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どんなに苦しくても、笑顔でがんばる。ただしい道を行く。 途中に、どんなに辛い艱難辛苦が待ち受けていても、くじけずに生きる。 そこに日本人の生き方があるということを、黒沢登幾から学んでみたいと思います。
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!! 黒沢登幾(くろさわとき)という女性がいます。
日本で最初に小学校の教師になった女性であり、また、高い志(こころざし)で、時代を動かした女性でもあります。
「日本で最初に小学校の教師になった女性」という表現には、すこし注釈が必要かもしれません。
明治に入ってから学制がひかれ、全国統一的な小中学校ができたのですが、実はその前の日本には、こうした全国統一的な学校制度はありませんでした。
子供達の教育は寺子屋が担ったのですが、この寺子屋のおかげで江戸時代の日本人の識字率が9割近くもあったということは、みなさまご存知の通りです。
もっというと、江戸時代の人たちは、草書体や行書体で書かれた筆字で、「読み」かつ「書く」ことができたのです。
いまの私たちは、活字ばかり使用しています。
筆で書かれた書となると、私もですが、実際のところいまでは読めない人が多いです。
ということは江戸時代のレベルで言ったら、現代日本人の識字率は、果たして何%くらいになるのでしょうか。
この寺子屋ですが、寺子屋の先生は「お師匠さん」と呼ばれました。
生徒は「寺子(てらこ)」です。
お師匠さんは、だいたい6割が男性、4割が女性でした。
意外と女性のお師匠さんが多かったのです。
ですから、そういう意味では、明治に入ってからの学制に基づく小学校教師でも、黒沢登幾に限らずもっとたくさんの女性教師がいてもいいように思うのですが、明治初期の一時期は、教師には、男性を多く登用しました。
これには理由があって、武士が失業して仕事にあぶれたたため、雇用創出という意味で、男性教師を積極採用したことによります。
つまり明治政府は、一家の大黒柱とならなければならない人に、まず仕事を与えようとしたわけです。
ですからこれは男尊女卑などという思想的理由とはまったく異なります。
あくまで経済的社会的な合理性のうえから、そのようにしただけのことです。
尚、学制の布告文には、教師に男女の区別はないとしています。
現に、公的な学校以外の私塾では、昭和初期まで女性が塾長を勤める私塾はたくさんありますし、いぜんご紹介しましたが、頭山満翁を生んだ通称「にんじん畑塾」は、まるで女侠客のような女性が塾長を勤めていました。
さて、黒沢登幾に話をもどします。
黒沢登幾は、文化3(1807)年12月21日に、常陸国東茨城郡錫高野村、いまでいう茨城県東茨城郡城里町で生まれました。父は、将吉、母は総子で、登幾は長女です。
黒沢家は、もともと藤原一族の末裔で、一時は大名であったこともある家柄だったそうです。
江戸時代を通じて代々、修験道場と子供たち向けの寺子屋を営んで生計を立てていました。
いわば教育家庭で育った登幾は、幼いころから学問好きで、たいへんに成績もよかったそうです。
頭が良くて男勝り(おとこまさり)の登幾は、19歳でお嫁に行き、20歳のときに長女久子、23歳で次女照子を生むのですが、登幾が24歳のときに、旦那がポックリと逝ってしまいます。
登幾は翌年、秋の収穫を終えたところで、二人の子を連れて実家に帰っています。
ところがその実家で、登幾の実家の父と祖父が、相次いで他界してしまいます。
登幾は、実家の修験道士を育てる私塾と、寺子屋のあとを引き継ぎました。
ところが、大人相手の修験道道場は、さすがに24歳の若い娘さんが師匠ということでは、なかなか、そのふさわしさというか、貫禄がありません。
子供向けの寺子屋の方も、まだ2歳にも満たない幼い二人の子の面倒をみながらの教師です。
現実の問題として、授業がうまくまわりません。
そんなことから、結局登幾は修験道場も寺子屋も閉鎖せざるを得なり、やむなく行商をはじめています。
江戸で、くしや、かんざしなどを仕入れ、これを行商して歩くのです。
記録によると、この時代、登幾は、なんと群馬県草津の湯元温泉方面まで、重たい荷物を抱えて行商に出向いていたとあります。
幕末から明治のはじめ頃のことです。
もちろん、自動車も宅配もありませんから、荷物は全部背中に担いで歩くわけです。
特に女性の場合、男性のように荷物を背負って着物の裾をまくり、足を出して歩くというわけにいきません。
さぞかし大変であったろうと思います。
けれど、行商のおばさんでありながらも、知的で明るい登幾は、行く先々でお客さんにめぐまれ、結局登幾は、この行商の仕事を、なんと20年以上も続けながら、子供たちを育て、母親を養っています。
たいへん高い教養をもった女性が、20年以上も行商をしていたのです。
嘉永6(1853)年、ペリー率いる黒船がやってきました。
日本はその翌年、日米和親条約を締結しています。
さらに大老・井伊直弼が、安政5(1858)年に、天皇の勅許を得ずに、日米修好通商条約を締結しました。
これを知った水戸藩主の徳川斉昭は激怒し、江戸城に緊急登城しました。
この緊急登城と、将軍への緊急の面会要求のことを「不時登城」といいます。
あってはならないことです。
この「不時登城」で、徳川斉昭は、将軍の面前で、大老、井伊直弼を激しく面罵するのですが、井伊直弼は、かわりに徳川斉昭を「不時登城」の罪に問い、なんと「重謹慎」処分を科してしまいます。
徳川斉昭は、仮にも徳川御3家の一角です。
方や井伊直弼は、大老職にあるとはいえ、彦根藩主です。
水戸藩の若手武士たちは、大挙して江戸城に押しかけ、「奸族斬るべし!」と、井伊直弼の命を奪おうとしました。
これに対して、井伊直弼が行ったのが、勤皇派そのものを一網打尽にする「安政の大獄」です。
このころ、登幾は茨城郡錫高野村にいました。
そこは、れっきとした水戸藩です。
この年、54歳になっていた登幾は、なんとかして斉昭公の謹慎解除を求め、日本国の安泰を図らなければならないと真剣に悩み、女ならばこそできる何か方法があるはずだ、と思考をこらしました。
そして彼女は、なんと孝明天皇に、斉昭公の謹慎解除を直訴しようと思い立つのです。
これは、捕まれば死罪です。たいへんな行為です。
それでも、登幾は、やると決めました。
彼女は、単身、京に向かいました。
登幾は、決して楽な生活をしていたわけではありません。
食うのがやっとの行商暮らしです。
蓄えがあるわけでもありません。
それでも彼女を動かしたもの、それは日本を守りたい、そのために斉昭公をお守りしたいという熱情です。
京に着いた彼女は、なんとかして公家のつてを探し求め、孝明天皇に宛てて、一首の和歌を献上することに成功します。その和歌です。
よろつ代を 照らす光の ます鏡
さやかにうつす しづが真心
水戸からわざわざひとりの女性が訪ねてきて、現代の世相を真心という鏡に映しています、という歌です。
「しづが真心」は、敵将の前で舞った静御前の「しづ」の真心と、下賤の身の女性という意味での「賤(しず)」をひっかけています。
「ます鏡」も、義経と静御前の吉野のお山の別れからきています。
つまり「写っている光」は、誰か男性のことを言っていることは間違いありません。
そして登幾は、わざわざ茨城から京まで出てきているのです。
時勢からみてそれは斉昭公のことでしょう。
その斉昭公の「光」を、民衆の真心が求めているという歌です。
歌に込められた登幾のメッセージは明快です。
しかもたいへんに含蓄に富んだ素晴らしい歌です。
この歌はあっという間に公家や孝明天皇に知れ渡りました。
けれど、お上に対する直訴は御法度です。
その直訴を、なんと女性が、あろうことか天子様に対して行ったのです。
ただ、見方を変えれば、ただ歌を献上しただけともとれます。
万葉の時代から、庶民の歌を天子様が愛でる、そういう習慣は日本に確かに存在します。
歌は、直訴か文芸か。
直訴とすれば、磷付(はりつけ)獄門晒し首です。
歌なら、ただの献上歌です。
けれど、あまりにも政治的メッセージが濃厚です。
こ
の微妙さがある意味、たいへん高く評価され、なんと登幾のメッセージは、たしかに孝明天皇にまで届けられてしまうのです。
登幾の行動は、幕府の目付役たちにも知れ渡たりました。
世はまさに安政の大獄の真っただ中です。
登幾は、幕府の役人によって大阪で捕えられました。
そして厳しい尋問を受けました。
斉昭謹慎解除の登幾の訴えが、登幾の単独行動ではなくて、斉昭公夫人の登美の宮の密使としての行動ではなかったかと疑われたのです。
尋問は凄惨を極めました。
石抱きといって、まな板のようなデコボコした台の上に正座で座らされ、重たい石を膝に乗せられるといった、拷問まで受けたようです。
けれど、登幾は白状しない。
白状できるはずありません。
登美の宮と登幾は、そもそも何の面識もないのです。
行動はあくまでも登幾の単独行動です。
登幾は大阪でまる2か月取り調べを受けたのち、江戸に送られ、さらに厳しい尋問を受けることになりました。
登幾は、重罪政治犯として、籐丸篭(とうまるかご:罪人を護送するための専用カゴ)に乗せられ、江戸まで護送されました。
途中の宿場町でも街道でも、女性の重罪人をひとめ見ようと、大勢の見物者が詰め掛けました。
ここもすこし解説が必要です。
江戸時代というのは、ものすごく犯罪の少ない時代でした。
幕末になって、浪士たちによる血なまぐさい事件が頻発するようになりましたが、それまで、たとえば将軍吉宗がいた享保年間など、20年に、伝馬町の牢屋に入れられた人自体がゼロです。
なぜここまで犯罪がすくなかったかといえば、江戸時代の日本人の徳性が高かったからで、この犯罪発生割合と民度徳性には、高い相関関係があります。
昨今の日本では、犯罪はあってあたりまえというくらい多発していますが、では日本人の民度や徳性がそれだけ下がったのかというと、東日本大震災に明らかなように、実は日本人そのものの徳性は、さほど下がっていません。
にもかかわらず、これだけ犯罪が多発しているのは、要するに民度、徳性ともに極端に低い人たちが、日本人になりすまして、好き放題犯罪をしでかしているからといわれています。
私たちは、この現実をしっかりと見据えなければならないと思います。
さて、黒沢登幾の籐丸篭での江戸護送は、そういう意味で、そもそも街道筋の人たちは、籐丸篭自体、見たことがないものです。
まして女性の犯罪者なんて、前代未聞、驚天動地の大見せ物、というわけで、見物の野次馬は、まさに押せや押せやの大盛況だったそうです。
江戸に着いた登幾は、伝馬町の獄舎に入れられました。
先客がたくさんいます。
そのなかのひとりが吉田松陰です。
河合継之助もいます。
江戸でも登幾に対して厳しい取り調べがなされました。
このお取り調べは、多分に政治的なもので、事実があろうがなかろうが、基本、打ち首または切腹のお沙汰を前提としたものです。
ところが登幾は、いわゆる攘夷の志士ではありません。
歌を詠んだだけです。
これは幕府としても罰しにくい。
幕府はついに、登幾の言葉を容れ、判決を言い渡します。
判決内容は、江戸日本橋から5里4方と、常陸国(水戸藩)への立ち入り禁止、というものでした。
つまり登幾は、江戸にも自分の家にも行けないし、帰れなくなったのです。
江戸でかんざしを仕入れて行商して生計を得ていたのです。
これでは、生計そのものがなりたたない。
ひらたくいえば、死ねと宣告されたようなものです。
やむなく登幾は、栃木県茂木町に仮住まいをするのですが、ほどなくて万延元(1860)年3月3日、井伊直弼大老が江戸城桜田門の外で、水戸浪士の襲撃を受けて亡くなります。
桜田門は、いま警視庁が建っているあたりです。
これで幕府内に政権交替が起こり、登幾は無罪放免となり、この年の11月、晴れて錫高野村の実家に帰っています。
こうなると水戸藩では、単身、ミカドに直訴に及んだ登幾は、英雄です。
女だからといって、そのままにしておくのはもったいないと、なんと登幾に、家業の寺子屋の再興話がもちかけられる。
そして父の代には、15~6人だった門人(生徒)が、登幾が再興した寺子屋では、なんと生徒数が80名を超す大人気となりました。
その登幾のもとに、錫高野村(すずたかのむら)の村長さんから、小学校の教師をしてくれないかともちかけられたのが、明治5(1872)年のことです。
この年、明治新政府から新たな「学制」が発表され、全国に小学校が置かれることになったのです。
この明治5年の「学制」は、「小学教員ハ男女ヲ論セス」です。
つまり女性でも、教員になれるとしてあります。
男女同権なんて、言葉さえもなかった時代ですが、明治初期においても、我が国では、教職に男女の別を設けていなかったのです。
これは、世界でもめずらしいことだろうと思います。
錫高野村は、登幾の寺子屋を、そのまま小学校とすると決めます。
登幾の自宅の寺子屋が、江戸270年を経て、明治6(1873)年5月、正式に村立小学校となったのです。
このとき登幾は68歳でした。
その年齢で、彼女は「日本初の小学校女性教師」となったのです。
登幾は、この学校で漢学を担当しました。
そして一年間、ここで教職を勤めたあと、翌年、近くに小学校舎が新築されたのを機会に、高齢を理由に、学校教師を辞任しました。
ところが・・・ここがおもしろいところです。
登幾は辞任したはずなのに、教えを請う生徒があとをたたないのです。
このため、一時は、公式な小学校よりも、登幾のいる私塾の方が、生徒数が多いなんていう事態まで起きています。
結局、登幾は、明治23(1890)年、85歳の高齢で亡くなるまで、自宅の私塾で、青少年に教鞭をとり続けました。
さて、登幾が歌を献上した孝明天皇は、明治天皇の父親です。混乱の時代の中にあって、父に素晴らしい歌を献上した黒沢登幾に、明治天皇は、毎年十石のお米を授けてくださいました。陛下は、ちゃんと見ておいでだったのです。
さて、未成年の頃の登幾は、家運もよく、頭もよく、学問もよくできる素晴らしい才女でした。
しかし大人になった登幾を待っていたのは、夫に先立たれ、女手一つで二人の子を育てるというたいへんな苦労でした。
そしてさらには、登幾から教育者としての地位も奪い、20年の長きにわたって、過剰な肉体労働を強い、体力を使い果たさせ、貧乏な暮らしの中で、餓えに苦しませ、その身を極貧暮らしにまで追い落すというものでした。
そして、意を決した京都行きでは、登幾の身柄は拘束され、拷問を受けたのみならず、籐丸篭で護送され、ようやく放免されても、家に帰らせてもらえない。老いた母の顔も見れない、娘たちにも会えないという暮らしでした。
ところが、実に不思議なものです。
天は、最後には、登幾に、本来の教育者としての地位を与え、しかも天子様(天皇陛下)から、直接御米をいただけるという処遇を受けるようにしています。
なぜでしょうか。
孟子の言葉に、「天の将に大任を是の人に降さんとするや」というものがあります。
天の将に大任を是の人に降さんとするや
必ず先づその心志(しんし)を苦しめ
その筋骨を労し
その体膚(たいひ)を餓やし
その身を空乏し
行ひその為すところに払乱せしむ。
というのです。
なぜそんなことを天がするかといえば、それは、大任を得た人が、
心を動かし、性を忍び
その能はざる所を曾益せしむる所以なり
と書かれています。
要するに、黒沢登幾は20年という長きにわたり、天から薫陶を受け続けたわけです。
そしれそれだけの長い期間、行商人に身をやつしながらも、登幾は本来の教育者としての自覚と誇りと矜持を保ち続けたわけです。
そして最後に天は、登幾に、我が国初の女性小学校教師という役割を、与えました。
見えない世界のことは、私にもよくわかりません。
ただ、ひとついえることは、天はその人に、「絶対無理!乗り越えられない!」としか思えないような厳しい試練を与えるということです。
いまの日本には、悩んだり、苦しんだりしている人はたくさんおいでだと思います。
黒沢登幾も、極限まで追いつめられた人でした。
けれど、あきらめない。くじけない。
スーパーマンや、バットマンなど、アメリカン・ヒーローは、はじめから全てを持っています。
三国志の関羽や張飛ははじめから強く、あるいは諸葛孔明は最初から天才です。
けれど日本のヒーローは、オオクニヌシにせよ、スサノオにせよ、アマテラスにせよ、神様自体が、最初は不完全で、いじめを受けたりしながら、様々な試練を経て、成長していきます。
牛若丸だって、カラス天狗に訓練を受けて、そこではじめて強くなっています。
どんなに苦しくても、笑顔でがんばる。ただしい道を行く。
途中に、どんなに辛い艱難辛苦が待ち受けていても、くじけずに生きる。
そこに日本人の生き方があるように思います。
※このお話は、
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!』和と結いの心と対等意識に掲載したものです。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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