• 人の名誉を大切にする


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    人は人の噂が大好きな生き物ですから、あれこれ言われることはあるでしょう。
    しかし肉体は魂の乗り物です。
    魂を成長させるには、そうした批判する他人からも、学ぶべきものがあれば、そこから学ばせていただく。
    そうすることで人も魂も成長できるということを、修身の教科書は教えてくれているのだと思います。
    もっと言うなら、それがわからない人は、たとえ実年齢が壮老の歳にあったとしても、小学4年生以下だということです。


    20181014 伊藤東涯
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    いまでいう小学校4年生向けに発刊されていた戦前の『尋常小学修身書巻四』に「人の名誉を重んぜよ」という抄があります。ご紹介します。
    文章はそのままに、文語表現を現代文にあらためています。

    ******
    尋常小学修身書巻四
    人の名誉を重んぜよ


    昔、京都に、伊藤東涯(いとうとうがい)という人がありました。
    父・仁斎(じんさい)から二代続いた名高い学者で、いろいろの有益な本をあらわし、弟子もたくさんありました。

    同じ頃、江戸には荻生徂徠(おぎゅうそらい)という有名な学者がありました。
    徂徠は、少しも遠慮をしない人でしたから、はじめは仁斎をそしったこともありました。
    しかし東涯はすこしも相手にならず、また人のことを決してかれこれ言いませんでした。

    あるとき、東涯の弟子が、徂徠の作った文を持って来て東涯に見せました。
    そこに来合わせていた二人の客も、その文を見て、
    文字の使い方おかしいとか、意味が通じないとか、
    さかんに悪口を言いました。
    しまいに東涯に向かって、

    「先生がご覧になったら、
     傷だらけでございましょう」

    と言いました。すると東涯は、

    「人をそしるのは、
     天に向かってつばきするようなものです。
     人はめいめい考えが違うものであるから、
     軽々しく人の悪口を言うものではありません。
     ましてこの文はむずかしいことを
     上手に書き表してあります。
     今の世に、これだけの文のできる者は、
     まずないでしょう」
    と言いましたので、皆は恥じ入ったということです。

    ******

    文に出てくる伊藤 東涯(いとう とうがい)は、江戸時代中期の儒学者で、1670年生まれ、1736年に67歳で没した人です。
    儒学者伊藤仁斎の長男で、母は尾形光琳の従姉です。

    父のはじめた私塾「古義堂」の二代目となるのですが、父の教えを忠実に伝え広めた温厚な人としてもよく知られていました。
    その父の伊藤仁斎に次の言葉があります。

    「学問は卑近を厭ふことなし。
     卑近を忽(ゆるがせ)にする者は、
     道を識(し)る者に非ざるなり」


    伊藤仁斎は、儒学を、ただChinaの古典を模倣するというだけのものではなくて、儒学を日本人としての人間学にしていくという新たな学問をひらいた人です。
    だからこそ、学問をすることが高邁な学者の世界にこもってしまってはいけない。
    そういう人は、道を識(し)る人とはいえない。
    身近なこと(卑近なこと)にこそ、大事な人間学としての学問があるのだ、と述べているわけです。

    荻生徂徠と伊藤東涯は、先々、互いにたいへん仲良くなるのですが、互いがまだ噂話程度でしか知らない頃、お荻生徂徠が伊藤東涯を厳しく批判したわけです。
    これは、最近においても「学問の対立、学者の対立」などといって、よく話題にされることです。

    また、それぞれ道を極めようと努力する人が、他の先生から、
    「あいつはダメだ、あんなものは学者じゃない」
    などと頭ごなしに批判否定されたり、あるいはあまりよくない例になると、あることないこと吹聴されたりします。

    そういうとき、この小学4年生の教科書を思い出します。
    東涯は、自分を批判している荻生徂徠の文を、
    「この文はむずかしいことを
     上手に書き表してあります。
     今の世に
     これだけの文のできる者は、
     まずないでしょう」
    と、その荻生徂徠から、むしろ学ぼうとしました。

    人は、人の噂が大好きな生き物ですから、あれこれ言われることはあるでしょう。
    しかし肉体は魂の乗り物です。
    魂を成長させるには、そうした批判する他人からも、学ぶべきものがあれば、そこから学ばせていただく。
    そうすることで人も魂も成長できるということを、修身の教科書は教えてくれているのだと思います。
    もっと言うなら、それがわからない人は、たとえ実年齢が壮老の歳にあったとしても、小学4年生以下だということです。

    自分と考え方の違う人というものは、あるものです。
    というより、自分以外のすべての人が、自分とは異なる考え方をしているものです。
    そうであれば、違っていることがあたりまえなのであって、違っていることをもって中傷するのは、子供にさえ及ばない。

    もちろん、違っていることの内容が許せない事柄であることもあります。
    早い話、押し紙を強制して発行部数を誤魔化し、それで法外な広告費を広告主からもぎ取るなどということは、これは明らかに犯罪行為です。
    外国人の生活保護の不正取得や、通名を用いた犯罪の隠蔽、あるいは悪事を働いている者の悪事を指摘すると、それは差別だとひらきなおるとか、そうした悪質なものについては、これは叩かなければなりません。
    しかし事実の指摘と、いたずらに対立をあおって人の尊厳を奪うこととは、意味が違います。

    聖徳太子の十七条憲法の十にも次の文があります。
    ******
    十にいわく
    忿(こころのいかり)を絶ち、
    瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、
    人の違(たが)うを怒らざれ。

    人みな心あり、心おのおのに執あり。

    彼是(ぜ)し我を非し、
    我を是し彼を非す。
    我、必ずしも聖ならず。
    彼必ずしも愚ならず。

    共にこれ凡夫(ぼんぷ)の耳、
    是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。
    相共に賢愚なり。
    鐶(みみがね)の如くして端(はし)なし。

    ここをもって彼人、
    瞋(いか)ると雖(いえど)も、
    かえってわが失(あやまち)を恐れよ。
    われ独(ひと)り得たりと雖も、
    衆に従いて同じく挙(おこな)え。

    *****

    そう。「かえってわが失(あやまち)を恐れよ」なのです。

    最後に伊藤東涯の言葉です。
    伊藤東涯のことばに
    「君子は己を省みる。
     人を毀(そし)る暇あらんや」


    ※毀(そし)る=非難中傷すること


    ※この記事は2018年10月の記事の再掲です。
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  • ロベルトソン号事件と自愛史観


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    「博愛(はくあい)」は、訓読みすると「ひろくあまねく、いとしくおもふ」です。たとえ自分が酷い目に遭わされたからといって、だから人を傷つけて良いことにはならない。かなしいまでに純朴な、どこまでも愛。それが日本人にとっての愛です。
    その愛を根本とした歴史観のことを「自愛史観」と言います。自虐史観の反対の歴史認識です。


    ロベルトソン号の記念碑(宮古島)
    20181018 ロベルトソン号記念碑



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    明治のはじめに「ロベルトソン号事件」というものがありました。
    そのことが、戦前の尋常小学校の4年生の修身の教科書で紹介されています。
    まず、その本文をご紹介します。

    ******
    尋常小學修身書 巻四
    第二十 博愛(はくあい)

    明治六年、はるばる支那へやってきたドイツの商船ロベルトソン号は、ある日、海上で大あらしにあいました。
    船は帆柱を吹き折られ、ボートを押し流され、荒れ狂う大波に三日三晩ゆられて、九州の南の宮古島の沖に吹き流されて来ました。
    しかし運悪く、暗礁に乗り上げてしまいました。船員たちは、波にさらわれまいと、こわれた船に一生懸命に取り付いて、助けを求めました。

    ロベルトソン号の難船を見つけた宮古島の見張りの者は、さっそく役人に知らせて、人々を呼び集めました。
    役人は、よりぬきの漕ぎ手や医者を連れて駆けつけ、村々の人たちと一緒に助け舟を出しました。
    しかしさかまく荒波を乗り越えて進むことは、どうしてもできません。
    その上、やがて日はとっぷりと暮れました。
    人々は、仕方なく引き返しましたが、陸(おか)にかがり火をたいて、難船をした沖の人たちをはげましながら、夜を明かしました。

    あくる日は、風もおとろえ、波もいくらか静かになりました。
    島の人々は、
    「今日こそは」
    と勇み立ち、飲水や、かゆなどを用意して、大波の中へ乗り出しました。
    あぶない岩の間をくぐり、大波にゆり上げられゆり下げられながら、力の限り漕いで、やっとロベルトソン号にたどり着きました。
    そうして、身の危険も忘れて、疲れ切っている船員たちを、残らず助けて帰ってきました。
    危ない命を助けられた船員たちの喜びは、どんなであったでしょう。

    島の人々は、薬を飲ませたり、怪我の手当をしたりして、船員たちを介抱しました。
    しかし言葉が通じないため、どこの人だかわかりません。
    そこでいろいろの国の国旗を取り出して見せて、はじめてドイツの人であることがわかりました。

    その後一ヶ月あまりの間、親切に世話をしているうちに、みんな元気になりました。
    そこで船を貸して本国へ帰らせました。
    出発の日には、島の人々は、海岸に出て、鐘や太鼓をたたいて見送りました。
    役人たちは船に乗って水先を案内しながら、はるか沖合まで送って行きました。

    船員たちは、月日を重ねて無事に本国に帰り着きました。
    そうして、嬉しさのあまり、会う人ごとに、親切な日本人のことを話しました。
    そのことが、いつかドイツ皇帝に聞こえました。皇帝は島の人々の親切をたいそう喜んで、軍艦を送って宮古島に記念碑を建てさせられました。
    その記念碑は、いまもなお残って、ながくこの博愛の美談を伝えています。

    *******

    ロベルトソン号事件というのは、明治6年(1873年)7月の出来事です。
    船はドイツのハンブルグからやって来た商船の「R.J.ロベルトソン号」で、貿易品である茶を福建省で積み込んで、オーストラリアのアデレードに向けて航海していたところを嵐に遭遇し、マストも折れ、救命ボートも流されて、船員の多くも海に流されてしまいます。
    そしていつ沈没してもおかしくない非常に危険な状態で、宮古島の南岸へと流され、沖合のサンゴ礁で座礁したのです。

    この座礁を目撃した英国の軍艦カーリュー号が、ボートを出して救出を企てたけれど、高波のため断念しています。
    それほどまでに、海がひどいシケだったのです。
    続いて宮古島の住民が船を発見してからが、修身の教科書に書かれた上の物語です。

    座礁した船を発見した島の人々は、島から小舟を出して救出を試みたけれど、激しい暴風で救助ができない。
    様子を見ていたロベルトソン号の乗組員は激しく落胆したけれど、島民は海岸でかがり火を焚くことで、難破船の乗組員を励まし続けました。

    翌朝未明、高波を突いて小舟2艘を出し、船に残っていた救命ボート1艘とともに生存者8名を救出します。
    救出されたのは、ドイツ人6名(うち女性1名)、Chinese船員2名です。
    その直後、ロベルトソン号は激しい波に洗われて木っ端微塵に破壊されたそうです。
    まさに間一髪だったわけです。

    この物語が「博愛」として修身教科書が紹介していることには理由があります。
    遭難事件の2年前に、宮古の船が嵐で台湾へ漂着し、原住民によって乗組員54名が虐殺される事件(12名が生還)が起きているのです。
    まさに「知らない人は恐怖の存在」であった時代です。
    島の人達にとっては、その事件の記憶がまだ新しいときの出来事です。
    しかしそれでも、彼らは難破船の乗組員の救助のために全力をあげているのです。

    ちなみにこのときの台湾での事件について、当時の明治新政府は清国に厳重抗議を行っています。
    ところが清国は、台湾は「化外の地」であるとして抗議を受け付けない。
    やむなく日本は、独自に台湾出兵を行っている。
    そしてこのことがきっかけとなって、日台の絆が生まれることになり、日本は日清戦争後に台湾の割譲を清国に要求し、台湾の人たちは正式に日本人となり、いまなお、台湾の人たちの多くは、日本を愛してくれています。

    さて、ロベルトソン号の乗組員たちの救助後です。
    島民たちは、海岸に打ち寄せられたり、海に浮かんでいた船の積荷や、身の回りの品などを拾い集めて、船員たちにそのまま手渡しています。
    けれど、ドイツ人の船員の一部は、
    「濡れて商品にならない物などいらない」
    となじる一幕があったと、これは船長のヘルンツハイムが日記に書いています。

    普通、世界中どこの国においても、当時の列強と呼ばれた西洋にあってすら、漂着物等は略奪の対象になった時代です。
    ところが宮古の人たちは、なにひとつ自分のものにすることなく、漂着物を丁寧にひとつひとつ拾い集めて、洗えるものはきれいに洗って船員たちに引き渡しています。
    日本人ならではの行動だといえます。

    ちなみに「宮古島」は、沖縄本島よりももっと南側、ちょうど沖縄と台湾の中間に位置する島です。
    おもしろいもので「宮古」の読みは「みやこ」で、それを漢字で「古い宮」と書いています。
    宮古島に「マムヤ」という美女の伝説がありますが、その伝説は、マムヤがあまりに美しかったために、権力者たちが列をなして求婚したというところから始まります。
    小さな島に権力者たちが集ったというところからして、大昔にはもしかすると宮古島が我が国の都であった時代があったのかもしれません。

    これはまた別な稿で述べますが、日本列島の気候は、万年の単位で見ると、熱くなったり寒くなったりを繰り返しています。
    寒冷化が進めば、人口が日本列島全体で20万人以下であり、土地の所有権も国境もなかった時代です。
    人はより住みよい場所に移動する。
    そして2万年前頃には、海面はいまよりもずっと低くて、瀬戸内海も黄海も陸でしたし、台湾は大陸と地続き、都島はいまよりもずっと大きな島で、鹿児島あたりの気候が、いまの稚内(わっかない)くらいの気候でした。
    衣料がまだ十分発達していなかった時代であれば、より住みよい場所を求めて、我が国の都が宮古に置かれていても、何の不思議もなかった時代もあったわけです。

    さて、島民と救助された8名は、言葉が通じなかったけれど、宮古の人々は遭難者たちを手厚く保護し、宮古島の
    村番所(いまの公民館)を宿舎に提供して、米や鶏肉を与えています。

    難破救出から34日後、島の人々は、たまたま宮古に寄港していた琉球王の船を彼らに与え、ドイツ人らはChinaを経由してドイツへと帰国し、このときの逸話を、ロベルトソン号のヘルンツハイム船長が、
    『ドイツ商船 R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記』
    と題して新聞に発表しました。

    その記事を読んだドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が、宮古島の人々の博愛精神に感動し、3年後の1876年に軍艦チクローブ号を日本へ派遣します。
    チクローブ号は横浜に入港し、明治政府と宮古島への記念碑を建てる相談をした後、那覇へと赴き琉球藩王を表敬訪問し、ドイツ皇帝の誕生日でもある3月22日に宮古島の中心港を見渡せる斜面に建立したのが、冒頭にある写真の記念碑です。

    「博愛(はくあい)」は、訓読みすると「ひろくあまねく、いとしくおもふ」です。
    「博」という字の訓読みは「ひろし」です。
    たとえ自分が酷い目に遭わされたからといって、だから人を傷つけて良いことにはならない。
    どこまでも愛。
    それが日本人にとっての愛なのだろうと思います。

    その愛を根本とした歴史観のことを「自愛史観」と言います。
    自虐史観の反対の歴史認識です。

    学校では自虐史観を教えます。
    それは、先人たちを虐(いじ)め、国を虐め、自分を虐める歴史観です。
    教師が生徒に「虐めることが正しいことだ」と教えているのです。
    虐めが社会問題になっていますが、なくなるわけがありません。
    学校教育そのものが虐めを是とする教育になっているのです。
    そうなれば、生徒は、生徒同士で正しいと信じて虐めを行います。
    あたりまえの帰結です。

    こうした問題の本質から目を背けたままで、虐めを無くそうという方がどうかしています。
    それは水道管の元栓を閉めずに水道管を直そうとしているようなものです。触れるほどに水(問題)が噴き出す。あたりまえのことです。

    自虐の反対語は「自愛」です。
    ならばこれからは「自愛史観」でいくべきです。


    ※この記事は2019年10月の記事のリニューアルです。
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  • 神功皇后の三韓征伐の歴史上の意義


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    日本は、この最良のタイミングでの神功皇后の朝鮮征伐によって、たった一度のモンゴルの大帝国による元寇以外は、日本はずっと対外戦争から平和を保ち続けることができています。
    神功皇后のご功績は、偉大です。


    20191023 神功皇后
    画像出所=https://nihon-omokage.com/?p=6583
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    第14代仲哀天皇は、ヤマトタケルの子です。
    和名は古事記では「帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)」、日本書紀ですと読みは同じで「足仲彦天皇」です。
    仲哀天皇の皇后が神功皇后(じんぐうこうごう)です。
    その神功皇后について、戦前の尋常小学読本でご一緒に学んでみたいと思います。
    原文は漢字とカタカナによる文語体ですので、いつものようにねず式で現代語訳します。

    ****
    尋常小学読本(国定読本第1期)
    第18 神功皇后


    神武天皇よりすこしあとの仲哀天皇の時代、わが国のうちの西の方に悪者どもがいて、たいそう我がままをしていました。
    天皇はその皇后の神功皇后と申す御方と、それを攻めにおいでになりました。

    ところが戦いのさなかに、敵の矢を受けておかくれになりました。
    神功皇后は、
    「この悪者どもが
     わがままをしておるのは
     外国の者が扶(たす)けているからだ。
     だからその外国を攻めたら
     この悪者どもは
     わがままをやめるであろう」
    とお思いになりました。

    そこで神功皇后は、男装して海を渡り、その外国を攻めにおいでになりました。

    すると向かう国では、たいそう畏(おそ)れて、戦(いくさ)もせずに、降参してしまいました。
    そして毎年、宝物をさしあげますと約束しました。
    皇后は、それを許して、お帰りになりました。

    それから西の方の悪者どもは、わがままをしないようになりました。
    またわが国の強いことが、前よりもよく外国に知れるようになりました。


    ****

    文中の「西の方の悪者ども」というのは、仲哀天皇による熊襲征伐のことで、仲哀天皇8年、おそらく西暦200年頃の出来事であるとされています。
    そしてこの仲哀天皇の熊襲征伐によって、大和朝廷の全国制覇が完了したともいわれています。

    仲哀天皇が崩御されたとき、神功皇后のお腹には赤ちゃんがいました。
    その赤ちゃんが、後の応神天皇となられるのは、また後の話。
    神功皇后は、妊娠したまま、男装し、筑紫から玄界灘を渡って朝鮮半島に出兵して、新羅を攻めました。
    その勢いは「船が山に登らんばかりであった」といいます。

    新羅王の波沙寐錦(はさ むきん)は、
    「吾聞く、
     東に日本という神国有り。
     また天皇という聖王あり」
    と言って戦わずして降参し、朝貢を誓って金・銀・絹を献上しました。
    そして王族の微叱己知(みしこち)を人質に差し出します。

    実はこのことが、我が国における公式記録にある朝貢と人質の習慣のはじまりです。
    朝貢は毎年行われて恭順を誓い、また王子を人質として都に送り、都で王子を育てる。
    万一、国王が裏切れば、王子が殺されるので、国王には跡継ぎがいなくなって、国が滅びる、という仕組みです。
    この神功皇后のときにはじめられた仕組が、後に、源氏の制度に採り入れられ、そのままこれがモンゴルの元の大帝国による世界の支配の基幹システムになっています。

    また、このとき高句麗と百済も、倭国への朝貢を約束しています。
    これにより、高句麗、新羅、百済の三国が、倭国の属国となったことから、これを
    「神功皇后の三韓征伐」
    といいます。

    皇后の出征が10月、そして同じ年の12月には皇后は筑紫に凱旋され、そこで応神天皇を出産されています。
    出産した場所のことを「生み」から転じて「宇美」といい、これがいまの福岡市宇美町(うみまち)の名の由来です。

    また、
    1 いざというときに敵の準備が整う前に破竹の勢いで進撃(疾風迅雷)すること、
    2 これにより戦わずして勝つこと、
    3 目の前の敵ではなく、その背後にある根っこを即時叩くこと、
    4 日頃から十分な戦力を養い、強いことを内外に知らしめることによって、戦いそのものをなくすこと、
    といった、国家としての重要な武の大原則を建てられたのも、神功皇后の功績です。

    そしてなにより重要なことは、この武の発動の功績が、わが国において皇后という女性のパワーによって成し遂げられたということであろうと思います。
    基本的に女性の力は、パワーではなく、慈愛に基づくというのが、世界の常識です。
    けれどもその「慈愛こそがパワーの最重要要素」であることを、神功皇后は見事に証明しているからです。

    ちなみに戦前の小学5年生では、この神功皇后の故事を元に、テストや自習問題として、次の問題が出題されました。

    (1) 神功皇后が新羅を討ち給ひし次第を語れ。
     (神功皇后はどうして新羅を討ったのか、その理由を述べよ)
    (2) 三韓が皇威に服せしことにつき言へ。
     (三韓はどうして日本の属国となる道を選んだのですか。その理由を述べよ)
    (3) 神功皇后の御功績を數(数)へあげよ。
     (神功皇后のご功績は、何だったと思いますか。主なものを3つ挙げよ)

    戦前戦中の小学5年生のレベルの高さに驚くばかりですよね。
    みなさんなら、どのようにお答えになられますか?

    さて、チャイナには神功皇后の時代よりもはるか昔に、秦や漢などの大帝国がありました。
    けれどそんな大帝国が崩壊し、その後チャイナは隋の登場まで、長く内覧状態になります。

    戦乱が続くと、その敗残兵が周辺諸国に散って悪さを行いますし、また戦乱を逃れたチャイナの難民が、やはり周辺国へとなだれ込みます。
    それが真っ当な紳士淑女であれば、それは歓迎すべきことですし、難民なのだから、かわいそうな人たちなのだからと、助けてあげるのが人の持つ本来の姿というものです。

    ところがここに不思議なことがあります。
    例えばチャイナの北方遊牧民の元には、歴史を通じてチャイナ難民が大量にやってきていますが、その難民たちを北方遊牧民たちが保護したり、庇護したりしたという歴史が、とんと見当たりません。
    北方遊牧民とチャイナの歴史は、チャイナの内乱によって難民が北方に押し寄せ、これが迷惑だからと北方遊牧民がチャイナ王朝を襲撃して激しい戦いとなってきた・・・という歴史です。
    まったく保護の対象になっていないのです。

    このことは北方だけではありません。
    チャイナ奥地の中央アジア諸国、チャイナ南方の越の国(ベトナムのこと)やシャムなど、チャイナの周辺諸国の全てが、チャイニーズの越境を歴史を通じて拒否しています。

    国や民族が異なるから拒否されたのだろうと単純に考えないでください。
    ブラジルには、多数の日系移民や、白系ロシア人など、スパニッシュ系以外の移民が多数存在します。
    けれど彼らがブラジル政府によって拒否られたという話はまったく聞きません。
    武力でブラジルに介入した?
    まったくそのようなことはありません。
    とりわけ日本人は、そもそも一般人の移民で武力など持たずに移民していますし、白系ロシア人の移民は元々ロシア革命後に満洲に逃れていた旧ロシア王国の貴族たちが、満洲崩壊によって日本陸軍に助け出されて、日本海軍の力でブラジルへと向かった人たちです。

    現代でもそうですけれど、移民には、
     歓迎される移民 と
     歓迎されない移民
    の二種類があります。

    そして歴史を通じてチャイニーズは、どんな時代においても、どこの国からも歓迎されなかった・・・ということです。
    理由はなぜでしょう。
    是非、皆さんで考えていただきたいと思います。

    神功皇后の時代のあと、内乱状態にあったチャイナからは、大量の移民が朝鮮半島に押し寄せることになりました。
    この時代も、その後の時代も、朝鮮半島側に、このチャイナの人工圧力に耐える力はありません。

    それが神功皇后によって半島が倭国の領土の一部になったことによって、半島は独立を守ることができるようになりました。
    理由は、ある意味簡単なことです。
    倭国には鉄の武器があったからです。
    これは刀槍の時代に鉄砲が圧倒的な力を持ったのと同じで、青銅器の武器や防具に対して、鉄製の武器や防具は圧倒的な力を持ちます。
    要するに半島は、神功皇后の功績によって、国を、そして民族を保持できることになったのです。

    このことは日本も同じです。
    いくら鉄の武器を持っているとは言っても、チャイナの人口圧力の前には、大変な国難が待ち受けることになります。
    そしてさらに、のちの時代に隋や唐といった強大な軍事超大国がチャイナに成立したとき、チャイナは昔から「遠交近攻」です。
    半島が隋や唐の一部なら、その隣国は日本です。
    日本は、攻略の対象になるのです。

    ところが隋や唐にとっての半島の隣国は、いまの北朝鮮にあたる高句麗です。
    そしてこれが隣国であれば、遠交近攻戦略に従って、その向こうの国が調略の対象となります。
    ところがそこに、百済と新羅という二カ国があったのです。
    すると、新羅を調略すれば、新羅は百済に警戒されるし、百済は高句麗と結んで新羅を叩く。
    百済と結べば、新羅が黙ってないといった具合に、そこ2国が存在していることが、遠交近攻戦略にとって、実は大変大きな障害になります。

    倭国は、さらにその先にある国です。

    こういう一連の流れの形成の中に、神功皇后による朝鮮征伐があります。
    そして日本は、この最良のタイミングでの神功皇后の朝鮮征伐によって、たった一度のモンゴルの大帝国による元寇以外は、日本はずっと対外戦争から平和を保ち続けることができています。

    神功皇后のご功績は、偉大なのです。

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    自虐史観なんて、学んだところで何も得るものなどありません。人がどんどんと孤独になるばかりです。
    自虐の反対語は「自愛」です。
    ならば、これからは「自愛史観」で行くべきです。

    20221028 沖積平野
    画像出所=https://juken-geography.com/systematic/alluvial-plain/
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    学校教育で、自国の昔の歴史がダメな歴史で、むしろ他所の国の方が素晴らしいとなったのは、戦後のことです。
    日本はダメな国だとされ、日本的なものには、どんなことにつけても何の価値もなく、西洋やチャイナやコリアの方が、日本よりもはるかに素晴らしい歴史伝統文化を持っているのだという、ある種の虚構の上に築かれてきたのが、戦後の歴史教育です。

    その代表的なもののひとつに、貧農史観があります。
    江戸時代まで、農民は搾取され、貧困のどん底暮らしをしていたのだ、という仮定に基づく歴史観です。
    江戸時代の農民は、四公六民とか五公五民と言われ、収入の半分を税で持っていかれていたという。
    だから江戸時代の農民は貧しかったのだ、というわけです。

    ところがその見方は、その背後に大きな嘘があります。
    昔の税はお米でしたが、我が国では、つい最近(昭和44年)まで、そもそも今年できたお米は100%備蓄に回っていました。
    要するに、100%税だったのです。
    どういうことかというと、例えば五公五民の場合、50%は、農家の備蓄となりますが、農家は、自分の家で備蓄するのではなく、村全部で、氏神様のところに、今年できたお米を備蓄していました。
    今年できたお米だけではありません。
    去年のお米も、100%備蓄です。

    年貢(税)として取られたお米も、お上はそのお米を使いません。
    100%備蓄です。
    去年のお米(古米)も備蓄です。

    そうして社会全体で、今年できた新米と、去年できた古米を全部備蓄していたのです。
    食べるのは、一昨年できた古々米から。
    これが日本が2千年以上前から続けてきた、日本の形です。

    なぜそのようなことをしていたのかって、当然です。
    日本は天然の災害が多い国だからです。
    台風は毎年やってくるし、そのたびごとに大水が出て洪水や、土石流によって田畑が被害を被る。
    そうでなくても、旱魃【かんばつ】もあれば、稲の病気もある。
    何十年かに一度は、大震災が起きる。
    そのときには大津波もやってくる。

    だいたい日本の平野部は、海に面したところはすべて、河川の氾濫によってできた扇状地であり、沖積平野です。
    山間部の盆地も、やはり河川の氾濫によって生まれた堆積平野です。
    そして稲作は、そんな平野部で営まれるものです。

    そうした環境下で、いつ災害が起こるかわからない。
    村で備蓄したお米だって、いつ流されてしまうかわからない。
    2年分のお米を備蓄していたって、旱魃や大水が数年間続くことだってあるのです。
    そうしたら、食べるお米がなくなってしまう。

    だから万一のときのために、みんなでお米をとっておいたのです。
    村では、備蓄米は山の上の神社に蓄えました。
    山の上なら、洪水がやってきても大丈夫だからです。
    そしてそのお米を誰に守ってもらうのが一番良いかといえば、神様です。
    だからその山上の高床式の米庫が奥の院とされ、その手前に神社が築かれました。
    その神社が、いつしか氏神様と呼ばれるようになっています。

    けれど、数年続きの災害となると、村の備蓄米だけでは足りなくなります。
    幸い日本列島は縦に長い。
    災害を受ける地域もあれば、その年、災害を受けない地域もあります。
    だから、日本全国がひとつ屋根の下に暮らす家族となって、みんなで蓄えたお米を融通しあって、なんとかこの災害列島の中で生き延びようとしてきたのです。

    その、全国的に融通するためのお米は、お上が備蓄しました。
    国ごとに大名が。
    天下においては、幕府や朝廷が、その備蓄を行いました。
    そしていざ災害となれば、大名や幕府が、被災地へのお米の支援を行いました。

    考えてみてください。
    そんなとき、被災地に届けられるお米は、半分が新米です。
    普段は古々米を食べているのです。
    そこに新米が届けられる。
    なんだかんだ言って、やっぱり古々米より、新米の方が美味いです。

    家も田畑も流され、どうしたらいいのか途方に暮れているところに、美味しいご飯が届けられるのです。
    食べれば美味い。
    美味い飯は力が沸きます。
    「ようし!、負けるもんか。おいっ!復興するぞ。みんな、やろうや!」
    と、復興のための元気がわきます。

    わたしたちの祖先は、そうやって災害を乗り越え乗り越えして、暮らしてきたのです。
    だから、いま、私たちが、この日本列島で生きています。
    祖先の中の誰かひとりが、もし、災害後の貧困と餓えで死んでいたら、いまを生きている私たちの命はないのです。

    江戸時代の農家は貧しかった。
    なるほどそのとおりです。
    けれどそれを言うなら、武家はもっと貧しかった。
    あまりに災害が多いから、武家は被災地復興のために、誰もが借金まみれになっていました。
    それでも愚痴を言わず、社会のため、みんなのために日頃から品行を正していたのが武士です。

    そんな武士の借用証には、「期日にお返しできなかったときは、人前でお笑いくだされたく候」と書かれていました。
    いまどきの借用証は、「何%の損害金を払え」と書かれていますが、昔の借用証は、ただ「笑ってくだされ」です。
    それだけ武士は名誉を大切にしたのです。

    こうした気高い文化性は、お隣のコリアにも、チャイナにも、もちろん西洋にもまったくなかったものです。
    自虐史観は、別名「朝○史観」とも言うのだそうですが、彼らの国では、まさに貧農は、貧農そのものでしたが、日本は違います。
    貧しいというなら、全国民が、いまよりずっと貧しかった。
    けれど、決して貧困ではなかった、というのが日本の歴史です。

    そもそも歴史を何のために学ぶのかといえば、自国を愛し、地域を愛し、人を愛することができるようになるためです。
    国を愛するということは、その国を構成しているのは、私達自身なのですから、周囲の人を愛することであり、自分を愛することでもあるのです。

    それが自虐史観となり、国を虐め、歴史を虐め、祖先を虐め、周囲を虐めることを教育する。
    教育現場に虐めがはびこっているといいますが、その虐めの原因は、なんと戦後教育そのものが作り出しているものに他なりません。

    「自虐」の反対語は「自愛」です。
    歴史は、むしろ「自愛史観」でいくべきなのです。

    「じあい」は、慈愛でもあります。
    慈悲の心が、歴史を通じて学ばれるなんて、想像しただけで、心が暖かくなります。


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     けれど、よりよい未来に来てもらうために、努力することはできます。そしてそのためには、常にあらゆる可能性を留保しておくことなのではないかと思っています。

    20171008 ネフィリム
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    猿人が出現したのがおよそ600万年前、ネアンデルタール系等の新人類種が出現したのが、およそ25万年前のことです。
    ところがおよそ7万年〜7万5千年前に、インドネシアのスマトラ島にある「トバ火山」が大噴火を起こします。
    この噴火は地球史上に残る大噴火で、噴煙は世界に広がって、地球気温は年平均で5℃も低下しました。
    実はこれが、最終氷河期と呼ばれる時代の始まりです。

    年平均気温というのは、1℃違うだけで、鹿児島と仙台の気象が入れ替わります。
    それが5℃違うということは、日本がアラスカのような気候になり、赤道直下の気候が北海道から樺太にかけての気候になるということです。
    その凄まじさがおわかりいただけようかと思います。

    加えて火山の噴火は、その噴煙の中に大量のガラス成分を含みます。
    ですからその噴煙を吸い込むと、ガラスの小片が肺に刺さり、動物は死に至ります。
    噴火そのものの影響と、その噴煙が世界中に飛び散ったことによる影響、そして地球気温の急速な低下によって、地球上の人口は、およそ1,000〜10,000人程度にまで減少したといわれています。

    そして一時に大幅に減少した一族の子孫が、現代に生きる私たちの祖先となりました。
    これを「ボトルネック効果」といいます。

    おもしろいことに、このときのトパ噴火後、ヒトに寄生するシラミもまた、この時期に変種が生まれています。
    毛髪に寄宿する毛ジラミと、衣服に寄宿する衣ジラミで、近年の遺伝子の研究によって、この2種が分化したのも、およそ7万年前とわかりました。
    このことは、トバの噴火後、急速に寒冷化した地球を生き残るために、人類が衣服を着用するようになったことを示しています。

    問題は、それまでにおそらくはあったであろう進化の多様性です。
    例えば人科に近い哺乳類にサルがいますが、サルは手のひらに乗るようなサイズのメガネザルから、大型のゴリラに至るまで、その生態は実に様々です。
    顔つきも違います。
    目がまるでアニメの人物のように顔の中で大きな面積を占めているサルもいれば、目の小さなサルもいます。
    尻尾の長いサルもあれば、ほとんど尻尾がないサルもいます。
    つまり、生態が様々なのです。

    おそらくは、もともとは一種類であったのであろうと言われています。
    それが環境適合のために、様々な形に進化した。
    同様の例は、獣医さんの動物病院に行ったら、犬の進化系統図などが壁に飾ってあったりして、ご覧になられた方も大勢あると思います。(下図)

    20171008 犬の進化系統図


    犬も、小型犬から大型犬まで、身体の大きさから、毛吹きにいたるまで、まさに様々な種類があります。
    おそらく人も同様に、私たちが考える以上に、はるかに多くの種類があったのではないかと思うのです。

    たとえば、旧約聖書の『創世記』および『民数記』、旧約聖書外典(続編)の『ヨベル書』、『エノク書』には、ネフィリム(Nephilim)と呼ばれる巨人が登場します。
    エチオピアの旧約聖書の『第一エノク書』第7章には、「地上に降りて人間の娘と交わった天使たち(グリゴリ)によって、巨人が生まれた」という記述があります。
    その巨人たちは、人間たちの食物を食べつくすと共食いを行ったと書かれています。
    まるでアニメの『進撃の巨人』みたいな話ですが、あながち妄想とばかり言えないことには、そのネフィリムの人骨が、世界中で発掘、発見されていることです。

    ためしに「ネフィリム」でネットで画像を検索いただければ、たくさん出てきます。
    その画像は、合成だという話もあります。
    大型のものですと、身長が10メートルにも達します。

    普通に考えて、トパの大噴火のような極端な地球環境の変化があったとき、巨大な身体を持つものは、同じく大型生物の恐竜が絶滅したように、生存は困難であったろうと思えます。
    ただ、その一部はごく少数ながら生き残ったとする可能性は、否定できないかもしれません。

    日本にも、夜刀神(やとのかみ)やダイダラボッチと呼ばれる巨人伝説があります。
    夜刀神は、『常陸国風土記』に登場する神様、ダイダラボッチは『常陸国風土記』、『播磨国風土記』に登場します。

    そのような巨人がいたかいなかったのか、私にはわかりません。
    ただ、地球上の生命の進化を考えるとき、いたとしても不思議はない、という気がします。
    それに不思議なのは古代遺跡です。
    古代遺跡の中には、山の頂上に巨石が持ち上げられているものが多数あります。
    どうやってそこまで持ち上げたのか。
    それこそ巨人でもいなければ、それはできないことであったかもしれない。

    まだまだ超古代というのは、わからないことだらけです。
    頭ごなしにウソと決めつけるのではなく、あるいはこれが本当だ、真実だ、と決めつけるのではなく、結論は「いろいろな可能性を保留しておく」ということで良いのではないかと思います。

    100パーセント正しいというものはないのです。
    同様に100パーセント間違っているというものもない。
    数学では、1+1は2と教わってきたけれど、近年の研究でこれが量子にまで至ると、1が1であったりゼロであったりする。
    そうであれば、1+1の答えはゼロもしくは、それに近い値にしかならないのかもしれないのです。

    学校にはテストがあります。
    テストには採点が必要ですから、出題する側は、あらかじめ正しい答えを用意します。
    たとえてみれば、それはクイズのようなものです。

    けれど実社会に、あらかじめの回答などありません。
    すべて、いまこの瞬間の蓄積が、やってくる未来を決めます。
    パラレルワールドなのです。
    どのパラレルワールドに行くのかは、いまこの瞬間の自分の選択によります。

    その未来とは、大災害によって日本がなくなる未来かもしれない。
    日本が大発展して世界のリーダーになる未来かもしれない。
    どちらのパラレルワールドに行くのかは、自分自身の心がけ次第なのかもしれませんし、そうではないかもしれない。
    誰にもわからないことです。

    けれど、よりよい未来に来てもらうために、努力することはできます。
    そしてそのためには、常にあらゆる可能性を留保しておくことなのではないかと思っています。


    ※この記事は2017年10月の記事のリニューアルです。

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    「その場で勝てば良い」ではない。
    最終的な勝利とは、道を正し、斜めのものを真っ直ぐにしていくことです。
    だから我が国では、武のことを古代には「たけふ」と言いました。
    たけは「竹」でもあります。
    真っ直ぐで、しかも節があって折れない。

    20171014 竹林
    画像出所=http://samurai-japan.co/detail/609
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    台湾の若手親日家の李久惟先生のご著書『日本人に隠された真実の台湾史』から、この士林にまつわるお話をひとつご紹介してみようと思います。
    感動です。

    *****

    『日本人に隠された真実の台湾史』
    李久惟著 P201〜205より

    明治28(1895)年に、日本は台湾を領有するのですが、そのとき、この芝山巌にある廟の「恵済宮」の敷地内に、学校を開き、付近の子どもたちに日本語を教えました。
    派遣された教師は、6人の日本人でした。

    楫取道明(かとりみちあき)先生
    (山口県、38歳、吉田松陰の妹・寿と初代群馬県令楫取素彦の次男)
    関口長太郎(せきぐちちょうたろう)先生
    (愛知県、37歳、愛知西尾小学校校長)
    中島長吉(群馬県、25歳)
    桂金太郎(東京都、27歳、東京府士族)
    井原順之助(山口県、23歳)
    平井数馬(熊本県、17歳)

    彼等はのちに「六士先生」と呼ばれ、教育の鑑(かがみ)とされました。
    台湾に日本精神を教える最初の6人の先生が彼らだったのです。

    その当時、初代台湾総督に就任した樺山資紀(かばやますけのり)に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ優先すべき」と教育の必要性を訴え、日本全国から集めた人材を連れて初めて台湾に渡ったのが、台湾の初代学務部張(教育のトップ)の伊沢修二という人物でした。

    彼は長野の伊那の人ですが、東京師範学校(現・筑波大学)や東京音楽学校(東京芸術大学の前身)などの様々な大学の学長を歴任し、貴族院の議員を務めたり、ハーバードに留学したりとかしている人で、音楽家でもあります。

    日本人として最初に電話を使い、「もしもし」という言葉を残したのが、彼と金子堅太郎という人です。
    ベル研究所から依頼されてアジアとアメリカの長距離国際電話をかけた際、「申します、申します」と言ったのが、「もしもし」の語源になったという、その人です。
    また小学校、中学校で歌われる、特に戦前、明治時代につくられた歌のほとんどに関係しています。

    日本精神とかもそうですけど、「教育勅語」を台湾に広める役割も果たしています。
    その関係で、六士先生のお墓が台湾にあるのです。

    お墓の近くに記念碑があって、そこにその当時の首相の伊藤博文と台湾の初代学務部長の伊沢修二との関係などが書かれています。
    その記念碑は、何回も政権によって倒されては、地元の人によってまた修復されるという歴史があるのです。
    墓のほうも長い間ずっと守られ、いまだに墓守たちがいて、いつも墓地をきれいにしています。

    前述のようにこの6人の先生が最初に「教育勅語」と日本精神というか、日本語を含めた日本の文化とかを教えるわけですが、彼らは日本から特別に選ばれた優れた人物ばかりです。
    場所は寺や廟を借りて、そこを日本の寺子屋のようにして教えるのです。

    ところが日本が台湾を領有した直後の混乱期にあって、台湾には山賊、海賊の集団が各地にまだたくさんいました。
    台北の治安が悪化し、匪賊による暴動が頻発したため、地元の民は教師たちに避難を勧めたのですが、彼らは
    「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかったのです。

    翌年の1896年に、案の定、日本統治に反対する匪賊の一団が学堂を襲撃し、彼らは犠牲となり殺されてしまうのです。
    台湾に来て、それほど経っていない頃で、正月元旦に参拝したあとに、帰る途中で襲われてしまったのです。
    6名の教員たちは抵抗することなく、匪賊に対して最後まで教育の大切さを説いたと言われています。

    その事件に関して、地元に前からあるものと、あとの政府がそこに建てた記念碑に書かれている内容が違うのです。
    われわれにとって犯人たちは匪賊で間違いないのです。
    しかし別の見方では、義民と書くわけです。
    政権によって、抗日の義民とされたのです。

    でも、おかしな事実があります。
    実は金品を取られているのです。

    戦後、大陸から来た政権は、あらゆる材料を反日のために使おうとします。
    しかし、なぜ地元の人は悲しみ、そしてその後今日に至るまで必至に六士先生を守ろうとしているのかということですね。
    墓守や廟の人たちも必死に守っています。

    戦後、台湾に進駐してきた軍事政権によって、近くの神社や墓石、記念碑はたびたび破壊されたのです。
    しかし住民たちによってそのたびに修復されました。
    六士先生の墓石も、彼らを慕う地元の人々によって再建されました。
    その他の記念碑も地元の文化財として保存されることになったのです。

    それで地元の反発を招くと思い、存続させる代わりに、逆手にとって反日教育の教材にしようとして説明をつけたのです。だから二つの力が働いていて、今でもせめぎ合いをしているわけです。
    それが六士先生にまつわる台湾の状況です。

    芝山巌学堂は、その後は士林公学校となり、場所は変遷を経て、現在の士林國民小学校に受け継がれています。
    彼らのおかげで日本精神という言葉がそのあと台湾に根付くのです。
    その原点となったのが六士先生です。

    6人も殺されたので、あとから来る人たちは普通は二の足を踏むじゃないですか、自分たちも殺されるかもしれないと。
    でも、あとからあとから、殺されても教えに行かなければいけないという使命、天命を感じた人たちがやってきて、台湾の教育が開かれているのです。

    いまだに六士先生の廟は、ひとつの参拝ルートとして、たくさんの人たちが訪れています。

    ******

    非道に対して非道をもって挑めば、結果としては暴力的殺し合いにしかなりません。
    一方、正道をもって臨んでも、犠牲が出ることがあります。

    殺された六士先生の、おひとりおひとりには、それぞれご家族もあります。
    そして先生方は、この時代の人ですから武芸をやっています。
    最低でも剣道、柔道を身に着けていたであろうと思います。
    つまり殺しに来た暴徒(匪賊)たちに、刃向かい抵抗して斬り死にしようとすれば、それはできたであろうし、生き残れた可能性も高いのです。
    あるいは活路を開いてその場を逃れることもできたかもしれません。

    けれど6人の先生は、それをしませんでした。
    どこまでも話し合い、匪賊達を調伏しようとしました。
    なぜでしょう。
    暴力渦巻く当時の台湾にあって、暴力より教育を広げたかったからです。

    暴徒たちを力でねじふせても、また次の暴徒がやってきます。
    いまの反日サヨクや在日と同じです。
    力でねじ伏せても、また次のアホがやってくる。

    そうではなく、人にはもっと大切なことがあるということを教化していく。
    そのために台湾に渡ったのです。
    そして渡ると決めたときに、すでに命は捨てていたのです。
    けれど、仮に台湾の地で死ぬことがあったとしても、魂はその地に残り、台湾の人々の精神となって生き続ける。
    だから、6人も死を選択したのです。

    これが肉体は魂の乗り物という日本古来の武人の考え方です。
    「その場で勝てば良い」ではない。
    最終的な勝利とは、道を正し、斜めのものを真っ直ぐにしていくことです。
    だから我が国では、武のことを古代には「たけふ」と言いました。
    たけは「竹」でもあります。
    真っ直ぐで、しかも節があって折れない。

    その結果は、どうでしょう。
    国家の力で歴史を捏造しようとする政権が、台湾で70年にわたって日本統治を消し去ろうと、六士先生の碑を撤去し、六氏先生とまで書き換えても、それでも台湾の民衆は六士先生の名前を「士林」として残しています。
    そして士林市場は、世界的に有名な観光スポットです。
    いまさら市場の名前を変えられない。

    こうして正道を貫こうとしてきたのが日本人です。
    そうやって我慢して我慢して、どうにもならなくなったとき、はじめて日本は兵をあげています。
    戦後の日本では、すっかり洗脳工作にやられてしまって、そうやってこらえにこらえ、ガマンにガマンを重ねながら、最後に勇気をもって戦った私達の父祖を、いたずらに悪くいう風潮があります。
    まことに残念なことに思います。

    台湾では、現政権がこの「六士廟」を「六氏廟」と書き換えています。
    士族の「士」、武士の「士」を、故意に「氏」に書き換えることで、歴史を葬り去ろうとしているわけです。
    けれど、台湾の人たちは、市場に「士林」と名づけました。
    そして「士林市場」は、いまや世界的な台湾の観光スポットとなっています。
    そうやってしっかりと名前を残そうとしていてくれているのです。

    日本人は、いったいいつまで、アホのままでいるのでしょうか。

    今日のお話は、台湾人の李久惟先生のご著書からの抜粋です。
    この『日本人に隠された真実の台湾史』には、こうした台湾と日本の関わりを示す様々なエピソードが紹介されています。

    ※この記事は2015年9月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!
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    いま日本はこわれそうになっていると言われています。
    けれど、だからこそ、
    「何の負けるか いまにみろ」
    です。

    20210125 お山の杉の子
    画像出所=https://youtu.be/qS6vKos656k
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    以前、ある神社の宮司様から、「人生って、ぜんぶつながっているんだよ」と教わったことがあります。
    「むすび(結び、産巣日、産霊)」の話から、そんな話になったのですが、
    宮司さんによると、
    「人生は、いわば街道を歩いて進むようなものです。
     途中にはいろいろな景色があったり、茶店があったりするし、
     街道そのものも平坦なばかりでなくて、山あり谷あり、
     橋のかかっていない川が行く手を塞いだり、
     雨の日があったり、風の強い日があったり、
     ときに事件や事故に巻き込まれたりと、
     さまざまな出来事がありましたが、
     いまふりかえってみると、
     それらは全部つながっていたことがわかります。
     これまでの人生に起きたあらゆるものが、
     ぜんぶ折り重なって結ばれて今を創っています。
     本気でそんなふうに思えるのです。
     もしかすると人生というのは、
     はじめからぜんぶ決まっていたのかもしれないなんて、
     そんなふうにさえ、思えるんですよ。」

    年輪の刻まれた優しげな表情のなかに強い意思を秘められたその宮司さんのそんなお話を伺ったのは、5年ほど前のことだったでしょうか。
    自分もまた、おなじようなことを思うことが度々あります。

    それが「お山の杉の子」です。
    これをはじめて聴いたのは、まだ小学校にあがる前か、小学校の低学年のときかで、NHKの「みんなのうた」だったと記憶しています。
    もう60年も前のことです。

    そのとき、アニメ付きで聴いたこの歌に、なぜか不思議と惹かれるものを感じました。
    それで手を止めて歌に聴き入ったのですが、よくわからないけれど、なにか違うと、そんな感じがしました。
    だからこの歌の1番2番はすぐに覚えたし、メロディも大好きでいたのだけれど、不思議なことに3番以下は、「違う、この歌じゃない」って変な気がして、まったく覚えることができませんでした。
    変な子だって、自分でも思いました。

    そのときの歌詞が、以下のものです。

    1 昔々の その昔 椎(しい)の木林(ばやし)の すぐそばに
      小さなお山が あったとさ あったとさ
     丸々坊主の 禿山(はげやま)は いつでもみんなの 笑いもの
     「これこれ杉の子 起きなさい」
     お日さま にこにこ 声かけた 声かけた

    2.一(ひい)二(ふう)三(みい)四(よう)五(いい)六(むう)七(なあ)
     八日(ようか)九日(ここのか)十日(とおか)たち、にょっきり芽が出る 山の上 山の上
     小さな杉の子顔出して、「はいはいお陽(ひ)さま 今日は」
     これを眺(なが)めた椎の木は、あっははのあっははと 大笑い 大笑い

    3.「こんなチビ助 何になる」
     びっくり仰天(ぎょうてん) 杉の子は、思わずお首を ひっこめた ひっこめた
     ひっこめながらも 考えた。「何の負けるか いまにみろ」
     大きくなって 皆のため、お役に立って みせまする みせまする

    4.ラジオ体操 ほがらかに、子供は元気に 伸びてゆく
     昔々の 禿山は 禿山は、今では立派な 杉山だ
     誰でも感心するような、強く 大きく 逞(たくま)しく
     椎の木見下ろす 大杉だ 大杉だ

    5.大きな杉は 何になる
     お舟の帆柱(ほばしら) 梯子段(はしごだん)
     とんとん大工さん たてる家(うち) たてる家
     本箱 お机 下駄 足駄(あしだ)、おいしいお弁当 食べる箸(はし)
     鉛筆 筆入(ふでいれ) そのほかに、たのしや まだまだ 役に立つ 役に立つ

    6.さあさ 負けるな 杉の木に、すくすく伸びろよ みな伸びろ
     スポーツ忘れず 頑張(がんば)って 頑張って
     すべてに立派な 人となり
     正しい生活 ひとすじに
     明るい楽しい このお国
     わが日本を 作りましょう 作りましょう

    別におかしな歌詞ではないのです。
    それはそれで、ちゃんとまとまっています。
    けれど、なにか違和感があるのです。

    曲はすぐに覚えました。
    大好きな曲でした。
    歌詞も、1番と2番はすぐに覚えました。
    大好きな歌詞でした。

    けれど3番以下になると、頭の中で、
    「コレハチガウ、コレジャナイ」
    そんな声がするような感じがして、まったく覚えられないのです。

    ところが15年くらい前だったか、たまたま戦時歌謡としての「お山の杉の子」を聴く機会がありました。
    youtubeで見たのかもしれません。
    3番以下が、まったく違う歌詞でした。
    そしてそのとき、頭の中で、
    「コレダヨ、コレ!」
    と、声がしたような気がしました。
    そしてすごく懐かしいような、温かいような、あふれるような気持ちになりました。

    車の中で音楽を聞くのが好きなのですが、いまどきは便利になって、スマホにダウンロードした音楽を、車の中でステレオで聞くことができます。
    東京から大阪へ向かう車中用にと、先日、軍歌集をダウンロードしたら、その中になんと、あの「お山の杉の子」がありました。

    調べてみたら、もともとこの歌は、戦死した父を持つ子どもを励ますためにと昭和19年に作られた歌なのだそうです。
    自分は戦後の良い時代を生かさせていただいたのですから、そういう意味では自分とは関係ない歌かもしれません。
    けれどそれでもなお惹かれるものがある。
    それは言葉では語れない何かです。

    以下がその歌詞です。
    (下に動画も掲載します。)
    歌をご存じない方は、是非一度聴いてみてください。

    【お山の杉の子】
     吉田テフ子作詞
     佐々木すぐる作曲

    1 昔々の その昔
      椎(しい)の木林(ばやし)の すぐ傍(そば)に
      小さなお山が あったとさ あったとさ
      丸々坊主の 禿山(はげやま)は
      いつでもみんなの 笑いもの
     「これこれ杉の子 起きなさい」
      お日さま にこにこ 声かけた 声かけた

    2 一(ひい)二(ふう)三(みい)四(よう)五(いい)六(むう)七(なあ)
      八日(ようか)九日(ここのか)十日(とおか)たち
      にょっきり芽が出る 山の上 山の上
      小さな杉の子顔出して
     「はいはいお陽(ひ)さま 今日は」
      これを眺(なが)めた椎の木は
      あっははのあっははと 大笑い 大笑い

    3「こんなチビ助 何になる」
      びっくり仰天(ぎょうてん) 杉の子は
      思わずお首を ひっこめた ひっこめた
      ひっこめながらも 考えた
     「何の負けるか いまにみろ」
      大きくなって 国のため
      お役に立って みせまする みせまする

    4 ラジオ体操 いちにさん
      子供は元気に 伸びてゆく
      昔々の 禿山は 禿山は
      今では立派な 杉山だ
      誉れの家の子のように
      強く 大きく 逞(たくま)しく
      椎の木見下ろす 大杉だ 大杉だ

    5 大きな杉は 何になる
      兵隊さんを 運ぶ船
      傷痍(しょうい)の勇士の 寝るお家(うち) 寝るお家
      本箱 お机 下駄 足駄(あしだ)
      おいしいお弁当 食べる箸(はし)
      鉛筆 筆入(ふでいれ) そのほかに
      うれしや まだまだ 役に立つ 役に立つ

    6 さあさ 負けるな 杉の木に
      勇士の遺児なら なお強い
      体を鍛え 頑張(がんば)って 頑張って
      今に立派な 兵隊さん
      忠義孝行 ひとすじに
      お日さま出る国 神の国
      この日本を 護りましょう 護りましょう

    天国とか極楽って、どんなところでしょう。
    美しい音楽が流れ、町は美しく、人々が飢えに苦しむことなく、安全で安心で誰もが優しい、そんなイメージなのかなって思います。
    けれど、筆者を含め、普通の人は、そんなきれいなところ、三日住んだら飽きる(笑)。
    たぶん三日目には、「スマホないですか?」、「ゲーム機ないですか?」、「本は?」、「じゃあ、囲碁か将棋盤はないですか?」ってなるし、二三人集まれば「ねね、あの神様って、ちょっとおかしくない?」などとうわさ話をはじめる。そのうち「あの人って何か変だよね?」と、他人の中傷をはじめる。
    世の中そんなものだと思うのです。

    でも考えてみると、どこに行っても美しい音楽が流れ、町は美しく、人々が飢えに苦しむことなく、安全で安心で誰もが優しいところって、世界中見渡してみると、まさに日本そのものです。
    そうです。
    日本人は、歴史を通じて努力してこの地上に極楽浄土を、天国を築いてきたのです。

    けれど、何の刺激もない極楽や天国では、そこに魂の成長がない。
    だから、日々、様々な悩みや苦しみが起こります。
    そんな悩みや苦しみを、現代用語のストレスと考えたら、ストレスの重圧の前には、押しつぶされるか、逃げ出すか、選択肢は二つに一つしかありません。

    だから昔の日本にはストレスという言葉自体がありませんでした。
    代わりにそれを「試練」と呼びました。
    「神様は乗り越えられない試練は与えない」
    そう信じて、災害で何もかも失っても、戦争で焼け野原になっても、そこから再び立ち上がり、再びこの世が一歩でも二歩でも天国や極楽に近づくように努力してきました。
    それが日本です。

    いま日本はこわれそうになっていると言われています。
    けれど、だからこそ、
    「何の負けるか いまにみろ」
    なのです。




    ※この記事は2021年2月の記事の末尾に大幅に加筆したものです。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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