■□■━━━━━━━━━━━━━■□■第96回
倭塾は、令和4年11月20日(日)13:30開講です。場所はいつもと異なり、JR
新宿駅新南口近くの会場になります。映画『めぐみへの誓い』を製作した
野伏翔監督の講話もあります。終了後、
懇親会もあります。会場の都合で今回のみ
事前申込が必要です。詳細は↓で。
https://nezu3344.com/blog-entry-5408.html■□■━━━━━━━━━━━━━■□■恨みは「私心」でしかない、というのが日本の古くからの教えです。 「公」の道というのは、まずその私心を捨てるところから出発する。あたりまえのことだと思います。 愛とは慈しみの心です。 愛を失った政治、メディア、支配は、暴力装置でしかありません。
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望月カズ 47歳当時

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに 小名木善行です。
!!最新刊!!いまの韓国から消された歴史のひとつが、「38度線のマリア」と呼ばれた日本人女性の実話です。
朝鮮戦争から、生涯で133人もの韓国戦災孤児を育て、昭和46(1971)年には、朴正煕大統領(朴クネ現大統領の父)から韓国名誉勲章並びに冬柏賞がそれぞれ授与された女性です。
望月カズといいます。
望月カズ(旧姓:永松)は、昭和2年(1927)、東京・杉並区に生まれた生粋の日本人女性です。
4歳のとき母と二人で満州に渡ったのですが、6歳で母を亡くし、孤児となってしまいました。
このためカズは、農奴(大陸にあった農業奴隷)として、China各地を転売されながら子供時代をすごします。
昭和19年(1944)、17歳になったカズは、このとき朝鮮の城津に売られてきていたのですが、そこで偶然知り合った永松晃・礼子夫妻に養子にしてもらい、やっと日本国籍を得ています。
ところが終戦となる。
このとき望郷の念に駆られたカズは、日本行きの船で密航して日本に帰るのですが、身よりもないうえに、焼土となった日本に絶望し、再度満州に渡ろうとして朝鮮半島に戻ります。
ところが時を同じくして、朝鮮戦争が勃発し、カズはソウルに足止めとなってしまう。
ソウルに攻め込んだ北朝鮮軍、市民を放ったらかしにして逃げてしまった李承晩大統領。ソウルに取り残されたカズは、そこで胸を撃たれて銃弾に倒れた女性の胸に抱かれて血まみれになっていた男の子を助けます。
このことがきっかけとなり、カズは次々と孤児たちを救い、孤児たちの母として生きていくようになりました。
かつての自分と同じ身の上の子供達を、カズはほっておくことができなかったのです。
けれど子供達は、食べさせていかなければなりません。
そのためにカズは、豆炭売りや軍手作り、ときには売血までして孤児たちを育てました。
そして紆余曲折のあと、カズはモグリの理髪店をはじめます。
カズは子供達を厳しく育てました。
たとえどんなに厳しい身の上であったとしても、人として大切なものを失ってはいけない。
転んでも転んでも、ダルマさんのように、何度でも立ち上がりなさい。
カズの教えは、日本人の誇りと魂の教えでした。
昭和38年(1963)、カズは理髪師としての免許をとりました。
そしてカズはこの頃から「愛の理髪師」と呼ばれるようになりました。
翌年、ソウル市から「名誉市民章」を受賞したカズは、『この子らを見捨てない』という手記を出版しました。
この本はベストセラーとなり、同書を原作とした映画『愛は国境を越えて』は日本でも上映されて、大きな反響を呼びました。
そしてカズには、多くの支援者が集まるようになりました。
昭和42年(1967)年の韓国独立記念日に、韓国政府は日本人には異例の「光復章」を贈りました。
そして4年後には当時の朴大統領が、彼女に韓国名誉勲章・冬柏賞を叙勲しています。
この叙勲の日、大統領府に現れたカズは、普段着のモンペ姿に下駄履きでした。
慌てた府の職員が、靴だけでも履き替えるように申し出たところ、カズは
「私は他に何も持っていません。これでだめなら帰ります」と断固として拒否し、そのまま叙勲式に臨んだという逸話があります。
この頃の韓国も、いまと同じで反日感情がたいへんに強い国でした。
けれどカズは、日本人としてのアイデンティティを守り続け、普段着は和服にモンペ姿、祝日には日の丸を掲揚し、端午の節句には堂々と「こいのぼり」を掲げていました。
「こいのぼり」を掲げるとき、カズは孤児たちにいつも、
「日本では、今日はこどもの日で、子供達が丈夫に育つように、これを掲げるんだよ」と教えていたといいます。
けれど長年の重労働がたたったカズは、次第に体調の不良を訴えるようになり、死期を悟ってからは、
「死ぬときは母国の土の上で死にたい。死んだら富士山の見える所に眠らせてください」と語るようになります。
けれど、昭和58(1983)年11月12日、カズは日本への帰国を果たせないまま、ソウル市内の自宅で亡くなりました。享年56歳でした。
この年、カズに、日本からも「勲五等宝冠章」が贈られました。
日本の支援者たちは、祖国に帰りたいと願ったカズの悲願を叶えてあげようと、韓国側に分骨を頼みに行きました。
昭和60年(1085)年4月、静岡県にある瑞林寺で、日韓両国150人の関係者立会いのもと、分骨式が行われました。
そしてカズの墓は、ソウル郊外のキリスト教墓地と、富士山がよく見える瑞林寺の両方に建立されました。
カズは、日韓両国の土になったのです。
カズに育てられた孤児たちは、異口同音に、
「オンマ(母)は、温室のような育て方をしないで、深い愛情で、いかなる暴風雨にも耐えうる根の深い木に成長させようとしてくれました」と語ります。
日本側にあるカズの墓には、次の墓碑が刻まれています。
==========
三十八度線のマリアと
呼ばれた望月カズ
1927年8月3日出生
1983年11月12日没
富士山の見えるところに
眠りたいとの遺志を
かなえてここに眠る
==========
今日のお話に、ポイントが3つあります。
ひとつは「いかなる逆境にあっても日本人としての矜持を失わないことの大切さ」、もうひとつは「愛は甘えやわがままを許すことではない」ということ、みっつめは「それでも韓国は日本を好きになれないのか」という三点です。
1 いかなる逆境にあっても日本人としての矜持を失わないことの大切さ
カズが母と死別したのは6歳のときです。
その後は農奴として転売されています。
つまり、カズは小学校さえも出ていません。
カズは女の子ですし、大陸朝鮮のことです。
この頃の中国残留孤児となった日本人の子供達が、どれだけ悲惨な目に遭ったかは、想像するに余りあります。
そのことは、山崎豊子の小説『大地の子』にも詳しいです。
ほとんど人間性さえも失われてしまった子供達さえ数多くいました。
おそらくカズも、繰り返し酷い暴行を受けていたものと思います。
けれどそれでもカズは、日本人としての誇りと矜持を失わなかったのです。
けれどカズは、「6歳までに母から教わった日本人としての矜持」を、生涯持ち続けました。
逆にいえば、6歳までにしっかりとした正しい心を養う家庭内教育が、どれだけ大切かということです。
そしてその日本人としてのアイデンティティを強く持ったことが、朝鮮戦争以降のカズの人生となっています。
2 愛は甘えやわがままを許すことではない
カズに育てられた子供達は、いかなる逆境にあっても矜持を失わないことを徹底して教育されました。
カズの育児は、たいへんに厳しいものであったようです。
けれど、その厳しい教育を受けた子供達は、カズを心から尊敬し、敬愛していました。
なぜならカズには「愛」があったからです。
「愛」というのは、漢字なら字源は「心+夂(足をひきずる)」で、意味は「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿」です。要するに、後ろ髪を引かれる思いであり、後ろ髪を引かれるような執着を覚えながら、そこから立ち去ってしまうという身勝手さを持つ意味の漢字です。
ところが日本では、もとからある大和言葉の「おもふ、おもひ」と「いとし」に、あとから「愛」という漢字を充てています。
日本語の「おもひ」は、相手を思うこと。「いとし」は、相手と糸で結ばれることです。
つまり日本における「あい」の意味は、相手のことを糸で結ばれた相手を心から思うこと、いつも思っていることを意味します。
そしてカズは、預かった子供達を、つねに思い、いとしい存在としていた。
そしてそのことがちゃんと子供達に伝わっていたからこそ、子供達はカズの思いをしっかりと受け止めるようになっていったのです。
愛は甘えやわがままを許すことではないのです。
3 それでも韓国は日本を好きになれないのか
韓国の朴槿恵大統領は、極端な反日政策で知られる人ですが、彼女の父の朴正煕元大統領は、日本人女性に韓国名誉勲章並びに冬柏賞を与えています。
そして与えられたその日本人女性は、大統領からの受賞当日、和服にもんぺに、下駄履きという日本人のスタイルで授賞式に臨み、それを父の朴正煕元大統領は、ちゃんと受け入れています。
朴正煕元大統領は反日だったという人もいれば、親日だったという人もいます。
けれど朴正煕元大統領は、そのどちらでもありません。
彼は韓国の大統領なのです。
そして韓国にとって、もっとも良い選択を当時の世界情勢の中で選択していたのです。
だからこそ朴正煕元大統領の時代、韓国はめざましい復興と経済の成長を遂げています。
これに対し、娘の朴槿恵大統領がいましていることは、それは本当に韓国にとっての良い選択といえるのでしょうか。
プロパガンタが先行し、肝心の国民のため、という視点を見失ってはいないでしょうか。
もしそうであるならば、それは「公私の区別がついていない」ということです。
日本の聖徳太子の憲法十七条に、次の文があります。
=======
私に背(そむ)き公(おおやけ)に向かうは、これ臣の道なり。
およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととな)わず。
同(ととなわ)ざれば則ち私をもって公を妨(さまた)ぐ。
憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。
故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。
それまたこの情(こころ)なり。
(背私向公 是臣之道矣 凡人 有私必有恨 有憾 必非同 非同則以私妨公 憾起 則違制害法 故初章云 上下和諧 其亦是情歟)
=======
恨みは「私心」でしかない、というのが日本の古くからの教えです。
「公」の道というのは、まずその私心を捨てるところから出発する。あたりまえのことだと思います。
韓国は儒教国なのだそうですが、韓国儒教には公私混同を戒める教えはないのでしょうか?
世界において、著名な芸能人とか、ものすごく大きな財力を背景にしてアフリカなどでの孤児に対する支援や慈善活動をする偉人は数多くいます。
けれど、何の財力もないどころか、自分自身も孤児であり、しかも無一文でありながら、必死で働きながら孤児たちの世話をし続ける。
そういう、歴史に名を留めないけれど、真摯に生きた本物の偉人が、日本の歴史には数え切れないほどいます。
なぜ日本人がそうなのか。
その答えが、日本の、天皇のもとに万民を「おおみたから」とする国風であり、憲法十七条以来の日本の国風にあります。
八百万の神々と考える日本では、人は神様になるために生まれてきたと説かれました。
誰もみていなくてもお天道さまが観ていらっしゃると考え行動してきたのが日本人です。
その国風を、次代のために学び語り伝えていくことは、いまを生きる目覚めた日本人の使命です。
そして、望月カズの歴史を消したいまの韓国政府やメディアには、愛がないと思います。
愛とは慈しみの心です。
愛を失った政治、メディア、支配は、暴力装置でしかありません。
※この記事は2014年11月の記事のリニューアルです。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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