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    20221207 歴史
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    歴史のことを英語で「ヒストリー」と言います。
    これはもともとが「ヒズ・ストーリー(His Story)」から来た言葉で、直訳すれば「彼の物語」。
    つまり歴史というのは、過去の出来事を時系列に沿ってストーリー化したもののことを言います。

    戦後の日本では、いったんGHQによって歴史教育が禁止され、その後、国会議員らの活躍によってようやく社会科の授業の一部として歴史教育が復活するのですが、そこでの歴史は、単に事件名、人物名と年号を子どもたちに紹介するだけ(暗記するだけ)の科目としてのみ認められたのであって、それらの事実がどのようにつながるのかという、歴史(ヒストリー)は完全に無視されることで現在に至っています。

    単に年号や事件名人物名を丸暗記するのは、これは分野でいえば最も近いのが年号学であって、それは本来の歴史ではありません。
    いわばクイズの答えを求めるだけであって、なぜそのような出来事が起こったのかをストーリー化するものではないからです。
    歴史をストーリーと考えれば、戦後の歴史教育が、単に暗記科目の域を出ない、かなりいびつなものであることを確認することができます。

    ちなみに、歴史と歴史学は、また異なります。
    歴史は事実に基づくストーリーですが、過去に起きた出来事は事実ですけれど、それをどのようなストーリーにするかは、実は、研究者によって千差万別となります。
    もちろんその中で、もっとも再現性が高く論理的なものが、最終的に歴史として認知されるのですが、そうやって認知された歴史(ストーリー)も、何かの考古学上の発見ひとつで、根底からくつがえされるといったことも、よく起きるのです。
    ここが歴史のおもしろいところです。

    これが歴史学になると、また意味合いが違ってきます。
    歴史はストーリーですが、そのストーリーの中で、自分が歴史の当事者となって「自分ならどうするか」を考えるのが、歴史学になります。
    たとえば「源頼朝が鎌倉に幕府を作った」のであれば、その鎌倉にもし自分がいたなら、新たな幕府づくりのために、自分ならどのように貢献するか。
    それは、建物の建築のお手伝いであるかもしれないし、街の街路の設計かもしれないし、働く人々の食事の手当かもしれない。
    あるいは自分が光秀なら、秀吉が大返しでやってきたときに、山崎の戦いを仕掛けるのか、後日を期して兵を引くのか、このように「自分ならどうする」を考えたり、「もし光秀が秀吉を倒していたら」を考えるのが歴史学です。

    かつて戦前戦中までの日本の歴史教育は、まさにこの「歴史」と「歴史学」をしっかりと行ったもので、ある意味世界の最先端の学問となっていました。
    ところがGHQによる制限後、日本人は歴史をただの暗記科目にされた一方で、日本人がなぜここまで強いのかを研究した世界は、米英を筆頭に、自国の歴史教育に、日本の歴史教育の手法を全面的に取り入れています。
    つまり、歴史を、教師がただストーリーを教えるという教科から、生徒たちが自ら歴史の当事者となって考える授業へと進化させたのです。
    これは、諸外国でものすごく大きな教育上の成果をあげた一方で、日本人は、歴史を、意味のない丸暗記のままで現代に至っているわけです。
    もったいない話です。

    「歴史にIFはない」という言葉も、日本と諸外国では、その意味するところがまったく異なります。
    諸外国において「歴史にIFはない」という言葉は、あくまで歴史は「事実をもとに考えるもの」という意味で用いられます。
    「源頼朝が鎌倉に幕府を作った」という事実があれば、では頼朝はどうして幕府を鎌倉に作ったのか、どうして京の都に作らなかったのかといったことを、あくまで「事実をもとに考える」。
    これを「もかしたら宇宙人に指示されたのかも」と考えるのは自由ですが、そこで宇宙人を持ち出すなら、その時代に宇宙人と頼朝が実際に会話したという記録をもって証明しなければならないのです。
    そうでなければ、歴史がただのファンタジーになってしまいます。
    諸外国では、そういう意味で「歴史にIFはない」というのです。

    これに対し、戦後の日本で言われる「歴史にIFはない」は、まったく意味が異なるものです。
    たとえば「もし頼朝が京の都に幕府を開いていたら、その後の歴史はどのように変わったであろうか」といった歴史を考えること自体をタブー視するための用語として「歴史にIFはない」と説かれています。
    これは、歴史をただの年号と人物名事件名の丸暗記科目とするためには必要なことであったであろうといえますが、それでは歴史を学んだことにはなりません。
    どこまでも歴史は事実に基づくストーリーであり、歴史学はそのストーリーが別なストーリーであった場合を「考える」ことによって、いまを生きる学びを得るものであるからです。

    もし、頼朝が鎌倉ではなく、京の都に上って、義経とともに新しい源氏政権を開いていたら、その後の歴史はどうなっていたでしょうか。
    義経がモンゴルに移住することもなく、そうであれば元の大帝国の出現もなく、日本に元寇は起こらず、西洋社会は中世のままに置かれ、元の大帝国が始めた紙の通貨という仕組みも世界に生まれることはなく、世界は21世紀となったこんにちにおいても、いまだに剣と槍の騒擾の世界のままであったかもしれません。
    このように頼朝が鎌倉に幕府を開いたことのもたらした世界的影響を俯瞰するとき、現代においても日本の選択がもたらす世界に与える影響の大きさが理解できるし、そこから世界と日本との違いの根幹とは何かといった考察も生まれます。これが歴史学のおもしろさです。

    少し前まで、テレビの番組に「早押しクイズ王」みたいな番組がありましたが、そこで優勝した東大生が、新たな日本のリーダーや、世界のリーダーとなったという話は、まったくありません。
    また、いまどきは、年号も人物名も事件名も、学者や優秀な生徒の記憶よりも、スマホでちょいと調べた方が、はるかに正確な情報を、素早く手に入れることができます。
    そうであるなら、ただの暗記科目としての現代日本の歴史教育は、根本的に教える意味がなく、また生徒が学ぶ価値もない、ということになります。
    そんな価値のないことのために、大切な幼年期や青年期の時間を費やすのは、社会的な無駄でしかありません。

    私たちは、日本の教育をいま根底から見直すべきときにきています。

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    だから日本軍は強かったのです。

    橘周太陸軍中佐
    20211206 橘中佐
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    戦争に関するお話をする前に、たいせつなことをひとつ。
    戦時中に予科練を経由された先輩の言葉です。
    「今後決して、権力者の野望を満たすために、
     若者のエネルギーを、命を、奪ってはならない。
     又奪われてはならない」

    戦争は賛美するものではありません。
    どこまでも避けなければならないものです。
    けれど、どうしても戦わざるを得なくなったとき、命を賭けて戦い抜くこともまた人の生き様です。

    日露戦争といえば、とかく旅順要塞攻略戦、日本海海戦、奉天戦が強調されがちです。
    けれどもうひとつ、忘れてならない戦(いくさ)が、「遼陽会戦(りょうようかいせん)」です。

    遼陽会戦は、明治37(1904)年8月24日から9月4日まで行われた満州の遼陽での陸戦です。
    この戦いで、日本とロシアの陸軍の主力部隊が、はじめて激突しました。

    ロシア側の兵力は、15万8000人。
    日本側は、12万5000名。
    この戦いは、両軍合わせて28万の兵が激突した、世界の戦史に残る壮絶な陸戦です。

    時間を追ってみてみます。

    明治37年2月9日、日露戦争がはじまりました。
    日本陸軍は朝鮮半島北東の仁川に上陸し、同時に海軍が旅順港を封鎖して、黄海の制海権を確保しました。
    その後、乃木大将率いる第三軍が、旅順要塞の攻略に向かい、黒木為楨(くろきためもと)陸軍大将が率いる第一軍が朝鮮半島の大同江に上陸し、5月1日には鴨緑江渡河戦(おうりょくこうとかせん)で、2万4000人のロシア軍鴨緑江守備隊を打ち破りました。

    5月5日には、奥保鞏(おくやすかた)陸軍大将率いる第二軍が遼東半島の塩大澳に上陸し、ロシア軍の立てこもる旅順要塞を孤立化させるために南山攻略を行い、続いて大連を占領しています。
    そして5月30日には東清鉄道に沿って北進し、得利寺、大石橋などでロシア軍と戦闘を繰り返しつつ、連戦連勝で北進して、遼陽を目指しました。

    野津道貫(のづみちつら)陸軍大将率いる第四軍は、大弧山から上陸して柝木城を攻略したあと、やはり遼陽へと進撃しました。

    こうして8月中旬までに、日本軍は、黒木陸軍大将の第一軍、奥陸軍大将の第二軍、野津陸軍大将の第四軍が、それぞれ遼陽に集結しています。

    遼陽を死守しようとするロシア軍は、15万の主力部隊をここに集結させました。
    万全の備えをひいて、日本軍を待ち受けたのです。

    8月30日、戦闘の火ぶたがきって落とされました。
    この日第二軍は、前日来の豪雨で全員びしょ濡れになりながら、陣地の中堅の首山堡(しゅざんほ)を目指しました。
    敵の中核陣地です。

    この戦いで、後に軍神となられた橘周太(たちばなしゅうた)中佐が戦死しています。
    どのような戦いだったのか、橘中佐の活躍から見てみたいと思います。

    橘陸軍中佐は、第二軍、陸軍歩兵第三四連隊所属の第一大隊長です。
    出身は長崎。
    生まれは慶応元(1865)年です。
    この戦いのとき39歳でした。

    橘陸軍中佐は、たいへん部下思いな人でした。
    26日の遼陽の豪雨は、露営した全員がずぶぬれとなったことに、
    「兵卒の苦労察せられ落涙せり」と日記に書いています。

    ちなみに橘家は、敏達天皇の皇子である難波皇子の玄孫の橘諸兄の直系で、楠正成と同族です。
    楠正成の弟の正氏が和田姓を名乗り、その子孫の和田義澄が肥前国島原領千々石村(後の長崎県雲仙市)に移って城代となり、橘中佐の先代から橘姓を名乗りました。

    その橘陸軍中佐率いる第一大隊に、敵の中核陣地である首山堡攻略の命が下りました。

    第一大隊は、30日の夜明け前のまだ暗いうちに総攻撃を仕掛けます。
    攻撃に気付いた敵は、白兵突撃をする大隊に、猛然と弾丸を浴びせてきました。
    たちまち先頭の数名が敵弾を浴びて斃れる。

    部下を殺された橘陸軍中佐は、まさに怒髪天を衝きながら、
    「予備隊、続け~!!」と叫ぶと、愛刀の関の兼光を抜き、先頭をきって猛然と敵塁に駆け上りました。
    その姿に大隊の兵士たちも、敢然と吶喊攻撃を仕掛けました。

    いっきに敵塁に達した橘隊長は、降り注ぐ敵弾をものともせず、敵塁に猛然と飛び込み、たちまち数名のロシア兵を斬り伏せました。
    そこに決死隊の数百名が、さらに飛び込み、敵味方入り乱れた白兵戦となりました。
    大柄のロシア兵たちが、砦を奪われまいと必死に抵抗する。
    これを小柄な日本軍が、強烈な戦意で打ち倒す。
    ついにロシア兵は撤退し、第一大隊が砦を奪い取りました。

    砦には高らかに日の丸が掲げられ、全員で「万歳」を唱和しました。
    これで首山堡を奪うことができたと喜んだのもつかの間、こんどはこんどは砦を奪い返そうと、ロシア兵がときの声をあげて突入してきます。
    さらに砦に向かって雨のような十字砲火を加えて来た。

    首山堡は、小さな丘の上にある砦です。
    ここに立てこもる第一大隊の兵士たちは、この砲火によって、占領の喜びもつかの間、たちまちのうちに、死屍累々の屍の山を築いてしまう。
    壕の中が、味方の兵の鮮血で真っ赤に染まります。

    橘中佐のすぐ近くにいた腹心の部下の川村少尉も、このとき敵弾によって喉を撃抜かれて倒れました。
    「このままではやられる」
    橘中佐は川村少尉を壕の物陰に運び、傷を受けた喉に包帯を巻き終えると、敵の銃弾の雨の中を憤然と立ち上がりました。
    そして日本刀を引き抜くと、敵弾の唸る前線に飛び出しました。

    敵弾降り注ぐ中です。
    敵弾は、たちまちのうちに橘中佐の手にした刀の鍔を打ち砕いて指を吹き飛ばし、さらに中佐の腕の肉を削り取りました。
    腰にも敵弾が命中する。

    普通なら、これだけで人は倒れます。
    ところが橘中佐は、自身の怪我をものともせずに、決然と立ちあがり、
    「いまこそ雌雄を決するとき。
     この地を敵に奪われるな。
     敵を打ち払え〜!」
    と天にも届く大音声で味方の兵を励まします。

    日頃から敬愛する大隊長です。
    その大隊長が、敵弾を受けて真っ赤に血に染まりながらも、一歩もひるまずにワシたちを励ましてくれている。
    これを見て奮起しない者など、我が皇軍にはひとりもいません。
    部下たちは、まさに火の玉、鬼神となって敵を迎え撃ちました。
    そしてついに、あまりに猛然と火を放つ日本軍の前に、ロシア軍が総崩れとなります。

    そのとき・・・・。

    橘中佐の近くで炸裂した敵の砲弾の破片が、橘中佐を直撃します。
    どうと倒れる中佐。
    中佐は、
    「おのれ、無礼者め」と立ち上がろうとするけれど、立ち上がれない。
    くやしいことに敵弾は中佐の腰骨を砕いていたのです。

    近くにいた内田軍曹が、
    「隊長、傷は浅いものではありません。
     しばらくこちらに」
    と橘隊長を壕の物陰に運びました。
    「そんなことはない。見よ内田。
     たいしたことはない」
    と、戦場に戻ろうとする橘隊長だけれど、軍服を脱がせ、傷口を見ると、腰から鮮血がほとばしっている。
    これでは助からない。

    ところが橘中佐、
    「ええい、命令じゃ。オレを起こせ!」
    と内田軍曹に命令すると、ふたたび大音声で、
    「隊長のワシはここじゃ。
     受けた傷は深いものではない。
     諸氏は日本男児の名を思い、
     命の限り戦い防御せよ」
    と隊員たちを励ましました。

    寄せては返し、また寄せる、戦いはまだまだ続きます。
    橘大隊は、敵の新手を打ち返すのだけれど、いかんせん、味方の兵は少なく、さらに敵襲の度毎に、味方の兵力は次々と失われて行きました。

    このままではせっかく奪い取った首山堡を、ふたたび敵に奪い返されるのも時間の問題となったとき、中佐は自分の看病をする内田軍曹に、
    「軍曹、味方の残兵は少ない。
     俺は大丈夫だから、君も銃をとって戦え」と命令しました。

    寡兵となりながらも、猛然と戦う第一大隊。
    ひいては押し寄せるロシア兵。

    いくどかの戦いの後、辛くも敵を打ち払ったけれど、もはや味方の兵は少なく、この地を占めることは困難です。

    内田軍曹は、敵を打ち払ったこの隙に橘中佐のもとに戻ります。
    そして、いまのうちになんとかして隊長を後方の野戦病院に送ろうと、橘隊長を背負い、屍を踏み分け、壕を飛び越え、刀を杖にして岩を超え後方に下る。

    ところがそのとき、7発の敵弾が、橘中佐の背中に当たります。
    そして数発が貫通して内田中佐の胸を破る。

    こうして橘中佐は、遼陽の首山堡の露となり、この世を去りました。

    その翌々の9月1日、首山堡でみせた日本軍のあまりの壮絶な攻撃ぶりに恐れをなしたロシア軍は、後方の奉天に撤退し、日本軍は、遼陽入城を果たしています。

    この戦いで、日本側は2万3615名の兵を失いました。
    ロシアも1万7900人が死亡しました。
    そして戦いは日本の勝利となりました。

    橘中佐は、亡くなる直前に、つぎのように述べたそうです。
    「残念ながら天はわれに幸いしなかった。
     とうとう最期が来たようだ。
     皇太子の御誕生日である最もおめでたい日に
     敵弾によって名誉の戦死を遂げるのは、私の本望だ。
     ただ、残念ながら多くの部下を亡くしたのが申し訳ない」
    最期まで部下を気遣う大佐でした。

    戦闘のあと、内田軍曹は「橘少佐の神霊に拝告」と題した書簡で、次のように述べています。

    「翌々日に至り、遼陽は全く我が軍のものとなり、
     遼陽街の中国人の家の軒には日章旗がひるがえり、
     日本軍を歓迎する情は、
     至れり尽くせりのすばらしいものでした。

     けれど、
     ここに遼陽の陥落の報告をなしたいと思っても、
     もうすでに隊長殿はこの世におられません。
     遼陽の歓迎ぶりがどんなにすばらしいものであったか、
     語ろうと思いましてもこの世におられません。

     私が今日まで隊長殿の部下として光栄に浴してより、
     まだ日は浅いのですが、
     隊長殿から受けた親愛の情は誠に深く、
     まるでずっと昔からの部下であったように
     接してくださいました。

     私はおかげさまで、いつも勇み励み、
     愉快な軍務に服することが出来ました。

     崇拝、敬慕して止まない私たちの大隊長、
     故陸軍歩兵少佐橘周太殿、
     ご神霊にご報告しなければならないことが
     いっぱいありますが、
     眼は涙に曇り胸ははりさけんばかりで、
     思うがごとく述べ切れません。

     ただ願わくば、ご神霊を拝み、
     いつの日にか、再び地下において
     部下としての光栄をいただく時を待つだけであります」

    橘少佐は、死後特進して中佐となり、軍神と呼ばれるようになりました。

    なぜ軍神なのかって?
    勇敢で、高潔で、部下思いの情けのある人だったからです。
    だからこそ、みんな果敢に戦うことができたのです。

    近年、「命令すれば、あるいは規定をつくれば人は動く」と思い込む人が増えたように思います。
    そうかもしれません。
    けれど、我々日本人は奴隷ではないのです。
    自由意思が最大限に尊重される国を何千年もの間、営んできた皇国の臣民なのです。

    面従腹背という言葉があるのです。
    「画竜点睛を欠く」ともいいます。
    あるいは、「武士は己を知る者のために死す」という言葉もあります。

    勇敢で高潔で厳しくて、けれど思いやりがあって、部下思いのやさしさがある。
    そういう人が上官や上司だから、人は自分の持っている力を120%発揮できるのです。
    だから日本軍は強かったのです。

    ちなみにいま、陸上自衛隊第34普通科連隊は、橘連隊と呼ばれています。
    橘中佐の遺徳は、こうしていまでも引き継がれているのです。


    ※この記事は2011年12月の記事のリニューアルです。
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    戦後の時代劇において、戦国時代の戦(いくさ)のあと、近隣の農家の人たちが戦場に転がっている武者たちから刀や鎧などを「盗みに」来る姿が描かることがあります。
    これは嘘です。
    どこか斜め上あたりの半島では、それが常識だったのかもしれませんが、日本にはなかったことです。

    なるほど戦のあと、近隣の農家のみなさんが、戦場となった場所にやってきたのは事実です。
    けれどそれは、ちゃんとした理由があってやってきていたのです。
    そもそもそこは、もともと彼らの田畑です。
    そして、戦のあと片付け料も含めて、ちゃんとその費用を事前にもらっているのです。

    戦国大名たちが戦をするときは、事前に戦場となるところを相互に打ち合わせ、あたり一帯の田畑の農作物を事前に買取ました。
    ちなみにこのとき、主に田んぼを戦場にしました。
    畑地は、あまり戦場には利用しませんでした。
    これには理由があって、畑地には、かならず肥溜めがあるからです。

    戦の最中に、万一、肥溜めに落ちて、思い鎧兜のためにそのまま沈んで亡くなりでもしたら、それはとっても残念なことだからです。
    ですから、農家に依頼し、田んぼのなかにある畑などで、肥溜めがあるところでは、必ず事前に動かないようなちゃんとした蓋をしてもらっていました。

    戦が行われれば、遺体の埋葬の手当も必要ですすから、それらの費用まで含めて、戦をする側が、事前に作物を高値で買取っていました。
    ですから作物の買取費用には、
    1 軍用食料の調達
    2 戦場となる地域のメンテナンス(肥溜めの蓋など)
    3 戦後の後片付け(遺体埋葬など)
    4 鎧や刀、槍、弓など、先祖伝来の備品の郷里への送還
    などの費用が含まれ、高値で買い取られるのが常識だったのです。

    だってご遺体が転がっていたままでは、そこで農業ができないのです。
    ちゃんと後片付けもしなきゃならないし、彼らはそこで再び作物を育てるのです。
    ですから、片付けるのはあたりまえのことです。

    戦場に転がる遺体は、そのまま放置しておけば、腐臭を発し、鳥や獣の餌になるだけでなく、寄ってきた獣たちは、こんどは農業を再開したあとの農地を荒らすようになります。
    それに、時間が経ってしまうと、遺体が腐乱し、後片付けがしにくくなります。
    ですから戦が終われば、滞り無く、すぐに近隣の農家で力を合わせて、遺体や散乱した武器や幟などの片付けをしたのです。

    それをまるで泥棒でもしていたかのように描写するのは、おそらくその番組のプロデューサーか監督が、日本ではないところの出身者としか考えられません。
    けれど、戦泥棒を映像化することは、歴史の捏造でしかないのです。

    日本では、遺体は鎧を脱がせてちゃんと埋葬までしています。
    鎧を着たままの埋葬はしません。
    埋葬は、火葬、土葬と、土地の習慣によってまちまちですが、火葬する場合は、鎧を着ていたら燃やすことができないのです。

    そして、脱がせた鎧や武装は、ちゃんと持ち主の家族に送り届けています。
    だから、鎧を脱がせるのです。

    武士たちの「もとどり」、つまり「ちょんまげ」にも理由があります。
    遺体を遠くまで送り届けることはできないから、髷を切って、それを、鎧や兜、刀槍などと一緒に送り届けていたのです。

    田舎の、すこし古い家ですと、いまでもご先祖の鎧をお持ちの家があります。
    その祖先は、必ずしも戦で生還したご先祖ばかりではありません。
    戦地でお亡くなりになったご先祖もいるのです。
    けれど、その「戦地で亡くなったご先祖」が着ていた鎧は、ちゃんと持ち主の家に帰ってきているのです。
    それがなぜかといえば、答えは簡単です。
    「戦場の近隣の農家の人たちが、
     ちゃんと送り返してくれていた」
    からです。

    それができるだけの物流網があり、だから諸国の街道が整備されていました。
    勘違いしているどこぞの半島が、日本が統治するまで、諸国をめぐる街道すらなかったのとは、段違いです。
    現代のわたしたちは、産まれたときには、すでに道路網が整備された環境にあって、道路なんていうものは、「そこにあるもの、あたりまえのもの」と勘違いしています。
    しかし、すべての道路は、必要があって、誰かが造ったものです。

    そして世界中、多くの国において、道路は「軍用」に造られましたが、日本では古代からすべての道路は民生用に造られています。
    そして飛鳥奈良平安の昔から、日本では民間の物流機構が整えられていました。
    そのために、駅ができ、宿もうまれ、道路網の整備によって、お伊勢参りや、京都御所を守る御垣守(みかきもり)などの参内旅行が庶民の憧れとなり、民間の湯治などの温泉旅行や紅葉見物、花見などが観光地として盛んに行われるようになっていました。

    要するに、戦にでかける武士たちは、鎧兜に名前と住所を書いておきさえすれば、自軍が戦に負け、全員、野に散ったとしても、鎧も兜も、先祖伝来の大切な刀も、ちゃんと生家に送り返してもらえる。
    鎧の中に、辞世の句を縫いこんでおけば、それもまたちゃんと送り届けてもらえる。
    それだけの国柄が、日本ではすでに中世において、しっかりと確立していたのです。

    戦場の近隣の農家のみなさんも、事前にお金をいただいており、ちゃんと約束を守る人たちだったからこそ、遺体の処理もちゃんとしてくれたし、遺品も送り返してくれました。
    そういう高い民度をもった国が日本なのです。

    ただ、どうしても、名前がなかったり、戦場に散乱してしまったために、誰のものなのかわからなくなってしまった刀剣や槍などが生じることがあります。
    こうした誰のものかわからないものは「いつか所有者の家族が現れるまで」と、ずっと庄屋さんなどが保管しました。
    刀も槍も、鉄製品ですから、保管は実はとてもたいへんなものです。手入れしないと錆びてしまうからです。
    何年も保管して、所有者の現れなかった刀剣等は、ですからやむをえず、そこではじめて古物商に売却されました。

    これはこれであたりまえのことで、戦が終わって刀剣が大量に散乱している時点で古物商に売ったとしても、十把一絡げに一山いくらでしかひきとってもらえません。
    ちゃんと所有者の家族のもとに返し、残り僅かなものとなってからの売却だと、逆に高く売れる。
    人の世の中なのです。
    いまも昔も、そういうことは何も変わりがありません。

    それにしても、メディアにしても大学の教授さんたちにしても、いい加減、目を覚ましていただきたいものです。
    そもそも「階級闘争史観」などいうものが登場したのは、19世紀のことです。
    それ以前の日本には、そもそも「階級闘争」なるもの自体が、存在しなかったのです。

    かれらがよく引き合いにだすものに「下克上」がありますが、下克上という言葉も、もともとが6世紀のChinaの隋の書物に見られる言葉であって、日本の概念ではありません。

    用語としては日本でも、14世紀頃以降「下克上」という言葉が使われるようになりましたが、その多くは、既得権益を守るために権力と戦う連中が落書において、やや揶揄的に「下克上」と書かれたにすぎません。
    戦国期における「下克上」の事例として、室町幕府によって任ぜられた守護大名を廃位して、別な者を大名に据えるということは、よく行われましたが、この場合においても、ほとんどのケースは、その守護大名の親族が後任の大名になっています。

    要するに日本における下克上は、室町以来、あるいは鎌倉以来の家柄に安住して民を顧みない主君がいたときに、その家臣団が一致団結して、その主君を引きずり下ろして、別な者を主君に据えたものだし、それが何のために行われたかといえば、主君その人よりも、民・百姓の生活の安定を大切にしたからこそ、それがわからないお馬鹿な主君がいれば、これを家臣が廃位したのです。
    とりわけ戦国期のような戦いが頻発した時代にあっては、頭領には人々をまとめあげるだけの器が必要だったし、それがなければ、国が滅び、治安が乱れて民が困るのです。

    つまり日本における「下克上」は、階級闘争として行われたものではなくて、あくまでも国を守る必要に駆られて、民を守るために行われたものという性格を持ちます。
    階級闘争は、下の者が上の者を殺して、権力を奪うことですが、日本における「下克上」は、お祭りを盛大なものにするために、担ぐお神輿を立派なものに変えただけのものであって、祭りは祭りでしかないのです。

    たとえれみれば、古くからある村の祭りを止めにしてしまって、鼓笛隊パレードに変えてしまうのが階級闘争です。
    Chinaの下克上は、まさにそれにあたります。
    だから易姓革命です。
    統治者の姓が易(か)わるのです。

    これに対し、日本で「下克上」と呼ばれたものは、お祭りを保持するために、お神輿を立派なものに造り替えるというものです。ですから階級闘争史観では、説明のつかないことなのです。
    説明がつかないものを、無理やり歴史認識にしようとするから、そこに無理が生まれます。

    戦のあとに、貧民達が現れて、亡くなった武士たちの身ぐるみを剥がすと描写しますが、仮にそうであったとするなら、剥がした連中は、その剥がした物品を、どうしたのでしょうか。
    転売したのでしょうか。
    転売するなら転売するで、それなりの流通市場が確立していなければなりません。

    流通は、貧困社会では成立しえませんから、そうなると、身ぐるみを剥がしても、剥がした物品は売れません。
    売れないのに剥がす?
    自分で使うためですか?
    立派な鎧を、武芸のわからないお百姓さんが着たとしても、世間の笑いものになるだけです。
    鎧を盗んだお百姓さんは、その鎧を着て、コメディアンでもやったとでも言うのでしょうか。

    戦後生まれの私達は、実にとんでもない大嘘を刷り込まれてきたものです。
    しかし何年経っても、どれだけ多くの本に書かれたとしても、どんなに「権威ある偉大な大学教授」が書いたとしても、ウソはウソです。

    日本人は真実に目覚め始めています。
    この動きは、もはや停められません。
    日本人は、次世代に向けて動き出しているのです。


    ※この記事は2014年12月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!
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  • 御前会議と政治責任


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    永野修身元帥が「必ず再起三起するであろう」とおっしゃった、その「われらの子孫」は、他でもない、いまの日本に生きるわたしたちです。
    私たち日本人が立ち上がるのは、「いま」です。
    長文ですが、大切なことを書いています。

    20181204 御前会議
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    12月8日は先の大戦の開戦となった日です。
    この戦争を行うための政府の意思決定が行われたのが、昭和16年9月6日のことです。
    この日、御前会議で「帝国国策遂行要領」が採択されました。
    この御前会議のときに、永野修身海軍軍令部総長が昭和天皇の求めに応じて発言されたのが次の言葉です。

    「すなわち戦わざれば亡国必至、
     戦うもまた亡国を免れぬとすれば、
     戦わずして亡国にゆだねるは
     身も心も民族永遠の亡国であるが、
     戦って護国の精神に徹するならば、
     たとい戦い勝たずとも
     祖国護持の精神がのこり、
     われらの子孫は
     かならず再起三起するであろう。」

    当時の決定が、まさに涙をのんで死地に赴く心境であったことがわかる言葉です。
    このあと日本は、まさに死力を尽くして戦いました。
    そして戦後の我が国は、日本国憲法という名の欺瞞、占領憲法を押し付けられ、いまに至っています。

    この決定のもとに英霊230万柱が戦地に散りました。
    その英霊たちの思いは、いまも祖国日本の「再起三起」にあります。
    そして「再起三起」することを求められているのは、他でもない、いまを生きている私たちです。

    御前会議の前日、当時の近衛文麿首相は、翌日決定されることとなった国策要綱について昭和天皇に内奏しました。
    そのとき昭和天皇は、近衛総理の説明のなかにあった、
    「戦争準備を第一とし、外交交渉を第二としている点」について、こう仰られました。
    「なんだか戦争が主で外交が従であるかのごとき感じを受ける」

    近衛首相は、
    「そのような意図はなく、あくまで外交交渉を行い、
     交渉がどうしてもまとまらない場合に
     戦争準備に取りかかるという意味です」
    と答えたといいます。

    けれど昭和天皇は、そのような小手先の言葉に納得されませんでした。
    そして翌日の御前会議に陸海軍の総長を招致することを命じられたのです。
    真意を明らかにするためにです。

    ここで御前会議というものについて、ひとこと大切なことを添えておきたいと思います。
    我が国では、天皇は国家最高権威であって、国家の意思決定を行うご存在ではないというのが、古代の律令以来の大原則です。
    このことは明治の大日本帝国憲法においても、またいまの日本国憲法においても同じです。

    政治は、あくまで政府が行うものです。
    それが太政官時代であれば太政官が政治を行い、武士の時代であれば幕府が政治を担い、明治以降の政府の時代であれば、政府が政治を担います。
    そして政府が政治を担うということは、「政治責任は政府にある」ということです。
    従って、戦争を行うという国家の重要事のための意思決定責任は、政府が担います。
    当然です。
    意思決定を行うということは、その結果責任を負うということだからです。

    そして日本は「知らす国」です。
    「知らす」という言葉の意味は「お知りになられる」ということです。
    天皇は、国内に起きている様々な出来事を、すべてお知りになられる。

    これは当然のことです。
    日本は、天皇が国家国民を「おほみたから」とする国だからです。
    政府は、その天皇から親任を受けて、その「おほみたから」のために政治を行います。
    当然、政治責任を負います。
    そして政府が行う政治による現況および結果は、すべて「おほみたから」である民の生活に直結するのです。
    そうであれば、天皇は、民の様子がどうであるのか。
    そのためにどのような政治が行われようとしているのか、それらすべてを「お知り」になられなければなりません。

    御前会議というのは、本来はそのためにある会議です。
    ただし、御前会議によって政府が奏上する政治が、民のためにならないと天皇が御聖断されれば、その政治は実行されません。
    これまた当然のことで、民は天皇の「おほみたから」であるからです。

    これが通常の御前会議の姿です。
    ところが、この開戦前の御前会議だけは、実はまったく様子の違うものでした。

    本来は、政府が「こうします」と天皇に報告するのです。
    政府が決めたことですから、政府が責任を取ります。

    ところがこの昭和16年9月のときには、政府が政治的意思決定をすることができなかったのです。
    つまり、戦争を行うか行わないか。
    内閣において、意見が分かれて意思決定ができない。
    だから近衛首相の奏上が、
    「戦争準備を第一とし、
     外交交渉を第二とする」
    という曖昧なものになっていたのです。

    当時の新聞各紙や、選挙民の人気を取らなければならない国会の政治家たちのすべては、開戦論でした。
    政治家は、民間企業がスポンサーです。
    そして戦争が起これば、企業は戦争特需で大儲けできます。
    ですから、政治家は戦争がしたい。

    新聞も商売ですから、スポンサー、つまり広告主である企業が開戦論なら、その方向で国民を戦争に駆り立てようと、必死で毎日、「鬼畜米英」とか「進め戦え火の玉だ」など大見出しを出して開戦を煽っていました。
    けれど、戦争をすれば、陛下のおほみたからの命が失われるのです。
    従って、国民の圧倒的多数は、戦争に反対です。

    陛下はこれをご存知あそばされておいでですから、近衛首相に、
    「なんだか戦争が主で外交が従であるかのごとき感じを受ける」
    と、再考をお求めになられたのです。

    そして陸海の軍の総長をお招きになられるということは、陸海の軍は、戦争が始まれば、まさにその最前線で戦いを行うことになるのです。
    すると大勢の兵の命が失われる。
    その失われる命は、総長が育てた大切な部下たちです。
    つまり、陸海の軍は、別な言い方をするならば、戦争の悲惨を最もよく知る者なのです。
    つまり陛下の御心は、まったく開戦など毛ほども望んでなどおいでになられなかった、ということです。

    一方、近衛内閣は、その開戦の意思決定について、天皇の「御聖断を仰ごう」としています。
    本来は、内閣で意思決定し、その意思決定責任を負うのが内閣の役目です。
    にもかかわらず、自分たち内閣で意思決定できないから、天皇に御聖断を仰ごうというわけです。

    それはそのまま、内閣が自ら
    「自分たちには意思決定能力がありません」と吐露していることと同じです。
    だから、意思決定能力がないので、責任だけは取りますから、陛下が意思決定してください、というわけです。
    これは極めて虫の良い話です。

    こういう情況下で、次の御前会議が行われていたのです。
    御前会議の当日、会議に先立って昭和天皇がまず御言葉を賜られました。
    それは、たったひとこと、
    「外交が主か、戦争が主か」
    という御言葉です。

    問われた閣僚たちから、まず及川海軍大臣が、「重点は外交にある」と答えました。
    これは「海軍としては開戦に反対である」という意思表明です。
    この言葉にうなづかれた天皇は、懐から紙片を取り出されると、その紙片をお読みになられました。
    そこには次のように書かれていました。

     よもの海
     みなはらからと思ふ世に
     など波風の
     たちさわぐらむ

    これは明治天皇の御製です。
    四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟なのに、どうして争いが起こるのだろうか、という和歌です。
    近衛文麿総理は、この昭和天皇のお言葉のあと、
    「全員恐僭して、しばらくは言も発するものなし」
    と日記に書き残しています。

    なぜ言葉がなかったのでしょう。
    あくまでも平和を望まれる天皇のお気持ちに、結果としてお応えすることができず、戦争へと日本を突入させてしまう。
    たとえそれが米英の陰謀によるものであったとしても、むざむざと戦争に突入させるのではなく、どうしてもっと早くに、有効な手だてを講ずることができなかったのか。
    四方の海を「はらから(兄弟)」とおっしゃられる陛下のお気持ちに、なぜ応えることができなかったのか。

    新聞も国会も、いたずらに戦争を煽っています。
    しかし彼らは、戦争をアオリはするけれど、誰一人、戦争の結果に責任を取らないのです。
    もちろん、勝てば、自分たちの手柄だと胸を張ります。
    けれど敗れたときの責任は、彼らは誰一人とらないのです。
    実際、先の大戦に破れたあと、一面全部を使った(戦争開戦を煽ったことへの)謝罪広告を新聞各紙が掲載したということは、一紙もなかったし、終戦後に役員が総退陣した新聞社もありません。
    また、国会議員で終戦時に自決して責任をとった政治家はいません。
    責任を取らずに戦争を煽ったのなら、新聞社は、無責任なただの流行通信社でしかないということだし、政治家はただの口舌の徒の、無責任な評論家でしかない、ということです。

    この点、いまも大手メディアや政治家の多くが、無責任な評論家となっています。
    そんな無責任な評論家によって国の大事が決められてしまうなど、絶対にあってはならないことです。

    御前会議当時の閣僚たちは、それでも責任の自覚を持った人たちでした。
    ですから陛下の御言葉に、全員、ただうなだれるより言葉がありませんでした。
    誰もがうつむくしかなかったのです。
    なぜなら、陛下のご期待に添うことができなかった。
    その責任の重さが、その場にいた全員の胸を押しつぶしていたからです。

    そんな情況で、「それでも戦争しましょう」などと言える人はいません。
    言おうとしたら、涙がとめどなくあふれてしまうのです。
    陛下のご期待に添うことができなかった。
    陛下の大切な国民の命を危険にさらしてしまう。
    しかも、相手は米英仏蘭です。
    これはいわば世界を相手に戦うに等しい。

    こうして、日本を代表する英才で、知りうる限りのすべての情報を知り尽くした日本の最高責任者たちが、陛下の御前で、声もなくうなだれ、涙をこらえるしかないという情況となりました。

    ちなみに当時の大手新聞は無責任に、
    「最早日米開戦止む無し!」
    「鬼畜米英」
    「進め!一億火の玉だ」
    などと、毎日特大の見出し文字を新聞の一面トップに踊らせていましたが、冷静に彼我の国力の違いを述べて、戦争回避を主張する新聞も二紙ほどありました。
    けれどこの二紙は、当時の発行部数を極端に落しています。

    どんなときでも、センセーショナルな記事を書くほうが売れるのです。
    新聞は、あくまで売るのが商売であり、国家の帰趨に責任を持っているものではないのです。

    兵学校から鍛え抜かれた軍人には、彼我の戦力の違いも、国力の違いも痛いほどわかります。
    挑発されて迎合すれば日本はなくなるのだけれど、もはや戦うしか選択肢がない。

    この「選択肢がない」という点についても、解説が必要です。
    米英仏蘭の日本への要求は、究極的には2つです。
    ひとつは、第一次世界大戦後の国際連盟憲章に、日本が要求した「人種平等」の四字を、日本が撤回すること。
    このことは米英仏蘭の植民地利権を著しく損ねるからです。
    第二に、日本が持つ大陸の権益をすべて手放すこと。

    要するに欧米諸国の植民地支配を認め、彼らが欲しているチャイナや満州の植民地支配権を日本が欧米諸国に与えること。
    これをすれば、戦争の回避はこの時点でも可能でした。

    ただしそのことは、日本が欧米列強の仲間入りをすること、つまり世界中で差別されている有色人種を日本が敵に回すこと、そして人が人を差別し支配する植民地支配を日本が認めることになります。
    そうなれば、日本人もまた有色人種です。
    つまり被差別民族の地位を甘んじて享受することになります。

    しかも、大陸における利権を日本が手放すということは、日本人が直接飢えることをも意味しました。
    当時の日本の人口は、およそ8千万人。
    日本の内地で生産できる食料がおよそ4000万食です。
    日本は、不足食料を外地からの輸入に頼っていたのです。
    その食料供給が絶たれる。
    それは日本人の半数以上(おそらく8割以上)が餓死することを意味します。
    実際、植民地支配されるようになった国々は、いずれも人口の8〜9割を失っています。
    日本も、そうなる、ということです。

    この2つを受け入れれば、戦争回避は可能でした。
    けれど、それは選択できないことでもありました。
    そして戦争をすれば、日本が敗戦する可能性も極めて高い情況にあったのです。
     
    御前会議では、誰も何も言えない情況下でしばしの静寂あと、昭和天皇が海軍軍令部の永野修身(ながのおさみ)総長に発言を求められました。
    永野総長だって、答えられない。
    けれど陛下のお求めです。
    彼は、しばしの沈黙のあと、ようやく重い口を開きました。
    それが冒頭の言葉です。

    その永野修身元帥は、終戦の日に自決を図りました。
    その現場を、海軍中将の左近司政三(さこんじせいぞう)に取り押さえられ、涙を流して「生きることこそあなたの責任だ」と諭され、自決を思いとどまられました。
    そして東京裁判の被告となり、巣鴨刑務所内で寒さのために急性肺炎にかかり、病院に移送され、そこでお亡くなりになっています。
    ちゃんと責任をまっとうされたのです。
    これが評論家と軍人の違い、武士と政治屋やかわら版屋との違いです。

    永野修身元帥は裁判中において、常に堂々と帝国海軍軍人として振舞い、その様子は米海軍のジェームズ・リチャードソン大将が「まさにNagano Osami こそ真の武人である」と賞しています。
    享年66歳でした。

    戦後77年、日本は平和でした。
    先進諸国の中で、この77年、戦争をしないで済んだ国は日本だけです。

    それを「憲法九条があるからだ」という人がいます。
    違います。
    戦争には、常に相手があります。
    相手があるから戦争が起こるのです。
    こちらがいくら「戦争しません」と言ったところで、相手が攻めてくれば戦争です。
    すこし考えれば誰にでもわかることです。

    そうであれば「憲法九条で日本は戦争をしませんと宣言したから戦争になっていない」などという言葉が、いかに浅薄(あさはか)で、中味のない妄想なのかがわかります。
    「平和のために憲法九条を護れ」という人がいますが、それは、
    「我が国国民を危険に晒しましょう」
    といっているのと、実は、同じことです。

    ではなぜ、そのような、我が国の国民の生命や財産を危険に晒すような憲法を持ちながら、日本が戦後81年も戦争をしたり、攻められずに済んできたのでしょうか。

    ひとつは、米軍の核の傘に守られてきたからです。
    憲法9条云々という能書きではなく、現実の軍事力が、日本の平和を維持してきたのです。
    そしてもうひとつは、先の大戦において、わたしたちの若き日の父祖が、世界の戦史上「あり得ない」ほどの勇敢さを世界に示してくださっていたおかげです。

    「日本という寝た子を起こすな!
    これが周辺国を含む、世界の常識であり本音です。
    戦後77年、我が国が平和と繁栄を維持し得たのは、先の大戦で日本の兵隊さんたちが示した強さです。
    日本に下手に手を出せば、とんでもない泥沼戦に至る。
    あまりにも勇敢な戦士たちを相手にすることになる。
    だからこそ日本は、戦後77年、どこからも攻められず平和を保つことができたのです。
    竹島が勝手に占領されていますが、それは彼の国が火病持ちで後先考えずに行動するおかしな習慣があるからというだけのことです。

    永野修身元帥が「必ず再起三起するであろう」とおっしゃった、その「われらの子孫」は、他でもない、いまの日本に生きるわたしたちです。
    私たち日本人が立ち上がるのは、「いま」です。


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    歳末に演奏される第九交響曲は、単にベートーベンの名曲だから演奏されるというだけのことではありません。
    その背景には、捕虜さえも家族として扱い接した私達の父祖たちの平和への想いがあります。
    それは、現代を生きる私たちにとって、思い出すべき大切さではないでしょうか。

    20211208 ベートーベン
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    歳末になると、ベートーベンの交響曲第九番「合唱付き」(邦題『歓(よろこ)びの歌』)が、全国あちこちで演奏されます。
    なかでも四国・徳島県の鳴門市は、第九交響曲の街として有名です。
    なぜ鳴門市が第九なのかというと、実はこの地にかつてドイツ兵の捕虜収容所があったことが原因しています。

    「捕虜収容所」と「歓びの歌」、なんだか奇抜な取り合わせですが、ここにひとりの素晴らしい帝国軍人の個性があり、そこにこの「合唱付き」が重なるのです。

    それは大正3(1914)年のことです。
    この年、第一次世界大戦が勃発しました。
    日本は同盟国だったイギリスの要請を受け、同年8月、ドイツに宣戦を布告しました。

    その2ヶ月後には、早くも日本は、ミクロネシアにあったドイツ領の南洋諸島をことごとく占領しました。
    さらに77日間に及ぶ激闘の末、11月にはChina山東省の港湾都市でドイツ領だった青島(ちんたお)を陥落させました。

    これらドイツとの戦いで、日本に俘虜として、4,627人のドイツ兵とオーストリア兵が、日本国内の戦時俘虜収容所にそれぞれ分散して収容されました。
    そしてこのとき、完成したばかりの鳴門市の「板東俘虜収容所」に収容されたのが、953名のドイツ兵たちだったのです。

    鳴門の収容所所長に任命されたのが、会津藩出身の松江豊寿(まつえとよひさ)陸軍大佐です。
    松江大佐は、明治22(1889)年、16歳の時に仙台陸軍地方幼年学校入学し、陸軍士官学校(5期)を卒業後、陸軍に任官し、以後、ずっと陸軍畑を歩み続けた人です。

    幼いころから陸軍一筋に生きてきた松江大佐ですが、この頃の陸軍は、まだ長州閥が強く、どうしても会津藩出身者は旧幕臣ですから、いろいろな局面で差別待遇を受けたそうです。
    ですから若い頃の松江大佐は、あまりのことに耐えきれず、上官を殴って軍法会議にかけられたこともありました。
    一本気な人だったのです。

    けれどそういうことがあると、組織の中では、余計に警戒され、疎外されるものです。
    要するに今風にいえば、松江大佐は軍隊内部で、ずいぶんとイジメられたし、孤立してしまったのです。

    けれど、ここが大事なところなのですが、そういうイジメや孤立が、かえって松江大佐の心を鍛えています。
    前にもご紹介しましたが、孟子の言葉にある
    「天のまさに大任をこの人に降さんとするや、
     必ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、
     その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、
     おこなうこと、そのなさんとする所に払乱せしむ」なのです。

    イジメというのは、イジメを受ける当事者にとってはとても辛いことです。
    けれどそれに負けず、くじけず、がんばりぬくことで、後になって振り返ると、イジメを受けた側が、人としてものすごく成長するのです。
    一方、イジメる側は、まるで成長しません。
    世の中はそういうものです。

    松江大佐は、日清日露を戦い、42歳で鳴門の捕虜収容所所長に任じられました。
    その松江大佐が、収容所のドイツ人たちにどのように言われたかというと、
    「世界のどこに松江のような(素晴しい)
     俘虜収容所長がいただろうか」です。
    この言葉は、板東捕虜収容所ばかりでなく、第二次世界大戦時にシベリアでも捕虜生活を送ったことのある、ドイツ軍人パウル・クライの言葉です。

    松江豊寿(まつえとよひさ)大佐
    松江豊寿1226


    松江大佐の収容所所長時代の生活は、収容所近くの官舎に住み、毎日1kmほどの道のりを、ゆっくりと馬で通勤する毎日だったそうです。
    その通勤途中、地元の人々があいさつすると、馬上からひとりひとりにていねいに返礼したといいます。

    当時の陸軍大佐といえば、言ってみれば、ものすごく偉い人です。
    その人品の整った偉い人が、ひとりひとりに丁寧にお辞儀をして、挨拶する。
    人間関係も信頼も、まずは挨拶からです。
    自然と町の人たちの信頼が、松江大佐に集まりました。

    松江大佐の日頃の口ぐせは「武士の情(なさ)け」でした。
    間違えてはいけないのは、「ただの情け」ではなく、あくまで「武士の」情けであったです。
    つまり、強さがあって、同時にやさしさがある。
    そこが大事なところです。

    そういう松江所長の姿勢は、自然と地元の方達からの信頼につながりました。
    松江大佐は、捕虜に対しても、出来る限り自由を認める扱いをしました。
    こうしてごく自然に、地元の人たちと捕虜のドイツ人たちのと間に交流が生まれました。
    地元の人たちは、収容所のドイツ兵俘虜兵士たちを「ドイツさん、ドイツさん」と呼んで、家族のように親しく接する風潮となっていったのです。

    ドイツ兵たちは、ドイツ式の牧場経営の方法や、パン、バター、チーズなどの製法、印刷の技法、園芸栽培の技法、土木建設工事の手法など、ドイツ生まれのすぐれた技術や数多くの新しい西欧文化などを地元の人たちに紹介するようになりました。

    そこで松江大佐は、収容所の前に2,300㎡もの土地を借りました。
    何をしたのかというと、ドイツ式農園と、スポーツ施設を作ったのです。

    ドイツ兵たちは、そこで農作業をしました。
    また敷地内にテニスコートやサッカー場まで作られました。
    ホッケーやシュラークバル(ドイツ式野球)、ファウストバル(こぶしだけで行うドイツ式バレー)のコートなども作られます。
    そしてなんと収容施設内に、ボーリング場やビリアード場まで作られました。

    これらはもちろん、ドイツ人捕虜たちのための施設です。
    けれど、この施設には、地元の日本人たちも自由に出入りしました。
    施設利用による収益金は、当時日本国内に流行ったスペイン風邪の際も義捐金などに活用されています。

    ドイツ人たちは、こうして捕虜でありながら自由を約束してくれている松江大佐に、なんとかして恩をかえそうと、町のインフラのための工事にも、参加してくれるようになりました。
    当時の姿をいまだに止めているものに、「船本牧舎」と「ドイツ橋」があります。

    「船本牧舎」というのは、牛と豚を飼育して乳製品やハム、ソーセージなどの製造技術を伝えるために作られたドイツ様式のレンガ立ての畜舎です。いまも鳴門市ドイツ村公園の南側に残っています。

    さらにドイツ兵たちは、地元民のためにと、地域に10もの橋を架けてくれました。
    この橋がいまも鳴門の「メガネ橋」と「ドイツ橋」として残されているのです。

    ドイツ橋
    ドイツ橋


    ドイツ橋は、2003年に県の文化財に指定されました。
    195トンもの石を積み上げて作られてていて、一切セメントが使われてない橋です。
    そして100年近く経った今でも、まったく健在です。
    それは石組みの巧みさばかりでなく、河床の処理が丁寧になされています。

    こうした橋の建造について、当初は応分の報酬が払われるはずだったのですが、俘虜に金を払うことの是非について論議が起きて、結局は無償となりました。

    このとき、ドイツ兵のひとりが言った言葉がいまに伝えられています。
    「松江大佐が、我々俘虜に
     創造の喜びと働く意欲を駆り立ててくれた。
     このことこそが最大の報酬です」

    今回書きたかったことの第一がこれです。
    心志を苦しめられ、鍛え上げられた人というのは、周囲までも立派な人にしていくのです。

    こうした交流の中から、自然発生的に生まれたのが、捕虜のドイツ人たちによる「ドイツ沿岸砲兵隊オーケストラ」の誕生です。
    そしてこのオーケストラは、帰国まで計34回、月平均1回の割合で公開演奏を行い、地元の人たちに親しまれ、また大きな影響を与えました。

    大正7年6月1日には、80人の地元民による合唱団が出演し、収容所施設内で、壮大なベートーヴェンの第九が、なんと第一から第四楽章まで、全曲演奏されました。

    ちなみに、世界中の捕虜収容所で、人を人として扱わない非人道的な扱いが公然と行われている中で、日本では極めて人道的な、というより、それ以上に家族的な扱いが行われていたことは、世界史的な観点からも、実に注目に値することです。

    そういえば、イスラエルの建国の英雄、ヨセフ・トランペルトールも、日本で、ロシア兵捕虜として収容所生活を送った経験を持っています。
    時点は少し違っていて、トランペルトールは日露戦争時の戦時捕虜として、大阪・堺の浜寺収容所に入れられています。

    浜寺収容所では、当時の日本はまだまだとても貧しかったにもかかわらず、捕虜たちに常に新鮮な肉や野菜やパンをふんだんに支給しただけでなく、将校には当時のお金で月額で三円、兵には五〇銭の給料も支給しています。

    そのあまりの親切さに、トランペルトールは一生懸命に日本語を習得し、なぜ小国日本が大国ロシアに打ち勝ったのか、その秘密を探求しようとしました。
    答えは、意外と身近なところに転がっていました。
    警備をしているひとりの日本兵が言ったのです。
    それは、
    「国の為に死ぬほど名誉なことはない」
    という言葉でした。

    祖国イスラエルに帰ったトランペルトールは、「トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ」という言葉をイスラエル建国の標語としました。
    これはユダヤ語で「国の為に死ぬほど名誉なことはない」です。

    日本は建国の理念を「家族国家の建設」に置いている国です。
    誰もが家族のように親しみ、信頼し合い、互いに互いの役割に従って、できる最大限を家族のために尽くしていく。

    だから日本は、明治維新後の大発展ができたし、世界に良い影響を与え得たし、そうした先人たちのおかげで、いま私達はこうして生きているわけです。

    歳末に演奏される第九交響曲は、単にベートーベンの名曲だから演奏されるというだけのことではありません。
    その背景には、捕虜さえも家族として扱い接した私達の父祖たちの平和への想いがあります。
    それは、現代を生きる私たちにとって、思い出すべき大切さではないでしょうか。


    ※この記事は2011年12月の記事のリニューアルです。

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  • 教科書にないマレー沖海戦の真実


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     12月10日は、マレー沖海戦があった日です。この海戦は、大東亜戦争開戦の2日後である1941年12月10日にマレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)と、大英帝国東洋艦隊の間で行われた海戦です。
     よく「戦艦大和は航空機によって沈められた。時代は航空機主体の時代に変わっていたのに、日本は空母を作らず大艦巨砲主義の巨大戦艦大和を作り、結局、米航空体によって大和は沈められた」といった話を耳にします。私も学生時代、学校の先生から、大鑑巨砲主義に傾倒した日本がアホだったと教わりました。
     しかし、これは違います。世界最初に航空機をもって戦闘態勢の戦艦を沈めたのは日本です。これにより世界の海戦の態様が変わりました。日本が、変えたのです。それがマレー沖海戦です。

    20211210 マレー沖海戦
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    マレー沖海戦で、日本は英国海軍が世界に誇る、当時の技術における世界最強戦艦を撃沈しています。
    航空機で戦艦を沈めたという先例なら、タラント空襲、真珠湾空襲などもあるのですが、それらは、停泊中の戦艦を航空機で叩いた、というものです。

    当時は停泊し、エンジン機関を停止している戦艦は、主要な武器が使えなかったのです。
    人に例えれば、寝込みを襲われるようなものです。
    ところが作戦行動中の戦艦というのは、全身が鋼鉄の要塞であり、対空防衛力、対潜防御力、攻撃力いずれをとっても、蚊蜻蛉(かとんぼ=航空機の蔑称)くらいで倒せるようなシロモノではないというのが、先の大戦開戦当時の世界の常識だったのです。

    なかでも当時マレーに配備されていた英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、14インチ(35.56cm)砲を10門装備、さらにポムポム砲と呼ばれる対空砲を装備していました。
    この砲は1分間に6000発もの弾丸を発射するというすさまじい砲です。

    英国は2年も前から、ヨーロッパ戦線でドイツ・イタリアの航空機に襲われる経験を積んでいました。
    つまり十分な対空戦の経験もあったのです。
    ですから英国の誇るこの大戦艦の前に、当時の技術では、世界中のどの戦艦も敵わないし、どんな航空機攻撃をも撃退されるとされていました。
    プリンス・オブ・ウェールズは「20世紀最強の暴君」と呼べるだけの海の最強戦艦だったのです。

    英国首相のチャーチルは、東洋にある英国領土の植民地利権を守るために、この最強戦艦を旗艦とする艦隊をマレーに派遣しました。
    これによって、いつ日本が攻めてきても、鎧袖一触。
    いつでも打ち払える用意を整えていたのです。

    ところが日本が昭和16年のマレー沖海戦で、限られたごく少数の航空機だけで、この世界最強戦艦に挑み、プリンス・オブ・ウェールズのみならず、それに付属していた巡洋戦艦レパルス、その他駆逐艦4隻で構成する英国G艦隊をまたたく間に沈めてしまいました。
    さらに英国乗組員の退避のための十分な時間を与えて、乗員の命を永らえたのみならず、戦域を逃れて漂流後に沈んだ英国海軍の将兵までも救助しています。

    稼働中の戦艦が航空機によって沈められたという事例は、今日までの世界のあらゆる海戦の中で、このマレー沖海戦と、終戦間際に圧倒的な航空機をもって戦艦大和が撃沈された坊ノ岬沖海戦(1945年4月7日)、同様に大多数の航空機をもって戦艦武蔵が沈められた捷一号作戦(1944年10月24日)の3例しか、世界の戦史にありません。

    そしてこの三つの海戦のうち、あとの二つが昭和20年に、まるで雲霞のように空を覆いつくさんばかりの航空機で戦艦を叩いたのに対し、日本が行ったマレー沖海戦では、限られたごく少数の航空機だけで、見事に戦艦を沈めています。
    しかも、戦艦がいよいよ沈み始めたとき、日本の航空隊は、乗員避難のための猶予を英国側に与えるという紳士的行動をしています。
    これに対し、大和、武蔵が沈んだときには、海上に逃れた抵抗できない日本の海軍乗員は、空からの航空機による銃撃による虐殺を受けています。

    プロパガンダは、歴史ではありません。
    大鑑巨砲主義だとか、日本軍には知恵がなかったとか、本当に戦後の我々は、いい加減な嘘を垂れ流されてきていたのです。

    もうひとつ大事なことがあります。
    第二次世界大戦が始まったのは、この海戦の2年前の昭和14年9月のことです。
    ナチスドイツによるポーランド侵攻。
    これが第2次世界大戦のはじまりです。
    そしてナチスドイツは、はじめの2年間でヨーロッパ全域をほぼ掌握し、昭和16年末頃には、英国への空爆を盛んに行っていました。
    ロンドンも、ナチスドイツの空襲にさらされるようになっていたのです。

    ここで皆様にもお考えいただきたいのです。
    このような状況にあれば、英国は、英国の誇る最強戦艦プリンス・オブ・ウェールズを英国の護りに使うべきところです。
    あたりまえです。英国本土そのものが危機状態に至っていたのです。

    ところがどういうわけか、チャーチルは、そのプリンス・オブ・ウェールズを、英国領インドの東側の防衛ラインであるマレーに派遣しています。
    軍の行動というのは、意図があってのものです。
    つまり英国は、日本が開戦に踏み切るよりもずっと前に、日本が戦争を開始することを察知していたし、日本の開戦が、英国の本土防衛上に、きわめて重要な意味を持つと考えていたということになります。

    ヨーロッパ全域がナチスドイツによって領有され、残るは英国ばかりとなり、その英国もナチスドイツの軍門に降らなければならない状況に至っていた。
    そうした中にあって、英国の起死回生のためには、もと英国領であった米国に、どうしてもヨーロッパでの戦いに参戦してもらわなければならない。

    ところがこの時点における米国のルーズベルト大統領は、米国民を絶対に戦争に参加させないと、繰り返し誓って大統領に就任した人物です。
    米国の参戦がなければ、英国はドイツによって占領され、大英帝国そのものが崩壊する。
    その危機にあって、英国が起死回生を図るためには、日本に米国を叩かせなければならない。
    日本を戦争に駆り立てるためには、日本への石油輸出を禁じれば良い。
    そうすれば、日本は乾坤一擲の勝負に出ざるを得ない。
    米国が石油を禁輸すれば、日本は、もとオランダ領のインドネシアの油田を目指すことになる。

    この時点ですでにオランダという国はありません。
    ですからインドネシアの油田を守っているのは、オランダ軍ではなく、オランダという国を失った元兵士たちです。
    すでにこの時点で、オランダ領は、事実上ナチスドイツ領になっています。
    日本とドイツは同盟国です。
    当然日本は、同盟国ドイツが持つインドネシアの石油を求める行動に出る。

    ところがそのためには、米国領のフィリピンを通らなければなりません。
    つまり、日本がインドネシアの石油を得るためには、当然、フィリピンにある米軍を叩くことになる。
    すると中立を決め込んでいた米国は、当然に参戦しなければならなくなる。

    そして日米が開戦となると、日本と同盟関係にあるナチスドイツとも、米国は戦争状態になる。
    米国は、米国本土を護るために、戦線を米国本土にするわけにいきませんから、当然に、ヨーロッパに派兵しなければならないし、ドイツと戦わなければならないことになる。

    ナチスドイツからの空爆を受け、いまや国の存続が風前の灯火になった英国にとって、起死回生の一策は、もはやそこにしかない。
    けれど、そうなると、英国領であるインドやインドネシアに近いシンガポールも、日本の標的になる。
    これを護るためには、英国が誇る最強戦艦のプリンス・オブ・ウェールズをマレー沖に派遣するしかない。

    と、こういう流れなのです。

    米国がヨーロッパ戦線に参戦すると、その時点でヨーロッパ全域に戦域を広げて、手一杯状態になっているナチスドイツは、限界ギリギリ手一杯のところに、新たな敵を迎え撃つことになります。
    そこに英国の勝機がある。
    いかにも政治家であるチャーチルらしい、政治的な絵です。

    逆に言えば、日本は、そうした策謀によって、禁輸制裁という挑発を受けて、やむなく自衛のために戦争を起こしています。
    この「挑発を受けて相手にアタックする行為」、つまり戦争を始める行為は、国際法上、侵略戦争とみなされません。

    そもそも戦争には、
     1 侵略戦争
     2 自衛戦争
     3 制裁戦争
    の三つの区別があります。

    このうち、明らかに国際法上「違法な戦争」とされるのは、1の侵略戦争だけです。
    2は、攻撃を受けての反撃ですから、これは国家存続のための必要な行為です(これを国家生存権といいます)。
    3は、違法な侵略国や、ジェノサイドを行っているような国を、世界の諸国が協調して制裁を科すための戦争であって、これまた国際社会に必要な戦争であって、違法な戦争ではありません。

    日本国憲法が禁止しているのも、ごく一部のわずかな国を除いて、世界中の国々が規制しているのも、侵略戦争だけです。
    2と3は、日本国憲法上も、完全に合法な行為です。

    従って、昭和16年の大東亜の開戦も、日本は「挑発を受けて開戦した」のですから、これはマッカーサーも後に認めているように、明らかに「自衛戦争」であって、国際法上も完全に合法的な戦争であったのです。

    ここは大切なところです。
    日本が真珠湾攻撃を行って、大東亜戦争を開始したのが、12月8日です。
    ところがマレーには、その前日である12月7日に、英国東洋艦隊が、トーマス・フィリップス海軍大将司令長官の指揮のもとZ部隊を編成して、シンガポールを出航しています。
    完全に、日本側の動きは、察知されていたのです。

    先の大戦は、日本の「奇襲攻撃によって始まった」とされていますが、実際には日本は、網を張り、待ち構えている中に、日本が飛び込まされたのです。
    いわば、蜘蛛の巣にひっかかったようなものです。

    マレー沖海戦で、日本の輸送船団を警護していたのは、金剛と榛名です。
    両艦とも近代化の改装こそ受けていますが、艦齢は27年を越えている老朽船でした。
    最近の自動車は、当時と比べてかなり耐久性の面で向上していますが、それでも27年オチの車となると、いい加減、ボロボロです。
    兵装や装甲の厚さも、巡洋艦程度の実力しかない船です。

    これを、英海軍は、世界最強の戦艦二隻を含む最強艦隊で出迎えたのです。
    最新鋭艦の戦艦プリンス・オブ・ウェールズは、当時の英国王ジョージ6世の兄王であるエドワード8世の即位前の名前をいただいた船です。
    いかに自信満々の船であったかがわかります。

    同行するもうひとつの戦艦レパルスも、建造年月こそウエールズより古いものの、装備はウエールズと同じです。
    しかも、それまでにドイツ軍航空機による爆撃を何度も受け、それらを完全に撃退してきているという実践経験の豊富な戦艦です。

    普通の常識で考えれば、余程のアホでも、ここまで戦力が違えば、日本の輸送船団は完全壊滅させられると確信できます。

    では日本はどうしたかというと、とにかく輸送船団を護衛しなくちゃいけない。
    ですからサイゴン(いまのホーチミン)にある航空基地から、航空機(九六式陸攻59機、一式陸攻26機、計85機)を発進させました。
    海上の戦力が乏しいのです。
    空から補わなくちゃならなかったのです。

    そして運良く、英国東洋艦隊を発見します。
    各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到しました。

    戦いは、熾烈なものでした。
    航空機による攻撃を、完全撃退してきた実績を持つレパルスと、それをさらにひとまわりも強化したプリンスオブウエールズが相手です。
    しかもボムボム砲が、弾幕で空を覆いつくしています。

    この戦いで日本側は、陸上攻撃機未帰還3、帰投時の不時着大破1、偵察機未帰還2、その他30機以上に深刻な被害を受けました。
    飛び立った半数が深刻な被害を受けたのです。
    どれだけたいへんな戦いだったかわかります。

    そしてその大激戦の結果、日本はなんと、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと、巡洋戦艦レパルスの両方を撃沈して、沈没させてしまうのです。

    この戦いで、ウエールズ撃沈の報告を聞いた英国チャーチル首相は、
    「あの艦が!」と絶句し、
    「戦争全体で(その報告以外、)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」と著書の第二次世界大戦回顧録で語っています。
    それだけ、チャーチルにしてみれば、自信満々の日本叩きのための「絶対沈まない船」のはずだったのです。

    マレー沖海戦では、まず戦艦レパルズが沈みました。
    次いでプリンス・オブ・ウェールズが、大破しました。

    プリンス・オブ・ウェールズの艦長のトマス・フィリップス海軍大将は、日本の航空隊に向け、乗員を退艦させるので、30分時間をほしい、と打電しました。

    日本の航空隊は、これをのみました。
    おかげでウエールズの乗員たちは、巡視船エクスプレスに乗り移ることができたし、レパルスの乗員も捜索する時間が与えられ、エレクトラが571名、ヴァンパイアが、レパルスの艦長と従軍記者を含む225名を救助しています。

    その間、日本の攻撃隊は空で待機しました。
    英国軍の救助活動の間、いっさいの攻撃行動をしなかったのです。

    当時の飛行機は、いまの時代にあるようなハイブリット・タイプでも省エネタイプでもありません。
    空で待機していれば、燃料が減り、その減ったところに敵機が、援軍機で攻めて来たら、帰投するガソリンさえもないまま、撃ち落とされなければならなくなるかもしれないというリスクがあります。

    それでも日本の航空隊は、待ちました。

    ウエールズの乗員が全員退艦したあと、トマス司令官が、ひとりデッキに残ったのです。
    彼は海の男です。
    やはり、艦とともに死を選んだのです。

    日本の航空隊は、それを見届けると、上空で全機整列し、一機ずつデッキ前を通過して、トマス艦長に航空機での最敬礼をして、敬意を払っています。
    トマス艦長も、最敬礼で応答しています。

    つまり、日本の航空機が空で待機したのは、まさに武士道そのものであったのです。

    さらに、マレー沖海戦の翌日、一機の日本機が、戦闘のあった海域に再度飛来しています。
    何をしにきたのでしょうか。

    その機は、海面すれすれまで下降すると、現場海面に花束を投下して去って行ったのです。
    敵となり、味方として死んで行った同じ海の男達の敢闘に、弔意を表したのです。
    これが日本の示した武士道です。


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    ただの門番の兵士は言った。
    地上のあらゆる人間に遅かれ早かれ死は訪れる。
    ならば、先祖の遺灰のため、神々の殿堂のため、強敵に立ち向かう以上の死に方があるだろうか。
    かつて私をあやしてくれた優しい母親のため、我が子を抱き乳をやる妻のため、永遠の炎を燃やす清き乙女たちのため、恥ずべき悪党セクストゥスから皆を守るため以上の死に方があるだろうか。

    20171122 特攻隊員の笑顔
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    この人が書いた有名な詩に、『橋の上のホラティウス』という詩があります。
    ご紹介します。

    『橋の上のホラティウス』
    Thomas Babington Macaulay作

     門の守り手であった勇敢なホラティウスは言った。
     「地上のあらゆる人間に遅かれ早かれ死は訪れる。
      ならば、先祖の遺灰のため、神々の殿堂のため、
      強敵に立ち向かう以上の死に方があるだろうか。
      かつて私をあやしてくれた優しい母親のため、
      我が子を抱き乳をやる妻のため、
      永遠の炎を燃やす清き乙女たちのため、
      恥ずべき悪党セクストゥスから
      皆を守るため以上の死に方があるだろうか。
      執政官どの、
      なるべく早く橋を落としてくれ
      私は、二人の仲間とともにここで敵を食い止める。
      路にひしめく一千の敵は
      この三人によって食い止められるであろう。
      さあ、私の横に立ち橋を守るのは誰だ?」


    ここでのホラティウスは、いってみれば「ただの門番の兵士」です。
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    なぜならそれは、先祖ためであり、神々のためであり、母のためであり、妻のためであり、清き乙女たちのために戦って死ぬ名誉だからと述べています。

    誰しも戦いは嫌です。
    平和に安心して安全に暮らしていたい。
    けれど、その平和が、安心が、安全がおびやかされたときには、勇気を持って戦うことの大切さを、英国人のマコーリーは書いています。

    暴力は反対です。
    しかし理不尽な暴力に対して武力を用いて戦うことは、暴力ではありません。

    ある学校のクラスで、一部の生徒による他の生徒へのイジメが問題になりました。
    父兄が集められました。
    一部の親から、非行に走る子供に対しては、
    「先生から厳しく体罰を与えてもらいたい」との要求が出されました。
    多くの父兄がそれに賛同しました。

    ところが、
    「体罰はいけない。
     ウチでは子供に体罰を与えたことなど一度もない。」
    と強硬に主張する一部の親がいたそうです。

    このときに出席したあるお父さんは、帰宅後、奥さんにその話をしました。
    すると奥さんいわく、
    「その反対した親って、◯◯君と◯◯君のお母さんたちでしょ?」
    「うん。どうしてわかるの?」
    「その子達がイジメの犯人なのよ」

    その犯人の親は、話すときの発音もすこしおかしい、日本国籍を持ち、日本人のような顔をして日本語を話す日本人ではない一家だったそうです。
    私たち日本人にとっては、しっかりした良い子に育てることが大事ですから、どの子も平等に厳しくしつけることは、あたりまえのことです。
    しかし彼らのもといた半島の文化は、自分や自分の家族への制裁は一切ガマンならないけれど、自分が他人に暴力をふるうことは、まったくもっておかまいなしという文化です。

    そこに加えて、日本人はかつて自分たちに悪いことをして、いまも強く差別していると、家庭内で子供に教えます。
    それは一から十まで全部嘘なのですが、これを聞いて育った子供は、日本人を蹂躙することは正当な行為と勘違いして育ちます。
    その勘違いが、学校で父兄を集めなければならないほどの大きな問題になってしまっているのに、そのことの重大さに親自体が気付かない。
    困ったものです。

    我々日本人がしっかりしなければならないのです。
    戦後、このようないわゆる反日思想を持った人たちの言論が、まさに一世を風靡しました。
    文化人と呼ばれる人たちは、彼らからお金をもらい、莫大な費用をかけて広告され、宣伝され、著書はバカ売れして膨大な資産をものにしました。
    そして祖国を護るために戦った帝国軍人は悪の暴徒とされ、特攻隊はテロリスト呼ばわりされました。

    ケネディ大統領の甥に、マックスウェル・T・ケネディという人がいます。
    彼は『特攻-空母バンカーヒルと二人のカミカゼ--米軍兵士が見た沖縄特攻戦の真実』という本を出し、その著書の中で次のように書いています。

    「彼らの最後の望みは、
     未来の日本人が特攻隊の精神を受け継いで、
     強い心を持ち、苦難に耐えてくれることだった。
     わたしたちは神風特攻隊という存在を、
     ただ理解できないと拒絶するのではなく、
     人々の心を強く引きつけ、
     尊ばれるような側面もあったのだということを、
     今こそ理解すべきではないだろうか。」

    ここに書かれた「未来の日本人」とは誰のことでしょうか。
    私たちのことではないでしょうか。
    そして特攻隊として散華された二十歳前後の若者たちは、いまを生きている私たちに、
    「強い心を持て。
     苦難に耐え、
     尊ばれる生き方をせよ」
    と呼びかけてくださっているのではないでしょうか。


    ※この記事は2011年1月の記事のリニューアルです。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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