は、Chinaの平和のための支援活動を行うというだけのものとなるし、支援される側の国民党蒋介石にしてみれば、ただChinaの民衆を使役して日本と戦わせていさえすれば、豊富な軍資金が天から降ってくるわけです。
    こうして日華事変が勃発します。

    ところが日本の軍は強く、China側は負けてばかり。
    そこで次の手段として採られたのが、日本に対する経済封鎖です。
    日本はなんとかして戦いを回避しようと努力をし続けますが、ついに昭和16年、戦争に打って出ることになりました。

    この戦争は、序盤こそ日本の破竹の勝利の連続でしたが、ミッドウェーの敗戦によって形成が逆転。
    日本は制海権と制空権を失い、これによって外地に派遣していた将兵への食料が絶たれることになりました。
    ちなみに世界の戦役では、食料は現地で相当部分を調達するのが原則です。
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    ところが日本軍の場合、現地で食料調達することを一切せず、あくまで内地からの補給のみによって糧食を賄っていましたから、制海権、制空権を奪われ、輸送船団が襲撃される状況になると、結果として外地の日本軍の戦力が低下することになるわけです。

    この戦略が奏功して、昭和20年、ついに日本は降参します。
    日本は武装を解除され、軍は解散、軍事教育を受けた戦闘のプロフェショナルたちは逮捕投獄あるいは殺害され、ハイパーインフレとなって国内経済は破綻し、資金力のある財閥も解体、大家族制の源泉となっていた農地も寸断され、法体系も破壊されてしまいます。
    さらに国際的には、日本と戦った諸国が「United nations(国際連合)」として組織化され、その連合によって日本は戦争終結後もいわば恒常的な「敵国」として規定されました。

    ところがそこまでして徹底破壊したはずの日本は、終戦後19年、講和条約発効後としてはわずか12年で国土も経済も復興させて東京で東洋初となるオリンピックを開催すると、その20年後には世界第二位の経済大国にまで成長し、しかもその取引に(どこかの国のような)一切の不正がない、という行動をしました。
    またかつて日本が領土としていた諸国がそれぞれに欧米列強の圧力を跳ね返して独立を果たすと、それら諸国に工場を進出させ、また橋梁や道路や水道や学校などの施設つくりを補助することで、それら諸国が経済的に繁栄する手助けのために惜しみない援助を与え続けました。
    日本は戦後70年、一度も戦争をすることなく、しかも日本と関わったすべての国の経済的繁栄を補助し続けたのです。

    はからずも明治以降の歴史を大局することになってしまいましたが、要するに何を言いたいのかというと、力こそが正義であり、力を持つ者(あるいは国)は、そうでない者を人としてさえ見なさななくても良かったという時代が、かつてこの地球上に存在していたわけです。

    もうすこし述べるならば、世界には、必要なものや欲しいものがあるなら、自分で努力してそれをつくろうとする種族と、他から奪おうとする種族があるわけです。
    そしてつくろうとする種が、奪う種によって蹂躙しつくされてきたというのが、すくなくとも19世紀までの世界であったわけです。

    文明の衝突という言葉がありますが、日本はその奪う文明と、16世紀に出会い、むしろ国を閉じることによって(鎖国)、国を護り続けてきました。
    けれど17世紀に入って、その門戸をこじ開けられるとともに、征服者や支配者が渦巻く世界へとむりやり引き出されて行ったわけです。

    そうした世界を、あらためて人々が和し、助け合い、収奪を否定する社会へと作り変えることは、その時点における支配者層や、大金持ち層にとっては、甚大な不利益を及ぼすものとなります。
    けれど、圧倒的多数の民衆にとっては、まさに幸せが訪れることになります。
    そして日本は、その後者のために、幕末以降、先の大戦の終結時まで、ずっと戦い続けたわけです。

    力には力で対抗しなければならないときというのはあります。
    けれど、それで勝利してしまったら、どうなるのでしょうか。

    先の大戦で、仮に日本が勝利したとします。
    それはおそらく世界から見れば、世界の支配者の交代を意味します。
    けれど日本にも日本人にも、世界を支配しようなどという気は、おそらくさらさらありません。
    するとどうなるかといえば、世界は、支配する気のない支配者にとって代わろうとする人たちと、泥沼のような戦乱に至ることになるのではないでしょうか。
    あるいは日本は、あるいは日本人は、世界の支配者となって世界から富を公然と、そして平然と巻き上げるのでしょうか。

    想像ができないようであれば、ひとつ例を申し上げます。
    1600年に関ヶ原の戦いがありました。
    この戦いで東軍の江戸方が勝利しました。
    もしこの戦いが、ギリシャ時代の都市国家同士の戦いであったなら、負けた西軍の大名や貴族たちは全員処刑され、西軍側の大名たちの治めていた諸国の民衆は、全員江戸に連れてこられて、奴隷として使役されることになります。
    けれど日本ではそのようなことは起きていません。

    先の大戦に際して、米国は日本との開戦前から、日本との戦争に勝利した暁(あかつき)に、日本をどのような形で統治するか、そのために、誰と誰を公職追放するかに至るまで、詳細な計画を作っていました。
    では日本は、仮に先の大戦で勝利したとき、米国をどのように統治するかという青写真を一枚でも作っていたのでしょうか。
    そのような事実はまったくありません。
    つまり日本は、戦いに勝利したときの青写真をまったく持っていなかったのです。
    しかしこのことは、西洋の人たちには、きわめてわかりにくいことです。
    戦いに勝つということの意味が、西洋の人たちと日本人では180度違うのです。

    仮に先の大戦で日本が勝利すれば、世界の人達は、新たな支配者の誕生と考えます。
    そしてそれまでの支配層だった富裕層の人たちは、すべての財産を日本に奪われると警戒します。
    被支配層の白人さんたちも、日本人に奴隷にされる、すべてを奪われると警戒します。
    日本がそのようなことはしない、と何度言っても意味はありません。
    文化の生成の歴史が違うのです。

    東南アジア諸国の人たちは、すでに何もかも奪われて、何もない状態でしたから、植民地支配から開放されれば、あとは上に登るだけです。
    これはある意味、わかりやすい、もっというなら簡単なことなのです。
    けれどその東南アジア諸国にあってさえ、白人たちが当該国の支配のために特別な権益を与えていた華僑の人たちは、戦前も戦中も戦後も、一貫して反日です。

    彼らは、白人の下請けとなっていることで、その国を支配する民族となって巨富と強権を持っていたのです。
    日本によってそれらが否定される「かもしれない」となっただけで、彼らは東亜諸国内でさかんに抗日反日デモや暴動を繰り返していました。
    戦前戦後の人気映画『快傑ハリマオ』のモデルとなった谷豊(たに ゆたか)は、そうした反日デモの華僑たちによって、実の妹が生首をねじ切られてサッカーボールよろしく首を蹴飛ばされていた経験を持っています。

    日本人の感覚では、それは信じられないような蛮行ですし、通州事件や尼港事件など、おぞましい事件の経験を日本人は体験しましたが、実はこれは文化の違いなのです。
    人は塩分がなければ死んでしまいますが、大陸の内陸部に住む人達にとって、その塩分の補給は肉からしか得ることができない貴重なものなのです。
    ですから牛馬の肉を食べるのと同様、人も死ねば食肉となります。
    いわば人も食料品のひとつですから、遺体は吊るして血抜きして干し肉にするし、そこに尊厳を認めることはありません。

    日本人はたまたま周囲を海に囲まれているために、塩分の補給は海からいくらでもできますし、動物の肉を食べなくても魚からいくらでも塩分やタンパク質の補給ができます。
    そうした環境の違いが、文化の違いになるのです。
    大陸の人たちが、人や動物たちの肉に感じる感じ方は、日本人が魚に感じる感じ方と同じといえば、わかりやすくなるでしょうか。
    料理でいえば、日本人は鯛の活造りを大喜びしますが、その活造りが人の肉に代わるだけのことです。

    そしてそこに政治的な思惑が重なって抗日や反日が自分たちの利権(経済的利益と支配者としての権力)保持と重なると、それが大きな抗日運動、反日運動となります。

    もし日本が、先の大戦で勝利していれば、かつて東南アジア諸国で起きた、あの残酷な抗日反日運動が、今度は白人諸国や白人が支配してきた諸国において、広範に、かつ盛大に行われることになったかもしれません。
    いやむしろ、そうなった可能性は、100%であったであろうと思います。

    日本は、そうした世界と、では武力で戦うのでしょうか。
    戦えば戦うほど、それは泥沼に足を取られることになっていったのではないでしょうか。

    神々は(と書くと抵抗感を持たれる方がおいでかもしれませんが)、けっしてそのような未来はお望みにならなかったことと思います。

    先の大戦を考えると、日本は、初期の破竹の進撃で、東亜諸国から白人たちを蹴散らし、世界に向けて有色人種であっても白人たちを見事に撃退できるのだということを証明して見せました。
    けれど、神々は、それによって日本が戦争に勝利することを望まれず、むしろ日本を焼け野原にしました。
    そして戦後は日本から武力さえも取り上げました。
    ただし、最小限の武装は自衛隊という名で保持させ、その自衛隊の練度は、世界最強といえるほど強く、しかも先の大戦における日本軍の強さは、おそらくあと千年経っても語り継がれる強靭な影響を残しています。

    つまり、日本との軍事的衝突は、世界中のどの国においても、絶対に避けなければならないことというのが、世界のある意味常識となっているわけです。
    もっとも世界には、いろいろな国があって、日本と戦っても勝利できるのではないかなどという、夢物語にもならないようなことを、真面目に子どもたちに教えている斜め上のようなおかしな国もありますから世界は複雑(笑)です。

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    いまや世界は、ネットワーク化され、すべてが繋がっているという時代にはいっているわけですが、そうした中にあって、世界中から総スカンを食うということが何を意味しているかというと、米国のファーウェイに対する制裁どころではなくなるということです。

    来る6月28日から大阪で2019年G20サミットが開催されますが、これは見ものです。
    日本にレーダー照射した国が、世界からどのような扱いを受けるか。
    日本は、その国に経済制裁もせずに、出来る最大のやさしさで接してきましたが、果たして世界はどのように対応するのか。
    その答えが2019年G20サミットで明らかになります。

    令和に入って、世界はいま、音をたてて大きく変わりつつあります。
    対立し闘争し収奪し支配するという世界から、民衆の幸せこそが国家の幸となる世界に向けて、いま世界は大きく一歩を踏み出そうとしています。
    そしてその動きの中心にあるのは間違いなく日本であり、私達日本人のひとりひとりです。

    そのために何をしたら良いのか、という人がいます。
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    それが何かというと、時間の流れです。

    西洋では、時間は過去から現在、未来へと流れているとされます。
    西洋文化に染まった現代日本人も、それが常識だと思っています。
    けれど、過去というのは「過ぎ去った時間」です。
    未来は、「未だに来ていない時間」です。
    つまり時間軸は、まだ来ていない未来から、過ぎ去る過去へと向かって流れるというのが、日本人の感覚です。
    西洋とは真逆です。

    過去は、もう済んだことです。
    それよりも、いま(現在)を大切にする。
    そうすることで、よりよい未来に来てもらう。

    色々な未来があるのです。
    貧乏な未来もあれば、豊かな未来もある。
    日本が輝く未来もあれば、日本が衰退する未来もある。
    どういう未来に来てもらうかは、いまの私たちの努力による、というのが日本人の昔からの考え方です。

    上に述べましたように、ひとつの可能性として、日本が輝く未来があります。
    けれど、そのような未来にするかどうかは、いまの私たちの心がけ次第です。

    GHQに洗脳されたからと愚痴をこぼすのではなく、政治家がダメだからと人のせいにするのでもなく、半島メディアに腹を立てる。教育がなってないと嘆く。
    そのようなことをこの先100年続けても、何も変わりません。

    ではどうしたらよいかといえば、私達自身が、しっかりと現状について、世の中について、日本について、しっかりと学ぶのです。
    事実を知れば、何が間違っているのか、どこがおかしかったのかが、はっきりと見えてきます。
    そのおかしいものを、みんなで協力し協同して、しっかりと学び、改善していく。
    そういう人たちが、日本の圧倒的多数の有権者となれば、政治が変わります。流行通信であるメディアも変わります。教育も変わります。

    文句を言えば物事が変わる、なんてことはないのです。
    「知れば変わる」のです。
    だから「シラス(知らす、Shirasu)」です。
    だから、知らすは、究極の民主主義です。

    それが「一隅を照らす」ということです。
    ひとりで照らすのではありません。
    みんなで学び、みんなで照らすのです。
    それが国の宝です。

    自分はどうすればよいのか、と迷われる方もおいでのことでしょう。
    迷う必要なんてない。
    みんなで学びに参加すればよいのです。
    それが、政治に参加することです。
    これを「参政」といいます。

    落日の後には、長い夜がやってきます。
    けれど、陽は必ずまた昇るのです。


    ※この記事は2019年6月の記事に大幅に加筆した記事です。

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  • 実在した快傑ハリマオ


    「大東亜戦争は日本の一方的な真珠湾攻撃によってまるで騙しうちのように始まった」という左翼や反日の宣伝は、まるで嘘八百です。英米豪は、ABCD包囲網を作り、日本がもはや開戦以外に選択の余地がなくなるように仕向け、開戦と同時に、徹底的にこれを粉砕しようと、事前に十分に準備万端整えて、手ぐすねひいて日本が軍事行動を起こすのを待ち構えていたのです。

    20180812 快傑ハリマオ
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    「黄金バット」空想上の人物ですが、「ハリマオ」は実在の人物です。
    本名を谷豊(たにゆたか)といいます。

    谷豊は、妹をChineseに惨殺され、復讐のために三百人ほどの地下組織を持つ義賊となり、支配者である英国人やChineseを襲って、奪った金品は私有せず庶民に与えた人物です。
    マレー人になりきっていたけれど、陸軍中野学校出身の藤原機関員神本利男に日本人であることを覚醒され、日本軍のマレー作戦に協力し、三十歳でお亡くなりました。

    谷豊
    谷豊


    谷豊は、明治44年(1911)、理髪店を営む父、谷浦吉の長男として生まれました。
    豊が生まれてまもなく、一家はマレーシア北東部のクアラ・トレンガヌという大きな街に移住しました。
    美しいマレーシアの島々への玄関口として、いまでも多くの日本人観光客が訪れる街です。

    けれど豊は、大正5年(1916)、5歳のとき、ひとり日本に帰国しました。
    「教育は日本で受けさせたい」という親の意向からです。
    祖父母の家に滞在し、福岡市立日佐小学校に入学しました。

    小学校を卒業した豊は、大正13年(1924)、再びマレーシアへ戻りました。
    マレーでは、友人たちと一緒にタコを作って揚げたり、ボクシングをしたりして、楽しい青春を過ごしています。
    当時の豊少年は、天性の運動神経と気の強さもあいまって、喧嘩がものすごく強かったそうです。
    そのため、豊のまわりには、いつもたくさんの仲間たちが集まっていました。
    そして19歳のとき、マレー人のワンシティさんと結婚して、イスラム教に改宗しました。

    昭和6年(1931)、20歳になった豊は、祖国の役に立つために軍人になろうと、単身、再び日本に帰国しました。
    ところが身長が足りない。
    それで、「丙種合格」となりました。

    我が国の徴兵検査は、甲乙丙丁戊の5段階評価です。
    軍人として採用になるのは、身体頑健性格良好成績優秀な甲種合格者です。
    乙種は不採用です。
    ただし、どうしても軍人になりたいと志願する者は、抽選で合格にしてもらえることもあります。
    丙種合格というのは、字面こそ「合格」とありますが、身体上に欠陥あり、とされた者であり、現役の兵として採用できないが、国民兵役には適する(つまり内地で補助的な任務なら可能)ということであって、要するにひとことでいえば、不合格ということです。

    豊は、運動神経・学力性格は良好だったのですが、身長が足りないということで、不合格となりました。
    愛国心が強く、もとより健康で、喧嘩も強かった豊にとって、このことはかなりのショックでした。

    兵役に就けなかった豊は、福岡のアサヒ足袋で働くようになるのですが、その後、福岡市内の鉄工所に就職しました。
    この頃の豊は、毎晩のように美野島や柳町の飲み屋街に出かけていました。
    飲んでは喧嘩をするのです。

    喧嘩の相手は、決まって自分よりも大柄な相手だったそうです。
    豊は、小柄で細いから、相手は舐めてかかります。
    ところが豊は、そこをサッと相手の懐に飛び込んで、得意のボクシングで、相手の腹や顎を強打しました。
    たいていの相手はこれで一瞬でノックアウトされたそうです。

    博多には気になる女性もいたそうです。
    さらに豊は、当時自分名義の田を六畝相続で持っていたのですが、これをいつの間にか売り払っています。
    そのお金をどうしたかというと、なんとまるごと貧しい家庭の友人に恵んでいます。
    気風(きっぷ)が良くて、頭が良くて、喧嘩が強くて、あたたかくて色男。
    豊のまわりには、いつも友人が集まっていたといいます。

    ちょうど、その頃、マレーシアでは、在マレーのChineseたちが、いたるところで排日暴動を起こしていました。
    Chineseの気質というのは、戦前も戦後も変わりません。
    我が強く、上下と支配による収奪と人間性の否定という社会的ストレスに常にさらされているChineseたちは、上(政府)から動員がかかると、そのエネルギーを集団で暴発させます。
    China国民党は、近隣諸国にいるChineseたちのこうしたエネルギーを、反日活動のために利用したのです。

    動員されたChineseたちは、マレーで暴徒集団となって日本人を襲いました。
    各所で、日本人の営む商店や家屋が襲われ、金品が奪われ、男はなぶり殺され、女性たちは強姦されました。

    昭和7年(1932)11月、マレーシアの小さな床屋だった谷家も、Chineseの暴徒たちによる襲撃を受けました。
    襲撃の少しまえに、谷家では、一家の大黒柱だった父親が急逝していたのです。
    要するに谷家には、母と、妹のシズコと、弟の繁樹しかいませんでした。

    この日、母親はたまたま出かけていて留守でした。
    弟は英語学校に行っていました。
    家は、たまたま病気で寝込んでいた妹のシズコひとりでした。

    Chineseたちの暴動がはじまったとき、たまたま英語学校から帰宅途中だった弟の繁樹は、近所の人の「逃げなさい!」という声を聞いて、あわてて近所の歯医者さんの家に駆け込んでいます。
    そしてChineseの暴徒たちが、手に「生首」をぶら下げて歩いて行く様子を、歯医者さんの家の窓から目撃しています。

    暴徒が去ったあと、自宅に戻った繁樹が見たもの。
    それは、荒らされて血まみれとなった室内と、首をねじ切られた妹の惨殺死体でした。
    Chineseのこうした残虐性というのは、ほんとうに今も昔もかわりがありません。
    いまでもウイグルやチベット、法輪功等に関して同様の集団による暴行が公然と行われています。

    このときも、Chineseの暴徒たちは、妹の首を持ち去り、まるでサッカーボールのように、蹴り転がしていたそうです。
    その首は、伝記によれば「ねじ切られていた」といいます。
    どんなにしたら人間、そこまで残酷になれるのか。
    小説などで人の持つ残虐性がテーマになることが間々ありますが、そうした創作さえも色を失うほどに、実際にあった出来事はあまりにもひどい。
    夜になって、繁樹と隣家の歯科医が、妹の生首を奪還してきてくれました。
    そして泣きながら首と胴を縫い合わせてくれました。

    あまりのことに、事件後母と弟は、マレーの家を引き払い、日本に引き揚げてきます。
    当時は、いまのように携帯電話もなければ、郵便事情も整っていない時代です。
    日本にいて何も知らなかった豊は、帰国した母親から、この事件の顛末を聞きました。

    このときの豊の気持ちは、察して余りあります。
    大切な妹を、大好きな可愛い妹を、自分のいないときに異国の地で、生きたまま首をねじ切られたのです。
    どんなに痛かったろう、どんなに辛かったろう。救うことができなかった、助けてやることができなかった。
    悔しくて、悲しくて、どうしようもなくこみ上げる気持ち。

    豊は、復讐を誓い、血を冷たく冷やしました。
    そして昭和9年(1934)7月、単身マレーシアへ向かいました。

    マレーのクアラ・トレンガヌへ帰ってきた豊は、昔の家の近くで理髪店を営みました。
    店はたいそう繁盛したそうです。
    豊は床屋業を営むかたわら、妹殺害の犯人探しを始めました。
    妹を殺したChineseは、逮捕され、裁判にかけられたものの無罪放免となり、その後消息不明になっていたのです。

    なぜ?と思うかもしれません。
    この時期、マレー経済は、Chineseの華僑たちが牛耳っていたのです。
    そしてマレーという国の形がどうあれ、ChineseたちはChineseの理屈で動きます。
    簡単にいえば、事の善悪に関わりなく、カネで裁判結果はどのようにでもなったのです。

    欧米は、いわゆる「契約社会」です。
    結婚も神との「契約」だし、官と民の関係も「法」という名の「契約」に基づきます。
    民間同士の関係も契約関係です。

    Chineseは「人治社会」です。
    「人治社会」というのは、どちらが上か、どちらが得かという支配と利害だけで物事が動く社会であるということです。

    日本は「相互信頼社会」です。
    嘘をいうこと、信頼を損ねることが不実とされます。
    悪いことをしても、捕まれば「おそれいりました」となるし、判決には従容と従います。
    それは我々が日本人であり、日本の社会の歴史や伝統がそのようにさせているのです。

    さて、マレーで床屋を営んだ頃の豊は、この時21歳でした。
    豊は当時のマレーの統治者である英国官憲に強く抗議しました。
    無罪とは何事か。
    事実関係はちゃんと調べたのか。
    犯人の居場所を教えろ等々。

    しかし、しつこく食い下がる豊は、逆に不審者とみなされて投獄されています。
    出所後、ツテをたどって日本の政府関係者にも陳情しました。
    けれど誰も取り合ってくれませんでした。

    味方が居ないことを知った谷豊はひとり復讐を決意しました。
    そうしてマレーに帰って一年を過ぎたころ、豊は突然店を閉めて姿を消しました。

    それからしばらくすると、マレーに、英国人とChineseの事務所だけを襲う盗賊が出没し始めました。
    最初の事件は昭和12年(1937)、トレンガヌ州政府土地局が襲われた事件です。
    ここでは土地証文や債券、手形など時価3万ドルが盗まれました。
    ただし人的被害者はいません。

    次に起こった事件は、タイの国境の町スンガイ・コロです。
    白人の経営する金鉱山で、純金八本が金庫から盗まれました。
    手口は同じでした。
    ここでもやはり人の殺傷はまったくありませんでした。

    同様の犯行は、次々と続きました。
    裕福な英国人の豪邸に忍び込み、金品を盗み取る。
    そしてその金品が付近の貧しいマレー人の家にばらまかれる。

    マレー人たちは大喜びしました。
    そしてこの盗賊は、いつしかマレー人たちの間で、「ハリマオ」と呼ばれるようになりました。
    ハリマオというのは、マレー語で「虎」という意味です。

    やがてハリマオを頂点とする盗賊団は、Chinese華僑の豪邸や商店も標的にするようになりました。
    殺しはしません。
    しかしときには金塊を積んだ鉄道車両を爆破するなど大規模な犯行も行いました。

    幼い子供時代と青春時代をマレーで過ごした豊は、マレー語がとても堪能でした。
    そのためハリマオ盗賊団のマレー人の新しい部下などは、ハリマオが日本人であるということさえ、まったく気付かなかったそうです。

    昭和16年(1941)4月、豊はパタニで逮捕され、留置所に収監されました。
    神本利男(かもととしお)が現れたのは、ちょうど豊がバタニの刑務所にはいっていたときのことです。
    神本は、豊の身柄を引き取ると、数回にわたり豊と長時間の接触をもちました。

    神本利男さんという人物は、昔、テレビドラマ「大岡越前」で主演した俳優の加藤剛にちょっと顔立ちが似ています。
    神本利男(かもととしお)
    神本利男


    色男でもの静かです。
    けれど固い信念の人です。
    もともと警察官だったのだそうです。

    満州で甘粕正彦憲兵大尉から絶大な信頼を得て警察官を退官し、道教の満州総本山である千山無量観(せんざんむりょうかん)で三年間修行を積みました。
    そして満州の影の支配者とも呼ばれた葛月潭(こうげったん)老師の門下生となりました。

    当時、満洲道教会で葛月潭老士といえば、超大物です。
    葛月潭老師の門下となることができた日本人は、神本さんと大馬賊として有名な小日向白朗の二人だけです。
    神本さんは、それだけ優秀な人物だったということです。

    さて、大東亜戦争開戦が近づいた頃に、バンコクに駐在していた特務機関の田村大佐は、開戦を睨んでマレー工作を命じられていました。
    当時はChina事変の最中でもあります。
    Chinaでは蒋介石が国民党を率いてChina各地で乱暴狼藉略奪強姦虐殺強盗の限りを尽くしていました。

    日本軍は、蒋介石を追い込み、China各地に平和と安定、治安の回復をもたらしていたけれど、その蒋介石が北京・上海から南京へと逃れ、そこからさらに逃亡してChinaとビルマの国境付近である雲南省にまで逃げていく。
    その雲南の蒋介石のもとには、英米豪が軍事物資や兵器、食糧を送り込んでいました。

    Chinaは無政府状態で、全土で略奪や暴行が日常的に行われていました。
    農地は荒らされ、家畜は殺される。
    これでは庶民は食えません。
    食えなくなった庶民は「日本軍怖し」とデマを飛ばされ、英米から食料支援を得ている蒋介石のもとに集まりました。
    なぜならそこに食料があるからです。
    こうして蒋介石軍の人数が増える。
    国民党軍の勢力が盛り返す。

    この悪循環を断つためには、日本は、英米豪の蒋介石への支援ルートを断たなければなりません。
    そのためには、日本は軍をマレーからビルマに北上させて援蒋ルートを遮断しなければなりません。
    そこで特務機関の田村大佐が考案したのが、
    「マレー国内に日本軍と連携して行動を共にしてくれる仲間を作る」
    という作戦です。
    そしてこの作戦の実行のために選ばれたのが神本さんでした。

    神本さんは、ハリマオ義賊団を巻き込むのがいちばんよいと考えました。
    そしてマレー半島を南下し、道教のネットワークを使って、ハリマオ=谷豊の居場所を難なく突き止めると、タイ南部の監獄に収容されていた谷豊を解放し、日本軍への協力を依頼しました。

    このとき豊は「俺は日本人ではない」と、マレー語で叫んだそうです。
    「違う!、お前は日本人だ」という神本さんに、豊は複雑な胸中を語りました。
    妹の殺害事件で、日本政府に陳情しても「あきらめろ」と言われたのです。
    やむなく盗賊となって復讐をはじめたが、俺は人殺しは一切しなかった。
    盗んで得た金品も、みんな貧しい人々に分け与えた。
    しかし日本人は、「盗賊など恥晒した」と俺を非難する。
    「俺は、日本から見捨てられたんだ」
    と豊は語りました。

    神本は静かに言いました。
    「まもなく、この半島は戦場になる。
     私はマレーをマレー人の手に戻したいと思っている。
     そのためには君の力が必要だ。
     マレー半島はこれまで、
     白人によって四百年間もの間、
     支配され続けてきた。
     反政府運動はバラバラにされ、
     すべて鎮圧されてきた。
     だがな谷君、
     日本軍に現地人が協力してくれるなら、
     日本は必ず英軍を駆逐して
     マレーの植民地支配を終わらせる。
     それは必ずできる。」

    「谷君、小金を奪えば盗賊だ。
     しかし国を奪えば英雄だ」

    このとき豊は、神本の人としての魅力に、ぐいぐい引き寄せられる自分を感じたそうです。
    さらにイスラム教の信者となっている豊の前で、道教の信者のはずの神本が、イスラムのコーラン第一章アル・ファティファ(開端章)全文を暗誦してみせたのです。

    豊は決心しました。
    「わかりました。
     あなたについていきます!」

    この頃のハリマオ団の実数は約300名でしたが、一般には「配下3千名の大盗賊団」と噂されていました。
    そう思われるくらい豊はメンバーを選りすぐりの者で構成していました。
    どういうことかというと、配下のメンバーは、ひとりひとりが特殊技術の技能集団だったのです。
    実際、豊の部下達は、付近の漁民の船が壊れると、それを無償で修理したりなど、困っている人たちへ無償で様々な奉仕活動をしていました。

    神本の説得に応じた豊のもとに、藤原機関から多額の軍資金が提供されました。
    ところが豊は、受け取った軍資金を、まるごと近隣の村人たちのために使っています。

    昭和16年(1941)、日本との開戦を予期していた英国軍は、日本軍がタイからマレー半島を縦断して進撃してくると想定して、マレー北部のタイ国境から30キロ南にある小さな集落、ジットラに、防禦要塞を建設しました。
    その要塞までの道筋がジットラ・ラインで、英国のシンガポール防衛のための軍事施設群です。

    そしてジットラには、強力な要塞が築かれました。
    これら陣地建設現場に、ひそかに現地人としてハリマオの一党が浸透しました。
    一党は、同じく防御陣地建設に狩り出されたマレー人労働者によびかけ、仕事に微妙に手を抜きました。
    さらにトーチカの場所や地形などを詳しく調査し、精密な地図を作って日本軍に送りました。

    完成したジットラ要塞について英国軍は、
    「いかなる攻撃でも三ヵ月は持ちこたえる」
    と豪語していました。
    設計図通りなら、そうです。
    しかしどんなに見かけが立派でも、中身が手抜き工事でスカスカで、内部の情報が筒抜けになっていたら、腐った老木と同じです。
    いざ戦端が開かれると、わずか二日でジットラ要塞は堕ちてしまいました。
    谷豊のハリマオ団の見事な工作と調査の賜物であったことはいうまでもありません。

    英軍は、大東亜戦争開戦に先立って、タイ南部から上陸する日本軍を水際で阻止するためのマタドール計画という作戦も進めていました。
    これは英軍の精鋭部隊が、密かに国境を越えて日本軍がやってくるのを待ち伏せて一気に日本軍のせん滅を図るという作戦です。
    この作戦もハリマオ団によって、事前に詳細が洩れていました。
    日本軍は開戦後、英軍を避けて悠々と上陸を果たしています。

    この作戦にも明らかなように、「大東亜戦争は日本の一方的な真珠湾攻撃によってまるで騙しうちのように始まった」という左翼や反日の宣伝は、まるで嘘八百です。
    英米豪は、ABCD包囲網を作り、日本がもはや開戦以外に選択の余地がなくなるように仕向け、開戦と同時に、徹底的にこれを粉砕しようと、事前に十分に準備万端整えて、手ぐすねひいて日本が軍事行動を起こすのを待ち構えていたのです。
    むしろ戦争を避けるために当時必死の努力を重ねていたのは日本の方です。

    昭和16年12月の大東亜戦争開戦からちょうど1ヶ月が経った頃、日本陸軍の藤原岩市参謀は、マレー北部の小さな村で、豊に会いました。
    藤原はそのときのことを著書「F機関」に次のように書いています。
    すこし引用します。

    *******
    「なに!。谷君が待っているのか。
     おれも会いたかった。どこだ谷君は」
    私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。
    数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。

    私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、
    「谷君。藤原だよ。
     よいところで会ったなあ。
     御苦労。御苦労。
     ほんとうに御苦労だった」
    と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。
    谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。

    私がダム破壊工作の成功を称えると、谷君はこう答えた。
    「いいえ。大したことはありません。
     ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は
     一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。
     それから山づたいに
     英軍の背後に出て参りましたが、
     日本軍の進撃が余りに早いので
     遅れがちになって
     思う存分働けなかったのが残念です。
     この付近では英軍の電線を切ったり、
     ゴム林の中に潜んでいる
     マレイ人に宣伝したり致しましたが、
     日本軍のために
     どれだけお役に立てたことでしょうか」

    「君のこのたびの働きは、
     戦場に闘っている将校や、
     兵にも優る功績なんだよ」
    というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、

    「有り難うございます。
     豊は一生懸命働きます。
     私の命は死んでも惜しくない命です。
     機関長の部下となり、
     立派な日本男児になって死ねるなら、
     これ以上の本望はございません」
    としみじみ述懐した。
    (『F機関』176〜177頁)
    ********

    藤原岩市参謀
    藤原岩市参謀


    マレーにおける特務機関の長である藤原は、当然、豊のつらすぎる過去を知っています。
    どこまでの謙虚でいじましい豊の態度は、藤原の心に涙を誘いました。
    しかしこのとき豊の体は、すでにマラリアに冒されていたのです。

    初めての対面からおよそ一週間経った頃、藤原参謀のもとに、
    「谷豊がマラリアを再発し危篤です」
    という報せが届きました。
    藤原は、豊と行動を共にしている神本に、即時、豊をジョホールバルの陸軍病院に移すよう命じました。

    藤原は語ります。
    「一人として大切でない部下はいない。
     しかし、わけてハリマオは、
     同君の数奇な過去の運命と、
     このたびの悲壮な御奉公とを思うと、
     何としても病気で殺したくなかった。
     敵弾に倒れるなら私もあきらめきれる。
     けれども病死させたのではあきらめきれない。
     私は無理なことを神本氏に命じた。
     『絶対に病死させるな』と」
    (同247頁)

    シンガポール陥落から数日経ったある日、藤原参謀は豊を見舞いました。

    ********
    私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った。
    見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは、
    「充分な働きが出来ないうちに、
     こんな病気になってしまって
     申し訳がありません」と謙虚に詫びた。
    私は、
    「いやいやあまりり無理をし過ぎたからだ。
     お母さんのお手紙を読んでもらったか。
     よかったね」
    というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。
    両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。
    私は更に、
    「谷君。
     今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、
     病気が治ったら、
     軍政監部の官吏に起用してもらうことに
     話が決まったぞ」と伝えると、
    ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ、
    「私が! 谷が! 
     日本の官吏さんになれますんですか。
     官吏さんに!」
    と叫ぶようにいった。

    ハリマオの余りの喜びに、
    むしろ私が驚き入った。
    (同269頁)
    *********

    官吏というのは、今の国家公務員のことです。
    盗賊として日本人から白眼視されていた豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものだったのです。

    開戦の一ヵ月前、豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いています。
    日本を離れて長い年月を過ごした豊の手紙は、たどたどしいカタカナで綴られています。

    「お母さん。
     豊の長い間の不幸をお許し下さい。
     豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで
     御安否を心配しております。
     お母さん。
     日本と英国の間は近いうちに
     戦争が始まるかも知れないほどに
     緊張しております。
     豊は日本軍参謀本部田村大佐や
     藤原少佐の命令を受けて、
     大事な使命を帯びて
     日本のために働くこととなりました。
     お母さん喜んで下さい。
     豊は真の日本男児として更生し、
     祖国のために
     一身を捧げるときが参りました。
     豊は近いうちに
     単身英軍の中に入って行って
     マレイ人を味方に思う存分働きます。
     生きて再びお目にかかる機会も、
     またお手紙を差し上げる機会も
     ないと思います。
     お母さん。
     豊が死ぬ前に
     たった一言、
     『いままでの親不幸を許す、
      お国のためにしっかり働け』
     とお励まし下さい。
     お母さん。
     どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。
     そしてお母さん。
     長く長くお達者にお暮らし下さい。
    ********

    谷豊とその家族


    昭和17年3月17日、谷豊は永眠しました。
    享年30歳でした。
    臨終を見守っていた配下のマレー人が、このとき日本軍に求めたのは、たった二枚の白い布だけだったそうです。
    それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものでした。
    豊の棺は、部下たちに担がれて病院を後にし、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬されました。

    藤原参謀はINA(インド国民軍)幹部をともなって東京で重要な会談を開いていました。
    そこで豊の訃報を受け取りました。

    「北部マライの虎として
     泣く子も恐れさせた彼は、
     マライの戦雲が急を告げるころ、
     翻然発心して
     純誠な愛国の志士に還った。
     彼は私の厳命を遵守した。
     彼は勿論その部下も、
     私腹を肥やすことも、
     一物の略奪も、
     現住民に対する一回の暴行も
     犯すことがなかった。」
    (前掲書)

    近年マレーシアのテレビ局が、ハリマオ=谷豊の特集を放映したそうです。
    その番組の最後には、次のような言葉が流れたそうです。

    「イギリス軍も日本軍も
     武器ではマレーシアの心を
     捉えられなかった。
     心を捉えたのは、
     マレーを愛した
     一人の日本人だった」

    写真は、豊の家族の写真です。左端が豊。左から三番目が亡くなられた妹さんです。
    谷豊の御霊は、いまも英霊として靖国に祀られています。

    ※この記事は2009年12月の記事のリニューアルです。

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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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