• 妻と飛んだ特攻機 神州不滅特別飛行攻撃隊


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    朝子さんは、ご主人のことを本当に愛していらしたのです。
    どこまでも一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。
    たとえ命がなくなっても、魂は夫とともにありたい。
    お二人の身はなくなりました。けれどお二人の魂は、きっと平和な世の中に生まれ変わって、幸せなご夫婦として、いまもどこかでお暮らしになられておいでなのではないでしょうか。

    20150814 妻と飛んだ特攻兵
    画像出所=https://thetv.jp/news/detail/63032/
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    2016年、テレビで、堀北真希さん、成宮寛貴さん主演のテレビ朝日の戦後70年ドラマスペシャル「妻と飛んだ特攻兵」が放送されました。
    お二人は、このドラマの撮影に際して、世田谷観音にある慰霊碑に参拝されたそうです。(上の写真)

    成宮さんは、坊主頭がよく似合いますね。
    この時期になると、坊主頭になる俳優さんなどがよくテレビに出ますが、まるで似合わない人もいる。
    血筋が違うのかなと思ったりしてしまいます。

    さて、このお話は、豊田正義著『妻と飛んだ特攻兵 8・19満州、最後の特攻』(角川文庫)を原作としています。
    その原作が発売される2年前の2011年10月に、実は豊田さんが、このお話をフライデーで紹介しています。
    友人から、このお話が掲載されたという話を聞いて、たいへんありがたく思い、そのことを同じ月にねずブロでもご紹介させていただいています。

    冒頭の写真に石碑が映っていますが、そこに次の文が書かれています。
    ===========
    【碑文】
    第二次世界大戦も
    昭和20年8月15日
    祖国の敗戦という結末で
    終末を遂げたのであるが、

    終戦後の八月十九日午後二時、
    当時満州派遣第六七五部隊に所属した
    今田均少尉以下十名の青年将校が、
    国敗れて山河なし
    生きてかひなき生命なら
    死して護国の鬼たらむと
    又大切な武器である飛行機を
    ソ連軍に引渡すのを潔しとせず、

    谷藤少尉の如きは
    結婚間もない新妻を後に乗せて、

    前日に二宮准尉の偵察した
    赤峰付近に進駐し来る
    ソ連戦車群に向けて、
    大虎山飛行場を発進

    全機戦車群に体当り
    全員自爆を遂げたもので、
    その自己犠牲の精神こそ
    崇高にして永遠なるものなり

    此処に此の壮挙を顕彰する為
    記念碑を建立し、
    英霊の御霊よ
    永久に安かれと祈るものなり
    ==========


    碑文にある谷藤徹夫少尉は、当時、まさに新婚ホヤホヤでした。
    ご夫婦は相思相愛で、傍目に見ていても思わず微笑ましくなってしまうほどのアツアツぶりだったそうです。

    谷藤徹夫少尉は、大正12(1923)年、青森県下北郡の田名部の生まれで、田名部というのは、いまの、むつ市のことです。
    恐山(おそれざん)の麓(ふもと)あたりにある町です。

    谷藤少尉の父親は、当時劇場や映画館、レコード店や蓄音機を販売するお店などを経営していました。
    少尉はその家の長男で、幼いころは、勉強も運動も抜群の成績をあげるのだけれど、身長が低く華奢な体つきだったそうです。

    徹夫氏の姪(めい)にあたる小原真知子さんによると、
    「徹夫おじさんが子供の頃、
     祭りのときに母の浴衣を着て、
     水色の腰巻きをつけると、
     まるで女の子のようにきれいだった」
    そうです。

    勉強ができて、成績はいつも学年トップ、物静かで礼儀正しく、華奢で小柄な体型のため、当時必修科目だった柔道や剣道では体の大きなわんぱく少年たちに歯がたたなかったけれど、運動神経抜群、そして少女のように美しい顔立ちの少年、であったわけです。

    小原さんによると、
    「私の母は徹夫おじさんの妹にあたるんですが、
     よく『兄さんのそばに座ってすることを見ているだけで、
     温かくて優しい気持ちになれた』
     と言っていました。
     徹夫おじさんは、
     窓際に座ってクラシックを聴くのが好きでした」

    谷藤少尉は、昭和17(1942)年、中央大学の法科を卒業すると、青森に帰省して徴兵検査を受けました。
    結果は不合格でした。
    これは、正確には第二種合格といって、予備役として合格、つまり現役兵士として徴兵には不合格ということです。
    理由は、体が小さかったからです。

    これは彼にとってたいへんなショックでした。
    当時は、できの良い秀才は、祖国を守るため、愛する家族を守るために、自ら率先して兵役に就くというのがあたりまえだった時代です。

    やむなく谷藤氏は、日本ビクター蓄音機(現:日本ビクター)に就職しました。
    そして営業マンとして、毎日外を飛び回っていたとき、昭和18年7月の夏の暑い日に、たまたま街で一枚のポスターを見つけるのです。

    ポスターには「学鷲募集」と書かれていました。
    陸軍が航空戦力の増強を図るため、早急にパイロットの育成をしようと、大卒者を対象に「特別操縦見習士官(通称:特操)」の制度を創設したのです。

    特操ならば1年でパイロットになれる。
    思わぬチャンスが、谷藤さんに到来しました。
    募集枠は、第一期、第二期あわせて3000名です。
    何と6倍もの大卒者が受験に集まった狭き門ですが、谷藤さんは青森県でただひとりの合格者となりました。

    こうして谷藤さんは、昭和18(1943)年10月晴れて福岡にある「大刀洗陸軍飛行学校」に入学しました。
    同期は240名です。

    この「大刀洗陸軍飛行学校」の訓練は、とても厳しいものでした。
    なにせ、通常なら数年かけて仕込まれる飛行機の操縦や、軍事法規、国際法、航空力学などの知識を、たった一年で全部仕込まれるのです。

    訓練学校の生徒たちは、入学時点で下士官のトップである曹長の肩書きをもらいます。
    曹長となった谷藤さんが、母に書いた手紙が残っています。

    「前略 お母さん、
     徹夫が立派な手柄をたてるまでは、
     何が何でも病気にならないでください。
     自分は幸いに飛行機乗りに適しているらしく、
     数回の飛行で自信ができました。
     将校は軍の根幹であることを自覚し、
     元気にやっています。
     機上から遠く田名部の空を望見しています。」

    「前略
     いよいよ本格的な飛行演習がはじまっています。
     願わくば一日も早く敵ボーイングに見参せんと念じ、
     自分の年齢が自分の撃墜責任数と思い、
     実現を誓っています。」

    体の小さな谷藤さんは、それだけで戦闘機乗りとしては有利です。
    彼は懸命に努力し、パイロットとしての技能を磨きました。
    谷藤さんが入隊して一ヶ月ほど経ったときの、母からの手紙です。

    「お前からの便りによると、
     いよいよ単独飛行の操縦を開始するとありますが、
     その訓練こそ
     魂を打ち込んだ訓練でなければいけません。
     いまの母は、一刻も早く、
     お前が立派な学鷲として大空へ進発し、
     真珠湾以上の偉勲をたててくださるよう、
     ひたすら神に祈っています。

     はばたきて
     大空翔る姿をば
     みるまで母の 心もとなき

     この歌はつたなきなれど、
     母の真心を思い下されますよう。」

    母の手紙には、偉勲をたててくれるよう祈っていますと書いてあります。
    けれど、文字の表面だけ読んではいけません。

    当時、飛行訓練生というのは、非常な危険を伴うものだったのです。
    ですから軍隊に入っても「飛行兵だけにはなってほしくない」というのが、当時の親の率直な心でした。
    なぜかというと、今のように、航空シミュレーターがあった時代ではなく、訓練中の事故死は非常に多かったし、墜落して死ねば、遺体は跡形も無い肉片になってしまったからです。
    そして訓練校を卒業して戦地に赴けば、まず生きて帰って来れないのです。

    私の中学時代の恩師は、このときの飛行兵の生き残りだった人です。
    その恩師の同期が、当時の訓練飛行中に、急降下訓練でそのまま地面に激突してお亡くなりになったという話を、中学1年生のときに聞きました。

    飛行機ごと地面に激突した遺体は、まるで刺し身の切り身のような破片になってしまうのだそうです。
    それを訓練生みんなで涙をこらえながら箸で拾ったと、話してくださいました。
    それくらい航空兵というのは危険だったのです。

    そういう次第ですから、航空兵の親だって、世間の親となんら変りありません。
    ましてとびきり優秀な若者に育ってくれた我が子なのです。
    絶対に死んでほしくなんかないというのが親心というものです。

    けれど、その心配も、不安も、悲しみも、すべて押さえて、お母さんは、
    「しっかりやってください」
    と手紙にしたためているのです。
    そして訓練生たちも、そんな親心を、ちゃんと理解できるしっかりした子、そういうことのわかる優秀な子供たちだったのです。

    だから「母の手紙を額面通りに読んではいけない」のです。
    心配で心配で夜も眠れないくらい我が子が心配で、愛(いと)しくて不安で、だから母の手紙には、「心もとなき」と書かれているのです。

    そういうことを、ちゃんと理解して読まなければならないのが、日本の文化の特徴です。
    近年の歴史学者の多くは、ただ書いてあることの表面上の意味しか受け取らないことが学問であるかのような態度の方が多いですが、それこそ曲学阿世の徒というべきです。
    学問であれ科学であれ、人には心があることを忘れてはなりません。

    厳しい訓練の毎日にも、谷藤曹長に休暇の日はありました。
    彼は、その短い休暇を利用し、福岡の親戚を尋ねています。
    実は、谷藤さんの母は九州の福岡の出身です。

    その九州の親戚の家を尋ねた谷藤さんは、そこで、ひとりの女性を紹介されます。
    それが、二つ年上の朝子さんでした。

    二人は互いに一目惚れだったそうです。
    そしてお二人は結ばれました。

    お見合いであろうがなかろうが、こういう「一目会ったその日から」ということは、やはり「ある」のだと思います。
    それが生命の紐帯なのか前世の因縁か、そこまではわかりません。
    けれど世の中には、初めて会ったのに、なぜか懐かしい人とか、こみあげるものを感じる人といのは、たしかにいるものです。
    お二人もそうだったのであろうと思います。

    片や、紅顔の美少年で、成績優秀、スポーツ万能でクラシック音楽が大好きで、性格もとても温か味のある当時のエリート中のエリートの航空訓練生、そして朝子さんはとても美人でチャーミングで性格も温厚で明るくて、とても働き者の女性です。

    お二人は、何度か逢瀬を重ね、結婚を約束しました。
    けれど谷藤曹長は、卒業すれば戦地に行きます。
    卒業して任地に赴いたら、まず帰れません。

    「だからこそ、
     優秀なパイロットの種を貰い受けたい。
     優秀な子を残したい」

    それは、本能というか要求というか、これは言葉にできないものです。

    お二人のご両親も、結婚に賛成してくれました。
    けれど、朝子さんのお姉さんは、ちょっと心配だったそうです。
    お姉さんの夫は、傷痍軍人でした。
    旦那さんは大怪我をして、もはや普通に働けない体になってしまっていたのです。
    それでも恩給はもらえるし、なにより「生きて還って」きてくれています。

    けれど、パイロットなら、怪我をして帰って来る、ということはないのです。
    空から落ちれば、確実な死が待っているだけだからです。

    「私の夫は、それでも生きて帰ってくれたからまだいいわ。
     けれど軍人の妻になるということは、
     いつ未亡人になるかわからない身の上になることです。
     朝子は覚悟の上?」
    と、お姉さんは妹に、そう迫ったそうです。

    このとき朝子さんは、
    「いつかは別れなければならないときがくるわ。
     覚悟はしています」
    と静かに答えられたそうです。

    たとえ二度と会えない人になってしまうのだとしても、どうしてもこの男性(ひと)と一緒になりたい。
    真剣にそう思えるほど、朝子さんはすでに谷藤さんを愛していたのです。

    そしてお二人は昭和19年に、晴れてご結婚されます。

    もっとも夫の谷藤さんは、その時点ではまだ訓練生です。
    ですから官舎を出て新居を構えるというわけにはいきません。
    休日だけ妻の実家に帰って、お二人だけの時間をすごしました。
    そういう生活でした。

    そして10月、谷藤さんは、訓練校を卒業し、晴れて陸軍少尉に任官しました。
    「これでいよいよ戦地に行ける。」
    そう思っていた谷藤少尉に与えられた任務は、
    「満州で航空教官として少年飛行兵に基礎操縦法を教える」というものでした。

    少年飛行兵というのは、戦線押し迫って来た中で、特攻隊員として知覧から飛び立つパイロットたちです。
    しかも場所は、当時、この時点では戦場にさえなっていない、平和な満州です。

    谷藤少尉が卒業した訓練校は、「特別操縦見習士官(通称:特操)」であり、パイロットの「即戦力」を養成するための学校です。
    ですから卒業生は、全員、そのまま南方の激戦地に送られていたのです。

    ところが谷藤徹夫少尉に届いた命令は、その時点では戦闘地域が存在しない満州です。
    しかも実戦経験もなく、訓練を終えたばかりでありながら、「教官」という職です。

    このことは、当時の日本陸軍を考える上で、とても重要なことです。
    谷藤少尉は、長男で新婚です。
    日本陸軍は、そうした谷藤少尉の身上をよく把握し配慮し、人事を行っていたのです。

    もっといえば、谷藤少尉を訓練した教官は、そういう谷藤少尉の身上、いやそれだけではなく、他の生徒たち全員の身の上をきちんと把握し、それを陸軍省の人事局にまでしっかりと上申し、その配属を受けて陸軍省は配属を決めていた、ということです。

    昨今では、会社勤めをしていても、単に社内の業績だけで人を判断し、それをもって能力給制度だなどと自慢げに制度化している会社が多くなりました。
    会社には、私生活や、個人の事情は関係ない、というわけです。
    けれど、人は会社生活だけではなく、その人それぞれの家庭がある。私生活があるのです。
    そういうものをきちんと把握して行うのが本来の人事というものです。
    すくなくとも、私はそのように思います。

    ここで個人的なお話をひとつ。
    実はサラリーマン時代、支店長の役をおおせつかっていたときに、部下の妻の誕生日には、その者は残業なしで真っ直ぐに家に帰らせるようにしていました。
    本人たちはとても喜んでくれていたように思うのですが、これが本社で問題になりました。
    小名木は、仕事より部下の私生活を優先している、というわけです。
    いちいち弁解はしませんでしたが、「小人閑居して不善をなす」とはよく言ったものだと思いました。

    昨今は、平等主義なのだそうです。
    一生懸命人の倍働く人も、文句ばかり言って人の半分しか仕事をしない人も、給料は平等だ、などと言われます。
    けれど、それは人事考課を行う上司にとって楽なだけで、非常に狡猾で小ずるい人事考課です。
    一生懸命頑張る人と、そうでない人には、ちゃんと差をつける。
    それが「公平」というものです。

    さらにいえば、谷藤少尉は、人柄や成績などから判断して、南方戦線でただ死なせるにはあまりに惜しい男だ、ということです。
    だからこそ上官(教官)は、彼の私的事情を考慮し、そのまた上の陸軍の人事にまでかけあって根回しし、話を通して、彼の命を守ろうとしたのです。
    そうしたことが日本陸軍ではあたりまえでした。
    そして、そういう配慮をしてくれる軍の上層部だからこそ、兵たちみんなはとても感謝したし、上層部を信頼したのです。
    それが日本陸軍です。

    さて、いよいよ谷藤大尉が満州の任地に向かうために旅立つ日がやってきました。
    その日、下関から釜山に向かう連絡船に乗る谷藤少尉を見送りに来た朝子さんに、少尉は次のように言ったそうです。
    「満州は平穏な状況だと聞いている。
     将校は家族を呼んで官舎で一緒に暮らせるそうだ。
     必ずお前を呼ぶから、
     そのときまで田名部で待っていてくれ」

    妻の朝子さんが、黙ってうなづいたのか、「ハイ」と返事をしたのか、それはお二人の記憶の中でしかわかりません。
    けれど朝子さんは、夫のいいつけをちゃんと守って、故郷の福岡から、青森にある夫の実家に向かいました。

    もし夫のいる満州に呼んでもらえるなら、出発は下関から釜山に渡り、そこから鉄道で満州に向かうのですから、博多の実家にいたほうが、楽です。
    けれど、お嫁に行った以上、朝子さんは谷藤家の女性です。

    だから夫のいない青森の夫の実家で、夫に呼ばれる日を待つことにしたのです。
    結婚したら嫁いだ先の家の人。
    それが当時の常識でした。

    その青森の実家では、長男が軍務で家を出てしまっています。
    それも危険な航空兵です。
    心配で心配で、火が消えたようになっていた青森の実家に、兄嫁の朝子さんがやってきました。

    青森にいた義弟の勝男さんは、当時を次のように振り返ります。
    「初雪を見るとね、
     朝子さんを思い出すんですよ。
     九州育ちの朝子さんにとって、
     雪国の生活は何もかも新鮮だったのでしょう。
     初雪を見た朝子さんは、
     『雪を見るのは初めて』と、
     飛び上がらんばかりに喜んで、
     屋根に上がったかと思うと、
     雪をたくさん詰めたバケツを抱えて戻って来て、
     お皿に雪を盛って砂糖をかけ、
     『美味しいわ』と言って食べていました。」

    明るくて朗らかで、笑顔がたえなくて、働き者で美人の若い奥さんです。
    火の消えたようになっていた谷藤の家の空気が、いっぺんにほがらかなものになった様子が伺えます。
    谷藤家の実家の誰もが、朝子さんをとっても大好きになりました。

    昭和20(1945)年7月上旬、青森の実家に、谷藤少尉から手紙が届きました。
    「官舎が空いたから一緒に暮らせる。
     満州に来てくれ」

    待ち焦がれた便りです。
    朝子さんの嬉しそうな顔が、まるで目に浮かぶようです。

    朝子さんは、いったん故郷の唐津に戻り、下関から釜山港行きの船に乗りました。
    このとき、朝子さんのお母さんが、港まで見送りにきました。
    お母さんは朝子さんに、
    「徹夫さんの勤務に
     しっかりとついて行くんですよ。
     一生懸命、
     内助の功をつくしなさい」
    と言いました。

    一人旅で、満鉄を乗り継いだ朝子さんは、やっと大虎山駅にだどり着きました。
    その朝子さんを、夫の谷藤少尉が出迎えました。
    夫は、ようやく板についてきた将校服を着ていました。
    谷藤少尉にとって、洗い立ての将校服は、愛する妻に最大限の敬意を払った服装です。

    お二人は、まる9ヶ月ぶりに再開しました。
    どんなになつかしかったことでしょう。
    どんなに嬉しかったことでしょう。

    お二人は、官舎で二人だけの新婚生活を始めました。
    当時の様子について、お二人の隣の官舎で暮らしていた第五練習飛行隊長の箕輪三郎中尉の奥さんが振り返ります。

    「谷藤さんが出て行くとき、
     いつも奥さんが
     『いってらっしゃい』と
     手を振って投げキッスをするんですよ。
     うちの子供がそれを見て、
     『かあちゃん、
      谷藤のおばちゃんがこういうふうにしたけど、
      あれって何なの?』って尋ねるから、
     『いってらっしゃいの合図よ』って答えましてね、
     それを聞いたうちの子は、
     お父さんがでかけるときに、
     真似して投げキッスをするようになったものでした」

    お二人の幸せな新婚生活が目に浮かぶようです。
    これが終戦も押し迫った、昭和20(1945)年7月のことです。

    谷藤少尉が勤務していた北満州の大虎山の日本陸軍第五練習飛行隊は、知覧から飛び立つ特攻隊員を育てる訓練隊でした。
    陸軍の特攻隊は、満州各地でも続々と編成され、満州各地にある訓練隊で訓練を積んだあと、鹿児島にある知覧飛行場などから沖縄の米艦隊に向けて出発していました。

    訓練は、もっぱら急降下を繰り返す特攻を意識した操縦法でした。
    当時の満州には、こうした特攻兵養成のための航空練習隊が、数十カ所ありました。
    そして大虎山飛行場には、11機の九七式練習機がありました。

    大虎山飛行場での谷藤少尉の様子について、当時17歳の訓練生だった前田多門さんが、次のように書いています。
    「温厚で教え方も丁寧でやさしかったです。
     日本国内の飛行訓練では、
     下士官上がりの教官から
     しょっちゅう殴られましたが、
     大虎山では一度も殴られたことはなかった。
     たしかに操縦はうまい教官だとはいえませんが、
     人格は立派な方でした」

    谷藤少尉の上官だった前出の箕輪中尉の妻、哲(てつ)さん(96歳)は、
    「谷藤さんは主人の副官役をされていたのですが、
     よく主人は『谷藤には教えられることが多い』と言っていました。
     少年兵がミスや規律を犯したとき、
     主人はカッとなって声を上げたようですが、
     あとから谷藤さんに、
     『ああいうときは人前ですぐ叱っちゃだめですよ。
      こっそり部屋に呼んでゆっくり諭さないと』
     と言われ、意見を素直に聞き入れたようです」

    そんな、やさしさを見せる谷藤教官ですが、彼が育てる訓練生たちは、ここを卒業したら特攻隊員です。
    生きて還ることはありません。
    彼は、
    「からなず後から行く」
    と、生徒全員に言っていたそうです。

    けれど、彼の意に反して、谷藤少尉に特攻出撃の命令が下ることはありませんでした。

    昭和20(1945)年8月9日、ソ連が突然日ソ不可侵条約を破って、満州に侵攻してきました。
    ソ連軍は、行く先々で虐殺、強姦、略奪を繰り返しました。

    大虎山の第五練習飛行隊からは、8月18日、谷藤少尉の同僚である二宮准尉が、大虎山から300kmほど離れた赤峰(せきほう)で、ソ連軍の行状を偵察飛行して確認しました。
    その報告は、
    「ウサギのように逃げ回る邦人を
     露助(ろすけ)が機関銃で撃ち殺し、
     戦車で轢き殺していた」
    というものでした。

    そしてその日、関東軍総司令部から第五練習飛行隊に、
    「ソ連軍に対して武装解除し、
     飛行機は全機、錦県の航空基地に空輸し、
     ソ連軍に引き渡すように」
    との命令が下りました。

    その日、飛行場の近く似合った伊予屋という小料理屋に、飛行隊の有志が集まりました。
    少年兵の教官を務めていた少尉やあ准尉の面々です。

    「戦わずにおめおめと降伏なんぞできるか。
     俺たちは露助と戦うぞ」
    と気炎をあげる彼らには、けれど空からソ連軍の戦車部隊をやっつけるための爆弾等の装備がありません。
    唯一の戦法は、空からソ連軍の戦車に体当たり突撃です。

    爆弾を搭載しない飛行機で体当たりしても、もちろんたいした損害は与えられません。
    けれど、それでもソ連軍が特攻を受けるのは初めてのことです。
    彼らに相当な心理的ダメージを与えることはできるはずだ。
    そうして彼らの進撃を遅らせれば、日本人居留民が、たとえひとりでも余計に帰還できる時間を稼げるに違いない。

    彼らの心は決しました。

    彼らは、自分たちの特攻隊を「神州不滅特別攻撃隊」と命名しました。
    自分たち亡き後も、祖国が未来永劫、栄えてもらいたい。
    そういう気持ちから付けた名前です。

    一夜明けて、19日の早朝、11名の飛行機乗り達は、将校集会所に集まり、最後の作戦会議をしました。
    たまたまそこに箕輪隊長が入ってきました。
    隊長は、黒板に書かれた文字や図、ただならぬ気配から、彼らが軍の上層部の命令に従わず、ソ連軍に特攻するつもりであることに気がつきました。
    そして若い教官達は、箕輪中尉に、作戦を打ち明けました。

    箕輪中尉は「それなら俺が指揮して行く」と言いました。
    それを諌めたのが谷藤少尉でした。
    「私たち以外にも、
     この航空隊には隊員がいるのです。
     隊長には大勢の部下達をまとめれいただけねば困ります。
     見て見ぬ振りをしてください」

    箕輪中尉は、「成功を祈る!」と言い残して、集会所を出て行きました。

    いよいよ出発のときがやってきました。
    11名の教官達は、箕輪隊長の前に整列しました。

    隊長は言いました。
    「これが諸君らの最後の任務である。
     残った兵士は陸路、錦県に向かう。
     向こうで合流する」

    もちろん、箕輪隊長は、彼らが錦県に行かないことを知っています。
    知っていて、公式にはこう言わざるを得なかった箕輪隊長は、そう激励しながら、嗚咽をこらえることができなかったそうです。

    11機の飛行機に、隊員たちが乗り込みました。
    そのとき、見送りの人達の中から、谷藤少尉の飛行機に、白いワンピース姿の朝子夫人が現れたのです。
    そしてその女性は、谷藤少尉の飛行機の、少尉の後ろの席に乗り込みました。

    大蔵巌少尉の飛行機には、前夜、みんなで打ち合わせした場所であった伊予屋の女中さんのスミ子さんが、やはり白のワンピース姿で乗り込みました。

    飛行機のエンジンが始動しました。
    離陸の爆音が響き渡りました。
    一番機は、谷藤機でした。
    そして次々と機体が空に浮かびました。

    11機は飛行場の上で旋回し、隊列を組みました。
    そのとき、伴元和少尉の飛行機が、エンジントラブルで飛行場のはずれに墜落してしまいました。
    残る10機は、青く澄み切った大空を、錦県のある西ではなく、赤峰のある北の空へと消えて行きました。

    新婚だった谷藤少尉が、どのような経緯で妻の朝子さんを特攻機に乗せることになったのかは、いまとなっては謎です。
    けれどひとついえることは、一緒に飛び立った仲間たちは、全員、朝子さんが一緒に逝くことを知っていたということです。

    おそらくは、前日、伊予屋で打ち合わせをしたときに、谷藤少尉の口から、「妻も行く」という言葉が発せられ、みんなもそれを理解したのではないか、と思うのです。
    であるとすれば、朝子さんと谷藤少尉の中で一緒に死のうと交わされた言葉は、その前であったはずです。

    おそらく、ただならぬ表情で帰宅した夫の様子に、朝子さんは夫が死ぬつもりであることをするどく感じ取ったに違いありません。
    そして、どうしても一緒に逝くと言い張った。
    二人の間には、喧嘩もあったかもしれません。
    けれど、朝子さんは、どうしても、と言って聞かなかったのでしょう。

    そもそも、女性を特攻機に乗せるなど、前代未聞です。
    けれど朝子さんを置いて行けば、11機が飛び立つことによって、大虎山周辺は、守備兵力が完全に失われます。
    そこにソ連兵が来たら、朝子さんはどうなるかわからない。
    「置いていくというなら、
     私は先に死にます」
    朝子さんは、そう言ったのかもしれません。

    出発の日である19日の早朝、一緒に散って行かれた岩佐少尉は、その日、許嫁とその母を失っています。
    岩佐少尉は、出発の日の朝、許嫁の母娘に、別れの挨拶に訪れたのです。
    すると許嫁は、母親と一緒に白装束を着ていました。
    いまから自刃して果てるという。
    そして二人の母娘は、岩佐少尉の介錯で、見事に自決しているのです。

    朝子さんは、知っていたのです。
    夫の谷藤徹夫は、同級生の二瓶少尉が、前年の12月、レイテで特攻隊として散って行ったことを、です。
    そして夫が、死に場所を求めていることにも気付いていたのでしょう。

    ソ連軍がせめて来たとき、そしてあらん限りの暴行をしているという事実に接した朝子さんは、そのときにはなにがなんでも愛する夫と一緒に空の旅に出ようと心に決めていたに違いありません。

    伊予屋に勤務していたスミ子さんは、名前がスミ子であったということ以外、いまではまったく何もわかりません。
    けれど、彼女は、前日の打ち合わせのときに、谷藤少尉が奥さんを連れて行くというのなら、私も一緒に連れていってと頼み込みました。
    結局、大倉少尉が、スミ子さんを乗せました。

    こうして二人の女性は、それぞれの愛する男性とともに、一緒に飛行機に乗り込み、満州の空へと飛去っていきました。

    11機が飛び立ったあと、小出宏元少尉は、今田達夫少尉から受け取った図嚢をそっと開けてみました。
    そこには一通の封筒と、30cmほどの短刀が納められていました。
    そして封筒の中には、和紙に墨書きされた檄文がはいっていました。

    そこに次のように書いてありました。

    「戦い得ずして戦わざる空の勇士11名
     生きて捕虜の汚辱を受けるのを忍び難し
     ここに神州不滅特別飛行攻撃隊を編成し
     昭和維新のさきがけたらんとす」

    大虎山を飛び立った10機は、一路、赤峰のソ連軍戦車部隊を目指しています。
    けれど隊員のひとりである宮川次郎少尉の飛行機は、途中でエンジントラブルに遭って墜落し、地元民に救助され、錦県の本部に帰還後、ソ連によってシベリアに抑留されています。

    残る9機が、その後どうなったのかは、杳としてつかめません。
    私たちとしては、たとえ一機でもいい、見事ソ連軍戦車を粉砕していて欲しいと願わずにいられません。


    この物語には、後日談があります。
    出撃の際に、飛行場で墜落してしまった伴少尉、途中で不時着した宮川少尉、第五練習航空隊の隊長であった箕輪中尉など、生き残った関係者は、その後、全員、ソ連軍によって連れ去られ、シベリアに抑留されました。
    そして伴少尉は、シベリアの収容所内で、若い命を落とされています。

    彼らが抑留されている間、日本国内では、最後の特攻を敢行した11名については、軍の正式命令に基づく特攻ではなく、自らの判断による特攻だったということで、戦後の日本政府による正式な調査も行われず、また靖国神社への合祀も行われませんでした。

    シベリアの抑留生活から帰国した箕輪元中尉らは、このことを知り、粘り強く厚生省と折衝を続け、やっっと昭和32年になって、彼ら10名は戦没者として認められ、靖国神社もかれらを合祀を実現しています。

    そして箕輪元中尉らは、さらに募金を集め、昭和42(1967)年5月に、東京世田谷区の世田谷観音内に、神州不滅特別攻撃隊の顕彰碑を建立しました。
    そしてその碑文に、
    「谷藤少尉の如きは、
     結婚間もない新妻朝子夫人を後ろに乗せて」
    の一文が刻まれたのです。

    顕彰碑が建立されたころ、朝子さんは、この時点で戸籍上はまだ生きている人として登録されていました。
    朝子さんの母親である中島トヨノさんは、九州の唐津で、愛する娘さんの帰りを、ずっと待っていました。

    事情を知る人が、朝子さんは徹夫さんと一緒に特攻機で旅立たれたのですよと話しても、トヨノさんは、娘は生きていると、絶対に信じようとしなかったそうです。

    昭和43(1968)年箕輪元中尉が、朝子さんの特攻出撃の日のことを詳しくしたためた死亡証明書をトヨノさんに手渡したとき、トヨノさんは、泣き崩れたそうです。
    「朝子が(釜山に渡る)連絡船に乗り込む時、
     『徹夫さんの勤務に喜んでついていくんですよ。
     一生懸命内助の功を尽くしなさい』
     と言って別れたんです。
     まさか、特攻にまで付いて行ったなんて・・・」

    出撃されたときの白のワンピースは、戦時下でのせめてもの死出の旅立ちの衣装だったのかもしれません。

    朝子さんは、ご主人のことを本当に愛していらしたのですね。
    どこまでも一緒にいたい。ずっと一緒にいたい。
    たとえ命がなくなっても、魂は夫とともにありたい。
    昔は、肉体には魂が宿ると考えられていたのです。
    死ねば肉体は滅び、命はなくなるけれど、魂は永遠です。
    また輪廻転生するか、あるいは神となると思われていました。

    お二人の身はなくなりました。
    けれどお二人の魂は、きっと平和な世の中に生まれ変わって、幸せなご夫婦として、いまもどこかでお暮らしになられておいでなのではないでしょうか。

    スミ子さんも、隊員の方々が大好きだったのだろうと思います。
    日頃隊員の方々と接していて、この人達が大好きになったのでしょう。
    宿屋の女給とお客さんという立場を越えて、彼らと彼女には情が通ったのだと思います。
    だから一緒に死のうと思った。

    彼ら、彼女らはどうして死んだのでしょうか。
    祖国の不滅を信じたから?
    それだけではないと思います。
    魂というものは、ほんの数十年の人生で滅びてなくなってしまうような、ちっぽけなものではありません。
    彼らは、永遠に神州の守護神となって生き続けようとされたのだと思います。

    戦争が終わった後も生きて、神州をもう一度再興する人々がいます。
    その人々を信じたから、彼らは散っていったのだと思います。
    そしてその「信じられた」人々というのは、他でもない、いま生きている私達です。


    ※この記事は2011年10月の記事のリニューアルです。
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