コンゴが動乱を終え、ほんとうの意味での平和を取り戻すためには、何が必要でしょうか。おそらく、誰もが口を揃えて、「それは、コンゴの人たち自身が努力するしかない」とお答えになるものと思います。 ならば、その言葉は、そのまま日本にもあてはまるのではないでしょうか。
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日本を豊かに 小名木善行です。
!!最新刊!! このお話を最初にねずブロに書いたのは2013年5月のことです。
以来、毎年1回はこのお話を掲載しています。
なぜなら、自分たちの手で国を守ることの大切さが、世界史の中でコンゴを学ぶことで明らかになるからです。
米国の今後は、なるほどこれからの日本に多大な影響を与えることと思います。
けれど、他人の影響ばかりを気にしていても仕方がないのです。
大切なことは、「自分がどう生きるか」です。
それが国家であれば、「自分たちが自分たちの国をどうしていかなければならないのか」です。
中東からアフリカ一帯の諸国は、あまり日本人にはなじみがないところかもしれません。
けれど、これまでヨーロッパ諸国がそれら地域に介入し、現地でどのようなことがあったのか。
それを知る意味で、1996以降のわずか19年で、600万人が亡くなったコンゴは、そのひとつの典型といえるところかもしれません。
「ザイール」という国名を聞いたことがある方も多いかと思います。
昭和46(1971)年にルワンダの支援を受けたコンゴの反政府勢力が打ち立てた国で、その後も内乱と戦闘が相次ぎ、平成9(1997)年5月に、再び国名が「コンゴ」になりました。
コンゴは実は、15世紀の終わり頃まで、この国はコンゴ王国として、王制のもとに各部族が統一され、近隣諸国とさかんな交易も行われる、平和でたいへんに栄えた国だったのです。
それがなぜ、いまだに内乱の中にあるのか。
実はそこに植民地支配の恐ろしさがあります。
***
はじめにコンゴに、西洋人たちやってきたのは、1482年のことです。
ポルトガル人がやってきました。
同じ時期、少し遅れて日本にもポルトガル人がやってきました。
「鉄砲伝来」で、1543年(1542年という説もあり)のことです。
コンゴにポルトガル人がやってきた、わずか60年後です。
コンゴは、ポルトガル人がやってきた2年後の1485年、コンゴ王国とポルトガル王国との間で国交を結びました。
この国交条約は、双方の国が「対等な関係」にたつという内容のものでした。
ともに五分と五分のお付き合いです。
ただし、一点条件がありました。
それが、コンゴが、ポルトガル宣教師によるキリスト教の布教を認める、ということでした。
宗教は、人々を幸せに導く教えです。(*1)
よろこんでコンゴはこれを承諾しました。
そして1491年には、ローマから宣教師が派遣されてきました。
コンゴ国王のジンガ・クウは、自から進んでカトリックに改宗し、さらに自分の息子で王子のジンガ・ムペンパを、ポルトガルに留学させました。
(*1) 宗教は人を導く教えです。これに対して神道は人が目指すところへとたどり着く道です。受験生に例えれば「合格までの道」と、「合格のための様々な教え」の関係になります。
ムペンパは、ポルトガルにいて学問を修め、1506年に父親の後を継いでコンゴ国王に即位しました。
そして彼は、積極的なコンゴの欧化政策を採りました。
さらに、多くのポルトガル人を受け入れ、コンゴの近代化に励みました。
と、ここまでは、悪くない話です。
しかし、侵食は静かに始まっていました。
コンゴの欧化政策のかたわらで、コンゴ国内にポルトガルの奴隷商人たちが、大量に入り込み出していたのです。
***
奴隷商人たちにとって、人身売買の元手は、そこらへんで捕まえてきたコンゴ人(黒人)です。
多少の経費はかかりますが、元手はタダです。
そして奴隷は高値で売れました。
いまで言ったら、クルマを買うような感覚と考えるとわかりやすいです。
元手がタダの新車が、飛ぶように売れる。
ですから奴隷商人達は、またたく間にたいへんな金持ちとなりました。(*2)
そしてコンゴの国政を平然と壟断(ろうだん)しはじめたのです。
コンゴは、もともと貿易立国していた商業国でした。
それだけに、欧州経済をいち早く受け入れることができるだけの土壌も育っていたのです。
けれど、コンゴ人がコンゴで行う商売と、外国人がコンゴで行う商売は、その本質がまるで異なりました。
コンゴは歴史ある王国です。
ですからコンゴ王国の民衆も、自然の愛国心や、愛郷心が育まれていました。
ところが、外国人であるポルトガル商人たちには、そうしたコンゴへの愛国心も愛郷心もありません。
あるのは私的な欲得だけです。
そして富を得た彼らは、あらゆる方法を使って自分たちの行いを正当化するために政治や経済を壟断するようになりました。
こうして気がつけば、コンゴ国内は、ポルトガル人の奴隷商人たちと、その下請けとなったコンゴ人達が、社会的、経済的、政治的に、最大の影響力を持つようになっていったのです。
(*2) 昔も今も、タダ同然で仕入れたものが高値で売れるという構造は同じです。かつてのそれは黒人奴隷であったし、半世紀前ですと麻薬、いまは幼児です。そしてこのような犯罪もしくは犯罪と隣り合わせで富を得たものたちは、決まって政治を壟断することで正義を破壊し、利権を確立してきたのが世界の歴史です。日本がそうはならなかったのは、天皇という伝統的権威が、利権や政治権力よりも常に上位にあり続けたことによります。
事態を憂慮したコンゴ国王は、ポルトガル王に対し、奴隷貿易を止めるようにとの書簡を送りました。
けれど、ポルトガルは、コンゴ政府ではありません。
コンゴ国内の治安維持に責任を持っているわけでもありません。
ポルトガルにとっては、ポルトガルが潤うことが第一なのであって、コンゴは貿易の相手国でしかありません。
あたりまえのことですが、ポルトガルは、ポルトガルの都合で動くのです。
ですから当然のように、コンゴ国王の書簡は無視されました。
そして本国政府が黙認することに自信を深めたポルトガルの奴隷商人たちは、ますますコンゴにおける奴隷貿易を盛んにしていきました。
こうしてついには、コンゴがアフリカにおける最大の奴隷貿易の中心地となってしまうのです。
コンゴの民衆は怒りました。
当然です。
ある日突然、家族が、子供達が白人達に追いかけ回されて網ですくわれ、拉致され、奴隷、つまりモノとして勝手に売買されてしまうのです。
それでもコンゴ人達は、敬愛する国王を信じ、事態が必ず解決し、いつか拉致された人々も国に戻れる日が来ると信じました。(いまのどこかの国とよく似ていますね。)
そして、そんな日が来ないまま、コンゴ国王が永眠してしまうのです(毒殺されたという話もあります)。
国王が亡くなったとき、コンゴの民衆は、ついに暴発しました。
民衆は反乱し、暴動が相次ぎました。
ところがその頃のコンゴには、もはや民衆の暴動を鎮圧できるだけの力が残っていませんでした。
博愛主義を説くキリスト教によって、コンゴ国王の武力は否定され、コンゴ国軍は、ほとんど解体状態となっていたのです。
しかも適齢期の若者達は、男女を問わず奴隷狩りにあって、その多くが連れ去られています。
それでも、コンゴ国王は、なんとか暴動を鎮圧しようとしました。
国内の平和と安定は、国王としての使命だからです。
そんなところに起きたのが、1568年のジャガ族の襲来です。
これもまた、「やらせ」だったという話があります。
ジャガ族という無法者集団が、コンゴ国内に攻め込んで、一部の奴隷商人を襲撃し、さらにキリスト教施設を破壊するという事件が起こりました。
コンゴ国王は、やむなくこの鎮圧のために、同盟国であるポルトガルに、鎮圧のための軍事支援を要請しました。
すでにコンゴ王単独で武装集団を退治するだけの国力が、コンゴ王室になかったからです。
要請を受けたポルトガル軍は、またたく間に、ジャガ族を鎮圧しました。
これはあまりにもあっけなく、簡単に鎮圧されています。(ますますにおいますね)
けれど、事態はそれだけに終わりませんでした。
すでに国軍が衰退していることを知り、かつポルトガルの正規軍をコンゴに送り込むことに成功したポルトガルは、ここにきて、コンゴ王国との関係を、対等な関係から、主従関係へと変更することを要求してきたのです。
圧倒的な軍事力を持ったポルトガル、しかもその軍事力が、すでに国内に基地を持っている。
この情況では、武力のないコンゴ王は従わざるを得ません。
こうしてコンゴは、ポルトガルの従属国となりました。
属国となっても、コンゴ王国は、細々と存続し続けました。
けれどそれは国として存続したというよりも、国王を名乗る家がコンゴ地方内に存続していた、というだけの情況です。(*3)
(*3) どこかの国と同じです。○○国政府を名乗る機構がその国にあるというだけで、重要なことは毎週水曜日の○○合同会議ですべて決められる・・・。
コンゴは荒れ、ほとんど無政府状態となりました。
街では、武装した奴隷商人達が王侯貴族のような暮らしをし、コンゴの民衆はひたすら彼らにおびえながら、極貧生活を余儀なくされる状態となったのです。
***
こうして300年が経ちました。
情況に変化が起きたのは、1885年です。
ベルリン会議の決定によって、ベルギーが、コンゴの新たな支配者となったのです。
ベルギー国王のレオポルド2世は、コンゴを「コンゴ独立国」とし、自身でコンゴの元首となり、コンゴを自由貿易の国としました。
ただし、形は自由貿易の独立国であっても、コンゴは、土地も人も一切合切、レオポルド2世の私有物です。
ですから、ベルギー領となったコンゴの政府は、コンゴにはありません。
コンゴ政府は、ベルギーのブリュッセルに置かれました。
レオポルド2世も、コンゴへは足を運んでいません。
コンゴへは、総督が派遣されました。
実際には私有地、私有財産にすぎないのに、カタチだけは独立国です。
ですから英国人達は、これを揶揄して、コンゴのことを「Congo Free State(コンゴ自由国)」と冷笑しました。(*4)
(*4) いまでも当時のコンゴのことを「コンゴ自由国」と呼ぶ学者がいますが、酷いことです。
コンゴを私物化したベルギー国王は、1830年にオランダ(ネーデルラント)から独立したばかりでした。
その親元の国であるオランダは、世界中に圧倒的な植民地を持ち、巨富を得ていました。
ですからベルギーからコンゴに派遣された総督の任務は、ベルギー初の植民地(私有地)であるコンゴから、一日もはやく経済的利益をあげる必要がありました。
しかしこの頃には、奴隷貿易はすでに下火になっていました。(*5)
(*5) 富を生む仕組みは時代とともに変わります。16世紀には奴隷、19世紀からは麻薬、そして21世紀となった今日では、幼児といわれています。幼児は幼児そのものへの性愛と、幼児から採れるアドレノクロムとよばれる若返りの妙薬(アドレナリンの一種で、一時的な抗老作用がある)へと変化しています。
ベルギー王室は、なんとかしてコンゴに産業を確立させようとしました。
長い間、コンゴは奴隷以外に主たる産業も産物も育てられていなかったために、コンゴのインフラ整備は、たいへんに費用のかさむものでした。
それでもベルギー王室は、コンゴの民衆が豊かになる道を選択しようとしていたのです。
ところが、その頃から事情に変化があらわれました。
英国で、1887年に、自転車用のゴムタイヤが発明されたのです。
これはたいへんな技術革新でした。
そしてその技術が自動車のタイヤにも応用されるようになったのです。
こうなると、ゴムの需要がうなぎ上りです。
そしてゴムの木は、他に産業らしい産業のないコンゴの、国中のいたるところに、自生していました。
コンゴにやってきていたベルギー人達は、ゴムの採取に目を付けました。
そしてコンゴ人達を使って、徹底的にゴムの採取を行ないました。
おかげで、コンゴのゴムの生産高は、20世紀のはじめには、世界全体の生産高のほぼ10%を占めるに至りました。
ベルギーは、コンゴ産ゴムによって、経済的にたいへんに潤うことになりました。
苦労してコンゴの再生を願ったベルギー王が喜んだことは、いうまでもありません。
ところが、そうした生産高を上げるために、現地で何が行われていたのか。
そのために何が行われたか。
ゴムの採取を強制するために、コンゴ人の女子供を人質にとって、コンゴの男たちを働かせました。
仕事を効率よく進めるための鞭打ちでコンゴ人労働者を死に至らしめ、さらにノルマを達成できないと、人質にとってある女子供らの右手を、見せしめとして切断するという罰を与えていたのです。
手を切られたコンゴ人
マーク・トウェイン「レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護」p.40

ここまでくると、コンゴ人達も黙っていません。
中には集団で徒党を組んで反乱を組織するコンゴ人も出てきました。
そこで反乱ゲリラを鎮圧するために、周辺に住む未開の部族達を徴用して、コンゴ国内に「公安軍」が組織されました。
この「少数民族を武装させ、利用して、現地の人々を統治する」という手法は、植民地支配では、ごく一般的に行われてきた統治手法です。(日本でも戦後行われましたね)
未開の蛮族達による徴用兵たちは、白人以上に恐ろしい残忍さを発揮しました。
徴用兵たちの任務は、ゴム採集のノルマの達成管理だったのですが、その中には、未達者に対する手首斬り落しの強制執行も含まれていました。
徴用兵達の給料も、利益に基づく歩合性でした。
そのうち、蛮族たちが任務を果たしている証拠として、懲罰のために切り落とした手首の数によって昇級や賞与の額が決められるようになりました。
すると村人たちは、この取立から逃れるために、他の村人たちを大量殺人して、手首を集めてくるようになりました。
こうして手首は、それ自体が価値を帯びるようになり、一種の通貨になっていきました。
***
コンゴが、ベルギー領コンゴとなったのは1885年のことです。
そしてコンゴが、ようやく独立を果たしたのは、昭和35(1960)年のことです。
その間、わずか75年の間に、コンゴで虐殺された人の数は、1000万〜1600万人であったといわれています。
コンゴが独立したときの人口が1400万人であったことを考えると、これは恐ろしい数です。
しかし、せっかくのコンゴの独立も、独立からわずか1週間で、内乱とベルギー軍の介入によって崩壊してしまいました。
こうして始まったのが「コンゴ動乱」です。
「コンゴ動乱」は、民主化を促進しようとするムルンバ大統領派と、ソ連やキューバに後押しされたコンゴ国軍が対立するという構図となりました。
さらに国内を二分しての民族紛争がこれに重なり、コンゴはこの後約5年間、動乱に継ぐ動乱の時代となり、いまなおコンゴは戦場の中にあります。
今年は2021年です。
自主自存の国家だったコンゴの崩壊の引き金となったのは、1568年のジャガ族の襲来事件でした。
この事件のときに、コンゴが自前の防衛力を保持していたら、つまり強力な軍隊を自前で保持していたら、おそらくジャガ族の襲来もなかったし、ポルトガルに援軍を要請する必要もなかったし、結果としてポルトガルの従属国となることもありませんでした。
それどころか、奴隷商人たちの跋扈そのものを、自前の強力な軍隊の出動によって防ぐことができたかもしれません。
***
「そのとき軍隊が弱かった」
たったそれだけのことで、コンゴは国を崩落させ、それからいまにいるまで453年、いまだに内乱と戦火の中にコンゴはあります。
大事なことは、どんなにご立派な講釈を垂れたとしても、力なき正義は正義になれない。
それどころか多くの国民の不幸を招く、ということです。
そもそも国家とは、領域、国民、武力の三要素によって形成されるのです。
領域内の国民を守る力があってこその国家なのです。
そしてそれが現実です。
現実に日本は、どんなに立派な法的根拠、歴史的根拠を並べ立てたとしても、武力を背景にした他国による領土の占有の前に、なにもできていません。
国民を拉致されても、政府には何もでません。
自衛隊はあります。
はっきりいって、強いです。
けれど専守防衛をうたう以上、他国は日本に対していかなる不条理を押し付けたとしても、その国が日本から攻められる可能性は皆無なのです。
武道の有段者なのに、いくらヤクザ者にカツアゲされても「絶対に抵抗しません」とヤクザ者に約束しているのが、戦後の日本政府です。
それどころか「暴力だけはふるわないで」と、欲しいだけカネを出してくれるお金持ちで腰抜けのボンボンを演じています。
日本国憲法に、「平和を愛する諸国民の公正と信義」と前文にありますが、公正な国ってどこでしょう?信義ある国とは、どこの国を指すのでしょう?
日本が平和を愛し、公正と信義のある国となるためには、日本が強くなければなりません。
でなければ、日本は4百年前のコンゴになってしまう。
日本にも16世紀にポルトガル人が来日し、鉄砲などが伝えられました。
けれど日本は、鉄砲をまたたく間に国内に普及させ、秀吉の時代には、日本は全世界の鉄砲保有数の約半数を持つという、すさまじい大国となっています。
けれど、鉄砲に使う火薬の原料となる「硝石」は、日本で産出しません。
あたりまえのことですが、火薬がなければ鉄砲はただの鉄パイプです。
ですから、日本の戦国大名たちは、こぞってポルトガル人達から火薬を買いました。
代金は、火薬一樽につき、日本人の若い女性50人が相場です。(徳富蘇峰、近世日本国民史)
日本女性が奴隷に売られたのです。
日本でも、コンゴで起きたことに近いことが、現実にあったわけです。
けれど日本がコンゴのように、ポルトガルの属国とならずに済んだのは、彼らの鉄砲という兵器を駆使する戦いに学び、これを吸収して自前の鉄砲隊を組成してしまったこと、それにより、日本がポルトガルを圧倒する強力な軍事力を備えたこと、さらに秀吉が奴隷売買とキリスト教を禁じ、日本人女性が奴隷として国外流出することを阻止することができたからにほかなりません。
幕末動乱も同じです。
日本は、外国からの圧力に対し、これを学び、吸収して、その外国以上に強靭な国家を築き上げました。
なるほど幕末に日本は外国との間に不平等な条約を締結しました。
けれど明治44年に、日本は完全に外国との関係を対等なものに修復しています。
それは、幕末の志士達が夢見た坂の上の雲に到達した瞬間でした。
もし、日本が過去においてそういう努力をしてこなかったら。
もしかすると日本人もコンゴと同様に奴隷に売られ、女性たちは旦那のために手首を斬り落され、通貨は日本円ではなく、日本人の手首になっていたかもしれません。
銭形平次の投げるのが寛永通宝ではなく、紐でつないだ手首だなんて、想像もしたくないですよね。
大切なことは、自立自存です。
支配されるということは、いかなる場合においても、幸せになれることはない、ということです。
もちろん例外はあります。
それは日本がかつて統治した国々です。
どの国もすべて発展し、なかには歴史上初と言って良い平和な時代を迎えた国もありました。
けれど、日本がそうしてきたからといって、他国も同じようにするなどということは、金輪際ないし、上に述べたコンゴのように、他国の支配を受けることは、これ以上ないといって良いくらいの国民の不幸を招くのが、世界の歴史です。
日本が、独立した国家でいられたのも、いま、私たちが平和に暮らして行けるのも、私たちの父祖、祖先が、それこそたゆまぬ努力を重ねてきたからに他なりません。
その努力を、あらためて続けて行きたい、と思うのです。
冒頭に書きましたが、コンゴは1996年以降の動乱で、この27年の間に600万人がなくなっています。
コンゴは資源国ですが、その資源をめぐって、それだけの争いと殺戮が起きているのです。
コンゴは、ゴムの採取からはじまって、いまではコバルトなど、電子機器に必要なレアメタルが大量に採れる地域となっています。
この資源を狙う西欧諸国の利害が、コンゴの国内と周辺国の事情を複雑にし、それが原因で、いまだ内乱が絶えないのです。
第二次世界大戦の頃、まだ中東には石油が発見されていませんでした。
それが発見され、中東は諸外国の利害が対立する地域となり、結果、紛争地帯となっています。
そして地球最後の石油埋蔵地帯として、いま、東と南シナ海が注目されています。
日本は、コンゴのようになるのでしょうか。
コンゴが動乱を終え、ほんとうの意味での平和を取り戻すためには、何が必要でしょうか。
おそらく、誰もが口を揃えて、「それは、コンゴの人たち自身が努力するしかない」とお答えになるものと思います。
ならば、その言葉は、そのまま日本にもあてはまるのではないでしょうか。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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