• シッタン河畔に全滅した日赤新和歌山班ー従軍看護婦の悲劇


    日華事変から大東亜戦争にかけて、日本赤十字社から戦地に派遣された従軍看護婦の数は、約千班、3万人にのぼるとされています。このうち戦死者は、日赤発行の「遺芳録」によると1085人に及びます。
    戦争の初期には肺結核に侵されて倒れ、Chinaでは伝染病に罹患して戦地で没し、後期には銃弾や爆弾による戦傷死が起きています。
    その中から今回は、終戦直前にビルマに派遣された日赤新和歌山班のお話を書いてみたいと思います。

    20150625 ユリ
    画像出所=http://blogs.yahoo.co.jp/bgydk072/53088316.html
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    日本をかっこよく!

    日華事変から大東亜戦争にかけて、日本赤十字社から戦地に派遣された従軍看護婦の数は、約千班、3万人にのぼるとされています。
    このうち戦死者は、日赤発行の「遺芳録」によると1085人です。
    戦争の初期には肺結核に侵されて倒れ、Chinaでは伝染病に罹患して戦地で没し、後期には銃弾や爆弾による戦傷死が起きています。
    その中から今日は、終戦直前にビルマに派遣された日赤新和歌山班のお話を書いてみたいと思います。

    日赤の「新和歌山班」は、昭和18(1943)年11月5日に、日赤和歌山支部で編成されました。
    班長1,婦長以下看護婦21、使丁1、計23名の構成です。
    彼女たちは、編成完了とともに、ただちに和歌山を出発し、海路でシンガポールまで行き、そこから陸路でマレー半島を北上して、ビルマ(現ミャンマー)の山中にあるプローム県パウンデーに設置された第百十八兵站病院に配属となりました。

    この病院は、病院長の笠原六郎軍医中佐のもと、高卒のビルマ人女性たち80人を補助看護婦として養成していました。
    新和歌山班の看護婦達は、着任したその日から、補助看護婦たちと手をとりあって、日夜医療業務に励んだのです。

    けれどもこの時期から、戦況は日に日に悪化していきました。
    翌昭和19年4月、病院長の笠原軍医中佐が転勤となり、後任として、松村長義軍医少佐が着任しました。
    戦況の情況を憂慮した松村病院長は、4月26日、重症患者330名を30両のトラックに乗せて、南にあるラングーン(現ヤンゴン)に後送しました。
    重症患者たちは、そこからさらに数隻の船に乗って海路モールメンの病院に収容されています。

    一方、残った看護婦ら約300人と、患者たち約800人は、二日後の4月28日、護衛部隊のないまま、徒歩でペグー山脈を目指しました。
    このとき、日赤新和歌山救護班の看護婦たちは、全員カーキ色の開襟シャツにモンペを穿き、胸には赤十字のブローチを付け、頭は三角巾でしばり、足にはズックを履いていました。

    20150625 日赤新和歌山班


    患者たちのなかで、自立歩行が困難な者は、牛車に乗せたのですが、悪路のため、牛車は舌を噛み切りそうなほどの揺れでした。
    病院部隊の一行は、ペグーの山中でいったん集結し、第54師団との合流を待ちました。
    けれど、一週間待機しても、師団は現れません。
    松村病院長は、患者たちとともに、軍隊の護衛のないまま、マンダレー街道を突破してモールメンに向かうことを決意しました。
    このとき、ビルマ人の補助看護婦たちは、全員、そこからそれぞれの故郷に帰らせています。

    このモールメンに向かう途中のことを、病院付けだった堀江政太郎曹長が手記に書いています。

     *

    我々がパウンデーを出発したのは、私の記憶によれば26日の未明だった。
    この日もどんよりとした、いまにも降ってきそうな、うっとうしい朝だった。
    ペグー山系に入ると同時に、連日の雨で、泥には多くの将兵、入院患者が悩まされた。

    急坂は滑る。何回転んだことか。
    やっと平地になったと思ったら、今度は泥沼化し、思うように歩けない。
    スネまでも埋まり、軍靴の底を剥がした者もだいぶいた様だった。

    こんなときに、ある入院患者が大腿部切断で、松葉杖をついて懸命についてきていたが、元気な我々でさえ、泥沼に軍靴を取られて歩けないくらいなのに、この患者は、土中に深くめり込んだ杖を抜くのに必死だった。
    見かねて、
    「おい頑張れよ」と励ますと、「ハイッ!」と返事はしていたが、おそらく内地には帰っていないであろう。
    (中略)

    雨の中をペグー山系にさしかかると、牛車の通行は不可能となり、(具合の悪かった看護婦の小上さんは腰に紐を付けて前からひっぱり、二人が脇から支え、ひとりが後ろから押し上げるという難行軍にみるみる衰弱し、5月9日に同僚らの見守る涙のうちに、病没した。

     *

    5月18日、やっとのことでペグー山中を踏破した一行は、マンダレー街道を密かに横切り、シッタン河の東方のワダン村に終結しました。
    ところがその日の午後4時頃、突然、銃撃を浴びます。
    銃を撃っていたのは、英国人兵たちでした。
    引きつった顔や、銃を撃つ手の動きまで見えるほどの至近距離でした。
    英国人達は、自動小銃や戦車砲を撃ちこんできました。

    このとき松村病院長は、白刀を振りかざして英国軍めがけて突進し、これに軍医、衛生兵らが続きました。
    突進した全員が還らぬ人となるなか、その隙に、患者たちと看護婦たちは、村外れの田んぼに隠れました。
    けれどこのとき、23名いた彼女たちは、18名に減ってしまいました。
    5名は、この銃撃で還らぬ人となったのです。

    せっかく田んぼに隠れたのも束の間、空から爆音が聞こえてきました。
    このままでは敵に見つかってしまいます。
    中尾敏子婦長は、とっさの判断で一行を前方の芦の原っぱへと走らせました。
    けれどこのとき、婦長の一団と、児玉よし子副婦長の一団と、二つに別れてしまいました。

    原っぱへと走る途中で、森下千代子さんが右肘を撃たれて重症を負いました。
    中尾婦長は同行の男性に手榴弾で皆を殺してくれるように頼みました。
    男性は、ためらいました。婦長は言いました。
    「御国のため、敵に辱めを受ける前に潔く自決しましょう。捕虜になんかなりなさるな」
    言い終わらないうちに、婦長は腹部を撃たれました。
    まもなく出血多量で苦しい息となり、小さくて低いけれど、はっきりと「天皇陛下万歳」と唱えて絶命しました。

    敵は草むらから、さかんに撃ってきました。
    石橋澄子さんは、左大腿部を撃たれて意識を失い、池田八重さんも撃たれて死亡、狩野重子さん、原すみ枝さん、田中君代さんの三人は、腰のベルトを外し、首にまきつけて自決しました。
    中原忠子さんは、そばにいた男性と飛び出していって行方不明となりました。

    芦の原っぱの向こうはシッタン川でした。
    一部はビルマ人の小舟に乗せてもらうことができましたが、このとき山入貞子さんと、射場房子さんの二名が濁流にのまれてしまいました。
    出発当時男女合わせて30名いた救護班は、川を渡り終えたときには6名に減っていました。

    一行は、まる4日、山の中をさまよいました。
    看護婦達は、疲労と空腹のため一歩も歩けなくなり、山の上に座り込んでしまいました。
    「拳銃でひとおもいに殺して!」と言いました。
    もちろん男性たちは、彼女たちを殺すことなどできません。
    彼らは、彼女たちを山に残したまま、進むしかありませんでした。

    この戦闘のあと、英国軍には、10名の看護婦が保護されました。
    松山越子さん、西浦春江さん、肘に重症を受けた森下千代子さん、山本日出子さん、大腿部を撃たれた石橋澄子さんの5人は、まもなくインドに送られて、日本人抑留所で赤十字看護婦として勤務させられ、昭和21年7月に日本に復員することができました。

    児玉よし子さんと丸沢定美さんの二人は、ラングーンの英国軍の収容所の中で、隠し持っていた青酸カリをあおって自決しました。

    そのときの様子を、同じ収容所にいた田中博厚参謀が手記に残しています。

     *

    この監獄で白衣の天使が二人自決しました。
    敗走千里の途中、トングー付近の野戦病院に、最後まで将兵を看護していた白衣の天使のなか二人は、不幸にも逃げ遅れ、白衣も汚れてヨレヨレのまま、この監獄に収容されました。

    血に飢えた肉にかつえた英兵達は、5,6人も寄り集まり、身体検査と称して、神の使いの乙女たちの下着まで剥ぎ取って、卑しい貪婪(どんらん)の瞳で見据えるのです。
    これが2日も続いたその夜、乙女たちは隠し持っていた青酸カリで、神の御国へと旅立って行きました。

    遺書には、切々と英人の暴虐を訴え、このままでは、いつどんな目に遭うやらわからない。
    野戦病院で、母の名を呼びながら死んでいった年若い兵隊さんの後を追って、私は天国でも白衣を着、お勤めをするつもりです。
    一生涯・・・短い20年の生涯でしたが、清く美しく生きられたことを、せめてもの慰めにします。
    ただ、もういちどお父さんに会えなかったのが心残りです、と結んでありました。

    *****

    ひとつ、はっきりさせておかなければならないことがあります。
    それは、日本以外の諸国では、程度の差こそあれ「軍と暴徒とヤクザは同じもの」だ、ということです。

    日本では、古来、軍人は規律を守り、どこまでも民のために戦うという姿勢が貫かれています。
    なぜなら、日本では、民は、敵味方関係なく天皇の「おおみたから」であり、その「おおみたから」を護るためにこそ武人は存在している、という自覚があるからです。
    これは日本人にとっては、まさに骨肉に染み込んだ自覚です。

    けれども、諸外国では、「軍と暴徒とヤクザは同じもの」です。
    程度の差はあります。
    まさに鬼畜そのもののソ連やChinaやKorea兵もあれば、ある程度は規律の保たれた英米のような軍もあります。
    けれど、その英米ですら、あきらかに女とわかる、あきらかに看護婦と傷病兵の一団とわかりながら、平気で銃撃を加え、捕まえた女性たちに恥辱を与えています。

    歴史、伝統が違うのです。
    そのことは、当ブログの過去記事「国民国家と三十年戦争」で、グリンメルスハウゼンの『阿呆物語』を紹介していますので、ご一読いただければと思います。

    人類史を振り返れば、戦いは現実に「ある」のです。
    多くの人々は、いつの時代にあっても平和を願っていますが、それでも戦争は、現実にあるのです。
    そして一昨日の根本博陸軍中将のお話に書かせていただきましたが、「武装がなければ女子供が蹂躙される」のです。
    だからこそ、そうならないように武装する。
    これが世界の現実なのです。

    良いとか悪いとかの問題ではないのです。
    「蹂躙されない」
    そのためには、現実の問題として武装が必要だし、その武装は世界最強の武装でなければならないし、一国だけで守りきれない危険を避けるためには、諸外国と軍事同盟を結んで集団的自衛権を行使しなければならないのです。

    そしてこういう過去の事実を知れば、国を護ることがどれだけ大事なことなのか、安保法案反対が、いかに世迷いごとなのかをご理解いただけようかと思います。

    今日の記事・・・冒頭の写真は、本来なら、この事件の犠牲となられた看護婦さん達の写真(二段目に掲載)を冒頭にもってくるべきだったのかもしれません。
    けれど、季節の花の白い百合にしました。
    白百合の花言葉は「純潔」「威厳」です。
    まさに白衣の天使たちそのものです。慰霊の意味をこめて冒頭は白百合にしました。
    彼女たち、生まれ変わって今生では、きっとお幸せな人生をお過ごしのことと信じたいのです。


    参考図書:永田竜太郎著『紅染めし―従軍看護婦の手記』(1977年)

    ※この記事は2015年6月の記事の再掲です。
    日本をまもろう!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE
    日本の心をつたえる会チャンネル
    むすび大学チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第101回倭塾 2023/5/14(日)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第102回倭塾 2023/6/25(日)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第103回倭塾 2023/7/22(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第105回倭塾 2023/10/14(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 従軍看護婦の道を開いた17歳の覚悟の人生


    日本はLGBTがどうのこうのというような、怪しげな国ではなかったのです。
    男も女も、それぞれの場所で皆が一生懸命に国を築き、担ってきたのです。

    岩崎ユキ
    岩崎ゆき



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    日本をかっこよく!

    以下は昨年刊行した『子供たちに伝えたい美しき日本人たち』に掲載した文です。
    きっと何かを感じていただけるものと思います。

    ▼日清戦争

    日清戦争で出征した我軍の将士は総計三十万人です。
    この戦争で広島の宇品(うじな)港では、軍船がひっきりなしに往来することになりました。
    なぜなら大陸はコレラ、赤痢、疱瘡(ほうそう)その他の伝染病の温床だったからです。
    このため7月20日には、広島城の西側の広島衛戍(えいじゅ)病院も戦時編成の広島陸軍予備病院へと改編されました。

    戦争に医師に看護士は付きものです。
    けれど戦いは男がするものですから、我が国では古来、戦場に出向くのは医師も看護師も、すべて男とされてきました《もちろん一部巴御前のような例外もありますが、あくまで一般的な国策としては、ということです》。

    ところが西洋では、たとえば米国では米国独立戦争《一七七五年》の際に、すでに女性看護師が活躍しています。
    日本でも明治10年に博愛社が設立され、これが明治21年にジュネーブ条約加盟に伴って日本赤十字社と改称され、そこで女性看護士の育成が行われていましたが、女性が戦場や軍病院に看護士として採用されることは一切ありませんでした。

    日清戦争は、明治日本にとって、初の国をあげての国際戦でした。
    君民一体となって断固不条理を粉砕する。
    だからこのとき日本赤十字社から「女性も看護役として軍で採用してもらいたい」という要請が出されました。
    陸軍はこれを固辞しました。
    二つの理由からです。

    ひとつは予算の問題です。
    当時の日本はまだまだ貧しく、軍にも十分な予算がありません。
    軍病院に女性看護師が採用となると、男たちとは別に着替えの場所や寝所、あるいは風呂トイレに至るまで、すべて男性用と女性用を別々に作らなければなりません。
    それだけ余計にコストがかかります。
    けれどそれだけでは「国をあげての戦いに何を言われるのか!」と逆に突っ込まれてしまいそうです。

    理由の二つ目は風紀の問題とされました。
    戦地において立派な戦功を立てた名誉の戦傷病者が、女性の看護を受けて万一風紀上の悪評でも立てられようものなら、せっかくの武功が台無しになる。
    名誉が損(そこ)なわれる、というわけです。

    実はこのことは、大変に日本的な発想です。
    我が国は聖徳太子の十七条憲法の時代から続く明察功過(めいさつこうか)《第十一条》によって、事件や事故を未然に防ぐことが人の上に立つ者の仕事とされてきた国柄を持ちます。
    この場合も同様です。
    万にひとつも不名誉な事態が起これば、上位者もまた責任を取ることになります。
    当時の感覚としては、責任とは自分がとるものであって、人や上司から四の五のと言われてからとるものではない。
    だからそうなれば、戦(いくさ)に集中しなければならないはずの軍の将校たちが、余計なことにまで気を配らなければならなくなる。
    なぜなら事件や事故は、それが「起きてからでは遅い」からです。

    このような理由から軍病院への女性看護婦採用を固辞してきた日本陸軍でしたが、そうはいっても看護ということになると、仏頂面(ぶっちょうづら)で少々患者の扱いが乱暴な男性より、笑顔でやさしく接してくれる女性の方が、兵士にとっても有り難いものです。

    そこで陸軍の石黒忠悳(いしぐろただのり)軍医総監が、「風紀上の問題は私が全責任を負う」と明言して、ようやく試みとして少数の女性看護婦を広島の軍病院で採用することになりました。
    ただし条件付きです。
    女性は40歳以上であること。
    そして樺山資紀(かばやますけのり)海軍軍令部長婦人、仁礼景範(にれいかげのり)海軍中将夫人らが看護婦たちと起居(ききょ)をともにし、また看護婦らの安全を図り、また夫人らも一緒に看護活動に当たりました。
    ここにはNHK大河ドラマで有名になった『八重の桜』(平成25年放映)の新島八重(にいじまやえ)も赴任(ふにん)しています。

    ▼岩崎ユキの遺書

    こうして半年が経つと、現場で女性看護婦が大変評判が良い。
    しかも大陸での疫病(えきびょう)感染によって、患者の数は急増しました。
    それがどれだけたいへんな事態であったか。
    日清戦争における我が軍の死者は13,311人です。このうちなんと11,894人が疫病感染による病死です。
    なんと戦死者の九割が疫病死だったのです。
    広島の軍病院には、こうした疫病感染者の兵士たちが連日運び込まれました。
    感染病棟は患者で溢れかえりました。とても看護の人手が足りません。

    そこで篤志看護(とくしかんご)婦人会の若い女性が「看護婦の助手」として広島陸軍予備病院に送られました。
    その中に日本赤十字社の京都支部から派遣された、もうすぐ十七歳になる「岩崎ユキ」がいました。
    明治二十七年十一月七日のことでした。
    そして彼女は、伝染病棟付となって勤務中、チフスに感染して死亡しました。
    発症は明治二十八年四月八日、亡くなったのが同月二十五日のことでした。

    彼女の荷物の中に、遺書が見つかりました。
    そこには次のように書かれていました。

     ***

    お父さま、お母さま、
    ユキは大変な名誉を得ました。
    家門の誉れとでも申しましょうか。
    天皇陛下にユキの命を喜んで捧げる時が来たのであります。
    数百名の応召試験の中から、ユキはついに抜擢されて、戦地にまでも行けるかも知れないのであります。
    ユキは喜びの絶頂に達しております。
    死はもとより覚悟の上であります。

    私の勤務は救護上で一番恐れられる伝染病患者の看護に従事すると云う最も大役を命ぜられたのであります。
    もちろん予防事項については充分の教えは受けております。
    しかし強烈あくなき黴菌(ばいきん)を取り扱うのでありますから、ユキは不幸にして何時(いつ)感染しないとも限りません。

    しかしお父さまお母さま、考えても御覧下さい。
    思えば思う程この任務を命ぜられたのは名誉の至りかと存じます。
    それはあたかも戦士が不抜と云われる要塞の苦戦地に闘うのと同じであるからであります。
    戦いは既にたけなわであります。
    恐ろしい病魔に犯されて今明日も知れぬと云う兵隊さん達が続々病院に運ばれて来ます。
    そして一刻も早く癒して再び戦地へ出して呉(く)れろと譫言(うわごと)にまで怒鳴っております。
    この声を眼のあたりに聞いては伝染病の恐ろしいことなぞはたちまち消し飛んでしまいます。
    早く全快させてあげたい気持ちで一杯です。
    感激と申しましょうか。
    ユキは泣けて来て仕方がありません。

    今日で私の病室からは十五人もの兵士達が死んで行きました。
    身も魂も陛下に捧げて永遠の安らかな眠りであります。
    また、中には絶叫する兵士達もありました。
    『死は残念だぞ!
     だが死んでも護国の鬼となって
     外敵を打たずに済ますものか』
    と苦痛を忘れて死んでいったのです。

    あるいは突然
    『天皇陛下万歳!』
    と叫ぶので慌てて患者に近寄りますと、そのまま息が絶えていた兵士達もありました。

    しかも誰一人として故郷の親や兄弟や妻子のことを叫んで逝(い)った者はありません。
    恐らく腹の中では飛び立つほどに故郷の空が懐かしかったでありましょう。
    ただそれを口にしなかっただけと思われます。
    故郷の人達は、彼の凱旋を、どんなにか指折り数えて待っていたことでありましょう。

    悲しみと感激の中に、私はただ夢中で激務に耐えております。
    数時間の休養は厳しいまでに命ぜられるのでありますが、ユキの頭脳にはこうした悲壮な光景が深く深く焼きついていて、寝ては夢、醒めては幻に見て、片時たりとも心の落ちつく暇(いとま)がありません。

    昨日人の嘆きは今日の我が身に振りかかる世のならいとか申しまして、我が身たりとも、何時(いつ)如何(いか)なる針のような油断からでも病魔に斃(たお)されてしまうかも解(わか)らないのであります。
    しかしユキは厳格なお父さまの教育を受けた娘であります。
    決して死の刹那(せつな)に直面しても見苦しい光景などは残さない覚悟でおります。
    多くの兵士達の示して呉(く)れた勇ましい教訓通りにやってのける決心であります。
    決してお嘆きになってはいけませぬ。
    男子が御国のために名誉の戦死をしたと同様であると呉れ呉れも思し召して下さい。

     ***

    岩崎ユキは、明治10年12月23日生まれで、明治27年10月10日に、日本赤十字社京都支部に採用になりました。
    看護婦として軍に召集(しょうしゅう)されたのが同年11月4日です。
    はじめ救護団に編入されましたが、11月7日には感染病棟である広島陸軍予備病院第三分院付きとなっています。

    彼女に腸チフスの発症が確認されたのは、勤務開始からわずか五カ月後。
    明治28年4月8日です。
    そして17日後の4月25日に亡くなりました。
    昭和4年4月13日、靖國神社合祀(ごうし)。

    岩崎ユキの遺書は石黒軍医総監の元に渡り、その後、昭憲(しょうけん)皇后陛下のお涙を催(もよお)させ給(たも)うことになりました。
    女性であっても、ここまでの覚悟をして病院に赴(おもむ)いている。
    岩崎ユキのこの手紙がきっかけとなり、看護婦の崇高な職務が国民の間に浸透していきました。
    そして陸軍が正式に女性看護師を採用したのは、この25年後の大正8年、そして陸軍の養成看護婦は、先の大戦中の昭和19年のことです。

    日清戦争当時、広島予備病院のほか各地の予備病院にも日本赤十字社救護看護婦が配置されました。
    また赤十字社の病院船である博愛丸(はくあいまる)、弘済丸(こうさいまる)はもちろん、他の臨時の病院船にも、また海軍病院にも看護婦が配属されました。
    そしてこれら女性看護師の登用が、いずれも良い結果を収め、風紀上に一点の悪評も起こらず首尾よく日清戦争は終わりを告げました。
    そしてこれまで全く軍の医療施設に女性看護婦が配置されなかったものが、極めて短期間にその数を増やし、日本赤十字社救護看護婦たちは、その後、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、大東亜戦争にそれぞれ出征して戦傷病者の看護に大きな貢献をするに至るのです。
    その背景には、若干17歳だった岩崎ユキの覚悟と死があったのです。

    日本は、男だけでなく、女も勇敢に戦い、そうすることで我が国は列強の植民地とならずに、独立自尊を保ち続けたのです。
    私たちはそんな曽祖父母、祖父母、父母たちのおかげで、世界に五百年続いた植民地支配という収奪を終わらせ、今の命を、そして社会をいただいています。



    日本をまもろう!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    YOUTUBE
    日本の心をつたえる会チャンネル
    むすび大学チャンネル


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第101回倭塾 2023/5/14(日)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第102回倭塾 2023/6/25(日)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第103回倭塾 2023/7/22(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第105回倭塾 2023/10/14(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567
○受付時間 
9:00~12:00
15:00~19:00
定休日  木曜日

スポンサードリンク

カレンダー

05 | 2023/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさん(小名木善行)著書

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク