• 究極の民主主義


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    新刊のお知らせ
    『奇蹟の日本史』
    ねずさんが描く庶民をこんなに幸せにした日本というシステム

    https://amzn.to/3eeXDco
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    日本の天皇を、西欧など大陸の王や皇帝と同じものであるかのようにいう人がいます。
    全然違います。
    西欧など大陸の王や皇帝は、絶対的権威であり、絶対的権力者です。
    ところが日本の天皇は、神代の昔から続く万世一系のお血筋であり国家の最高権威ですが、権力者ではありません。
    権力者よりも上位の存在です。
    天皇という存在があることによって、民衆と権力者は人として対等な存在となり、民衆は権力者からの自由を得ているのです。
    そしてそのありがたさは、「なぜそうなのか」を誰もが知ることによって共有されなければならないことです。

    20220930 笑顔
    画像出所=https://illust8.com/contents/16391
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!
        

    中世の西洋には、各国に王様がいました。
    その王のもとには貴族がいました。
    その貴族の妻は、夫の私物です。
    けれどその夫は王の私物です。

    ですからどんなに美しい妻であっても、王が「よこせ」と言ったら献上しなければなりません。
    これを美しく描けばシンデレラの物語になります。
    シンデレラは、若くてかっこいい独身の王子様と、王子様を好きになった独身の美しい女性の物語ですから絵になります。
    けれど現実には多くの場合、腹が出た中高年の妻子ある王であり、女性は愛する夫を持つ人妻だったりしたわけです。

    夢と現実にはだいぶ差があります。
    当事者たちにとって悲しく辛いケースもたくさんあったであろうことは想像に難くありません。

    そして王による絶対的支配は、その下の貴族層にとっても、民間においても、社会構造としては同じ支配と被支配の関係をもたらします。
    そして社会は、上から下まで、その社会の隅々までが、上下と支配の構造に染まります。
    そしてその最下層には、人権さえも否定された奴隷がいます。

    ちなみにこの奴隷について、日本には上古の昔から、奴婢、生口はいましたが、奴隷はいません。
    大陸的な意味における奴隷というのは、単に人間が売買の対象となるというだけではありません。
    奴隷はモノであって、人でとして認識されない存在です。

    だいぶ以前になりますが、口蹄疫事件のときに、口蹄疫に罹患した牛が約30万頭、殺処分となりました。
    30万頭です。
    とんでもない数ですが、この殺処分を命じた官吏も、実施した官吏も殺牛罪には問われません。
    殺人罪も傷害罪も強姦罪も、人に対して適用されるものであって、動物やモノに対しては適用されません。
    つまり奴隷は、ただの動物やモノと同じ扱いだったということです。

    これに対し、日本の奴婢や生口は、どこまでも人です。
    まず奴婢から申しますと、奴婢は、

    「奴(やっこ)」=男性、
    「婢(ひ)」=はしため

    です。つまり、下男、下女のことを言います。

    下男、下女というのは、お屋敷等で住み込みで働く人達で、いまでいうなら会社の「社宅に住んでいる社員たち」です。
    いまでも日本では、上級公務員はたいてい官舎に住みますが、これは見方を変えれば住み込みで働いているわけです。
    その上級公務員たちが、奴隷だなどと思う人は、おそらく誰もいないと思います。
    ちゃんと給料をもらって働いているのです。

    奴婢も同じで、住み込みで働いていて、結婚もありました。
    子が優秀なら、家主が費用を負担して高い教育を得させたりもしていましたし、子を養子に迎えるケースもありました。
    屋敷の主が世襲なら、下男下女たちも、その多くは世襲でした。
    なぜなら世襲であることで、信頼、信用が増すからです。
    つまり、どうみても人としての処遇です。
    ということは、奴隷と奴婢は、まるで異なるものです。

    生口(せいこう)は『後漢書』に「107年(後漢永初元年)、倭国王・帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じた」という記録があります。
    日本(当時は倭国)が、後漢の皇帝に160人の人を献上したのです。

    これまた少し考えたらわかることですが、最高の存在を自称する一大権力者である後漢の皇帝に、日本が国家の威信を示すために人材を献上しているのです。
    そのときに、果たしてホームレスのような穢い奴隷たちを献上したりするでしょうか。

    日本語だけでなく、ちゃんと中国の言葉の読み書きができ、それぞれに技術を持った優秀な若者たちが160人献上されることで、はじめて国家としての威信が示されるし、そうでなければ当時の世界にあって最高権力者である中国皇帝への献上にはなりません。

    生口は、生きる口と書きますが、要するにこれは生きた人ということです。
    しかも口があります。
    ということは後漢の皇帝は160人もの人を、これから生涯、食わせて行かなければならないのです。
    それなら、食わせる以上に値打ちのある人達、つまり技術や教育のある人達でなければ、後漢の皇帝にしても、もらって迷惑です。

    つまり生口は、生きている優秀な技術や知能を持った人たちであって、これを大陸的な意味での奴隷と同じと考えるほうが、常識としてどうかしています。

    さて、その中国皇帝にせよ、西洋の王様にせよ、戴冠式を経て王や皇帝になります。
    これは宗教的権威者が間に立って、神の名のもとに新しい王に、王権を授けます。授かった王や皇帝は、その瞬間から神の代理人となります。
    神は直接口を利きませんが、王や皇帝は口を利くことができます。
    つまり神の代理人となった王や皇帝は、その瞬間から、神そのものと同じ権力を行使できることになります。

    神は人間よりもはるかに上位の存在です。
    ですから人を支配し、人を殺しても罪になることはありません。
    つまり王も皇帝も人々の生殺与奪の権を持ちます。
    そしてその権力によって、領土領民を支配します。

    ところが支配される側にとっては、これは王や皇帝の横暴を許す結果になります。
    ですからこれに我慢できなくなった人たちが、王政を倒して市民革命を行いました。
    これが十八世紀のフランス革命です。
    この革命は、民衆の「王による私的支配からの自由を得るため」に行われたとされ、以後に生まれたのが民主主義です。
    その民主主義は、いまや世界の中心的統治思想となっています。

    その民主主義では、市民の代表を選挙によって選びます。
    人望のある者が民衆の代表になるわけです。
    しかし、たとえ選挙で選ばれたとしても、ひとたび民衆のリーダーとなり、神の承認を得れば、その瞬間から任期中のリーダーは、民衆の支配者となります。

    中国も同じです。
    中国には太古の昔から天帝思想があります。
    天帝というのは天の神様です。
    皇帝はその神様から地上世界の支配を命ぜられた人です。
    この命令を天命といいます。

    天命を得た中国皇帝は、天の神様と同じ権力を持って人々を支配するのですが、これが不都合になると、天命が革(あらた)まります。
    これが「革命」です。
    そして天命が違う姓の人物に易(か)わります。
    これが「易姓」です。
    この両方を合わせた言葉が「易姓革命」です。

    易姓革命によって新たな地上の支配者となった皇帝は、天命によって地上世界を治めます。
    ですから皇帝のいるところが地上の中心です。
    だから中国といいます。
    そこに華やかな文明があるから、別名が「中華」です。

    日本の神々は、それがいけないというのです。
    日本のことを古い言葉で「中つ国」と言いますが、この場合の「中つ国」は、世界の中心という意味ではありません。上に神々のおわす天上界としての高天原があり、地下に死者の国である黄泉の国があります。
    その垂直方向に見た上中下の真ん中にある人間界が「中つ国」です。

    そして中つ国における統治は、神々のおわす高天原と同じ統治であれ、というのが、天孫降臨の意味です。
    高天原は神々の国です。
    神々には、すべての神々に、木の神、森の神というように、それぞれの役割があります。
    そしてその神々は、すべて創世の神々の宝であり、その創世の神々との窓口となっている天照大御神の宝です。
    ですからそこに役割の分担はあっても、私有はありません。
    当然、奴隷もいません。
    全部神様だから当然です。

    そして天照大御神は、中つ国への天孫降臨に際し、
    「高木神の命をもって派遣を決めた」
    と古事記に書かれています。
    高木神というのは、二代目の天地の創生神である高御産巣日神(たかみむすひのかみ)のことです。
    つまり天照大御神は、創生神である高御産巣日神と繋がり、創世の神とともに、創世の神の知恵を得て、天孫降臨を決めておいでになります。
    まさに「知(シラス)」をそのままに実行されているわけです。

    シラス統治と、ウシハク統治では、何がどのように違うのでしょうか。
    このことを手の中のコップでご説明してみたいと思います。

    コップを手にしている人は、そのコップは自分の手の中にありますから、それを水を飲むことに使おうが、捨てようが、投げて割ってしまおうが自由できる状態にあります。
    そのコップが自分のものであれば、どうしようがそれこそ「勝手」です。
    コップを割る(殺す)、売る(人身売買)、捨てる(棄民)、思いのままです。
    これが上下の関係しかない社会の権力者と民衆の関係です。

    権力者が民衆によって選ばれた者であっても、ひとたび権力を手にすれば(コップが手の中に入れば)、それこそ恣意のままに好き放題ができてしまう。
    なにせ権力を持てば、神の名のもとに広島や長崎に原爆を落として何十万という命が失わせることも、決断ひとつなのです。
    いかようにも処分できてしまいます。
    これがウシハク、主人が佩く、私物化する統治です。

    けれどそのコップが、いまいるレストランや喫茶店のコップであったらどうでしょう。
    コップは自分のものではありません。
    他人のものです。
    そうであれば、たとえ手の中のコップであっても、勝手に持ち帰ったり、売ったり割ったり人にあげたりすることはできません。
    最後はちゃんとお店に返さなければなりません。

    同じ「手の中のコップ」であっても、それが「自分のコップ」であるのか、「他人のコップ」であるかによって、コップの置かれた処遇は百八十度違ったものになります。
    これを制度として採り入れたのが、シラス統治です。
    つまり制度としてシラス統治は、実は民衆が権力者のものではなく、お店のもの、つまり神々のものとして尊重され、大切にされる社会制度ということができます。

    ここまでご説明すると、たいていの方が、
    「そうは言っても西洋社会でも民衆は神の子、
     神の宝とされているではないか」という声を頂戴します。
    もちろんその通りです。

    けれど一点、大きな違いがあります。
    統治者である王は、その神の代理人なのです。
    ですから地上においては神そのものと同じ権力の行使が可能となります。
    つまり神の名において、ウシハク統治者となるのです。

    現代の世界は、民主主義を標榜していますが、その実態はウシハク世界です。
    民衆のリーダーに選ばれた者が、神の名において、民衆を私的に支配します。

    民衆は、支配する側の人たちに、私的に使役され、収奪されます。
    この結果、富が支配者側に偏ります。

    西洋社会の資源は、主にアフリカから得られていますが、そのアフリカは、いまも貧困にあえいでいます。
    一部の人たちの贅沢な暮らしのために、他の多くの民衆が収奪され、貧困のどん底に追いやられます。
    そしてその一部の人たちも、究極的にはひとりのトップのために、収奪され、あらゆる富が、ひとりの人に集まるようになっています。
    そしてそのひとりのために、多くの民衆は支配されています。
    実は、ウシハクという統治システムは、今も昔も変わらず人類社会で行われ続けているといえます。

    これに対して日本の統治は「シラス」です。
    シラス統治では、天皇のもとに臣(大臣や閣僚などの政治権力者)も民も、等しく「おおみたから」です。
    そして臣は、その天皇の「おおみたから」を預かる立場です。
    自分の領土領民を私的に支配するのではなくて、天皇の「おおみたから」が安心して安全に豊かに暮らすことができるように、天皇に任命されて民へのサポートを行います。

    このことは江戸時代も同じです。
    江戸時代は徳川将軍の時代ですが、将軍は天皇から任命された役職です。
    全国のお大名も同じです。
    天皇から直接の場合と、将軍からの任命の場合がありますが、いずれも領土領民は、大名個人の私物ではありません。
    どこまでも我が国最高権威である天皇からの預かり物です。

    つまり天皇の大御宝を預かっているのです。
    ですから天皇の大御宝である領土領民が、少しでも豊かに安心して安全に暮らせるように面倒をみていくことが大名の勤めです。

    藩主のことを大名といいました。
    大名とは「大名主」の略です。名主というのは、天皇の大御宝として登記された土地と、戸籍に記載された人の名代であり、天皇から、天皇の大切な大御宝を預かる人です。

    このように申しましたら、以前、「そんなことはない。江戸時代、天皇などという言葉を知っている人など、世の中にいなかった」と言う人がいました。
    そのような学説もあるようです。
    ではお訊(たず)ねしたいのです。
    「ひな祭りの内裏様って誰のことですか?」と。
    「なぜ百人一首のカルタ遊びが江戸時代に普及していたのですか」と。

    日本人は、大抵の人の苗字が、佐藤、高橋、田中というように、漢字二文字で構成されています。
    また土地の名前も、讃岐(さぬき)、播磨(はりま)、相模(さがみ)のように、漢字二文字で構成されています。
    これは大化の改新の際に、中大兄皇子(後の天智天皇)が、公地公民制を敷き、このとき土地台帳や戸籍簿に、土地の名前や名字を漢字二文字で表すようにとの御触れを出したことに由来します。

    公地公民制は、まさに全国津々浦々の土地と民衆を天皇の大御宝として登記登録したという一大事業だったわけですが、その結果、全国の各家庭には、それぞれに苗字ができました。
    これがのちに姓と呼ばれるようになり、だから苗字と名前のことを姓名といいます。

    そして文武百官という言葉にあるように、百というのは「簡単に数えきれないほどたくさんの」という意味の言葉です。
    ですから全国の庶民のことを百姓(ひゃくせい)といいます。
    数えきれないくらいたくさんの姓という意味です。

    その百姓たちが、幕府や大名から任命されたお代官に対して、
    「木っ端役人ごとき何するものぞ。俺たちは天子様から姓をいただいた、栄えある百姓だ」といって、一揆を起こしたのが百姓一揆です。

    一揆というのは、「全員一致」を意味する言葉で、たくさんの姓を持つ人たち(つまり奴隷ではありません。主体性をもった大御宝としての人々です)が、全員一致で、お代官に物申す、とやったのが百姓一揆です。

    いまでも国会議事堂前に行きますと、毎日、なにがしかの団体がデモを行っていますが、あれが百姓一揆の現代版です。
    胸に誇りがあったのです。
    その意味で、百姓という言葉を、あたかも差別用語のようにいう人がいますが、そういう人たちはおそらく日本の歴史を知らず、王侯貴族に収奪されるばかりだった日本の周辺国で育ち、その国の歴史が、日本でも同じなのだろうと、妄想をたくましくしている人たちなのではないかと思います。
    天皇のシラス国である日本と、天皇という存在のない周辺国では、その歴史の成り立ちが違うのです。

    ちなみに、江戸時代初期、大軍の動員力を持てるほどの大金持ちだったはずの大名たちは、江戸時代の中期以降になると、どの藩もみんな借金まみれになっていました。
    このことは有名な話なのでほとんど常識となっていることです。
    各藩は年貢の取り立てをしていたし、つまり税収があったのに、どうして借金まみれになったのでしょうか。この答えも実は明快です。

    日本は地震、台風、大水、干ばつ、津波などの自然災害の多い国です。
    都市部ではこれに火災が加わります。
    こうした災害が発生すると、諸藩の大名たちは、被災者の救援をし、また被災地の復興のために大金を遣いました。

    なにせ民は、天子様(天皇)の大御宝であり、大切な預かりものなのです。
    そして民が豊かに安心して安全に暮らせるようにすることが大名主である大名の使命です。
    ですからお蔵米を放出して民の窮状を救い、被災地の復興のために大金を投じました。

    そんな天然の災害が、何十年単位で日本全国で繰り返し起こるのです。
    その都度、大金を遣っていれば、しまいにお金が失くなり借金まみれになるのも当然です。
    けれど民たちは、自国のお殿様を信頼しました。
    いざというときに頼りになるのは、自国のお殿様だったからです。

    そのお殿様は、自分のことを「よ」と言いました。
    「よは満足じゃ」の「よ」です。
    漢字で書いたら余とか世、あるいは予などです。
    これも近年では、一人称だといわれるようになりましたが、もともと殿様というのは、天子様の大切な大御宝をお預かりする立場です。

    ですからどこまでも大御宝のための存在でありますから、幼い頃から「自分(私)というものを持ってはならない」と教えられました。
    自分が贅沢をしたいとか、いい目をみたいとかという私心を持ってはならないのです。
    それは欲心と言われ、もっとも蔑むべきこととされました。

    ですから、たとえば美味しいものをたまたま食べることができたとき、それは自分が満足したという意味ではなくて、これほど美味しいものを食べれるなら、世の中の人々はきっと満足であろうという意味で、「世は満足じゃ」と言ったのです。
    だからお殿様は、自分のことを三人称で「よ」と言いました。

    武士の刀も同じです。
    武士はお家のために忠義を尽くすのではなく、民につくすことによって、民が豊かに安心して安全に暮らせるようにすることが忠義でした。
    それにより結果としてお殿様の徳を高めることになるとしても、一義的には民の幸せのために尽くすことが忠義の道です。

    ですから腰に大小二本の刀を差しました。
    大刀は、不条理があったときに、相手を斬るためです。
    けれど人を斬ったら、その責任をとって小刀で自分の腹を斬ります。
    武士は民に対して権限を持ちますが、権限を持つということは責任を持つということなのです。
    その心構えが、大小二本の刀であったわけです。

    武士の時代を例にあげましたが、こうした考え方は、日本の歴史に一貫している考え方です。民を神に通じる天子様(天皇)の大御宝とし、どこまでも民が豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことが官としての勤めであるという姿勢は、それ自体が「シラス」という用語で表現されていましたし、それはいわば「究極の民主主義」というべきものです。
    19世紀以降の西洋生まれの民主主義が、選挙で代表を選びながら、選び終えた瞬間にリーダーをウシハク統治者にしてしまうのに対し、日本の統治は、どこまでも民を大御宝とする体制なのです。

    このことが、日本の統治の根幹です。
    国家は人の集合体ですから、そこにはおのずと得手不得手がありますし、社会的分業が生まれます。
    そして大勢の人を統治していくためには、どうしても行政や司法や立法に際して、これを専門に行う権力者、つまり人の上に立つ者の存在が必要です。
    ところがその「人の上に立つ者」が、領土領民を私的に私物として支配したら、民衆は私物のコップさながらに、命を奪われたり、財産を収奪されたり、たったひとりの権力者のために、何もかも犠牲にさせられてしまいます。コップの置かれた立場、それが民衆の立場です。

    では民衆が、神と通じる天子様(天皇)の民であったのならどうでしょうか。
    どこまでも大切に扱わなければない。自分勝手に処分してはならない。
    それが当然のこととなります。日本が古い時代から築いたシラス統治が、まさにこの考え方によります。

    日本は、はるか上古の昔に国家の最高権威と政治権力を立て分け、政治権力者は、国家の最高権威によって親任されるという形を生み出しました。
    国家の最高権威は天皇です。
    そして日本国家の領土領民のすべては、天皇の「たから」です。
    だから「おおみたから」です。
    そして権力者は、その天皇の「おおみたから」たちが、安全に安心して豊かに暮らしていけるようにするための存在とされたのです。

    このことを民衆の側から見ると、むしろ積極的に天皇の権威のもとにあることによって、権力者からの自由を得ることになります。
    天皇という存在があるから、民衆は権力者の私物にならずに済んでいるのです。

    権力者が権威と権力の両方を持ち合わせていれば、それは選挙で選ばれようが世襲であろうが、権威と権力の両方を併せ持った時点で「ウシハク」統治者です。民衆を騙そうが、奪おうが思うがままです。
    ところが民衆が最高権威のたからものであって、権力者は最高権威者から民衆を預かっているという立場となると、権力者は常に公正でなければならず、私心を持たずに民衆の安寧のために奉仕する役割となります。
    これこそまさに「究極の民主主義」です。それがシラス統治です。

    日本の天皇を、西欧など大陸の王や皇帝と同じものであるかのようにいう人がいます。
    全然違います。
    西欧など大陸の王や皇帝は、絶対的権威であり、絶対的権力者です。
    ところが日本の天皇は、神代の昔から続く万世一系のお血筋であり国家の最高権威ですが、権力者ではありません。
    権力者よりも上位の存在です。
    そして天皇という存在があることによって、民衆と権力者は人として対等な存在となり、民衆は権力者からの自由を得ているのです。

    そしてそのありがたさは、「なぜそうなのか」を誰もが知ることによって共有されなければならないことです。
    だから「シラス」統治は、「知らす統治」でもあります。
    それが上古の昔からの日本の原点です。


    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE
    日本の心をつたえる会チャンネル
    むすび大学チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第94回倭塾 9/10(土)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F
    第95回倭塾 10/23(日)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F


                        

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 黒沢登幾に学ぶ日本人の生き様


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    新刊のお知らせ
    『奇蹟の日本史』
    ねずさんが描く庶民をこんなに幸せにした日本というシステム

    https://amzn.to/3eeXDco
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    どんなに苦しくても、笑顔でがんばる。ただしい道を行く。
    途中に、どんなに辛い艱難辛苦が待ち受けていても、くじけずに生きる。
    そこに日本人の生き方があるということを、黒沢登幾から学んでみたいと思います。

    20220929 黒沢登幾
    画像出所=https://aucfree.com/items/n340394295
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!
        

    黒沢登幾(くろさわとき)という女性がいます。
    日本で最初に小学校の教師になった女性であり、また、高い志(こころざし)で、時代を動かした女性でもあります。

    「日本で最初に小学校の教師になった女性」という表現には、すこし注釈が必要かもしれません。
    明治に入ってから学制がひかれ、全国統一的な小中学校ができたのですが、実はその前の日本には、こうした全国統一的な学校制度はありませんでした。
    子供達の教育は寺子屋が担ったのですが、この寺子屋のおかげで江戸時代の日本人の識字率が9割近くもあったということは、みなさまご存知の通りです。

    もっというと、江戸時代の人たちは、草書体や行書体で書かれた筆字で、「読み」かつ「書く」ことができたのです。
    いまの私たちは、活字ばかり使用しています。
    筆で書かれた書となると、私もですが、実際のところいまでは読めない人が多いです。
    ということは江戸時代のレベルで言ったら、現代日本人の識字率は、果たして何%くらいになるのでしょうか。

    この寺子屋ですが、寺子屋の先生は「お師匠さん」と呼ばれました。
    生徒は「寺子(てらこ)」です。
    お師匠さんは、だいたい6割が男性、4割が女性でした。
    意外と女性のお師匠さんが多かったのです。

    ですから、そういう意味では、明治に入ってからの学制に基づく小学校教師でも、黒沢登幾に限らずもっとたくさんの女性教師がいてもいいように思うのですが、明治初期の一時期は、教師には、男性を多く登用しました。

    これには理由があって、武士が失業して仕事にあぶれたたため、雇用創出という意味で、男性教師を積極採用したことによります。
    つまり明治政府は、一家の大黒柱とならなければならない人に、まず仕事を与えようとしたわけです。
    ですからこれは男尊女卑などという思想的理由とはまったく異なります。
    あくまで経済的社会的な合理性のうえから、そのようにしただけのことです。

    尚、学制の布告文には、教師に男女の区別はないとしています。
    現に、公的な学校以外の私塾では、昭和初期まで女性が塾長を勤める私塾はたくさんありますし、いぜんご紹介しましたが、頭山満翁を生んだ通称「にんじん畑塾」は、まるで女侠客のような女性が塾長を勤めていました。

    さて、黒沢登幾に話をもどします。
    黒沢登幾は、文化3(1807)年12月21日に、常陸国東茨城郡錫高野村、いまでいう茨城県東茨城郡城里町で生まれました。父は、将吉、母は総子で、登幾は長女です。

    黒沢家は、もともと藤原一族の末裔で、一時は大名であったこともある家柄だったそうです。
    江戸時代を通じて代々、修験道場と子供たち向けの寺子屋を営んで生計を立てていました。

    いわば教育家庭で育った登幾は、幼いころから学問好きで、たいへんに成績もよかったそうです。
    頭が良くて男勝り(おとこまさり)の登幾は、19歳でお嫁に行き、20歳のときに長女久子、23歳で次女照子を生むのですが、登幾が24歳のときに、旦那がポックリと逝ってしまいます。
    登幾は翌年、秋の収穫を終えたところで、二人の子を連れて実家に帰っています。

    ところがその実家で、登幾の実家の父と祖父が、相次いで他界してしまいます。
    登幾は、実家の修験道士を育てる私塾と、寺子屋のあとを引き継ぎました。

    ところが、大人相手の修験道道場は、さすがに24歳の若い娘さんが師匠ということでは、なかなか、そのふさわしさというか、貫禄がありません。
    子供向けの寺子屋の方も、まだ2歳にも満たない幼い二人の子の面倒をみながらの教師です。
    現実の問題として、授業がうまくまわりません。

    そんなことから、結局登幾は修験道場も寺子屋も閉鎖せざるを得なり、やむなく行商をはじめています。
    江戸で、くしや、かんざしなどを仕入れ、これを行商して歩くのです。
    記録によると、この時代、登幾は、なんと群馬県草津の湯元温泉方面まで、重たい荷物を抱えて行商に出向いていたとあります。

    幕末から明治のはじめ頃のことです。
    もちろん、自動車も宅配もありませんから、荷物は全部背中に担いで歩くわけです。
    特に女性の場合、男性のように荷物を背負って着物の裾をまくり、足を出して歩くというわけにいきません。
    さぞかし大変であったろうと思います。

    けれど、行商のおばさんでありながらも、知的で明るい登幾は、行く先々でお客さんにめぐまれ、結局登幾は、この行商の仕事を、なんと20年以上も続けながら、子供たちを育て、母親を養っています。
    たいへん高い教養をもった女性が、20年以上も行商をしていたのです。

    嘉永6(1853)年、ペリー率いる黒船がやってきました。
    日本はその翌年、日米和親条約を締結しています。
    さらに大老・井伊直弼が、安政5(1858)年に、天皇の勅許を得ずに、日米修好通商条約を締結しました。
    これを知った水戸藩主の徳川斉昭は激怒し、江戸城に緊急登城しました。

    この緊急登城と、将軍への緊急の面会要求のことを「不時登城」といいます。
    あってはならないことです。

    この「不時登城」で、徳川斉昭は、将軍の面前で、大老、井伊直弼を激しく面罵するのですが、井伊直弼は、かわりに徳川斉昭を「不時登城」の罪に問い、なんと「重謹慎」処分を科してしまいます。

    徳川斉昭は、仮にも徳川御3家の一角です。
    方や井伊直弼は、大老職にあるとはいえ、彦根藩主です。
    水戸藩の若手武士たちは、大挙して江戸城に押しかけ、「奸族斬るべし!」と、井伊直弼の命を奪おうとしました。
    これに対して、井伊直弼が行ったのが、勤皇派そのものを一網打尽にする「安政の大獄」です。

    このころ、登幾は茨城郡錫高野村にいました。
    そこは、れっきとした水戸藩です。
    この年、54歳になっていた登幾は、なんとかして斉昭公の謹慎解除を求め、日本国の安泰を図らなければならないと真剣に悩み、女ならばこそできる何か方法があるはずだ、と思考をこらしました。
    そして彼女は、なんと孝明天皇に、斉昭公の謹慎解除を直訴しようと思い立つのです。
    これは、捕まれば死罪です。たいへんな行為です。
    それでも、登幾は、やると決めました。

    彼女は、単身、京に向かいました。
    登幾は、決して楽な生活をしていたわけではありません。
    食うのがやっとの行商暮らしです。
    蓄えがあるわけでもありません。
    それでも彼女を動かしたもの、それは日本を守りたい、そのために斉昭公をお守りしたいという熱情です。

    京に着いた彼女は、なんとかして公家のつてを探し求め、孝明天皇に宛てて、一首の和歌を献上することに成功します。その和歌です。

     よろつ代を 照らす光の ます鏡
     さやかにうつす しづが真心

    水戸からわざわざひとりの女性が訪ねてきて、現代の世相を真心という鏡に映しています、という歌です。
    「しづが真心」は、敵将の前で舞った静御前の「しづ」の真心と、下賤の身の女性という意味での「賤(しず)」をひっかけています。
    「ます鏡」も、義経と静御前の吉野のお山の別れからきています。
    つまり「写っている光」は、誰か男性のことを言っていることは間違いありません。
    そして登幾は、わざわざ茨城から京まで出てきているのです。
    時勢からみてそれは斉昭公のことでしょう。
    その斉昭公の「光」を、民衆の真心が求めているという歌です。

    歌に込められた登幾のメッセージは明快です。
    しかもたいへんに含蓄に富んだ素晴らしい歌です。
    この歌はあっという間に公家や孝明天皇に知れ渡りました。
    けれど、お上に対する直訴は御法度です。
    その直訴を、なんと女性が、あろうことか天子様に対して行ったのです。

    ただ、見方を変えれば、ただ歌を献上しただけともとれます。
    万葉の時代から、庶民の歌を天子様が愛でる、そういう習慣は日本に確かに存在します。

    歌は、直訴か文芸か。
    直訴とすれば、磷付(はりつけ)獄門晒し首です。
    歌なら、ただの献上歌です。
    けれど、あまりにも政治的メッセージが濃厚です。

    の微妙さがある意味、たいへん高く評価され、なんと登幾のメッセージは、たしかに孝明天皇にまで届けられてしまうのです。

    登幾の行動は、幕府の目付役たちにも知れ渡たりました。
    世はまさに安政の大獄の真っただ中です。
    登幾は、幕府の役人によって大阪で捕えられました。

    そして厳しい尋問を受けました。
    斉昭謹慎解除の登幾の訴えが、登幾の単独行動ではなくて、斉昭公夫人の登美の宮の密使としての行動ではなかったかと疑われたのです。

    尋問は凄惨を極めました。
    石抱きといって、まな板のようなデコボコした台の上に正座で座らされ、重たい石を膝に乗せられるといった、拷問まで受けたようです。
    けれど、登幾は白状しない。
    白状できるはずありません。
    登美の宮と登幾は、そもそも何の面識もないのです。
    行動はあくまでも登幾の単独行動です。

    登幾は大阪でまる2か月取り調べを受けたのち、江戸に送られ、さらに厳しい尋問を受けることになりました。
    登幾は、重罪政治犯として、籐丸篭(とうまるかご:罪人を護送するための専用カゴ)に乗せられ、江戸まで護送されました。
    途中の宿場町でも街道でも、女性の重罪人をひとめ見ようと、大勢の見物者が詰め掛けました。

    ここもすこし解説が必要です。
    江戸時代というのは、ものすごく犯罪の少ない時代でした。
    幕末になって、浪士たちによる血なまぐさい事件が頻発するようになりましたが、それまで、たとえば将軍吉宗がいた享保年間など、20年に、伝馬町の牢屋に入れられた人自体がゼロです。
    なぜここまで犯罪がすくなかったかといえば、江戸時代の日本人の徳性が高かったからで、この犯罪発生割合と民度徳性には、高い相関関係があります。

    昨今の日本では、犯罪はあってあたりまえというくらい多発していますが、では日本人の民度や徳性がそれだけ下がったのかというと、東日本大震災に明らかなように、実は日本人そのものの徳性は、さほど下がっていません。
    にもかかわらず、これだけ犯罪が多発しているのは、要するに民度、徳性ともに極端に低い人たちが、日本人になりすまして、好き放題犯罪をしでかしているからといわれています。
    私たちは、この現実をしっかりと見据えなければならないと思います。

    さて、黒沢登幾の籐丸篭での江戸護送は、そういう意味で、そもそも街道筋の人たちは、籐丸篭自体、見たことがないものです。
    まして女性の犯罪者なんて、前代未聞、驚天動地の大見せ物、というわけで、見物の野次馬は、まさに押せや押せやの大盛況だったそうです。

    江戸に着いた登幾は、伝馬町の獄舎に入れられました。
    先客がたくさんいます。
    そのなかのひとりが吉田松陰です。
    河合継之助もいます。

    江戸でも登幾に対して厳しい取り調べがなされました。
    このお取り調べは、多分に政治的なもので、事実があろうがなかろうが、基本、打ち首または切腹のお沙汰を前提としたものです。

    ところが登幾は、いわゆる攘夷の志士ではありません。
    歌を詠んだだけです。
    これは幕府としても罰しにくい。

    幕府はついに、登幾の言葉を容れ、判決を言い渡します。
    判決内容は、江戸日本橋から5里4方と、常陸国(水戸藩)への立ち入り禁止、というものでした。
    つまり登幾は、江戸にも自分の家にも行けないし、帰れなくなったのです。

    江戸でかんざしを仕入れて行商して生計を得ていたのです。
    これでは、生計そのものがなりたたない。
    ひらたくいえば、死ねと宣告されたようなものです。

    やむなく登幾は、栃木県茂木町に仮住まいをするのですが、ほどなくて万延元(1860)年3月3日、井伊直弼大老が江戸城桜田門の外で、水戸浪士の襲撃を受けて亡くなります。
    桜田門は、いま警視庁が建っているあたりです。
    これで幕府内に政権交替が起こり、登幾は無罪放免となり、この年の11月、晴れて錫高野村の実家に帰っています。

    こうなると水戸藩では、単身、ミカドに直訴に及んだ登幾は、英雄です。
    女だからといって、そのままにしておくのはもったいないと、なんと登幾に、家業の寺子屋の再興話がもちかけられる。
    そして父の代には、15~6人だった門人(生徒)が、登幾が再興した寺子屋では、なんと生徒数が80名を超す大人気となりました。

    その登幾のもとに、錫高野村(すずたかのむら)の村長さんから、小学校の教師をしてくれないかともちかけられたのが、明治5(1872)年のことです。
    この年、明治新政府から新たな「学制」が発表され、全国に小学校が置かれることになったのです。

    この明治5年の「学制」は、「小学教員ハ男女ヲ論セス」です。
    つまり女性でも、教員になれるとしてあります。
    男女同権なんて、言葉さえもなかった時代ですが、明治初期においても、我が国では、教職に男女の別を設けていなかったのです。
    これは、世界でもめずらしいことだろうと思います。

    錫高野村は、登幾の寺子屋を、そのまま小学校とすると決めます。
    登幾の自宅の寺子屋が、江戸270年を経て、明治6(1873)年5月、正式に村立小学校となったのです。
    このとき登幾は68歳でした。
    その年齢で、彼女は「日本初の小学校女性教師」となったのです。

    登幾は、この学校で漢学を担当しました。
    そして一年間、ここで教職を勤めたあと、翌年、近くに小学校舎が新築されたのを機会に、高齢を理由に、学校教師を辞任しました。

    ところが・・・ここがおもしろいところです。
    登幾は辞任したはずなのに、教えを請う生徒があとをたたないのです。
    このため、一時は、公式な小学校よりも、登幾のいる私塾の方が、生徒数が多いなんていう事態まで起きています。
    結局、登幾は、明治23(1890)年、85歳の高齢で亡くなるまで、自宅の私塾で、青少年に教鞭をとり続けました。

    さて、登幾が歌を献上した孝明天皇は、明治天皇の父親です。混乱の時代の中にあって、父に素晴らしい歌を献上した黒沢登幾に、明治天皇は、毎年十石のお米を授けてくださいました。陛下は、ちゃんと見ておいでだったのです。

    さて、未成年の頃の登幾は、家運もよく、頭もよく、学問もよくできる素晴らしい才女でした。
    しかし大人になった登幾を待っていたのは、夫に先立たれ、女手一つで二人の子を育てるというたいへんな苦労でした。
    そしてさらには、登幾から教育者としての地位も奪い、20年の長きにわたって、過剰な肉体労働を強い、体力を使い果たさせ、貧乏な暮らしの中で、餓えに苦しませ、その身を極貧暮らしにまで追い落すというものでした。

    そして、意を決した京都行きでは、登幾の身柄は拘束され、拷問を受けたのみならず、籐丸篭で護送され、ようやく放免されても、家に帰らせてもらえない。老いた母の顔も見れない、娘たちにも会えないという暮らしでした。

    ところが、実に不思議なものです。
    天は、最後には、登幾に、本来の教育者としての地位を与え、しかも天子様(天皇陛下)から、直接御米をいただけるという処遇を受けるようにしています。
    なぜでしょうか。

    孟子の言葉に、「天の将に大任を是の人に降さんとするや」というものがあります。

    天の将に大任を是の人に降さんとするや
    必ず先づその心志(しんし)を苦しめ
    その筋骨を労し
    その体膚(たいひ)を餓やし
    その身を空乏し
    行ひその為すところに払乱せしむ。

    というのです。
    なぜそんなことを天がするかといえば、それは、大任を得た人が、

    心を動かし、性を忍び
    その能はざる所を曾益せしむる所以なり

    と書かれています。
    要するに、黒沢登幾は20年という長きにわたり、天から薫陶を受け続けたわけです。
    そしれそれだけの長い期間、行商人に身をやつしながらも、登幾は本来の教育者としての自覚と誇りと矜持を保ち続けたわけです。
    そして最後に天は、登幾に、我が国初の女性小学校教師という役割を、与えました。

    見えない世界のことは、私にもよくわかりません。
    ただ、ひとついえることは、天はその人に、「絶対無理!乗り越えられない!」としか思えないような厳しい試練を与えるということです。

    いまの日本には、悩んだり、苦しんだりしている人はたくさんおいでだと思います。
    黒沢登幾も、極限まで追いつめられた人でした。
    けれど、あきらめない。くじけない。

    スーパーマンや、バットマンなど、アメリカン・ヒーローは、はじめから全てを持っています。
    三国志の関羽や張飛ははじめから強く、あるいは諸葛孔明は最初から天才です。
    けれど日本のヒーローは、オオクニヌシにせよ、スサノオにせよ、アマテラスにせよ、神様自体が、最初は不完全で、いじめを受けたりしながら、様々な試練を経て、成長していきます。
    牛若丸だって、カラス天狗に訓練を受けて、そこではじめて強くなっています。

    どんなに苦しくても、笑顔でがんばる。ただしい道を行く。
    途中に、どんなに辛い艱難辛苦が待ち受けていても、くじけずに生きる。
    そこに日本人の生き方があるように思います。


    ※このお話は、『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!』和と結いの心と対等意識に掲載したものです。

    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE
    日本の心をつたえる会チャンネル
    むすび大学チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第94回倭塾 9/10(土)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F
    第95回倭塾 10/23(日)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F


                        

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 日本の神と世界の神


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    新刊のお知らせ
    『奇蹟の日本史』
    ねずさんが描く庶民をこんなに幸せにした日本というシステム

    https://amzn.to/3eeXDco
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    新刊の『奇蹟の日本史』
    https://amzn.to/3eeXDco
    からお話をひとつお届けしたいと思います。
    テーマは「日本の神と世界の神」です。

    20220926 神
    画像出所=https://sfumart.com/column/10minart_26/
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!
        

    『奇蹟の日本史』ねずさんが描く庶民をこんなに幸せにした日本というシステム

    日本の神と世界の神

     欧米では神(God)は、人類と異なる存在であり、人類の創造主です。そこから誰かが人類を造ったに違いないという発想が有り生まれ、そのことが近年の「人類は宇宙人が造った」などといった説にも至っています。

     欧米では神は人類のオーナーですから、人類に対して「生殺与奪の権」を持ちます。そこから同じ人間であっても、偉い人は下にいる一般の民衆に対し、自分の富のためなら彼らに対する生殺与奪の権を持つのはあたりまえ、といった考え方も生まれています。かように神話というのは、その国の文化の根幹になる大切なものとなります。

     日本の神話は、神々は人類の始祖という考え方をしています。我々は神々の子孫であり、死ねば神々の仲間入りをすることになると考えられてきました。そこから「生存中は、恥ずかしくないしっかりとした生き方をしなければならない」という思想が生まれています。

     さらにいうと、最古の神々はこの宇宙の存在そのものであり、天であり、地であり、山川草木であり、自然そのものです。ですから自然にあるすべてのものと、我々は共に親戚であり、そこから自然への畏敬と感謝の念を持ちます。

     西洋では神は唯一絶対の存在です。
     英語圏では「ゴッド(God)」と呼びます。「God」の語源はゲルマン語の「ゴッツ(Gott)」です。これが古インド語で「ディーバ(deva)」となり、ギリシャ語では「ゼウス(Zeus)」、ラテン語では「デウス(deus)」、フランス語では「デュー(Dieu)」、イタリア語では「ディオ(Dio)」、ポルトガル語では「ディウス(Deus)」などになっています。要するにゴッドとゼウスは、同じ神だ、ということです。そしてその「God(ゴッド)」が、天地の創造主であり、人類は「God(ゴッド)」が泥をこねて造ったとされます。

     ここにおもしろさがあります。ゴッドやゼウスの原型であるゲルマン語の「ゴッツ(Gott)」は、「お供えをして呼ぶこと」を意味する語なのです。祭壇を作って神に降りてきていただくのです。
     とてつもなく偉い唯一絶対神を人の都合で呼び出すというのは、神に対してちょっとばかり失礼です。そこから、初期の頃の神は、西洋圏においても、かならずしも強大でおそろしい唯一絶対神ではなく、人々にもっと近い存在であったであろうことが推測できます。

     日本の縄文時代の遺跡を見ると、集落の真ん中に墓地があります。これは生者と死者が共存していたことを表します。この習慣は日本の縄文時代に限らず、南洋の島々や、南米とも共通の文化です。とりわけ熱帯地方では、その真中の墓地にバナナの木を植え、村同士の戦いなどがあるときには、戦士たちがそのバナナを食します。これは、ご先祖の勇気を、墓地で稔るバナナをいただくことで、戦死の体内に取り込むためとされます。

     日本の縄文時代の集落内の墓地に、そのように木が植えられていたかどうかは、いまではわかりませんが、集落と墓地の形状から、おそらくは似たような習慣があったのではないかという考古学者もいます。

     このことが意味していることはひとつです。つまりお亡くなりになった方は、家の守り神となり、村の守り神となり、クニの守り神となられているということです。だから勇気を分けてもらえるのです。

     ところが、数えてみれば、ご祖先の数は莫大な数にのぼります。人が生まれてくるためには父と母の2名が必要、父母が生まれるためには祖父母が4人必要、その祖父母が生まれるためには8人の曾祖父母が必要です。このように計算してみると、縄文初期の日本の人口はおよそ10〜12万人と言われていますが、16代も遡ったら、いま生きている人は、全員親戚です。16代ということは、たった400年です。現代日本で言ったら、関ケ原の戦いくらいのできごとです。いまでも少し古い家になりますと、「我が家は関が原の合戦でカクカクシカジカの軍功を挙げ・・」などといった伝承が残ったりしていますが、400年の歳月というのは、爺さんが孫に、そのまた爺さんから聴いた話を伝承すれば、わずか4度、それが繰り返されるだけで、400年が経過します。日本の歴史は400年どころか、その百倍の、およそ4万年もの昔までさかのぼりますが、こうなるとお亡くなりに成られた(自分と直接血のつながった)ご祖先の数は途方も無い数になります。いま生きている日本人は、過去において先祖が何十回もかぶったことのある、つまり日本人は全員、親戚です。
     そしてお亡くなりになられたすべての方が神となられています。だからこれを「八百万(やおよろず)の神々」と言います。

     西洋の「ゴッド(GOD)」は唯一絶対の創造神。我が国の神々は人々の共通のご先祖。この違いがわからずに、英語圏の人に、「日本のGODは八百万人います(8 Million Gods)」などと言ったら、彼らはびっくりしてしまいます。そこはむしろ「たくさんのご先祖を、我々は神と呼んでいます(We call many of our ancestors gods.)」とでも説明したほうが、わかりやすいといえるかもしれません。

     さて、日本でもいまでは神様は神社にご鎮座あそばされていますが、1万年前にできた初の神社である弊立神宮が生まれるより前には、まだ神社というものはなく、必要に応じてその都度、祭壇をつくり、お神酒(みき)を捧げて、神様に降りてきていただいていたとされます。このことは、なんと、ゲルマン語の「Gott(お供えをして神様を)呼んでいた」と、同じ行動です。

     こうなると、日本の文化が特殊なのではなくて、もしかすると日本の文化が、世界の文化の土台になっていた、という可能性も出てくるわけです。これは、日本が文明の発祥だというのではありません。日本を含む環太平洋で、海を中心に暮らしていた海洋族に共通する文化が、万年の昔に世界に広がり、それが現代の東西の文明の基礎を形成したと考えられる、ということです。

     ところがクニに権力者なるものが誕生するようになると、権力者は、自己の権力を権威付けるために、「神は俺とともにある」といった考え方を持つようになります。このとき神が唯一絶対神であれば、その神の御加護を得た権力者もまた、唯一絶対の存在となります。そうなると権力者に刃向かう者は、同時に神に刃向かう者ということになり、反権力=絶対悪といった思考が生まれます。その絶対悪のことを悪魔と呼びますが、悪魔は絶対悪なのですから、悪魔はなぜか悪事以外は働かないことになっています。つまり絶対善を提唱すれば、これに対抗する絶対悪を作らなければならなくなるわけです。こうして二項対立型の思考が生まれます。ところが世の中は不思議です。現実には権力者の方が悪であったりするわけです。

     一方、日本神話は、神々であっても失敗することがあるとします。神でも失敗するのですから、まして人間が失敗をしないことなどありえません。ここから「失敗しても、またやり直そうぜ」という文化が生まれます。人であれば誰しも失敗する。後悔もする。そうやって人は成長していくと考える文化が生まれるわけです。これは二項対立ではなく、中庸を重んじる文化といえると思います。

     このことは、偏差値で考えるとわかりやすいかもしれません。大学受験で偏差値80以上の神のような秀才と、20以下の残念な反秀才重んじて対立するのが西洋的二項対立の文化です。これに対し日本の文化は、偏差値40〜60までの間にある圧倒的多数の人々が、テストでバッテンをたくさんもらいながら、日々成長していくことを大切にします。この世に絶対善もなければ、絶対悪もない。その両方のゆらぎの中で葛藤しながらも、強く生きていくことこそが大事だとしてきたのです。

     西洋における妖精信仰は、いわゆる多神教に分類されます。
     けれど気をつけなければならないことがあります。それは西洋における妖精信仰を土台とした多神教と、日本における八百万の神々では、その考え方が根底から異なるということです。
     何が違うのかは、たいへんわかりやすいです。西洋における妖精は、花の妖精、木の妖精など、すべて「人類とは別な存在」です。日本では、花の神、木の神であっても、それらは神々の親戚であり、人類の親戚です。つまりすべては繋がっていると考るのです。
     日本にも、人と異なる物怪(もののけ)や妖怪(ようかい)がありますが、これらは、人の怨念が凝り固まったもので、もともとは人や動物や道具類であったものが、この世への恨みが嵩じて、異形の姿になった、哀れな悲しい人たちとされます。
     その意味で、日本の八百万の神々を、西洋の妖精信仰と同じと捉えて「日本が多神教の国」と、簡単に定義してしまうのは、間違いのもとです。多神教とはいっても、日本は妖怪や物怪を信仰している国ではありません。

     こうした神に関する概念の違いは、男女の違いについても、西洋と日本で大きな差異を生んでいます。
     たとえばギリシャ神話では、最高神であるゼウスのもとに、ゼウスの妻のヘラ、娘のアテナ、愛と美と性の女神のアフロディーテ、狩猟と貞操の女神のアルテミス、穀物の女神のデメテル、炉の女神のヘスティアなどが登場しますが、それらはあくまで神々の中にのみ存在し、初期の人類には男性しかいなかったとされています。

     では、人類初の女性は誰かと言うと、これが有名なパンドラです。そう、パンドラの箱の、あのパンドラです。
     もともとオリンポスの神々よりも以前には、ティーターンと呼ばれる巨人の神族が栄えていました。ゼウスが人と神とを区別しようとして、人類から火を取り上げたとき、巨神のプロメテウスは、火のない人類を哀れに思い、人類に火を渡します。ところが火を得た人類は、武器を作って互いに戦争をするようになるのです。

     事態を重く見たゼウスは、プロメテウスを磔(はりつけ)にするのですが、不死身の身体を持つプロメテウスは死なず、3万年の後にヘラクレスによって助け出されます。
     一方、プロメテウスの弟のエピメテウスも、兄の罪によってオリンポスを追放され、地上で人類の一員となって暮らすことになりました。

     ゼウスは人類が火を用いるようになったこと、そしてエピメテウスという巨神が人類に仲間入りすることで、人類の力が強大になって神々に近づくことをおそれます。そして何でも作れる鍛冶屋の神のヘパイストスに命じて泥から女性のパンドラを造らせると、そのパンドラに命を吹き込むとときに、「美しさ、歌と音楽、賢(かしこ)さと狡(ずる)さと好奇心」を与えます。さらにアテナから機織や女のすべき仕事の能力、アプロディーテから男を苦悩させる魅力を、ヘルメスからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えさせました。

     そしてゼウスは、
    「これは人間にとっての災(わざわ)いだ」と述べると、パンドラに鍵のかかった箱を持たせて、「この箱は決して開けてはいけない」と言い含めて彼女を人類のいる地上に送り込みます。

     パンドラをひと目見たエピメテウスは、兄のプロメテウスから「ゼウスからの贈り物は決して受け取ってはならない」と言われていたにもかかわらず、一目惚れしてパンドラと結婚する。二人は幸せに暮らすのですが、ある日、どうしても箱の中身が気になってしかたのないパンドラは、禁を破って、ついに箱を開けてしまいます。

     するとその箱から、夜の女神ニクスの子供たちが飛び出します。その子供たちというのが「老い、病気、痛み、嘘、憎しみ、破滅」です。次には争いの女神のエリスが高笑いとともに箱から飛び出していきます。そして箱の中に最後に残ったものが、ギリシャ語で心を意味する「エルピス(ελπις)」であったとされます。「エルピス(ελπις)」が英語圏では「希望(hope)」と訳されています。ちなみに「エルピス(ελπις)」は、スペイン語では「エスペランサ(esperanza)」、フランス語では「エスポワール(espoir)」と訛(なま)ります。

     要するにギリシャ神話は女性を「美しくて歌や音楽が上手で賢(かしこ)いけれど、「狡(ずる)くて、好奇心旺盛で、男を苦悩させ、恥知らずで、機織りをする者」と規定しているわけです。しかも女性は、もともと人類を破滅させるために神が造られたものであり、世界は女性によって老いと病気、痛み、嘘、憎しみ、破滅、争いがもたらされたのだ、というのがギリシャ神話の考え方であるわけです。
     現代女性が見たら卒倒してしまいそうな話ですが、これは本当のことです。

     このことは旧約聖書も同じです。イブの好奇心によって、アダムとイブがリンゴを食べて智慧を付け、神からそのことをとがめられたイブは、「神が造られたヘビに騙(だま)されたのです」と、自分の罪を神とヘビに責任転嫁します。怒った神は、イブに「子を産む苦しみと、夫から支配されなければならない」という罰を与えます。これが人類の女性が持つ原罪(original sin)です。

     英国文学で有名なハーベイの『テス』という小説があります。
    大好きな小説で、英国文学で最高の小説をひとつあげろと言われたら、迷わず『テス』をお勧めしているくらいですが、主人公の女性のテスは、たいへんに魅力的な女性ですが、やはり何を考えているのかよくわからない存在として描かれています。これは日本人の感覚からするとハテナ・マークがいっぱい付いてしまいそうな捉え方ですが、ギリシャ神話を読むと、それが西洋社会における女性の定義なのだとわかります。

     西洋社会では、ジェンダーフリーとか、女性の人権云々といった議論が盛んですが、西洋の政治運動を闇雲に日本に導入するのではなく、西洋と日本との文化の成り立ちの違いを、まず先にしっかりと学ぶ必要があります。

     ちなみに人類男性の始祖であるアダムは、「神が造られたイブにそそのかされました」と、やはり神とイブに責任を押し付けます。怒った神はアダムに「生涯、労働をする苦しみ」を与えたとされます。そこから労働は罪人が行うものであり、高貴な人は働かないことがただしい事といった概念が生まれています。

     では日本ではどうだったのでしょうか。
     日本の最高神は天照大御神であり女性神です。そしてその最高神と直接会話を交わすことができるのは、やはり女性神である天宇受売神(あめのうずめ)です。男性の神々は、天照大御神に何事かを奏上するときも、あるいは天照大御神からのご下命をいただくときも、常に女性神である天宇受売神を通してでなければならないとされています。

     これは縄文以来の日本人の伝統的思考で、子を産むことができる、つまり命を産むことができる女性は、もっとも神に近い存在であるとされてきことに由来します。ですからいまでも神社で御神楽(おかぐら)が奉納されるとき、神様に捧げる舞を踊るのは女性の巫女(みこ)さんの役割です。神様と対話できるのは女性だけの特権だからです。男性もお神楽を舞いますが、その舞は、あくまで聴衆に、当該神社の御祭神を説明するための舞、つまり聴衆に向けられた舞となっています。

     また男女の始祖であるイザナギとイザナミは、あくまで「共(とも)に計(はか)りて」、つまり両者で相談して、一緒にオノゴロ島を築き、そこに降り立って国生みや神生みをされたと記述されています。つまり男女は、役割の違いこそあれ、対等な存在であり、さまざまな葛藤や誤解があっても、力を合わせることで未来をひらくというのが、日本の神話です。

     こうしたことは、現代の一般庶民においても、外で働く男性にとって、家にいる女性は神様だから、東日本では、親しみを込めて「カミさん」と呼ぶ習慣になっています。西日本では「よめ」ですが、近年不思議なことに「よめ」が、差別用語だと言い出すおかしな人が出てきました。「よめ」は「良(よ)い女(め)」を意味する言葉です。
    なにしろ我が国の神話では、神々と直接対話ができるのは女性だけに与えられた特権です。家にいる妻をないがしろにしようものなら、殿方は神々から見放されてしまいます。だから毎日、どこにあってもウチの女房殿を「良い女」=「ヨメ」と呼んでいるわけです。

     こうした文化がどこからきたのかというと、はるか縄文以前から、日本は海で魚を採って暮らす海洋民族として生活してきたことによります。だから縄文時代の遺跡には、すべて貝塚があります。貝塚からは釣り針も出土しますが、釣り針があるということは、魚を獲って暮らしていたということです。では釣り針に使う「釣り糸」はどうしていたのかというと、これには女性の髪の毛が用いられました。男性の髪と異なり、女性の髪は細くしなやかで丈夫です。このことが長い歳月の間に「髪は女の命」とまで言われるようになりました。
     男たちがどんなに器用に丁寧に素晴らしい釣り針を作っても、髪の長い女性がいなければ、釣り針を使うことができないのです。だから女性の髪は神であり、そこから女性そのものが神とされ、このことがいまでも「カミさん」という日常語として遺っているわけです。ちなみに西日本では「ヨメ」と言いますが、これは「良い女(め)」という意味で、カミさんと同じ考え方に基づきます。

     江戸時代まで、日本では旦那が働いた給料は、その家に支給されるものというのが、古来のしきたりでした。すべてが世帯を単位に考えられ、夫の小遣いを含めて、世帯の中の一切のやりくりを見るのは、女性である妻の役割とされてきました。武士も同じで、旦那の俸禄は、お殿様からいただいているというより、現実的には妻からもらっているようなものであり、何事も世帯全体で責任を持って行うというのが、日本における常識であったわけです。
     近年の日本では、西洋的個人主義が礼賛されていますが、給料が世帯を単位に支払われ、すべての家計の実験を奥方が握り、家族の誰かが悪いことをすれば、世帯全員が処罰の対象となり、重罪であれば、親族にまでその影響が及ぶという社会構造からは、犯罪行為も自粛されます。

     日本にあった長くて古い文化は、もしかすると古代において世界に影響をあたえたものかもしれません。そしてもしかするとこれからの世界を、個人主義から、世帯単位の家族主義に変えていく、大きな役割を担っているのかもしれません。

    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE
    日本の心をつたえる会チャンネル
    むすび大学チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第94回倭塾 9/10(土)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F
    第95回倭塾 10/23(日)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F


                        

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 未来を担う


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    新刊のお知らせ
    『奇蹟の日本史』
    ねずさんが描く庶民をこんなに幸せにした日本というシステム

    https://amzn.to/3eeXDco
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    近日発売(現在予約受付中)の新著『奇蹟の日本史』から、「あとがき」をお届けしたいと思います。
    この本は、日本がまさに神のなせる奇蹟を実現してきた世界最古の国であるということを、さまざまな切り口でわかりやすく述べた本です。一家に一冊あるだけで、もしこの本を学生のお子様やお孫さんが手にとったとき、きっとその子に日本人としての誇りを目覚めさせ、一段と大きく、たくましく、その精神を成長させるきっかけになる本です。

    20220920 奇蹟の日本史
    画像出所=https://good-books.co.jp/books/2967/
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!
        

    ******
    『奇蹟の日本史』

    あとがき 未来を担う


    GHQの「せい」にする。
    戦後左翼の「せい」にする。
    政治の「せい」にする。
    国際金融資本の「せい」にする。
    ディープステイトの「せい」にする、等々、近年、現状を何者かの「せい」にすることが流行しています。
    誰かの「せい」にしてしまえば、自分は被害者でいられる。
    不思議なことに、被害者でいることで、安心を得ているかのようです。

    まず、冷静に考えていただきたいのですが、自分の給料が安いことや、なかなか出世できないことなどは、会社の「せい」だったのでしょうか。
    自分に彼女ができないのは、誰かの「せい」でしょうか。
    いま起きている様々な事象について、「なぜそうなったのか」を考えることは、とても大切なことです。
    けれど、「だから仕方がない」とあきらめるのは、日本的ではありません。

    我々は「いま」をしか生きることができないのだから、「いま」できる精一杯の誠実を尽くすことで、より良い未来へとシフトしようと考えてきたのが日本人です。そして実は、こうした日本人の古くからの思考は、立体的です。

    どういうことかというと、川が上流から下流へと流れるように、時間は未来から過去へと流れます。
    だから「未だ来ず」と「過ぎて去る」です。
    それは、「いま」によって、流れてくる未来が変わる、ということです。
    船で昇れない激流を選ぶのか、大河のようなおだやかな川を選ぶのかは、自分次第だという思考です。

    給料が安い、出世できないという過去があった。
    だからといって将来をあきらめたら、それで終わりです。
    将来は「将(まさ)に来る」ものなのです。
    だから心を入れ替えて努力する。
    そうすることによって、給料があがるように、出世できるように努力する。
    繰り返しますが、あきらめたら終わりです。

    あるいはこれまで彼女ができなかった。
    だから女性に惚れられる男になろうと決意した。
    その人には、きっと素晴らしい彼女が、未来にきっと待っていてくれることでしょう。

    GHQや戦後左翼や政治や国際金融やディープステイトと呼ばれる者が、何をやってきたのかを知ることは大切です。
    けれど、そこで必要なことは、事実を知る、学ぶということであって、被害者になることではありません。

    なるほど、GHQが、日本を占領統治するために、様々な国際法上の違法を繰り返していたことは事実です。
    日本的思考の解体のために、彼らが様々な事柄を、強い意思と決断と実行力をもって推進してきたことも、事実です。

    けれど同時に彼らが、食材の不足した日本に大量の小麦や芋を持ち込んでくれたことで、当時の日本人が食いつなぐことができたのも、また事実です。
    もしそれがなければ、当時の人口8千万人のうち、食糧不足によって2千万人くらいが餓死したかもしれません。
    そうであれば、いま生きている日本人の4人にひとりは生まれていなかったことになります。
    私たちの命は、GHQからいただいたともいえるのです。

    日本がいまでも占領下にあるという人もいます。
    筆者もそう思います。
    日本に自主権がなく、結果平成以来30年の不況が続き、所得も上がらず、気がつけばあの貧乏だったチャイナにさえ個人所得が及ばなくなっている。
    それが事実です。

    そこまでわかって、そこで被害者になるのでしょうか。
    被害者になって愚痴を云うだけで終わるのでしょうか。
    それでは未来の子たちにとって、なんとも無責任極まりないのではないでしょうか。

    このままではいけないと思うなら、そうでない未来を築くのは、いまを生きている私たちの役割です。
    私たち一人ひとりが、歴史の当事者なのです。
    「そんなことを言ったって、個人の力なんて知れている」と考えるのも、違うと思います。
    なぜなら、いつの時代にあっても、時代を動かし、時代を変えるのは、その個人の力です。

    決してあきらめない。
    どこまでも戦う、いつまでも戦い続ける。
    死んでも魂魄となって戦う。
    七度生まれ変わって戦い続ける。
    それが日本人です。

    そしてそれが、いまを生きる日本人の、未来への責任です。

     透き通った青空の日に  小名木善行

    *****

    と、あとがきは以上なのですが、最近思うことがあります。
    よく、神々からの警告といったような内容の動画がyoutubeにアップされます。
    それは日本のものだけではなくて、海外のスピリチュアル系のサイトに、多く存在します。
    西洋では、ギリシャ神話にせよ、旧約聖書にせよ、神々は人類(西洋人種)とは別な存在であって、近年ではそうした神は「宇宙からやってきた」といったような解釈がなされているものが多いと言えます。

    そしてその神々は、たとえば鉄器などについても、すべて人々の生活をよりよくするための道具として、彼らにもたらした。
    ところが、人類(西洋人)たちは、それを戦いの道具、自分だけの贅沢のための武器にしてしまった。
    神々は怒り、また人類文明(西洋文明)を滅ぼすのかもしれない。
    だから、目覚めるのは今だ、というわけです。

    けれど、もしかすると、それは西洋人たちにとって、「海の向こうからやってきた高度な文明を持った人々」であったのかもしれない。
    その海の向こうからやってきた人々は、さまざまな文明の恩恵を彼らにもたらした。
    けれど彼らは、そうした文明の恩恵を、すべて武器に変えてしまったということかもしれないわけです。

    こうしたなかにあって、近年我が国では、3000年前の鉄器が発見されたり、青銅器も8000年前にはすでに用いられていたといった研究がなされるようになりました。
    ということは、もしかすると、西洋(西洋だけでなくチャイナなどの東洋も同じですが)に文明の利器をもたらしたのは、日本人であったのかもしれないといえるわけです。

    縄文時代の日本人は、鉄器も青銅器も、あくまで生活道具として用いていました。
    それを武器にするといった文化そのものが存在していませんでした。
    そして縄文人というのは、実は、葦船に乗った海洋民族であったということも、近年の研究で明らかになっています。
    その葦船は、多数の人間を乗せることができるような、かなりの大型船舶でもあったということも、わかってきました。
    縄文人たちは、そんな葦船に乗って、実は世界中を旅していた。

    そんな彼らが、世界に鉄器や青銅器をもたらす。
    それはあくまで生活をより豊かにするための道具として渡したものでした。
    けれど彼らは、それを人を殺める道具にしてしまった。

    もしかすると、そんな歴史が、実は真実であったのかもしれません。

    これは近年でも同じです。
    日本でファミコンが生まれ、スーパーマリオブラザーズが生まれました。
    日本人は、それらをあくまで人々のお楽しみのために用いていました。
    けれど、そうしたコンピューターゲームが世界に渡ると、世界ではそれを軍事シュミレーションとして用いるようになってしまいました。

    これはいまでも続いていて、世界最先端の情報処理コンピューターは、米のペンタゴンにあるのではなく、日本の一般家庭にあるプレイステーションに装着されています。
    日本人には、戦って相手を屈服させて自分が贅沢をする、という文化がありません。
    日本人はどこまでも平和を愛する民なのです。

    そしてそうした文化は、いま、世界中の庶民が求める文化になってきています。
    世界を良い方向にリードできるのは、日本人です。


    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE
    日本の心をつたえる会チャンネル
    むすび大学チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第94回倭塾 9/10(土)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F
    第95回倭塾 10/23(日)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F


                        

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 武器を持たない縄文人


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    新刊のお知らせ
    『奇蹟の日本史』
    ねずさんが描く庶民をこんなに幸せにした日本というシステム

    https://amzn.to/3eeXDco
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    縄文時代の遺跡から出土する人骨は、外傷によって亡くなったと思われる人骨が、わずか1・3パーセントしか発見されません。これは世界の常識からしても、圧倒的に少ない割合です。
    その少ない外傷も、明らかに矢が刺さったような傷を負った人骨は存在しません。
    頭蓋骨に穴の空いた骨は発見されていますが、それさえも、もしかしたら、事故で転んで頭を打っただけかもしれません。
    つまり、縄文時代において、戦いで死んだ人は、ほとんどいなかったと考えられるのです。

    20220926 縄文時代
    画像出所=http://web1.kcn.jp/west_fields/kodai/2_jomon.htm
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!
        

    拙著『縄文文明』から、武器を持たない縄文人と、子どもの足型のついた土版から見えてくる愛の2節をご紹介したいと思います。
    この本は今年4月の発売ですが、Amazonですでに245件のご評価、レビューをいただいています。

    ***
    『縄文文明』より

    ▼武器を持たない縄文人

    欧州などでは、だいたい1万年前くらいを旧石器時代、1万年~3000年くらい前の時代を新石器時代などと呼びます。
    ちなみに、旧石器時代というのは、人類が自然石をそのままの状態で使っていた時代であり、新石器時代は人類が自然石を加工して用いた時代のことをいいます。
    日本の縄文時代というは、欧州や中国における旧石器時代後期から新石器時代にかけて栄えた、まったく日本独自の文化の時代です。

    ひとくちに縄文時代といっても、年代的にはものすごく長い期間です。
    ・縄文時代草創期が今から2万年~9000年くらいの前。
    ・縄文時代早期が9000年~6000年くらい前。
    ・縄文前期から晩期が6000年~2000年くらい前の時代です。
    縄文時代は、総年数1万8000年という、とてつもなく長い時代なのです。

    では、縄文時代について現状の歴史の教科書で語られる通説を見ていきます。
    まず、約1万年前に地球の氷河期が終わりを迎え、海面が上昇すると同時に大陸の一部が切り離され、それが現在の日本列島となった、と解説されています。さらに、温暖化になった日本列島で集団生活が始まり、それが縄文時代のはじまりである、という書き方をしているのです。

    ですが、これまで語られてこなかった事実がすでに解明されていて、かつての通説では説明がつかないことも多く存在しています。
    本書では、そうした事実にフォーカスしながら、本当の縄文の姿を追っていこうと思います。

    縄文時代の遺跡は、全国で9万531カ所も発見されています。9万といえば、すごい数です。遺跡では「何が発掘されるのか」が注目されますが、「何が発掘されないか」も当時の文明を解明する手がかりになります。

    世界の古代遺跡では必ず発見されるのに、わが国の縄文時代の遺跡からは発見されないものがあります。

    そのひとつが「対人用の武器」です。人が人を殺すための武器が、縄文時代の遺跡からはまったく出土していません。
    もちろん、矢尻や石オノ、石包丁のようなものは数多く発見されています。
    ですが、オノの部分は小さく、長い柄がついており、こんなもので人をひっぱたいたら柄のほうが折れてしまって、戦闘ではまったく役に立ちません。
    矢じりにしても、サイズはとても小さなものばかりで、ウサギやタヌキなど小動物を仕留めるための道具であったとしか推測できません。

    もうひとつ、注目すべきことがあります。遺跡からは、縄文時代の人骨がたくさん発見されていますが、調査の結果、外傷によって亡くなったと思われる人骨は、わずか1・3パーセントだったということです。
    これは世界の常識からしても、圧倒的に少ない割合です。

    しかも、少ない外傷についても、明らかに矢が刺さったような外傷を負った人骨は存在しません。もしかしたら、事故で転んで頭を打っただけかもしれません。
    縄文時代において、戦いで死んだ人は、ほとんどいなかったと考えられるのです。

    もうひとつ申し上げると、今から1万6500年前の土器が、青森県の大平山元I遺跡で見つかっています。
    これは、まぎれもなく「世界最古」の土器です。
    1万年前といえば、ヨーロッパではまだ旧石器時代です。それよりも6500年も前に、日本では非常に高度に発達した文化が熟成されていたわけです。
    その時代、すでに土器を作り、集落を営み、武器を持たずに人が人を助け合う文化を熟成させていたのです。
    これはすごいことです。

    少し話がそれますが、縄文土器は細工が細かく、表面に秀麗な装飾が施してあることは、みなさんご存知のとおりです。
    このような丁寧な細工というのは、戦乱の世の中ではなかなか用いられません。
    せっかく作っても、ひとたび戦いがはじまれば、あっという間に割られて壊されてしまうからです。
    つまり、土器の特徴から見ても、縄文時代に戦いがあったとは考えにくいのです。

    こうした事実から、1万4000年間という途方もない長い期間にわたって、我々の祖先は、「人が人を殺める」という文化を持っていなかったということがわかりました。
    日本人が平和を愛するのは、この1万4000年間という途方もなく長い期間にわたって蓄積された、DNAのなせる業なのです。

    この章では、こうした教科書では語られてこなかった、「縄文人はどんな文明を発展させ、どんな生き方をしていのか?」という点に迫っていこうと思います。


    ▼子どもの足型のついた土版から見えてくる愛

    日本人は縄文時代から平和を愛する温かい心を持っていた......。

    私がそう確信しているのは、縄文時代の遺跡から対人用の武器が発見されなかったからだけではありません。
    「発見されたもの」からも、縄文時代の日本人がどんな国民性だったのかをうかがい知ることができます。
    縄文式土器というと、多くの人が壺や皿、土偶などを想像することでしょう。
    しかし、それだけではありません。

    少し変わったものとして北海道の函館市の垣ノ島A遺跡から、「子どもの足形のついた土版」も発見されています。
    『足形付土版』といいますが、一体何のために作られたのかはよくわかっていません。
    ただ、発見されたことは事実なので「そこから何を読み取るのか」が重要です。

    当時の寿命に着目してみると足形付土版の目的がうっすら見えてきます。
    縄文時代における平均寿命は大体、24〜25歳と非常に短いものでした。
    子どもが無事に生まれて、無事に育っていくのがむずかしい時代だったことは、間違いないでしょう。

    今では医療が発達し、子どもが死亡するケースはごくまれです。
    けれどほんの100年くらい前まで、日本に限らず世界中どこでも、子どもというのは、よく亡くなるものだったのです。

    厚生労働省の人口動態調査資料によると、100年前の新生児(生後4ヵ月以内)死亡率は7・8パーセントで、今の約40倍。
    乳児(生後1年以内)のほうは15.6パーセントで、今の42倍です。
    つまり100年前は、生まれてきた子どもの4人にひとりが、1年以内に死亡していたわけです。
    子どもの死亡率が下がってくるのは、昭和に入ってからです。

    私の亡くなった父は、男4人兄弟の長男でした。
    けれど、大人になるまで育つことができたのは、父と末っ子の叔父だけです。
    次男と三男は、やはり病気で子どもの頃に亡くなっています。
    祖母(父の母)から、亡くなった2人の自慢話をよく聞かされたものです。

    おそらく縄文時代も死産や早世が多かったことでしょう。
    医療も発達していなかったので、なんとか生まれて来ても、幼いうちに亡くなってしまうことも、今とは比べようのないくらい多かったと思われます。

    これだけは言えますが、時代が違っても産んだ子どもを失った悲しみや、亡くした我が子への思いは同じです。
    だからこそ親たちは、亡くなった子どもの足形を粘土板に残し、大切な思い出としたのです。
    それが私たちの祖先です。

    悲しい別れに際し、
    「ずっとおまえのことを忘れないよ」
    「ずっとおまえは、お父さんお母さんと一緒にいるんだよ」
    そんな思いを込めて、子どもの足形を粘土で採って、小さな家の中にずっと飾っておいたのかもしれません。
    写真もない時代ですから、足型を残すくらいしか方法がなかったのでしょう。
    そうして、子どもへの愛をずっと大切に保とうとしていた......。
    足形付土版は、その証ではないかといわれています。

    やはり日本人の祖先は、とても温かい心を持っていたのではないでしょうか。
    私は縄文時代の文明に触れれば触れるほど、そんな確信を深めています。


    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE
    日本の心をつたえる会チャンネル
    むすび大学チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第94回倭塾 9/10(土)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F
    第95回倭塾 10/23(日)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F


                        

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 野見宿禰(のうみのすくね)と當麻蹴速(とうまのけはや)


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    新刊のお知らせ
    『奇蹟の日本史』
    ねずさんが描く庶民をこんなに幸せにした日本というシステム

    https://amzn.to/3eeXDco
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    刀で立てた藁を斬る抜刀術がありますが、普通は、藁が倒れる前に一太刀斬れれば、すごい腕前です。
    これが二太刀入れることができるようになると、相当な技量とされ、三太刀入れることができる人は、抜群の腕前とされます。
    ところが水軍の技術では、その藁が倒れる前に、揺れる船上で10太刀くらい、平気で斬ります。
    古い時代の日本武術の技量は、驚くほどの凄みがあります。

    20220925 當麻蹶速と野見宿禰
    画像出所=https://cultural-experience.blogspot.com/2017/10/blog-post_5.html
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!
        

    今年7月に刊行された拙著『日本武人史』から、相撲の元祖とされる野見宿禰(のうみのすくね)と當麻蹴速(とうまのけはや)の物語をご紹介してみようと思います。
    『日本武人史』は、日本武術の歴史を考えようとした本で、どの流派がどうのこうのということではなく、日本武術がどのような精神を持って発展してきたのかを、あらためて考察した本です。

    西洋では、戦いの最前線は奴隷兵であり、その奴隷たちが戦いのために闘技場で戦い、それがスポーツの起源になっています。
    それは戦いのための腕力の競争であり、このことが後に、オリンピック競技へと発展し、また格闘技としてのボクシングやレスリングへと発展しています。
    それらは、戦いのための技術競争でしたから、たとえば一発クリーンヒットしてダウンしたら、10秒数えて、試合の勝敗が決まります。

    ただ、西洋も、チャイナもそうなのですが、歴史の中で何度も国が滅んでいるため、武芸の技術そのものが伝承されず、常に新しいものとしてルールの中で勝敗を競うものとなっています。

    これに対し日本では、戦いは、家族や郷里を護ろうとする自衛から生まれ、その技術が長い歴史を通じて伝承されてきました。
    どんな世界にも、時折、天才と呼ばれる人が生まれるものです。
    その天才が、技を工夫し、武術の技能や精神が高まると、弟子となってその技術を修業する者があらわれます。
    そうして何世代か経つと、そこにまた天才が現れる。
    その天才が、さらに技や精神や修行方法を工夫し、そのまた弟子に伝承する。
    そんなことが、実は万年の単位で繰り返されてきたのが、日本です。

    縄文時代は、武器を持たない時代だったということは、このブログでも何度も取り上げさせていただいていることですが、これは「もしかすると」なのですが、縄文時代には、日本人は武術の体得が常識であったのかもしれません。
    縄文時代や、それ以前の新石器時代には、日本人は海洋民族で、葦舟に乗って世界を旅する民族であったわけですが、そういう生活では、当然に争いが起きたり、巻き込まれたりすることがあったであろうと思われるのです。

    ところがそんなとき、日本武術を会得していると、相手を叩きのめすのではなく、相手が、どうして自分が倒されたのかわからないまま、気がついたら降参しているという状況になります。
    敵が手に打物を持っていたとしても、魂を抜かれてしまうので、何もできないうちに、その打物を取り上げられてしまう。
    とても不思議なことですが、それが日本武術の源流です。

    倒された側が、どうして自分が倒れているのか、わからないのです。
    大人であれば、幼児が歯向かってきても、簡単に取り押さえることができます。
    その大人と幼児くらい、体術の技量に違いがあれば、それは現実になります。

    昔の日本人は、痩せて小柄でしたが、これは海洋民族として、船に乗る生活が万年の単位で続いたことが原因しているといわれています。
    ずっと後年の話になりますが、倭寇と呼ばれた日本の水軍は、とにもかくにも、圧倒的に強かったといわれています。
    それは、単に日本刀の切れ味が良かったということだけではなくて、体術も優れていたのではないでしょうか。

    今も残る村上水軍などの水軍の末裔に伝わる戦いの技術は、揺れて狭い船上で、縦横に相手を倒すものすごい技術です。
    柔道の試合で、そういう流れの小柄な人にあたったことがありますが、試合開始10秒もしないうちに倒されてしまったことがあります。
    そのときの印象は、どうして自分の体が宙に浮いているのかわからない。
    まるで自分の体が、羽のように軽くなったような感じで、気がついたら畳の上で受け身をさせられていました。
    とても不思議な感触です。

    刀を使う技術もそうです。
    刀で立てた藁を斬る抜刀術がありますが、普通は、藁が倒れる前に一太刀斬れれば、すごい腕前です。
    これが二太刀入れることができるようになると、相当な技量とされ、三太刀入れることができる人は、抜群の腕前とされます。
    ところが水軍の技術では、その藁が倒れる前に、揺れる船上で10太刀くらい、平気で斬ります。

    古い時代の日本武術の技量は、驚くほどの凄みのあるものなのです。

    どうしてそこまで技術を進化させることができたのか。
    これは、その底流に、大きな文化性があったからではないかと思います。
    そういう前提の上に、『日本武人史』でご紹介した野見宿禰(のうみのすくね)と當麻蹴速(とうまのけはや)のお話があります。

    *****
    『日本武人史』
    https://amzn.to/3bomY29
    相撲の起源 當麻蹶速と野見宿禰と日本武道

     相撲の始祖とされているのが野見宿禰(のうみのすくね)と當麻蹴速(とうまのけはや)です。二人の試合は紀元前23年、垂仁天皇の時代にあった出来事とされています。
     野見宿禰は、天穂日命(あめのほひのみこと)の一四世の子孫と伝えられる出雲国の勇士です。
     日本書紀に詳しく書かれていますので、現代語に訳してみます。

     *

     第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)が即位して7年経った7月7日のこと、天皇の近習が、
    「當麻邑(とうまむら)に當摩蹶速(とうまのけはや)という名のおそろしく勇敢な人がいて、
     力が強く、日頃から周囲の人に、
     『国中を探しても我が力に比べる者はいない。
      どこかに強力者(ちからこわきもの)がいたら、
      死生を問わずに全力で争力(ちからくらべ)をしたいものだ』と言っている」と述べました。これを聞かれた天皇が、
    「朕も聞いている。
     當摩蹶速(とうまのけはや)は天下の力士という。
     果たしてこの人に並ぶ力士はいるだろうか」
    と群卿に問われました。一人の臣が答えました。
    「聞けば出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という勇士がいるそうです。
     この人を試しに召して蹶速(けはや)と当たらせてみたらいかがでしょう」

     こうして倭直(やまとのあたい)の先祖の長尾市(ながおいち)が遣(つか)わされて、野見宿禰が都に呼び寄せられました。

     いよいよ試合の当日、両者は相対して立ち、それぞれが足を上げて揃い踏みを行いました。
    そして両者は激突しました。
    その瞬間、野見宿禰が當摩蹶速の肋骨を踏み折り、さらにその腰骨を踏み折って殺しました。

    勝者となった野見宿禰には、大和国の當麻の地(現奈良県葛城市當麻)が与えられ、野見宿禰は、その土地に留まって朝廷に仕えました。

    垂仁天皇の皇后であられた日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が崩御されたとき、殉死に代えて人の形をした土器を埋めることを提案したのも野見宿禰です。これが埴輪(はにわ)の由来です。

     *

     ここに日本武術の心得の根幹が書かれています。
    當摩蹶速は、自分を天下の力士と自慢していました。
    一方野見宿禰は、勇士と呼ばれながら、自らを誇ることがありませんでした。
    試合の結果は一瞬で決まりました。天狗になっていた當摩蹶速が負け、自らを誇ることなく、寡黙に精進を続ける野見宿禰が勝ちました。そして戦いに際しては、躊躇することなく、瞬間に肋骨を踏み折り腰骨を砕く。鬼神のような強さを発揮する。ここに日本武道の根幹があります。

     刀はよく切れるから、鞘に収めるのです。そして日々、打ち粉を用いて磨き続ける。そうすることで日本刀はその威力を保ち、また刀を使う者自身も、日々鍛錬を怠らない。圧倒的な力を持ちながら常に謙虚でいて、日々精進を怠らない。だから強い。

     筆者の友人のある武道家の先生は、日頃は本当に大人しい紳士です。体躯もごく普通です。けれどそこに道場破りにやってきた強いと自慢の巨体のレスラーは、先生を一方的にヘッドロックした瞬間、天井まで吹き飛ばされて気を失いました。それでいて先生は着衣も髪の乱れもない。一瞬の出来事です。これは実際にあった出来事です。

     その先生もたいへんな人格者ですが、野見宿禰が後年、殉死を埴輪に置き換えたという伝承も、そうした建言が容(い)れられたのは、野見宿禰がただ強いことを鼻にかけるような鼻持ちならない痴れ者ではなく、その人格が人々から認められていたことを日本書紀は書いています。
    強いだけが男ではないのです。

     文中に7月7日という記述がありましたが、つい最近までは毎年田植えが終わった7月に、全国の神社で、町や村の青年たちによる奉納神前相撲が行われていました。いまでも地方によっては行なっているところもあるようです。これも、もともとは野見宿禰の試合前の揃い踏みに依拠します。

     田植えのあとに、神官がまず土俵を塩で清め、その土俵に村の力自慢の力士たちがあがって四股(しこ)を踏むのです。塩をまくのは、「清めの塩」で「土俵の上」の邪気を祓い清めて怪我のないように安全を祈るためです。四股はもともと「醜(しこ)」で、地中の邪気を意味します。清められた土俵の上に力士たちが上り、そこで地中の「醜」を踏みつけて「地中の」邪気を祓うのです。そうすることで、植えた苗がすくすくと育つようにと願います。

     ここにも日本の武道に関する考え方が色濃く反映しています。すなわち武は、あくまで「邪(よこしま)」を祓い、ものごとを「たける(竹のようにまっすぐに正す)」ものである、という思想です。

     革命や改革など、政変は度々起こります。これは我が国の歴史にも何度もあったことです。けれどそこで必要なことは、改革しようとする側が、あくまで「たける」存在であることです。改革しようとする側が「邪」であってはならなし、自分たち利益ばかりを優先する者であってはなりません。その典型がレーニン、スターリンであり、毛沢東です。ただの虐殺者です。

     何が正しく、何が邪(よこしま)なのか。
    地中の邪気は、作物の生育を邪魔し、人々の生活を奪います。
    ならば正しいことはその逆にあります。
    おいしい作物を育み、人々の生活を活気にあふれたものにするのです。
    それが真っ直ぐな道です。

     そのために行うのが「たける(竹る)」です。漢字では「武」と書きます。
    「武」は、単に「試合に勝つ」ためにあるのではありません。
    一人でもおおくの人々のために役立てるようになっていくこと。
    そのために日々精進するのが武の道です。
    私達はそのためにこの世に生まれてきている。
    それが日本古来の人の道の考え方です。

    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE
    日本の心をつたえる会チャンネル
    むすび大学チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第94回倭塾 9/10(土)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F
    第95回倭塾 10/23(日)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F


                        

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 藤原敦忠に学ぶ日本男児の愛


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    新刊のお知らせ
    『奇蹟の日本史』
    ねずさんが描く庶民をこんなに幸せにした日本というシステム

    https://amzn.to/3eeXDco
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    古典和歌には、その人生そのものが、わずか三十一文字に込められています。
    敦忠の歌は、身分の違いからその愛を成就できなかった男が、そこから這い上がり、男としての成功を勝ち得、そして死んでゆく、そんな男の人生を高らかに歌い上げます。
    その意味ではこの歌は、日本の和歌文化をある意味、代表する歌だといえます。

    20220924 大原三千院
    画像出所=https://yanadalim.com/sanzenin/
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!
        

     逢ひ見てののちの心にくらぶれば
     昔はものを思はざりけり


    簡単に現代語に訳すと、
    「貴女と深い仲になってからの熱い思いは、
     こうした仲になる前のあなたへの恋心が、
     まるで何も思っていなかったのではと思えるほど、
     深くて愛おしいものなのです」
    となります。

    歌を詠んだのは権中納言藤原敦忠(ふじわらのあつただ)です。
    百人一首の43番にあります。

    歌の意味は現代語訳のとおりです。
    どうみても私的な恋愛の歌です。
    にもかかわらず百人一首では、詠み手の名前を「権中納言」と役名にしています。
    詠み人の名前が官名であるということは、それは公人としての立場で歌を詠んだとして百人一首が扱っていることを意味します。

    非常に個人的な歌なのに、どうして役名が付いているのか。
    実はそこに感動的な男のドラマがあります。

    権中納言敦忠は三十七歳でこの世を去りました。
    亡くなる前年に任官した役職が「権中納言」です。

    「権中納言」が、どのような役職かというと、後世、同じ役名をもらった有名人に、徳川光圀(とくがわみつくに)がいます。ご存知、水戸黄門です。
    権中納言は、唐名が黄門侍郎(こうもんじろう)で、略して「黄門」です。
    水戸黄門は、徳川家康の孫であり、徳川御三家の水戸藩の二代目藩主であり、天下の副将軍です。
    権中納言がどれだけ高い位か分かろうというものです。

    その藤原敦忠は、はじめから偉い人だったわけではありません。
    もともとは「従五位下」です。「従五位下」も殿上人(でんじょうびと)には違いないのですが、貴族としてはもっとも身分の低い、いってみれば貴族の中の大部屋暮らしです。

    藤原敦忠はたいへんな美男子であるとともに、管楽にも優れた才能を発揮する人でした。
    管楽の腕前がどれほどのものだったかを示すエピソードがあります。

    藤原敦忠が亡くなったあと、源博雅(みなもとのひろまさ)が音楽の御遊会でもてはやされていました。
    源博雅は、映画『陰陽師』で、伊藤英明さんが演じておいででした。
    映画では笛の名手となっていましたが、弦楽もかなり達者だったようです。

    その源博雅の演奏を聞いた老人たちが、
    「敦忠が存命中は、
     源博雅あたりが音楽の道で
     重んぜられるとは思いもしなかったと嘆いた」
    という話が、中世の歴史書の『大鏡(おおかがみ)』にあります。
    源博雅の笛が、まるで児戯(じぎ)に思えてしまうほど、藤原敦忠の管楽が素晴らしかったということです。

    身分は低いけれど、若くて、ハンサムで、歌も上手で、しかもうっとりするほどの管楽の達人。
    そうであれば、管楽を多くの人前で披露する機会も多かったことでしょう。
    藤原敦忠は内裏(だいり)の女性たちにモテモテでした。

    その藤原敦忠が二十五歳のとき、なんと第六十代醍醐(だいご)天皇の皇女である雅子内親王(がしないしんのう)と、良い仲になってしまうのです。
    このとき雅子内親王は二十一歳です。
    これまた若くて美しい盛りです。

    二人はまさに熱愛となりました。
    このとき互いに交わした愛の歌の数々が『敦忠集』に収められています。
    もう「大丈夫か?」と心配したくなるほど、二人の愛は熱々、ラブラブです。

    けれど困ったことに、身分が違いすぎるのです。
    やむなく大人たちは、雅子内親王を伊勢神宮の「斎宮(いわいのみや)」に選んで、都から去らせてしまいました。
    「斎宮」というのは、伊勢神宮の祭神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の御杖代(みつえしろ)(=神様の意を受ける依代(よりしろ)となる女性で、皇女の中から選ばれました。
    お伊勢様の中に専用の建物が与えられ、五百人の女性たちがそこに傅(かしず)きました。

    もともと天照大御神様にお言葉を奏上し、天照大御神様のお言葉を下に伝えるのは、女性神である天宇受売神(あめのうずめのかみ)の仕事でした。(だから「天の声の受け売り」というご神名になっています。)
    現世において、その天宇受売神の地位に匹敵するお役目になるのが「斎宮」です。
    どれだけ貴重な存在かわかろうというものです。

    このときの藤原敦忠は、貴族とは名ばかりの下士です。
    片や雅子内親王は天皇の皇女です。
    あまりにも不釣り合いなことに加え、「斎宮」に選ばれたとあっては、もはや二人は二度と逢うことは許されません。

    だからこそ藤原敦忠は、その苦しい胸の内を、この歌に詠んだわけです。
    禁断の恋、つらい別れだからこそ、
    「逢ひ見てののちの心にくらぶれば」
    なのです。

    しかし敦忠は、身分の差があるからと愛する女性(ひと)を失ったという感傷にただひたるだけのヤワな男ではありませんでした。
    彼は、
    「ならば、その身分に匹敵する男になる!」と決め、猛然と仕事に精を出すのです。

    もともと才能ある若者です。
    努力し成果をあげ、翌年には従四位下に昇格したかと思うや否や、その年のうちに蔵人頭(くろうどのとう)に出世、翌年には左近衛権中将、さらに次の年には播磨守を兼任と、みるみるうちに宮中で頭角をあらわしていきます。そして十年後には押しも押されぬ「権中納言」にまで昇り詰めていったのです。
    まさに彼は、「女を妻にしても足るだけの男」になっていきました。

    けれど仕事で出世するということは、それだけ人の何倍もの仕事をこなすということです。
    あまりにも仕事に打ち込みすぎた藤原敦忠は、その翌年、過労のために、わずか三十七年の生涯を閉じてしまいます。

    作者名に、あえて「権中納言敦忠」と職名を付したのは、この歌は単に愛の讃歌というだけでなく、
    その背景として、
     つらい別れを経験した男が、
     そこから立ち上がり、
     世の中におおいに貢献し、
     出世し、
     愛した女性と釣り合うだけの男に成長して、
     死んでいった
    という、そこに男のドラマがあったのです。

    この解説を聞いた友人が、次のようなことを話してくれました。
    「もしかしたら敦忠は、
     たとえ噂でも自分の近況を伝えるために
     頑張ったのかもしれませんね。
     雅子内親王が伊勢神宮の斎王となれば、
     もう噂でしか近況を届ける手段はなくなります。
     半端な噂では斎王まで届きませんから、
     かなり頑張らなアカンかったのでしょうなあ・・・」

    四十三歌は、純粋に恋の歌です。
    けれど藤原定家がこの歌を百人一首に入れたのは、
    「男なら、そうやって成長せよ」
    そんなメッセージを伝えたかったからなのかもしれません。

    最近の百人一首の解説本では、この歌をただ「愛の讃歌」として紹介しているものが多いようです。
    でもそれだけの鑑賞では、この歌があまりにもったいない。
    そこに男の人生を感じ、それをこの、わずか三十一文字の中で感じ取る。
    これこそが日本和歌の文化であり、その意味でこの歌は、日本の和歌文化をある意味、代表する歌だともいえるのです。

    「愛」とは、もともとの大和言葉では「おもひ」です。
    昔の人は「おもうこと」に、この「愛」という漢字をあてました。
    親が子をおもうこと、夫が妻をおもうこと、妻が夫をおもうこと、恋人のことをおもうこと。
    それが愛です。

    以前、蝶の話を聞いたことがあります。
    アゲハチョウの幼虫を捕まえようとしたら、おそらく母親なのでしょう。
    蝶が、幼虫を取ろうとした人に、しきりにまとわりついて、それを阻止しようとしたのだそうです。
    昆虫でさえ、愛する我が子を守ろうとします。
    動物だって我が子を守るためには、敵わぬ相手でも、必死でこれをしりぞけようとするのです。

    まして私たちは人間です。
    自分より誰かのことを大切におもうことができる。
    そして、それこそが、日本人にとっての「愛(おもひ)」です。

    女性の愛は、全身全霊です。
    子を産み育てる女性は、全身全霊で子を愛するのと同様、男性をも全身全霊で愛します。

    男の愛は、責任です。
    男は妻子を守り、家を守り、社会や国を守るものだからです。
    その責任を自覚して生きるのが、日本人にとっての大人の男です。

    権中納言敦忠は、本気で人を好きになれる男でした。
    本気で好きな女性を愛せる男だったからこそ、本気で仕事もできたし、本気で出世もできたのです。

    もっというなら、人より自分のカネや虚栄や贅沢を愛するような自己中な男には、愛がないということです。
    あるのは自己愛だけ。
    これを虚栄と言います。

    おもしろいことに虚栄を愛する男は、その特徴としてやたらとゴージャスに身を飾ろうとします。
    これは女性のおしゃれとは、わけが違います。
    そういう男は、手にしたモノや地位や財産が、自分の価値だと思い込んでいるのです。

    違うと思います。
    「歩のない将棋は負け将棋」です。
    「ボロは着てても心の錦」
    「男は黙って責任を果たす」

    それが日本男子です。
    自分も、そういう男になれるよう、精進したいと思っています。


    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE
    日本の心をつたえる会チャンネル
    むすび大学チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。

    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第94回倭塾 9/10(土)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F
    第95回倭塾 10/23(日)13:30~16:30 富岡八幡宮・婚儀殿2F


                        

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567
○受付時間 
9:00~12:00
15:00~19:00
定休日  木曜日

スポンサードリンク

カレンダー

08 | 2022/09 | 10
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさん(小名木善行)著書

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク