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海軍用ペクサン砲、フランス国立海軍博物館

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日本を豊かに 小名木善行です。
!!最新刊!! ペリー来航といえば、幕末の黒船来航として、みなさまご承知おきのことと思います。
太平の眠りを覚ます上喜撰
たった四杯で夜も眠れず
の狂歌は、学校の教科書でも紹介され、みなさまご存知のことです。
黒船が来て、幕府から江戸の市民まで大騒ぎになったことを茶化して詠んだ歌ですが、この狂歌が紹介されるときは、必ず同時に、
「当時の日本は遅れた国で、
そこに黒船という強大な文明がやってきたから
日本人は周章狼狽し。
幕府もみっともなく慌てふためいた」
と耳打ちされるわけです。
何も知らない生徒や視聴者たちは、それでコロリと騙される、というわけです。
けれど、
1 ペリーが黒船でやってきたこと、
2 日本中が大騒ぎになったこと
は事実(史実)ですが、この「」の中の台詞は、ただの解釈であり、意図的に事実を捻じ曲げたものであり、極めて思想的な煽動性を持つ刷り込みです。
なかには(どの本かは忘れましたが)、吉田松蔭が黒船に乗り込もうとしたシーンで、松蔭が、
「私は、なぜあのような鉄の船が海に浮くのかを知りたいのだ。
彼らの文明とはいかなるものなのか、
是非、自分をあの船に乗せてもらいたい」
と、黒船に乗り込もうとして幕府の官吏によって逮捕されたという描写がありました。
要するに吉田松陰ほどの人物が、「鉄が海に浮くことが信じられない」というのですが、それはおもしろい描写ではあるけれど、ありえないことです。
なぜって、江戸の昔といわず、もっと古い時代から、日本には鉄製のお鍋や、オカマがあったし、鍋もオカマも水に浮くことは、子供でも知る常識であったからです。
それにそもそもペリーの座乗した船は木造艦です。
また、鉄の船というのなら、黒船来航の300年も前に、織田信長が本願寺攻めを行った時に、木造船に鉄板を張った巨大戦艦を建造しています。
蒸気エンジンに驚いたと書いた本もありましたが、蒸気エンジンが外交上どのような影響をもたらすのかとなると、その技術への驚きはあったかもしれないけれど、そうしたエンジンがあるということは、すでにそれ以前に、オランダから日本はちゃんと情報を入手しています。
ですので、そのことが幕府を驚かしたということも、実は、あまり説得力を持たないのです。
では、どうして幕府は、ペリーの黒船に、あれだけ大きな衝撃を受けたのかというと、実は答えは「大砲」にあります。
それまでの船舶の大砲は、砲丸投げに用いるような鉄球を相手に発射するだけのものでした。
ところがペリーの時代に、フランスの砲兵将校のアンリ=ジョセフ・ペクサン(Henri-Joseph Paixhans)という人が、船に取り付けることができる爆裂弾直射砲を考案しました。
そして、この爆裂弾を発射する直射砲が、1849年のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争やクリミア戦争で用いられて、猛烈な戦果をあげていたのです。
爆裂弾を発射するということは、大砲の中に「爆発する砲弾」を仕込むわけです。
大砲は、火薬を爆発させる威力で弾を発射しますが、その大砲の中に爆裂弾があれば、発射と同時に大砲が爆発してしまうのです。
そこで爆裂弾は、爆発する部分の底に装弾筒を取り付けて、大砲内部の爆発の威力が炸裂弾に及ばないようにしています。
ところがこうなると、弾はほぼ垂直に立てた大砲からでなければ発射することができなくなります。
これが臼砲(きゅうほう)と呼ばれる仕組みで、底が臼(うす)みたいになっていて、爆発の威力を受け止めて弾を発車するから臼砲と呼ばれています。
ペクサン砲の砲弾

ところが、海上の戦艦から発射する大砲は、直立砲ではなくて、水平砲です。
海上の戦艦は、揺れる波間から、水平に炸裂弾を発射しなくてはならない。
ですから長い間、戦艦に炸裂弾を発射させることは不可能とされていたのです。
ところがフランスのペクサンという将校が、この問題を解決します。
つまり、戦艦用の爆裂弾直射砲を開発したのです。
これが「ペクサン砲」です。
ペリーはアメリカ海軍を立て直した英雄です。
そのペリーが、アメリカの太平洋で捕鯨の推進のために、日本に強制的に港を開かせるという特命を帯びて、日本に向かうことになりました。
そこでペリーは、当時の世界にあって、もっとも革新的で、もっとも戦闘能力の高いペクサン砲を、軍艦に装備して日本にやってきたのです。
当時の江戸の街の物流は、ことごとく河川や港湾、つまり海や川などの水上ルートを用いています。
(いまのようにトラックや鉄道がないのです。大規模物流に河川が利用されたことは、容易に察すすることができると思います)。
時代劇などを見ますと、江戸の問屋街では、船から大量の荷揚げをしているシーンが描かれています。
そしてこのことは、黒船によって江戸湾(東京湾)が封鎖されると、江戸の市民がたちまち食料不足に陥(おちい)りることを意味します。
ですから幕府は、江戸の海上交通を護る必要があります。
そしてペリーが乗ってくる軍艦が、鉄球を撃ちだすだけの大砲なら、べつに怖くもなんともないのです。
飛んでくるのは、ただの鉄球だからです。
それも、海上2〜3キロ離れたところから飛んできますから、向こうから黒い弾が飛んでくるのが見えます。
飛んできたら避ければよいだけのことです。
家屋などが多少の損害を受けるかもしれませんが、たいした被害にはなりません。
江戸の町はでかいのです。
もちろん、鉄の弾は、当時の船対船の戦いなら、威力を発揮します。
船は穴が空いたら沈没するからです。
けれど、海対陸の戦いでは、たいした効果は発揮しないのです。
ですからそれまでに(つまり江戸時代を通じて)、200回以上も各国の軍艦がやってきては、日本に交易を求めてきましたが、幕府はそれこそ「けんもほろろに」、すべて追い返していますし、やってきた欧米の軍艦側も、なにもできずに、すごすごとひきあげています。
実際、ペリーの8年前に、アメリカの東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀やってきて、幕府に通商条約を求めていますけれど、幕府はいともあっさりと、これを拒絶しています。
いともあっさりです。
力関係が逆なのです。
「文句があるなら船ごと海に沈めるぞ」というだけのことだったのです。
日本には、戦国時代から伝わる大砲が、どの藩にもありました。
幕府も持っていました。
しかも揺れる海上軍艦からの砲撃よりも、揺れない地上からの砲撃の方が狙いが正確です。
ですから、ピッドルの軍艦は、まったく恐るに足らないものだったのです。
ところがペリーの乗ってきた黒船は違いました。
ペクサン砲が積んであったからです。
これに幕府は困りました。
炸裂弾を江戸の町に撃ち込まれたら、江戸は火の海です。
どれだけの命が失われるかわからない。
江戸だけではありません。沿岸部の街道沿いの町や村も大損害を被ります。
なにせ敵は戦艦です。
神出鬼没なのです。
これを「砲艦外交」といいます。
だから幕府は衝撃を受けたのです。
日本は、家康公の時代、世界の総鉄砲保有数の概ね半分を所持する、いわば世界最強の軍事大国でした。
ですから日本は、世界最強の軍事大国として、自らその軍事力を封印し、鎖国していたのです。
ところが江戸270年の泰平の時代の間に、ヨーロッパでは軍事技術がぐんぐん進歩し、ついには戦艦が炸裂弾を発射する時代を迎えていたわけです。
私は浜松で育ちましたが、浜松も先の大戦のときに艦砲射撃で、町が焼け野原になりました。
まさに炸裂弾の艦砲射撃で、街中が灰燼になったのです。
下関に、東行記念館といって、高杉晋作の記念館がありますが、そこには晋作が、炸裂弾と鉄球弾のそれぞれの大砲の構造の違いを書写した紙が展示してあります。
全国の武士たちが、まさにこの炸裂弾のペクサン砲に衝撃を受けたという、これもひとつの証拠です。
当時の日本は「察する文化」の国です。
事件が起こってから対処するのではなく、事件が起きる前に対処するのが「公」の役割とされた国です。
ですから当時の武士たちにとって、ペクサン砲がもたらす被害がどのようなものになるか。
それは簡単に予測がつくことです。
そして予測がついたなら、被害が発生する前に行動をしなければならない。
それが武士の務めです。
そのような武士が、庶民から見たときに、慌てふためいて「たった四杯で夜も眠れず」という狂歌になったくらいの衝撃を受けているのだし、それがペリー来航が特別な出来事になった理由です。
事態が起きてから「たいへんだ、たいへんだ」と騒ぐのではなく、たいへんなことを予測して行動する。いまどきの日本のメディアや政治とは真逆の姿がそこにあります。
そういうことにまったく触れずに、「幕末の武士たちは、鉄の船が海に浮かんでいることに衝撃を受けた」とは・・・なんともおそれいった話です。
現代人こそ、もうすこし勉強すべきといえるのではないでしょうか。
PS:
ちなみに時代がすこし後になりますが、黒船来航のあとに戊辰戦争が起こりました。
このとき、幕府の旗本の若者たちが彰義隊をつくって上野のお山に陣取ったことは有名な話です。
彼らは重たい大砲をお山の上に運びあげ、そこで薩摩と長州の軍勢を待ち受けました。
薩摩と長州の軍がやってきたとき、彼らはお山の下に陣取りました。
彰義隊は上野のお山の上にいます。
官軍がいよいよ攻めてきたとき、彰義隊は大砲を曳き出しました。
そして鉄球の弾を詰め、官軍に撃ち込もうとしました。
敵は坂の下にいます。
よほど緊張したのでしょう。
砲弾を入れた大砲を、下にいる敵兵に向けて発射しようとしてしまったのです。
すると、中に仕込んだ鉄球の砲丸がコロコロと。
慌てた彰義隊員が、その砲丸を追いかけました。
けれど弾の転がる速度の方が速い。
その砲弾を、下にいる官軍の兵士が拾あげると、追ってきた彰義隊員に手渡してくれました。
彰義隊員は丁寧にお辞儀をして、お礼の言葉を述べて弾を受け取ると、またお山の上に戻って行ったのだとか。
笑い話のような話ですが、どれだけ当時の旗本の若者たちがモノを大切にし、礼儀正しく、真面目な人たちだったかということです。
※この記事は2015年2月の記事のリニューアルです。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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