• 我を捨てる日本的思考


    神々の御心は、果てしなく広く、深いものです。このことは、いまから2683年前の神武天皇のお振る舞いが、以後の日本の発展と、私たちの命にそのまま繋がっていることに思いをいたすとき、たしかなものとして、私たちの前に、その凄みを見せてくれます。

    20230531 神武創業
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    日本をかっこよく!

    今回はちょっとむつかしい話を書きます。
    根幹にあたることです。
    ここを理解すると物事の見方が変わります。

    孟子に有名な言葉があります。
    次の言葉です。
    「天のまさに大任をこの人に降(くだ)さんとするや、
     必ずまずその心志(しんし)を苦しめ、
     その筋骨を労し、
     その体膚(たいふ)を餓えしめ、
     その身を空乏(くうぼう)し、
     行い為すところを仏乱(ふつらん)す」

    要するに天が大事を人に任せようとするときには、必ずその人を奈落の底に突き落として厳しい試練を与えるのだ、というのです。
    ここから、「試練は乗り越えられる人にしか訪れない」といった言葉も生まれています。
    この言葉から勇気をいただいたという人も多いのではないかと思います。

    ただし!
    この言葉はチャイナの言葉という点に注意が必要です。
    どういうことかというと、主役が「自分」なのです。

    自分に対して天が大きな任務を与えているから、試練があるのだ、というわけです。
    そこに「オレが、オレが」の精神があります。
    自己中なのです。

    日本の古くからの考え方は違います。
    自分が主役ではなく、あくまで神々の御心が中心になります。
    どういうことなのか、日本書紀の神武天皇の物語から拾ってみます。

    神武天皇は、九州の宮崎を出発され、大分、福岡、広島、岡崎でたいへんに歓迎され、人々によろこばれながら、東へと向かいました。
    そして畿内に入ろうとしたとき、突然長髄彦(ながすねひこ)から、「お前たちはワシの国を奪いに来た!」と言われて襲撃され、このため兄の五瀬命が矢傷を受けてお亡くなりになってしまいます。

    このとき、神武天皇は撤退を決意されます。
    そのときの御言葉です。

     いまやつかれは ひのかみの  今我是日神
     うみのこにして ひにむかひ  子孫而向日
     あだをうつのは あめのみち  征虜此
     これさからふに しからずば  逆天道也
     しりぞきかへり よわきこと  不若退還示弱
     しめしてかみを ゐやいわひ  礼祭神祇
     そびらにかみの いをせおひ  背負日神之威、
     みかげのままに おそひふむ  隨影壓躡
     かくのごとくに するならば   如此
     やひばにちをば ぬらさずに  則曽不血刃
     あだはかならず やぶれなむ  虜必自敗矣

    現代語にすると、
    「我らが日の神(天照大御神のこと)のご神意を得て
     日に向かって進軍して悪い奴らを討つことは、
     まさに天の道なのだ。
     これに逆らうことはできないことだ。
     しかしここでいったんは退【しりぞ】いて兵を引き、
     我らが弱いと見せかけ、
     あらためて、
     神々を敬い、礼を尽くしてお祀りし、
     神々の御威光を背負おうではないか。
     さすれば、
     日に陰が挿【さ】すように、
     敵を襲い倒すことができよう。
     そしてこのようにするならば、
     刃を血で濡らすことなく、
     必ずや敵を破ることができるであろう」

    この御言葉を「神武天皇が負け惜しみを言ったのだ」と解釈する方もおいでになるようですが、違います。
    そうではないのです。
    「神々の御心は、人間の頭の大脳新皮質程度では計り知れないほど深いものだ」ということが述べられているのです。

    畿内に入るまで、どこに行っても歓迎され、喜ばれ、稲作の指導をしてこられたのです。
    それが畿内に入った途端、襲撃を受けたのです。
    ここで「おかしい」と気付かないほうがどうかしているのです。

    神々に時間軸は存在しません。
    千年前も、現在も、千年後も、ずっと存在されておいでになるのが神々です。
    つまり、神々の御意思は、我々人間が思いつくよりもずっと先の先まで見通しておいでになられるのです。
    ということは、ここで襲撃されたことにも、何らかの神の御意思がある。
    そう気付かなければならないのです。

    神武天皇は、ここで撤退し、畿内を南下されて行かれます。
    すると岩間から、生尾人(なまおびと)がゾロゾロと出てきます。
    生尾人というのは、尻尾の生えた猿人ではありません。
    食べ物を収奪され、骸骨のようにやせ細った人たちのことを言う、古い言葉です。
    人間、ガリガリにやせ細ると、お尻の肉がゲッソリと落ちて、尾骨が飛び出したようになり、まるで尻尾が生えているかのように見えるようになるのです。
    だから生きていながら、尾が生えたように見える人という意味で生尾人といいます。

    神武天皇はそうした人々に食べ物を与え、味方に付け、さらに神々から神剣を授かります。
    剣を授かったということは、「戦え」という神々の御意思です。

    こうして神武天皇は、新たに味方になった人々と、あらためて長髄彦の軍と対峙して戦います。
    この戦いの最中に「お腹が空いた」ので、「瀬戸内の人々よ、早く食べ物を持ってきておくれ」と神武天皇が歌った歌が遺されています。

    こうして神武天皇は、米による兵站の調達に成功し、この成功体験から橿原の地に「みやこ」を造ったとあります。
    「みやこ」というのは、いまでは「都」で首都のことを言いますが、もともとの大和言葉は一字一音一義です。
    「み」は、御。
    「や」は、屋根のある建物。
    「こ」は、米蔵を意味します。

    神武天皇は、橿原の地に、大きな米蔵をつくり、そこに全国で造ったお米を蓄えるようにしたのです。
    そして、被災地の人々に、お米を支給できるようにされました。

    考えてみてください。
    日本列島は、天然の災害の宝庫の国です。
    台風が毎年やってきて、土砂災害を起こします。(ちなみに台風があり、大水が出るから平地が生まれ、稲作ができます)。
    何年かに一度は、巨大地震がやってきます。
    火山の噴火もあります。

    こうした大規模災害が起きると、その後の飢えと疫病から、いっきに多くの人が死に絶えて、人口の6〜8割が失われてきたのが、世界の歴史です。
    ところが日本では、どんな災害があっても、災害の瞬間さえ生き残れば、食料は安定して被災地に送られるのです。
    食べて体力を付ければ、疫病の流行も防ぐことができます。
    そうして命が繋がれてきた果てに、いま生きている私たちの命があります。
    つまり、神武天皇の畿内に入られたときの撤退は、現代の私たちの命につながっているのです。

    もし、神武天皇が、長髄彦の襲撃と兄の死に逆上して、「コノヤロー」とばかり長髄彦に挑み、全滅する、もしくは長髄彦に勝利して征圧によって国を建てていれば、その後の日本の歴史は大きく代わっていたであろうし、現代を生きる私たちの命も、存在しません。

    私たちの命は、神武天皇が、このときのいきなりの襲撃を「神々の御意思」と謙虚にとらえ、悔しいけれど撤退し、あらためて天神地祇をお祀りし、神々の御意向のまにまに行動しようとされた、このことによって我が国に米の備蓄の文化が生まれ、その文化によって、私たちの命が繋がれているのです。

    そこにあることは、「オレがオレが」ではありません。
    「天の大任ガー」でもありません。
    ひたすら天神地祇に感謝し、神々の御心のまにまに生きようとする素直で謙虚な心です。

    生きていれば、楽しこともあるけれど、嫌なこと、つらいこと、悲しいこと、悔しいこと、どうにもならない忸怩(じくじ)な思いも、たくさんあります。
    いやむしろ、つらいことの方が、はるかに多いかもしれない。

    けれど、人生を振り返ってみれば、そんなつらいことや悲しいこと、悔しいことがきっかけになって、新たな気付きをいただき、成長し、現在の自分がある。
    神々のなせる御業(みわざ)に、不要なものなどひとつもない。
    すべてが関連し、つながり、そのなかを誠実に生きることだけが、自分の未来を開き、日本の未来を築く。
    ここに日本的精神の根幹があるのだと、そういうことを、神武天皇の撤退の物語は伝えているのです。

    このことは、結果からみれば「天のまさに大任をこの人に降(くだ)さんと」したものなのかもしれません。
    けれど、だからといって、そこで「オレに天が大任を与えようとしているのだ」と、「オレがオレが」になってしまってはいけないのです。

    なぜなら神々の御心は、果てしなく広く、深いものであるからです。
    そしてこのことは、いまから2683年前の神武天皇のお振る舞いが、以後の日本の発展と、私たちの命にそのまま繋がっていることに思いをいたすとき、たしかなものとして、私たちの前に、その凄みを見せてくれるのです。


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  • 第一回遣隋使についての解釈の間違いを考える


    日本の統治の根幹となるシステムを理解せず、欧米やチャイナの価値観や政治システム論の範囲でのみ、日本の歴史を見ようとすると、歴史認識を間違えることになります。
    日本には、日本の歴史伝統文化があるのです。

    20230530 遣隋使
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    第一回遣隋使についての学会の間違いを指摘しておきたいと思います。

    西暦588年に、チャイナに超軍事大国としての隋が楊堅帝によって建国されると、倭国(当時の日本)は、その二年後の西暦600年に第一回遣隋使を送っています。
    送ったのが倭王アメノタラシヒコで、このとき倭王が送った国書が『隋書』に記載があり、そこには次のように記されています。
    「高祖が所司(役人)を通じて
     倭国の風俗を尋ねさせたところ、
     使者は、
     倭王は天を兄とし日を弟とし、
     夜明け前に政治を聴き、
     日が出ると
     仕事を止めて弟に委ねる、と述べた。
     高祖は倭国の政治のあり方が
     道理に外れたものだと納得できず、
     改めるよう訓令した」
    つまり当時の倭国は、たいへんオクレた国であったのだ・・・というように解釈されて学校で教わったりすることが多いですし、また学会の通説もそのような解釈になっています。

    ちなみにこの後の歴史は、
    604年 隋の第二代皇帝・煬帝即位
    607年 第二回遣隋使 隋の煬帝、小野妹子 
    「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
     蛮夷が天子を名乗ったことで煬帝が激怒
    608年 第三回遣隋使 隋の煬帝、小野妹子
    「東天皇敬白西皇帝」
    610年 民衆酷使による京杭大運河完成
    612年 隋による高句麗出兵の大敗
    614年 隋国内で反乱発生
    618年 隋滅亡
    というように歴史が進みます。
    なんとなく学校で習った記憶をお持ちの方も多いと思います。

    さて、今回の本題に入る前に、倭国という呼称について、先に一言述べておきたいと思います。
    倭国の倭という漢字は、「背の低い人」という意味があり、チャイナは周辺の蛮族に対して、その族の音はそのままに、できるだけ良くない意味の漢字を当てたという慣習があります。
    従って、倭国とは日本に対する蔑称である、といったことが通説になっているようですが、それは少し違います。

    なぜなら「倭」という漢字に「背の低い小さい人」という意味は、その成り立ちから言うと存在しないからです。
    「倭」という漢字は、「禾」と「女」と「人」によって成り立ちます。
    「禾」は、稔った稲穂を表す漢字。
    「女」は、その稲穂を植えたり刈り取ったりする女たちの象形。
    「人」は、人々を表します。
    つまり「倭」という漢字は、もともとは、稲作をして暮らしている人々がいる日本をあらわす漢字です。
    なぜ稲作が女性かというと、縄文以来、日本では男たちは危険な海に出て魚を獲るのが仕事。
    女たちは、陸にいて、山菜を集めたり、畑仕事をしたり、稲を育てて収穫し、それらをあつめて旦那が運んでくる魚とともに料理をするのが仕事、というように、男女の仕事が別れていたことに由来します。
    このことは、いまでも田植えの田楽の際に、田植えをするのが女たち、その周囲でお囃子をするのが男たちといった伝統からもうかがい知ることができます。
    つまり「倭」は、そんな日本人の暮らしを、そのまま漢字に仕立てた文字であるのです。

    その日本人は、東亜諸国のなかでも、やや背が低い民族で、
    先の大戦の頃までは、日本人の成人の平均身長は、男が155センチ、女が145センチくらいでした。
    つまり現代の感覚でいくと、中学1年生くらいの体格であったわけです。

    日本は、自国のことを「やまと」と言い、その「やまと」を表す文字として、「倭」という文字を用いました。
    ですからヤマトタケルノミコトも、漢字で書けば「倭健命」です。
    そして、国名に稲作をする女性たちを意味する倭国という文字(こう書いて『やまとのくに』と読みます)を、実は誇りを持って用いていたのです。
    男らしさや強さや立派さを誇張する国名ではない。
    普通の人である女たちが田で稲を育て、男たちが外で働いて、みんなでお腹いっぱい安心してご飯を食べることができる、一部の大金持ちたちのための国ではなく、庶民が主役の国。
    そのような意味が「倭国」という文字に込められていたのです。

    そして倭は、輪であり、和であり、話であり、環です。
    言論戦は、環のごとくして端がないのだから、なによりもまず環を大切にし、皆で輪になって、まずは安心して人々が食べていく国を築いていこう。
    そうした意味が、倭国という文字になっています。

    さらに、今回の第一回の遣隋使の倭王の国書の文です。
    そこに、
    「倭王は天を兄とし日を弟とし、
     夜明け前に政治を聴き、
     日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」
    という言葉があります。
    政治をわかっていないと見た隋の皇帝は、これを嘲笑って改めるように諭したと書いているのが隋書ですが、そうではないのです。

    この言葉は、倭国の大王(天皇のこと)は、祭祀を司り、夜明け前に起きて神々とまずお繋がりになられる。
    そしてその後、日が昇ると、政務を朝廷の諸官が摂り始めるという意味の言葉なのです。

    これは、祭祀王と、政務王が我が国において別れていたこと、そして政務王よりも、祭祀王のほうが格が上とされていたことを意味します。
    祭祀王は、天の神々と繋がり、国家の平穏と民衆の幸せな暮らしを祈ります。
    そしてこのことが神々の御意思となります。
    その神々の御意思のもとに、我が国の政治があるのです。
    ということは、政務王の仕事は、民衆が豊かに安全に安心して暮らせるようにあらゆる手立てを講じることになります。
    このことは、もっといえば、民衆に奉仕することが政務王の仕事になるということであり、現代風に言い換えるならば、これは民衆を最も大切にする「究極の民主主義」であり、究極の政治システムです。
    そして、このような政治システムを実現できた国は、歴史上、日本だけであったのです。

    そういうことを倭国は国書にしたためたけれど、隋の皇帝は、これが理解できない。
    皇帝は、あらゆる権力の頂点に立つ者という意識しかないからです。

    現代の学会もまた同じです。
    日本の統治の根幹となるシステムを理解せず、欧米やチャイナの価値観や政治システム論の範囲でのみ、日本の歴史を見ようとします。
    だから間違えます。

    日本には、日本の歴史伝統文化があるのです。

    最後に一点、補足です。
    遣隋使も遣唐使も、その往復の成功確率は25%。
    つまり4分の3は海の藻屑となりました。
    なので遣隋使、遣唐使の船は、毎回4隻の船で往来し、1隻だけがかろうじて帰還できるというものでした。

    けれど、その航海のルートを見れば、それほど波の荒くない、沿岸ルートです。
    本来なら、気楽な船旅であるはずの航路です。
    加えて、成功確率が25%しかないのなら、朝鮮半島を陸路で北上すれば良いだけのことです。

    それでも船を用いたのは、陸路はもっと危険であったからに他なりません。
    そして本来安全なはずの航路が、きわめて危険な航路となったのは、半島の海賊による襲撃が深刻であったからです。

    「そんなことはない。この時代、百済や高句麗といった、ちゃんとした国があったではないか」と思うのは、現代の国家と昔の国家を取り違えた議論です。
    現代の国家は、領域国家といって、国境があり、その国境の内側の出来事にはその国が全責任を持つという形になっています。
    けれど、ほんの何百年か前までの世界は、領域国家ではありません。
    王がいて、その王の周辺だけが王の支配の行き届く範囲であって、すこし離れたら、そもそもどこの国の所属かさえもわからない。
    そして盗賊たちが跋扈していた、というのが、実は世界の諸国の形です。
    この形が、当時の半島の形であったのです。

    歴史は、現代の価値観で見るものではないのです。


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  • 「人でなし」という言葉の持つ重み


    古来我が国では、「人でなし」を最大の侮辱言葉としてきました。
    民は「おほみたから」なのです。
    民衆のひとりひとりが、誰もが「人」として生きていくことができる社会であるからこそ、「人でなし」は最大の侮辱言葉となったのです。
    「人でなし」は実は、奴隷を制度とした国や民族には、考えられない言葉なのです。

    20180524 5月の花
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    昔は、盗みや争いごとをするような者のことを、「人でなし」と言いました。
    理由は、日本の社会は、誰もが「人」であることを重視してきた社会だからです。
    人であることを大切にした社会であるからこそ、最大の侮辱の言葉が「人でなし」だったのです。

    その日本が、近年ではテレビや新聞の社会面は毎日「人でなし」の報道ばかりです。
    私たち日本人にとっての現在の未来の理想像は、「人でなし社会」なのでしょうか。

    日本は神話の昔から人々が、誰もが「よろこびあふれる楽しいクニ」を生きることができるように、あらゆる創意工夫と努力が払われてきた国柄を持ちます。
    そういう国に生まれ育ち、その恩恵を一身に受けて暮らしていながら、私たちは子や孫たちの未来に「人でなし」のクニを残すのでしょうか。

    『令集解(りょうのしゅうげ)』という書があります。
    いまから千年以上前の西暦868年頃に編纂された書です。
    惟宗直本(これむねのなおもと)という、当時の法律家の学者による、私的な養老令の注釈本なのですが、律令のうち、令だけを対象に、その細かな注釈をした書です。
    もともとは全部で50巻あったとされ、このうちの36巻が現存しています。

    律令は、律が刑法、令が民法を意味します。
    実は我が国では、律は、律自体が未完成であったり、注釈本もなかったりで、あまり重視されていなかった様子が伺えます。
    つまり我が国は律があまり必要とされていなかったのです。
    それはつまり、もともと「治安が良かった」ということです。

    その『令集解』に『古記』として、いまから千三百年くらいまえの738年頃に成立した大宝令の注釈書が断片的に引用されています。
    さらにその『古記』のなかに、さらに古い文献が「一云(あるにいわく)」として引用されています。
    なんだかやっかいですが、『令集解』の中に『古記』が引用されていて、その『古記』が、さらにもっと古い文献を引用していて、それが「一云」として、『令集解』に書かれているわけです。
    つまり「一云」というのは、西暦でいうと6世紀頃の日本の様子です。

    その「一云」として引用された文献の名前は伝わっていません。
    いませんが、これが実におもしろい史料なのです。
    なにが「おもしろい」かといいますと、6〜7世紀頃の日本の庶民の生活の模様が、そこに書かれているからです。
    この時代の天皇や貴族のことを書いたものはありますが、庶民生活の模様を書いたものはとてもめずらしいものです。

    では、どのように庶民の生活が書かれているのでしょうか。
    原文は漢文です。
    これをいつものねず式で現代語訳してみますので、ちょっと読んでみてください。

     ***

    日本国内の諸国の村々には、村ごとに神社があります。
    その神社には、社官がいて、人々はその社官のことを「社首」と呼んでいます。

    村人たちが様々な用事で他の土地にでかけるときは、道中の無事を祈って神社にお供え物をします。
    あるいは収穫時には、各家の収穫高に応じて、初穂を神社の神様に捧げます。
    神社の社首は、そうして捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付け、その利息を取ります。

    春の田んぼのお祭りのときには、村人たちはあらかじめお酒を用意します。
    お祭りの当日になると、神様に捧げるための食べ物と、参加者たちみんなのための食事を、みんなで用意します。
    そして老若男女を問わず、村人たち全員が神社に集まり、神様にお祈りを捧げたあと、社首がおもおもしく国家の法を、みんなに知らせます。

    そのあと、みんなで宴会をします。
    宴会のときは、家格や貧富の別にかかわりなく、ただ年齢順に席を定め、若者たちが給仕をします。

    このようなお祭りは、豊年満作を祈る春のお祭りと、収穫に感謝する秋のお祭りのときに行われています。


     ***

    いかがでしょうか。
    これがいまから1400年前の、日本の庶民の姿です。

    なかでも特徴的なのが、
    「宴会のとき、
     家格や貧富の別にかかわりなく、
     ただ年齢順に席を定め、
     若者たちが給仕をする」
    というくだりです。
    社会的身分や貧富による差異ではなく、ただ「年齢順」に席順が決まるというのです。

    集まる場所は神社です。
    その神社の氏子会館でお祭りの打ち合わせをし、終わればみんなでいっぱい飲む。
    こうした習慣は、少し田舎の方に行けば、いまでも全国に残っている習慣です。
    しかもおもしろいことに、お祭りの打ち合わせに集った人たちにとって、互いの社会的身分や地位などは、まるで関係ありません。
    「俺は◯◯社の部長だ」と言ったところで、お祭りの打ち合わせには何の関係もない。
    こうした伝統は、なんと千年以上も前から続いているものだということが、わかるのです。

    世界中どこの国においても、宴席であろうがなかろうが、席次は身分や力関係によります。
    ところが古くからの日本社会では、男女、身分、貧富の別なく、単純年齢順だというのです。
    しかもこうした習慣は、いまでもちゃんと残っています。

    このことが何を意味しているかというと、日本社会は古くから身分や貧富の差よりも「人であること」を重視してきた、ということです。

    同じことが3世紀の末に書かれた『魏志倭人伝』にも書かれています。
    そこにあるのは、西暦200年代の日本の姿です。
    いまから1800年くらい前の様子です。

    何と書かれているかというと、
    その会同・坐起に、
     父子男女別なし。
     人性酒を嗜む

    です。

    会同というのは、簡単にいえば、お祭りの際の宴会のことです。
    その宴会の「坐起」つまり席順です。
    その席順には「父子男女別なし」とあるわけです。
    つまり、身分の上下や貧富の差や男女に関わりなく、みんなで酒を楽しんでいるよ、と書かれているわけです。

    つまり、この『魏志倭人伝』に書かれている3世紀後頃の日本の庶民の様子は、そのまま「一云」に書かれている日本の庶民の姿につながります。
    要するに我が国は歴史が途切れていないのです。

    もうひとつの「一云」の重要なポイントは、村人たち全員が集まった祭事のときに、「社首がおもおもしく国家の法を、みんなに知らせていた」というくだりです。
    このことは、中央政府の発する御触れ等が、神社のネットワークを経由して、全国津々浦々に情報が伝達されていたということを意味します。
    税の徴収や治安の維持等は国司の仕事ですが、民間へのさまざまな示達は神社がこれを担っていたわけです。

    いまでも収穫の季節には神社に「奉納」として米俵が積まれたり、お酒が備えられたりします。
    また神社の建物は、たいてい高床式の建物になっています。(岩などが御神体の神社は別です)。
    これが何を意味しているかというと、仏教伝来前の神社では、お米の収穫のための種籾の保管をし、翌年には苗を育て、その苗を各農家に配り、また災害時の備蓄食料は、神社がこれを保管していたということです。

    ある由緒ある、代々世襲の神社の宮司さんとお話したことがありますが、その宮司さんは、新米を食べたことがないとおっしゃられていました。
    今年できた新米は、万一のときの非常用備蓄食料としてまるごと保存します。
    備蓄米は、前年に収穫したお米と合わせて二年分が常時備蓄されます。
    そして3年が経過した古々米から食べ始めるのです。

    また「一云」は、「神社の社首は、そうして捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付け、その利息を取ります」と記述しています。
    いまはその役割を、地域の農協が行っています。
    つまり、古い時代の日本では、神社=農協の役割をも担っていたのです。

    『魏志倭人伝』に書かれている3世紀初頭の日本は、弥生時代の終わり頃にあたります。
    その弥生時代を担った人々は、縄文時代の日本人と同じ日本人です。
    その弥生時代の日本人が、大和朝廷を築き、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和を経て、平成のいまの世に生きています。

    そしてその間、ずっと日本は日本としての歴史は、断絶することなくつながっています。
    そうした日本の歴史において、村落共同体や神社のもっていた役割、あるいは祭事のもっていた役割は、とても大きなものであったといえると思います。
    そして、そういう社会基盤があったからこそ、日本は歴史がつながっています。

    英語でいうと、そんな日本の歴史伝統文化をひとつにする集団のことが「ネイション(Nation)」です。
    これに対し、政治体制のことを「ステイト(State)」と言います。
    ですから、古くからある歴史伝統文化の国としての日本はネイションであり、大日本帝国や日本国は、そのなかのステイトという関係になります。
    1952年に生まれた日本国ステイトの歴史は浅く、縄文以来1万7千年以上続く日本ネイションの歴史は古くて深い。

    『魏志倭人伝』は、他にも「盗窃せず、諍訟少なし」とあります。
    日本人は盗みをはたらかず、争いごとも少ないというのです。
    当然です。
    天然の災害の多い日本では、人々が日頃から互いに助け合って生きていかなければ、災害時に生き残ることさえも難しくなってしまうからです。

    近年の我が国では、大陸や半島の文化があたかも良いものであるかのように宣伝されてきました。
    天皇という紐帯を持たないそれら諸国諸民族では、自分と自分をとりまくわずかな家族しか信頼することができず、他人から物を奪い、自分だけが贅沢三昧な暮らしをすることが、あたかも正義であるかのように宣伝され、正当化されています。

    しかしそのことが多くの人々にとって、かならずしも愛と喜びと幸せと美しさのある人生をもたらさないことは、すこし考えたら誰の目にも明らかなことです。
    「人」というのは、ごくわずかな特定の人ばかりを指すものではありません。
    民こそが「おほみたから」であり、民衆のひとりひとりが、誰もが「人」として生きていくことができる社会こそが大事です。
    そうであればこそ、古来我が国では、「人でなし」を最大の侮辱言葉としてきたのです。

    ※この記事は2014年5月の記事のリニューアルです。
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  • 7世紀の時代の大揺籃期を概括してみる


    我が国が、国家形成の揺籃期に、素晴らしい天皇をいただいたことは、我が国の臣民として、たいへんに幸せであったことだと思います。
    我々日本人は、いまあらためてネイションとしての日本にもともと備わった歴史伝統文化を取り戻し、民衆こそが大御宝であるとする、民衆のための究極の民主主義国家を取り戻していく必要があると思います。

    20211225 かまどの煙
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    日本をかっこよく!

    聖徳太子がお隠れになったとき、太子の死をすべての人が嘆き悲しみました。
    年老いた者は我が子を失ったかのように。
    若者は父母を失ったかのように、泣きむせぶ声が満ちあふれたと記録されています。

    その聖徳太子の没後、再び蘇我入鹿が専横をしはじめます。
    朝廷は、聖徳太子の子である山背大兄皇子に天皇になってもらおうとしますが、これを察知した蘇我入鹿は、643年、武力をもって山背大兄皇子を襲いました。
    このとき、逃げ落ちるように説得する家来たちに、山背大兄皇子は、戦いによって多くの臣民の命が失われることを偲ばれて、自害して果てます。
    こうして聖徳太子の子孫は絶え、蘇我氏が専横を極めるようになっていきました。

    「このままではいけない」
    そう思って立ち上がったのが中大兄皇子(後の天智天皇)です。
    中大兄皇子の父は舒明天皇です。

    舒明天皇は、我が国の理想を歌に詠みました。
    それが『万葉集』にある「天皇、香具山に登りて望国くにみしたまふ時の御製歌」です。

     山常庭    やまとには
     村山有等   むらやまあれど
     取与呂布   とりよろふ
     天乃香具山  あめのかくやま
     騰立     のぼりたち
     国見乎為者  くにみをすれば
     国原波    くにはらは
     煙立龍    けぶりたちたつ
     海原波    うなばらは
     加万目立多都 かまめたちたつ
     怜忄可国曽  うしくにそ
     蜻嶋     あきつのしまの
     八間跡能国者 やまとのくには

    意味は概略すると次のようになります。

    「恵みの山と広い原のある大和の国は、
     村々に山があり、豊かな食べ物に恵まれて
     人々 がよろこび暮らす国です。
     天の香具山に登り立って
     人々の暮らしの様子を見てみると、
     見下ろした平野部には、
     民(たみ)の家からカマドの煙が
     たくさん立ち昇っています。
     それはま るで果てしなく続く海の波のように、
     いくつあるのかわからないほどです。
     大和の国は、人々が神々の前でかしづき
     感動する心を持って生きることができる国です。
     その大和の国は人と人とが
     出会い、広がり、また集う美しい国です」

    この歌について、舒明天皇が単に「大和の国は美しい国だ」と詠んだだけだと翻訳しているものをよく見かけます。
    理由は、「うまし国」の解釈にあります。
    原文にある「怜(忄可)国曽(うしくにそ)」《「忄可」は、りっしんべんに可というひとつの漢字です》を、「美しい国」と翻訳していることにあります。

    全然違います。
    怜(忄可)の「怜」は、神々の前でかしずく心を意味します。
    「忄可」は、良い心を意味し、訓読みが「おもしろし」です。
    古語で「おもしろし」は、感動することを言います。
    つまり「うまし」は「怜(忄可)」と書いて、人々が神々の前でかしづく感動する心を持って生きることができる国であることを示しています。

    天皇のお言葉や歌は「示し」です。
    数ある未来から、ひとつの方向を明示するものです。

    よく戦略が大事だとか、戦術が大事だとか言いますが、戦略も戦術も、そもそも仮想敵国をどこにするのかという「示し」がなければ、実は戦略の構築のしようがありません。
    その意味で、トップの最大の使命は「戦略に先立って未来を示すこと」です。
    舒明天皇は、我が国の姿を、
    「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」
    と規定された(示された)のです。

    ちなみにここでいう「おもしろい国」という言葉は、我が国の古語における「感動のある国」を意味します。
    昨今では、吉本喜劇のようなものをも「おもしろい」と表現しますが、それでも例えばとっても良い映画を観た後などに、「今日の映画、おもしろかったねえ」と会話されます。
    この場合の「おもしろい」は、「とてもよかった、感動的した」といった意味で用いられます。

    「民衆の心が澄んで賢く心根が良くて、おもしろい国」というのは、聖徳太子がお隠れになられたときの民衆の反応に見て取ることができます。
    人々が互いに助け合って、豊かで安心して安全に暮らすことができる国だから、素直な心で、いろいろなことに感動する心を保持して生きることができるのです。

    特定一部の人が、自分の利益だけを追い求め、人々を出汁(だし)に使うような国柄であれば、人々は使役され、収奪されるばかりで、安心して安全に暮らすことはできません。
    とりわけ日本の場合、天然の災害の宝庫ともいえる国ですから、一部の人の贅沢のために、一般の庶民の暮らしが犠牲にされるような国柄では、人々が安全に暮らすことなどまったく不可能であり、さらに何もかも収奪されるような国柄では、とても人々はなにかに感動して生きるなど、及びもつかない国柄となってしまいます。

    舒明天皇の時代は、強大な軍事帝国の唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし始めた時代であり、内政面においては蘇我氏の専横が目に余る状態になってきていた時代でした。
    そんな時代に、舒明天皇は、「うし国ぞ、大和の国は」と歌を詠まれたわけです。
    それは、舒明天皇が示された我が国の未来の姿です。

    そんな父天皇を持った中大兄皇子は、そこで宮中で蘇我入鹿の首を刎ねます。
    これが乙巳の変で、645年の出来事です。

    蘇我本家を滅ぼした中大兄皇子は、皇位に即(つ)かず、皇太子のまま政務を摂ります。
    これを「称制(しょうせい)」と言います。
    我が国では、天皇は国家最高権威であって、国家最高権力者ではありません。
    このことは逆に言えば、天皇となっては権力の行使ができなくなることを意味します。
    ですから中大兄皇子が、大改革を断行するにあたっては、中大兄皇子が皇位に即(つ)くわけにはいかなかったのです。

    そして同年、中大兄皇子が発令したのが「公地公民制」です。
    これによって、日本国の国土も国民も、すべて天皇のものであることが明確に示され、またその天皇が、あえて権力を持たずに国家最高権威となられることで、民衆こそが「おほみたから」という概念を、あらためて国のカタチとすることを宣言したわけです。

    このことは、当時の王朝中心主義の世界にあって実に画期的なことであったといえます。
    なにしろ、21世紀になったいまでも、日本の他には、国家最高の存在が国家最高権力者である国しかないのです。

    ところが中大兄皇子は、朝鮮半島への百済救援のための出兵を意思決定されます。
    倭国は勇敢に戦いましたが、気がついてみれば、百済救援のために新羅と戦っているはずが、百済の王子は逃げてしまうし、新羅は戦いが始まると逃げてばかりで、まともに戦っているのは、倭国軍と唐軍です。
    これでは、何のために半島に出兵しているのかわからない。

    さらに白村江で、倭国兵1万が犠牲になりました。
    亡くなった倭国兵たちは、その多くが倭国の地方豪族の息子さんと、その郎党たちです。
    この禍根は、実は後々まで尾を引きます。

    我が国が天皇を中心とする国家であることは、誰もが認めるし、納得もできるのです。
    そして天皇がおわす朝廷の存在によって、いざ凶作となったときには、全国的な米の流通が行われて、村の人々が飢えることがないようにとの国家の仕組みも納得できるのです。
    けれど我が子が死んだ、中大兄皇子の撤兵指示によって、結果、白村江で多くの命が失われ、そのときに我が子が死んだという、この感情は、どうすることもできません。
    理屈ではわかっていても、感情は尾を引くのです。

    この禍根は、天智天皇から数えて三代後の持統天皇の時代にまで続きました。
    持統天皇が行幸先で、誰とも知れぬ一団に襲撃を受け、矢傷を受けられるという事件も起きているのです。
    国内的には、まさに分裂の危機であり、その分裂は、そのまま唐による日本分断工作に発展する危険を孕んだものであったわけです。

    こうしたなかにあって、兄の天智天皇から弟の天武天皇への皇位の継承が行われました。
    なるほど表面上は、天武天皇が軍を起こして天智天皇の息子の大友皇子を襲撃したことになっています。
    しかし、よく考えてみると、これはおかしな歴史の記述です。

    天智天皇は大化の改新によって、実に革命的に多くの改革を行いました。
    当然、そうした改革は、ものごとが良い方向に向かうようにするために行われるものです。
    しかし、短兵急で強引な改革は、必ず改革によって不利益を被る者を生じさせるのです。

    そうした反天智天皇派の人たちの期待は、当然のように弟の大海人皇子の皇位継承に集まります。
    そして大海人皇子が軍を起こして、天智天皇の息子の大友皇子を追い、みずから天武天皇として即位するとします。

    反天智天皇派の人たちは、よろこんで天武天皇に従ったことでしょう。
    そして天武天皇が即位されると、もともと天智天皇派だった人たちは、もとよりご皇室中心の日本を大切に思う人達なのです。
    このことが意味することは重大です。
    つまり、天武天皇の旗揚げ(壬申の乱)によって、実は国がひとつにまとまるのです。

    正史は、天智天皇亡き後、天武天皇が兵を起こしたことになっています。
    そして天智天皇の子の大友皇子は、人知れず処刑されたことになっています。
    けれど、大友皇子の処刑を観た人はいないのです。

    天智天皇の崩御にも疑問が残ります。
    天武天皇の正妻は、持統天皇です。
    その持統天皇は、天智天皇の娘です。
    そして天武天皇が、皇位に即位されたあと、事実上の政務の中心となって改革を継続したのが、その持統天皇です。
    しかも持統天皇は、なぜだか31回も吉野に行幸されています。

    これは正史には書かれていないことですが、個人的には、おそらく天智天皇は生きておいでであったのだろうと思います。
    生きていても、当時の考え方として、出家されれば、この世のすべてを捨てて、今生の天智天皇としては崩御したことになるのです。
    そして吉野に隠棲し、そこで僧侶となる。

    弟の天武天皇に皇位を継承させるためには、天智天皇に集中した国内の不満分子を、まるごと天武天皇が味方に付けてしまうことが一番の選択です。
    そして皇位継承後は、娘の持統天皇が、皇后として政治に辣腕を揮う。
    幸い、きわめて優秀な高市皇子が、政務を執るのです。
    天智、天武、持統、高市皇子のこの強い信頼関係のもとに、あらためて日本は盤石の体制を築いたのではないか。
    そのように個人的には観ています。

    天智天皇と天武天皇が兄弟であったことさえ疑う意見があることも承知しています。
    しかしそのことを示す史料はなく、この不仲説の根拠となっているのは、万葉集における天智天皇、天武天皇、そして天武天皇の妻であり一女まである額田王の歌が、根拠となっています。
    しかしその根拠とされる歌も実は、その意味をまるで履き違えた解釈によって、歪められていたという事実は、このたびの拙著『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』で詳しく述べた通りです。
    (まだお読みでない方は、是非、ご購読をお勧めします)

    不幸なことに、天武天皇のまさかの崩御によって、鵜野讚良皇后が持統天皇として即位されます。
    そして持統天皇が、敷いたレール、それが、反対派を粛清したり抹殺したりするのではなく、教育と文化によって、我が国をひとつにまとめていくという大方針です。

    万葉集も、そのために持統天皇が柿本人麻呂に命じて編纂を開始させたものです。
    こうして我が国の形が固まっていきました。
    それは高い民度の臣民によって培われた、民度の高い国家という形です。

    我が国が、国家形成の揺籃期に、このような素晴らしい天皇をいただいたことは、我が国の臣民として、たいへんに幸せであったことだと思います。
    爾来1300年、我が国は、庶民の高い民度によって支えられる盤石の国家が築かれてきたのです。

    昨日も書きましたが、近年では「日本国は昭和20年の敗戦により、昭和27年に新たに建国された国だ」という学者の先生や政治家がいます。
    けれどそれは、英語で言う「ステイト(State)」のことです。
    「ステイト」は、国家、政府、行政組織などの政治的組織のことを指し、その意味では明治の大日本帝国も「ステイト」だし、徳川政権の日本も「ステイト」、織豊時代なら信長政権、秀吉政権ステイトですし、室町幕府時代は足利ステイトです。
    けれど日本は、縄文以来1万7千年以上も続く文化の蓄積のうえに立つ国であり、2683年前の神武創業以来の天皇の知らす国でもあります。そしてそうした文化的、言語的、民族的な結びつきを持つ人々の集団としての日本は、英語なら「ネイション(Nation)」として区別されます。

    我々日本人は、いまあらためてネイションとしての日本にもともと備わった歴史伝統文化を取り戻し、民衆こそが大御宝であるとする、民衆のための究極の民主主義国家を取り戻していく必要があると思います。


    ※この記事は2019年12月の記事のリニューアルです。
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  • 心あてに折らばや折らむ 初霜の置きまどはせる白菊の花


    我が国が「天皇によって、すべての民を大御宝とする」という概念が打ち出されていたことは、我々国民にとって、とってもありがたいことです。なぜなら、それは究極の民主主義のひとつの完成形であるからです。
    凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は、そうした日本の本質がわからないような政治権力者は、「心あてに折ってしまえ(追放してしまえ)」と詠んでいます。こうした厳しさは、民衆の生活に責任を持つ政治においては、絶対に必要なことです。

    20190425 凡河内躬恒
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    百人一首の29番に凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌があります。

     心あてに折らばや折らむ
     初霜の置きまどはせる白菊の花

    (こころあてに おらはやおらむ はつしもの
     おきまとはせる しらきくのはな)


    歌を現代語訳すると、
     あてずっぽうにでも、折れるなら折ってしまおう。
     初霜が降りているのと見惑わせる白菊の花
    となります。

    凡河内躬恒は、身分は決して高くなかった人ですが、後年、藤原公任(ふじわらの きんとう)によって、三十六歌仙のひとりに選ばれました。
    紀貫之(きの つらゆき)とも親交のあった和歌の世界のエリートです。
    そしてこの凡河内躬恒は、たいへんに思慮深い、深みのある歌を多く詠む大歌人(詠み口深く思入りたる方は、又類なき者なり)と言われた人でもあります。

    ところがこの歌を正岡子規は、
    「初霜が降りたくらいで
     白菊が見えなくなるわけがないじゃないか」
    と酷評しています。
    このため多くの訳も「霜の降る寒い朝に、白菊の花を折ろうと思っても、霜か白菊か区別がつかないよ。仕方がないから、あてずっぽうに折ってしまおう」といった、あくまでも霜と白菊に限定した解釈しかなされていいないようです。

    正岡子規が指摘しているように、いくら霜が白いといっても、菊の花と霜の区別くらい、誰だって簡単に見分けがつくことです。
    では、そんな歌のどこが名歌といえるのでしょうか。

    実はこの歌を読み解く最大のキーワードは「白菊」です。
    菊の御紋は、いったいどういう人たちが用いるものでしょうか。
    わたしたちがよく知る「錦の御旗」に代表される菊の御紋は、皇室の御紋で、正式名称は「十六八重表菊」といいます。
    戦前までは、皇族になると同じ「菊の御紋」であっても花びらの数が違っていて「十四一重裏菊」の御紋になります。

    また、有栖川宮様、高松宮様、三笠宮様、常陸宮様、高円宮様、桂宮様、秋篠宮様なども、それぞれ菊の御紋をお使いになっておいでになりますが、それぞれ図案はご皇室の「十六八重表菊」とはデザインが異なるものになっています。
    ご興味のある方は、ネットなどでお調べいただいたら良いですが、要するに菊の花というのは、そのままご皇室を暗示させる用語になります。

    そして「霜(しも)」は、同じ音が「下(しも)」です。
    つまり凡河内躬恒は、たとえご皇族であったとしても、下との境目の見分けがつかないなら、手折ってしまえ!と言っているのです。
    凡河内躬恒は、日頃はとてもおだやかな人であったと伝えられています。
    けれどその穏やかな人が、この歌では実はものすごく過激な発言をしているのです。

    所有を前提とする社会では、上の人は下の人を所有(私有)しますから、下の人が上の人を批判したり、「手折ってしまえ」などと過激な発言をしたら、その時点で殺されても仕方がないことになります。
    ところが、歌がうまいとはいっても、身分は下級役人でしかない凡河内躬恒が、このような過激な発言をしても、まったく罪に問われることはない。
    つまり、この歌は、ひとつには凡河内躬恒が生きた9世紀の後半から10世紀の前半にかけての日本、つまり千年前の日本に、ちゃんと言論の自由があったことを証明しています。

    この歌の意味は、詠み手の凡河内躬恒が「白菊と霜の見分けがつかない阿呆」なのではありません。
    菊の御紋は、一般の民衆を「おほみたから」としているのです。
    ですから権力者が統治する下々の人々は、権力者から見たときに、それを「おほみたから」とするご皇室の方々と同じ位置にあるのです。
    そういうことがわからないなら、それがたとえ御皇族の方であったとしても、「手折ってしまえ」と凡河内躬恒は詠んでいるのです。

    初霜と白菊は、同じようにみえるものであっても、その本質がまるで異なるものです。
    そして民衆は「支配するもの」ではなくて、
    民衆は、天皇の「おほみたから」です。
    ところが、権力を得ようとする人や、権力に安住する人、あるいは権力を行使する人は、ややもすれば、自分よりも下の人を、自分の所有物と履き違えます。
    その区別は、実はとてもむつかしい・・つまり両者はとても似ているのです。

    言葉にすれば「シラス」と「ウシハク」の違いです。
    けれど、その違いは、権力に目がくらむと、まったく見えないものになります。
    なぜなら「シラス」も「ウシハク」も、どちらも統治の基本姿勢のことであり、「統治」という意味においては、白菊と霜の白い色のように、同じ色をしているからです。

    政治のことを、昔の人は「色物(いろもの)」と言いました。
    虹を見たらわかります。
    虹は七色と言われ、虹を見ると赤から黄色、青の色があるのがわかりますが、ではどこまでが赤で、どこから黄色になり、青になるのか、その境界線はきわめて曖昧です。
    しかし境界は曖昧でも、やっぱり赤は赤、青は青です。

    だからこそ我が国は、古来から「シラス」を統治の根本としてきました。
    けれど、いつの時代にも「ウシハク」人はいるのです。
    その違いがわからないなら、「心あてに折らばや折らむ」、
    つまり当てずっぽうでも良いから折ってしまえ(放逐してしまえ!)と凡河内躬恒は詠んでいます。

    これを我が国の高位高官の人が言ったというのなら、いささか傲慢さを感じてしまうのですけれど、身分の低い凡河内躬恒が、うたいあげたところに、この歌の凄みがあります。

    こうした文化を土台にして織りなされてきたのが、我が国の歴史です。
    そしてここでいう「我が国」というのは、神武創業以来の、あるいは縄文以来の日本という「ネイション(Nation)」のことをいいます。

    「ネイション」とは、文化的、言語的、民族的な結びつきを持つ人々の集団のことをいいます。
    一方で、昭和22年の日本国憲法によって形成された現代の日本国は「ステイト(State)」です。
    「ステイト」とは、国家、政府、行政組織などの政治的組織のことです。
    ですから、徳川政権であった江戸時代は、日本というネイションの下に、徳川幕府というステイトがあった時代ですし、
    明治日本は、日本というネイションの下に、大日本帝国政府というステイトが置かれた時代です。
    そして戦後の日本もまた、日本というネイションの下に、日本国政府というステイトが置かれた時代です。

    こうした構造の中にあって、我が国が「天皇によって、すべての民を大御宝とする」という概念が打ち出されていたことは、我々国民にとって、とってもありがたいことです。
    なぜなら、それは究極の民主主義のひとつの完成形であるからです。

    凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は、そうした日本の本質がわからないような政治権力者は、「心あてに手折(たお)ってしまえ(追放してしまえ)」と詠んでいます。
    こうした厳しさは、民衆の生活に責任を持つ政治においては、絶対に必要なことです。


    (出典:『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』)
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  • ネイション(Nation)とステイト(State)


    右も左も在日も邦人もない。
    日本に住むすべての人々が、豊かに安全に安心して暮らすことができる日本を築く。
    このことは、日本に住む日本人なら、誰もが思うことであろうと思います。

    20230526 国家
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    「ネイション(Nation)」と「ステイト(State)」についてお話してみたいと思います。

    「ネイション(Nation)」は、一般的には文化的、言語的、民族的な結びつきを持つ人々の集団を指します。
    国民性や共通の歴史、価値観、つまり共通のアイデンティティや文化を共有している人々の集合体がネイションです。
    「ステイト(State)」は、政治的組織のことで、国家、政府、行政組織のことをいいます。
    一つの政治的な単位や領域を統治する組織体であり、法律や規則を制定し、実施する役割を果たします。

    このことを日本に当てはめてみたとき、2683年前に神武天皇によって建国された日本、もしくは縄文以来、万年の単位で続いている日本という概念は「ネイション(Nation)」です。
    これに対し、明治の大日本帝国や、戦後の日本国などは、いずれも「State」ということになります。

    さらにいえば、平安期までの日本は「Nation」と「State」が朝廷という機構で一体化していたけれど、鎌倉期以降、日本はそれまでの朝廷という「State」が切り離されて、鎌倉政府という「State」や、室町政府、織豊政府、江戸政府、明治新政府、敗戦政府といった「State」によって統治されてきた、ということになります。

    もう少し厳密に言うと、明治以前の日本は農家の人口が全体の95%以上を占めていましたが、織豊期までは農家は、朝廷の直轄荘園、寺社の荘園、武家の持つ新田の3つが存在していました。
    従って、それまでの日本は、天皇という「Nation」のもとに、朝廷、寺社、武家という3つの「State機構」をもっていたことになります。
    これが戦国期に乱れて混乱し、江戸時代に至って、それら3つの「State」が統合されて、徳川幕府の管理下に置かれるようになっています。

    アメリカ合衆国の場合、合衆国自体が「Nation」です。そして全米の各州が「State」という関係になりますが、日本の場合は、土地の領域ではなく、管理主体によって分けられていたと考えるとわかりやすいかもしれません。

    さて、よく左の人たちは「8月革命説」といって、日本は昭和20年8月の終戦によって、新しく日本国という国に生まれ変わったのだ、という説を唱えられます。
    この説に従えば、昭和20年以降、日本はGHQの支配下に入り、昭和27年に独立をして日本国となったことになり、中共政府が昭和24年設立、韓国政府が昭和23年設立ですから、日本はその後に生まれた後進国ということになります。

    これに対し、保守系の方々は「そうではない。日本は建国以来2683年の歴史を持つ世界で一番古い国だ」と述べます。筆者もその説を採っています。
    しかしこの両者の意見の食い違いは、日本を文化的集合体としての「Nation」と捉えるのか、政治体制としての「State」と捉えるのかの違いに他なりません。

    上に戦後の日本の「State」のことを、「敗戦政府」と書かせていただきました。
    言い方は、敗戦利得者政府でも、あるいは対米追従政府でも、どちらでも構いません。
    ただ、現実には、日本人が日本人としての誇り、つまり「Nation」の人々としての誇りを失った日本であるわけで、この結果戦後の日本が、占領統治下という特殊な状況で生じた歪みが、結果としてこの30年間もの長い日本の停滞に至っていることは、おそらく右の方も左の方も異論のないところだと思います。
    土台が歪んでいれば、いくら小手先の改革を繰り返したところで、歪みがますます大きくなるのはあたりまえのことです。

    そうであれば、日本は、日本という神武創業以来の「Nation」を軸として、新たな「State」を創造していく必要があります。
    これは「革命」であってはなりません。あくまでも「創造」でなければなりません。
    なぜなら、性急な「革命」では、我々が最も大切にしなければならない平和が失われ、多くの人命が失われることになるからです。

    右も左も在日も邦人もない。
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  • なぜ学ぶのかを考える


    決して負けない。
    けっしてくじけない。
    それが日本人の精神です。
    オトナの学問はそのためにあると申し上げたいのです。

    20210418 イザナギイザナミ
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    「オトナがなぜ学ぶのか」について考えてみたいと思います。
    まずはじめに明確にしておかなければならないことは、大人の学問と、小中学生の学問、幼児の学問は、「異なる」ということです。

    幼児の学問は、数の数え方とか、文字の読み方、書き方、そして何が正しいことなのかという価値観のもとになる神話教育などがその基礎となります。
    幼児と言ってあなどることなかれ。
    4〜5歳の子たちの暗記力、運動能力は、開発次第ではすさまじく、言語の取得から古文の丸暗記、教えかた次第では、大人顔負けのジャズやクラシックの演奏まで、幅広くこなさせることができます。
    そしてこの時期に学んだ価値観が、その人にとっての生涯の正義となります。

    小中教育では、さらにそれらの幅が広くなります。
    算数は数学となり、国語では単に読み書きだけでなく、その内容を理解して涙する感動する心を養うことができます。

    この時期から、理解度がテストで試されるようになります。
    江戸時代までの少年期教育が大きく変化したのがこの部分で、かつては試問と言って、先生の設問に答えて理解の程度を測るというものであったものが、明治以降には西洋式のテストにこれが替わりました。

    師匠の「試問」か、筆記試験(テスト)か。
    この違いは重要です。
    テストは、記憶力を試し、成績によって明確に生徒に順位を付けることができます。
    このことは、簡単に言えば、クイズに早くたくさん答えることができた者を成績上位とする、ということです。
    成績は客観的ですが、実は大事なことが抜けています。

    何が抜けているのかというと、ストーリーです。
    部品は、それを組み合わせて製品にしたときに、はじめて付加価値をもたらします。つまり、商品になります。
    商品にしたり、部品を組み合わせたりするプロセスが、ストーリーです。

    家を建てるとき、材木や大工道具がいくら正確に揃っていても、どういう家を建てるのかが決まっていなければ、家の建てようがありません。
    歴史でいえば、歴史上の事件名や人名をいくらたくさん覚えても、それらがどのように関連し、どのように歴史となっていったのかが理解されなければ、それは事件記録でしかなくて、歴史とは呼べません。

    部品の品質をあげるために、部品の品質を掘り下げることは大事ですが、いくら部品を掘り下げても、全体の組み立てラインがちゃんとできていなければ、自動車はできません。
    かろうじて理系が、戦後もその高度性を保つことができたのは、理系の場合、たとえば数学がそうですけれど、テストに「応用問題」を出すことができた。
    これが奏効したといえるかもしれません。
    なぜなら、応用問題を解くには、ストーリーが必要だからです。

    とりわけ戦後教育では、中学卒業者の集団就職の時代から大卒のホワイトカラーの時代に至る規格大量生産の時代の必要から、できるだけ均質性の高い卒業生であることが求められ、いまではすっかり、ただの記憶力のクイズに、素早く答えることができることが、あたかも学問であるかのような誤解が浸透するようになりました。

    これが高等教育になると、より顕著になります。
    もともと高等教育(いまの高校)は、中学までに、部品の作り方と、その組み合わせによる完成品の作り方を覚えたら、さらに高校では、その設計ができたり、あるいはもっと品質の良いものを組み立てたりという、応用力を養成するところでした。
    そもそも、昔は、15歳で元服で、オトナになったのです。
    ですから、高等教育は、大人向けの教育であったわけです。
    それがいまでは、小学校、中学校と、同じ子供向け教育が行われているだけです。

    大学になると、もっとたいへんです。
    明治の頃の帝大は、日本が西欧に追いつき追い越せのために、世界中から優秀な人材を集めて教授とし、世界最先端の教育を行った・・・つまり教育というより、大学の存在そのものに目的があったのです。
    ところが戦後の日本の大学は、旧帝大であっても、その目的性を失いました。
    私立大学も、本来は個性があり、建学の目的があったはずですが、いまではただのバイトのための休憩所になっています。

    諭吉は『学問のすゝめ』の中で次のように書いています。

    「学問とは、
     ただむずかしき字を知り、
     解げし難き古文を読み、
     和歌を楽しみ、
     詩を作るなど、
     世上に実のなき文学を言うにあらず。

     これらの文学も
     おのずから人の心を悦こばしめ
     ずいぶん調法なるものなれども、
     古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、
     さまであがめ貴むべきものにあらず。

     古来、漢学者に
     世帯持ちの上手なる者も少なく、
     和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。

     これがため心ある町人・百姓は、
     その子の学問に出精するを見て、
     やがて身代を持ち崩すならんとて
     親心に心配する者あり。

     無理ならぬことなり。
     畢竟(ひっきょう)その学問の実に遠くして
     日用の間に合わぬ証拠なり」

    要するに「実のない学問」など、学問の名に値しないと述べているわけです。
    では「実のある学問」とは何か。
    これについて、諭吉は次のように述べています。

    「まず一身の行ないを正し、
     厚く学に志し、
     博(ひろ)く事を知り、
     銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、
     政府はその政まつりごとを施すに易やすく、
     諸民はその支配を受けて苦しみなきよう、
     互いにその所を得て
     ともに全国の太平を護らんとするの一事のみ」

    つまり学問とは、「世の太平を護ることにある」のです。
    これがオトナの学問です。

    そしてこのことについて諭吉は
    「今余輩の勧むる学問も
     もっぱらこの一事をもって趣旨とせり」
    と述べています。

    枝葉末節にこだわることも大切ですが、それ以上に、経世済民。
    そのために自分でなすべきことを学ぶ。
    それこそが学問だ、ということです。

    個人が優秀であることと、国が優秀であることは異なります。
    個人が優秀でも、国自体に歪みがあれば、個の優秀さは阻害されます。
    個人が優秀といえないまでも、国が優秀であれば、個人もまたその優秀さの一端を担うことになります。

    現状に問題があることは、いつの時代も同じです。
    けれど、その問題を乗り越え、より豊かで自由な「よろこびあふれる楽しい国」を築く力は、オトナの学問によってのみ拓かれます。

    なぜなら、それはストーリーだからです。
    歴史もストーリー、未来もまた現在を出発点とするこれからのストーリーです。
    そのストーリーをより良いものにしていくために、日々努力を重ねていけば、積小為大、必ず良い未来が拓けます。
    逆に、日々の日常に埋没するだけなら、現在の延長なだけの問題だらけの未来になります。

    では、いかにして未来をストーリーを描くのか。
    そのなかにあって、自分自身がいかに貢献していくのか。
    道は遠く、果てしないけれど、それでも一歩ずつ答えのない未来に答えを得ようと努力をし続けることが、すなわち学問なのだろうと思います。

    イザナギとイザナミが最後にお別れするとき、千引石をはさんでイザナミが言います。
    「愛(うつくし)き我(あ)が那勢命(なせのみこと)、
     このようにするならば、
     汝(いまし)の国の人草(ひとくさ)を
     一日に千頭(ちかしら)
     絞(くび)り殺(ころ)しましょう」

    国民を毎日千人、くびり殺すというのです。
    まるで宣戦布告です。
    普通ならここで、「なにを!このやろー!やれるもんならやってみやがれ!千人殺したら、千人殺し返してやるぞ!」となりそうなところです。
    けれどこのとき夫のイザナギは、

    「愛(うつくし)き我(あ)が那迩妹命(なにものみこと)よ、
     汝(いまし)がそのようにするならば、
     吾(あれ)は一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)を建てよう」

    と述べました。
    産屋(うぶや)というのは、出産のための仮小屋のことを言います。
    殺されても、失っても、それでも未来に希望を持って、建設の槌音を絶やさない。
    それが日本人の生き様です。

    決して負けない。
    けっしてくじけない。
    それが日本人の精神です。
    そのためにあるのがオトナの学問です。

    ※この記事は2021年4月の記事の再掲です。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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