• 今日は真岡郵便電信局事件の日


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    毎年この時期には、本当なら真岡郵便局事件の映画をメディアで再放送し続けるべきだと思っています。
    犠牲になられた方々がおいでになったこと。
    そうした事実があったことを忘れないこと。
    共産主義の恐ろしさを知ること。
    そして二度とこのような悲惨な目に遭わないように、軍事力だけでなく外交力も合わせて、しっかりと国の護りを固めること。
    世界には、力があればどんな非道を行っても良いと考える人たちがいるということを、私達は決して忘れてはいけないと思います。

    20170819 セイシェル
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    事件が起きた真岡町は、かつて樺太にあった町です。
    樺太は魚のようなカタチをしていますが、その南半分は日本の領土です。
    「いまなお日本の領土」であって、「ロシアの不法占領」が続いているところです。
    北方領土を、国境の外側にある「外国」と思っていると、歴史を読み間違えます。
    そこはいまも昔も日本だからです。
    真岡町は、樺太の南側、つまり魚の尾ヒレのようになっているところの、付け根のあたりにあります。

    8月9日、いまはもう無くなった国であるソ連は、いきなり日ソ中立条約を破って満州、樺太、千島列島に攻め込みました。
    ソ連が動員した兵力は、戦車5千輌、兵力157万人という、気の遠くなるような戦力です。

    ちなみに日本は、真珠湾攻撃が対米宣戦布告の30分前に行われたことで「だまし討ちだ」米国に言われ、そのことを多くの日本人はいまだに申し訳なく思っているようです。
    しかし戦争は、宣戦布告などまったくなしに、突然開始されるものの方が、はるかに多いのです。
    アメリカにしても、建国以来200回にのぼる戦争を行っていますが、そのなかできちんと宣戦布告をして開戦したのは、たったの4回しかありません。
    むしろ世界では、宣戦布告がある方が、異例です。
    毎回キチンと宣戦布告をしながら戦いを行ってきたのは、近現代史の中では日本くらいなものです。

    ですからソ連が攻めてきたとき、はじめのうちは日本側は、攻めてきた相手が、どこの国かさえわかりませんでした。
    このため避難勧告も遅れ、樺太に「緊急疎開」の指示が出されたのは、ソ連侵攻から4日目、8月13日になってからです。

    そして二日後の8月15日の正午には玉音放送が流れています。
    日本は世界に向けて戦闘行動の終了を宣言しました。
    ところがソ連は、おかまいなしに侵攻してきました。

    真岡郵便局の乙女たち
    20170819 真岡郵便局
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    とにもかくにも樺太に残留する邦人、特に女子供を優先して本土に疎開させなければならない。
    そこで輸送船を出したのですが、そんな疎開のための輸送船を狙って、ソ連の潜水艦は攻撃をしかけてきました。
    輸送船は沈められ1700名の日本人が海に消えました。
    これが8月22日の出来事です。
    輸送船を撃沈するというのは、明白な戦時国際法違反です。
    しかしそれでも我が国の輸送船団は、わずか10日で合計8万7千人を北海道へ輸送し、疎開させています。

    この輸送を成功に導くために、絶対に欠かすことができないのが、本土との「通信連絡の確保」です。
    いまのようなスマホの時代ではないし、電話番号を押せばコンピューターが相手の電話機に繋いでくれる時代でもありません。
    この時代は電話をつなぐのは、すべて電話交換員の手作業です。

    アニメ映画の『となりのトトロ』で、さつきちゃんがおばあちゃんの家の電話を借りて受話器を外し、くるくると横の取っ手を回して「七国山病院をお願いします!」と言うシーンがあります。
    この時代の電話機には、まだ番号を押すところがありません。

    電話の受話器(耳あて)を取り、電話機の横についている取っ手をクルクル回すと、電話交換所の交換員につながります。
    そして電話を架けた人が、「どこそこをお願いします!」と言うと、電話交換手が、相手先の電話回線に、手作業で通話のコードを差し込んで電話を繋ぐのです。
    その電話回路の接続業務(電話交換業務)をしていたのが、郵便局の乙女たちでした。

    さて、時計の針を少し戻します。
    8月16日の朝、真岡郵便局で朝礼が行われました。
    その朝礼で、交換手の主事補だった鈴木かずえさんが、部下の女性交換手たち次のように話しました。

    「政府から特に
     女性たちを優先して
     緊急疎開させるようにと、
     疎開命令が出ています。
     でもその疎開を
     効果的に実現するためには、
     電話交換業務を
     継続しなければなりません。
     そこで残って交換業務を
     続けてくれる人を求めます。
     ただし、すぐに返事は聞きません。
     全員一度家族と相談したうえで、
     返事を聞かせてください。」

    その場にいた女性交換手全員が手を挙げて、
    「私は残ります」
    「私も残ります」
    「私も残らせて下さい」と答えました。
    みんな、17歳から24歳の、若い女性たちです。

    みんなの気持ちは、とても嬉しいものです。
    けれど残れば、ソ連兵に蹂躙され、殺されます。
    つまり「残る」ということは、「死ぬ」ということです。
    だから鈴木かずえさんは、
    「自分ひとりで決めちゃいけない。
     あくまで家に帰って、
     親と相談してから、
     あらためて
     名乗り出てください」
    と述べたのです。

    斉藤春子さんと、妹の美枝子さんの姉妹は、二人とも残留を志願しました。
    家にいた母には、娘たちの気持ちや行動がわかりました。
    母は真岡郵便局長に電話をかけました。
    「娘二人とも
     預けたままでは
     引き揚げられません。
     どうしても
     ひとりだけでも
     連れて帰らせてください。」

    8月18日、上田局長は斉藤姉妹を呼び出しました。
    そしてお母さんからの電話のことを二人に伝えて言いました。
    「美枝子さんと
     二人で相談して
     どちらか一人
     引揚げるように
     してください」

    姉妹は互いに、自分が残ると押し問答を繰り返しました。
    そして言い合いの後、姉が母と帰ることになりました。
    そんな姉妹の言い争いを黙って見ていた上田局長は、残留の決まった妹の美枝子さんも、母と姉の乗る復員船の出航に間に合うように帰しています。

    こうして最終的に真岡郵便電信局には、17歳から24歳までの20名の乙女たちが残りました。

    8月19日朝、人数の少なくなった真岡郵便局は、電話交換手を平常の三交代制から、非常勤務体制である二交代制に体制を組み替えました。
    電話交換手の女性たちは、上野班と高石班の二つに分けられました。

    午後7時、最初の夜勤当直班として高石班11名が勤務に付きました。
    この時点で、真岡郵便局にいたのは、
     平井茂蔵電信主事他男性職員6名、
     女性職員14名
    です。
    そして高石班11名は、電話交換業務を行う”奥の建物”にいました。

    8月20日午前7時33分、ソ連の軍艦が真岡付近にやってきました。
    港に近づいたソ連軍艦は、なんの予告もなく、いきなり猛烈な艦砲射撃を始めました。
    続いてソ連軍の上陸用艇が真岡町に上陸を開始しました。

    南京のことがよく取り沙汰されますが、南京城攻略の際、総大将の松井石根大将は、南京城を包囲したあと、なんと1週間もの間、城内に向かって降伏と軍人以外の一般市民の退去を呼び掛けを行い、その間、一切の攻撃をせず、一般人の避難のための時間を相手に与えています。
    戦いに際し、一般人への被害を極力少なくしようとしたからです。

    便衣兵などと呼ばれ、女子供まで一般服に身を包みながら、日本軍が近づくといきなり発砲して日本兵に損傷を負わせる。
    そんな卑怯なルールを無視したChina兵に対してでさえ、日本は出来うる限りの温情で、一般人の被害が出ないよう最大限の配慮をしました。
    これが日本の姿勢です。

    ところが真岡にやってきたソ連軍艦は、近づくや否や、いきなり艦砲射撃を一般人に向けて行ないました。
    多くの日本人はこのために防空壕に入る間もなく命を失っています。

    早朝のことです。
    郵便局には、まだ誰も出勤していません。
    徹夜組の高石班長は、上田郵便局長他、局幹部に電話で緊急連絡を行って、職員全員に非常招集をかけました。
    本土への応援(救援)の依頼等に際して、電話交換業務が混みあうことが予期されたからです。
    地震や台風などのあと、電話回線がパンクするのを想像したら、事情はおわかりいただけようかと思います。

    局員たちは、大急ぎで郵便局に向かいました。
    ところがその頃には、すでにソ連兵が上陸していました。
    ソ連兵は、動くものを見れば、片端から銃撃してきます。
    日本人の民間人は、武器を持っていません。
    けれど、武器がなければ、反撃される危険がなければ、情け容赦なく銃撃を浴びせ、見つけ次第殺すのが大陸の流儀です。

    戦時国際法では、戦闘は
    「軍服を着用して
     軍帽または鉄兜等を被り、
     武器を携帯している者
     以外は攻撃してはならない」
    ことになっています。

    民間人を攻撃して良いのは、明らかに便衣兵が混じり、自軍に損害の恐れがあるときに限られます。
    この場合は、民間人であっても、全員殺して構わないことになっています。
    なぜならそうしなければ、自軍に損害が出るからです。

    ところがソ連兵は、日本人には便衣兵などいないのに、公然と攻撃をしかけてきたわけです。
    このように、
    「相手が武器を持たずに抵抗できない」
    ときにこそ居丈高になって徹底攻撃をするのが大陸の流儀です。
    このことは特筆事項として、私達は決して忘れてはいけないことです。

    またソ連兵は、屋内に侵入して強姦や略奪を行いました。
    この略奪というのは我々の想像以上に徹底していて、そこにあるものは全部持っていかれ、略奪後の家屋は、まるで廃墟同然となります。
    これもまた大陸の流儀であり、戦時国際法違反の行為です。

    何度も申し上げていることですが、これを戦争と呼ぶのは間違いです。
    武力が用いられていることは事実ですが、略奪や虐殺は戦争行為ではありません。
    それはただの犯罪行為です。
    当時のソ連は、日ソ不可侵条約の破棄は行いましたが、日本への宣戦布告はしていません。
    つまりソ連の行った行為は、ただの暴力行為であり、国家犯罪です。
    これは決して許してはならないことです。

    さて、混乱の中で、郵便局に出勤途上の上野班の電信受付係の折笠雅子さんも、ソ連兵によって射殺されました。
    艦砲射撃やソ連兵の銃撃を避けて、途中の防空壕に避難した職員たちも、壕の中に手榴弾を投げ込まれて次々爆死しました。
    そのときの様子を、混乱の中でからくも助かった上野班の藤本照子さんが次のように証言しています。

    「決死隊の一員として、
     空襲の時は
     すぐ郵便局へ行くことに
     なっていたのですが、
     ソ連兵が
     どんどん上陸し始め、
     実弾が飛びかい、
     とても無理でした。」

    上田郵便局長も郵便局へ向かいました。
    けれど手当たりしだい一般市民を虐殺するソ連兵の前に、とりあえず付近の建物に避難しました。
    するとその建物には局長の他5~6名が先に避難していました。

    建物内に郵便局長の姿を見つけた真岡署の木村巡査部長は、局長らを救出しなければならないと、上田郵便局長が隠れている建物に向かって走りました。
    ところがあと一歩で、建物にたどり着くというときに、ソ連兵の銃弾によって、後ろから撃たれてしまう。

    自分たちを助けようとしにきた木村巡査部長が目の前で倒れたのを見た上田局長は、なんとか彼を建物の陰に引き込もうと路上に飛び出しました。
    すぐあとを同僚の局員が続きました。
    その二人をみつけたソ連兵がまた発砲しました。

    上田局長は、左手に貫通銃創を負い、もうひとりは右足に盲管銃創を負って倒れました。
    血だらけになった局長の姿を見て、一緒にいた若い男が棒の先に白布を縛り付け、ソ連兵に降伏の意思表示をしました。
    その場の全員がただちにソ連兵によって拉致されました。

    真岡郵便局には平屋建ての本館と奥の2階建ての別館がありました。
    本館は爆破されて中にいた全員が死亡しました。
    真岡郵便局は指揮系統を失いました。
    こうして電話交換手の女子11名だけが、奥の別館に取り残されたのです。

    彼女たちはソ連の攻撃が始まってからも、各方面からの電話交換業務を1時間以上も継続しました。
    しかしはじめのうち遠くにあったソ連兵の銃撃の音がどんどん間近に迫ってきました。
    さらに表側の郵便局本館も吹き飛ばされました。
    この時点でもはやこれまでと悟った彼女たちは、本土に向けて最後のメッセージを送りました。
    それが、

    「皆さんこれが最後です。
     さよなら、さよなら」
    というものです。

    11名の女子は、この電文のあと、全員足を縛り、手にした薬包紙に包まれた青酸カリを口にしました。
    ソ連兵が電話交換室に乱入してきたとき、そこに裾が乱れないように足を縛り、きれいに並んで死んでいる11名の乙女たちの姿がありました。

    その凄惨さに、さしものソ連兵にも人の心が息を吹き返しました。
    ひとりひとりの状態を丹念に調べ、まだ息のあった女性二人を救出しました。
    けれど残りの9名は還らぬ人となりました。

    このことから戦後にアホな学者などが、
    「真岡郵便局の女性たちは、
     何も死を選ぶ必要がなかった。
     なぜなら2名の女性は、
     ソ連兵によって救助され、
     命をながらえている。
     彼らは悪魔ではない。」
    などときいたふうなことを述べています。
    そういう連中は「人でなし」だと私は思います。

    ソ連兵に限らず大陸の兵にとって、強姦と略奪は給料のようなものです。
    青酸カリを飲んで、仮死状態になっている女性では、ソ連兵にとっては戦利品となりえなかったというだけの話です。残酷だけれど、それが事実です。

    ちなみに、大正9年5月に、いまではロシアのニコライエフスクと名前を変えた尼港で起こった尼港事件では、露・支・韓人の混合パルチザンが、日本人の民間人121名を殺害しています。
    ここでは、日本人は生きたまま両目を抉り取られ、5本の指をバラバラに切り落とされ、死ぬまで何度も刺されて殺されています。
    そして金歯があるものは、生きたまま顎(あご)から顔面を裂かれて、金歯を抜き取られ、女は裸にされ死ぬまで強姦された上で、生きたまま股を切り裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されています。

    このとき、酸鼻をきわめた現場の壁には、血痕や毛のついた皮膚などがこびりついています。
    ≪参考:尼港事件≫
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2650.html</u>">http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2650.html
    このような危険が間近に迫ったとき、真岡郵便局の乙女たちが、おのれの人間としての尊厳を守るために、他にどういう選択肢があったのでしょうか。

    彼女たちの冥福のため、昭和天皇と香淳皇后が、御製と御歌を残されています。

    【昭和天皇 御製】

     樺太に 命を捨てし たおやめの
     心思えば 胸せまりくる


    【香淳皇后陛下 御歌】

     樺太に つゆと消えたる おとめらの 
     みたまやすかれと ただいのりぬる


    この事件は、後に「氷雪の門」というタイトルで映画化されました。
    その冒頭のナレーションです。

    「樺太(からふと)・・・
     いまはソ連の支配下にあり
     「サハリン」と呼ばれているこの島は、
     ともすればもう、
     人々の記憶から遠ざかろうとしている。
     だが、今日もこの海の向こうに見えるあの樺太は、
     多くの人々にとっては、
     いつまでも懐かしく
     心を去らない故郷(ふるさと)である。
     また、ある人々にとっては、
     父や母や子供を失った悲しみの土地でもある。
     その思いをとどめようとするために、
     ここ北海道稚内市稚内公園に、
     ひとつの門が建っている。
     この白御影石を使用した
     十メートルあまりの二本の塔。
     その下に、厳しい樺太の風土に耐えて
     生き抜いた人々をあらわす女人像。
     これは「氷雪の門」と呼ばれている。
     この碑文には、次の言葉が刻まれている。
     『人々はこの地から樺太に渡り、
      樺太からここへ帰った。
      戦後はその門も固く閉ざされた。
      望郷の念止みがたく、
      樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、
      肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、
      この塔を建つ』
     またその近くに、
     一叢(いっそう)の屏風のように
     形作られた九人の乙女の碑。
     『皆さんこれが最後です。さようなら』
     この言葉の意味を知らない人は多い。
     また、初めてこの碑の存在に気付く人も。
     そして傍(かたわ)らの碑文を読む人は、
     これが樺太西海岸真岡町、
     真岡郵便局電話交換手九人の、
     最後の言葉であることを知るだろう。」


    九人の乙女の碑
    九人の乙女の碑


    この映画は、昭和48(1973)年に撮影され、翌昭和49(1974)年に上映開始予定となりました。
    ところが、同年3月7日、モスクワで、モスフィルムという会社の所長がたったひとこと、
    「ソビエトにとって非常に面白くない映画が
     日本で公開されようとしているのは
     理解に苦しむ」
    と、たったひとこと発言したことで、予定されていた全国での映画配給が、いきなり中止になりました。
    上映されたのは、北海道と九州の一部の映画館が、わずか2週間ほど公開しただけです。
    映画はお蔵入りになりました。

    真岡の郵便局で、尊い命を捧げた9人の乙女たちの命より、人類の理想国家ソ連への礼賛のほうが大事だったのでしょうか。
    私には、そのような人たちは人非人にしか見えません。
    いまでは、彼らが礼賛したソ連がどういう国だったのか、世界中の誰もが知っています。
    しかし「氷雪の門」が、その後テレビで放映されたという話も聞きません。

    真岡郵便局でお亡くなりになった9名の乙女たちです。
     高石ミキ   24歳 
     可香谷シゲ 23歳
     伊藤千枝  22歳
     志賀晴代  22歳
     吉田八重子 21歳
     高城淑子  19歳
     沢田きみ  18歳
     渡辺 照   17歳   
     松崎みどり 17歳  

    【碑文】
    8月20日、
    ソ連軍が真岡上陸を開始しようとした。
    その時突如、日本軍との戦いが始まった。
    戦火と化した真岡の町、
    その中で交換台に向かった9人の乙女らは、
    死をもって己の職場を守った。
    窓越しに見る砲弾の炸裂、
    刻々迫る身の危険。
    今はこれまでと死の交換台に向かい
    「皆さんこれが最後です。
     さようなら、さようなら」
    の言葉を残して、
    静かに青酸カリを飲み、
    夢多き若き花の命を絶ち、職に殉じた。


    ひとつ、大切なことを加えておきます。
    南樺太は、日本領であり、戦前まで日本人が入殖していました。
    もともと、樺太は北海道より北側の、緑も何もない荒涼とした赤土の大地でした。
    みなさま、機会がございましたら、是非、google MAPの航空写真で、その樺太を見てください。
    日本領だった南半分だけが、いまでも緑の大地となっています。
    日本人が、冷たい寒帯の島で、土を耕し、たくさんの木を植えたからです。
    その緑が、いま、少しずつ、北半分にも広がりつつあります。

    真岡郵便局の乙女たち、そして我が国北方領土でお亡くなりになった皆様のご冥福を捧げ、このお話を皆様にお送りします。

    ※ 真岡郵便電信局事件は、つらく悲しい事件です。
     せめて、彼女たちが生まれ変わるときは、
     寒いサハリンの地ではなく、
     南の島の明るい太陽のもとでのんびりとしていただきたいな。
     そんなことを思って、
     冒頭に南の島の写真を貼らせていただきました。
     ちなみに三年前はタヒチ、一昨年はモルディブ、昨年と今年はセイシェルです。
     すこしでも暖かな景色を、亡くなった彼女たちに捧げたいと、南の島の写真にしています。

    毎年この時期には、本当なら真岡郵便局事件の映画をメディアで再放送し続けるべきだと思っています。
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    このお話も、毎年この時期に必ず掲載させていただいているものです。
    77年前の今日あった現実です。
    昭和20(1945)年の出来事です。

    非道大国であったソ連は、いまはもうありません。
    過去があったからといって、いまのロシアやロシア人を恨むのは、違います。
    日本はそのような恨みの国ではありませんし、真岡の乙女たちも決してそのようなことは望んでいないと思います。
    そうではなく、過去をしっかりと踏まえて国をたいせつにし、そしてロシア人を含めて、この地上の誰もがよろこびあふれる楽しい人生を、豊かに安全に安心して生きていくことができるようにしていく。
    そのために努力を怠らないのが日本人です。


    ※この記事は2010年11月の記事をリニューアルしたものです。

    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人第三巻』は、戦争をテーマにしています。
    その三巻から、「北海道を守った占守島の戦い」をご紹介します。
    毎年この時期に掲載しているものです。
    こうした旧軍人さんの果敢な戦いがあって、いま北海道は日本の領土です。
    さもなくば北海道は戦後「北方領土」と呼ばれてロシアの占有下に置かれていたことでしょう。
    歴史を知ることは、私達が守らなければならないものは何かを学ぶことです。

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    ──────────
    士魂部隊、池田聯隊長
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     作家の司馬遼太郎は、昭和の軍人に対しては批判的な小説家として知られています。
    特に自身が戦車隊員だったときの衝撃的な体験により、戦車隊のことは必ずしもよくは書いていません。
    その司馬遼太郎が、戦車学校校長だった池田末男少将に対してだけは、たいへんに尊敬する人物として著書の中で紹介しています。

     池田少将は愛知県豊橋市出身の方です。日本の戦車戦の理論(機動戦理論)を構築し「戦車隊の神様」と呼ばれていました。
    戦車学校教官当時には「戦車隊教練規定」という教程を編纂し、同校校長に就任しています。

    昭和20(1945)年1月、戦車学校校長から戦車第十一聯隊長に転任しました。
    漢字で縦に「十一」と書くと「士」の字に見えることから、いつしかその戦車隊は「士魂部隊」と呼ばれるようになっていました。
    士魂部隊は精鋭の集まりでした。

    そして終戦のとき、士魂部隊は北海道の沖合に浮かぶ千島列島の最北端「占守島」にいました。
    池田隊長は豪放磊落かつ温和な性格です。
    部下の誰もが池田隊長のことを心から信頼していました。

    こんなエピソードがあります。
    占守島は、夏場でも気温が十五度を上回ることがありません。
    日中は濃霧に覆われ、冬場は気温が零下30度に下がります。雪は電信柱が埋まるほど積もり、風速30メートルもの猛吹雪が吹き荒れることもあります。

    その身を切るような寒さの占守島で、池田隊長は絶対に自分の下着を部下に洗わせなかったそうです。
    全部自分で冷たい水に手を入れて洗濯していました。
    本来なら洗濯は、当番兵の仕事です。
    申し訳なさそうにしている当番兵に、池田隊長はこう言ったそうです。
    「お前はオレに仕えているのか?
     国に仕えているんだろう?」

    ──────────
    国籍不明の大軍、上陸を開始
    ──────────

    昭和20(一九四五)年8月15日は終戦の日です。
    多くの方が、この日をもって戦争は終わり、各地での戦いにも終止符が打たれたと思っています。
    しかし、それは違います。
    終戦で日本軍が武装解除したあとも、実はいくつかの地域で戦闘が行われているのです。
    そのひとつが、占守島です。

    8月17日、重要書類を焼却し、翌日には戦車を全部海に沈めることが決まった士魂部隊は、第十一聯隊本部で池田聯隊長を囲み、酒を酌み交わしました。
    池田聯隊長は酒を飲むときは無礼講が好きで、いつもなら陽気な酒盛りになるのですが、この日だけは、しんみりとした雰囲気につつまれていました。

    彼はまだ若い木下弥一郎少尉に、
    「木下、十五日以降、俺は廃人になった。
     お前たち若いものは国へ帰って新しい国民を教育しろよ」などと話していたそうです。

    酒の席も解散になり、みんな早々に床につきました。
    軍隊は朝が早いのです。
    そして隊員たちが寝しずまった、深夜一時のことです。

    占守島の隣、幌筵島(ほろむしろとう)にある第九一師団本部から、突然、占守島北端の国端岬一帯に、国籍不明の上陸用舟艇が接近し、数千の兵員が強襲上陸してきたとの報が飛び込んできます。
    武装解除を求める使節団なら、このような深夜の上陸はありません。
    ということは、あきらかに武力による侵略行為です。

    東浜海岸の竹田浜に展開していた部隊は、二個小隊(約80名)だけです。
    彼らは岬の洞窟にあった野戦砲二門で、上陸してくる敵に向かって砲撃を開始します。
    しかし武装解除をしている最中の襲撃です。
    日本軍陣地は隙間だらけで、やすやすと上陸した敵兵は霧にまぎれて島の奥へと進入を試みます。
    占守島北部の四嶺山にいた二八二大隊本部は、敵上陸の一報を受けると、すぐに全部隊を戦闘配置につかせます。

    この時点で、まだ敵の国籍は不明です。
    深夜、しかも夏場の濃霧の時期です。
    視界が不十分ななか、二八二大隊は上陸した敵兵を迎え撃つとともに第二段の上陸にそなえます。

    最初の上陸は敵の先遣隊でした。
    3時30分、こんどは敵の主力が上陸を開始します。
    上陸と開始に、対岸のカムチャツカ半島の突端にあるロパトカ岬から砲撃をしてきました。
    これで、敵が誰なのかがはっきりとしました。
    ソ連です。

    このとき来襲したソ連軍は、約一個師団。
    上陸部隊八千数百名、艦艇五十四隻からなる大部隊だったのです。

    こういうとき、ものをいうのが日頃の訓練です。
    日本軍は、霧で見えない敵に向かって、人馬殺傷用の榴弾をこめてメクラ撃ちしました。
    そして敵の輸送艦三隻、上陸用舟艇十三隻を撃沈しています。
    そのなかには、敵指揮官が乗る舟艇も含まれていたため、敵軍団を一時、無統制状態に陥らせます。

    それでも敵は八千数百名なのです。
    竹田浜で応戦をしていた日本軍は、わずか六百名です。
    敵は多数の死傷者を出しながらも、続々と後続部隊を上陸させてきます。
    そして内陸部に侵攻を開始し、二八二大隊本部が守る四嶺山へと迫っていきました。

    ──────────
    女子工員を避難させよ
    ──────────
    当初、報告を聞いた第九一師団参謀長は、国籍不明といってもアメリカ軍だと思っていました。
    8月12日にアメリカ軍が千島列島に砲撃を加えていたからです。
    それが相手がソ連と分かったときは、びっくりしたそうです。
    参謀長は、軍使が来たのだけれど、何かの手違いで戦闘に発展したのかとも考えましたが、時間が時間ですし、加えて何千という兵力です。
    これはもう、ただ事ではありません。

    第九一師団長、堤不夾貴中将は直ちに迎撃命令を発します。
    「師団全力をもって、敵を殲滅せよ」

    占守島南端に司令部を置く第七三旅団は、北の要衝・大観台に二八三大隊を急行させ、司令部とともに他の全部隊を島の北部に移動し、ただちに交戦を開始しました。

    幌筵島の第七四旅団も増援部隊を占守島に送ります。
    第五方面軍司令官樋口季一郎中将は、濃霧の隙間をついて陸海軍混成の航空部隊八機をソ連艦艇への攻撃のため飛び立たせました。

    師団本部は迎撃作戦と同時に、ある計画を立てました。
    実は占守島には、日魯漁業の缶詰工場があり、二千五百名の民間人がそこで働いていました。
    戦時中、莫大な量の糧食を日本は外地に補給していました。
    なかでもこの占守島で生産される魚類の缶詰は、貴重なタンパク源として、外地で戦う日本の軍人にとってなくてはならないものでした。
    そしてその工場の従業員の中には、約四百名の若い女子工員が含まれていたのです。

    「このままでは、
     女子工員たちは必ずソ連軍に陵辱される。
     なんとしてもあの娘たちを
     北海道へ送り返さなければならない」

    師団長は戦闘中の女子工員避難計画を決断します。
    ソ連航空機による爆撃が続く中、第九一師団は、必死で高射砲の一斉射撃をして、爆撃機を追い払いました。
    敵上陸部隊にも集中砲撃をあびせます。
    海上の艦船を、漁船の出港が見えない位置に釘付けにするためです。

    そしてこの隙に、島にあった二十数隻の漁船に、日魯の女子工員たちを分乗させ、港から北海道に向けて出港させました。

    ──────────
    この危機にあたり白虎隊とならん
    ──────────
    一方、敵上陸の一報を受けた池田聯隊長は、天神山の南三キロに本部を置く戦車第四中隊を、先遣隊として竹田浜に急行させます。
    午前2時30分のことです。
    この部隊が島の北部に近く、偵察に適した軽戦車を配備していたからです。

    同時に池田聯隊長は、各所に分散していた戦車中隊に命令を下達し、天神山に集合させます。
    このとき戦車聯隊は、戦車の武装を分解中だったのです。
    つまり、すぐには出撃できない状態にありました。
    それでも総員が必死で武装を取り付け、直ちに天神山に集合しました。

    部隊が集合すると、池田聯隊長は各中隊長、小隊長を集め、作戦の打ち合わせを始めました。
    そこへ、先遣隊の第四中隊が戻り、前線の状況が伝えられます。
    「敵は竹田浜に自走砲や重火器を揚陸中なるも、
     戦車はなし。
     上陸した敵は二手に分かれ、
     一方は大観台に展開する二八三大隊と交戦中。
     一方は四嶺山を包囲し二八二大隊は孤立している模様」

    池田聯隊長は全隊員の前で訓示します。
    「諸士、ついに起つときが来た。
     諸士はこの危機にあたり、
     決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
     もしくは赤穂浪士の如くこの場は隠忍自重し、
     後日に再起を期するか。
     白虎隊たらんとする者は手を挙げよ」

    このとき不思議なことが起こりました。
    濃霧が突然、さっと薄れたのです。
    そして、その場にいた全員が見たのです。

    それは、霧でおぼろにしか見えなかった隊員たち全員が、挙手している姿でした。
    士魂部隊は、全員、白虎隊となることを選択したのです。

    池田聯隊長は、白鉢巻で戦車上に立ち上がりました。
    そして、大声で言いました。
    「上陸軍をひとり残さず、
     海に叩き落とすまで奮闘せよ!」

    若い木下弥一郎少尉は、池田聯隊長のそばにいました。
    しかし、定員オーバーで戦車の中に入れません。
    池田聯隊長は、木下少尉に命じました。

    「木下、
     お前は旅団司令部の杉野さんのところへ
     連絡将校として行っておれ」

    戦車学校時代から池田聯隊長とずっと一緒だった木下少尉は、にわかに離れがたく、そのときぐずぐずしていたそうです。
    すると池田隊長は、
    「早く行け!」と怒鳴りました。

    そして走り出した戦車から上半身を出すと、振り返って言いました。
    「木下、お前は助かれよ。
     命を捨てるなよ」
    これが、木下少尉が見た池田隊長の最後の姿でした。

    「天与の好機逸すべからず。
     各隊長は部下の結集を待つことなく、
     準備のできたものから余に続くべし!」

    午前5時30分、聯隊は前進を開始し、島の北端に近い大観台を過ぎました。
    午前6時20分、聯隊は二八二大隊の指揮所が置かれた四嶺山南麓台地に進出しました。
    そこにはすでにソ連軍の一個中隊、約二百名が山を越えてきていました。

    池田聯隊長は、これを突破して四嶺山頂に進出する決心をし、師団、旅団の両司令部に打電します。
    「池田聯隊は四嶺山の麓にあり、
     士気旺盛なり。
     〇六五〇、
     池田聯隊はこれより敵中に突撃せんとす。
     祖国の弥栄と平和を祈る」

    そして午前6時50分、池田聯隊長が日章旗を振り下ろすのを合図に、士魂戦聯隊は四嶺山に向けて進撃を開始します。
    敵の機関銃、迫撃砲がいっせいに火を噴き、銃弾が横殴りの雨のように降り注ぎました。
    濃霧で敵が見えず、敵の発射光だけが頼りでした。
    四嶺山の南斜面を駆け上がりながら、砲弾を撃ちまくり、車載銃は蟻のようにはい出てくるソ連兵を次々になぎ倒していきました。

    これを見た二八二大隊は、高射砲の援護射撃を繰り出します。
    敵も四嶺山に総攻撃をしかけ、四嶺山一帯で激戦が繰り広げられました。
    被弾した戦車からひとりの将校が飛び出すと、軍刀を抜き、何人かのソ連兵を切り倒したあと、壮絶な最期を遂げました。

    そしてマレーで名を馳せた丹生少佐が敵弾に倒れました。
    そのとき池田聯隊長は、にわかに縄を出して丹生少佐の遺体を自分の戦車の後部に縛りつけたそうです。
    池田聯隊長は丹生少佐ととても親しくしていたのです。

    池田聯隊長は砲塔の上に上半身を露出させたまま日章旗を振り続け、なおも全軍に前進を命じていました。
    死角が多い戦車にとって、濃霧は非常に不利な条件です。
    本来なら戦車は歩兵と協力して初めて実力を発揮できるのです。
    しかし急な出動です。
    協力できる歩兵はいません。

    戦車隊とソ連歩兵の肉弾戦は、およそ四十分にわたって繰り広げられました。

    ──────────
    総力をもって敵を殲滅せよ
    ──────────
    7時30分、南側の敵を殲滅し山頂に到達しました。
    霧が薄くなってきた山頂から見下ろすと、四嶺山の北東約五百メートルのところに、敵歩兵の大軍が陣を構えています。

    7時50分、池田聯隊長は、「丹生、貴様も戦場に連れてってやるからな」と言うと、戦車からハダカの上体を晒したまま、身を乗り出して日章旗を打ち振り、攻撃前進を命じました。
    約四十両の戦車です。
    その戦車隊が、池田隊長の指揮のもと、一斉に敵の群がるど真ん中に突入していきました。
    その姿は、さながら運用教範の実演の如く、見事な隊形だったそうです。
    さすがは戦車隊の神様。
    さすがは士魂部隊。

    いったんは混乱し、潰走しかけたソ連軍ですが、前線の指揮をとっていたアルチューシン大佐の指揮で、約百挺の一三ミリ対戦車ライフルと、四門の四五ミリ対戦車砲を、士魂部隊正面に結集させ、激しい反撃をはじめました。

    装甲の薄い日本の戦車は、貫通弾をもろに受け、一台、そしてまた一台と沈黙していきます。
    友軍の戦車が炎上するなか、それでも士魂部隊は、下り坂に車体を弾ませながら、敵陣に向け前進を続けます。
    戦車砲は休む間もなく火を噴き、装填が間に合わないときは敵兵をキャタピラで踏みつけていきます。
    天蓋から顔を出そうものなら、敵弾が一気に集中するため、搭載銃は使えません。

    四嶺山の二八二大隊も、全火力で士魂部隊を援護します。
    さらに大観台の二八三大隊も駆けつけソ連軍陣地に襲いかかります。

    士魂部隊の獅子奮迅の戦いで、ソ連軍はついに竹田浜方面に撤退したのです。
    この戦いで、士魂部隊の戦車二十七両が大破。
    そして池田隊長以下、96名が戦死しました。

    池田聯隊長車は山頂で前進を命じてから約三十分後、対戦車砲を横腹に受け、それで中に積んであった弾薬が誘爆し、擱坐(かくざ)炎上したのです。
    しかし池田隊長の戦車は、炎上しながらも、しばらく前進しました。
    その姿は、まるで死しても前進を止めない隊長の魂が、戦車に乗り移ったかのようだったそうです。

    この戦闘の間、ロパトカ岬から砲撃をしてきた敵長距離砲に対し、重砲隊の坂口第二砲兵隊長は、九六式一五センチ加農砲わずか一門で応射、なんとこれを制圧してしまいます。
    このカノン砲は、射程二十六キロメートルの当時の最新兵器でした。
    霧が薄くなってきたため、敵長距離砲の火薬庫が爆破炎上するのが見えたそうです。

    この正確な砲撃ひとつとっても、日ごろの日本軍の訓練がどれだけ厳しかったかを窺い知ることができます。
    もしこのとき、敵の長距離砲が制圧できなければ、占守島守備隊に、もっと大きな被害が出ていたことでしょう。

    ──────────
    日本の勝利とソ連の思惑
    ──────────
    占守島守備隊は、上陸して来たソ連の大軍を北の海岸付近に押し返しました。それどころか、あと一歩でソ連上陸部隊を殲滅するところまで追い詰めていたのです。
    ところが8月21日、島に第五方面軍司令部から停戦命令が届きました。
    第九一師団は、ソ連軍の攻撃がまだ続いている中で軍使を派遣しました。
    そして自ら進んで停戦交渉を進め、戦闘を終結させたのです。

    死傷者はソ連軍三千名、日本軍七百名。
    日本軍は占守島を守り抜いたのです。
    そして、この戦いが日本軍が勝利した最後の戦いになりました。

    守備隊のもとに、日魯の女子工員たちが「全員無事に北海道に着いた」との電報が届いたのは、戦闘終結の翌日のことでした。
    そのときの守備隊のみなさんの喜びはいかばかりだったでしょう。

    しかし占守島にいた日本人約二万五千名は、武装を解いた後、上陸してきたソ連兵によって民間人を含めて全員が逮捕されました。
    そしてシベリアに連行されました。

    シベリアに着いたとき、人数は五千名に減っていました。
    途中で、理由なく殺されたからです。
    生き残ってシベリアに抑留された人々も、寒さと飢えと栄養失調のために、約一割が亡くなりました。

    ところで、なぜソ連は、終戦の三日後になって占守島への上陸を強行したのでしょうか。
    ソ連は、ヤルタ会談で秘密協定を結び、アメリカとイギリスから千島列島はソ連領にするという言質を得ていました。
    しかしソ連はそうやすやすとアメリカとイギリスが、千島列島をソ連に引き渡すとは考えていませんでした。
    ですからソ連は、力ずくで千島列島を占領してしまおうと考えたわけです。
    日本が降伏したあとであっても、占領という既成事実さえ作ってしまえば、あとはどうにでもなります。

    ソ連は、占守島は一日で占領する計画でした。
    小さな島なのです。
    一日あれば十分と考えるのも無理はありません。

    ところが占守島の日本の守備隊は、そうした彼らの目論見を見事に粉砕しました。
    ソ連軍を殲滅しかけただけでなく、彼らを「一週間にわたり」、海岸に釘づけにしたのです。
    実は、この「一週間」が、北海道の命運を決定付けました。
    ソ連軍が占守島に釘づけにされている間に、アメリカ軍が北海道進駐を完了させたのです。

    ソ連はその後、アメリカに対して「北海道の分割統治の要求」を行っています。
    これはソ連は千島列島を占領したあと、一気に北海道まで侵攻し、領有しようとする意図があったということを、明確に示しています。

    占守島に上陸してきたソ連兵は、日本兵の武装解除の後、島中で、女性を捜し回ったそうです。
    が、あとの祭りでした。
    もし彼女たちがいち早く島を出ることができなかったらと考えると、そら恐ろしく感じます。

    実際、ソ連が満州国に攻め込んできたとき、満州北部ではまさに地獄絵図が展開されました。
    尼港事件や通州事件をはるかに凌ぐ規模の虐殺、陵辱が行われたのです。
    世界の常識は日本の常識とは異なります。
    戦いに勝てば、負けた側の財産や女性を略奪し蹂躙し尽くす。
    それが強制徴用された兵士たちへの報酬であり、それが世界の常識です。
    日本国内とは違うのです。

    ──────────
    池田聯隊長の言葉
    ──────────
    当時のソ連政府機関紙『イズベスチャ』は、占守島の戦いについて、次のように書いています。
    「占守島の戦いは、
     満州、朝鮮における戦闘より、
     はるかに損害は甚大であった。
     8月19日はソ連人民の悲しみの日であり喪の日である」
    ソ連側司令官は後に「甚大な犠牲に見合わない全く無駄な作戦だった」と回顧録を残しました。

    もし占守島守備隊が、何の抵抗もせずソ連の蹂躙にまかせるままでいたら、日魯の女子工員四百名はソ連兵に陵辱されるままになっていたであろうし、ソ連の計画どおり、占守島が一日で陥落していれば、ソ連はそのまま北海道に攻め入り、戦後日本は朝鮮半島と同様、北日本と、南日本に分断されていたことでしょう。

    逆にもし占守島守備隊が第五方面軍の停戦命令を受けなければ、上陸ソ連軍は殲滅されていたろうし、その後のソ連軍による千島列島(北方領土)の接収すらなかったかもしれません。

    不思議なことがあります。
    この占守島守備隊の活躍について、戦後の教科書は一切ふれていません。
    まるであたかも「なかったこと」にしているかのようです。

    まれに占守島の戦いについて書いているものでも、この戦いを「無駄な戦い」「戦死者は犬死に」と一蹴しています。
    実に不思議です。
    それが同じ日本人の言う言葉なのでしょうか。
    私には、そういう人たちの感性がまったく理解できません。

    占守島には、いまも当時の日本兵の戦車や遺骨、遺品が眠ったままになっています。
    私たちは戦争で貴重な命を捧げられ、祖国を守るために立派に散っていかれた英霊たちに、あらためて感謝を捧げるとともに、彼らに恥じない日本の建設をしていかなければならないのではないでしょうか。

     諸士、ついに起つときが来た。
     諸士はこの危機にあたり、
     決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
     もしくは赤穂浪士の如くこの場は隠忍自重し、
     後日に再起を期するか。
     白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。

    池田聯隊長が士魂戦車聯隊の隊員たちへ向けたこの言葉が、私には、平成の世に生きる現代日本人への檄文に思えるのです。

    *****



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    にもかかわらず八路軍は、台湾本島に攻め入ることをしませんでした。
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    実は、ここに日本人が関係しています。
    これは戦後六〇年間、封印されていた史実です。

    チャイナで中華人民共和国が建国宣言する二ヶ月前、金門島で国民党軍と共産党軍による激烈な戦いが繰り広げられました。
    戦いは、国民党軍の完膚なきまでの完全勝利となりました。
    この戦い以降、チャイナ共産党は国民党への追いつめ作戦(攻撃)を止めました。
    だから台湾はいまも国民党政権が存続し、台湾は台湾として存続しています。

    このことは、金門島の戦いが、当時破竹の勢いだったチャイナ共産党軍に、国民党を攻める意欲さえも失わせた、ということです。
    共産党軍は、そこで何をおそれたのでしょうか。

    それが、「戦神(いくさかみ)」です。
    その国民党側に「戦神(いくさかみ)」がいたからこそ、チャイナ共産党軍は金門島ひとつを陥とすために、どれだけの兵力の損耗をするかわからないと恐怖したし、以後の台湾侵攻をあきらめたのです。

    この事実が明らかにされたのは平成二〇(2008)年のことでした。
    そして、このときの「戦神」こそ、日本陸軍の名将、根本博元陸軍中将です。

    根本陸軍中将は、明治二十四(1891)年に、二本松藩(福島県岩瀬郡仁井田村・現須賀川市)で生まれました。
    二本松藩は、織田信長から「米五郎左」と呼ばれて信頼された猛将丹羽長秀の直系の丹羽氏が治め、徳川将軍家への絶対の忠義を最大至上とした藩です。
    あまり知られていませんが、戊辰戦争において二本松藩は、最大の激戦と呼ばれる勇猛無比の戦いを行った藩としても知られています。

    そんな二本松に育った根本博陸軍中将は、仙台陸軍地方幼年学校を出て、陸軍中央幼年学校にあがり、陸軍士官学校を二十三期で卒業し、陸軍大学三十四期生として陸軍に任官、以後ずっと陸軍畑を歩み続けました。

    その根本陸軍中将がなぜ台湾の国境紛争に関わったのか。
    そこには理由があります。

    実は、終戦当時、根本陸軍中将は駐蒙軍司令官としてモンゴルにいたのです。
    八月九日以降、ソ連軍があちこちで略奪や暴行強姦、殺戮を繰り広げている情報は、もちろん根本陸軍中将のもとにもたらされました。

    そして八月十五日、中将のもとにも武装解除せよとの命令が届けられました。
    しかし、こちらが武装を解除したからといって、日本人居留民が無事に保護されるという確証は何もありません。

    考え抜いたあげく、根本陸軍中将は、
    「民間人を守るのが軍人の仕事である。
     その民間人保護の確たる見通しがない状態で
     武装解除には応じられない」
    とし、
    「理由の如何を問わず、
     陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。
     これに対する責任は一切司令官が負う」
    と、命令を発しています。
    駐蒙軍の意識は、これによって一様に高まりました。

    八月十九日、ソ連軍とチャイナ八路軍の混成軍が、蒙古の地へなだれ込んできました。
    彼らはソ連製T型戦車を先頭に押し出し、周囲を歩兵で固め、空爆を駆使し、数万の軍勢で一気に日本軍を踏みつぶそうとしてきました。

    激しい戦いは三日三晩続きました。
    結果がどうなったか。
    ソ連軍が敗退し、蒙古侵攻から撤収したのです。
    根本陸軍中将率いる駐蒙軍が戦いに勝利したのです。

    さらにこの戦いに先だち、根本陸軍中将は日本人居留民四万人のために列車を手配し、日本人民間人を全員、天津にまで逃しています。
    しかも各駅には、あらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運び、避難民たちが衣食に困ることがないように入念な手配までしていました。

    当時、張家口から脱出した当時二十五歳だった早坂さよ子さんの体験談がのこっています。

    「張家口は
     ソ連邦が近いのでソ連兵が迫ってくるという話に
     戦々恐々と致しました。
     五歳の女子と生後十ヶ月の乳飲み子を連れてとにかく、
     なんとか日本に帰らねばと思いました。
     駅に着きますと
     貨物用の無蓋車が何両も連なって待っており、
     集まった居留民は皆それに乗り込みました。
     張家口から天津迄、
     普通でしたら列車で七時間位の距離だったと思いますが、
     それから三日間かかってやっと天津へ着くことが出来ました。
     列車は「萬里の長城」にそって走るので、
     長城の上の要所々々に
     日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、
     皆で手を振りました。
     そして兵隊さん達よ、
     無事に日本に帰ってきてと祈りました」

    多くの日本人居留民の犠牲が重なった他の戦域とくらべ、なんとものどかな逃避行の手記です。
    それだけ根本軍団の手当が行き届いていたということです。

    八月二十一日、ソ連軍を蹴散らした中蒙軍は、夜陰にまぎれ、戦地から撤収しました。
    列車は全部、民間人避難のために使っていたから、軍人さんたちは徒歩で退却しました。
    途中の食料は、最早所有者のいなくなった畑のトウモロコシを生で齧(かじ)ったそうです。

    たとえどんなに苦労してでも、たとえ装備が不十分であったとしても、助けるべき者を助ける。
    そのために命をかけて戦い、自分たちは最後に帰投する。
    強いものほど先頭に立って苦労をする。
    苦労することを厭わない。
    これがかつての帝国陸軍軍人の姿であり、私たちの若き日の父や祖父の姿です。

     *

    モンゴルでの戦闘に勝利した根本陸軍中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯しました。
    そこで根本陸軍中将は、北支方面軍司令官兼駐蒙軍司令官に就任しています。
    このとき北支には、軍民合わせて三十五万人の日本人がいました。
    根本元陸軍中将は、その全部の命を預かる身となったのです。

    この頃チャイナでは、蒋介石率いる国民党軍が、幅を利かせ、あちこちで乱暴狼藉を働いていました。
    とりわけ日本人に対しては、あらゆる蛮行が加えられていました。
    ところが北支方面では、根本陸軍中将率いる北支軍が断固として武装を解かない。
    日本軍と国民党軍の小競り合いや、ソ連の支援を得た八路軍との戦いは、各地で無数にあるのだけれど、根本陸軍中将に率いられた日本の北支軍は、どの戦いでもチャイナ側を完膚なきまでに叩きのめしました。

    すでに装備も不十分、弾薬も底をつき出しているはずなのです。
    それでも日本軍を破れない。
    次第に根本陸軍中将の存在は、国民党軍や八路軍の中で、「戦神(しゃんせん)」と呼ばれて恐れられるようになりました。
    どんなにチャイナの軍が頑張っても、根本陸軍中将の軍を破れないのです。
    だから、日本人の根本将軍は「戦いの神」に違いない、人は神には勝てない、そう呼ばれるようになったのです。

    昭和二十(1945)年十二月十八日、蒋介石は、自身で直接北京に乗り込み、根本陸軍中将に面談を申し込みました。
    断る理由はありません。
    むしろ両者の争いを早急に終わらせ、国民党軍の協力を得て日本人居留民を無事、安全に日本に送り返すことの方が先決です。

    はたして蒋介石は、
    1 根本陸軍中将率いる北支方面軍とは争わない
    2 日本人居留民の安全と、無事に日本へ帰国するための復員事業への積極的な協力をする
    と約束してくれたのです。

    チャイナでは、約束というのは相手に守らせるべきもので、自分が守る気はまったくない、というのが常識です。
    ですから根本陸軍中将は、蒋介石の協力に感謝し、
    「東亜の平和のため、そして閣下のために、
     私でお役に立つことがあれば
     いつでも馳せ参じます」
    と約束しています。
    蒋介石側に約束を守らせるためには、こちらが強いというだけでなく、相手方へのメリットの提供が必要だったからです。

    会見の結果、在留邦人の帰国事業は、誰一人犠牲を出すことなく、約一年で無事全員が完了しました。
    こうして北支36万の日本人は、全員無事に日本に復員することができたのです。

    こうして全てを終えた根本陸軍中将は、昭和二十一(1946)年七月、最後の船で日本に帰国されました。

     *

    それから三年経った昭和二十四(1949)年のことです。
    チャイナでは国共内戦が激化し、戦いは共産党軍の圧倒的勝利に終わろうとしていました。

    そんな折に、東京多摩郡の根本元陸軍中将の自宅にひとりの台湾人青年が尋ねて来ました。
    彼は李鉎源と名乗り、台湾なまりの日本語で、
    「閣下、私は傳作義将軍の依頼によってまかり越しました」
    と語りました。

    傳作義将軍は、根本陸軍中将が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に世話になった恩人です。
    そのころ、チャイナ本土を追われた蒋介石の国民党は、台湾に逃れ、そこを国民党政権の拠点とし、福建省での共産党軍との戦いを繰り広げていました。
    八路軍との戦いは、国民党側が敗退につぐ敗退をしていました。
    このままでは蒋介石自身も命が奪われ、台湾が共産党の支配下に落ちるのも目前という状勢でした。

    「なんとか閣下のお力を貸していただきたい」
    そういう李鉎源の申し出に、根本陸軍中将は、いまこそ蒋介石が復員に力を貸してくれた恩義に報いるときだとおもいました。

    けれど、当時はGHQが日本を統治していた時代です。
    旧陸軍士官に出歩く自由はありません。
    そもそもMP(ミリタリー・ポリス)の監視付きです。
    しかも無一文。
    渡航費用もありません。

    けれどある日、根本陸軍中将は、釣り竿を手にすると、普段着姿のまま家族に
    「釣りに行って来る」
    といい残して家を出ました。
    そしてそのまま台湾に渡航するための工作活動にはいりました。

    ちなみに昔の帝国軍人というものは、仕事のことを一切家族に言わないのが常識です。
    軍事は機密事項であるし、軍は人と人との人間関係が極めて濃厚な場所です。
    あいつは気に入らない、などとついうっかり妻に話し、聞いた妻がたまたまその相手と会ったときにしかめつらでもしたら、ただでさえ濃厚な人と人との繋がりにひびがはいる。
    昨今では「軍は命令で動くもの」とばかり思っている人が多いけれど、それ以上に、みんなが納得して動くという状態を築いていたのが帝国陸軍です。

    やらされて戦うのではないのです。
    感情面と理性面の両方で、戦いを納得していたからこそ、帝国陸軍は強かったのです。
    このことは日本人なら、誰でもすぐに納得できることだろうと思います。
    昨今のエリートさんは、人間関係を上下関係だけでしかみようとせず、命令すれば下は動くと思っている人が多いようです。
    そういうものではないのです。
    みんなが納得し、自分の意思で動くようになったときに、はじめて本当の強さが発揮できるものです。

     *

    さて台湾を行きを決意した根本陸軍中将は、まず戦前の第七代台湾総督だった明石元二郎の息子の明石元長に会いました。
    明石元長は台湾で育ち、戦後は日本にいて台湾からの留学生や青年を援助していました。

    台湾に国民党がやってきて以降、彼ら国民党が、元からいる台湾人(旧日本人)を何かと差別し、いさかいが耐えないことは明石元長も承知しています。
    しかし蒋介石率いる国民党が、毛沢東の共産軍に負ければ、その時点で台湾は共産党政権に飲み込まれ、台湾の同胞たちはもっと悲惨な眼に遭ってしまいます。
    チベット、ウイグルの悲劇は、そのまま台湾民衆の悲劇となるのです。

    明石は、なんとかして軍事面で蒋介石を支援しなければならないと考えていました。
    そのためには、戦いの神様と呼ばれた根本陸軍中将を台湾に送り込むしかない。

    けれど終戦直後のことです。
    明石も無一文でした。
    根本陸軍中将に声をかけたはいいけれど、中将を台湾まで渡航させるための費用がない。
    当時、金策に駆け回っていた明石氏の手帳には、
    「金、一文もなし」
    と書かれています。

    明石は、資金提供者を求めて回り、ようやく小さな釣り船を手配しました。
    根本陸軍中将は、その釣り船に乗って、昭和二十四(1949)年六月二十六日、延岡の港から台湾に向かって出港しした。
    出港を見届けた明石元長氏は、東京の自宅に戻り、そのわずか四日後に過労で死んでいます。
    まだ四十二歳の若さでした。
    いまでいう過労死でした。
    どれだけご苦労されたかが偲ばれます。

     *

    根本陸軍中将を乗せた釣り舟は、普通なら琉球諸島を点々と伝いながら台湾に向かうところ、GHQに見つからないようにと、延岡から海を最短距離で一直線に、台湾を目指しました。
    ところが途中の海は、大しけとなりました。
    出港から四日目に船が岩礁に乗り上げ、船底に大穴をあけてしまいました。

    乗員全員で必死にバケツで海水を汲み出し、板を貼付けて応急処置し、しみ出す海水を何度もバケツで汲み出しながら、台湾に向かいました。

    そして出港から十四日をかけて、ようやく台湾北端の港湾都市の基隆(キールン)に到着したときは、船はボロボロ、乗っていた根本陸軍中将以下全員は、まるで浮浪者のような姿になっていました。
    これでは怪しい人と見られても不思議はありません。

    一行は全員、その場で不審な密航者として逮捕されました。
    ちなみに当時の中将の写真が残っていますが、平素どちらかというと下膨れで、どっしりとした体型の根本陸軍中将が、このときばかりは、頬がこけ、手足もガリガリに痩せ細っています。
    ご苦労がいかばかりだったか偲ばせます。

    根本陸軍中将は牢獄の中で、通訳を介して
    「自分は国民党軍を助けに来た日本の軍人である」
    と何度も主張しました。
    けれど看守達は、
    「何を寝ぼけたことをいっているのか」
    とまるで相手にしませんでした。
    まあ、身なりをみれば、当然の反応であったといえようかと思います。

    それでも二週間もすると、どうやら基隆(キールン)に、台湾を助けにきた日本人がいるらしいというウワサが広がりました。
    そのウワサを聞いたのが、国民党軍幹部の鈕先銘(にゅうせんめい)中将でした。

    鈕中将は、根本陸軍中将が北チャイナ方面軍司令官だった頃に交流があった人物です。
    この話を聞いたとき、鈕中将は反射的に椅子から立ち上がったそうです。
    根本陸軍中将の人格と信念を知る鈕中将は、
    「あの人なら台湾に来ることもあり得る」
    と直感したのです。

    できた人物ほど行動が早いものです。
    鈕中将はその場で車を基隆(キールン)に走らせました。

    鈕中将が来ると知らされた看守らは、慌てて根本陸軍中将ら一行を風呂に入れ、食事をさせました。
    根本陸軍中将らは、急に看守達の態度が変わったので、
    「いよいよ処刑か」
    と覚悟を決めたそうです。

    現れた鈕中将は、根本陸軍中将の姿をひとめ見るなり、
    「根本先生!」
    と駆け寄り、その手をしっかり握りました。
    それまで共産党軍にさんざん蹴散らされ、辛酸を舐めてきたのです。
    鈕中将にとって、戦神根本の出現が、どれほどありがたく、大きな存在であったことか。

    根本陸軍中将らは鈕中将とともに、八月一日に台北に移動しました。
    そこで国民党軍の司令長官である湯恩伯(とうおんぱく)将軍の歓待を受けました。

    湯恩伯将軍は、日本の陸軍士官学校を出た親日派の将軍です。
    日本語も流暢です。
    二人は、すぐに打ち解けました。

    さらに根本陸軍中将が台湾に来て、湯将軍と会っているというウワサは、蒋介石総統の耳にもはいりました。
    蒋介石も行動の早い人です。
    その場ですぐに根本陸軍中将に会見を求めました。

    根本陸軍中将が応接室に入ると、蒋介石は、
    「好(ハオ)、好(ハオ)、好(ハオ)、老友人」と固く手を握ったそうです。
    老友人というのは、古くからの信頼する友人という意味です。

    しばらく話が弾んだ後で、蒋介石は真剣な顔で根本陸軍中将に切り出しました。
    「近日中に、湯恩伯将軍が福建方面に行く。
     差し支えなければ
     湯と同行して
     福建方面の状況を見てきていただきたい」
    快諾した根本陸軍中将に、蒋介石は感激して
    「ありがとう、ありがとう」と繰り返したそうです。
    これは本心からのものでした。

    実はこの会見の二ヶ月前に、国民党は上海を失っていたのです。
    上海防衛軍を指揮していたのは、湯将軍でした。
    そこへ共産党軍が殺到したのです。

    上海を失った事で、国共内戦の行方は誰の目にも明らかとなりました。
    五日前には米国務省も、
    「チャイナは共産主義者の手中にある。
     国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」
    と、公式に国民党への軍事援助の打ち切りを発表していたのです。

    上海を失った国民党軍にとって、チャイナ大陸での最後の足場が福建でした。
    それも、海岸沿いにある商都、厦門(アモイ)界隈だけが、国民党が守る唯一のチャイナ大陸での足がかりとなっていました。
    つまりここを失えば、国民党は完全にチャイナ本土の支配権を失い、一方で共産党軍が、一気に台湾まで攻め込んで来る。
    そうなれば、もはや蒋介石の命もない・・という追いつめられた情況にあったのです。

    福建行きを承諾した根本陸軍中将を、湯将軍は「顧問閣下」と呼び、食事の際には一番の上席に座らせました。
    いくら根本陸軍中将が恐縮して辞退しても、湯将軍はそれを許さなかったといいます。
    戦を知る湯将軍は、それだけ根本陸軍中将の実力を理解していたのです。

    昭和二十四(1949)年八月十八日、根本陸軍中将ら一行は、福建に向けて出発しました。
    根本陸軍中将は、国府軍の軍服を与えられ、名前は蒋介石から贈られたチャイナ名の「林保源」を名乗りました。
    厦門(アモイ)に到着した根本陸軍中将は、同地の地形等を調べ、即座に「この地は守れない」と判断しました。

    商都、厦門は、厦門湾の中にある島です。
    北、西、南の三方を大陸に面し、狭いところではわずか二キロしか離れていない。
    三方から攻撃を受ければ、厦門はあっという間に陥落してしまいます。

    さらに厦門は商業都市です。
    二〇万人もの住民が住んでいる。
    そんな場所で戦えば、当然、民間人に犠牲が出る。
    さらに戦闘になれば、軍隊だけでなく、民間人の食料も確保しなければなりません。
    つまり、二〇万食が余計にかかるのです。
    それだけの食糧の供給は不可能です。
    つまり厦門では、持久戦ができないのです。

    一方、厦門のすぐ対岸にある「金門島」は厦門湾の外側に位置します。
    海峡の流れが速く、これを乗り越えるためには、速度の速い船を使ってもスピードは出ません。
    つまり上陸に時間がかかる。
    しかも島の人口はわずか四万です。
    島民達は漁業やさつまいもの栽培で生計を立てています。
    島では、食料自給が可能です。
    つまり大陸との通行を遮断されたとしても、金門島を拠点にすれば長期間戦い抜けるのです。

    その日の夜、根本陸軍中将は、湯将軍に、自分の考えを話しました。
    そして「共産軍を迎え討つのは、金門島をおいてほかにありません」と断言しました。

    しかし湯将軍は押し黙ってしまいました。
    すでに上海を失っているのです。
    厦門を放棄すれば、共産軍は厦門を落としたと宣伝するだろう。
    そうなれば湯将軍は再び敗軍の将となり、ひいては蒋介石の信頼をも失うことになるやもしれない。

    けれど根本陸軍中将は言いました。
    「いまは台湾を守ることが、
     国民党政府を守ることです。
     そのためには戦略的に金門島を死守することが力となります。
     自分の名誉ではなく、
     台湾を守る道筋をつけることが、
     軍人としての務めではありませんか?」

    この言葉に湯将軍は決断します
    「厦門は放棄。
     金門島を死守する!」

    基本方針が固まると、さらに根本陸軍中将は作戦を深化させました。
    共産軍は海軍を持っていません。
    彼らが海峡を渡るためには、近辺の漁村からジャンク船と呼ばれる小型の木造帆船をかき集めることになるだろう。
    ジャンク船なら、海で迎え討つこともできるが、それでは敵の損害は少なく、勢いに乗った共産軍を押しとどめることはできない。
    ならば敵の大兵力をまず上陸させ、その上で一気に殲滅して国民党軍の圧倒的強さを見せつけるしかない・・・。

    根本陸軍中将は大東亜戦争時に日本陸軍が得意とした塹壕戦法を再び採用します。
    海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させ、陸上に誘い込んで殲滅する。
    これは硫黄島や沖縄で、圧倒的な火力の米軍に対して大打撃を与えた戦法です。

    根本陸軍中将は、共産党軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築や、敵船を焼き払うための油の保管場所、保管方法など、日夜島内を巡りながら、細かなところまで指示を与えてまわりました。

    十月一日、毛沢東による中華人民共和国の成立宣言が発せられると、勢いに乗った共産軍は、廈門さえも捨て、金門島に立て篭る国民党軍に、
    「こんな小島をとるには何の造作もない、
     大兵力を送り込んで
     残党をひねり潰すだけのことだ」
    と豪語しました。

    十月半ばには金門島の対岸にある港でジャンク戦の徴発が始まりました。
    船がまとまった十月二十四日の夜です。
    そしていよいよ金門島への上陸作戦が始まりました。
    この日、金門島の海岸は、上陸した共産軍二万の兵士であふれかえりました。

    彼らが上陸する間、島からは一発の砲撃も銃撃もありませんでした。
    共産軍は悠々と全員が島に上陸しました。
    そして露営陣地の構築に取りかかりました。
    そのとき・・・。
    突然彼らが乗船してきた海上のジャンク船から火の手があがりました。

    火の手はあっという間に広がりました。
    油を注がれた木造の小船は、次々と燃え上がりました。
    つまり、共産軍は、完全に退路を絶たれたのです。

    そして夜が明けました。

    辺りが明るくなりかけたころ、突然島の中から砲撃音が鳴り響きました。
    そしていままで何もないと思っていたところから、突然国民党軍の戦車二十一両が現れて、三十七ミリ砲を撃ちまくりながら、海岸にひとかたまりになっている二万の共産党軍に襲いかかりました。

    逃げる船は既にありません。
    共産軍は、国民党軍の戦車隊が出てきた方角とは反対側、つまり金門島の西北端にある古寧頭村に向かって逃げ落ちる他ありません。

    これまでずっと敗北を続けてきた国民党軍です。
    ほとんど初めてと言ってもよいこの快勝に、兵士たちは血気にはやりました。
    そしてそのまま一気に古寧頭村に追い打ちをかけようとしました。

    ところが根本陸軍中将は、これに待ったをかけました。
    「このままでは巻き添えで、
     一般の村民に被害が出る。
     村人たちが大勢殺されたら、
     今後、金門島を国民党軍の本拠として
     抵抗を続けていくことが難しくなる」

    そして、古寧頭村の北方海岸にいる戦車隊を後退させると、南側から猛攻をかけさせました。
    そのうえで、敵に逃げ道を作って北方海岸方面に後退させ、そこを砲艇による海上からの砲撃と、戦車隊による挟み撃ちで、敵を包囲殲滅するという作戦を湯将軍に提示しました。
    湯将軍は、根本陸軍中将のあまりの作戦見事さに、これをそのまま採用しました。

    十月二十六日午後三時、根本陸軍中将の作戦に基づく南側からの猛攻が始まりました。
    敵は予想通り、村を捨て、北側の海岸に向かって後退しました。
    そこにはあらかじめ、砲艇が待機していました。

    砲艇が火を吹く。
    反対側から戦車隊が迫る。
    共産党軍に逃げ場はありません。
    砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化し、午後十時、共産軍の生存者は武器を捨てて全員降伏しました。

    この戦闘で共産軍の死者は一万四千、捕虜六千となりました。
    国民党軍は、怪我人を含めて三千余名の損傷でした。
    戦いは、あまりにも一方的な国民党側の大勝利に終わったのです。

    わずか二昼夜の戦いで、共産軍の主力が殲滅したというウワサは、あっという間に広がりました。
    これまで敗退続きだった国民党軍がいきなり金門島で大勝利したのは、「戦神」と呼ばれる日本人の戦闘顧問がついたからだとも・・・。

    日本陸軍の強さは、当時、世界の常識です。
    その日本の戦神が、国民党軍のバックについた。
    それは共産軍からみれば死神以上に恐ろしいことです。

    しかも悪いことに、このときの共産党軍は、中華人民共和国の建国宣言をしたばかりでした。
    国民党に対する圧倒的勝利が連続していたから、気を良くして建国宣言したのです。
    ところがその基盤が固まらないうちに、国民党軍に完膚なきまでに叩きのめされたとなれば、共産党の威厳を損ねることになります。
    そしてこういうときの共産党のやり方は、決まっています。
    「すべてなかったことにする」です。

    こうして共産軍の進撃は完全に止まり、金門島は70余年を経た今日も、台湾領でいます。

    十月三十日、湯将軍ら一行は、台北に凱旋する。湯将軍一行を迎えた蒋介石は、このとき根本陸軍中将の手を握って「ありがとう」とくり返したといいます。
    けれど根本陸軍中将は、
    「北支撤退の際、蒋介石総統にはたいへんな恩を受けた。
     自分はそのご恩をお返ししただけです」
    と静かに語りました。

    結局根本陸軍中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また、日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないからと、金門島での戦いに際しての根本陸軍中将の存在と活躍については、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしました。

    ただ、行きのときの漁船での船酔いがよほどこたえたのか、はたまた蒋介石のお礼の気持ちか、帰りは飛行機で帰国されています。

    羽田に着いたとき、タラップを降りる根本陸軍中将の手には、家を出るときに持っていた釣り竿が、一本、出たときのままの状態で握られていました。
    それはあたかも、
    「ただちょいとばかり釣りに行ってただけだよ」
    といわんばかりの姿でした。

    中将は家を出るとき、家族に「釣りに行って来る」と言って出られました。
    そのときの釣り竿をずっと持っていたのです。
    どんなに激しい戦地にあっても、途中にどんな困難があっても、そして何年経っても、決して家族のことを忘れない。
    それは根本陸軍中将の、父として、夫としての家族へのやさしさだったのかもしれません。

    奥さんや娘さんも偉いです。
    ただ出ていったときと同じ姿で、まるで出かけたその日の夕方にでも帰ってきたかのように釣り竿を手に帰宅した夫に、ただいつもと同じように「おかえりなさい」と言って、夕餉を用意し、そのまま夫が死ぬまで、
    「あなた、どこに行っていたんですか」と問うこともしませんでした。

    軍人の妻とは、そういうものと心得ていたからと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、釣り竿を持って出ていったその日から、夫は突然、行方不明になったわけです。
    奥さんはその間、子を抱えて、終戦直後という食料も衣類もない過酷な時代を、ひとりで乗り越えるしかなかった。
    さぞかしたいへんなご苦労があったものと思います。

    けれど3年経って夫が、つい今朝出ていって、まるでその日の夕方帰宅したかのように帰ってきた。
    その日も、それからのまる40年間も、奥さんは夫が死ぬまで、一度も夫に、どこに行っていたのか、何をしていたのかと尋ねることをなかったし、いない間の苦労を夫に咎めだてすることも一切なかったといいます。

    日本では古来、男女は対等です。
    どちらが上ということはありませんし、支配と被支配の関係でもありませんし、隷属の関係でも、依存関係でもありません。
    対等ということは、男女がともに精神的に「自立」しているときにはじめて成り立つものです。
    そして咎めだてしなかったということは、そこに絶対的な夫婦の信頼があったということです。

    また娘さんも同様に、父をまったくとがめることをしなかったそうです。
    つまり親子の間にも、自立と本物の「信頼」という強い絆があったのです。
    すごいことだと思います。

    いつの日か、根本博陸軍中将ご夫妻の映画ができたら良いなと思っています。
    そしてそのような映画が、上映中止に追い込まれることなく、多くの日本人の賛同を得ることができる、そのような日本にしていくことこそ、いまを生きる私たちの使命なのではないでしょうか。


    ※この記事は、2012年11月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!
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    20160423 ヒナゲシ
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    小名木善行です。

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    写真は、この時期によく見かけるヒナゲシの花です。
    ヒナゲシは虞美人草とも呼ばれ、花言葉はいたわり、思いやり、忍耐です。

    日本人といえば、特定の三国を除いて、世界中の人々から勤勉、親切、真面目、正直、礼儀正しい、助け合う、優しい、協力的といったイメージを持たれているようですが、その実態は、思いやりと、忍耐力にあろうかと思います。
    そこで今日は、日本人の生き方というタイトルで、醍醐忠重(だいごただしげ)海軍中将をご紹介したいと思います。
    終戦当時日本海軍の第六艦隊司令長官だった方です。
    第六艦隊は潜水艦隊です。

    醍醐海軍中将は、明治二十四(1891)年、名門貴族の醍醐家の嫡男として生まれました。
    醍醐家は旧侯爵家です。
    れっきとした華族のご出身です。

    華族というと、なにやらひ弱なイメージを持たれる方もおいでになるかもしれません。
    けれど醍醐海軍中将は、まさに人として男として、そして帝国海軍軍人として、誰よりも尊敬に値する生き方を貫かれた人でした。

    醍醐忠重海軍中将
    醍醐忠重海軍中将


    醍醐海軍中将の父親は、戊辰戦争で奥羽鎮撫副総督などを務めました。
    けれど醍醐海軍中将がまだ八歳の頃に他界しています。
    母も相次いで亡くなりました。
    醍醐忠重中将は、ですから孤児となって一條家にひきとられています。

    子供の頃の醍醐海軍中将は、乃木大将が院長だった頃の学習院旧制中等科に通いました。
    そして同時に、嘉納治五郎の講道館で柔道を修業しました。
    とても強かったそうです。

    明治四十二(1900)年に、海軍兵学校に、第四十期生として入校しました。
    入校時の成績は、百五十名中、百二十六番です。
    それが入学後の猛勉強で、卒業時には百四十四名中、十七番になっていました。
    たいへんな努力家でもあったのです。

    兵学校で同期だった福留繁元海軍中将によると、兵学校当時の醍醐海軍中将は、
    「(華族の家柄だけあって)さすがに行儀が良く、
     上品で服装もきちんとしていた。
     酒を飲んでも少しも乱れることはなく、
     謹厳で、しかも謙譲な奴だった」そうです。

    昔は、海軍兵学校で成績上位者は、一定の現場勤務のあと、海軍大学校に進学しました。
    卒業すれば、高級士官になるからです。
    けれど醍醐海軍中将は現場勤務を選択し、巡洋戦艦「吾妻」の乗組員になりました。
    そして大正六(1917)年に、初の潜水艦勤務に就きました。
    このときの潜水艦勤務が、その後の彼の一生を決定づけました。

    当時大尉だった醍醐海軍中将は、練習艦隊参謀にという内示があったけれど断っています。
    醍醐海軍中将は生涯を潜水艦に賭けようとしたのです。

    彼が少佐として潜水艦長だった頃のことです。
    海軍が艦隊をA軍、B軍に分けて、大演習を行いました。
    このとき醍醐海軍中将が艦長を務める潜水艦は、たった一隻で、相手チームの戦艦群がいる厳戒態勢の舞鶴港に侵入し、相手の全艦隊を轟沈、ないしは大破させるというはなれ業をやってのけています。

    もちろん演習ですから実弾は使用していません。
    けれど警戒碇泊中の連合艦隊全艦が、忠重が艦長を勤めるたった一隻の潜水艦の奇襲に、なすすべもなく全滅させられたのです。
    この手腕に、当時の海軍関係者全員が、まさに度肝を抜かれています。

    昭和十三(1938)年、醍醐海軍中将にご皇室の侍従武官の話がもちあがりました。
    このとき彼が海軍大学校を出ていないからと反対意見があったそうです。
    しかし人格、識見からいって充分適格との上層部の判断で、彼は見事侍従武官になっています。

    当時を振り返って、入江侍従は、
    「醍醐さんは、まじめで冗談など滅多に言われない方でしたが、決して固苦しい方ではなく、非常にやわらかい、温かい雰囲気をもった方でした」と語っています。

    さて、戦争も末期となった昭和二十(1945)年五月のことです。
    醍醐海軍中将は第六艦隊司令長官に就任しました。
    このとき第六艦隊の全員が、歓喜して彼を迎えました。
    潜水艦を愛し、潜水艦を知り、部下たちの心を理解する醍醐海軍中将の長官就任は、まさに艦隊全員の喜びだったのです。
    醍醐の長官就任で、戦争末期の重苦しい艦隊の気分が、まさに一新されたといいます。

    この頃、第六艦隊で、作戦可能な潜水艦はたったの九隻でした。
    けれど醍醐海軍中将が司令長官となった潜水艦隊は、以降、めざましい戦果をあげます。
    重巡インデアナポリス撃沈。
    駆逐艦アンダーヒル撃沈。
    駆逐艦ギリガン大破。

    インデアナポリスは、原爆を、テニアン島に運んだ重巡です。
    そのインデアナポリスに、伊五十八潜水艦は、六本の魚雷を発射し、三本を命中させて撃沈しています。
    このことを、当時のニューヨークタイムズは、「わが海戦史上最悪の一ページ」と書いています。

    この頃の第六艦隊の潜水艦は、どれも人間魚雷「回天」を搭載していました。
    醍醐海軍中将は、その回天の出撃の都度、必ず出撃の基地を訪れて、連合艦隊司令長官から贈られた短刀を搭乗員に授与し、激励しました。
    そのとき、出撃する「回天」の乗員ひとり一人と握手するとき、醍醐海軍中将の眼はうるみ、顔には深刻な苦悩がにじんでいたそうです。
    優秀な若者を特攻させなければならないのです。
    そのことに醍醐海軍中将は深く悩んでいたのです。

    終戦直後のことです。
    艦隊司令部の機密費の処理をどうするかという問題が起こりました。
    このとき第六艦隊には、かなり巨額の金が残っていたのです。
    そしてそのお金の処分が醍醐長官の決定に委されました。

    醍醐海軍中将は、
    「このお金は国家のお金です。
     ですから一銭たりとも私すべきものではありません。
     何か有意義な使い道はありませんか?」と、鳥巣参謀に相談しました。

    鳥巣参謀は、
    「回天で戦死した搭乗員の霊前に供えたらどうでしょう。
     本来なら戦死者全員に供えられれば良いが、
     この混乱の中ではとても手が回りかねます。
     回天関係ならば全員わかっていますから」と答えました。
    醍醐海軍中将はこの方法に賛成し、即座に決定しました。

    決定は、昭和二十一(1946)(年正月から春にかけて実行に移されました。
    各幕僚が手分けして遺族を訪問し、長官の弔意を捧げ、香料を供えました。遠距離でどうしても行けないところには郵送しました。

    このときの醍醐長官の弔辞が、いまに残っています。
    以下にその弔辞を引用します。
    わかりやすさを優先するために、いつものねず式で、現代語に訳してみます。

    *****
    【弔辞・謹みて回天特別攻撃隊員の英霊に捧ぐ】

    去る八月十五日、終戦の大詔下りました。
    皇国は鉾(ほこ)を収めて、ポツダム宣言受諾のやむなきに至りました。
    まことに痛恨のきわみにして、何をもってこれをたとえたらよいのか、言葉もありません。
    散華されたみなさんの忠魂を思えば、哀々切々の情、胸に迫って胸が張り裂けんばかりです。

    かえりみるに、みなさんには、志を立てて海軍に入り勇躍大東亜戦争に臨んでいただきました。
    けれど戦い中途からの戦況は厳しく、そのためにみなさんは回天特別攻撃隊員となり、そして戦勢を挽回しようとしてくださいました。
    その闘魂は、まことに鬼神をも泣かしむるものです。

    みなさんは秋霜烈日の訓練に従事されました。
    ひとたび出撃するや、必死必殺の体当り攻撃をして敵艦船を轟沈する偉功を樹ててくださいました。
    そして、悠久の大義に殉じられました。
    まことにその忠烈、万世に燦然と輝くものです。

    けれど、みなさんの武勲が赫々(かくかく)たりしものであったにもかかわらず、戦い利あらず、ついに今日の悲運となりました。
    いったい誰が、今日のこの事態を予期したことでしょうか。

    私達は、みなさんの期待にそうことができませんでした。
    ですから、みなさんの忠魂を慰めることなどできかねます。
    ああ、なんと申し上げたら良いのでしょう。

    けれど、みなさんの誠忠遺烈は、万古国民の精髄です。
    必ずやみなさんの七生報国の精神は、脈々と続き、永遠に皇国を護ることでしょう。

    今、皇国は、有志以来最大の苦難に直面しています。
    今後におけるイバラの道は、実に計り知れません。

    けれど、私達は必ずや、みなさんの特攻精神を継承し、たえがたきをたえ、忍び難きを忍び、もって新日本の建設に邁進することをお誓いします。

    願わくば、やすらかにお眠りください。
    ここに、敬弔の誠を捧げ、みなさんの英霊を慰める弔辞とします。

    元第六艦隊司令長官
    海軍中将 侯爵 醍醐忠重
    **********

    遺族の中に、復員して帰って来た弟が、そのお蔭で大学に入ることができた人がいました。
    彼は亡き兄のひき合わせであると言って父母と共に喜び、やがて大学を卒えて立派な社会人になりました。
    その話を聞いとき、鳥巣元参謀は心から喜ばれました。
    「長官がお聞きになったら、さぞ喜ばれたことだろう」
    しかしそのとき、醍醐海軍中将はすでにこの世の人ではありませんでした。

    昭和二十一(1946)年十二月のことです。
    醍醐海軍中将は突然、オランダ当局による逮捕命令を受けました。
    そしてその日のうちに巣鴨に収容され、さらにバタビアを経て、翌年二月上旬に、ボルネオのポンチャナック刑務所に移送されました。

    醍醐海軍中将は、昭和十八年十一月から第二十二特別根拠地隊司令官として、ボルネオに駐在していたのです。
    そこでポンチャナック事件に遭遇していたのです。
    ポンチャナック事件というのは、概略次のような事件です。

    昭和十八年頃から、日本の敗勢を予想した南ボルネオでは、オランダの一大佐の指揮するゲリラ部隊が、華僑やインドネシア人をまき込んで、反日の運動を激化させていました。
    こういう作戦は、戦時においてはあたりまえのようにあったものです。
    後方をかく乱させ、敵の戦力を削ぐために、反乱分子にカネや武器を渡して、その反抗をあおるのです。

    ある日、ポンチャナックの特別警備隊長をしていた上杉敬明大尉のもとに、副隊長の中村少尉から、ある情報がもたらされました。
    それは、十二月八日の大詔奉戴日に行なわれる祝賀会の際、接待役を命ぜられていたインドネシア婦人会のメンバーのための飲料に、反日運動家らが毒を混ぜて、日本の司政官や警備隊幹部、ならびに現地人で構成する婦人会員を皆殺しにし、同時に決起部隊が蜂起して一挙に日本軍を一掃しようとする、というものでした。

    報告を受けた第二十二特根司令部は、ただちに容疑者らの逮捕と、彼らの武器・弾薬の押収を命令しました。
    そして調査の結果、逮捕された千余人は、まちがいなく反乱の陰謀を企てていたことが確認されました。

    しかし、ポンチャナック付近には千人も収容する施設はありません。
    そのうえ付近海面にはすでに敵潜が出没しています。
    つまり、逮捕した犯人を、別な島に送ることができない情況にあったのです。

    加えて日本軍の警備隊といっても、人数はたかだか百人ほどです。
    逮捕されていないゲリラもあとどのくらいいるかわからない。
    いったん反乱が起きれば、むしろ日本側が全滅するのは目に見えています。
    そこで司令部は、四月上旬、上杉大尉に彼らの即時処刑を命じました。

    一方、終戦後のボルネオでは、逆に、オランダからの猛烈な離反、独立運動が起こっていました。
    オランダにしてみれば、日本を追い出しさえすれば、ボルネオが手に入ると思っていたのに、実際には、そのオランダ人を、ボルネオの人々は排除したがっていたのです。

    そこでオランダは、現地人たちの鉾先をそらすために、ボルネオの民衆の前で、「君たちを苛んだ日本軍を我々が追い出したのだ」という、報復裁判を演出しようと企図しました。
    こうして醍醐海軍中将は、戦争終結後一年半も経ってから、ポンチヤナック事件の日本側総責任者として、ポンチヤナック刑務所に収監されました。

    このポンチヤナック刑務所というのがひどいところでした。
    郊外の沼田の中にあり、土地が低いために雨が降ると水びたしになります。
    しかも井戸もなく、飲み水はすべて天水です。
    貯めた天水には、ボウフラがわきました。
    不衛生極まりない悪環境です。

    昭和四十九年になって、上杉大尉と同期だった小説家の豊田穣氏がこの地を訪れているのですが、三十年近い時を経由しても、その汚さはまったく変わっていなかったと、著書に書いています。

    醍醐海軍中将は、昭和二十二年二月にこの刑務所に入れられました。
    刑務所の周囲には、深さ二メートルほどのドブがありました。
    そこは猫の死体などが浮いていて臭気のひどいところでした。

    看守は、そのドブさらいを醍醐海軍中将に命じました。
    普通、これはありえないことです。
    海軍中将といえば、国際的には三ツ星のヴァイス・アドミラルです。
    それだけの高官は、世界中どこに行っても敬意をもって迎えられるものだからです。

    けれど、オランダの醍醐海軍中将に対する措置は真逆でした。
    それは、報復のためでした。
    醍醐海軍中将は、真っ暗なドブにもぐって、メタンガスで窒息しそうになりながら、何時間もかけてドブの掃除をしました。
    それだけではなく、毎日、笞で打たれたり、殴られたりもしました。
    しかし醍醐海軍中将は、最後まで泣き言も愚痴も、ひとことも口にしませんでした。

    インドネシア人の看守は、ついに醍醐海軍中将の堂々とした態度に心惹かれてしまいました。
    そして、
    「自分の権限でできることなら、何でもしてあげるから申し出なさい」と言ってくれるようになりました。

    どのみち報復目的の一方的裁判です。
    すべてが書類の上で運ばれ、反対訊問も、証人を呼ぶことも許されず、裁判はわずか三時間で終わりました。
    そして十月三日、醍醐海軍中将に死刑の判決が言い渡されました。

    死刑の判決が出ると、その後に、助命嘆願書をオランダ総督に提出するのがしきたりです。
    嘆願書が却下されてはじめて死刑が確定するのです。
    死刑が確定した時、通訳が醍醐海軍中将にそのことを伝えました。
    醍醐海軍中将は、
    「ありがとう。大変お世話になりました。
     オランダの裁判官の皆さんに、
     あなたからよろしく申し上げてください」と静かに言ったそうです。

    処刑は民衆の面前で行なわれました。
    処刑の模様を、華僑新聞が次のように伝えています。

    「醍醐はしっかりと処刑台上に縛りつけられ、
     身には真っ黒の洋服を着用、
     頭にはラシャの帽子を被り、
     目かくし布はなかった。
     努めて平静の様子だった。
     刑執行官は希望により歌をうたうことを許したので、
     彼は国歌を歌った。
     その歌調には壮絶なものがあった。
     歌い終わって、さらに彼は天皇陛下万歳を三唱した。
     それが終わると、
     直ちに十二名の射手によって一斉に発砲され、
     全弾腹部に命中し、体は前に倒れ、鮮血は地に満ちた。」

    陸軍の現地軍司令官として同じ獄中に生活し、醍醐海軍中将の四カ月後に処刑された海野馬一陸軍少佐は、醍醐海軍中将の処刑のことを、どうしても日本に伝えたくて、彼が持っていた谷口雅春著「生命の実相」という本の行間に、針の穴で次の文を書き綴りました。
    これはのちに彼の遺品として日本に返還されています。
    そこには、次のように書いてあります。

    「十二月五日
     昨日、醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。
     閣下は平然としておられる。
     実に立派なものだ。
     一、二日のうちに死んで行く人とは思えぬ位に。
     かつて侍従武官までされた人だったのに。

     十二月六日
     海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる。
     余りに憐れなご最後だったが、併しご立派な死だった。
     国歌を歌い、陛下の万歳を唱し斃れられた。
     その声我が胸に沁む。
     天よ、閣下の霊に冥福を垂れ給え。
     予と閣下とはバタビア刑務所以来親交あり、
     予の病気の時は襦袢まで洗って頂いたこともあり、
     閣下は私のお貸しした『生命の実相』をよくお読みになり、
     死の前日、そのお礼を申された。
     閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。」

    東日本大震災の現場でも、そして目下の熊本地震の避難所でも、たいへんな暮らしの中で明るくみんなを励ましながら生きておいでの方がたくさんいます。
    よく「頑張る」と言いますが、日本語のガンバルは、
    「顔晴る」なのだそうです。

    醍醐海軍中将は、名誉や地位よりも、現場の一兵卒としての道を選ばれた人です。
    華族でありながら、普通の日本人と一緒に働く方でした。
    誰よりも努力し、潜水艦長、艦隊司令長官にまで出世しました。
    本人が謙虚でいても、周囲はちゃんと見ていたのです。

    そして明らかにオランダ側に非があるのに、その責任をとらされ、処刑されました。
    泣き言も言わず、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接しました。
    君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれました。

    醍醐海軍中将の生きざまに、まさに日本人としての生きざまがあります。
    醍醐閣下のご冥福を、心からお祈り申し上げます。


    ※この記事は2011年4月の記事のリニューアルです。

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    終戦の日が終わり、8月16日になりました。
    昭和20年8月16日といえば、スターリンが北海道北部のソ連による占領を提案し、これを米大統領のトルーマンが拒否して「日本を分割統治せず」と声明した日です。

    これを受けたスターリンは、その二日後に千島列島東端の占守島に軍事侵攻。
    1日で占領すると豪語していたものが、すでに武装を解いていた日本軍に猛烈に反撃されて、ついに撃退寸前にまで追い詰められてしまい、結果としてソ連はついに北海道侵攻ができなくなったという歴史があります。

    このソ連による日本への軍事侵攻には、実はもともとの伏線があります。
    昭和20年2月18日に、ソ連のクリミアにあるヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で米英ソの首脳会談です。
    この会談では、チャーチル、ルーズベルト、スターリンの三者が集って、「ソ連の対日参戦、連合軍(United Nations)の設立、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利権調整を図ろうとした」とされています。

    ところがこの会談、なんと8日間も行われているのです。
    なぜズルズルと続いていたのかというと、その会談の途中で、ルーズベルトのもとに、マンハッタン計画による原爆実験成功との報告がもたらされたのです。
    原爆があれば、日本を屈服させることができると考えたルーズベルトは、それまでさんざん長引かせていた会談を、そくさくと切り上げています。

    切り上げられたソ連は、このままでは太平洋戦役からソ連が外される(このことはソ連によるチャイナ支配にも多大な影響をもたらします)ということで、4月5日には日ソ中立条約を延長しないと日本に通告しました。
    4月30日にはヒットラーが自殺し、事実上ナチス・ドイツが崩壊しています。
    これによってスターリンは、ヨーロッパ戦線に展開していた120万の軍隊を太平洋側に、シベリア鉄道を使って大転進させていきます。

    こうして太平洋側に転進したソ連軍は、合計160万の大軍となり、昭和20年8月8日午後11時に、ソ連のモトロフ外務大臣より日本の佐藤尚武駐ソ連特命全権大使に対日参戦が伝えられ、2時間後の同9日午前1時には、ソ連軍による対日攻撃が開始されています。

    一方日本は、ヤルタ会談以前から、日米戦争の停戦交渉にソ連に介入してもらおうと外交交渉を続けていました。
    これは日ソ中立条約があったためでした。
    その日本の目論見は、米の原爆実験成功のもとに、もろくも崩れ去ったわけです。

    歴史を振り返れば、もしこのとき、米国が原爆の開発に成功せず、ソ連がヤルタ会談で日米戦争の仲介を申し出て、これが採択されていれば、確実に言えることは、日本が東西に分割統治され、東日本は共産国、西日本は米国の占領下となっていたであろうということです。

    そしてそうであれば、その後の日本の繁栄は有りえず、日本の繁栄がなければ、東アジア全域の繁栄も有りえず(東アジアの戦後に独立した諸国は、日本の援助によって独立後の国家経済を形成しています)、日本では、フィリピンがそうであったように、日本人の子供が、いまなお、ゴミの山で暮らすことになり、思想対立による日本国内のテロ活動が盛んになり、間違いなく言えることは、いまの日本の平和も安定も、絶対に築けていなかったであろうということです。

    日本は原爆を二発も落とされるというたいへんな被害に遭いましたが、それでも、原爆無しで、代わりに米ソによって日本が分割統治される事態であったならば、原爆とは比較にならないほどの甚大な被害が起こったことでしょう。
    おそらく戦後75年を経過した今日においても、日本はあの終戦直後のような悲惨な状態が、今なお続いていたのではないかと思います。

    そう考えてみると、当時の日本の政府の意向であったソ連に停戦の仲介をしてもらうという案と行動は、結果から見れば、それが実現できなくてほんとうによかったといえるし、ヤルタ会談の席上で原爆成功との報告がルーズベルトにもたらされたことも、もしかしたらそれこそ八百万の神々のご神意であったのかもしれないと思えます。

    米ソの攻撃によって、日本は甚大な被害を蒙りました。
    民間人にも多大な損害が出ました。
    まさにこの世の地獄とはこのことを言うのではないかといえるほどの、悲惨がありました。

    けれど、我々日本人の民間人の損失は、およそ39万人です。
    第二次世界大戦における民間人の被害者の総計は、世界全体ではおよそ8000万人、当時の世界の人口のおよそ2.5%です。
    比率からするならば、当時の日本の人口はおよそ8000万人ですから、日本人の民間人も200万人以上の犠牲が出ていなければならない。
    それがわずか0.5%の被害で済んだのは、(もちろん被害者となった方々はあまりに気の毒なことでしたが)、むしろ僥倖ともいえることであったといえるのではなかろうかと思います。

    ソ連だけ見ても、昭和14年の時点でソ連の人口は1億9000万人ですが、先の大戦で戦闘員、民間人合わせて2700万人が犠牲になっています。日本の10倍です。
    ドイツも同年の総人口7000万人のうち、およそ850万人が犠牲になりました。これまた日本の4倍です。

    日本の犠牲者は、戦闘員、民間人合わせて210万人です。
    世界の戦場を考えれば、日本の被害は(決して喜ぶようなことではないけれど)、極めて少ないものであったのです。

    本土空襲に遭い、原爆まで落とされ、ソ連の対日参戦がありながら、それでもなお、日本の損害が少なかった理由はなにか。
    それは戦闘員、民間人の死者の割合に明確に出ています。
    先の大戦による日本の死者は、戦闘員174万人、民間人39万人です。
    そして(繰り返しになりますが)日本の人口は8000万人です。

    この数字が示すもの。
    それは、帝国軍人が、多大な損失を出しながらも、勇敢に、そして立派に戦ってくださったおかげで、《多くの民間人の命が守られた》という事実です。

    私たちは、そうした、若き日の父や祖父のはたらきによって、いま、この命をいただいています。
    そしてその命は、ただただ若き日の父や祖父が、未来の日本がやすらかな世になることを願って、それこそ命がけで戦ってくださったおかげで、いただくことができた命です。

    そのことに感謝の思いを常に忘れないこと。
    それは、日本人としての、ごく自然な、ごくあたりまえの、そしてしごくもっともな、常識とすべきものであろうと思います。

    よく「お金持ちになりたい」という方がおいでになります。
    ある大金持ちになられた方が言っていました。
    「お金持ちになりたいなら、
     お金にいつも感謝する気持ちを持ちなさい」と。

    日本が幸せな国になりたいのなら、そこに必要なことは、対立でもなければ闘争でも有りません。
    たいせつなことは、先人たちへの感謝の思い、そしていまの日本への感謝の思いです。

    現状を憂うのは、良いことです。
    けれどそれは、現状に優れた資質がある場合に限られます。
    幕末の日本は、まさに現状を憂いて維新を行いました。
    けれどこのときは、民衆の民度も高かったし、憂いた志士や幕臣たちの民度も極めて高いものでした。
    そうした高い資質に支えられたからこそ、つまり根底に高い民度があったからこそ、日本は明治国家の建設が可能であったのです。

    ひるがえって現在を見るに、物質的には幕末とは比較にならないほど日本は恵まれた国になっています。
    では人の民度はどうなのかといえば、東日本大震災に現れたように、民衆における民度はまだ一定以上の民度を保持していると言えますが、行政司法立法の政治の三権や実業界には、金儲けへの強い渇望はあっても、民度の高さが保持されているとは、客観的にみてとても思えません。

    思えませんが、それらを憂いて否定したところで、否定だけでは何も生まれません。
    むしろ、怒りや妬みや否定の感情で迎えられる未来がどのような未来になるのか。
    そちらの方が多くの人々に「怖い」と感じられてしまうのは、ある意味、当然のことということができます。

    要するに「憂う」だけではダメなのです。
    より建設的な明るい未来への確信が必要なのです。

    私たちのご先祖は、日本を豈国(あにくに)=喜びあふれる楽しい国にしようと、真面目に努力を積み重ねてきました。
    今から1300年前の古事記や日本書紀や万葉集などは、まさにそのために書かれたものと言えます。
    記紀が全国の神話を網羅していないとか、別な神話が存在しているとか、書かれている神話の内容が別な文献と違うなど、様々な議論がありますが、記紀はあくまで、「よろこびあふれる楽しい国」を築くためという目的を持って、その目的に合ったものを物語として記述しています。何事にも理由があるのです。

    そしてこうした記紀や歌集が生まれることで、1300年の時を超えた現在まで、私たちの国は、いまだに高い民度を保持し得ています。
    昭和天皇は、終戦の御詔勅で、
    「持てる力の全てを未来の建設に傾けよ」と仰せになられました。
    その「持てる力」というのは、現状への批判だけではないはずです。
    より良い未来のための建設的意見や先人への感謝、愛と慈しみ、人々の協力、対立ではなく融合と結び、悪を認めない強い意志など、憂うよりも、もっとはるかに建設的なものであるはずだと思うのです。

    馬鹿を捕まえて、馬鹿だと罵ったところで、良い国は生まれません。
    馬鹿でも人々のために役立って生きることができる国にしていくことが大事なのだと思います。

    自分は自分を馬鹿だと思っています。
    けれど馬鹿にも馬鹿の人生がある。
    より良い未来のためならもっと馬鹿になるし、そのためにもっと明るい馬鹿になろうと思っています。


    ※この記事は2020年8月の同日記事のリニューアルです。

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    20220725 昭和の軍人



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    昨日、靖國神社の永代神楽祭に合わせて、靖國神社に昇殿参拝をしてまいりました。
    15日の1日前にも関わらず、160名もの方にご参加いただきました。
    お越しいただきました皆様、ありがとうございました。
    遠方やお仕事等でお越しになれなかった皆様の分も、しっかりと感謝の思いと護国への決意を英霊の皆様にお祈りさせていただきました。
    また、この参拝に際し、新刊の『後世へ語り継ぎたい 美しく猛き昭和の軍人たち』も靖國神社に奉献してまいりました。
    この本は、本日(8月15日)発売です。

    十二支は、12年でひとまわりします。
    不思議なもので、なにやら人や国もまた、12年ひとまわりが、ひとつの区切りになるかのように思います。

    個人的にはブログの開設は2008年ですが、ブログを通じて歴史や日本の国柄を情報発信するようになったのが2009年です。
    そして、そんな活動を12年やってきて、ようやく13年目、つまり新たな12年が始まる今年2022年の8月15日に、英霊への感謝と鎮魂の書として、この本を上辞できたことは、そこに何か意味があるような気がしてなりません。

    戸川猪佐武さんの書いた『小説古田学校』に、次の台詞があります。
    「だれも知らん間に時代を先に進める。
     新しい事態を作る・・
     これが外交の要諦だ」

    外交に限らず、いわゆる神様ごともまた同じで、生身の人間にはわからないところで、時代が先に進められている。
    そのように思います。

    この本が、国史啓蒙という目的のもとで、新たな時代を切り開く、自分の中では、ひとつの象徴といえる出来事です。

    本書は、原稿はおよそ30万字におよびます。
    そのなかから、出版社さんに人物をセレクトしていただき、10万字分、つまり3分の1が、本となったものです。
    売れ行き次第ですが、続巻まで進むことができたら良いなと思っています。

    というより、この手の本が、多くの日本人にしっかりと受け入れられる、そういう時代を築いていくことこそ、国史啓蒙という仕事なのではないかと思います。

    もくじは以下の通りです。

    英霊の心は、常にいまを生きている私達とともにあります。
    そして、日本人が日本人としての誇りと自覚を取り戻し、あらためて胸を張った堂々とした日本人になっていくこと。
    それができる国を取り戻し、築いていくこと。
    そしてなにより、日本が平和であること。

    あらゆる逆風の中で、そういう国を築いていくこと。
    それこそが、いまを生きる私達にとっての「戦い」なのではないかと思います。

    文章は平易で、ルビも多く、小学5年生くらいからお読みいただけるように工夫してあります。
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     ***

    はじめに
     純粋に、一生懸命生きた人たち
     日本は天皇の「シラス」国
     愛があるから戦えた

    1 優しかった「お母さん」への遺書 相花信夫陸軍少尉
     「お母さん」とは一度も呼べなかった
     優しい継母への最後の言葉

    2 智恵子。逢いたい、無性に...... 穴澤利夫陸軍大尉
     手さえ触れたことのない婚約者との純粋な愛
     東京大空襲。奇跡の出会いと永遠の別れ
     逢いたい、話したい、無性に......

    3 背中の静ちゃん 大石清陸軍伍長
     大阪大空襲であとかたも無くなった家
     日本陸軍のきめ細かい兵員管理
     出撃すれば帰れない
     泣くなよ静ちゃん。がんばれ!
     日本の兵士たち全員に大切な人生がある

    4 愛という命がけの戦い 藤井一陸軍少佐
     生徒から慕われる熱血教官
     特攻志願する夫への説得
     夫をひきとめることができなかった妻の悲しみ
     消え去った命がいとほしい
     小指を切って血書嘆願
     妻子の待つ黄泉の国へ

    5 芙蓉部隊、特攻せず 美濃部正海軍少佐
     特攻またやむをえず
     本土防衛のために米軍の作戦を逆用
     特攻は行わず、めざましい戦果を挙げる
     海軍兵学校の教育は戦後より優れていた
     「言わなくてもわかる」のが日本の文化

    6 僧侶となった特攻隊司令 玉井浅一海軍大佐
     初めての特攻出撃を命令
     玉井大佐が見せた優しい姿
     日蓮宗導師として戦没者を慰霊
     生き残った人たちの背負った十字架
     いまを生きる人たちの使命

    7 アッツ島、玉砕   山崎保代陸軍中将
     赴任時点で死ぬと決まった、アッツ島転任
     一万一〇〇〇対二六五〇の戦い
     「稀代の作戦家」と讃えられる
     天皇陛下からの電報
     日本の役割と進むべき道

    8 不死身の日本兵 舩坂弘 陸軍軍曹
     ランボー顔負け。サイボーグ並みの体力
     重傷をものともしない鬼神の分隊長
     米軍指揮所テントに突入
     伝説となった不死身の日本兵
     心に沁みる米兵の大男との交流
     帰国後、渋谷駅前に書店を開店
     慰霊に生涯をささげる

    9 義烈空挺隊、敵航空基地に突入 奥山道郎陸軍大佐
     沖縄、そして祖国を守るための特攻
     義烈空挺、沖縄作戦に出撃
     最後の最後まであきらめない
     日本だけが自国の武人を顕彰していない

    10 沖縄防御戦・作戦指揮参謀 八原博通陸軍大佐
     少女たちの戦争物語『あゝひめゆりの塔』
     戦時国際法を守った日本
     隠しきれない沖縄戦の事実
     不利な状況下でも失わない「武士の戦い」
     米軍来襲に備え持久戦を提案
     民間人に協力を願う
     米国通ならではの勝つための持久戦
     的中する作戦、それを咎める大本営
     忘れてはいけない戦争の教訓

    11 戦わざれば亡国、戦うもまた亡国 永野修身元帥
     終始一貫して戦争に反対
     日本は戦域を太平洋に広げすぎた
     日本軍こそが日米開戦に猛反対していた
     戦い勝たずとも祖国護持の精神は残る
     二十四歳のとき日露戦争を戦う
     「青二才」永野の案が採用される
     A級戦犯とされた永野元帥

    12 特攻隊の生みの親 大西瀧治郎海軍中将
     真珠湾攻撃の原案を作成
     沖縄戦の作戦立案の命令が下る
     次善の策が特攻作戦
     中将の覚悟を全員が「知って」いた
     「ウシハク」社会というもの
     日本は権力者の上位に権威を置いてきた
     玉音放送の翌日、自らの軍刀で切腹
     「人間」であることは世界の非常識だった

    13 桜花、九州沖にて散華 野中五郎海軍大佐
     ロケットエンジン搭載特攻専用機「桜花」
     多数の艦船を沈めた「車がかり竜巻戦法」
     桜花、九州沖にて散華 野中五郎 海軍大佐
     桜花の運用の難しさをすぐに見破る
     万にひとつも望みのない作戦
     桜花特攻の最期

    14 日本人として生きる 醍醐忠重海軍中将
     名門貴族の醍醐家の嫡男
     人間魚雷「回天」搭載の第六艦隊司令長官に
     機密費を回天で戦死した搭乗員の霊前に供える
     ポンチャナック事件
     報復目的の一方的裁判で死刑判決
     「海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる」

    おわりに
     損得ではない、もっと大切なもの
     「シラス」と「魂」と「教養」
     現代日本の教育には躾が欠如している
     日本を取り戻す

     ***


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  • 部下たち二千人の命を守った警察官・・・廣枝音右衛門物語


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    「諸君。
     諸君らは、よく国のために戦ってきてくれた。
     しかし君たちは、軍の命令通り犬死することはない。
     なぜなら祖国台湾に、
     諸君らの帰りを心から願って待っている家族がいるからだ。
     私は日本人だ。
     だから責任はすべて私がとる。
     全員、米軍の捕虜になろうとも生きて帰ってくれ」

    20210830 廣枝音右衛門
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9E%9D%E9%9F%B3%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80
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    もう随分と前から、警察官のことをマッポとかポリ公とか言って、やたらに警察官を敵視するような、おかしな文化(といえるかどうかもあやしい)もどきが日本に蔓延しています。
    もちろん刑事ドラマなどで、真面目な警察官は相変わらず人気だし、警察24時のようなドキュメンタリーも高視聴率です。
    けれど、その一方で、私達の生活や治安を守ってくれていて、そのために日々訓練を欠かさない警察官を、なにゆえにか敵視する人たちがいて、それは日本だけでなく米国においても(主に民主党支持層を中心に)同様の思想を持つ人達がいて、なぜか警察官の給料さえも支払いを拒否しようとしているといいます。
    実におかしな話だと思います。

    台湾は、いまでも戦前戦中までの日本の文化を色濃く保っているところがある国(あえて”国”といいます)ですが、なかでも台湾の高砂族のあいだでは、警察官は、いまでも地域の守り神のようにして慕われているといいます。
    これは、もともと明治に現行の警察制度が始まったとき、警察官になったのが旧士族(武士)であった人たちであったこと、このため戦前戦中まで、日本では警察官がエリート中のエリートとされていたことに起因します。

    高級警察官僚は別ですが、現場の警察官は、まさに元武士でしたから、強いし、優しいし、筋道を通すし、不正不義を一切許さないし、教養があるし、子どもたちにやさしい。
    だから派出所に住み込みで勤務する駐在さんは、町や村で、ある意味一番信頼される存在でもありました。

    そんな次第でしたから、戦前に警官になるのは、現代の東大に合格するよりむずかしいとさえ言われていました。
    このことは日本領だった台湾も同じで、台湾における警察官は、それだけ名誉ある職業であり、人々から尊敬されてもいたのです。
    私はそういう社会こそ、健全な社会であると思います。

    さて、その台湾で、いまでも「神」として祀られている警察官がいます。
    名を「廣枝音右衛門(広枝音右衛門)」といいます。

    廣枝音右衛門は、明治38年に神奈川県小田原市で生まれ、逗子の開成中学、日本大学予科へと進み、昭和3年、23歳のときに、佐倉歩兵第57連隊に入隊して陸軍軍曹になりました。
    そして任期満了で除隊したあと、湯河原の小学校教員などを勤め、昭和5年、台湾にわたって、なんと当時、競争率100倍という超難関の台湾総督府の巡査を受験して合格、台湾警察の巡査となり、台湾・新竹州勤務となりました。

    この時代の台湾警察は、治安活動だけでなく、台湾の人々を「内地の日本人と同等の教育、文化水準に引き上げる」という行政上の役割も担っていました。

    昭和17年5月、廣枝音右衛門は、警部に昇進し、新竹州竹南の郡政主任となり、大東亜戦争の戦線拡大にともなって台湾で結成された総勢二千名におよぶ海軍巡査隊・総指揮官を拝命しました。
    海軍巡査隊は、昭和18年12月8日、高雄港から特務艦「武昌丸」に乗り込んで、フィリピンのマニラに向かいました。

    マニラでは厳しい訓練の日々が続きました。
    音右衛門は、隊長として常に部下の先頭に立厳しい訓練を率先して受け、部下たちひとりひとりを励まし続けました。

    そんな廣枝隊長を部下たちは、とても慕いました。
    なにせ人柄が良い。真面目。思いやりがある。

    巡査隊の任務は、物資の運搬、補給などの後方支援でした。
    戦況は刻々と悪化し、ついに昭和20年2月、マニラ市近郊に米軍が上陸してきました。
    米軍と戦闘すること3週間、ついに弾薬も尽き、玉砕やむなしの情況に至りました。

    海軍巡査隊にも、フィリピン派遣軍司令部から棒地雷が支給されました。
    それは、「この棒地雷を手に敵戦車に体当たりし、全員玉砕せよ」という意味の支給でした。

    音右衛門にも家族がいました。
    台湾に、妻と3人の子たちがいました。

    音右衛門は苦慮したうえで、巡査隊の小隊長を務めていた劉維添(りゅういてん)を伴って、米軍にひそかに交渉を行いました。

    翌日、整列した二千人の部下たちを前に、言いました。

    「諸君。
     諸君らは、よく国のために戦ってきてくれた。
     しかし君たちは、軍の命令通り犬死することはない。
     なぜなら祖国台湾に、
     諸君らの帰りを心から願って待っている家族がいるからだ。
     私は日本人だ。
     だから責任はすべて私がとる。
     全員、米軍の捕虜になろうとも生きて帰ってくれ」

    二千人の部下たちは、一同、言葉もなくすすり泣きました。
    音右衛門の気持ちが痛いほどわかったからです。

    音右衛門は、部下たちへの訓示のあと、ひとりで壕に入りました。
    そして拳銃をみずからの頭に向けると、頭部を2発撃って、自決しました。
    昭和20年2月23日午後3時頃のことでした。
    廣枝音右衛門、享年40才でした。

    音右衛門の決断によって、海軍巡査隊の台湾青年ら二千名は、生きて故郷の台湾に帰還することができました。
    この恩を忘れない台湾巡査隊の面々は、戦後、台湾新竹州警友会をつくって、台湾仏教の聖地である獅子頭山にある権化堂に、廣枝音右衛門隊長を祀りました。

    さらに廣枝隊長から受けた恩義を末永く語り継ぐべく、茨城県取手市の弘経寺に広枝隊長の「顕彰碑」を寄進し健立しています。

    弘経寺 広枝隊長 顕彰碑
    弘経寺広枝隊長顕彰碑


    以下は、その「顕彰碑」に彫られた文です。

    「泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す
     時に2月24日なり
     その最後たるよく凡人のなしえざるところ。

     せんなるかな戦後台湾は外国となりたるも
     この義挙により生還するを得た数百の部下達は

     吾等の今日あるは、
     あのとき、隊長の殺身成仁の義挙にありたればこそと

     よろしく称讃し、この大恩は孫々に至るも忘却することなく
     報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと

     昭和51年9月26日隊長ゆかりの地、
     霊峰獅子頭山権化堂にてその御霊を祀り、
     盛大なる英魂安置式を行う。

     この事を知り得て吾等日本在住の警友痛く感動し、
     相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝え
     その遺徳を顕彰せんとしてこの碑を健立す

       元台湾新竹州警友会」

    昭和58年5月、小隊長をつとめた劉維添(りゅういてん)氏は、かつての隊長の自決の地であるフィリピンを訪れました。
    そこで彼は、隊長終焉の地の土を集めると、茨城県取手市に住む、ふみ未亡人に、その土を手渡しました。
    (ふみさん平成元年2月、76歳で永眠)
     
    こうして廣枝音右衛門は、獅頭山の権化堂に神様として祭られ、鬼籍の人となったふみ夫人も、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人たちの手によって台湾・権化堂に祭られました。

    自らの命に代えて、二千人の部下の命を守った廣枝音右衛門。
    こうした歴史を、私たち日本人は、これからもしっかりと語り継いでいきたいと思います。


    ※この記事は2010年1月3日の記事のリニューアル再掲です。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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