• 英霊に贈る手紙


    私達日本人は、いまの肉体だけの幸せや富のためばかりに生きる民族ではありません。
    過去から現在、そして未来へと続く時間という横軸と、お亡くなりになられて天におわず御魂と、いま我々が生きている地上社会という地、つまり天地という縦軸が交差しているところで、中今(なかいま)に生きているのが日本人です。
    そして過去からの心を未来につなぐ。
    それは何より、未来を担う子どもたちの幸せを願ってのことです。
    世の大人たちにとって、このことはとても大切なことです。

    英霊に贈る手紙_th
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    日本を豊かに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!
     

    『英霊に贈る手紙』(青林堂)という本があります。
    発売されたのが2015年です。
    散って英霊となられた方々へ、ご遺族が綴ったお手紙集です。

    出版にあたり、寄せられたご遺族からのお手紙は584通にのぼったそうです。
    今回、その中から珠玉の60通のお手紙が、この本に収録されています。

    その中に、アッツ島で玉砕した山崎保代陸軍中将の娘さんのお手紙が掲載されています(164頁)。
    山崎中将とアッツ島の玉砕のことは、昨日の拙ブログ「5月29日アッツ島玉砕」でご紹介させていただきました。

    アッツ島守備隊2,650名、その最後の玉砕戦が終わった後、累々と横たわる日本の突撃隊の遺体の先頭には、山崎中将のご遺体がありました。
    これは米軍が確認した事実です。

    山崎中将は、突撃攻撃の最初から、先頭にいました。
    当然のことながら、先頭はいちばん弾を受けます。
    おそらく山崎中将は、途中で何発も体に銃弾を受けたことでしょう。
    その度に、倒れられたのでしょう。
    それでも中将は、撃たれては立ち上がり、また撃たれては立ち上がって、そしてついに味方の兵が全員玉砕したときにも、山崎中将は突撃隊の先頭に這い出て、こときれていました。
    享年51歳でした。

    米軍戦史は、このときの戦いを次のように記しています。
    「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった。」

    そんな山崎中将以下のアッツ守備隊に向けて、昭和天皇は、
    「すぐにアッツ島の部隊長に電報を打て」
    と指示されました。

    アッツ守備隊は、すでに突撃し、全員お亡くなりになったあとのことです。
    杉山参謀総長が、
    「閣下、電報を打ちましても、
     残念ながらもう通じません」
    と、お答えしたところ。陛下は、
    「たしかに、その通りだ」と、うなずかれ、
    「アッツ島部隊は、最後までよく戦った。
     そういう電報を、杉山、打て」
    とおっしゃっられました。その瞬間、涙があふれて。

    山崎中将への娘さんの手紙には、中将が、家で食事をしているときにも、ふと箸を置かれ、隊に電話をかけ、
    「今夜は風も強いし寒いから
     十分火の用心をし、
     営倉の兵は特に寒いだろうから
     水筒に熱い湯を入れて差し入れるように」
    と、いつも兵隊さんのことを気にかけ、その親御さんの気持になって、大切にしておられた、そんな人であったエピソードが綴られています。

    昨年、靖国神社遊就館で行われた「大東亜戦争七十年展」に、その娘さんが行かれたところ、お父さんの山崎中将の遺影の下に、
    「兵の名前と顔を1ヶ月で覚え、
     ひとりひとりに声をかけてまわり、
     分け隔てなく部下に接するその人柄に、
     皆感激して奮い立った」
    と、生還された方の証言が書かれていたそうです。

    娘さんは、そんな父のエピソードを、そこではじめて知り、
    「兵隊さんを大切に思う
     お父様のお気持ちと
     そのご苦労に頭が下がりました。
     皆様のご冥福を祈りながら。
     さようなら」
    と綴られています。

    日本の歴史は、西洋やチャイナなどにあるような英雄譚ではありません。
    庶民の歴史です。
    いつの世も、庶民が歴史の主役を成してきた国柄を持ちます。

    信長や家康にしても、彼らを支えるひとりひとりの武士たちがいたからこそ、戦国の世を終わらせることができたのです。
    かつての陸軍においても、兵を兵としてしか思わないような将校はいません。
    部下の兵も、そして敵兵までも、どこまでも命ある人と考え行動してきた。
    それが我が国の大将であり、将校であり、武士たちでした。

    その日本文化の延長線上に、英霊へのご遺族のお手紙があります。

    ※この記事は2021年1月の記事の再掲です。
    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • アッツ島の戦い


    山崎保代中将は、「いざ!」と声をかけました。そして古式にのっとり、左手に日の丸を持ち、右手で軍刀を抜き放ちました。古い昔から、我が国では左が上です。山崎中将は、攻撃部隊の先頭に立ちました。生き残った全員を引き連れて、先頭に立って山の斜面を駆け上って行きました。動ける者全員が、あとに続きました。
    突撃は、まさに鬼神とみまごうばかりのものでした。
    米軍は大混乱に陥りました。
    日本軍は、次々と米軍陣地を突破しました。
    米兵の死体がそこらじゅうに転がりました。
    それでも日本軍の進撃は止まりません。
    そしてついに、米軍上陸部隊の本部にまで肉薄しました。あと一歩で上陸部隊の本陣を抜くところまで行きました。
    しかしここまできたとき、ようやく体勢を整えた米軍が、火力にものをいわせて、猛然と機銃で反撃に出ました。
    味方の兵が、バタバタと倒れました。そして山崎中将以下全員玉砕されました。
    戦いが終わり、静寂がアッツ島を包んだとき、累々と横たわった日本の突撃隊の遺体の先頭に、山崎中将のご遺体がありました。

    アッツ桜
    20180524 アッツザクラ
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    小名木善行です。

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    写真の花は「アッツ桜」です。
    春に咲く花です。

    本当の名前をロードヒポキシスといいます。
    原産地は南アフリカ共和国のドラケンスバーグ山脈周辺の高原です。
    北の外れのベーリング海峡に浮かぶ島の花ではありません。
    日本人だけが「アッツ桜」と呼んでいます。

    なぜこの花が日本で「アッツ桜」と呼ばれているのか。
    時は70年ほどさかのぼります。
    昭和18(1943)年5月のことです。

    カムチャッカ半島から、北米大陸のアラスカにかけて、転々と連なる島々がアリューシャン列島です。
    列島は、北米に近い方から順に、ラット諸島、ニア諸島と呼ばれています。
    そのニア諸島のいちばん西のはずれにある小さな島が、アッツ島です。

    昭和18年5月29日、アッツ島に進出していた日本軍2,650名が、約一ヶ月間にわたる激しい戦いの末、全員散華されました。
    その報に接したとき、ある園芸店の店主が、アッツ島守備隊の方々の死を悼んで、店頭にあったロードヒポキシスに、「アッツ桜」と名前を付けました。

    アッツ桜は、桜科の植物ではありません。
    ユリ科です。
    球根植物です。
    ひとつの球根から伸びた茎の先に、一輪の美しい花を咲かせます。

    けれどきっとアッツ桜と命名した園芸店主は、国を想い北の果てで散って行かれた島の守備隊の面々に、この花を捧げたかったのだろうと思います。
    たった一軒の、小さな花屋さんの小さな名付けが、宣伝など何もしなくても、あっという間に全国に広がりました。

    いまもこの花は、花屋さんの店頭で「アッツ桜」として売られています。
    日教組やマスコミが、いくら自虐史観を刷り込んでも、日本人の心には、人の痛みを知る心がちゃんと残っているのです。

     *

    アッツ島の戦いは、大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となった戦いです。
    アッツ島は米国アラスカ州アリューシャン列島のニア諸島最西部にある島です。
    日本は、この島に昭和17(1942)年9月18日に進出しています。
    駐屯隊の人数は、2,650名です。
    全部が軍人ではありません。ほとんどが土木作業員でした。
    理由は、ここに領土防衛のための飛行場を建設するためでした。

    米国にしてみれば、西の外れの島嶼であり、人も住まず、米国沿岸警備隊の巡回以外には誰も上陸さえしないところであるとはいえ、米国領土の一部が日本によって占領されたわけです。
    ですから米国は、まさに大軍を用いて、この島の奪還を計っています。

    領土というのは、それほどまでに大切なものなのです。
    我が国は竹島や北方領土を勝手に専有されて抵抗さえしませんが、それは本来の国家のあるべき姿ではないのだということを、私たちは学ぶ必要があります。

    アッツ島の北側面


    そのような次第から米国は、昭和18年には、大艦隊を率いて、アッツ島にやってきました。
    そのときのアッツ島守備隊の司令官は、山崎保代(やまさきやすよ)大佐(没後二階級特進で中将、以後中将と呼びます)でした。
    山崎中将は、いよいよ米軍が攻めて来るとなった昭和18(1943)年4月18日、アッツ島に赴任となったのです。

    山崎中将は、山梨県都留市の出身です。
    代々僧侶の家でした。
    子供のころからたいへん優秀で、名古屋の陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校は25期生です。
    陸軍任官後は、シベリアに出兵し、昭和3年の斉南事件にも出動しています。

    ※斉南事件
    http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2249.html

    潜水艦でアッツに到着した山崎大佐は守備隊に、水際防御ではなく、後の硫黄島と同じ敵を島の内部に引き込んで戦う作戦を指示しました。

    アッツ


    中将は、もし米軍がこの島を攻めてくるなら、きっと大艦隊・大部隊でくるだろうと予測していたからです。
    敵は大部隊、こちらは、わずかな兵力です。
    けれど、その米軍を一日でも長くこの島にひきつけ、寡兵で彼らと五分の戦いをするには、内陸部に引き込んで戦う以外にないと、情勢を読んだのです。

    はたして守備隊の前に、5月5日米軍があらわれました。
    予想通りの大艦隊です。
    米軍は、戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」、護衛空母「ナッソー」に加え、多数の輸送艦を引き連れていました
    上陸部隊の人数だけでも、1万1000人という大部隊です。

    守る日本軍は、わずか2,650名。
    このうち純粋な戦闘員は、半数もいません。

    アッツ島の日本兵


    アッツ島のあたりは、たいへん深い霧が発生するところです。
    米軍は、洋上で天候回復を待ち、5月12日に島への上陸作戦を開始しました。
    やり方は、その後の島での戦いと同じです。
    小さな島いっぱいに、アリの這い出る隙間もないくらい艦砲射撃と空爆を行ってから、大部隊を上陸させるのです。

    山崎大佐率いる守備隊は、地中に掘った穴に隠れて、その艦砲射撃と空襲をやり過ごしました。
    巨大な爆弾が落ちる度に、穴の中は地面が振動し、天井が崩れ落ちました。
    けれど、じっと我慢しました。
    いよいよ海岸線に敵が上陸してきても、何もしないで、じっと我慢しました。

    そして敵がいよいよ島の奥深くまで侵入して来たとき、山崎中将以下の兵達は、一斉に火砲の火ぶたを切りました。
    そして激しい戦いの末、米軍の第17連隊を壊滅し、さらに一個大隊で押し寄せた米軍と真っ向から対峙して、これを海岸線まで退けました。

    しかし、衆寡敵せず。
    約二週間の昼夜をわかたぬ激闘の末、日本側は28日までにほとんどの兵を失ってしまいました。

    この戦いに参加した辰口信夫軍医が遺した日記が、後日、米軍によって発見されています。
    辰口医師の日記は 敵上陸の1943年年5月12日から始まって、玉碎前日の29日で終わっています。
    そのわずか18日間の短い日記です。

    5月29日の最後の日記を引用します。
    「夜20時、地区隊本部前に集合あり。
     野戰病院も参加す。
     最後の突撃を行ふこととなり、
     入院患者全員は自決せしめらる。

     僅かに33年の生命にして、
     私はまさに死せんとす。
     但し何等の遺憾なし。
     天皇陛下萬歳。
     聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとするところなり。

     18時、総ての患者に手榴弾一個宛渡して注意を与へる。

     私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻妙子よ、さようなら。
     どうかまた合う日まで幸福に暮らして下さい。

     美佐江様
     やっと4歳になったばかりだが、
     すくすくと育ってくれ。
     睦子様
     貴女は今年2月生まれたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。
     政様 お大事に。

     こーちゃん、すけちゃん、まさちゃん、みっちゃん。
     さようなら。」

    辰口氏は、軍医です。
    おそらくは山崎中将と、最後までご一緒されたのでしょう。

    文中にあるように、29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決したあと、山崎中将は、まだ動ける生存者全員、本部前に集合させています。
    集まった兵は、この時点でわずか150名です。

    山崎中将は、今日までよくぞ戦ってくれたと、ひとりひとりをねぎらいました。
    次に、通信兵に
    「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」
    との電文を本部に打電するよう命じました。

    中将は、
    「いざ!」
    と声をかけました。
    そして左手に日の丸を持ち、右手で軍刀を抜き放ちました。
    これもまた古式にのっとったものです。
    古い昔から、我が国では左が上位です。

    山崎中将は、攻撃部隊の先頭に立ち、生き残った全員を引き連れて、先頭に立って山の斜面を駆け上って行きました。
    動ける者は、残る全員、あとに続きました。
    死ぬ、とわかってもなお、最後の特攻攻撃を行ったのです。

    突撃は、まさに鬼神とみまごうばかりのものでした。
    米軍は大混乱に陥りました。
    日本軍は、次々と米軍陣地を突破しました。

    米兵の死体がそこらじゅうに転がりました。
    それでも日本軍の進撃は止まりません。

    そしてついに、米軍上陸部隊の本部にまで肉薄しました。
    あと一歩で、上陸部隊の本陣を抜くところまで行きました。

    しかしここまできたとき、ようやく体勢を整えた米軍が、火力にものをいわせて、猛然と機銃で反撃に出ました。
    味方の兵が、バタバタと倒れました。
    そして山崎中将以下、全員が玉砕されたのです。

    戦いが終わった後、累々と横たわる日本の突撃隊の遺体の先頭には、山崎中将のご遺体がありました。
    これは米軍が確認した事実です。

    これは不思議なことです。
    山崎中将は、突撃攻撃の最初から、先頭にいたのです。
    先頭は、いちばん弾を受けます。
    おそらく途中で何発も体に銃弾を受けたことでしょう。
    その度に、倒れられたかもしれません。

    それでも中将は、満々たる闘志だけで、撃たれては立ち上がり、また撃たれては立ち上がって、そしてついに味方の兵が全員玉砕したときにも、山崎中将は突撃隊の先頭に這い出て、こときれたのです。

    享年51歳でした。
    山崎大佐以下、2,650名の奮戦については、米軍戦史において、次のように書かれています。
    「突撃の壮烈さに唖然とし、
     戦慄して為す術が無かった。」
    そしてさらに米軍戦史は、山崎大佐をして「稀代の作戦家」と讃えています。

    山崎保代中将
    山崎保代中将


    このアッツ島の玉砕戦について、当時大本営参謀だった瀬島竜三氏が、その手記「幾山河」の中で、次のような事実を書かれています。

    「アッツ島部隊は非常によく戦いました。
     アメリカの戦史に
     『突撃の壮烈さに唖然とし、
      戦慄して為す術が無かった』
     と記されたほどです。
     それでもやはり多勢に無勢で、
     5月29日の夜中に、
     山崎部隊長から参謀総長あてに、
     次のような電報が届きました。

     『こういうふうに戦闘をやりましたが、
      衆寡敵せず、
      明日払暁を期して、
      全軍総攻撃をいたします。
      アッツ島守備の任務を果たしえなかったことを
      お詫びします。
      武官将兵の遺族に対しては、
      特別のご配慮をお願いします』

     その悲痛な電報は、
     『この電報発電と共に、
      一切の無電機を破壊をいたします』と、結ばれていました。

     当時アッツ島と大本営は無線でつながれていたのですが、
     全軍総攻撃ののちに
     敵に無線機が奪われてはならないと破壊し、
     アッツ島の部隊は玉砕したわけです。

     この種の電報の配布第一号は天皇です。
     第二号が参謀総長、
     第三号が陸軍大臣となっていまして、
     宮中にも各上司の方には全部配布いたしました。

     そして翌日九時に、
     参謀総長・杉山元帥がこのことを
     拝謁して秦上しようということになりまして、
     私は夜通しで上秦文の起案をし、
     御下問奉答資料もつくって、
     参謀総長のお供をして、
     参内いたしました。
     私どもスタッフは、
     陛下のお部屋には入らず、
     近くの別の部屋に待機するわけです。

     それで杉山元帥は、
     アッツ島に関する奏上を終わらせて、
     私が待機している部屋をご存じですから、
     『瀬島、終わったから帰ろう』と、こうおっしゃる。

     参謀総長と一緒に車に乗るときは、
     参謀総長は右側の奥に、
     私は左側の手前に乗ることになっていました。
     この車は運転手とのあいだは、
     厚いガラスで仕切られていました。

     この車に参謀総長と一緒に乗り、
     坂下門を出たあたりで、
     手帳と鉛筆を取り出して、
     『今日の御下問のお言葉は、
      どういうお言葉がありましたか。
      どうお答えになりましたか。』
     ということを聞いて、
     それをメモして、
     役所へ帰ってから記録として
     整理するということになっていました。

     車の中で何度もお声をかけたのですが、
     元帥はこちらのほうを向いてくれません。
     車の窓から、ずっと右の方ばかりを見ておられるのです。
     右のほう、
     つまり二重橋の方向ばっかり見ておられるわけです。

     それでも、その日の御下問のお言葉と参謀総長のお答えを伺うことが私の任務ですから、
     『閣下、本日の奏上はいかがでありましたか』と、重ねてお伺いしました。

     そうしたら、杉山元帥は、ようやくこちらのほうに顔を向けられて、
     『瀬島、役所に帰ったら、
      すぐにアッツ島の部隊長に電報を打て』
     と、いきなりそう言われた。

     それを聞いて、
     アッツ島守備隊は無線機を壊して突撃してしまった
     ということが、すぐ頭に浮かんで、
     『閣下、電報を打ちましても、
      残念ながらもう通じません』と、お答えした。

     そうしたら元帥は、
     『たしかに、その通りだ』と、うなずかれ、
     『しかし陛下は自分に対し
      アッツ島部隊は最後までよく戦った。
      そういう電報を、杉山、打て』
     とおっしゃった。
     だから瀬島、電報を打て」と、言われた。

     その瞬間、ほんとに涙があふれて……。

     母親は、事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。
     陛下はそう言うお気持ちなんだなあと、
     そう思ったら、もう涙が出てね、
     手帳どころじゃなかったですよ。

     それで、役所へ帰ってから、陛下のご沙汰のとおり、
     『本日参内して奏上いたしたところ、
      天皇陛下におかせられては、
      アッツ島部隊は
      最後までよく戦ったとのご沙汰があった。
      右謹んで伝達する』
     という電報を起案して、
     それを暗号に組んでも、
     もう暗号書は焼いてないんですが、
     船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて、
     電波を送りました。」

    なぜそこまでして、私たちの父祖は戦ったのでしょう。
    敵の大艦隊、味方の4倍以上もの大部隊、圧倒的な火力を持つ敵に対して、最初から勝ち目がないことは、誰の目にもあきらかだったことでしょう。
    それでもなお、白旗をあげることなく、最後まで戦いました。
    どうしてでしょう。

    このことについて、西洋史にもその答えの一部を見ることができます。
    近世までのヨーロッパでは、各国ごとに国王がいました。
    国王は国境の利権のために、隣国と戦争をしました。

    兵は傭兵です。
    傭兵は体が資本ですから、死んでしまっては稼ぐことができません。
    ですから、少しだけ戦って、負けそうになったら、すぐに白旗を掲げるし、その場から逃げ出しました。

    指揮官は貴族です。
    その貴族は、跡取り息子が近衛兵として国王の側近に仕えていました。
    前線でその貴族が裏切れば、息子が処刑されるという関係にありました。

    ですから戦いは形ばかりで、負けそうなら最初から戦わないし、いきなり攻められて負けそうになったらすぐに降参して、次の機会を待つというのが一般的でした。
    ところがナポレオンが登場して、国民国家という概念が生まれ、兵たちは自ら志願して、国のためにどこまでも、いつまでも戦うようになりました。

    戦えばすぐに逃げる兵と、どこまでもいつまでも戦い抜く兵の戦いです。
    ナポレオンの軍はヨーロッパ最強となり、戦争の様態を大きく変化させました。
    そしてこれ以降、君主国であっても法のもとに国民と利益を共有するという立憲君主制が生まれ、あるいは国民国家としての民主主義国が誕生するようになりました。
    なぜなら民主国家の兵の方が、君主国の傭兵よりもはるかに強かったからです。

    ナポレオンというのは、18世紀の後半から19世紀の初頭にかけて生きた人です。
    つまり西洋における国民国家という概念は、18世紀以降になってようやく生まれた概念であるわけです。

    ところが日本では、7世紀には公民(おほみたから)という概念がありました。
    国家最高の存在であられる天皇は国家最高の権威であって、政治権力の行使をしません。
    政治権力を行使するのは、太政官であったり、関白であったり、将軍であったり内閣総理大臣であったりと、名称や職権は時代とともに変化していますが、役職者が政治権力を担いました。
    その役職者に、認証を与えるのが、天皇の役割です。
    政治権力を与えられた政治権力者(役職者)が統治する対照は、国家最高の権威である天皇の「たから」たちです。
    こうした社会体制の仕組みを「シラス(知らす、Shirasu)」といいます。
    日本は天皇のシラス国なのです。

    このことについて拙著『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』のAmazonレビューで、温泉大好きさんが極めて明快なコメントを書いてくださいました。
    以下引用します。

    「多くの日本人は、
     『天皇との紐帯を
      日々実感しながら
      生きることが出来るという、
      日本人だけに許された特権は、
      日本人以外の全ての人間にはなく、
      彼らは悉(ことごと)く、
      そのような実感を享受できない
      気の毒な状態に置かれている。』
     という当たり前の事実を理解できない。
     この実感を享受できないことが、
     どれほど不憫なことであるかは、
     数多くの事例が示してくれている。
     彼らにとっては、
     わずかな身内以外は、
     たとえ同じ国籍の人間であっても
     得体の知れない他人であり、
     彼らの犠牲の上に
     自分だけがいい思いをすることに
     何の痛痒も覚えない。
     だから、ヨーロッパでもアメリカでも、
     大企業の経営者は、
     日本人が首を傾げるような法外な報酬を手にして踏ん反り返り、
     恬(てん)として恥じない。
     中国でも共産党幹部が、
     これまた法外な資金を海外に貯め込んでいることは、
     周知の事実である。
     また総務省が毎年刊行している『犯罪白書』によると、
     ヨーロッパの主要国の犯罪発生率は、
     日本のおおむね5~6倍である
     (アメリカは約3倍だが、
      これは単に、把握されていない
      犯罪が多いからに過ぎない)。
     これこそが、
     二言目には「神」の名を口にする人たちの実態である。
     如何に宗教を信仰しようと、
     おおみたからの実感が得られないと、
     人心はここまで荒廃するのである。」

    日本人は、誰もが天皇を尊敬しています。
    けれどそれは、特定宗教団体が◯◯会長を個人崇拝しているというのとは、まるで違います。
    天皇という存在によって、わたしたちひとりひとりが私有民や私有物とならない自由を与えられている。
    そのことへのありがたさと感謝が日本人にとってあたりまえの感覚です。

    だからこそ、一兵卒に至るまで、たとえ我が身を銃弾で失っても、なお、戦い、守るべき大切なものを護ろうとしたのです。
    同時に山崎中将は、そういうたいせつな大御宝である兵達の命を、自分の命令ひとつで失わせてしまうという責任の重さの自覚があるからこそ、這ってでも突撃隊の先頭に出られて絶命されたのです。

    果たして現代日本人にできるでしょうか。
    体の半分を吹き飛ばされても、それでも前に出て戦うことが。

    かつて日本人は、そういう意味で一体となった国でした。
    そしてその民の心を、陛下ご自身もよくご理解してくださっていました。
    だからこそ陛下は、誰もいなくなったアッツに向けて、電文を飛ばすようにお命じになられたし、それを聞いてみんなが涙をこぼしたのです。
    日本は、そういう国です。
    兵が死んだのが、奴隷が死んだのと同じと思う国なら、こういうことは起こりません。

    そしてアッツで立派に戦い散って行かれた仲間たちがいて、その仲間たちの死を悼んだ園芸店主がいて、その花に「アッツ桜」と名前をつけたら、誰も宣伝などしていないのに、いつの間にか日本中のみんながその花を「アッツ桜」と呼んでいるのです。
    それは、いまも続いています。

    私は、アッツ島で戦い、散って行かれた山崎中将以下2,650名の英霊の方々を誇りに思います。
    そして同時に、この赤い小さな花に、彼らへの追悼と感謝の心をこめて「アッツ桜」と命名し、その名を今に伝えている日本人という民族を、とても誇りに思います。

    アッツ島に散っていかれた英霊に感謝。
    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 私心と政(まつりごと)


    一切の「私」を捨てるということは、人生の途中からいきなりなれるということではなく、幼児のうちから徹底した教育を施さなけば身につくものではありません。
    そのために殿様は、世襲にして生まれたときから、ずっと「私」を捨てる教育が施されました。
    食べ物の中に、好きな食べ物があっても、「俺、これ大好物なんだ」とさえ言えない。それがお殿様であったのです。

    雪の名古屋城
    20170125 雪の名古屋城
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    日本を豊かに
    小名木善行です。

    !!最新刊!!
     

    劇などで、お殿様役の役者さんが、「よは満足じゃ」と語るシーンがあります。
    ここでいう「よ」とは、いったい誰のことなのでしょうか。

    現代漢字では、「余」とか「予」が充てられます。
    けれど本来は、実は「世」です。
    ただ、「世」と書くと、なんだか大上段に振りかぶった大言壮語みたいで生意気なので、すこし遠慮して「余」とか「予」を書きました。

    音はあくまで「よ」です。
    そして「よ」とは「世」のことです。

    以前にこのことを書いたときに、ムキになって、「ねずがまたウソを書いている。よ、という一人称は、漢字で予や余、世と書くのが習わしだ」などと、わかったようなことをさかんに書き立てていた人たちがいましたが、おそらく、わからない人(=心のねじ曲がった人)には、永遠にわからないことだと思います。
    そもそも日本語を、西洋的な人称という概念だけで捉えようとしていること自体が、すでに間違いです。

    なぜ「世」なのかというと、人の上に立つ者、つまり殿様は、「私」を持ってはならないとされてきたからです。
    それが日本です。
    これはとっても厳しいことです。
    殿様は、幼少期から徹底的にこのことを教育されました。
    なにしろ「私心を持ってはいけない」ということは、昔の武士たちのイロハのイの字よりも前に来る、基本中の基本だったのです。

    いまの子どもたちなら、
    「俺、これ食べたーい」とか、
    「あたし、これほしいわ」とか、
    「オイラ、これが一番いい!」などという言葉は、ごくあたりまえの日常語です。
    けれど、殿様の家庭では、これらはすべて禁語です。
    なぜなら、「俺が、私が」という言葉自体が、私心のあらわれだからです。

    このことは徹底していて、私文書の典型である日記を書くときにも「私」を示す一人称は用いてはならないとされました。
    「母が私に七草粥(ななくさがゆ)を作ってくれた。
     私はそれをとても美味しいと感じた」
    のような、完全に自分の感じたことを書く文でも、
    「母の作る七草粥は、とても美味しいものであった」
    と書くものとされました。
    「誰がそう感じたのか」は、書くものではないとされていたからです。

    これは、他の人を優先するとか、譲り合いの精神とも違います。
    私心を徹底的に排除するという思想からきているものです。
    武家において大切なことは、どこまでも世ため、人のためであり、それ以外は「ない」とされてきたのです。

    だから必要があれば、自分の腹に刃を突き立てます。
    それはとっても痛いことです。
    けれど、痛いというのは私心です。
    それが「世のため」であれば、痛いなどと言ってはいられないのです。

    領内でとても良い、おいしい大根ができた。
    それを食べてみた。
    すると本当に美味しかった。
    だから、「世の人々は満足するであろう」という意味で言う言葉が、
    「世は、満足じゃ」
    なのです。

    このように私心を排除することが大事にされた理由は、聖徳太子の十七条憲法にまでさかのぼります。
    第十五条に「背私向公」とあります。
    「私(わたくし)に背(そむ)き、公(おおやけ)に向(むか)え」と読みます。

    人の上に立つ者は、自分個人のことよりも、みんなのことを優先せよということです。
    まして殿様といえば、藩主ならいまの県知事、直参旗本ならいまの市長くらいの役職にある者です。
    そういう人が、「俺が、俺が」と我を張って自分個人の利益を優先するようになったら、どこかの国の不正選挙と同じです。まさに「世も末」です。

    殿様に生まれたら、これが食べたい、あれが食べたいなどと言うことなど一切許されません。
    なぜならそれは「わがまま」だからです。
    「わがまま」は、「我が、まま」です。
    ご飯に味噌汁に漬物、しかもお毒味役が毒味してからですから、冷えたご飯に冷えた味噌汁です。
    おかわりも、2杯までと決められたら、それに従うしかない。
    「キュウリは嫌いじゃ。他の物を食べたい」
    などと言えば、
    「殿が嫌いと言われれば、
     キュウリを作る農家の人がどのように思われることでしょうか。
     またせっかくこの料理を調理してくれた者たちはどのように思うでしょうか。
     そのようなわがままは許されませぬ」
    と叱られました。

    もっとも、江戸時代の武士であっても、アレルギーを持つ人はいました。
    それを食べるとアレルギー反応が出てしまう。
    そのようなことは現実にあるわけです。
    この場合は、養生の観点から、やむを得ないこととされるケースは、ごくまれにはありましたが、多くの場合、それで子が死んだなら、やむをえないこと、とされたのが殿様の家というものです。
    それほどまでに厳しかったし、それほどまでに徹底していたのです。

    なぜなら、身の全ては公(おおやけ)のためのものだからです。
    美味いものを腹いっぱい食べて「満足、満足」と言えるのは、むしろ庶民の特権でした。

    そんな次第ですから、たとえばテレビドラマの「暴れん坊将軍」が、ラストシーンで「よの顔、見忘れたか!」などというのは、まったく日本の歴史を知らないか、日本の歴史を誤って教わったか、あるいは意図的に日本の統治の精神を歪めようとするさもしい心得からくるファンタジーでしかありません。

    また、武士は自分のことを「拙者(せっしゃ)」と呼びましたが、これは「そんな公に奉仕することのできない拙(つた)ない者」という意味です。
    つまり、「私」を主張したり、自分のことを述べたりする者というのは、公ではなく私であって、それはつたないものである、と考えられていたのです。

    殿様というのは、天子様から日本の治世全体を親任された将軍から、当該地域の領土領民の統治を委ねられた者です。
    だから領土領民を「御拝領」といいます。

    いわば人のものを預かっているのです。
    何のために預かっているかといえば、その領土領民たちが、豊かに安全に安心して暮らせるようにするためです。
    私腹を肥やすためではありません。

    いまでは知事や市長は、選挙によって「選ばれた人」という位置づけですけれど、「俺は選ばれた人間だ」という意識は、いわゆる選民思想に由来します。
    これは、俺は神によって選ばれた者だ、というのに等しいことであり、傲慢な思考です。

    ですからこのような人達が、自分の所轄する、自分を選んでくれた県や市町村で、何か大きな不祥事が起きたからと、自ら責任をとることはありません。
    戦後の現代史を見ても、知事や市長が引責辞任するのは、常に、その知事や市長自身の手による金銭不祥事くらいなものです。

    以前、神奈川県川崎市で中一児童の殺害事件がありました。
    もしこれが江戸時代に起きたことであれば、川崎の、この場合は町奉行になりますが、川崎の町奉行は、世間を騒がす問題を起こしたということで、切腹です。

    なぜなら、そのような問題を「起こさないために」町奉行の職があるからです。
    問題が起きたならば、その「問題を起こしたことに責任」をとるのはあたりまえです。

    これを自覚し、自分で責任をと切腹すれば、家門は維持できます。
    せめて息子は家督を相続し、また別な任地で奉行職を勤める家柄を維持できます。
    けれど、自分で責任を自覚せず、腹も切らないとなれば、幕府から「上意でござる」と譴責(けんせき)を受けます。
    この場合は、お上の手をわずらわせたわけですから、切腹ではなく斬首になります。
    斬首は武門の恥です。
    ですから、お家はお取り潰しとなり、妻子も親も、翌日からは一介の浪人一家となり、路頭に迷わなければなくなります。

    現代社会では、切腹も打首もありません。
    そして神奈川県警が被害者をイジメた児童を逮捕し、川崎市長は、市議会で「二度とこのような事件が起きないよう、教育委員会とも連携し、しっかりと対策をしていきたいと思います」と述べるだけです。
    いささか過激な発言に思われるかもしれませんが、現代日本の市長さんは、小楽なものです。

    ここまで申し上げても、「でも昔のお殿様は世襲だったよね」などと思う人がいるかもしれません。
    しかし考えてみてください。
    殿様と呼ばれる間も、そうでない間も、泣いて我儘を言えたのは生まれたての赤児の内だけで、その後は一生死ぬまで「私」ということを、言葉さえも発してはならないのです。
    しかも何か大きな事件が起きれば、公のために問題を起こした責任をとって切腹です。それが殿様の役割です。

    気楽に「私」を主張できる民と、幼児から死ぬまで一切「私」を言えないお殿様。
    話をする際にも、「私はこのように思う」とは一切口にさえできないお殿様。
    常に「世は」と、世の中の人はこのように思うであろうという形でしか発言できず、「私は」とか「俺が」などと一言でも言おうものなら、主君押込(しゅくんおしこめ)といって、座敷牢に入れられ反省するまで半年でも1年でも牢屋から出してもらえなかったのが、昔のお殿様です。

    いま、youtubeなどにおいて、様々な論客のみなさんの動画が出回っています。
    どれでも構いませんから、どれかひとつを再生してみてください。
    多くの場合、その人の発言は、1分に一度「私は」と、私という言葉が出てきます。
    公のために活動し、発言している人ですら、そうなのです。

    良いとか悪いとか言っているのではありません。
    ただ、一切の「私」を捨てるということは、人生の途中からいきなりなれるということではなく、幼児のうちから徹底した教育を施さなけば身につくものではありません。
    そのために殿様は、世襲にして生まれたときから、ずっと「私」を捨てる教育が施されました。
    食べ物の中に、好きな食べ物があっても、「俺、これ大好物なんだ」とさえ言えない。それがお殿様であったのです。
    そしてそこまで徹底して公に尽くし、公に生きることは、世襲でなければできることではありません。

    ただし実力分野、たとえば藩の経理財務や藩の外交、あるいは学問や武芸などの分野においては、世襲や血筋ではなく、実力がものを言いますから、どの藩においても、そうした分野には出自(しゅつじ)などは一切問題にせず、農民や職人、あるいは商人の出であっても、とにかく有能な人材を用いました。
    これまた至極もっともなことです。

    ただし、そうした人たちは、たとえ家老職にあったとしても、責任を取るということに関しては、そういう人達は切腹やお家断絶はなく、解雇というだけにとどめられました。
    そういう違いがあったのです。

    こうしてみたとき、江戸時代が、前にもご紹介しましたが、江戸の享保年間の20年間の間に、江戸の小伝馬町の牢屋に収監された犯罪者の数がゼロだったこと、あるいは江戸の日本橋のたもとという、日本一往来の激しかった場所で、青天井のもとに全国に送金される現金がザルにいれられて、見張り役さえいなかったのに、江戸時代を通じて盗難事件がゼロだったこと。
    明治から昭和の中期頃まで、家に鍵なんてかけなくても、誰も泥棒さえはいらないというほどまでに、優れた治安が実現していたことなど、ある意味当然のことであったと思います。

    それから考えれば、児童が殺害されるような事件があっても、女子高生がコンクリート詰めにされていながら、区長も知事も警察署長も、だれひとり死刑にならない時代というのは、施政者にとっては「都合の良い時代」かもしれませんが、民衆にとってそれが本当に良い時代といえるのか、そういうことをこそ、私達は考えていかなければならないのではないかと思います。


    ※この記事は2017年1月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!
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  • 片平観平と日本的思考


    天が大任を与えようとするときには、強烈な試練を与えます。
    試練に負けず、めげず、怖(お)じず、そして逃げずに、たゆまず雄々しく前に進もうとするとき、はじめて天はその人に任を与える。
    逆に言えば、いまとってもつらいことであっても、途中でめげたら次はない、ということです。
    名もない民草(たみくさ)であったとしても、どこまでも、いつまでも正しい心で前に向かって歩み続ける。
    それが日本人の日本人的生き方です。

    20200130 白石用水路
    画像出所=http://volvolife.jp/author/sakusha/mymother/index.htm
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    小名木善行です。

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    天保年間というのは、その前の時代が文化文政時代で、これは世にいう「化政時代」、元禄が上方(関西)文化が花開いた時代なら、化政時代はまさに江戸庶民文化が花が咲いた時代です。

    天才歌舞伎役者の7代目市川団十郎が、市川家の名を不動のものにした時代であり、絵画では、フルカラーの印刷技術が確立し、版画を用いて作られた当時の新聞(かわら版)がフルカラーとなり、東海道五十三次の安藤広重や、歌麿、北斎が活躍したのもこの時代、本居宣長が古事記全巻の通釈本を出し、杉田玄白らが解体新書を出版し、十返舎一九が東海道中膝栗毛を書いたというのも、この時代です。

    だいたい江戸中期を描いた映画作品などが舞台にしているのも、まさにこの時代といった方がイメージをつかみやすいかもしれません。

    それだけ江戸庶民文化が華やいだ背景には、第11代将軍徳川家斉がわりと派手好きで、江戸の貨幣経済をおおいに発展させた、という背景があります。
    ところがこのことが、同時に大きな問題を起こしたのも、化政時代であったわけです。

    どういうことかというと、もともと徳川幕府というのは、税を米で収めさせたり、武士の給料(俸禄)を米で支払ったりと、物を買うことよりも、人が食うことを国の中心・柱とした政治体制です。
    だから贅沢よりも質素を好み、道徳規範を大切にして、みんなが食えるための共同体としての統治を国政の中心に据える社会を築きました。

    そこに徳川家斉という、貨幣経済大好き、贅沢大好きという将軍が登場したのです。
    しかもまる50年、統治者となりました。
    家斉という人は、たいへんな円福家でした。
    なんと側室40人、できた子供が男28人、女子27人と、都合55人もの子を儲け、あまりに夜な夜な励むので、松平定信から、
    「あまりに回数がすぎるとお体にさわりますぞ」
    と注意をされるほどだったといいます。
    ある意味、たいしたものです。

    女性好みの激しい統治者の世というのは、贅沢を好むようになりがちです。
    そして政府がお金をたくさん使うようになると、民間にお金がまわるようになります。
    つまり大都市の住民は、貨幣経済の進展によって、好景気を満喫し、庶民文化が花開くわけです。

    ところがこのことは、農村部を著しく疲弊させます。
    なぜなら農家は、農作物を育てた分の、決まった収入しかありません。
    他方、都会人は、こうして全国で生産さえれた米を動かすだけで、大金が転がり込んでくる。
    貨幣経済は、一次二次産業より、三次四次産業を発展させるわけです。

    一次二次産業と三次四次産業の違いは、アップルパイを作る人と、できあがったアップルパイを奪い合う人にたとえることができます。
    経済が「生産や製造」から、「財貨の奪い合い」に移行すると、たまたまアップルパイをたくさん得ることができた人が、極端なお金持ちになっていきます。
    すると相対的に生産者や製造者は貧しくなります。
    つまり格差社会が形成されます。

    都市部の金持ちだけがいい生活ができて、人の世で一番大切な食(農業)の生産者の生活が圧迫される。
    日本の八百万の神々は、こういうことがお嫌いなようで、経済がそのような状況になると、古来、天罰が下ります。
    それが文政4(1821)年3月の蔵王山の大噴火でした。

    この噴火はものすごい大噴火で、噴煙が全国に広がり、これが冷夏を招き、農作物が大凶作となりました。
    さらに文政7(1824)年には、大洪水、翌文政8年にはふたたび大凶作に見舞われます。
    この年、もっとも経済が華やかなはずの大阪でさえ、約5000人の餓死者が出ました。
    翌天保9年には仙台藩で大飢饉が起こって約20万人が死ぬという悲惨な出来事が起きています。

    文化文政時代最後の年、文政13(1830)年には、再び蔵王山が大噴火しました。
    噴煙が日本の空を覆い、貨幣経済によって疲弊した農村部では、肝心の農作物そのものが採れなくなりました。
    村々は大凶作にみまわれました。
    そして全国的な大飢饉が起きました。

    こうした凶作は、寒冷地である東北地方では特に大きな打撃となります。
    そもそも米は熱帯性植物で冷害に弱いということに加えて、平野部が少ないから、生産高自体が少ない。
    しかも東日本は年一期作です。収穫が年一度しかない。(西日本は二期作)

    宮城県にある白石藩といえば、もともと仙台藩伊達氏の家臣の片倉氏が代々藩主を務めた名門です。
    ここでは度重なる飢饉から人々を救うために、藩のお蔵にあるお米を供出し、新田として開墾できる平野部も、ことごとく開墾して、必死で農産物を増やして、藩の人々の食と生命を守ろうと努力していました。
    ところが相次ぐ凶作、相次ぐ飢饉で、もう藩の金庫は空っぽ。なんにもない。
    それでも、藩内の人々の命を守るためには、なんとしても、あと一歩、食糧生産高を上げなければならない。
    そしてこの時点で、白石藩に、新田開発場所として藩内に残された場所は、蔵本村周辺の一か所だけでした。

    蔵本村あたり一体は、農地に適した平野部です。
    ところが水路がないのです。
    巨大な岩盤が邪魔して、水を運んでくれない。
    水がなければ稲は育ちません。
    けれど、水さえひければ、そこは広大な農地になります。

    そこで白石藩では、白石川の上流から蔵本まで水路をひくことで、なんとか蔵本村一体を農地にしたいのですが、困ったことに、蔵本村は、いまでいうゼロメートル地帯です。
    大雨が降って水かさが増すと、堰が切れて地面に水が噴出するのです。
    すると農作物が全部やられてしまう。
    堰(せき)の修繕費も藩の財政を圧迫するし、農作物の被害は、住民の生活を圧迫する。
    まさに二重苦だったのです。

    残る方法はただひとつ。
    蔵本村にたちはだかる巨大な岩盤に穴をあけ、そこに水を通すことです。
    穴は、ふさげば、水量の調節ができる。
    そうすれば、広大な農地を守ることができます。
    農地が広大な分、農作物の取れ高があがり、庶民を飢えから救えます。
    堤防修繕という余計な出費も免れることができます。

    なんとか岩盤に穴をうがって、水を通すことはできないものか。
    けれどそれには莫大な藩費の出費と、相当な年月がかかります。
    当時は穴掘り、岩盤堀りは、全部手作業の時代だったからです。

    藩のフトコロは、これまでの飢饉対策で、もはや空っぽです。鼻血も出ない。
    完成した水路の受益者となるべき蔵本村側も、米は作れぬ、仕事はないで、岩盤くりぬき工事ができるような余裕はどこにもありません。
    まさに、藩も、村も、身動きがつかない、出口の見えない苦境に陥っていたのです。

    そんな中で、第十代藩主の片倉小十郎宗景が、かねてより蔵本村の岩盤に穴をうがつという案を藩に提案していた片平観平を城に呼びました。

    藩の窮乏を救うために、なんとかして蔵本村の新田を守り開拓しなければなりません。
    そのためには、片平観平の岩盤に穴を開けて水を通すという案しか、もはや手立てはない。
    けれども、相次ぐ飢饉対策で、もはや藩には財政上の余力がない。
    どのようにしたら良いか。
    殿は、そう正直に片平観平にご下問しました。

    このとき観平が、なんと答えたか。
    それが、
    「私が行いますれば」
    です。
    全工事を私費で行うと殿に返答したのです。

    無茶な話です。
    いまで言ったら、何十億円に相当する工事を、サラリーマンの、しかも貧乏な侍が、私費で行うというのです。
    無茶な話です。
    けれど、なんとかしなければならない。
    ほかに藩を救う手立てはない。
    目の前にいる大事な、そして優秀な武士がひとり、ただ腹を斬るだけでなく、一族郎党を路頭に迷わせてまでも、その工事をやってのけると宣言しているのです。
    藩主、片倉宗景は、涙をのんで、観平に許可を与えました。

    工事は、ひとりではできません。
    片平観平は村々をまわり、人々を集め、岩盤をくりぬくトンネル工事の必要性を訴えました。
    膝をつめて説得にあたりました。

    村人たちも、納得してくれました。
    なにより片平様が、ちゃんと給金を出してくれるという。
    飢えて死ぬのを待つのではなく、末代までみんなが豊かな生活ができるように、力をあわせるのです。
    そりゃあ、うれしいことです。

    けれど、神々は観平に試練を与えました。
    工事を素直に完成させてくれなかったのです。
    岩盤を掘削し、ある程度トンネルを掘り進むと、その都度大水を起こって川が氾濫し、せっかく掘ったトンネルを、落盤と土砂で埋めてしまうのです。

    掘っては、大水で埋められる。
    また掘っては大水で埋められる。
    工事は、この繰り返しとなりました。
    そしてなんと、十年の歳月を要する大工事になってしまったのです。

    工事費用は全額片平観平の自費です。
    彼は一文無しになりました。
    ご先祖伝来の書物から骨董品、刀剣類から、最後は衣類までも売り払い、それでも資金が足りなくて借金に借金を重ねました。
    それでも彼は、穴掘りに働く人々への給料を、一度も溜めたことはありませんでした。

    ようやくトンネルが開通しようというところまで工事が進んだ、ある日のことです。
    前日になって、暴風雨が白石藩を襲いました。

    観平はトンネルが崩れ、工事が遅れてしまうことを心配して、大雨の中を、トンネルの様子を見に行きました。
    暴風雨で、ずぶぬれになりながら、祈るような気持ちで、今度だけは、今日だけは、トンネルを守ってほしい、あと少しで完成なのだ。そうしたら、多くの人が助かるのだ。この世に神がおわすなら、どうか、どうか、このトンネルを守ってほしいと祈りました。

    激しい雨の中、濁流のそばで、そう祈り続ける観平に、一緒に働く仲間たちが、風邪をひきますぞ。あなたがいなくなっては、工事は完成しなくなるのです、と彼を家に帰しました。
    心配で心配で、一睡もできなかった観平は、翌朝、雨が上がり、雲間が切れて太陽の光が射す中、再び現場を見に行きました。

    すると、なんということでしょう。
    まだつながっていないはずの切通しに、満々と水が流れているではありませんか。
    前夜の暴風雨で勢いを増した水が、
    それまで観平たちを困らせ続けた濁流が、
    逆にトンネルの最後の行程に穴をうがち、貫通させ、
    トンネルを開通させてくれていたのです。

    この光景を目た観平は、呆然と水の流れる様子を見つめていました。
    その目には、滂沱の涙があふれました。

    こうして俵縁から松ヶ淵まで、約250間(約450メートル)の、蔵本大堰切通しが完成しました。
    観平のこうした努力に、藩主の片倉宗景は、藩費のなかから、莫大な報奨金を観平に与えました。
    けれどその報奨金を、観平はまるごと愛宕山の水源地を守るための数万本の植林の費用に遣ってしまいます。

    こうして蔵本村は、水害を心配することなく、莫大な米の生産を可能にし、以降の白石藩の人々の生活を助けてくれました。

    観平は、全財産を使い果たし、殿からいただいた報奨金さえも植林に捧げ、何もかも遣い果たして、70歳でこの世を去りました。
    彼は、儲けどころか、全財産を失っても、人々のために生涯を捧げるという道を選びました。

    片平観平の生涯は、経済人としては、まるでダメ男といえるかもしれません。
    けれど、古来日本人は、公のために生きるということを、もっとも大切なこととしてきました。
    そしてそういう人には、天はかならず大きな試練を与えました。
    それでも最後までやり抜く。

    「天の将に大任を是の人に降さんとするや、
     必ず先づ其の心志を苦しめ、
     その筋骨を労し、
     その体膚を餓やし、
     その身を空乏し、
     行ひ其の為すところに払乱せしむ。
     心を動かし、性を忍び、
     その能はざる所を曾益せしむる所以なり」

    孟子の言葉です。
    実は同じことが、日本書紀の神武天皇記にも書かれています。
    神武天皇は、国が荒れ人口さえも減少したときに、稲作の普及のために日向(宮崎)を兄たちとともに出発されるのですが、畿内で敵に襲われ、兄たち全員がお亡くなりになり、持っていた備蓄食料もすべて海に流され、部下たちは病に倒れます。
    しかし、そのときに、天の神は神武天皇に、叢雲の剣を授け、八咫烏を派遣するのです。

    天が大任を与えようとするときには、強烈な試練を与えます。
    試練に負けず、めげず、怖(お)じず、そして逃げずに、たゆまず雄々しく前に進もうとするとき、はじめて天はその人に任を与える。
    逆に言えば、いまとってもつらいことであっても、途中でめげたら次はない、ということです。
    名もない民草(たみくさ)であったとしても、どこまでも、いつまでも正しい心で前に向かって歩み続ける。
    それが日本人の日本人的生き方です。

    片平観平が、トンネルを完成させたのは、天保11(1840)年のことです。
    いまから180年以上も昔です。
    それでも、彼は、いまも水路とともに、人々の心の中に生き続けています。


    この記事は2011年1月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • コンゴに学ぶ


    コンゴが動乱を終え、ほんとうの意味での平和を取り戻すためには、何が必要でしょうか。おそらく、誰もが口を揃えて、「それは、コンゴの人たち自身が努力するしかない」とお答えになるものと思います。
    ならば、その言葉は、そのまま日本にもあてはまるのではないでしょうか。

    コンゴ民主共和国



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    日本を豊かに
    小名木善行です。

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    このお話を最初にねずブロに書いたのは2013年5月のことです。
    以来、毎年1回はこのお話を掲載しています。
    なぜなら、自分たちの手で国を守ることの大切さが、世界史の中でコンゴを学ぶことで明らかになるからです。
    米国の今後は、なるほどこれからの日本に多大な影響を与えることと思います。

    けれど、他人の影響ばかりを気にしていても仕方がないのです。
    大切なことは、「自分がどう生きるか」です。
    それが国家であれば、「自分たちが自分たちの国をどうしていかなければならないのか」です。

    中東からアフリカ一帯の諸国は、あまり日本人にはなじみがないところかもしれません。
    けれど、これまでヨーロッパ諸国がそれら地域に介入し、現地でどのようなことがあったのか。
    それを知る意味で、1996以降のわずか19年で、600万人が亡くなったコンゴは、そのひとつの典型といえるところかもしれません。

    「ザイール」という国名を聞いたことがある方も多いかと思います。
    昭和46(1971)年にルワンダの支援を受けたコンゴの反政府勢力が打ち立てた国で、その後も内乱と戦闘が相次ぎ、平成9(1997)年5月に、再び国名が「コンゴ」になりました。

    コンゴは実は、15世紀の終わり頃まで、この国はコンゴ王国として、王制のもとに各部族が統一され、近隣諸国とさかんな交易も行われる、平和でたいへんに栄えた国だったのです。
    それがなぜ、いまだに内乱の中にあるのか。
    実はそこに植民地支配の恐ろしさがあります。

     ***

    はじめにコンゴに、西洋人たちやってきたのは、1482年のことです。
    ポルトガル人がやってきました。
    同じ時期、少し遅れて日本にもポルトガル人がやってきました。
    「鉄砲伝来」で、1543年(1542年という説もあり)のことです。
    コンゴにポルトガル人がやってきた、わずか60年後です。

    コンゴは、ポルトガル人がやってきた2年後の1485年、コンゴ王国とポルトガル王国との間で国交を結びました。
    この国交条約は、双方の国が「対等な関係」にたつという内容のものでした。
    ともに五分と五分のお付き合いです。
    ただし、一点条件がありました。
    それが、コンゴが、ポルトガル宣教師によるキリスト教の布教を認める、ということでした。

    宗教は、人々を幸せに導く教えです。(*1)
    よろこんでコンゴはこれを承諾しました。
    そして1491年には、ローマから宣教師が派遣されてきました。
    コンゴ国王のジンガ・クウは、自から進んでカトリックに改宗し、さらに自分の息子で王子のジンガ・ムペンパを、ポルトガルに留学させました。

     (*1) 宗教は人を導く教えです。これに対して神道は人が目指すところへとたどり着く道です。受験生に例えれば「合格までの道」と、「合格のための様々な教え」の関係になります。

    ムペンパは、ポルトガルにいて学問を修め、1506年に父親の後を継いでコンゴ国王に即位しました。
    そして彼は、積極的なコンゴの欧化政策を採りました。
    さらに、多くのポルトガル人を受け入れ、コンゴの近代化に励みました。

    と、ここまでは、悪くない話です。
    しかし、侵食は静かに始まっていました。
    コンゴの欧化政策のかたわらで、コンゴ国内にポルトガルの奴隷商人たちが、大量に入り込み出していたのです。

     ***

    奴隷商人たちにとって、人身売買の元手は、そこらへんで捕まえてきたコンゴ人(黒人)です。
    多少の経費はかかりますが、元手はタダです。
    そして奴隷は高値で売れました。
    いまで言ったら、クルマを買うような感覚と考えるとわかりやすいです。
    元手がタダの新車が、飛ぶように売れる。
    ですから奴隷商人達は、またたく間にたいへんな金持ちとなりました。(*2)
    そしてコンゴの国政を平然と壟断(ろうだん)しはじめたのです。

    コンゴは、もともと貿易立国していた商業国でした。
    それだけに、欧州経済をいち早く受け入れることができるだけの土壌も育っていたのです。

    けれど、コンゴ人がコンゴで行う商売と、外国人がコンゴで行う商売は、その本質がまるで異なりました。
    コンゴは歴史ある王国です。
    ですからコンゴ王国の民衆も、自然の愛国心や、愛郷心が育まれていました。

    ところが、外国人であるポルトガル商人たちには、そうしたコンゴへの愛国心も愛郷心もありません。
    あるのは私的な欲得だけです。
    そして富を得た彼らは、あらゆる方法を使って自分たちの行いを正当化するために政治や経済を壟断するようになりました。
    こうして気がつけば、コンゴ国内は、ポルトガル人の奴隷商人たちと、その下請けとなったコンゴ人達が、社会的、経済的、政治的に、最大の影響力を持つようになっていったのです。

     (*2) 昔も今も、タダ同然で仕入れたものが高値で売れるという構造は同じです。かつてのそれは黒人奴隷であったし、半世紀前ですと麻薬、いまは幼児です。そしてこのような犯罪もしくは犯罪と隣り合わせで富を得たものたちは、決まって政治を壟断することで正義を破壊し、利権を確立してきたのが世界の歴史です。日本がそうはならなかったのは、天皇という伝統的権威が、利権や政治権力よりも常に上位にあり続けたことによります。

    事態を憂慮したコンゴ国王は、ポルトガル王に対し、奴隷貿易を止めるようにとの書簡を送りました。
    けれど、ポルトガルは、コンゴ政府ではありません。
    コンゴ国内の治安維持に責任を持っているわけでもありません。
    ポルトガルにとっては、ポルトガルが潤うことが第一なのであって、コンゴは貿易の相手国でしかありません。
    あたりまえのことですが、ポルトガルは、ポルトガルの都合で動くのです。

    ですから当然のように、コンゴ国王の書簡は無視されました。
    そして本国政府が黙認することに自信を深めたポルトガルの奴隷商人たちは、ますますコンゴにおける奴隷貿易を盛んにしていきました。
    こうしてついには、コンゴがアフリカにおける最大の奴隷貿易の中心地となってしまうのです。

    コンゴの民衆は怒りました。
    当然です。
    ある日突然、家族が、子供達が白人達に追いかけ回されて網ですくわれ、拉致され、奴隷、つまりモノとして勝手に売買されてしまうのです。
    それでもコンゴ人達は、敬愛する国王を信じ、事態が必ず解決し、いつか拉致された人々も国に戻れる日が来ると信じました。(いまのどこかの国とよく似ていますね。)

    そして、そんな日が来ないまま、コンゴ国王が永眠してしまうのです(毒殺されたという話もあります)。

    国王が亡くなったとき、コンゴの民衆は、ついに暴発しました。
    民衆は反乱し、暴動が相次ぎました。
    ところがその頃のコンゴには、もはや民衆の暴動を鎮圧できるだけの力が残っていませんでした。

    博愛主義を説くキリスト教によって、コンゴ国王の武力は否定され、コンゴ国軍は、ほとんど解体状態となっていたのです。
    しかも適齢期の若者達は、男女を問わず奴隷狩りにあって、その多くが連れ去られています。

    それでも、コンゴ国王は、なんとか暴動を鎮圧しようとしました。
    国内の平和と安定は、国王としての使命だからです。

    そんなところに起きたのが、1568年のジャガ族の襲来です。
    これもまた、「やらせ」だったという話があります。
    ジャガ族という無法者集団が、コンゴ国内に攻め込んで、一部の奴隷商人を襲撃し、さらにキリスト教施設を破壊するという事件が起こりました。

    コンゴ国王は、やむなくこの鎮圧のために、同盟国であるポルトガルに、鎮圧のための軍事支援を要請しました。
    すでにコンゴ王単独で武装集団を退治するだけの国力が、コンゴ王室になかったからです。

    要請を受けたポルトガル軍は、またたく間に、ジャガ族を鎮圧しました。
    これはあまりにもあっけなく、簡単に鎮圧されています。(ますますにおいますね)

    けれど、事態はそれだけに終わりませんでした。
    すでに国軍が衰退していることを知り、かつポルトガルの正規軍をコンゴに送り込むことに成功したポルトガルは、ここにきて、コンゴ王国との関係を、対等な関係から、主従関係へと変更することを要求してきたのです。

    圧倒的な軍事力を持ったポルトガル、しかもその軍事力が、すでに国内に基地を持っている。
    この情況では、武力のないコンゴ王は従わざるを得ません。
    こうしてコンゴは、ポルトガルの従属国となりました。

    属国となっても、コンゴ王国は、細々と存続し続けました。
    けれどそれは国として存続したというよりも、国王を名乗る家がコンゴ地方内に存続していた、というだけの情況です。(*3)

     (*3) どこかの国と同じです。○○国政府を名乗る機構がその国にあるというだけで、重要なことは毎週水曜日の○○合同会議ですべて決められる・・・。

    コンゴは荒れ、ほとんど無政府状態となりました。
    街では、武装した奴隷商人達が王侯貴族のような暮らしをし、コンゴの民衆はひたすら彼らにおびえながら、極貧生活を余儀なくされる状態となったのです。

     ***

    こうして300年が経ちました。

    情況に変化が起きたのは、1885年です。
    ベルリン会議の決定によって、ベルギーが、コンゴの新たな支配者となったのです。

    ベルギー国王のレオポルド2世は、コンゴを「コンゴ独立国」とし、自身でコンゴの元首となり、コンゴを自由貿易の国としました。
    ただし、形は自由貿易の独立国であっても、コンゴは、土地も人も一切合切、レオポルド2世の私有物です。

    ですから、ベルギー領となったコンゴの政府は、コンゴにはありません。
    コンゴ政府は、ベルギーのブリュッセルに置かれました。
    レオポルド2世も、コンゴへは足を運んでいません。
    コンゴへは、総督が派遣されました。

    実際には私有地、私有財産にすぎないのに、カタチだけは独立国です。
    ですから英国人達は、これを揶揄して、コンゴのことを「Congo Free State(コンゴ自由国)」と冷笑しました。(*4)

     (*4) いまでも当時のコンゴのことを「コンゴ自由国」と呼ぶ学者がいますが、酷いことです。

    コンゴを私物化したベルギー国王は、1830年にオランダ(ネーデルラント)から独立したばかりでした。
    その親元の国であるオランダは、世界中に圧倒的な植民地を持ち、巨富を得ていました。
    ですからベルギーからコンゴに派遣された総督の任務は、ベルギー初の植民地(私有地)であるコンゴから、一日もはやく経済的利益をあげる必要がありました。

    しかしこの頃には、奴隷貿易はすでに下火になっていました。(*5)

     (*5) 富を生む仕組みは時代とともに変わります。16世紀には奴隷、19世紀からは麻薬、そして21世紀となった今日では、幼児といわれています。幼児は幼児そのものへの性愛と、幼児から採れるアドレノクロムとよばれる若返りの妙薬(アドレナリンの一種で、一時的な抗老作用がある)へと変化しています。

    ベルギー王室は、なんとかしてコンゴに産業を確立させようとしました。
    長い間、コンゴは奴隷以外に主たる産業も産物も育てられていなかったために、コンゴのインフラ整備は、たいへんに費用のかさむものでした。
    それでもベルギー王室は、コンゴの民衆が豊かになる道を選択しようとしていたのです。

    ところが、その頃から事情に変化があらわれました。
    英国で、1887年に、自転車用のゴムタイヤが発明されたのです。
    これはたいへんな技術革新でした。
    そしてその技術が自動車のタイヤにも応用されるようになったのです。

    こうなると、ゴムの需要がうなぎ上りです。
    そしてゴムの木は、他に産業らしい産業のないコンゴの、国中のいたるところに、自生していました。

    コンゴにやってきていたベルギー人達は、ゴムの採取に目を付けました。
    そしてコンゴ人達を使って、徹底的にゴムの採取を行ないました。
    おかげで、コンゴのゴムの生産高は、20世紀のはじめには、世界全体の生産高のほぼ10%を占めるに至りました。
    ベルギーは、コンゴ産ゴムによって、経済的にたいへんに潤うことになりました。
    苦労してコンゴの再生を願ったベルギー王が喜んだことは、いうまでもありません。

    ところが、そうした生産高を上げるために、現地で何が行われていたのか。
    そのために何が行われたか。

    ゴムの採取を強制するために、コンゴ人の女子供を人質にとって、コンゴの男たちを働かせました。
    仕事を効率よく進めるための鞭打ちでコンゴ人労働者を死に至らしめ、さらにノルマを達成できないと、人質にとってある女子供らの右手を、見せしめとして切断するという罰を与えていたのです。

    手を切られたコンゴ人
    マーク・トウェイン「レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護」p.40
    コンゴ自由国


    ここまでくると、コンゴ人達も黙っていません。
    中には集団で徒党を組んで反乱を組織するコンゴ人も出てきました。
    そこで反乱ゲリラを鎮圧するために、周辺に住む未開の部族達を徴用して、コンゴ国内に「公安軍」が組織されました。
    この「少数民族を武装させ、利用して、現地の人々を統治する」という手法は、植民地支配では、ごく一般的に行われてきた統治手法です。(日本でも戦後行われましたね)

    未開の蛮族達による徴用兵たちは、白人以上に恐ろしい残忍さを発揮しました。
    徴用兵たちの任務は、ゴム採集のノルマの達成管理だったのですが、その中には、未達者に対する手首斬り落しの強制執行も含まれていました。

    徴用兵達の給料も、利益に基づく歩合性でした。
    そのうち、蛮族たちが任務を果たしている証拠として、懲罰のために切り落とした手首の数によって昇級や賞与の額が決められるようになりました。

    すると村人たちは、この取立から逃れるために、他の村人たちを大量殺人して、手首を集めてくるようになりました。
    こうして手首は、それ自体が価値を帯びるようになり、一種の通貨になっていきました。

     ***

    コンゴが、ベルギー領コンゴとなったのは1885年のことです。
    そしてコンゴが、ようやく独立を果たしたのは、昭和35(1960)年のことです。
    その間、わずか75年の間に、コンゴで虐殺された人の数は、1000万〜1600万人であったといわれています。
    コンゴが独立したときの人口が1400万人であったことを考えると、これは恐ろしい数です。

    しかし、せっかくのコンゴの独立も、独立からわずか1週間で、内乱とベルギー軍の介入によって崩壊してしまいました。
    こうして始まったのが「コンゴ動乱」です。

    「コンゴ動乱」は、民主化を促進しようとするムルンバ大統領派と、ソ連やキューバに後押しされたコンゴ国軍が対立するという構図となりました。
    さらに国内を二分しての民族紛争がこれに重なり、コンゴはこの後約5年間、動乱に継ぐ動乱の時代となり、いまなおコンゴは戦場の中にあります。

    今年は2021年です。
    自主自存の国家だったコンゴの崩壊の引き金となったのは、1568年のジャガ族の襲来事件でした。
    この事件のときに、コンゴが自前の防衛力を保持していたら、つまり強力な軍隊を自前で保持していたら、おそらくジャガ族の襲来もなかったし、ポルトガルに援軍を要請する必要もなかったし、結果としてポルトガルの従属国となることもありませんでした。
    それどころか、奴隷商人たちの跋扈そのものを、自前の強力な軍隊の出動によって防ぐことができたかもしれません。

     ***

    「そのとき軍隊が弱かった」
    たったそれだけのことで、コンゴは国を崩落させ、それからいまにいるまで453年、いまだに内乱と戦火の中にコンゴはあります。

    大事なことは、どんなにご立派な講釈を垂れたとしても、力なき正義は正義になれない。
    それどころか多くの国民の不幸を招く、ということです。
    そもそも国家とは、領域、国民、武力の三要素によって形成されるのです。
    領域内の国民を守る力があってこその国家なのです。
    そしてそれが現実です。

    現実に日本は、どんなに立派な法的根拠、歴史的根拠を並べ立てたとしても、武力を背景にした他国による領土の占有の前に、なにもできていません。
    国民を拉致されても、政府には何もでません。

    自衛隊はあります。
    はっきりいって、強いです。
    けれど専守防衛をうたう以上、他国は日本に対していかなる不条理を押し付けたとしても、その国が日本から攻められる可能性は皆無なのです。
    武道の有段者なのに、いくらヤクザ者にカツアゲされても「絶対に抵抗しません」とヤクザ者に約束しているのが、戦後の日本政府です。
    それどころか「暴力だけはふるわないで」と、欲しいだけカネを出してくれるお金持ちで腰抜けのボンボンを演じています。

    日本国憲法に、「平和を愛する諸国民の公正と信義」と前文にありますが、公正な国ってどこでしょう?信義ある国とは、どこの国を指すのでしょう?

    日本が平和を愛し、公正と信義のある国となるためには、日本が強くなければなりません。
    でなければ、日本は4百年前のコンゴになってしまう。

    日本にも16世紀にポルトガル人が来日し、鉄砲などが伝えられました。
    けれど日本は、鉄砲をまたたく間に国内に普及させ、秀吉の時代には、日本は全世界の鉄砲保有数の約半数を持つという、すさまじい大国となっています。

    けれど、鉄砲に使う火薬の原料となる「硝石」は、日本で産出しません。
    あたりまえのことですが、火薬がなければ鉄砲はただの鉄パイプです。
    ですから、日本の戦国大名たちは、こぞってポルトガル人達から火薬を買いました。
    代金は、火薬一樽につき、日本人の若い女性50人が相場です。(徳富蘇峰、近世日本国民史)

    日本女性が奴隷に売られたのです。
    日本でも、コンゴで起きたことに近いことが、現実にあったわけです。

    けれど日本がコンゴのように、ポルトガルの属国とならずに済んだのは、彼らの鉄砲という兵器を駆使する戦いに学び、これを吸収して自前の鉄砲隊を組成してしまったこと、それにより、日本がポルトガルを圧倒する強力な軍事力を備えたこと、さらに秀吉が奴隷売買とキリスト教を禁じ、日本人女性が奴隷として国外流出することを阻止することができたからにほかなりません。

    幕末動乱も同じです。
    日本は、外国からの圧力に対し、これを学び、吸収して、その外国以上に強靭な国家を築き上げました。

    なるほど幕末に日本は外国との間に不平等な条約を締結しました。
    けれど明治44年に、日本は完全に外国との関係を対等なものに修復しています。
    それは、幕末の志士達が夢見た坂の上の雲に到達した瞬間でした。

    もし、日本が過去においてそういう努力をしてこなかったら。
    もしかすると日本人もコンゴと同様に奴隷に売られ、女性たちは旦那のために手首を斬り落され、通貨は日本円ではなく、日本人の手首になっていたかもしれません。
    銭形平次の投げるのが寛永通宝ではなく、紐でつないだ手首だなんて、想像もしたくないですよね。

    大切なことは、自立自存です。
    支配されるということは、いかなる場合においても、幸せになれることはない、ということです。
    もちろん例外はあります。
    それは日本がかつて統治した国々です。
    どの国もすべて発展し、なかには歴史上初と言って良い平和な時代を迎えた国もありました。

    けれど、日本がそうしてきたからといって、他国も同じようにするなどということは、金輪際ないし、上に述べたコンゴのように、他国の支配を受けることは、これ以上ないといって良いくらいの国民の不幸を招くのが、世界の歴史です。

    日本が、独立した国家でいられたのも、いま、私たちが平和に暮らして行けるのも、私たちの父祖、祖先が、それこそたゆまぬ努力を重ねてきたからに他なりません。
    その努力を、あらためて続けて行きたい、と思うのです。

    冒頭に書きましたが、コンゴは1996年以降の動乱で、この27年の間に600万人がなくなっています。
    コンゴは資源国ですが、その資源をめぐって、それだけの争いと殺戮が起きているのです。
    コンゴは、ゴムの採取からはじまって、いまではコバルトなど、電子機器に必要なレアメタルが大量に採れる地域となっています。
    この資源を狙う西欧諸国の利害が、コンゴの国内と周辺国の事情を複雑にし、それが原因で、いまだ内乱が絶えないのです。

    第二次世界大戦の頃、まだ中東には石油が発見されていませんでした。
    それが発見され、中東は諸外国の利害が対立する地域となり、結果、紛争地帯となっています。
    そして地球最後の石油埋蔵地帯として、いま、東と南シナ海が注目されています。
    日本は、コンゴのようになるのでしょうか。

    コンゴが動乱を終え、ほんとうの意味での平和を取り戻すためには、何が必要でしょうか。
    おそらく、誰もが口を揃えて、「それは、コンゴの人たち自身が努力するしかない」とお答えになるものと思います。

    ならば、その言葉は、そのまま日本にもあてはまるのではないでしょうか。


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  • 相手は変わらない


    よその国の悪口をいくら言ってもはじまらないし、自国の悪口をいくら言っても、日本が良くなることはありません。
    我々は日本人です。
    日本人なら、日本を信じることです。そして信じられる日本に、日本をしていくことができるのは、日本人だけです。
    そんなあたりまえのことに気付けば、いますべきことが見えてきます。

    20220119 織田信長



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    小名木善行です。

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    笑ってしまうほかないことですが、日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」とあります。
    戦後日本がその日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」た結果、戦後の日本産業の中核を担った造船、繊維、家電、半導体、金融などの諸産業は、ことごとく外国にそのシェアを売り渡し、もはや日本産業は自動車を除いては、ほぼほぼ青息吐息。
    国民が爪に火をともすようにして貯めた巨額の郵貯残高は、いまでは空っぽ。
    老後のためにと毎月給料から多額のお金を引かれていた年金も、いまではその財源が空っぽ。
    気がつけば、すべて「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」、ぜんぶ奪い取られてしまっています。

    結果、30年間日本人の初任給は上がらず、毎年のベースアップも止まり、国民一人あたりの年収は、やはり30年前と比べて平均で2割以上ダウンしています。

    メディアでは相変わらず、国の借金が1千兆円あると騒ぎ立てていますが、その国が誰から借金しているのかというと、国民です。
    つまり国の借金というのは、国民から見たら国民の財産であるのですが、どういうわけか、どこぞの国の工作に洗脳されたメディアは、その大事な国民の財産を減らせという。
    国民もまた、自分たちの財産が「大きすぎるから減らせ」という、風変わりな論調に、なぜか「そうだ、そうだ」と首肯しています。
    あきらかな民度の低下ですが、そういえばテレビは頭のおかしなお笑い番組のオンパレードとなり、まともな時代劇を作る予算さえも失ってしまっています。

    さらには国の国債発行残高の1千兆円、なんと日本国政府は、これと同額の海外での不良債権を持ちます。
    要するに簡単に図式かすれば、実は国は、国民から預かった国民の財産1千兆円を、そのまま外国に垂れ流して、それが全部不良債権になっている、というわけです。

    財務省がこのことを問題にしたら、どういうわけか政治は、
    「財務官僚が景気対策に反対している」と。
    こういうのを「論点ずらし」と言います。

    日本人は古来、情緒的であると同時に、大事なことは論理的に物事を考える習慣があったはずなのですが、「論点ずらし」というのは、そうした論理的思考からしたら、およそ卑怯な手段であって、江戸の昔なら、そのような卑怯な発言をしただけで、御家断絶の憂き目に遭う。それほどまでに忌まれたやり方なのです。
    どうしてそのような論点ずらしがまかり通っているのかと思ったら、論点ずらしが得意芸の歴史を持つ国の人達が、いつのまにか日本人になりすまして、なんと国会議員になっている!(笑)

    彼らには、日本人が豊かになることなど、いっこうに眼中になく、要するに「いまだけ金だけ自分だけ」儲かれば良いのであって、そのような人たちが700人以上いる政治家の一定以上を占めるとなれば、日本の政治が国民のための政治にならないのは、火を見るよりも明らかです。

    しかも日本国憲法が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」と規定している。
    もう笑うしかないような日本の現状ですが、けれど、誰かが立ち上がらなければ、日本は変わりません。

    ところがその立ち上がりをリードすべき有識者は、左も右も口をそろえて、
    「日本はもうおしまいだ」とおっしゃる。
    それで話をよく聞くと、日本がおしまいなだけでなく、アメリカもおしまい、チャイナもおしまい、コリアもおしまいだと、これまたこの20年、ずっとそんなお話が続いています。

    ところがそのような識者の意に反して、アメリカはいまや世界を事実上裏から支配するようになり、チャイナ経済は日本の5倍(2022年のGDP比)、日本の5分の1だった韓国の1人当たりの国民所得は、いまでは日本と同じです。
    日本の状況がよろしくないのは事実ですが、そんな日本をATM代わりに使うことで、それら三国は、むしろ強大な国へと育っています。

    要するに、よその国の悪口をいくら言ってもはじまらないし、自国の悪口をいくら言っても、日本が良くなることは決してないのです。

    我々は日本人です。
    日本人なら、日本を信じることです。
    そして信じられる日本に、日本をしていくことができるのは、日本人だけです。

    そんなあたりまえのことに気付けば、いますべきことが見えてきます。
    日本人として、日本が豊かに安全に安心して暮らせる国になるようにという、志を広げ、拡散し、
    その志を共有する者が集い、日本の底力となることです。

    かつて信長は、戦国の世を、自前でしかも日本初となる専業武士団を抱えることで、終わらせて行きました。
    これを信長の功績のように語る人は多いですが、日本の歴史は、チャイナや西洋のような英雄豪傑の歴史ではありません。
    そもそも信長がいくら有能な人物であったとしても、信長ひとりでは何もできない。あたりまえのことです。

    その信長のもとに、日本全国から「戦国の世を終わらせたい」という志を持った人材が集まりました。
    それは織田弾正という、世の不正を正す役割の人物が、桶狭間で今川を破ったことを好感し、信長のもとで戦国の世を終わらせ、天下に泰平を取り戻すのだ、という若者たちでした。

    当時の武士は、戦で戦功があれば、土地を与えられました。
    けれど信長の軍団は、戦いに勝利しても、土地は与えられません。
    恩賞もたいして与えられるわけではない。
    それでも彼らは、まさに命をかけて、信長とともに戦国の大大名たちと果敢に戦いました。

    そういう志を持った若者たち(中には年寄りもいた!)こそが、信長を担ぎ上げて、まさに戦国を終わらせて行ったのです。

    日本の歴史は、庶民の歴史です。
    庶民が変われば、日本は変わる。
    日はまた昇るのです。


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  • 『学問のすゝめ』に見る天命と責任


    似非政治家は、やたらに他の政治家や政党に対して「責任」という言葉を口にして攻撃します。
    けれど責任というのは、権力権限に対して、言い換えれば「使命に対して」生じるものです。
    まるで関係ない個人的な問題をでっち上げても、でっち上げられた側には、その問題と称する事柄に、なんの使命も持ち合わせていません。
    なんの使命も持ち合わせていないものに、責任は生じません。


    20201230 松に雪
    画像出所=http://www10.plala.or.jp/anzu-nouen/achikochi_01/yukigeshiki_01/matsuniyuki_01.htm
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



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    今年は激変の年です。
    ものごとの根幹が、オールリセットされて、新しい出発がはじまります。
    それは巨大な変化であり、驚愕の変化であり、新しい未来の姿です。

    そんなときだからこそ、私達は原点回帰が必要です。
    神話や日本書紀、歴史などもそうです。
    そしてそこに福沢諭吉もぜひ、入れたいと思います。
    なぜなら福沢諭吉は、独立した個人による国家の発展を説いた思想家であるからです。
    とりわけ、「脱亜論」、「学問のすゝめ」は重要であると思います。

    「学問のすゝめ」で有名な言葉が、
    「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」です。
    しかし諭吉が言いたいのは、そこではありません。
    もっと深いことを解いています。

    そこで初編の全文を原文に簡単な解説をつけながら掲示しますので、ぜひ、ご一読いただければと思います。
    なお、現代語訳は、いつものねず式です。
    (全文は17編まであります。
     今回はそのなかの初編だけです)

    「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。
     されば天より人を生ずるには、
     万人は万人みな同じ位にして、
     生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、
     万物の霊たる身と心との働きをもって
     天地の間にあるよろずの物を資とり、
     もって衣食住の用を達し、
     自由自在、
     互いに人の妨げをなさずして
     おのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

     されども今、
     広くこの人間世界を見渡すに、
     かしこき人あり、おろかなる人あり、
     貧しきもあり、富めるもあり、
     貴人もあり、下人もありて、
     その有様(ありさま)、
     雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。」


    学校では、福澤諭吉の『学問のすゝめ』といえば、すなわち「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」であって、人の平等を説いたものと教えるけれど、こうして原文を読めば、福沢諭吉が述べている趣旨がぜんぜん違うことにお気付きいただけるのではないかと思います。
    現実には「雲と泥」の差ほどに、人には差があると諭吉は述べているのです。

    ではどうして、そんな差異が生まれるのか。
    どうしたら少しでも貴人に成長していくことができるのか。
    そこを諭吉は述べようとしていることが、この冒頭でわかります。


    「その次第はなはだ明らかなり。
     『実語教(じつごきょう)』に、
     「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。
     されば賢人と愚人との別は
     学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

     また世の中に
     むずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。
     そのむずかしき仕事をする者を
     身分重き人と名づけ、
     やすき仕事をする者を身分軽き人という。

     すべて心を用い、
     心配する仕事はむずかしくして、
     手足を用うる力役(りきえき)はやすし。

     ゆえに医者、学者、政府の役人、
     または大なる商売をする町人、
     あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、
     身分重くして貴き者と言うべし。」


    本来、人は対等です。
    けれど社会的分業を営むに際して、人には責任の軽重が生じます。
    それは「責任」の重さであり、責任と権限の重さは等しいものなのだ、ということです。
    ここが西洋に似せた現代の政治や行政に欠落している部分です。

    似非政治家は、やたらに他の政治家や政党に対して「責任」という言葉を口にして攻撃します。
    けれど責任というのは、権力権限に対して、言い換えれば「使命に対して」生じるものです。
    まるで関係ない個人的な問題をでっち上げても、でっち上げられた側には、その問題と称する事柄に、なんの使命も持ち合わせていません。
    なんの使命も持ち合わせていないものに、責任は生じません。

    あるいは似非政治家は、いわゆる「論点ずらし」をよく行います。
    ずれた論点には、答える責任は生じません。

    こうした、少し考えれば誰にでもわかる論理を、残念ながら現代日本人は学校で教わっていません。
    結果、似非政治家や、金儲けをしたいだけのメディアに騙されることになります。

    「身分重くして貴ければ
     おのずからその家も富んで、
     下々(しもじも)の者より
     見れば及ぶべからざるようなれども、
     その本もとを尋ぬれば
     ただその人に、
     学問の力あるとなきとによりて
     その相違もできたるのみにて、
     天より定めたる約束にあらず。

     諺ことわざにいわく、
     「天は富貴を人に与えずして、
      これをその人の
      働きに与うるものなり」と。

     されば前にも言えるとおり、
     人は生まれながらにして
     貴賤・貧富の別なし。
     ただ学問を勤めて
     物事をよく知る者は貴人となり富人となり、
     無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。」


    「天より定めた約束」というのは、その人の「使命」のことを言います。
    これを「天命」と言います。そして天命を果たすことは、その人の責任です。そのために権力権限が与えられます。
    人に「生まれながらの貴賤」はありません。
    そうであれば、天命を得るには学問が必要です。

    その学問は、「問い、学ぶ」ことですから、天から与えられた約束事ではありません。
    人の学問の努力によって、その人の天命が定まるのです。

    「学問とは、
     ただむずかしき字を知り、
     解(げ)し難き古文を読み、
     和歌を楽しみ、詩を作るなど、
     世上に実のなき文学を言うにあらず。

     これらの文学も
     おのずから人の心を悦(よろこば)しめ
     ずいぶん調法なるものなれども、
     古来、世間の儒者・和学者などの申す様(よう)に
     あがめ貴(とうと)むべきものにあらず。

     古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、
     和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。
     これがため心ある町人・百姓は、
     その子の学問に出精するを見て、
     やがて身代を持ち崩すならんとて
     親心に心配する者あり。
     無理ならぬことなり。
     畢竟(ひっきょう)その学問の
     実に遠くして
     日用の間に合わぬ証拠なり。」


    ここでいう和歌や古文というのは、いまどきの学校教育と同じです。
    諭吉の生きた幕末から明治にかけてでいえば、難しい漢学や和歌です。
    テストでどれだけ正答を書くことができるか、どれだけ詳しく答えることができるか。
    しかしそのようなものは、いわば単なる雑学です。
    問題は、それらを通じて、いかに天命を得るかにあります。
    そのための学問です。
    クイズの答えをいくら知っていても、多くの場合、そこに天命は生じません。
    そういうことを福沢諭吉は述べています。

    「されば今、
     かかる実なき学問はまず次にし、
     もっぱら勤むべきは
     人間普通日用に近き実学なり。

     譬(たとえ)ば、
     いろは四十七文字を習い、
     手紙の文言(もんごん)、
     帳合いの仕方、
     算盤(そろばん)の稽古、
     天秤(てんびん)の取扱い等を心得、
     なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。

     地理学とは日本国中はもちろん
     世界万国の風土(ふうど)道案内なり。
     究理学とは天地万物の性質を見て、
     その働きを知る学問なり。

     歴史とは年代記のくわしきものにて
     万国古今の有様を詮索する書物なり。
     
     経済学とは一身一家の世帯より
     天下の世帯を説きたるものなり。

     修身学とは身の行ないを修め、
     人に交わり、
     この世を渡るべき
     天然の道理を述べたるものなり。

     これらの学問をするに、
     いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、
     たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、
     あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、
     一科一学も実事を押え、
     その事につきその物に従い、
     近く物事の道理を求めて
     今日の用を達すべきなり。

     右は人間普通の実学にて、
     人たる者は貴賤上下の区別なく、
     みなことごとくたしなむべき心得なれば、
     この心得ありて後に、
     士農工商おのおのその分を尽くし、
     銘々の家業を営み、
     身も独立し、家も独立し、
     天下国家も独立すべきなり。」


    要するに、不要不急の和歌や古文よりも先に、まずは実学として生活に必要なことを、共通の文化土壌として、しっかりと誰もが身につける。
    そこが肝心で、これによって人も国家も自立していくことができるのだ、というわけです。
    なぜ自立が必要かといえば、我々自身が自由に生きるためです。
    そして「自由であるところに天命が生じる」のです。

    「学問をするには分限を知ること肝要なり。
     人の天然生まれつきは、
     繋(つながれ)ず縛られず、
     一人前いちにんまえの男は男、
     一人前の女は女にて自由自在なる者なれども、
     ただ自由自在とのみ唱えて
     分限(ぶんげん)を知らざれば
     わがまま放蕩に陥ること多し。

     すなわちその分限とは、
     天の道理に基づき
     人の情に従い、
     他人の妨げをなさずして
     わが一身の自由を達することなり。

     自由とわがままとの界(さかい)は、
     他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。
     譬(たとえ)ば自分の金銀を費やしてなすことなれば、
     たとい酒色に耽(ふけ)り
     放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、
     けっして然しからず、
     一人の放蕩は諸人の手本となり、
     ついに世間の風俗を乱りて
     人の教えに妨げをなすがゆえに、
     その費やすところの金銀は
     その人のものたりとも、
     その罪許すべからず。

     また自由独立のことは
     人の一身にあるのみならず、
     一国の上にもあることなり。

     わが日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて、
     古来外国と交わりを結ばず、
     ひとり自国の産物のみを衣食して
     不足と思いしこともなかりしが、
     嘉永年中アメリカ人渡来せしより
     外国交易こうえきのこと始まり、
     今日の有様に及びしことにて、
     開港の後もいろいろと議論多く、
     鎖国攘夷(じょうい)などと
     やかましく言いし者もありしかども、
     その見るところはなはだ狭く、
     諺(ことわざ)に言う
     「井の底の蛙かわず」にて、
     その議論とるに足らず。

     日本とても
     西洋諸国とても
     同じ天地の間にありて、
     同じ日輪に照らされ、
     同じ月を眺め、
     海をともにし、
     空気をともにし、
     情合い相同じき人民なれば、
     ここに余るものは彼に渡し、
     彼に余るものは我に取り、
     互いに相教え互いに相学び、
     恥ずることもなく誇ることもなく、
     互いに便利を達し
     互いにその幸いを祈り、
     天理人道に従いて
     互いの交わりを結び、
     理のためにはアフリカの黒奴(こくど)にも恐れ入り、
     道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず、
     国の恥辱とありては
     日本国中の人民
     一人も残らず
     命を棄(すて)て国の威光を落とさざるこそ、
     一国の自由独立と申すべきなり。

     しかるをChineseなどのごとく、
     わが国よりほかに国なきごとく、
     外国の人を見ればひとくちに
     夷狄(いてき)夷狄と唱え、
     四足にてあるく畜類のように
     これを賤(いやしめ)これを嫌(きら)い、
     自国の力をも計らずして
     みだりに外国人を追い払わんとし、
     かえってその夷狄に窘(くるしめ)らるるなどの始末は、
     実に国の分限を知らず、
     一人の身の上にて言えば
     天然の自由を達せずして
     わがまま放蕩に陥る者と言うべし。」


    Chineseを引き合いにだしています。本当に彼らは今も昔も変わらない。
    彼らの根底にあるのは「自分のため」です。
    福沢諭吉が説くことは、「みんなのため」です。
    ジャスティス(正義・Justice)」とは、みんなのために良いことのことを言います。
    そうであれば、ジャスティスの反対にある悪とは、「自分のため」です。
    天命は自分のためには生じません。


    「王制一度ひとたび新たなりしより以来、
     わが日本の政風大いに改まり、
     外は万国の公法をもって外国に交わり、
     内は人民に自由独立の趣旨を示し、
     すでに平民へ苗字(みょうじ)乗馬を許せしがごときは
     開闢(かいびゃく)以来の一美事(びじ)、
     士農工商四民の位を一様にするの基(もとい)
     ここに定まりたりと言うべきなり。

     されば今より後は
     日本国中の人民に、
     生まれながらその身につきたる
     位などと申すはまずなき姿にて、
     ただその人の才徳と
     その居処(きょしょ)とによりて
     位もあるものなり。

     たとえば政府の官吏を
     粗略にせざるは当然のことなれども、
     こはその人の身の貴きにあらず、
     その人の才徳をもって
     その役儀を勤め、
     国民のために
     貴き国法を取り扱うがゆえに
     これを貴ぶのみ。

     人の貴きにあらず、
     国法の貴きなり。

     旧幕府の時代、
     東海道にお茶壺の通行せしは、
     みな人の知るところなり。
     そのほか御用の鷹(たか)は人よりも貴く、
     御用の馬には往来の旅人も路を避くる等、
     すべて御用の二字を付くれば、
     石にても瓦(かわら)にても
     恐ろしく貴きもののように見え、
     世の中の人も数千百年の古(いにしえ)より
     これを嫌いながら
     また自然にその仕来(しきたり)に慣れ、
     上下互いに
     見苦しき風俗を成せしことなれども、
     畢竟(ひっきょう)これらはみな
     法の貴きにもあらず、
     品物の貴きにもあらず、
     ただいたずらに政府の威光を張り
     人を畏(おどし)て
     人の自由を妨げんとする
     卑怯なる仕方にて、
     実なき虚威というものなり。」


    現代日本はダメ、明治大正昭和もダメ、江戸日本こそが理想の国家であるというようなことを言う人がいますが、そうでもない。
    実は江戸時代には「御用」といえば、馬や壺の前に土下座しなければならないような不都合もあったし、人々に不満もあったわけです。
    いつの時代にも、良い面、悪い面があります。
    それぞれの時代の良いところと、今の良いところを組み合わせて、さらにもっとよい国をつくる、よい時代を築いて未来をひらくのです。
    政治はそのためにあります。
    他の政治家や政党の悪口を言うためにあるのではありません。

    「今日に至りては
     もはや全日本国内に
     かかる浅ましき制度、風俗は
     絶えてなきはずなれば、
     人々安心いたし、
     かりそめにも政府に対して
     不平をいだくことあらば、
     これを包みかくして暗に上(かみ)を怨うらむることなく、
     その路を求め、
     その筋により
     静かにこれを訴えて
     遠慮なく議論すべし。

     天理人情にさえ叶うことならば、
     一命をも抛(なげうち)て争うべきなり。
     これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。

     前条に言えるとおり、
     人の一身も一国も、
     天の道理に基づきて
     不覊(ふき)自由なるものなれば、
     もしこの一国の自由を妨げんとする者あらば
     世界万国を敵とするも恐るるに足らず、
     この一身の自由を妨げんとする者あらば
     政府の官吏も憚(はばかる)に足らず。

     ましてこのごろは
     四民同等の基本も立ちしことなれば、
     いずれも安心いたし、
     ただ天理に従いて
     存分に事をなすべしとは申しながら、
     およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、
     またその身分に従い
     相応の才徳なかるべからず。

     身に才徳を備えんとするには
     物事の理を知らざるべからず。
     物事の理を知らんとするには
     字を学ばざるべからず。
     これすなわち学問の急務なるわけなり。」


    福澤諭吉は江戸時代の武士の生まれの人です。
    江戸時代の武士にとって、交渉事は、常に命がけです。
    武士は腰に大小二本の刀を差しますが、重大な責任を担って交渉に及ぶとき、万一、相手がそれに従わない時は、その場で相手を斬って捨て、自分もその場で腹を切る。
    それだけの覚悟を前提として、日常の行動や交渉事が行われていました。
    ですから、交渉に行って、ダメでしたと、すごすごと引き上げてくるような者は「腰抜け」とされ、場合によっては「お上の権威を汚す者」として、武士の身分を剥奪されたりもしました。

    明治に入って四民平等となり、諭吉の言うように「静かに訴えて遠慮なく議論」する時代となることで、日本人の交渉事は、必ずしも命がけというものでなくなりました。
    近年ではKoreaの「ケンチャナヨ」同然に、ほぼほぼ適当であることで十分とするような姿勢さえも常態化しているようです。
    これは見方によっては日本人が「腰抜け」になったということです。

    なぜ「命がけ」が大事なのかといえば、行動は常に「天の道理に基づく」という強い理念と意思がそこに存在したからです。
    これを「天命」と言います。

    学問は、日常の生活に必要なソロバンや文章の書き方といった基礎的なものから出発し、「天明」を悟り、「天命」をまっとうするためにあります。

    「昨今の有様を見るに、
     農工商の三民は
     その身分以前に百倍し、
     やがて士族と肩を並ぶるの勢いに至り、
     今日にても三民のうちに人物あれば
     政府の上に採用せらるべき道
     すでに開けたることなれば、
     よくその身分を顧み、
     わが身分を重きものと思い、
     卑劣の所行あるべからず。」


    「卑劣」というのは、することが正々堂々としておらず、いやしくきたならしいことを言います。
    一言で言えば「無責任」です。
    自分からレーダー照射をしておいて、していなかったと嘘を言う。
    泥棒をして「泥棒!」と言われたら、「お前が泥棒だ」と言い返せと彼の国のことわざがあるそうですが、嘘つきというのは、責任感の欠如を意味します。
    人の上に立つということは、責任を持つということです。
    その「責任」を「身分」だと履き違える。
    そのようなたぐいの人のことを「恥知らず」といいます。

    「およそ世の中に
     無知文盲の民ほど
     憐(あわれ)むべく
     また悪(にくむ)べきものはあらず。

     智恵なきの極(きわ)みは
     恥を知らざるに至り、
     己(おの)が無智をもって
     貧窮に陥り飢寒に迫るときは、
     己が身を罪せずして
     みだりに傍(かたわら)の富める人を怨み、
     はなはだしきは徒党を結び
     強訴(ごうそ)一揆(いっき)などとて
     乱暴に及ぶことあり。

     恥を知らざるとや言わん、
     法を恐れずとや言わん。

     天下の法度(ほうど)を頼みて
     その身の安全を保ち、
     その家の渡世をいたしながら、
     その頼むところのみを頼みて、
     己が私欲のためにはまたこれを破る、
     前後不都合の次第ならずや。

     あるいはたまたま身本(みもと)慥(たしか)にして
     相応の身代ある者も、
     金銭を貯(たくわ)うることを知りて
     子孫を教うることを知らず。

     教えざる子孫なれば
     その愚なるもまた怪しむに足らず。
     ついには遊惰放蕩に流れ、
     先祖の家督をも
     一朝の煙となす者少なからず。

     かかる愚民を支配するには
     とても道理をもって諭(さとす)べき方便なければ、
     ただ威をもって畏(おどす)のみ。

     西洋の諺ことわざに
     「愚民の上に苛(から)き政府あり」
     とはこのことなり。

     こは政府の苛きにあらず、
     愚民のみずから招く災(わざわい)なり。
     愚民の上に苛き政府あれば、
     良民の上には良き政府あるの理なり。

     ゆえに今わが日本国においても
     この人民ありてこの政治あるなり。
     仮りに人民の徳義
     今日よりも衰えて
     なお無学文盲に沈むことあらば、
     政府の法も今一段厳重になるべく、
     もしまた人民みな学問に志して、
     物事の理を知り、
     文明の風に赴(おもむ)くことあらば、
     政府の法も
     なおまた寛仁大度の場合に及ぶべし。

     法の苛(から)きと寛(ゆる)やかなるとは、
     ただ人民の徳不徳によりて
     おのずから加減あるのみ。

     人誰か苛政を好みて
     良政を悪にくむ者あらん、
     誰か本国の富強を祈らざる者あらん、
     誰か外国の侮りを甘んずる者あらん、
     これすなわち人たる者の常の情なり。

     今の世に生まれ
     報国の心あらん者は、
     必ずしも身を苦しめ
     思いを焦がすほどの心配あるにあらず。

     ただその大切なる目当ては、
     この人情に基づきて
     まず一身の行ないを正し、
     厚く学に志し、
     博(ひろ)く事を知り、
     銘々の身分に相応すべきほどの
     智徳を備えて、
     政府はその政(まつりごと)を施すに易(やす)く、
     諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、
     互いにその所を得て
     ともに全国の太平を護らんとするの一事のみ。

     今余輩の勧むる学問も
     もっぱらこの一事をもって趣旨とせり。」


    要するに福沢諭吉の勧める学問というものは、「天命を得る」ことに尽きるというこであろうかと思います。
    「天命」は「天の道理」であり、これを外れる者が「愚民」です。
    民衆が愚民に堕ちるならば、政府は圧政をもって人々を弾圧するしかないし、政府が愚かな政府であれば、その愚かな政府は領民を苦しめます。

    「天の道理」というのは、あらゆる価値判断の基準となるものです。
    その基準となる価値観をしっかりと学ぶ。
    そのためにこそ学問はある、ということです。

    ですから、和歌や古文を学ぶということは、たとえば和歌であれば、その「テニヲハ」のテクニックを学ぶことが和歌を学ぶことでもなければ、和歌をたしなむことでもありませんし、物知り顔に、もっともらしい難解な言葉を羅列したり暗唱したりするこことでもありません。
    私が百人一首の和歌や古事記をご紹介しているのも、そこに取り戻すべき日本の形があり、その形は皇国臣民として不可欠のものであると確信するからです。

    何事も、目的をはじめるのでなければ意味がありません。
    ただ古事記を学びたい、和歌を学びたいのなら、他をあたって下さいと申し上げます。

    その目的とは、実学としての「天の道理を身につける」ことです。
    学問が、ただ知識の丸暗記や、むつかしいことをただ「知っている」というだけのものに堕ちるのなら、それは愚民のなせる技にしかならないのです。
    大切なことは、それらを通じて「何を学び、どう活かすか」です。

    愚民の上の苛(から)き政府は、実は政府が苛いのではない。
    それは愚民がみずから招く災(わざわい)です。
    愚民の上に苛き政府があるならば、
    良民の上には良き政府ができるのです。

    たいせつなことは「民衆の覚醒」です。
    「民衆の覚醒」とは、民衆が「天の道理」をわきまえることです。
    そのために必要なものが、「問い、学ぶこと」、つまり「学問」です。


    ※この記事は2019年2月の記事の解説を大幅にリニューアルしたものです。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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