• 日本に帰化した漢の皇帝


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    平安時代に至る前、飛鳥時代から奈良時代にかけて、我が国が日本書紀を編纂しました。
    日本書紀により、日本は、神話の昔からの日本人の理想や考え方を明確にし、これを国民教育に活かして行ったのです。つまり日本は、教育によって、本物の理想国家を実現しようと努力を重ね続けてきた歴史を持つのです。

    伝教大師・最澄
    20220624 最澄
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    日本をかっこよく!

    日本は、初代神武天皇によって長期備蓄のできるお米を使って、全国がひとつ屋根の下に暮らす家族のように互いに助け合って生きる国として建国された国です。
    そして第十代崇神天皇によって疫病が克服され、誰もが安心して暮らせる国の基本が築かれ、第十六代仁徳天皇によって大規模な土地の造成が行われて豊かな国となり、古代において東亜の超大国となった国です。
    そんな日本は、世界の東の果てにある蓬莱山、扶桑の国と呼ばれ、神仙でなければたどり着くことのできない理想の国とされました。

    そんな蓬莱の国に、仁徳天皇のひとつ前の応神天皇の時代にやってきたのが、漢王朝最期の皇帝の孝献帝の直系の一族です。
    孝献帝という名は、孝献帝の死後に贈られた諡号(しごう)で、生前の名を「劉協(りゅうきょう)」と言いました。
    漢の大帝国を建国した劉邦の末裔で、後漢の最期の皇帝です。

    『三国志』をお好きな方ならご存知のことですが、後漢の末期に、董卓が劉協を皇帝に擁立しました。
    董卓の死後、劉協を保護したのが魏の曹操です。
    曹操は、後漢の皇帝を王に担ぐことで、魏による中華統一の正統性の証としたのです。

    ところが曹操の死後、曹操の息子の曹丕(そうひ)は、劉協が40歳のときに皇帝の座から引きずり下ろし、自分が魏の皇帝になってしまいます。
    このときに用いられた皇位継承の形は「禅譲(ぜんじょう)」と呼ばれ、以後、中華における王朝交代の手本とされるようになりました。

    さて、こうしてついに漢王朝の幕が降りたのですが、どっこい劉協は生き残ります。
    曹丕によって西安近くの山里である山陽に封じられ、そこで54歳の生涯を終えるのです。

    息子が早逝していたため、孫の劉康(りゅうこう)が跡を継いで山陽公となり、その子の劉瑾(りゅうきん)、劉秋(りゅうしゅう)と山陽公が受け継がれるのですが、その劉秋は、チャイナの史書によれば、309年の永嘉の乱のときに、匈奴の汲桑(きゅうそう)将軍によって殺害された・・・ことになっています。

    ところがどっこい、劉の一族はしぶとい。
    一説によれば、争いの最中に劉秋は一族を連れて山陽を脱出し、朝鮮半島を経由して、東の海の向こうにある扶桑国(ふそうのくに)と呼ばれる理想郷に向かったとされます。
    その扶桑国が日本のことで、それが第15代応神天皇の御世のことです。

    このときのことについて日本書紀は、
    「倭漢直の祖の阿智使主(あちしのぬし)、其の子の都加使主(ちゅうがしのぬし)は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した」
    と記しています。

    劉協の「協」は、チャイナ語で「jing」と発音されますが、日本人が聞くと「ち」に聞こえます。だから「阿智(あち)」。
    劉秋の「秋」は、チャイナ語で「qiu」で、日本人が聞くと「ちゅう」に聞こえます。だから「ちゅう」が使いとともにやってきたという意味で都加使主と表記されています。

    そしてこの一族は、日本において応神天皇の庇護のもと、近江の坂本の地で帰化し、一族の名を、劉協の「協」の字から、「三つの力を合わせる」三津首(みつのおびと)の一族を名乗るようになります。
    (「首(おびと)」は、古代における有力者への尊称です。)

    そしてこの三津首氏の直系の子孫から誕生したのが、三津首百枝(みつのおびとももえ)で、この人が後の平安時代のはじめに比叡山を開いた伝教大師最澄です。
    そしてその伝教大師の門下生から、法然や親鸞、栄西や道元、日蓮などの高僧が誕生したことは、皆様御存知の通りです。

    学校の教科書では、「日本は遣隋使や遣唐使を出して、高い文化を持ったチャイナから様々なことを学んだ」としています。
    要するに、チャイナは進んでいて、日本はオクレていた、というわけです。

    ところがどっこい。
    実際には、日本からチャイナに渡った人よりも、チャイナから日本にやってきた人の方がはるかに多いし、その人たちのほとんどすべてが日本に帰化しています。
    帰化というのは、「帰るところを化(か)える」という意味で、外国で生まれ育ったけれど、日本人となり、日本を祖国として末代まで生きていこうとした、ということです。

    逆に、日本からチャイナに渡り、向こうで帰化した人というのは、あまりいません。
    阿倍仲麻呂のように、日本に帰りたいと再三、唐の皇帝に申し出るのだけれど、仲麻呂があまりに優秀だからとそれが許されず、結果、唐に骨をうずめた人もいますけれど、ごく限られた少数です。
    一方、日本にやってきたチャイナ人は、多くがそのまま日本に帰化しました。

    日本の別称には、蓬莱山、扶桑の国の他、東瀛(とうえい)、方壷(ほうこ)といった名称もあります。
    蓬莱山、東瀛、方壷の三つを合わせて「東方の三神山」といいます。
    いずれも日本を指す言葉です。
    日本は、平和で豊かで誰もが安全に安心して住める、まるで極楽浄土のような国であったのです。

    現実問題として古代における世界は、洋の東西を問わず支配層が絶対的権力を握り、一般の民衆は尻に肉が付いていれば強制的に使役されるという、奴隷状態に置かれていました。
    奴隷に人権はありません。
    死んでも、ネズミの死骸と同じ、ゴミとしてしか扱われない。
    そんな世界にあって、日本だけが「民衆をおほみたから」とし、民の幸せこそが天下の幸せとしていたのです。
    誰がどう考えても、日本は蓬莱山、東瀛、方壷と呼ばれる神仙の国としか思えない。
    それが日本だったのです。

    ですから世界中から多くの貴人が来日し、日本に住むようになっています。
    9世紀に書かれた当時書かれた『新撰姓氏録』によると、なんと当時の畿内の人口の3分の1が外国からの帰化人です。
    いまで言ったら、およそ4千万人が外国人であるようなものです。
    ご近所を見渡せば、3件に1軒が外国からの帰化人だというわけです。

    ところがそんな状況にあってなお、日本は平安中期には、紫式部や清少納言が活躍する、平和で豊かで安定した国柄を実現しています。
    なぜそのようなことができたのかといえば、答えは明確です。
    平安時代に至る前、飛鳥時代から奈良時代にかけて、我が国が日本書紀を編纂しました。
    日本書紀により、日本は、神話の昔からの日本人の理想や考え方を明確にし、これを国民教育に活かして行ったのです。
    つまり日本は、教育によって、本物の理想国家を実現しようと努力を重ね続けてきたし、政治もまた民衆が豊かに安全に安心して暮らせる社会の実現のために最大限の努力を重ねていたのです。

    現代はどうでしょう。
    外国のものばかりをありがたがり、本来あるべき自分たちの国を誰もが豊かに安全に安心して暮らせる国にしていこうとする気概も忘れられています。
    日本はダサく、外国はかっこいい。
    憲法前文には、なんと日本より外国を信頼すると書かれています。
    そんな現代日本人の姿を、我々のご先祖が見たら、どのように思うでしょうか。

    伝教大師・最澄が開祖の比叡山に、「伝教大師童形像」という像があります。
    根本中堂の正面脇に建っています。トップの写真の向かって左側の立像です。

    この像は、全国の小学生がひとり1円ずつ(建立は昭和12年で、当時の1銭ずつ)を出し合ったお金で建てられたものです。
    子供のたった1円が、立派な銅像になっているのです。
    ひとりの力は小さくとも、みんなが集まれば、それは時代を変える大きな、そして偉大な力になるのです。

    昨今、日ユ同祖論が盛んです。
    日本にユダヤ人がやってきたことは事実です。
    証拠は各所に遺っています。
    証拠がある以上、これを否定することはおかしなことです。

    けれど大切なことは、やってきたユダヤ人たちによって、日本文明が滅ぼされたわけではないことです。
    なるほど、たとえば祇園祭には、数ある山車の中に、どうみてもユダヤ系としか思えないような山車があります。
    それらは、迫害を逃れてはるばる日本にまでやってきたユダヤの人々が、日本で豊かに安全に安心して生きることを認められたその報恩感謝のためにと出された山車と考えれば、歴史の辻褄が合うのです。

    事実をもとに再現可能性がMAXになるように過去をストーリー化するのが歴史学です。
    ですから歴史学は、論理的思考や、未来への創造力を養います。
    だから歴史は、大事なのです。


    ※この記事は2022年7月の記事のリニューアルです。
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  • 蒋介石と浙江財閥


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    日本には、万年の単位で、正義と公正を重んじてきた歴史と伝統があります。
    我々は、堂々と、その元からあるもので進んでいけば良いのです。
    世界中の国々が、日本の持つ正義と公正を待ち望んでいるのです。
    なにしろ、それを実現出来た国は、歴史上、日本だけだからです。


    20181125 China事変
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    日本をかっこよく!

    目的が金儲けであり、事実それによって大金を得ることができるのですから、科学的合理性や客観的論理性などは関係ない、というのが宣伝工作です。
    ですから日本が、いくら科学的合理性と客観的論理性に基づく検証を行ない、彼らの主張の間違いを正そうとしても、それは一時的に彼らを黙らせることができたとしても、すぐにまた切り口を変えて同じ主張が執拗に行われ続けることになります。

    これは「いたちごっこ」です。

    チャイナについて色々な見方や意見がありますが、ひとことで言えば、彼らには我々日本人にある霊(ひ)という概念がありません。
    だから、ただ今生で贅沢に生きること、そのために周囲のあらゆるものを利用して金儲けをしようという概念しかない。
    そのために周囲がどれだけ迷惑しようが、いっさい関係ありません。
    自分さえ良ければ、あとはどうでも良いという思考が、我々日本人には考えられないほど徹底している人たちです。

    近年日本でも、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」という言葉が流行っていますが、この分野では付け焼き刃でしかない日本人が、いくらチャイニーズに対抗しようとしても、まず勝てることはありません。
    本人が、いくら徹底したとしても、周囲の日本人が正しいことを求めるからです。

    「いまだけ、カネだけ、自分だけ」に、すくなくとも2千年以上の伝統を持つ彼らと、
    ずっと民衆の幸せこそ国の幸せと、自己犠牲のもとに、すこしでも良い国を築こうとしてやってきた日本では、あまりに文化が違いすぎるのです。
    これは差別やヘイトではありません。
    文化の違いです。

    日華事変(1937〜1941)のとき、大陸で負け続けた蒋介石がなぜいつまでも日本に抵抗し続けたのか。
    その答えが今日のタイトルにある「蒋介石はビジネスをしていた」です。
    当時米英仏ソは、義和団事件(1900)年の戦後処理としての北京議定書(1901)によって、チャイナの大半の地に、すでに大きな利権をもっていました。
    日本が勝てば、彼らはその利権を失います。
    けれど、蒋介石が日本に抵抗し続けていてくれる限り、彼らはその利権を守り通すことができました。
    つまり蒋介石と米英仏ソは、利害が一致していました。

    そのため米英仏ソは、蒋介石に莫大な戦費や物資の援助を行いました。
    このことは、蒋介石の側から見れば、彼は日本と戦い続ける限り、兆円規模の莫大なお金が天から降ってくることを意味します。

    そしてこの額は、どんなに頑張っても商業や製造業では、決して手に入れることができない額です。
    ありえないような巨額の利益が、そこらにいるチャイニーズに銃を持たせて戦わせるだけで、自分は弾の飛んでこないところにいて、手に入るのです。

    英国は1939年に1000万ポンド(現2500億円)、1940年に1000万ポンドを蒋介石に貸与してます。
    貸与というのは貸し与えたということですが、国際社会において借りたお金を返したのは、日露戦争のときの日本と、南北戦争のときの南軍の借金を肩代わりして返済した米国くらいなものです。
    国際社会では、借りたお金は返さないのが常識です。

    フランスは1938年に1億5000万フランを貸与、1939年に9600万フランを蒋介石に、こちらは無償援助しました。

    ソ連は1937年に航空機900、戦車200,トラック1500,銃15万、砲弾12万発、銃弾6000万発を蒋介石に提供し、1939年には1億5000万ドルを援助(現6400億円)し、さらにソ連空軍が密かに参戦しています。

    米国は1927〜41年に4億2000万ドルを無償援助、1940年に50機の新鋭戦闘機、装備、武器、弾丸150万発を援助、1941年に100機の戦闘機を援助、259名の米空軍パイロットを義勇兵の名目で中国空軍に参戦(フライング・タイガース)させ、さらにトラック300台と5000万ドル分の軍事物資を供与して、米軍事顧問団を派遣、また、500機のB-17爆撃機を援助しています。

    なにせ日本と戦っているというポーズだけしていれば、いまのお金に換算して数千億から兆円規模のお金が天から降ってくるのです。
    しかも戦って死ぬのは、チャイナの民衆であって、蒋介石自身ではありません。
    つまり自分は決して殺されないところにあって、部下たちが死ねば、笑いが止まらないほどのお金が、ますます天から降ってくるのです。

    これをお読みのみなさんは日本人ですし、部下を見殺しにするなどということは断じてできない方々でしょう。
    けれども世の中には、自分の贅沢と金儲けのために、周囲の人がどれだけ死んでも、よそ様にどれだけ迷惑をかけても、一向に意に介しないヤカラがいるのです。

    蒋介石は、さらにもっと外国からお金を得るために、チャイナを日本による一方的な被害者に見せかけようと、さかんに宣伝工作をしました。
    これは、いまの大企業が莫大なお金をかけて、テレビCMを流すのと同じことです。
    宣伝ですから、事実はどうでも良い。
    諸外国の同情と支援を受けるためのイメージがあれば良いのです。

    ですから自分たちでひどいことをしておいて、それを「日本にやられた」と宣伝しました。
    捏造してでも、諸外国の同情を買えば良いのです。
    それで大金を儲けることができるのです。

    さらに蒋介石は、お金をくれそうな外国に大量のスパイを送り込んで、工作活動も展開していました。
    ヨーロッパでは、紫禁城から大量の宝物を持ち逃げした張学良が、宝物と連れて行ったチャイニーズのレディたちを使って盛んに工作活動を展開しました。

    米国では、英語に堪能な蒋介石の妻の宋美齢(そうびれい)の姉の宋靄齢(あいれい)と宋慶齢(けいれい)らが、やはりChineseの美女軍団を率いて米国のメディア工作、政治工作を行いました。
    この工作の成果はすぐに出ました。
    それが米国において1938年(昭和13年)7月、つまり南京事件の翌年の、
    「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」
    の発足です。

    この団体には、当時の米国の主だったマスコミの経営主がこぞって参加しました。
    それぞれの企業への莫大な経済的支援、高齢の男性オーナーたちにはChineseの若い女性たちを提供しました。
    女性たちは、言うことを聞いて米国要人と夜をともにすれば、あらゆる贅沢が与えられます。
    しかし拒否をすれば、即、残酷な死が与えられました。

    「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」は、発足と同時に
    『日本の戦争犯罪に加担しているアメリカ』
    という80ページのブックレットを発行しました。
    このブックレットには、ヘンリー・スティムソン前国務長官、フランクリン・ルーズベルト大統領、コーデル・ハル国務長官、スタンリー・ホーンベック外交担当国務省補佐官、たくさんの連邦議会議員、マスコミのオピニオンリーダーたち、教会指導者たち、その他ヘレン・ケラーやパール・バック女史、元海軍大将のリチャード・E・バードなどが名を連ねて寄稿しています。

    委員会は、このブックレットを6万部も刷って、全米の議員をはじめ、有力者や団体にバラまきました。
    ルーズベルトは、これを世論だとして、日本への経済封鎖に踏み切っています。
    そしてこのことが原因となって、日本は日米開戦に追い込まれて行きました。

    6万部を印刷して配るということは、たいへんな資金が必要です。
    その資金は蒋介石から出ていましたが、もともとは米国が蒋介石に提供したお金です。
    つまり蒋介石は、他人のフンドシで大商いをしていたわけです。

    要するにChina事変は、蒋介石にとっては「商売(ビジネス)」だったのです。
    ビジネスですから、そこに論理性も倫理性も客観的妥当性も普遍的正当性もありません。
    ただ儲かれば良いのです。

    自分が儲けるためならば、自国民が何人死のうがおかまいなしだし、それによって国土が灰燼に帰そうが、黄河を決壊させて自国民が100万人が死のうが、それによって日本がどれだけ迷惑を被ろうが、後の世にどれだけの負担がかかろうが、まったく関係ないのです。
    ただその瞬間に儲かれば良いのです。

    さて、蒋介石は、こうして大金を得るのですが、戦後の国共内乱によって蒋介石は毛沢東によって中原を追い出され、占領統治していた日本の一部である台湾を支配することになりました。
    このため台湾は、なんと昭和62年(1987年)まで、戦後42年間もの間、戒厳令が敷かれて国民党軍による軍政支配下に置かれました。

    このことは、日本のGHQによる占領統治が昭和27年までの6年8ヶ月であったことを考えれば、どれだけ長期間のものであったのかがわかろうかと思います。
    そしてこの間に国民党は、台湾の経済のすべてを支配しました。

    台湾には、
    「People on Taiwan(台湾に乗っかっている人々)」と、
    「People of Taiwan(もとからの台湾人)」がいます。

    台湾の人口は約2,300万人ですが、このうち、大東亜戦争終結後に大陸から入って来た人達(People on Taiwan)が575万人で、台湾の人口のおよそ4分の1、
    もとからの台湾人(People of Taiwan)が、1725万人で、人口のおよそ4分の3です。
    そしていまなお、People on Taiwanが、台湾経済を支配しています。

    要するに台湾では、「on」の人たちが、元日本人で働き者の「of」の人たちを使役して、その上に乗って富を寡占しているわけです。

    戦後80年が経過し、いまの若い人たちは、ずいぶんと血が交じるようになりましたし、台湾の国民党と民進党の両方に「of」も「on」もいますから、そういう外見だけを観るとよくわからなくなるのですが、「People on Taiwan(台湾に乗っかっている人々)」の中でひときわ強い権力を持っているのが、浙○財閥であるといわれています。

    浙○財閥というのは、蒋介石が得た財産で築かれた財閥です。
    そしてこの財閥の中核をなしているのが○家(はっか)で、毛沢東も同じく○家(はっか)、現在の習近平政権を支えているのも○家(はっか)です。
    そして○家(はっか)の一族=浙○財閥という関係式になります。

    ○家(はっか)は世界中にそのネットワークを持っています。
    近年では半導体の技術を日本からいただいて、世界の半導体を牛耳りました。
    いまでは、あらゆる産業に半導体は不可欠ですが、その半導体の世界シェアの66%が台湾です。
    そしてその60%のうちの3分の2が、T○MC(台湾積体電路製造)です。
    そしてこの会社の創業者である張忠謀(モ○リス・チ○ン氏)の出身が浙○省です。

    ちなみに、これだけの世界シェアを持つT○MCですが、創業が1987年(昭和62年)です。
    つまり台湾の戒厳令が解けた年です。
    つまり、戒厳令による支配が、半導体による支配に切り替わったのが、この年です。
    それが、いまからたったの35年前です。
    そしてこの35年で、彼らは世界の半導体だけでなく、世界の情報化社会を裏で操るようになりました。

    日本でいま、巨大な半導体工場が作られようとしていますが、その経営もまた、なぜかT○MCです。
    これができると、世界の半導体市場は、完全に浙○財閥の傘下に置かれることになり、世界の情報技術は、すべて浙○財閥が牛耳ることになります。

    目下の日本では、かなり目の利く方でも、国際金融資本や、ソロス氏の動向にばかり着目されているようです。
    しかし、実際には、それらをさらに裏から抑えようとしている東洋の財閥があるわけです。

    そしてこのままいくと、日本もまた、台湾と同じように、あと30年もすると、
    もとからの日本人(People of Japan)が、後から入ってきた支配層(People on Japan)によって支配されるようになる可能性があります。

    日本の強さの原点は、日本人がどこまでも民衆が豊かに安全に安心して暮らせる社会を求め、そのために常に科学的合理性と客観的論理性を重んじてきたことによります。
    日本人が科学的で合理的で客観的で論理的だというと、意外に思われる方も多いかと思いますが、世界の有色人種の国々は、白人が鉄砲をもってやってきたときに、彼らはこれを魔法と捉えたのです。
    けれど日本人は、それを科学ととらえ、気がつけば世界最大の鉄砲国になっていました。

    黒船のときにも、日本は、彼らの科学技術を魔法と捉えずに、論理的かつ客観的に捉えて、その技術を積極的に受け入れてきました。
    つまり日本人は、世界の中でみれば、意外なほど科学的で合理的で客観的で論理的な民族であったのです。
    そしてその科学性、合理性、客観性、論理性のすべてが、民衆が豊かに安全に安心して暮らせる社会の実現に向けて統合されるという不思議を持っているのが、実は日本人です。

    これに対し、世界は「いまだけ、カネだけ、自分だけ」です。
    そしてそうした思想や行動が、極限にまで高められているのが○家(はっか)集団です。

    彼らの目的は、常に金儲けにあります。
    科学も合理も客観性も論理も、すべては金儲けのためにあります。
    民衆の利益など、まったく関係ないのです。

    では日本はどうすればよいのでしょうか。
    答えはシンプルです。
    日本には、万年の単位で、正義と公正を重んじてきた歴史と伝統があります。
    我々は、堂々と、その元からあるもので進んでいけば良いのです。
    世界中の国々が、日本の持つ正義と公正を待ち望んでいるのです。
    なにしろ、それを実現出来た国は、歴史上、日本だけだからです。

    胸を張って、そして謙虚に、我々日本人は、日本人として歩む道をしっかりと歩んでいきたい。
    そう思います。


    ※この記事は2022年7月の記事の再掲です。
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  • 通州事件(2) Sさんの体験談


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    昨日に引き続き通州事件です。たいへんに衝撃的な内容ですが、まだお読み出ない方は、是非ご一読なさってください。この事件はフィクションではありません。現実にあった事件です。当記事はその実体験者の経験談です。


    20200715 現在の通州区
    画像出所=https://www.city.bunkyo.lg.jp/bunka/kokunai/kokusaikouryu/Tongzhou.html
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    日本をかっこよく!

    昨日に引き続き通州事件です。
    犠牲となられた方々に深く哀悼の意をささげたいと思います。

    調寛雅著「天皇さまが泣いてござった」から、「Sさんの悲劇」の転載をさせていただきます。
    Sさんは実際に通州事件を体験なさった日本人女性で、佐々木テンさんと言います。
    当時Sさんはチャイニーズ男性の妻となり、チャイニーズとして通州で働いていました。
    その目の前で事件は起こりました。
    文中にはありませんが、この旦那さんのチャイニーズは、もともとチャイナのスパイであったといわれています。

    事件後、あまりのショックに離婚したSさんは、陸軍の取調べ後、担当した士官がたいへんに同情してくれ、当時陛下との関係の深かった因通寺のご住職である調寛雅(しらべかんが)氏に、Sさんを預けました。
    そこで彼女が語った事実を、ご住職が後に本にしてご出版されています。

    本からの転載にあたっては、徳島の保守さんが、因通寺のご許可をいただいて本から文字起こしをし、ネット上にあげてくださいました。また私の拡散にあたっては、徳島の保守さんからお寺にご承認をいただいています。

    たいへんに衝撃的な内容ですが、まだお読み出ない方は、是非ご一読なさってください。
    なお、たいへんに残酷な描写が出てまいりますので、この記事は18禁とさせていただきました。


    【Sさんの体験談】

    私は大分の山の奥に産まれたんです。

    すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。
    それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。

    そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
    小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。

    それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんというチャイニーズと出会ったのです。

    このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。
    大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に「Sさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

    私は最初は冗談と思っていたので、
    「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。

    そのときは全く驚きました。
    冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

    でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。
    「Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。
    それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。
    それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさんは強い言葉で私に迫ります。

    それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

    チャイナの人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

    でも、無事結婚式が終わりますと、すぐにチャイナに帰るというのです。
    でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。

    自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

    それで仕方ありません。
    私はTさんに従ってその年の三月にチャイナに渡りました。

    長い船旅でしたが、チャイナに着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。

    私はチャイナ語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

    そのうち片言混じりではあったけれどチャイナ語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。

    通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いてチャイニーズもとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。

    それは昭和九年の初め頃だったのです。

    Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、チャイニーズも日本人に対して大変親切だったのです。

    しかしこのチャイニーズの人達の本当の心はなかなかわかりません。
    今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

    通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

    私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。

    私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、チャイニーズの服装に替えておったのです。

    すっかりチャイナの服装が身につきチャイナの言葉も大分慣れてきていました。
    それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。

    遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
    日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

    私がチャイニーズの服装をしているのでチャイニーズと思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。
    そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

    そして、商売の方もうまく行くようになりました。
    Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
    だから買う人にとってはとても便利なんです。

    Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
    Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

    この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
    私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

    ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、チャイナと日本は戦争をする。

    そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

    私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。

    それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

    そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。
    何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。
    Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

    そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

    只、コリアンの人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口をチャイナの人達に言いふらしているのです。

    私が日本人であるということを知らないコリアンは、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にしてコリアンを奴隷にしていると申すのです。

    そして日本は今度はチャイナを領土にしてチャイニーズを奴隷にすると申すのです。
    だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
    いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

    私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙ってコリアンの言うことを聞いておりました。

    そこへTさんが帰って来てコリアンから日本の悪口を一杯聞きました。
    するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。

    するとそのコリアンは顔色を変えて叫びました。
    日本人じゃないコリアンだ、コリアンは必ず日本に復讐すると申すのです。
    そして安重根という人の話を語りました。
    伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
    我々もチャイニーズと一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

    私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
    なんと怖いことを言うコリアンだろう。
    こんなコリアンがいると大変なことになるなあと思いました。

    Tさんは黙ってこのコリアンの言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

    こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
    でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。

    私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

    私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。

    道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。

    目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
    私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。

    日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

    そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。

    大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。

    この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍がチャイナを立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。

    その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

    行商に歩いていると日本人に出会います。
    私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。

    すると日本人が通った後ろ姿を見ながらコリアンが、
    「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」とチャイニーズ達に言うのです。

    最初の頃はチャイニーズ達もコリアン達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回もコリアンがこんなことを繰り返して言うと、チャイニーズ達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。

    特に保安隊の軍人さん達がこのコリアンと同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

    私はあまり心配だから、あるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。

    それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

    それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうしたチャイニーズ達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

    それはチャイナのあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。

    私はTさんには悪かったけれど、紙一杯にこうしたチャイニーズ達の動き、コリアン達の動きがあることを書きました。

    そして最後に用心して下さいということを書いておきました。
    この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。

    これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。

    こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

    これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。

    でも何も変わったことはありません。
    これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。
    このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

    昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。

    そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、チャイナ軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。

    日に日に日本に対する感情は悪くなり、チャイニーズ達の間で、
    「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。

    その当時のよく言われた言葉に、
    「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのはチャイナだ」という言葉でした。

    私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。

    チャイナの子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔をチャイナが滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。

    こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。
    しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。

    そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。
    私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

    三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。
    私はびっくりしました。

    それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いやチャイナという国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。

    しかし日本に帰るべくTさんが日本の状況をいろいろ調べてみると、日本ではチャイナ撃つべし、チャイニーズは敵だという声が充満していたそうです。

    そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって、
    「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。

    それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。
    何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。

    来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。

    でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。

    しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。

    そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

    日本人の居住区にもよく行きました。
    この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。
    そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。

    私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。
    でもTさんはそれを許しません。

    それで日本人の居留区日本人と話すときもチャイナ語で話さなくてはならないのです。
    チャイナ語で話していると日本の人はやはり私をチャイニーズとして扱うのです。
    このときはとても悲しかったのです。

    それとチャイニーズとして日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人がチャイニーズに対して優越感を持っているのです。
    ということはチャイニーズに対して侮蔑感を持っていたということです。

    相手がチャイニーズだから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くのチャイニーズが言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。

    だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。
    このことが大変悲しかったのです。

    私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいるチャイニーズに対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。

    でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。

    こうした日本人の傲りとチャイニーズの怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。

    Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。
    それだけにこの通州のチャイニーズの日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。

    一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、
    「困った、困った、こんなに日本人とチャイニーズの心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」
    と言うのです。

    そしてチャイニーズの心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていたコリアンがあまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。

    いやむしろチャイニーズの日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくるとコリアン達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。
    それと共にあの当時はコリアンで日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、コリアン達も考えるようになって来たのかも知れません。

    しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。

    Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。
    今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。

    そして「危ない」「危ない」と申すのです。

    それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、チャイニーズが殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。

    六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。
    だからといって逃げ出すわけにもまいりません。

    そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、チャイナの国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。

    それが七月になると、
    「日本人皆殺し」
    「日本人は人間じゃない」
    「人間でない日本人は殺してしまえ」
    というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。

    鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

    そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。

    チャイニーズ達が大騒ぎをしているのです。

    何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍がチャイナ軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したのでチャイニーズ達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。

    私はびっくりしました。
    そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。

    でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。

    こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。

    この頃でした。

    上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。
    済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。

    蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。

    この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。
    私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。

    この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。
    どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

    七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。

    突然私はTさんに烈しく起こされました。
    大変なことが起こったようだ。
    早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

    Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。
    町には一杯人が出ておりました。

    そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

    でもまだ辺りは薄暗いのです。
    何がどうなっているやらさっぱりわかりません。

    只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。
    私はTさんと一緒に逃げながら、
    「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。

    でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。
    私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

    それが八時を過ぎる頃になると、チャイニーズ達が、
    「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。

    突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。
    最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。

    私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。
    もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。

    それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。
    そして、
    「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」
    と私を抱きしめるのです。

    それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。
    私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。
    ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。

    そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。

    それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。
    私はTさんと結婚してチャイニーズになっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。

    でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。

    それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。
    それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

    八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。

    誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
    私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。

    そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。
    何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

    私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

    そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。
    只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。
    Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

    日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。
    それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。
    何か生臭い匂いがするのです。
    血の匂いです。
    人間の血の匂いがして来るのです。

    しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。
    沢山のチャイニーズが道路の傍らに立っております。
    そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
    いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

    そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
    十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。

    その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
    そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

    その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
    体はぶるぶると震えておりました。

    その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。
    そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

    保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。

    そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

    チャイナでも七月と言えば夏です。暑いです。
    薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

    すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
    娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。

    しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

    娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
    学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。

    そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

    学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
    そして下着を取ってしまいました。

    娘さんは「助けてー」と叫びました。

    と、そのときです。

    一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
    そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

    恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。

    すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

    何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
    頭が割られたのです。

    でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
    保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

    娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
    この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

    パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。

    そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
    服が破けます。
    肌が出ます。
    血が流れます。
    そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

    そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
    血がパーッと飛び散ります。

    その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

    腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。
    それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
    又腹を突きます。
    胸を突きます。
    何回も何回も突き刺すのです。

    沢山のチャイニーズが見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
    この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

    その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
    暴虐無惨と申しましょうか。
    あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

    この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

    この娘さんは既に全裸になされております。
    そして恐怖のために動くことが出来ないのです。

    その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
    そして陵辱をはじめようとするのです。

    チャイニーズとは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。

    ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
    どうしても陵辱がうまく行かないのです。

    すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。

    そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。

    こんな姿を見ながらその近くに何名ものチャイニーズがいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。

    ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
    私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

    私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。
    目をしっかりつぶっておりました。

    するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
    私は思わずびっくりして目を開きました。

    するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。
    何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。
    その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。
    見てはいけない。
    見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。

    ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。
    それから剣で首を切り落としたのです。

    その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。
    投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
    若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。

    そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。
    しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。

    そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

    私は立っていることが出来ない程疲れていました。
    そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。

    この残虐行為をじっと見つめていたのです。
    腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。
    そしてその首はないのです。

    何とも異様な光景です。
    想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。

    ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
    そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。

    私はハッと自分にかえりました。
    すると何か私の胃が急に痛み出しました。
    吐き気を催したのです。

    道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。
    Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。

    でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。

    私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
    怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。

    私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。

    私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。

    私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。

    若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。

    しかしチャイニーズのTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。
    だから黙って通してくれたと思います。

    日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。
    殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

    あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。

    私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。

    そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
    十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

    そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。

    痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。
    とても人間のすることではありません。

    悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、チャイナの学生や兵隊はそれを平気でやるのです。
    いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

    日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識はチャイニーズにとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることがチャイニーズの常識だったのかと初めてわかりました。

    集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
    そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。

    チャイナでは老人は大切にしなさいと言われておりますが、このチャイナの学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。

    この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。

    十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。

    こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

    そしてそれだけではなかったのです。

    学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。
    そして勿論裸足にしております。

    その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

    そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
    この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。

    でも倒れることは出来ません。

    外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。
    学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

    私は思わずTさんにしがみつきました。
    Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。

    そして私の耳元でそっと囁くのです。
    「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。

    勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。

    そして私とTさんの周囲には何人ものチャイニーズ達がいました。
    そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。
    氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。

    兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般のチャイニーズは全く無表情で只黙って見ているだけなのです。

    しかしようもまあこんなに沢山チャイニーズが集まったものだなあと思いました。
    そして沢山集まったチャイニーズ達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。

    勿論これはいろんなことを言えば同じチャイニーズではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。

    これも又異様のこととしか言いようがありません。

    こんな沢山集まっているチャイニーズ達が少しづつ移動しているのです。
    この沢山の人の中には男もいます。
    女もいます。
    私もそのチャイニーズ達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

    日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。

    旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
    日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

    二人とも真っ青な顔色でした。
    一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。

    しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
    可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
    どうしてやることも出来ないのです。
    言葉すらかけてやることが出来ないのです。

    二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
    頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
    いやその一部からは出血さえしております。
    髪はバラバラに乱れているのです。
    とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

    その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

    女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。
    左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

    しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
    只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

    そしてそこにバッタリ倒れたのです。

    すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
    そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

    この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
    すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。

    私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
    その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

    私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。

    そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。

    そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。

    そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

    人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。

    それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

    一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。

    そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
    何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

    私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。

    それがチャイナの悪獣どもが充分満足したのでしょう。

    何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

    さすがに見ていた多くのチャイニーズ達がウォーという唸るような声を出しました。
    この多くのチャイニーズの唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

    そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
    恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。

    しかしこれを見ていたチャイニーズ達はどうすることも出来ないのです。
    私もTさんもどうすることも出来ないのです。

    もうこんなところにはいたくない。
    家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

    そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。
    沢山の日本人が殺されています。

    いやまだ殺され続けているのです。
    あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。

    そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。
    私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。
    耳を覆ってみても聞こえるのです。

    又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。

    旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
    一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

    するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。

    お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

    お婆さんは仰向けに倒れました。
    学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

    誰も見ていません。
    私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。

    そして、「くやしい」と申すのです。
    「かたきをとって」とも言うのです。

    私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。
    「いちぞう、いちぞう」
    と人の名を呼びます。

    きっと息子さんかお孫さんに違いありません。
    私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

    するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。
    そして息が止まったのです。

    私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

    そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。

    Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。

    するとチャイニーズも沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

    そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。
    それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。

    何とその女の人はお腹が大きいのです。
    七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

    学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。

    この女の人は何もしゃべれないのです。
    恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

    ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。
    歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。

    学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。
    そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。

    兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。
    妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっているチャイニーズ達の間にも拡がっておりました。

    とそのときです。
    一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。

    そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

    これで事態が一変しました。
    若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。

    学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。

    するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
    そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。

    学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。
    すると今度はそこにいたチャイナ国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。

    私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
    しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。

    七名も八名ものチャイナの兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。

    ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。
    私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

    ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。

    するとどうでしょう。
    この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。
    この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

    でもこの日本の男の人の働きもここまででした。
    この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

    日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。
    日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。

    これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。
    日本の男の人はぐったりなって横たわりました。

    それでもチャイナの兵隊や学生達は乱暴を続けております。
    そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。

    それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。
    私はあんな残酷な光景は見たことはありません。
    これはもう人間の行為ではありません。
    悪魔の行為です。
    悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。

    頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
    このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

    目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
    そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

    縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
    ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

    人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。
    十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。

    私はTさんにすがりついたままです。
    何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。

    地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

    そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

    そしてそれだけではありません。
    別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。

    一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。
    このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

    その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
    残った腸の細切れを見物していたチャイニーズの方へ二つか三つ投げて来ました。
    そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

    しかし見ていたチャイニーズの中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。

    この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。
    野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。

    そんな人間でない連中のやることに、流石にチャイニーズ達は同調することは出来ませんでした。
    まだ見物しているチャイニーズ達は人間を忘れてはいなかったのです。

    そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。

    この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。
    出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

    そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。
    学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。

    とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。
    フラフラと立ち上がりました。

    そして一生懸命逃げようとしたのです。
    見ていたチャイニーズ達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

    このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。
    妊婦はバッタリ倒れたのです。

    すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。
    するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。

    しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。
    国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。

    私は何をするのだろうかと思いました。
    そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

    だがチャイニーズの兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。
    剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

    赤い血がパーッと飛び散りました。
    私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

    実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。

    妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

    お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。

    そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。
    片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

    ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
    赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

    あまりの無惨さに集まっていたチャイニーズ達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人のチャイニーズが新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

    こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。

    「日本人が処刑されるぞー」

    と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。
    しかしそれはチャイナの学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

    私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。

    このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんがチャイニーズであったということです。
    そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちはチャイニーズの嫁さんだから私もチャイニーズだと思い込んでいたのです。

    そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私もチャイニーズだと思うようになっていました。
    そして早く本当のチャイニーズになりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。

    そしてこの一、二年の間はチャイナ語も充分話せるようになって、誰が見ても私はチャイニーズだったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私をチャイニーズとしか見ていないのです。
    それでチャイナのいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

    それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方をチャイニーズによって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。
    それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。

    それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはりチャイニーズです。
    私の心は通じておりません。

    そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはりチャイニーズですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。

    家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。
    それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。

    そこには兵隊や学生でないチャイニーズが既に何十名か集まっていました。
    そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。

    ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。
    保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

    集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。
    恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。

    何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。
    そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。

    すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。
    するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。

    私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
    五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。

    みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。
    そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。

    引き金に手をかけたらそれが最期です。
    何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

    そのときです。
    日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。

    するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。
    その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。

    バタバタと日本の人が倒れて行きます。
    機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。

    そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。
    このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。

    しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。
    そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。

    兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。
    只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。

    五十数名の日本人は皆倒れているのです。
    その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。

    ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。
    何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。

    保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。

    こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。
    全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

    するとどうでしょう。

    見物しておったチャイニーズ達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。
    何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

    これは一体どういうことでしょう。
    私には全然わかりません。

    只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。

    もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。
    私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

    私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

    その近水槽の近くに池がありました。
    その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。

    あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人ものチャイニーズがいるのでそれは出来ません。
    若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外のチャイニーズ達はおかしく思うに違いありません。

    国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どのチャイニーズが日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。

    そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいるチャイニーズ達からあの人はおかしいではないかと思われる。
    Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。

    それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

    そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。
    殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。

    そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。
    国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

    そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。
    ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。

    そして首を前の方に突き出させたのです。
    そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

    この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。
    これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

    この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
    この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。

    するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。
    二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。

    合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
    四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。

    そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
    四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

    池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
    全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

    私はもうたまりません。
    Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。

    そして見たくはなかったけど池を見ました。
    真っ赤な池です。
    その池に蓮の花が一輪咲いていました。

    その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。

    Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
    Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。

    しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人もチャイニーズだなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

    昼過ぎでした。

    日本の飛行機が一機飛んで来ました。
    日本軍が来たと誰かが叫びました。

    ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
    それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

    悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
    その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

    実際に日本軍が来たのは翌日でした。
    でも日本軍が来たというだけで逃げ出すチャイナ兵。

    とても戦争したら太刀打ち出来ないチャイナ兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。
    このときチャイニーズに殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。

    私は今回の事件を通してチャイニーズがいよいよ嫌いになりました。
    私はチャイニーズの嫁になっているけどチャイニーズが嫌いになりました。

    こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

    でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
    今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。

    そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。


    ********

    以上が「Sさんの体験談」の全文です。
    冒頭にも書きましたが、この文は佐賀県因通寺の住職であった調寛雅(しらべかんが)氏(2007年没)が書かれた『天皇さまが泣いてござった』からの転載です。

    2011年にブログ「徳島の保守」の皆様が、因通寺と連絡をとり、この文をネット上で公開する許可をいただきました。
    そして何回かにわたって掲載されたものを、「徳島の保守」のみなさまからご連絡をいただいて、当ブログに転載させていただきました。
    以後、毎年この時期に、再掲させていただいています。

    通州事件は、戦後、まったく消された歴史のようになっていたのですが、いまでは
    『通州の奇跡 凶弾の中を生き抜いた母と娘』皿木喜久著
    『通州事件 目撃者の証言』藤岡信勝著
    『慟哭の通州――昭和十二年夏の虐殺事件』加藤康男著
    など、さまざまな書籍が出されるようになりました。

    また「一般社団法人新しい歴史教科書をつくる会」によって、「昭和12年学会」などが構成され、通州事件を含む昭和12年の情況について、詳しく調査する活動なども行われるようになりました。

    一方、チャイナ共産党は、この通州事件を歴史から抹消するため、現在の北京市通州区自体を抜本的に作り変えて、いまでは往年の面影のまったくない超近代都市に生まれ変わっています。(冒頭の写真)
    都合の悪い歴史は消す。
    彼の国は徹底しています。

    通州事件をこうして振り返るのには理由があります。

    この通州事件の後に、第二次上海事件が起こっていますが、もしこのとき上海に日本海軍の陸戦隊の2千名がいなければ、このとき政情の不安定になっていたチャイナから日本に帰国するために上海に集まっていた日本人およそ3万人余が、通州の惨劇の二の舞になったであろうこと。
    通州で行われた惨劇は、そのままチベットに人民解放軍が攻め込んだ時の惨劇となったこと。
    いまなおウイグルで通州事件の惨劇が継続的に行われていること。
    そしてもし日本が、国防をこのままおろそかにするのであれば、今度は日本全土が通州事件の惨劇と同じ惨劇の対象になる可能性が濃厚にあること。
    歴史を学ぶ理由がここにあります。

    最後に3点ほど付け加えます。
    第一に、通州でこれだけの惨劇があり、そのことが新聞で日本国内にも報道された時、横浜や神戸などにある中華街は、まったくいつもと変わらぬ日常があったことです。
    もし仮に、日本で通州事件のような事件がチャイニーズに対して起こったならば、チャイナは全土をあげて日本に対して怒りの報復をすることでしょうし、チャイナにいる日本人は、ことごとく虐殺の対象となることでしょう。
    けれど日本では、そのようなことは起こり得ないし、だれひとり、起こそうと言う者さえもいない。
    このことは、とても重要なことだと思います。

    第二に、通州事件の加害者の学生(実際は兵士)たちは、日本軍が到着する前に通州城から逃げ出して北京に雪崩れ込みました。
    北京では、そんなチャイニーズの学生たちに日本人居留民が食べ物を与え、「二度と過ちを繰り返すんじゃないぞ」と訓誡したうえ、故郷に帰る路銀まで渡して放しています。すでに通州事件の報道があったにも関わらず、です。
    それは、日本人が人が良いということではないのです。
    当時のチャイナにおいて、日本人は貧しい暮らしから乱暴な振る舞いに走るチャイニーズの若者たちを、心から愛し、少しでも真っ当な人間として生きることができるようにと、自制と努力を重ねていたのです。

    人を恨むことや報復することは、それはそれで大事なことと言えるかもしれません。
    けれどそれ以上に、人を愛すること、真っ当な人間に育てていくことは、もっと重要なことであると思います。
    当時の日本人は、まさにそうした「徳」の道を誰もが希求していたのです。

    第三に、通州で被害にあった人たちです。
    彼らが経験した辛い仕打ちは、筆舌に尽くし難いものがあったものと思います。
    けれど、おそらく、このときに亡くなられた被害者の誰ひとり、報復や千年の恨みのようなおどろおどろしものを望んでいないということです。
    彼らの望みはただひとつ。
    二度と同様の事件が起こることがない、そういう世界を築くこと。

    ここに、いまを生きる私たちの使命があるものと思います。

    お読みいただき、ありがとうございました。

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  • 通州事件(1)概要と経緯


    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■
    8月12日午前11時より毎年恒例の靖國神社正式参拝を行います。
    受付開始は午前10時半、集合場所は靖國神社参集殿前です。
    皆様のふるってのご参加をお待ちします。
    詳細 → https://www.facebook.com/events/645762524090656
    ■□■━━━━━━━━━━━━━■□■

    通州事件を振り返る時、つくづく「世界は大金持ちの個人の利害得失で動く」ことを思い知らされます。
    ごく一部の人の金儲けと贅沢のために、一般の民衆が国籍を問わず、財を奪われ、虐殺される。民衆は人でなく、ただの家畜でしかなく、実際そのように屠殺までされる。
    だからこそいま、日本のシラスという概念が世界に必要とされてきているのです。

    通州事件の新聞報道
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    日本をかっこよく!

    この記事は、毎年この時期にアップさせていただいる記事です。

    「通州事件(つうしゅうじけん)」は、とてもつらい話です。
    でも知っておかなければならない歴史上の事実です。
    そしてこのことは、日本人のみならず、世界が知らなければならないことです。
    そこで今日明日の二回にわたり、通州事件を特集します。

    ねずブロで通州事件を最初にご紹介したのは、平成21(2009)年6月のことです。
    当時この事件について知る人は、ごく限られた人たちだけであったようで、当時はありもしないねつ造を書いたとか、でっちあげだとか、差別主義者であるとか、さまざまに中傷を受けたものです。
    あげく、私の人格否定論まで飛び出す始末で、その反響のすさまじさに驚きました。

    けれど事実は事実です。
    いまでは、様々な人や団体の活躍で、かなりの人がこの通州事件の惨劇について知るところとなりましたが、消された歴史を暴き、また二度と日本のみならず世界の人類史上繰り返す事があってはならない事件として、この事件は、まだまだもっと多くの人に拡散し、常識化していかなければならないことだと思います。

    通州事件が起こったのは、昭和12(1937)年7月29日です。

    この事件が起こる3日前には廊坊事件、2日前には広安門事件が起きています。
    半月前の7月7日にあったのが盧溝橋事件です。
    そしてこの事件に、チャイナの共産党と国民党が深く関与していたことは、歴史における公知の事実です。

    まず共産党の事情から書きます。
    もともと共産主義は、世界革命を標榜しています。
    それは世界をクレムリンの支配下に置くというものです。
    そのために「コミンテルン(Communist International)」ができ、彼らはロシア皇帝を殺害し、ドイツのプロイセン皇帝を追い払い、ヨーロッパ全土を共産主義の支配下におさめようとしました。

    ところが欧州の各国は手強い。
    なぜ手強いかといえば、欧州各国は巨大な富を持っているからです。
    なぜ富を持っているかといえば、彼らはすでに地球上の8割を植民地として支配していたからです。

    そこで欧州各国の富の源泉となっているアジアを、まず共産党の支配下に置こうというのが、コミンテルンの戦略となりました。
    そのためにまず混迷が続くチャイナを共産主義化する。
    これは、昭和10(1935)年の第7回コミンテルン世界大会で決定した事実として知られていることです。

    この決定に基づき、コミンテルンは大量の工作員をチャイナに送り込みました。
    そして毛沢東率いるチャイナ共産党に巨額の経費を与え、チャイナの共産主義化の促進を図ったのです。
    このことは現代を考える上においても、とても重要です。
    民度が低ければ、カネだけでいくらでも人を自在に動かすことができるということを歴史が証明しているからです。
    個人的にカネが儲かるなら、人を殺すこともいとわない。
    民度の低い社会であれば、カネでいくらでも人を買収し、動かすことができるのです。

    このことは、現代日本にそのままあてはまることでもあります。
    歴史はフラクタル(相似形)です。だから歴史は繰り返すのです。
    通州事件を毎年掲載するのも、そこに理由があります。
    二度とこのような悲惨を繰り返してはらならない。
    そのために我々は歴史の事実を知り、民度を上げていかなければならないのです。

    ちなみに、民度が低くても宗教上の戒律のある国や社会では、カネだけで人を動かすことができません。
    欧米がそうで、この場合は、巨額のカネによる買収と女の二つが用いられます。
    宗教上の戒律を下半身は容易に破ることができるからです。

    旧ソ連が、ヨーロッパや対米工作のためにとスワローと呼ばれる性的工作の集団を用いたこと、いまの中共が同様の方法で欧米の政財界の取り込みを図っていることなどが、まさにこの手法によります。
    さらに悲惨なことに、この下半身には幼児売買も含まれます。

    昨今の日本は、女性や幼児を使わなくても、カネだけでいくらでも買収ができるのだそうです。
    ということは、いまの日本の民度は、昭和10〜12年当時の混乱していたチャイナと同じレベルの民度しかないということになります。
    これではあまりに英霊となったご先祖たちに申し訳ないことです。

    また、なぜ昭和初期にチャイナが選ばれたのかも重要です。
    共産主義革命の基本は「対立をあおる」ことにあります。
    チャイナは古来、外国人が王朝を築いた国です。
    漢族が王朝を築いたのは前漢くらいなもので、それ以外は秦も隋も唐も元も明も清も全部外来の王朝です。
    外来王朝であったということは、言い換えればチャイナは植民地であったということです。

    チャイナには、もともと大きく分けて二つの種族があります。
    漢人と南人です。
    このふたつは、古くは黄河文明をもとにした漢人と、長江文明を発祥とする南人に別れます。
    この二つの根深い対立があるところに加え、疫病と飛蝗(ひこう)と呼ばれるバッタの大軍の発生によって、人口の8割を失う大量死が訪れ、生き残った漢人が北の遊牧民が暮らす地へと大量に流出することから遊牧民との対立が生まれ、困った遊牧民が中原に入って王朝を興して直接漢人や南人を統治するようになったのが、各時代の王朝です。
    チャイナの歴代王朝が、実は外来王朝であるという事実も、近年ようやく広がったものです。ここまでくるのに10年かかりました。

    要するにチャイナは、歴史を通じて他民族によって支配され続けた国であり、しかも当時は清王朝ですが、女真族(満州族)の国家である清王朝が欧米諸国の蚕食によって疲弊し、国内が混乱のルツボにありました。
    しかも人が人を殺すことを何とも思わないという国柄です。
    欧州の列強各国も、まだ完全にはチャイナを支配下においていない。
    悪魔が天使の顔をして入り込むのに、これほど好都合な国は他になかったわけです。

    この共産主義の介入に、もっとも抵抗したのが、大清帝国崩壊後、新たに統一中国を築こうとしていた辛亥革命の志士であるチャイナ国民党でした。
    なかでも蒋介石は、チャイナを自国の支配下に置こうとしているソ連以外の他の欧米諸国が、自分たちの領土に共産主義がはびこることを利用し、他の欧米諸国であるドイツ、フランス、英国、米国などから軍事資金と軍事物資の援助を得て、チャイナ国内で共産党員狩りを行っていました。
    もともと蒋介石と、共産主義の毛沢東などは、同じ学校の同門の出であり、チャイナの特定少数民族の出です。
    そして両者とも、○○主義を標榜して、自国内の敵対勢力(共産党からみた国民党、国民党から見た共産党)員をできるだけ派手に弾圧していれば、欧米諸国からお金をもらえたのです。
    簡単にいえば、自国民を理由を付けて殺せば殺すほど、より多くの個人的富を得ることができたわけです。

    日本人の場合、何かに命をかけて取り組むということは、それこそ損得抜きの生き様に通じるということで、これまでこの蒋介石と毛沢東の対立も、思想的な対立と見られることが多かったのですが、どこの国のどの民族も、同じ思考で走ると思ったら大きな間違いです。
    チャイナでは(あるいは世界ではと言い換えたほうが良いかもしれませんが)昔から個人的な利益のために、人の命が平気で蹂躙されてきたという歴史が続けられてきました。
    もっとも近年では日本人も、個人的利益が思想に優先する人が増えてきたと言われていますが。

    さて、こうして共産党員をできるだけ派手に殺せば、欧米諸国からカネをもらえるというレールに乗った蒋介石は、国民党を率い、共産主義者とわかれば片端から銃殺にしていきました。
    近年、日本軍がやったとされる暴行、殺害の証拠として使われている数々の写真の多くは、もともとはこの蒋介石率いる国民党が、共産党員を捕まえて処刑したときのものです。

    ちなみに蒋介石は、たいへんな写真好きで、国民党のこうした処刑などの「活躍」を、写真集にして多数出版もしていました。
    下にある写真は、日本軍の蛮行として使われた有名な映像ですが、実際には、殺害されているのが共産党員、殺害しているのが国民党兵士です。この映像の一部だけが切り取られて、あたかも日本軍が蛮行を働いたかのように宣伝されてきたのですが、映像の全体を見れば、国民党の兵士が共産党員を射殺していることが明らかです。

    チャイナの捏造写真73


    さて、国民党による共産党の大弾圧によって、毛沢東率いるチャイナ共産党は、勢力を落とし追いつめられました。
    ついに毛沢東は、チャイナの奥地の延安にまで落ち、あと一歩で完全壊滅という情況にまで至りました。
    中国共産党史では、この逃避行を毛沢東の「東征」などと勇ましい言葉で飾っていますが、とんでもない。ただ逃げ落ちていただけです。
    ちなみに延安に逃げ落ちるのは、誰がどうみても西の内陸部向かっての西行なのですが、これを「東征」と呼ぶのは、日本の「神武東征」から言葉を得たものといわれています。
    要するに昭和初期のチャイナの知識人たちにとって、日本はまさに理想の国であったわけです。
    ただ我々日本人からしますと、神武東征というのは、東に向かって正しきを行ったということです。
    ただ西に向かって逃げ落ちただけの毛沢東と、悪いけれど一緒にされたくない。

    ところが、この、彼らの言う「東征」で、皮肉なことが二つ起こりました。
    ひとつはソ連のコミンテルンから支給されていた共産主義革命のための費用です。
    共産党が追いつめられて勢力を落とすことによって、毛沢東は逆に予算面で余裕がでてきたのです。
    当然です。共産党軍の兵士たちや、革命のための工作員たちは、共産党から給料をもらっています。
    ところが共産党員が弾圧され、その多くが殺されれば、逆に人件費予算には余裕が出るのです。

    もうひとつは、チャイナ共産党狩りをする蒋介石にとっても、チャイナ共産党がチャイナから完全消滅することは、自らの利益(欧米からの補助金)を得られなくなるという事態を招いたことです。

    昭和11年(1936年)の時点で、チャイナ共産党は国民党の盛大な働きによって追い詰められ、チャイナの延安に毛沢東以下のごく少数が立てこもるだけの状況になっていました。
    ここに登場するのが満州から欧州に逃げていた張学良です。
    張学良は、親父の張作霖が築いた富と、数十名の美女を連れて欧州に逃げ、そこで親父の富である美術品などを欧州のVIPにばらまきながら、チャイナ共産党壊滅のための蒋介石への資金援助工作活動を行っていました。
    これにより、たとえば英国が100億円を出そうということになると、張学良は自分の取り分を引いて、残りを蒋介石に渡していました。

    ところがチャイナから共産党がいなくなると、もはや欧州各国から資金を得ることができなくなります。
    そこで張学良は、蒋介石を延安のすぐ近くの西安に呼び出し、そこで蒋介石を拉致したことにして、毛沢東、蒋介石、張学良の三者会談を実現しています。
    これが西安事件です。

    もともと蒋介石と、毛沢東や周恩来は、かつて孫文が大正13(1924)年に設立した黄埔軍官学校(こうほぐんかんがっこう)において、蒋介石が初代校長、そのときの学校の政治部副主任が周恩来、生徒の受験面接官が毛沢東という、いわば上司と部下の関係でした。
    互いに顔見知りだし、出身も同じチャイナの少数民族です。

    両者は西安において、互いに手を握りました。
    共産党が壊滅すれば、欧米列強諸国は、問題が解決されたとして、もはや蒋介石が用済みなのです。
    つまり、以後はお金が出なくなる。
    そうであれば、次のターゲットが必要になります。
    そして彼らが次のターゲットとして選んだのが、日本だったのです。

    もともとチャイナには、1901年の北京議定書に基づいて日本を含む欧米11カ国が、治安維持軍を駐屯させていました。
    ところが1918年から1920年にかけて、世界的にスペイン風邪が流行します。
    この風邪は、当時の世界の人口が20億人ですが、そのうちの5億人が感染し、1億人が死亡するというたいへんな影響力を持った風邪でした。
    スペイン風邪という名称は、たまたまこの風邪にスペイン王室の王子が感染したことがニュースになったことに由来するのですが、発生源はチャイナの武漢です。
    つまり当時のチャイナでは、この風邪の流行がたいへん危険な状況にあったわけで、このため欧米各国は衛生状態の悪いチャイナから軍の大部分を撤収させています。
    ところがこのときに、ほとんど感染者が出なかったのがチャイナにいた日本軍で、結果として欧州各国は、
    「あとは日本さん、よろしくタノム」ということなり、結果チャイナ国内の治安は、もっぱら日本が矢面に立たされるハメになってしまっていたのです。

    いまにして思えば、日本もこのときにサッサと軍を撤収していればよかったのです。
    何も他所の国の治安にまで日本が責任を持つ必要はない。
    けれども日本人は真面目なのですよね。
    何の野心もなく、ただ平和維持活動のために残された軍として、真面目にお勤めを果たしていたのです。

    けれども世界は腹黒い。
    このスペイン風邪のさなかに行われた第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議(1919年)において、日本は、よせばいいのに、世界に向けて「人種の平等」を高らかに宣言したのです。
    もちろん日本の主張は正しいことです。
    けれども、よせばいいのにというのは、当時の欧米諸国の経済的利益の源泉が、まさにその人種の不平等による植民地支配に基づいていたからです。
    ここもまた誤解している人が多いので補足しますが、500年続いた植民地支配というのは、有色人種を同じ人間とみなさないことによって行われていたものです。
    欧米では、神様と契約しているのが人間です。
    だから人間は、人間以外の動物を食べることができます。
    つまり神様と契約のない有色人種は、人間ではない、ただの動物であったわけです。

    それが500年続く世界の常識であった時代に、日本が人種の平等を言い出すということは、その人種差別によって経済的利益を受けているすべての欧米の大金持ちを敵に回すということです。
    つまり、1920年の段階では、日本は完全に欧米列強諸国にとっての敵国、もっというなら、彼らの経済的利益を脅かす最大のサタンとなったのです。

    そうした世界の趨勢にあって、蒋介石と毛沢東が争いを続けていたとしても、毛沢東が敗れたあと、蒋介石の利益の保証などなにもなく、また、毛沢東が死んでしまってチャイナ共産党が滅びれば、チャイナにお金を渡す国もなくなってしまう。
    それよりも、普通に誰がどう考えても、蒋介石と毛沢東が手を結び、欧米列強のために日本の軍事力を削ぎ落とすために一役買う方が、はるかに得策になるし、そのためなら西欧各国がチャイナにカネを出してくれると踏んだのです。

    こうして毛沢東と蒋介石が手を結びました。
    これが昭和11(1936)年12月の西安事件(せいあんじけん)です。

    もっとも最初から、これだけの話がうまく成立したわけではありません。
    この頃「西安」には、地方軍閥である楊虎城(ようこじょう)がいたのですが、この男は、蒋介石も毛沢東もどちらも嫌いで、あくまで自分たちは西安で独自の軍閥でいようと粘っていました。
    この時点で「延安」に立て篭る八路軍(チャイナ共産党軍)は、この時点の兵力がわずか7万です。
    国民党は兵力210万。その中の20個師団と100機を越える航空機を投入すれば、あっという間に延安を殲滅できる。
    蒋介石には、さあ最後の大戦(おおいくさ)だという状況でした。

    ところが、そのための軍の進出地となる「西安」の楊虎城が、協力を拒みました。「ヤダ」というのです。
    しかも楊虎城は、共産軍と相互不可侵協定まで結んでしまいます。
    せっかく延安にまで共産党を追いつめたのに、最後の最後で、拠点の確保ができない。
    そこで蒋介石は、わずかな供回りだけを連れて、12月4日に「西安」の楊虎城に会いに行った・・・と、こういう演出のもとに、張学良が蒋介石を12月12日に銃撃戦をして蒋介石を拉致したことになっています。

    これが演出された拉致演技であったことは、蒋介石の妻である宋美齢と、その宋美齢が尊敬し敬愛してていた実兄の宋子文も同様に毛沢東らとの会談に参加していることでも明らかです。
    そしてこのときの話し合いの結果、宋美齢と宋子文は、渡米して米国内の工作活動に従事するするのです。

    西安事件によって次の8項目が合意され、蒋介石は表向きは従来通り共産主義との対立路線でいながら、水面下で毛沢東の共産党と手を握ることになりました。

    【西安事件による八項目合意事項】
    1 南京政府の改組、諸党派共同の救国
    2 内戦の停止
    3 抗日七君子の釈放
    4 政治犯の釈放
    5 民衆愛国運動の解禁
    6 人民の政治的自由の保証
    7 孫文遺嘱の遵守
    8 救国会議の即時開催

    これらの項目は、あくまでも表面上のものです。
    チャイナでは、古来、本音は裏にある。
    読み解くキーワードは、資金源です。
    上の1〜8のどの項目も、お金がかかるだけで、入ってくる策がありません。
    そしてお金が出ていくだけの合意というのは、チャイナではありえないのです。

    つまり、国民党と共産党が共同して日本を叩く。
    それによって、そのための資金を欧米諸国から得る、ということが、裏側にあったわけです。

    こうしてその半年後にあたる昭和12年7月7日に起きたのが「盧溝橋事件」です。
    この事件は、北京近くの盧溝橋のあたりで実弾も持たずに演習中だった日本軍めがけて実弾が発射され、これに合わせて近くにいた国民党軍にも実弾が撃ち込まれたという事件で、普通なら、これで両軍が大衝突を起こしたところです。

    実際、チャイナ共産党は、これで日本軍と国民党軍が大衝突を起こし一気に戦乱の火ぶたが気って落されると信じ込んで、この翌日には早々に、「日本と衝突が起きた。全軍は愛国心を結集して断固日本軍に立ち向かうべし」という「俗称78通電」を公式に発しています。

    ところがこの電文の内容を見ると、最初の発砲ですぐに両軍が衝突したと書かれています。
    実際には、発砲を受けても、日本は戦乱を回避するために、一切の反撃をしないで、じっと我慢をしていました。
    ということは、何を意味しているのかというと、この78電文は、事前に準備してあった計画電文だったということです。

    しかも日本は、盧溝橋にいた国民党軍と交渉を重ね、7月11日には現地の国民党軍司令官の宋哲元との間で現地停戦協定を結んでいます。
    この現地停戦協定は、「松井・秦徳純停戦協定」と呼ばれるもので、その内容は、
    1 国民党軍が日本軍に遺憾の意を表して責任者を処分すること
    2 将来このような事件が再発しなようにすることを声明すること。
    3 国民党軍が盧溝橋城郭付近から撤収すること
    4 抗日団体を取締ること
    等々、その内容は、全面的に国民党側が非を認め、現地から撤収するという内容です。
    要するにチャイナ共産党の意に反して、7月11日には、現地で事件がまるく解決してしまったのです。

    蒋介石にしても、毛沢東や周恩来にしても「まったく宋哲元は何を考えているのか!」と、忸怩(じくじ)たる思いであったことでしょう。
    そこで、なんとかして日本とチャイナ国民党を激突させるためにと仕掛けたのが、7月25日の「廊坊事件」であり、26日の「広安門事件」であったわけです。

    盧溝橋事件にせよ、廊坊事件にせよ、広安門事件にせよ、いわば騙し討ちで10倍する兵員で日本に対して戦闘をしかけてきた事件です。
    これだけで、日本はチャイナと開戦するに足る十分な理由となる事件です。

    実際、第一次世界対戦にしても、第二次世界大戦にしても、ほんのわずかな衝突が、世界を巻き来んだ大規模簿な戦争に発展しています。
    日本には、この時点でチャイナに対して大規模な軍事的攻撃を仕掛け、徹底してチャイナを撲滅するだけの十分過ぎるくらい十分な理由となる事件だったのです。

    ところが日本はまじめです。
    自分たちは平和維持のために派遣された軍隊だという自覚があります。
    ですから、日本軍の側に被害が生じても、それでも戦闘を避けようとします。
    日本は、明らかに開戦理由となる事件が起こっても、チャイナの兵士たちを蹴散らしただけで、それ以上の追撃戦、掃討戦をしなかったのです。

    これでは、「日本と国民党軍の衝突」など、到底起こりません。
    挑発をして日本が誘いに乗って軍事行動を起こしてくれれば、チャイナは「日本に侵略された」といって、欧米に資金援助を申し出る理由ができるのです。

    けれども日本軍をいくら刺激しても、戦争にならない。
    それなら、ということで、民間人を虐殺しようということで起きたのが、同年29日の「通州事件」であったのです。

    この日の午前2時、突如、Chineseたちが北京郊外50キロの地点にある通州にいた日本人居留民385名を襲撃しました。
    そして223名の日本人居留民が、きわめて残虐な方法で虐殺されました。
    女性はほとんど強姦されて殺害されました。

    =======
    旅館の近水楼では入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた。
    帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。
    女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。
    カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。
    南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた
    (第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言 中村粲 『大東亜戦争への道』展転社)

     *

    私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。
    20名はほんの子供のような少女だった。
    家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。
    空中にぶらぶらされる拷問である。

    共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
    日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供たちの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

    それは1937年7月29日の明け方から始まった。
    そして1日中続いた。
    日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。
    家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。
    それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。

    酷いことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、殆どの場合、男女の区別も付かなかった。
    多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。
    水は彼らの血で赤く染まっていた。
    何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。
    中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

    これは通州のことである。
    古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されるだろう。
    この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。
    しかし120人は逃げおおせた。
    犯され殺された者の多くは子供であった。

    この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。
    中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。
    目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。
    アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった。

    (中略)

    こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む6万人の中国人は平和に生活していた。
    彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。
    私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。
    他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。」
    (フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕 -日中戦争の真実-』)

    =======

    では、この通州事件のあと、日本はいったいどうしたのでしょうか。
    世界中の誰がどうみても、世界史に類例のない残虐非道な事件です。
    それこそ北朝鮮ではないけれど、日本は「容赦ない無慈悲かつ徹底した鉄槌を」くだしても、なんら咎められる筋合いはありません。

    ところが日本がとった行動は「それでも開戦を避ける」でした。
    この事件のあとの会議では、日頃意見が衝突しがちな陸軍、海軍それぞれの首脳も、当時の内閣も、全会一致で、それでも戦争を避けようという意見で一致しています。

    なぜでしょう。
    理由は簡単です。
    当時の日本の陸軍兵力は最大で25万です。
    これに対して、チャイナ国民党は210万です。
    さらに南下を狙うソ連は160万の大軍を東亜攻略に準備しています。
    日本が自立自尊を護り抜くには、チャイナとはむしろ仲良くし、本当の脅威であるソ連に備える必要があったのです。

    加えて、日本がなぜチャイナに軍を進出させていたかといえば、それはチャイナに平和をもたらすためです。
    その平和をもたらす使命をもって派遣している日本の兵が、チャイナで報復のための戦いをする、チャイナを戦乱のルツボに叩き込むというのでは、本末転倒です。

    日本は、日本政府の意思として、8月4日に、Chineseたちにたいへん信頼が厚い元外交官で実業家の船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて蒋介石に、きわめて寛大な和平を働きかけました。
    なぜ寛大かというと、通州事件という未曾有の厄災を受けていながら、日本はその加害者であるチャイナに対して、
    「あながたのこれまでの日本に対する要望を
     すべて受け入れるから争いはやめよう」
    と働きかけたのです。

    これが「船津工作」です。
    骨子は次の通りです。

    (1) 塘沽(たんくう)停戦協定、梅津・何応欽(かおうきん)協定、土肥原・秦徳純協定など、日本に有利な北チャイナに対する軍事協定をすべて解消する。
    (2) 非武装地帯を作る。
    (3) 冀東・冀東政権を解消し、南京政府の下に置く。
    (4) 日本駐屯軍の兵隊は以前と同じ状況に戻す。

    この4項目が何を意味するかというと、その時点でチャイナ国民党が日本に対して希望していたすべての条件を丸呑みする、というものです。
    通州事件のみならず、盧溝橋、廊坊、広安門の各事件の賠償さえ要求していません。
    223名の邦人が大虐殺されるという被害に遭いながら、いっさいの賠償請求もせず、日本は、逆にチャイナの希望要求を、全部飲むという条件を提示したのです。

    全部飲むのです。
    そうなれば、もはや、チャイナが日本を敵視し攻撃する理由など、何もなくなります。
    そうなれば、当然に、チャイナと日本との軍事的衝突も回避され、亡くなられた方々にはお辛いかもしれないけれど、結果としてその命が、両国の平和、それ以上に、チャイナの未来永劫の平和な社会建設のために役立つなら、それがいちばん良い解決の道だ、日本はそう判断したのです。

    そしてこの船津工作は、8月9日は、上海市内で、日本と国民党双方の代表団が集い、相互に調印を図る段取りとなりました。

    ところが、その当日に、上海で大山中尉虐殺事件が起こります。
    海軍の上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉(死後大尉に昇進)が、斉藤要蔵一等水兵の運転する車で移動中に、チャイナ国民党の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて死亡したのです。

    自動車のわきにあった大山中尉の遺体は、多数の機関銃弾を受けていただけでなく、ご丁寧に頭を青竜刀で割られていました。
    斉藤一等水兵は運転台で多数の銃弾を受けて死んでいます。

    この事件の発生によって、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破算になりました。
    そしてこの1週間後に起きたのが、第二次上海事変です。

    蒋介石が、この通州事件の成功によって欧米から得た利益です。
    英国は1939年に1000万ポンド(現2500億円)、1940年に1000万ポンドを蒋介石に貸与しました。
    フランスは1938年に1億5000万フランを貸与、1939年に9600万フランを蒋介石に無償援助しました。
    ソ連は1937年に航空機900、戦車200,トラック1500,銃15万、砲弾12万発、銃弾6000万発を蒋介石に提供し、1939年には1億5000万ドルを援助(現6400億円)し、さらにソ連空軍が密かに参戦しています。おそらく毛沢東にもそれ以外にかなりの額の援助をしていたことでしょう。
    米国は1927〜41年に4億2000万ドルを無償援助、1940年に50機の新鋭戦闘機、装備、武器、弾丸150万発を援助、1941年に100機の戦闘機を援助、259名の米空軍パイロットを義勇兵の名目で中国空軍に参戦(フライング・タイガース)させ、さらにトラック300台と5000万ドル分の軍事物資を供与して、米軍事顧問団を派遣、また、500機のB-17爆撃機を援助しています。

    要するに、チャイナ全土から兵を徴集して銃を持たせ、日本と戦っているフリさえしていれば、これだけ多額の、兆の桁の資金を、蒋介石は得ることができたのです。
    もちろん毛沢東も同様であったことでしょう。

    「日本がチャイナを侵略した」という人がいます。
    けれど歴史を冷静に振り返ってみれば、日本は北京議定書に基づいて、いわば現代で言うところの国連PKO部隊と同じカタチでチャイナに軍を派遣していたのです。
    それを一方的に襲い、戦乱へと導こう導こうとしたのは、日本ではありません。

    通州事件などの一連の事実を振り返る時、つくづく「世界は大金持ちの個人の利害得失で動く」ことを思い知らされます。
    ごく一部の人の金儲けと贅沢のために、一般の民衆が国籍を問わず、財を奪われ、虐殺される。
    民衆は人でなく、ただの家畜でしかなく、実際そのように屠殺までされる。
    だからこそいま、日本のシラスという概念が世界に必要とされてきているのです。


    ※この記事は2014年7月の記事にかなりの手を加えて書き直したものです。
    これまで通州事件は、チャイナの共産党が裏で糸をひいたといわれてきましたが、この投稿では、すべてはカネ目当てであったのだという説を取っています。いろいろな本を読ませていただき、いまは、この「カネ目当て説」がもっとも真実の歴史に近いと思っています。


    かがやく日本に!

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  • チャイナの戦争宣伝の内幕


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    詳細 → https://www.facebook.com/events/645762524090656
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    『日本の戦争犯罪に加担しているアメリカ』という小冊子が昭和13年に刊行されました。
    「China政府が和平のための努力をしたにもかかわらず、日本の軍事政権は北京郊外で、盧溝橋事件を起こした」という荒唐無稽な内容ですが、米国政界に大きな影響を与えました。
    この荒唐無稽な主張を書いた小冊子を編集発行したのは、「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」という名の団体です。
    そしてこの団体には、ヘンリー・スティムソン(元国務長官、後陸軍長官)、ロジャー・グリーン(元在漢口アメリカ総領事)、ハリー・プライス(元北京大学教授)、マーガレット・フォルシス(YWCA北米同盟)、フランク・プライス(在中宣教師)、アール・リーフ(元UP中国特派員)、ジョージ・フィッチ(中国YMCA主事)、ヘレン・ケラー(作家)、マクスウェル・スチュワート(『ネイション』副編集長)、フィリップ・ジャッフェ(『アメレジア』編集長)など、政界とメディアの大物がズラリと顔を揃えました。

    20180627 上海の阿片窟 1901年
    20180627 上海の阿片窟
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    日本をかっこよく!

    米国人のラルフ・タウンゼント(Ralph Townsend)は、1900年(明治33年)生まれで、戦前のChinaに外交官として赴任した人です。
    この人が書いた本の日本語訳が出版されています。
    たいへん興味深い内容です。
    『暗黒大陸 中国の真実』ラルフ・タウンゼント著


    以前、義和団事件(1900年)を題材にしたチャールトン・ヘストン主演の映画『北京の55日』のご紹介をしたことがあるのですが、この映画を見たあるご年配の方が、
    「当時のChineseには、あんなに太っている奴なんていなかったよ。」
    とおっしゃられていました。
    清朝末期、国が荒廃する中で、誰もが餓え、貧困のどん底にいた時代です。
    とりわけ圧倒的多数を占める低所得者層の生活は悲惨を極めていました。

    そんな時代の、Chinaの光景が、このタウンゼントの著書には詳しく述べられています。
    そしていまではChinaは豊かになったとはいえ、その精神構造は、当時と何も変わっていない。
    そのことを、この本は私達に教えてくれます。

    すこし刺激が強いですが、たいへんな良書です。
    以前にもご紹介しましたが、そのなかの一部を抜粋してお届けしてみたいと思います。

    ******
    屎尿(しにょう)はどう処理をするのか。
    家の中に大きな石のカメがあり、これに用をたす。
    これをとっておき、農家や仲介業者に売る。

    華北では、営業許可を得た農家や業者が毎日のように、呼び声高らかに、手押し車や荷馬車を引いて、華南では、天秤棒に桶を二つぶらさげて買いに来るから良いが、内陸部の田舎はひどい。
    客室と同じ棟に巨大なカメがデンと座っている。

    なかなか処理しないから、慣れない客はたいへんだ。
    脱臭剤など見たことも聞いたこともない。

    都市部から田舎へ向かう屎尿買い付けの長い列が続く。
    写真で見ると実に素晴らしい。
    見渡すかぎりの田舎道、山道を、桶を二つぶらさげた天秤棒を担いで、何千という人間がのろのろ歩いていく。
    古くなって中程がへこんだ屋根の家や、灰色の竹と日干レンガのあばら屋などがごちゃごちゃした中に、高くそびえる塔がひとつ、ふたつ見える街から集めた屎尿を畑に撒きに行くのである。
    伝統的な畑造りである。

    華南では、担ぎ手は大抵が女で、痩せてはいるが足腰は強く辛抱強い。
    年嵩の女連中は、荷物で重くなってキーキーいう竿(さお)にあわせて掛け声をかける。
    決まったようにくるぶしと膝の中ほどまでの黒い木綿のズボンをはき、よほど暑くない限り何もかぶらない。
    上着は何度も洗うから、色落ちしている。
    足は裸足である。

    若い娘の中には目もと明るい美人もいる。
    また、赤いヘアバンドをしている者もいる。
    これは人妻の印である。
    ぽっちゃり型で元気であるが、歳をとるのが早いから、すぐに歯が欠け、おばあちゃんになる。

    街の市場で買い物をする者がいる。
    魚一匹、田舎では買えない野菜一束等である。
    これを桶の側にぶらさげるから、糞尿がかかる。

    手押し車や荷車で市場に野菜を運ぶ者がいる。
    前日、糞尿を入れた同じ桶に入れてなんとも思わない。
    まして糞尿がかからないように包もうなどとは、まったく考えない。

    彼らは伝染病が流行るときは大変だ。
    流行に一役買うことになる。
    屎尿を桶にめいっぱい汲んで蓋をしない。
    毎日通る道をヌルヌルに汚して、全く気にしない。
    そこで遊んだ子供や犬や豚が、バイ菌を家に持ち込むのである。

    写真で見たらきれいな田舎の風景ではあるが、現実はきれいごとでは済まされない。
    街から集めた屎尿を水で薄め、作物に撒き、家族総出で一日中、土になじむように裸足でこねまわすのである。
    真夏の強烈な日差しに照らされると、美しい田園風景どころではない。
    一面、悪臭で息もできなくなり、一度足を踏み入れたら、必ず具合が悪くなる。


    (『暗黒大陸 中国の真実』82ページ)
    *******

    タウンゼントは米国人で、米国務省に入省し、昭和6(1931)年に上海副領事としてChinaに赴任しています。
    満州事変に伴う第一次上海事変を体験し、その後福建省に副領事として赴任したあとに、昭和8(1933)年に米国に帰国してこの本を出版しました。

    タウンゼントは親日派の言論を展開したために、大東亜戦争開戦後にまる1年間投獄されてしまいました。
    もし当時の米国がChinaの買収による宣伝工作に乗らず、冷静かつ客観的にタウンゼントの言をいれて東亜政策を推進していたのなら、おそらく日華事変も大東亜戦争も起きなかったといわれています。
    またその後のChina国民党とChina共産党の争いもなく、China共産党による1億人規模の虐殺も起こらなかったことでしょう。

    辛亥革命は、清朝の王都である紫禁城内にあった清王朝の所有する財宝類を、まるごと奪い去りました。
    清の最期の皇帝である愛新覚羅溥儀に残されたのは、古くなった自転車1台と着ている服一着だったそうです。
    それ以外は、すべて略奪されました。
    その略奪された財宝は、値段のつけれないような高価な品々ばかりでした。

    当然のことですが、貧しい当時のChinaでは品物の捌きようがありません。
    そこで蒋介石は弟をヨーロッパに、妻の宋美麗を米国に派遣して、これらの財宝類をメディアや政治家たちにばらまきました。
    また国民党が日本に勝利した暁にはと、China国土の欧米への切り売りの空手形を大量に発行していました。

    蒋介石および妻の宋美齢の三姉妹は、いずれもChinaのある家族集団の出身です。
    その集団は、古代の周から春秋戦国時代の王族の末裔といわれています。
    不思議なことに、この集団の数詞は、北京語の「イーアルサンスー」ではなく、どういうわけか「いちにさんし」です。
    そして語順もまた日本語と同じ「主語、目的語、述語」の順です。
    この集団は、長い歳月、中原を追われてジャングルなどの僻地に家族集団でドーナッツ状の巨大家屋を造って、その内側だけで生活をしてきました。

    欧米列強が清国の植民地化にやってきたとき、彼らの植民地支配には特徴があって、欧米人にはChina語はわかりませんから、現地にある迫害された(とされる)少数民族に特権を与えて、彼らを手先として利用して、その国の簒奪を行いました。
    このとき、英国の手先となって、英国の東インド社のアヘン売買を一手に担ったのがその家族集団でした。

    英国のアヘンは人気が高く、当時は麻薬としての扱いは受けておらず、民間の治療薬として、一時的に戦闘によって得た痛みも消す効果があって混迷が続いて暴力が支配したChina国内でたいへんな人気となりました。
    またアヘンは性交に用いると男女ともに腰が抜けるほどの快楽を得ることができるのだそうで、そのあたりもアヘンの人気に一役買ったと言われています。

    ところが日本軍が統治するところでは、アヘンの密売が規制され、しかも日本軍は、他の国々の軍と違って、彼らの得意の買収戦略もまったく効き目がありません。
    当該家族集団にとっては、日本軍は「彼らのアヘンでの金儲けのための市場を奪い取った侵略者」であったわけです。
    実はこれが、いまなお日本軍が侵略軍だと呼ばれる真の理由です。

    国民党も八路軍も、そのトップはその家族集団です。
    彼らは民族の異なる漢族等を操って日本軍への交戦を仕掛けるのですが、圧倒的に数が少ないはずの日本軍が、やたらと強い。
    それは、沿道に2万のトーチカを設置し、ドイツ式の最新型の武器を揃えて20倍の戦力を持ってしても、日本軍が勝ってしまうほどでした(第二次上海事変)。

    あまりに負け続けるところに、一方で欧米では、代々続く植民地の支配層の貴族や、その貴族らをスポンサーとする政治家たちにとって、日本は、東亜における植民地解放や、人種の平等を高らかに主張するので、建前上は口には出せないけれど、今風に言うなら、ウザい存在でした。

    そこで彼らは満州事変で追われた張学良を用いて欧米で清王朝の財宝をバラまいて欧米のVIPを味方に付け、さらに米国にはその家族集団の女性を派遣して、対日排斥運動をはじめました。
    先進諸国では、著名人はいたずらに女性に手を出すことができません。
    そこでカネと財宝とチャイニーズの美人女性を使って、彼らは著名人の籠絡を始めました。

    彼女たちは昭和13年に『日本の戦争犯罪に加担しているアメリカ』という小冊子を刊行し、
    「1937年7月、China政府が和平のための努力をしたにもかかわらず、日本の軍事政権は北京郊外で、盧溝橋(Marco Polo Bridge)事件を起こし、これを利用してChinaへの全面的な侵略を開始した」という、荒唐無稽な主張を展開しました。

    この荒唐無稽な主張を書いた小冊子を編集発行したのは、「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」という名の団体です。
    荒唐無稽な主張など、客観的事実に対して無力だろうなどと考えるのは、世界の中でお人好しの日本人くらいなものです。
    その荒唐無稽な主張に色とカネが着いてくるのです。
    しかも、一度籠絡されてしまえば、その後は云うことを聞かなければ殺されます。
    まさにアメとムチなのです。

    結果この団体には、ヘンリー・スティムソン(元国務長官、後陸軍長官)、ロジャー・グリーン(元在漢口アメリカ総領事)、ハリー・プライス(元北京大学教授)、マーガレット・フォルシス(YWCA北米同盟)、フランク・プライス(在中宣教師)、アール・リーフ(元UP中国特派員)、ジョージ・フィッチ(中国YMCA主事)、ヘレン・ケラー(作家)、マクスウェル・スチュワート(『ネイション』副編集長)、フィリップ・ジャッフェ(『アメレジア』編集長)など、政界とメディアの大物がズラリと顔を揃えました。

    そして小冊子には、ルーズベルトも寄稿して、
    「宣戦布告もなく、いかなる種類の警告も弁明もなく、女性や子供を含めた民間人が空から降ってくる爆弾によって虐殺されている」
    と書き、またパール・バック女史は、
    「世界のためを考えるならば、
     日本とChinaとどちらが勝者になってくれるのが好ましいだろうか。
     Chinaが勝ってくれる方が、はるかに世界の利益に叶うように私には思われる。
     日本が勝ったならば、
     一等国に成り上がるばかりでなく超大国となって、
     東洋全体を掌中に収めるであろう。
     日本はさらにプライドを高めて
     なお一層の征服に乗り出すであろう。」
    と書き立てました。(史実を世界に発信する会・資料より)

    そして米国の民衆のほとんどすべては誰も日本との戦争など望んでいなかったにも関わらず、これが米国の「世論」ということになって、ルーズベルトは日本を開戦へと追い込んでいくことになるわけです。
    パール・バック女史は知りませんが、このとき、他の男性の米国要人のもとには、かなりの数のChinese女性が献上されたといいます。
    こうして、なんと宋姉妹の工作活動は、スタートからわずか一年後には、米国の対日通商条約破棄という暴挙に至り、その3年後には、ついに真珠湾攻撃に至るわけです。

    我々日本人は、スパイというと、007や忍者のイメージで、裏の世界でうごめく人を想像しがちですが、世界的な大スパイというのは、世間でも名の通った大物です。
    そもそも影響力のある人であり、それなりのカネとヒトを動員できる人でなければ、工作などできないのです。
    当然のことです。

    よく、日本はChinaの宣伝工作によって追い詰められたという話を聞きます。
    しかし宣伝なら、戦前の日本もしていたのです。
    しかし、ただ宣伝したり、オフィシャルな正論を展開する日本に対し、Chinaはあらゆる非合法手段を駆使して、目的を遂げようとしました。

    いまでもChinese美女が工作のために要人の夜の同伴をするということが行われるのだそうですが、それら美女はChina中から集められ、言うことを聞かなければ見せしめのために彼女たちが見ている前で、言うことを聞かない女性は処刑されます。
    さっきまでこぼれるような笑顔が自慢だった女性が、形がなくなるまで機銃掃射をあびて五体バラバラにされるのです。
    その様子を目の前で、他の女性達が見せられる。
    言うことをきけば、ありとあらゆる贅沢が与えられ、聞かなければ残酷な処刑が待っている。
    今も昔も変わらぬ、アメとムチの巧妙な使い分けがそこにあります。

    個人的に、人を利用主義的に利用するということは、するのもされるのも絶対に受け入れられません。
    人は、誰もが対等であり、おほみたからであり、安心と安全と、互いのよろこびや幸せのために自分なりに誠実をつくすことが大事なことだと思います。

    なぜなら日本人にとって正義とは、多くの民衆が豊かに安全に安心して暮らせることです。
    このことは、日本が古来、民衆を国家最高権威である天皇の「おほみたから」としてきたことに由来します。
    民衆が国家最高権威の宝なのですから、その民衆に利益があることが正義なのです。

    ところが世界には天皇の存在はありません。
    ですからどこの国でも、どこの民族でも、上下の支配構造が秩序であり、正義です。
    上がどんなに間違っていても、上に従うことが正義であり、従わないことは悪だということになります。
    ですから上に立つ人にとって、下の人を利用主義的に利用することは正義です。
    正義の根本概念が違うのです。
    日本人の常識は、世界の常識ではないのです。

    それからもうひとつ、上にご紹介した『暗黒大陸 中国の真実』にあった「糞尿を作物の肥料として活用する」ことは、日本でもごく普通に行われていたことです。
    ただ、日本では、Chinaのように回収した糞尿をそのまま畑に蒔くのではなく、深い穴の肥溜めに糞尿を入れ、そこで発酵させて良質な肥料にして畑に撒きました。

    発酵させて畑に撒いた方が衛生的でもあるし、肥料としても役立つのです。
    ところがChinaでは、直接畑に撒いて、裸足で土とこねました。
    どうしてそのようなことになったかというと、畑はいつ暴徒たちに襲われて、作物を根こそぎ持っていかれるかわからなかったからです。
    ですから深々と肥溜め用の穴を掘って肥を発酵させることもできないし、仮に掘っても、万一そこに暴徒の誰かが落ちようものなら(昔は日本でも子供などがよく落ちたものです)、報復のために一族全員皆殺しに遭いかねなかったのです。
    哀れといえばとんでもなく哀れなことですが、人が人を支配することが正義とされるウシハク国では、それが社会の常識なのです。

    女性の服装が、綿でできた黒の半長パンツと、何度も洗いざらして色の抜け落ちた上着しかなかったというのも、同じ時代の日本が、相当、貧しい人達であっても、現実にもう少しましな服装をしていたことを考えれば、いかにChinaの民衆が虐げられていたかわかります。

    Chinaが貧しかった理由のひとつに、作物の収量に対して人口が多すぎる、という問題がありました。
    そこで昭和初期に、日本で従来の品種の5倍もの収量のある小麦(農林10号)を開発した稲塚権次郎博士が、この小麦をChinaに持ち込み、終戦後もまる二年Chinaにとどまって、その栽培指導をし続けました。
    これは蒋介石の依頼があってのことです。

    Chinaでは、日本からもたらされた新種の小麦によって、小麦の収量がいまでは当時の3倍になっています。
    「これで、みんなが腹いっぱい食えるようになり、民度もあがるだろう」というのは、日本人の甘い見通しでした。
    Chinaでは小麦の収量が増えた分、そのまま人口が増えました。
    大東亜戦争開戦前のChinaの人口は4億5千万人です。
    それがいまでは15億人です。
    そしてその多くは、年間所得が30万円にも満たない貧しい人々です。

    いかなる道徳も、社会システムも、それは人間が作るものです。
    これはとても大事なことです。
    「いかなる道徳も社会システムも、人間が作ったもの」なのです。

    その道徳や社会システムが歪んでいれば、人間は弱肉強食の動物と同じになります。
    人間に危害を加える動物たちがひしめきあっているところには、人間は近づかないのが、実は一番良い。

    セオドラ・ルーズベルト・ジュニアは、米国の第25代副大統領であり、第26代大統領、そして大東亜戦争開戦時の第32代米国大統領であるフランクリン・ルーズベルトの遠縁にあたる人です。
    そのセオドラ・ルーズベルトの奥さんが、昭和12(1937)年10月にChinaの視察から帰ってきて、『サタデー・イブニング・ポスト誌』に、婦人が実際に見た事実を述べています。

    ******
    突然私達は叫び声を聞いた。
    それは不機嫌なわめき声に変わっていった。
    私達のすぐ下で、ひとかたまりの群衆が激怒した暴徒と化し、大声で叫びながら、5人の日本人を追っていた。
    4人はうまくバスの中に逃げ込んだ

    奇妙だが、中国人は日本人を引きずり出そうとしなかった。
    ひとりがよろけて落ちた。
    彼らはそこに襲いかかった。

    それから彼は、血だらけになるまで蹴られた。殴られた。踏みつけられた。
    肋骨が折れ、顔がどろどろと血まみれだった。

    そこに白いターバンのシーク教徒の交通警察官が南京路の交差点からムチを持ってやってきて、暴徒をうさぎのように追い散らした。
    それから救急車を呼んだ。
    暴徒がまた集まってきた。
    あきらかにやり返しに来たのだ。

    私はあの日本人が死んでいると確信した。
    しかし、担架に乗せられたとき、彼の手が動くのを見た。

    (『中国の戦争宣伝の内幕』ウイリアムズ,フレデリック・ヴィンセント著 p.34~35)
    ******

    貧しいChinaの民衆に同情し、彼の国で農業指導や教育などにあたった結果がこれです。
    そしてセオドラ・ルーズベルトの奥さんが、この事件の目撃をしたのは、通州事件などが起きたあと、そして日本軍によって南京城にいた国民党が追い払われ、南京の治安が回復した直ぐ前の出来事です。

    そして、そういう性質を持ったChineseたちが、いま、南シナ海に軍事施設を作っているだけでなく、東シナ海にも海上ヘリポートを建設しています。
    その場所は、尖閣諸島のすぐ近くです。
    そして日本国内には、人民解放軍の兵士達がウヨウヨいる状況です。

    Chineseが全部悪いと言う気はさらさらありません。
    そういう意味での差別には断固反対です。
    まともな人もたくさんいるからです。

    ただ、同じ日本人同士の親しい友人であっても、やはり、違いはあるものです。
    早い話が、隣の家と我が家では、家風が違います。
    ましてや国や民族や言語が違えば、その風俗習慣も、歴史伝統文化も、まるで異なるものであるのは当然です。
    それを、あたまから「日本人と同じ」として、違いを理解したり区別したりすることさえも否定してしまうのは、それこそ、むしろ傲慢というものです。

    他国には、他国の文化があるのです。
    たとえば南洋のある島では、男性同士が親しくなった時、たがいの下半身を撫で合うという習慣をもった民族がいるそうです。
    普通の日本人なら、まさに「たまげて」しまいそうな風習ですが、彼らにとっては、それはそれで意味のある立派な風習です。
    日本式の礼がただしくて、その民族の礼は間違っているなどと、どうして決め付けることができるのでしょうか。

    アフリカには、親しみを込めた挨拶に、たがいに唾をかけあうという風習をもった民族があります。
    これまたびっくり仰天ですけれど、彼らにしてみたら、体を接してキスをすることのほうが、よっぽど異常に思えるのだそうです。

    日本人はよく風呂に入りますし、温泉とか大浴場とか大好きです。
    けれど、国や民族によっては、風呂もシャワーも、一生に何度か経験する程度という民族もあります。
    おとなりのChinaでは、民衆は起きているときの服装のまま寝るのがあたりまえです。
    パジャマに着替えるということが、奇妙に思えるそうです。
    危険が迫った時に、着替えなければ逃げることができないからです。

    民族ごとに、違いがあります。
    だから国境があります。
    「違いがある」ということを、ちゃんと認識して、お付き合いをする。
    そこにある程度の距離感は、これはむしろ人間関係を円滑にしていくのに、必要なことです。
    なんでもかんでも受け入れれば良いというものではないのです。


    参考図書(お薦め本です)
    『暗黒大陸 中国の真実』ラルフ・タウンゼント著
    『中国の戦争宣伝の内幕』ウイリアムズ,フレデリック・ヴィンセント著


    ※この記事は2018年6月の記事のリニューアルです。
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    日本は、どこまでもチャイナの平和と安定を願いました。
    だからこそ、ここにきてなお、事件の不拡大方針を採りました。
    それが果たして良いことであったのかは、はなはだ疑問でした。

    20160723 広安門事件
    画像出所=http://dainipponteikokubook.blog.fc2.com/blog-category-8.html
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    日本をかっこよく!

    86年前の今日、つまり昭和12(1937)年7月26日に北京で起きたのが「広安門事件(こうあんもんじけん)です。
    昨日の廊坊事件は、26日の朝には鎮圧されるのですが、続いて翌日にはこの事件が起きています。

    この日北京にいた日本人居留民の保護のために、日本陸軍のチャイナ駐屯歩兵第二連隊第二大隊(約千名)が、26台のトラックに分乗して、北京城内の日本軍の兵営に向かいました。
    このときも廊坊事件同様、事前に松井特務機関長が、部隊が北京城の広安門を通過することを国民党の政務委員会に連絡し、秦徳純市長の承諾をちゃんと得ています。

    すこし補足します。
    本来なら日本は国際条約である北京議定書に基づいて駐屯しているのですから、チャイナ側に通告する義務はありません。
    当時のチャイナには複数の「政府」を名乗る連中があり、それぞれが軍を持っていました。
    なかでも蒋介石率いる国民党は、当時のチャイナにあって最大の軍閥であり自称政府ではありましたけれど、政府といいながら民政のための行政機構を持っていません。
    つまり、蒋介石の国民党もまた、ただの軍閥でしかなかったということです。
    ちなみにチャイナにおいては、今も昔も軍と警察とヤクザと暴徒は同じものです。

    それでも日本は、日本人の常識として「他所の国で兵を動かしているのだから」と、国民党に配慮しています。
    これは日本人の対等感としての常識からすればあたりまえのことですが、チャイナの常識ではありません。
    なぜならチャイナには上下関係しかないからです。
    許可をする人、される人がいれば、許可をする人が「上」になります。
    日本側が許可を申し出れば、あちらさんは、「日本人は我々の下アル」としか考えないし、上にある者は、下の者に対して何をしても良いというのが、彼らの文化です。

    ですから本当なら日本軍は、高圧的に彼らを徹底弾圧していた方が、結果としては彼らに無用な乱暴を防ぐことができたのです。
    広安門通過に際しても、許可など得ず、堂々と通過し、文句を言ってきたり、発砲でもされようものなら、徹底殺戮して言うことを聞かせるといった行動をとっていれば、日本はむしろ安泰だったかもしれない。

    実際、北京議定書に基いてチャイナに駐屯していた西欧10カ国はすべてそのようにしています。
    だから彼らは襲われなかったのです。

    ところが日本人には、これが理解できないし、したいとも思わない。
    どこまでもChineseを愛し、Chineseたちを人として対等に扱ったのです。
    だからこそ、広安門でも、事前通告までキチンとしていたのです。

    無政府状態の荒廃地となっていたチャイナへの派兵です。
    各国の軍は、各国の都合で動けば良く、それに対してチャイナの軍閥が文句を言って来たら(彼らの国では軍とヤクザと暴徒は同じものなのですから)、火力にものを言わせて蹴散していました。
    そのために、米英などは、チャイナに駐留している自国民1名につき、1名の軍を派遣しています。
    そして言う事を聞かなければ、徹底して攻撃しています。

    これに対し、日本の派遣部隊は、日本人居留民6名につき、軍人が1名の割合です。
    あきらかに欧米と比べて軍の派遣要員数が少ないことに加え、同じ有色人種に常に公明正大であるべきという姿勢から、Chineseたちに対して非道を働くものさえ、まったくありませんでした。

    日本軍は、午後6時頃、広安門前に到着しました。
    ところが、事前に告知してあったにも関わらず、彼らは城門を閉鎖したままにしました。
    門を開けてくれないのです。

    連絡の不徹底は、チャイナではよくあることです。
    そこで大隊顧問の桜井少佐が事情を説明して開門の交渉をし、その結果、午後7時半頃になって、やっと城門が開門されました。

    ところが、日本の大隊が門を通過し始め、部隊の3分の2が通過したときに、いきなり門が閉ざされました。
    部隊は、城門の内と外に分断されました。
    その状態で、いきなり国民党軍が、手榴弾と機関銃を猛射して、日本側に猛攻撃を加えてきたのです。

    敵は、城壁の上から、至近距離で攻撃してきました。
    何もしないでいれば、日本側は全滅してしまいます。
    たいへん危険な情況です。
    撃たれた日本側兵士が、バタバタとたおれました。

    やむなく日本側も応戦を開始しました。
    すると国民党軍は、兵力を増強して大隊を包囲し、日本側に対して殲滅戦を挑んできたのです。

    この包囲戦に対する感覚も、日本人とChineseではまるで感覚が異なります。
    これは毛沢東が、実際に日本軍の南京戦を例にとって述べていることですが、
    「日本軍は敵を包囲しても、
     敵がそこで降参すれば、
     まるごとその兵たちを逃がしてやっている。
     こんなことをしているから、
     何度でも敵は武装をし直して襲って来るのだ。
     包囲したら、
     たとえ敵が降参しても皆殺しにする。
     それが戦いというものだ。」
    これが毛沢東の考え方だったし、Chineseの古来変わらぬ戦いなのです。

    日本側は多数の死傷者を出しながらも、至近距離、しかも塀の上から狙って来る敵を相手に、よく持ちこたえました。
    これも、情況を考えれば、本当によく持ちこたえる事ができたものだと思います。
    普通なら、とっくに全滅しています。

    こうして最初の発砲から約2時間が経過したとき、旅団からの日本軍救援隊が到着しました。
    そして敵に対して、次の内容で一時的な停戦を呼びかけました。

    1 国民党軍は、いったん離れた場所に集結せよ
    2 日本軍のうち、城内にいる者たちは、城内公使館区域に向かえ。
    3 城外に残されたものは豊台の日本軍旅団に帰投せよ

    こうして、広安門では、ようやく午後10時過ぎに停戦が整ったのです。

    この戦いにおける日本軍の死傷者は19名(戦死2名)でした。
    他に同行していた軍属や新聞記者も負傷しています。
    そしてこのときの広安門事件の首謀者や残党たちが、28日までに集結したのが、通州駅だったわけです。

    日本は、明治34(1901)年に交わされた北京議定書に基づいてチャイナへの派兵をしていました。
    そのチャイナは、いわゆる無政府状態の混沌にありました。
    だからこそ世界11カ国が議定書に基づく派兵をしていました。

    この事件は昭和12(1937)年ですから、派兵開始から36年が経過していました。
    当時の日本は、国際連盟の安全保障理事国であり、世界の治安維持に責任があり、また日本は、隣国であるチャイナに、一日も早い治安の回復と民生の安定を、どこの国より願っていました。

    けれど対立していたチャイナ国民党とチャイナ共産党は、前年12月の西安事件で裏で手を結び、半年の準備を経て突然に日本に襲いかかってきたわけです。

    これが虎視眈々とチャイナの征服を狙う欧米列強であれば、おそらくは最初の盧溝橋事件があった時点で、あるいは廊坊事件があった時点で、あるいは広安門事件の時点ならほぼ完全に、敵対を理由に敢然としてチャイナにクレームをつけ、徹底した殺戮と破壊を行い、巨額の賠償の請求をした上で、チャイナの一部を自国の植民地にしたことでしょう。

    世界の常識では、そうした行動を「侵略」とはいいません。
    「侵略」というのは、挑発(Provocation)がないのに、攻撃(Attack)することをいうからです。
    挑発(Provocation)を受けて攻撃(Attack)することは、たとえそれが外地であっても、国家の正当な自衛権の発露であり、正当な自衛権の発露だというのが国際法の考え方です。

    そしてこの場合、個人の犯罪の場合に適用されるような「過剰防衛」という考え方はありません。
    いざ攻撃(Attack)となったら、相手が全滅するまで戦い抜いても構わないというのが国際社会における戦争です。

    けれど日本は、どこまでもチャイナの平和と安定を願いました。
    だからこそ、ここにきてなお、事件の不拡大方針を採りました。
    それが果たして良いことであったのかは、はなはだ疑問です。

    こうして昭和12年に始まった日華事変は、その後昭和20年の終戦に至ってもなお落ち着かず、昭和24年の中華人民共和国成立の時点まで盛大な内紛と殺し合いが続き、国家成立後も今度は自国内で7,800万人もの同朋を殺害しています。
    むしろ戦争が終わったあと、日本が事実上米国に占領され、その後も米国の保護国として安保があってくれたおかげで、当時の虐殺の矛先が日本に向かなかっただけでも、僥倖というべきできごとであったということができます。
    もし日本で7800万規模の殺戮がなされていたら、いまごろ純粋な日本人が果たして世界に何人残っているだろうかという話だからです。

    現に、成立したばかりの中共政府は人口600万人のチベットにいきなり侵攻し、なんと人口の4分の1にあたる150万人を虐殺しています。
    チベットは敬虔な仏教国ですが、「人民解放」を自称する中共軍は、チベットの僧侶たちの腕や足を切り落し、信仰の力でくっつけてみろ!と武器を持たない僧侶たちの前でゲラゲラ笑ったといいます。
    武器を持たない弱者の前では、集団でとんでもなく居丈高になるのが、彼らなのです。

    私たちは歴史を直視し、学ぶべきです。


    ※この記事は2016年7月の記事のリニューアルです。
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  • 今日は廊坊事件があった日


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    眼下には、まるでゾンビの大軍のように、China兵が円状に群がっている様子がありました。
    「こんなすさまじい状況で、友軍は戦っていたのか」
    爆撃機の操縦士の胸には、こみあげるものがありました。

    20150725 廊坊駅



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    日本をかっこよく!

    昭和12(1937)年7月25日、つまり86年前の深夜に起きたのが「廊坊事件」です。
    日華事変のきっかけのひとつになった事件です。
    翌26日には「広安門事件」が起こり、29日には「通州事件」が起こりました。

    最近では、「日華事変」のことを「日中戦争」と呼ぶ人があるようです。
    まだ私などが中高生の頃は、「支/那 事 変」とか「日華事変」と呼んでいました。(支 那 事 変が正しい)、最近では学校の教科書も「日中戦争」と書いているそうです。
    これは中共政府の「日中戦争こそ、日本によるChinaへの侵略の証であり、中共政府軍は侵略者日本と勇敢に戦った抗日の英雄でだ、だから人民解放軍なのだ」という一方的なトンデモ史観に由来します。

    日本の教科書は、近隣諸国に配慮することになっているので、そうしたトンデモ史観がどれだけ荒唐無稽なものであっても、それが他所の国で国家として認証されたものなら、それに配慮します。
    このことは、韓国のトンデモ史観も同じで、こうなるとそれらをヨイショするインチキ学者の地位が向上し、まともな真実を語ると学会から排除されてしまうという、摩訶不思議な現象が日本国内で起こったりします。

    ちなみに歴史的にはまったく事実無根であっても、それを教科書に書くことができるのは、戦後の「歴史」教科書が、実は「社会科」の「歴史的分野」の教科書であって、「歴史教科書」ではないからです。
    社会科は、その子が社会人になった時の常識を教える教科です。
    ですから、事実無根でも、それを強硬に主張している国があるのは事実ですから、これを教科書に書くことができます。歴史教科書は、歴史上の事実を教える科目ですから、そうはいきません。
    日本は、昭和20年にGHQが歴史教育を禁止し、昭和22年に文部省が社会科に変更することを決めたまま現在に至っています。
    左の人たちは、そのあたりを十分に承知していて、社会科の教科書だからと嘘を書き、歴史的分野を「歴史」と読み替えて、子供たちにトンデモ史観を刷り込んでいるわけです。ひどいはなしです。

    廊坊事件


    さて、廊坊事件(ろうぼうじけん)です。
    事件が起きたのは、昭和12(1937)年7月25日です。
    北京の南東約50kmにある廊坊駅で、日本の軍用通信回線に故障が発生しました。
    通信網の確立は、軍隊にとって生命線です。
    そこで日本軍はあらかじめ国民党側に通知をして、ちゃんと彼らの了解を取り付けたうえで、通信回線の補修チームに、警護のための歩兵1中隊(第20師団歩兵第77連隊第11中隊)を付けて、約100名を現場に急行させました。

    部隊が廊坊駅に着いたのは、午後4時半頃です。
    このとき廊坊駅にはChina国民党の兵、約6000(第三八師第一三二旅、第226団)がいました。
    6000の兵がいるところに、修理兵を含むわずか100名が派遣されたのです。

    この数の違いだけを見ても、日本側がChina国民党とドンパチする気など、まったく持っていなかったことがわかります。
    あくまで日本の軍は、日本人の保護と、Chinaの平穏のために、いまでいうなら国連PKOとして派遣されていたのであって、だからこそChinaをまとめようとする国民党とは仲良くしたいと考えていたし、だからこそ6千人の武装兵がいるところに、たった100人で向かっているのです。

    廊坊駅に到着した修理隊の隊長である五ノ井淀之助中尉は、国民党226団に到着を告げ、許可を得て廊坊域内にある日本の通信用電線の修理を開始しました。
    あらかじめ通告してあったのだし、用件は単なる修理です。
    事態はこれで何事もなく過ぎるはずです。

    ところが、その修理の真っ只中の深夜午後11時10分、国民党軍が突然、修理作業中の日本軍に銃撃をしてきましたのです。
    小銃による単発狙撃ではありません。
    軽機関銃による掃射です。
    それはあきらかな軍事攻撃でした。

    普通なら、この瞬間に、双方の銃撃戦が始まります。
    ところが、この攻撃を受け始めた時点で、日本側は、まったく応射をしていません。
    応戦せずに、ただ弾が当たらないように身を隠しました。

    平和維持のために来ているのです。
    なんでここで戦わなくちゃならないのか。
    「発砲禁止、銃弾に当たらないように身を隠して待機!」
    これが修理隊の五ノ井隊長の命令です。

    ところがそうして、ひたすら弾を避け続ける日本軍に対し、なんと今度は、廊坊駅北方300mにある国民党の兵営から、銃弾を避けて隠れている日本軍に向かって、迫撃砲による砲火が加えられました。
    これはたいへんな事態です。
    このままでは全員犬死です。

    五ノ井隊長は、やむを得ず「応戦開始」の命令を下しました。
    同時に本部に応援を要請しました。
    国民党による攻撃開始から、なんと50分も経過した、午前0時頃のことです。

    集団で殴ったり(小銃による攻撃)、蹴飛ばされたり(機銃による攻撃)されても、なんと50分間も、「争いたくないから」と、ただひたすら耐え続けたのです。
    この自制心の強さは、なまなかなものではありません。

    ところが相手が刃物を持ち出してきた(炸裂砲弾による砲撃)のです。
    だからやむを得ず応戦しました。
    これは、誰がどうみても明らかに客観的にみて正当な自衛行動であり、正当防衛です。

    通報を受けた日本軍(China駐屯軍)の本部は、事態に驚いて、すぐに第20師団に救援を命じました。
    なにせ6千人の、最新鋭の装備に身を固め、ドイツ式の最新装備にドイツ式教練を受けた国民党軍に、わずか100名の日本軍が一方的に攻め立てられているのです。

    第20師団はただちに、歩兵第77連隊(約3000人)を廊坊に急行させました。
    さらに26日午前2時30分には、第20師団の本体が、廊坊駅に向かいました。

    けれど悪路の走行です。
    距離は50km。
    トラックを使った強行軍でも、1時間に12キロ程度しか進めない。
    なぜなら、全員はトラックに乗れないのです。
    それだけの数のトラックがない。
    だから重い背嚢【はいのう】を背負って駆け足で行軍し、疲れたらトラックの荷台と交替して、今度はトラック乗車隊が駆け足するという行軍です。

    「バターン死の行軍」などいうデマが戦後まかり通っていますが、こちらは同じ50キロを4日がかりです。
    護送された米兵たちは、手ぶらでのんびり歩き、日本軍は猛暑の中を重装備を付けたまま、米兵100に対して1名で護送しています。
    米兵たちは、途中でポーカーを楽しんだり、あげくは海水浴までして、行軍をエンジョイしていました。
    まさに「Walking Park」です。
    ところがそんな行軍が、「死の行軍」と書き換えられているのです。

    廊坊駅への援軍のための行軍は、まさに地獄のような行軍となりました。
    重い装備を担いで、一晩中走り通しだったのです。

    一方、廊坊駅の100名は、なんと明け方まで6000人もの国民党の大軍を相手に果敢に戦い、もちこたえました。
    どんな戦いだったのか想像してみてください。
    昼間、きつい行軍をして、やっと深夜、廊坊駅にたどり着いたのです。
    そこで汗水流して通信施設の修繕をしていたら、いきなり銃撃を受け、応戦したら戦争になるからと、ひたすらガマンして応射しないでいたら、今度は迫撃砲を撃ち込まれ、やむなく応戦を開始したけれど、友軍の到着には、4〜5時間を要し、その間、ただひたすら、防戦をし続けたのです。
    どれだけの苦労だったか。

    日本軍の司令部は、夜明けとともに、廊坊にむけて航空隊を差し向けました。
    航空隊が到着すると、ほんのわずかのトラックを横倒しした空間に、通信修理隊の面々が、まるくなって必死で応戦している様子が上空から見て取れたそうです。
    眼下には、まるでゾンビの大軍のように、China兵が円状に群がっていたのです。
    「こんなすさまじい状況で、友軍は戦っていたのか」
    爆撃機の操縦士の胸には、こみあげるものがあったといいます。

    パイロットは、日頃の修練の業で、China軍の迫撃砲陣地をピンポイントで爆破すると、あたりにいるChina兵たちに、ギリギリの低空飛行で、猛射を浴びせています。
    もっとも当時の日本の飛行機というのは、所持している弾薬の陵が少ないので、100発も撃ったら、それで終わりです。
    それでも果敢に地上すれすれまで降下して、なんとかして味方たちを助けようとしたその飛行兵の思いと行動には、目頭が熱くなります。

    26日の午前8時、やっと丘の向こうに、日本軍の増援隊の姿が見えました。
    するとどうでしょう。
    重装備の6000のChina兵たちは、日本の応援部隊が遠くに見えたとたん、算を乱して逃げ出したのです。

    これが26日の朝の出来事です。
    China兵たちが逃げた先が、通州です。
    そして7月29日に起こったのが、通州事件です。

    さて、この廊坊事件について、China国民党は、当時、次のようなステートメントを発表しました。

     **

    7月25日、日本兵約100名が廊坊駅に派遣され、
    「電話修理」と称して同駅を占拠した。
    廊坊を守備していた第29軍 第38師 第113旅の
    旅長である劉振三は撤退を要求したが、
    日本軍はそれを拒否した。
    26日午前0時に、日本軍が中国軍に発砲を行い、両軍は戦端を開いた。
    明け方になり、日本軍機が中国軍に爆撃を加え、
    更に午前7時には天津から日本軍の増援が到着し、中国軍兵舎は壊滅した。
    午前10時に中国軍は廊坊付近から撤退した。

     **

    まったく、どの口から、これだけの嘘が、いけしゃあしゃあと出てくるのか、と思います。
    事前にちゃんと了解をとりつけていたのに「駅を占拠した」。
    駅でもちゃんと了解をとって通信施設修理を行ったのに「彼らは撤退を要求した」。
    実際には午前11時10分にChina国民党軍側から発砲しているのに「午前0時に日本軍がChinaに発砲した」。
    さらに自分たちから迫撃砲まで撃ち込んできていたことは、口にチャックで知らん顔です。
    そして最後は、「撤退した」とはおそれ入谷の鬼子母神です。

    さらにいえば、6000対100という、圧倒的な戦いでありながら、日本軍を壊滅させることができず、日本の援軍が到着したら、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出しています。
    よく言えたものです。
    勇気をもって戦ったのは、果たしてどちらでしょうか。

    そしてその「撤退した」というChina国民党兵が、その3日後に通州で何をしたのか。
    事実と虚飾をまぜこぜにして、プロパガンタをまき散らすのは、Chinaや共産主義者、あるいは左翼の常套手段です。
    客観的かつ冷静に、事態を把握すれば、どうにも言い逃れができないほど、彼らの振る舞いは不埒なものです。

    ちなみにChineseは、この手の嘘を、嘘だと思っていません。
    彼らにとっては、面子(メンツ)こそが大事であり、メンツを立てる事こそが正義です。
    ですからこれは「嘘」ではなく、このステートメントが「正義」です。

    ここは大事なところです。
    日本は、民衆が「おほみたから」とされる国です。
    ですから正義とは、誰もが納得できる民衆に利があるものが正義です。
    けれどチャイナは、民衆はただの雑草です。
    民衆がどうなろうが、上に立つ人の体面(メンツ)こそが大事なのです。
    要するに「正しい」ことの根本概念が違うのです。
    これは今も昔も変わりません。

    日本の学者で、Chineseは信頼できる民族とのたまう人がいます。
    ものすごくやっかいでわかりにくいことですが、そういう嘘を言うことが、Chinaに染まった人たちにとって「正義」です。
    このあたりは、しっかりとわきまえないと、大怪我します。


    ※この記事は2016年7月の記事のリニューアルです。

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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
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