• 実は日本が築いていた世界のかたち


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    日本は昭和20年8月15日に戦いの矛をおさめました。そして東京裁判によって東亜諸国を侵略したとして裁かれました。けれど、まさにその裁判のさなかに、東亜の諸国は再び植民地支配しようと戻ってきた(東京裁判で日本を侵略国として裁いていた)諸国と果敢に戦っていたのです。大東亜の戦いは終戦の日以降も続いていたのです。
    さまざまな意味において、日本は世界にものすごく大きな影響を与え続けた大国といえます。
    陸の面積にばかり目や心を奪われないことです。
    移動速度は、陸上の面積を超えることができるのです。


    インドネシア独立戦争
    20200816 インドネシア独立戦争
    画像出所=https://www.mag2.com/p/news/192427
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    お時間のある方は、是非、下の動画を御覧いただきたいのですが、この動画の中で加瀬先生が、
    「日本は昭和20年8月15日に戦いの矛をおさめたが、日本が東京裁判によって東亜諸国を侵略したとして裁かれていた、まさにそのときに、東亜の諸国は再び植民地支配しようと戻ってきた(東京裁判で日本を侵略国として裁いていた)諸国と、東亜の諸国は果敢に戦っていた。大東亜の戦いは終戦の日以降も続いていたのだ。」
    との指摘をなさっておいでになります。

    これはとても重要な指摘です。

    終戦記念日特別番組第二弾!! 日本はいかに『理想の人種平等の世界』を作ったのか?! 加瀬英明 中村功


    先の大戦について、大東亜戦争という呼称を禁じ、太平洋戦争(The Pacific War)と呼ぶことを強制したのはGHQ(General Headquarters)です。
    米国では「The War in the Pacific」と呼ばれますが、英国では「極東戦争」と呼ばれています。

    クリストファー・ソーン(Christopher Thorne)やA・J・P.・テーラー(Alan John P. Taylor)など英国の歴史家たちは、
    「先の大戦は、日米間で使用されている太平洋戦争では、戦争の地理的・地政学的側面の性格づけが、とくにその広範囲にわたる影響に関してはほとんどなされていない。
    日本はアジアにおける英国の勢力を駆逐するために戦争を始めたのであり、結果として英国は植民地を失い敗北したのだから、極東戦争、あるいは日本が用いている大東亜戦争と称することが適切である」
    と指摘しています。

    また日本においても、国際政治学者の柳沢英二郎氏や、加藤正男氏などは、
    「日米戦争は西太平洋の覇権をめぐる闘いとしての戦争であり、日本にとっては東南アにおける勢力圏確立のための手段であったのだから、『アジア・太平洋戦争』と呼ぶべきである」
    との指摘をしています。

    そもそも戦争というのは、単一の目的によって行なわれるものではありません。
    さまざまな事象が折り重なって、外交上の最後の手段として行われるものです。
    そしてこの時期、日本は有色人種として、唯一の独立国家であり(タイも独立を保っていたとはいえ、ほぼ完全に英国の指揮下にありましたから、すでに完全な独立国とは言い難い)、かつ国際政治上、きわめて大きな勢力を持つ国になっていました。

    日本が欧米諸国から追い詰められるようになった原因は、第一次世界大戦後に開催されたパリ講和会議(1919年・大正8年)において、日本が国際連盟憲章に「人種の平等を入れるべし」との案を正式に国際舞台に出したことに起因します。
    これは人道的には正しい議論です。
    しかし、植民地支配によって富を得ていて、かつ政治的な影響力が大きい欧米諸国の経済人すべてを敵に回す発言であったわけです。
    それまで世界最強の海軍国である大英帝国と対等な同盟関係を結んでいた日本は、これによって欧米諸国(の大金持ちたち)にとっての明確な「敵」となりました。

    一方で有色人種諸国からの日本への期待も高まりました。
    これも上の動画のなかで加瀬先生が述べられていますが、昭和5年(1930年)当時、独立を守ろうとしていたエチオピアの王子が、日本の華族出身の黒田雅子さんと婚約に至ったことがありました。
    それだけ日本に対する期待が高かったのです。

    しかし、当時大評判になったこの婚約は、残念なことに欧米諸国の猛烈な反対によって破談になりました。
    なかでもイタリアのムッソリーニは、強硬に反対を唱えていたのですが、なんとそのムッソリーニは、破談の5年後の1935年(昭和10年)にエチオビアに侵攻、使ってはいけないはずの毒ガスを用いてエチオピア軍を壊滅させ、エチオピアを植民地にしています。

    こうした欧米列強による理不尽が次々と行われる中、日本は大東亜共栄圏構想を打ち上げ、東亜諸国の独立と発展を標榜していき、ついに先の大戦に至るわけです。
    500年続いた植民地支配を守ろうとする欧米諸国と、結果として植民地の解放を意味する人種の平等を目指す日本。
    この両者の溝は、ますます深まっていったのです。
    そして昭和16年、ついに戦争になる。

    戦争は、日本国中が焼け野原になって、昭和20年8月15日に日本は自主的に戦闘を終結させました。
    けれど、それで大東亜の戦いが終わったわけではありません。
    東亜諸国は、日本が敗れたあと、再び自国を植民地支配しようと戻ってきた欧米諸国と果敢に戦い、ついにそれぞれの国が独立を手にしています。

    並べてみると以下のとおりです。

    インド、パキスタン、インドネシアの独立記念日が昭和20年年8月17日
    ベトナムの独立が昭和20年9月2日
    フィリピンの独立記念日が昭和21年7月4日
    ビルマの独立記念日が昭和23年1月4日
    スリランカの独立記念日が昭和23年2月4日
    韓国の独立記念日が昭和23年8月15日
    北朝鮮の独立記念日が昭和23年9月9日
    台湾の独立記念日が昭和24年12月7日
    カンボジアの独立記念日が昭和28年11月9日
    ラオスの独立記念日が昭和29年7月19日
    中共の独立記念日が昭和29年10月1日
    マレーシアの独立記念日が昭和38年9月16日
    シンガポールの独立記念日が昭和40年8月9日
    バングラディッシュの独立記念日が昭和46年3月26日
    です。

    これら諸国は、日本の終戦以後、再び舞い戻ってきた欧米諸国とそれぞれ独立記念日以後も果敢に戦い、勝利し、そしてようやく独立を果たしました。

    たとえばインドネシアでは、独立宣言は日本が戦いを終了した翌々日ですが、オランダはこれを認めずに再植民地化を図ろうと英国の協力を得て軍事侵攻しました。
    この戦いは、昭和24年(1949年)12月のオランダ-インドネシア円卓会議によるオランダからの無条件での独立承認の日まで、まる4年間も続いています。

    そしてこの戦いで、インドネシアに残留した日本軍人3千人のうち、およそ千人が命を失ないました。
    ちなみにこのとき、インドネシアにいた華僑は、むしろオランダ側に加担してインドネシア人に銃を向けたのは有名な話です。

    国家というものは、軍事的な戦いによって独立を勝ち得たとしても、それだけで国ができあがるわけではありません。
    国家が国家として成立するためには、国を営むための行政機構の整備や法整備、経済的繁栄を支えるための経済、財政政策などが必要です。
    これはたとえていえば、生まれたての赤ちゃんに、母親がいないと子が生き残れないのと同じです。

    ひとあし早く戦争を終結させていた日本は、まさに東亜諸国の母となって、各国の支援を行い、それぞれの国の法整備、行政機構の整備、企業誘致、観光資源開発などに、莫大な援助を行ないました。
    そしてその行動は、まさに母と同じく、無償の、ただ一方的な愛情によるものでした。

    東亜諸国のこうした独立への動きは、そのままアフリカの黒人諸国や、中東諸国にも伝播していきました。
    1900年のパリ・オリンピックの参加国は、世界24カ国です。
    これは参加しなかった国が多かったのではなくて、世界にそれしか国がなかったからです。
    たとえば、いまのインドネシアからベトナム、ラオス、などのあたりは、フランス領インドシナという名の、フランスの一部の地方であり、インドは英国領のなかのインド地方でした。

    ところが今年行われるはずだった東京五輪では、参加国は207カ国です。
    これは、世界中のそれぞれの有色人種諸国が独立を果たした結果です。
    そしてその独立の背後には、日本による無償の、また無私の努力と、日本人の激しい戦いがあったのです。

    20世紀における最大の出来事とは何でしょう。
    それは「500年続いた植民地支配の終焉」です。
    そしてこれを実現したのは、間違いなく日本です。
    もし、日本の戦いがなければ、おそらく21世紀となったいまでも、世界は欧米列強による植民地支配のままに置かれていたことでしょう。
    いまなお、白人の贅沢のためだけに存在する、私権の認められないただの家畜、それが有色人種に与えられた地位となっていたことでしょう。

    日本は世界の良心ともいえる国です。
    その日本人が、どこかの国の真似をして、アコギな道に進んだとしても、日本にはそのような歴史も伝統も有りませんから、アコギな道では、おそらく日本は世界に敵いません。

    そうではなく、日本と日本人は、個人であっても国であっても、どこまでも良心と誠意という善の道を進む。
    清らかであたたかかくて、明るい、それが日本書紀に書かれた「清陽(すみてあきらか)」です。
    そして男は、いくつになっても、そのような国柄を守る清潔で正義感あふれる日本男児であらねばなりません。
    それが「ますらをの道」です。
    ※「ますらを」は、りっぱな男や勇気ある強い男を意味する大和言葉です。

    最後にひとつ。
    2万年前、まだ海面が低かった時代、日本列島から小笠原諸島、グアム島、パラオ、西パプア、フィリピン、台湾、琉球諸島、日本列島まで、向こうに見えている島伝いにぐるりと一周することができました。
    島伝いに船で進むと、何ヶ月もかかって、元の島にまで戻ってくるのです。
    もしかすると、わ(輪・環)のクニという言葉は、そこから来たているのかもしれません。

    ちなみに「ムー大陸」という言葉がありますが、古語で「む」は広大なを意味します。
    いま太平洋の海底を調べてみると、どこにもかつて大陸があったことを示す場所が存在しませんが、上に述べた環状の島々のことを、古代の人達が、「広大な環」という意味で「ムー」と呼んでいたことは、十分にありえることと思います。

    我々はこれまで、日本が農耕民族だと教えられてきましたが、農耕民族というのならチャイナもコリアも農耕民族です。
    けれど、どうみても、どこからみても、チャイニーズやコリアンと日本人とでは気質がまるで違います。
    理由は様々でしょうけれど、筆者は、なかでも最大の理由は、もともと万年の単位で、わじん(倭人・環人)たちは、海洋で暮らす海洋民族であったことが、精神性に極めて重大な影響を及ぼしたのではないかと思っています。

    そして、陸上に住む人々よりも、葦で造った帆船を操作して暮らすわじん(倭人・環人)たちの行動範囲は、ものすごく広い。
    そしてアカホヤの破局噴火のときに、そんなわじん(倭人・環人)たちが、まさに世界に散り、世界に文明文化を伝えてきたのではないか。
    そのように見ています。

    また、モンゴルの大帝国を築いたのも、日本の黄金と武士の制度。
    そのモンゴルが崩壊した後に起きたオスマン・トルコの興隆も、日本の黄金が影響を与え、幕末に日本から流出した黄金は、その後の欧米の動乱の原因となっています。
    そして、先の大戦では、日本は世界から植民地を駆逐しました。

    さまざまな意味において、日本は世界にものすごく大きな影響を与え続けた大国といえます。
    陸の面積にばかり目や心を奪われないことです。
    移動速度は、陸上の面積を超えることができるのです。


    この記事は2020年8月の記事のリニューアルです。

    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    20150814 妻と飛んだ特攻兵
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    2016年、テレビで、堀北真希さん、成宮寛貴さん主演のテレビ朝日の戦後70年ドラマスペシャル「妻と飛んだ特攻兵」が放送されました。
    お二人は、このドラマの撮影に際して、世田谷観音にある慰霊碑に参拝されたそうです。(上の写真)

    成宮さんは、坊主頭がよく似合いますね。
    この時期になると、坊主頭になる俳優さんなどがよくテレビに出ますが、まるで似合わない人もいる。
    血筋が違うのかなと思ったりしてしまいます。

    さて、このお話は、豊田正義著『妻と飛んだ特攻兵 8・19満州、最後の特攻』(角川文庫)を原作としています。
    その原作が発売される2年前の2011年10月に、実は豊田さんが、このお話をフライデーで紹介しています。
    友人から、このお話が掲載されたという話を聞いて、たいへんありがたく思い、そのことを同じ月にねずブロでもご紹介させていただいています。

    冒頭の写真に石碑が映っていますが、そこに次の文が書かれています。
    ===========
    【碑文】
    第二次世界大戦も
    昭和20年8月15日
    祖国の敗戦という結末で
    終末を遂げたのであるが、

    終戦後の八月十九日午後二時、
    当時満州派遣第六七五部隊に所属した
    今田均少尉以下十名の青年将校が、
    国敗れて山河なし
    生きてかひなき生命なら
    死して護国の鬼たらむと
    又大切な武器である飛行機を
    ソ連軍に引渡すのを潔しとせず、

    谷藤少尉の如きは
    結婚間もない新妻を後に乗せて、

    前日に二宮准尉の偵察した
    赤峰付近に進駐し来る
    ソ連戦車群に向けて、
    大虎山飛行場を発進

    全機戦車群に体当り
    全員自爆を遂げたもので、
    その自己犠牲の精神こそ
    崇高にして永遠なるものなり

    此処に此の壮挙を顕彰する為
    記念碑を建立し、
    英霊の御霊よ
    永久に安かれと祈るものなり
    ==========


    碑文にある谷藤徹夫少尉は、当時、まさに新婚ホヤホヤでした。
    ご夫婦は相思相愛で、傍目に見ていても思わず微笑ましくなってしまうほどのアツアツぶりだったそうです。

    谷藤徹夫少尉は、大正12(1923)年、青森県下北郡の田名部の生まれで、田名部というのは、いまの、むつ市のことです。
    恐山(おそれざん)の麓(ふもと)あたりにある町です。

    谷藤少尉の父親は、当時劇場や映画館、レコード店や蓄音機を販売するお店などを経営していました。
    少尉はその家の長男で、幼いころは、勉強も運動も抜群の成績をあげるのだけれど、身長が低く華奢な体つきだったそうです。

    徹夫氏の姪(めい)にあたる小原真知子さんによると、
    「徹夫おじさんが子供の頃、
     祭りのときに母の浴衣を着て、
     水色の腰巻きをつけると、
     まるで女の子のようにきれいだった」
    そうです。

    勉強ができて、成績はいつも学年トップ、物静かで礼儀正しく、華奢で小柄な体型のため、当時必修科目だった柔道や剣道では体の大きなわんぱく少年たちに歯がたたなかったけれど、運動神経抜群、そして少女のように美しい顔立ちの少年、であったわけです。

    小原さんによると、
    「私の母は徹夫おじさんの妹にあたるんですが、
     よく『兄さんのそばに座ってすることを見ているだけで、
     温かくて優しい気持ちになれた』
     と言っていました。
     徹夫おじさんは、
     窓際に座ってクラシックを聴くのが好きでした」

    谷藤少尉は、昭和17(1942)年、中央大学の法科を卒業すると、青森に帰省して徴兵検査を受けました。
    結果は不合格でした。
    これは、正確には第二種合格といって、予備役として合格、つまり現役兵士として徴兵には不合格ということです。
    理由は、体が小さかったからです。

    これは彼にとってたいへんなショックでした。
    当時は、できの良い秀才は、祖国を守るため、愛する家族を守るために、自ら率先して兵役に就くというのがあたりまえだった時代です。

    やむなく谷藤氏は、日本ビクター蓄音機(現:日本ビクター)に就職しました。
    そして営業マンとして、毎日外を飛び回っていたとき、昭和18年7月の夏の暑い日に、たまたま街で一枚のポスターを見つけるのです。

    ポスターには「学鷲募集」と書かれていました。
    陸軍が航空戦力の増強を図るため、早急にパイロットの育成をしようと、大卒者を対象に「特別操縦見習士官(通称:特操)」の制度を創設したのです。

    特操ならば1年でパイロットになれる。
    思わぬチャンスが、谷藤さんに到来しました。
    募集枠は、第一期、第二期あわせて3000名です。
    何と6倍もの大卒者が受験に集まった狭き門ですが、谷藤さんは青森県でただひとりの合格者となりました。

    こうして谷藤さんは、昭和18(1943)年10月晴れて福岡にある「大刀洗陸軍飛行学校」に入学しました。
    同期は240名です。

    この「大刀洗陸軍飛行学校」の訓練は、とても厳しいものでした。
    なにせ、通常なら数年かけて仕込まれる飛行機の操縦や、軍事法規、国際法、航空力学などの知識を、たった一年で全部仕込まれるのです。

    訓練学校の生徒たちは、入学時点で下士官のトップである曹長の肩書きをもらいます。
    曹長となった谷藤さんが、母に書いた手紙が残っています。

    「前略 お母さん、
     徹夫が立派な手柄をたてるまでは、
     何が何でも病気にならないでください。
     自分は幸いに飛行機乗りに適しているらしく、
     数回の飛行で自信ができました。
     将校は軍の根幹であることを自覚し、
     元気にやっています。
     機上から遠く田名部の空を望見しています。」

    「前略
     いよいよ本格的な飛行演習がはじまっています。
     願わくば一日も早く敵ボーイングに見参せんと念じ、
     自分の年齢が自分の撃墜責任数と思い、
     実現を誓っています。」

    体の小さな谷藤さんは、それだけで戦闘機乗りとしては有利です。
    彼は懸命に努力し、パイロットとしての技能を磨きました。
    谷藤さんが入隊して一ヶ月ほど経ったときの、母からの手紙です。

    「お前からの便りによると、
     いよいよ単独飛行の操縦を開始するとありますが、
     その訓練こそ
     魂を打ち込んだ訓練でなければいけません。
     いまの母は、一刻も早く、
     お前が立派な学鷲として大空へ進発し、
     真珠湾以上の偉勲をたててくださるよう、
     ひたすら神に祈っています。

     はばたきて
     大空翔る姿をば
     みるまで母の 心もとなき

     この歌はつたなきなれど、
     母の真心を思い下されますよう。」

    母の手紙には、偉勲をたててくれるよう祈っていますと書いてあります。
    けれど、文字の表面だけ読んではいけません。

    当時、飛行訓練生というのは、非常な危険を伴うものだったのです。
    ですから軍隊に入っても「飛行兵だけにはなってほしくない」というのが、当時の親の率直な心でした。
    なぜかというと、今のように、航空シミュレーターがあった時代ではなく、訓練中の事故死は非常に多かったし、墜落して死ねば、遺体は跡形も無い肉片になってしまったからです。
    そして訓練校を卒業して戦地に赴けば、まず生きて帰って来れないのです。

    私の中学時代の恩師は、このときの飛行兵の生き残りだった人です。
    その恩師の同期が、当時の訓練飛行中に、急降下訓練でそのまま地面に激突してお亡くなりになったという話を、中学1年生のときに聞きました。

    飛行機ごと地面に激突した遺体は、まるで刺し身の切り身のような破片になってしまうのだそうです。
    それを訓練生みんなで涙をこらえながら箸で拾ったと、話してくださいました。
    それくらい航空兵というのは危険だったのです。

    そういう次第ですから、航空兵の親だって、世間の親となんら変りありません。
    ましてとびきり優秀な若者に育ってくれた我が子なのです。
    絶対に死んでほしくなんかないというのが親心というものです。

    けれど、その心配も、不安も、悲しみも、すべて押さえて、お母さんは、
    「しっかりやってください」
    と手紙にしたためているのです。
    そして訓練生たちも、そんな親心を、ちゃんと理解できるしっかりした子、そういうことのわかる優秀な子供たちだったのです。

    だから「母の手紙を額面通りに読んではいけない」のです。
    心配で心配で夜も眠れないくらい我が子が心配で、愛(いと)しくて不安で、だから母の手紙には、「心もとなき」と書かれているのです。

    そういうことを、ちゃんと理解して読まなければならないのが、日本の文化の特徴です。
    近年の歴史学者の多くは、ただ書いてあることの表面上の意味しか受け取らないことが学問であるかのような態度の方が多いですが、それこそ曲学阿世の徒というべきです。
    学問であれ科学であれ、人には心があることを忘れてはなりません。

    厳しい訓練の毎日にも、谷藤曹長に休暇の日はありました。
    彼は、その短い休暇を利用し、福岡の親戚を尋ねています。
    実は、谷藤さんの母は九州の福岡の出身です。

    その九州の親戚の家を尋ねた谷藤さんは、そこで、ひとりの女性を紹介されます。
    それが、二つ年上の朝子さんでした。

    二人は互いに一目惚れだったそうです。
    そしてお二人は結ばれました。

    お見合いであろうがなかろうが、こういう「一目会ったその日から」ということは、やはり「ある」のだと思います。
    それが生命の紐帯なのか前世の因縁か、そこまではわかりません。
    けれど世の中には、初めて会ったのに、なぜか懐かしい人とか、こみあげるものを感じる人といのは、たしかにいるものです。
    お二人もそうだったのであろうと思います。

    片や、紅顔の美少年で、成績優秀、スポーツ万能でクラシック音楽が大好きで、性格もとても温か味のある当時のエリート中のエリートの航空訓練生、そして朝子さんはとても美人でチャーミングで性格も温厚で明るくて、とても働き者の女性です。

    お二人は、何度か逢瀬を重ね、結婚を約束しました。
    けれど谷藤曹長は、卒業すれば戦地に行きます。
    卒業して任地に赴いたら、まず帰れません。

    「だからこそ、
     優秀なパイロットの種を貰い受けたい。
     優秀な子を残したい」

    それは、本能というか要求というか、これは言葉にできないものです。

    お二人のご両親も、結婚に賛成してくれました。
    けれど、朝子さんのお姉さんは、ちょっと心配だったそうです。
    お姉さんの夫は、傷痍軍人でした。
    旦那さんは大怪我をして、もはや普通に働けない体になってしまっていたのです。
    それでも恩給はもらえるし、なにより「生きて還って」きてくれています。

    けれど、パイロットなら、怪我をして帰って来る、ということはないのです。
    空から落ちれば、確実な死が待っているだけだからです。

    「私の夫は、それでも生きて帰ってくれたからまだいいわ。
     けれど軍人の妻になるということは、
     いつ未亡人になるかわからない身の上になることです。
     朝子は覚悟の上?」
    と、お姉さんは妹に、そう迫ったそうです。

    このとき朝子さんは、
    「いつかは別れなければならないときがくるわ。
     覚悟はしています」
    と静かに答えられたそうです。

    たとえ二度と会えない人になってしまうのだとしても、どうしてもこの男性(ひと)と一緒になりたい。
    真剣にそう思えるほど、朝子さんはすでに谷藤さんを愛していたのです。

    そしてお二人は昭和19年に、晴れてご結婚されます。

    もっとも夫の谷藤さんは、その時点ではまだ訓練生です。
    ですから官舎を出て新居を構えるというわけにはいきません。
    休日だけ妻の実家に帰って、お二人だけの時間をすごしました。
    そういう生活でした。

    そして10月、谷藤さんは、訓練校を卒業し、晴れて陸軍少尉に任官しました。
    「これでいよいよ戦地に行ける。」
    そう思っていた谷藤少尉に与えられた任務は、
    「満州で航空教官として少年飛行兵に基礎操縦法を教える」というものでした。

    少年飛行兵というのは、戦線押し迫って来た中で、特攻隊員として知覧から飛び立つパイロットたちです。
    しかも場所は、当時、この時点では戦場にさえなっていない、平和な満州です。

    谷藤少尉が卒業した訓練校は、「特別操縦見習士官(通称:特操)」であり、パイロットの「即戦力」を養成するための学校です。
    ですから卒業生は、全員、そのまま南方の激戦地に送られていたのです。

    ところが谷藤徹夫少尉に届いた命令は、その時点では戦闘地域が存在しない満州です。
    しかも実戦経験もなく、訓練を終えたばかりでありながら、「教官」という職です。

    このことは、当時の日本陸軍を考える上で、とても重要なことです。
    谷藤少尉は、長男で新婚です。
    日本陸軍は、そうした谷藤少尉の身上をよく把握し配慮し、人事を行っていたのです。

    もっといえば、谷藤少尉を訓練した教官は、そういう谷藤少尉の身上、いやそれだけではなく、他の生徒たち全員の身の上をきちんと把握し、それを陸軍省の人事局にまでしっかりと上申し、その配属を受けて陸軍省は配属を決めていた、ということです。

    昨今では、会社勤めをしていても、単に社内の業績だけで人を判断し、それをもって能力給制度だなどと自慢げに制度化している会社が多くなりました。
    会社には、私生活や、個人の事情は関係ない、というわけです。
    けれど、人は会社生活だけではなく、その人それぞれの家庭がある。私生活があるのです。
    そういうものをきちんと把握して行うのが本来の人事というものです。
    すくなくとも、私はそのように思います。

    ここで個人的なお話をひとつ。
    実はサラリーマン時代、支店長の役をおおせつかっていたときに、部下の妻の誕生日には、その者は残業なしで真っ直ぐに家に帰らせるようにしていました。
    本人たちはとても喜んでくれていたように思うのですが、これが本社で問題になりました。
    小名木は、仕事より部下の私生活を優先している、というわけです。
    いちいち弁解はしませんでしたが、「小人閑居して不善をなす」とはよく言ったものだと思いました。

    昨今は、平等主義なのだそうです。
    一生懸命人の倍働く人も、文句ばかり言って人の半分しか仕事をしない人も、給料は平等だ、などと言われます。
    けれど、それは人事考課を行う上司にとって楽なだけで、非常に狡猾で小ずるい人事考課です。
    一生懸命頑張る人と、そうでない人には、ちゃんと差をつける。
    それが「公平」というものです。

    さらにいえば、谷藤少尉は、人柄や成績などから判断して、南方戦線でただ死なせるにはあまりに惜しい男だ、ということです。
    だからこそ上官(教官)は、彼の私的事情を考慮し、そのまた上の陸軍の人事にまでかけあって根回しし、話を通して、彼の命を守ろうとしたのです。
    そうしたことが日本陸軍ではあたりまえでした。
    そして、そういう配慮をしてくれる軍の上層部だからこそ、兵たちみんなはとても感謝したし、上層部を信頼したのです。
    それが日本陸軍です。

    さて、いよいよ谷藤大尉が満州の任地に向かうために旅立つ日がやってきました。
    その日、下関から釜山に向かう連絡船に乗る谷藤少尉を見送りに来た朝子さんに、少尉は次のように言ったそうです。
    「満州は平穏な状況だと聞いている。
     将校は家族を呼んで官舎で一緒に暮らせるそうだ。
     必ずお前を呼ぶから、
     そのときまで田名部で待っていてくれ」

    妻の朝子さんが、黙ってうなづいたのか、「ハイ」と返事をしたのか、それはお二人の記憶の中でしかわかりません。
    けれど朝子さんは、夫のいいつけをちゃんと守って、故郷の福岡から、青森にある夫の実家に向かいました。

    もし夫のいる満州に呼んでもらえるなら、出発は下関から釜山に渡り、そこから鉄道で満州に向かうのですから、博多の実家にいたほうが、楽です。
    けれど、お嫁に行った以上、朝子さんは谷藤家の女性です。

    だから夫のいない青森の夫の実家で、夫に呼ばれる日を待つことにしたのです。
    結婚したら嫁いだ先の家の人。
    それが当時の常識でした。

    その青森の実家では、長男が軍務で家を出てしまっています。
    それも危険な航空兵です。
    心配で心配で、火が消えたようになっていた青森の実家に、兄嫁の朝子さんがやってきました。

    青森にいた義弟の勝男さんは、当時を次のように振り返ります。
    「初雪を見るとね、
     朝子さんを思い出すんですよ。
     九州育ちの朝子さんにとって、
     雪国の生活は何もかも新鮮だったのでしょう。
     初雪を見た朝子さんは、
     『雪を見るのは初めて』と、
     飛び上がらんばかりに喜んで、
     屋根に上がったかと思うと、
     雪をたくさん詰めたバケツを抱えて戻って来て、
     お皿に雪を盛って砂糖をかけ、
     『美味しいわ』と言って食べていました。」

    明るくて朗らかで、笑顔がたえなくて、働き者で美人の若い奥さんです。
    火の消えたようになっていた谷藤の家の空気が、いっぺんにほがらかなものになった様子が伺えます。
    谷藤家の実家の誰もが、朝子さんをとっても大好きになりました。

    昭和20(1945)年7月上旬、青森の実家に、谷藤少尉から手紙が届きました。
    「官舎が空いたから一緒に暮らせる。
     満州に来てくれ」

    待ち焦がれた便りです。
    朝子さんの嬉しそうな顔が、まるで目に浮かぶようです。

    朝子さんは、いったん故郷の唐津に戻り、下関から釜山港行きの船に乗りました。
    このとき、朝子さんのお母さんが、港まで見送りにきました。
    お母さんは朝子さんに、
    「徹夫さんの勤務に
     しっかりとついて行くんですよ。
     一生懸命、
     内助の功をつくしなさい」
    と言いました。

    一人旅で、満鉄を乗り継いだ朝子さんは、やっと大虎山駅にだどり着きました。
    その朝子さんを、夫の谷藤少尉が出迎えました。
    夫は、ようやく板についてきた将校服を着ていました。
    谷藤少尉にとって、洗い立ての将校服は、愛する妻に最大限の敬意を払った服装です。

    お二人は、まる9ヶ月ぶりに再開しました。
    どんなになつかしかったことでしょう。
    どんなに嬉しかったことでしょう。

    お二人は、官舎で二人だけの新婚生活を始めました。
    当時の様子について、お二人の隣の官舎で暮らしていた第五練習飛行隊長の箕輪三郎中尉の奥さんが振り返ります。

    「谷藤さんが出て行くとき、
     いつも奥さんが
     『いってらっしゃい』と
     手を振って投げキッスをするんですよ。
     うちの子供がそれを見て、
     『かあちゃん、
      谷藤のおばちゃんがこういうふうにしたけど、
      あれって何なの?』って尋ねるから、
     『いってらっしゃいの合図よ』って答えましてね、
     それを聞いたうちの子は、
     お父さんがでかけるときに、
     真似して投げキッスをするようになったものでした」

    お二人の幸せな新婚生活が目に浮かぶようです。
    これが終戦も押し迫った、昭和20(1945)年7月のことです。

    谷藤少尉が勤務していた北満州の大虎山の日本陸軍第五練習飛行隊は、知覧から飛び立つ特攻隊員を育てる訓練隊でした。
    陸軍の特攻隊は、満州各地でも続々と編成され、満州各地にある訓練隊で訓練を積んだあと、鹿児島にある知覧飛行場などから沖縄の米艦隊に向けて出発していました。

    訓練は、もっぱら急降下を繰り返す特攻を意識した操縦法でした。
    当時の満州には、こうした特攻兵養成のための航空練習隊が、数十カ所ありました。
    そして大虎山飛行場には、11機の九七式練習機がありました。

    大虎山飛行場での谷藤少尉の様子について、当時17歳の訓練生だった前田多門さんが、次のように書いています。
    「温厚で教え方も丁寧でやさしかったです。
     日本国内の飛行訓練では、
     下士官上がりの教官から
     しょっちゅう殴られましたが、
     大虎山では一度も殴られたことはなかった。
     たしかに操縦はうまい教官だとはいえませんが、
     人格は立派な方でした」

    谷藤少尉の上官だった前出の箕輪中尉の妻、哲(てつ)さん(96歳)は、
    「谷藤さんは主人の副官役をされていたのですが、
     よく主人は『谷藤には教えられることが多い』と言っていました。
     少年兵がミスや規律を犯したとき、
     主人はカッとなって声を上げたようですが、
     あとから谷藤さんに、
     『ああいうときは人前ですぐ叱っちゃだめですよ。
      こっそり部屋に呼んでゆっくり諭さないと』
     と言われ、意見を素直に聞き入れたようです」

    そんな、やさしさを見せる谷藤教官ですが、彼が育てる訓練生たちは、ここを卒業したら特攻隊員です。
    生きて還ることはありません。
    彼は、
    「からなず後から行く」
    と、生徒全員に言っていたそうです。

    けれど、彼の意に反して、谷藤少尉に特攻出撃の命令が下ることはありませんでした。

    昭和20(1945)年8月9日、ソ連が突然日ソ不可侵条約を破って、満州に侵攻してきました。
    ソ連軍は、行く先々で虐殺、強姦、略奪を繰り返しました。

    大虎山の第五練習飛行隊からは、8月18日、谷藤少尉の同僚である二宮准尉が、大虎山から300kmほど離れた赤峰(せきほう)で、ソ連軍の行状を偵察飛行して確認しました。
    その報告は、
    「ウサギのように逃げ回る邦人を
     露助(ろすけ)が機関銃で撃ち殺し、
     戦車で轢き殺していた」
    というものでした。

    そしてその日、関東軍総司令部から第五練習飛行隊に、
    「ソ連軍に対して武装解除し、
     飛行機は全機、錦県の航空基地に空輸し、
     ソ連軍に引き渡すように」
    との命令が下りました。

    その日、飛行場の近く似合った伊予屋という小料理屋に、飛行隊の有志が集まりました。
    少年兵の教官を務めていた少尉やあ准尉の面々です。

    「戦わずにおめおめと降伏なんぞできるか。
     俺たちは露助と戦うぞ」
    と気炎をあげる彼らには、けれど空からソ連軍の戦車部隊をやっつけるための爆弾等の装備がありません。
    唯一の戦法は、空からソ連軍の戦車に体当たり突撃です。

    爆弾を搭載しない飛行機で体当たりしても、もちろんたいした損害は与えられません。
    けれど、それでもソ連軍が特攻を受けるのは初めてのことです。
    彼らに相当な心理的ダメージを与えることはできるはずだ。
    そうして彼らの進撃を遅らせれば、日本人居留民が、たとえひとりでも余計に帰還できる時間を稼げるに違いない。

    彼らの心は決しました。

    彼らは、自分たちの特攻隊を「神州不滅特別攻撃隊」と命名しました。
    自分たち亡き後も、祖国が未来永劫、栄えてもらいたい。
    そういう気持ちから付けた名前です。

    一夜明けて、19日の早朝、11名の飛行機乗り達は、将校集会所に集まり、最後の作戦会議をしました。
    たまたまそこに箕輪隊長が入ってきました。
    隊長は、黒板に書かれた文字や図、ただならぬ気配から、彼らが軍の上層部の命令に従わず、ソ連軍に特攻するつもりであることに気がつきました。
    そして若い教官達は、箕輪中尉に、作戦を打ち明けました。

    箕輪中尉は「それなら俺が指揮して行く」と言いました。
    それを諌めたのが谷藤少尉でした。
    「私たち以外にも、
     この航空隊には隊員がいるのです。
     隊長には大勢の部下達をまとめれいただけねば困ります。
     見て見ぬ振りをしてください」

    箕輪中尉は、「成功を祈る!」と言い残して、集会所を出て行きました。

    いよいよ出発のときがやってきました。
    11名の教官達は、箕輪隊長の前に整列しました。

    隊長は言いました。
    「これが諸君らの最後の任務である。
     残った兵士は陸路、錦県に向かう。
     向こうで合流する」

    もちろん、箕輪隊長は、彼らが錦県に行かないことを知っています。
    知っていて、公式にはこう言わざるを得なかった箕輪隊長は、そう激励しながら、嗚咽をこらえることができなかったそうです。

    11機の飛行機に、隊員たちが乗り込みました。
    そのとき、見送りの人達の中から、谷藤少尉の飛行機に、白いワンピース姿の朝子夫人が現れたのです。
    そしてその女性は、谷藤少尉の飛行機の、少尉の後ろの席に乗り込みました。

    大蔵巌少尉の飛行機には、前夜、みんなで打ち合わせした場所であった伊予屋の女中さんのスミ子さんが、やはり白のワンピース姿で乗り込みました。

    飛行機のエンジンが始動しました。
    離陸の爆音が響き渡りました。
    一番機は、谷藤機でした。
    そして次々と機体が空に浮かびました。

    11機は飛行場の上で旋回し、隊列を組みました。
    そのとき、伴元和少尉の飛行機が、エンジントラブルで飛行場のはずれに墜落してしまいました。
    残る10機は、青く澄み切った大空を、錦県のある西ではなく、赤峰のある北の空へと消えて行きました。

    新婚だった谷藤少尉が、どのような経緯で妻の朝子さんを特攻機に乗せることになったのかは、いまとなっては謎です。
    けれどひとついえることは、一緒に飛び立った仲間たちは、全員、朝子さんが一緒に逝くことを知っていたということです。

    おそらくは、前日、伊予屋で打ち合わせをしたときに、谷藤少尉の口から、「妻も行く」という言葉が発せられ、みんなもそれを理解したのではないか、と思うのです。
    であるとすれば、朝子さんと谷藤少尉の中で一緒に死のうと交わされた言葉は、その前であったはずです。

    おそらく、ただならぬ表情で帰宅した夫の様子に、朝子さんは夫が死ぬつもりであることをするどく感じ取ったに違いありません。
    そして、どうしても一緒に逝くと言い張った。
    二人の間には、喧嘩もあったかもしれません。
    けれど、朝子さんは、どうしても、と言って聞かなかったのでしょう。

    そもそも、女性を特攻機に乗せるなど、前代未聞です。
    けれど朝子さんを置いて行けば、11機が飛び立つことによって、大虎山周辺は、守備兵力が完全に失われます。
    そこにソ連兵が来たら、朝子さんはどうなるかわからない。
    「置いていくというなら、
     私は先に死にます」
    朝子さんは、そう言ったのかもしれません。

    出発の日である19日の早朝、一緒に散って行かれた岩佐少尉は、その日、許嫁とその母を失っています。
    岩佐少尉は、出発の日の朝、許嫁の母娘に、別れの挨拶に訪れたのです。
    すると許嫁は、母親と一緒に白装束を着ていました。
    いまから自刃して果てるという。
    そして二人の母娘は、岩佐少尉の介錯で、見事に自決しているのです。

    朝子さんは、知っていたのです。
    夫の谷藤徹夫は、同級生の二瓶少尉が、前年の12月、レイテで特攻隊として散って行ったことを、です。
    そして夫が、死に場所を求めていることにも気付いていたのでしょう。

    ソ連軍がせめて来たとき、そしてあらん限りの暴行をしているという事実に接した朝子さんは、そのときにはなにがなんでも愛する夫と一緒に空の旅に出ようと心に決めていたに違いありません。

    伊予屋に勤務していたスミ子さんは、名前がスミ子であったということ以外、いまではまったく何もわかりません。
    けれど、彼女は、前日の打ち合わせのときに、谷藤少尉が奥さんを連れて行くというのなら、私も一緒に連れていってと頼み込みました。
    結局、大倉少尉が、スミ子さんを乗せました。

    こうして二人の女性は、それぞれの愛する男性とともに、一緒に飛行機に乗り込み、満州の空へと飛去っていきました。

    11機が飛び立ったあと、小出宏元少尉は、今田達夫少尉から受け取った図嚢をそっと開けてみました。
    そこには一通の封筒と、30cmほどの短刀が納められていました。
    そして封筒の中には、和紙に墨書きされた檄文がはいっていました。

    そこに次のように書いてありました。

    「戦い得ずして戦わざる空の勇士11名
     生きて捕虜の汚辱を受けるのを忍び難し
     ここに神州不滅特別飛行攻撃隊を編成し
     昭和維新のさきがけたらんとす」

    大虎山を飛び立った10機は、一路、赤峰のソ連軍戦車部隊を目指しています。
    けれど隊員のひとりである宮川次郎少尉の飛行機は、途中でエンジントラブルに遭って墜落し、地元民に救助され、錦県の本部に帰還後、ソ連によってシベリアに抑留されています。

    残る9機が、その後どうなったのかは、杳としてつかめません。
    私たちとしては、たとえ一機でもいい、見事ソ連軍戦車を粉砕していて欲しいと願わずにいられません。


    この物語には、後日談があります。
    出撃の際に、飛行場で墜落してしまった伴少尉、途中で不時着した宮川少尉、第五練習航空隊の隊長であった箕輪中尉など、生き残った関係者は、その後、全員、ソ連軍によって連れ去られ、シベリアに抑留されました。
    そして伴少尉は、シベリアの収容所内で、若い命を落とされています。

    彼らが抑留されている間、日本国内では、最後の特攻を敢行した11名については、軍の正式命令に基づく特攻ではなく、自らの判断による特攻だったということで、戦後の日本政府による正式な調査も行われず、また靖国神社への合祀も行われませんでした。

    シベリアの抑留生活から帰国した箕輪元中尉らは、このことを知り、粘り強く厚生省と折衝を続け、やっっと昭和32年になって、彼ら10名は戦没者として認められ、靖国神社もかれらを合祀を実現しています。

    そして箕輪元中尉らは、さらに募金を集め、昭和42(1967)年5月に、東京世田谷区の世田谷観音内に、神州不滅特別攻撃隊の顕彰碑を建立しました。
    そしてその碑文に、
    「谷藤少尉の如きは、
     結婚間もない新妻朝子夫人を後ろに乗せて」
    の一文が刻まれたのです。

    顕彰碑が建立されたころ、朝子さんは、この時点で戸籍上はまだ生きている人として登録されていました。
    朝子さんの母親である中島トヨノさんは、九州の唐津で、愛する娘さんの帰りを、ずっと待っていました。

    事情を知る人が、朝子さんは徹夫さんと一緒に特攻機で旅立たれたのですよと話しても、トヨノさんは、娘は生きていると、絶対に信じようとしなかったそうです。

    昭和43(1968)年箕輪元中尉が、朝子さんの特攻出撃の日のことを詳しくしたためた死亡証明書をトヨノさんに手渡したとき、トヨノさんは、泣き崩れたそうです。
    「朝子が(釜山に渡る)連絡船に乗り込む時、
     『徹夫さんの勤務に喜んでついていくんですよ。
     一生懸命内助の功を尽くしなさい』
     と言って別れたんです。
     まさか、特攻にまで付いて行ったなんて・・・」

    出撃されたときの白のワンピースは、戦時下でのせめてもの死出の旅立ちの衣装だったのかもしれません。

    朝子さんは、ご主人のことを本当に愛していらしたのですね。
    どこまでも一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。
    たとえ命がなくなっても、魂は夫とともにありたい。
    昔は、肉体には魂が宿ると考えられていたのです。
    死ねば肉体は滅び、命はなくなるけれど、魂は永遠です。
    また輪廻転生するか、あるいは神となると思われていました。

    お二人の身はなくなりました。
    けれどお二人の魂は、きっと平和な世の中に生まれ変わって、幸せなご夫婦として、いまもどこかでお暮らしになられておいでなのではないでしょうか。

    スミ子さんも、隊員の方々が大好きだったのだろうと思います。
    日頃隊員の方々と接していて、この人達が大好きになったのでしょう。
    宿屋の女給とお客さんという立場を越えて、彼らと彼女には情が通ったのだと思います。
    だから一緒に死のうと思った。

    彼ら、彼女らはどうして死んだのでしょうか。
    祖国の不滅を信じたから?
    それだけではないと思います。
    魂というものは、ほんの数十年の人生で滅びてなくなってしまうような、ちっぽけなものではありません。
    彼らは、永遠に神州の守護神となって生き続けようとされたのだと思います。

    戦争が終わった後も生きて、神州をもう一度再興する人々がいます。
    その人々を信じたから、彼らは散っていったのだと思います。
    そしてその「信じられた」人々というのは、他でもない、いま生きている私達です。


    ※この記事は2011年10月の記事のリニューアルです。
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    その充電も、30分充電で伸びる走行距離が100キロ。

    つまり、現状では、300キロ以上走る場合は、それ以降、100キロ走るごとに充電が必要になる、というわけです。
    しかも、その給電の場所が、高速のパーキングに設置されているとはいえ、どこもだいたい2台分のスペースしかない。
    電力がギリギリの状態で、ようやくパーキングに着いたら、給電場所がふさがっていて、その間にバッテリーが無くなって、クルマが動かなくなるといった事態も想定されるわけです。

    EV車を推進しているのは、チャイナです。
    チャイナにしてみれば、世界の自動車市場が《政治的に》EVへと舵を切れば、自分たちの国が自動車マーケットで世界を席巻できる。
    莫大な富を得ることができるわけです。
    しかも、作るのは簡単で、タイヤにモーターを付けるだけです。

    ところがそんなチャイナでは、EV車が売れずに余りまくっているといいます。
    あたりまえです。
    国土が広く、一回の移動距離が長いのに、EV車では、間に合わないからです。

    現実の問題として、長距離輸送を行うトラックに関しては、EV化の話は全く出ていません。
    なぜかといえば、答えは簡単で、走行可能距離が足らないからです。

    戦後の日本は、最初は造船業から経済の復興が始まりました。
    日本海軍の誇る船舶技術が、まさに世界の最先端だったからです。
    ところがその造船業は、いまや日本は世界第三位です。
    一位がチャイナ、二位が韓国です。

    その後は、家電製品が世界へと進出していきました。
    これまた品質が最高だったからです。
    ところがその家電市場も、世界のシェアは、いまやチャイナ、コリアに持っていかれています。
    理由は簡単です。
    政府主導で、日本の技術が、工場や技術者ごと、チャイナ、コリアに流出したからです。

    金融も、かつては強大な力を持っていましたが、いまや日本の金融機関は、まるごと外資に乗っ取られて、日本国民の富を、なんだかんだと言い訳を付けて吸い上げるだけの機関になってしまっています。

    現在、残された市場は、いわば車だけになっています。
    ところがその自動車産業を、政府が主導で、EV化の名のもとに、これまた海外に売り渡そうとしている。

    いったいどこの国の政府なのかといいたくなります。

    産業があるから、雇用が生まれ、国民が所得を得ることができるのです。
    日本の政府なら、日本の産業を護るのが最大の使命であるはずです。
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    マッカーサーは
    「天皇とはこのようなものでありましたか!
     天皇とはこのようなものでありましたか!」
    と、二度この言葉を繰り返しました。そして、
    「私も、日本人に生まれたかったです。
     陛下、ご不自由でございましょう。
     私に出来ますことがあれば、
     何なりとお申しつけ下さい」と言いました。


    20181229 昭和天皇
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    昭和二十年(1945)九月二十七日のことです。昭和天皇が一人の通訳だけを連れてマッカーサーのもとを訪れました。
    「ついに天皇をつかまえるときが来た!」
    事前に連絡を受けていたマッカーサーは二個師団の兵力の待機を命じました。
    この時点で陛下をどのようにするのかGHQの中でも議論が交わされていました。
     方針は大きく分けて三つありました。
    一、東京裁判に引き出して絞首刑に処する。
    二、日本共産党をおだてあげ人民裁判の名のもとに血祭りにあげる。
    三、Chinaに亡命させて秘密裏に殺害する。

    いずれにしても、陛下を亡きものにすることが決められていたのです。
    ですからマッカーサーは陛下が命乞いに来られるのだと思いました。
    このため彼は傲慢不遜にマドロスパイプを口にくわえてソファーから立ちあがろうともしませんでした。

    このマドロスパイプを咥えたマッカーサーの姿は、彼が日本に降り立ったときの姿としても有名なものです。
    当時の米国はトウモロコシが主たる産物でした。
    これが小麦にとってかわるのは、日本占領後日本の農林十号と呼ばれる小麦が米国に渡ってからのことです。
    ですから当時トウモロコシでできたマドロスパイプ(コーンパイプ)は、米国の象徴だったのです。
    パイプタバコをやったことがある方ならおわかりいただけると思いますが、マドロスパイプのような柄の長いパイプは長時間咥(くわ)えていれません。口からヨダレがタラタラと流れてしまうからです。
    ですからマッカーサーがマドロスパイプを咥えるということは、米国のトウモロコシが日本を制圧したことの象徴であり、彼独特の先勝を誇示したポーズでもあったわけです。

    椅子に座って背もたれに体を預けて足を組み、マドロスパイプを咥えた姿は、ですから陛下をあからさまに見下した態度であったわけです。
    そのマッカーサーに対し陛下は直立不動の姿勢をとられました。
    そして国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとなさったうえで、このように仰せられました。

    「日本国天皇はこの私であります。
     戦争に関する一切の責任はこの私にあります。
     私の命においてすべてが行なわれました限り、
     日本にはただ一人の戦犯もおりません。
     絞首刑はもちろんのこと、
     いかなる極刑に処されても、
     いつでも応ずるだけの覚悟があります。」

    弱ったのは通訳です。その通り訳していいのか?けれど陛下は続けられました。
    「しかしながら
     罪なき八千万の国民が
     住むに家なく、
     着るに衣なく
     食べるに食なき姿において、
     まさに深憂に耐えんものがあります。
     温かき閣下のご配慮を持ちまして、
     国民たちの衣食住の点のみに
     ご高配を賜りますように。」

    マッカーサーは驚きました。
    世界中、どこの国の君主でも自分が助かりたいがために、平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが、いわば常識です。
    ところが陛下は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても」と淡々と仰せになられたのです。

    マッカーサーは、咥えていたマドロスパイプを、机に置きました。
    続いて椅子から立ち上がりました。
    そして陛下に近づくと、今度は陛下を抱くようにしてお掛けいただきました。さらに部下に、
    「陛下は興奮しておいでのようだから、
     おコーヒーをさしあげるように」と命じました。

    マッカーサーは今度はまるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に立ちました。
    そこで直立不動の姿勢をとりました。
    「天皇とはこのようなものでありましたか!
     天皇とはこのようなものでありましたか!」
    彼は、二度、この言葉を繰り返しました。そして、

    「私も、日本人に生まれたかったです。
     陛下、ご不自由でございましょう。
     私に出来ますことがあれば、
     何なりとお申しつけ下さい」と言いました。

    陛下も、立ち上がられました。そして涙をポロポロと流しながら、
    「命をかけて、閣下のお袖にすがっております。
     この私に何の望みがありましょうか。
     重ねて国民の衣食住の点のみに
     ご高配を賜りますように」と申されたのです。

    こののちマッカーサーは陛下を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開けて陛下をお見送りしました。
    そしてあわてて階段を駆け上がると、これまでのGHQの方針を百八十度変更するあらたな命令を下しています。
    このことがあったあとマッカーサーは、次のように発言しています。
    「陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた。」



    「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね。
     旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
     ヒロヒトが四十歳を過ぎた猫背の小男ということを
     日本人に知らしめてやる必要がある。
     神さまじゃなくて人間だということをね。
     それが生きた民主主義の教育というものだよ」

     昭和二十一年二月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、そんな会話が交わされていたそうです。
    ところがその結果は高官達の期待を裏切るものでした。昭和天皇は沖縄以外の全国を約八年半かけて回られました。
    行程は三万三千キロ、総日数百六十五日です。 各地で数万の群衆にもみくちゃにされたけれど、石一つ投げられたことさえありませんでした。

    英国の新聞は次のように驚きを述べました。
    「日本は敗戦し外国軍隊に占領されているが、
     天皇の声望はほとんど衰えていない。
     各地の巡幸で群衆は天皇に対し
     超人的な存在に対するように敬礼した。
     何もかも破壊された日本の社会では
     天皇が唯一の安定点をなしている。」

    イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか一ヶ月で廃位に追い込まれています。
    これに対し日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
    欧米人の常識では理解できないことが起こっていたのです。

    以下のことは、先日の日本史検定講座で高森明勅先生に教えていただいたことですが、フランスに世界を代表する歴史学者のマルク・ブロックという人がいます。
    そのマルク・ブロックが、ヨーロッパの歴史を書いた『封建社会』(みすず書房刊)という本があるのですが、その本の中で彼は次のように述べています。

    「西ヨーロッパは、他の世界中の地域と違って
     ゲルマン民族の大移動以降、
     内部で争うことはあっても、
     よそから制圧されて文化や社会が
     断絶するようなことがなかった。
     それによって内部の順調な発展があった。
     我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも
     共有することのないこの異例の特権を、
     言葉の正確な意味におけるヨーロッパ文明の
     基本的な要素のひとつだったと
     考えても決して不当ではない。」

    西ヨーロッパは歴史が断絶しなかったからこそ、中世の文化を継承し世界を征服するだけの国力をつけて十八世紀後半以降の市民革命を実現し、近代化を実現することができた。
    そのことを「我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも共有することのない異例の特権」とマルク・ブロックは書いているのです。
    ここに書かれたゲルマン民族の大移動は、四世紀から五世紀にかけて起きた事件です。
    そしてこの大移動をもって西ヨーロッパの古代の歴史は断絶し、まったく別な中世へと向かうわけです。

    日本の四世紀から五世紀といえば大和朝廷の発展期です。
    大和朝廷は弥生時代に倭国を築いた朝廷がそのまま大和地方に本拠を移したものに他なりません。
    弥生時代は縄文時代の延長線上にあります。
    弥生人は決して渡来人などではなく、縄文時代からずっと日本に住み続けた同じ日本人です。
    そしてその弥生時代がまさに卑弥呼の登場する時代です。
    その倭国が東上しながら古墳時代をつくり、そして奈良県の大和盆地に都を構えたのが大和時代です。

    その大和朝廷は、第三回の遣隋使で
    「東の天皇、つつしみて西の皇帝にもうす」
    と書いた国書を持参しました。
    これが日本が対外的に「天皇」を名乗った最初の出来事です。
    西暦六〇八年の出来事です。

    この大和朝廷が「日本」を名乗ったのが六八九年です。
    つまり天皇の存在は日本という国号よりも「古い」のです。
    そして万世一系、昭和天皇は第百二十四代の天皇です。
    ご在位は歴代天皇の中で最長です。昭和の時代は世界恐慌から支那事変、先の大戦、戦後の復興、東京オリンピック、そして高度成長と、激動の時代を生きられたのが昭和天皇です。

    その昭和天皇の辞世の御製です。

     やすらけき世を 祈りしも いまだならず
     くやしくもあるか きざしみゆれど


    この御製は昭和六十三年八月十五日に陛下が全国戦没者遺族に御下賜遊ばされたものです。
    「安らかな世をずっと祈り続けたけれど、
     それはいまだなっていない。
     そのことが悔しい。
     きざしはみえているけれど、
     そこに手が届かない」
    という意味と拝します。

    昭和天皇は崩御される直前に、「悔しい」と詠まれておいでなのです。
    どこまでも国民のためを思うご生涯を遂げられた昭和天皇の思いに、わたしたちは日本国民として、ちゃんと答えているのでしょうか。


    ※この記事は2011年3月から毎年掲載しているものです。
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    20220825 赤とん



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    以下にお話しするこのお話は、このブログで2010年7月に初公開し、翌年、航空自衛隊の機関誌「翼」に掲載いただいたものです。
    掲載のあと、翼の記事を読まれたというYさんという方からメールをいただきました。
    Yさんはこの戦いに参加された第三龍虎隊のパイロットのひとりの息子さんです。
    Yさんは、ご自宅の仏間に飾ってあるお写真のスキャン画像を一緒に送ってくださいました。
    それが上の写真です。

     この写真の裏にはお父様の字で、
    「神風竜虎隊 別れの宴(台湾新竹基地)」
    と書かれています。
    撮影されたのが昭和二十年七月二十六日。
    場所は台湾にあった新竹航空基地です。
    まさに出撃直前の別れの宴のときのものです。
    左から五番目が、第三龍虎隊を指揮され、見事散華された三村弘兵曹です。

     お写真の三村兵曹は、飛行マフラーをしていません。このことに気付いたYさんのお父さんが、自分の絹のマフラーを渡してあげたそうです。このとき、特攻人形も一緒に渡したと、日記に書かれてあるそうです。

    「赤とんぼ」というのは、昭和九年に練習機として採用された複葉の飛行機です。正式名称は「九三式中間操縦練習機」で、鋼管フレームに躯体は木、翼は布張りでできていました。日頃は練習機として使われ、機体を視認しやすい「オレンジ色」に塗装していたことから、多くの国民から「赤とんぼ」の名称で親しまれた飛行機です。
     飛行機としての性能は、当時使用されていた戦闘機などと比べて圧倒的に低く、たとえば当時の戦闘機は、だいたい時速六百キロくらいのスピードで飛んだのですが、「赤とんぼ」は特攻のための二百五十キロ爆弾を搭載すると、その飛行速度は最大で時速百三十キロくらいです。しかも飛ぶためにはエンジンを全開にしたフルスロットル状態で、ようやく空に浮いているという状況でした。
     その「赤とんぼ」が、見事、特攻作戦を成功させ、米駆逐艦キャラハンその他三隻の艦艇を撃沈破の大戦果を挙げたのです。
     そうはいっても、大東亜戦争の末期には、自動車で言ったらすでに十一年落ちです。当時としては、すでに軍用機としては、相当型落ちの旧式飛行機です。
     ただ、いいところもあって、燃料のガソリンに、アルコールを混入した「八〇丙」という劣悪な燃料でも飛ぶことができました。大東亜戦争末期の昭和二十年は、日本の石油輸入量はゼロです。こうした機は、ある意味実に貴重な存在だったわけです。

     昭和二十年七月二十四日、台湾の竜虎海軍基地で、この九三式中間操縦練習機で、夜間爆撃訓練をしていた三村弘上飛曹以下八名に、特攻命令が下りました。
     七月二十六日早朝、台湾の新竹基地に到着した彼らに、「神風特別攻撃隊第三竜虎隊」の命名式と別盃式が行われました。このときの模様が先ほどの写真です。
     式が終わると、彼らはすぐに出発しました。台湾の宜蘭基地を経由して、石垣島に向かい、そこから先島諸島、宮古島へと移動するのです。
     これは本来なら、台湾からひと飛びの距離です。しかし、それができるだけの性能が、この飛行機にはありません。燃料も持たなかったし、とにかく速度が遅いから、飛ぶのに時間がかかるのです。この移動だけでも九三式中間操縦練習機にとっては、たいへんなことでした。

     実は、「第三竜虎隊」に先だって「第一、第二竜虎隊」が台湾を出発しています。しかし、第一も第二も、飛行中に機体に故障が続出、さらに天候不良が重なって、両隊ともほぼ全機が与那国島へ不時着し、飛行不能となり、攻撃が中止されていたのです。
     こういう機まで、特攻作戦に参加させる。特攻機の向かう先は、沖縄の海でした。そこまでしてでも、日本は、沖縄を護ろうとしたのです。

     二十八日夜半、「第三竜虎隊」は、赤トンボに、二百五十キロ爆弾をくくりつけました。これまた無茶な話です。当時の戦闘機は2000馬力級です。対する赤とんぼのエンジンは、わずか三百馬力しかありません。爆弾をくくりつけたとたん、それだけで機の性能の限界に挑む飛行になるのです。
     おかげで、宮古島を離陸してすぐに、八機の内の一機がエンジントラブルに見舞われてしまいました。限界を超えてエンジンを全回転させているのです。無理もありません。やむをえず、その機は引き返しました。引き返した機は、ようやく宮古島に到着したのですが、着陸までエンジンが持たず、機が大破しています。
     残る七機は、三村隊長機を先頭に、整然と隊列を組んで沖縄に向かいました。しかしやはりエンジンが不調となり、二機がいったん宮古島に引き返しています。残る五機は、そのまままっすぐに米艦隊の群がる沖縄の海に向かいました。

     沖縄までたどり着くだけでもリスキーな赤トンボです。その沖縄の海には、見渡す限りの米軍、大艦隊がいます。到着したとしても、速度の遅い赤とんぼに、猛烈な敵の対空砲火をかいくぐり、見事、特攻を成功させることができるのでしょうか。
     三村隊長は、出発前の日記に、
    「九三中練で死ぬとは思いもよらず」、「九三中練とはちょっと情けないが、我慢しよう」と書いています。どうみても、できるはずもない作戦だったのです。

     ところが奇跡が起こりました。まず赤とんぼ隊は、米軍のレーダーに発見されなかったのです。いや正確には、レーダーに発見されたのですが、飛行機と思われなかったのです。
     実は米艦隊は、当時、最新式のレーダー探知機を使って、赤とんぼ隊を百五十キロ手前で捕捉していました。ところが、赤とんぼは、極めて操縦性能の良い練習機です。夜の海を海上すれすれに飛んでいます。そのためレーダーに捕捉されにくく、しかも機体は木と布です。たまにレーダーに反応しても、光点は、点いたり消えたりだったのです。しかもあまりに飛行速度が遅い。
     このことは米艦隊の中でも、議論になりました。レーダーに出たこの光点は、鳥か、飛行機か、誤反応か?
     本来なら、特攻攻撃に備えて準備万端整えるのに、その迷いが、米軍の戦闘準備を遅らせました。そして米軍が、ようやく「敵機だ」と気が付いたときは、すでに赤とんぼ隊は、艦隊のわずか二十キロ、到着までわずか十分弱の距離まで近づいていたのです。

    「敵機来襲!」
     米艦隊は大慌てて、特攻攻撃に備えました。けれど、当時の艦船の戦闘準備というのは、そんなに何分でできるような簡単なものではありません。艦上は大混乱に陥ります。
     敵は、どこだ!?
     見れば、もう目の前を超低空で日本機がやってきています。しかもそれはなんと、古式ゆかしい二枚羽根の飛行機です。
     当時、米軍が日本の特攻機対策のために採用していた対空用の高射砲は、飛来する飛行機のすぐそばで破裂すると、弾薬の中の鉄片が四散し、弾が直接当たらなくても、敵機を撃墜できるというものでした。
     ところが、練習機赤トンボは、あまりの低空飛行です。高性能高射砲を、その角度で撃ったら、友軍の艦船に弾が当たってしまう。

     それでも果敢に近距離砲を使って、米艦隊は全艦をあげて迎撃を行います。滅茶苦茶に弾が飛んでくる。
    赤とんぼは、低速です。何発もの弾が、赤とんぼに命中しました。いや、命中したはずでした。ところが、赤トンボは、墜ちないのです。
     対空砲火の弾は、敵機に当たると炸裂するようにつくられているのです。ところが、赤トンボは、布張りです。弾は、当たっても貫通してしまって炸裂しない。エンジンか、燃料タンクか搭乗員に命中しない限り墜ちないのです。

     三村隊長以下五機の「第三竜虎隊」は、全機、敵弾を受けて機体を穴だらけにしながら、さらに敵艦隊に肉迫しました。
     敵の輸送船には目もくれません。狙いはあくまで敵の軍艦です。
     最初の一 機が、米軍の誇る最新鋭駆逐艦「キャ ラハン」の右舷に体当たりしました。赤とんぼは低速で、しかも機体も軽いから、艦上で爆発炎上し、木端微塵になりました。通常これだけでは固い装甲を施した駆逐艦は沈没しません。ところが赤とんぼが、やっとのこと で吊り下げてきた二五〇キロ爆弾は装甲弾です。爆弾は機関室まで突入し、そこで大爆発を起こしました。「キャラハン」の機関室のすぐ脇には、対空弾薬庫がありました。炎はこれに誘爆し、艦は大爆発炎上したのです。そして午前二時三十五分に沈没してしまいました。あっという間の得出来事でした。

     米軍は、大東亜戦争当時の自軍の被 害については、いまにいたるまで、その場であっという間に完全に沈没した 艦以外は「沈没」として発表していません。たとえば大破炎上して数時間の後に沈んだ船は、それが敵である日本の船なら「撃沈」に加えられますが、自軍の船なら「大破」として発表しています。
    戦いの場では沈んでいないというわけです。けれどこのときの「キャラハン」は、どうにも誤魔化しようのないものでした。まさに「沈没」とされました。そしてこの駆逐艦「キャラハン」が、 米軍の発表する最後の「特攻機に沈められた艦」となりました。

    続く二番機は、「キャラハン」のすぐ近くにいた駆逐艦「プリチット」に突入しました。「プリチット」 の対空砲火開始は、なんと赤とんぼとの距離が千五百メートルに迫ったときでした。それでもギリギリ、艦のわずか一・八メートル手前で、赤とんぼを撃墜しました。しかしこの日のために訓練を積んだ「第三竜虎隊」の執念だったのでしょうか。赤とんぼは、海上に激突する寸前に、搭載した二百五十キロ爆弾を、機体から切り離したのです。爆弾は海面に激突する赤とんぼを離れ、弧を描いて「プリチット」 に命中しました。「プリチット」は、大破炎上します。

     このことは、艦までわずか一・八メートルの距離にまでせまった赤とんぼの機体の中で、パイロットに意識が残っていたことを示しています。死のほんの何秒の瞬間まで、その闘志が衰えていなかったのです。おそらくその時点で、彼の全身には敵の重火器の砲火があたり、もしかしたら肉体の一部は飛ばされてなくなっていたかもしれません。そういう、過酷な状況の中で、それでも彼は操縦桿をひき、爆弾投下スイッチを操作して、「ブリチット」に二百五十キロ爆弾を当てているのです。まさに闘神そのものです。

     「プリチット」の近くにいた、米駆艦「カシンヤング」は、「赤とんぼ」 二機を撃墜しました。ところが、いったん宮古の基地に引き返した「赤とんぼ」 二機が、機体の整備を終え、すぐに後方から迫ってきていたのです。

    この二機も、やはり米軍のレーダーに発見されずに飛来しました。そして気付いたときに は、最初の特攻攻撃が終わってホッとひといきついていた「カシンヤング」 の目の前にこつ然と、その複葉の機体をあらわしていたのです。
     「カシンヤング」は、迎撃準備をするヒマさえありませんでした。超低空を飛行してきた二機の「赤とんぼ」は、仲間の敵討ちとばかり、「カシンヤング」 の右舷に激突しました。「カシンヤング」 は、艦の中央部が大爆発し炎上します。この戦闘で、「カシンヤング」は二十二人が戦死、四十五人が重傷を負っています。

     さらにこの戦いで、米駆逐艦の「ホラスAバス」にも特攻機が命中しています。タイミングからして、これも赤トンボの第三竜虎隊による戦果であるとしか考えられません。
     結局、「第三竜虎隊」7機中五機が命中しています。成功率七割です。大戦果です。

     いま、宮古島の市営陸上競技場の東の嶺に、彼ら「神風特攻隊第三次竜虎隊」の碑が建っています。そこには、次のように記載されています。

    【建碑の由来】
    もう何も思うまい何も思うまいと、思うほどこみ上げる父母への思慕、故郷の山河。今生の別れの瞼にうかぶ月影淡く孤独を伴に無量の思いを抱き、唯ひたすら沖縄へこの胸中いかにとやせん。ああ途絶の死真に痛恨の極みなり

     一九四五年七月二十九日夜半
     神風特別攻撃隊第三次竜虎隊上飛曹 三村弘
     一飛曹 庵 民男
      同  近藤清忠
      同  原  優
      同  佐原正二郎
      同  松田昇三
      同  川平 誠

    義烈七勇士は、日本最後の特攻隊として、世界恒久の平和を念じつつ、ここ宮古島特攻前線基地を離陸。沖縄嘉手納沖に壮烈特攻散華す。その武勇萬世に燦たり。願はくば御霊安らかに眠られよ。父母のみむねに

     神風特別攻撃隊竜虎隊一同
     一九九五年七月二十九日
     神風特攻第四次竜虎隊員
     滋賀県水口笹井敬三


    【鎮魂の詩】
    紺碧の海 風亦清し
    島人素朴にして
    人情濃いなり
    誰か思わん 此の地激戦跡なるを
    瘡偉飢餓将兵僵る
    相図る戦友建碑の事
    鎮魂痍悼安眠を祈る
    幾たびか島を尋ねて遺族感泣す
    更に願う
    島を守りて 平和の全きを

     昭和六三年 十月吉日

    この文を書く前、たまたまウィキペディアで「特別攻撃隊」の記事を読んでみたら、そこには、次のように書いてありました。
    「元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していた為、極端に速度が遅く、航続距離も短い複葉機や固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は、敵機の好餌であり、ほとんど戦果をあげられなかった。だがまったく使えなかった訳でもなく、僅かながらも戦果を挙げている(九三式中間練習機による特攻は、一九四五年七月二十九日出撃の「第三龍虎隊」が駆逐艦一隻を撃沈している)。」

     悲しいことです。「わずかばかり」とは何事でしょうか。しかも、戦果は駆逐艦一隻のだけではないのです。

     戦後、私たち日本人は、こうして命をかけて戦った帝国軍人を、微妙な言い回しで辱められ、貶められてきました。でも、もう、真実に目覚めるときです。いつまでもお人よしで騙され続ける日本人ではいけない。事実は事実として明確に主張し、断固として自存自衛を確立した日本を、いちにちも早く取り戻すべきだ、と強く思います。


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    伊五十八潜水艦のことを書いておこうと思います。
    原爆を日本に運んだ米国の重巡洋艦インダナポリスを撃沈した潜水艦です。

    伊五十八潜水艦
    20220825 伊五十八潜水艦
    画像出所=https://twitter.com/ura_tamaki/status/787455564997550081?lang=fr
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    伊五十八潜水艦のことを書いておこうと思います。
    原爆を日本に運んだ米国の重巡洋艦インダナポリスを撃沈した潜水艦です。

    伊号第五十八潜水艦は、昭和一九年九月に乙型二九隻の最終艦として竣工された潜水艦です。
    最新鋭のレーダー装備を完備し(レーダーは米軍だけの専売特許ではありません。そもそもレーダーの開発者は日本人の八木秀次博士です)、人間魚雷回天を搭載した新鋭艦です。

    ちなみに回天は、昭和二十年八月十五日の終戦の日、米政府から日本政府に対して、「回天特攻中止」を特別に申し入れています。それだけ回天による米軍の被害が甚大だったのです。

    昭和二十年七月十八日のことです。
    「回天多聞隊」六基を搭載し、山口県の平生基地を出撃した伊五十八潜水艦は、出撃十日目に、レーダーで敵、大型タンカーと駆逐艦を発見し、回天二基を発進させました。
    そして駆逐艦だけを撃沈しています。

    次いで伊五十八潜は、東カロリン諸島に向かいました。
    艦内はまるで蒸し風呂でした。
    七月二九日午後十一時、月の昇る時刻に合わせて、潜望鏡深度に浮上した伊五十八潜は、月明かりで洋上を視察しました。
    続いてレーダーで上空の敵機を探りました。
    反応なしです。

    「浮上する、メインタンク・ブロ~」
    橋本以行(はしもともちつら)艦長の令に静かに浮上した艦橋に、航海長、信号長、見張員が駆けのぼり、素早く九七式口径十二センチの双眼望で、洋上を探りました。

    当時のレーダーは、捕捉距離が一万二千メートル、つまり十二キロメートルです。
    けれど、十二キロというのは、洋上では、間近な距離でしかありません。
    これが何を意味するかというと、視界があれば目視の方が、遠くまで見渡せたということです。
    私などは学生時代に教師から、
    「米軍はレーダーを多用したのに、日本軍はレーダーがあっても目視に頼っていた。馬鹿な軍隊だった」と教わりましたが、これは当時の技術力の限界を無視した暴論というべきものです。

    「左前方に何か発見!」
    見張り員が叫びました。
    航海長もそっちの方角を探りました。
    月明りの水平線上に、点のような艦影が一つありました。

    橋本艦長は、直ちに「潜航」を命じました。
    潜行しながらも橋本艦長は黒点をしっかりとらえていました。
    黒点は次第にハッキリしてきて艦影を現しました。

    敵艦です。

    薄暗い月明りの中で、なんと一万二千メートル以上の距離で、敵のレーダーより先に敵艦を発見し捕捉したのです。
    どれだけ日本の見張員が優秀だったかということです。

    艦影から、米国の重巡洋艦であることがわかりました。
    艦長が静かに命じました。

    「魚雷戦用意」

    続いて「回天用意」の号令もかかりました。
    敵艦はまだ、まったく気づいていません。
    対潜警戒のジグザグ航行もしていません。
    こっちに真っ直ぐ進んできます。
    周りに護衛艦もいない。
    そのうち艦橋が確認できる距離にまで近づきました。

    この暗さです。
    潜望鏡しかない回天では命中は厳しい。
    橋本艦長は、この時点で、通常魚雷による攻撃を決断しました。

    距離、約四千メートル。

    敵は、進路を少し変えました。
    これなら敵艦に真上を突っ切られる恐れはありません。
    むしろ好射点です。

    艦長は潜望鏡で標準を合わせながら命じました。
    「魚雷発射管六、発射始め」

    それぞれの乗組員は、敵艦の速度、方位、距離を測定し、諸元を調整しました。
    距離千五百メートルになりました。
    射程圏内です。

    「魚雷発射よーい。
     てっ~!!」

    艦長の号令のもと、六本の魚雷が二秒間隔で発射されました。
    魚雷は扇型に開きながら敵艦めがけて進みました。

    静寂が続きました。
    そして潜望鏡を覗く橋本艦長の声が響きました。
    「命中!」

    一発目は一番砲塔の真下に命中。
    二発目は二番砲塔に命中。
    三発目は艦橋付近に命中。

    光景を第二潜望鏡(夜間航海用)で視認した艦長は、他の乗員にも潜望鏡を覗かせて確認しました。
    しばらくすると、三発の衝撃波が届きました。

    次に発射する魚雷装填のために、伊五八は、ふたたび潜航しました。
    装填を終えて、潜望鏡深度に浮上しました。
    敵艦の姿は既に洋上にありませんでした。
    この間、わずか十二分のできごとでした。

    橋本艦長は、艦隊司令部に打電を命じました。
    「ワレ伊五八潜、
     ヤップ島北西方
     北緯十二度二分東経百三十四度四十八分ニオイテ、
     アイダホ型戦艦ヲ撃沈ス」

    伊号潜水艦が撃沈したのは、米国の重巡洋艦インディアナポリスでした。
    そしてこの艦は、日本に投下された二発の原爆を米国から運んだ艦でした。

    大東亜戦争で、日本が撃沈した米軍艦船は、三百五十隻以上にのぼります。
    その戦績は、驚異的強さを誇った初戦の時期だけでなく、ミッドウエーで敗れ、海軍力を大幅に低下させ、制海権すらなくなった中ですら、継続して戦績を挙げています。
    そして、米軍の攻撃対象がもっぱら日本の輸送船だったのに対し、日本の艦船の攻撃対象は、必ず、軍船に向けられていました。
    日本は、敗色濃くなった戦場ですら、国際法規を遵守して戦っていたのです。

    戦後生まれのわたしたちは、旧日本軍は非科学的で非人道的であったように教えられてきました。
    米国の勝利は正義と民主主義の勝利であったように語られてきました。
    そして日本側の激戦に関する報告や体験談はほとんど語られず、生き抜いた元軍人たちの証言は、反日的、反国家的な偏向を持つ者のものだけが紹介され、真剣に国のために命を捧げようとした人々の話は、まるでスルーされてきました。

    パラオのアンガウル島で激戦を息抜き、戦後渋谷で書店を経営された舩坂弘さんが書いた本に、次の記述があります。
    「われわれとともに戦い散っていった戦友たちを思うとき、
     私はこの師団に所属したことを誇りに思わないわけにはゆかない。
     戦後、軍隊に対する一方的な批判や、
     あたかも太平洋戦争の犠牲者を犬死となすような論がしきりになされた。
     だが、それらはいずれも軍隊において
     落伍者であった者のするインテリ兵の時流に乗った発言であって、
     当時の私たち青年は純真素朴に
     『故国のために死す』ことを本望として
     敵軍に突入していったのである。」

    落伍者であったインテリ兵の「時流に乗った発言」は、戦後のGHQによる宣撫工作や、まともな人の公職追放などを受け、「単なる非常識」の「腰ぬけチキン」の発言が、普通ならあり得ない市民権を得たのです。
    それが戦後の日本でした。

    そのため、たとえば特攻にしても、「保守」を自称している方々ですら、
    「初期の頃の特攻は効果があったけれど、
     後期はほとんど撃墜されて効果がなかった」
    と信じている人がいたりもします。

    しかし米国公文書館が時限切れで公開したウォーダイヤリー(戦闘記録)によると、特攻攻撃によって、なんと六割近くの艦船が突入被害を受けていると書かれています。
    当時の米軍は、艦に被害を受けても、その場で沈まない限り「大破」と発表しています。
    けれど、米軍のウォーダイヤリーによると、「大破」と発表された艦のほとんどすべてが、結果として沈没、または使用不能艦となっていることが確認されています。
    ウソも隠しもない、これが事実です。

    日本は、米国が原爆を完成させるより前に、原爆を完成させていました。
    名前を「新型爆弾」といいました。
    新型爆弾は、すでに使用できる段階まで開発が進んでいました。

    軍の上層部は、この新型爆弾をもって、米国に乾坤一擲の大勝負を挑みたいと昭和天皇に上奏しました。
    記録に残っている史実です。

    そのとき陛下は、次のようにおおせられました。
    「その新型爆弾によって、たとえ我が国の戦況が有利になることがあったとしても、そのために、相互が新型爆弾の投下合戦にいたり、結果、何百万もの無辜の民が死ぬようなことになるとしたら、朕はご先祖に申し訳がたたない。」
    陛下はそのように述べられ、原爆の製造の禁止を、その場で取り決められています。

    ですから陛下も日本国政府も、原爆が投下されたとき、それが新型爆弾(原子爆弾)だとすぐにわかりました。
    ですからスイスを通じて、米国政府に以下の抗議文を出しています。

     *

    【米機の新型爆弾による攻撃に対する抗議文】

     今月六日、米国航空機は、広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し、瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅させました。
    広島市は、何ら特殊の軍事的防衛機能や、そのための施設を施していない普通の一地方都市です。
    同市全体を、ひとつの軍事目標にするような性質を持つ町ではありません。

     本件爆撃に関する声明において、米国トルーマン大統領は、
    「われらは船渠(せんきょ)工場および交通施設を破壊した」と言っています。
    しかしこの爆弾は、落下傘を付けて投下され、空中で炸裂し、極めて広い範囲への破壊的効力を及ぼすものです。
    つまり、この爆弾で、この投下方法を用いるとき、攻撃の効果を右のような特定目標に限定することは、物理的に全然不可能なことは明白です。
    そして本件爆弾が、どのような性能を持つものであるかは、米国側は、すでに承知しているものです。

     実際の被害状況は、広範囲にわたって交戦者、非交戦者の別なく、男女老幼を問わず、すべて爆風および幅射熱によって無差別に殺傷されました。
    その被害範囲は広く、かつ甚大であるだけでなく、個々の傷害状況を見ても、「惨虐」なるものです。

     およそ交戦者は、害敵手段の選択について、無制限の権利を有するものではありません。
    不必要の苦痛を与えるような兵器、投射物その他を使用してはならないことは、戦時国際法の根本原則です。
    そのことは、戦時国際法であるハーグ陸戦条約規則第二十二条、及び第二十三条(ホ)号に明定されています。

     米国政府はこのたびの世界大戦勃発以来、再三にわたって、
    「毒ガスその他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の世論によって不法であり、相手国が先に使用しない限り、これを使用することはない」と声明しています。
    しかし、米国が今回使用した本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器よりも、はるかに凌駕するものです。

     米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたって日本の大都市に対して、無差別爆撃を実施しています。
    多数の老幼婦女子を殺傷しています。
    神社や仏閣、学校や病院、一般の民家などを倒壊または焼失させています。
    そしてさらにいま、新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物とも比べ物にならない無差別性、惨虐性をもつ本件爆弾を使用したのです。
    これは、人類文化に対する新たな罪悪です。

     日本政府は、ここに自からの名において、かつまた、全人類、および文明の名において、米国政府を糾弾します。そして即時、かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求します。

    昭和二十年八月十一日

     *

     抗議文にあるように、「交戦者は、害敵手段の選択について、無制限の権利を有するものではありません。」
    では、戦時国際法を無視した害敵手段を行った場合は、どうなるのでしょうか。

    戦争には、戦時国際法というルールがあります。
    そのルールを無視したら、プロレスでいったら場外乱闘です。
    実際の戦争では、それはすでに戦争の範疇を超えた、ただの国家規模の虐殺になります。

    ルールがあるのが戦争です。
    ルールを無視した虐殺行為は、戦争ではなく、犯罪行為です。

    日本の伊五十八潜水艦は、原爆を運んだ米重巡洋艦インデアナポリスを、フィリピンのレイテ湾に向かう途中で撃沈しました。
    昭和二十年七月三十日、午前〇時十四分のことです。
    それは神々のご意思であったのかもしれません。


    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    中華人民共和国国歌といえば「義勇軍進行曲」ですが、この歌実は日本で作曲され、歌詞も日本で受けた教育がもとになっていることは、みなさんご存知でしょうか。
    たぶん、以下をお読みいただくと、めっちゃおもしろいと思います。
    けれど、史実です。

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    中共はいまでは世界の安全を脅かすほど強大になり、昨今では日の沈む日本、日の出の勢いの中共のようなイメージで語られることが多いようです。
    けれど、中共が経済的に発展したのは、実は、わずか10年間のことでしかありません。

    西暦2000年当時、日本は中共の8倍の経済力を持っていました。
    ところが2010年には、中共は日本の3倍の経済力を持つに至っています。
    要するにこの期間中に、日本の富が中共に流出したのです。

    思い返してみれば、いまから30年前には、チャイナ製品を日本でみかけること自体がめずらしいものでした。
    中共製品で売られていたのは、中華街の土産物程度でしかなかったのです。
    ところがいまではあらゆる製品に「Made in China」があふれています。
    同様のことは世界中で起きています。

    中共がなぜこうまで短期間に経済力を付けることができたのか。
    理由のひとつは、日本経済の付替えです。
    日本経済があまりに強くなりすぎた結果、日米貿易摩擦によって日本製品が世界の市場から追い出されそうになりました。
    そこで生産拠点をチャイナに移し、日本は技術と原料を提供するだけという形にしたわけです。
    これにより中共は、経済をいっきに拡大させることになりました。

    もうひとつの理由は、経済マジックです。
    これについては、拙著『金融経済の裏側』(https://amzn.to/3aU6DyI)に詳しく書いていますので、ここでは割愛します。

    さて、本日のお題は国歌です。
    中華人民共和国国歌といえば「義勇軍進行曲」ですが、この歌実は日本で作曲され、歌詞も日本で受けた教育がもとになっていることは、みなさんご存知でしょうか。

    たぶん、以下をお読みいただくと、めっちゃおもしろいと思います。
    けれど、史実です。

    昭和10(1935)年のことです。
    Chinaで「風雲児女(嵐の中の若者たち)」という映画が上映されました。
    その映画の中で、若者達が軽いノリで笑いながら歌う歌が、実は後に中華人共和国国歌となる「義勇軍進行曲」だったのです。

    この歌は、その後、旧満州の抗日デモなどで盛んに歌われるようになるのですが、歌詞にある「起来! 不願做奴隸的人們!(起て、奴隷になることを願わぬ人々よ)」が、多くのChineseの共感を呼び、Chinaの民族解放運動の行進曲としてChina全土へと広がって行きました。

    従って、この歌詞の「起来! 不願做奴隸的人們!」は、ある意味すごい伝播力をもった素晴らしいコピーとなったわけですが、実はこの歌詞を書いた田漢(でんかん、簡体字表記は田汉)は、日本の東京高等師範学校で学んだ人です。

    田漢(でんかん)
    田漢


    田漢が師範学校で学んだ期間は、大正6(1917)年から大正9年までの4年間です。
    この頃の日本は、日露戦争で大勝利をおさめ、大正3(1914)年には人類史上初の世界的大戦争である第一次世界大戦に、欧米連合国の一員として参戦し、またたく間にドイツ軍を降伏させた、まさに日の出の勢いの国家でした。

    そして東京師範学校は、もちろん軍人養成校でもあるわけですから、国威発揚精神教育、東亜の伝統を重んずる精神の育成、欧米の植民地支配の実情と歴史に関する教育、東洋民族解放のために必要な精神の熟成等を生徒たちに教えていました。

    じつは、そうした文化観、歴史観というものは、当時の東洋(のみならず世界)に、ないものです。
    当時の世界は、白人こそが「人」であり、有色人種は「人の皮をかぶっただけのバルバロイ(獣人)」でしかない。それが世界の普遍的標準的思想です。

    いまの世の中では、人種の平等は、むしろあたりまえのことですが、当時の世界では、人類の平等や、諸民族のもつ歴史の素晴らしさ、そしてそのために必要な具体的課題を教えているのは、日本の師範学校だけだったのです。

    田漢にとって、東京師範学校での体験がいかに刺激的なものであったか。
    そのことは想像するにあまりあります。

    ここでひとこと添えますと、共産主義というのは、一面において人種の平等を歌います。
    もともとがロシア的ユートピア思想からきていますから、人に上下の差別なく、人種のさべつさえもないユートピア(これを原始共産主義社会といいます)の建設を至上課題としています。
    ですから田漢の生きた「西欧による人種差別があたりまえ」の時代に、平等主義である共産主義は、たいへんな人気となったわけです。

    ところが、共産主義思想においては、めざす結果としてのユートピアは、結果としてはただの偽装でしかなく、実体は上下関係(社会的関係)を、ただ破壊するだけの破壊主義でしかなかったわけです。
    なぜなら、共産主義は、ユートピア建設のために、既存の社会的仕組みを破壊することを正義とするからです。

    これに対し、日本の師範学校で教えた主義思想は、人種は平等であること。そしてその平等を実現したいならば、自らを律し、自らが立派な人間、立派な存在に成長することによって、西欧社会の信頼を勝ち得よう、そのために君たちは、民衆の師範(リーダー)になるのだ、というものでした。

    民衆のすべてが素晴らしい人間になることは理想ではありますが、非現実的です。やはりおかしな人もいる。
    だからこそ、民衆の間に、真のリーダーとなる人を育て、そのリーダーにみんなを引っ張って行ってもらう。
    そういう民衆のリーダーとなるべき人を育成するために設立されたのが師範学校です。
    師範というのは、民衆の師匠であり、模範となる人、という意味です。

    だからこそ、田漢は、「戦え、奴隷になるな」と作詞したわけですが、その意図にあったのは、人が人を殺し奪うという戦いではなく、自分との戦いにおいて、奴隷にならない立派な人間になろうという意図があったし、だからこそこの歌詞が、Chinaの多くの文化人に受け入れられたわけです。

    ところが中共政府は、この田漢の「戦え!」を、相手を殺し、支配するという、いまだに「相手」に向けて解釈しています。残念なことです。
    この一点をもってしても、中共政府は民衆の師範たりえない存在であることがわかります。
    また日本において、中共国歌のこの歌詞を、他人を殺し支配するという意味で「素晴らしい」と拡散している左翼系の人たちは、やはり民衆の師範たりえない残念な人たちであると思います。

    田漢は、上海に帰国すると、すぐに雑誌「南国月刊」を創刊しました。
    東洋民族の民族愛と、東亜の歴史伝統を伝える雑誌です。

    欧米による植民地支配があたりまえの常識だった時代において、彼の創刊した「南国月刊」は、Chinaの文化人たちのなかで、まさに大ヒット雑誌となりました。

    そしてこの雑誌のヒットにより、田漢は、昭和3(1928)年には、文学・絵画・音楽・演劇・映画の5部門をもつ南国芸術学院を開校させるに至っています。

    そして田漢は、昭和7(1932)年、China共産党に入党しました。
    そもそも人種どころか人そのものに上下の区別(差別)はない、原始共産主義であるユートピアにおいては、人はみな平等であるというのが、共産主義の建前です。
    人種の平等、奴隷支配からの脱却を希求する田漢が、思想としての共産主義に傾倒したのも、うなづけます。

    共産党員となった田漢は、戦時中から戦後の共産党政権誕生後にかけて、中共政府の芸術部門の責任者として、芸術を中心とした国威発揚に多大な貢献をしました。
    その中のひとつが、昭和10(1935)年の映画「風雲児女(嵐の中の若者たち)」であり、彼の作詞した「起来! 不願做奴隸的人們!」であり、他にもたとえば京劇の代表作である「白蛇伝」も、田漢が台本執筆を行うことで普及したものです。

    こうしてChina共産党に多大な貢献をした田漢ですが、昭和40(1965)年にはじまる毛沢東の文化大革命によって、彼は、吊るし上げをくらいました。
    理由は、ひとつは、彼が歴史的文化を大切にする人物であるということ、もうひとつは、彼の持つその民族的文化意識の原点が日本文化に依拠していることです。

    そもそも西欧における思想としての共産主義(マルクス主義)は、人類の至高の姿をユートピアに求めるものです。
    けれど毛沢東による修正共産主義は、ひとことでいえば絶対君主による専制共産主義です。
    ですから尊重すべきは絶対君主(毛沢東)であり、Chinaの歴史、伝統、文化は、否定の対象です。

    China共産党の共産主義普及のために多大な貢献をした田漢でしたが、結局彼は逮捕投獄され、昭和43(1968)年、獄中で非業の死を遂げています。

    けれど、本人が死んだからといって「死んだら仏さんだから」と許すような精神は、Chineseにはありません。
    昭和45(1970)年、田漢は、China共産党によって、周揚、夏衍、陽翰笙とともに「四大悪漢」というレッテルを貼られ、さらに昭和50(1975)年には、党籍の永久剥奪処分が決定されています。
    亡くなって7年も経ったあとに、です。

    そのころ、田漢の作詞した「義勇軍行進曲」は、中共政府の国威発揚の楽曲として普及していましたが、田漢の処分により、中共内部では田漢の作詞した歌は歌えず、行進曲は、曲の演奏のみにとどめられています。

    これが覆されたのは、さらにその4年後、昭和54(1979)年のことです。
    文革に対する否定から、田漢の名誉は回復され、昭和57(1982)年12月4日の第5期全国人民代表大会第5回総会で、「義勇軍行進曲」は、ようやく歌詞も「中華人民共和国の国歌」として正式に認められるものとなっています。


    さて一方、「義勇軍行進曲」の曲の方です。
    こちらは、聶耳(じょうじ、ニエ アル)の作曲です。

    聶耳(じょうじ)
    聶耳


    聶耳は、雲南省昆明生まれの人で、幼い頃から楽器に親しみ、昆明省立第一師範学校高級部在学時代に共産主義活動にはいったといわれています。

    昭和5(1930)年に上海に渡った聶耳は、貧しい生活の中でバイオリンの独学を休まず続け、翌年には「明月歌舞団」のバイオリニストに採用され、職業音楽家としての第一歩を踏み出しています。
    そして主に上海を拠点に「採掘の歌」「波止場労働者の歌」など左翼系演劇の楽曲を数多く世に送り出し、それなりの収入も得れるようになりました。

    そして昭和8(1933)年、聶耳は、正式に共産党に入党する。
    ところが、この頃から、蒋介石の国民党軍閥による共産党狩りが、エスカレートしていきます。

    昭和10(1935)年には、聶耳の周囲にいる共産党員たちが次々と逮捕、投獄、処刑されていきます。
    友人の田漢も逮捕されました。
    そして近日中には、聶耳も逮捕されるという情報がもたらされまます。

    聶耳は、上海を抜け出しました。
    そして、ひそかに日本に渡りました。
    これが、同年4月のことです。

    ちょうどそのころ上海では、田漢の南国芸術学院が、映画「風雲児女(嵐の中の若者たち)」の撮影がすすんでいました。
    南国芸術学院の田漢は、獄中でこの映画のための主題歌「義勇軍進行曲」を作詞し、それは人づてに密かに持ち出されます。

    日本へ渡航する準備をしていた聶耳は、このことを知ると、自ら進んでその歌詞に作曲したいと告げ、そして、「日本に渡って、日本で生活をしながら」作曲し、ようやく5月初めに完成した決定稿が、いまの中華人民共和国国歌の、「義勇軍行進曲」の旋律です。

    完成した曲は、日本の書留郵便で上海に送られました。
    そして、China共産党の映画「風雲児女」が完成する。

    こうなると共産党狩りをしていた上海の国民党は、聶耳を放置できなくなります。
    そして不思議な出来事が起こりました。

    聶耳が日本に亡命した昭和10(1035)年7月17日のことです。
    この日、神奈川県藤沢市にある鵠沼海岸で友人らと海水浴を楽しんでいた聶耳は、この日の午後、遊泳中に海で溺れて、水死したのです。

    原因はわかりません。
    ただ、水死体の検分結果では、通常の海で溺れた遺体と、特にかわりはなかったそうです。

    ちなみに藤沢市では、昭和24(1949)年に、有志により聶耳を記念する運動が起こり、昭和29(1954)年には、聶耳記念碑が建立されています。

    聶耳記念碑(神奈川県藤沢市)
    聶耳記念碑


    この記念碑は、昭和33(1958)年の狩野川台風でいちど流されてしまうのですが、昭和40(1965)年には記念碑保存会が発足し、昭和61(1986)年に、神奈川県と藤沢市、そして有志の浄財で、再び記念碑が建立されています。

    中共政府の国歌「義勇軍行進曲」。
    Chinaの民衆に愛されているその国歌は、不思議なことに、歌詞は日本で民族自立を教育された田漢によって、曲は、日本に亡命していた聶耳によって、日本で書かれたものでした。

    「起来! 不願做奴隸的人們!」
    (起て、奴隷になることを願わぬ人々よ)

    その歌詞を、奴隷になることを願わないならば
    「奴隷にならないために、自らを向上させるために起ち上がれ」
    ととらえるのか、
    「奴隷にならないために、支配層を殺せ殺せ!」
    ととらえるのか。

    同じ「起来! 不願做奴隸的人們!」でも、その捉え方は、180度違ったものになります。
    そして
    前者は、向上を産み、
    後者は、憎しみを産み、さらにそれを連鎖させる。
    殺された者は復讐をし、復讐された者は、再び報復をする。憎しみの連鎖です。

    中共政府は、せっかくの「起来! 不願做奴隸的人們!」を、後者の意味としました。
    憎しみを煽った。
    煽るために、嘘に嘘を重ねた。

    その結果は何を招くか。
    国家は人々との紐帯をなくし、人々は絆をバラバラにし、国内は破壊の連鎖となり、
    民衆が真実に目ざめたとき、国家は崩壊を余儀なくされることになる。

    私は、「起来! 不願做奴隸的人們!」を、田漢が東京師範学校の教えそのままに、奴隷にならないために向上しよう、成長しようという歌詞ととらえることが、人として、国家として、ほんとうにたいせつなことではないかと思います。

    そしてまた、作曲家の聶耳についても、その遺徳を偲び、顕彰碑まで建てた日本という国が好きです。
    否定し、殺す社会より、人々のために命をかけて尽くし、散って行かれた人をちゃんと顕彰できる社会。

    日本は、靖国への国務大臣参拝を義務づけていませんが、ここからして戦後日本のおおきな間違いと狭量さを思います。
    日本は、日本の心を取り戻すこと。
    それが日本再生のための、たしかな道筋であると、私は思います。


    そうそう。
    そういえば、中華人民共和国という国名も、「人民」「共和」は、日本で作られた造語であり、日本語です。

    はてさて、国名の半分が日本語で、国歌も日本で教育を受けた人が書き、曲も日本で作曲された。
    その中共政府が、世界で他に類例のないような反日国家であるというのは、なんとも不思議不思議なできごとですね。


    ※この記事は2012年8月の記事のリニューアルです。



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