• 世界に広がる『すずめの戸締まり』の日本的価値観


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    『すずめの戸締まり』を観てきました。
    世界は、変わることができる。
    それも、長年続いた支配と隷属の世界が、いま終わろうとしている。
    それは、新しい、愛と喜びと幸せと美しさの世界の始まりを意味している。
    そんなことをあらためて確信できた映画でした。

    20221130 すずめの戸締まり
    画像出所=https://suzume-tojimari-movie.jp/saisoku.html
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    新海誠監督の最新作『すずめの戸締まり』を観てきました。
    このアニメ映画は、11月27日までの累計動員数が460万人、累計興収は62.6億円に達するのだそうです。
    これは前々作『君の名は。』の同期間とほぼ肩を並べるペースなのだとか。
    そして2023年には、世界199カ国で上映が予定されているのだそうです。

    この現象に、YoutubeサイトやSNSなどでは、いち早く「すずめの戸締まりの真実」などといった投稿が相次ぎ、さまざまな人が、さまざまに解説を試みていますので、屋上屋を架すような解説は避けたいと思います。

    ただ何より、「これは!」と思ったことがあるので、そのことをお伝えし、共有しようと思います。

    それは映画の最後の方に出てくる、「はじめに全部あった」といった意味のセリフです。
    311の震災によって、何もかも破壊される。
    身近な人との人間関係がこじれる。
    どうしてそうなるのか、意味がわからないような苦難が襲う。
    けれど、そうしたもののすべてが、実は全部つながっていて、気がつけば、いちばんたいせつなものは、自分の足元【あしもと】にあった。
    そういうことが語られたセリフです。

    また、神はときに理不尽な試練を与える。
    人間には、それが神か悪魔かさえもわからないし、自分がなんのために、そんな理不尽を与えられるのかわからない。
    けれどわからないまま、何年にも渡る困難に巻き込まれていく。
    けれどそれらは、あとになって振り返ってみれば、それらはぜんぶつながっていて、自分の心底【しんてい】にいちばんたいせつなものを気付かせるための導きになっている。

    こういった日本的、もっというなら神道的な価値観が、そのままアニメとして描かれていると思いました。

    日本で大ヒットとなったこの映画が、世界で放映されるようになると、ここに実におもしろいことが発生します。
    それは、アニメで描かれた日本的価値観が、価値観の押し付けではなく、ドラマのストーリーとして、自然に世界中の人々の意識のなかにスッと入っていくということです。

    世界では、というより現状の世界の中心をなしている西洋的価値観のもとでは、神とはあくまで人類の創造主であり、オーナーであり、絶対の存在であると説かれます。
    人は不完全で過ちを冒す存在であり、だから人は常に神に赦【ゆる】しを乞わなければならないとされます。

    ところが『すずめの戸締まり』に出てくる神は猫の姿で、主人公のすずめを追い詰めては逃げ出すという、一見すると身勝手な存在です。
    けれど、映画を通じて、そんな猫の姿は、主人公のすずめそのものの化体した姿であることがわかるようになっています。

    ヒトは、生命誕生のバクテリアの時代から持つ肉体の原始的欲求を持ちます。
    それは生きるための食欲と、次世代に子を残すための性欲です。
    その原始的欲求が、ヒトが社会を営むうえで、いつしか食欲が物欲に、性欲が支配欲へと変遷していき、さらにこの2つが競争原理によって地位得たいとか、名誉を得たいといった社会的欲求に形を変えています。

    このことは裏返しに言えば、物欲も支配欲も、そのために地位や名誉を得たいという欲望も、もとをたどれば、人ぶりがまだバクテリアだった当時からの、食欲と性欲といった原始的欲求が、ただ形を変えたものにすぎないということです。

    そして世界は欲望社会となり、その欲望を達成したごく少数の者が支配層となって、人々への生殺与奪の権を握り、そのごく一部の支配層が、自らを権威付けるために利用したものが、唯一絶対神という存在であったわけです。

    これにより、支配者の持つ支配権は、唯一絶対の神から与えられたものという理解が生まれます。
    そうでなくてはならないのです。
    なぜなら、神から与えられた支配権だと言っても、「いや、私は別の神から支配権を与えられていますので」となれば、支配が完成しないからです。
    この場合、異なる神、つまり異なる支配者は、完膚なきまでに滅ぼしていかなければならないとなり、それが大規模殺戮である戦争を生んでいます。

    でも、それらすべては、原始時代からの食欲と性欲の変形したものにすぎないわけです。

    ところが日本的価値観は、そうした理解を根底からひっくり返します。
    なぜなら日本では、食欲は感謝の心となり、性欲(自分の遺伝子を後世に残したいという本能的欲求)は、相手を愛【いとし】く思う心であり、神とは、自分自身の中に内在する霊(ひ)が、本物の神へと昇華したものであり、過去の祖先たちが神そのものであると理解されてきたからです。
    つまり日本人は、たいせつなものは、いつも自分の足元にあると考えてきたのです。

    このことは、人間が原初から持つ食欲や性欲、あるいは人類が社会を営むようになってからの物欲や支配欲、名声欲といったものを根底から切り崩します。
    なぜなら、物欲は感謝になり、支配欲は周囲の人々の幸せへの奉仕となり、名誉名声はむしろ「しんどい」もの、余計な重みであり荷物であるとみなされることになるからです。

    明治以降、日本社会は欧風化の波に乗り、西洋的価値観こそが新しいもの、進んだものとする考え方が主流を占めるようになりました。
    これによって、江戸時代までの日本にあったすべてのものは、古臭いものとして国家ぐるみで捨てる対象となり、このことが戦後、いよいよ強化されて、いまでは多くの日本人がすっかり欧風化して、欲望を満たすことが良いことであり、そのために自分を騙して無用な対立を行い、そうした想念が、いまではすっかり『すずめの戸締まり』でいう、地底の大ミミズのような怨念の塊【かたまり】のようになってしまいました。

    だからあらためて、そうした怨念にしっかりと鍵をかけて戸締まりし、足元にある大切なものをいまいちど、しっかりと取り戻していこうではないか、ということが、この映画のメッセージであるように思います。

    そしてこうした考え方が、理屈や理論ではなく、アニメという媒体を通じて、世界中の人々の心へと染み込んでいくことは、おそらく世界がいま持っている価値観を、根底からひっくり返し、人類が新たなステージに立つ未来を切り開くことになるのではないかと思います。

    世界は、一部の支配者のために存在するものではありません。
    いま生きているひとりひとりが、今生の様々な困難を乗り越えて、神へと昇華していくための試練の場が、私たちが生きている世界です。
    そして、一見すると理不尽にしか思えない出来事は、実は、自分自身が招いている、自分自身が化体し招いたことにすぎない。

    『すずめの戸締まり』は、前作の『天気の子』から、わずか三年での上映です。
    わずか三年の間に、これだけの内容を持った作品が生まれたのは、そこに日本的価値観とは何かを、あらためて追求した成果であろうと思われます。

    映画館でおもしかったのは、だいたい映画は、本編が終わってエンドロールになると、ポツポツと席を立つ人が現れるものなのに、この映画では不思議なことに、エンドロールの最後まで、誰も席を立とうとしなかったことです。
    これは不思議な現象です。

    そしてこのエンドロールの中で、この映画を作成したスタッフが、日本人ばかりではなく、チャイニーズやコリアンも数多く含まれていたことにも、あらためて感動しました。
    それは、日本的価値観と呼んできましたが、それを理解できる人たちが、日本人でない人達にもちゃんと伝わっているということであるからです。

    世界は、変わることができる。
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  • 熟田津に船乗りせむと月待ば


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    しかも日本より、ご皇室の方が歴史が古いのです。
    個々には様々な出来事や問題が起きても、歴史の修正力は、そのような問題をすべて些事に変えてしまいます。
    日本の神々を舐めるな、と言いたいのです。

    20200612 にぎたづに
    画像出所=http://thetimes.seesaa.net/article/442478330.html
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     熟田津(にぎたづ)に 船乗りせむと 月待(つきまて)ば
     潮(しほ)もかなひぬ 今はこぎいでな


    この歌は百済有事による朝鮮出兵に際して、額田王が詠んだ歌として、学校の教科書でも数多く紹介されている歌です。
    万葉集を代表する一首といえるかもしれないし、美人と言われる額田王を代表する和歌ともいえるかもしれない。
    歌の解釈にあたっては、初句の「熟田津(にぎたづ)」がどこの場所なのかが議論になったりもします。
    それほどまでに有名な和歌といえます。

    けれど、そうした見方は、実は、この歌の本質を見誤らせようとするものでしかありません。
    どういうことかというと、この歌の原文は次のように書かれています。

    【歌】熟田津尓 船乗世武登 月待者
       潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

    【補記】右検山上憶良大夫 類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇 大后幸于伊豫湯宮後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬 寅御船西征始就于海路 庚戌 御船泊于伊豫熟田津石湯行宮  天皇御覧昔日猶存之物。当時忽起感愛之情所以因製歌詠為之 哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首。


    現代語訳すると次のようになります。
    特に「補記」のところが重要です。

    【歌】
    熟田津尓   篝火の焚かれた田んぼのわきの船着き場に
    船乗世武登  出征の乗船のために兵士たちが集まっている
    月待者    出発の午前二時の月が上るのを待っていると
    潮毛可奈比沼 潮の按配も兵たちの支度もいまは整った
    今者許藝乞菜 さあ、いま漕ぎ出そう

    【補記】
    右の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林(るいしゅかりん)で検(しらべ)てみると、この歌は第三十七代斉明天皇が詠まれた歌であって、このたびの伊予の宿所が、かつて夫である第三十四代舒明天皇とご一緒に行幸された昔日(せきじつ)のままであることに感愛の情を起されて、哀傷されて詠まれた歌であると書かれています。つまりこの歌は、本当は斉明天皇が詠まれた御製で、額田王の歌は他に四首があります。


    要するにこの歌は、実は女性の天皇であられる第37代斉明天皇(さいめいてんのう)が読まれた御製だと万葉集に補記されているのです。
    つまり本当は、額田王が詠んだ歌ではないと書かれています。
    しかもこの歌は「出征兵士を送る歌」のような勇壮な歌ではなく、「哀傷歌(かなしみの歌)」であると書かれています。

    「熟田津」とは、田んぼの中にある水路の横で炊かれた松明(たいまつ)のことを言いますが、その歌われた場所は、今の四国・松山の道後温泉のあたりであったとされています。

    昔日(せきじつ)のある日、後に皇極天皇となられた宝皇后(たからのおほきさき)は、夫の舒明天皇(じょめいてんのう)とともに、(おそらく)道後温泉に湯治(とうじ)にやってきたのです。
    そのときは、まさに平和な旅で、大勢の女官たちらとともに、明るく皆で笑い合いながらの楽しい旅であったし、地元の人たちにも本当によくしていただくことができた。
    誰もが平和で豊かな日々を満喫できた、行楽の旅であったわけです。
    そしてそれは夫の生前の、楽しい思い出のひとつでもありました。

    ところがいまこうして同じ場所に立ちながら、自分は大勢の若者たちを、戦地に送り出さなければならない。
    あの平穏な日々が崩れ去り、若者たちを苦しい戦場へと向かわせなければならないのです。
    もちろん戦いは勝利を期してのものでしょう。
    けれども、たとえ戦いに勝ったとしても、大勢の若者たちが傷つき、あるいは命を失い、その家族の者たちにとってもつらい日々が待っているのです。

    それはあまりに哀しいことです。
    だからこの歌は、哀傷歌とされているのです。

    けれど、時は出征のときです。
    若者たちの心を鼓舞しなければならないことも十分に承知しています。
    だから皇極天皇は、そばにいる、日頃から信頼している額田王に、
    「この歌は、おまえが詠んだことにしておくれ」
    と、この歌をそっと手渡したのです。

    これが日本の国柄です。
    平和を愛し、戦いを望まず、日々の平穏をこそ幸せと想う。
    そして「私が詠んだ」という「俺が私が」という精神ではなくて、どこまでも信頼のもとに自分自身を無にする。
    そのような陛下を、ずっと古代からいただき続けているのが日本です。

    この歌が詠まれた「後岡本宮馭宇天皇七年」というのは、斉明天皇7年、つまり西暦661年のことです。
    いまから1359年の昔です。
    日本人の心、そして天皇の大御心は、1400年前の昔も今も、ずっと変わっていないのです。

    ちなみに初句の「にぎたづに」は、大和言葉で読むならば、「にぎ」は一霊四魂(いちれいしこん)の「和御魂(にぎみたま)」をも意味します。
    和御魂(にぎみたま)は、親しみ交わる力です。
    本来なら、親しみ交わるべき他国に、いまこうして戦いのために出征しなければならない。
    そのことの哀しさもまた、この歌に重ねられているのです。

    ずっと後の世になりますが、第一次世界大戦は、ヨーロッパが激戦地となりました。
    このため、ヨーロッパの重工業が途絶え、その分の注文が、同程度の技術を持つ日本に殺到しました。
    日本は未曾有の大好景気となり、モダンガール、モダンボーイが街を歩く、まさに大正デモクラシーとなりました。

    戦争が終わったのが1918年の出来事です。
    ところがその5年後の1923年には関東大震災が起こり、日本の首都圏の産業が壊滅。
    さらに凶作が続いて東北地方で飢饉が起こり、たまりかねた陸軍の青年将校たちが226事件を起こしたのが1936年。
    そしてその翌1937年には、通州事件が起こり、支那事変が勃発しています。
    日本国内は戦時体制となり、現代の原宿を歩いていてもまったくおかしくないような最先端のファッションに身を包んだモダンガールたちは、モンペに防空頭巾姿、男たちが国民服になるまで、第一次世界大戦からわずか20年です。

    そして終戦直後には、住むに家なく、食うものもなし、それどころか着るものもない、という状況に至りました。
    けれどそのわずか19年後には、日本は東京オリンピックを開催しています。

    20年という歳月は、天国を地獄に、地獄を天国に変えることができる歳月でもあります。
    そして時代が変わるときは、またたくまに世の中が動いていく。
    コロナショックで、まさにいま、日本は激動の時代にあります。

    けれど、どんなときでも、陛下の大御心を思い、勇気を持って前に進むとき、そこに本来の日本人の姿があります。
    それは、勝つとか負けるとかいうこと以上に、私たち日本人にとって大切なものです。

    またご皇室の内部に問題がある云々とも、一切関係ないことです。
    そもそも問題点というのは、いつの時代にあっても、どのような場所であっても、どのような人であっても、たとえご皇室であっても、そこにあるのが人である以上、必ずあるものです。
    問題が起きているということは、物事が動いているということであって、むしろ問題が何もないなら、それは物事が動いていない、つまり生きた人間がそこにいないということです。

    ご皇室内部の問題は、ご皇室に委ねればよいのです。
    外野があれこれ言うべきことではない。
    名誉欲、経済欲に駆られたどっかのアホがご皇室内部に入り込むような事態は、いまも昔も繰り返しあったのです。
    けれど歴代天皇のご事績はゆるぎなく歴史に燦然と輝いています。

    北斗神拳二千年の歴史なんてアニメの言葉がありますが、日本の歴史は二千年どころが万年の歴史です。
    しかも日本より、ご皇室の方が歴史が古いのです。
    個々には様々な出来事や問題が起きても、歴史の修正力は、そのような問題をすべて些事に変えてしまいます。
    日本の神々を舐めるな、と言いたいのです。
    日本人なら日本を信じる、ご皇室を信じ抜くことです。
    すくなくとも、自分はそのようにしています。

    吉田松陰が水戸藩郷士、堀江克之助に送った書です。

    「天照の神勅に、
     『日嗣之隆興 天壞無窮』と有之候所、
     神勅相違なければ日本は未だ亡びず。
     日本未だ亡びざれば、
     正気重て発生の時は必ずある也。
     只今の時勢に頓着するは
     神勅を疑の罪軽からざる也」

    《現代語訳》
    天照大御神のご神勅(しんちょく)に、「日嗣(ひつぎ)の隆興(さかえ)まさむこと、天壞(あめつち)とともに無窮(きはまりなかる)べし」とあります。そしてご神勅の通り、日本はいまだ滅んでいません。
    日本がいまだ滅んでいないなら、日本が正気を取り戻すときが必ずやってきます。
    ただいまの時事問題に頓着(とんちゃく)して、簡単に日本が滅びると言うのは、ご神勅を疑うというたいへん重い罪です。

    『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
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    ※この記事は2020年6月の記事のリニューアルです。
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  • ビタミンとオリザニン


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    国が侮られ、民族が侮られるということが国の内外でどういうことを招くのか。
    私たちはビタミンからも、それを学ぶことができます。
    学校では、国は悪いことをするものだから、それを監視するのが国民の仕事などと教えますが、そのような反日的なドグマに浸った考え方や行動は、かえって身の破滅を招くものです。

    20171127 鈴木梅太郎
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    12年前に日心会で紹介されたお話です。
    ビタミンの発見が日本人であったこと。
    それが国際関係の中で、日本人の発見ではないものとされたこと。
    そして名誉が回復されたけれど、いまでもその影響が残っていることのお話です。

    ****

    だんだん寒い日が続くようになりました。
    冬の風邪の予防には、うがい、手洗い、そしてビタミン類が多く含まれた食品を摂る事が重要とされています。
    ところで、この「ビタミン」という栄養素ですが、発見者は日本人ということをご存知でしょうか?
    今回は、ビタミン発見に深い関わりのある二人の日本人について、ご紹介します。

    ビタミン不足は様々な病気や体調不良の原因になりますが、「脚気(かっけ)」もその一つです。
    「脚気」とは、主にビタミンB1が不足するため、手足のしびれや全身倦怠、足のつま先が上げられなくなり、つまずいて転びやすくなる。
    また、動悸、息切れ、低血圧、むくみ、頻脈、食欲不振、吐き気などが起こり、さらに進行すると歩行困難になり、最終的には心不全で死に至る病気です。

    古くは「日本書紀」や「続日本書紀」の中で脚気と思われる記述があるほか、元禄時代には「江戸わずらい」と呼ばれ、江戸特有の風土病として恐れられていました。
    地方の農民が雑穀を主食にしていたのに対し、江戸の町民は白米を主食にしていたので、玄米を食べれば摂れるビタミンB1が糠をそぎ落とした白米では十分摂れなかったのです。

    江戸を離れ、雑穀を食べ始めると回復に向かうのも風土病とされた一因ですし、江戸で蕎麦が普及したのは、ビタミンB1を多く含む蕎麦が不足する栄養を補う意味もありました。
    江戸の人々は、蕎麦を食べれば脚気が治る事を経験から知っていたのでしょう。

    さて、時は流れて明治時代。
    列強の帝国主義に負けじと近代的な軍隊を整えた日本ですが、脚気の猛威は相変わらずです。
    陸海軍共に大事な兵士が脚気により死亡する例が後を絶ちませんでした。

    1883年、当時海軍医務局長だった高木兼寛は、「西欧と日本における軍隊の違いは、食事にある」と考え、それまでの白米中心の食事からパン(後に麦飯)と肉類を中心とした食事に切り替えるように提唱します。
    高木の説を取り入れた海軍では兵士の栄養状態が改善され、海軍の脚気患者はみるみるうちに激減していきました。
    脚気患者がほとんどいなくなった日本海軍は、日露戦争における日本海海戦にて当時世界最強の名を欲しいままにしていたロシア海軍バルチック艦隊を打ち破り、日本を見事、大勝利に導いたのです。

    ところが、ドイツの細菌学を参考にしていた陸軍では、「食事の改善などで脚気が治るはずがない」と唱え、白米食を続けました。
    このころ、「脚気の病原菌が発見された」との誤った発表もありましたし、故郷を離れ、命を懸けて国防の任務にあたる兵士には、当時贅沢とされた白米を与えたい、という思惑もあったでしょう。
    最後まで病原菌説を曲げなかったのが、文豪としても有名な森鴎外でした。
    その結果、陸軍では多くの兵士が脚気によって命を落としています。
    しかし、だからと言って当時の陸軍や森鴎外を責めることは出来ません。
    最新の研究結果を踏まえた現在の物差しで当時の実情を図ることは、歴史を検証するうえで不適当です。

    世界で初めてビタミンを発見したのは、鈴木梅太郎という人物です。
    彼は脚気にかかった鳩に米糠を与えると症状が改善される事を突き止め、1910年、米糠から脚気に有効な成分の抽出に成功します。
    同年12月13日、この研究を発表し、抽出した成分を「アベリ酸」と命名、後に「オリザニン」と改名しますが、これこそ現在の「ビタミンB1」なのです。

    その後も彼はビタミン研究に心血を注ぎ、オリザニンの結晶化に成功。
    1937年のフランス万博にオリザニン結晶を出品し、名誉賞を授与されています。
    また、脚気治療薬「オリザニン」の製品化にも大きく貢献しました。
    この治療薬のおかげで更に多くの人命が救われたことでしょう。

    食事の改善という発想で日本海軍を影で支えた高木兼寛。
    ビタミンの発見により、脚気の予防や治療方法を世界で初めて科学的に証明した鈴木梅太郎。
    この二人の大きな功績が礎となり、世界中の研究者によってビタミン不足から引き起こされる様々な病気の予防策や治療法が確立されていきました。

    有史以来、洋の東西を問わず、人類を苦しめ続けた難病「脚気」。
    その苦しみから世界中の人々を解放する糸口を見つけたのは、我々の同胞、日本人だったのです。

     ****

    生物の生存に必要な栄養素には、有機物と無機物があります。
    無機物の代表がミネラルです。
    有機物の代表が炭水化物・タンパク質・脂質で、これ以外の有機化合物を総称したものが「ビタミン」で、現在、ヒトに必要なビタミンとしては13種類が認められています。

    ビタミンという名称は、ポーランドの生化学者であるカシミール・フンクが命名しました。
    フンクといえば、15人の子持ちの絶倫家としても有名ですが、それはまた別のお話。

    彼は脚気の原因を研究し、明治44(1911)年に、米ぬかに含まれる化学物質が欠乏すると脚気が起こることを発見しました。
    そしてその物質には、アミンの性質があることから、それに「生命に必要なアミン」という意味で「vitamine」という名称をつけました。

    フンクが発見したビタミンも、いまでいうビタミンB1です。
    ところがフンクが発見する1年前の明治43(1910)年6月14日に、鈴木梅太郎が同じく米ぬかからビタミンB1の抽出に成功し、その論文を発表していました。

    この同日に発表されたこの論文は、「白米の食品としての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」という名称で、
    1 ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気様の症状がでて死ぬ
    2 糠と麦と玄米には脚気を予防して快復させる成分がある
    3 白米にはいろいろな成分が欠乏している
    という内容の論文になっています。
    そして彼は、同年12月13日には、「糠中の一有効成分について」を発表し、糠に含まれる有効成分に「オリザニン」という名称を付けました。

    日本語で発表されたこの論文は、翌年にはドイツ語に翻訳されて世界の研究者に紹介されるのですが、このとき、なぜか「オリザニンは新しく発見された栄養素である」という一行が翻訳されませんでした。
    理由はわかりません。
    ただ、当時の世界は、まだまだ人種差別全盛の時代だったこと、日本人は欧米人たちからみて、黄色い猿でしかなかったことなどから、有色人種ごときに新しい発見などできる筈がないとされたのかもしれません。

    あるいは当時、鈴木梅太郎は、多くの学者から「百姓学者」と罵倒されていました。
    翻訳洩(も)れも、そのことが原因だったのではないかという人もいます。
    それまで、米ぬかに脚気を治す成分があるなどとは、誰も説いていなかったのです。

    学者さんには二通りの人がいます。
    ひとつは、先輩学者の言うことをただ鵜呑みにして、そのドグマから一歩も出ない人。
    もうひとつは、新しい説を立てて行こうと努力する人です。
    そしていつの時代も、世間は既存の力を持つ者の味方です。
    ですから前者には力があり、後者にはそれがありません。
    そして新しい説を立てる人は、いつの世においても、馬鹿にされ、罵倒され、悪口を言われ続け、そして時代を変える発見をしても、それは世間に出る前に潰されるか、無視されることになります。

    そして鈴木梅太郎の研究は、結果として世界の学者達から注目されることなく埋もれてしまうのです。
    この研究論文に啓発されたのかどうかまではわからないことですが、不思議なことにその翌年、フンクが米ぬかから抽出した同じ物質に「ビタミン」と名前を付けました。
    そして今でも日本国内では、「ビタミン」の名称が一般的になっています。

    ところが世界は不思議なものです。
    鈴木梅太郎の研究はその後の世界で再評価され、医療の最前線では「オリザニン」という名称が使われるようなりました。
    我が国の医療機関でも、外国から輸入した最前線の医療分野では、「オリザニン」の名称が使われています。
    その一方で日本国内では、一般的にはいまだに「ビタミン」です。

    さて、誰からも評価されなくても誠実を尽く鈴木梅太郎に、神様は不思議なプレゼントをしてくれました。
    当時の日本は、第一次大戦のあとの戦勝景気のあとに襲った大不況と米不足の中にありました。
    そうした中にあって、酒が飲みたくても価格が高くて飲めないという人が多く出ました。
    そこで神様は鈴木梅太郎に、合成酒の作り方を教示してくれたのです。

    この合成酒は大正7(1918)年には商品化され、またたく間に大ヒットなりました。
    いまでも価格の安い日本酒の多くは、その合成酒の手法で造られていいますし、コンビニで売られているビールの発泡酒も、まさにこの合成酒の技法を用いて製造されているものです。
    要するに発酵させてお酒を作るのではなく、アルコールにアミノ酸などを加えて「お酒みたいなもの」にした製品です。
    この合成酒というのは、それまで世界になかったものなのですが、いまでは世界中で造られ、売られるようになりました。

    知識は神々のものであり、その知識を我々人間は「使わせていただいている」というのが、古くからの日本人の思考です。
    そして神々の「たから」は、民にあります。
    だからこそ、世のため人のために最善をつくす。不断の努力を惜しまない。

    鈴木梅太郎の「オリザニン」の発見も、合成酒の製造も、まさにその神々のお心の前に謙虚にあったからこそ生まれた新しい技術であり人類の知恵であったものと思います。
    自分のため、自分の欲望のためではなく、世のため人のために持っている知識や経験を活かす。

    教育勅語にも次の言葉があります。
    「恭倹己レヲ持シ 博愛衆ニ及ホシ 
     学ヲ修メ 業ヲ習ヒ
     以テ智能ヲ啓発シ 徳器ヲ成就シ
     進テ公益ヲ広メ 世務ヲ開ク」
    まさにこの心が、私たちの祖先がのこしてくれた遺訓です。
    昔も今も変わらない、世界に通じる正しい心なのだと思います。

    不思議なことに、日本人が失ったその心を、いま欧米諸国の人々が必死になって学習している。
    私たちは、すこし立ち止まってそのことを考えなければならないのではないかと思います。


    ※この記事は2012年2月の記事のリニューアルです。
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    白か黒かの二者択一論では、こうした人材は生まれないし、ただ対立が深まるだけです。
    日本的な考え方ではそうはなりません。
    学ぶべきものは学び、いまこの瞬間にできることのために、学び考え行動し、最善の解を得る。
    何のためかといえば「道のため、人のため」です。
    大村藩の偉業の原因がここにあるし、西郷隆盛の信頼や勝海舟の行動の原点もそこにあります。


    20211209 無血開城
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    JR田町駅を降りるとすぐのところに、
    ~~~~~~~~~~
    江戸開城
    西郷南洲
    勝海舟
    会見之地
    ~~~~~~~~~~
    と書かれた石碑が建っています。
    場所は、東京都港区芝5-33-1です。

    ここは、その昔、薩摩藩邸があったところです。
    ここで勝海舟と西郷隆盛が対談し、江戸城の無血開城が決められました。
    このときの模様が勝海舟の「氷川清話」の中にあります。

    ~~~~~~~~~~
    おれは今日までに、まだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。
    どうしても西郷は大きい。
    妙なところで隠れたりなどして、いっこう、その奥行がしれない。
    厚かましくも元勲などとすましているやつらとは、とても比べものにならない。

    西郷はどうも人にわからないところがあったよ。
    大きな人間ほどそんなもので、小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでもないのう。
    西郷なんぞはどのくらい太っ腹の人だったかわからないよ。

    あの時の談判は実に骨だったよ。
    官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。

    その時分の形勢といえば、品川から西郷などがくる。
    板橋からは伊地知(正治)などがくる。
    また江戸の市中では、今にも官軍が乗りこむといって大騒ぎさ。
    しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼中においた。 

    さて、いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。

    「いろいろむつかしい議論もありまっしょうが、私が一身にかけてお引受けもす」
    この西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。

    もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろうるさく責め立てるに違いない。
    万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。

    しかし西郷はそんな野暮はいわない。
    その大局を達観して、しかも果断に富んでいたにはおれも感心した。

    このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風がみえなかったことだ。
    その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどということはもとより少しもなかったよ。

    西郷におよぶことのできないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。
    おれの一言を信じてたった一人で江戸城に乗り込む。
    おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠はおれをしてあい欺くことができなかった。

    このときに際して小籌浅略を事とするのは、かえってこの人のために、はらわたを見透かされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しもあのとおり座談ですんだのさ。
    ~~~~~~~~~~~~

    勝は、西郷を褒め称えていますが、その西郷の器の大きさを感じ取ることができた勝も、同様に器の大きな男だと思います。
    そういえば近年、勝海舟は、いわばスパイのような悪辣な存在であったといったことがしきりに吹聴されているのだそうです。
    勝海舟だけでなく、坂本龍馬も同じです。

    歴史上の人物というのは、どんな人であっても、人間ですから、良い面、悪い面があります。
    そのどちらもあるから人間なのです。
    間違いのない、「私、失敗しないので」と豪語できるような人というのは、ただ傲慢なだけで、実社会では、むしろ失敗ばかりしているのが人間というものではないかと思います。

    勝海舟も、坂本龍馬も、偉大な業績を残した人物です。
    けれど、偉大な業績というものは、常に功罪表裏一体です。
    後世の人は、そのどこを見るかではないかと思います。

    私は「歴史は学ぶためにある」というのが持論です。
    良い面、悪い面、いずれもが、私たちにとっての学びです。

    勝海舟も、その闊達な気性と歯に衣着せぬものの言い方から、あるいは旧幕臣でありながら維新後に明治政府の高官になったりしたことから、たいそう嫌う人も多かったのです。

    福沢諭吉など、勝を嫌った代表格です。
    諭吉は勝と一緒に咸臨丸で渡米した経験、すなわち幕府の巨費を投じて育成された人材です。
    けれど福沢諭吉は、明治政府には相手にされませんでした。
    一方、勝は、旧幕臣でありながら、明治政府から厚遇を得ました。
    そんな勝に、諭吉は我慢しきれなかったのでしょうね。
    「やせ我慢の説」という論文を公表し、これに対して公式にきちんとした回答をせよ、と勝に迫っています

    このときの勝海舟の返事がふるっています。
    長たらしい釈明をせず、たった3行で回答したのです。

    「行蔵は我に存す。
     毀誉は他人の主張。
     我に与らず」

    行いは自分ですることであり、批評は他人がすることだ。
    他人の批判なんて、俺には知ったこっちゃねえよ、というわけです。

    このとき、福沢のした勝批判は、要するにお前は徳川幕府派なのか明治新政府派なのか、あるいは佐幕か尊皇か、開国か攘夷か等々という、二者択一の二元論です。
    簡単に言ったら「白か黒か」と迫ったわけで、この場合、グレーであっても白か黒かどちらかに分類しなければならない。

    けれども、グレーはグレーです。
    白でもなきゃ、黒でもない。
    となると、白と答えればウソになるし、黒と答えてもウソになる。
    こうして論理の破綻をさそって相手の信用を貶める。
    ヘンに小利口な者がよくやる手口です。

    ちなみに、ボクは福沢諭吉の悪口をここで言おうとしているのではありません。
    歴史上のどんな人でも、いい面もあれば、コケたり失敗したりする面もある。
    生身の人間が「生きる」ということは、そういうことだろうと思うのです。
    だからいい面だけを掘り起こせば、美談になるし、コケたり失敗したりした部分だけをことさらに取り出せば、また違った物語になります。

    ただいえることは、いい面も悪い面も、あって当然なのが人間なのであって、後世の私たちに必要なことは、そういう事実から歴史上の人物を「評価」することではなくて、私たち自身が「いま」と、そして「これから」を生きるにあたって、何を「学ぶ」かであると思うのです。
    「評価」は傲慢です。
    「学び」は、知性を啓(ひら)きます。

    勝海舟と、福沢諭吉の最大の違いは、福沢諭吉がどこまでも身分や封建制や主君という概念の中で物事を把握し判断しようとしたのに対し、勝には常に「世界の中で日本が生き残る道」という思考があったことです。

    欧米列強が東亜の植民地化を推進しようとして虎視眈々と狙っている状況下にあって、いまさら主君も藩もない。
    俺が仕えているのは日本だぜ、というのが勝の立ち位置です。
    そういう視点からみたら、佐幕か勤王かという二者択一論は、狭量な井の中の蛙論になってしまうのです。

    白でも黒でもいい。
    大事なことは日本を守ることです。

    さて、西郷南洲と勝海舟の会見ですが、この席に西郷に指名されて同席し、会見の模様を世に伝えたのが、大村藩の渡辺清左衛門(後に改名して渡辺清=わたなべきよし)です。

    渡辺清
    渡辺清


    戊辰戦争というと、なにやら薩長土肥しか幕府側と戦ってなかったように戦後の歴史教科書は教えるけれど、実際には、薩長土肥以外にも、鳥取藩、大垣藩、佐土原藩、佐賀藩などが大活躍しています。

    なかでも凄みのあったのがを見せたのが長崎県大村市にある玖島城(くしまじょう)を藩庁に持つ大村藩で、この藩は、藩の石高でみると、わずか2万7000石です。

    ちなみに、薩摩が73万石、長州が36万石、土佐24万石、鳥取32万石、佐賀35万石といった規模です。

    だいたい1万石で、兵を250人養えるといいますから、兵力でいえば、
    薩摩 18000人
    長州  9000人
    佐賀  9000人
    鳥取  8000人
    土佐  6000人
    の規模です。

    これに対して、大村藩は700名弱の兵力でし。
    にもかかわらず、戊辰戦争の恩賞では、薩長土に続く、4番目に高い褒章を得ています。
    それだけすさまじい活躍をみせたのが大村藩だったわけです。

    大村藩というのは、戦国時代から長崎に続く名家で、石高こそ小さいけれど南蛮貿易を通じて豊かな経済力を誇っていた大名です。

    ところが日本が鎖国するに至って、南蛮貿易の利権を奪われ、米財政だけとなった。
    当然財政は厳しくなったけれど、もっぱら幕府に対して恭順の意を呈し、長崎奉行などの要職を得るようにもなっています。

    そんな経緯から、もともと国際情勢に強い大村藩です。
    幕末の頃は、藩論が佐幕派と尊皇派に藩論が二分されたけれど、尊王派の盟主が暗殺された事件をきっかけに、一気に尊皇倒幕へと藩の意思が統一されました。
    徳川がどうのとか、諸藩がどうのとか言っているときではない。
    日本は、ひとつの国となっていかなければ、国家そのものが蹂躙されてしまうというのです。

    ときの大村藩主である大村純熈の写真が現代に残っています。
    下の写真です。この写真がおもしろい。
    戦装束に、特別に大きくあつらえた日の丸の扇子を持っています。

    日の丸というのは日本という国家の象徴です。
    我こそは統一日本を築く先駈けとならん、という大村純熈の意思を、写真は明確に物語っているのです。

    大村藩第11代藩主大村純熈
    大村藩第11代藩主大村純熈


    大村純熈は、藩内で大村七騎と呼ばれる名家出身の渡辺清に、藩士編成による倒幕部隊を編成させました。
    そうはいっても、大村藩はわずか2万7000石。
    兵力は乏しい。

    ところが渡辺清は、逆に少数であることを活かして、圧倒的な火力を持った少数精鋭の火力軍団を形成しました。
    組員は、銃撃二個小隊と、大砲隊、あわせて100名です。

    隊の名前は「新精組」です。
    「精」の一字に、精密射撃を旨とする新しいタイプの戦闘部隊であるという志をあらわしました。

    新精組の隊旗
    新精隊旗


    そして、刀剣中心の幕軍に対して、銃撃や大砲など、圧倒的火力を持つ新精組は、強力な力を発揮します。
    寡兵ながら桑名城を落とし、赤報隊を逮捕し、三月初めには官軍の先鋒として箱根を無血占領しています。
    こうした経緯から、渡辺清が、西郷隆盛と勝海舟の江戸城開城の場に大村藩を代表して立ち会っています。

    このすぐ後に、渡辺清は、上野山で彰義隊と戦い、さらには奥州方面の戦いにも参戦し、戊辰戦争後は、江戸(東京市)の警備に就いています。

    ここが今日、言いたいところです。
    当時の大村藩の実力は、遠征部隊としては100名の軍団がやっとでした。
    その軍団が遠隔地に出征するとなれば、兵站部門(補給部隊)を編成しなければなないし、藩そのものの警備兵も必要です。
    つまり藩としては700名の兵力があるけれど、遠征部隊として出征できるのは、100名がやっとだったのです。

    ようするに、大村藩は、たった100名で、公称旗本八万騎と呼ばれる徳川幕府に敢然と戦いを挑んだわけです。
    これは、普通の常識で考えたら、あり得ない選択です。

    しかしそれでも彼らは立ち上がりました。
    視野を世界に広げ、日本国内での戦い方ではなく、洋式の機動部隊の戦い方を習得し、圧倒的な火力を整え、いまだ中世的な刀槍や弓矢による戦いにこだわる幕軍に対して、徹底した雷撃隊で挑んだのです。

    そして彼らの志は日本という国家の樹立そのものです。
    小さな白か黒かといった二元論ではなく、もっと大きな視野で日本を考えようとした。
    それは、長崎を拓いた大村藩ならではの活躍であったといえるのかもしれません。

    ちなみにもっと付け加えると、新精組隊長であった渡辺清の実の弟に、渡辺昇がいます。
    渡辺昇は、剣を、斎藤弥九郎の錬兵館に学びました。
    練兵館といえば、神道無念流です。
    この道場があった場所が、いま靖国神社になっています。
    そして、このころの塾頭が長州の桂小五郎です。
    渡辺昇は、小五郎の次の塾頭です。

    昇も幕末の志士として大活躍しています。
    剣を通じて得た人脈で、長崎で坂本龍馬に頼まれ、長州藩に薩摩との同盟を働きかけ、こうしてうまれたのが薩長同盟です。
    これまた白か黒かという小さな二元論ではなく、広く世界を見据えて行動するという大村藩士らしい行動です。

    もうひとつ申し上げます。
    その大村藩から、昭和になって中村松雄が出ています。
    支那事変当時、上海にいた中村松雄は、上海にいたユダヤ人の一団を、米国へ逃がしています。

    ユダヤ人たちは、ドイツのナチス親衛隊から追われていたのです。
    ほっておけば彼ら全員が殺害されると知った中村松雄は、彼らユダヤ人の避難先として、米国を選択しました。

    この頃の米国は、蒋介石を後方支援しており、日本とはあからさまな敵対関係にあります。
    ドイツとは、同盟関係です。

    にもかかわらず、中村松雄は、アメリカに話をつけて、ユダヤ人の亡命を確保し、受け入れを実現させただけでなく、三菱商事に話をつけて、無償で米国までの船を出させています。

    これも、戦時同盟云々よりももっと幅広い人道を優先しようと考える大村出身者ならではの発想であったといえるかもしれません。

    偏狭な視野や、建て前論に惑わされず、常に広い視野をもって必要なことを自分の頭で考えて、実行する。

    いま、日本を亡国から救えるのは、日本を守ろうという意識をもった幅広い層の結集にあります。
    すくなくとも、同じ志を持つもの同士で、白か黒かとやっているときではない。
    そのように思います。

    さて、幕末に新精組を編成して幕軍と対峙した渡辺清ですが、その渡辺清の長女が石井筆子です。
    石井筆子は、明治の鹿鳴館時代を代表する美人であり、かつ、明治の女性教育の向上を目指した先駆者であり、知的障害者の福祉と教育を整備した偉大な女性です。

    白か黒かの二者択一論では、こうした人材は生まれないし、ただ対立が深まるだけです。
    日本的な考え方ではそうはなりません。
    学ぶべきものは学び、いまこの瞬間にできることのために、学び考え行動し、最善の解を得る。
    何のためかといえば「道のため、人のため」です。

    大村藩の偉業の原因がここにあるし、西郷隆盛の信頼や勝海舟の行動の原点もそこにあります。




    ※この記事は2010年の当ブログの記事のリニューアルです。

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    人は魂の乗り物です。
    人の道を外れた行動を取れば、それは魂の傷になります。
    それは来世にまで祟ります。
    世界最長の漂流を続けた小栗重吉が、人であることを保ち続けることができたのは、そうした魂観念をしっかりと持っていたからです。
    これが日本人の根幹のひとつです。
    日本の根幹にあるのは、神と天皇と魂です。


    201911113 メデューズ号の筏
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BA%E5%8F%B7%E3%81%AE%E7%AD%8F
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    小名木善行です。

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    上にある絵は、メデューズ号の筏(いかだ)といういう絵です。
    フランスロマン主義派の画家テオドール・ジェリコーの油絵で、パリのルーブル美術館に所蔵されています。
    写真をご覧になられた方も多いのではないかと思います。

    メデューズ号というのは、フランス海軍の小型戦艦です。
    40門の大砲を装備し、ナポレオン戦争でも活躍しました。
    この船が、文化13(1816)年、フランスから西アフリカのセネガルに向かう途中、操船を誤ってアルガン岩礁に乗り上げて座礁しました。
    このときメデューズ号には397人の乗員が乗っていたけれど、手持ちの救命ボートは6隻しかない。
    収容能力は250人です。

    そこで救命ボートに乗れない残り147人(男性146人、女性1人)について、船内の木材を使って筏(いかだ)を作り、これを救命ボートで曳航することにしました。
    海岸までは50キロです。

    ところが折からの強風のため、曳航用のロープが切れ、筏(いかだ)が漂流してしまう。
    そもそも曳航用に急造した筏(いかだ)です。
    筏(いかだ)には食料も水も、救援物資はほとんど積まれず、操舵や航海のための手段もありません。

    漂流を始めた筏(いかだ)では、まず士官と乗客、水兵と陸兵の間で争いが起こりました。
    そして漂流が始まった最初の夜の内に、20人が殺されてしまいます。

    さらに何十人もが、比較的安全度の高い筏(いかだ)の中央部の席を争って死に、3日目には筏(いかだ)上の生存者は、わずか67人に減ってしまいました。
    食料がないことから人肉食を行う者が出始め、肉を食べて力をつけた者が、弱ったり傷ついた者を海中に投じたため、漂流8日目までに52名が死亡してしまう。

    漂流9日目に偶然遭遇したアルギュスに救出されたのは、わずか15人だけでした・・・というのがメデューズ号遭難事件のあらましです。
    洋上での漂流というのは、かくも厳しいものなのです。

    さて、そうした漂流事件で、過去最長の漂流日数を記録しているのは、どこの国でしょうか。
    実は、それが日本です。

    事件はメデューサ号遭難事件の3年前、文化10(1813)年に起こりました。
    尾張藩の小嶋屋庄右衛門所有の船「督乗丸(とくじょうまる)」(約120トン)が乗組員14人を乗せて江戸からの帰還途中、遠州灘で暴風雨に巻き込まれて遭難してしまったのです。

    舵を破損した督乗丸は、海流に乗って太平洋を漂流し、文化12(1815)年に、米国カリフォルニア州のサンタバーバラ付近の洋上で英国船に救助されるまで、なんと484日間にわたって漂流しました。
    生存者は、船頭の小栗重吉以下、音吉、半兵衛の3名だけでした。

    3名は、ベーリング海峡を経て択捉島(えとろふ)島に護送されました。
    途中、文化13年6月に半兵衛が病死し、最後に残った小栗重吉と音吉の2名が、同年9月に松前に到着。
    江戸での取り調べのあと、文化14(1817)年4月に身柄を尾張藩に移され、5月にようやく故郷の土を踏みました。

    文政5(1822)年、生き延びた船頭の小栗重吉から、国学者の池田寛親が漂流のいきさつと経緯を詳しく聞きとり、これを『船長日記(ふなおさにっき)』という本にまとめて出版しました。
    おかげで漂流の詳細な情況が、いまに残されたのです。

    そこで漂流の模様を元本田技研工業の仲村孝さんの講演録から、以下にご紹介します。

    ~~~~~~~~~~
    記録によると督乗丸は、海難にあった時点で米を6俵と、大量の大豆を積んでいた。
    当初、乗員14人でしたが、遭難時に1人が転落事故で死亡。
    漂流したのは13人です。
    漂流が始まって13日目には、船長の重吉は長期の漂流を覚悟したそうです。
    その理由は、「もう八丈島が見えない」だそうで、以後彼は大変なリーダーシップを発揮し、食糧の食べ方など諸々の指示を仲間に与えます。

    重吉は万年暦というものを持っていて、その暦に基づいて日々の出来事を書き付けていたようです。
    86日目に米が尽きる。
    魚を釣る話も出てきますがなかなか釣れなかったようです。
    150日目には起き上がれない人が相当出てきた。懐血病のようで寝たきりになり起き上がれない。

    212日目に初の死者が出ます。
    ここから350日までの間に10人が立て続けに死亡。
    残ったのは3人でした。

    350日目、この時に3人のうち2人が死体遺棄の提案をします。
    要は10人の死体をこのまま置いておくのは如何なものか、
    船を守っている神様が悪臭を放つ死体を嫌っているのではないか、
    しかるが故に陸に辿り着けないのではないか、
    船霊の怒りを鎮めるために死体は捨てるべきだ、と主張したのです。

    当時「船霊」といって、右舷に3種の船霊が収められていたそうです。
    1つは女性の髪の毛です。
    この時は船主の奥さんの髪の毛。
    それから双六(すごろく)のサイコロが2つ。
    そして1対の紙で作ったお雛様(ひなさま)。
    この3つが船霊だそうです。

    これに対し船長の重吉は逆に竜宮の神の怒りを心配します。
    つまり「死体を海に捨てるのは簡単だ。ただ捨てることで海底の海神様が怒るのではないか、それで海が荒れたら船は沈んでしまう」ということです。

    悩んだ船長はおみくじに頼りました。
    丁か半かということで、おみくじを引くと「捨てろ」とでる。

    こうして3人は10人の死体を海に捨てたそうです。
    その時の描写にはこう書いてあります。
    「死体を触るとぼろぼろと崩れ落ちる。
     土を運ぶがごとく手にすくって、
     その死体を海に入れた」
    「ぼろぼろと」とか「土を運ぶがごとく」という表現が印象的です。

    話が前後しますが重吉は、
    「おみくじで棄てろというなら仕方あるまい。
     ただ1ヶ月待ってくれ。
     その間、自分の夢枕に
     この死んだ者が《捨てないでくれ》と
     語りかけてきたら中止しよう」
    と言ったそうです。
    それで1ヶ月延期したのですが、誰も夢枕には出てこなかったということで捨てたそうです。

    それ以降2ケ月強、天候が悪化、サメが出たり、今まで釣れていた魚が釣れなくなったとか、3人のうち船長を除く2人が体調不良となり、元気なのは重吉だけとなったそうです。
    それから3か月あまり更に漂流が続き、重吉までもが身体が弱り、万事に悲観的になり落胆してしまう。

    もうおみくじを引く意欲も無くなるのですが、440日目に意を決して、もう1回引きます。
    その時の状況は、簡単に言えばカードを3枚用意し1と3を引いたら自殺する、2を選んだらまた生きようと考えたそうです。
    そしで選んだのが2番だった。
    そこで、「しからばいつ頃陸地に巡りあえるのだ」と更におみくじを引く。
    回答は「今から1~2ヶ月後」。それで元気回復、頑張るわけです。

    さきに概要で述べたようにその一カ月半後の484日目、サンタバーバラの沖合まで漂流した督乗丸は英船に救助され3人は露船に移乗、2人が約3年半ぶりで日本に帰った訳です。

    重吉の統率力、グループの意欲を高める力は大変なものがありました。
    例えば、皆に念仏を唱えさせたという話があります。
    念仏を唱えない奴には食料を与えないと宣言までしています。

    面白いのは船内で「好きなだけバクチをやれ」と、なかば強制的にバクチをやらせていることです。
    重吉はその時30歳を少し越したくらいの年齢でした。
    自分より若い仲間が死んでいく中、自分だけは生きて帰るという思いが特別強かったようです。

    それも自分の個人的な為でなく、
    「なんといっても供養塔を建てる、
     建てるまで俺は死ねない」
    という堅い信念のもとで彼は生活したようです。
    そうした信念あればこそ生き延びられたのだと思います。

    彼は実際に日本に戻って供養塔を建てます。
    それは現在、名古屋市熱田区のお寺に残っています。
    ただ建設資金には苦労したようで、資金集めに熱田神宮などで参詣人相手に見料を徴収しています。

    484日の漂流、プラス英・露の船での航海という世にも珍しい体験を語り、米露で集めた39品目を展示、さらには約340語の和露単語集も販売したそうです。
    ~~~~~~~~~~~

    メデュース号遭難事件にあるように、海難事故による遭難というものは、その日のうちには殺し合いが始まり、わずか3日目には食人が、そしてわずか9日間の漂流ですら400人中385人が死亡するという一種の極限状態です。
    その極限状態にあって、人としての気概を失わず、人類史上最長の漂流生活を耐え抜いたのは、他でもない日本人です。

    船頭の重吉も立派なら、音吉を含め、お亡くなりになったひとりひとりの船員たちも、皆、立派でした。
    そしてこんなところにも、共に生きようとする日本人の共生の文化がにじみます。

    さらに重吉は、亡くなった仲間に対し
    「なんといっても供養塔を建てる、
     建てるまで俺は死ねない」
    と固く心に誓い、神仏の加護を信じて疑いませんでした。

    これが日本人です。
    そしてその日本人としての血を、我々こんにちを生きる多くの日本人は、ちゃんと受け継いでいます。

    ちなみに共産主義思想は、その神仏を先ず否定します。
    神仏とか宗教とかいうものはいかがわしいものであり、ダーウインの進化論にあるように人類は常に進化するものであり、その進化の果てにあるのが理想的共産主義社会であるユートピアであると説くからです。
    しかし、そのユートピアなる社会が、どのような社会システムを持ち、どのように犯罪に対処し、どのように行政が行われ、どのように災害対策がなされるのか等といった具体的な姿は一切描かれません。
    それはそれぞれの人の思いでしかないわけです。
    しかも、過去は常に遅れた存在であると主張する共産主義者が、「いまどきの若い者は」などと言い出す始末ですから、お笑いです。

    かようにいい加減なものを、主義と称すること自体、馬鹿げているのですが、人は馬鹿げているものに夢中になるという特性があります。
    馬鹿げているから、最後は有無を言わさぬ感情で解決するしかなく、だから共産主義は虐殺主義に至ります。

    一方、西洋において、宗教がありながら漂流が常に悲惨を伴ったことにも理由があります。
    肉体を持っていて神との契約がある者のみが人だからです。
    そして人の肉体は復活の日に備えます。
    つまり肉体の保持が大事になります。
    死んで海の藻屑となり、埋葬されないのならば、その日に復活できないのです。
    だから何が何でも、自分だけは生き残ろうとします。

    東洋社会においては、チャイナの場合、人は食べ物であり、生きている間だけが人ですから、生き残るためには人を食べます。

    これに対し日本では、人は魂の乗り物です。
    人の道を外れた行動を取れば、それは魂の傷になります。
    それは来世にまで祟ります。
    世界最長の漂流を続けた小栗重吉が、人であることを保ち続けることができたのは、そうした魂観念をしっかりと持っていたからです。
    これが日本人の根幹のひとつです。
    日本の根幹にあるのは、神と天皇と魂です。


    ※この記事は2010年11月の記事のリニューアルです。

    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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    敗れたのはむしろイギリスをはじめとする
    植民地を所有していた欧米諸国であった。
    彼らはこの戦争によって
    植民地をすべて失ったではないか。

    20201106 雲海
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    ▼ 二十世紀における最大の出来事

    仮にいまから千年後の子供たちが、世界史の授業で二十世紀という時代を習うとします。
    そのとき、二十世紀を代表する最も大きな出来事は、いったい何だと教わるでしょうか。
    みなさんは、何だと思われますか?
    世界史──つまり人類史において、二十世紀を代表する最大の出来事とは・・・・?

    私は間違いなく、「植民地支配の終焉」を挙げることになるだろうと思います。
    人が人を差別する時代、しかもそれを国家ぐるみ、民族ぐるみで人種差別し収奪した時代、これがはじまったのは、十六世紀の大航海時代から以降のことです。
    もちろん古代においても奴隷支配という植民地の原型はありましたが、対等に戦い、勝負した結果、支配する者と支配される者に別れ、歴史においてその地位が度々逆転した中世以前の戦勝国による支配と、大航海時代以降の国家ぐるみ、民族ぐるみで人種そのものを差別し搾取した「植民地支配」とでは、その規模も内容もまるで異なっています。

    十六世紀以降、アジアやアフリカの有色人種諸国は白人が入植する植民地となり、現地の人々は収奪され、家畜のように扱われ、そして愚民化政策によってただ隷属するだけの民族に仕立て上げられていきました。
    当時の白人たちにとって、被植民者である現地のカラード(有色人種)は、人間ではありませんでした。
    これは誤解されている方もいらっしゃるのですが、人間として扱わなかっただけでなく、そもそも白人たちは有色人種を人類とは別の種類の生き物──つまり獣であると認識していたのです。

    有名な話ですが、植民地においては、白人の娘さんが部屋で着替えているところに、有色人種の男性(奴隷)が用事で入ってきても、娘さんは平気だったそうです。
    要するに室内に犬や猫が入ってきたのと、まるで同じだったのです。
    もちろん白人女性が着替えているところに、白人男性が入ってきたら、それはもう大騒ぎになります。

    こうした欧米列強による有色人種への植民地支配は、約五百年続いたのです。
    その間、何度かカラード(有色人種)による大規模な反乱なども起こっています。
    インドで1857年に起こったセポイの乱などもその一例です。暴動は白人たちの圧倒的火力の前に鎮圧され、首謀者たちは大砲の前に縛り付けられた状態で、大砲を発射され、五体をバラバラに飛ばされて処刑されました。
    なぜそのような残虐な方法で処刑できたのかといえば、有色人種は人間とみなされなかったからです。

    ▼ 日本人が自らを犠牲にして果たしたこと

    そうした植民地時代が、二十世紀の終わり頃、突然各地で終焉を迎えたのです。
    世界中の被植民地国家は次々と独立を果たし、欧米諸国はその富の源である植民地をことごとく失いました。
    それだけではありません。
    かつて被植民地として支配されたカラード(有色人種)国家は、経済面でも急激な成長を遂とげ、二十一世紀となったいまでは、世界の経済の牽引役にまで育っています。
    この突然の変化の背景には、何があったのでしょうか。
    五百年続いた絶対的優位の植民地支配が、なぜ、こうも短期間に突然の終息を迎えたのでしょうか。

    これをお読みのみなさんなら、もうお分かりかと思います。
    答えは、日本にあります。

    東洋の辺境にあった島国の日本が、世界でただ一国、カラードでありながら自尊独立のために短期間で国をまとめ、積極的に欧米の文物を取り入れ、瞬く間に欧米列強と肩を並べる強国になったかと思うと、ただ一国で世界最強の誉れ高いロシア陸軍を彼らの最も得意とする陸戦で打ち破り、さらに世界最強のバルチック艦隊を壊滅させたのみならず、昭和16年には絶対に負けることがないと信じられた大英帝国の東洋不沈艦隊を壊滅させてしまいました。

    さらに日本は、植民地支配されていた諸国で白人支配者を追放すると、現地の人々に行政を教え、教育を施し、軍備を整えさせ、彼らの独立自尊を手助けしました。
    その代わりに、日本は満身創痍の焼け野原になりましたが、ついに世界は、植民地支配という構図を失うに至ったのです。

    その象徴となったのが、昭和39(1964)年の東京オリンピックでした。
    東京オリンピック参加国は、その時点で史上最多の93カ国です。
    なぜ最多なのか。
    新たに独立した世界中の元植民地国が参加してくれたからです。

    東京オリンピックのマラソンで優勝したアベベ選手は、イタリアの植民地から独立したばかりのエチオピアからの参加です。
    ちなみに東京オリンピックの前に開催された1960年のローマオリンピックの参加国は83です。
    1956年のメルボルンオリンピックでは、参加国は67でした。
    1896年に行われたアテネオリンピックでは、参加国はわずか14です。

    東京オリンピックの次に開催されたメキシコシティオリンピックでは参加国は112となり、2012年のロンドンオリンピックでは、ついに参加国は204となりました。
    参加国が増えたということは、それだけ独立国が増えたということです。
    そしてそうなった背景には、間違いなく日本の働きがそこにあるのです。


    ▼ 日本は戦争目的において勝っていた

    そして、二十世紀までの世界史のなかで、自国の利益を度外視してまで周辺諸国の独立と平和のために戦い、勝利を得、それら諸国に莫大な経費をかけて自立を促したという、まさに神様のような国は、日本以外に存在しません。
    韓国人で、韓日文化研究所の朴鉄柱氏は、次のように述べています。

    「大東亜戦争で日本は敗れたというが、
     敗れたのはむしろイギリスをはじめとする
     植民地を所有していた欧米諸国であった。
     彼らはこの戦争によって
     植民地をすべて失ったではないか。」

    まさに、そのとおりです。
    五百年後、千年後の世界の歴史教科書には、二十世紀に関する記述として、間違いなく「植民地時代の終焉」という語句が入ると思います。
    これこそ二十世紀最大のエポックであり、人類史に残る偉業といえることだからです。
    そしてこれを成し遂げたのは、まぎれもなく、私たちと血のつながった若き日の私たちの父祖たちだったし、それを引き起こしたのは間違いなく日本でした。
    そういうことを私たちは、しっかりと知っておく必要があると思います。

    ちなみに、植民地というのは英語で「colony(コロニー)」です。
    ですがおもしろいもので、日本語でコロニーと書かれるときは、生活共同体の意味に用いられるようです。英語の「colony」が、日本語では「植民地」「コロニー」と二つのまったく別な言葉に訳されて使われているのです。
    ちょっとおかしな話です。


    ▼ 不思議の国「日本」

    さて、せっかくここまで書いたので、もうひとつ。二十世紀の終わり頃から二十一世紀にかけて、世界の人類に起こった最大のエポックは何でしょうか?
    第一次、第二次世界大戦ではありません。
    それらはいずれも二十世紀に終わっています。
    米ソの冷戦でしょうか。
    それも二十世紀に終わっています。
    核の開発と利用、人類初の月面着陸、火星探査機の打ち上げ、もちろんそれもあるでしょう。

    けれどそれよりなにより、もっとはるかに大きな出来事があります。
    それは、世界の人口が70億を超えたことです。

    大東亜戦争が終結した頃、世界の人口は約20億人だったのです。それがわずか70年足らずで、70億人へと3倍半に増加したのです。
    これは人類史上、初の出来事です。
    地上にこんなにたくさんの人間が住むようになったのは、人類史上、いまをおいてほかにありません。

    一七九八年に、英国のトマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus)という学者が、『人口論』という本を書きました。
    まさに歴史的名著といわれる本なのですが、その中で彼は、次のように述べています。

    「人口は、幾何級数的に増加する。
     一方、食料の生産能力には限界がある。
     だから人口の増加には一定の限界がある。」

    これはとても重要な指摘です。
    なぜならここに指摘されているとおり、人類は食料の生産能力を超えて生き残ることは不可能だからです。
    マルサスは本の中で、

    「いろいろな研究調査の結果、
     最終的に世界の人口は二十億人が限界で、
     それ以上は食糧生産高が間に合わず、
     人口は増加しない」
    と述べています。
    そしてマルサスの本から150年後の世界は、まさに20億の人口となっていたのです。

    第二次世界大戦の発生原因については、政治学的な考察や、軍事学的な検証、あるいは地政学的なアプローチなど、さまざまな研究がなされています。
    しかし、戦争原因についての統一見解はありません。
    つまり諸説ある状態なのです。
    それら諸説の根本を探っていくと、結局のところ、戦争の原因は貧困と飢え──つまり人口が20億に達し食料供給が限界になった世界が、新たな食料の供給源を求めて奪い合いをしたからだと考えることができます。

    けれどここに、やはりおかしな国が、世界に一国だけありました。
    日本です。

    日本は満州や中国大陸、東亜諸国や南洋諸島に進出しましたが、そこで何をやっていたかというと、もちろん政治経済軍事的側面もありますが、同時に大変熱心に農業指導をしているのです。
    世界が「自分たちが食うため」に他国を侵略し、その国の食い物を横取りするという挙に出ていた時代に、世界でただ一国、そうした暴力集団を追い払い、現地の人々と一緒になって汗を流して食料生産高の向上を図ろうとしていた──それが日本だったのです。

    事態はそれだけにとどまりません。
    日本は大変な国費をかけて農業生産物の改良をし、なかでも稲塚権次郎氏の開発した小麦は、なんと収量がそれまでの小麦の五倍というすごい品種でした。
    稲塚氏が直接指導した中国の華北産業科学研究所は、まさに中国全土にこの新種の小麦の普及促進と農業指導をして回っていました。
    おかげで華北産業科学研究所の職員は、大東亜戦争終結後も中国に2年間とどまり、その普及活動を継続させられています。

    その結果、何が起こったのでしょうか。
    大東亜戦争当時の中国の人口は約5億人でした。
    それがいまや15億です。
    人口が三倍に増えました。
    三倍の人が「食って生きて」いくことができるようになったのです。

    さらに稲塚氏の開発した小麦は、戦後に起こったインドの大飢き饉きんを救っています。
    飢饉によって1億人以上が死ぬと思われたときに、この小麦の改良品種がインドにもたらされ、たくさんの命が救われました。
    それ以降、インドで飢饉は起きていません。

    さらに1960年代から90年代にかけて、インドの小麦の収量は3倍に増大。
    その結果、人口まで3倍に増えたのです。

    こうしたことの積み重ねによって、世界の人口は爆発的に増大し、いまや70億に達しようとしています。
    つまり、二十世紀の後半から二十一世紀初頭にかけての、爆発的な人口増加の理由のひとつに、間違いなく日本という国の働きがあるわけです。

    誰しも、人が死ぬのは悲しいことです。
    まして飢えて死ぬなどということは、もっと悲しいことです。
    飢えによって我が子を死なせることになったら、いくら悔いても悔やみきれない悲しみが残ります。
    そうした飢えから多くの人々を救い、子孫を増やすことができるようにしたのだとすれば、それはまさに神の行いといっても過言ではないかもしれません。

    もちろん、世界に奇跡の小麦が普及拡大した背景には、日本以外の多くの国の良心と協力と努力がそこにありました。
    いまの私たちには、こうした先人たちの努力に学び、見習い、未来を担うという役割が課せられているのではないでしょうか。


    ▼ 日本の心を取り戻そう!

    せっかくここまで書いたので、もうひとつ書いておきたいと思います。
    文明は必然的に火を使いますから、人類が文明を築いた地域では多くの木が伐採されるため、何もしなければ森林の面積が少なくなっていきます。
    おかげでいまでは、人類の古代文明発祥の地は、どこもかしこもペンペン草も生えないような砂漠になっています。

    いちど砂漠化した土地に、自然に緑が戻るには、最低でも五千年の歳月がかかるといわれています。
    ところが最近、そうして砂漠化した土地に、緑が戻りつつあります。
    何が起こっているかとクズの普及です。
    クズというのは、漢字で「葛」です。
    葛飾区、葛根湯の「葛」、好きな人も多い葛切りのクズです。

    クズは根が丈夫で、荒れた土地でも生息が可能です。
    日本生まれのこのクズが、世界の砂漠地帯で、砂だらけの土地を緑に変えつつあります。
    もちろん日本人の指導によって、現地の人たちが植えているのです。

    クズの葉は砂漠を覆って日陰をつくり、日陰は土地を潤します。
    そして葉が落ちると、それが腐って腐葉土となります。
    地面に栄養分が戻りはじめるのです。
    そうして何年かたつと、その土地が蘇り、そこでイモなどの栽培ができるようになります。
    するとますます地味が肥え、さらに灌かん漑がいにより水が引かれることによって、いままで何もないただの砂漠だった土地に、なんと何十年かぶりに緑が蘇るのです。

    見ていてください。
    十年後、五十年後、百年後、千年後。
    私たちが学生時代に、何もない砂漠地帯と教わり、パジェロがラリーで走るくらいしか使い道のなかった白い大地が、緑豊かな大地として蘇るのです。

    日本を神の国だという人がいます。
    私には、それが本当かどうかは分かりません。
    けれどひとつ言えるのは、戦後、私たち日本人が失った「日本の心」は、皆が幸せに、そして平和に暮らせる社会を皆で築いていこうという、世界の人々が待ちわびている神の心、神の願いと深いところでつながっている、そんな気がするのです。

    「日本を取り戻そう!」という言葉が、私たちの合い言葉になっています。
    それは「日本の心」を取り戻すことでもあり、世界の人々にとって本当に幸せをもたらすものは何なのかを真剣に考え、行動していくことでもあります。
    私たちはいま、それができるかどうかの瀬戸際に立っているように思います。

    日本をかっこよく!
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    「事実」に基づいて考える。
    そして時系列に連続する「事実」が、合理的かつ客観的に再現可能性が極大になるように、ストーリーを組み立てる。
    歴史学というのは、本来、そういうものです。
    年号や事件名や、誰かの「意見」を鵜呑みにするのが歴史学ではありません。
    ですから、「そんな話、どの本に書いてあるのか根拠出典を示せ」というのは、言ってみれば、「だってぇ、ママがそう言ってたもん!」と言い張っている子供と同じです。

    20201109 秋
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    イソップ物語に次のお話があります。

    【キツネと酸っぱいブドウ】
    ある日、キツネはみずみずしいブドウが高い木からぶら下がっているのを見つけました。
    ブドウは本当に美味しそうでしたから、キツネは長いこと見つめていました。
    ブドウが食べたくてたまらなかったのです。
    キツネはとても高くとび上がりましたが、ブドウを取ることはできません。
    何度とび上がっても、ブドウには手が届きませんでした。
    キツネは疲れておなかも空いていました。
    キツネは座り込んで、ブドウを見つめて言いました。
    「私って本当に馬鹿みたい!
     何度とび上がってもブドウは取れない。
     おかげでとても疲れたし、
     おなかもペコペコだわ。」
    ついにキツネは、ブドウに対して本当に腹を立てて叫びました。
    「どうせあんなブドウはおいしくないわ。
     きっと酸っぱくてまずいわよ。
     もう食べなくていい!!」
    キツネは「あのブドウは酸っぱい」と言いました。
    でも本当は食べたくて仕方がなかったのです。
    キツネは捨て台詞を吐いて立ち去りました。

     *

    【ラクダと角(つの)】
    ラクダは、角(つの)の自慢をする強そうな牛を見て羨ましくなって、自分も同じものを手に入れたいと思いました。
    そこでゼウスの所へ出かけて、角を授けて欲しいとお願いしました。
    するとゼウスは、大きな体と強い力に満足せず、余分なものまで欲しがるとはもってのほか、と立腹して、角をくっつけてやらなかったばかりか、耳の一部を取り去ってしまいましたとさ。


    ***

    同じような話を二話ご紹介しました。
    古い昔に読んだ記憶をお持ちの方も多いと思います。
    この二つのお話は、いずれも「ないものねだり」の愚かしさの物語とされています。
    しかし腹が減ったときにキツネがブドウを求めたのは合理的思考であり、体の大きなラクダが、さらに強くなろうと角(つの)を求めることもまた合理的なものです。
    同時に、これらは、キツネには食べ物がないこと、ラクダが牛より喧嘩に弱かったことを意味します。

    実は「思想」も、これと同じで、何かの思想があるということは、その思想が理想とする社会がないことを示します。
    民主主義を理想とする社会は、実は少数の大金持ちに支配され、多くの民衆が隷属させられているという、支配被支配の社会であって、実はそこに民主主義はない。
    あるいは自由主義を理想とする社会には、実は自由がない。
    共産主義を理想とする社会には、実は平等が存在しない。

    要するに、ないから欲しい・・・つまりそれらはすべて「ないものねだり」だということです。
    別な言い方をすると、それらはみんな「水中に火を求む」ものでしかない。

    ところが四方を海に囲まれた日本では、海外の実情がわからないから、それらの主義を標榜している国には本当に民主や自由があると思いこんでいます。
    そして実際に海外に行くと、「ああ、やっぱり日本が良いな」と・・。

    おもしろいもので、海外で生活していると、日本人女性が世界でいちばん美しい女声に思えてくるそうです。
    なぜなら海外で接する日本人女性の情報は、週刊誌や動画など、きれいな女性ばかりだから。
    同じことは、日本にいて外国人がかっこいいと思う心理にも似ているようにも思えます。

    そういえばお隣の半島の人は、やたらと「世界平和」を口にします。
    世界平和自体は、もちろん良いことです。
    しかしどうして「世界平和」なのかというと、彼らは腹の中を洗いざらいぶちまける、我慢しないのが正しいことだという文化を持ちます。
    けれど、思いは人によってまちまちですから、それをすることによって常に周囲と衝突を繰り返すことになります。
    そして上下関係が形成される。

    結果、上に立てばやたらと支配的になるし、下であれば常に上のわがままに無理やり付き合わされることになります。このため、心中には「いつかころしてやる・・」という恨みが常にある。
    つまり個人間の付き合いでも、会社などの組織でも、国自体も、その心中は平和とは程遠い、恨みが常にはびこっているわけです。
    だからやたらと「世界平和」とか、「世界が平和でありますように」という言葉が使われます。

    「日本を取り戻す」という言葉が広く認知されたのは、いまの日本に日本らしさが欠けていることの裏返しです。
    要するに、社会用語というのは、多くの場合、「ないものねだり」である、ということです。

    立憲主義を守ることを標榜する人たちがいます。
    彼らは憲法を守ることが大事だと主張します。
    けれども日本は法治国家であり、憲法が守られています。
    にもかかわらず、憲法を守れと言っているということは、彼ら自身は憲法を守る気がまったくないということの裏返しであるということです。
    つまり破壊主義者であるということです。

    あるいは「あらゆる差別に断固として闘う」と言っている人たちがいます。
    つまりそれらの人たちは、差別をしていると(彼らが思う人)を差別したいわけです。
    つまり実は彼らこそが差別主義者であるということです。

    表面上言われていることと、実体がどのように違うのかは、言っていること、主義主張というものは、実はすべてが「ないものねだり」である、という視点に立つと、よく見えてくるものです。
    へそ曲がりのようですが、この視点から論理的に物事を眺めると、意外と真実を見抜く目が養われます。

    出典根拠を示せという人がいます。
    「そんな話、どの本に書いてあるのか?」
    というわけです。

    馬鹿なことを言ってはいけません。
    書いてないから、話しているのです。

    そもそも、歴史において、本に書かれている内容というのは、その本を書いた教授なり著者の「論」でしかありません。
    「論」は、「事実」ではありません。
    「事実」をもとにした、その教授なり先生の「意見」です。
    その「意見」をもとに自説を組み立てても、それは「屋上屋を架す」ことにしかなりません。
    考えるまでもない、あたりまえのことです。

    そうではなく、「事実」に基づいて考える。
    そして時系列に連続する「事実」が、合理的かつ客観的に再現可能性が極大になるように、ストーリーを組み立てる。
    歴史学というのは、本来、そういうものです。
    年号や事件名や、誰かの「意見」を鵜呑みにするのが歴史学ではありません。

    ですから、「そんな話、どの本に書いてあるのか根拠出典を示せ」というのは、言ってみれば、「だってぇ、ママがそう言ってたもん!」と言い張っている子供と同じです。
    すくなくとも筆者にはそう見えます。
    大人なら、自分の頭で考えろ!ということです。

    したがって、筆者の述べる歴史のストーリーも、それは筆者の「論」にすぎません。
    ですから、それを鵜呑みになんてしてもらいたくない。

    そういうことではないのです。
    そこでもし、知的刺激を受けられたのなら、今度はご自分の頭で考えていただきたいのです。
    それは、自分の仕事のことでも、社会のことでも、政治のことでも、医療のことでも、みな、そうです。

    情報化社会というのは、そういうものです。
    あらゆる情報が氾濫しているのですから、それらを鵜呑みにするのではなく、どれが正しいか、どれが自分で納得できるか、自分の頭で考えることが必要な時代になっているのです。

    日本をかっこよくする。
    そのために必要なことは、ひとりひとりの日本人が、誰かの意見を鵜呑みにするのではなく、それぞれが自分の頭で考えるようになること。
    そこにこそ、日本再生のための、わずか一本の蜘蛛の糸があるのです。
    すくなくとも筆者はそのように思っています。


    ※この記事は2020年11月の記事のリニューアルです。

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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

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E-mail info@musubi-ac.com
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