• 日本は天皇の知らす国


    天皇は、国家最高権威であり、国家のいわばオーナーです。
    ですからすべてを「お知りになられる」お立場にあられます。
    すべてを知り、そして国家国民を「おほみたから」とされるのです。
    そして政治は、その下にある、摂政や太政大臣、将軍、内閣総理大臣等が、国家最高の政治権力者となってこれを行う。権力者なのですから、当然、権力に応じた責任性を持つという仕組みです。
    この仕組を古代において構築できた日本は、幸せです。
    なぜなら、この仕組みこそが、民主主義の最高の形であるからです。

    20230326 知らす



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    日本をかっこよく!

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    時代劇に出てくる商家には、店主、番頭、手代(てだい)、丁稚(でっち)が登場します。
    けれど実際には、そうした体制をとっているのは、ある程度の大店(おおだな)の場合で、小さな、いまでいう中小零細の商家の場合は、「家」というカタチをとっていました。

    それがどんなものかというと、まず店主は「親方」などと呼ばれました。
    先輩社員が「兄貴」、
    兄貴たちのうち、リーダー的存在が「若頭(わかがしら)」。
    古参ないし仕事の出来不出来によって社員たちには順位がつけられていて、これらがまとまって「若衆(わかしゅう)」。
    入社間もなくまだ後輩のいない社員は「新入り」と呼ばれました。

    なんだかヤクザの世界みたいですが、そうではなくて、それが世間の一般であったわけです。
    つまり、店主である親方を実の親と同じ存在に見立てて、社員みんなをその「家族」に見立てていたのです。

    日本は、初代神武天皇が大和の国の橿原(かしはら)に都を定めたとき、「六合(くにのうち)を兼ねて、もって都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと、またよからずや」と詔(みことのり)されて出来上がった国です。
    天の下をおおう家となろう、というわけですから、国全体がひとつの家族となろうということです。

    日本は天然の災害が多い国ですから、日頃から食料(お米)を備蓄しておく必要があります。
    そうしなければ災害によって食料が尽きたとき、人命までも尽きてしまうからです。
    そしてそのためには、大規模災害で地域全体が食料不足となったとき、他の地域からお米を融通することができる社会体制が必要になります。

    神武天皇の建国は、まさに地域を超えたお米の融通とその管理を目的として、天の下がひとつの家族のようになって、互いに助け合っていこうと、そのために地方ごとが独立したクニ(昔は各地方のことをクニと言いました)ではなく、その独立したクニ同士がみんな家族となる日本(やまと)の国としたものです。
    初の皇居となった橿原宮も、そのために築かれたものです。
    これは日本書紀に書かれ、少なくとも日本書紀が献上されて以降、1300年にわたって我が国の常識とされたことです。

    これを「八紘一宇(はっこういちう)」といいます。
    GHQにおもねる戦後の学者たちはこれを「日本が海外侵略を正当化する標語」だと決めつけましたが、実は意味がぜんぜん違います。
    諸外国のように、権力者が民間人を平気で虐殺したり、その財産等を奪い、蹂躙してきた歴史からすれば、日本がそのような助け合いを前提とした家族国家を目指してきたということは、GHQのいかなるエリートであったとしても考えもつかなかったことであったのかもしれないし、日本を弱体化させようとするのがGHQの目的であれば、それは「何としてもつぶしたい」日本の形そのものであったのかもしれません。

    すっかりGHQの、そしてその後の日教組教育に染まった戦後の日本人は、すっかり忘れていますが、八紘一宇という国の在り方が、あたかも侵略用語であるかのように曲解するのは、まさに「心が歪めば、周囲のすべてが歪んで見える」という人の性のさもしさを象徴したものといえます。

    さて商店は、どこもそうですけれど、最初に起業した時点では、創業者ひとりの活躍が店を維持します。
    行商をしたり、台所にたったり、それこそ生産活動から、営業活動、帳簿処理にいたるまで、その全てを店主自身がやっていきます。

    店がすこし大きくなると、店員を雇うようになります。
    店員も、規模の小さいうちは、女房であったり、息子さんたちであったりします。
    これを「三ちゃん」経営といいます。
    とうちゃん、かあちゃん、にいちゃん、で三ちゃんです。
    つまり家族で店を営むわけです。

    だんだんお店が大きくなると、他人さまを雇うようになります。
    雇った他人様を、家族として迎え入れるわけですから、店主が親となり、先輩たちが兄(あに)さんとなるわけです。
    肉親としての兄弟には、長男、次男、三男、四男と、生まれた年に従って順番がありますから、これと同じように店員も、同様にも順番が付けられたわけです。

    ときおり、長男、次男よりも、四男坊がとびきりの才能をもった人だったりすることもあります。
    このためお店が大きくなると、兄弟の順番とは別に、番頭、手代、丁稚といった組織上の役割が与えられるようになります。

    番頭さんは、店主に代わって店を切り盛りする、いわば総責任者です。
    人事、総務、経理財務、営業、管理、監査等、お店の経営活動の一切を切り盛りします。
    つまり、いまの会社でいえば、雇われ社長です。

    では店主とは何かというと、社長よりも上位のオーナーといった立場になります。
    番頭さんも、手代さんも、丁稚君も、全部店主によって雇われた者たちです。
    そしてお店も、店主のものです。
    けれど経営の一切は、番頭さんに委ねるわけです。

    これは実におもしろい形です。
    なぜなら店員さんの側から見ると、店員は、社長である番頭さんの私物ではない、という明確な線が引かれることになるからです。
    店員さんたちは、店主に雇われているのであって、番頭さんに雇われているわけではない。
    つまり店員の地位は、日々の命令を下す番頭さんの私物ではない、ということになるわけです。

    しかもその原型は、商家という組織内にあって、番頭さん、手代さん等には、もちろんそれぞれの役割分担があり、責任範囲があるのだけれど、基本的に全員が家族です。
    つまりもともと商家の中に奴隷の存在がありません。
    みんな家族であって、家族の一員であるということは、ひとりひとりが人として尊重されているということです。

    このことを、西洋で生まれた株式会社などと比較してみると、その違いが鮮明になります。
    株式会社は、資本家が株主となり、優秀な社長を雇って商売をやらせ、その利益を株主が不労所得として吸い上げるという仕組みです。

    この場合、株主に雇われた社長にとって、社員はいわば「手駒(てごま)」であって、そこに人格権はありません。
    なぜなら社長は、株主に利益を還元するためだけに存在し、その利益をあげるために社員を利用するからです。
    利用価値がないなら、首を斬る。
    当然のことです。ただの物なのです。
    家族でも身内でもなんでもないのに、利用価値がない社員を手元においていたら、それだけ会社の業績が悪化するだけです。
    悪化すれば、社長は株主から自分の首を斬られます。

    そういう意味で、西洋的株式会社は、「利益を上げる」という(経済)戦争に特化した組織形態であるといえます。
    日本的な家族が支え合い、あるいは近隣の家族(つまり同業他社や顧客、仕入先など)等と互いに助け合って、生きていこうとする組織形態とは、実は根本的に、その存在目的が異なるわけです。

    日本は天然の災害が多い国ですから、自分だけが欲をかくことよりも、みんなで共同して日頃から災害に備え、あるいは災害時には互いに支え合うことを前提とします。
    森で火災や大水が発生したとき、世界中どこでも野生の動物たちが、洞穴などに避難しますが、そのとき、食肉動物も草食動物も、みんな一緒に避難場所に集合することは、よく知られたことです。
    つまり、いざ災害というときには、動物たちであってさえ、相互に助け合い、支え合うのです。
    そして災害が去ったあとには、復興工事が待っています。
    これまた、お金持ちや権力者ひとりでは、どうにもならないことです。
    なぜなら、民間に活力があって、はじめて災害復興が可能になるからです。

    こうした文化は、天然の災害の危険のない(もしくは少ない)欧米には育っていません。
    というよりも、欧米がある程度進んだ文化を持つようになったのは、14世紀の大航海時代以降のことです。
    それまでの西欧は、世界的に見ても文化の遅れた、というより文化の育たない、ただの紛争地帯です。
    殺し合いと収奪ばかりが横行した、文化果てる野蛮地帯にすぎません。

    その刃が、大航海時代以降、有色人種国に向けられるようになり、徹底した裏切りと収奪によって、西欧諸国は富を得るようになりました。
    つまり野蛮だから、富を得たのです。

    チャイナも同じです。
    2〜300年に一度、大規模なペストとバッタの大群が全土を襲い、そのために人口の7〜9割が失われ、混乱の中を、北方の鮮卑族が殴り込みをかけて新たな王朝を築いてきたのがチャイナの歴史です。
    都度人口の7〜9割が失われ、しかも外国人によって、いわば植民地収奪王朝が築かれるわけですから、文化の伝承がありません。
    つまり、王朝ごとに、いわばゼロからスタートしているわけで、しかも悪いことに、新王朝は過去の王朝を全否定しますから、結果として、王朝交代の都度、まるで赤ちゃんが生まれるのと同じで、過去の経験の一切がクリアされてしまいます。
    つまり、文化が育たないのです。

    よくチャイナの時代劇などを観ますと、男性が頭頂部だけを残して髪の毛を剃り、その頭頂部の髪の毛を長く伸ばして編んでいる姿、あるいは、男女ともいわゆるチャイナ服が、あたかもチャイナの独特の文化であるかのように映像化されますが、それらは、満洲あたりを拠点とした女真族の文化であって、漢族の文化ではありません。
    そして新たな王朝によって支配者となった地方長官の類は、地域の生き残った住民からひたすら収奪を行いました。
    そこに助け合いの文化など育ちようがなく、とにもかくにも、生きている間にどれだけ贅沢をするか、どうやって生き残るか、そのためには人の肉さえも売買の対象にするという、ある意味凄みのある文化となっているのが、いまのチャイナです。

    ちなみにそのチャイナ初のペストは、記録にあるだけでも14世紀と17世紀に西洋にまで波及して、ヨーロッパの人口の6割の命を奪っています。
    今回の新型コロナウイルスは、頭痛や39℃程度の発熱、下痢や肺炎を引き起こし、治療しなければ数日で死亡するリスクのある病ですが、実はその症状を持った病気のことを「ペスト」と言います。
    このペストが敗血症を伴って体が黒く変色して死に至るものが黒死病ですが、要するに新型コロナウイルスいう呼称は、ある意味、事実誤認を誘うための用語であって、実はこれは「武漢ペスト」と呼ぶべきものです。
    実際、チャイニーズの影響の少ない西欧国では、そのように呼ばれて警戒が呼びかけられているのだそうです。

    さて、古くからある日本型経営は、店主がいて、店の全ては店員も含めてぜんぶ店主のものだけれど、その店主は(あくまでも大店の場合ですが)、店の切り盛りはしません。
    ただ、店主として君臨しているだけです。
    実際の経営は、店主によって任命された番頭さんが切り盛りしますが、なぜ番頭さんにそれができるかというと、番頭さんの権限は、店主によって認証されているからです。
    つまり、店主の権威によって、番頭さんは権限をふるうことができるわけです。

    その番頭さんは、たとえば気に入らない店員がいたとしても、そうそう簡単に、その店員の首をきることはできません。
    なぜならその店員が、「番頭さん、オレはあんたに雇われているわけじゃないんだよ」と言われれば、番頭さんは二の句が継げない。
    番頭さんが首を斬ろうとするならば、店主をはじめ、周囲のみんなに、充分にそれを納得させなければなりません。

    また、店員さんたちは、もちろん番頭さんの言うことを聞いて、目先の利益をあげることにも努力するけれど、店主によってその地位を保障されていることから、目先の利益や、いまの役割をまっとうすることだけでなく、お店の将来、あるいは自分の将来にとって役立つ勉強をかさね、いつかは番頭さんのような立派な人になろうと努力していきます。
    そしてそうやって努力を重ねた者が、次の番頭さんになるわけです。

    もうすこしまとめると、日本型商店経営というのは、実は、店主は君臨すれども統治せず、つまりある程度大店になると、番頭さんがすべてを切り盛りしていて、店主はそれに口出ししない。
    けれどすべての店員は、店主によって雇用された者たちという関係になっています。
    こういう関係になることによって、店員達は番頭さんの私物にならない。
    人として、仕事に邁進できる。

    実は、こうした仕組みは、日本という国、全体においても、同じ体制がとられていました。
    というよりも、日本という国柄が生んだ国の形を、知らず知らずのうちに、商家においても模倣していたと言った方が、正しいといえます。

    どういうことかというと、世界中、どこの国においても、民は、豪族や王たちの私有民です。
    私有民と書くと聞こえはいいですが、生殺与奪の権を持たれてしまっているのですから、早い話が奴隷と同じ、動産でしかありません。
    古来、民は、権力者の動産ですから、当然のこととして、そこには人権など認められていません。
    これが世界の常識です。

    ところが日本は、その豪族たちの私有民だった人たちも含めて、すべての民を国家最高の存在である天皇の「おほみたから」としてしまったのです。
    豪族たちの権力は、その天皇の権威によって与えられたものと規定されます。
    豪族たちが支配する民たちは、天皇の民です。
    これによって、日本における民は、豪族たちの私有民(動産)ではないことが確定するのです。

    日々の生活においては、豪族や大名たちの支配の中で、日本の民は生活しています。
    けれど、その民の立場は、豪族や大名などの私有民ではありません。
    なぜなら、民衆は天皇の民だからです。

    つまり日本は、天皇という存在によって、民衆が豪族や大名といった政治権力者の私有民とならずにこれた、世界でも希有な国柄であったということです。

    このことのありがたみは、日本の国から、天皇の存在をないものと考えたら、すぐにわかります。
    天皇の存在がなくなった瞬間に、民は、豪族や大名、あるいは昨今なら企業経営者やお金持ちの資本家たちの、ただの私有民になるからです。

    私有民というのは、ただの動産です。
    動産であるということは、所有物であるということです。
    所有者は、所有物を簡単に捨てたり壊したり売ったりすることができます。
    このように捨てたり壊したり売ったりすることができる対象の人のことを奴隷(=Slave)と言います。

    日本人は、なんだかわからないけれど、天皇という存在をありがたがる、といいます。
    それは実は、当然のことなのです。
    天皇という存在があるからこそ、私たち日本人は、支配者の私有民や動産、奴隷とならずに済んでいます。

    これを古い日本語で「シラス(知らす、Shirasu)」といいます。
    日本は天皇のシラス国です。

    ちなみに「シラス」は、文法的には「シラス」は「知らせる、お知りになる」といった意味になります。
    漢字で書くときは、古事記は「知」、日本書紀では「治」と書きます。
    つまり古代の人たちは、シラスを「おさめる(治める)こと」、もしくは「知ること」と理解していたことになります。

    なぜ「知ること」が「治めること」になるのかというと、そこにもまた理由があります。
    神武天皇は、日本をひとつ屋根の下に暮らす家族と定義されましたし、第16代仁徳天皇は三年間の非課税を宣言されました。
    つまり初期の頃の天皇は、西洋の王や皇帝と同じく、国家最高権力者であったわけです。

    ところがこれが変形されたのが、第33代推古天皇の時代です。
    推古天皇は、もともと第30代敏達天皇の皇后であられた女性です。
    ところが第32代崇峻天皇が、蘇我馬子によって暗殺されてしまいます。
    しかもこの暗殺は、馬子の単独犯ではなく、この当時の多数の皇族や群臣の同意を得た「宮廷クーデター」であったといわれています。
    こうなると、次の天皇のなり手がいない。
    なれば、また殺されてしまいかねないからです。

    結局、男たちのなかに天皇のなり手がなく、やむなく中継ぎ天皇として敏達天皇の皇后であられた推古天皇が、「政治向きのことは行わない」という条件付きで御即位されます。
    けれど政治は必要です。
    そこで、推古天皇の基に「政務を摂(と)る人」として、皇太子の聖徳太子が親任されました。
    そしてこのことが、我が国の天皇が、直接政務を摂らない、つまり政治よりも上位におわす国家最高権威としてのご存在となるということの先例となり、この体制が以後ずっと続いて現代にまで至っています。

    天皇は、国家最高権威であり、国家のいわばオーナーです。
    ですからすべてを「お知りになられる」お立場にあられます。
    すべてを知り、そして国家国民を「おほみたから」とされるのです。

    そして政治は、その下にある、摂政や太政大臣、将軍、内閣総理大臣等が、国家最高の政治権力者となってこれを行う。
    権力者なのですから、当然、権力に応じた責任性を持つという仕組みです。

    この仕組を古代において構築できた日本は、幸せです。
    なぜなら、この仕組みこそが、民主主義の最高の形であるからです。

    このことについて、オープン型AI であるChatGDPに以下のように質問してみました。

    ********
    国家政治権力者よりも上位に、国家最高権威者を置き、
    国家最高権威者によって国民を最大の宝物とたとき、
    政治的にはどのような影響が考えられますか?

    ********

    以下がその回答です。
     ***
    国家最高権威者が国民を最大の宝物と考えることが政治的にどのような影響を与えるかは、その国の政治体制や文化、歴史的背景などによって異なります。
    一般的に、国家最高権威者が国民を重視することは、以下のような影響をもたらす可能性があります。
    1 国民の利益が政策の最優先事項になる
    国家最高権威者が国民を最大の宝物と位置づけることで、政府の政策決定において、国民の利益が最優先事項となる可能性があります。これにより、政府の政策や行動が国民の幸福と繁栄に直結するようになり、国民の信頼を得ることができます。 
    2 政治的安定が促進される
    国民を最大の宝物とすることは、国民に対する配慮が強まることを意味します。
    政治的には、国民が政府に対して信頼を持つことで、政治的な安定が促進される可能性があります。
    政府の政策が国民の利益に沿っていると認識されることで、政府に対する支持が高まり、社会的な不安定要因が減少する可能性があります。
    3 政府のレベルが上がる
    国民を最大の宝物と考える国家最高権威者は、政治家や政府の職員にも同様の配慮を求める傾向があります。
    そのため、政府のメンバーや公務員が国民の利益を最優先事項とすることで、政府のレベルが向上する可能性があります。
    4 国際的な信頼性が高まる
    国民を最大の宝物と考えることは、国内のみならず国際社会においても重要な価値観です。政府が国民を最優先事項とすることで、国際社会においても信頼性が高まり、国際的な協力関係や外交交渉において有利に働く可能性があります。
    以上のように、国家最高権威者が国民を最大の宝物と考えることは、政治的に多くの良い影響をもたらします。
     ***

    さらに「国家最高の存在が国家最高権力者であった場合の問題点は何ですか?」と質問したときの答えです。
     ***
    1 権力集中と暴走の可能性
    国家最高権力者が国家最高の存在である場合、その権力は非常に強大なものになります。このような権力が一つの人物に集中すると、その人物が誤った判断や行動を取った場合、国家に深刻な影響を与えることがあります。また、権力の暴走や濫用が起こる可能性もあります。
    2 民主主義の制約
    国家最高権力者が国家最高の存在である場合、それによって民主主義的なプロセスが妨げられることがあります。民主主義においては、政治的権力は国民から委任されたものであり、権力者は国民の意志に基づいて行動する必要があります。しかし、国家最高権力者が存在する場合、その人物の意志や権力が国民の意志を上回ることがあるため、民主主義的なプロセスが制約される可能性があります。
    3 人権侵害の可能性
    国家最高権力者が国家最高の存在である場合、その人物が人権を軽視するような行動をとった場合、国民の権利や自由が侵害される可能性があります。国家最高権力者が人権侵害を許容するような政策を進めた場合、国民の幸福や自由が制限されることになります。
    4 後継者問題
    国家最高権力者が国家最高の存在である場合、その後継者問題が重要な問題となります。国家最高権力者が死亡、病気、辞任などで退く場合、その後継者を決めることが重要になります。後継者問題に対する政治的混乱が起きる可能性があります。
    以上のように、国家最高権力者が国家最高の存在である場合には、政治的に重大な問題が生じる可能性があることを考える必要があります。
     ***

    つまり、シラス(知らす、Shirasu)は、AIも認める、人類がなしうる最高の、そして究極の民主主義なのです。


    ※この記事は2020年3月の記事のリニューアルです。
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  • 大阪で5000人が死んだ事件から学ぶべきこと


    過去に大阪で起きたこと。
    その歴史から我々が学ぶべきは、今に活かせる事柄です。
    そういう教育を復活させ、かつまた日本経済を復活させる。
    そのために必要なことは、大人も子供も共に学べる新しい教育です。

    20230330 天保の大飢饉
    画像出所=https://www.aflo.com/ja/contents/20778664
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    天保の大飢饉といえば、学校では「凶作のために全国で30万人以上もの餓死者が出た」と教わります。
    このうち大阪市中での餓死者数は、およそ5000人。
    全国の6分の1にあたる餓死者が大阪で生まれました。

    けれど本来学校で教えなければならない歴史は、そこにあるのではないのです。
    もちろん全国的な災害としての飢饉も重要です。
    けれど、大阪で起きたことは、少し様子が違うのです。

    江戸時代の大阪といえば、まさに商業流通の中心地です。
    つまり全国のお米が集まる場所でもありました。
    このため凶作が続いて全国的にお米が足りない時期でも、大阪は比較的裕福に乗り越えることができていたのです。

    その大阪で5000人を超える餓死者が出たのは、実は、飢饉そのものが原因であったこともさりながら、実は、お丘の町奉行所による米の買い占めが原因でした。

    この時代は、これまた学校で教わる水野忠邦の天保の改革の時代です。
    天保の改革は質素倹約を重んじた幕政の改革であったと学校で教わりますが、その結果はまたたく間に全国の経済を冷えさせ、さらにこれに天保年間の大凶作が重なったのです。

    そしてこの時期に、11代将軍徳川家斉にかわり、徳川家慶が12代将軍に就任しました。
    たとえ飢饉のさなかであっても、幕府の威信を保つために将軍交代の儀式は派手に行わなくてはならないからと、この時に水野忠邦が目を付けたのが、天下の台所の大坂でした。

    ただでさえ経済が冷え、そこに凶作による食糧難が重なった時代です。
    けれど水野忠邦は、強引に自分の実弟である跡部良弼を大阪東町奉行に赴任させ、天下の台所といわれた大阪で「将軍交代の準備」という名目で、大商人からせっせと米を買い集めて江戸に廻送させたのです。

    結果何が起こったかと言うと、大阪での米価の高騰です。
    そしてこれによって食えなくなった大阪の一般庶民が、なんと5000人も餓死したのです。

    この事件から学ばなければならない大切なことがあります。

    それは「富が流出したら経済が冷え込む」ということです。
    江戸時代の富はお米です。
    現代はお金です。
    そしてどちらも、外に向けてそれらが流出したら、みんなが貧乏になるのです。

    先にも述べました通り、江戸時代の大阪は商業流通の中心地です。
    ですから全国のお米が集まりました。
    だから、大阪に住む人々は、飢饉に際しても、あまり飢えるというところまで追い詰められることは少なかったのです。

    ところが天保年間のときは、大坂町奉行所がせっせとお米を買い集めて、そのお米を江戸へと送り出しました。
    奉行所が大枚をはたいてお米を買い付けたのです。
    それで果たして大阪の景気が良くなったのかというと、答えはNOです。
    むしろ米がなくなって餓死者が相次ぐ結果になったのです。

    このことが意味する歴史は重要です。
    それは、どんなにたくさんのお米(富)を集めてきても、その富が外に流出したら大阪に餓死者が多発した、ということだからです。

    現代の日本経済も同じです。
    日本人がいくら一生懸命働いても、その富が海外に流出したら、日本の景気は良くならないということ同じだからです。

    大阪を例にとれば、現代の大阪府民がいくらせっせと真面目に働いて稼いでも、そうした集めた富が、外国資本が行う公設の賭博場(IR)で、外国資本の利益として海外に流出したら、大阪経済が未来永劫冷え込むということと同じことなのです。

    日本がせっせと良いものをつくり、これを外国に売って儲けたお金が国内で循環するから、日本が好景気になるのです。
    それが、人々が一生懸命に働いても、そうして儲けたお金が外国に流出したら、日本の景気が冷え込む。
    あまりにもあたりまえの理屈です。

    大規模店舗法が2000年に廃止され、地方都市に大型のショッピングセンターができるようになりました。
    すると、それまでは、その都市の商業規模が年間30億円だったとすると、その30億円の売上を市内の商店街で分け合っていたものが、大型店に年間15億円持っていかれるわけです。
    すると市内の商店の売り上げの合計が、30億から15億に減少する。
    しかも市の税収は、それまでなら市内の商店から得ていたものが、大型店は本社が東京や大阪、あるいは外資なら海外にあるわけです。
    つまり納税は、市外に行われることになる。
    結果、市の商店街がシャッター通りになり、市の税収も下がって市の財源が減り、さまざまな行政サービスに影響が出る。
    これが2000年以降の日本経済冷え込みの要因のひとつになっています。

    一方、かつてのバブル経済がなぜ起きたのかと言えば、それまで日本企業が輸出などで儲けたお金が、海外での不動産取得やリゾート開発等に遣われていたものが、日米貿易摩擦の結果、海外での投資が困難になり、その投資が国内の不動産売買に向けられるようになった。
    その結果、日本国内で大量のお金が循環することになって、まさにバブル経済の好景気が起こったと、実はそういうことなのです。

    要するに、お金もお米も同じなのです。
    せっかく集めても、それが他所に流れ出せば、景気が冷えるし、
    自分のところで回るようになれば、好景気になるのです。

    消費者が、一円でも安い買い物をしようと日々努力し、そうやって浮いたお金でビトンのブランドバックを買っていたら、富が海外に流出します。
    消費者が、一円でも安い買い物をしようと、中国産品ばかりを買っていたら、富はどんどんと中国に流出しますから、日本経済は冷え、中国経済が好調になります。

    家計も同じです。
    父ちゃんが稼いだお金が、家庭内に据え置かれれば、その家庭はお金持ちになります。
    どれだけたくさん稼いでも、それ以上に外にお金が流出すれば、その家は貧しくなります。

    天保の大飢饉で大阪で起きたこと。
    その歴史から我々が学ぶべきは、ただ飢饉が起きたの、江戸時代は貧しかったのということではなく、そのときの経験を今に活かせる内容です。
    そういう教育を復活させ、かつまた日本経済を復活させる。
    そのために必要なことは、大人も子供も共に学べる新しい教育です。


    日本をまもろう!

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    私達日本人は、戦後、さまざまなものを手に入れました。
    そしてそれまでには考えられなかったような、すばらしく豊かで平和な日本を築き上げました。
    けれど、だからといって人として大切なことを忘れてしまったら、どうなるのでしょうか。
    人として大切なことを忘れてしまった人のことを、「人でなし」といいます
    豊かで平和でも、それが人でなしの国なら、そこは地獄と化すでしょう。
    そしてソドムやゴモラのように、神々は、そのような国をお許しにならないのではないでしょうか。

    20210317 水師営の会見
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    以下は「水師営(すいしえい)」という題で、かつての国民学校初等科6年(いまの小学6年生)の国語教科書に書かれた一文です。
    この文章を読んで、皆様は何をお感じになられるでしょうか。

    ********
    「水師営」
    国民学校初等科国語六

    明治38年1月5日午前11時・・・この時刻を以って、わが攻囲軍司令官乃木大将と、敵の司令官ステッセル将軍とが会見することになりました。
    会見所は、旅順から北西四キロばかりの地点、水師営の一民屋でした。
    附近の家屋という家屋は、両軍の砲弾のために、影も形もなくなっていました。
    この一民屋だけが残っていたのは、日 本軍がここを占領してから、直ちに野戦病院として使用し、屋根に大きな赤十字旗をひるがえ していたからでした。

    前日、壁に残っている弾のあとを、ともかくも新聞紙で張り、会見室に当てられた部屋には、大きな机を用意し、真白な布を掛けました。
    下見分をした乃木将軍は、陣中にふさわしい会見所の情景にほほ笑んだが、壁に張ってある新聞紙に、ふと目を注いで、
    「あの新聞紙を、白くぬっておくように」
    といいました。
    新聞紙は、露軍敗北の記事で満たされていたからです。

    さきに1月1日、ステッセル将軍は、わが激しい攻撃に守備しきれなくなって、ついに旅順開城を申し出て来ました。
    乃木将軍はこの旨を大本営に打電し、翌日、両軍代表は、旅順開城の談判をすませたのでした。

    その夜、山縣参謀総長から、次のような電報がありました。
    「敵将ステッセルより
     開城の申し出でをなしたるおもむき
     伏奏せしところ、
     陛下には、将官ステッセルが
     祖国のために尽くしたる勲功をよみしたまい、
     武士の名誉を保持せしむることを望ませらる。
     右つつしんで伝達す」

    そこで3日、乃木将軍は、津野田(つのだ)参謀に命じて、この聖旨を伝達することにしたのです。
    命じられた津野田参謀は、二名の部下をつれて、ステッセル将軍のところへ行きました。

    ステッセル将軍は、副官にいいつけて、軍刀と、帽子と、手袋とを持って来させ、身支度を整えてから不動の姿勢を取りました。
    津野田参謀が、御沙汰書(ごさたしょ)を読みあげると、副官は、これをロシア語に訳して伝達しました。

    ありがたく拝受したステッセル将軍は、
    「日本の天皇陛下より、
     このようなもったいないおことばをいただき、
     この上もない光栄であります。
     どうぞ、乃木大将にお願いして、
     陛下に厚く御礼を申しあげてください」
    といって、うやうやしく挙手の礼をしました。

    乃木将軍が、

     たむかひし かたきも今日は 大君の
     恵みの露に うるほひにけり

    と詠んだのは、この時のことです。

    4日に、乃木将軍は、ステッセル将軍に、ぶどう酒や、鶏や、白菜などを送りとどけました。
    長い間籠城(ろうじょう)していた将士たちに、このおくり物がどれほど喜ばれたことでしょう。

    会見の当日は、霜(しも)が深かったけれど、朝からよく晴れました。
    11時10分前に、ステッセル将軍が会見所に着きました。
    白あし毛の馬に、黒い鞍(くら)を置いて乗っていました。
    その後に、水色の外套を着た将校が四騎続きました。

    土塀(どべい)で囲まれた会見所に入り、片すみに生えていたなつめの木に、その馬をつなぎました。
    まもなく、乃木将軍も、数名の幕僚とともに到着しました。
    乃木将軍は、黒の上着に白のズボン、胸には、金鵄勲章が掛けられていました。
    静かに手をさしのべると、ステッセル将軍は、その手を堅くにぎりました。
    思えば、しのぎをけずって戦いぬいた両将軍です。

    乃木将軍が、
    「祖国のために戦っては来たが、
     今開城に当って
     閣下と会見することは、
     喜びにたえません」
    とあいさつをすると、ステッセル将軍は、
    「私も、11箇月の間旅順を守りましたが、
     ついに開城することになり、
     ここに閣下と親しくおあいするのは、
     まことに喜ばしい次第です」 と答えました。

    一応の儀礼がすむと、一同は机を取り囲 んで着席しました。
    ステッセル将軍が、
    「私のいちばん感じたことは、
     日本の軍人が実に勇ましいことです。
     殊(こと)に工兵隊が自分の任務を果すまでは、
     決して持ち場を離れないえらさに、
     すっかり感心しました」

    というと、乃木将軍は、
    「いや、ねばり強いのは、ロシア兵です。
     あれほど守り続けた辛抱強さには、
     敬服のほかありません」
    という。

    「しかし、日本軍の28サンチの砲弾には、弱りました」
    「あまり旅順の守りが堅いので、
     あんなものを引っぱり出したのです」
    「さすがの要塞(ようさい)も、
     あの砲弾にはかないませんでした。
     コンドラテンコ少将も、
     あれで戦死をしたのです」

    コンドラテンコ少将は、ロシア兵から父のようにしたわれていた将軍で、その日もロシア皇帝の旨を奉じて、部下の将士を集めて、激励していたさなかでした。
    「それに、日本軍の砲撃の仕方が、
     初めと終りとでは、
     ずいぶん変って来ましたね。
     変ったというよりは、
     すばらしい進歩を示しました。
     たぶん、攻城砲兵司令官が代ったのでしょう」

    「いいえ、代ってはいません。
     初めから終りまで、同じ司令官でした」

    「同じ人ですか。
     短期間にあれほど進むとは、
     実にえらい。さすがは日本人です」

    「わが28サンチにも驚かれたでしょうが、
     海の魚雷が、山上から泳いで来るのには、
     面くらいましたよ」

    うちとけた両将軍の話が、次から次へと続きました。
    やがてステッセル将軍は、口調を改めて、
    「承りますと、閣下のお子様が、
     二人とも戦死なさったそうですが、
     おきのどくでなりません。
     深くお察しいたします」
    とていねいに悔みをのべました。

    「ありがとうございます。
     長男は南山で、次男は二百三高地で、
     それぞれ戦死をし ました。
     祖国のために働くことができて
     私も満足ですが、あの子どもたちも、
     さぞ喜んで地下に眠っていることでしょう」
    と、乃木将軍はおだやかに語りました。

    「閣下は、最愛のお子様を二人とも失われて、
     平気でいらっしゃる。
     それどころか、
     かえって満足していられる。
     閣下は、実にりっぱな方です。
     私などの遠く及ぶところではありません」

    それからステッセル将軍は、次のようなことを申し出ました。
    「私は、馬がすきで、
     旅順に四頭の馬を飼っています。
     今日乗ってまいりました馬も、その中の一頭で、
     すぐれたアラビア馬です。
     ついては、今日の記念に、
     閣下にさしあげたいと思います。
     お受けくだされば光栄に存じます」

    乃木将軍が答えました。
    「閣下の御厚意を感謝いたします。
     ただ、軍馬も武器の一つですから、
     私がすぐいただくわけにはいきません。
     一応軍で受け取って、
     その上、正式の手続きをしてから
     いただきましょう」

    「閣下は、私から物をお受けになるのが、
     おいやなのでしょうか。
     それとも、馬がおきらいなのでしょうか」

    「いやいや、決してそんなことはありません。
     私も、馬は大すきです。
     さきに日清戦争の時、乗っていた馬が弾でたおれ、
     大変かわいそうに思ったことがあります。
     今度も、やはり愛馬が弾で戦死しました。
     閣下から馬をいただけば、
     いつまでも愛養いたしたいと思います」

    「あ、そうですか。よくわかりました」

    「ときに、ロシア軍の戦死者の墓は、
     あちこちに散在しているようですが、
     あれはなるべく一箇所に集めて墓標を立て、
     わかることなら、
     将士の氏名や、生まれ故郷も書いておきたいと思いますが、
     それについて何か御希望はありませんか」

    「戦死者のことまで、深いお情をいただきまして、
     お礼のことばもありません。
     ただ、先ほども申しましたが、
     コンドラテンコ少将の墓は、
     どうか保存していただきたいと思います」

    「承知しました」

    やがて用意された昼食が運ばれました。
    戦陣料理のとぼしいものではあったが、みんなの談笑で食事はにぎわいました。

    食後、会見室から中庭へ出て、記念の写真を取りました。

    別れようとした時、ステッセル将軍は愛馬にまたがり、はや足をさせたり、かけ足をさせたりして見せましたが、中庭がせまいので、思うようには行きませんでした。
    やがて、両将軍は、堅く手をにぎって、なごりを惜しみながら別れを告げました。

    *******


    国語の教科書というのは、単に漢字を学んだり、文中の「それ」が何を指すのかを指摘することを学ぶだけの教科書ではありません。
    文全体を通して、そこから何を読み取るのか。
    どういうことを感じるのか。
    その感じたことを、どのように自分の言葉や文章で表現するのかといったことを学ぶ科目です。

    今回ご紹介した水師営の会見も、この文全体を通じて、作者が何を伝えたかったのか、そして読者が何を得るのかといったことを学んだのが戦前戦中までの我が国の国語教育です。
    果たしてここに書かれていることは、軍国主義の礼賛でしょうか。

    この文が書かれているのは国語の教科書であって、社会科の教科書ではありません。
    社会科なら、このようなやりとりがあった旅順要塞戦というのは、どのような戦いであったのか、が問題になるかもしれませんが、国語であるということは、この文が子供に教えようとしていることは、武士として(あるいは人として)、節度を重んじ、秩序を守り、そしてたとえ敵であっても、思いやりの心を大切にし、相手を人として遇していこうとする、きわめて高い精神性です。

    こういうことが戦前戦中の我が国の教育における「国民精神の涵養」です。
    この国民精神のことを、いまふうに言えば「アイデンティティ」ということになります。
    そして「アイデンティティ」というのは、よく「自己同一性」などと訳されますが、もっと端的にわかりやすく日本語に訳すなら「〜らしさ」です。

    男らしさ、女らしさ・・・そして同じ男らしさでも、信長の男らしさと、家康の男らしさには違いがあります。
    様々な歴史上の人物を学び、そこから自分らしさを学んでいく。
    それは、歴史の教科書からもそうですし、国語や修身の教科書からも「らしさ」を学ぶことができます。
    そういう教育が、戦前戦中までの教科書です。

    戦後は、そうした「らしさ」の教育が、「価値観の強制にあたる」として排除されました。
    けれど「〜らしく生きる」ということは、その根幹には「人間らしく生きる」という共通項があります。
    ということは、戦後教育は、そんな「人間らしさ」まで、価値観の矯正だとして排除しようというのでしょうか。
    それは、あまりにも馬鹿げた話なのではないでしょうか。

    近年、社会生活自体を行うことができない、あるいは社会生活そのものを否定してしまう若者が増えているといいますが、それは、とりもなおさず、社会人として必要な価値観を持ち合わせていない、ないしは教わっていない者が、学校から排出されているということです。
    これは明らからに戦後教育の行き過ぎの結果です。

    世界で日本人が認められるのは、日本人が金持ちで強欲でわがままだからでしょうか。
    欲の皮の突っ張った、少しでも金があると思えば、傲慢で尊大になり、相手の方が金があると思えば、手をすり合わせてペコペコするような、ただ目先の欲だけに突き動かされて、とにもかくにも自分さえ良ければといった人や国になることは、我々日本人の望みではないと思います。

    戦前の日本を知る東南アジアや南太平洋のお年寄りたちは、「いまの日本人は日本人ではない」といいます。
    あの、やさしくて、立派で、勇気があって、一緒に歌を歌ってくれた日本人と、いまの日本人は違うという。

    私達日本人は、戦後、さまざまなものを手に入れました。
    そしてそれまでには考えられなかったような、すばらしく豊かで平和な日本を築き上げました。
    けれど、だからといって人として大切なことを忘れてしまったら、どうなるのでしょうか。

    人として大切なことを忘れてしまった人のことを、「人でなし」といいます
    豊かで平和でも、それが人でなしの国なら、そこは地獄と化すでしょう。
    そしてソドムやゴモラのように、神々は、そのような国をお許しにならないのではないでしょうか。

    末尾に、この旅順要塞戦跡地に行った時に、そこに掲示してあった碑文の写真を掲示します。
    私には、伝えるべきメッセージが違うと見えるのですが、みなさんは、この文章を読んで何をお感じになられるでしょうか。

    20200712 旅順


    ※この記事は2013年3月の記事のリニューアルです。
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    武術は、一朝一夕に成立するものではありません。何百年、何千年と伝承されていく中で、何人もの天才的武術家が、師匠に教えられた武術にさらに工夫を重ね、それが絶えることなく伝承され続けなければ、成立しえないものです。建御雷神の武術神話が、どれだけ古い昔のものかは、大国主神ゆかりの出雲大社の創建が、いつなのかわからないほど、古い昔であったということ以外はわかりません。それだけ古くから、伝承され、工夫され続けてきた日本古来の武術もまた、私達が絶対に大切に守り抜いていかなければならない日本文化です。

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    タケミカヅチノカミは、古事記では「建御雷神」、日本書紀では「武甕槌神」と書かれます。
    葦原の中つ国、つまり地上の国を大いなる国に育てあげた大国主神に、
    「天照大御神【あまてらすおほみかみ】、
     高木神【たかぎのかみ】の命【みこと】以【も】ちて
     問【と】ひに使之【つか】はせり。
     汝【いまし】の宇志波祁流【うしはける】
     この葦原中国【あしはらのなかつくに】は、
     我【わ】が御子【みこ】の所知【し】らす国【くに】と
     言依【ことよ】さし賜【たま】ひき。
     故【ゆゑ】に汝【いまし】の心【こころ】は奈何【いかに】」
    と国譲りを迫った神様です。

    古事記では、このとき建御雷神は、
    「十掬剣【とつかのつるぎ】を抜き放ち、
     その剣を逆さまに波の上に刺し立てると、
     その剣の切っ先の上に大胡座【おおあぐら】をかいて
     大国主神に問い迫った」と記述しています。

    日本書紀は少し違っていて、
    「十握剣【とつかのつるぎ】を抜きはなち、
     その剣を地面にさかさまに植えるかのように突き立てて、
     その切っ先の上に堂々と座る」と書いています。

    古事記は「海の波の上」、日本書紀は「地面」に剣を突き立てたとしているのですが、両者とも、その切っ先の上に大胡座をかいて座ったというところは一致しています。

    神々の技【わざ】ですから、本当に剣の切っ先の上に座られたのかもしれません。
    ですが普通には、そのようなことは奇術でもなければ、現実的には、まずありえないことですし、そのようなことは記紀が書かれた古代においても、誰でもわかることです。

    子供が神話を読むのと、大人が読むのとでは、あたりまえのことですが、そこから得るものが異なります。
    まして記紀は、いずれも全文漢字で書かれており、天皇の命令で編纂が始まり、天皇に献上された史書です。
    そのような史書に、荒唐無稽で非論理的なことを書くのかといえば、答えはNOです。
    ということは、この記述は、別な何かを象徴している、ということになります。
    大人が読むときには、そういう見方、そういう読み方をしなければなりません。

    大国主神の側は、大軍を率いている大いなる国の主です。
    そこへ乗り込んだ建御雷神が連れているのは、天鳥船神【あめのとりふねのかみ】ひとりです。
    ところがそんな建御雷神は、いきなり大王である大国主神に直談判をしています。
    もちろん高天原からの使いですから、直接国王に面会が可能であった可能性はあります。
    それでも「剣の切っ先の上に大胡座【おおあぐら】」というのは、不思議な描写です。

    この点について、日本書紀は、経津主神【ふつぬしのかみ】と、武甕槌神【たけみかづちのかみ】の系譜を先に述べています。

     ▼経津主神【ふつぬしのかみ】の系譜
    【祖父】磐裂根裂神【いはさくねさくのかみ】
    【父母】磐筒男【いわつつを】、磐筒女【いはつつめ】
    【本人】経津主神【ふつぬしのかみ】

    ▼武甕槌神【たけみかづちのかみ】の系譜
    【曾祖父】稜威雄走神【いつのおはしりのかみ】
    【祖父】 甕速日神【みかはやひのかみ】、
    【父】  熯速日神【ひのはやひのかみ】
    【本人】 武甕槌神【たけみかづちのかみ】

    ここで祖父や父として書かれている神々は、古事記では、いずれも火の神が生まれることでイザナミが亡くなったときに、夫のイザナギが子の火の神を斬り、このときに飛び散った血から生まれた神として登場している神々です。
    「飛び散った血から生まれた」ということは、数々の戦いから工夫を凝らして生まれた剣であるということを象徴的に描いているのかもしれません。
    そしてフツヌシと、タケミカヅチは、古事記では兄弟神としての記述ですが、日本書紀は親子としています。

    その系譜を見れば、祖父や父の神々の名は、いずれも剣に関係しています。
    磐裂根裂神【いはさくねさくのかみ】は、岩さえも根っこから斬り裂く御神刀を意味する御神名です。
    子の磐筒男【いわつつを】、磐筒女【いはつつめ】は、それだけ鋭利な剛剣を筒に入れる、すなわち鞘【さや】に収めている状態を示します。
    そこから生まれた経津主神【ふつぬしのかみ】は、日本書紀に登場する神【古事記には登場しない】ですが、後に香取【かとり】神宮【千葉県香取市】の御祭神となる神様です。
    別名を、香取神、香取大明神、香取さまといいます。

    武甕槌神【たけみかづちのかみ】は鹿島神宮の御祭神です。
    香取神宮と鹿島神宮は、利根川を挟んで相対するように位置し、両神ともに我が国の古来の武神です。
    流派はそれぞれ鹿島神流、香取神道流といいます。
    いずれも我が国武術の正統な系譜であり、とりわけ香取神道流は、現存する我が国最古の武術流儀といわれています。
    いずれも最低でも二千年、もしかしたら数千年もしくは万年の単位の歴史を持つ武術です。

    二千年前なら弥生時代、数千年前なら縄文時代です。
    弥生時代の遺跡からは、剣や槍が発掘されていますが、縄文時代にはそのような武器が用いられた痕跡となる遺物がありません。
    また武器によって怪我をしたと思しき人骨も出土していません。

    しかし武器がないということが、武術を生まなかったことの証拠にはなりません。
    というのは、日本古来の武術は、むしろ武器の存在さえも不要としてしまうような技の集大成でもあるからです。
    ちなみに、最近の研究では、縄文時代中期には青銅器、弥生時代には、すでに鉄器が使われていたことがわかっていますから、そうした古い時代から、なんらかの刀剣類が用いられていた可能性は否定できません。

    戦いというのは、普通なら、体が大きくて力の強い者が有利です。
    早い話、どんなに強くても、武術を知らない大人と武術を知る小学生なら、大人が勝ちそうです。
    ところが日本古来の武術では、そんな大人が、小さな子どもに手もなく投げ飛ばされてしまうのです。

    このような武術の工夫は、一朝一夕に完成するものではありません。
    天才的技能を持った人が現れ、その技能が伝承され、さらに世代を重ねるごとに技術が工夫され、それが何百年、何千年と蓄積されることで、信じられないような武術になっていきます。

    残念ながら、海外の諸国には、そうした武術の伝承がありません。
    もちろんチャイナにもありません。
    世界中どこの国でもそうなのですが、歴史において偉大な武術家が何人も現れていても、王朝が交代する都度、そうした武術家は、その都度、皆殺しにされているからです。
    とりわけ強い武術流派は、新政権にとっては恐怖そのものです。
    皆殺しどころか、一族郎党全員が殺されます。
    つまりこの世から消滅してしまうのです。

    西欧も同じです。
    米国には「マーシャルアーツ【martial arts】」と呼ばれる軍隊格闘技がありますが、マーシャル・アーツという言葉は、実は日本語の「武芸」を英訳した言葉です。
    文字通り「武の」【martial】「芸」【arts】です。
    新しいのです。

    白人社会に武芸が存在しなかったということは、絶対にありえません。
    様々な武術が歴史の中で工夫され、伝承してきたものと思います。
    けれど、それら全ては、歴史の中で消滅してしまっているのです。

    ところが日本では、何千年も前から工夫され、伝承されてきた武術が、途切れることなく伝承されてきています。
    そして時代の中で、天才と呼ばれる達人が多数現れ、伝承されてきた武術にさらに工夫をこらし、技を磨いてきた歴史を持ちます。
    また武者修行といって、一定の練達者が、遠く離れた他流派の道場に学びの旅をして技術交換をして、さらに技能を高めるといったこともさかんに行われてきました。
    こうして数百年、数千年と磨かれ続けてきたのが、実は日本の古来の武術です。

    よく中国武術を古いものと勘違いしておいでの方がいますが、中国武術もまた、実は日本の武術が大陸に渡って成立したものだという意見があります。
    筆者はむしろそれが正しい歴史であろうと思っています。

    それにしても、たった二人で、大軍を要する大国主神に直談判するというのは、これは大変なことです。
    もちろん中つ国は敵地ではありませんが、それでも何十、何百という軍勢を前にしての談判ですから、そこで圧倒的な武術が示されたのでしょう。
    このことが、「切っ先の上に大胡座をかいて座った」という描写に集約されているのではないかと思います。

    さらにその後に行われた建御雷神と、大国主神の子の建御名方神【たけみなかたのかみ】との戦いの描写は、我が国古来の武術の姿を垣間見せるものになっています。

    相手となる建御名方神【たけみなかたのかみ】は、千人が引いてやっと動くような大きな岩をひょいと持ちあげてやってたとあります。
    これは建御名方神が、相当な力持ちであったことを意味します。
    そして、
    「ワシの国に来て、こっそり話をするのは誰だ!」と問い、「ワシと力比べをしようではないか」と申し出ると、「まずはワシが先にお主の腕を掴んでみよう」と、建御雷神の手を取ろうとします。
    すると建御雷神の手が、一瞬にして氷柱のような剣に変わり、建御名方神が恐れをなして引き下がったとあります。

    今度は建御雷神が、
    「お前の手を取ろう」と提案して手をとると、その瞬間、建御名方神は、まるで葦の束でも放り投げるかのように、飛ばされてしまいます。
    飛ばされた建御名方神が逃げると、それを遠く諏訪まで追って行って降参させています。

    古事記のこの描写は、「これが我が国の相撲【すもう】のはじまり」と言われますが、力と技のぶつかりあいである相撲よりも、これもまた日本の古武術をそのまま紹介しているものと読めるのです。
    なぜなら、日本の古武術では、相手に触れられれば、触れられた場所がそのまま凶器のようになり、また、相手に触れれば、その触れた部位を、そのまま相手の急所にしてしまいます。

    アニメの「北斗の拳」では、「経絡秘孔をピンポイントで突く」といった描写がなされていますが、それはアニメやマンガのなかでの話です。
    実践で動く相手を対象に、ピンポイントでツボを突くというのは、現実にはかなり難しいことです。
    ですから日本の古武術では、相手に触れたその場所を秘孔にしてしまいます。
    また、相手に触れられれば、その瞬間に触れられたところを凶器に変えてしまいます。
    そして、気がつけば、遠くに投げ飛ばされてしまいます。
    このことが、腕が、手が、鋭利な氷の剣となり、また相手をまるで紙人形でも倒すかのように投げ飛ばしたという描写になっていると考えられるのです。

    記紀が書かれたのは、いまから1300年前です。
    建御雷神の戦いは、まるで魔法のような武術によって建御雷神が勝利した物語ですが、古事記が書かれた1300年前には、すでにこうした、まるで魔法のような武術が実際に存在していたことを示しています。
    そして武術がそこまで進化するには、やはり何千年という武術の技術の蓄積がなければならないといえます。

    ひとつ個人的な体験をお話します。
    それはある福岡にある古武術の大東流武門館を尋ねて、大隈先生と対談したときのことです。
    先生は、木刀を渡して、「これで打ちかかって来なさい」というのです。
    これは恐ろしいことです。
    下手をすれば先生に大怪我をさせかねない。
    だから遠慮したのですが、
    「構わないから全力で打ちかかってきなさい」と、こうおっしゃる。

    そこまで言われるなら、相手は先生なのだしと腹を決めて、言われた通りに全力で上段から先生に面を打ち込むことになりました。
    先生は防具すら付けていません。
    手には何も持っていません。
    だから真剣白刃取りのようなことをするのかな、と思いながら、面を打ち込みました。

    自慢するわけではありませんが、筆者も多少の心得はあります。
    面打ちの速さには、多少の自信もあります。
    そこで【本当は怖かったけれど】丸腰の先生に向かい、すり足で距離を詰めながら「エイッ」と木刀を振り下ろそうとしました。

    ところがその瞬間、筆者は凍りついてしったのです。
    先生が腰をすこしかがめて、手刀を突き出したのです。
    それは、ただ手刀を、顔の少し前に突き出しただけです。
    手刀は確実に私の喉元をうかがっていました。

    その結果何が起こったのかというと、振り下ろそうとした私の木刀が停まりました。
    そして身動きがつかなくなりました。
    どうしてよいかわからず、そのまま固まってしまったのです。
    その固まった私から、先生は悠々と木刀を取り上げました。
    気がつけば木刀を打ち込もうとした私は、刀を振り下ろそうとした姿勢のまま、ただ木偶の坊のように突っ立っているだけとなっていました。
    その姿勢のまま木刀を取り上げられ、その姿勢のまま固まっていました。
    この間、ほんの一瞬のことです。
    そしてこれが日本古来の武術の凄みだと理解しました。

    何が起こったのかは、いまだによくわかりません。
    ひとつの理解は、肉体を使って木刀を振り下ろそうとした私は、霊【ひ】を抜かれてしまったのかもしれないということです。
    人は霊【ひ】の乗り物です。
    霊【ひ】を抜かれると、肉体の動きは停止してしまいます。
    そして肉体が停止しているから、先生は悠々と、固まっている私から木刀を奪い取った。
    その間、筆者の肉体は、ただ固まっているだけった・・・・と、そういうことかもしれません。

    これは筆者が実際に体験したことですが、そこには、スポーツ化した現代武道とはまったく異なる、日本古来の伝統的武術がありました。
    そしてその武術は、こうして経津主神【ふつぬしのかみ】と武甕槌神【たけみかづちのかみ】にまで遡る、武道の古流の心技体の技術の上に成り立ちます。
    そしてそれは、いわゆる世界の格闘技とは、まったく一線を画する凄みのある世界です。




    ※この記事は2022年3月の記事のリニューアルです。
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    元寇の戦いには、一点、不思議なことがあります。
    それは、
    「なぜ元軍は、大軍を博多湾だけに集結させたのか」
    という疑問です。
    彼らは、遠路はるばる船を連ねて日本にやってきたのです。
    もし目指す上陸地点が博多湾ではなく、京都府のすぐ北にある若狭湾であったとしたら。
    あるいは博多湾に襲来すると見せかけて、そのまま下関海峡を抜けて瀬戸内に入り、大阪湾に上陸することもできたのです。
    それこそこれは、日本にとって「恐怖のシナリオ」です。

    20210304 死者の軍勢
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    小説も映画も大ヒットした『指輪物語』シリーズのペレンノール野の合戦で、「死者の軍」という大軍が登場し、主人公たちを助けるという物語がありました。
    また映画『ハムナプトラ』の第三作『呪われた皇帝の秘宝』では、ジェット・リーこと李連杰(り・れんぼく)演じるハン皇帝が、死者の軍を率いてこの世界を乗っ取ろうと大戦を仕掛けるという設定がありました。
    どちらも大ヒットした映画なので、ご覧になられた方も多いかと思います。

    どちらもただの空想の物語です。
    けれど意外とそういうことは「あり」なのかもしれません。

    時は1185年のことです。
    本州の山口県と、九州の福岡県を隔てる関門海峡で行われたのが、有名な「壇ノ浦の戦い」です。
    平家物語によれば、この戦いに動員した平家一門の船舶数はおよそ3千艘で、1船あたり、平均20名の乗船とすると、その兵力はおよそ6千名です(諸説あります)。
    その6千の軍勢が、一般には壇ノ浦で海の藻屑と消えたとされているわけですが、どっこい、人は魂の乗り物です。
    魂が本体、肉体はただの乗り物にすぎない、というのが縄文以来の我が国の知恵です。

    この戦いの後に行われたのが元寇です。
    一度目が文永の役(ぶんえいのえき・1274年)で89年後。
    二度目が弘安の役(こうあんのえき・1281年)で96年後です。

    特に二度目の弘安の役においては、日本の博多湾めがけて押し寄せた14万の元の大軍を、鎌倉御家人たち6万の軍勢が、見事打ち破っているのですが、この元寇の戦いには、一点、不思議なことがあります。
    それは、
    「なぜ元軍は、大軍を博多湾だけに集結させたのか」
    という疑問です。

    彼らは、遠路はるばる船を連ねて日本にやってきたのです。
    もし目指す上陸地点が博多湾ではなく、京都府のすぐ北にある若狭湾であったとしたら。
    あるいは博多湾に襲来すると見せかけて、そのまま下関海峡を抜けて瀬戸内に入り、大阪湾に上陸することもできたのです。

    なにしろ彼らは船に乗ってやってきているのです。
    そして船には機動力があります。
    14万の大軍を乗せた船団が、そのまま若狭湾や大阪湾に襲来していたら、その後の歴史はどのように変化したでしょうか。
    それこそ恐怖のシナリオです。

    しかし彼らはご丁寧にわざわざ大軍で、都から遠い博多湾に殺到してきています。
    どうしてなのでしょうか。
    一説によれば、当時の船は長期間の外洋航海に耐えなかったからといいます。
    しかし彼らの一部は、チャイナの今の福建省あたりからはるばる東シナ海を横断して日本までやってきています。
    つまり、十分な航海能力があったということです。

    さらに若狭湾までは、日本海の海流に乗っているだけで、潮流の関係で航海が可能です。
    そもそも元寇の時代よりもずっと前から、日本海の海流を利用して、平安時代には渤海国との交易が盛んに行われていたのです。
    仮にもし、彼らが船で東北地方にまでやってきていたら、東北地方で算出する莫大な黄金を手に入れていたかもしれません。
    あるいは大阪湾にやってくるには、下関海峡の壇ノ浦を越えさえすれば、あとは波の静かな瀬戸内の航海です。
    これまた大阪湾まで安全な航海が可能です。
    それがどうして、博多湾だったのでしょうか。

    実は、この疑問への答えとなりそうなことが、多分にカルト的になるけれども、元寇の100年前に沈んだ平家軍の将兵たちなのです。
    平家の将兵たちが海の守り神となって元軍が関門海峡以東に押し寄せることを断固阻んだ、とでも考える以外に、他に解釈のしようがないのです。

    平家というのは、たいへんに信仰心の厚い家で、広島の宮島にある厳島神社は、平清盛が造営し、有名な平家納経を行っています。
    この平家納経というのは、実にたいへんなことで、美しく大和絵が描かれた絵巻物に、平家の公達全員が、お経を手書きするというものでした。
    当時は、ぜんぶ筆字の自筆です。
    そして一文字でも間違えれば、一巻の絵巻物が全部ボツです。
    ですからこの絵巻物は、一字たりとも間違えないよう、毎回沐浴して体を清め、一文字ずつ丁寧に書写されたものです。

    それだけの貢献をした厳島神社の御祭神が、宗像三神です。
    宗像三神は、海の守り神で、その本営は福岡県宗像市にあり、日本神話に登場する日本最古の神社のひとつです。
    そしてその宗像神社は、博多湾から下関海峡に至る海上ルートの、ちょうど中間あたりにあります。

    実は元寇のとき、この宗像大社の辺りを越えて、下関海峡に入ろうとした元の船団がいたことが記録されています。
    ところがなぜかその船団は、そのままわざわざ潮の流れに逆らってまでして、博多湾に引き返しているのです。
    これは不思議な行動です。

    そして結果として、元の船は、まったく不思議なことに、宗像神社(御旅所)から沖合に浮かぶ宗像大社沖津宮を結ぶラインの外側、つまり博多湾だけに集結して、結果破れているのです。

    こうなると、もしかするとですけれど、実は下関海峡の壇ノ浦を通過して、瀬戸内から大阪湾に攻め込もうとした元の船の一部が、斥候として壇ノ浦に向かったとき、海中からネクロマンサー(死者の軍団)となった平家の軍団が、宗像三神とともに、海中から次々と立ち上がり、元の船に対して
    「ここは通さん!!」
    と刃向かってくれたからなのかもしれません。

    そうとでも考えなければ、元の軍勢が瀬戸内に入ろうとしなかった理由の説明がつかないのです。

    肉体はなるほど今生限りのものですが、魂は永遠の存在であり、むしろ肉体はその魂の乗り物にすぎない、というのが、日本の縄文以来の知恵です。
    そして縄文時代の集落跡を調べると、だいたい集落の真ん中にご先祖たちの墓地がある。
    このことはつまり、縄文人たちは、死者と共存していた、と考えられているわけです。

    実はこうした「集落の真ん中に墓地を持つ」という村落の構成は、いまでも南米や南太平洋の島々などに古くからの習慣として残っています。
    そして彼らは、共通のご祖先が倭人たちであるという。
    つまり、日本における古くからの万年の単位で行われ続けてきた習慣が、いまでも存続しているわけですが、このことが示す意味は、現代においても日本は、生者と死者が共存している国である、ということです。

    このように申し上げると、現代日本人には少しわかりにくいかもしれませんが、もともと仏教では、死んだ人の魂は濁悪の娑婆世界、つまりこの世を離れて、理想の国である極楽浄土へと旅立つとされています。
    その極楽浄土のひとつが、須弥山であり、東の果てにある扶桑国であり、ユートピアの蓬莱山、あるいは崑崙(こんろん)であるとされているわけです。
    だから、人が亡くなると、その魂は浄土へと旅立ちますから、お別れを告げる「告別式」が行われます。

    ところが日本古来の神道では、亡くなった人の魂は、家や村の守り神となって、子々孫々の幸せをずっと守り続けてくれると考えられています。
    つまり、日本は縄文以来、ずっと死者と共存する国であったし、それはおそらく今もなお、続いていると考えられるわけです。

    そうであれば、厳島神社で平家納経まで行った平家が、ただ闇雲に壇ノ浦で滅んだとばかりは、考えられない。
    なるほど彼らは、壇ノ浦の戦いで海に沈んだけれど、そこは海の守り神の宗像三女神のすぐお膝元でもあるわけです。
    なにしろ、元寇のときの元軍は、まったく不思議なことに、宗像神社(御旅所)から沖合に浮かぶ宗像大社沖津宮を結ぶラインを越えていないのです。

    海に沈んだ平家の武士たちは、宗像三女神の指揮のもとで、こんどは海の守り神となって死者の軍を起こし、元寇においては、元の大軍が関門海峡以東に移動するのを阻止し、また大東亜戦争においては、北九州に原爆を落とそうとしたB29を、南へと追い払うという、重要な働きをいまもなお、されている・・・のかもしれません。

    このように考えると、先の大戦で命を失った我が日本の英霊諸氏もまた、いまや護国の守り神として、この日本を守り続けてくれているということも、ごく自然な流れとして理解できます。

    終戦直後の日本は、どこもかしこも焼け野原でした。
    それに食料も不足していました。
    英霊の多くも、餓死しています。
    それだけに、彼らの子や孫たち(つまり戦後を生きた人たち)が、まずは国土を復興させ、産業を起こし、食べるに困らない国造りをする。
    そのことだけを、亡くなった英霊たちもまた、しっかりと応援してくれていたのであろうと思います。

    その間日本国内には、偏差値偏重教育とか、あるいは西洋かぶれの個人主義などといった怪しげな思想や、労使の対立と闘争といった事柄が、が生きている日本人の間に蔓延しました。
    しかしそのようなものは、英霊の子女たちが平和に豊かに安全に安心して暮らすことという大きなテーマの前には、およそ微細な波風にすぎません。
    平和ボケといいますが、戦乱の世と比べたら、平和ボケするくらい平和な社会であるということは、実はとっても幸せなことであるといえると思います。

    けれど世界がごく一部の利権を持つ者たちに支配され、世界中の人々がそんな大金持ちたちの植民地奴隷になろうとしている昨今、日本が平和ボケのままでいることは、日本人の生活まで困窮させ、国土を腐敗させる大きな要因となります。

    だからいま、英霊たち、そして我が国を築いてきた歴史上の日本人たちのすべてが、日本の建て直しのために動き出した。
    そして生きている日本人を目覚めさせるためには、30年という長く続く不況さえも経験させる必要があった。
    このように考えることもできるのです。

    我々、生きている人間は、生きている人間の世界だけが世界に存在していると思いがちです。
    けれど、もしかすると縄文時代に万年の単位で習得した知恵にあるように、我々の生者の世界というものは、実は死者と共存している世界なのかもしれません。

    生きている人は、必ず睡眠を取りますが、深い睡眠状態のときには、実はその人の魂が肉体から抜け出て、あちらの世界に行っているのだ、という話があります。
    それが本当のことかどうかまではわかりませんが、我が国の死者たちというのは、亡くなった祖父母であり、曾祖父母や、もっと古い時代の、要するにすべてが今を生きている我々の血縁者です。
    我々の住む国土は、森の木の一本一本にいたるまで、我々の祖父や祖先が大切に育んできてくれた国土です。

    戦後の日本は、一時的に「はしか」のような流行病に侵されてきました。
    そんな日本をあたたかく見守りながら、戦後の復興をお手伝いしてくださっていた英霊たち、そして我々の歴代の祖先たちは、いま、日本が正気を取り戻すときを迎えていることを、しっかりと教えようとしてくださっているのではないか。
    そのように思います。

    日本精神が復活する時は、いまです。
    日本をかっこよく!!


    ※この記事は2021年3月の記事のリニューアルです。
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  • 万寿姫物語


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    3月の倭塾は、本日3月26日(日)13時半から開催です。
    場所は今回から富岡八幡宮の婚儀殿です。
    テーマは「日本精神を築いた十七条憲法」です。
    参加自由で、どなたでもご参加いただくことができます。
    皆様のふるってのご参加をお待ちしています。
    https://www.facebook.com/events/458686826358362
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    「じゃあ君たちに聞くけど、感動があったら、法を破っても良いのかな?この場合、お母さんは殺人未遂犯だよ?」
    「だって先生、頼朝が感動したんだろ?」
    「将軍が感動したら、将軍の勝手気ままで、罪を赦しても良いのかな?」
    「じゃあ、御家人たちが感動したんだ。」
    「でも、決めたのは頼朝でしょう?」
    「みんな感動したんだよ」
    「でもさ、へそ曲がりっていない?」

    20180321 舞を奉納する万寿姫_th2
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    日本をかっこよく!

    !!最新刊!!
     

    戦時中の国民学校4年生【いまの小学4年生】の国語の国定教科書に書かれていた「万寿姫」という物語をご紹介します。
    使っている漢字は原文のままで、読みやすいように現代語に直してご紹介します。
    (てか、小学校4年生で、これだけの漢字がちゃんと読めたのがスゴイ!!)

     ***

    ある日源頼朝は、鶴岡八幡宮に舞の奉納をするために、舞姫を集めました。
    舞う少女は12名いました。
    推薦もあって11人まではすぐに決まったのですが、あとひとりが決まりません。

    困っているところへ、御殿に仕える万寿姫【まんじゅひめ】がよかろうと申し出た者がありました。
    頼朝は一目見た上でと、万寿姫を呼び出しました。
    見目麗しく実に上品な娘です。
    さっそく舞姫に決めましたが、万寿は当年13歳、舞姫の中で、いちばん年若でした。

    奉納当日、頼朝を始め舞見物の人々が、何千人も集まりました。
    一番、二番、三番と、十二番の舞がめでたく済みました。

    なかでも特に人がほめたのが五番目の舞でした。
    この時は、頼朝もおもしろくなって一緒に舞いました。
    その五番目の舞が万寿姫でした。

    明くる日、頼朝は万寿を呼び出しました。
    「さてさて、このたびの舞は日本一のできであった。
     お前の国はどこだ。
     また親の名は何と申す。
     褒美は望みにまかせて取せよう。」

    万寿は恐る恐る答えました。
    「望みはございませんが、
     唐糸【からいと】の身代りに
     立ちとうございます。」

    これを聞いた頼朝は、顔色がさっと変わりました。
    深い事情があったからです。

    一年ばかり前のこと、木曾義仲【きそよしなか】の家来の手塚太郎光盛【てづかのたろうみつもり】の娘が、頼朝に仕えていたのですが、頼朝が義仲を攻めようとするのを知って、義仲にその情報を知らせたのです。

    義仲の動きは早く、
    「すきをねらって頼朝の命を取れ!」
    と、木曽義仲の家に代々伝わっていた大切な刀を送ってよこしたのです。

    光盛の娘は、それから毎晩頼朝を狙いました。
    けれど、少しもすきがありません。
    かえってはだ身はなさず持っていた刀を見つけられてしまいました。

    刀に見おぼえがあった頼朝は、この女は油断できないと思い、女を石の牢屋に入れました。
    その女が唐糸【からいと】でした。
    唐糸には、その時12歳になる娘がいました。
    それが万寿姫だったのです。

    姫は木曾に住んでいました。
    風のたよりに事件を聞き、乳母【うば】を連れて鎌倉を目指したのです。

    二人は、野を過ぎ山を越え、馴れない道を一月余りも歩き続けて、ようやく鎌倉に着きました。
    そしてまず、鶴岡の八幡宮へ参って、母の命をお助けくださいと祈り、それから頼朝の御殿へあがって、乳母と二人でお仕えしたいと願い出ていたのです。

    かげひなたなく働く上に、人の仕事まで引き受けるようにしていたので、万寿、万寿と人々に可愛がられていました。

    さて万寿は、だれか母の噂をする者はないかと、気をつけていたのですが、10日経っても、20日経っても母の名を言う者はありません。
    ああ、母はもうこの世の人ではないのかと、力を落していたところだったのです。

    ところがある日、万寿が御殿の裏へ出て、何の気もなくあたりを眺めていますと、小さな門がありました。
    そこへ召使の女が来て、
    「あの門の中へ入ってはなりません」
    と言いました。

    わけを尋ねると、
    「あの中には石の牢屋があって、
     唐糸様が押し込められています」
    といいました。
    これを聞いた万寿のおどろきと喜びは、どんなであったことでしょう。

    それからまもなくのある日のこと、今日はお花見というので、御殿には多勢の御家人たちが集まりました。
    万寿は、その夜ひそかに、乳母を連れて、石の牢屋をたずねました。
    八幡樣のお引合わせか、門の戸は細めに開いていました。
    万寿は、乳母を門のわきに立たせておいて中へはいりました。

    月の光に透かして、あちらこちら探しますと、松林の中に石の牢屋がありました。
    万寿が駆け寄って牢屋の扉に手を掛けますと、
    「たれか?」
    と牢の中から声がしました。

    万寿は、格子【こうし】の間から手を入れ、
    「おなつかしや、母上樣、
     木曾の万寿でございます。」

    「なに、万寿。
     木曾の万寿か!」

    親子は手を取りあつて泣きました。
    やがて乳母も呼んで、三人はその夜を涙のうちに明かしました。

    これからのち、万寿は乳母と心を合わせ、折々に石の牢屋を尋ねては、母をなぐさめていたのです。
    そうして、そのあくる年の春、舞姫に出ることになったのでした。

    親を思う孝行の心に頼朝も感心し、唐糸を石の牢から出してやりました。
    二人が互いに取りすがって、うれし泣きに泣いた時には、頼朝を始め居あわせた者たちに、だれ一人、もらい泣きをしない者はありませんでした。

    頼朝は、唐糸を赦【ゆる】した上に、万寿に、たくさんの褒美を与えました。
    親子は、乳母といつしよに、喜び勇んで木曾へ帰りました。

     ***

    戦前戦中の教育といえば、すなわち軍国主義教育であったと一刀両断する論調があります。
    しかし上にある物語は、むしろ情愛を述べている物語であって、そこに軍国主義の欠片もありません。
    一方、戦前の教育を否定する現代の教育学会は、「戦前の心の教育は、子らに価値観を強要するものだからいらない」と言いますが、果たしてそうでしょうか。

    また、戦後教育なら、この本文から「文中にある『それ』は何を指していますか。○字以内で答えなさい」といった設問しか行われません。
    けれど、上の文章で大切なことは、「その」や「それ」が何を指しているかではなく、もっと別なところにあるのではないでしょうか。

    要するに、戦後の国語教育は、テストとして出題のしやすい文法にやや偏重しているといえます。
    けれど戦前戦中までの教育は、文全体を通じて、作者が伝えようとしている真意はなにかに置かれていました。
    この万寿姫の物語でいえば、親子の情愛が第一の主題です。

    そして第二の主題は、将軍の命を狙うという重罪と、親子の情愛と、いずれが尊重されるべきものであるのかという設問です。
    社会的規則や規定と、人としての情愛と、そのどちらが尊重されるべきものであるのか。
    ここで述べられていることは、我々は社会人であるけれど、同時に心を持った人間である、ということを大事にしなければならないという精神が語られているのではないでしょうか。

    通州事件は、チャイナ国民党所属の学生たちが日本人居留民およそ250名を、人類史上稀ともいえるほど残虐な方法で虐殺した事件です。
    通州城に日本軍が駆けつけると、その学生たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていきました。
    そしてその学生たちの多くが、北京市内に逃げ込みました。

    その北京には、多くの日本人が住んでいました。
    その日本人たちは、通州事件も模様が報道されていたにも関わらず、危険を顧みずにそんな非道を犯した学生たちを匿い、食事与え、旅費まで与えて、親元に変えるようにと説諭して、送り出しています。
    戦後教育を受けた我々には、あまりにもお人好しにさえ見える当時の日本人の行動ですが、その学生たちも動員されて非道を行わされたものであり、ひとりひとりは、ただ貧しいだけの人の子であることを、当時の日本人はちゃんとわかっていたのです。

    甘いと思われるかもしれませんが、そこまで当時の日本人が人道や人の情愛を大切にしたのは、やはり教育の成果であったのであろうと思います。

    また同様に、ガダルカナル島やインパールで亡くなった日本の若い兵隊さんたちは、現地が熱帯地方で、周囲にヤシやバナナの木が茂り、またインパールでは街道の周囲がたわわに作物の稔る農地であったにも関わらず、それらはすべて現地の人たちのものだからと、一切その食料に手を付けないまま、飢えて死んでいます。
    これまた人の道をどこまでも大切にするという心があったからといえるのではないでしょうか。

    近年では、やたらと「愛が大切」と言われます。
    教育と異なり、世間でしきりに言われることというのは、基本「ないものねだり」です。
    愛のない世界になっているから、愛が叫ばれるのです。
    そして愛が権力や経済によって平気で蹂躙される社会だから、愛が喧伝されるとみることができるのです。

    実際、「愛の意味はなんぞや」と問われて、即答できる人は少ない。
    男女の愛、恋愛、愛情、なんとなくわかるけれど、では「愛とは何ですか」と聞かれても答えられる人はほとんどいません。

    ところが戦前の教育を受けたお年寄りは、
    「愛というのは、いとしくおもうことだよ」
    と即答します。

    理由は簡単です。
    日本書紀を国史として学んだ戦前の日本人は、持統天皇の章において、「愛国」と書いて「国をおもふ」と読み下すと、誰もが学校で教わっていたからです。

    国語教育の目的は、平成29年の小学校学習指導要領には次のように書かれています。
    ****
    言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。
    ⑴ 日常生活に必要な国語について,その特質を理解し適切に使うことができるようにする。
    ⑵ 日常生活における人との関わりの中で伝え合う力を高め,思考力や想像力を養う。
    ⑶ 言葉がもつよさを認識するとともに,言語感覚を養い,国語の大切さを自覚し,国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う。
    ****

    つまり国語教育の目的は、ひとことで言うなら「日本語を用いたコミュニケーション力の強化」にあるとしているわけです。
    そして上にある3項目は、いずれも「外国人が日本語を学ぶ」ときと同じ趣向であるとわかります。
    もっというなら、国語の表面的なレトリックを学ぶのであって、国語を通じて人としての高い人格形成を図るといった人間教育の視点には、まったく触れられていないことがわかります。

    もちろんコミュニケーション力は大事です。
    けれどその根幹に、人に対する深い愛情が育っていなければ、コミュニケーションは冷えた関係になってしまいます。
    近年ではコミュニケーション障害となる若者が増えているといいますが、そもそもコミュニケーション云々の前に、もっと大切な、お互いの思いやりの心といった人として大切な事柄が、そもそもまったく欠如した教育が行われているのです。

    このため、国語教育が「なんのためにあるのかわからない」といった現象があたりまえのように起こりました。
    そしてもともと国語教育は算術と修身と並んで三大科目のひとつであったものが、近年では、国語よりもむしろ英語が大事だといった論調が主流になりました。
    結果、現代の国語教育のための授業時間は、かつての半分程度に縮小されるに至っています。

    だからと言って、文科省を責めるのはお門違いというものです。
    文科省は行政機構であり、行政機構は法に基づいて与えられた行政を行うことが仕事です。
    その法をつくるのは国会です。
    つまり国会が、子どもたちがちゃんとした教育を受けることができるように、法案を整備し、行政に改善を求める。

    そんな大切な国会が、8年前に言ったとか言わなかったとかいう、くだらない議論にもならない、ただの揶揄合戦に終始し、メディアまでもが一緒になって、高市大臣が言ったとか言わなかったとか騒ぎ立てる。
    そんなものは、政治ごっこ、政治遊びであって、国政とはいえません。

    もはや日本の政治は、行き着くところまで行き着いた。
    いまや、その根幹から、民意によって立て直すべきときにきています。
    そしてそれを行うのは、間違いなく目覚めた、普通の、日本人です。

    昔の国語の授業です。
    頼朝は、万寿姫と唐糸を赦しました。
    赦しただけでなく、褒美までとらせました。
    ここで先生から次のような質問がなされたものです。

    「さて、みんなはどう思うかな。」

    太郎君が手を上げ、先生が指名します。
    「母子が泣いたからです。
     女の涙って怖えから!」
    教室に笑い声がひびきました。
    花子さんが手をあげました。
    「万寿姫の孝行の気持ちや行動が感動させたから」

    先生「うん。そうだね。じゃあ君たちに聞くけど、
     感動があったら、法を破っても良いのかな?
     この場合、お母さんは殺人未遂犯だよ?」

    「だって先生、頼朝が感動したんだろ?」
    「将軍が感動したら、将軍の勝手気ままで、罪を赦しても良いのかな?」
    「じゃあ、御家人たちが感動したんだ。」
    「でも、決めたのは頼朝でしょう?」
    「みんな感動したんだよ」
    「でもさ、へそ曲がりっていない?」
    「いるいる」
    「てことはさ、このとき、赦すべきという人たちと、赦してはいけない、という人たちがいたってことだよね」
    「そそ。その最終決断をしたのが頼朝だったってことなんだろうね」
    「でも、そもそもどうして法を犯した人を赦しても良いんだろう」

    ・・・と、生徒たちの議論が続くわけです。
    そして先生から、ここで舒明天皇の「うまし国」ということが伝えられます。

    万葉集にある舒明天皇の御製です。
    「うまし国だよ。大和の国は」
    ここでいう「うまし国」というのは、万葉集では「怜忄可国」と書かれています。
    「怜」という字は、神々の前で傅【かしず】く心を意味します。
    「忄可」という字は、心にかなう、という意味で、訓読みが「おもしろし」です。
    つまり、神々の前でかしづく心で、こころにかなう。そういう国だよ、大和の国は、と舒明天皇が歌に遺されているわけです。

    もちろん法は大切です。
    けれどその法は、人が作ったものでしかありません。
    実際の世の中には、法が予定していた場合だけでなく、様々な現象があります。
    そしてそれを裁かなければならなくなったとき、法の前に、わたしたちの国では、神々がどのようにご判断されるのか。どうすることが、神々がいちばん喜ばれることなのか。
    そういうことを前提に、多くの人にの心にかなう裁定とはどのようなものであるべきなのかが、問われ続けてきたのです。

    万寿姫母子への判断も、その延長線上に裁定があります。
    ただ、法にあるからとか、将軍の命を狙ったからとか、そういうこと以上に、人としてたいせつなこと、そして人と人との絆といったものが、国法以上に大切なものと考えられてきた。

    だからこうした裁定が行われた・・・・ということが教室の中で先生から教えられたわけです。

    それにしても・・・
    母の唐糸は、単身、木曽から鎌倉へと渡り、また娘の万寿姫も、わずか13歳【当時は数え年ですから、いまなら12歳の小学6年生】の少女が、乳母と二人だけで、やはり木曽から鎌倉まで旅をしています。
    時代は、源平合戦が行われた時代です。
    そこここに敗残兵が隠れ、平家の残党狩りなどが行われていた、日本の歴史の中にあっても、きわめて殺伐とした時代です。
    そんな時代にあってさえ、女子が、少女が、護衛も付けずに長旅ができた・・・。
    これは世界史にあっても、きわめて異例なことです。
    日本の治安の良さは、ただ法によるばかりではなく、ひとりひとりが神々の前で正しく生きることが大事とされてきた中に存在したのです。

    さてみなさんは、この万寿姫の物語から、何をお感じになられましたか?

    ※この記事は2018年3月の記事のリニューアルです。
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    国会の高市大臣の発言をめぐる予算委員会与野党の質疑では、与野党の議論はまったく噛み合っていません。日本がこれほど大変な情況にあるなかで、そもそも国会でそんなつまらないことを延々と議論することなど、おそらく国民の誰も求めてなどいません。
    このようなことが公然と起こるのも、戦後の国語教育の大罪です。

    20210308 国語
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    最近の老人(主に70代以上)の方は、若者の話す日本語の単語の8割が理解できないという話があります。
    8割という数字の根拠になるものまでは知りません。
    興味もありませんが、若者言葉が年寄りの話す日本語と、かなり違ってきているというのは事実として賛同します。

    代表的なものをいくつかあげてみたいと思います。
    店員「レジ袋はご利用ですか?」
    お客「はい、大丈夫です」
    (必要なのか必要でないのか、どっち!?)

    若者「最近さあ、この情報がバズってんだよね」
    老人「???」
    (バズるというのは、情報があっという間に広がることをいいます)

    老人「君たちは仲間同士なの?」
    若者「俺たちクラスタさ」
    老人「コロナですか?!」
    (クラスタは単に集合体とか仲間の意味で使われている)

    若者「みつです」
    老人「え、二人だよ?」
    (若者言葉で「みつです」は、距離が近いという意味)

    若者「今度の土日でおしゃピク行かない?」
    老人「それどこのお店?」
    (おしゃピクはおしゃれなピクニックの意味)

    早く帰ろうとする若者に
    老人「君、もう帰るのかい?」
    若者「今日はいえきゃんっす」
    老人「何のキャンセル?」
    (いえきゃんは、自宅でキャンプするという意味)

    若者「ちーぎゅう食べてえ」
    老人「それどこの牛?」
    (ちー牛は、チーズ牛丼の意味)

    老人「彼女はどうして泣いてるの?」
    若者「ぱおんですよ」
    (ぱおんは悲しみに沈んでいるという意味)

    若者「おじさん、すぱだりだよね〜」
    老人「うん。スパゲティ好きだよ」
    (すぱだりはスーパーダーリンの意味)

    この他にも色々あるのでしょうけれど、昔はこういった言葉は、一定のコミュニティの中だけの隠語(いんご)という扱いだったものが、最近では、若者の間には一般用語として定着しています。
    SNSやネットをしない高齢者には、もうまったく言葉がわからないし、通じません。

    世代間の断絶ということ言われるようになって久しいけれど、最近では、お年寄りと若者の間での共通の情報になるものさえも、疑わしくなっているようです。
    早い話、最近の若者は新聞を読まないし、テレビも観ない。
    テレビについていえば、一人暮らしの若者で、テレビを持っていない子の方が、いまや多いといわれています。

    そして次々と新しい造語がネットのなかで生まれ、それが拡散され、若者の間では一般用語になる。
    新聞やテレビしか情報源のないお年寄りは、時代から完全に隔離されてしまい、若者たちと共通の言葉での会話さえも怪しくなってきているというのが、昨今の日本の情況です。

    おもしろいことに、アメリカの場合、こうした言葉による世代格差がほとんどありません。
    理由はひとつにはキリスト教の教会が世代間の取り持ちをしているとともいいますが、やはり教育の影響が大きいと思います。
    日本の場合は、教育そのものが崩壊しており、世代間を取り持つ共通の文化そのものが壊れています。
    そうしたなかでいったん言語格差がはじまると、世代間で、言葉が通じないといった問題に直結します。

    幕末までは、外国語を用いる場合でも、わざわざそれを日本人にわかりやすいように、日本語に翻訳して用いていたものが、明治の中頃から、欧米崇拝が広がりました。
    けれど世代間で言葉が通じないという、このおかしな現象は、戦後に蔓延した「古いものは価値を持たない」という、おかしな思想によるものであろうと思います。

    特に問題なのが「国語教育」です。
    国語教育で行われていることは、文中の「それ」は何を指すかとか、テニヲハの使い方がどうのこうのとか、テストで採点しやすいことが教育の中心になっています。
    その文意はどのようなものかとか、文中にないけれど、筆者が本当に言いたかったことは何かといった、ストーリーから筆者の想いを察し、それがなぜそのようにいえるのかを論証するといった高度な日本語教育は、いまではほとんど影を潜めています。

    日本文化というのは、その根幹にあるのが「察する文化」です。
    「おまえなんか嫌いだよ」
    と口では言っているけれど、その言葉の裏には相手のことを心から愛している、自分以上に相手のことを気遣い、大切に思っているといった感情が働いているといったことを、その全体から察していく。
    これが日本の文化です。

    阿倍仲麻呂の歌に、
     天の原ふりさけ見れば春日なる
     三笠の山に出でし月かも
    という歌があります。

    単純に文意だけ見れば「春の日に夜空を仰いだら三笠の山に月がでているらしい」となります。
    ♪月が〜出たでた、月がぁ出たぁホイホイ
    というわけです。
    新月以外の日なら、夜空を見上げれば月が出ています。
    そんなあたりまえのことを歌にして、何が面白いのか。
    阿倍仲麻呂はとても偉い人だというけれど、古代の人は、月が出たと詠んだだけで、素晴らしい和歌と言ってもらえたのだから、昔の人はアホばかりだったんだなあ・・・と思わせるような解釈だから、この歌を学ぶことがあれば、そこでは、
    「ふりさけ」とは何か、文法的にどういう使われ方がされているのか、といった文法だけが強調して教えられることになります。

    けれど阿倍仲麻呂はこの歌で、月が出た出た、わぁい♪と言いたかったのではありません。
    そのことは、歌をよく見ればわかります。
    「月かも」と詠んでいます。
    「月かも」というのは、月みたいだねえ、といった意味になります。

    遣唐使として派遣され、あまりに優秀であったがゆえに唐の国に留め置かれた阿倍仲麻呂が、35年も前に日本を出るとき、春日で送別会を営んでもらった。
    この時代は照明といえば行灯くらいしかありませんでしたから、こうした大きな宴会等は、たいてい満月の夜、つまり夜が満月によって明るく照らされる晩に行われました。
    あのとき見上げた空には、まあるいお月さまがかかっていた。

    いま、唐の国から見上げる空にも、あのときと同じ月がかかっているなあ。
    帰りたいなあ、日本に。

    そんな想いを阿倍仲麻呂は和歌に託しているとわかります。

    さらにいえば、百人一首の7番歌として藤原定家がこの歌を採用したのは、唐の国の高官としてあらゆる便宜特権を与えられた阿倍仲麻呂でさえも、唐の国より日本のほうが良い国、素晴らしい国と思っていた、それだけ日本というのは、素晴らしい国だったのだよ、という趣旨を後世に伝えたかったのかもしれない。
    そのよう強い思いを、たった31文字の和歌が伝えているのです。

    国語教育というのは、単にテニヲハを教える教育ではありません。
    もちろん正しい日本語を教えることも大切ですし、漢字や平仮名、単語の意味などを教えることも大事なことですが、それ以上に国語は、本来、日本文化の根底にある察する文化を教えるものでなければならないものです。

    けれど、筆者の想いを察する、文ではなく、文意から筆者の思いを察し、そこから何を感じ取るかといったことは、読む人によって、みんな、少しずつ違っているものです。
    正解は、ないのです。
    ということは、これはテストで採点できることではない。
    もちろん受験には関係ない。
    だから戦後教育では無視されています。

    このため、察しようとする老人と若者の会話、つまり冒頭の若者と老人の会話が、逆であれば、これは世代間の壁になってしまいます。
    たとえば、
    若者「みなさんは仲間同士なのですか?」
    老人「わしらはクラスタじゃ」
    若者「はぁ?何いってんのかわかんねえ〜」

    冒頭の会話は、こうなっていました。
    老人「君たちは仲間同士なの?」
    若者「俺たちクラスタさ」
    老人「コロナですか?!」
    老人の側は、若者の言葉の意味を一生懸命察しようと心がけているのです。
    けれど逆転した会話では、たったこれだけの会話で、若者と老人の間に壁が生まれてしまっています。
    つまり、コミュニケーションの障害が生じてしまっているのです。

    国語を失うということは、思考力、行動力、コミュニケーション力を損ねることになるのです。

    責任ある社会人とって大切なことは、自分の頭で考え、行動し、同じ共同体の一員としてコミュニケーションをとることができることです。
    国家が行う教育はそのためにあります。
    それができない日本人が増えています。

    国会の高市大臣の発言をめぐる予算委員会与野党の質疑では、与野党の議論はまったく噛み合っていません。
    日本がこれほど大変な情況にあるなかで、そもそも国会でそんなつまらないことを延々と議論することなど、おそらく国民の誰も求めてなどいません。

    このようなことが公然と起こるのも、戦後の国語教育の大罪です。


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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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