• いまでは想像すらし難い夫婦の形


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    昔は男も女も、強くなければ生きていくことができなかったのです。
    その強さを、現代日本人も持ちたい。
    理不尽な暴力には反対ですが、強さはいつの時代にも必要です。
    現代日本人もまた、夫婦で強くなるべきときがきていると思います。
    そうでなければ、ここまで荒れた日本を取り戻すことなどできない。
    そのように思います。

    20220730 家族
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    小名木善行です。

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    このブログでは、度々「日本では昔は世帯が最小単位だった」ということを書かせていただいています。
    そのことが、戸籍における「本籍地」という中で、現代でも生きています。
    これを理解しないと、日本の国柄もわからないし、日本の文化の形成もわかりません。

    そもそも、ただ奪うだけの文化なら、個人が単位、それも男優先社会で良いのです。
    欲しい物があったら奪う。
    奪うことは、武器があればひとりでもできるし、それが集団化したり、国王そのものが奪う存在であれば、人を使って奪わせることも可能です。

    そしてこの場合は、奪わせる役の男性を、上の人が自由に使役できること、
    男性優先社会であること、
    女性は、単なる戦利品と考えるほうが、より合理的になるし、闘争が常態化した中にあって、国が強くなる仕組みになります。
    これらが完成したのが、西洋社会であり、チャイナ社会です。

    ですからこれらは大陸型文化ともいえるし、陸上型文化と呼んでも良い。
    陸上社会では、暴力集団から逃げ切ることは難しく、結局は支配者に支配されなければ生きていくことができないからです。

    日本は、もともとは万年の昔から海洋文化を持つ国です。
    このことは、縄文時代の遺跡が、海沿いの暮らしであったことを示す貝塚からも明確にわかるし、旧石器時代に外洋公開していたことを示す黒曜石の分布等の遺物資料からも明確です。
    そして海洋文化では、いくら上の人(支配者)が威張っても、下の人たちの暮らしは海にあるわけですから、支配が十分に行き届くことはありません。

    その一方で、同じ船に乗る人達は、異常なほど強い結束を持ち、有機的に結ばれます。
    なにしろ、船長の言うことを聞かない船員は、海に放り出されるし、嵐が来れば、日頃仲が悪いとか言ってられません。
    乗組員全員が、いざというときには一致協力、それぞれがそれぞれのポジションで、自分にできる最善を尽くさなければ、船もろとも沈んでしまうのです。

    西洋で、海洋文明で栄えたのは、ノルウェーやスエーデンなどのスカンジナビア半島の人々です。
    彼らは比較的波の静かなバルト海で海洋文明を咲かせ、そこから北海に出るようになりました。
    地球全体が寒冷化するなかで、食料不足になった彼らは、北海でさかんに海賊行為を働くようになり、さらに海沿いの国々に上陸して、そこに王国を築きました。
    これが西洋の王朝のルーツになります。
    ですから西洋の王族は、国が違えど、皆親戚です。

    それぞれの国では、王族や貴族たちと地元民は、民族も言語も習慣もまったく異なりました。
    言葉も通じない異民族は、およそ人とも認識されないし、女たちは結局、戦利品という扱いになっていきました。
    そうした社会では、当然のことながら、家族よりも個人、個人も女性より男性が優先する社会が営まれることになります。

    一方日本では、もともと男たちは海で魚を獲ってくるのが仕事です。
    女たちは陸にいて、田畑を営み、また山菜を採り、料理をし、子を育てるのが役割でした。
    また男女とも、歳をとって老人になると、村にいて子どもたちの教育を行うようになりました。

    日本が、海洋族から、完全に陸上族へと国の形を変えたのは、唐の国に責められそうになった7世紀のことです。
    それまでの日本は、広大な太平洋を駆ける海洋族として、東は北米、南米大陸から、西はインド、アフリカにまで自在に進出していました。
    ところが唐の脅威の前に、国をひとつにまとめなければならなくなったときに、日本は国防のために、日本の範囲を、本州、四国、九州と、これに近い諸島に絞る必要が生じ、この範囲において、戸籍をつくって国の形をはっきりさせるということを行うようになりました。
    そしてこのことが、日本の領域を確定することになっています。

    けれど、そうした中にあっても、日本が万年の単位で培ってきた文化性は失われず、夫が外で稼ぎ、妻が陸にいてすべての家計の面倒を見るという国の形はそのままに維持されました。

    多くの人が誤解していることですが、日本では、もともと所得は「世帯」が単位となっていました。
    このことは武士の時代も同様で、俸禄は、城で働く武士個人に支払われるのではなく、その武士が、たとえば佐藤家の出であれば、俸禄は、佐藤家に支払われていました。

    このことは仕事を受ける場合も同じで、たとえば父さんが命令を受けても、その実行は息子が行うといったことも普通に行われました。
    なぜなら、命令は家にくだされたものであり、父子の別なく、それは世帯全員が負う連帯債務になったからです。

    そしてこの世帯の財産管理をしたのが、奥方、つまり奥様である女性です。
    つまり旦那は、城勤めをしていていても、小遣いや経費は妻からもらっていたわけです。

    たいていの家では、旦那が40歳の半ばにもなると、家督をセガレに譲って、旦那は隠居していました。
    そのセガレが結婚すると、家督の管理、つまり世帯の財産管理も、セガレの嫁に全権が移りました。
    住まいも、母屋はセガレ夫妻に明け渡し、隠居した両親は離れに住むようにもなりました。

    このとき、セガレの嫁がとんでもない女性で、家の財産を役者かなんかに入れ込んで遣ってしまったようなときは、(そのようなことはめったにありませんが)、嫁の実家がその損害賠償の責任を被ることになりました。
    ですから、婚姻は家格の釣り合いのとれる先でなければ認められなかったし、結婚すれば両家が親戚づきあいになるというのも、こうした嫁の保証人という意味を考えれば、当然のこととなったわけです。

    考えてみれば、人間にとっていちばん大切なことは、人類を生存させること。
    つまり、子を生み育てることといえます。
    このことは、戦(いくさ)などより、もっと大事なことです。
    なにしろ戦は、人を殺して奪うだけですが、産み育てることは、未来を築くことに繋がるからです。
    そして子を産むことができるのは、女性だけですから、その女性を大事にしない社会など、まったく考えられなかったのが、日本の社会の仕組みであったわけです。

    昨日のブログで『夫婦善哉』のお話を書きましたが、この小説では、家のカネを持ち出して遊郭で散財する旦那の柳吉に、内縁の妻の蝶子が、旦那に馬乗りになってたびたび殴る蹴るの暴行を行うシーンが描かれています。
    現代なら、内縁の妻からのDVのように扱われてしまいそうなシーンですが、昔は相手が旦那であれ妻であれ、間違いをすれば、ある程度叱られるのはあたりまえだったし、妻が旦那をホウキではたきだすようなシーンは、落語にもよく描かれています。
    女性が強かったのです。

    というより、男も女も、強くなければ生きていくことができなかったのです。
    その強さを、現代日本人も持ちたい。
    理不尽な暴力には反対ですが、強さはいつの時代にも必要です。

    現代日本人もまた、夫婦で強くなるべきときがきていると思います。
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  • 夫婦善哉と月の法善寺横町


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    仏教も神道も、両方あって「善き哉(かな)、よきかな」。
    日本の文化は、あらゆるものを結びます。

    20220729 夫婦善哉
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    藤島恒夫の名曲『月の法善寺横丁』
    ♪ 包丁一本、さらしに巻いて
      旅へ出るのも 板場の修行
      待ってて こいさん
      哀しいだろうが
      あゝ 若い二人の
      想い出にじむ 法善寺
      月も未練な 十三夜

    この歌のもとになっている物語が、織田作之助が昭和15年に発表した「夫婦善哉(めおとぜんざい)」であったといわれています。
    「夫婦善哉」というのは、大阪の法善寺横丁で木文字重兵衛(きもんじじゅうべえ)が明治16年に開いた、ぜんざい屋「お福」のぜんざいのことで、ぜんざいを出すときに、お椀を二つに分けたら同じ値段でも豪華に見えるとのことから、一人前を椀二つで出すようにしたのだとか。

    「なんで椀がふたつや?」
    「めおとでんね」
    というのが夫婦善哉のルーツだといわれています。
    甘味のぜんざいに、善き哉(かな)を掛けた名前になっているわけですね。

    ちなみに、大和言葉の「めおと」は、「妻(め)夫(おと)」で、本来は妻が先だった言葉です。
    明治以降の戦争続きの時代に、西洋的男性優先型社会へと変化し、その過程で「妻夫」が「夫婦」になったのだとか。

    このぜんざい屋の「お福」が、発展して、全国展開のファミレスになったのが「和食のさと」で、いまも全国のお店のメニューに「大阪名物・夫婦善哉」が載っています。
    ちなみにこの「夫婦善哉」は、カップルで食べると円満になれるのだそうですが、カップルで2椀(1人前)を分けるのは縁起が悪いので、カップルでも2人前を注文するのが良いのだそうです。

    さて、大阪・千日前にある浄土宗大龍山法善寺の北側の路地にあるのが「法善寺横丁」です。
    ここは横に三人並んでは歩けないほどの細い路地で、両側に軒並みに飲食店が並んでいます。
    ここで有名なのが「ドテ焼き」と呼ばれる豚の皮を味噌で煮詰めたものと、夫婦善哉。

    歌にでてくる「こいさん」というのは、人の名前ではなくて、大阪は船場の商人の間で使われていた「舟場言葉」で、
    「お嬢さん」が「いとさん」。
    その妹さんが「小さいいとさん」ということで「小(こ)いとさん」が詰まって「こいさん」。
    三姉妹や四姉妹の場合は、「なかいとさん」とか「こいこいさん」などと呼ばれていたのだそうです。
    つまり「こいさん」というのは、二人姉妹の妹さんといった意味。

    歌の歌詞は、やわらかな旋律とともに、板前になろうと一生懸命な若い男性と、その修業の帰りをじっと待っている新妻といった風情で、戦時中、戦場へと旅立つ若い兵隊さんと、その帰りを待つ女性たちの心がそのまま反映した内容になっていることから、戦前戦中戦後まで、大ヒット曲となりました。

    曲の中の男性は、目標のために故郷を離れながらも一途に頑張り、凛々しく成長して帰ってくるといったイメージになっていますが、実は小説のほうの「夫婦善哉」の夫の方は、かなり残念な人物として描かれています。

    大阪で持ち帰り専門の天ぷら屋をしていた種吉は、天ぷらは美味しいけれど商売下手。
    そんな家に生まれた姉妹の妹が主人公の蝶子で、家が貧しいからと、小学校を卒業してすぐに女中奉公に出るのだけれど、縁あって芸者の下地っ子に出て、そこから17歳で芸者になります。

    そんな蝶子が二十歳になった頃、毎日のように店に通ってくれていた化粧品問屋の若旦那の柳吉(31歳)と、結ばれて、二人は駆け落ちしてしまいます。
    このとき柳吉には、しっかり者の妻があり、幼い女子もいました。
    そんな具合ですが、柳吉は父親から勘当(かんどう)されてしまう。

    それでも二人で力を合わせて生きていけば、まだなんとかなりそうなところ、柳吉はしょせんはぼんぼんで、家がなければ稼ぎもないから、たちまち二人は貧乏になってします。
    それでもなんとか晴れて夫婦になれる日を思う蝶子は、ヤトナ芸者(臨時雇いの安値の芸者)になって稼ぐのだけれど、結構な稼ぎも、すこし貯まると、そのカネを柳吉が持ち出しては遊郭でまとめて遣ってしまいます。

    そんな暮らし続いた二人の10年余の暮らしが語られた小説が『夫婦善哉』です。

    一途に柳吉のことを想いながら、遊興に耽る柳吉に、悔しくて哀しくて殴る蹴るする蝶子の気持ち、蝶子の気持ちをわかっていても、妻子と離れ離れになってしまい、ついには体を壊して早逝してしまった妻を思う柳吉の心の動きなど、柔らかで読みやすい文章から伝わってくる時代感が、とても澄やかで、しかもこの時代の現実を反映していたことが、ベストセラーとしていまも名を残す小説となった理由なのかもしれないと思います。

    ちなみに、おしるこには、つぶあんタイプとこしあんタイプがありますが、このつぶあんタイプのもののことを、ぜんざいと呼びます。

    つぶあんタイプのおしるこから、汁を抜き去ったものが「小倉あん」となるわけですが、そのおしるこのことをどうして「ぜんざい」と呼ぶようになったかには、二説があります。

    ひとつは、一休さんが、これをはじめて食べたときに、あまりの美味しさに「善哉(よきかな〜)」と叫んだことがはじまりとするもの。

    もうひとつは、出雲の神事である「神在祭(じんざいさい)」で振る舞われた「神在餅(じんざいもち)」が訛って「ぜんざい」に変化したというものです。

    どちらが正解かはわかりませんが、仏教も神道も、両方あって「善き哉(かな)、よきかな」。
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  • たったひとりで政府高官に挑んだ女性


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    なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。
    「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。日本の女性は、堂々と男たちと対等な存在として、立派に生きていたのです。
    男女は対等。
    それが日本の文化です。

    20200919 和柄
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    いまから800年あまりの昔のことです。
    ある日ひとりの女性が、歌会(うたかい)に招かれました。
    歌会は、摂政右大臣が私邸で開催したものでした。
    並み居る朝廷の高官たちが、ズラリと顔を揃えていました。

    その日の歌のテーマは「旅宿逢恋」でした。
    順番がめぐってきたときに、その女性は持参した一首の歌を披露(ひろう)しました。

     難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
     身を尽くしてや 恋ひわたるべき
    (なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ
     みをつくしてや こひわたるべき)

    女性の恋の歌にしてはめずらしく、末尾が「べき」という明確な意思を示した命令口調の歌です。
    そして一聞すると、この歌は、ただ恋に命をかけるかのような歌になっています。

    ところが、よくよく聴いてみると、この歌は
    「仮寝と刈り根」、
    「一夜と人の世」、
    「身を尽くしと海路を示す澪標(みをつくし)」
    などと掛詞(かけことば)を多用しています。
    しかも「一夜をともにした女性」というのは、難波江の女性です。

    この時代の難波江は遊女街でした。
    つまりこの歌は、売春を職業とする遊女の「一夜の恋」を詠んだような歌です。
    ところがこの歌を詠んだ女性は、摂政藤原忠通(ふじわらただみち)の娘で、崇徳天皇の中宮であった皇嘉門院藤原聖子様付きの女官長(これを別当(べっとう)と言います)です。
    いまの時代でいうなら、皇后陛下付き女官の統括管理部長の女性です。

    そのような高貴な女性が、遊女の恋の歌を詠む・・・。

    「ハテ、どのような意味が込められているのだろうか」

    和歌というのは、万感の思いを、わずか31文字の中に封じる芸術です。
    詠み手は、その万感の思いを31文字に封じるし、読み手(和歌を聞く側)は、その31文字から、詠み手が何を言いたいのかを読み取ります。これを「察し」と言います。

    当時の高官たちというのは、そうした察する文化に長けた人たちであり、幼い頃からそのための訓練を和歌を通じて学びましたから、歌が披露されたあと、しばしの沈黙の中で、その場に居合わせた貴族の高官たちは、この歌の意図を察しました。

    すると、その場が、凍(こおり)りついてしまったのです。
    並み居る高官たちが、皆、うつむいて言葉を発することもできない。
    何も言えなくなってしまったのです。

    いったいどういうことだったのでしょうか。

    実は、歌を詠んだ女性の上司である皇嘉門院(こうかもんいん)は、第75代崇徳(すとく)天皇の皇后であられた方です。
    崇徳天皇は、わずか三歳で天皇に御即位されました。
    そして十歳のときに、摂政である藤原忠通の娘の聖子様を皇后に迎えました。
    この聖子様が、後の皇嘉門院様です。

    お二方はとても仲のおよろしいご夫妻であったと伝えられています。
    けれど、残念なことに子宝に恵まれませんでした。
    こうなると困るのが、聖子様の父の藤原忠通(ふじわらのただみち)です。

    藤原氏の権力の源は、「国家最高権威としての天皇の外戚である」ことにあります。
    つまり子がなくて、別な藤原氏以外の一族の娘との間に生まれた子が次の天皇になれば、その瞬間に藤原氏は代々続いた権力の座から追われることになってしまうことになるのです。

    そこで藤原忠通は、強引に崇徳天皇に退位を迫りました。
    そして天皇の弟の近衛天皇を第76代天皇にさせてしまいます。
    ところがその近衛天皇が、わずか17歳で崩御されてしまわます。

    困った藤原忠通は、やはり崇徳天皇の弟である後白河天皇を第77代天皇に就けました。
    ところがこのとき、後白河天皇はすでに29歳です。当時の感覚からすれば、すでに壮年です。
    ものごとの善悪が十分にわかる年齢になっているわけです。

    天皇が未成年の幼い子供であれば、藤原氏が摂政となることで、事実上、権威と権力の両方を併せ持つことができます。
    何もかもが思いのままになる。
    ところが29歳の後白河天皇が即位されたということは、藤原氏は権威を手放したことになってしまう。
    加えて、3歳で皇位に就き、しかも強引に退位を迫られたのは、後白河天皇の実兄の崇徳上皇です。
    表面上はともかく、すくなくとも崇徳上皇が、藤原忠通のことをよく思ってはいないであろうことは、容易に察しがつきます。

    そしてこのことが意味することは重大です。
    もしも、崇徳上皇と後白河天皇のご兄弟が手を結べば、500年続いた藤原氏の栄華は、そこで終わりになる可能性があるからです。

    間の悪いことに、我が国では天皇には政治権力は認められていませんが、天皇を退位して上皇になれば、上皇は藤原忠通、つまり摂政関白太政大臣よりも政治的に上位の権力者となります。
    つまり崇徳上皇が、事実上の国家最高権力者となるのです。
    その国家最高の政治権力と、国家の柱であり中心核でもある国家最高権威としての天皇が、ご兄弟で手を結べば、藤原の一族は、代々続いた藤原の一族の栄華を失う。

    藤原忠通の、そういう心配がわかるから、崇徳上皇は、意図して政治に関与しないで、日々歌会などを催していましたし、忠道の娘である上皇后の皇嘉門院を崇徳上皇はとても愛していらされたのです。
    つまり、できるだけ事を荒立てないように、日々、配慮していたのです。

    けれど、そうして崇徳上皇が政治に無関心を装えば装うほど、忠道には、それが裏で何かを画策しているかのように見えてしまう。
    人間、ひとたび疑心暗鬼の虫が宿ると、そこから逃れられなくなるのです。

    そしてついに藤原忠通は、後白河天皇の宣旨を得て、平清盛らに命じて、「崇徳上皇に謀叛の兆しあり」という、あらぬ疑いをでっちあげて、武力を用いて崇徳上皇を逮捕し、讃岐に流罪にするという暴挙に出ます。
    これが保元の乱(1156年)です。
    こうして崇徳上皇は崇徳院となって讃岐に流されました。
    上皇后の聖子様は皇嘉門院と名乗って都に残られたのです。

    政治の争いは、世の争いを招きます。
    朝廷内の権力闘争のために、武力が用いられたということは、紛争の解決手段は、それまでの話し合いではなく、強引に武力による解決を図ることが肯定されたことを意味します。
    それはつまり、「話し合い」よりも「武力」が優先する社会であることを、国の政治がみずから認めたことを意味します。

    中央の乱れは、世間の乱れを誘います。
    こうして世の中は、「力さえあれば何をやっても許される」という、鎧を着た武者が、むき出しの大薙刀を持って市中を闊歩する時代へと動いていくのです。

    世は乱れ、貴族たちが優雅に歌会などを開いている間にも、都をはじめ巷(ちまた)では、殺し合いが平然と起こるようになりました。
    そんな折に、右大臣の私邸で歌会が催され、聖子様が皇后時代からずっと付き従い、聖子様が剃髪して皇嘉門院となられてからも、ずっと付き従っている元皇后陛下付きの女官長であり、いまは「皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)と呼ばれている女性が歌会に招かれたのです。

    彼女は持参した歌を披露しました。
    歌は、意訳すると次のような意味になります。

    「難波の港に住む遊女であっても、
     短い一夜限りの逢瀬でも
     一生忘れられない恋をすることがあると聞き及びます。
     しかし朝廷の高官というのは、
     一夜どころか、
     神代の昔から天皇を中心とし、
     民を思って先祖代々すごしてきました。
     けれど、
     そのありがたさを、その御恩を、
     たった一夜の『保元の乱』によって、
     すべてお忘れになってしまわれたのでしょうか。
     父祖の築いた平和と繁栄のために、
     危険を顧みず
     身を尽くしてでも平和を守ることが、
     公の立場にいる、あなた方の役割なのではありませんか」

    歌の解釈の仕方、どうしてそのような意味になるのかについては、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』に詳しく書いていますので、ここでは省略します。
    ただ、皇嘉門院の別当という、ひとりの女性がたった一首。

     難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
     身を尽くしてや 恋ひわたるべき

    と歌を披露したことで、わずかな間をおいて、その場に居合わせた並み居る高官たちが、ただ黙って下を向くしかなかった。
    なぜなら、堂々と叩きつけられた皇嘉門院別当のその歌の内容が、あまりに正論であり、その正論の前にその場にいた貴族高官たちの誰もが、ひとことも反論できるものがなかったからです。
    歌は正論であり、否定することはできません。
    さりとて、認めれば、自分たちがアホのやくたたずであることを認めることになってしまう。
    だから、できることといったら、ただうつむく以外なかったのです。

    皇嘉門院別当が生きた時代は、すでに世の中は人が人を平気で殺す世の中になっていました。
    このような歌を公式な歌合に出詠すれば、彼女は殺される危険だってあります。
    しかもその咎(とが)は、別当一人にとどまらず、もしかすると皇嘉門院様に及ぶかもしれない。

    おそらく別当は、歌合の前に皇嘉門院様に会い、
    「この歌の出詠は、
     あくまで私の独断で
     いたしたものとします。
     皇嘉門院様には
     決して咎が及ばないようにいたします」
    と、事前に許可を得ていたことでしょう。

    そして別当からこの申し出を聞き、許可した皇嘉門院も、その時点で自分も死を覚悟されたことでしょう。

    つまりこの歌は、単に皇嘉門院別当一人にとどまらず、崇徳天皇の妻である皇嘉門院の戦いの歌でもあるのです。
    そういう戦いを、この時代の女性たちはしていたのです。

    なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。
    挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。

    「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。
    日本の女性は、堂々と男たちと対等な存在として、立派に生きていたのです。

    男女は対等。
    それが日本の文化です。


    ※この記事は2020年9月の記事のリニューアルです。

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      ───────────────

    目的が金儲けであり、事実それによって大金を得ることができるのですから、科学的合理性や客観的論理性などは関係ない、というの日本には、万年の単位で、正義と公正を重んじてきた歴史と伝統があります。
    我々は、堂々と、その元からあるもので進んでいけば良いのです。
    世界中の国々が、日本の持つ正義と公正を待ち望んでいるのです。
    なにしろ、それを実現出来た国は、歴史上、日本だけだからです。

    20181125 China事変
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    目的が金儲けであり、事実それによって大金を得ることができるのですから、科学的合理性や客観的論理性などは関係ない、というのが宣伝工作です。
    ですから日本が、いくら科学的合理性と客観的論理性に基づく検証を行ない、彼らの主張の間違いを正そうとしても、それは一時的に彼らを黙らせることができたとしても、すぐにまた切り口を変えて同じ主張が執拗に行われ続けることになります。

    これは「いたちごっこ」です。

    チャイナについて色々な見方や意見がありますが、ひとことで言えば、彼らには我々日本人にある霊(ひ)という概念がありません。
    だから、ただ今生で贅沢に生きること、そのために周囲のあらゆるものを利用して金儲けをしようという概念しかない。
    そのために周囲がどれだけ迷惑しようが、いっさい関係ありません。
    自分さえ良ければ、あとはどうでも良いという思考が、我々日本人には考えられないほど徹底している人たちです。

    近年日本でも、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」という言葉が流行っていますが、この分野では付け焼き刃でしかない日本人が、いくらチャイニーズに対抗しようとしても、まず勝てることはありません。
    本人が、いくら徹底したとしても、周囲の日本人が正しいことを求めるからです。

    「いまだけ、カネだけ、自分だけ」に、すくなくとも2千年以上の伝統を持つ彼らと、
    ずっと民衆の幸せこそ国の幸せと、自己犠牲のもとに、すこしでも良い国を築こうとしてやってきた日本では、あまりに文化が違いすぎるのです。
    これは差別やヘイトではありません。
    文化の違いです。

    日華事変(1937〜1941)のとき、大陸で負け続けた蒋介石がなぜいつまでも日本に抵抗し続けたのか。
    その答えが今日のタイトルにある「蒋介石はビジネスをしていた」です。
    当時米英仏ソは、義和団事件(1900)年の戦後処理としての北京議定書(1901)によって、チャイナの大半の地に、すでに大きな利権をもっていました。
    日本が勝てば、彼らはその利権を失います。
    けれど、蒋介石が日本に抵抗し続けていてくれる限り、彼らはその利権を守り通すことができました。
    つまり蒋介石と米英仏ソは、利害が一致していました。

    そのため米英仏ソは、蒋介石に莫大な戦費や物資の援助を行いました。
    このことは、蒋介石の側から見れば、彼は日本と戦い続ける限り、兆円規模の莫大なお金が天から降ってくることを意味します。

    そしてこの額は、どんなに頑張っても商業や製造業では、決して手に入れることができない額です。
    ありえないような巨額の利益が、そこらにいるチャイニーズに銃を持たせて戦わせるだけで、自分は弾の飛んでこないところにいて、手に入るのです。

    英国は1939年に1000万ポンド(現2500億円)、1940年に1000万ポンドを蒋介石に貸与してます。
    貸与というのは貸し与えたということですが、国際社会において借りたお金を返したのは、日露戦争のときの日本と、南北戦争のときの南軍の借金を肩代わりして返済した米国くらいなものです。
    国際社会では、借りたお金は返さないのが常識です。

    フランスは1938年に1億5000万フランを貸与、1939年に9600万フランを蒋介石に、こちらは無償援助しました。

    ソ連は1937年に航空機900、戦車200,トラック1500,銃15万、砲弾12万発、銃弾6000万発を蒋介石に提供し、1939年には1億5000万ドルを援助(現6400億円)し、さらにソ連空軍が密かに参戦しています。

    米国は1927〜41年に4億2000万ドルを無償援助、1940年に50機の新鋭戦闘機、装備、武器、弾丸150万発を援助、1941年に100機の戦闘機を援助、259名の米空軍パイロットを義勇兵の名目で中国空軍に参戦(フライング・タイガース)させ、さらにトラック300台と5000万ドル分の軍事物資を供与して、米軍事顧問団を派遣、また、500機のB-17爆撃機を援助しています。

    なにせ日本と戦っているというポーズだけしていれば、いまのお金に換算して数千億から兆円規模のお金が天から降ってくるのです。
    しかも戦って死ぬのは、チャイナの民衆であって、蒋介石自身ではありません。
    つまり自分は決して殺されないところにあって、部下たちが死ねば、笑いが止まらないほどのお金が、ますます天から降ってくるのです。

    これをお読みのみなさんは日本人ですし、部下を見殺しにするなどということは断じてできない方々でしょう。
    けれども世の中には、自分の贅沢と金儲けのために、周囲の人がどれだけ死んでも、よそ様にどれだけ迷惑をかけても、一向に意に介しないヤカラがいるのです。

    蒋介石は、さらにもっと外国からお金を得るために、チャイナを日本による一方的な被害者に見せかけようと、さかんに宣伝工作をしました。
    これは、いまの大企業が莫大なお金をかけて、テレビCMを流すのと同じことです。
    宣伝ですから、事実はどうでも良い。
    諸外国の同情と支援を受けるためのイメージがあれば良いのです。

    ですから自分たちでひどいことをしておいて、それを「日本にやられた」と宣伝しました。
    捏造してでも、諸外国の同情を買えば良いのです。
    それで大金を儲けることができるのです。

    さらに蒋介石は、お金をくれそうな外国に大量のスパイを送り込んで、工作活動も展開していました。
    ヨーロッパでは、紫禁城から大量の宝物を持ち逃げした張学良が、宝物と連れて行ったチャイニーズのレディたちを使って盛んに工作活動を展開しました。

    米国では、英語に堪能な蒋介石の妻の宋美齢(そうびれい)の姉の宋靄齢(あいれい)と宋慶齢(けいれい)らが、やはりChineseの美女軍団を率いて米国のメディア工作、政治工作を行いました。
    この工作の成果はすぐに出ました。
    それが米国において1938年(昭和13年)7月、つまり南京事件の翌年の、
    「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」
    の発足です。

    この団体には、当時の米国の主だったマスコミの経営主がこぞって参加しました。
    それぞれの企業への莫大な経済的支援、高齢の男性オーナーたちにはChineseの若い女性たちを提供しました。
    女性たちは、言うことを聞いて米国要人と夜をともにすれば、あらゆる贅沢が与えられます。
    しかし拒否をすれば、即、残酷な死が与えられました。

    「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」は、発足と同時に
    『日本の戦争犯罪に加担しているアメリカ』
    という80ページのブックレットを発行しました。
    このブックレットには、ヘンリー・スティムソン前国務長官、フランクリン・ルーズベルト大統領、コーデル・ハル国務長官、スタンリー・ホーンベック外交担当国務省補佐官、たくさんの連邦議会議員、マスコミのオピニオンリーダーたち、教会指導者たち、その他ヘレン・ケラーやパール・バック女史、元海軍大将のリチャード・E・バードなどが名を連ねて寄稿しています。

    委員会は、このブックレットを6万部も刷って、全米の議員をはじめ、有力者や団体にバラまきました。
    ルーズベルトは、これを世論だとして、日本への経済封鎖に踏み切っています。
    そしてこのことが原因となって、日本は日米開戦に追い込まれて行きました。

    6万部を印刷して配るということは、たいへんな資金が必要です。
    その資金は蒋介石から出ていましたが、もともとは米国が蒋介石に提供したお金です。
    つまり蒋介石は、他人のフンドシで大商いをしていたわけです。

    要するにChina事変は、蒋介石にとっては「商売(ビジネス)」だったのです。
    ビジネスですから、そこに論理性も倫理性も客観的妥当性も普遍的正当性もありません。
    ただ儲かれば良いのです。

    自分が儲けるためならば、自国民が何人死のうがおかまいなしだし、それによって国土が灰燼に帰そうが、黄河を決壊させて自国民が100万人が死のうが、それによって日本がどれだけ迷惑を被ろうが、後の世にどれだけの負担がかかろうが、まったく関係ないのです。
    ただその瞬間に儲かれば良いのです。

    さて、蒋介石は、こうして大金を得るのですが、戦後の国共内乱によって蒋介石は毛沢東によって中原を追い出され、占領統治していた日本の一部である台湾を支配することになりました。
    このため台湾は、なんと昭和62年(1987年)まで、戦後42年間もの間、戒厳令が敷かれて国民党軍による軍政支配下に置かれました。

    このことは、日本のGHQによる占領統治が昭和27年までの6年8ヶ月であったことを考えれば、どれだけ長期間のものであったのかがわかろうかと思います。
    そしてこの間に国民党は、台湾の経済のすべてを支配しました。

    台湾には、
    「People on Taiwan(台湾に乗っかっている人々)」と、
    「People of Taiwan(もとからの台湾人)」がいます。

    台湾の人口は約2,300万人ですが、このうち、大東亜戦争終結後に大陸から入って来た人達(People on Taiwan)が575万人で、台湾の人口のおよそ4分の1、
    もとからの台湾人(People of Taiwan)が、1725万人で、人口のおよそ4分の3です。
    そしていまなお、People on Taiwanが、台湾経済を支配しています。

    要するに台湾では、「on」の人たちが、元日本人で働き者の「of」の人たちを使役して、その上に乗って富を寡占しているわけです。

    戦後80年が経過し、いまの若い人たちは、ずいぶんと血が交じるようになりましたし、台湾の国民党と民進党の両方に「of」も「on」もいますから、そういう外見だけを観るとよくわからなくなるのですが、「People on Taiwan(台湾に乗っかっている人々)」の中でひときわ強い権力を持っているのが、浙○財閥であるといわれています。

    浙○財閥というのは、蒋介石が得た財産で築かれた財閥です。
    そしてこの財閥の中核をなしているのが○家(はっか)で、毛沢東も同じく○家(はっか)、現在の習近平政権を支えているのも○家(はっか)です。
    そして○家(はっか)の一族=浙○財閥という関係式になります。

    ○家(はっか)は世界中にそのネットワークを持っています。
    近年では半導体の技術を日本からいただいて、世界の半導体を牛耳りました。
    いまでは、あらゆる産業に半導体は不可欠ですが、その半導体の世界シェアの66%が台湾です。
    そしてその60%のうちの3分の2が、T○MC(台湾積体電路製造)です。
    そしてこの会社の創業者である張忠謀(モ○リス・チ○ン氏)の出身が浙○省です。

    ちなみに、これだけの世界シェアを持つT○MCですが、創業が1987年(昭和62年)です。
    つまり台湾の戒厳令が解けた年です。
    つまり、戒厳令による支配が、半導体による支配に切り替わったのが、この年です。
    それが、いまからたったの35年前です。
    そしてこの35年で、彼らは世界の半導体だけでなく、世界の情報化社会を裏で操るようになりました。

    日本でいま、巨大な半導体工場が作られようとしていますが、その経営もまた、なぜかT○MCです。
    これができると、世界の半導体市場は、完全に浙○財閥の傘下に置かれることになり、世界の情報技術は、すべて浙○財閥が牛耳ることになります。

    目下の日本では、かなり目の利く方でも、国際金融資本や、ソロス氏の動向にばかり着目されているようです。
    しかし、実際には、それらをさらに裏から抑えようとしている東洋の財閥があるわけです。

    そしてこのままいくと、日本もまた、台湾と同じように、あと30年もすると、
    もとからの日本人(People of Japan)が、後から入ってきた支配層(People on Japan)によって支配されるようになる可能性があります。

    日本の強さの原点は、日本人がどこまでも民衆が豊かに安全に安心して暮らせる社会を求め、そのために常に科学的合理性と客観的論理性を重んじてきたことによります。
    日本人が科学的で合理的で客観的で論理的だというと、意外に思われる方も多いかと思いますが、世界の有色人種の国々は、白人が鉄砲をもってやってきたときに、彼らはこれを魔法と捉えたのです。
    けれど日本人は、それを科学ととらえ、気がつけば世界最大の鉄砲国になっていました。

    黒船のときにも、日本は、彼らの科学技術を魔法と捉えずに、論理的かつ客観的に捉えて、その技術を積極的に受け入れてきました。
    つまり日本人は、世界の中でみれば、意外なほど科学的で合理的で客観的で論理的な民族であったのです。
    そしてその科学性、合理性、客観性、論理性のすべてが、民衆が豊かに安全に安心して暮らせる社会の実現に向けて統合されるという不思議を持っているのが、実は日本人です。

    これに対し、世界は「いまだけ、カネだけ、自分だけ」です。
    そしてそうした思想や行動が、極限にまで高められているのが○家(はっか)集団です。

    彼らの目的は、常に金儲けにあります。
    科学も合理も客観性も論理も、すべては金儲けのためにあります。
    民衆の利益など、まったく関係ないのです。

    では日本はどうすればよいのでしょうか。
    答えはシンプルです。
    日本には、万年の単位で、正義と公正を重んじてきた歴史と伝統があります。
    我々は、堂々と、その元からあるもので進んでいけば良いのです。
    世界中の国々が、日本の持つ正義と公正を待ち望んでいるのです。
    なにしろ、それを実現出来た国は、歴史上、日本だけだからです。

    胸を張って、そして謙虚に、我々日本人は、日本人として歩む道をしっかりと歩んでいきたい。
    そう思います。


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  • 通州事件(2) Sさんの体験談【18禁】


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    詳しい内容は↓コチラ↓
    https://nezu3344.com/blog-entry-5295.html

      ───────────────

    昨日に引き続き通州事件です。たいへんに衝撃的な内容ですが、まだお読み出ない方は、是非ご一読なさってください。
    なお、たいへんに残酷な描写が出てまいりますので、この記事は18禁とさせていただきます。
    昨日の記事に、この通州事件を報じた新聞の写真を掲載しましたが、この事件はフィクションではありません。
    現実にあった事件であり、人類史上稀(まれ)なる残酷な事件であり、当記事はその実体験者の経験談です。

    政治が歪(ゆが)み、民度が落ちると、人はここまで残酷な仕打ちをするのです。
    我々は平和を願い、人々が豊かに安全に安心して暮らせる社会を目指します。
    しかし、私たちがそのように思い行動しても、この記事に書かれたような残酷を平気でする人たちがいることもまた事実です。
    だからこそ私たちは国を持ち、国として私達の平和と安全を護るのです。
    そのために軍があり、そのためにこそ男は生きるのです。

    だから怒れというのではありません。仮にこの事件が日本で起き、日本人が日本にいる外国人に同様の振る舞いをしたならば、おそらくその国の人達はヒステリックに日本人を皆殺しにせよ!と喚き散らしたことでしょう。
    けれどこの事件が起きたとき、わが国では、事件の詳報が盛んに報道されましたが、わが国の中華街では、いままでと変わらぬ平和で豊かな日常が展開されていました。

    そういう民度を大切にしたいと思うのです。
    怒りにまかせて、異常行動へと走るのではなく、私たちは、冷静に私たちの国柄を、そして文化をしっかりと取り戻し、世界に冠たる同義的で平和な国家を築いていく。
    通州事件で犠牲となった方々の、それが真の思いであると思いますし、その冷静さこそが、日本をかっこ良く!なのだと思います。

    ※当記事はおよそ3万字の長編で、読了におよそ40分程度を要します。

    20200715 現在の通州区
    画像出所=https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kokunai/kokusaikouryu/Tongzhou.html
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


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    ※本日の記事は18禁です。
    18歳未満の方と女性の方はお読みにならないでください。


    昨日に引き続き通州事件です。
    犠牲となられた方々に深く哀悼の意をささげたいと思います。

    調寛雅著「天皇さまが泣いてござった」から、「Sさんの悲劇」の転載をさせていただきます。
    Sさんは実際に通州事件を体験なさった日本人女性で、佐々木テンさんと言います。
    当時Sさんはチャイニーズ男性の妻となり、チャイニーズとして通州で働いていました。
    その目の前で事件は起こりました。
    文中にはありませんが、この旦那さんのチャイニーズは、もともとチャイナのスパイであったといわれています。

    事件後、あまりのショックに離婚したSさんは、陸軍の取調べ後、担当した士官がたいへんに同情してくれ、当時陛下との関係の深かった因通寺のご住職である調寛雅(しらべかんが)氏に、Sさんを預けました。
    そこで彼女が語った事実を、ご住職が後に本にしてご出版されています。

    本からの転載にあたっては、徳島の保守さんが、因通寺のご許可をいただいて本から文字起こしをし、ネット上にあげてくださいました。また私の拡散にあたっては、徳島の保守さんからお寺にご承認をいただいています。

    たいへんに衝撃的な内容ですが、まだお読み出ない方は、是非ご一読なさってください。
    なお、たいへんに残酷な描写が出てまいりますので、この記事は18禁とさせていただきました。


    【Sさんの体験談】

    私は大分の山の奥に産まれたんです。

    すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。
    それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。

    そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
    小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。

    それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんというチャイニーズと出会ったのです。

    このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。
    大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に「Sさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

    私は最初は冗談と思っていたので、
    「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。

    そのときは全く驚きました。
    冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

    でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。
    「Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。
    それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。
    それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさんは強い言葉で私に迫ります。

    それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

    チャイナの人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

    でも、無事結婚式が終わりますと、すぐにチャイナに帰るというのです。
    でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。

    自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

    それで仕方ありません。
    私はTさんに従ってその年の三月にチャイナに渡りました。

    長い船旅でしたが、チャイナに着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。

    私はチャイナ語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

    そのうち片言混じりではあったけれどチャイナ語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。

    通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いてチャイニーズもとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。

    通州事件の惨劇02
    通州事件04


    それは昭和九年の初め頃だったのです。

    Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、チャイニーズも日本人に対して大変親切だったのです。

    しかしこのチャイニーズの人達の本当の心はなかなかわかりません。
    今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

    通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

    私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。

    私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、チャイニーズの服装に替えておったのです。

    すっかりチャイナの服装が身につきチャイナの言葉も大分慣れてきていました。
    それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。

    遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
    日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

    私がチャイニーズの服装をしているのでチャイニーズと思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。
    そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

    そして、商売の方もうまく行くようになりました。
    Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
    だから買う人にとってはとても便利なんです。

    Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
    Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

    この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
    私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

    ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、チャイナと日本は戦争をする。

    そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

    私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。

    それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

    そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。
    何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。
    Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

    そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

    只、コリアンの人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口をチャイナの人達に言いふらしているのです。

    私が日本人であるということを知らないコリアンは、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にしてコリアンを奴隷にしていると申すのです。

    そして日本は今度はチャイナを領土にしてチャイニーズを奴隷にすると申すのです。
    だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
    いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

    私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙ってコリアンの言うことを聞いておりました。

    そこへTさんが帰って来てコリアンから日本の悪口を一杯聞きました。
    するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。

    するとそのコリアンは顔色を変えて叫びました。
    日本人じゃないコリアンだ、コリアンは必ず日本に復讐すると申すのです。
    そして安重根という人の話を語りました。
    伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
    我々もチャイニーズと一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

    私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
    なんと怖いことを言うコリアンだろう。
    こんなコリアンがいると大変なことになるなあと思いました。

    Tさんは黙ってこのコリアンの言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

    こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
    でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。

    私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

    私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。

    道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。

    目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
    私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。

    日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

    そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。

    大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。

    この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍がチャイナを立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。

    その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

    行商に歩いていると日本人に出会います。
    私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。

    すると日本人が通った後ろ姿を見ながらコリアンが、
    「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」とチャイニーズ達に言うのです。

    最初の頃はチャイニーズ達もコリアン達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回もコリアンがこんなことを繰り返して言うと、チャイニーズ達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。

    特に保安隊の軍人さん達がこのコリアンと同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

    私はあまり心配だから、あるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。

    それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

    それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうしたチャイニーズ達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

    それはチャイナのあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。

    私はTさんには悪かったけれど、紙一杯にこうしたチャイニーズ達の動き、コリアン達の動きがあることを書きました。

    そして最後に用心して下さいということを書いておきました。
    この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。

    これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。

    こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

    これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。

    でも何も変わったことはありません。
    これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。
    このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

    昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。

    そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、チャイナ軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。

    日に日に日本に対する感情は悪くなり、チャイニーズ達の間で、
    「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。

    その当時のよく言われた言葉に、
    「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのはチャイナだ」という言葉でした。

    私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。

    チャイナの子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔をチャイナが滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。

    こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。
    しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。

    そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。
    私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

    三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。
    私はびっくりしました。

    それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いやチャイナという国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。

    しかし日本に帰るべくTさんが日本の状況をいろいろ調べてみると、日本ではチャイナ撃つべし、チャイニーズは敵だという声が充満していたそうです。

    そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって、
    「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。

    それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。
    何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。

    来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。

    でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。

    しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。

    そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

    日本人の居住区にもよく行きました。
    この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。
    そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。

    私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。
    でもTさんはそれを許しません。

    それで日本人の居留区日本人と話すときもチャイナ語で話さなくてはならないのです。
    チャイナ語で話していると日本の人はやはり私をチャイニーズとして扱うのです。
    このときはとても悲しかったのです。

    それとチャイニーズとして日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人がチャイニーズに対して優越感を持っているのです。
    ということはチャイニーズに対して侮蔑感を持っていたということです。

    相手がチャイニーズだから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くのチャイニーズが言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。

    だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。
    このことが大変悲しかったのです。

    私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいるチャイニーズに対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。

    でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。

    こうした日本人の傲りとチャイニーズの怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。

    Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。
    それだけにこの通州のチャイニーズの日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。

    一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、
    「困った、困った、こんなに日本人とチャイニーズの心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」
    と言うのです。

    そしてチャイニーズの心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていたコリアンがあまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。

    いやむしろチャイニーズの日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくるとコリアン達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。
    それと共にあの当時はコリアンで日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、コリアン達も考えるようになって来たのかも知れません。

    しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。

    Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。
    今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。

    そして「危ない」「危ない」と申すのです。

    それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、チャイニーズが殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。

    六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。
    だからといって逃げ出すわけにもまいりません。

    そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、チャイナの国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。

    それが七月になると、
    「日本人皆殺し」
    「日本人は人間じゃない」
    「人間でない日本人は殺してしまえ」
    というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。

    鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

    そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。

    チャイニーズ達が大騒ぎをしているのです。

    何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍がチャイナ軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したのでチャイニーズ達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。

    私はびっくりしました。
    そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。

    でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。

    こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。

    この頃でした。

    上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。
    済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。

    蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。

    この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。
    私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。

    この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。
    どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

    通州事件の惨劇03
    通州事件03


    七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。

    突然私はTさんに烈しく起こされました。
    大変なことが起こったようだ。
    早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

    Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。
    町には一杯人が出ておりました。

    そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

    でもまだ辺りは薄暗いのです。
    何がどうなっているやらさっぱりわかりません。

    只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。
    私はTさんと一緒に逃げながら、
    「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。

    でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。
    私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

    それが八時を過ぎる頃になると、チャイニーズ達が、
    「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。

    突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。
    最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。

    私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。
    もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。

    それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。
    そして、
    「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」
    と私を抱きしめるのです。

    それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。
    私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。
    ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。

    そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。

    それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。
    私はTさんと結婚してチャイニーズになっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。

    でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。

    それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。
    それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

    八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。

    誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
    私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。

    そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。
    何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

    私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

    そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。
    只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。
    Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

    日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。
    それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。
    何か生臭い匂いがするのです。
    血の匂いです。
    人間の血の匂いがして来るのです。

    しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。
    沢山のチャイニーズが道路の傍らに立っております。
    そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
    いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

    そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
    十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。

    その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
    そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

    その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
    体はぶるぶると震えておりました。

    その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。
    そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

    保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。

    そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

    チャイナでも七月と言えば夏です。暑いです。
    薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

    すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
    娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。

    しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

    娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
    学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。

    そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

    学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
    そして下着を取ってしまいました。

    娘さんは「助けてー」と叫びました。

    と、そのときです。

    一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
    そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

    恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。

    すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

    何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
    頭が割られたのです。

    でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
    保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

    娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
    この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

    パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。

    そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
    服が破けます。
    肌が出ます。
    血が流れます。
    そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

    そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
    血がパーッと飛び散ります。

    その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

    腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。
    それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
    又腹を突きます。
    胸を突きます。
    何回も何回も突き刺すのです。

    沢山のチャイニーズが見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
    この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

    その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
    暴虐無惨と申しましょうか。
    あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

    この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

    この娘さんは既に全裸になされております。
    そして恐怖のために動くことが出来ないのです。

    その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
    そして陵辱をはじめようとするのです。

    チャイニーズとは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。

    ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
    どうしても陵辱がうまく行かないのです。

    すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。

    そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。

    こんな姿を見ながらその近くに何名ものチャイニーズがいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。

    ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
    私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

    私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。
    目をしっかりつぶっておりました。

    するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
    私は思わずびっくりして目を開きました。

    するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。
    何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。
    その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。
    見てはいけない。
    見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。

    ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。
    それから剣で首を切り落としたのです。

    その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。
    投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
    若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。

    そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。
    しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。

    そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

    私は立っていることが出来ない程疲れていました。
    そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。

    この残虐行為をじっと見つめていたのです。
    腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。
    そしてその首はないのです。

    何とも異様な光景です。
    想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。

    ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
    そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。

    私はハッと自分にかえりました。
    すると何か私の胃が急に痛み出しました。
    吐き気を催したのです。

    道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。
    Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。

    でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。

    私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
    怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。

    私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。

    私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。

    私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。

    若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。

    しかしチャイニーズのTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。
    だから黙って通してくれたと思います。

    日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。
    殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

    あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。

    私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。

    そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
    十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

    そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。

    痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。
    とても人間のすることではありません。

    悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、チャイナの学生や兵隊はそれを平気でやるのです。
    いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

    日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識はチャイニーズにとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることがチャイニーズの常識だったのかと初めてわかりました。

    集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
    そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。

    チャイナでは老人は大切にしなさいと言われておりますが、このチャイナの学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。

    この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。

    十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。

    こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

    そしてそれだけではなかったのです。

    学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。
    そして勿論裸足にしております。

    その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

    そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
    この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。

    でも倒れることは出来ません。

    外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。
    学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

    私は思わずTさんにしがみつきました。
    Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。

    そして私の耳元でそっと囁くのです。
    「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。

    勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。

    そして私とTさんの周囲には何人ものチャイニーズ達がいました。
    そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。
    氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。

    兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般のチャイニーズは全く無表情で只黙って見ているだけなのです。

    しかしようもまあこんなに沢山チャイニーズが集まったものだなあと思いました。
    そして沢山集まったチャイニーズ達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。

    勿論これはいろんなことを言えば同じチャイニーズではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。

    これも又異様のこととしか言いようがありません。

    こんな沢山集まっているチャイニーズ達が少しづつ移動しているのです。
    この沢山の人の中には男もいます。
    女もいます。
    私もそのチャイニーズ達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

    日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。

    旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
    日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

    二人とも真っ青な顔色でした。
    一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。

    しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
    可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
    どうしてやることも出来ないのです。
    言葉すらかけてやることが出来ないのです。

    二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
    頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
    いやその一部からは出血さえしております。
    髪はバラバラに乱れているのです。
    とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

    その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

    女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。
    左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

    しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
    只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

    そしてそこにバッタリ倒れたのです。

    すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
    そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

    この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
    すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。

    私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
    その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

    私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。

    そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。

    そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。

    そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

    人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。

    それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

    一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。

    そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
    何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

    私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。

    それがチャイナの悪獣どもが充分満足したのでしょう。

    何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

    さすがに見ていた多くのチャイニーズ達がウォーという唸るような声を出しました。
    この多くのチャイニーズの唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

    そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
    恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。

    しかしこれを見ていたチャイニーズ達はどうすることも出来ないのです。
    私もTさんもどうすることも出来ないのです。

    もうこんなところにはいたくない。
    家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

    そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。
    沢山の日本人が殺されています。

    いやまだ殺され続けているのです。
    あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。

    そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。
    私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。
    耳を覆ってみても聞こえるのです。

    又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。

    旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
    一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

    するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。

    お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

    お婆さんは仰向けに倒れました。
    学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

    誰も見ていません。
    私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。

    そして、「くやしい」と申すのです。
    「かたきをとって」とも言うのです。

    私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。
    「いちぞう、いちぞう」
    と人の名を呼びます。

    きっと息子さんかお孫さんに違いありません。
    私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

    するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。
    そして息が止まったのです。

    私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

    そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。

    Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。

    するとチャイニーズも沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

    そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。
    それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。

    何とその女の人はお腹が大きいのです。
    七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

    学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。

    この女の人は何もしゃべれないのです。
    恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

    ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。
    歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。

    学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。
    そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。

    兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。
    妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっているチャイニーズ達の間にも拡がっておりました。

    とそのときです。
    一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。

    そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

    これで事態が一変しました。
    若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。

    学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。

    するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
    そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。

    学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。
    すると今度はそこにいたチャイナ国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。

    私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
    しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。

    七名も八名ものチャイナの兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。

    ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。
    私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

    ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。

    するとどうでしょう。
    この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。
    この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

    でもこの日本の男の人の働きもここまででした。
    この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

    日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。
    日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。

    これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。
    日本の男の人はぐったりなって横たわりました。

    それでもチャイナの兵隊や学生達は乱暴を続けております。
    そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。

    それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。
    私はあんな残酷な光景は見たことはありません。
    これはもう人間の行為ではありません。
    悪魔の行為です。
    悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。

    頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
    このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

    目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
    そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

    縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
    ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

    人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。
    十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。

    私はTさんにすがりついたままです。
    何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。

    地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

    そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

    そしてそれだけではありません。
    別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。

    一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。
    このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

    その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
    残った腸の細切れを見物していたチャイニーズの方へ二つか三つ投げて来ました。
    そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

    しかし見ていたチャイニーズの中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。

    この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。
    野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。

    そんな人間でない連中のやることに、流石にチャイニーズ達は同調することは出来ませんでした。
    まだ見物しているチャイニーズ達は人間を忘れてはいなかったのです。

    そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。

    この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。
    出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

    そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。
    学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。

    とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。
    フラフラと立ち上がりました。

    そして一生懸命逃げようとしたのです。
    見ていたチャイニーズ達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

    このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。
    妊婦はバッタリ倒れたのです。

    すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。
    するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。

    しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。
    国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。

    私は何をするのだろうかと思いました。
    そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

    だがチャイニーズの兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。
    剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

    赤い血がパーッと飛び散りました。
    私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

    実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。

    妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

    お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。

    そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。
    片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

    ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
    赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

    あまりの無惨さに集まっていたチャイニーズ達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人のチャイニーズが新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

    こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。

    「日本人が処刑されるぞー」

    と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。
    しかしそれはチャイナの学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

    私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。

    このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんがチャイニーズであったということです。
    そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちはチャイニーズの嫁さんだから私もチャイニーズだと思い込んでいたのです。

    そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私もチャイニーズだと思うようになっていました。
    そして早く本当のチャイニーズになりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。

    そしてこの一、二年の間はチャイナ語も充分話せるようになって、誰が見ても私はチャイニーズだったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私をチャイニーズとしか見ていないのです。
    それでチャイナのいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

    それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方をチャイニーズによって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。
    それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。

    それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはりチャイニーズです。
    私の心は通じておりません。

    そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはりチャイニーズですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。

    家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。
    それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。

    そこには兵隊や学生でないチャイニーズが既に何十名か集まっていました。
    そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。

    ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。
    保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

    集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。
    恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。

    何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。
    そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。

    すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。
    するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。

    私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
    五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。

    みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。
    そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。

    引き金に手をかけたらそれが最期です。
    何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

    そのときです。
    日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。

    するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。
    その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。

    バタバタと日本の人が倒れて行きます。
    機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。

    そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。
    このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。

    しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。
    そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。

    兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。
    只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。

    五十数名の日本人は皆倒れているのです。
    その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。

    ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。
    何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。

    保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。

    こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。
    全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

    するとどうでしょう。

    見物しておったチャイニーズ達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。
    何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

    これは一体どういうことでしょう。
    私には全然わかりません。

    只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。

    もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。
    私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

    私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

    その近水槽の近くに池がありました。
    その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。

    あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人ものチャイニーズがいるのでそれは出来ません。
    若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外のチャイニーズ達はおかしく思うに違いありません。

    国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どのチャイニーズが日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。

    そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいるチャイニーズ達からあの人はおかしいではないかと思われる。
    Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。

    それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

    そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。
    殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。

    そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。
    国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

    そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。
    ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。

    そして首を前の方に突き出させたのです。
    そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

    この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。
    これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

    この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
    この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。

    するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。
    二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。

    合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
    四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。

    そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
    四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

    池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
    全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

    私はもうたまりません。
    Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。

    そして見たくはなかったけど池を見ました。
    真っ赤な池です。
    その池に蓮の花が一輪咲いていました。

    その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。

    Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
    Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。

    しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人もチャイニーズだなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

    昼過ぎでした。

    日本の飛行機が一機飛んで来ました。
    日本軍が来たと誰かが叫びました。

    ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
    それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

    悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
    その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

    実際に日本軍が来たのは翌日でした。
    でも日本軍が来たというだけで逃げ出すチャイナ兵。

    とても戦争したら太刀打ち出来ないチャイナ兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。
    このときチャイニーズに殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。

    私は今回の事件を通してチャイニーズがいよいよ嫌いになりました。
    私はチャイニーズの嫁になっているけどチャイニーズが嫌いになりました。

    こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

    でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
    今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。

    そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。


    ********

    以上が「Sさんの体験談」の全文です。
    冒頭にも書きましたが、この文は佐賀県因通寺の住職であった調寛雅(しらべかんが)氏(2007年没)が書かれた『天皇さまが泣いてござった』からの転載です。

    2011年にブログ「徳島の保守」の皆様が、因通寺と連絡をとり、この文をネット上で公開する許可をいただきました。
    そして何回かにわたって掲載されたものを、「徳島の保守」のみなさまからご連絡をいただいて、当ブログに転載させていただきました。
    以後、毎年この時期に、再掲させていただいています。

    通州事件は、戦後、まったく消された歴史のようになっていたのですが、いまでは
    『通州の奇跡 凶弾の中を生き抜いた母と娘』皿木喜久著
    『通州事件 目撃者の証言』藤岡信勝著
    『慟哭の通州――昭和十二年夏の虐殺事件』加藤康男著
    など、さまざまな書籍が出されるようになりました。

    また「一般社団法人新しい歴史教科書をつくる会」によって、「昭和12年学会」などが構成され、通州事件を含む昭和12年の情況について、詳しく調査する活動なども行われるようになりました。

    一方、チャイナ共産党は、この通州事件を歴史から抹消するため、現在の北京市通州区自体を抜本的に作り変えて、いまでは往年の面影のまったくない超近代都市に生まれ変わっています。(冒頭の写真)
    都合の悪い歴史は消す。
    彼の国は徹底しています。

    通州事件をこうして振り返るのには理由があります。

    この通州事件の後に、第二次上海事件が起こっていますが、もしこのとき上海に日本海軍の陸戦隊の2千名がいなければ、このとき政情の不安定になっていたチャイナから日本に帰国するために上海に集まっていた日本人およそ3万人余が、通州の惨劇の二の舞になったであろうこと。
    通州で行われた惨劇は、そのままチベットに人民解放軍が攻め込んだ時の惨劇となったこと。
    いまなお、ウイグルに対して、この通州事件の惨劇が継続的に行われていること。

    そしてもし日本が、国防をこのままおろそかにするのであれば、今度は日本全土が通州事件の惨劇と同じ惨劇の対象になる可能性が濃厚にあるということです。

    最後にひとつ付け加えます。
    それは、通州でこれだけの惨劇があり、そのことが新聞で日本国内にも報道された時、横浜や神戸などにある中華街は、まったくいつもと変わらぬ日常があったことです。
    もし仮に、日本で通州事件のような事件がチャイニーズに対して起こったならば、チャイナは全土をあげて日本に対して怒りの報復をすることでしょうし、チャイナにいる日本人は、ことごとく虐殺の対象となることでしょう。
    けれど、日本では、そのようなことは起こり得ないし、だれひとり、起こそうと言う者さえもいない。
    このことは、とても重要なことだと思います。


    日本をかっこよく!
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  • 通州事件(1)概要と経緯


      ───────────────
    8月14日(日)に靖国神社でみなさまとご一緒に昇殿参拝を行います。
    事前申込は特に必要ありません。
    是非、ご一緒に英霊に感謝を捧げ、護国への決意を新たにしていきたいと思います。
    詳しい内容は↓コチラ↓
    https://nezu3344.com/blog-entry-5295.html

      ───────────────

    「日本がチャイナを侵略した」という人がいます。けれど歴史を冷静に振り返ってみれば、日本は北京議定書に基づいて、いわば現代で言うところの国連PKO部隊と同じカタチでチャイナに軍を派遣していたのです。それを一方的に襲い、戦乱へと導こう導こうとしたのは、日本ではありません。
    通州事件などの一連の事実を振り返る時、つくづく「世界は大金持ちの個人の利害得失で動く」ことを思い知らされます。
    ごく一部の人の金儲けと贅沢のために、一般の民衆が国籍を問わず、財を奪われ、虐殺される。
    民衆は人でなく、ただの家畜でしかなく、実際そのように屠殺までされる。
    だからこそいま、日本のシラスという概念が世界に必要とされてきているのです。

    通州事件の新聞報道
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!
        

    この記事は、毎年この時期にアップさせていただいる記事です。
    「通州事件(つうしゅうじけん)」は、とてもつらい話です。
    でも知っておかなければならない事実です。
    そしてこのことは、日本人のみならず、世界が知らなければならないことです。
    そこで今日明日の二回にわたり、通州事件を特集します。
    今回の記事は、通州事件の歴史認識としては、新説になります。

    ねずブロで通州事件を最初にご紹介したのは、平成21(2009)年6月のことです。
    当時この事件について知る人は、ごく限られた人たちだけであったようで、当時はありもしないねつ造を書いたとか、でっちあげだとか、差別主義者であるとか、さまざまに中傷を受けたものです。
    あげく、私の人格否定論まで飛び出す始末で、その反響のすさまじさに驚きました。

    けれど、事実は事実です。
    いまでは、かなりの人がこの通州事件の惨劇についてご存知のこととなっていますが、消された歴史を暴き、また二度と日本のみならず世界の人類史上繰り返す事があってはならない事件として、この事件は、まだまだもっと多くの人に拡散し、常識化していかなければならないことだと思います。

    通州事件が起こったのは、昭和12(1937)年7月29日です。

    この事件が起こる3日前には廊坊事件、2日前には広安門事件が起きています。
    半月前の7月7日にあったのが盧溝橋事件です。
    そしてこの事件に、チャイナ共産党が深く関与していたことは、歴史における公知の事実です。

    もともと共産主義は、世界革命を標榜しています。
    それは世界をクレムリンの支配下に置くというものです。
    そのために「コミンテルン(Communist International)」ができ、彼らはロシア皇帝を殺害し、ドイツのプロイセン皇帝を追い払い、ヨーロッパ全土を共産主義の支配下におさめようとしました。

    ところが欧州の各国は手強い。
    なぜ手強いかといえば、欧州各国は巨大な富を持っているからです。
    なぜ富を持っているかといえば、彼らはすでに地球上の8割を植民地として支配していた。

    そこで欧州各国の富の源泉となっているアジアを、まず共産党の支配下に置こうというのが、コミンテルンの戦略となりました。
    そのためにまず混迷が続くチャイナを共産主義化する。
    これは、昭和10(1935)年の第7回コミンテルン世界大会で決定したことです。

    この決定に基づき、コミンテルンは大量の工作員をチャイナに送り込みました。
    そして毛沢東率いるチャイナ共産党に巨額の経費を与え、チャイナの共産主義化の促進を図ったのです。
    このことは現代を考える上においても、とても重要です。
    民度が低ければ、カネだけでいくらでも人を自在に動かすことができるということを歴史が証明しているからです。
    個人的にカネが儲かるなら、人を殺すこともいとわない。
    そういう社会であれば、カネでいくらでも人を買収し、動かすことができるのです。

    一方、民度が低くても宗教上の戒律のある国や社会では、カネだけで人を動かすことができません。
    欧米がそうで、この場合は、巨額のカネによる買収と女の二つが用いられます。
    宗教上の戒律を下半身は容易に破ることができるからです。

    旧ソ連が、ヨーロッパや対米工作のためにとスワローと呼ばれる性的工作の集団を用いたこと、いまの中共が同様の方法で欧米の政財界の取り込みを図っていることなどが、まさにこの手法によります。
    さらに悲惨なことに、この下半身には幼児売買も含まれます。

    では昨今の日本はどうでしょうか。
    昨今の日本は、女性や幼児を使わなくても、カネだけでいくらでも買収ができるのだそうです。
    ということは、いまの日本の民度は、昭和10〜12年当時の混乱していたチャイナと同じレベルの民度しかないということになります。
    これではあまりに英霊となったご先祖たちに申し訳ないのではないでしょうか。

    また、なぜこのときチャイナが選ばれたのかも重要です。
    なぜなら、共産主義革命の基本は「対立をあおる」ことにあるからです。
    チャイナは古来、外国人が王朝を築いた国です。
    漢族が王朝を築いたのは前漢くらいなもので、それ以外は秦も隋も唐も元も明も清も全部外来の王朝です。
    外来王朝であったということは、言い換えればチャイナは植民地であったということです。

    チャイナには、もともと大きく分けて二つの種族があります。
    漢人と南人です。
    このふたつは、古くは黄河文明をもとにした漢人と、長江文明を発祥とする南人に別れます。
    この二つの根深い対立があるところに加え、疫病と飛蝗(ひこう)と呼ばれるバッタの大軍の発生によって、人口の8割を失う大量死が訪れ、生き残った漢人が北の遊牧民が暮らす地へと大量に流出することから遊牧民との対立が生まれ、困った遊牧民が中原に入って王朝を興して直接漢人や南人を統治するようになったのが、各時代の王朝です。
    この、いわばチャイナ外来王朝説とも呼べる事実も、近年ようやく広がってきましたが、ここまでくるのに10年かかりました。

    要するにチャイナは、歴史を通じて他民族によって支配され続けた国であり、しかも当時は清王朝ですが、女真族(満州族)の国家である清王朝が疲弊し、国内が混乱のルツボにありました。
    しかも人が人を殺すことを何とも思わないという国柄です。
    欧州の列強各国も、まだ完全にはチャイナを支配下においていない。
    悪魔が天使の顔をして入り込むのに、これほど好都合な国は他になかったわけです。

    この共産主義の介入に、もっとも抵抗したのが、大清帝国崩壊後、新たに統一中国を築こうとしていた辛亥革命の志士であるチャイナ国民党でした。
    なかでも蒋介石は、チャイナを自国の支配下に置こうとしているソ連以外の他の欧米諸国が、自分たちの領土に共産主義がはびこることを利用し、他の欧米諸国であるドイツ、フランス、英国、米国などから軍事資金と軍事物資の援助を得て、チャイナ国内で共産党員狩りを行っていました。
    もともと蒋介石と、共産主義の毛沢東などは、同じ学校の同門の出であり、チャイナの特定少数民族の出です。
    そして両者とも、○○主義を標榜して、自国内の敵対勢力(共産党からみた国民党、国民党から見た共産党)員をできるだけ派手に弾圧していれば、欧米諸国からお金をもらえたのです。

    もっと簡単にいえば、自国民を理由を付けて殺せば殺すほど、より多くの個人的富を得ることができたわけです。

    日本人の場合、何かに命をかけて取り組むということは、それこそ損得抜きの生き様に通じるということで、これまでこの蒋介石と毛沢東の対立も、思想的な対立と見られることが多かったのですが、どこの国のどの民族も、同じ思考で走ると思ったら大きな間違いで、チャイナでは(あるいは世界ではと言い換えたほうが良いかもしれませんが)昔から個人的な利益のために、人の命が平気で蹂躙されてきたという歴史が続けられてきました。
    もっとも近年では日本人も、個人的利益が思想に優先する人が増えてきたと言われていますが。

    さて、こうして共産党員をできるだけ派手に殺せば、欧米諸国からカネをもらえるというレールに乗った蒋介石は、国民党を率いて、とにかく共産主義者とわかれば、片端から銃殺にしていきました。
    近年、日本軍がやったとされる暴行、殺害の証拠として使われている数々の写真の多くは、もともとはこの蒋介石率いる国民党が、共産党員を捕まえて処刑したときのものです。

    ちなみに蒋介石は、たいへんな写真好きで、国民党のこうした処刑などの「活躍」を、写真集にして多数出版もしていました。
    下にある写真は、日本軍の蛮行として使われた有名な映像ですが、実際には、殺害されているのが共産党員、殺害しているのが国民党兵士です。この映像の一部だけが切り取られて、あたかも日本軍が蛮行を働いたかのように宣伝されてきたのですが、映像の全体を見れば、国民党の兵士が共産党員を射殺していることが明らかです。

    チャイナの捏造写真73


    さて、国民党による共産党の大弾圧によって、毛沢東率いるチャイナ共産党は、勢力を落とし追いつめられました。
    ついに毛沢東は、チャイナの奥地の延安にまで落ち、あと一歩で完全壊滅という情況にまで至りました。
    中国共産党史では、この逃避行を毛沢東の「東征」などと勇ましい言葉で飾っていますが、とんでもない。ただ逃げ落ちていただけです。
    ちなみに延安に逃げ落ちるのは、誰がどうみても西の内陸部向かっての西行なのですが、これを「東征」と呼ぶのは、日本の「神武東征」から言葉を得たものといわれています。
    要するに昭和初期のチャイナの知識人たちにとって、日本はまさに理想の国であったわけです。
    ただ我々日本人からしますと、神武東征というのは、東に向かって正しきを行ったということです。
    ただ西に向かって逃げ落ちただけの毛沢東と、悪いけれど一緒にされたくない。

    ところが、この、彼らの言う「東征」で、皮肉なことが二つ起こりました。
    ひとつはソ連のコミンテルンから支給されていた共産主義革命のための費用です。
    共産党が追いつめられて勢力を落とすことによって、毛沢東は逆に予算面で余裕がでてきたのです。
    当然です。共産党軍の兵士たちや、革命のための工作員たちは、共産党から給料をもらっています。
    ところが共産党員が弾圧され、その多くが殺されれば、逆に人件費予算には余裕が出るのです。

    もうひとつは、毛沢東にとって敵となる蒋介石の慢心です。
    あと一歩で共産主義を壊滅できると踏んだ蒋介石は、よもやこの時点で自分が共産主義者によって拉致監禁されるなどと思ってもみませんでした。
    そこで共産党の最期を見届けるために延安の近くの西安にまでやってきた蒋介石は、共産党に拿捕されてしまうのです。

    そもそも蒋介石と、毛沢東や周恩来は、かつて孫文が大正13(1924)年に設立した黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)の蒋介石が初代校長、そのときの学校の政治部副主任が周恩来、生徒の受験面接官が毛沢東という、いわば上司と部下の関係です。
    互いに顔見知りだし、出身も同じチャイナの少数民族です。

    両者は西安において、互いに手を握りました。
    共産党が壊滅すれば、欧米列強諸国は、問題が解決されたとして、もはや蒋介石が用済みなのです。
    つまり、以後はお金が出なくなる。
    そうであれば、次のターゲットが必要になります。
    そして次のターゲットとして彼らが選んだのが、日本だったのです。

    西安事件の15年前に、世界的にスペイン風邪が大流行しました。
    それまでは、1901年の北京議定書に基づいて日本を含む欧米11カ国が治安維持のためにチャイナに軍を駐屯させていたのですが、1918〜1920年のスペイン風邪のパンデミックの際に、欧米各国は衛生状態の悪いチャイナから軍を撤収させています。
    「あとは日本さん、よろしくタノム」というわけで、このためチャイナ国内の治安は、もっぱら日本が矢面に立たされるハメになってしまっていました。

    いまにして思えば、日本もこのときにサッサと軍を撤収していればよかったのです。
    何も他所の国の治安にまで日本が責任を持つ必要はない。
    けれども日本人は真面目なのですよね。
    何の野心もなく、ただ平和維持活動のために残された軍として、真面目にお勤めを果たしていたのです。

    けれども世界は腹黒い。
    このスペイン風邪のさなかに行われた第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議(1919年)において、日本は、よせばいいのに、世界に向けて「人種の平等」を高らかに宣言したのです。
    もちろん日本の主張は正しいことです。
    けれども、よせばいいのにというのは、当時の欧米諸国の経済的利益の源泉が、まさにその人種の不平等による植民地支配に基づいていたからです。
    ここもまた誤解している人が多いので補足しますが、500年続いた植民地支配というのは、有色人種を同じ人間とみなさないことによって行われていたものです。
    欧米では、神様と契約しているのが人間です。
    だから人間は、人間以外の動物を食べることができます。
    つまり神様と契約のない有色人種は、人間ではない、ただの動物であったわけです。

    それが500年続く世界の常識であった時代に、日本が人種の平等を言い出すということは、その人種差別によって経済的利益を受けているすべての欧米の大金持ちを敵に回すということです。
    つまり、1920年の段階では、日本は完全に欧米列強諸国にとっての敵国、もっというなら、彼らの経済的利益を脅かす最大のサタンとなっていたわけです。

    そうした世界の趨勢にあって、蒋介石と毛沢東が争いを続けていたとしても、毛沢東が敗れたあと、蒋介石の利益の保証などなにもなく、また、毛沢東が死んでしまってチャイナ共産党が滅びれば、チャイナにお金を渡す国もなくなってしまう。
    それよりも、普通に誰がどう考えても、蒋介石と毛沢東が手を結び、欧米列強のために日本の軍事力を削ぎ落とすために一役買う方が、はるかに得策になるのです。

    こうして毛沢東と蒋介石が手を結びました。
    これが昭和11(1936)年12月の西安事件(せいあんじけん)です。

    もっとも最初から、これだけの話がうまく成立したわけではありません。
    この頃「西安」には、地方軍閥である楊虎城(ようこじょう)がいたのですが、この男は、蒋介石も毛沢東もどちらも嫌いで、あくまで自分たちは西安で独自の軍閥でいようと粘っていました。
    この時点で「延安」に立て篭る八路軍(チャイナ共産党軍)は、この時点の兵力がわずか7万です。
    国民党は兵力210万。その中の20個師団と100機を越える航空機を投入すれば、あっという間に延安を殲滅できる。
    紹介席には、さあ最後の大戦(おおいくさ)だという状況でした。

    ところが、そのための軍の進出地となる「西安」の楊虎城が、協力を拒みました。「ヤダ」というのです。
    しかも楊虎城は、共産軍と相互不可侵協定まで結んでしまいます。
    せっかく延安にまで共産党を追いつめたのに、最後の最後で、拠点の確保ができない。
    そこで蒋介石は、わずかな供回りだけを連れて、12月4日に「西安」の楊虎城に会いに行ったのです。

    蒋介石がわずかな供回りだけを連れてやってくることを奇貨としたのが張学良(ちょうがくりょう)です。
    張学良は蒋介石を襲撃し、12月12日に銃撃戦をして蒋介石を拉致してしまうのです。

    そして蒋介石の妻である宋美齢と、その宋美齢が尊敬し敬愛してていた実兄の宋子文も同様に拉致されて会談が行われました。
    そして次の8項目が合意され、蒋介石は表向きは従来通り共産主義との対立路線でいながら、水面下で毛沢東の共産党と手を握ることになりました。

    【西安事件による八項目合意事項】
    1 南京政府の改組、諸党派共同の救国
    2 内戦の停止
    3 抗日七君子の釈放
    4 政治犯の釈放
    5 民衆愛国運動の解禁
    6 人民の政治的自由の保証
    7 孫文遺嘱の遵守
    8 救国会議の即時開催

    これらの項目は、あくまでも表面上のものです。
    チャイナでは、古来、本音は裏にある。
    読み解くキーワードは、資金源です。
    上の1〜8のどの項目も、お金がかかるだけで、入ってくる策がありません。
    そしてお金が出ていくだけの合意というのは、チャイナではありえないのです。

    つまり、国民党と共産党が共同して日本を叩く。
    それによって、そのための資金を欧米諸国から得る、ということが、裏側にあったわけです。

    こうしてその半年後にあたる昭和12年7月7日に起きたのが「盧溝橋事件」です。
    この事件は、北京近くの盧溝橋のあたりで実弾も持たずに演習中だった日本軍めがけて実弾が発射され、これに合わせて近くにいた国民党軍にも実弾が撃ち込まれたという事件で、普通なら、これで両軍が大衝突を起こしたところです。

    実際、チャイナ共産党は、これで日本軍と国民党軍が大衝突を起こし一気に戦乱の火ぶたが気って落されると信じ込んで、この翌日には早々に、「日本と衝突が起きた。全軍は愛国心を結集して断固日本軍に立ち向かうべし」という「俗称78通電」を公式に発しています。

    ところがこの電文の内容を見ると、最初の発砲ですぐに両軍が衝突したと書かれています。
    実際には、発砲を受けても、日本は戦乱を回避するために、一切の反撃をしないで、じっと我慢をしていました。
    ということは、何を意味しているのかというと、この78電文は、事前に準備してあった計画電文だったということです。

    しかも日本は、盧溝橋にいた国民党軍と交渉を重ね、7月11日には現地の国民党軍司令官の宋哲元との間で現地停戦協定を結んでいます。
    この現地停戦協定は、「松井・秦徳純停戦協定」と呼ばれるもので、その内容は、
    1 国民党軍が日本軍に遺憾の意を表して責任者を処分すること
    2 将来このような事件が再発しなようにすることを声明すること。
    3 国民党軍が盧溝橋城郭付近から撤収すること
    4 抗日団体を取締ること
    等々、その内容は、全面的に国民党側が非を認め、現地から撤収するという内容です。
    要するにチャイナ共産党の意に反して、7月11日には、現地で事件がまるく解決してしまったのです。

    蒋介石にしても、毛沢東や周恩来にしても「まったく宋哲元は何を考えているのか!」と、忸怩(じくじ)たる思いであったことでしょう。
    そこで、なんとかして日本とチャイナ共産党を激突させるためにと仕掛けたのが、7月25日の「廊坊事件」であり、26日の「広安門事件」であったわけです。

    盧溝橋事件にせよ、廊坊事件にせよ、広安門事件にせよ、いわば騙し討ちで10倍する兵員で日本に対して戦闘をしかけてきた事件です。
    これだけで、日本はチャイナと開戦するに足る十分な理由となる事件です。

    実際、第一次世界対戦にしても、第二次世界大戦にしても、ほんのわずかな衝突が、世界を巻き来んだ大規模簿な戦争に発展しています。
    日本には、この時点でチャイナに対して大規模な軍事的攻撃を仕掛け、徹底してチャイナを撲滅するだけの十分過ぎるくらい十分な理由となる事件だったのです。

    ところが日本はまじめです。
    自分たちは平和維持のために派遣された軍隊だという自覚があります。
    ですから、日本軍の側に被害が生じても、それでも戦闘を避けようとします。
    日本は、明らかに開戦理由となる事件が起こっても、チャイナの兵士たちを蹴散らしただけで、それ以上の追撃戦、掃討戦をしなかったのです。

    これでは、「日本と国民党軍の衝突」など、到底起こりません。
    挑発をして日本が誘いに乗って軍事行動を起こしてくれれば、チャイナは「日本に侵略された」といって、欧米に資金援助を申し出る理由ができるのです。

    けれども日本軍をいくら刺激しても、戦争にならない。
    それなら、ということで、民間人を虐殺しようということで起きたのが、同年29日の「通州事件」であったのです。

    この日の午前2時、突如、Chineseたちが北京郊外50キロの地点にある通州にいた日本人居留民385名を襲撃しました。
    そして223名の日本人居留民が、きわめて残虐な方法で虐殺されました。
    女性はほとんど強姦されて殺害されました。

    =======
    旅館の近水楼では入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた。
    帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。
    女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。
    カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。
    南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた
    (第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言 中村粲 『大東亜戦争への道』展転社)

     *

    私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。
    20名はほんの子供のような少女だった。
    家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。
    空中にぶらぶらされる拷問である。

    共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
    日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供たちの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

    それは1937年7月29日の明け方から始まった。
    そして1日中続いた。
    日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。
    家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。
    それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。

    酷いことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、殆どの場合、男女の区別も付かなかった。
    多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。
    水は彼らの血で赤く染まっていた。
    何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。
    中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

    これは通州のことである。
    古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されるだろう。
    この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。
    しかし120人は逃げおおせた。
    犯され殺された者の多くは子供であった。

    この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。
    中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。
    目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。
    アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった。

    (中略)

    こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む6万人の中国人は平和に生活していた。
    彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。
    私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。
    他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。」
    (フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕 -日中戦争の真実-』)

    =======

    では、この通州事件のあと、日本はいったいどうしたのでしょうか。
    世界中の誰がどうみても、世界史に類例のない残虐非道な事件です。
    それこそ北朝鮮ではないけれど、日本は「容赦ない無慈悲かつ徹底した鉄槌を」くだしても、なんら咎められる筋合いはありません。

    ところが日本がとった行動は「それでも開戦を避ける」でした。
    この事件のあとの会議では、日頃意見が衝突しがちな陸軍、海軍それぞれの首脳も、当時の内閣も、全会一致で、それでも戦争を避けようという意見で一致しています。

    なぜでしょう。
    理由は簡単です。
    当時の日本の陸軍兵力は最大で25万です。
    これに対して、チャイナ国民党は210万です。
    さらに南下を狙うソ連は160万の大軍を東亜攻略に準備しています。
    日本が自立自尊を護り抜くには、チャイナとはむしろ仲良くし、本当の脅威であるソ連に備える必要があったのです。

    加えて、日本がなぜチャイナに軍を進出させていたかといえば、それはチャイナに平和をもたらすためです。
    その平和をもたらす使命をもって派遣している日本の兵が、チャイナで報復のための戦いをする、チャイナを戦乱のルツボに叩き込むというのでは、本末転倒です。

    日本は、日本政府の意思として、8月4日に、Chineseたちにたいへん信頼が厚い元外交官で実業家の船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて蒋介石に、きわめて寛大な和平を働きかけました。
    なぜ寛大かというと、通州事件という未曾有の厄災を受けていながら、日本はその加害者であるチャイナに対して、
    「あながたのこれまでの
     日本に対する要望を
     すべて受け入れるから
     争いはやめよう」
    と働きかけたのです。

    これが「船津工作」です。
    骨子は次の通りです。

    (1) 塘沽(たんくう)停戦協定、梅津・何応欽(かおうきん)協定、土肥原・秦徳純協定など、日本に有利な北チャイナに対する軍事協定をすべて解消する。
    (2) 非武装地帯を作る。
    (3) 冀東・冀東政権を解消し、南京政府の下に置く。
    (4) 日本駐屯軍の兵隊は以前と同じ状況に戻す。

    この4項目が何を意味するかというと、その時点でチャイナ国民党が日本に対して希望していたすべての条件を丸呑みする、というものです。
    通州事件のみならず、盧溝橋、廊坊、広安門の各事件の賠償さえ要求していません。
    223名の邦人が大虐殺されるという被害に遭いながら、いっさいの賠償請求もせず、日本は、逆にチャイナの希望要求を、全部飲むという条件を提示したのです。

    全部飲むのです。
    そうなれば、もはや、チャイナが日本を敵視し攻撃する理由など、何もなくなります。
    そうなれば、当然に、チャイナと日本との軍事的衝突も回避され、亡くなられた方々にはお辛いかもしれないけれど、結果としてその命が、両国の平和、それ以上に、チャイナの未来永劫の平和な社会建設のために役立つなら、それがいちばん良い解決の道だ、日本はそう判断したのです。

    そしてこの船津工作は、8月9日は、上海市内で、日本と国民党双方の代表団が集い、相互に調印を図る段取りとなりました。

    ところが、その当日に、上海で大山中尉虐殺事件が起こります。
    海軍の上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉(死後大尉に昇進)が、斉藤要蔵一等水兵の運転する車で移動中に、チャイナ国民党の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて死亡したのです。

    自動車のわきにあった大山中尉の遺体は、多数の機関銃弾を受けていただけでなく、ご丁寧に頭を青竜刀で割られていました。
    斉藤一等水兵は運転台で多数の銃弾を受けて死んでいます。

    この事件の発生によって、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破算になりました。
    そしてこの1週間後に起きたのが、第二次上海事変です。

    蒋介石が、この通州事件の成功によって欧米から得た利益です。
    英国は1939年に1000万ポンド(現2500億円)、1940年に1000万ポンドを蒋介石に貸与しました。
    フランスは1938年に1億5000万フランを貸与、1939年に9600万フランを蒋介石に無償援助しました。
    ソ連は1937年に航空機900、戦車200,トラック1500,銃15万、砲弾12万発、銃弾6000万発を蒋介石に提供し、1939年には1億5000万ドルを援助(現6400億円)し、さらにソ連空軍が密かに参戦しています。おそらく毛沢東にもそれ以外にかなりの額の援助をしていたことでしょう。
    米国は1927〜41年に4億2000万ドルを無償援助、1940年に50機の新鋭戦闘機、装備、武器、弾丸150万発を援助、1941年に100機の戦闘機を援助、259名の米空軍パイロットを義勇兵の名目で中国空軍に参戦(フライング・タイガース)させ、さらにトラック300台と5000万ドル分の軍事物資を供与して、米軍事顧問団を派遣、また、500機のB-17爆撃機を援助しています。

    要するに、チャイナ全土から兵を徴集して銃を持たせ、日本と戦っているフリさえしていれば、これだけ多額の、兆の桁の資金を、蒋介石は得ることができたのです。
    もちろん毛沢東も同様であったことでしょう。

    「日本がチャイナを侵略した」という人がいます。
    けれど歴史を冷静に振り返ってみれば、日本は北京議定書に基づいて、いわば現代で言うところの国連PKO部隊と同じカタチでチャイナに軍を派遣していたのです。
    それを一方的に襲い、戦乱へと導こう導こうとしたのは、日本ではありません。

    通州事件などの一連の事実を振り返る時、つくづく「世界は大金持ちの個人の利害得失で動く」ことを思い知らされます。
    ごく一部の人の金儲けと贅沢のために、一般の民衆が国籍を問わず、財を奪われ、虐殺される。
    民衆は人でなく、ただの家畜でしかなく、実際そのように屠殺までされる。
    だからこそいま、日本のシラスという概念が世界に必要とされてきているのです。


    ※この記事は2014年7月の記事にかなりの手を加えて書き直したものです。
    これまで通州事件は、チャイナの共産党が裏で糸をひいたといわれてきましたが、この投稿では、すべてはカネ目当てであったのだという説を取っています。
    いろいろな本を読み、いまは、この「カネ目当て説」がもっとも真実の歴史に近いと思っています。



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  • 二万のユダヤ人と北海道を救った樋口季一郎陸軍中将


      ───────────────
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    事前申込は特に必要ありません。
    是非、ご一緒に英霊に感謝を捧げ、護国への決意を新たにしていきたいと思います。
    詳しい内容は↓コチラ↓
    https://nezu3344.com/blog-entry-5295.html

      ───────────────

    北海道は守られました。当時のソ連は、北海道の半分を占領したあと、東京をドイツのベルリンのように、東西東京に分割統治する予定であったともいわれています。北海道が守られたのも、東京が分断されなかったのも、そして朝鮮半島のように日本が東西日本に分割されなかったのも、樋口季一郎陸軍中将のこのときの英断と、占守島(しゅむしゅとう)を死守した日本陸軍の将兵の強い意志と戦いがあったからです。

    20191121 晩年の樋口季一郎



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    小名木善行です。

    !!最新刊!!
        

     樋口季一郎陸軍中将は、オトポール事件で二万人のユダヤ人の命を救い、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊の奇跡の撤退を成功させ、千島列島の占守島の戦いを指揮して北海道の五百万の人口を守った昭和の名将です。

    ▼樋口季一郎中将

     樋口季一郎(ひぐちきいちろう)は明治二十一年《一八八八年》年兵庫県三原郡本庄村上本庄の廻船問屋(かいせんどんや)で、大地主の奥濱久八(おくはまきゅうはち)の長男として生まれました。ところが廻船問屋は明治になって蒸気船に押されて衰退(すいたい)。家業が衰退に向かった結果、十一歳のときに両親が離婚。母・まつの実家に引き取られてすごしました。
     樋口季一郎は優秀な子でした。三原高等小学校、私立尋常中学鳳鳴義塾を経て、十八歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子になり、大正七年《一九一八年》には陸軍大学を卒業しています。卒業後、ウラジオストックとハバロフスクに勤務した後、駐在武官としてポーランドに赴任しました。

     ウラジオストックとハバロフスク時代は、多くのロシア人と親交を結ぶと同時に、ロシア文学も熱心に学びました。このときにトルストイのアンナ・カレーニナの全訳にも取り組んでいます。またこの時期、ロシア人の先生に師事してピアノもマスターしました。大正十四年《一九二五年》に赴任したポーランドのワルシャワでは、夫人とともに社交ダンスを習得し、ヨーロッパ社交界デビューを果たしてもいます。

     昭和十二年《一九三七年》八月、樋口季一郎は関東軍に特務機関長として赴任しました。ここで同年十二月に、ハルビンで内科医をしていたハルビンユダヤ人協会の会長のアブラハム・カウフマン博士《一八八五〜一九七一》の訪問を受けました。カウフマン博士は、
    「ナチス・ドイツの暴挙を世界に訴えるため、ハルピンで極東ユダヤ人大会の開催をしたいから許可してほしい」と申し出ました。ドイツが猛然と力を発揮していた時代です。けれど樋口季一郎は、これを即決で許可しています。

     十二月二十六日、第一回極東ユダヤ人大会が開催されました。ゲストとして招待された樋口季一郎は、次の演説を行いました。
    「諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何(いづ)れの場所においても『祖国なる土(つち)』を持たぬ。如何(いか)に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。ユダヤ人がその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比(ひ)し、劣(おと)ることなき才能と天分(てんぶん)を持っていることは歴史がそれを立証している。
     然(しか)るに文明の花、文化の香り高かるべき二十世紀の今日(こんにち)、世界の一隅(いちぐう)おいて、キシネフのポグロム《注》が行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心(ちゅうしん)悲しむものである。
     ある一国は、好ましからざる分子として、法律上同胞(どうほう)であるべき人々を追放するという。それを何処(いずこ)へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示(めいじ)し、あらかじめそれを準備すべきてある。当然の処置を講ぜずしての追放は、刃(やいば)を加えざる虐殺(ぎゃくさつ)に等(ひと)しい。私は個人として、心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ」
    会場は、万雷の拍手に包まれました。

    《注》キシナウのポグロムとは一九〇三年、帝政ロシア領であったユダヤ人虐殺事件。キシナウはモルドバ共和国の首都。

    ▼オトポール事件
     それから三カ月も経たないうちに起きたのが「オトポール事件」です。
     昭和十三年《一九三八年》三月、ソ連と満州国の国境付近の、気温がマイナス二〇度にもなる極寒のオトポール駅に、ユダヤ難民が満州国に入れず足止めされていました。彼らは着の身着のままでドイツや周辺諸国を逃げ出した人々でした。旅費も食事も防寒服も満足になく凍死寸前の状況にありました。
     満州国外交部は、ドイツに遠慮して彼等の入国を拒否しました。これを救ったのが当時ハルビンで関東軍特務機関長だった樋口季一郎でした。

     オトポール事件については、樋口季一郎の回想録に詳しく書かれています。
    「満州国(まんしゅうこく)は門戸(もんこ)を閉じた。ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯(たむ)ろしている。もし満州国が入国を拒否する場合、彼ら《ユダヤ難民》の進退は極(きわ)めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも、彼らの通過を許している。しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業(ばんみんあんきょらくごう)』を呼号(こごう)する満州国の態度は不可思議千万である。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか」

     この当時、日本は日独防共協定を結んでいましたが、ドイツはこれを拡大解釈して、ユダヤ人も防共の対象にしていました。つまり日本がユダヤ人を保護すれば、ドイツはこれを外交上の問題とすることは明らかな状況でした。樋口季一郎はこれを「政治上の問題」ではなく「人道上の問題」とすることで、ユダヤ人を保護しました。

     南満州鉄道の総裁だった松岡洋右(まつおかようすけ)は、樋口に相談されて直ちに救援列車の出動を命じました。オトポールに近い南満州鉄道の満州里駅は、ハルピンから九百キロ後方にありました。このため列車の本数が少なく臨時列車の派遣が必要であったためです。

     三月十二日、ハルピン駅に最初の列車が到着しました。ハルピン在住のユダヤ人たちがこれを出迎えました。
    彼らは同胞の救出をことのほか喜びました。この特別臨時列車はその後、合わせて十三本運行されました。救われたユダヤ難民は約二万人と伝えられています。救われたユダヤ難民たちは上海に、あるいはアメリカへと旅立って行きました。

     樋口季一郎のこうした対応は、当然ながら外交問題に発展しました。樋口季一郎は一市民ではありません。関東軍の将軍です。ドイツのリッべントロップ外相は、オットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送りました。
    「今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携が日に濃厚を加えつつあることは欣快(きんかい)とするところである。然(しか)るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将(当時)が、ドイツの国策を批判し誹謗(ひぼう)しつつありと。もし然(しか)りとすれば、日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。請(こ)う。速(すみ)やかに善処(ぜんしょ)ありたし」

     これに対して樋口季一郎は次の手紙を書き、関東軍司令官だった植田謙吉に郵送しています。
    「私の行為は決して間違っていない。法治国家として当然のことをしたまでである。満州国は日本の属国ではない。ましてドイツの属国でもない。たとえユダヤ民族抹殺がドイツの国策であったとしても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。」

     関東軍司令部に出頭を命じられた樋口季一郎は、参謀総長だった東条英機に会いました。
    「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることが正しいと思われますか?」
    そう聞く樋口季一郎に、東条英機は樋口季一郎の意見を全面的に受け入れる決断をしました。

     オトポール事件は、日本国内の新聞では記事になっていません。樋口季一郎の家族でさえ、その死後に事態を知っています。このときの樋口季一郎の行為を、アブラハム・カウフマンの息子のテオドル・カウフマンは著作の中で次のように述べています。
    「樋口は世界で最も公正な人物の一人である。
     そしてユダヤ人にとっての真の友人である。」

    ▼キスカ島撤退
     昭和十八年《一九四三年》、北方軍司令官として札幌にいた樋口季一郎は、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊を帰還(きかん)させるべく大本営(だいほんえい)に談判(だんぱん)し、奇跡(きせき)の撤退(てったい)を成功させました。

     キスカ島は北太平洋にあるアリューシャン列島にある島です。島には日本側の守備隊六千名が残留していました。二ヶ月前には、キスカ島よりも手前にあるアッツ島で、島の守備隊二、六五〇名が玉砕(ぎょくさい)したばかりでした。
     樋口季一郎は木村昌福(きむらまさとみ)海軍中将にはかり、キスカ島守備隊の撤退作戦を行いました。これを「ケ号作戦」といいます。ちなみに、「ケ」というのは、日本軍が撤退作戦を行うときに必ず用いた作戦名で、「ケ」は「乾坤一擲(けんこんいってき)」という意味です。

     キスカ撤退作戦は、最初、潜水艦で行われました。この時点で日本海軍は、ソロモン方面の作戦で多数の駆逐艦を失っていたため、これ以上の艦の損耗(そんもう)を避(さ)けたかったのです。
     昭和十八年《一九四三年》六月、十五隻の潜水艦で2回の輸送作戦が行われ、傷病兵等約八百名が後送されました。また守備隊には、弾薬百二十五トン、糧食百トンを輸送することに成功しました。しかし潜水艦が米軍の哨戒網(しょうかいもう)に発見され、一回目の潜水艦輸送作戦で、「伊二四潜水艦」を、二回目の輸送作戦では、「伊七潜水艦」、「伊九潜水艦」を失なっています。

     成果の割に、損害が多いのです。あまりに効率が悪い。このままでは、全軍の撤退は不可能です。樋口季一郎は、海上に深い霧がかかる7月中に、艦船で撤退作戦を実行するよう、木村海軍中将にはかりました。八月になると霧がなくなり、撤退作戦は不可能になるからです。

     キスカ島のすぐ東側のアムチトカ島には、米軍の航空基地があります。制空権を奪われた中での水上艦艇による撤退作戦は、万一空襲を受ければ、全滅の危機がありました。ただ、この当時はまだ目視飛行の時代です。濃霧が発生していれば空襲の危険を避けることができる可能性が増えます。そしてこの頃にはまだ、濃霧の中で空襲をかけることができる航空機は、世界中どこにもなかった時代でした。樋口季一郎は、そこに一縷(いちる)の望みを賭けたのです。こうして二度にわたる潜水艦作戦は打ち切られ、キスカは水上艦艇による第二次撤退作戦となりました。

     七月十日、アムチトカ島五百海里圏外に集結した撤収部隊は、一路キスカ島へ向かいました。Xデーは十二日と決めてありました。
     全艦、深い霧の中を、静かにキスカに向けて進みました。ところが艦隊がキスカ近海に近づくと、霧が晴れてしまいました。全艦、いったん突入を断念する。近海の濃霧に隠れて、決行予定日を十三日に変更しました。

     しかし十三日、十四日、十五日と霧が晴れ、突入は断念せざるを得なくなりました。やむなく木村海軍少将は、十五日午前八時二〇分、一旦突入を諦(あきら)めて帰投(きとう)命令を発しています。燃料が底を尽きはじめてしまったからです。
    「帰れば、また来られるからな」
    それが、このときの木村中将の言葉でした。こうして撤収部隊は、十八日に一旦幌筵(ほろむしろ)の基地に帰投しました。

     手ぶらで根拠地に帰ってきた木村海軍少将に対し、直属の上官である第五艦隊司令部のみならず、連合艦隊司令部、さらには大本営からも、「何故、突入しなかったか!」、「今すぐ作戦を再開しキスカ湾へ突入せよ!」と、帰投した木村海軍少将に轟々(ごうごう)たる非難が浴びせられました。「腰ぬけ!」とまで罵(ののし)られました。更迭(こうてつ)の話も出ました。しかし樋口季一郎は、
    「この作戦は、木村でなければならぬ」と、これを一蹴(いっしゅう)しています。

     あと半月で八月になります。八月にはもう霧が出ません。霧が晴れれば、米軍のキスカ攻撃が始まります。そうなれば、キスカの撤収作戦はありえず、キスカ島守備隊は全滅を免(まぬが)れません。一方で、この地域に備蓄していた海軍の重油も底を尽き始めていました。作戦はあと一度きりしか行えない。

     帰投して四日目の七月二十二日、幌筵島(ほろむしろとう)の気象台から、「七月二十五日以降、キスカ島周辺に濃霧発生」との予報がはいりました。最後のチャンスがやってきたのです。木村海軍少将は予報を聞くと同時に、全艦隊に出撃命令を発しました。
     ところが期待の霧が、あまりに濃い。出航が各艦まちまちになったうえ、洋上で三日後の七月二十五日には、「国後(くなしり)」を除く艦隊がいったん集結できたのですが、翌二十六日には濃霧の中を航行中に、行方不明だった「国後」が突如(とつじょ)出現して、「阿武隈(あぶくま)」の左舷(さげん)中部に衝突(しょうとつ)してしまいます。この混乱で「初霜(はつしも)」の艦首が「若葉」右舷に衝突。弾(はず)みで艦尾が「長波(ながなみ)」左舷に接触してしまう。損傷が酷(ひど)かった「若葉」は、艦隊を離脱して単独で帰投することになってしまいます。

     残った船で、キスカ近郊で待機した七月二十八日、艦隊の気象班が、「翌二十九日、キスカ島周辺、濃霧の可能性大」と予報しました。
    「全艦突入せよ」
    木村海軍少将が命じました。

     艦隊は、敵艦隊との遭遇を避けるために、島の西側を迂回して、島影に沿ってゆっくり進みました。七月二十九日正午、艦隊はキスカ湾に到達しました。濃霧です。湾内では、座礁や衝突の危険もありました。ところがこのとき、神風が起きました。一陣の風が吹いて、湾内の濃霧をきれいに吹き飛ばしてくれたのです。
     十三時四十分、晴空のもとで艦隊は投錨し、待ち構えていたキスカ島守備隊員五千二百名の収容にとりかかりました。持っている小銃は、全部投棄させました。身軽にして輸送行動を速めるためです。そしてなんと、わずか五十五分という驚異のスピードで、全員を艦内に収容し、収容に使ったはしけは、回収せずに自沈させて、直ちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱しました。

     艦隊が湾を離れた直後、キスカ湾は、ふたたび深い霧に包みこまれました。それは、まさに神が降ってきたとしかいいようがない収容作戦でした。こうして七月三十一日、無事、全艦、幌筵に帰投しています。


    ▼占守島(しゅむしゅとう)の戦い
     昭和二十年《一九四五年》八月十八日。陛下の玉音放送(ぎょくおんほうそう)の三日後のことです。北海道占領を目的として、ソ連軍が突然千島列島の占守島(しゅむしゅとう)を攻撃してきました。その兵力、およそ八千。同時にスターリンは、千島列島と北海道をソ連領とすることをアメリカに要求しました。

     司令官であった樋口季一郎は、進めていた軍の武装解除を一旦停止し、戦車部隊を中心に断固たる防衛を命じました。これを受けて士魂(しこん)戦車隊の池田末男(いけだすえお)隊長は、濃霧の中隊員に訓示しました。
    「諸士、ついに立つときが来た。
     諸士はこの危機に当たり、決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
     もしくは赤穂浪士の如く、この場は隠忍自重し、後日に再起を期するか。
     白虎隊たらんとする者は手を挙(あ)げよ」

     八月二十二日まで続いた戦いの結果、ソ連は三千人もの死傷者を出して敗退しました。一日占守島を占領する計画も水疱(すいほう)に帰しました。大損害を受けたソ連は樋口を戦犯に指名し、連合軍総司令部に引渡しを要求しました。しかしこれを聞いた「世界ユダヤ人協会」が、米国防総省に働きかけました。米国はソ連への引渡しを断固拒否しました。

     こうして北海道は守られました。当時のソ連は、北海道の半分を占領したあと、東京をドイツのベルリンのように、東西東京に分割統治する予定であったともいわれています。北海道が守られたのも、東京が分断されなかったのも、そして朝鮮半島のように日本が東西日本に分割されなかったのも、樋口季一郎陸軍中将のこのときの英断と、占守島を死守した日本陸軍の将兵の強い意志と戦いがあったからです。

     「悪とは人の名誉を奪うことである」と言ったのは、ニーチェです。そのとおりと思います。
    昭和の軍人を悪く言う人がいます。
    けれど彼らは、明治の軍人にも決して引けを取らない、それどころか明治の軍人よりもはるかに過酷な戦いをして、散っていきました。
    また生き残った人も、将校も兵卒も、誰もが、真剣に真面目に、そして何より正義のために、後世に生きる私たちのために、本当に苦しい戦いをやり抜いてくださいました。

     同じ日本人として、いまや英霊となった彼らに、何の感謝もわかないどころか、悪しざまに罵るというのは、それこそ人として大いに疑問です。

     いま『昭和の軍人たち』という本を執筆中です。
     年内に刊行できると思います。
    ひとついえることは、彼らの栄誉を語り継ぐのは、私たち日本人しかいないということです。
    外国人はやってくれません。
    私たちが英霊に感謝の気持ちを持たないで、いったいどこの国の人が、彼らの御霊を靖んじてくれるというのでしょうか。

     その意味で、社会のための政治や行政を行う公人こそ、靖国参拝をすべきです。


    ※この記事は2021年7月の記事に加筆を施したものです。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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