• 日本は天皇の知らす国


    天皇は、国家最高権威であり、国家のいわばオーナーです。
    ですからすべてを「お知りになられる」お立場にあられます。
    すべてを知り、そして国家国民を「おほみたから」とされるのです。
    そして政治は、その下にある、摂政や太政大臣、将軍、内閣総理大臣等が、国家最高の政治権力者となってこれを行う。権力者なのですから、当然、権力に応じた責任性を持つという仕組みです。
    この仕組を古代において構築できた日本は、幸せです。
    なぜなら、この仕組みこそが、民主主義の最高の形であるからです。

    20230326 知らす



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    時代劇に出てくる商家には、店主、番頭、手代(てだい)、丁稚(でっち)が登場します。
    けれど実際には、そうした体制をとっているのは、ある程度の大店(おおだな)の場合で、小さな、いまでいう中小零細の商家の場合は、「家」というカタチをとっていました。

    それがどんなものかというと、まず店主は「親方」などと呼ばれました。
    先輩社員が「兄貴」、
    兄貴たちのうち、リーダー的存在が「若頭(わかがしら)」。
    古参ないし仕事の出来不出来によって社員たちには順位がつけられていて、これらがまとまって「若衆(わかしゅう)」。
    入社間もなくまだ後輩のいない社員は「新入り」と呼ばれました。

    なんだかヤクザの世界みたいですが、そうではなくて、それが世間の一般であったわけです。
    つまり、店主である親方を実の親と同じ存在に見立てて、社員みんなをその「家族」に見立てていたのです。

    日本は、初代神武天皇が大和の国の橿原(かしはら)に都を定めたとき、「六合(くにのうち)を兼ねて、もって都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと、またよからずや」と詔(みことのり)されて出来上がった国です。
    天の下をおおう家となろう、というわけですから、国全体がひとつの家族となろうということです。

    日本は天然の災害が多い国ですから、日頃から食料(お米)を備蓄しておく必要があります。
    そうしなければ災害によって食料が尽きたとき、人命までも尽きてしまうからです。
    そしてそのためには、大規模災害で地域全体が食料不足となったとき、他の地域からお米を融通することができる社会体制が必要になります。

    神武天皇の建国は、まさに地域を超えたお米の融通とその管理を目的として、天の下がひとつの家族のようになって、互いに助け合っていこうと、そのために地方ごとが独立したクニ(昔は各地方のことをクニと言いました)ではなく、その独立したクニ同士がみんな家族となる日本(やまと)の国としたものです。
    初の皇居となった橿原宮も、そのために築かれたものです。
    これは日本書紀に書かれ、少なくとも日本書紀が献上されて以降、1300年にわたって我が国の常識とされたことです。

    これを「八紘一宇(はっこういちう)」といいます。
    GHQにおもねる戦後の学者たちはこれを「日本が海外侵略を正当化する標語」だと決めつけましたが、実は意味がぜんぜん違います。
    諸外国のように、権力者が民間人を平気で虐殺したり、その財産等を奪い、蹂躙してきた歴史からすれば、日本がそのような助け合いを前提とした家族国家を目指してきたということは、GHQのいかなるエリートであったとしても考えもつかなかったことであったのかもしれないし、日本を弱体化させようとするのがGHQの目的であれば、それは「何としてもつぶしたい」日本の形そのものであったのかもしれません。

    すっかりGHQの、そしてその後の日教組教育に染まった戦後の日本人は、すっかり忘れていますが、八紘一宇という国の在り方が、あたかも侵略用語であるかのように曲解するのは、まさに「心が歪めば、周囲のすべてが歪んで見える」という人の性のさもしさを象徴したものといえます。

    さて商店は、どこもそうですけれど、最初に起業した時点では、創業者ひとりの活躍が店を維持します。
    行商をしたり、台所にたったり、それこそ生産活動から、営業活動、帳簿処理にいたるまで、その全てを店主自身がやっていきます。

    店がすこし大きくなると、店員を雇うようになります。
    店員も、規模の小さいうちは、女房であったり、息子さんたちであったりします。
    これを「三ちゃん」経営といいます。
    とうちゃん、かあちゃん、にいちゃん、で三ちゃんです。
    つまり家族で店を営むわけです。

    だんだんお店が大きくなると、他人さまを雇うようになります。
    雇った他人様を、家族として迎え入れるわけですから、店主が親となり、先輩たちが兄(あに)さんとなるわけです。
    肉親としての兄弟には、長男、次男、三男、四男と、生まれた年に従って順番がありますから、これと同じように店員も、同様にも順番が付けられたわけです。

    ときおり、長男、次男よりも、四男坊がとびきりの才能をもった人だったりすることもあります。
    このためお店が大きくなると、兄弟の順番とは別に、番頭、手代、丁稚といった組織上の役割が与えられるようになります。

    番頭さんは、店主に代わって店を切り盛りする、いわば総責任者です。
    人事、総務、経理財務、営業、管理、監査等、お店の経営活動の一切を切り盛りします。
    つまり、いまの会社でいえば、雇われ社長です。

    では店主とは何かというと、社長よりも上位のオーナーといった立場になります。
    番頭さんも、手代さんも、丁稚君も、全部店主によって雇われた者たちです。
    そしてお店も、店主のものです。
    けれど経営の一切は、番頭さんに委ねるわけです。

    これは実におもしろい形です。
    なぜなら店員さんの側から見ると、店員は、社長である番頭さんの私物ではない、という明確な線が引かれることになるからです。
    店員さんたちは、店主に雇われているのであって、番頭さんに雇われているわけではない。
    つまり店員の地位は、日々の命令を下す番頭さんの私物ではない、ということになるわけです。

    しかもその原型は、商家という組織内にあって、番頭さん、手代さん等には、もちろんそれぞれの役割分担があり、責任範囲があるのだけれど、基本的に全員が家族です。
    つまりもともと商家の中に奴隷の存在がありません。
    みんな家族であって、家族の一員であるということは、ひとりひとりが人として尊重されているということです。

    このことを、西洋で生まれた株式会社などと比較してみると、その違いが鮮明になります。
    株式会社は、資本家が株主となり、優秀な社長を雇って商売をやらせ、その利益を株主が不労所得として吸い上げるという仕組みです。

    この場合、株主に雇われた社長にとって、社員はいわば「手駒(てごま)」であって、そこに人格権はありません。
    なぜなら社長は、株主に利益を還元するためだけに存在し、その利益をあげるために社員を利用するからです。
    利用価値がないなら、首を斬る。
    当然のことです。ただの物なのです。
    家族でも身内でもなんでもないのに、利用価値がない社員を手元においていたら、それだけ会社の業績が悪化するだけです。
    悪化すれば、社長は株主から自分の首を斬られます。

    そういう意味で、西洋的株式会社は、「利益を上げる」という(経済)戦争に特化した組織形態であるといえます。
    日本的な家族が支え合い、あるいは近隣の家族(つまり同業他社や顧客、仕入先など)等と互いに助け合って、生きていこうとする組織形態とは、実は根本的に、その存在目的が異なるわけです。

    日本は天然の災害が多い国ですから、自分だけが欲をかくことよりも、みんなで共同して日頃から災害に備え、あるいは災害時には互いに支え合うことを前提とします。
    森で火災や大水が発生したとき、世界中どこでも野生の動物たちが、洞穴などに避難しますが、そのとき、食肉動物も草食動物も、みんな一緒に避難場所に集合することは、よく知られたことです。
    つまり、いざ災害というときには、動物たちであってさえ、相互に助け合い、支え合うのです。
    そして災害が去ったあとには、復興工事が待っています。
    これまた、お金持ちや権力者ひとりでは、どうにもならないことです。
    なぜなら、民間に活力があって、はじめて災害復興が可能になるからです。

    こうした文化は、天然の災害の危険のない(もしくは少ない)欧米には育っていません。
    というよりも、欧米がある程度進んだ文化を持つようになったのは、14世紀の大航海時代以降のことです。
    それまでの西欧は、世界的に見ても文化の遅れた、というより文化の育たない、ただの紛争地帯です。
    殺し合いと収奪ばかりが横行した、文化果てる野蛮地帯にすぎません。

    その刃が、大航海時代以降、有色人種国に向けられるようになり、徹底した裏切りと収奪によって、西欧諸国は富を得るようになりました。
    つまり野蛮だから、富を得たのです。

    チャイナも同じです。
    2〜300年に一度、大規模なペストとバッタの大群が全土を襲い、そのために人口の7〜9割が失われ、混乱の中を、北方の鮮卑族が殴り込みをかけて新たな王朝を築いてきたのがチャイナの歴史です。
    都度人口の7〜9割が失われ、しかも外国人によって、いわば植民地収奪王朝が築かれるわけですから、文化の伝承がありません。
    つまり、王朝ごとに、いわばゼロからスタートしているわけで、しかも悪いことに、新王朝は過去の王朝を全否定しますから、結果として、王朝交代の都度、まるで赤ちゃんが生まれるのと同じで、過去の経験の一切がクリアされてしまいます。
    つまり、文化が育たないのです。

    よくチャイナの時代劇などを観ますと、男性が頭頂部だけを残して髪の毛を剃り、その頭頂部の髪の毛を長く伸ばして編んでいる姿、あるいは、男女ともいわゆるチャイナ服が、あたかもチャイナの独特の文化であるかのように映像化されますが、それらは、満洲あたりを拠点とした女真族の文化であって、漢族の文化ではありません。
    そして新たな王朝によって支配者となった地方長官の類は、地域の生き残った住民からひたすら収奪を行いました。
    そこに助け合いの文化など育ちようがなく、とにもかくにも、生きている間にどれだけ贅沢をするか、どうやって生き残るか、そのためには人の肉さえも売買の対象にするという、ある意味凄みのある文化となっているのが、いまのチャイナです。

    ちなみにそのチャイナ初のペストは、記録にあるだけでも14世紀と17世紀に西洋にまで波及して、ヨーロッパの人口の6割の命を奪っています。
    今回の新型コロナウイルスは、頭痛や39℃程度の発熱、下痢や肺炎を引き起こし、治療しなければ数日で死亡するリスクのある病ですが、実はその症状を持った病気のことを「ペスト」と言います。
    このペストが敗血症を伴って体が黒く変色して死に至るものが黒死病ですが、要するに新型コロナウイルスいう呼称は、ある意味、事実誤認を誘うための用語であって、実はこれは「武漢ペスト」と呼ぶべきものです。
    実際、チャイニーズの影響の少ない西欧国では、そのように呼ばれて警戒が呼びかけられているのだそうです。

    さて、古くからある日本型経営は、店主がいて、店の全ては店員も含めてぜんぶ店主のものだけれど、その店主は(あくまでも大店の場合ですが)、店の切り盛りはしません。
    ただ、店主として君臨しているだけです。
    実際の経営は、店主によって任命された番頭さんが切り盛りしますが、なぜ番頭さんにそれができるかというと、番頭さんの権限は、店主によって認証されているからです。
    つまり、店主の権威によって、番頭さんは権限をふるうことができるわけです。

    その番頭さんは、たとえば気に入らない店員がいたとしても、そうそう簡単に、その店員の首をきることはできません。
    なぜならその店員が、「番頭さん、オレはあんたに雇われているわけじゃないんだよ」と言われれば、番頭さんは二の句が継げない。
    番頭さんが首を斬ろうとするならば、店主をはじめ、周囲のみんなに、充分にそれを納得させなければなりません。

    また、店員さんたちは、もちろん番頭さんの言うことを聞いて、目先の利益をあげることにも努力するけれど、店主によってその地位を保障されていることから、目先の利益や、いまの役割をまっとうすることだけでなく、お店の将来、あるいは自分の将来にとって役立つ勉強をかさね、いつかは番頭さんのような立派な人になろうと努力していきます。
    そしてそうやって努力を重ねた者が、次の番頭さんになるわけです。

    もうすこしまとめると、日本型商店経営というのは、実は、店主は君臨すれども統治せず、つまりある程度大店になると、番頭さんがすべてを切り盛りしていて、店主はそれに口出ししない。
    けれどすべての店員は、店主によって雇用された者たちという関係になっています。
    こういう関係になることによって、店員達は番頭さんの私物にならない。
    人として、仕事に邁進できる。

    実は、こうした仕組みは、日本という国、全体においても、同じ体制がとられていました。
    というよりも、日本という国柄が生んだ国の形を、知らず知らずのうちに、商家においても模倣していたと言った方が、正しいといえます。

    どういうことかというと、世界中、どこの国においても、民は、豪族や王たちの私有民です。
    私有民と書くと聞こえはいいですが、生殺与奪の権を持たれてしまっているのですから、早い話が奴隷と同じ、動産でしかありません。
    古来、民は、権力者の動産ですから、当然のこととして、そこには人権など認められていません。
    これが世界の常識です。

    ところが日本は、その豪族たちの私有民だった人たちも含めて、すべての民を国家最高の存在である天皇の「おほみたから」としてしまったのです。
    豪族たちの権力は、その天皇の権威によって与えられたものと規定されます。
    豪族たちが支配する民たちは、天皇の民です。
    これによって、日本における民は、豪族たちの私有民(動産)ではないことが確定するのです。

    日々の生活においては、豪族や大名たちの支配の中で、日本の民は生活しています。
    けれど、その民の立場は、豪族や大名などの私有民ではありません。
    なぜなら、民衆は天皇の民だからです。

    つまり日本は、天皇という存在によって、民衆が豪族や大名といった政治権力者の私有民とならずにこれた、世界でも希有な国柄であったということです。

    このことのありがたみは、日本の国から、天皇の存在をないものと考えたら、すぐにわかります。
    天皇の存在がなくなった瞬間に、民は、豪族や大名、あるいは昨今なら企業経営者やお金持ちの資本家たちの、ただの私有民になるからです。

    私有民というのは、ただの動産です。
    動産であるということは、所有物であるということです。
    所有者は、所有物を簡単に捨てたり壊したり売ったりすることができます。
    このように捨てたり壊したり売ったりすることができる対象の人のことを奴隷(=Slave)と言います。

    日本人は、なんだかわからないけれど、天皇という存在をありがたがる、といいます。
    それは実は、当然のことなのです。
    天皇という存在があるからこそ、私たち日本人は、支配者の私有民や動産、奴隷とならずに済んでいます。

    これを古い日本語で「シラス(知らす、Shirasu)」といいます。
    日本は天皇のシラス国です。

    ちなみに「シラス」は、文法的には「シラス」は「知らせる、お知りになる」といった意味になります。
    漢字で書くときは、古事記は「知」、日本書紀では「治」と書きます。
    つまり古代の人たちは、シラスを「おさめる(治める)こと」、もしくは「知ること」と理解していたことになります。

    なぜ「知ること」が「治めること」になるのかというと、そこにもまた理由があります。
    神武天皇は、日本をひとつ屋根の下に暮らす家族と定義されましたし、第16代仁徳天皇は三年間の非課税を宣言されました。
    つまり初期の頃の天皇は、西洋の王や皇帝と同じく、国家最高権力者であったわけです。

    ところがこれが変形されたのが、第33代推古天皇の時代です。
    推古天皇は、もともと第30代敏達天皇の皇后であられた女性です。
    ところが第32代崇峻天皇が、蘇我馬子によって暗殺されてしまいます。
    しかもこの暗殺は、馬子の単独犯ではなく、この当時の多数の皇族や群臣の同意を得た「宮廷クーデター」であったといわれています。
    こうなると、次の天皇のなり手がいない。
    なれば、また殺されてしまいかねないからです。

    結局、男たちのなかに天皇のなり手がなく、やむなく中継ぎ天皇として敏達天皇の皇后であられた推古天皇が、「政治向きのことは行わない」という条件付きで御即位されます。
    けれど政治は必要です。
    そこで、推古天皇の基に「政務を摂(と)る人」として、皇太子の聖徳太子が親任されました。
    そしてこのことが、我が国の天皇が、直接政務を摂らない、つまり政治よりも上位におわす国家最高権威としてのご存在となるということの先例となり、この体制が以後ずっと続いて現代にまで至っています。

    天皇は、国家最高権威であり、国家のいわばオーナーです。
    ですからすべてを「お知りになられる」お立場にあられます。
    すべてを知り、そして国家国民を「おほみたから」とされるのです。

    そして政治は、その下にある、摂政や太政大臣、将軍、内閣総理大臣等が、国家最高の政治権力者となってこれを行う。
    権力者なのですから、当然、権力に応じた責任性を持つという仕組みです。

    この仕組を古代において構築できた日本は、幸せです。
    なぜなら、この仕組みこそが、民主主義の最高の形であるからです。

    このことについて、オープン型AI であるChatGDPに以下のように質問してみました。

    ********
    国家政治権力者よりも上位に、国家最高権威者を置き、
    国家最高権威者によって国民を最大の宝物とたとき、
    政治的にはどのような影響が考えられますか?

    ********

    以下がその回答です。
     ***
    国家最高権威者が国民を最大の宝物と考えることが政治的にどのような影響を与えるかは、その国の政治体制や文化、歴史的背景などによって異なります。
    一般的に、国家最高権威者が国民を重視することは、以下のような影響をもたらす可能性があります。
    1 国民の利益が政策の最優先事項になる
    国家最高権威者が国民を最大の宝物と位置づけることで、政府の政策決定において、国民の利益が最優先事項となる可能性があります。これにより、政府の政策や行動が国民の幸福と繁栄に直結するようになり、国民の信頼を得ることができます。 
    2 政治的安定が促進される
    国民を最大の宝物とすることは、国民に対する配慮が強まることを意味します。
    政治的には、国民が政府に対して信頼を持つことで、政治的な安定が促進される可能性があります。
    政府の政策が国民の利益に沿っていると認識されることで、政府に対する支持が高まり、社会的な不安定要因が減少する可能性があります。
    3 政府のレベルが上がる
    国民を最大の宝物と考える国家最高権威者は、政治家や政府の職員にも同様の配慮を求める傾向があります。
    そのため、政府のメンバーや公務員が国民の利益を最優先事項とすることで、政府のレベルが向上する可能性があります。
    4 国際的な信頼性が高まる
    国民を最大の宝物と考えることは、国内のみならず国際社会においても重要な価値観です。政府が国民を最優先事項とすることで、国際社会においても信頼性が高まり、国際的な協力関係や外交交渉において有利に働く可能性があります。
    以上のように、国家最高権威者が国民を最大の宝物と考えることは、政治的に多くの良い影響をもたらします。
     ***

    さらに「国家最高の存在が国家最高権力者であった場合の問題点は何ですか?」と質問したときの答えです。
     ***
    1 権力集中と暴走の可能性
    国家最高権力者が国家最高の存在である場合、その権力は非常に強大なものになります。このような権力が一つの人物に集中すると、その人物が誤った判断や行動を取った場合、国家に深刻な影響を与えることがあります。また、権力の暴走や濫用が起こる可能性もあります。
    2 民主主義の制約
    国家最高権力者が国家最高の存在である場合、それによって民主主義的なプロセスが妨げられることがあります。民主主義においては、政治的権力は国民から委任されたものであり、権力者は国民の意志に基づいて行動する必要があります。しかし、国家最高権力者が存在する場合、その人物の意志や権力が国民の意志を上回ることがあるため、民主主義的なプロセスが制約される可能性があります。
    3 人権侵害の可能性
    国家最高権力者が国家最高の存在である場合、その人物が人権を軽視するような行動をとった場合、国民の権利や自由が侵害される可能性があります。国家最高権力者が人権侵害を許容するような政策を進めた場合、国民の幸福や自由が制限されることになります。
    4 後継者問題
    国家最高権力者が国家最高の存在である場合、その後継者問題が重要な問題となります。国家最高権力者が死亡、病気、辞任などで退く場合、その後継者を決めることが重要になります。後継者問題に対する政治的混乱が起きる可能性があります。
    以上のように、国家最高権力者が国家最高の存在である場合には、政治的に重大な問題が生じる可能性があることを考える必要があります。
     ***

    つまり、シラス(知らす、Shirasu)は、AIも認める、人類がなしうる最高の、そして究極の民主主義なのです。


    ※この記事は2020年3月の記事のリニューアルです。
    日本をまもろう!

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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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