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昨今、メディアや学会において、半島式のファンタジー史観でものごとを見ようとする人が増えています。半島は上下関係だけの「古代」が現代まで続いている国です。上に立ちさえすれば、どのような不正も許され、人を支配して自分の贅沢を得ることができるというのが、彼らの考え方だし、歴史認識における基礎思考です。 しかし我が国は、半島とは国の成り立ちも違うし、歴史の古さも圧倒的に異なります。おかしな曲解は厳に慎むべきです。なぜならそれは、我が国における天皇の御存在の重さを軽視して、西欧や東亜の王朝と同一視するものでしかないからです。 王朝なら改廃や易姓革命が有りえます。 我が国天皇は、どこまでも万世一系の国家最高権威です。 ここを履き違えてはいけません。
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明治天皇御陵

画像出所=https://kyoto-tabiya.com/blog_rakunan/%E6%A1%83%E5%B1%B1%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%B5/
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 「明治天皇替え玉説」と「孝明天皇殺害説」というものがあります。
それらは、日本の歴史や伝統を理解しない、とんでも説であると断じさせていただきたいと思います。
替え玉論者たちが論拠にしていることは、
「明治天皇は開国に踏み切ったけれど、
父の孝明天皇は攘夷派だった。
父が攘夷派なのに
子の明治天皇が開国したのはおかしい。
だから明治天皇は替え玉だ」
というものです。
もちろん真実はわかりません。
私はその時代の当事者ではないし、この件の関係者でもないし、その時代に生きていたわけでもありません。
ですから事実はわかりません。
ただし歴史というのは、過去に起きた出来事を、時系列で再現性をもって記述することをいいます。
そして「再現性の有無こそが、歴史が論理的整合性を持った科学か、ただの都市伝説かの境目」です。
事実に基づく再現性を持たないものは、歴史の名に値しません。
その意味で、「孝明天皇は攘夷派だったから開国を目指す薩長によって殺害された」という説は、論理的整合性を持ちません。
なぜなら我が国において、天皇は政治権力者ではないからです。
朝廷の意思は、あくまでそのときの朝廷の高官たちの意思がどちらに傾いていたのか、というものでしかなく、その意思は時によって攘夷に傾いたり、開国に傾いたりしています。
このことは、幕府も同じで、幕府も揺れいましたし、急進派とされる長州藩も、内部では大揺れに揺れていました。
この時代は、それほどまでに意見が分かれて揺れていた時代であったのです。
孝明天皇は、そうした政治判断を行う国政機能よりも上位にある国家最高権威です。
もちろん人ですから、個人の意見というものはあったでしょうけれど、天皇が個人的意見を言いだして政治に口を挟むようになったら、我が国の国体が崩壊します。
従って、開国派が孝明天皇を殺害する理由は、実は、まったくないのです。
つまり孝明天皇殺害説は、我が国の国体の精華をまったく理解せずに、我が国の天皇の御存在を、西欧やチャイナやコリアの王や皇帝と同じ国家最高の権力者と履き違えたところに存在する暴論でしかないのです。
このことは、明治天皇替え玉説も同じです。
替え玉説の論拠は、
(1) 孝明天皇が攘夷派だったのに、子の明治天皇が開国派なのはおかしい
(2) 明治天皇の皇太子時代の御尊影と明治天皇の御尊影の写真の顔が異なる。
(3) 明治天皇の顔立ちは長州藩田布施出身の大室寅之祐(おおむろとらのすけ)の顔立ちと似ている。
という3点に集約されます。
しかし我が国における天皇の御存在の意義を知れば、孝明天皇殺害説と同様に(1)は否定されるし、(2)、(3)もただの主観でしかなく、再現性のある歴史としては認識されません。
>孝明天皇の時代に、幕府が独自の判断で米英仏などと安政五カ国条約(安政5年)を結んだことに対し、孝明天皇から水戸藩はじめ御三家、御三卿などに対して「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を下しているから、孝明天皇は攘夷派であったのだと言う方がおいでになりますが、天皇は国家最高権威であって、政治に関与することはありません。
なぜなら天皇は国家最高の権威だからです。
開国か攘夷かという議論は、政治上の意思決定です。
つまりそれは、天皇の下にある政治上の意思決定権者が行うことです。
天皇は、その意思決定権者らが決定したことを承認するだけです。
幕末当時の国内世論は、開国か攘夷かで、真っ二つに割れていました。
朝廷内にあっても、それは同じです。
ですからその時々で、開国派が朝廷の要職にあれば、朝廷の意向は開国になるし、反対なら攘夷になります。
それだけのことです。
これは当然のことです。
なぜなら「決める」ということには、必ず責任が伴なうからです。
そして政治上の意思決定は、そこに必ず利害得喪が生じます。
早い話、病院を築けば多くの苦しむ人を救うことができますが、一方で病院用地のために土地を失う人も出るわけです。
民を「おほみたから」とするお立場の天皇が、毎回そうした政治責任を負うのであっては、天皇の御存在そのものが失われかねません。
ですからこれを防ぐために、はるか上古の昔の神話の時代に考え出された仕組みが、国家最高権威と国家最高権力を分けるという、我が国の統治の根幹です。
これを古い言葉で治(し)らす(知らす)といいます。
孝明天皇による「戊午の密勅」なるものも、それが出た時点で、これは朝廷内で攘夷派の高官たちの勢力が増したというだけの意味であって、それが天皇のご意向であるとは、当時の人たちに(すくなくとも大名クラスの、藩政を取り仕切る責任ある人たちの間では)理解されていません。つまり相手にされていません。
ですからこの「戊午の密勅」は、各藩に回送されていますけれど、これに応じて兵を出す藩はどこにもいなかったし、急進派とされる薩摩や長州藩でも、まったく相手にしなかったのです。
もしこれが本当に孝明天皇の勅令であったとするならば、全国の諸藩は、出兵どころかすぐにでも京の都に兵を繰り出して禁裏の御用を勤めなければならないし、実際にそれを行っていたことでしょう。
要するに、それが行われなかったということは、朝廷内の急進派の貴族たちの意向など、誰も相手にしていなかったということです。
また幕府の大老の井伊直弼にしても、「戊午の密勅」が朝廷の一部の貴族たちの暴走であると知っているからこそ、安政の大獄を実施したり、水戸の徳川斉昭を謹慎させたりしているのです。
朝廷の中には、律令体制時代から続く政庁としての政治権力機構があります。
ですから、そこにある政治家としての貴族たちの中には、攘夷派もあれば開国派もありました。
そして朝廷内で、攘夷派の力が強くなれば、朝廷の意向は攘夷になるし、開国派の意向が強くなれば朝廷の意向は開国に傾きます。
幕末というのは、幕府も朝廷も、日本全国の大名たちも、開国か攘夷かに揺れた時代です。
朝廷の中の強硬な攘夷派の貴族たちが、孝明天皇の名のもとに「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」が出されると、その一方で、開国派の人たちは、間をとって幕府と朝廷と一体となって国難を乗り切ろうと、公武合体を進める。
だから皇女である和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)が徳川家茂(第14代将軍)のもとに嫁ぐということも行われたのです。
ちなみにこの皇女和宮様の江戸下向に際しては、なんと中山道を3万人で行列しています。
さらに御輿の警護に12の藩、沿道の警備に29の藩が動員されています。
これが朝廷の持つ歴史と伝統の力です。
ただし、政治上の実権は、あくまで将軍家が担い、そこに朝廷の入り込むすきはありません。
すきがないということは、天皇は、あくまでも国家最高の権威であるということです。
そうであるならば、開国か攘夷かという政治上の意思決定に際しても、天皇の替え玉など、まったく必要がありません。
こうしたことは、我が国の神話に基づきます。
古事記でも日本書紀でも、天照大御神と天の石戸の神話に書かれています。
須佐之男(スサノヲ)が高天原にやってきたときに、天照大御神が須佐之男命と直接対決され、結果、天照大御神は、責任をとって天の石屋戸にお隠れになります。
ところが天照大御神は、太陽です。
隠れてしまって困るのはみんなです。
そのことを古事記は、「高天原だけでなく、中つ国もみな闇に閉ざされた」と描写しています。
そこで八百万の神々が立ち上がるのです。
そして政治責任を伴う政治的意思決定については、八百万の神々が自分たちで責任をもってこれにあたることにした・・・これが我が国初の国会であり、かつ、天皇が政治的意思決定者ではなく、政治上の意思決定は政府の高官たちが責任をもって行うことの事始めです。
神話に基づくというのが不服なら、こうしたことを意図して書にしたためた、天智天皇から持統天皇に続く飛鳥時代にも、その確立をみることができます。
天智天皇の時代に公地公民が行われ、天武天皇の時代に史書の編纂が命ぜられています。
これらを主導されたのが、天智天皇の娘であり、天武天皇の正妻でもあった持統天皇です。
持統天皇は、それまで皇位継承者をめぐり、様々な思惑がからみ、優秀だとされた大友皇子や大津皇子が不遇のうちに処刑されるという事態がありました。
同じことが三度繰り返されてはならない。
だから持統天皇は強い意思を以て、皇位継承者は霊統に従って初めから定められた者がなることとされ、さらに天皇は神々と繋がる祭祀を行うお役目、政治的意思決定は、政治の組織が行うと定められました。
そしてこれ以降、歴代天皇は、政治的な意思決定を行わず、どうしてもその必要があるときは、天皇位をご譲位されて、太上天皇となってこれを行うとされたのです。
我が国における太上天皇(上皇)の、最初のひとりが、まさに持統天皇です。
「そんなことはない。昭和天皇は終戦の御聖断を下されたではないか」という方もおいでになるかもしれません。
これもまた間違いです。
そうではなくて、だから「御聖断」なのです。
終戦を決めるとき、政府の見解は二分して、まったく意思決定ができない情況となりました。
だから時の鈴木貫太郎内閣は陛下に御聖断を求めたのです。
このことが戦後、明確に語られないのは、それが国家の非常大権を意味するからです。
国の交戦権は、実は憲法を越えます。
「人を殺してはならない」は法ですが、襲撃されて防御するのは正当防衛です。
これと同じで国家の非常時に実力を行使することは、法や憲法の枠組みを越えた国家非常大権です。
早い話、米国は、度々戦争を行っている国ですが、合衆国憲法に、「このような場合に戦争を行う」あるいは「このような場合には戦争を行ってはならない」などの条文はありません。
ないのになぜ戦争ができるかといえば、それは国家非常大権が大統領にあるからです。
我が国の終戦の御聖断は、この裏返しで、原爆使用によって、すでに日米戦争は国家間のいわば良識を持った戦争が、国際法をも無視した場外乱闘の様相を呈したことに憂慮された天皇が、揺れる政権の求めに応じて御聖断を下されたというものです。
非常時だから、天皇の非常大権が行使されたのです。
もし平時に陛下が御聖断を下されれば、その時点で反対派は粛清の対象になります。
それほどまでに御聖断というのは重いものなのです。
お隣のChinaでは、国家のトップは皇帝です。
半島なら、国王です。
そして皇帝や国王は、すべての政治権力と国家の最高権威を独占します。
西洋においても、国王は王権神授です。
王権は神から与えられたものだから、神の代理人として、その国の一切のオーナー(所有者)となります。
このことは大統領制でも同じです。
大統領は国のオーナーであり、国の所有者です。
ですからその国のすべてのオーナーです。
大統領を意味する「President」は、ラテン語の「pre(みんなの前に)sid(座る)人」が語源です。
要するにトップの椅子に座る人がプレジデントで、その人がすべての人のオーナーとなります。
これに対し日本の天皇は、政治権力を持ちません。
その意味で、天皇は英語のエンペラー(Emperor)ではありません。
エンペラー(Emperor)の語源は、最高の命令権を持つ者というのが語源だからです。
つまり王よりも上位にある最高司令官、王の中の大王がEmperorです。
その意味では、チャイナの歴代皇帝などは、まさにエンペラーです。
しかし、我が国の天皇をエンペラーと呼ぶのは間違いです。
なぜなら天皇に命令権はないからです。
その意味では、仮にもし英語に訳すなら教皇や法王を意味する「The Papa(ザ・パパ)」に近いかもしれません。
「Papa(パパ)」というのは、父のことで、これに「The」が付くことで、すべての人の父を意味します。
ヨーロッパでは、教皇は各国の国王の下に置かれましたが、我が国では、国王の上にあって、国王の任命権を持つ人という位置づけになります。
権力による支配は、日本の古い言葉で「ウシハク」と言いますが、我が国は、その「ウシハク」を「シラス」の中に内包させたという点が、諸外国の歴史との大きな違いです。
諸外国では、「ウシハク」の中に「シラス」があります。
我が国では、「シラス」の中に「ウシハク」があります。
この違いは、民衆が権力者の「動産」とされるのか、それとも国家最高権威の「おほみたから」とされるかという点において、天地ほどの違いとなります。
個人的な意見としては、欧州における王朝の最大の誤りは、国王がローマ法王によって王冠を授けられていながら、その地位をローマ法王よりも上だというようにしたことにあると思っています。
もしヨーロッパの王朝の国王が、あくまでもローマ法王の下僕という形を尊重し、かつ王国の民がすべて神の民であり、その神を代理するローマ法王の子であると規程したならば、おそらくヨーロッパの歴史は大きく違った方向に向かったのではないかと思う。
ただ、ヨーロッパの特に中世は、とにもかくにも暴力が支配した力の世界でしたから、こうした哲学による国家の生成が成立せず、結果として現代にいたるまで、国は力の象徴であるかのようにされていることは、(ヨーロッパの人々にとって)たいへんに残念なことであったといえるのではないかと思います。(あくまで個人的見解です。)
我が国は、持統天皇の御世(7世紀の終わり頃)以来ずっと、我が国では、天皇は意思決定に関わらない、意思決定を行うのは、天皇によって親任された政治責任者の役割とされてきたのが日本です。
幕末における開国か攘夷かという二択は、国家の命運を担うたいへん重く大きな政治問題ですが、この時代、朝廷の内部でも、開国派と攘夷派が、政治責任者として度々入れ替わっています。
それは孝明天皇の御意思とは何の関わりもありません。
このことは明治天皇におかれても同じです。
つまり政治のために「孝明天皇を殺害」する必要もなければ、「明治天皇を替え玉」にする必要もないのです。
とりわけ幕末は、いまよりも、ずっと尊皇思想が強かった時代です。
むしろ尊王こそが常識化していた時代です。
ですから、幕末の動乱について「尊皇攘夷派」と「開国佐幕派」の争いという視点で描くのは間違いです。
なぜなら、幕府も全国の諸大名も民衆も、すべて「尊皇」であることに変わりがないからです。
ですから「攘夷派vs開国派」は成り立ちますが、「尊皇派vs佐幕派」という関係式は成り立ちません。
あえていえば「尊皇攘夷派vs尊皇佐幕派」の戦いが戊辰戦争であったわけで、これを「尊皇か佐幕」という視点で見るのは、人心を惑わす曲学と断じざるを得ません。
そうした時代背景にあって、尊王そのものを否定する「替え玉」説などは、そもそも成り立ちようがないし、その必要もないのです。
必要のないことをする理由がありません。
そのようなことをすれば、した人がかえって政治的に立場を悪くするだけです。
要するに「孝明天皇殺害説」や「明治天皇替え玉説」などを述べる人は、申し訳ないけれど、我が国の天皇の存在を、チャイナの皇帝や西洋の王様と同じ、国家最高権力者としての存在の延長線上に捉えています。
それはつまり、我が国天皇についての勉強不足、我が国国体や神語についての勉強不足であり、我が国の天皇の御存在のありがたさを見失った、歴史学の観点からは「とんでもない説」でしかありません。
なぜなら、開国か攘夷かという選択と意思決定は、あくまで国権の発露だからです。
そして国権を揮(ふる)うのは天皇のお役割ではなく、あくまで政治権力です。
天皇は、その国家権力の、はるか上位に位置する国家最高権威であって、その権威は一切の国家権力を行使しないことによって保たれているのです。
江戸時代であれば、国権の頂点にあったのは、機能的にも実質的にも徳川将軍家です。
しかし将軍は、天皇によって親任(天皇が任命すること)される、天皇の部下です。
このことは、それ以前の時代の太政大臣や左大臣、右大臣も同じです。
そしてひとたび天皇が親任すると、それは神によって任命されたことと同じ意味合いを持ちますから、一切の変更ができません。
つまり、解任することができません。
では、太政大臣や将軍の解任は、いつ行われるのかといえば、それは次の天皇が御即位されたときです。
新たな天皇が、次の将軍や太政大臣を親任するのです。
それまで解任はありません。
つまり天皇の親任に朝令暮改はありません。
天皇は、いわば国家最高の大神官であって、神にもっとも近いお立場です。
その天皇が親任するということは、神によって親任されたと同じ意味合いを持つのですから、人による解任などありえないわけです。
ですから太政大臣や将軍は、自分から辞任するか、逝去するかでなければ、生涯、天皇によって解任されることはありません。
その将軍であった徳川慶喜が大政奉還したのが、慶応3年10月14日です。
孝明天皇が崩御されたのが、慶応2年12月25日です。
明治天皇の御即位が慶応3年1月9日です。
つまり慶喜将軍が大政奉還したのは、孝明天皇が崩御され、明治天皇がご即位された、はるか後の出来事なのですから、まず、倒幕派にとって孝明天皇が不都合な存在であったということになりません。
昨今、昨今、メディアや学会において、半島式のファンタジー史観でものごとを見ようとする人が増えています。
半島は上下関係だけの「古代」が現代まで続いている国です。
上に立ちさえすれば、どのような不正も許され、人を支配して自分の贅沢を得ることができるというのが、彼らの考え方だし、歴史認識における基礎思考です。
しかし我が国は、半島とは国の成り立ちも違うし、歴史の古さも圧倒的に異なります。
おかしな曲解は厳に慎むべきです。
そもそもファンタジーは都市伝説と同じで、科学的論理性を、再現性を持ちません。
なぜならそれは、我が国における天皇の御存在の重さを軽視して、西欧や東亜の王朝と同一視するものでしかないからです。
王朝なら改廃や易姓革命が有りえます。
我が国天皇は、どこまでも万世一系の国家最高権威です。
ここを履き違えてはいけません。
※この記事は2017年9月の記事のリニューアルです。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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