• 万寿姫の物語にみる庶民の誇り


    法は大切です。けれどその法は、人が作ったものでしかありません。実際の世の中には、法が予定していた場合だけでなく、様々な現象があります。そしてそれを裁かなければならなくなったとき、法の前に、わたしたちの国では、神々がどのようにご判断されるのか。そして多くの人にとって、もっとも心にかなう裁定とは、どのようなものであるべきなのかが、問われ続けてきたのです。そこに日本が大切にしてきた庶民の知恵があります。

    舞を奉納する万寿姫
    20180321 舞を奉納する万寿姫



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    小名木善行です。

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    戦時中の国民学校4年生《いまの小学4年生》の国語の国定教科書に書かれていた「万寿姫」という物語をご紹介します。

     ***

     ある日源頼朝は、鶴岡八幡宮に舞の奉納をするために、舞姫を集めました。舞う少女は12名いました。推薦もあって11人まではすぐに決まったのですが、あとひとりが決まりません。
     困っているところへ、御殿に仕える万寿姫(まんじゅひめ)がよかろうと申し出た者がありました。頼朝は一目見た上でと、万寿姫を呼び出しました。見目(みめ)麗(うるわ)しく実に上品(じょうひん)な娘です。さっそく舞姫に決めましたが、万寿は当年13歳、舞姫の中で、いちばん年若でした。

     奉納当日、頼朝を始め舞見物の人々が、何千人も集まりました。一番、二番、三番と、十二番の舞がめでたく済みました。なかでも特に人がほめたのが五番目の舞でした。この時は、頼朝もおもしろくなって一緒に舞いました。その五番目の舞が万寿姫でした。

     明(あ)くる日、頼朝は万寿を呼び出しました。
    「さてさて、このたびの舞は日本一のできであった。
     お前の国はどこだ?
     また親の名は何と申す?
     褒美(ほうび)は望みにまかせて取らせよう」

    万寿は恐る恐る答えました。
    「望みはございませんが、唐糸(からいと)の身代りに立ちとうございます」

     これを聞いた頼朝は、顔色がさっと変わりました。深い事情があったからです。
    一年ばかり前のこと、木曾義仲(きそよしなか)の家来の手塚太郎光盛(てづかのたろうみつもり)の娘が、頼朝(よりとも)に仕(つか)えていたのですが、頼朝が義仲を攻めようとするのを知って、義仲にその情報を知らせたのです。義仲の動きは早く、
    「すきをねらって頼朝の命を取れ!」と、木曽義仲の家に代々伝わっていた大切な刀を送ってよこしたのです。

     光盛の娘は、それから毎晩頼朝を狙いました。けれど少しもすきがありません。かえってはだ身はなさず持っていた刀を見つけられてしまいました。刀に見おぼえがあった頼朝は、この女は油断できないと思い、女を石の牢屋(ろうや)に入れました。その女が唐糸(からいと)でした。
     唐糸には、その時12歳になる娘がいました。それが万寿姫だったのです。

     姫は木曾(きそ)に住んでいました。風のたよりに事件を聞き、乳母(うば)を連れて鎌倉を目指したのです。二人は、野を過ぎ山を越え、馴れない道を一月余りも歩き続けて、ようやく鎌倉に着きました。そしてまず、鶴岡(つるがおか)の八幡宮(はちまんぐう)へ参(まい)って、母の命をお助けくださいと祈り、それから頼朝の御殿へあがって、乳母と二人でお仕えしたいと願い出ていたのです。かげひなたなく働く上に、人の仕事まで引き受けるようにしていたので、万寿、万寿と人々に可愛がられていました。

     さて万寿は、だれか母の噂をする者はないかと、気をつけていたのですが、10日経っても、20日経っても母の名を言う者はありません。ああ、母はもうこの世の人ではないのかと、力を落していたところだったのです。
     ところがある日、万寿が御殿の裏へ出て、何の気もなくあたりを眺めていますと、小さな門がありました。
    そこへ召使の女が来て、
    「あの門の中へ入ってはなりません」と言いました。

    わけを尋ねると、
    「あの中には石の牢屋があって、唐糸様が押し込められています」といいました。
    これを聞いた万寿のおどろきと喜びは、どんなであったことでしょう。

     それからまもなくのある日のこと、今日はお花見というので、御殿には多勢の御家人たちが集まりました。万寿は、その夜ひそかに、乳母を連れて、石の牢屋をたずねました。八幡樣のお引合わせか、門の戸は細めに開いていました。万寿は、乳母を門のわきに立たせておいて中へはいりました。

     月の光に透かして、あちらこちら探しますと、松林の中に石の牢屋がありました。万寿が駆け寄って牢屋の扉に手を掛けますと、
    「たれか?」と牢の中から声がしました。

    万寿は、格子(こうし)の間から手を入れ、
    「おなつかしや、母上樣、木曾の万寿でございます。」

    「なに、万寿。木曾の万寿か!」

    親子は手を取りあつて泣きました。やがて乳母も呼んで、三人はその夜を涙のうちに明かしました。

     これからのち、万寿は乳母と心を合わせ、折々に石の牢屋を尋ねては、母をなぐさめていたのです。そうして、そのあくる年の春、舞姫に出ることになったのでした。
     親を思う孝行の心に頼朝も感心し、唐糸を石の牢から出してやりました。二人が互いに取りすがって、うれし泣きに泣いた時には、頼朝を始め居あわせた者たちに、だれ一人、もらい泣きをしない者はありませんでした。

     頼朝は、唐糸を赦(ゆる)した上に、万寿に、たくさんの褒美を与えました。親子は、乳母といつしよに、喜(よろこ)び勇(いさ)んで木曾へ帰りました。

     ***

     戦前戦中の教育といえば、すなわち軍国主義教育であったと一刀両断する論調があります。しかし上にある物語は、むしろ情愛を述べている物語であって、そこに軍国主義の欠片もありません。一方、戦前の教育を否定する現代教育は、「戦前の心の教育は、子らに価値観を強要するものだからいらない」と言いますが、果たして本当にそうなのでしょうか。

     近年では、やたらと「愛」ということが言われます。けれど、では「愛の意味はなんぞや」と問われて、即答できる人は少ないです。男女の愛、恋愛、愛情、なんとなくわかるけれど、では「愛とは何ですか」と聞かれても答えられる人はほとんどいません。
    ところが戦前の教育を受けたお年寄りは、これに即答します。
    「愛とは、おもうことだよ。」

     理由は簡単です。日本書紀を国史として学んだ戦前の日本人は、持統天皇の章において、「愛国」と書いて「国をおもふ」と読み下すと、誰もが習っていたからです。
    「愛」という字の訓読みは、「おもふ、めづ、いとし」です。
    つまり「愛」とは、
     親が子をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
     子が親をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
     恋人をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
     故郷をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
     国をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、です。

     人は魂の乗り物です。人の体は、自らの魂と糸で結ばれています。糸は寄り集まることで丈夫な「紐(ひも)」になり、紐が寄り集まって更に太くて丈夫な「綱(つな)」になります。ですから、ひとりの魂の糸は、まだ半分です。その半分と、誰かの半分をつなぐのが「きずな(絆)」です。その糸と糸とを結ぶことを「結(ゆ)ひ」といいます。

     個人主義が標榜されるアメリカでも、昨今の映画やドラマで特に主張されることが、家族の絆です。結局、人はひとりでは生きられないのです。だから互いに支え合う。

     なかでも親子の絆は、何ものにも代え難いことです。
     そういうことを、尋常小学校の4年生の授業では教えていたのです。

    では、いまの小学4年生の国語の教科書ではどうでしょう。以下は現代の光村図書の小4国語のもくじです。

      詩を楽しもう
      音読みげきをしよう
      話し合いのしかたについて考えよう
      読んで,自分の考えをまとめよう
      調べたことを報告する文章を書こう
      声に出して楽しもう
      物語を読んでしょうかいしよう
      新聞のとくちょうと作り方を知ろう
      本は友達
      詩を楽しもう
      調べて発表しよう
      読んで考えたことを話し合おう
      説明のしかたについて考えよう
      写真と文章で説明しよう
      声に出して楽しもう
      物語を読んで,感想文を書こう

    どの項目も、やり方などの形を重んじているだけの、いわば「ハウツーもの」です。人の心に踏み込んだものがありません。

     では、上に紹介した万寿姫の物語は、価値観を強制した内容でしょうか。むしろ親子の愛をこよなく大切なものとして、子供達の情操を育もうとした教育といえるのではないでしょうか。

     徳育という言葉があります。戦後教育のもとでは、「徳」と言われても、それがどのようなものなのか、これまた即答できる人は少ないように思います。けれど、もともと「徳」という字は、「彳」に「悳」と書きました。「彳」は進むこと、「悳」は見た目の通り、真っ直ぐな心です。ですから、字を見たら、真っ直ぐな心で進むこと(生きること)とわかります。

     戦後はこの字が改められ、「悳」のなかの「目」が横倒しになり、「L」が「―」に変形して「德」になり、さらに「L」が省かれて、「徳」になりました。はたして戦後のこの字を見て、ひと目で意味が分かる人は、まずいないのではないでしょうか。

     感じて動くから「感動」と書きます。
     理屈で動く「理動」という言葉は日本語にはありません。

    「理屈に偏重した昨今の教科書」と、
    「親子の情愛や人の生きる道を教えた戦前の心の教科書」と、どちらの教科書が、人間として必要な教科書でしょうか。

     さて、この物語における母の唐糸は、ただの殺人未遂犯ではなく、源氏の棟梁であり、征夷大将軍である源頼朝の命を奪おうとした犯人です。いまふうにたとえれば、内閣総理大臣を殺害しようとした政治犯であり、これは国家反逆罪として即時死刑が言い渡されても構わないほどの重罪未遂の容疑者です。それだけの容疑者を、その娘の孝行に、頼朝はこれを、赦(ゆる)した上に、万寿にたくさんの褒美を与えて赦免しています。

     これは、政治上の犯罪よりも、親子の情愛のうつくしさを尊ぶという、きわめて日本的な物語といえます。もし同じことが、たとえばチャイナの歴代王朝で起きたら、いったいどのような結末になっていたでしょうか。あるいは西洋の王国で起きていたら、どのような結果になっていたでしょうか。

     中国では、皇帝殺害未遂犯は、凌遅刑(りょうちけい)と決まっています。殺害未遂どころか清朝時代ですと、紫禁城の中に漢族が一歩踏み込んだだけで、凌遅刑となりました。凌遅刑というのは、大勢の見ている前で犯人を木に縛り付け、腕や足の肉を3日ほどかけてすこしずつ削ぎ落とし、最後にお腹を割って血を吹き出させて殺すという、きわめて残酷な刑罰です。さらに凌遅刑を受けた犯人の一族郎党は、ことごとく逮捕されて、殺害されます。これが彼の国の伝統です。
     西洋では、凌遅刑ほどの残酷な刑罰はないものの、一族皆殺しという部分は同じです。ましてその犯人が女性となれば、おなじことがお隣の半島で起こったなら、容疑者の女性がどうなったか。想像するだにおそろしいことです。

     日本でも将軍の命を狙えば死罪。これは当然です。ところが頼朝は、万寿姫と唐糸を赦しました。赦しただけでなく、褒美(ほうび)までとらせています。なぜでしょうか。

     かつての国語の授業では、ここで先生から次のような質問がなされたものです。
    「さて、みんなはどう思うかな」

    太郎君が手を上げ、先生が指名します。
    「母子が泣いたからです。女の涙って怖えから!」
    教室に笑い声がひびきます。花子が手をあげます。
    「万寿姫の孝行の気持ちや行動が感動させたから」

     先生「うん。そうだね。じゃあ君たちに聞くけど、感動があったら、法を破っても良いのかな?この場合、お母さんは殺人未遂犯だよ?」
    「だって先生、頼朝が感動したんだろ?」
    「将軍が感動したら、将軍の勝手気ままで、罪を赦しても良いのかな?」
    「じゃあ、御家人たちが感動したんだ。」
    「でも、決めたのは頼朝でしょう?」
    「みんな感動したんだよ」
    「でもさ、へそ曲がりっていない?」
    「いるいる」
    「てことはさ、このとき、赦すべきという人たちと、赦してはいけない、という人たちがいたってことだよね」
    「そそ。その最終決断をしたのが頼朝だったってことなんだろうね」
    「でも、そもそもどうして法を犯した人を赦しても良いんだろう」

    ・・・と、生徒たちの議論が続くわけです。そして先生から、ここで舒明(じょめい)天皇の「うまし国」ということが伝えられます。
     万葉集にある舒明天皇の御製です。
    「うまし国だよ。大和の国は」

     ここでいう「うまし国」というのは、万葉集では「怜忄可国」と書かれています。「怜」という字は、神々の前で傅(かしず)く心を意味します。「忄可」という字は、心にかなう、という意味で、訓読みが「おもしろし」です。つまり
    「神々の前でかしづく心で、こころにかなう。そういう国だよ、大和の国は」と舒明天皇が歌に遺されているわけです。

     もちろん法は大切です。けれどその法は、人が作ったものでしかありません。実際の世の中には、法が予定していた場合だけでなく、様々な現象があります。そしてそれを裁かなければならなくなったとき、法の前に、わたしたちの国では、神々がどのようにご判断されるのか。そして多くの人にとって、もっとも心にかなう裁定とは、どのようなものであるべきなのかが、問われ続けてきたのです。そこに日本が大切にしてきた庶民の知恵があります。

     万寿姫母子への判断も、その延長線上に裁定があります。ただ、法にあるからとか、将軍の命を狙ったからとか、そういうこと以上に、人としてたいせつなこと、そして人と人との絆といったものが、国法以上に大切なものと考えられてきた。だからこうした裁定が行われた・・・・ということが教室の中で先生から教えられたわけです。

     それにしても・・・そもそも論として、母の唐糸は、単身、木曽から鎌倉へと渡り、また娘の万寿姫も、わずか13歳(当時は数え年ですから、いまなら12歳の小学6年生)の少女が、乳母と二人だけで、やはり木曽から鎌倉まで旅をしています。時代は、源平合戦が行われた時代です。荒れた時代なのです。そこここに敗残兵が隠れ、平家の残党狩りなどが行われていた、日本の歴史の中にあっても、きわめて殺伐とした時代です。
     そんな時代にあってさえ、女子が、少女が、護衛も付けずに長旅ができた・・・。これは世界史にあっても、きわめて異例なことです。

     日本の治安の良さは、ただ法によるばかりではなく、ひとりひとりが神々の前で正しく生きることが大事とされてきた中に存在したのです。

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  • 完成までに17年もかかった国会議事堂と世界政府構想への懸念


     隣の家と自分の家は違います。それを無理矢理ひとつにしようとすれば、
    1 危機を演出して、強制的に避難所で共同生活を営んでもらう
    2 拒否する者を見せしめに殺す
    3 戦争をして国ごと滅ぼす
    しかありません。世界政府構想は、結果として、武力か疫病でしか達成できないのです。
     私たちは、我が国の国会議事堂が、完成までに17年もかかったという事実を前に、もういちど、しっかりと考えてみる必要があるのではないでしょうか。

    20180601 国会議事堂
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    国会議事堂の建設が始まったのは大正9年(1920)1月30日です。
    完成は昭和11年(1936)11月7日です。
    着工から完成までに、なんと16年11ヶ月という、ありえないほどの長い期間がかかりました。
    どうして、そんなに長い年月がかかったのでしょうか。
    また国会議事堂が出来上がるまでは、国会はどこで開催されていたのでしょうか。

    明治天皇から国会開設の詔(みことのり)が発せられたのが、明治14年(1881)10月のことです。
    最初の議会(第一回帝国議会)は、明治23年(1890)11月29日に開催されています。
    つまり国会議事堂ができあがるよりも46年も前から、国会が開催されていたわけです。

    第一回の帝国議会は、いま経済産業省があるあたり(千代田区霞が関一丁目)で行われました。
    そこに木造の「第一次仮議事堂」が建てられ、開催されました。
    どうして「仮議事堂」という名前になっているかというと、もともと明治20年(1887)4月の閣議で、いまの国会議事堂がある千代田区永田町一丁目に、正式な国会議事堂が建てられることが決まっていたからです。

    第一次国会(仮)議事堂(明治23年)
    第一次国会(仮)議事堂(明治23年)


    ところが本格的な、諸外国に恥ずかしくない立派な国会議事堂を建てようとすると、たいへんなお金がかかります。
    なにせまだ西南戦争が終わって、たった3年しか経っていなかった頃のことです。
    資金繰りに苦しい明治政府は、やむなく霞ヶ関に「仮」の議事堂を建設することにしたのです。

    それでもこの「仮議事堂」建設には、わざわざドイツから建築家アドルフ・ステヒミューラーを招いて、それなりに立派な建物にしたのですが、第一回帝国議会の会期中の明治24年(1891)1月20日、漏電によって出火し、あえなく全焼してしまいました。

    それでどうしたのかというと貴族院(現・参議院)をいまの帝国ホテル(当時は鹿鳴館)で、永田町にあった御用邸の雲州屋敷で衆議院をそれぞれ開催しています。

    第一回帝国議会は、3月に閉会するのですが、次の第二回帝国議会は、同じ歳の11月に招集です。
    そこで昼夜兼行の突貫工事で、わずか7ヶ月で焼け跡に二度目の木造国会「仮」議事堂が再建されました。
    この二度目の「仮議事堂」で、明治24年の第二回から、明治27年春の第六回特別国会までが開催されたのですが、この年の7月には日清戦争が勃発しています。

    この戦争の遂行にあたり、天皇の御在所となる大本営が(より戦場に近い)広島に移されました。
    これは当時、第5師団と軍港である宇品港が広島にあったこと、当時の山陽本線の西の端が広島駅であったことによります。

    陛下の御在所が広島に移ったのです。
    ですから国会も広島に移ってきました。
    国会議事堂は、いまの広島市中区基町の「リーガロイヤルホテル」のあたりに建てられました。
    当時は、いまの広島球場から中央図書館、ひろしま美術館、平和記念公園、そごう、リーガロイヤルホテルのあたり一帯が練兵場として、広大な広場だったのです。

    広島に置かれた国会「仮」議事堂
    広島臨時仮議事堂


    広島での帝国議会は、第7回臨時国会だけです。
    次の第八回通常国会(明治27年12月〜翌年3月)は、もとの東京にある国会「仮」議事堂での開催となりました。

    国会議事堂が「仮」庁舎ではなく、ちゃんとした議事堂にしようという話は、その間もずっと続くのですが、これがようやく実現する運びとなったのが大正8年(1919)9月、つまり国会の開催が決まってから38年経ってからでした。
    翌大正9(1920)年1月30日に、現永田町の国会議事堂建設予定地で、ようやく地鎮祭が開催されています。

    この大正9年というのは、国際連盟が結成された年です。
    日本は世界の強国として、国際連盟発足時の安全保障理事国でした。
    いいかえれば、それだけの世界の大国でありながら、国会議事堂がいつまでも「仮庁舎」のままでは、あまりにもみっともない、ということになったのです。

    ところが建設は始まったものの、なかなか完成に至らない。
    このことは、それまでの仮議事堂が、わずか数ヶ月で建設されていることと比べたら、完成までに17年弱というのは、あまりにも異常です。

    なぜこのように建設工事が遅れたかというと、当時の日本は、Koreaや台湾、満州、樺太に立派な建物の総督府を作ったり、学校を建設したり、道路や橋を架けたり、日本が統治をすることになった周辺の外地のインフラの整備に、毎年莫大な予算を計上していたからです。

    たとえばKorea総督府の建物は、昭和元年(1926)の完成ですが、大理石で作られた、実に立派で堅牢な建物でした。
    ハルピンや大連や奉天や、ソウルなど、大陸の様々なターミナル駅は、いまでもそのまま使われているくらい、立派な駅庁舎です。
    日本は、新しく日本となった地域や、日本の同盟国となった地域の都市インフラを優先し、自国のことは最後の最後の後回しにしていたのです。

    その結果、日本の国権の最高機関である国会議事堂は、完成までに17年もかかってしまったのです。
    自分のことよりも、周囲のことに気を使う。
    日本ならではことではないかと思います。

    どこぞの国は、「ウリたちは日本に植民地支配された」と言い張りますが、もし日本がウシハク植民地支配者であったなら、Koreaや満州のインフラ整備などは後回しとなったことでしょう。
    なにより自国の権威の発露として、自国の総理府や国会議事堂の建設完成を優先します。
    世界中どこの国でも、それが常識です。

    しかし日本は違ったのです。
    まわりを優先し、自分のことは後回しにしたのです。

    けれど、そのことのもつありがたさとか、感謝とかいった気持ちをコリアに求めるのもまた筋が違います。
    彼らに感謝の文化はありません。
    その場その場で自分さえ良ければよいのです。
    「おかげさま」という文化は、日本の文化であって、コリアの文化ではありません。

    近年、世界政府という言葉が、あちこちで聞かれるようになりました。
    世界がひとつになる。
    それは、一見するととても良いことのように見えますが、このことが意味することは、価値観や文化を一元化するという側面もあります。

    だらしなくて、家中を散らかし放題でゴミ屋敷のようにしてしまう人と、きれい好きで片付け上手、清潔な暮らしが好きな人が同居すると、どうなるでしょうか。
    子供なら、だらしないなら、無理矢理「片付けなさい」と強制することもできるでしょう。
    けれど、相手が大人であったら。一国であったら。
    強制するには、武力をもって脅かしつけるしかありません。
    教えたところで、守らない。それは文化だからです。
    きれい好きな人に、だらしなくして家中ゴミだらけにしなさいと強要しても、無理でしょう。
    それと同じです。

    要するに異なる文化、異なる傾向性というのは、一緒になることは短期的には不可能なのです。
    一緒になるためには、最低でも千年、完全に一体化するためには、1万年の歳月が必要です。
    それを短兵急に実現するには、結局のところ、軍事に頼るほかない。
    片付けなければぶん殴るぞ、といって脅かすしかないし、それでも言うことをきかなければ、殴るしかない。
    すると戦争になります。

    世界の中で、他の民族に侵されずに歴史を刻むことができたのは、日本と、西ヨーロッパだけだといわれています。
    西ヨーロッパの場合、ゲルマン民族の大移動以降、「内部で争うことはあっても、よそから制圧されて文化や社会が断絶するようなことがなかった。それによって内部の順調な発展があった」とは、フランスの歴史学者のマ ルク・ブロック(Marc Léopold Benjamin Bloch、1886 年 7 月 6 日〜1944 年 6 月 16 日)の言葉です( 『封建社会』(みすず書房刊))

    ゲルマン民族の大移動があったのは、4〜8世紀です。
    8世紀からで考えても、1300年が経過しています。
    それだけの期間があり、かつ、ほぼ似たような言語、習慣を持っていても、いまでも西ヨーロッパは、多数の国に分かれています。
    そして国境を持ち、出入りを厳しく管理しています。

    これが何を意味しているのかと言うと、「隣の家と自分の家は違う」ということです。
    それを無理矢理ひとつにしようとすれば、危機を演出して、避難所で共同生活を営んでもらうか、拒否する者を見せしめに殺すほかありません。
    世界政府構想は、結果として、武力か疫病でしか達成できないのです。

    世界の多くの国々は、そしておそらく圧倒的多数の人々は、誰もが「豊かに安全に安心して暮らせる」ことを求めていると思います。
    世界政府が、果たしてそうした「豊かに安全に安心して暮らし」を、人類にもたらすものなのか。

    私たちは、我が国の国会議事堂が、完成までに17年もかかったという事実を前に、もういちど、しっかりと考えてみる必要があるのではないでしょうか。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567
○受付時間 
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