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8月14日(日)に靖国神社でみなさまとご一緒に昇殿参拝を行います。
事前申込は特に必要ありません。
是非、ご一緒に英霊に感謝を捧げ、護国への決意を新たにしていきたいと思います。
詳しい内容は↓コチラ↓
https://nezu3344.com/blog-entry-5295.html ───────────────
北海道は守られました。当時のソ連は、北海道の半分を占領したあと、東京をドイツのベルリンのように、東西東京に分割統治する予定であったともいわれています。北海道が守られたのも、東京が分断されなかったのも、そして朝鮮半島のように日本が東西日本に分割されなかったのも、樋口季一郎陸軍中将のこのときの英断と、占守島(しゅむしゅとう)を死守した日本陸軍の将兵の強い意志と戦いがあったからです。
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 樋口季一郎陸軍中将は、オトポール事件で二万人のユダヤ人の命を救い、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊の奇跡の撤退を成功させ、千島列島の占守島の戦いを指揮して北海道の五百万の人口を守った昭和の名将です。
▼樋口季一郎中将
樋口季一郎(ひぐちきいちろう)は明治二十一年《一八八八年》年兵庫県三原郡本庄村上本庄の廻船問屋(かいせんどんや)で、大地主の奥濱久八(おくはまきゅうはち)の長男として生まれました。ところが廻船問屋は明治になって蒸気船に押されて衰退(すいたい)。家業が衰退に向かった結果、十一歳のときに両親が離婚。母・まつの実家に引き取られてすごしました。
樋口季一郎は優秀な子でした。三原高等小学校、私立尋常中学鳳鳴義塾を経て、十八歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子になり、大正七年《一九一八年》には陸軍大学を卒業しています。卒業後、ウラジオストックとハバロフスクに勤務した後、駐在武官としてポーランドに赴任しました。
ウラジオストックとハバロフスク時代は、多くのロシア人と親交を結ぶと同時に、ロシア文学も熱心に学びました。このときにトルストイのアンナ・カレーニナの全訳にも取り組んでいます。またこの時期、ロシア人の先生に師事してピアノもマスターしました。大正十四年《一九二五年》に赴任したポーランドのワルシャワでは、夫人とともに社交ダンスを習得し、ヨーロッパ社交界デビューを果たしてもいます。
昭和十二年《一九三七年》八月、樋口季一郎は関東軍に特務機関長として赴任しました。ここで同年十二月に、ハルビンで内科医をしていたハルビンユダヤ人協会の会長のアブラハム・カウフマン博士《一八八五〜一九七一》の訪問を受けました。カウフマン博士は、
「ナチス・ドイツの暴挙を世界に訴えるため、ハルピンで極東ユダヤ人大会の開催をしたいから許可してほしい」と申し出ました。ドイツが猛然と力を発揮していた時代です。けれど樋口季一郎は、これを即決で許可しています。
十二月二十六日、第一回極東ユダヤ人大会が開催されました。ゲストとして招待された樋口季一郎は、次の演説を行いました。
「諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何(いづ)れの場所においても『祖国なる土(つち)』を持たぬ。如何(いか)に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。ユダヤ人がその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比(ひ)し、劣(おと)ることなき才能と天分(てんぶん)を持っていることは歴史がそれを立証している。
然(しか)るに文明の花、文化の香り高かるべき二十世紀の今日(こんにち)、世界の一隅(いちぐう)おいて、キシネフのポグロム《注》が行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心(ちゅうしん)悲しむものである。
ある一国は、好ましからざる分子として、法律上同胞(どうほう)であるべき人々を追放するという。それを何処(いずこ)へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示(めいじ)し、あらかじめそれを準備すべきてある。当然の処置を講ぜずしての追放は、刃(やいば)を加えざる虐殺(ぎゃくさつ)に等(ひと)しい。私は個人として、心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ」
会場は、万雷の拍手に包まれました。
《注》キシナウのポグロムとは一九〇三年、帝政ロシア領であったユダヤ人虐殺事件。キシナウはモルドバ共和国の首都。
▼オトポール事件
それから三カ月も経たないうちに起きたのが「オトポール事件」です。
昭和十三年《一九三八年》三月、ソ連と満州国の国境付近の、気温がマイナス二〇度にもなる極寒のオトポール駅に、ユダヤ難民が満州国に入れず足止めされていました。彼らは着の身着のままでドイツや周辺諸国を逃げ出した人々でした。旅費も食事も防寒服も満足になく凍死寸前の状況にありました。
満州国外交部は、ドイツに遠慮して彼等の入国を拒否しました。これを救ったのが当時ハルビンで関東軍特務機関長だった樋口季一郎でした。
オトポール事件については、樋口季一郎の回想録に詳しく書かれています。
「満州国(まんしゅうこく)は門戸(もんこ)を閉じた。ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯(たむ)ろしている。もし満州国が入国を拒否する場合、彼ら《ユダヤ難民》の進退は極(きわ)めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも、彼らの通過を許している。しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業(ばんみんあんきょらくごう)』を呼号(こごう)する満州国の態度は不可思議千万である。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか」
この当時、日本は日独防共協定を結んでいましたが、ドイツはこれを拡大解釈して、ユダヤ人も防共の対象にしていました。つまり日本がユダヤ人を保護すれば、ドイツはこれを外交上の問題とすることは明らかな状況でした。樋口季一郎はこれを「政治上の問題」ではなく「人道上の問題」とすることで、ユダヤ人を保護しました。
南満州鉄道の総裁だった松岡洋右(まつおかようすけ)は、樋口に相談されて直ちに救援列車の出動を命じました。オトポールに近い南満州鉄道の満州里駅は、ハルピンから九百キロ後方にありました。このため列車の本数が少なく臨時列車の派遣が必要であったためです。
三月十二日、ハルピン駅に最初の列車が到着しました。ハルピン在住のユダヤ人たちがこれを出迎えました。
彼らは同胞の救出をことのほか喜びました。この特別臨時列車はその後、合わせて十三本運行されました。救われたユダヤ難民は約二万人と伝えられています。救われたユダヤ難民たちは上海に、あるいはアメリカへと旅立って行きました。
樋口季一郎のこうした対応は、当然ながら外交問題に発展しました。樋口季一郎は一市民ではありません。関東軍の将軍です。ドイツのリッべントロップ外相は、オットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送りました。
「今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携が日に濃厚を加えつつあることは欣快(きんかい)とするところである。然(しか)るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将(当時)が、ドイツの国策を批判し誹謗(ひぼう)しつつありと。もし然(しか)りとすれば、日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。請(こ)う。速(すみ)やかに善処(ぜんしょ)ありたし」
これに対して樋口季一郎は次の手紙を書き、関東軍司令官だった植田謙吉に郵送しています。
「私の行為は決して間違っていない。法治国家として当然のことをしたまでである。満州国は日本の属国ではない。ましてドイツの属国でもない。たとえユダヤ民族抹殺がドイツの国策であったとしても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。」
関東軍司令部に出頭を命じられた樋口季一郎は、参謀総長だった東条英機に会いました。
「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることが正しいと思われますか?」
そう聞く樋口季一郎に、東条英機は樋口季一郎の意見を全面的に受け入れる決断をしました。
オトポール事件は、日本国内の新聞では記事になっていません。樋口季一郎の家族でさえ、その死後に事態を知っています。このときの樋口季一郎の行為を、アブラハム・カウフマンの息子のテオドル・カウフマンは著作の中で次のように述べています。
「樋口は世界で最も公正な人物の一人である。
そしてユダヤ人にとっての真の友人である。」
▼キスカ島撤退
昭和十八年《一九四三年》、北方軍司令官として札幌にいた樋口季一郎は、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊を帰還(きかん)させるべく大本営(だいほんえい)に談判(だんぱん)し、奇跡(きせき)の撤退(てったい)を成功させました。
キスカ島は北太平洋にあるアリューシャン列島にある島です。島には日本側の守備隊六千名が残留していました。二ヶ月前には、キスカ島よりも手前にあるアッツ島で、島の守備隊二、六五〇名が玉砕(ぎょくさい)したばかりでした。
樋口季一郎は木村昌福(きむらまさとみ)海軍中将にはかり、キスカ島守備隊の撤退作戦を行いました。これを「ケ号作戦」といいます。ちなみに、「ケ」というのは、日本軍が撤退作戦を行うときに必ず用いた作戦名で、「ケ」は「乾坤一擲(けんこんいってき)」という意味です。
キスカ撤退作戦は、最初、潜水艦で行われました。この時点で日本海軍は、ソロモン方面の作戦で多数の駆逐艦を失っていたため、これ以上の艦の損耗(そんもう)を避(さ)けたかったのです。
昭和十八年《一九四三年》六月、十五隻の潜水艦で2回の輸送作戦が行われ、傷病兵等約八百名が後送されました。また守備隊には、弾薬百二十五トン、糧食百トンを輸送することに成功しました。しかし潜水艦が米軍の哨戒網(しょうかいもう)に発見され、一回目の潜水艦輸送作戦で、「伊二四潜水艦」を、二回目の輸送作戦では、「伊七潜水艦」、「伊九潜水艦」を失なっています。
成果の割に、損害が多いのです。あまりに効率が悪い。このままでは、全軍の撤退は不可能です。樋口季一郎は、海上に深い霧がかかる7月中に、艦船で撤退作戦を実行するよう、木村海軍中将にはかりました。八月になると霧がなくなり、撤退作戦は不可能になるからです。
キスカ島のすぐ東側のアムチトカ島には、米軍の航空基地があります。制空権を奪われた中での水上艦艇による撤退作戦は、万一空襲を受ければ、全滅の危機がありました。ただ、この当時はまだ目視飛行の時代です。濃霧が発生していれば空襲の危険を避けることができる可能性が増えます。そしてこの頃にはまだ、濃霧の中で空襲をかけることができる航空機は、世界中どこにもなかった時代でした。樋口季一郎は、そこに一縷(いちる)の望みを賭けたのです。こうして二度にわたる潜水艦作戦は打ち切られ、キスカは水上艦艇による第二次撤退作戦となりました。
七月十日、アムチトカ島五百海里圏外に集結した撤収部隊は、一路キスカ島へ向かいました。Xデーは十二日と決めてありました。
全艦、深い霧の中を、静かにキスカに向けて進みました。ところが艦隊がキスカ近海に近づくと、霧が晴れてしまいました。全艦、いったん突入を断念する。近海の濃霧に隠れて、決行予定日を十三日に変更しました。
しかし十三日、十四日、十五日と霧が晴れ、突入は断念せざるを得なくなりました。やむなく木村海軍少将は、十五日午前八時二〇分、一旦突入を諦(あきら)めて帰投(きとう)命令を発しています。燃料が底を尽きはじめてしまったからです。
「帰れば、また来られるからな」
それが、このときの木村中将の言葉でした。こうして撤収部隊は、十八日に一旦幌筵(ほろむしろ)の基地に帰投しました。
手ぶらで根拠地に帰ってきた木村海軍少将に対し、直属の上官である第五艦隊司令部のみならず、連合艦隊司令部、さらには大本営からも、「何故、突入しなかったか!」、「今すぐ作戦を再開しキスカ湾へ突入せよ!」と、帰投した木村海軍少将に轟々(ごうごう)たる非難が浴びせられました。「腰ぬけ!」とまで罵(ののし)られました。更迭(こうてつ)の話も出ました。しかし樋口季一郎は、
「この作戦は、木村でなければならぬ」と、これを一蹴(いっしゅう)しています。
あと半月で八月になります。八月にはもう霧が出ません。霧が晴れれば、米軍のキスカ攻撃が始まります。そうなれば、キスカの撤収作戦はありえず、キスカ島守備隊は全滅を免(まぬが)れません。一方で、この地域に備蓄していた海軍の重油も底を尽き始めていました。作戦はあと一度きりしか行えない。
帰投して四日目の七月二十二日、幌筵島(ほろむしろとう)の気象台から、「七月二十五日以降、キスカ島周辺に濃霧発生」との予報がはいりました。最後のチャンスがやってきたのです。木村海軍少将は予報を聞くと同時に、全艦隊に出撃命令を発しました。
ところが期待の霧が、あまりに濃い。出航が各艦まちまちになったうえ、洋上で三日後の七月二十五日には、「国後(くなしり)」を除く艦隊がいったん集結できたのですが、翌二十六日には濃霧の中を航行中に、行方不明だった「国後」が突如(とつじょ)出現して、「阿武隈(あぶくま)」の左舷(さげん)中部に衝突(しょうとつ)してしまいます。この混乱で「初霜(はつしも)」の艦首が「若葉」右舷に衝突。弾(はず)みで艦尾が「長波(ながなみ)」左舷に接触してしまう。損傷が酷(ひど)かった「若葉」は、艦隊を離脱して単独で帰投することになってしまいます。
残った船で、キスカ近郊で待機した七月二十八日、艦隊の気象班が、「翌二十九日、キスカ島周辺、濃霧の可能性大」と予報しました。
「全艦突入せよ」
木村海軍少将が命じました。
艦隊は、敵艦隊との遭遇を避けるために、島の西側を迂回して、島影に沿ってゆっくり進みました。七月二十九日正午、艦隊はキスカ湾に到達しました。濃霧です。湾内では、座礁や衝突の危険もありました。ところがこのとき、神風が起きました。一陣の風が吹いて、湾内の濃霧をきれいに吹き飛ばしてくれたのです。
十三時四十分、晴空のもとで艦隊は投錨し、待ち構えていたキスカ島守備隊員五千二百名の収容にとりかかりました。持っている小銃は、全部投棄させました。身軽にして輸送行動を速めるためです。そしてなんと、わずか五十五分という驚異のスピードで、全員を艦内に収容し、収容に使ったはしけは、回収せずに自沈させて、直ちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱しました。
艦隊が湾を離れた直後、キスカ湾は、ふたたび深い霧に包みこまれました。それは、まさに神が降ってきたとしかいいようがない収容作戦でした。こうして七月三十一日、無事、全艦、幌筵に帰投しています。
▼占守島(しゅむしゅとう)の戦い
昭和二十年《一九四五年》八月十八日。陛下の玉音放送(ぎょくおんほうそう)の三日後のことです。北海道占領を目的として、ソ連軍が突然千島列島の占守島(しゅむしゅとう)を攻撃してきました。その兵力、およそ八千。同時にスターリンは、千島列島と北海道をソ連領とすることをアメリカに要求しました。
司令官であった樋口季一郎は、進めていた軍の武装解除を一旦停止し、戦車部隊を中心に断固たる防衛を命じました。これを受けて士魂(しこん)戦車隊の池田末男(いけだすえお)隊長は、濃霧の中隊員に訓示しました。
「諸士、ついに立つときが来た。
諸士はこの危機に当たり、決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
もしくは赤穂浪士の如く、この場は隠忍自重し、後日に再起を期するか。
白虎隊たらんとする者は手を挙(あ)げよ」
八月二十二日まで続いた戦いの結果、ソ連は三千人もの死傷者を出して敗退しました。一日占守島を占領する計画も水疱(すいほう)に帰しました。大損害を受けたソ連は樋口を戦犯に指名し、連合軍総司令部に引渡しを要求しました。しかしこれを聞いた「世界ユダヤ人協会」が、米国防総省に働きかけました。米国はソ連への引渡しを断固拒否しました。
こうして北海道は守られました。当時のソ連は、北海道の半分を占領したあと、東京をドイツのベルリンのように、東西東京に分割統治する予定であったともいわれています。北海道が守られたのも、東京が分断されなかったのも、そして朝鮮半島のように日本が東西日本に分割されなかったのも、樋口季一郎陸軍中将のこのときの英断と、占守島を死守した日本陸軍の将兵の強い意志と戦いがあったからです。
「悪とは人の名誉を奪うことである」と言ったのは、ニーチェです。そのとおりと思います。
昭和の軍人を悪く言う人がいます。
けれど彼らは、明治の軍人にも決して引けを取らない、それどころか明治の軍人よりもはるかに過酷な戦いをして、散っていきました。
また生き残った人も、将校も兵卒も、誰もが、真剣に真面目に、そして何より正義のために、後世に生きる私たちのために、本当に苦しい戦いをやり抜いてくださいました。
同じ日本人として、いまや英霊となった彼らに、何の感謝もわかないどころか、悪しざまに罵るというのは、それこそ人として大いに疑問です。
いま『昭和の軍人たち』という本を執筆中です。
年内に刊行できると思います。
ひとついえることは、彼らの栄誉を語り継ぐのは、私たち日本人しかいないということです。
外国人はやってくれません。
私たちが英霊に感謝の気持ちを持たないで、いったいどこの国の人が、彼らの御霊を靖んじてくれるというのでしょうか。
その意味で、社会のための政治や行政を行う公人こそ、靖国参拝をすべきです。
※この記事は2021年7月の記事に加筆を施したものです。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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