• なにくそ!という負けない心


    「なにくそ」という言葉は、漢字では「何苦礎」と書くのだそうです。どのような苦であっても、それを礎(いしづえ)にすることで乗り越えていくという、これは決意です。前向きなのです。
    ストレスと言われるようになりましたが、もともと日本語にストレスという言葉はありません。我が国では、その言葉に近いものを「試練」と呼んでいたのです。
    少し考えたら誰にでもわかります。ストレスは圧力であり受動的です。試練はそれを乗り越えようとする力で能動的です。
    我々日本人は、ちょっとやそっとではくじけたりしないのです。「何苦礎」の精神は、そこにあります。

    20190228 早川徳次
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    「なにくそ」という言葉は、漢字では「何苦礎」と書くのだそうです。
    どのような苦であっても、それを礎(いしづえ)にすることで乗り越えていくという、これは決意です。
    前向きなのです。

    ストレスと言われるようになりましたが、もともと日本語にストレスという言葉はありません。
    我が国では、その言葉に近いものを「試練」と呼んでいたのです。

    少し考えたら誰にでもわかります。
    ストレスは圧力であり受動的です。
    試練はそれを乗り越えようとする力で能動的です。

    我々日本人は、ちょっとやそっとではくじけたりしないのです。
    「何苦礎」の精神は、そこにあります。

    この言葉を、字義通りに実践して人生の成功をおさめた人に、シャープの創業者の早川徳次(はやかわとくじ)がいます。
    シャープの本社は大阪にありますが、もともとはこの会社の創業は東京でした。
    早川徳次自身、生まれも育ちも東京日本橋です。

    彼の生家は商家でしたが、家業が衰退してしまい、母も病気になってしまったため、彼はなんと二歳半で、出野という家に養子に出されています。
    出野家の養母は徳次少年を非常に可愛がってくれましたが、その養母が徳次が五歳のときに亡くなります。

    次に出野家に入ってきた後妻がとんでもない「伝説の女性」で、まだ子供だった徳次を殴る蹴るはあたりまえ、真冬に公衆便所の糞つぼの中に突き落として放置したりもしたそうです。
    泣き声を聞きつけた近所の人々が助け出したのですが、糞尿まみれでおぼれかけて半死半生、もちろん全身糞まみれの徳次少年を、後妻は眼を吊上げて井戸端(いどばた)に引きずると、厳寒の中で罵声とともに冷たい井戸水を浴びせ続けたそうです。
    近所の人たちは、あきれはててものもいえなかったといいます。

    そんな日々ですから、徳次少年は、食事もしばしば与えられません。
    それどころか「お前に勉強なんか贅沢だ、働け!」とばかりに、小学校も二年で中退させられてしまいました。

    あまりの酷(むご)さに、みかねた近所の井上さんという盲目の女行者(おんなぎょうじゃ)が、徳次少年の手を引いて飾り職人の家に丁稚奉公に連れて行ってくれました。
    井上さんは修験道の信仰をされていた女性ですが、徳次は晩年になっても、「あの時の井上さんの手のぬくもりを、私は生涯忘れる事が出来ない」と述懐しておられたそうです。

    この一言は重いものです。
    よそのおばさんの手のぬくもりが、それほどまでにあたたかく感じたということだからです。
    それほどまでに徳次少年は、つらい毎日を送っていたのです。

    徳次が連れて行かれたかざり職人の家は、男っ気のある親方の下(もと)に、何人かの職人がいる店でした。
    そこで徳次は十八歳まで飾り金物の丁稚(でっち)職人として奉公しました。

    しかし徳次が一生懸命働いた稼いだ給金は、給料日のあとにその後妻がやってきて、毎月全額持って行ってしまいます。
    ですから徳次には遊んだり自分のモノを買ったりするお金が一銭もありませんでした。
    徳次は遊びにも行かず、ただひたすら黙々と金属の加工をし、飾り物作りに打ち込みました。
    仕事に打ち込んでいる時間だけが、彼にとっての幸せな時間だったからです。

    明治四十四(1911)年のことです。
    十八歳になった徳次は、ズボンのベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明しました。
    いまでも広く使われているバックルです。
    徳次はこの発明で新案特許を取り、十九歳で独立しました。

    その届け出のための必要書類を準備しているとき、徳次ははじめて自分が出野家の養子であったこと、そして自分の両親がとうに死んでいたことを知りました。
    そして実の兄である早川政治と対面しました。
    彼はその兄と、「早川兄弟社」を設立しました。
    そして「徳尾錠」の製造販売を開始しました。

    独立資金は五十円でした。
    このうちの十円は兄弟でお金を出し合いました。
    四十円は借金しました。
    徳次が考案した商品を作り、兄が販売を担当しました。
    苦しい財務からのたち上げでしたが、二人は寝る間も惜しんで働き、「徳尾錠」は、大ヒット商品となりました。
    事業も順調に拡大していきました。

    次に徳次が発明したのが、二十二歳のときでした。
    独創的な芯の繰出し装置付きシャープペンシルです。
    棒を金属ではさむと、摩擦の力で軽い力でも強固に固定できます。
    この現象を応用しました。
    これがいまも広く使われているシャープペンシルの事始めです。

    大正四(1915)年、徳次は、このシャープペンシルに「早川式繰出鉛筆」という名前を付けて特許を出願しました。
    最初は、軸をひねって芯を出す機構の特徴から「プロペリングペンシル」という名前を付けて売り出しました。
    のちにこの商品は「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」と名付けられ、この名前が詰まって生まれた言葉が「シャープペンシル」です。
    この名前はさらに詰まって、ついには会社の名前にまでなりました。
    それがいまの世界的の大手家電メーカー「シャープ」の社名の由来です。

    しかし、この「早川式繰出鉛筆」は、売出し当初は、「和服に向かない」、「金属製なので冷たく感じる」など、まったくもって評判が悪いものでした。
    おかげで当初は全く売れません。
    それでも銀座の文房具屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けていました。
    「徳尾錠」の成功があったから、その利益でなんとかやりくりできたのです。
    もし「徳尾錠」がなければ、「早川式繰出鉛筆」はそのまま挫折してしまっていたかもしれません。

    ところがこの時代、意外に思うかもしれませんが、日本の東京・銀座は、まるでニューヨークのマンハッタン並みの国際都市でした。
    徳次の「シャープペンシル」は、なんと欧米人の間でたいへんな人気となり、ついには西洋でも大人気商品になりました。

    日本人は今も昔も洋物が好きです。おかげでシャープペンシルは日本でも売れ始めました。
    徳次の会社は、このシャープペンシルの大量生産で会社の規模を拡大しました。
    さらに当時としては先駆的な試みである「流れ作業方式」を導入することで、製品の生産効率を格段に高めました。
    こうして「早川兄弟社」は、大正十二(1923)年には、従業員二百名を抱える中堅企業に成長しました。
    「早川式繰出鉛筆」も、米国特許を取得し、事業は完全に軌道に乗ったのです。

    ところが、徳次は激務がたたって過労で倒れてしまいます。
    それは29歳のときのことでした。
    このときは当時としては珍しい「血清注射」による治療で命拾いをするのですが、徳次は、ようやく病から抜け出せたその翌年、30歳のときに、関東大震災(大正十二年)に遭遇してしまうのです。
    徳次自身は、震災で九死に一生を得るのですが、苦労を共にしてきた愛する妻と、二人の子を亡くしてしまいました。

    会社も、工場も、焼けて失(な)くなりました。
    借金だけが残りました。
    さすがの徳次も「何もかも、元に戻ってしまった」と、泣きに泣いたそうです。
    死のうとすら思いました。
    しかし生き残った社員たちが彼を励ましてくれました。

    徳次は、借金の返済のために、シャープペンシルの特許を日本文房具に売却しました。
    それでもまだ借金が残りました。
    たまらず徳治は夜逃げすることにしました。
    夜逃げのとき、社員たちがその手伝いをしてくれたそうです。
    申し訳ない気持ちで一杯になりました。

    徳次は大阪に逃げました。
    手元に残ったいくばくかのお金で、大正十三(1924)年、「早川金属工業研究所」の屋号で、日本文房具の下請けとしてシャープペンシルを製造する仕事を個人ではじめました。
    人生のやり直しをはじめた徳次のもとには、たびたび債権者が押し掛けました。

    いまのように法的な取立行為の規制などない時代です。
    借金取りは、徳治にありとあらゆる屈辱を与えました。
    新たに雇った従業員の前で、脅され、殴られ、罵られ、辱められる。
    債権者たちは、ありとあらゆる恥辱を徳治に与え続けました。
    死にたくなりました。

    徳治は思いました。
    それが「なにくそ!」です。
    彼は青く闘志を燃やしました。
    自分で作った人生のツケなのです。
    お金はすぐにはどうにもならないけれど、自分で作ったツケは、カタチを変えてでもなんとかして世間にお返ししよう。
    そう思い返しては、仕事に打ち込む徳治に、それでも借金取りは容赦なく屈辱を与え続けました。

    ある日、失意のどん底に陥(おちい)った徳次は、ふらふらと、まるで夢遊病者のように大阪の街を徘徊(はいかい)していました。
    そのとき彼は心斎橋で、アメリカから輸入されたばかりの鉱石ラジオの展示を見ました。
    徳次の胸に火がつきました。
    「どうしても作りたい」

    徳次は一心不乱に鉱石ラジオを研究しました。
    そして一年後、ようやく国産第一号の鉱石ラジオを発売しました。

    鉱石ラジオは、方鉛鉱や黄鉄鉱などの鉱石の表面に、細い金属線を接触させ、その整流作用を利用して電波を受信するラジオです。
    真空管ラジオが生まれるよりも、もっとずっと以前のラジオの仕様です。
    昔よく学習雑誌の付録についてきた「ゲルマニウム・ラジオ」よりも古くて性能が劣ります。
    アンプ(増幅器)が登場するよりも、ずっと前の時代のことです。
    音声信号も微弱です。
    ですから音はヘッドホンで聞きました。

    この頃、日本でもラジオ放送が始まろうとしていました。
    ラジオ放送が開始されればラジオが売れる。
    これは楽しみな出来事でした。
    大正十三年六月一日、会社に社員みんなが集まって、大阪NHKのラジオ放送を受信しました。
    レシーバーから細々とアナウンサーの声が聞こえました。
    従業員みんなが抱き合って喜んでくれました。

    NHKのラジオ放送の開始に伴い、ラジオは爆発的に売れました。
    昭和四(1929)には、鉱石ラジオに替わる新技術の「交流式真空管ラジオ」を発売しました。
    以後、相次ぐ新製品の開発で、
    「ラジオはシャープ」
    の名を不動のものにしていきました。

    昭和四年、ブラックマンデーに始まる世界大恐慌が起きました。
    日本も明治以降で最大のデフレにおちいりました。
    町には失業者があふれました。
    徳次は、貧しい人、不幸な人、身障者を積極的に雇用しました。
    また借金苦にあえぐ社員への援助もしました。

    徳次には東京で、自分のことを最後まで励ましてくれた社員たちを捨ててきてしまったという、心の負い目がありました。
    だからこそ、彼は形を変えて自分にできる最大の貢献を、大阪で行い続けました。

    ラジオの普及と共に業績は拡大しました。
    「早川金属工業研究所」は、戦時中の昭和十七(1942)年に株式会社になりました。

    早川徳次は晩年、色紙を求められると必ず、「なにくそ」と書きました。
    どんなに苦しくても、いじめられても、馬鹿にされても、傷つけられても、どんなに心を折られるような出来事があっても、絶対に負けない、くじけないで、「なにくそ」と踏ん張る。頑張る。
    それが徳次にとって、パンドラの箱に最後に残った「希望(ドリーム)」でした。

    世の中には、幸せに、とんとん拍子に、何の苦労もなく我儘を通しながら生涯をまっとうする人もいます。
    ずっとエリートで、安定して良い人生を送る人もいます。
    けれど、とんでもない苦労を背負う人もいます。
    人はそれを「不幸」と言います。
    けれど早坂徳治さんの生涯をたどるとき、「それは本当に不幸であったのだろうか」と考えてしまいます。

    耐え難い重荷を背負うから、人は成長するのです。
    それが「試練」です。
    「試練」だから「なにくそ!」と踏ん張る。頑張る。
    その「なにくそ!」と踏ん張ることが、魂のスイッチです。

    苦難や苦痛は、かならず「身近なところに起きるもの」です。
    体の悩み、仕事の苦痛、すべて自分自身や、自分の身の回りで起きます。
    自分とはかけ離れた事柄に、人は悩むことはありません。
    あたりまえといってしまえばそれまでですが、伊勢の修養団の寺岡賢講師はこのことについて、
    「だから神様は乗り越えることができる試練しか与えないのです」
    と述べられておいででした。
    その通りだと思います。

    徳川家康も「人生は重き荷を背負いて坂道を昇るが如し」と述べました。
    その「重荷」はかならず「身近」なことにあり、その「重荷」が魂のスイッチなら、武漢コロナ問題は、ただの「耐え難い苦痛」ではなく、日本を成長させるための、日本人の魂のスイッチです。

    終戦後の日本は、モノ不足でした。
    だから当時の人たちは、モノを得るために必死で働きました。
    そして小さくても楽しい我が家(マイホーム)を建て、「いつかはクラウン」を人生の目標にしました。

    ところがバブルが崩壊し、日本は30年におよぶデフレ不況の時代となりました。
    デフレというのは、人間の体で言ったら、貧血のことです。
    人間は、血液の3分の1を失うと死んでしまうそうですが、おそらくこの30年の不況で、それに近いくらいの血液を失いました。
    そして武漢コロナの影響で、もはや失われた血液は、まさにその3分の1に至ろうとしています。

    この状況下ならば、日本人一人あたり10万円と言わず、ひとりあたり300万円を支給しでも、インフレにはなりません。
    インフレは血液量が多すぎる状態ですが、日本では失われた血液を単に補給するだけのことにしかならないからです。
    ひとりあたり300万円なら、4人家族なら1200万円です。
    新車を買い、海外旅行にでかけ、あるいは家のローンを前倒しで返済し、あるいは子供の塾にお金をかけ、あるいは高額なテレビを買うなど、これなら日本経済はまたたく間に復活、蘇生します。

    けれど、実際に政府にできることは、ひとりあたり10万円です。
    これでは経済の活性化ではなく、ただのお見舞金です。
    それでインフレ懸念が〜と言う人がいます。
    あるいは、必要ないという人もいます。ただのバカです。

    実行できない政府によって、一時的には日本は、未曾有の不況状態になります。
    これは関東大震災と世界恐慌がダブルでやってきた頃と同じです。
    一時的には、日本経済は壊滅状況に近い状態になるかもしれない。

    けれど、それでも人は生きるし、生き残ります。
    日本人は、どんなときでも、「なにくそ!」とがんばってきました。
    なぜなら日本人には、どんなときにも「よろこびあふれる楽しいクニ」を求める心があるからです。

    本文中に、「徳次には東京で自分のことを最後まで励ましてくれた社員たちを捨ててきてしまったという、心の負い目があった」と書かせていただきました。
    「だからこそ彼は形を変えて自分にできる最大の貢献を、大阪で行い続けた」とも書かせていただきました。

    中高年にもなれば、おそらく誰もが「心に負い目」を持っています。
    お伊勢様に参拝させていただいたとき、ご先祖にまで栄誉をくださる祝詞をあげていただき、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
    こんな自分には、あまりにももったいないと思いました。
    けれどそのとき、あるイメージのようなものが、頭の中にひびいてきました。
    それは言葉にすれば、「人生のツケをその相手の方にお返しすることはできなくても、形を変えて世の中にお返しするのです」というものでした。

    徳次は、東京で最後まで支えてくれた社員たちにお返しをすることは、最後までできませんでした。
    けれど徳次は、その分、大阪で世の中のために頑張り抜きました。

    なんど倒れても、なにくそ!とまた立ち上がる。
    折れても折れても、それでもまた立ち上がる。
    それこそが、日本人の生き方なのではないかと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

    ※この物語は、2010年以来、毎年、だいたいこの時期にアップしているものです。
    日本をまもろう!

    お読みいただき、ありがとうございました。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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