• 歳末ご挨拶


    20221231 除夜の鐘
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    今年一年、たいへんお世話になりました。

    明年もよろしお願いします。

    皆様にとって、次の1年が幸多き年になりますことをお祈りします。

    小名木善行 拝




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    20221230 寅年
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    毎年元旦に、その年の干支を用いての年占いをこのブログで行っています。
    今年の干支は壬寅(みずのえ とら)でした。

    「壬」は、糸が糸巻きにぐるぐると巻き付いて膨らむ象形。
    「寅」は、両手で矢を引っ張る(伸ばす)象形です。

    つまり壬寅(みずのえ とら)の年は、何かに向かう動きが一気に加速する年ということになります。

    実際、今年一年を振り返ってみると、あらゆるものが加速した一年であったといえます。

    各新聞社の今年の重大ニュースをみてみると、

    新型567感染者1日あたり10万人超え
    32年ぶり円安、1ドル=150円突破
    安倍元首相が撃たれる
    旧統一教会が政治問題化
    物価高騰、商品値上げ相次ぐ
    KDDI、全国で通信障害
    大学入学共通テスト、問題流出
    辞任ドミノ、閣僚更迭相次ぐ
    参政党現象が起こる

    といった記事が紹介されています。
    現代の世界は、いわゆるグローバリストと称される一部の金持ち利権と、人々の幸せを願うナショナリストの対立の構図として描かれますが、567騒動は、実は本当に危険なものというよりも、意図的に作り出された騒動であることが国民の目の前に明らかになりました。

    一方で今年は円が150円台に突入するなど、極端に円が安くなった一年でもありました。
    円が安くなるということは、世界の大口投資家たちにとって、円が将来の見込みがない通貨とみなされたことを意味します。
    実際、我が国の産業は、造船、鉄鋼、繊維、家電、半導体、金融など、これまで基幹産業であった産業界が、ことごとくシェアを中韓に奪い取られ(政治的に売り渡され)、いまや日本に残る世界的産業は自動車だけという状況にあります。
    ところがその自動車を、政治主導でチャイナ産のEVに変えようとしている。
    こうなると、日本にはもはや外貨を稼ぐ産業がなくなり、日本は発展途上国の仲間入りとなります。
    つまり、円の価値がなくなる。
    だから円安になっています。
    つまり、日本経済(というより日本の産業界)が、世界の投資家達から見て「終わりだ」とみなされたということです。

    加えて日本の産業が失われると、外貨の獲得ができなくなりますから、日本は外国から食料を買ってくることができなくなる。
    日本国内での食料自給は、4000万人分しかありません。
    現在の日本の人口は、1億2千万人ですから、将来的に国民の3分の2が餓死することになります。

    こういう問題をちゃんと解決していくのが本来の政治の役割なのに、政治の動きはまったく逆方向を向いている。
    そしてこれに抗おうとした安倍元総理が射殺されるという事件が起こりました。

    統一教会の問題が明るみに出たことは、良いことだと思いますが、そのことが原因で閣僚が次々と辞任に追い込まれたという動きも、深いところでは、日本の経済力をどこぞの国に売る、つまりすでにどこぞの国に買収された人物を次々と閣僚に据えるための方便であった可能性を指摘する人もいます。

    そして日本国内にある資力のある企業が、何らかの工作によって狙い撃ちされたのも、今年一年の特徴でした。

    一方、世界の国々の一人あたりGDPが発表されると、なんと日本経済は1970年代の水準に逆戻りし、いまや韓国やチャイナにさえも追い越されかねない状況に至っていることも明らかになりました。
    これまで保守系の論壇や経済評論家が、口を揃えて「中国はもうダメだ、韓国はもうダメだ」と言っていながら、一番ダメだったのは、実は日本であったわけです。
    他所の国の悪口を言う前に、自分たちの国をなんとかしなければならないという、あたりまえのことが、これまで曖昧にされてきた。
    こんなことではいけないと、多くの人々が感じ始めたのも、この一年の出来事であったといえます。

    そしてそうした人々によって、参政党現象が起き、人々が自ら事実を学び、考え、行動しようと集い始めると、これに対する攻撃が激しく行われるようになりました。
    つまり、日本を貧しくさせ、日本の富を奪おうとする人たちが、日本国内で盛んに工作活動を行っているということもまた、あからさまになってきたのも、この一年の出来事であったといえます。

    つまり今年、壬寅(みずのえ とら)の年は、何かに向かう動きが一気に加速した年であったわけです。

    では来年はどうなるのか。
    このことは、元旦の記事で明らかにします。
    お楽しみに。


    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 本能寺の変


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     普通なら、これで人口が激減します。実際、異文化との衝突というのは、どちらかが滅びるところまで行ってしまうというのが世界史の常です。つまり、仏教伝来によって、古来からある日本の文化も、日本人も、もしかしたらほろんでなくなってしまったかもしれないのです。
     ところが日本はそうなりませんでした。なぜかといえば、生活に苦しくなった民衆が、努力して新田の開墾を始めたのです。つまり、富が偏在した分、日本人は新たな富を生み出すべく、努力を重ねたわけです。そうしてできた新田の地主たちが、後年、みんなで力を合わせて、自警団を組み、それが武士団となって、時代がまた新たな時代へとシフトしたわけです。ここは、大事なポイントだと思っています。

    20221229 太閤記
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    小名木善行です。

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    今回も、昨日に引き続き12月24日に発売された新刊の『ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康』の原稿から、桶狭間の戦いをご紹介したいと思います。

    本能寺の変です。

     ***

    第三章 秀吉と家康
    3-1 本能寺の変

     歴史の見方や考え方は、様々なものがあります。事実はひとつであっても、それがなぜ起きたのか、どうしてそうなったのかは「人の解釈」によるからです。ですからどのような見方をしたとしても、それは自由ですし、以下もそうしたたくさんの見方のひとつにすぎません。そうしたさまざまな見方を、複眼的に受け入れることで、物事をより幅広い視野で見ることができるようになるのではないかと思っています。

     明智光秀の「敵は本能寺にあり!」は歴史に残る名台詞です。歴史をあまり好きではないといわれる現代人でも、この言葉は常識として定着しています。本能寺の変で織田信長が亡くなり、倒した明智光秀も秀吉に敗れて三日天下に終わりました。そして世は関白太政大臣豊臣秀吉の時代、そして関ヶ原を経て徳川幕府の時代へと移ります。

     この本能寺の変で、亡くなったはずの信長の遺体はあがっていません。本能寺そのものは、事変のときに火災で焼け落ちていますが、普通、木造家屋の火災程度では、遺体は焼死体となって残るはずで、それがないというのは、この時代の火力を考えればすこしおかしな話です。
     信長の遺体が発見されなかったのは、本能寺が京における信長の出先機関であり、地下に織田軍団の保有する火薬が大量に保管され、事変のときにこれが大爆発を起こしたからだ、という説もあります。当日巨大な火柱が本能寺方面からあがったのを見た、という記録があるからだ、というのがその論拠のようですが、どうもしっくりきません。

     というのは、火薬が爆発したのなら、火柱もさりながら、大音響を伴ったはずで、その「音」に関する記述がどこにもないからです。そういう説ならむしろ、遺体はほぼ特定されたけれど、あまりに痛ましい焼死体であったために、あえて「燃え尽きて、なくなっていた」ことにしておいた、つまりそれは「後講釈」でしかなかったという解釈の方が、なんだかしっくりくるように思えます。

     歴史を調べるとき、文献史料というのは、とても重要です。ただし日本の、とりわけ武家社会というのは、いわゆる「タテマエ社会」で、実際にあったことよりも、タテマエとして「こうだったことにしておこう」ということが優先された社会であったということも理解しておく必要があります。
     西洋においては、文献は当時の模様を事細かに微に入り細にわたり描写するのが特徴です。これは歴史史料に限らず、絵画や彫刻、文学なども同じで、油絵の具を何度も何度も重ね塗りして、できるだけリアルに仕上げようとする、あるいは風景描写などを、小説の中で事細かにしていきます。ロシア文学などは、冒頭の風景描写だけで数ページ続くなんてこともあります。
     これに対し日本の古典は、史書も文学も絵画も芸能も、すべて引き算です。できるだけ短い言葉にして、あとは読み手の想像力に委ねる。これは、読み手、受け手の側に一定の教養と知性を求めますが、その代わり想像力が刺激される分、言葉は短いけれど、含蓄のあるより大きな情報を伝えます。
     日本では、そもそも文自体に引き算という特徴があることに加え、武家の記録は常に「タテマエ」が優先するわけですから、単に書いてあるか書いてないかだけで歴史を考えることは、判断を誤ります。当時あった実際の出来事が、かならずしもその通りには書かれていないということが往々にしてあるからです。

     では、信長はどうなってしまったのでしょうか。
    これについて、おもしろい見解があります。
    信長は生きていた、というのです。

     生きて、どうなったかは不明です。当時は東南アジア諸国との交流が活発でしたので、海外でのんびりと余勢を過ごされたのかもしれませんし、もしかすると、そうなろうとして、途中の海でシケに遭って亡くなられたかもしれない。
    あるいは仏教に帰依して、僧侶となって余勢を送ったかもしれません。当時は、出家して坊さんになることは、現世における死を意味したからです。
     ただ、ひとついえそうなのは、太平の世を築くという目的のためには、そこで信長が死ぬことは、あまりにもタイミングが良すぎる、ということです。つまり、本能寺の変は、信長が光秀に討たれたのではなくて、逆に信長が光秀に命じた、実は大芝居ではなかったのか、というのが、信長生存説です。

     このお話には、前提となる流れの話が必要です。それは仏教の話です。
     六世紀の仏教伝来以来、十六世紀終わりごろの秀吉の「刀狩り」の時代まで、約千年間の長きにわたって、実は仏教勢力は、たいへんな武装政治勢力でした。
     これはいまで言ったら、某巨大新興宗教団体が、独自に自衛隊、というより軍や兵器を持っているようなもので、そんな武装勢力が、神輿【みこし】を繰り出しては、朝廷を脅迫していたのです。
     「平家物語」の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水(洪水)、双六の賽(サイコロ)、山法師(僧兵)」の三つは「天下三大不如意」、つまり「どうにも手がつけられない」と嘆いたことが書かれています。

     そもそも、仏教が伝来したのは、六世紀の中頃です。当時、朝鮮半島にあった百済(くだら)という国の聖明王が、日本の欽明天皇に金銅の釈迦如来像と経典,仏具などを献上したことが、学校では「仏教公伝」と教えられます。このことを称して昨今、「仏教も文字も朝鮮が日本に伝えたもので、それまでの日本は宗教も文字もないオクレタ未開の野蛮国だった。その日本が文化を教えてもらった恩義も忘れて朝鮮半島を侵略統治したのは、恩知らずのとんでもない暴挙だ」と主張する日本の学者、ジャーナリスト、メディアがあります。韓国では実際に子供達にそのように国定教科書で教えているのだそうです。

     馬鹿な話です。当時の朝鮮半島は、いまの北朝鮮のあたりが高句麗(こうくり)で、韓国のあるあたりは三韓時代といって、百済(くだら)、新羅(しらぎ)、任那(みまな)の三地域に分かれていました。このうち任那は日本そのもので、つまり朝鮮半島の南部の一部(かなり広大なエリアですが)は、倭国(わこく)すなわち日本そのものだったのです。そして百済は、東に新羅、北に高句麗という強国を抱え、自国の存続のために日本の庇護を受けていました。
     実際、百済は王子を毎回日本に人質に出しているのです。そして王が逝去すると、日本にいた王子が帰国して次の王になりました。ですから実際には人質というより留学と呼ぶべきものでもあるのですが、日本と朝鮮双方の考古学史料がこうした事実を明らかに証明しているのに、デタラメな思い込みを教育しているというところに、現代歴史学会の病巣があるし、それを真に受ける馬鹿な日本のメディアにもおおいに問題があるように思います。

     要するに、百済の王が日本に仏教の教典や仏像を献上したのは、百済の国土防衛上の必要からのものです。また「このときはじめて日本に文字が伝えられた」と主張する説もあります。しかし日本にはすでに一世紀に金印が伝わっています。またこの頃の銅鏡にも文字が掘られています。一世紀半ばの金印については、そもそも印鑑というモノ自体、文字文化がなければ無用の長物ですし、この金印の授与に際して、日本から「大夫(たゆう)」という肩書きの者が漢の皇帝を訪問したと漢の記録に書かれています。つまり、そうした肩書きや役職、官位が制定されるだけの、しっかりとした行政組織が、すでに一世紀の日本にはできあがっていたということです。

     さらに百済からの仏教伝来よりもはるか以前に、日本では墨で文字の書かれた土器なども多数出土しています。一〜三世紀には、すでに文字が広汎に普及していた日本に、六世紀になって「はじめて」漢字が伝わったというのは、あきらかに無理がある話です。

     問題は、仏教や文字を伝えてもらったなどという「ありがたい話」ではなくて、その仏教が、我が国において、巨大な武装政治圧力団体になってしまったにあります。仏教を否定するとか、そういう意味ではありません。鑑真など、素晴らしい高僧や、素晴らしい教えがあった一方で、世俗的な意味での仏教組織の肥大化と武装のことを申し上げています。
     仏教は、伝来からわずか四十二年で、推古天皇によって仏教興隆の詔が発せられました。これが西暦五九四年のことです。つまり仏教は、たった四十二年で、天皇を動かすだけの政治力を持ってしまったのです。どうしてこのようなことができたのでしょうか。

     日本にもともとある神道は、いまでこそ「交通安全祈願のお守り」なんてのを売ってたりしますが、もともとは現世利益を説いていません。交通安全や安産、病気快癒、商売繁盛などを扱うようになったのは、神社とお寺の境界線が曖昧になった江戸時代以降のことで、もともと神道にあるのは浄化と感謝です。ですから、たとえば「あの人と結ばれたい」と思っても、神道なら「それならお祓いしてあげましょう」というだけで、結ばれるかどうかは、あなたの精進努力次第ですとなります。
     ところが後発の渡来仏教は、現世利益です。信じれば病気が治る、怪我をしない、暮らしが豊かになるし、恋も叶う。その大がかりなものが、加持祈祷です。

     よくよく考えてみれば、一億の民それぞれが、みんな自分の願いが叶ったら、世の中はたいへんなことになります。たとえば今日は晴れてほしいという願いの人もいれば、今日こそ雨が降ってくれないと困る人もいる。誰もが学校で成績一番をとりたいと願っても、生徒全員が一番になるのは無理ですし、絶対に病気や怪我をしてほしくないという願いが全員叶ったら、医者も看護師さんも失業しなきゃならない。
     けれど、そうはいっても、目の前で子供が大怪我をしたり病気になれば、ワラをもつかみたくなるのが庶民感情です。いくら払ったら願い事が叶うと聞けば、おカネも払うし、それで願いが叶わなければ、信心が足りない、お布施が足りないとなって、ますます寄進を行う。結果として渡来仏教は、全国から集めた寄進で大繁盛し、莫大な経済力身に付けます。そしてその莫大な経済力を背景に、豪華絢爛な仏閣を建て、政治にも大きな力を持つのです。

     ちなみに富というのは、古代においては、食物とイコールです。人間は、その食物の生産高以上には人口は増えません。ということは、ごく一部の者、つまり渡来仏教集団が、それだけの大きな経済力を持ったということは、日本全国でみれば、もともと民衆の間に均等だった富が、一部の者に偏在した、つまり一部の者が富むことによって、他の多くの民は、極貧生活を余儀なくされるという結果を招いたわけです。
     普通なら、これで人口が激減します。実際、異文化との衝突というのは、どちらかが滅びるところまで行ってしまうというのが世界史の常です。つまり、仏教伝来によって、古来からある日本の文化も、日本人も、もしかしたらほろんでなくなってしまったかもしれないのです。
     ところが日本はそうなりませんでした。なぜかといえば、生活に苦しくなった民衆が、努力して新田の開墾を始めたのです。つまり、富が偏在した分、日本人は新たな富を生み出すべく、努力を重ねたわけです。そうしてできた新田の地主たちが、後年、みんなで力を合わせて、自警団を組み、それが武士団となって、時代がまた新たな時代へとシフトしたわけです。ここは、大事なポイントだと思っています。

     仏教勢力が持ったのは、経済力と政治力だけではありません。仏閣内に多勢の「僧兵」を養うようになりました。つまりお寺が軍事組織化したのです。これは大問題で、いまで言ったら、特定娯楽業界が軍隊並みの武装をしたみたいなものです。
     ちなみに「僧兵」という言葉は、事実上「僧兵」が武装軍団ではなくなってから、つまり江戸時代になってから付けられた名前です。もともとの呼び名「法師武者」とか「僧衆」です。隠語では「悪僧」といいました。この場合の「悪」というのは、「強い人」という意味で、現代風の「悪者」とは意味語感が違います。有名なところでは、武蔵坊弁慶がいます。

     「悪僧」たちは、完全な軍事組織を形成していました。鎧も着れば兜もつける。手には大薙刀、腰には刀、背中には矢を背負い、日々鍛錬して強大な軍事力を持ちました。宮本武蔵と対決した、槍の宝蔵院流というのも、僧たちの槍の流派です。
     そして「僧」たちは、なにか政治問題があると・・・それはたとえば、もともと貴族の荘園だったところを、仏教寺院の荘園として付け替えることに、政府が難色を示したりする等ですが、多勢で都に押し掛けて朝廷に強訴に及びました。なにせ推古天皇に「仏教興隆の詔」をいただいているのです。聖徳太子からは「厚く三宝を敬え」と、憲法上での保護を受けていました。ですから彼らは神輿を担ぎ、武装して朝廷に出張り、大声をあげて要求が通るまで騒ぎ通したのです。おかげで奈良県の大和地方にあった朝廷は、ついには泣く泣く七九四年に都を山科に引っ越しました。これがいまの京都平安京です。朝廷が逃げ出すしかなかったのです。どれだけ仏教勢力の武闘派圧力が強かったか、ということです。

     僧侶が仏教を信仰することは良いことです。仏教界が莫大な経済力をもったとしても問題にはなりません。その分、みんなで努力して新田を切り拓いていけば、みんなが死なずに食べてくことができるからです。ただ、武装は困る。もちろん武装した「悪僧軍団」を武力で征圧することは可能なです。しかしそれをすると大きな問題が残るのです。何かというと「禍根【かこん】」です。イスラムのゲリラを殺せば、彼らはジハード(聖戦)として、殺した側に復讐を近い、どこまででも追って来ることでしょう。これと同じです。そして巨大軍事組織による聖戦は、世の平和を乱すことになります。

     こうして千年続いた仏教界の武装勢力を、根本から叩き潰したのが、信長です。武装宗教団体に対する討伐は、過去にも何度かありました。足利幕府の三代将軍足利義教の比叡山延暦寺への大討伐なども有名な話です。けれど足利義教も含め、仏教渡来以来千年間、誰も仏教界の武装勢力の首に鈴をつけることができなかったのです。信長は、これをやったのです。

     信長は天下の3分の1を手に入れました。これは圧倒的な軍事力です。その圧倒的力をもって、武装宗教勢力である比叡山延暦寺、一向宗の本部である本願寺を攻め、僧兵たちを武装解除させたのです。おかげで、比叡山も本願寺も、純粋な信仰のための聖地となりました。けれどその一方で、信長は仏僧を殺した破戒の「第六天の魔王」と言われ、罵られるようになりました。「第六天の魔王」というのは、魔王の中の最大かつ最強の魔王です。

     信長は天下をほぼ統一し、武装仏教勢力まで退治しました。けれど、そのために宗教的信仰心に裏付けられたゲリラに、こんどは内部から、常に命と政権転覆を狙われるようになったわけです。圧倒的な軍事力で全国の大名たちを従え、武力を織田政権下の管理下に完全においたはずなのに、今度は、誰ともつかない織田政権の内部にいる宗教勢力から、織田政権の転覆と、信長の命が狙われるようになったのです。
     もしそれで信長が仏教の武闘派勢力の手によって殺されれば、時代はまたもとの「武闘派仏教」の時代に戻ってしまいます。それでは、なんのために本願寺や比叡山を攻めたのかわかりません。

     そもそも天下三分の一の武力を持ったのも、比叡山や本願寺を責めたのも、すべては世に泰平をもたらすためです。
    戦国の世で誰が一番困るか。民百姓なのです。なんとしても、武力で争う時代を終わらせなければならない。そのためには、最強の、誰も勝てない武力を持たなければならない。
     昨今では「武力に反対だから武力を持たない」という人がいますが、現実にはそういう人々は武力をまともに行使されたら、死ぬだけです。武には武を、なのです。

     ところがこうした流れをみてみると、もしかすると「第六天の魔王」というイメージも、信長自身が流布させたものかもしれないと思えてきます。
     なぜかというと、延暦寺や本願寺を滅ぼした信長は、織田軍団として宗教側の恨みを引き受けるのではなく、あくまで信長ひとりが悪の破戒者、第六天の魔王となるようにしています。比叡山や本願寺を攻めたときの武士たちには何の罪もない。悪いのは信長ただひとりだ。こうなると、宗教ゲリラの狙いは信長ひとりに絞られます。そうしておいて、信長が誰かに殺されたら、武装宗教ゲリラたちは、その攻めの矛先を失い、沈黙をせざるを得なくなります。

    「戦乱の世に終止符を打ち、太平の世を築く」
    それは、織田弾正としての、信長の最大の政治課題であり、政治目標です。
    けれど、ゲリラ戦、宗教戦争になれば、国は混乱し、戦乱はいつまでも続きます。

     ならば、悪の大魔王をひとりだけにし、そのうえでその大魔王が、信頼されている部下に裏切られ、驚愕のうちに、地獄の業火に焼かれて死ぬ。すると仏教の武闘派勢力は、その恨みと戦いの矛先を失なう。そのうえで刀狩りをして、一般庶民から仏教寺院にいたるまで、すべての武装を取り上げる。武力を、武家だけの専売特許にする。そうすれば、もはや宗教戦争は起きず、仮に起きてもすぐに鎮圧できる。

     戦国大名というのは、いわば軍閥ですから、より強大な軍事力をコチラが持てば、黙って調伏できます。しかし仏教勢力には、信仰があります。これはやっかいです。といって仏教徒を皆殺しにすることはできません。それに信長の家臣の中にも仏教信仰に厚い人はたくさんいます。
     こうした中にあって、国内に根付いている武装仏教勢力の影響力を廃して国内に治安と平安をもたらすためには、討伐を行った信長自身が自称「第六天の魔王」となり、すべての非難の矛先を自分に向けさせた上で、できるだけ派手に死亡する。病死ではダメです。側近に裏切られて、歯がみして死んだとでもしておかないと、武装仏教勢力は納得しない。だとすれば、自分ができるだけ派手な演出で裏切られて死亡するという事態を、誰かにやらせなきゃならない。そしてその適任者は、織田軍団のなかで、明智光秀しかいません。彼は由緒ある家柄の出で、歴史や伝統に詳しく、朝廷や仏教界からも信任が厚い。

     しかし光秀が主君を討てば、彼自身は逆賊の汚名を着せられることになります。ですから光秀も誰かに殺されたことにしなければなりません。そしてその者が天下人になる。これでみんなが納得する。そして光秀を倒して天下を担う者は、「宗教仏教以上に人々に夢と希望を与えることができる人物」でなければなりません。とすれば、百姓から身を起こした木下藤吉郎(秀吉)が、まさに適任です。家柄なんてない、一介の百姓が、天下人になるのです。こんな痛快な夢物語は他にありません。何しろ日本の人口の九十五%以上が農民です。つまり秀吉は、どんな宗教の現世利益のご利益よりも、現実の利益を象徴する存在になり得るのです。

     しかし秀吉の成長志向も、天下が治まって戦乱がなくなれば、もはや人々に成長や出世の機会はなくなります。ですから、成長志向もどこかで終わらせなければならない。そしてそのときこそ、本当の意味での泰平の世が築かれることになります。
     けれど、百年の長きにわたり戦乱の渦に呑まれた日本で、本当の意味で治安と平和を回復し、これまでにない、まったく新しい新政権を発足させて絶対平和の世の中を築くためには、それができるだけの才覚を持った人物が必要です。大将は貫禄があれば足りますが、具体的な国づくりには能力が要ります。新しい国家のカタチを築くのです。並みの才覚では勤まりません。

     このことは、いまの国会も同じです。仮に日本国憲法を無効化して、まったく新しく、日本の古くからの歴史と伝統と文化に基づく新生日本を築くにしても、そうなったらなったで、次には細かな行政の仕組みづくりや、新たな国家体制構築のための組織、体制づくりをしなければならないのです。そしてそういうことが本当にできるだけの才能を持った人というのは、そうそう滅多やたらにいるものではありません。信長の家臣団の中で、その才覚をもった人物は、光秀だけです。そうであれば、光秀は「生かしておかなければ」なりません。
     明智光秀は、秀吉に負けて百姓の竹やりで殺されたということになっているけれど、本当にそうなのでしょうか。光秀ほどの剛の者が、そうそうたやすく素人の百姓に殺されたりするでしょうか。むしろ光秀は、「暗がりで百姓の竹槍で殺された」ということにして、身分と名前を捨て、どこかで僧侶にでもなって、後日の光秀の才覚を活かすことを考えた方が合理的です。

     実際、不思議なことに、天下の大逆人であるはずの光秀の子供たちは、細川家であったり、織田家であったりして、みんな生き残っています。ふつう逆臣の係累というのは、全員殺されるのが普通なのに、生き残っているのです。
     さらに不思議なことには、家康が江戸幕府を開いたとき、新たな国の枠組みを決めるのに大いなる貢献をしたのが、天海僧正で、天海僧正は、新しい天下の枠組みだけでなく、行政機構の整備や徳川幕府の人事、寺社仏閣等のハード面のすべてにおいて、家康の名代としてこれを統括し、徳川三百年の泰平の世を完全に築き上げました。これは並みの才能ではありません。

     ところが、これだけ重要な職務を遂行した天海僧正というのは、不思議なことに出自がまるでわからない。僧正というくらいですから、仏教徒としても相当な高位にのぼったひとのはずなのに、若い頃どこの寺で修行し、小さい頃にどんな逸話があったのかといった話が、まるでない。歴史上、突然「僧正」として登場し、家康の側近となり、江戸幕府の慣例、しきたり、江戸幕藩体制の仕組みを一から作り、日光東照宮のような文化施設まで造っているのです。
     さらに三代将軍徳川家光の「光」の字は、光秀の「光」、二代将軍徳川秀忠の「秀」は、光秀の「秀」から名前をもらったという説もあります。

     家光を育てた春日の局は、光秀の重臣の娘ですが、彼女がはじめて天海僧正に会ったとき、春日局が「お久しゅうございます」と言ったという話が遺されています。
     天海僧正が作った日光東照宮の紋所は、なぜか光秀の家紋である桔梗です。
     さらに日光には、なぜか「明智平」というところがあり、東照宮の陽明門には、なぜか桔梗紋を身に着けた武士の像が置いてあります。それが誰の像なのかは誰もわからない。

     もっというと、大阪の岸和田にある本徳寺には、光秀の位牌があるのだけれど、そこには、光秀が慶長四(1599)年に寺を開いたとされています。これまた不思議なことです。なぜなら本能寺の変、山崎の戦いで光秀が死んだのは、天正一〇(1582)年だからです。つまり1582年に死んだはずの光秀が、その17年後に寺を建てたというのです。
     その本徳寺には、光秀の肖像画も残されています。その画には、「放下般舟三昧去」という文字があるのですが、これは、光秀が出家して僧になったという意味です。
     もっというと、家康ゆかりの地の江戸(東京)、駿府(静岡)、日光(栃木)、佐渡(新潟)と、光秀ゆかりの地(美濃源氏発祥地)の土岐(岐阜)、明智神社(福井)を線でつなげると、籠(かご)の網目のような六角形ができあがります。童謡の「かごめかごめ」は、

     かごめかごめ
     カゴの中の鳥は
     いついつでやる
     夜明けの晩に
     鶴と亀が統べった(すべった)
     うしろの正面だーれ

    という歌詞です。「かごめ」が地理上の大きな籠目を指し、「カゴの中の鳥は」は「とり」は、明智一族発祥の「土岐(とき氏)は」とも聞こえます。家康と光秀を線でつないだ籠の目の中の土岐氏は、「いついつでやる」です。そして「夜明けの晩に」は、日の出のときです。つまり「日の光」が射すとき。日光です。その日光東照宮の屋根には「鶴と亀」の像があります。その「鶴と亀」が「統べた」統治する・・・と、ここまでの意味をつなげると、「土岐出身の光秀はいつ日光東照宮に姿をあらわすのか」となり、「うしろの正面、だあれ」は、土岐から日光のほうを向いたときの地理上の後ろ側、つまり、大阪の岸和田で、そこには光秀の位牌と肖像画のある本徳寺があります。つまり、「かごめかごめ」の童謡は、暗に天海僧正が光秀であることを謳った童謡であるというのです。これまたおもしろい説です。

     ただ、この話には明らかな無理があります。なぜなら、天海が光秀であるとすると、一一六歳(記録では一〇八歳)で没したことになり、少し長命すぎます。ですからおそらくは、天海僧正は光秀の息子であったという説もあります。光秀の子は、父の光秀から徹底的に新しい世の中作りのための知識と知恵を幼いころから完璧に教え込まれたと、それが後の天海僧正になったのかもしれません。

     そもそも光秀が本能寺で信長を討つ必然性が「信長に頭を扇子で叩かれた」というのでは、あまりに説得力がなさすぎです。そしてこうした筋書きをみると、本能寺の変は、光秀が企画して、信長が決裁し、秀吉に噛んで含めた大芝居であったのかもしれません。

     事実がどうであったのかは、タイムマシンがない現代では、その時代に行って確かめることができないので、わかりません。すべては遠い歴史の闇の中です。ただ、戦国の世に生きた多くの人たちの最大の願いは、おそらくは泰平の世、人々が平和に豊かに、安全に、安心して暮らせる世ではなかったかと思うのです。
     その理想の実現のために、自ら第六天の魔王と名乗って破戒王となった信長、現世利益を説く既存の仏教団体以上に明確な現世利益を体現した秀吉、戦のない世の中を築くために、強大な武力と緻密な行政機構を作りあげた家康という三代が必要だったし、光秀と天海という、稀有の才覚が必要であったと考えると、いろいろな出来事の辻褄があってきます。必然的な再現性が生まれるのです。そして再現性こそが科学です。

     本能寺の変のとき、家康は、この事態が起きることをあらかじめ知らされていたのでしょうか。
    それは「ない」と思います。仮に本能寺の変が、光秀の発想で、信長がそれに乗った、壮大な「やらせ」であったとして、それはあくまで秘中の秘でなければならないことです。本能寺の変の日、堺でのんびりと遊覧していた家康は、このとき小姓衆など少数の供回りを連れいるだけであったとされています。
     家康はこのとき、信長の後を追って自決しようまで思い詰めています。それを本多忠勝が生き延びるよう説得し、服部半蔵が伊賀国の山中から加太越を越えて伊勢から海路で三河国に戻る道を進言し、案内します。
     そして三河に戻った家康は、ただちに光秀を討つため兵を率いて出発するのですが、鳴海の辺りで、秀吉が光秀を討ったという報を受けて、三河に引き返しています。

     ちなみにこのときの秀吉の「大返し」について、道のりから、実際にはほとんど不可能という説もあります。陸路ではさもありなんと思います。けれど当時は、現代の鉄道と同じくらい、船便が発達していた時代です。そして船を使えば、早々に引き返すことが可能です。

     さて、信長の死は、各国に様々な影響を及ぼしました。甲斐国では、関東御取次役として事変の三ヶ月前に送り込まれていたばかりの鉄砲名人・滝川一益のもとに、小田原の北条氏直が五万六千の兵を率いて襲いかかりました。滝川一益は緒戦に勝利したものの、その後は兵の数に押されて尾張国まで敗走します。このため甲斐信濃上野が領主のいない空白地帯となりました。

     家康は武田の遺臣らを集め、八千の軍勢を率いて甲斐国に向かいます。甲府盆地で七倍以上の兵力を持つ北条氏直と対峙するのですが、このとき徳川方に付いた真田昌幸が、ありとあらゆるゲリラ戦法で北条氏を悩ませます。いい加減嫌気が指した北条氏から徳川方に和睦したいと申し出ます。和睦条件は、北条氏が上野国を取り、徳川氏が甲斐、信濃を領有する。家康の次女の督姫が氏直に嫁ぎ、両家は同盟関係を締結する、というものでした。
     かくて家康は、駿河・遠江・三河に加えて甲斐、信濃、つまり五カ国を治める大大名となり、さらに関東を治める北条氏と縁戚関係と同盟関係を持ち、たいへんな影響力を持つ存在となっていきます。
     
    以下続く


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    個々の事実が、いつどこで誰がどうしてどうなったという5W1Hは、社会科の中の歴史分野です。
    社会科というのは、社会人になったとき必要な最低限の一般常識を学ぶものです。
    歴史学は、過去の事実を時系列に沿ってストーリー化したもののことをいいます。

    20221228 桶狭間
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    12月24日に発売された新刊の『ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康』から、桶狭間の戦いをご紹介したいと思います。
    本文のごく一部です。

    お読みいただくとわかりますが、従来の信長や今川義元の解釈と、まったく違ったストーリーになっていると思います。
    個々の事実が、いつどこで誰がどうしてどうなったという5W1Hは、社会科の中の歴史分野です。
    社会科というのは、社会人になったとき必要な最低限の一般常識を学ぶものです。
    歴史学は、過去の事実を時系列に沿ってストーリー化したもののことをいいます。
    もちろんストーリーは、あくまで史実に則ったものでなければなりません。
    これがフィクションに基づくと、ただのファンタジーになってしまいます。
    ノンフィクションと歴史学の違いは、想像力を主にするか、どこまでも論理性を重んじて考察するかであり、前者は小説、後者が歴史学です。

    ではなぜ過去の事実をストーリー化するのかといえば、人間は箇条書きのような単なる事実の羅列では、物事を記憶できないからです。
    そこにストーリーがあることによって、感情が動き、自分自身が過去の歴史の当事者のひとりとなって、その場にいて、同じ体験をすることができる。
    こうした経験を繰り返し積むことによって、同じ歴史を共有する人々が生まれていきます。
    それが、同じ民族としてのアイデンティティとなります。

    では本文です。

     ***

    永禄三年(一五六〇年)五月、今川義元が尾張国へ侵攻してきました。
    対する織田の軍勢はわずか数千。
    今川は先鋒に三河の松平元康(後の家康)を立てて、織田方の城を次々と落としていきました。

    清州城にあった信長のもとに、家臣らが集まって軍議が重ねられました。
    ここは断固戦うべきか、降参して今川の軍門に降るべきか。
    戦うならどのように戦うか、降るなら誰を軍使に出すか等々、議論すべきことは山積みでした。

    家中の意見が分かれる中、
    「殿、ご決断を!」
    と迫られた信長は、愚にもつかない雑談をするばかりでした。

    「殿はわかっておいでなのか!」と腹を立てた家臣らは、このとき
    「運の末には知恵の鏡も曇る」と嘆いたと『信長公記』は伝えています。

    決断のない殿の前で、そのうち家臣たちは、
    「とりあえずは清州城で籠城しよう」という議論に傾斜していきました。

    すると信長は突然小姓衆に
    「鼓を持て!」
    と言ったかと思うと、立ち上がって幸若舞の『敦盛』を、朗々と歌いながら舞い始めました。

     人間五十年 化天(げてん)のうちを比(くら)ぶれば
     夢幻(ゆめまぼろし)の如(ごと)くなり
     一度(ひとたび)生(しょう)を享(う)け
     滅せぬもののあるべきか

    「敦盛」という謡曲は、源平合戦の折りの一ノ谷の合戦で、平清盛の甥で若干十六歳の平敦盛が、退却に際して青葉の笛の「小竹」を持ち出し忘れたことに気付き、これを取りに戻ったところを源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね)に呼び止められて一騎打ちを挑まれる。
    逃げようとする敦盛に熊谷直実は「兵に命じて矢を放つ」と威迫(いはく)し、雑兵に矢を射られて死ぬくらいならと敦盛が一騎討ちに応じます。
    けれど百戦錬磨の直実に、熱盛はあっという間に組み伏せられて頸(くび)を刎ねられてしったという物語です。

    そして「敦盛」が象徴していることは、
    「武士であれば、
     たとえ負けるとわかっていても
     堂々と戦って死ななければならない」
    という武士の覚悟です。
    敦盛は死んでいきましたが、その勇気は、ずっと後世にまで語り継がれている。
    武士というのはそう生きるものである、という教えが、この幸若舞のテーマです。

     *

    目の前で敦盛を舞う信長に、家臣一同は、信長の並々ならぬ決意を見て取ります。
    父の信秀様は尊敬に値する偉大な殿様であった。
    けれどセガレの信長様は「うつけ者」と思っていた。
    けれど信長様のこれまでの行動を振り返ってみれば、またたく間に父殿のなしえなかった尾張の統一を行っています。織田は弾正忠の家柄です。

    もしかすると尾張統一のために、信長様はあえて「大うつけ」を演じていたのかもしれない。
    いまこうして信長様は、幸若舞の「敦盛」を舞って今川との断固とした戦いを決意していらっしゃる。
    そうだ。俺たちは弾正忠の家臣だ。
    正義のために、尾張を護るために、
    よおし!戦うぞ、やるぞ!
    舞う信長の姿に、家臣一同の決意は固まります。

    舞を舞い終えた信長は、小姓五騎だけ連れて、熱田神宮に駆けて行きました。
    いま熱田に向かうのは、今川との戦勝祈願に違いない。
    「一同、軍装の上、熱田に向かわれよ!」
    誰かが声をかけました。
    「おーっ!」と一同の喚声が上がる。
    そして全員が鎧兜に身を固め、熱田神宮へと向かいました。

    全員揃ったことを見届けた信長は、一同とともに熱田神宮での参拝を済ませると、いったん善照寺の砦に移動しました。
    途中で、後からやってきた軍勢が加わり、到着したときには、およそ二千の軍勢となっていました。

    その信長のもとに、今川の先鋒の松平元康殿の猛攻を受けた丸根砦の佐久間盛重が、兵五百とともに城外に討って出て、白兵戦の中、全員討死の報がもたらされます。
    継いで鷲津砦で篭城戦を試みた飯尾定宗、織田秀敏の討死の報。
    現在、今川義元の本隊が沓掛城を出発して、大高城方面から南へと進路を取ったとの知らせが入ります。

    そして正午になる頃、
    「信長出陣の報に喜んだ佐々政次、千秋四郎ら三十余りが、
     中嶋砦から桶狭間の今川本陣を急襲。
     全員討死。
     敵の大将今川義元は、丸根、鷲津両砦の陥落に加えてのこの勝利に悦び、
     軍を停めて昼食を取らせながら、
     上機嫌で陣中で謡いをしている」
    との報告が入ります。

    これで今川義元の居場所がわかった。
    その今川の軍勢は、縦に長く、横腹が空いています。
    勝機!
    信長は全軍に出発を命じます。

    山中を桶狭間に向かう信長の軍勢に、十三時頃、雹の混じった猛烈な雨が降り注ぎました。
    この雨は信長方の進軍の音を消し、昼食後の今川の軍勢の足止めをする雨となりました。

    信長一行が桶狭間の高台に到着します。眼下に今川の本陣。
    今川義元の姿も見えます。
    雨もすっかり上がりました。

    信長は、軍配を振り上げると、サッとそれを振り下ろしました。
    全軍突撃の合図です。
    信長の軍が今川義元の本陣に襲いかかりました。
    突然の急襲に、今川義元の軍勢は浮足立ち、信長の軍は今川の前衛軍を打ち破ると、さらに奥の本陣へと進んで行きました。

    状況不利とみた今川義元は、三百騎の旗本衆に身を守られて後方へと逃げ出しました。
    これを追う信長軍。
    乱戦のなか、ついに信長の家臣、服部一忠が今川義元に一番槍をつけました。
    けれど今川義元も、もとは源氏の血筋の剛の者です。
    服部一忠の槍に刀で立ち向かい、見事服部一忠の膝を斬り割きました。

    そして今川義元が、倒れる一忠に止めを刺そうと斬りかかろうとした瞬間、その横腹に信長の家臣の毛利新介が組み付きました。
    そして今川義元と一緒に地面に転がった毛利新介は、今川義元よりも一寸速く起き上がると、今川義元に馬乗りになり、鎧の上から今川義元の喉を刺し貫こうと、左手で義元の首を押さえました。

    そうはさせじと義元は毛利新助の左手の小指を噛み切る。
    毛利新介は、左手の激痛をものともせず、そのまま今川義元の首を上から掻き斬りました。
    そして今川義元の首を高々と掲げると、
    「今川義元、毛利新助、これを討ち取ったり〜!」
    と声を限りに叫びました。
    大将を失った今川の軍勢は総崩れとなり、潰走しました。

    この戦いで今川方は二七五三人が討ち取られました。
    信長方も半数の九九〇人が命を失いました。
    兵の半数を失ったのです。
    潰走する今川の軍勢を追撃するだけの力は、残っていません。
    信長は退却を命じ、信長の軍は清州城へと引き上げました。

    「桶狭間で、弾正忠の織田信長が、あの今川義元を倒した」
    このニュースは、またたく間に全国へと広がりました。
    もともと今川義元は守護大名でしたが、力の増大とともに中央と決別して戦国大名を自称していました。
    その実力から「海道一の弓取り」とも言われていました。
    当時としては、いわば力の象徴のような人物を、圧倒的に非力と思われた尾張の織田が討った。
    しかもその織田氏は、律令以来、正義を貫く弾正忠の家柄にある。
    正義が力を打ち破った。
    このニュースは、戦国の世を憂う全国の有志の武士たちに、たちまちのうちに広がって行きました。

    戦国の世とはいえ、ここは日本です。
    武士には高い教養があります。
    日本は決して中国のような群雄割拠の国ではない。
    もともと朝廷を中心にひとつにまとまっていた国であり、争うよりも互いに協力して平和な暮らしを打ち立てていこうとするのが日本の心得です。
    そして武士とはそういう人々を護り支える存在であるということが武士の道であったし、戦国の世を終わらせ泰平の世を築きたい、そのために自分の人生を使いたいと思う有志の武士は、そんな時代であっても全国に多数いたのです。

    そしてそういう武士たちは、同じ生きるなら、弾正忠として正義を貫く信長のもとで働きたいと願い、信長のもとに集ってくるのでした。

    以下続く

     ***

    きっと、下手な小説を読むよりも、はるかにおもしろい追体験ができる本になっているのではと思います。


    日本をかっこよく!
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     歴史 =過去に書かれたもの
     歴史学=過去に書かれたものの事実を、多角的かつ客観的に検証する学問
    です。
    社会科のなかの歴史学科は、その意味では歴史でもなければ、歴史学でもありません。

    20221227 歴史
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    昨日発行したメルマガに、とても大切なことを書いたので、その一部を転載してご紹介します。
    内容は歴史学についてです。

     ****

    GHQは我が国の教育の「国史、東洋史、西洋史、地理、修身」を禁止しました。
    これらの科目は、現代に至っても復活していません。

    国史というのは、我が国の歴史上の事実を時系列に並べてこれをストーリー化した学問です。
    教室では、まずこのストーリーを学び、そこから今度は自分が歴史の当事者となって、自分ならどうするかを考えるという教育が行われていました。

    現代教育にある日本史は、この国史教育とは全く異なるもので、あくまで社会科のなかのいち分野として行われているものです。
    社会科というのは、社会人となったときに最低限必要な一般常識を身に着けさせるためのものです。
    たとえば、明治時代の前が江戸時代、その前が戦国時代くらいは知っておかないと、社会人として通用しません。
    そこで、最低限これだけは知っておいてもらいたいという日本史の事件名や人物名、年号などを単に暗記させる科目として存在しているのが、現代の日本史であり、世界史であり、地理の分野です。
    これらはあくまで社会科のいち分野として行われているものであって、それ以上の・・・たとえば歴史がどのような流れになっているのかなど・・・ことは、事件名や人物名を記憶する助けとして若干の補足がなされているだけですし、文科省の指導も、その視点から一歩もはみ出してはならないことになっています。

    同様に、現代教育にある世界史もまた、あくまで社会科のなかのいち分野として行われているものですから、事件名や人物名、年号などを単に暗記させる科目として存在しているだけのものです。
    そもそも世界史という学問分野自体が、本来は成立し得ないし、戦後の日本でだけ実施されている奇妙な分野なのです。
    というのは、歴史とは過去の事実を時系列にストーリー化されたものを学び考察する学問です。
    ですから過去において、事実をストーリー化した史書がなければ、そもそも成立しえないのです。
    西洋と東洋(チャイナ)、日本には、それがあります。
    けれど、それ以外の諸国諸民族には、残念ながら過去の事実を時系列にストーリー化した史書がありません。
    ないということは、歴史学科そのものが成立しないということです。

    たとえばインドには史書がありません。
    インドでは、何事も前世の因縁ですから、史書を形成する必要がなかったのです。
    同様にアラビア諸国においては、すべてはアッラーの思し召しです。ですから史書はありません。
    史書がないのですから、歴史は成立しません。
    できることは、考古学的検証だけです。

    そういう意味で「歴史を持っている」ということは、実はそれ自体が人類史上すごいことなのです。

    そして記述された史書は、西洋と東洋とでその記述の仕方や基本構成がまったく異なります。
    史書の根底にある思想が異なるのですから、この二つを一緒にして学ぶことはできません。
    ですから戦前戦中までは、西洋史と東洋史が分かれていました。

    現代では、この両者は統合されて「世界史」という分野になっていますが、社会科のいち分野としてなら世界史は成立しますが、歴史学という面においては、世界史というのは成立しません。
    それでも西洋史と東洋史なら、文献史料がありますから歴史学が成り立ちますが、インド史、中東史、アフリカ史、南米史などは、近現代史以降以外は、成立させようがないのです。
    そこでできることは、遺物遺構からの推測や、神話からの類推でしかありません。

    たとえばアフリカであれば、シバの女王がいたという記録がありますが、それは信仰の世界の話であって、具体的にいつの時代に存在し、どのような事績があったのか。それらはどうして行われたのかといったことは、まったくわかりません。
    したがって、もしかするとこうだったのではないかという推測がなされるだけで、推測は歴史ではありません。

    一方、西洋史や東洋史、国史については、過去に書かれた史書がありますから、歴史が成立しますが、過去に書かれた歴史は、それ自体が正確なものであるとは限りません。
    これは当然のことで、書かれたものというのは、すべて何らかの意図があって書かれているからです。
    ですから書かれていないことを含めて、さまざまな文献史料や遺物遺構などから実際にあった出来事を客観的に検証し、実際に起きたことを探るのです。これが歴史学です。

    そういう意味では、
     歴史 =過去に書かれたもの
     歴史学=過去に書かれたものの事実を、多角的かつ客観的に検証する学問
    ということになります。
    社会科のなかの歴史学科は、その意味では歴史でもなければ、歴史学でもないのです。

    地理、修身も名前を冒頭にあげたので補足します。

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  • 秀吉の朝鮮征伐は明国との戦い


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    秀吉の朝鮮征伐に関する、
    ・秀吉がもうろくしていたために起こした。
    ・秀吉の成長主義が引き起こした身勝手な戦いであった。
    ・戦いを好む戦国武士団を朝鮮、中国に追い払い、殺して数を減らすためだった。
    といった戦後の歴史解釈は、あまりに浅薄な解釈と言わざるを得ないものといえるものでしかありません。
     そもそも秀吉は朝鮮半島で明国兵と戦ったのであって、朝鮮国と戦ったのですらありません。だからこの戦いを昔から「朝鮮征伐」と呼び、「朝鮮戦争」とは呼ばないのです。戦争とは、国対国の戦いを意味する用語だからです。

    20201125 信長秀吉家康



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     二度に渡る秀吉の朝鮮征伐は、元号をとって文禄・慶長の役と呼ばれます。この戦いについて、よく日本と朝鮮半島国家との戦争であったような解説が行われますが、これは大きな間違いであり、誤解を生む歴史認識です。秀吉が戦いを挑んだ相手は、チャイナの明国であり、この時代の朝鮮半島は明国の支配下にありました。ですから秀吉が戦ったのは、あくまで明国であり、朝鮮ではありません。

     たとえば大東亜戦争のときにパラオで激戦が行われましたが、日本はパラオの住民や軍と戦ったわけではありません。あるいはいまのベトナムやカンボジアのあたりは、当時はフランス領インドシナと呼ばれるフランス領のエリアでしたが、ここ戦った相手は、あくまでフランスであって、いまのベトナムやカンボジアと戦ったわけではありません。そもそもその時代にベトナムという国もカンボジアという国も存在していません。同様に秀吉の明国征伐も、戦いが半島に限定して行われていただけで、戦った相手は明国軍であって、終戦後に誕生した韓国でもなければ、北朝鮮でもありません。この時代朝鮮半島には李氏朝鮮があり、王を名乗っていましたが、これは国家でもなければ、王国でもありません。いわば明国の郡庁の役割を担っていただけのものです。

     最近の韓国で、豊臣秀吉はもっとも嫌われている日本人のうちの一人なのだそうです。文禄・慶長の役で朝鮮半島に攻め込んだというのがその理由で、この戦いで日本と戦った李舜臣は、まさにヒーローとされているそうです。彼らの言い分によると、李舜臣の活躍によって、日本は海上を封鎖され、朝鮮半島への補給路を断たれたために、半島からの撤退を余儀なくされたからなのだそうです。韓国人にとって歴史はファンタジーですから、そう「思い込みたい」気持ちも分からないでもありません。けれど事実関係はまるで異なります。

     李舜臣についていえば、なるほど朝鮮の海将として文禄元年8月29日(1592年)に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいますが、あえなく敗退しています。また慶長3年11月18日(1598年)の露梁海戦ですが、これは、停戦協定が結ばれたあと半島から引あき揚げる途中の日本の軍船に追い打ちをかけた卑劣な戦いでした。しかも李舜臣は、この海戦で返り討ちにあって戦死しています。李舜臣によって海上補給路を断たれたという事実自体が、どこにもありません。

     そもそも、秀吉の朝鮮出兵については、誤解と偏見がまかりとおっています。戦国時代や秀吉を描いた歴史小説においても、秀吉の朝鮮出兵が「なぜ行われたか」について、きちんと踏み込んで書いているものは大変少ないのが実情です。おおかた秀吉の朝鮮出兵は、次のような理由によるものとされています。
    ・秀吉がもうろくしていたために起こした。
    ・秀吉の成長主義が引き起こした身勝手な戦いであった。
    ・戦いを好む戦国武士団を朝鮮、中国に追い払い、殺して数を減らすためだった。

     いずれも「木を見て森を見ず」です。
     仮に秀吉がもうろくしていたとしても、当時の日本は、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。もうろくジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。
     秀吉の成長主義が招いたという話にしても、信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強いものです。それぞれの大名は領地が増えなくても、商業による貨幣経済によって富が蓄積できました。金持ち喧嘩せずという言葉がありますが、食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。

     ではなぜ秀吉は朝鮮出兵を行ったのか。そして世の大名たちも、これに追従したのか。この問題を考えるには、日本国内だけに目を向けていては答えは出てきません。秀吉が朝鮮出兵をするに至った背景には、当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。そしてそういう国内外の事情を理解したからこそ、東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力したし、兵も出したし、家康も兵を率いて九州まで遠征しているのです。

     そもそも、二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)というのは、十六世紀における東アジアでの最大の戦いです。文禄の役だけでも、日本は約十六万人の軍勢を朝鮮半島に送り込んでいますし、明国軍は二十五万人の大軍です。慶長の役では、日本は再び約十四万人を動員しています。天下分け目の関ヶ原の戦いにしても、東軍七万、西軍八万です。いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかが分かります。

     そしてこの時代、世界全体を見渡せば、世界中に植民地を獲得した「スペイン帝国」が、植民地からもたらされた莫大な富によって覇権を握っていた時代です。スペインが「太陽の沈まない国」と形容され、黄金の世紀を謳歌していた時代です。そのスペインは、東アジア地域の戦略統合本郡である総督府を、ルソン(いまのフィリピン)に置いていました。そして、東アジア植民地の拡大を着々と進めていました。

     スペイン人が日本に最初にやって来たのが、天文十八年(1549年)のことです。宣教師、フランシスコ・ザビエルの来日がそれです。当時の宣教師の仕事は、表向きはキリスト教の伝道ですが、本当の仕事は、将来その地を植民地とするために情報を収集することや、さまざまな懐柔工作です。キリスト教を伝道しながら、ありとあらゆる手段を使い、多くの人を改宗させ、それらの人々を味方につけ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、抵抗する者を殺戮し、その地を植民地占領していったのです。
     
     日本の戦国大名たちは、そんな宣教師の目的を知ってか知らずか、最初のうちははるばる西洋からやって来ためずらしい宣教師たちを、快く受け入れていました。実際、ザビエルはあちこちの大名に招かれ、なかにはキリスト教の信者になった大名もいました。宣教師たちの仕事は順調に進んでいるかに思われました。

     ところが唯一、日本がほかの国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、またた日本人は瞬く間にコピーし、それを量産してしまったことです。気がつけば、なんと日本は、鉄砲保有数で世界一になっていました。その数たるや、当時の世界の鉄砲数の半分にあたる約50万丁です。もっともこれは最盛期の数ですが、鉄砲は戦国時代の日本に、ものすごい勢いで広がっていったのです。

     これには宣教師たちも驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書には、次のような記述があります。
    「スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向けるしかありません。」

     人口なら、日本より南米やインドのほうがはるかに数が多い。城だって日本は平城が主流ですから、アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、「鉄砲の数が圧倒的で、軍事力で日本には敵わない」とは、国王宛ての上書に書けないからです。そして、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向ける」ように進言しているのです。こうしてスペインは、日本での布教活動に注力していきます。

     あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。お隣の明国もスペインは植民地化を狙っています。こちらは鉄砲をコピーする力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。ただ国土は広く、その調略には手間がかかります。
    やや補足しますと、当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。それだけのことです。

     スペインは明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に「一緒に明国を奪わないか」と持ちかけています。ところが日本は、まるでそんなことに関心がありません。そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。信長は、比叡山や本願寺まで攻めたため、まるで第六天の魔王であるかのように描かれることが多いですが、実際には、信長の戦いの目的は、「一日も早く戦乱の世を終わらせる」ことに尽きたのです。だからこそ、多くの人々が信長に従ったのです。

     秀吉も同様です。もっといえば秀吉は農民の出だから農民の気持ちが分かるのです。戦乱によって農地が荒らされることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんと分かっていたからこそ、秀吉は人気があったのです。要するに、当時の信長、秀吉にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、お隣の明国になどかかわっていられなかったのです。

     ところが、秀吉が日本を統一すると、次第に明国への対策が大きな政治課題となって浮上してきました。どういうことかというと、これにスペインが関係しているのです。
     スペインが日本を攻めようとしても、遠路の航海を余儀なくされますから、世界の覇権国とはいえ大軍を差し向けることは不可能です。仮にスペインが海を渡って攻めてきたとしても、数のうえからいえば少数であり、火力、武力ともに日本のほうが圧倒的に優位です。したがってスペインとの直接対決ならば、日本が負ける心配はありません。

     ところが、スペインが明国を植民地として支配下に収めると状況が変わってきます。スペインに支配された明国兵が、数の力にモノをいわせて日本に攻め込んできたら、日本は数多くの鉄砲を持っているとはいえ、これは大変なことになります。まさに元寇の再来です。日本にとっての大きな脅威です。

     一方、国内で秀吉は、長く続く戦乱の世を終わらせようと、全国で刀狩りを実施します。刀狩りそのものは、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時に庶民から武器を奪うことは日本の戦力を大きく削ぐことにもつながります。民間防衛力を失わせることになるからです。これは、もし日本が他国から攻められたとき、民間では防衛できない道を作ったということになります。そうであれば、日本は国を挙げて、他国に攻められない状況を作るしかありません。
     そのためにはスペインより先に、明国を日本の支配下に置く他ありません。火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明国の緩衝地帯として置くことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができるのです。このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、明治日本が行った政策と同じです。

     こうして秀吉は、文禄の役(1592~1593年)、慶長の役(1597~1598年)と二度にわたる朝鮮出兵を行うのですが、同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行っています。何をしたかというと、スペインに対し、「臣下の礼をとれ」と迫ったのです。最初にこれを行ったのが、文禄の役に先立つ一年前、天正18年9月(1591年)のことです。

     秀吉は東亜地域の拠点、ルソンにあるスペイン総督府に、原田孫七郎を派遣し、
    「スペイン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。まさに気宇壮大です。
     スペイン総督府にしてみれば、これはきわめて腹立たしいことです。しかし、隣国であるイギリスの国力が増し、自国の防衛を優先させなければならない当時のスペインの現状にあっては、日本に対して報復的処置をとるだけの力はありません。悔しいけれど放置するしかありません。すると秀吉は、その翌年に朝鮮出兵を開始するのです。

     驚いたのはスペイン総督府です。日本が明国を征すれば、その国力たるや東アジア最大となり、スペインにとって政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。
    しかも、海を渡って朝鮮出兵をするということは、兵員を海上輸送する能力があるということですから、いつ、ルソン島に日本が攻めて来てもおかしくありません。慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。これがマニラの日本人町の始まりです。

     翌文禄3年4月(1594年)に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウティスタが特使に任命されて日本にやってきました。要するに、特使の派遣を繰り返すことで、少しでも時間稼ぎをしようとしたのです。名護屋(現、佐賀県唐津市)で秀吉と会見したペドロは、スペインがいまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと言いました。普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。けれど秀吉は聞く耳を持ちません。ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請しました。

     なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。理由があります。
     第一に、国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。この時代における国際秩序は、やるかやられるか、つまり上下関係でしかありません。たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかなかったのです。
     第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作を行います。現に世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地にされていたのです。日本がスペインの脅威から逃れる道はただひとつ、あくまでスペインに対して強硬な姿勢を崩さないこと。これしかなかったのです。
     第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。武力で日本を統一したあとは、「刀狩り」を行い、内乱の芽をつんで太平の世を実現しようとしています。けれど刀狩りをして庶民から武器を奪うことは、一方において日本の民間防衛力を弱化させることになります。ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を、日本からできる限り遠ざける必要があったのです。

     名護屋における秀吉とペドロとの会見が物別れになると、スペインのゴメス総督は、日本への軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王に更迭されます。後任の総督としてやって来たのが、ルイス・ダスマリニャスです。ルイスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本の戦力を冷静に分析します。そしてゴメスの分析どおり、もし日本とスペインが東アジアで正面から衝突すれば、スペイン側に勝ち目がないことを知ります。そこでルイスは秀吉との直接交渉を避け、一人また一人と宣教師を日本に派遣するという戦略をとりました。つまり時間を稼ぎ、その間に当初の戦略どおりに日本に布教をしていこうとしたのです。

     文禄3年(1594年)には、ルイス総督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士四人が日本での布教をはじめました。秀吉もこれは認めています。
     ところが慶長元年(1596年)、スペインの貨物船、サン・フェリペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べました。そこで驚くべき事実が明らかになりました。なんとサン・フェリペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、次のような証言をしたのです。
    「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると次は軍隊を送り、信者に内応させてその伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」

     報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン二十六名を逮捕しました。そして彼らを長崎に送り、「キリシタンを続けたいなら外国へ出て行け。日本に残りたいなら改宗しろ」と迫りました。迷う二十六名に対し、長崎のイエズス会は、この二十六名の死罪を長崎奉行に申し出ます。
     イエズス会の腹はこうです。二十六名の信者をイエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、信仰による団結心をたかめさせる。そしてさらに布教を拡大し、日本で内乱を起こさせる。

     要するに秀吉の朝鮮出兵は、統一国家をやっと形成した日本が、スペインによる東洋の支配から国を守るために下した決断であった、ということです。このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ていてもまったく分かりません。当時の世界情勢、東アジア諸国の情勢を視野に入れなければ、秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、そして多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのかが理解できません。

     もし秀吉が朝鮮出兵を行わず、日本の国力をスペインに見せつけなければどうなっていたことでしょう。明国がスペインの植民地になっていた可能性は非常に高いのです。当然のことながら朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。そしてスペインの植民地となることは、どういう意味を持つのか。そのことは、いまの南米諸国が、見事に教えてくれています。現在、南米に南米人の純血種は存在しません。白人との混血種だけです。アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完璧に抹殺されてしまいました。いまこの地域に住んでいるのは、ほぼ白人種だけです。ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が先住民族と白人との混血です。純血種はいません。
     日本もチャイナも朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。南米のようなことにならなかったのは、秀吉と配下の戦国武将たちが、スペインと真っ向から戦う姿勢を示したためです。

     ちなみに、秀吉の死と前後して、スペインの誇る無敵艦隊が英国に敗れました。スペインは海軍力を大幅に低下させ、この時点で東洋におけるスペインの脅威はなくなりました。だから日本は、これによってあっさりと朝鮮半島から撤兵しています。
     博多までやってきていた家康は、博多で連日遊んでいるだけで、半島に出兵はしていません。すでにスペインが英国と戦争状態にあることが世に知られており、もしスペインが敗れれば、もはや明国への出兵の必要がなくなります。逆にスペインが英国に勝利すれば、日本はいちはやく明国を奪いにいかなければならない。

     秀吉が朝鮮征伐において、戦線を朝鮮半島までに据え置いたのは、こうした状況を見極め、どちらにも対応できるようにするためであったのです。だから秀吉の本隊は、福岡まで兵を進めただけで、そのまま動かずにいたのです。

     もし、欧州の戦いにスペインが勝利し、スペインの勢力が増すようなら、スペインは明国を取りに来る。これは必ずそうなる。そうなれば日本は危なくなるから、日本が先に明国を取りに行かなければならない。
     けれどスペインが敗れるならば、あるいは英国との戦いに疲弊するなら、明国がスペインに奪われることはなく、そうなれば日本は安泰なのだから、わざわざ明国の本国にまで攻めに行く必要はない。
     その狭間の中で秀吉は、博多で事態の様子見をしていた・・・というのが正解であって、他に歴史となる選択はありません。歴史はあくまで、こういう経緯だからこうなったというストーリーを探る学問なのです。

     したがって、
    ・秀吉がもうろくしていたために起こした。
    ・秀吉の成長主義が引き起こした身勝手な戦いであった。
    ・戦いを好む戦国武士団を朝鮮、中国に追い払い、殺して数を減らすためだった。
    といった戦後の歴史解釈は、あまりに浅薄な解釈と言わざるを得ないものといえるものでしかありません。
     そもそも秀吉は朝鮮半島で明国兵と戦ったのであって、朝鮮国と戦ったのですらありません。だからこの戦いを昔から「朝鮮征伐」と呼び、「朝鮮戦争」とは呼ばないのです。戦争とは、国対国の戦いを意味する用語だからです。


    ※この記事は、新刊『ねずさんの今こそ知っておくべき徳川家康』の記事に若干の補筆をしたものです。
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  • 堀秀政と人の器(うつわ)


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    個人の資質のことを、昔は器(うつわ)と言いました。
    そして器の大きさが、その人の度量の大きさであり、実力とされました。
    果たして現代日本ではどうでしょう。
    早い話、政治家に器が求められているのでしょうか。
    いまの世は、器の大きさよりも、工業生産品風の画一性、マニュアル的適合性しか求められていないような気がします。
    しかし時代が大きく変化しようとしているときに、画一性もマニュアル適合性も、実は時代をひらくリーダーにはほとんど役に立たないのではないでしょうか。


    20201222 ポインセチア
    画像出所=https://kinarino.jp/cat6-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB/28223-%E7%9F%A5%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%82%E5%AD%A3%E7%AF%80%E3%81%AB%E5%92%B2%E3%81%8F%E8%8A%B1%E3%81%A8%E3%80%81%E7%B4%A0%E6%95%B5%E3%81%AA%E8%8A%B1%E8%A8%80%E8%91%89%E3%80%90%E5%86%AC%E7%AF%87%E3%80%91
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    歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
    小名木善行です。

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    堀秀政(ほりひでまさ)は、豊臣秀吉にたいへん可愛がられた武将です。
    堀秀政が福井県の北の庄の城主だったとき、城の門前に一本の札が立てられました。
    内容は、堀秀政への批判でした。

    秀政の部下たちは怒りました。
    「犯人を捜し出し厳重に処分すべし!」
    という議論もありました。
    秀政は言いました。
    「やめろ。その札を持って来い」

    そして大広間に家臣を集めると、
    「お前たちに聞く。
     ここに書かれたことは
     偽りや虚言か、それとも真実か」

    部下たちは真剣に検討をはじめました。
    「これは書き手の勘違いだ」
    「これは言われる通りだ。城が悪い」
    一条ごとに率直な意見が交されました。

    すべての項目についての議論が終わったとき、それまで黙っていた秀政が言いました。
    「今の討論の結果を
     新しい立て札に書いて
     門の前に立てよ。
     書き手がどのような反応をするか見たい」

    一夜明けたとき秀政が立てさせた札の前に、一枚の紙が貼ってありました。
    そこには、こう書かれていました。
    「おそれいりました。
     堀様は御名君です。
     どうぞいまのままの
     御政道をお続けください」

    これは堀秀政の美談として有名な話です。
    このような話が成立した背景にあるのは、秀政にしても、また秀政の前で忌憚(きたん)のない議論を戦わせた家臣たちにしても、それを立て札にした書き役にしても、そしてまたご政道に対する批判を書いた書き手にしても、全員のなかに、
    「相手の話をちゃんと聞き、
     その真意を受け止め、
     それぞれが互いに
     率直かつ誠実であった」
    ということです。

    すこしまとめると次のようになります。
    1 お互いに自己主張だけを繰り返すのではなく、
      相手の話をちゃんと聞いて真意を受け止めようとした。
    2 身分の上下に関わりなく、
      互いに率直かつ誠実に対応した。
    3 お互いに自分の意見に固執するのではなく、
      国を想う心という共通項を見出していた。
    4 何が良いことで何が悪いことなのか、
      互いに価値観を共有していた。
    5 同じ言語を用いていた。

    5の同じ言語ということには、もうひとつ、日本語の特殊性も理由のひとつとして加えられるかもしれません。
    日本語は、「朝起きたら眠かった(あるいは)眠くなかった)」というように、相手の話を最後までちゃんと聞かないと、意思がどっちにあるのかわからない構造をしています。
    ですから自然と、相手の話を最後までちゃんと聞く姿勢が備わります。
    このことは実は日本の文化の基礎といえることです。

    欧米やChinaの言語では、結論が先にきて、あとから理由が来ます。
    この場合、理由の前に結論だけが先行しますから、相手の話を最後まで聞かずに、結論に対して反応的になります。
    するとパブロフの犬と同じになります。
    結論を言われる、反応する、です。

    その反応は、ときに対立を生み、闘争を生みます。
    最後まで話を聞けば、なんてことないことなのに、先に思い込みで対立してしまうのです。
    ですからどうしても最後まで話を聞かせようとするときには「威嚇」が必要だったりします。

    もともとは言語の語順は、かなりいい加減なものだったと言われています。
    いまでも厳密にいえば、書き言葉と話し言葉は違います。
    中国語には統一された文法があると、いまの日本人は誰もが思い込んでいますが、これは日本が明治維新後に近代化を成し遂げて日清戦争に勝ってから、Chineseの留学生たちがやってきて日本語の統一的な文法を学び、それに感銘を受けて、中国語にもこれを応用してはじまったものです。

    先日も書きましたが、杜甫の有名な歌の「国破山河在 城春草木深」は、韻を踏むためにこの語順になっていますが、当時の言語的には「破国在山河、春城深草木」でもぜんぜんOKだったわけです。

    ところが日本では、11世紀には、源氏物語や方丈記に代表されるように文学が生まれ、また鎌倉時代頃になると琵琶法師による平曲「平家物語」に代表されるような「語り」の文化が発達します。
    さらにこれが江戸時代には、落語、浪曲、講談のように、語りそのものが「話芸(わげい)」として発達しています。
    この根底にあるのは、話を最後まで聞かせるための工夫、つまり結論はなんだろうと思わせて、最後の最後まで話を引っ張る工夫です。

    この、「話を最後までちゃんと聞く」という言語作法は、実はとても大切なことといえます。
    ワクワクさせて、ひっぱってひっぱって、最後にオチがつく。
    こうした芸能は、実は諸外国に、あまり例がありません。

    たとえは良くないかもしれませんが、以前、ホワイトシェパードのブリーダーをやっている人のことを、このブログでご紹介したことがあります。
    アメリカで生まれ育ったホワイトシェパードは、とても気の荒い犬です。
    ところがそのホワイトシェパードを日本に連れて来ると、しばらくすると、飼い主の言うことをちゃんと聞き、他の犬たちにも思いやりをもって接するように変わるのだそうです。

    相手の言うことをちゃんと聞いて、互いに納得して前に進む。
    それは身分の上下や、権力者と被権力者という枠組みを超えて、互いに相手を尊重するという日本的文化に根ざしているのです。

    昨今の日本国内での国政の議論や、身近なところでは様々なサイトにおける中韓工作員や売国左翼の執拗な粘着の書き込みや議論を見ていると、そこに相手に対する尊敬の念もなければ、互譲の精神もありません。
    ただいたずらに、自分たちの欲望や目的のために、嫌がらせとしかいえないような議論のための議論を粘着して仕掛けます。

    日本国内でのネット言論においても、信じられないような低レベルな議論がまかり通っています。
    しかしその多くは、ネット言論支配のためのスパイ工作によるものだといわれています。
    いわゆるIT系企業の社長なる人が、法外なお金を得て芸能人と結婚したりしていますが、それらの多くは、外国による日本国内の政治工作のための工作機関だともいわれています。
    いわゆる左翼系と呼ばれるそれら工作機関のIT企業は、互いに株式の持ち合いをしたり、子会社群をたくさん作ったりしていて、国内に数千社あるといわれています。

    そしてネット工作に携わる人達は、当然のことながら、議論は共通言語として日本語を用いているものの、最初から結論在りきの議論しかしようとしません。
    彼らには自己主張の繰り返ししかないし、そもそも相手の話をちゃんと聞いて真意を受け止めようとする姿勢もありません。

    相手に対する誠実さのカケラもなく、ただただ自分の意見に固執しているだけで、しかもそこには、みんなの共同体としての国を良くしたいという思いもない。
    加えて共通すべき善悪の価値観さえもズレています。
    つまり、ひとことでいえば、相手を揶揄しているだけで、そこに何の建設性もない。
    そもそも相手の話を聞こうとする姿勢そのものがない。

    日本人にとって、日本語による議論は、互いが学ぶためにあります。
    ですから相手の話をちゃんと聞きます。
    話というのは、理由や根拠です。
    それを先ず聞こうとするわけです。
    ですから韓国がおかしなことを言い出すと日本人は、
    「どうして彼らはそのようなことを言い出すのだろう」といぶかしく思い、相手の言い分をまずはちゃんと聞いてあげようとします。

    ところが異なる文化圏にいる彼らは、日本人がこうして聞く姿勢を見せると、日本人が理解したのだと勝手に思いこみます。
    そして日本が非を認めたと思い込む。
    すると、こんどは「非を認めたのだから賠償しろ、カネを出せ」と本音が出てきます。

    日本人が、相手の話をちゃんと聞くのは、あくまで相手の言い分をちゃんと聞いて、そこから何かを学びとり、より建設的な結論を求めようとするからです。
    よくよく話を聞いて、何も学ぶことなどありはしないと気付けば、聞いた話はただの「たわごと」と判断するだけのことです。

    ここに文化的ギャップがあります。
    話を最後まで聞いてから判断しようとする文化と、
    話の結論だけを先取りして、反応するだけの文化の違いです。

    米国で働くある方から、おもしろい話を聞いたことがあります。
    会議に遅刻したとき、日本人(日系人を含む)は、
    「I'm Sorry!」とまず謝るのだそうです。
    ところが海外の人たちには、それが不思議でならない。
    「会議に遅刻して不利益を被ったのは遅刻した人自身であって、周囲の人達はその分、トクをしているのに、どうして謝らなければならないのか?」
    と、本気で心配して言うのだそうです。

    つまり判断の物差しが、「自分にとって損か得か」というところにしかないのです。
    これに対し日本人は、その会議の目的達成のために、遅刻して他の人に遅れを取れば、周囲の人に迷惑をかけ、ひいては会議の目的達成の障害になってしまうのでは、と考えるわけです。

    ここに文化的ギャップがあります。
    日本人だけの社会であれば、日本文化を共有していますから、説明は要りません。
    しかし、いまの日本のように、日本人のような顔をして日本人名を名乗るけれど日本人ではない人たちが混じっていたり、外国人を含めた会議やプロジェクトを遂行しようとするときには、なぜ我々日本人は、そのような行動や発言をするのかについて、日本人自身が、はっきりと明確にその理由を、相手にわかるように説明できなければなりません。

    つまり日本人の行動に関する説明責任は、日本人自身にあるのです。
    ということは、日本人が日本人の行動を、それを単に「あたりまえのこと」や「昔からそうだから」というだけではなしに、ちゃんと理由や意味を説明できるようにならなければならないということです。

    男系天皇にしても、「昔からそうだから」とか、「伝統だから」、あるいは単に「Y遺伝子が」という説明では、周囲は納得もしないし、理解も得られないのです。

    時代は資本の時代から、戦士の時代へと変わろうとしています。
    戦士の時代は、資本よりも、個人の情報発信が、世の中を変える大きな力になる時代です。
    ということは、何より個人個人の資質の向上が求められる時代になったということです。

    個人の資質のことを、昔は器(うつわ)と言いました。
    そして器の大きさが、その人の度量の大きさであり、実力とされました。
    果たして現代日本ではどうでしょう。
    早い話、政治家に器が求められているのでしょうか。
    いまの世は、器の大きさよりも、工業生産品風の画一性、マニュアル的適合性しか求められていないような気がします。
    しかし時代が大きく変化しようとしているときに、画一性もマニュアル適合性も、実は時代をひらくリーダーにはほとんど役に立たないのではないでしょうか。


    ※この記事は2020年12月の記事の再掲です。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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