• 昭和12年の動きのまとめ


    昭和12年頃のChinaの状況について、その流れをまとめてみました。
    そういえば、いま考えると実にアホな話なのですが、高校時代(もう半世紀も前のことです)、共産系の先生が授業で、
    「日本は中国を侵略した。けれどその侵略は都市だけの点であって、面でなかったために、結局は中国にやられたのだ」と話していたことをいまでもはっきり覚えています。
    それだけ印象的な授業だったわけですが、若者を扇動することのこれが「怖さ」です。
    そもそもChinaは日本とは違います。荒れ地が多くて、人が住むのは城塞都市にほぼ限られますから、そもそも戦ったり守ったりするのは都市部だけしか対象になりません。しかも日本はChinaとの戦いで、一度も破れたことなどないのです。

    20170729 日本軍によって侵略されたとされる地域
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    日本をかっこよく!

    上にあるのは、近年の教科書などに良く載っている「日本軍によって侵略された」とされる地域です。
    随分と広大な地域です。
    ところがこれだけの地域では、日本軍によって治安が保たれ、日本軍がいる間、治安と平安が保たれていました。

    時間があったらGoogle Earthでこのあたり一帯の衛星写真をご覧になっていただきたいのですが、いまもこのあたり一帯は、Chinaの他の地域と比べて、緑色が濃いです。
    つまり緑が豊かだということです。
    当時の日本軍は、悪行を働き近隣の住民から搾取や強姦強奪を繰り返す国民党軍を追い払って地域の治安を回復すると、「Chinaの人々の心がささくれているのは、きっと土地に潤いがないからに違いない」と、せっせと植林をしたのです。
    それが日本軍による侵略とは、恐れ入った話です。

    もっといえば、これらの地域では、アヘンの密売も厳しく制限されました。
    そしてこのことが、China全域でアヘンの密売をしていたある一族に、彼らにとってのビジネス上の「甚大な被害」をもたらしました。

    その一族とは、China内に豊富な人脈と莫大な資金を有する客家です。
    西欧諸国は、言葉の通じない地域で植民地支配をしようとするとき、その地域にいる少数民族に特別な待遇を与え、彼らを準支配層に仕立てて地域を支配するのが常套の手段でした。
    Chinaにおいては、それが客家です。
    客家は、英国領インドから輸入されていたアヘンの密売の権益を与えられることに由って、China国内で莫大な利益をあげていました。
    そして彼らにとって、アヘンの密売を制限する日本軍は、まさに敵となったのです。
    Chinaに権益を広げたい英国と、英国が手下として使う客家にとって、共通の利益は「日本軍を追い出す」ことであったのです。

    そして客家は、China国内にある半島出身者(当時は国籍は日本人)に、
    「日本はもうおしまいだ。日本軍は英米によって駆逐されるのだ」という噂をさかんに流しました。
    もともと日本という虎の威を借りて大きな顔をしていた人たちです。
    しかも火病という病を抱える彼らは、極めて熱しやすく激しやすい傾向があります。
    彼らは「日本が戦いに破れてChinaから出ていく」という噂に、すぐに反応しました。
    彼らの言語を解しない日本人を、彼らは自国語であからさまに罵り始めたのです。
    つまり、手のひらを返した、わけです。

    客家は、China国民党にも、China共産党にも顔が利きました。
    そこで彼らは蒋介石と毛沢東を西安で引き合わせ、いわゆる「国共合作」を行いました。
    こうして、ChinaにおけるChineseの軍と暴徒とヤクザ、および半島人の共通の敵が、日本という図式が形成されていきます。

    そしておよそ2年がかりの準備の上、ついに実行に移されたのが、昭和12年7月7日の盧溝橋事件です。
    この事件は、日本軍が夜間に実弾を持たずに演習していたところ、突然、日本と中国の両方の軍にあてての発砲騒ぎがあり、互いが戦闘状態になってしまったという事件です。
    いまでは最初に発砲したのが中国共産党であり、日本と国民東軍を無理矢理戦わせるための共産党の「謀略」であったことがはっきりしています。

    この事件は、よく、「国民党に対して劣勢だった中国共産党が、起死回生を図ろうとして日本軍・国民党軍双方を戦わせて疲弊させ、漁夫の利(つまり中国全土の支配権)を得ようとして行動に出たもの」として説明されることがありますが、それですと、それ以前の国民党と共産党の仲の悪さが、なぜ一転したのかの説明に十分ではありません。
    けれどもここに「アヘン利権を牛耳っていた一族」という補助線を一本引くと、あらゆるものがつながります。
    このことは、河添恵子先生の著書『トランプが中国の夢を終わらせる - プーチンとの最強タッグが創生する新世界秩序』をお読みいただくと、詳しいです。

    さて、こうして準備万端整えられて仕掛けた盧溝橋事件ですが、もとより日本軍は、戦うことを目的としていません。
    結果、現地の日本軍はきわめて冷静にこれに対処し、早々と現地で停戦協定を結んでしまいました。
    これは日本人の感覚からしたらあたりまえのことです。
    そもそも治安維持のためにChinaに出兵しているのです。
    その治安維持部隊が先頭きって争いを起こしているようでは話になりません。

    目論みが外れた彼らは、続いて昭和12年7月25日。北京近郊の廊坊駅で「廊坊事件(ろうぼうじけん)」を起こします。
    この事件は廊坊駅にある中国国民党軍の兵営内を通過する軍用電線が故障したために、日本の中国駐屯軍が前もって国民党軍側に通報してから、護衛を含む百名ほどの兵員で回線の修理に向かったところを、いきなり発砲され、日本側に14名の死傷者が出たという事件です。

    この事件に危機感を持った日本側が、増援部隊を北京に送ったのですが、その増援部隊が北京の広安門を通過中に、いきなり門を閉ざされ、隊列を分断された挙げ句、発砲され、またまた19名が死傷するという事件が翌日に起きています。
    これが「広安門事件」です。

    この広安門事件も、日本側は、相手を蹴散らして事件を収束させたのですが、この廊坊、広安門で事件を起こしたChineseの暴徒と、当時通州上のあたりにいた冀東防共自治政府軍が、日本軍が北京界隈に集結することで防備の手薄になった北京郊外の通州市の日本人居留民を襲ったのが通州事件です。

    通州事件が起きたのは、昭和12(1937)年7月29日ですが、この事件があらかじめ入念に計画し、準備して行われたものであることは、事件当時に襲撃を受けた日本人の居宅が、まえもって他のChineseが住む住居と識別できるように、玄関に印が打たれていたという事実をもってしても明らかです。

    通州は、北京の東18キロの地点にある明朝時代に城壁が築かれた街です。
    もともと天津からの集荷の拠点として栄えたところで、事件直前までは日本人にとっても、Chineseにとっても治安の良い場所とされ、日本の軍人や民間人の妻子たちが多数居住していました。

    通州には親日派とされる中国軍閥の「冀東防共自治政府」も、守備にあたっていました。
    長官の殷汝耕(いんじょこう)は日本人を妻にしており、しかもこの自治政府は、付近から雑兵を掻き集めて九千人の「保安隊」を組織していました。
    けれど、そのなかに、彼らは悪魔をひそませました。

    事件当日、通州にいた日本人は385名です。
    このうち軍関係者(男)が110名。
    残りは婦女子でした。

    29日午前3時、突然、冀東防共自治政府の保安隊の張慶餘(じょけいよ)が率いる第一総隊と、張硯田(ちょうけんでん)が率いる第二教導総隊、合計で三千の保安隊が、日本軍の基地に攻撃をしかけてきました。
    不意をつかれた日本軍は、獅子奮迅の防戦をするけれど、3000対110名です。
    さすがに勝負になりません。
    しかも寝込みを襲われたのです。
    襲撃と同時に日本兵30名が死亡しています。

    そしてこの戦闘の最中に保安隊は、自分達保安隊のボスである殷汝耕(いんじょこう)を拘束しました。
    そして日本人民間人への虐殺を開始しました。
    この襲撃で、日本人居留民385名中、223名が、人類史上、歴史的な極悪非道な方法で虐殺されました。

    以下は、女性の読者の方には、衝撃が強すぎるかもしれないけれど、そのままを掲載します。
    これが歴史の事実です。

    <虐殺現場を目撃した萱島高氏の東京裁判での証言>
    「旭軒(飲食店)では四十から十七~八歳までの女七、八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中四、五名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」

    <通州救援の第二連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述>
    「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。
    帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、一名だけは局部を露出し上向きになっていた。
    帳場配膳室では男一人、女二人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女二人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体二つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。
    一年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。
    南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。」

    近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊です。
    彼らは女中数名を惨殺、残る十数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、銃殺しました。

    <China駐屯歩兵第二連隊小隊長桜井文雄証人>
    「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。
    『日本人はいないか?』と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここのゴミばこの中や壕の中から続々出てきた。
    ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。
    旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。
    東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。
    池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した。」

    悪鬼も目をそむけるほどの酷たらしい所業ですが、これら頭部切り落とし、眼球えぐり、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺などは、昔からのChinese特有のお決まりの惨殺パターンです。
    日本にはこのような風習はまったくありません。

    ちなみに、「生きて虜囚の辱めを受けず」という東条英機元首相の戦陣訓について、これを日本軍の集団自決や玉砕の理由にする人がいますが、それは違います。
    義和団事件以降、何度もChineseの残酷さを目撃し経験させられた日本が、生きたまま拷問殺戮を受ける悲惨に合わぬよう、むしろ、
    「そのくらいなら先に死んだ方がよっぽどまし」
    という現実を述べたものです。
    当時の時代を考えれば、ごく常識的な事実への対処だったのです。

    通州における殺戮と略奪は、まる一日続けられましたが、そのなかにひとつ、涙なくしては語れない物語があります。
    ある人が、便槽に隠れていると、外で日本人の男性の声がしたのだそうです。
    その声は、日本語でこう怒鳴っていました。
    「日本人は隠れろ!!
     日本人は誰も出てくるな!!
     日本人は逃げろ~~っ!」
    必死の叫び声でした。
    そして、ズドンという銃声。
    以降、その声は聞こえなくなりました。

    わかる気がします。
    その日本人男性は最後の瞬間まで、自分のことではなく、他の日本人の心配をしていたのです。
    だから、
    「たすけてくれ!」
    ではなく、
    「日本人は逃げろ!」
    と叫んだのです。

    事件の日の夕方、前日まで通州に駐屯していた萱島無敵連隊が、事件を知り、通州に急行しました。
    夕方まで非武装の日本人民間人を虐殺し続けた張慶餘と張硯田率いる中国軍保安隊は、萱島部隊がもどると聞いて逃亡し、その一部が北京に向かっています。
    その北京では、日本人が、逃げてきた保安隊のメンバーに、食事を与え、
    「二度とそのような真似はするんじゃないぞ」
    と口頭で説諭までして、犯人たちを逃しています。
    北京にいた日本人たちが、通州の惨劇を知ったのは、その後のことでした。

    一方、北京付近で翌30日に日本軍と遭遇した三千の保安隊は、たちまち粉砕されたのですが、このとき虐殺の指揮をとっていた張慶餘と張硯田は、さっとChineseの国民服である「便衣服」に着替えて、民間人に紛れて逃走しています。
    もちろん部下は置き去りです。
    そしてこの二人はその後も戦争を生き延び、張慶餘(ちょうけいよ)は後年、中国共産党人民解放軍の中将にまで出世して、昭和61(1986)年には、革命の英雄気取りでウソ八百の回想録まで出版しています。

    一方、保安対の総責任者で、日本人女性を妻にしていた長官の殷汝耕(いんじょこう)は、事件後、日本軍の手に戻され裁判で無罪となり、犠牲者追悼の義捐金を集めたり供養搭を建てたりの活躍をしたものの、日本の降伏後、蒋介石により「親日分子」の烙印をおされて残酷に処刑されて亡くなっています。

    その蒋介石は、通州事件の十年前に南京に攻め込んで、各国の領事館を襲撃し、各国の領事や婦女子に暴行を加えて、これを殺害しています。
    米英は共同して砲艦でもってこれを攻撃し、生残った居留民の救出にあたっています(南京事件)。

    世界では、このような事件が起こった場合、徹底的な報復と賠償を求めます。
    ほぼ無傷で全員が助かった義和団事件でさえ、当時の清朝政府の年間予算をはるかに上回る賠償請求がなされたのです。
    では日本は、この事件後、いったいどのような請求をしたのでしょうか。

    実は事件後、日頃は仲の決して良くないといわれる陸軍省と海軍省も意見が一致し、内閣満場一致で決めた対策があります。
    それが「船津工作」です。

    「船津工作」というのは、日本の民間人で、Chineseからの信頼の厚い元外交官の実業家であり、紡績業組合の理事長をしていた船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて、蒋介石側に和平を働きかけるというものでした。
    その内容は、それまでのChina側の言い分を、日本にとって不利益なこともふくめて全部まるのみするから、争いを止めようというものです。

    中国国民党の対日本に対する政治的主張を、全部まるのみしますというのです。
    そうなれば、これ以上国民党側には、日本と争う理由がありません。
    あれだけ酷い惨事となった通州事件についてさえ、日本はいっさいの賠償請求をしないというのです。
    いかにも平和を愛する日本らしい対応です。
    日本はそこまで譲歩したのです。

    ただし、この日本の譲歩は、はっきりいって政治とはいえません。
    当時の日本では、議会が民政党と政友会の二大政党に分かれて、強烈な政争を繰り広げていました。
    そして、そうした政争の渦中にある個々の議員にとって、議員生命を維持するためには、地元選挙区への利権誘導が最大の関心事となっていました。
    通州事件は、世にもまれなる残虐な事件ですし、当時の新聞でも大きく採り上げられた事件ではありましたが、日本の議会の関心は、もっぱら国内事情におかれ、外地で起きた惨劇への政治上の関心はほとんど払われませんでした。

    ですから当時、Chinaにいた日本人居留民は、危険が大きくなったChinaから、脱出するようになりました。
    当時は日本への帰還は船便です。
    その船は上海から出向しました。
    そこで上海に、およそ3万人の日本人民間人が集結しました。

    ところがなんと日本は、その上海で、8月9日に船津工作に基づく現地停戦協定を結ぼうとしています。
    これは危険なことです。
    なぜなら上海には、3万人を超える日本人民間人が日本への渡航を目的に集結していたのです。
    そしてこの日本人居留民の安全確保のために、上海に上陸していたのは、わずか2千人の日本海軍陸戦隊でした。

    この日本海軍陸戦隊は、戦闘部隊ではありません。
    あくまで日本人民間人が無事に日本船舶に乗るための警備兵です。
    ですから武装も、軽装です。

    いよいよ停戦協定の日となります。
    その日の朝、上海で起きたのが大山中尉惨殺事件です。
    この事件は、海軍上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉が、車で走行中に、Chinaの保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて惨殺され、さらにごていねいに中尉が瀕死の状態でいたところを、車外に引きずり出して、頭部を青竜刀でまっ二つに割られたという事件です。
    この緊急事態発生によって、上海は戒厳令が敷かれ、当然の事ながら、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破産になりました。

    そしてこの事件の一週間後、なんと上海に、和平を結ぶはずだった国民党が、なんと5万の兵力をさしむけて市内にいる日本人の虐殺をしにやってきました。
    そのまま彼らの上海侵入を許せば、通州事件の何十倍もの大被害が日本人を襲うことになります。

    日本海軍陸戦隊は二千名のの増援を得て、この5万の大軍を前に、なんとわずか4千の兵で、まる二週間も国民党の上海侵入を防ぎました。
    これによって、日本人居留民は無事に船に乗って日本に帰還することができたのです。

    もしこのとき「日本海軍陸戦隊の4千名が上海にいなかったら」、どのようになっていたでしょうか。
    その実例は、チベットに見ることができます。
    武装を持たないチベットは、人民解放軍の侵入により、600万人いたチベット人は、4分の1にあたる150万人が虐殺されました。
    チベットは敬虔な仏教国ですが、寺院にやってきた人民解放軍の兵士たちは、寺の高貴なお坊さんを引きずり出して地面に据え、手足を切り落として
    「お前の信仰の力でその手足を元通りに付けてみろ」
    とゲラゲラ笑ったと伝えられています。酷い話です。

    その意味で、当時の日本海軍陸戦隊の活躍は、歴史に残る偉大な功績です。
    一般に銃を使う近代戦では、戦闘は普通1〜2分で終わるものであり、銃撃戦が5分も続いたら、
    「今日はとんでもなく長い戦いだった」
    と、後々まで語り継がれます。
    それが、海軍陸戦隊は、わずか4千で、十倍以上の敵を相手にして一歩も退かず、二週間も持ちこたえたのです。
    ものすごい精神力です。

    では、海軍陸戦隊が上海で必死に戦っていた二週間、日本政府は何をやっていたのでしょうか。時の内閣は近衛文麿内閣です。
    答えは、「喧々諤々(けんけんがくがく)していた」です。
    断固戦うべしという議論と、軍は派遣すべきでないという議論がまっ二つに分かれて紛糾し、決断がつかずにいたのです。

    結果として二週間も経ってから(二週間も経ってからです)、日本政府は上海出兵を決断しました。
    そして松井大将率いる10万の上海派遣軍が編成されました。
    ようやく日本が軍を派遣したのが、9月9日です。
    大山中尉事件から、一ヶ月経過していました。

    少し考えたらわかることですが、手ぐすね引いて待ち受けている敵に、1ヶ月もの余裕を与えたのです。
    これは軍事的にみたら最悪の選択です。
    その間に、待ち受ける国民党は、なんと60万もの精鋭部隊を上海に集結させ、2万個ものトーチカをつくって、日本軍の上陸を待ち受けていたのです。

    古事記を読むと、このときの日本政府の怠慢は、まさに目を覆うばかりです。
    古事記は、軍を「稲妻」や「雷(かみなり)」にたとえています。
    軍事というものは、常に迅速果敢を要すると、古事記ははっきりと書いているのです。

    上海派遣軍の松井大将率いる日本軍は、たいへんな苦戦を強いられました。
    これが「第二次上海事変」ですが、この事変で日本側は4万名もの死傷者を出しています。
    この数は、日露戦争に次ぐ犠牲者数です。

    ちなみにこのときの上海派遣軍ですが、日本にとって、10万の兵力を外地に出すということは、たいへんな負担でした。
    ですからこのときに派遣された軍は、まさに各地から寄せ集めの大隊や中隊で、その多くは家族持ちの兵としてはやや高齢な30代のお父さんたちが多かったのです。
    国に帰れば、女房も、まだ幼い子もいる。
    そういうお父さんたちが、敵が手ぐすねひいて待ち受ける上海に出撃することになったのです。

    二ヶ月後の11月10日、ついに日本軍は国民党軍を蹴散らして、上海の軍事的脅威を取り除きました。
    このときの英国の新聞の報道が残っています。
    「国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。我々は日本軍に感謝すべきである。」
    それが当時の世界の客観的な反応です。

    勝ちはしたものの、日本側の被害も甚大でした。
    この時点でお父さんたちの命は、約半数が失われていたのです。

    このことについては、やはり当時の日本政府の政治責任というものを考えざるを得ません。
    事態がここに至るまで、国会は、政府は、いったい何をやっていたのでしょうか。
    簡単な話、日本は国際協調のもと、欧米諸国と連合軍を組成して、ChinaにおけるChineseの武装を完全解除させる動きに出るか、それができないのなら、遅くとも通州事件が起きた時点で、Chinaにおける日本軍および日本人居留民の完全撤退を図り、満洲、半島、台湾、および日本列島、太平洋の島々といった日本が守備する範囲だけをしっかりと守る。
    内乱状態のChinaからは完全撤収し、Chinaへの経済的援助の一切もすべて停止するという選択もあったはずです。
    そもそも敵に十分な時間を与え、戦争でもないのに日本軍を上陸させれば、後日それを
    「日本軍による侵略行為であった」
    と言われることは火を見るよりもあきらかなことです。

    だから彼らは「待ち受けた」のです。
    日本を攻めるだけの力がないから、「待ち受けた」のです。

    もちろん、上海派遣軍の編成などせず、そのまま放置するという選択もありました。
    この場合、すでに日本人居留民は避難済みですから、日本側に被害は発生しません。
    汪兆銘などの親日政権も、いつまでもChinaに置いておいたから、結局彼らは殺されることになったのです。
    満洲にでも移住させて、そこで亡命政権をつくって、時を待つという選択もあったかもしれません。
    それが政治というものではないかと思います。

    けれど当時の日本政府の関心は、次の選挙と政争だけでした。
    いまと同じです。
    次々と天然災害が起こり、被災者が出ても、国会は言葉尻をつかまえた不適切発言問題と、不倫問題ばかりです。
    三流週刊誌ではないのです。
    国会がそのようなもので、果たしてまともな国政などできるのでしょうか。
    日本人の生命と財産の安全に、それらが何の関係があるのでしょうか。

    さて、上海戦を勝利した日本軍は、敵が逃げ込んだ南京へと兵をすすめました。
    なぜなら逃げ込んだChina国民党軍は、南京市内で、南京市民を対象に、まさに通州事件の再現をしていたからです。
    日本軍の派遣は、治安維持出動です。
    ですから、これは南京まで行かざるを得ません。

    南京での日本軍は、一週間後の何時何分に砲撃を行うとあらかじめ空から南京城内にビラを撒いて告知したうえで、城外で攻撃をしないで待機しました。
    南京の市民たちに十分な避難の期間を与えるためです。

    総攻撃開始は12月10日です。
    そして12月13日には南京城が陥落し、翌14日に日本軍は南京城内に入城を果たしています。
    このとき第十軍にいた山崎参謀は、南京城の南端にある中華門から東端の中山門までを見分した情況を日記に記録しています。
    「南京城東部は、
     広漠たる空地にして、
     都市計画の雄大さを認む。」
    つまり南京城内は、なにもない広大な空き地になっていたのです。

    どういうことかというと、実は、日本が攻めて来ると悟った国民党が、城内に日本軍が隠れないようにと、市民たちを強制的に追い出し、そこに火を放って、何もかも燃やしてしまっていたのです。

    同じく14日の模様を、城内東北部の残敵を掃討した佐々木大三〇歩兵旅団長が日記に書いています。
    「住民はひとりも顔を見せない。
     痩せ犬だけが無表情に歩いたり、
     寝そべったりしていた。」

    歩兵第三八連隊の戦闘詳報には、
    「興衛および十字街付近は、
     小集落の点在をみるも、
     住民は居住しあらず。
     敵はこれらの家屋をほとんど焼却し退却せり」
    とあります。

    また、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者も、当時の様子を「China軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
    「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が進撃し始めた。
     これが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
     南京に向けて十五マイルにわたる農村地区では、
     ほとんどすべての建物に火がつけられた。
     村ぐるみ焼き払われた。
     農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
     火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
     中国軍による焼き払いの損害は優に三千万ドルにも及ぶ。」

    南京にいた国民党総裁の蒋介石は、南京戦の始まる3日前の12月7日に、我先に南京から逃げ出しています。
    その蒋介石は、その前にも、あれだけ準備した戦いで、日本軍に負け続けており、日本軍の強さを思い知った蒋介石は、南京でも勝てないと踏んだわけです。
    だからこそ逃げたのです。
    そして日本軍に軍事力では勝てないと踏んだ蒋介石は、この後から新たな対日戦闘を開始しました。
    それが広告宣伝戦争(情報戦争)です。

    蒋介石は、南京陥落の日の少し前から年間300回にもわたる記者会見(ブリーフィング)を行うようになったのです。
    これは内外のジャーナリストや外交官など30〜40人の前で、日本がいかに不当であるか、蒋介石自身が宣伝したというものです。日本に軍事力で勝てないから、パフォーマンスで勝とうとしたのです。
    同時にこれは、日本に負けて兵を失った蒋介石が、新たな兵を徴用するための広告宣伝活動でもありました。

    蒋介石は、日本を非難するための宣伝材料を見つけたり、捏造しては、毎日記者会見をして、自分たちを正当化し、また日本軍の悪逆非道をアピールしていました。
    これが年間300回、毎日のように行われました。
    現代の中共政府は、日本軍が南京で虐殺を行ったと宣伝していますが、当時蒋介石自身が行った三百回におよぶ記者会見の内容について、昨今、日本の自由主義史観研究会が、すべての会見内容について詳細に分析を行いました。

    もし本当に日本が南京で虐殺を行っていたのなら、宣伝をする蒋介石にとって、それは格好の日本糾弾材料になったであろうことからです。
    ところが三百回にわたるその会見で、日本軍による南京での虐殺の話は一回も、行われていませんでした。
    要するに「南京虐殺などなかった」のです。

    日本軍の占領後、南京は治安が回復し、少なくとも大東亜戦争が終わるまで、そこは、日本人の若い女性が普通に市場で一人歩きしてショッピングを楽しんでも何ら問題が起こらない、平和な町となりました。

    大東亜戦争の末期、日本国内では空爆があり、占領があり、食料の供給もままならないひどい状態が続いていましたが、南京は、すくなくとも昭和20年夏までは、きわめて平和で、食料も豊かで、軍事的脅威やテロの危険のない、安全な町であり続けたのです。

    その様子が変化したのは、終戦後、日本軍が去ったあとのことです。
    中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、強姦、略奪を行ない、一般市民から十万人から十五万人という、とほうもない死傷者を出しています。
    このとき、南京市民の三人にひとりが殺害されました。

    通州事件や南京での虐殺事件を起こした張本人が、実際にはありもしなかった日本軍による南京大虐殺なる虚構をこしらえ、これをいまでも宣伝しています。
    そして大切なことは、その張本人というのは、蒋介石の国民党でもなければ、毛沢東の共産党でもない。
    両方に関係している、いまも昔も変わらぬChineseそのものなのです。

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ※この記事は2010年1月の記事のリニューアルです。

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  • 8月革命説とイマジナル・セル


    日本は一部の特権政治家のためにある国でもなければ、いわゆる敗戦利得者のためにある国でもありません。
    日本は、日本人による日本人のための日本人のための国です。
    そして、そんな日本は、世界の希望です。

    20230628 イマジナル・セル
    画像出所=https://www.13abc.com/2023/04/25/moment-science-chrysaliscocoon/
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    日本をかっこよく!

    「8月革命説」なるものがあります。
    日本国は、昭和20年8月の終戦により革命が起こり、大日本帝国が滅んで新たに日本国が誕生したとする説で、戦後、元立教大学法学部教授で、後に東京大学名誉教授となった憲法学者の宮澤俊義教授らによって提唱された説です。
    この説では、日本は、昭和22年に憲法を制定し、昭和27年の主権回復の日をもって、独立国となった・・・とします。
    この説によれば、韓国が成立したのが昭和23年、中華人民共和国が昭和24年ですから、日本のほうが後に出来た新興国、ということになります。

    一方、日本は神武創業以来、2683年の歴史を持つ世界最古の国だという説があります。
    多くの保守系の先生方は、この立場を取り、8月革命説を否定します。
    あるいは近年に至り、日本は1万7千年前の縄文時代から続く世界最古の国だという説があります。
    あるいはもっと古く、3万8千年前から存続する世界最古の国だという説もあります。

    けれども8月革命説を信奉する人たちは、そうした考えを一笑します。
    あくまで戦後日本は、新興国にすぎないという立場をとるからです。

    では、本当のところ、日本は世界最古の国なのでしょうか。
    それとも新興国なのでしょうか。

    実は、「どちらも正しい」というのが正解です。

    国という概念は、日本語では日本国全体を意味する場合もあれば、出雲の国とか尾張国といったように、旧行政区分の県を意味する場合にも使われます。
    旧行政区分を国と表現する場合、ここでいう国とは、行政単位を含む政治的組織を意味します。
    たとえば江戸時代、全国は諸藩に別れ、それぞれの国に大名がいて、自治を行っていました。
    そして日本全体のことは「天下」と呼んでいました。
    「天下」というのは、「アメの下」という意味で、天朝様、つまり天皇の知らす国全体を表す言葉です。
    天皇の知らす国以外の外国を含めた地球全体の諸国を含む場合は、それを「世界」と呼んでいます。

    つまりもともとの日本語では、
    「国」・・幕府の直轄地と諸藩。都道府県の旧行政単位。
    「天下」・天皇の知らす国全部。
    「世界」・地球上の諸国。
    というように区別して考えられていたわけです。

    そしてこのことは、実は英語も同じです。
    英語では、
    ワールド(World)=世界全体
    ネイション(Nation)=文化的、言語的、民族的な結びつきを持つ人々の集団(天下)
    ステイト(State)=国家、政府、行政組織などの政治的組織(幕府及び諸藩)
    と区別されます。

    従って、8月革命説が説いているのは、あくまで我が国の政治的組織としての「国」、すなわちステイトのことですから、それはそれで正しい理解と呼ぶことができます。
    一方、日本が縄文以来、あるいは神武創業以来の古い国という見方は、これは我が国をネイションとして見ている見方であるといえます。そしてこれもまた正しい見方です。

    つまり、8月革命説も、縄文以来・神武創業以来という見方も、物事の別の面を説いているのであって、考え方としては両方正しいのです。

    そしてここからが大事なことですが、なるほど日本は戦後に占領を受け、憲法を新設し、独立国であることを世界から承認されるようになりましたが、その戦後の政治的組織は、果たして国民のためになっているのだろうかという疑問があります。

    かつての地球上では、諸国は王国であり、王国は王ひとりのために存在し、王の意思次第で国民は戦争に駆り出されたり、あるいは戦いに破れて王国の民、とりわけ女性たちが強姦等の被害に遭い、これによって双方の国の血が混じりあって新たな大きな王国が形成されるといったことが行われてきました。

    けれどそれではいけないということになって、国は「国民の国民による国民のための政治」が行われるようにと、様々な工夫や改善が行われ、ときに国家そのものが転覆されたりしてきたというのが、世界の歴史です。

    そしてこうした理解の上にたって日本を見ると、日本は歴史を通じて国民を「おほみたから」とし、政治権力は、どこまでも天皇の「おほみたから」である国民が豊かに安全に安心して暮らせるようにしてきたという国柄を持ちます。
    その日本が、明治以降、とりわけ戦後においては、西欧諸国に倣って国の政治制度を導入してきたわけですが、その結果、現在、世界においても、また日本においても、一部の富裕層が利益を得るために、国民がただ働きアリとして使役され、その富がひたすら吸い上げられ続けるという、怪しげな政治的組織になってしまっている現状が生まれています。

    とりわけこの30年間の日本は、経済成長そのものが停滞する中で、諸税を含む国民の負担ばかりが増えている状況に加え、ついにはLGBT法のような意味不明の法律まで制定される有様です。
    その一方で、日本人そのものや、日本の文化性に関しては、いまなお世界から絶賛を浴びているという現実があります。

    ということは、現下の日本は、古くからの文化(つまりネイション)としては、世界最高峰の素晴らしいものを持ちながら、政治的組織(つまりステイト)は、最低の機構になっているという、大きな矛盾を国内に内包しているということになります。

    では、この問題を解決するにはどのようにしたら良いのでしょうか。

    答えは明確です。
    日本のステイトの形を修正する他ない。

    それはある意味、革命のような意味合いを持ちますが、ただし、現状においてそのための流血革命など、国民の誰一人望んでなどいません。
    国民が望んでいるのは、流血革命のような悲惨を伴う改革ではなく、企業などに見られるような「改善」によって、少しでも日本が良い国になっていくところにあるものと思います。

    けれども、それを特定の政治家や宗教家などが言い出せば、それは国民への価値観の押し付けになるといって叩かれるのは目に見えた話です。
    そうではなくて、国民の側が目覚めていく。
    そのためには国民教育が必要です。

    では、目覚めた国民がどのくらい必要かといえば、これは有権者数から導くことができます。
    日本の有権者数は、およそ1億人です。
    このうち、実際に選挙に行く人は、およそ6千万人です。

    世の中は、何かをしようとするとき、必ず賛成派、反対派、どっち着かず派の三者に別れます。
    ということは、日本を変えようと真面目に考える人の数は、三分の一の2千万人できればよい。
    そしてこのなかのリーダーとなる人達は、5人に1人の割合で良いのですから、要するに400万人の明確な意思を持った人たちが生まれれば、日本のステイト(政治的組織)は生まれ変わることができるのです。

    実はこのことは、チョウチョの変態とよく似ています。

    チョウチョは、イモムシの時代からサナギとなり、そして蝶となって自由に羽ばたきます。
    その蝶がイモムシの時代には、なんと体重の2万7000倍もの葉っぱを食べるのだそうです。
    それはまるで現代の唯物的な物質文明のようです。

    ところがそうしているさなかに、イモムシの体の中に風変わりな細胞が生まれてきます。
    それをイマジナル・セルと言います。
    イマジナル・セルは、DNAに刻まれた記憶として、生まれたときからイモムシではなく、チョウになることを知っている細胞たちです。

    彼らは単細胞として生まれるのですが、しばらくはイモムシの免疫システムによって異物として扱われ、次々と殺されていきます。
    それでもめげずに増えていくイマジナル・セルは、独自の周波数で会話し、他のイマジナル・セルとコミュニケーションを取るようになります。
    そしてクラスターが形成されていくのですが、するとある時点で、ティッピング・ポイント(転換点)が起こり、いままでさんざん攻撃してきたイモムシの免疫システムが、イマジナル・セルの側に寝返り、天敵がいなくなります。

    こうしてイマジナル・セルたちは、それぞれの行きたいところへと集まり、目になりたいもの、羽になりたいもの・・・として集まり、本格的にチョウになる準備を始めます。
    そしてこのとき、イモムシの細胞は、溶けて(死んで)ドロドロのスープとなって、チョウになるためのイマジナル・セルたちの栄養になります。

    こうしてチョウが生まれてくるわけですが、チョウになると、イモムシ時代には左右6つしかなかった眼が、チョウになったとたん、アゲハなら1万8千以上ある複眼の世界が広がり、空も野原も見渡すことができるようになります。
    そして食べるものも、苦い葉っぱから、甘い蜜へと変化するのです。

    おそらくこれからの日本に起こる変化も、これと同じプロセスであろうと思います。

    ほんの10年前までなら、ネイション日本を取り戻したいと思う日本のイマジナル・セルたちは、ひたすら戦後生まれの日本国の免疫システムによって攻撃され、場合によっては破壊までされてきました。
    ところが昨年の参院選以来、急速にイマジナル・セルたちの目覚めが始まり、いまそのイマジナル・セルたちが、新しい日本の希望を求めて、急速に対話を始めるようになっています。

    つまり戦後日本というステイトは本来の日本を取り戻す、つまり、イモムシからチョウになるプロセスが始まったのです。

    戦後生まれの私達は、一度も戦場に行くこともなく、徴兵に取られることもなく、同級生を戦災で失うこともなく、空襲に怯えることもない、素晴らしい時代を過ごさせていただきました。
    そうであれば、いま私達がすべきことは、子どもたちや孫たちのために、これまで以上にもっと良い日本を残すこと。
    愛と平和の世界で一番やさしさのある国としての日本を築くことではないかと思います。

    日本は一部の特権政治家のためにある国でもなければ、いわゆる敗戦利得者のためにある国でもありません。
    日本は、日本人による日本人のための日本人のための国です。
    そして、そんな日本は、世界の希望です。



    ※以上のイマジナル・セルのお話は、保江邦夫さん、 はせくらみゆきさん共著『愛と歓喜の数式「量子モナド理論」は完全調和への道』から引用させていただきました。


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  • あきこさん


    遠く離れた異国の地で、最後まで死力を尽くした男女がいました。
    過酷な戦場に咲いた一輪の花のような恋もありました。
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    紫蘭(シラン)
    花言葉:あなたを忘れない、変わらぬ愛
    20150622 シラン
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    日本をかっこよく!

    以下のお話は『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人!」の第二巻で「玉砕前の結婚式」としてご紹介したお話です。

    ******

    1 五十倍の敵に包囲された拉孟守備隊▼

    昭和19(1944)年6月から9月にかけて、ビルマ(現、ミャンマー)と中国の国境付近で壮絶な戦いがありました。
    拉孟(らもう)の戦いと呼ばれています。
    この地を守る日本軍は最後の一兵まで戦い抜き、120日間という長期戦の末に玉砕しました。

    守備隊1280名のうち、300名はほとんど体の動かない傷病兵でした。
    そのなかには15名の女性もいました。
    襲いかかった敵は5万の大軍です。
    是が非でも援蔣ルートを確保したい蔣介石は、国民党最強といわれる雲南遠征軍を拉孟に差し向けたのです。
    それはアメリカのジョセフ・スティルウェル陸軍大将が直接訓練を施した、最新鋭装備の軍でした。

    戦いの末期に、偵察機三機で拉孟守備隊に弾薬を届けた小林中尉の手記があります。
    「松山陣地から兵隊が飛び出してきた。
     上半身裸体の皮膚は赤土色。
     T型布板を敷くため一生懸命に動いている。
     スコールのあとでもあり、
     ベタベタになって布板の設置に懸命の姿を見て、
     私は手を合わせ拝みたい気持にかられた。

     ......印象に深く残ったものにモンペ姿の
     女性がまじって白い布地を張っていた姿であった。
     思うに慰安婦としてともに従軍していった者であろうか。
     やりきれない哀しさが胸を塞いだ」

    上空からは、拉孟を死守する守備隊の周辺を、敵の大軍がびっしり取り囲んでいる様子がよく見えました。
    小林機は高度を30メートルにまで下げ、50キロの落下傘つき弾薬筒を二個投下しました。
    これに応えて守備隊の兵や女性たちが、ちぎれんばかりに手を振りました。

    小林中尉はこの何分か何十分後かに戦死しているかもしれない彼たち、彼女たちの顔を心に刻み込もうと、飛行機から身を乗り出すようにして目を凝らしました。
    けれど溢れる涙で目がかすみ、はっきり見えなかったそうです。

    「空中補給終了次第、ただちに戦場を離脱せよ」との命令だったのですが、熱い思いにかられた小林機は、敵の弾幕をくぐりながら、あらんかぎりの銃弾を敵陣に叩き込みました。
    愛機を敵弾が貫きました。
    体を弾がかすめました。
    それでも弾倉が空になるまで、撃ち続けたそうです。
    痛いほど、その気持ちが分かる気がします。

    守備隊に交じっていた女性たちは軍人ではなく、軍とともに移動してきた慰安婦たちでした。
    慰安婦といえば聞こえはいいですが、要するに売春婦の女性たちです。
    いまどきの倫理観ですと異質に感じるかもしれませんが、昔は金貸しと売春は人類最古の職業といわれるくらいで、東西の文学にも、パリのオルセー美術館の名作にも、それは登場しています。

    軍隊というのは健康な青年の集団です。
    世界中どこの国の軍隊にもそれは付随していました。
    まったくないのは日本の自衛隊くらいなものではないでしょうか。
    決して陰惨な存在ではなく、前線近い日本の兵隊がいかに彼女たちを大切にし、彼女たちも誠心それに応えたかは、歴戦の下士官であった作家の伊藤桂一氏の著作にも、たくさん活写されています。

    拉孟でも、彼女たちは戦いが始まるずっと前に、「ここは戦場になる。危ないから帰りなさい」と勧められていました。
    けれど彼女たちは帰りませんでした。

    拉孟にいたら生きて帰ることはできないかもしれません。
    しかし彼女たちは、兵士たちと家族のように親しくしていました。
    男と女の情が通っていたのです。
    そこを離れるということは、彼女たちにとって、肉体が生きていても、心が死ぬことを意味しました。
    ですから無理に帰そうとすれば、女たちは薄情だと怨みます。

    彼女たちは、自分たちも守備隊の一員と考えていたのです。
    こうして二十名いた女性たちのうち、朝鮮人女性五名だけが先に拉孟を離れ、日本人の十五
    名が戦場に残りました。

     *

    2 来世での幸せを誓い合って▼

    守備隊のなかに、戸山という伍長がいました。
    戸山伍長は戦いが始まる前、折に触れては、昭子という女性につらく当たっていました。
    昭子さんは美人でした。
    ある日のこと、戸山伍長は昭子さんに、「おまえは道具じゃないか」と罵ったそうです。
    腹をたてた昭子さんは、以後、戸山伍長がいくら金を払うと言っても、一切そばへも寄せ付けませんでした。

    戦いが始まりました。
    戸山伍長は爆風で両目の視力を失ってしまいました。
    看護をしたのは昭子さんです。
    二人は結婚を約束しました。
    昭子さんは、戸山伍長が、ほんとうは昭子さんのことが好きだから、つらく当たっていたことを女の直感でちゃんと知っていたし、男っ気の強い戸山伍長に、昭子さんも惚れていたのです。

    二人は戦いの中で、仲間たちに祝福されて三三九度をかわしました。
    戦場です。
    結婚したとろで幸せな家庭も、可愛い赤ちゃんも、望むべくもありません。
    「けれど」と二人は言いました。
    「もし来世があるのなら、その来世で心も体も真実の夫婦となりたい」

    婚儀の数日後、戦場に戸山伍長と、そばに寄り添う妻昭子さんの姿がありました。
    昭子さんは、全盲の戸山伍長の目になって、手榴弾を投げる方向と距離を目測し、伝えていました。
    その日の第三波の敵が襲ってきました。

    敵の甲高い喚声を聞いた戸山伍長は「少年兵?」と昭子さんに聞きました。
    そして手榴弾の信管を抜こうとした手を一瞬止めました。

    砲弾が唸る中、昭子さんは「十五、六の少年兵ですよ!」と叫びました。
    敵兵とはいえ、相手は年端もいかぬ子供です。
    昭子さんも躊躇しました。

    そのとき敵の少年兵が投げた手榴弾が、二人の足元に転がってきて、轟音とともに炸裂しました。
    戸山伍長と昭子さんご夫妻は、ともに壮烈な戦死を遂げました。
    戦場で死を待つばかりで子を持つことも叶わない二人は、たとえ敵兵といえども、少年を殺すことがはばかられたのでしょう。

    最後の突撃の日、先頭にはその時点で指揮官となっていた真鍋大尉が立ち、その後ろに連隊旗手として黒川中尉、そのまた後ろを、かろうじて動ける兵たちが一塊になりました。
    突撃の前に、自力で歩けない兵たちは、互いに刺し違えました。
    意識のない兵、手も足も動かせぬ重傷兵は、戦友がとどめを刺しました。

    生き残っていた女性たちは、先立った昭子さんを除いた14名です。
    彼女たちは、何より大切にしていた晴れ着の和服に着替えました。
    戦場のススで汚れた顔に口紅をひき、次々に青酸カリをあおりました。
    この日まで、喜びも悲しみも辛さも苦しさも分け合ってきた男たちの運命に殉じて、彼女たちも、「共に戦死した」のです。



    3 蔣介石の逆感状▼

    この物語には、後日談があります。
    玉砕の当日、報告行の命令を受けた木下中尉が、奇跡としか言いようのない生還を果たしました。
    木下中尉は包囲網の隙を突いて脱出し、第五六師団の前線に辿り着いたのです。
    そして、拉孟の戦いの様相を克明に報告しました。

    重傷の兵が片手片足で野戦病院を這い出して第一線につく有り様、空中投下された手榴弾に手を合わせ必中を祈願する場面、尽きた武器弾薬を敵陣に盗みに行く者、そして15名の慰安婦たちが臨時の看護婦となって傷病兵の看護をしたり、炊事、弾運びと健気に働いた姿などです。
    語る木下中尉も、報告を受けた五六師団の面々も、涙溢れるばかりだったといいます。

    この戦いの最中、敵の総大将である蔣介石が、次のような督戦状を発しました。
    「騰越および拉孟においては、我が優秀近代化の国軍をもってしても、日本軍はなお孤塁を死守している。
    (中略)ミートキーナ・拉孟・騰越を死守している日本の軍人精神は、東洋民族の誇りであることを学び、これを範として我が国軍の名誉を失墜させるべからず」

    この督戦状は蔣介石が、自軍を激励して戦わせるために出したものです。
    けれど、逆に日本陸軍の優秀さ、強さを讃える内容になっていることから、後に「蔣介石の逆感状」と呼ばれました。

    拉孟ばかりではありません。
    遠く離れた異国の地で、最後まで死力を尽くした男たちがいました。女たちがいました。
    過酷な戦場に咲いた一輪の花のような恋もありました。
    こうした一つ一つの小さな物語の中に、決して忘れてはいけない私たち日本人の心があります。
    それこそが伝えていくべき日本の歴史です。


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  • 希望ある未来のために


    いまあるすべての出来事は、人間が作った出来事です。
    そうであれば、やはり人間の手で、よりよい未来を創造していくこともできる。
    日本の目覚めを、世界中の人達が待っています。
    怒りのエネルギーを、ポジティブな明るい未来の建設へのエネルギーへと転換していくときです。

    20230627 未来図
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    日本をかっこよく!

    先日ある動画の中で「いまの時代や政治に文句ばかり言っていてもはじまらない」と申し上げましたら、ある方から、「俺たちの活動を否定するのか!」と叱られてしまいました。
    動画の中では、あとに続けて「文句を言うことも必要だ。けれどそれだけでは日本は変わらない」と申し上げたのですが、どうやら不愉快に思われたようで、お気を悪くされたことには深くお詫びします。

    怒るということは、とても大事なことです。
    ですから現代の世相に、「許せん!」と怒りを表明すること、その怒りを政治家の先生方にぶつけていくことも、もちろん大切なことです。

    ただ、問題は「怒る」という行動が、実はすでにその時点で受け身になってしまっているという点が問題なのではないかと思うのです。

    たとえば、LGBT法が先日成立しましたが、この法律の制定は、すでに10年前のオバマ政権当時から、仕込みが行われて現在に至っているものです。
    この法律を通すために、10年前に日本のゲイの方たちが米国に招待され、アチラで国政を動かすためにはどうすればよいかということを、メディア対策も含めてしっかりと研修し、その研修に基づいてテレビのドラマやバラエティ番組にゲイの人たちを登場させ、そうした中にあって影響力を持つことができるような人(たとえばマツコ・デラックスさんのような方)を育成し、ゲイに対する日本国民の偏見がなくなるまで時代を熟成し、その上で「ゲイの差別はいけない」という法案を通過させるという、計画に基づいた粛々とした活動が行われた結果、今般の法案成立に至っているわけです。

    すでにそこまで準備万端整えられて制定に至ったものであっても、これに「とんでもない!」と声を上げることは大切なことです。
    けれど、それだけでは、動いている戦車に素手で立ち向かうようなもので、せっかくの怒りの声自体が、押しつぶされてしまうのです。

    しかもこうした活動をする人たちは、戦後、時間をかけて様々な利権を得るようになっています。
    たとえば男女共同参画のために、現在の日本政府は年間およそ8兆円の予算を計上しています。
    つまり年間の防衛予算よりも多額のお金が支払われているわけです。
    そしてあくまで一般論ですが、こうした予算はだいたい2割が、予算取得者のフトコロに入るようになっているという、これはウワサがあります。
    もしそれが本当であればの話ですが、8兆円の2割の1兆6千億円という莫大なお金が、LGBT法成立等のために遣われ、そしてこの法律の施行後は、さらにまた数兆円の予算が毎年、差別をなくせという標語のもとに遣われることになっているのだ、という(これまた)ウワサがあったりもします。

    それがどこまで本当かは、現状では「神のみぞ知る」ですが、もしかするとその話の何割かは本当のことかもしれません。

    このようなことを仕掛ける人たちにとって、国がどうなろうが、国民生活がどのようになろうが関係ありません。
    「いまだけ、カネだけ、自分だけ」が儲かれば良いのです。
    そしてその分け前に預かろうという人たちが、その周りに群がります。
    こうして日本は、茹でガエルとなって、食べられているわけです。

    ではどうしたら良いのかといえば、そこに民意を変える戦略、つまり世間の常識を変えるプランが必要になります。
    具体的には
    1 戦略構築のための人材育成プラン
    2 叡智を結集させるための頭脳プラン
    3 資金を得るためのマネープラン
    等です。

    そしてこれらを実現するためには、文句や苦情ではなく、明るい未来という希望が中心に来る必要があると思います。
    なぜなら、我々が臨んでいる未来は、文句や苦情ばかりの未来ではなく、希望あふれる明るい未来であるからです。
    そうであれば、これらプランの中核には、常に希望がなければならないものと思います。

    いまあるすべての出来事は、人間が作った出来事です。
    そうであれば、やはり人間の手で、よりよい未来を創造していくこともできる。
    そしてそれができるのは、私よりも公(おほやけ)を優先するという文化を二千年以上にわたって形成してきた私達日本人だけではないかと思います。

    いまや日本の目覚めを、世界中の人達が待っています。
    怒りのエネルギーを、ポジティブな明るい未来の建設へのエネルギーへと転換していくときです。

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  • 十七条憲法の誤解釈を斬る


    常に天然の災害に囲まれている日本では、その事前事後の対策のため、常にみんなとの合意の形成を大切にしてきたのです。

    20200615 聖徳太子
    画像出所=https://toyokeizai.net/articles/-/118796
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    日本をかっこよく!

    「論」という字の訓読みは、「あげつらふ」です。
    「あげつらふ」は、お互いに顔(つら)を上げて、相手の目を見て討論するという意味です。
    中世から近世にかけては、目上の人には平伏して、下の者は上の人に許可されるまで顔をあげることができないものでしたから、顔(面)をあげて、相手の目を見て討論するというのは、上下関係の秩序とは別なものです。

    秩序は人間社会にとって大切な(必要な)ことです。
    しかし秩序ばかりを重んじて、論(あげつらふ)ことを失うと、独断専横の世の中になります。
    大陸系の文化では、この独断専横を重んじます。
    なぜなら独断専横は、意思決定が迅速であり、戦争に有効だからです。
    外敵が常に人であり集団であるならば、これに打ち勝つには人を集めて戦うしかない。
    けれど戦えば死者が出ますから、その戦いにあたっての兵は、できれば自分たちの集団ではない者たちを使用することが好ましい。
    そこから奴隷兵の概念が生まれるわけで、簡単に言えば死んでもらっても構わない者たちを兵として使役することで、身の安全を図り、権力や富を維持しようとするわけです。

    ところがこうした考え方は、日本では通用しません。
    なぜなら日本は、天然の災害が多発する国土を持つからです。
    幸いにして天災が数十年にわたって起きないでいてくれれば、大陸型の上下と支配、隷民の使役による富の構築などが、その災害のない期間中は有効になります。
    けれど、ひとたび大きな災害が襲えば、上下と支配の関係は成立し得なくなるのです。

    なぜなら災害復興のためには、多くの労働力が必要です。
    災害によって疲弊した地域の人々が、復興への大きな希望を保つためには、被災地となったエリアに住む人々の生活に、日頃から一定のゆとりと、高い民度がなければなりません。
    このゆとりと高い民度があるから、日本では大地震の直後でも人々がコンビニの前に並ぶことができるのです。
    すべての富を、人口の上位1%の人が握り、あとはすべて生きていることが精一杯の奴隷という社会では、災害が起きれば、生き残った人々は暴動をし、あるいは略奪をするしか生き残る術がないのです。

    また次に大きな災害がやってきたときに、被害を最小限に食い止めるためには、防災工事の正確を期さなければなりません。
    そのためには、何よりもみんなが納得ずくで完璧な工事や予防対策、復興工事などが行われる必要があります。
    どこかに手抜き工事があれば、たとえばそれが堤防なら、その場所から堤防が簡単に決壊してしまうからです。

    要するに古くからの国の形が、
    (1)「戦火・人災」への生き残り策として形成されてきた
    (2)「天然の災害」への生き残り策として形成されてきた
    この違いが、日本の特殊性を形成しているということができます。
    そして(2)が成立するためには、国民がそれぞれに高い民度を持ち、相互に秩序を重んじながらも、同時にちゃんと建設的な論(あげつらふ)ができるという国民性が必要になります。

    ところがこのことは、同時に(1)の権謀術数型の国から見たときに、(2)の国はきわめて工作のしやすい国ということになります。
    なぜならその論の場に、強硬に反対だけを主張する者を送り込みさえすれば、(2)の社会は何も決めることができなくなるからです。

    ですから十七条憲法では、第三条において
    「詔(みことのり)を承けては必ずつつしめ」
    というルールを定めています。
    討論では、互いに激論を交わして良いけれど、討論をつくして結論が詔(みことのり)として出されたときには、どんなに自分が反対の意見を持っていたとしても、出た結論にちゃんと従いなさいという意味です。

    しかしそのためには、
    「高い民度を持ち、
     相互に秩序を重んじながら
     同時にちゃんと建設的に
     論(あげつらふ)ことができる国民性」
    が必要になります。

    これが我が国が1400年前に制定した憲法の精神です。
    十七条憲法は、単に「和を以て貴しとなす」ことをうたいあげた憲法ではありません。

    「それ事(こと)は独(ひと)りで断(さだ)むべからず。
     必ず衆(もろもろ)とともによろしく論(あげつら)ふべし。
     少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。
     ただ大事を(あげつら)ふに逮(およ)びては、
     もし失(あやまち)あらむことを疑へ。
     故(ゆへ)に、衆(もろもろ)とともに相弁(あいわきま)ふるときは、
     辞(ことば)すなわち理(ことはり)を得ん」

    これが第17条です。
    「物事は独断で決めてはいけません。
     必ずみんなとよく討論して決めなさい。
     小さな事、自分の権限の範囲内のことなら、
     ひとりで決めても構いませんが、
     大事なこと、つまりより多くの人々に
     影響を及ぼすことを決めるときには、
     必ずどこかに間違いがあると疑い、
     かならずみんなとよく議論しなさい。
     その議論の言葉から、
     きっと正しい理が生まれます。」
    というのが、この条文です。

    そしてこの条文が、第一条の文言につながるのです。
    「一にいわく。
     和を以(も)って貴(たつと)しとなし、
     忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
     人みな党(たむら)あり、
     また達(さと)れるもの少なし。
     ここをもって、
     君父(きみやちち)に順(したが)わず、
     また隣里(となりのさと)に違(たが)ふ。
     しかれども上(かみ)和(やわら)ぎ
     下(しも)睦(むつ)びて
     事を論(あげつら)うに諧(かな)うとき、
     すなわち事理(ことはり)おのずから通ず。
     何事か成らざらん。」

    つまり十七条憲法は、あくまで上下の身分を越えて顔を合わせて議論することの大切さと、そのためのルールを定めた憲法なのです。
    ただ単に「和を以て貴しとなせ」というだけではない。
    それにそもそも「和を以て貴しとなせ」というのなら、なぜ「和」が大事なのかの理由が明確にされていなければなりません。
    その理由を明確にしないで、単に頭ごなしに「和が大事」と述べているのが憲法だというのなら、それではただの教条主義であり、どこかの新興宗教と同じです。

    そうではなく、まず冠位十二階があり、身分の上下を明確に定めたうえで、十七条憲法においては、その身分の垣根を越えて、互いに心を開いて議論しましょう。
    そうすることで我が国は間違いのない、あるいは少ない、国になることができるのだ、ということを示したのが十七条憲法であるわけです。

    これは五箇条の御誓文の第一「広く会議をお越し万機公論に決すべし」と同じことです。

    日本人は、ただ和を大切にするというだけの民族でもなければ、国家でもありません。
    常に天然の災害に囲まれている日本では、その事前事後の対策のため、常にみんなとの合意の形成こそが大事とされてきたのです。


    ※この記事は2020年6月の記事の再掲です。
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  • 世界の進運に 後(おく)れさらむことを期すべし


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    5月の倭塾は、 本日6月25日(日)13時半から開催です。場所は富岡八幡宮の婚儀殿です。テーマは「これからの日本を考える」です。宇都隆史前参議院議員のお話もいただきます。参加自由で、どなたでもご参加いただくことができます。皆様のふるってのご参加をお待ちしています。
    詳細 → https://www.facebook.com/events/374448264825083
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    不平や不満、あるいは評論評価だけでは、決して新しい未来を開くことはできません。
    過去に学び、未来を創造する。
    そこに希望があります。

    奈良天平祭り
    20200619 奈良天平祭り
    画像出所=https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/03history/01historic_sites/01north_area/heijokyuseki/event/8dutwep3wp/
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    日本をかっこよく!

    質問です。
    みなさんが(仮に男性であっても)女性であったとします。
    祖父は偉大な人物で、民衆が豊かに安全に安心して暮らせる国こそが、我が国の本来の姿であると堂々と主張した人でした。
    父は、そんな祖父の御心を実現するためにと、時の権力者を斬り、国内において大改革を施しました。
    結婚した夫は、そんな父の理想を実現するためにと、大きな戦いを行ない、政治の実権を握りました。

    けれど、そんな夫は、若くして急逝してしまいます。

    あなたは、夫の志を継ぐことにしました。
    そのときみなさんなら、どのような国づくりを目指しますでしょうか。
    次の3つから、これと思うものを選んでみてください。

    A)悪者を片端から逮捕投獄殺害して、平和な国を目指す。
    B)すべての政治権力を独占して、反対派を許さない体制を目指す。
    C)教育と文化の普及促進によって、争いのない平和な社会の実現を目指す。

    我が国が選んだ選択は、(C)でした。
    敵対する者、悪事を働く者を責めるのではなく、自らが律しようとしたのです。
    そしてそのために選んだ方向が、教育と文化による日本立国です。
    これが行われたのが、いまから1300年前、持統天皇の治世です。

    持統天皇というお名前は、後の世に付けられた漢風諡号です。
    ご生前は鸕野讚良姫天皇(うののさららの ひめの すめらみこと)と言いました。
    そして崩御後の諡(おくりな)を
     高天原廣野姫天皇
    (たかあまのはら ひろのひめの すめらみこと)
    と言います。

    日本書紀全30巻を通じて、この「高天原」の文字が使われているのは、創生の神々の章と、持統天皇の諡号(しごう)だけです。
    まさに、神とも呼べる偉大な女性天皇であられ、そして現代に続く日本の形を築かれたのが持統天皇であったからです。

    その持統天皇が実施された業績は数々ありますが、その中で絶対に見落としてはいけないことが、トップの画像にある
    (1) 教育のための日本書紀の編纂
    (2) 文化としての万葉集の編纂
    の2つです。

    日本書紀は史書です。
    史書は、その国のアイデンティティを形成します。
    アイデンティティとは、日本語訳したら「国民精神」のことです。
    日本とはいかなる国か、そしてその国作りのために、ご先祖たちがどのような苦労を重ねてきたのか。
    そうした過去の事実を学ぶことで、そこから日本人としての国民精神、すなわちアイデンティティが形成されます。

    しかしそうしたアイデンティティが、一部の人たちだけのものであってはなりません。
    それ自体が、国全体に一般化したものでなければならない。
    そこで新たな文化の創造として編纂されたのが「万葉集」です。

    万葉集に掲載された歌は、皇族や貴族や、いまでいう文化人のような人たちの歌ばかりではありません。
    そこには一般庶民の歌や、ごく普通の主婦の歌、若い娘さんの歌などが掲載されてます。
    つまり、日本全国誰もが、男女や身分の上下を問わず、歌を通じて高い民度と教養を持つ国にしていく。
    それが「文化の創造としての万葉集」の役割です。

    日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇です。
    万葉集の編纂をしたのは、柿本人麻呂です。

    けれど天武天皇の時代、天武天皇は国家最高権威です。
    指示や命令、つまり史書編纂の詔(みことのり)は、最終的には天皇からの詔の形をとりますが、その前に、それを実現していくことに関する細かな計画が行われます。
    そして天武天皇の時代に、そうした政治向きの事柄についての実権を持っていたのが、皇后(おほきさき)であられた鸕野讚良皇后(うののさらのおほきさき)、つまり後の持統天皇です。

    持統天皇が皇位にあったのは、690年から697年までの、わずか7年半です。
    けれど持統天皇は、孫の文武天皇ご譲位の後、わが国初の太上天皇(上皇)となられて、再び政治の中心の場に立たれています。
    そして、日本書紀や万葉集の編纂のみならず、
    ・日本という国号の使用
    ・太上天皇(上皇)という制度の開始
    ・貨幣制度の開始
    ・税制の確立
    ・戸籍の使用
    ・住所表示のはじまり
    ・官僚制度の確立
    ・文書行政の開始
    ・国家における権威と権力の分離
    ・お伊勢様の式年遷宮の実施
    など、いまの日本の形そのもの基礎を築かれています。

    とりわけ日本人の、いわゆる「民族性」にあたるものは、持統天皇の鋼鉄のような強い意思によって築かれたということができます。
    7世紀という、世界の国家の黎明期に、我が国が持統天皇という偉大な女性を戴いたことは、その後1300年以上に渡り我が国に生まれ育ったすべての人にとって、そしてこの先も何千年と続く日本人にとって、それはとても幸せなことです。

    そして持統天皇の築かれたその日本人の民族性は、エスニック(民族)としてのものではなく、どこまでもネイション(国家)としてのものであったということもまた、ものすごいことであったといえます。

    なぜならエスニック(民族)主義というものは、必ず流血の惨事を招くからです。
    なぜかというと、外国からやってきて日本に住む人、あるいは混血の人、あるいは生粋の日本人でも日本人の民族性を否定する人は、日本エスニック(民族)といえるのか、という問題を常に抱えるからです。
    もっというなら、日本民族であるかないかの境界線が、とても曖昧なのです。
    ですから必ず最後は流血の惨事になります。

    これに対し、日本的文化を共有する人がネイションの一員という考え方は、国家の理想を共有しさえすれば、その国の一員とされます。
    たとえばアメリカは多民族国家ですが、自由と平等、そして合衆国憲法をいただくことを誓った人がアメリカ合衆国というネイションの一員です。
    だから多民族国家であることができるのです。

    そのアメリカ合衆国が成立したのが1776年、18世紀の出来事です。
    日本は、それよりも千年以上も昔に、ネイション・ステートを形成しているのです。

    戦後は、日本を破壊したい人たちから、持統天皇はまるで強欲な女帝であったかのような言われ方をしてきました。
    けれどそろそろ日本人は目覚めなければなりません。
    そしてその目覚めこそが、昭和天皇が終戦の詔勅で語られた、
    「誓て国体の精華を発揚し
     世界の進運に
     後(おく)れさらむことを期すべし」
    ということの意味であると思います。

    このブログでは、過去に学ぶことを主として書いていますが、趣旨は別なところにあります。
    それはいかにして未来を切り開いていくのかです。
    日本が、サウスコリアのような独善的国家になりたくないのなら、民族主義(種族主義)の道は選ぶべきではありません。
    立派だった先達に学び、その立派だった過去と現在とを比べてみたときに、現在の持つ問題点が明確になります。
    その問題点を解決し、過去の良い点と、現在の良い点を組み合わせて、もっとよい社会を築いていく。
    そこが一番肝心なところです。
    なぜなら未来は創造するものだからです。

    持統天皇が目指された道は、まさにそのための道でした。
    人と人とが殺し合う悲惨を見続けてきた持統天皇は、二度と殺し合いなど起こらない世の中を築くために何ができるだろうかを、生涯をかけて追い求めていかれた天皇であったと思います。

    そのために日本書紀の編纂と、その日本書紀に基づく教育の実施、そして一般の庶民の和歌まで掲載した万葉集の編纂による文化の香り高い国づくり。
    持統天皇の功績は、まさにそうした教育と文化による(当時にあっての)新しい日本の創造であったといえます。

    過去を四の五のということは誰にだってできます。
    現在の欠点をあげつらうことも、誰にだってできます。
    けれど、不平や不満、あるいは評論評価だけでは、決して新しい未来を開くことはできません。
    過去に学び、未来を創造する。
    そこに希望があります。
    そこにこそ、大切な本義があるし、そのことを昭和天皇は
    「世界の進運に 後(おく)れさらむことを期すべし」
    と述べられたのだと思います。


    ※この記事は2020年6月の記事の再掲です。
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  • 山中鹿介の艱難辛苦と未来への希望


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    5月の倭塾は、6月25日(日)13時半から、場所は富岡八幡宮の婚儀殿です。テーマは「これからの日本を考える」です。宇都隆史前参議院議員のお話もいただきます。参加自由で、どなたでもご参加いただくことができます。皆様のふるってのご参加をお待ちしています。
    詳細 → https://www.facebook.com/events/374448264825083
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    日本的精神は、自分の繁栄よりも、周囲の繁栄を、そして子や孫たちの未来への責任を大事にします。
    たとえ自分の人生が艱難辛苦の連続するものであったとしても、私よりも公(おほやけ)を大事にする。
    いかなる時代にあっても、未来への希望をつなぐ。
    そこに日本的精神の根幹があります。

    山中鹿介像(安来市立歴史資料館蔵)
    20200611 山中鹿介像
    画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%B9%B8%E7%9B%9B
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    日本をかっこよく!

    できれば今日のブログは、最後までお読みいただきたいと思います。
    ちょっと難しいかもですが、とても大切なことです。

     *

    甚次郎(じんじろう)が兄に呼ばれて座敷へ行くと、そこには母もいました。
    床の間には、すばらしく大きな鹿の角(つの)と三日月(みかづき)の前立(まえた)てのついた兜(かぶと)が飾(かざ)ってありました。
    兄は、改(あらたま)った口調で言いました。

    「甚次郎、
     このかぶとは祖先伝来の宝、
     これをおまえにゆずる。
     十歳の時、軍(いくさ)に出て
     敵の首を取ったほど強いおまえのことだ。
     どうかりっぱな武士になり
     家の名をあげてくれ」

    甚次郎は、胸がこみあげるようにうれしくて、
    「ありがたくちょうだいいたします」
    といって頭をさげました。

    母がそばから言いました。
    「それにつけても御主君尼子(あまこ)家の
     御恩を忘れまいぞ。
     尼子家の御威光(ごいこう)は、
     昔にひきかえておとろえるばかり。
     それをよいことにして、
     敵の毛利(もうり)が
     だんだん攻め寄せて来ています。
     成人したら一日も早く毛利を討って、
     御威光を昔に返しておくれ」

    甚次郎(じんじろう)の目は、いつのまにか涙で光っていました。
    甚次郎はこの日から、山中鹿介幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)と名のり、心にかたく主家を興(おこ)すことを誓いました。
    そして、山の端(は)にかかる三日月を仰(あお)いでは、
    「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」
    と祈りました。

     *

    それから数年が過ぎました。

    尼子(あまこ)の本城である出雲(いずも)の富田城(とみたじょう)は、そのころ毛利軍に囲まれていました。
    鹿介(しかのすけ)は、戦ってしばしば手がらを立てました。
    彼の勇名(ゆうみょう)は、味方(みかた)のみか、敵方にも知れ渡りました。

    敵方に、品川大膳(しながわだいぜん)という荒武者がいました。
    彼は、鹿介(しかのすけ)をよい相手とつけねらっていました。
    名を棫木狼介勝盛(たらぎおおかみのすけかつもり)と改(あらた)めて、折(おり)あらば鹿介(しかのすけ)を討ち取ろうと思っていました。

    ある日のこと、鹿介(しかのすけ)が部下を連(つ)れて、城外を見まわっていますと、川をへだてた対岸から、鹿介の姿をちらと見た狼介(おおかみのすけ)は、割鐘(われがね)のような大声で叫びました。
    「やあ、それなる赤糸(あかいと)おどしの甲(よろい)は、
     尼子(あまこ)方の大将と見た。
     鹿(しか)の角(つの)に三日月の前立ては、
     まさしく山中鹿介(やまなかしかのすけ)であろう」

    鹿介(しかのすけ)は、りんとした声で大音に答えました。
    「いかにも山中鹿介幸盛である」

    狼介(おおかみのすけ)は喜んでおどりあがりました。
    「かくいうは石見(いわみ)の国の住人、
     棫木狼介勝盛(たらぎおおかみのすけかつもり)。
     さあ、一騎討の勝負をいたそう。
     あの川しもの洲(す)こそよき場所」

    こう言いながら、弓を小脇(こわき)にはさんで、ざんぶと水にとび込みました。
    鹿介もただ一人、流れを切って進みました。
    狼介が、弓に矢をつがえて鹿介をねらいました。

    尼子方の秋上伊織介(あきあげいおりのすけ)がそれを見て、
    「一騎討に、飛び道具とは卑怯(ひきょう)千万(せんばん)」
    と、これも手早く矢をつがえてひょうと射ました。

    狙(ねら)い違(たが)わず、狼介が満月のごとく引きしぼっ ている弓の弦(つる)を、ふつりと射切(いき)ると、味方(みかた)は「わあ」とはやしたてました。

    狼介は、怒って弓をからりと捨て、洲にあがるが早いか、四尺(よんしゃく)の大太刀を抜いて斬りかかりました。
    しかし鹿介の太刀風(たちふう)が更にするどく、いつのまにか狼介は切りたてられて、次第(しだい)に水際(みずぎわ)に追いつめられて行きました。

    「めんどうだ。組もう」
    こう叫んで、狼介は太刀を投げ捨てました。
    大男の彼は、鹿介を力で仕(し)とめようと思ったのです。

    二人はむずと組みました。
    しばらくはたがいに呼吸をはかっていましたが、やがて狼介(おおかみのすけ)が満身の力で鹿介(しかのすけ)を投げ飛ばそうとしました。
    鹿介は、これをじっとふみこたえたのですが、片足が洲の端にすべり込んでしまう。
    思わずよろよろとしたところを、たちまち狼介の大きな体(からだ)が、鹿介の上へのしかかりました。
    鹿介は組み敷かれました。
    両岸の敵も味方(みかた)も、思わず手に汗をにぎりました。

    すると鹿介(しかのすけ)がむっくと立ちあがりました。
    その手には、血に染まった短刀が光っていました。
    狼介(おおかみのすけ)の大きな体(からだ)は、鹿介の足もとにぐったりとしていました。

    「敵も見よ、
     味方(みかた)も聞け。
     現(あらわ)れ出(いで)た狼(おおかみ)を、
     鹿介(しかのすけ)が討ち取ったなり」

    鹿介の大音声は、両岸に響き渡りました。

    こののち幾(いく)たびか激しい戦がありました。
    さしもの敵も、この一城をもてあましたたのですが、前後七年にわたる長い戦に、尼子方は多く討死(うちじに)し、それに糧食(りょうしょく)がとうとう尽きてしまいました。
    城主の尼子義久(あまこよしひさ)は、涙をのんで敵に降(くだ)りました。
    富田城には、毛利の旗がひるがえりました。

     *

    尼子の旧臣は、涙のうちに四散(しさん)しました。
    鹿介(しかのすけ)は、身をやつして京にのぼりました。
    戦国の世とはいえ、京の都では花が咲き、人は蝶(ちょう)のように浮かれていました。

    そのうちに尼子の旧臣たちがおいおい都(みやこ)に集(つど)って来ました。
    彼らは、鹿介を中心に主家の再興を企(くわだ)てました。

    そのころ都(みやこ)のある寺に、品(ひん)のよい小僧(こぞう)さんがいました。
    なんと、その小僧さんは、尼子家の子孫でした。
    鹿介(しかのすけ)は、この小僧さんを主君と仰ぎました。

    「尼子家再興のことは、
     わが年来の望みである」
    小僧さんは、おおしくもこういって、衣(ころも)を脱ぎ捨て、尼子勝久(あまこかつひさ)と名乗りました。

    時がやって来ました。
    永禄(えいろく)12年6月のある夜、勝久(かつひさ)を奉(ほう)じる尼子勢は出雲に入り、一城を築いて三度ときの声をあげました。

    この声が四方に呼び掛けでもしたように、今まで敵についていた旧臣が、続々と勝久のところに集まってきました。
    諸城が、片端から尼子の手に返りました。
    しかし富田城は名城であるだけに、なかなか落ちそうにありません。

    その間に毛利の大軍がやって来ました。
    毛利輝元(てるもと)を大将とし、吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)を副将として、1万5千の精兵が堂々と進軍して来たのです。

    富田城がまだ取れないのに、敵の大軍が押し寄せたのです。
    これでは味方(みかた)の勝利はおぼつきません。
    しかし鹿介は腹をきめました。
    すべての軍兵を率いて、富田城の南三里にある、布部山(ふべやま)にて敵を迎え討ちました。

    味方(みかた)の軍は約七千です。
    それは、まことに死物(しにもの)ぐるいの戦(いくさ)でした。
    敵の前軍はしばしば崩(くず)れました。
    しかし何といっても二倍以上の敵の数です。
    新手(あらて)があとからあとから現れます。

    さしもの尼子勢もへとへとにつかれ、多くの勇士は、無残(むざん)に枕を並べて討死(うちじに)しました。
    勝ちほこった敵の大軍は、やがて出雲一国にあふれました。
    勝久(かつひさ)は危(あやう)くのがれて、再び京都へ走りました。

     *

    それからまた幾年か過ぎました。
    鹿介(しかのすけ)は、織田信長に毛利(もうり)攻(ぜ)めの志(こころざし)があることを知って、彼を頼りました。
    鹿介を一目(ひとめ)見た信長は、この勇士の苦節(くせつ)に同情しました。
    「毛利攻めのお先手(せんて)に加(くわわ)り、
     もし戦功(せんこう)がありましたら、
     主人勝久(かつひさ)に、
     出雲一国をいただきとうございます」
    鹿介の血を吐く言葉に、信長は大きくうなずいて見せました。

    ついに再び時が来ました。
    尼子方は秀吉の軍勢に加って、毛利攻めの先がけとなりました。
    いち早く播磨(はりま)の上月(こうづき)城を占領し、ここにたてこもった2千5百の尼子勢は、ほどなく、元
    春(もとはる)・隆景(たかかげ)の率(ひき)いる7万の大軍にひしと取り囲まれました。

    秀吉の援軍が今日来るか明日来るか、それを頼みに勝久は城を守りました。
    毛利方の大砲を夜に乗じて奪(うば)い取って、味方(みかた)は一時気勢をあげました。
    しかし援軍は敵にはばまれて近づくことができません。

    7万の大軍に囲まれては、上月城はひとたまりもありません。
    弓折れ矢尽きて、勝久はいさぎよく切腹することになりました。
    「いたずらに朽(く)ち果(は)てたかも知れない私が、
     出雲に旗あげし、
     一時(いっとき)でもその領主となったのは、
     まったくおまえの力であった」
    勝久は、こういって鹿介に感謝しました。

    鹿介は、男泣きに泣いて主君におわびをしました。
    しかし彼はまだ死ねませんでした。
    「尼子重代の敵である毛利を、
     せめてその片われの元春を、
     おのれそのままにしておけようか。
     七難八苦はもとより望むところである。」
    鹿介は主君に志を告げ、許しをこうてわざと捕らわれの身となりました。

     *

    鹿介は西へ送られました。
    ここは備中(びっちゅう)の国、甲部川(こうべがわ)の渡しです。
    天正6年7月17日、秋とはいえ、まだ烈しい日光が、じりじりと照りつけています。

    川端の石に腰掛けて、来し方行く末を思いながら、鹿介はじっと水のおもてを眺めました。
    燕(つばめ)が川の水すれすれに飛んでは、白い腹を見せて宙返りをしていました。

    そのとき、突然、後から斬りつけた者がありました。
    鹿介は、それが敵方の一人河村新左衛門(かわむらしんざえもん)であると知るや、身をかわして、ざんぶと川へ飛び込みました。
    新左衛門も飛び込みました。
    二人はしばし水中で戦いました。

    重手を負いながらも、鹿介は大力の新左衛門を組み伏せました。
    すると、これも力自慢の福間彦右衛門(ふくまひこえもん)が、後から鹿介のもとどりをつかんで引き倒しました。

    七難八苦の生涯は34歳で終りを告げました。
    甲部川の水は、この恨(うら)みも知らぬ顔に、今も悠々(ゆうゆう)と流れています。
    月ごとに、あの淡(あわ)い三日月の影を浮かべながら・・・。

    *******

    この物語は、戦時中の国民学校5年生(いまの小学5年生)の国語教科書にある「三日月の物語」という題を、現代文に直してご紹介したものです。
    文中にある山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)は、尼子三傑(あまこさんけつ)のひとりとして知られた武将で、「山陰の麒麟児(きりんじ)」の異名を持った人でした。

    山中鹿介は、元服間もない頃に「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈りました。
    すると次の戦(いくさ)のときに、因伯(いんぱく)《因幡(いなば)と伯耆(ほうき)の国、現在の鳥取県の豪傑、菊池音八を一騎討ちで討ち取って戦功を挙げることができたことから、彼は生涯三日月を信仰したと伝えられます。

    彼は、敵の大将の首を60以上も挙げた剛勇の士でしたが、その生涯はまさに七難八苦をわたるものでした。
    戦いに明け暮れたわずか34歳の人生で、最期にはその七難八苦に付いていけなくなった部下によって討たれています。
    しかし彼の武勇と人生は、死んで440年以上経ったいまでも語り継がれています。

    人には二つの死があるのだそうです。
    ひとつは物理的な肉体の死、いまひとつは人々の記憶から忘れされた死。
    すくなくとも山中鹿介は、その意味では、いまなお日本人の心の中に生き続けているといえます。

    この物語を通じて、戦前戦中の子供たちは、たとえどのような苦難があったとしても、男子たるものは、率先垂範して進んで七難八苦に立ち向かうものだ、と学びました。
    このように書くと、軍国主義だと言われてしまいそうですが、近年のハリウッド映画のアベンジャーズにせよ、ジャスティス・リーグやスーパーマン、アナ雪にせよ、その心は同じです。
    日本でも鬼滅の刃やキングダムなどのアニメに、同じ精神が宿っています。
    世界中どんな国、どんな民族にあっても、苦難にあいながらも強大な敵に立ち向かう勇敢は、人の心を震わせるものです。
    けれど、実はそれだけではないのです。

    ちょっと別な逸話をご紹介します。
    鹿介の逸話に、次のようなものがあります。
    ある日のこと、初陣(ういじん)を終えた2人の若者が鹿介の前で、
    ひとりは
    「敵に向かうと震えが生じて、
     しっかり敵を見ることもできず、
     討ち取った敵が
     どんな鎧であったかも覚えていません」
    と話したのだそうです。

    別のひとりは
    「自分は敵がどんな鎧を着て、
     どんな馬に乗り、
     組み合った場所など
     鮮明に覚えています」
    と話したのだそうです。

    2人が帰った後、鹿介は傍(かたわら)の人に、
    「最初に話した若武者は、
     立派で勇敢な武士になるだろう。
     後に話した若武者は、
     はなはだ心もとない。
     もしかしたら他人のあげた敵の首を
     拾い取って自分の手柄としたのではないだろうか。
     さもなくば次の戦で討たれてしまうだろう」
    と語りました。
    はたして後日、その言葉のとおりとなったそうです。

    怖くて良いのです。
    だから負けないように頑張るのです。
    怖くないなどというのは、嘘でしかない。
    嘘を出発点にすれば、いっとき人気を箔したとしても、後に必ず滅びます。
    このことは、あらゆる人生の場において言えることです。

    繁栄は大事です。
    けれどその繁栄を継続させ、安定させることはもっと大事です。
    それがもともとの日本の国民精神です。

    昨今では、いまこの瞬間だけバズれば良いといった風潮がまかり通っています。
    なるほど繁栄は大事です。
    けれど、繁栄を継続させることはもっと大事です。
    そして、本物だけが生き残ります。

    その本物には、かならず艱難辛苦が訪れます。
    孟子は、「天のまさに大任をこの人に降(くだ)さんとするや」と説きました。
    自分の心志(しんし)が苦しめられ、その筋骨が労せられ、その体膚(たいふ)が餓えしめられ、その身が空乏(くうぼう)せられ、行いその為すところが仏乱(ふつらん)されるのは、天が自分に大任を与えようとしているからだ、というのが孟子の告子下の第十五にある言葉です。

    けれど、少し考えたら誰にでもわかることですが、天はその人個人のためにあるものではありません。
    天には天の御意思があります。
    ですから、場合によっては天は、その人の心志を苦しめ、その筋骨を労し、体膚を餓えさせ、その身を空乏(くうぼう)させ、行いその為すところを仏乱(ふつらん)しただけで、結果その人の命を奪ってしまうかもしれません。

    それでも天の心のまにまに、実直に素直に謙虚に生きることが大事としてきたのが日本的精神です。
    なぜなら、人の命は自分のためだけにあるものではないからです。
    他の多くの人々とともに、明日の日本を、子や孫たちの素敵な希望あふれる未来のためにもあるのです。

    それがわかっているからこそ、山中鹿介は、自ら率先して艱難辛苦を自分に与え給えと祈願し、自ら率先してその艱難辛苦に立ち向かって行ったのです。

    山中鹿介による尼子家再興の働きの中、上月城陥落のとき、尼子氏の庶家の亀井茲矩は、秀吉に従っていて難を逃れ、その後も生き残って関ケ原では家康の東軍に参加して、以後、現在の鳥取県鳥取市鹿野町あたりの鹿野藩3万8000石(後に加増されて4万3000石)の大名となり、その後島根県鹿足郡津和野の藩主となって幕末まで家を繁栄させ、明治の版籍奉還後も、伯爵として立派に家を継いでいます。

    また山中鹿介の嫡子の山中幸元は、鴻池直文と名を改め同地で酒造業を始めています。
    日本酒はもともと白濁した濁酒であったものが、ある日、叱られた手代が腹いせに濁酒の樽にかまどの灰を投じると偶然透明芳醇な清酒ができたという逸話をご存知の方も多いかと思いますが、こうして出来た日本初の清酒を造ったのが、鴻池直文です。

    その鴻池直文の家系は、その後、清酒の江戸回漕業に乗り出し、こうして儲けた資金で大名貸・両替商となり、幕府及び全国110藩(全藩の約4割)に融資を行う日本屈指の鴻池財閥を形成していきます。
    そして戦後の財閥解体後も、鴻池組となって現在に至っています。

    山中鹿介の人生は、本人の望み通り、まさに艱難辛苦に満ちた人生であったといえます。
    けれど、その働きにより、主家である尼子家は現代にまで生き残り、また山中鹿介の子孫は、大財閥となって、500年後の現代において、いまなお繁栄を継続しています。

    人の命は自分のためだけにあるものではない。
    そしてどんな苦難にあっても、その中で立派に生きることが、子や孫、その後に続く子々孫々に至るまでの繁栄をなし、その繁栄が継続し、かつ安定していく石杖となっていくのであろうと思います。

    孟子はチャイナの人です。
    だから天が与える大難は、自分を試そうとしているものだと解釈しています。
    けれど、そこにあるのは、ともすれば「自分だけ」の人生です。
    その自分だけという心は、自己中を招き、今だけカネだけ自分だけといった心になりやすいものといえるかと思います。

    けれど日本的精神は、自分の繁栄よりも、周囲の繁栄を、そして子や孫たちの未来への責任を大事にします。
    たとえ自分の人生が艱難辛苦の連続するものであったとしても、その中で精一杯誠実を尽くして生きることによって、子供たちの未来の繁栄の継続と安定が生まれる。
    それは単に自分の子孫というだけでなく、より多くの人々の幸せな暮らしを築く基礎となる。
    だからこそ、何があってもくじけずに、あきらめずに、誠実に生きる。
    私よりも、公(おほやけ)を大事にする。
    おそらく日本的精神というものは、そういうものなのであろうと思います。

    いかなる時代にあっても、未来への希望をつなぐ。
    それが日本的精神です。


    ※この記事は2020年6月の記事を大幅にリニューアルしたものです。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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