• 合意の形成


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    「行政は、決められたことしかできないところ」であり、「行政に何をさせるかを決めるのは国会」です。この仕組みがわかれば、省庁を責めることがいかに見当違いであり、ただの政治家のパフォーマンスに過ぎないことが理解できようかと思います。
    そして議員が国会で何かを決めようとするなら、そのときには絶対に議員間で多数派となるための「合意の形成」が不可欠です。

    20230831 合意の形成
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    日本に希望の火を灯す!

    議会制民主主義において、いちばん大切なことのひとつが、この「合意の形成」です。
    議員は、ひとりでは政治はできません。
    できるのは内閣への「質問」くらいです。

    内閣への「質問」は、あくまで質問であって、要求や要請ではありません。
    この点、誤解をしている人が多いようですが、内閣は質問に答える際に何か約束を口にしたとしても、それを実施しなければならない法的義務はありません。あるのは「公的記録に残る」ことによる社会的責任だけです。

    ですから質問に対する答えは、政治でもなければ政策でもありません。
    ただの「質問への答え」です。

    議員「大臣、近隣諸国条項は必要ですか?」
    大臣「個人的にはあまり賛成できないと考えております」
      (↑考えているだけ)
    議員「では、撤廃してください」
    大臣「前向きに私が検討します」
    議員(やったぜ!大臣に約束させた)
    大臣(検討すると約束しただけで、いつするとは言ってない。
       さらに私が私の頭の中で検討するといっただけで
       実行するとは言ってない。
      つまり何も約束していないのと同じ。

    要するに政治的表現とか、お役所言葉と言われるもののひとつですが、こうしたやり取りで政治や行政が変わるなんてことはまったくありません。

    いま、ガソリン代がレギュラーで200円のお店も出ていますが、では、二重課税と言われるガソリン税のひとつを撤廃して、ガソリン代金を半額にするためには、どうしたら良いでしょうか。
    資源エネルギー庁の長官に質問したら変わるのでしょうか。
    答えは「NO」です。

    具体的に個別の税の引き下げを求めようとするなら、同じ考え方を持つ議員さんたちの賛同を集め、何をどうすれば良いのかを具体的に検討するための議員さんたちの勉強会を開催し、国会内でそれを多数意見にすることで、党内意見を取りまとめて、党の見解とし、さらに野党のみなさんとも話し合って、議員の半数以上の賛同を得ることで、ガソリン税引き下げの法案を国会で通過させなければなりません。

    そのために何が必要かといえば、議員間での信用です。
    「あの人が言っているのだから間違いない」
    「君の言う事なら信頼できるから、協力しよう」
    と言ってくれる議員の仲間ができなければ、実は何もできないし、ガソリン代は高値のままで何も変わらないのです。

    議員が威勢のよいことや、耳障りの良い発言をすれば、国民は喜びます。
    いまの時代なら、ネットでバズって大儲けできるかもしれません。
    けれど、無責任に過激発言を行えば、議員間での信頼を失います。
    信頼を失えば、国会内で協力してくれる議員は誰もいなくなります。
    すると、多数派形成ができませんから、国会内では何の発言権もなくなり、何の政策も実現できなくなってしまうのです。

    プロ野球と同じです。
    選手が、球場の外でファンのためにリップサービスをしすぎたために、選手間での信頼を失えば、チームワークが乱れます。
    チームワークのないチームなら、試合には必ず破れます。

    要するに、議会制民主主義のもとで何かを実現しようと思うなら、必ず「合意の形成」が必要なのです。
    そしてこのことは、実は、もともと日本にあった考え方です。

    日本では議論のことを、もともとは和談と言いました。
    全員が納得するまでとことん話し合う。
    ただし、議題によってはどうしても一部に反対者が出ます。
    そうした反対者であっても、決議後は協力してくれれば良いのですが、中には全会一致で決議したのに、あとから「俺は反対だった」と逃げを打つ人もいたりします。
    そういう人は、悪いけれど無責任であり、信用に値しません。

    では、そういう逃げる人をどうするかというと、それが「村八分」です。
    婚儀と葬式以外は、一切お付き合いをしない。
    仲間はずれにするしかないのです。

    現代の国会は、両院合わせて713人です。
    あくまで仮にの話ですが、その中には、村八分となっている政党があったりもするという話があります(笑)
    村八分になるとどうなるかというと、国会の外で、好き勝手なポスターを貼ったり、メディアに出演してできもしないことを滔々と述べたりします。

    観ている国民は、自分たちの意見に近いことを言ってくれるから、拍手喝采するかもしれません。
    けれど、村八分政党では、国会内で何の意見も通すことができないし、日本を変えることができないのです。

    その意味で、少数政党なら、議題ごとに協力してくれる議員がいたら、どんどんとそのネットワークを広げていく必要があります。
    多数議員の賛同がなければ、国会で何も決めることができないからです。

    その中には、日頃は仲の悪い野党政党もあるかもしれません。
    けれど、個別の案件では、協力関係を築けるところは協力する。
    向こうも仲間が欲しいし、こちらも欲しいからです。
    そうやって政党横断的な勉強会が形成されれば、政策実現は一歩前進です。
    勉強会参加議員を増やし、多数派となって法案を国会に提出する。

    国会が法案を採決で認めれば、それが国の方針になるのです。

    ところが、民間ベースではこれがわからない人が、結構居ます。
    挙句の果てが、ガソリン税を下げないのは、財務省が悪いなどと、善悪論で激昂する人も居たりします。

    けれど財務省は行政のお役所です。
    法律で決められたことしかできない。
    そして二重課税になっていても、ガソリン税がある以上、それを徴求するしかないのです。
    逆に、それをしなければ財務省は怠慢ということになってしまいます。

    「行政は、決められたことしかできないところ」
    であり、
    「行政に何をさせるかを決めるのは国会」です。
    この仕組みがわかれば、省庁を責めることがいかに見当違いであり、ただの政治家のパフォーマンスに過ぎないことが理解できようかと思います。

    そして議員が国会で何かを決めようとするなら、そのときには絶対に議員間で多数派となるための「合意の形成」が不可欠であること。

    ですから政党や議員の応援者は、ただ「あれをしろ!これをしろ!」と過激な要求や文句を云うだけでなく、その議員が多数派工作ができるように、しっかりと支えていかなければなりません。
    それをしないで、逆に議員や候補者に過激発言ばかりを求めれば、議員は支持者の云うことを聞いて、議会でも、その外でも過激発言を繰り返さなければならなくなり、他の議員から警戒され、村八分となり、結果、何の政策も実現できなくなるのです。

    政治に関わるということは、「合意の形成」に関わるということです。

    そして合意の形成を行う方法は3つしかありません。
    1 カネや美人で買収する
    2 暴力で脅す
    3 自ら徳の高い人となって仲間を増やす

    このうち、1と2が論外であることは論を待ちません。
    そうであるなら、常に3を行い続ける必要があるのです。

    「徳」という字は、「悳」の変形で、真っ直ぐな心で進むことを意味します。
    政治家は、ある意味、民衆のリーダーです。
    リーダーは、常に笑顔で、くじけず、真っ直ぐな道を進む。
    そして、同じく真っ直ぐな心をもった他の議員さんたちと共同し、共闘して多数派を形成する。

    それができてはじめて、世の中が動くのだということを、私たち選挙民もしっかりと自覚する必要があると思います。


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  • シッタン河畔に全滅した日赤新和歌山班ー従軍看護婦の悲劇


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    日華事変から大東亜戦争にかけて、日本赤十字社から戦地に派遣された従軍看護婦の数は、約千班、3万人にのぼるとされています。このうち戦死者は1085人。その中から終戦直前にビルマに派遣された日赤新和歌山班のお話を書いてみたいと思います。

    20150625 ユリ
    画像出所=http://blogs.yahoo.co.jp/bgydk072/53088316.html
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    日華事変から大東亜戦争にかけて、日本赤十字社から戦地に派遣された従軍看護婦の数は、約千班、3万人にのぼるとされています。
    このうち戦死者は、日赤発行の「遺芳録」によると1085人です。
    戦争の初期には肺結核に侵されて倒れ、Chinaでは伝染病に罹患して戦地で没し、後期には銃弾や爆弾による戦傷死が起きています。
    その中から今日は、終戦直前にビルマに派遣された日赤新和歌山班のお話を書いてみたいと思います。

    日赤の「新和歌山班」は、昭和18(1943)年11月5日に、日赤和歌山支部で編成されました。
    班長1,婦長以下看護婦21、使丁1、計23名の構成です。
    彼女たちは、編成完了とともに、ただちに和歌山を出発し、海路でシンガポールまで行き、そこから陸路でマレー半島を北上して、ビルマ(現ミャンマー)の山中にあるプローム県パウンデーに設置された第百十八兵站病院に配属となりました。

    この病院は、病院長の笠原六郎軍医中佐のもと、高卒のビルマ人女性たち80人を補助看護婦として養成していました。
    新和歌山班の看護婦達は、着任したその日から、補助看護婦たちと手をとりあって、日夜医療業務に励んだのです。

    けれどもこの時期から、戦況は日に日に悪化していきました。
    翌昭和19年4月、病院長の笠原軍医中佐が転勤となり、後任として、松村長義軍医少佐が着任しました。
    戦況の情況を憂慮した松村病院長は、4月26日、重症患者330名を30両のトラックに乗せて、南にあるラングーン(現ヤンゴン)に後送しました。
    重症患者たちは、そこからさらに数隻の船に乗って海路モールメンの病院に収容されています。

    一方、残った看護婦ら約300人と、患者たち約800人は、二日後の4月28日、護衛部隊のないまま、徒歩でペグー山脈を目指しました。
    このとき、日赤新和歌山救護班の看護婦たちは、全員カーキ色の開襟シャツにモンペを穿き、胸には赤十字のブローチを付け、頭は三角巾でしばり、足にはズックを履いていました。

    20150625 日赤新和歌山班


    患者たちのなかで、自立歩行が困難な者は、牛車に乗せたのですが、悪路のため、牛車は舌を噛み切りそうなほどの揺れでした。
    病院部隊の一行は、ペグーの山中でいったん集結し、第54師団との合流を待ちました。
    けれど、一週間待機しても、師団は現れません。
    松村病院長は、患者たちとともに、軍隊の護衛のないまま、マンダレー街道を突破してモールメンに向かうことを決意しました。
    このとき、ビルマ人の補助看護婦たちは、全員、そこからそれぞれの故郷に帰らせています。

    このモールメンに向かう途中のことを、病院付けだった堀江政太郎曹長が手記に書いています。

     *

    我々がパウンデーを出発したのは、私の記憶によれば26日の未明だった。
    この日もどんよりとした、いまにも降ってきそうな、うっとうしい朝だった。
    ペグー山系に入ると同時に、連日の雨で、泥には多くの将兵、入院患者が悩まされた。

    急坂は滑る。何回転んだことか。
    やっと平地になったと思ったら、今度は泥沼化し、思うように歩けない。
    スネまでも埋まり、軍靴の底を剥がした者もだいぶいた様だった。

    こんなときに、ある入院患者が大腿部切断で、松葉杖をついて懸命についてきていたが、元気な我々でさえ、泥沼に軍靴を取られて歩けないくらいなのに、この患者は、土中に深くめり込んだ杖を抜くのに必死だった。
    見かねて、
    「おい頑張れよ」と励ますと、「ハイッ!」と返事はしていたが、おそらく内地には帰っていないであろう。
    (中略)

    雨の中をペグー山系にさしかかると、牛車の通行は不可能となり、(具合の悪かった看護婦の小上さんは腰に紐を付けて前からひっぱり、二人が脇から支え、ひとりが後ろから押し上げるという難行軍にみるみる衰弱し、5月9日に同僚らの見守る涙のうちに、病没した。

     *

    5月18日、やっとのことでペグー山中を踏破した一行は、マンダレー街道を密かに横切り、シッタン河の東方のワダン村に終結しました。
    ところがその日の午後4時頃、突然、銃撃を浴びます。
    銃を撃っていたのは、英国人兵たちでした。
    引きつった顔や、銃を撃つ手の動きまで見えるほどの至近距離でした。
    英国人達は、自動小銃や戦車砲を撃ちこんできました。

    このとき松村病院長は、白刀を振りかざして英国軍めがけて突進し、これに軍医、衛生兵らが続きました。
    突進した全員が還らぬ人となるなか、その隙に、患者たちと看護婦たちは、村外れの田んぼに隠れました。
    けれどこのとき、23名いた彼女たちは、18名に減ってしまいました。
    5名は、この銃撃で還らぬ人となったのです。

    せっかく田んぼに隠れたのも束の間、空から爆音が聞こえてきました。
    このままでは敵に見つかってしまいます。
    中尾敏子婦長は、とっさの判断で一行を前方の芦の原っぱへと走らせました。
    けれどこのとき、婦長の一団と、児玉よし子副婦長の一団と、二つに別れてしまいました。

    原っぱへと走る途中で、森下千代子さんが右肘を撃たれて重症を負いました。
    中尾婦長は同行の男性に手榴弾で皆を殺してくれるように頼みました。
    男性は、ためらいました。婦長は言いました。
    「御国のため、敵に辱めを受ける前に潔く自決しましょう。捕虜になんかなりなさるな」
    言い終わらないうちに、婦長は腹部を撃たれました。
    まもなく出血多量で苦しい息となり、小さくて低いけれど、はっきりと「天皇陛下万歳」と唱えて絶命しました。

    敵は草むらから、さかんに撃ってきました。
    石橋澄子さんは、左大腿部を撃たれて意識を失い、池田八重さんも撃たれて死亡、狩野重子さん、原すみ枝さん、田中君代さんの三人は、腰のベルトを外し、首にまきつけて自決しました。
    中原忠子さんは、そばにいた男性と飛び出していって行方不明となりました。

    芦の原っぱの向こうはシッタン川でした。
    一部はビルマ人の小舟に乗せてもらうことができましたが、このとき山入貞子さんと、射場房子さんの二名が濁流にのまれてしまいました。
    出発当時男女合わせて30名いた救護班は、川を渡り終えたときには6名に減っていました。

    一行は、まる4日、山の中をさまよいました。
    看護婦達は、疲労と空腹のため一歩も歩けなくなり、山の上に座り込んでしまいました。
    「拳銃でひとおもいに殺して!」と言いました。
    もちろん男性たちは、彼女たちを殺すことなどできません。
    彼らは、彼女たちを山に残したまま、進むしかありませんでした。

    この戦闘のあと、英国軍には、10名の看護婦が保護されました。
    松山越子さん、西浦春江さん、肘に重症を受けた森下千代子さん、山本日出子さん、大腿部を撃たれた石橋澄子さんの5人は、まもなくインドに送られて、日本人抑留所で赤十字看護婦として勤務させられ、昭和21年7月に日本に復員することができました。

    児玉よし子さんと丸沢定美さんの二人は、ラングーンの英国軍の収容所の中で、隠し持っていた青酸カリをあおって自決しました。

    そのときの様子を、同じ収容所にいた田中博厚参謀が手記に残しています。

     *

    この監獄で白衣の天使が二人自決しました。
    敗走千里の途中、トングー付近の野戦病院に、最後まで将兵を看護していた白衣の天使のなか二人は、不幸にも逃げ遅れ、白衣も汚れてヨレヨレのまま、この監獄に収容されました。

    血に飢えた肉にかつえた英兵達は、5,6人も寄り集まり、身体検査と称して、神の使いの乙女たちの下着まで剥ぎ取って、卑しい貪婪(どんらん)の瞳で見据えるのです。
    これが2日も続いたその夜、乙女たちは隠し持っていた青酸カリで、神の御国へと旅立って行きました。

    遺書には、切々と英人の暴虐を訴え、このままでは、いつどんな目に遭うやらわからない。
    野戦病院で、母の名を呼びながら死んでいった年若い兵隊さんの後を追って、私は天国でも白衣を着、お勤めをするつもりです。
    一生涯・・・短い20年の生涯でしたが、清く美しく生きられたことを、せめてもの慰めにします。
    ただ、もういちどお父さんに会えなかったのが心残りです、と結んでありました。

    *****

    ひとつ、はっきりさせておかなければならないことがあります。
    それは、日本以外の諸国では、程度の差こそあれ「軍と暴徒とヤクザは同じもの」だ、ということです。

    日本では、古来、軍人は規律を守り、どこまでも民のために戦うという姿勢が貫かれています。
    なぜなら、日本では、民は、敵味方関係なく天皇の「おおみたから」であり、その「おおみたから」を護るためにこそ武人は存在している、という自覚があるからです。
    これは日本人にとっては、まさに骨肉に染み込んだ自覚です。

    けれども、諸外国では、「軍と暴徒とヤクザは同じもの」です。
    程度の差はあります。
    まさに鬼畜そのもののソ連やChinaやKorea兵もあれば、ある程度は規律の保たれた英米のような軍もあります。
    けれど、その英米ですら、あきらかに女とわかる、あきらかに看護婦と傷病兵の一団とわかりながら、平気で銃撃を加え、捕まえた女性たちに恥辱を与えています。

    歴史、伝統が違うのです。
    そのことは、当ブログの過去記事「国民国家と三十年戦争」で、グリンメルスハウゼンの『阿呆物語』を紹介していますので、ご一読いただければと思います。

    人類史を振り返れば、戦いは現実に「ある」のです。
    多くの人々は、いつの時代にあっても平和を願っていますが、それでも戦争は、現実にあるのです。
    そして一昨日の根本博陸軍中将のお話に書かせていただきましたが、「武装がなければ女子供が蹂躙される」のです。
    だからこそ、そうならないように武装する。
    これが世界の現実なのです。

    良いとか悪いとかの問題ではないのです。
    「蹂躙されない」
    そのためには、現実の問題として武装が必要だし、その武装は世界最強の武装でなければならないし、一国だけで守りきれない危険を避けるためには、諸外国と軍事同盟を結んで集団的自衛権を行使しなければならないのです。

    そしてこういう過去の事実を知れば、国を護ることがどれだけ大事なことなのか、安保法案反対が、いかに世迷いごとなのかをご理解いただけようかと思います。


    今日の記事・・・冒頭の写真は、本来なら、この事件の犠牲となられた看護婦さん達の写真(二段目に掲載)を冒頭にもってくるべきだったのかもしれません。
    けれど、季節の花の白い百合にしました。
    白百合の花言葉は「純潔」「威厳」です。
    まさに白衣の天使たちそのものです。慰霊の意味をこめて冒頭は白百合にしました。
    彼女たち、生まれ変わって今生では、きっとお幸せな人生をお過ごしのことと信じたいです。


    参考図書:永田竜太郎著『紅染めし―従軍看護婦の手記』(1977年)


    ※この記事は2015年6月の記事の再掲です。
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    20220825 赤とん



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    日本に希望の火を灯す!

    以下にお話しするこのお話は、このブログで2010年7月に初公開し、翌年、航空自衛隊の機関誌「翼」に掲載いただいたものです。
    掲載のあと、翼の記事を読まれたというYさんという方からメールをいただきました。
    Yさんはこの戦いに参加された第三龍虎隊のパイロットのひとりの息子さんです。
    Yさんは、ご自宅の仏間に飾ってあるお写真のスキャン画像を一緒に送ってくださいました。
    それが上の写真です。

    この写真の裏にはお父様の字で、
    「神風竜虎隊 別れの宴(台湾新竹基地)」
    と書かれています。
    撮影されたのが昭和二十年七月二十六日。
    場所は台湾にあった新竹航空基地です。

    まさに出撃直前の別れの宴のときのものです。
    左から五番目が、第三龍虎隊を指揮され、見事散華された三村弘兵曹です。

    お写真の三村兵曹は、飛行マフラーをしていません。このことに気付いたYさんのお父さんが、自分の絹のマフラーを渡してあげたそうです。
    このとき、特攻人形も一緒に渡したと、日記に書かれてあるそうです。

    「赤とんぼ」というのは、昭和九年に練習機として採用された複葉の飛行機です。正式名称は「九三式中間操縦練習機」で、鋼管フレームに躯体は木、翼は布張りでできていました。日頃は練習機として使われ、機体を視認しやすい「オレンジ色」に塗装していたことから、多くの国民から「赤とんぼ」の名称で親しまれた飛行機です。

    飛行機としての性能は、当時使用されていた戦闘機などと比べて圧倒的に低く、たとえば当時の戦闘機は、だいたい時速六百キロくらいのスピードで飛んだのですが、「赤とんぼ」は特攻のための二百五十キロ爆弾を搭載すると、その飛行速度は最大で時速百三十キロくらいです。
    しかも飛ぶためにはエンジンを全開にしたフルスロットル状態で、ようやく空に浮いているという状況でした。

    その「赤とんぼ」が、見事、特攻作戦を成功させ、米駆逐艦キャラハンその他三隻の艦艇を撃沈破の大戦果を挙げたのです。

    そうはいっても、大東亜戦争の末期には、自動車で言ったらすでに十一年落ちです。当時としては、すでに軍用機としては、相当型落ちの旧式飛行機です。
    ただ、いいところもあって、燃料のガソリンに、アルコールを混入した「八〇丙」という劣悪な燃料でも飛ぶことができました。
    大東亜戦争末期の昭和二十年は、日本の石油輸入量はゼロです。
    こうした機は、ある意味実に貴重な存在だったわけです。

    昭和二十年七月二十四日、台湾の竜虎海軍基地で、この九三式中間操縦練習機で、夜間爆撃訓練をしていた三村弘上飛曹以下八名に、特攻命令が下りました。
    七月二十六日早朝、台湾の新竹基地に到着した彼らに、「神風特別攻撃隊第三竜虎隊」の命名式と別盃式が行われました。このときの模様が先ほどの写真です。

    式が終わると、彼らはすぐに出発しました。
    台湾の宜蘭基地を経由して、石垣島に向かい、そこから先島諸島、宮古島へと移動するのです。
    これは本来なら、台湾からひと飛びの距離です。
    しかし、それができるだけの性能が、この飛行機にはありません。
    燃料も持たなかったし、とにかく速度が遅いから、飛ぶのに時間がかかるのです。
    この移動だけでも九三式中間操縦練習機にとっては、たいへんなことでした。

    実は、「第三竜虎隊」に先だって「第一、第二竜虎隊」が台湾を出発しています。
    しかし、第一も第二も、飛行中に機体に故障が続出、さらに天候不良が重なって、両隊ともほぼ全機が与那国島へ不時着し、飛行不能となり、攻撃が中止されていたのです。
    こういう機まで、特攻作戦に参加させる。特攻機の向かう先は、沖縄の海でした。
    そこまでしてでも、日本は、沖縄を護ろうとしたのです。

    二十八日夜半、「第三竜虎隊」は、赤トンボに、二百五十キロ爆弾をくくりつけました。
    これまた無茶な話です。
    当時の戦闘機は2000馬力級です。
    対する赤とんぼのエンジンは、わずか三百馬力しかありません。
    爆弾をくくりつけたとたん、それだけで機の性能の限界に挑む飛行になるのです。

    おかげで、宮古島を離陸してすぐに、八機の内の一機がエンジントラブルに見舞われてしまいました。
    限界を超えてエンジンを全回転させているのです。無理もありません。
    やむをえず、その機は引き返しました。
    引き返した機は、ようやく宮古島に到着したのですが、着陸までエンジンが持たず、機が大破しています。

    残る七機は、三村隊長機を先頭に、整然と隊列を組んで沖縄に向かいました。
    しかしやはりエンジンが不調となり、二機がいったん宮古島に引き返しています。
    残る五機は、そのまままっすぐに米艦隊の群がる沖縄の海に向かいました。

    沖縄までたどり着くだけでもリスキーな赤トンボです。
    その沖縄の海には、見渡す限りの米軍、大艦隊がいます。
    到着したとしても、速度の遅い赤とんぼに、猛烈な敵の対空砲火をかいくぐり、見事、特攻を成功させることができるのでしょうか。

    三村隊長は、出発前の日記に、
    「九三中練で死ぬとは思いもよらず」
    「九三中練とはちょっと情けないが、我慢しよう」
    と書いています。
    どうみても、できるはずもない作戦だったのです。

    ところが奇跡が起こりました。
    まず赤とんぼ隊は、米軍のレーダーに発見されなかったのです。
    いや正確には、レーダーに発見されたのですが、飛行機と思われなかったのです。

    実は米艦隊は、当時、最新式のレーダー探知機を使って、赤とんぼ隊を百五十キロ手前で捕捉していました。
    ところが、赤とんぼは、極めて操縦性能の良い練習機です。
    夜の海を海上すれすれに飛んでいます。
    そのためレーダーに捕捉されにくく、しかも機体は木と布です。
    たまにレーダーに反応しても、光点は、点いたり消えたりだったのです。
    しかもあまりに飛行速度が遅い。

    このことは米艦隊の中でも、議論になりました。
    レーダーに出たこの光点は、鳥か、飛行機か、誤反応か?
    本来なら、特攻攻撃に備えて準備万端整えるのに、その迷いが、米軍の戦闘準備を遅らせました。
    そして米軍が、ようやく「敵機だ」と気が付いたときは、すでに赤とんぼ隊は、艦隊のわずか二十キロ、到着までわずか十分弱の距離まで近づいていたのです。

    「敵機来襲!」
    米艦隊は大慌てて、特攻攻撃に備えました。
    けれど、当時の艦船の戦闘準備というのは、そんなに何分でできるような簡単なものではありません。
    艦上は大混乱に陥ります。

    敵は、どこだ!?
    見れば、もう目の前を超低空で日本機がやってきています。
    しかもそれはなんと、古式ゆかしい二枚羽根の飛行機です。

    当時、米軍が日本の特攻機対策のために採用していた対空用の高射砲は、飛来する飛行機のすぐそばで破裂すると、弾薬の中の鉄片が四散し、弾が直接当たらなくても、敵機を撃墜できるというものでした。
    ところが、練習機赤トンボは、あまりの低空飛行です。
    高性能高射砲を、その角度で撃ったら、友軍の艦船に弾が当たってしまう。

    それでも果敢に近距離砲を使って、米艦隊は全艦をあげて迎撃を行います。
    滅茶苦茶に弾が飛んでくる。
    赤とんぼは、低速です。
    何発もの弾が、赤とんぼに命中しました。
    いや、命中したはずでした。
    ところが、赤トンボは、墜ちないのです。

    対空砲火の弾は、敵機に当たると炸裂するようにつくられているのです。
    ところが、赤トンボは、布張りです。
    弾は、当たっても貫通してしまって炸裂しない。
    エンジンか、燃料タンクか搭乗員に命中しない限り墜ちないのです。

    三村隊長以下五機の「第三竜虎隊」は、全機、敵弾を受けて機体を穴だらけにしながら、さらに敵艦隊に肉迫しました。
    敵の輸送船には目もくれません。狙いはあくまで敵の軍艦です。

    最初の一 機が、米軍の誇る最新鋭駆逐艦「キャ ラハン」の右舷に体当たりしました。
    赤とんぼは低速で、しかも機体も軽いから、艦上で爆発炎上し、木端微塵になりました。
    通常これだけでは固い装甲を施した駆逐艦は沈没しません。
    ところが赤とんぼが、やっとのこと で吊り下げてきた二五〇キロ爆弾は装甲弾です。
    爆弾は機関室まで突入し、そこで大爆発を起こしました。

    「キャラハン」の機関室のすぐ脇には、対空弾薬庫がありました。
    炎はこれに誘爆し、艦は大爆発炎上したのです。
    そして午前二時三十五分に沈没してしまいました。
    あっという間の得出来事でした。

    米軍は、大東亜戦争当時の自軍の被害については、いまにいたるまで、その場であっという間に完全に沈没した艦以外は「沈没」として発表していません。
    たとえば大破炎上して数時間の後に沈んだ船は、それが敵である日本の船なら「撃沈」に加えられますが、自軍の船なら「大破」として発表しています。
    戦いの場では沈んでいないというわけです。

    けれどこのときの「キャラハン」は、どうにも誤魔化しようのないものでした。
    まさに「沈没」とされました。
    そしてこの駆逐艦「キャラハン」が、 米軍の発表する最後の「特攻機に沈められた艦」となりました。

    続く二番機は、「キャラハン」のすぐ近くにいた駆逐艦「プリチット」に突入しました。
    「プリチット」 の対空砲火開始は、なんと赤とんぼとの距離が千五百メートルに迫ったときでした。
    それでもギリギリ、艦のわずか一・八メートル手前で、赤とんぼを撃墜しました。
    しかしこの日のために訓練を積んだ「第三竜虎隊」の執念だったのでしょうか。
    赤とんぼは、海上に激突する寸前に、搭載した二百五十キロ爆弾を、機体から切り離したのです。
    爆弾は海面に激突する赤とんぼを離れ、弧を描いて「プリチット」 に命中しました。
    「プリチット」は、大破炎上します。

    このことは、艦までわずか一・八メートルの距離にまでせまった赤とんぼの機体の中で、パイロットに意識が残っていたことを示しています。
    死のほんの何秒の瞬間まで、その闘志が衰えていなかったのです。
    おそらくその時点で、彼の全身には敵の重火器の砲火があたり、もしかしたら肉体の一部は飛ばされてなくなっていたかもしれません。
    そういう、過酷な状況の中で、それでも彼は操縦桿をひき、爆弾投下スイッチを操作して、「ブリチット」に二百五十キロ爆弾を当てているのです。
    まさに闘神そのものです。

    「プリチット」の近くにいた、米駆艦「カシンヤング」は、「赤とんぼ」 二機を撃墜しました。
    ところが、いったん宮古の基地に引き返した「赤とんぼ」 二機が、機体の整備を終え、すぐに後方から迫ってきていたのです。

    この二機も、やはり米軍のレーダーに発見されずに飛来しました。
    そして気付いたときに は、最初の特攻攻撃が終わってホッとひといきついていた「カシンヤング」 の目の前にこつ然と、その複葉の機体をあらわしていたのです。

    「カシンヤング」は、迎撃準備をするヒマさえありませんでした。
    超低空を飛行してきた二機の「赤とんぼ」は、仲間の敵討ちとばかり、「カシンヤング」 の右舷に激突しました。
    「カシンヤング」 は、艦の中央部が大爆発し炎上します。
    この戦闘で、「カシンヤング」は二十二人が戦死、四十五人が重傷を負っています。

    さらにこの戦いで、米駆逐艦の「ホラスAバス」にも特攻機が命中しています。
    タイミングからして、これも赤トンボの第三竜虎隊による戦果であるとしか考えられません。
    結局、「第三竜虎隊」7機中五機が命中しています。
    成功率七割です。
    大戦果です。

    いま、宮古島の市営陸上競技場の東の嶺に、彼ら「神風特攻隊第三次竜虎隊」の碑が建っています。
    そこには、次のように記載されています。

    【建碑の由来】
    もう何も思うまい何も思うまいと、思うほどこみ上げる父母への思慕、故郷の山河。今生の別れの瞼にうかぶ月影淡く孤独を伴に無量の思いを抱き、唯ひたすら沖縄へこの胸中いかにとやせん。ああ途絶の死真に痛恨の極みなり

    一九四五年七月二十九日夜半
    神風特別攻撃隊第三次竜虎隊上飛曹三村弘
    一飛曹庵民男
    同近藤清忠
    同原優
    同佐原正二郎
    同松田昇三
    同川平誠

    義烈七勇士は、日本最後の特攻隊として、世界恒久の平和を念じつつ、ここ宮古島特攻前線基地を離陸。沖縄嘉手納沖に壮烈特攻散華す。
    その武勇萬世に燦たり。願はくば御霊安らかに眠られよ。父母のみむねに

    神風特別攻撃隊竜虎隊一同
    一九九五年七月二十九日
    神風特攻第四次竜虎隊員
    滋賀県水口笹井敬三


    【鎮魂の詩】
    紺碧の海風亦清し
    島人素朴にして
    人情濃いなり
    誰か思わん此の地激戦跡なるを
    瘡偉飢餓将兵僵る
    相図る戦友建碑の事
    鎮魂痍悼安眠を祈る
    幾たびか島を尋ねて遺族感泣す
    更に願う
    島を守りて平和の全きを

    昭和六三年十月吉日

    この文を書く前、たまたまウィキペディアで「特別攻撃隊」の記事を読んでみたら、そこには、次のように書いてありました。
    「元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していた為、
     極端に速度が遅く航続距離も短い複葉機や
     固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は、
     敵機の好餌であり、ほとんど戦果をあげられなかった。
     だがまったく使えなかった訳でもなく、
     僅かながらも戦果を挙げている
     (九三式中間練習機による特攻は、
     一九四五年七月二十九日出撃の
     「第三龍虎隊」が駆逐艦一隻を撃沈している)」

    悲しいことです。
    「わずかばかり」とは何事でしょうか。
    しかも、戦果は駆逐艦一隻のだけではないのです。

    戦後、私たち日本人は、命をかけて戦った帝国軍人を、微妙な言い回しで辱め、貶めてきました。
    でももう真実に目覚めるときです。
    いつまでもお人よしで騙され続ける日本人ではいけない。
    事実は事実として明確に主張し、断固として自存自衛を確立した日本を、感謝と希望で取り戻すときがやってきたのです。



    日本をかっこよく!

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    日本に希望の火を灯す!

    昭和二十年(1945)九月二十七日のことです。昭和天皇が一人の通訳だけを連れてマッカーサーのもとを訪れました。
    「ついに天皇をつかまえるときが来た!」
    事前に連絡を受けていたマッカーサーは二個師団の兵力の待機を命じました。
    この時点で陛下をどのようにするのかGHQの中でも議論が交わされていました。
     方針は大きく分けて三つありました。
    一、東京裁判に引き出して絞首刑に処する。
    二、日本共産党をおだてあげ人民裁判の名のもとに血祭りにあげる。
    三、Chinaに亡命させて秘密裏に殺害する。

    いずれにしても、陛下を亡きものにすることが決められていたのです。
    ですからマッカーサーは陛下が命乞いに来られるのだと思いました。
    このため彼は傲慢不遜にマドロスパイプを口にくわえてソファーから立ちあがろうともしませんでした。

    このマドロスパイプを咥えたマッカーサーの姿は、彼が日本に降り立ったときの姿としても有名なものです。
    当時の米国はトウモロコシが主たる産物でした。
    これが小麦にとってかわるのは、日本占領後日本の農林十号と呼ばれる小麦が米国に渡ってからのことです。
    ですから当時トウモロコシでできたマドロスパイプ(コーンパイプ)は、米国の象徴だったのです。
    パイプタバコをやったことがある方ならおわかりいただけると思いますが、マドロスパイプのような柄の長いパイプは長時間咥(くわ)えていれません。口からヨダレがタラタラと流れてしまうからです。
    ですからマッカーサーがマドロスパイプを咥えるということは、米国のトウモロコシが日本を制圧したことの象徴であり、彼独特の先勝を誇示したポーズでもあったわけです。

    椅子に座って背もたれに体を預けて足を組み、マドロスパイプを咥えた姿は、ですから陛下をあからさまに見下した態度であったわけです。
    そのマッカーサーに対し陛下は直立不動の姿勢をとられました。
    そして国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとなさったうえで、このように仰せられました。

    「日本国天皇はこの私であります。
     戦争に関する一切の責任はこの私にあります。
     私の命においてすべてが行なわれました限り、
     日本にはただ一人の戦犯もおりません。
     絞首刑はもちろんのこと、
     いかなる極刑に処されても、
     いつでも応ずるだけの覚悟があります。」

    弱ったのは通訳です。その通り訳していいのか?けれど陛下は続けられました。
    「しかしながら
     罪なき八千万の国民が
     住むに家なく、
     着るに衣なく
     食べるに食なき姿において、
     まさに深憂に耐えんものがあります。
     温かき閣下のご配慮を持ちまして、
     国民たちの衣食住の点のみに
     ご高配を賜りますように。」

    マッカーサーは驚きました。
    世界中、どこの国の君主でも自分が助かりたいがために、平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが、いわば常識です。
    ところが陛下は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても」と淡々と仰せになられたのです。

    マッカーサーは、咥えていたマドロスパイプを、机に置きました。
    続いて椅子から立ち上がりました。
    そして陛下に近づくと、今度は陛下を抱くようにしてお掛けいただきました。さらに部下に、
    「陛下は興奮しておいでのようだから、
     おコーヒーをさしあげるように」と命じました。

    マッカーサーは今度はまるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に立ちました。
    そこで直立不動の姿勢をとりました。
    「天皇とはこのようなものでありましたか!
     天皇とはこのようなものでありましたか!」
    彼は、二度、この言葉を繰り返しました。そして、

    「私も、日本人に生まれたかったです。
     陛下、ご不自由でございましょう。
     私に出来ますことがあれば、
     何なりとお申しつけ下さい」と言いました。

    陛下も、立ち上がられました。そして涙をポロポロと流しながら、
    「命をかけて、閣下のお袖にすがっております。
     この私に何の望みがありましょうか。
     重ねて国民の衣食住の点のみに
     ご高配を賜りますように」と申されたのです。

    こののちマッカーサーは陛下を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開けて陛下をお見送りしました。
    そしてあわてて階段を駆け上がると、これまでのGHQの方針を百八十度変更するあらたな命令を下しています。
    このことがあったあとマッカーサーは、次のように発言しています。
    「陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた。」



    「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね。
     旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。
     ヒロヒトが四十歳を過ぎた猫背の小男ということを
     日本人に知らしめてやる必要がある。
     神さまじゃなくて人間だということをね。
     それが生きた民主主義の教育というものだよ」

    昭和二十一年二月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、そんな会話が交わされていたそうです。
    ところがその結果は高官達の期待を裏切るものでした。昭和天皇は沖縄以外の全国を約八年半かけて回られました。
    行程は三万三千キロ、総日数百六十五日です。 各地で数万の群衆にもみくちゃにされたけれど、石一つ投げられたことさえありませんでした。

    英国の新聞は次のように驚きを述べました。
    「日本は敗戦し外国軍隊に占領されているが、
     天皇の声望はほとんど衰えていない。
     各地の巡幸で群衆は天皇に対し
     超人的な存在に対するように敬礼した。
     何もかも破壊された日本の社会では
     天皇が唯一の安定点をなしている。」

    イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか一ヶ月で廃位に追い込まれています。
    これに対し日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
    欧米人の常識では理解できないことが起こっていたのです。

    以下のことは、先日の日本史検定講座で高森明勅先生に教えていただいたことですが、フランスに世界を代表する歴史学者のマルク・ブロックという人がいます。
    そのマルク・ブロックが、ヨーロッパの歴史を書いた『封建社会』(みすず書房刊)という本があるのですが、その本の中で彼は次のように述べています。

    「西ヨーロッパは、他の世界中の地域と違って
     ゲルマン民族の大移動以降、
     内部で争うことはあっても、
     よそから制圧されて文化や社会が
     断絶するようなことがなかった。
     それによって内部の順調な発展があった。
     我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも
     共有することのないこの異例の特権を、
     言葉の正確な意味におけるヨーロッパ文明の
     基本的な要素のひとつだったと
     考えても決して不当ではない。」

    西ヨーロッパは歴史が断絶しなかったからこそ、中世の文化を継承し世界を征服するだけの国力をつけて十八世紀後半以降の市民革命を実現し、近代化を実現することができた。
    そのことを「我々が日本以外のほとんどのいかなる地域とも共有することのない異例の特権」とマルク・ブロックは書いているのです。
    ここに書かれたゲルマン民族の大移動は、四世紀から五世紀にかけて起きた事件です。
    そしてこの大移動をもって西ヨーロッパの古代の歴史は断絶し、まったく別な中世へと向かうわけです。

    日本の四世紀から五世紀といえば大和朝廷の発展期です。
    大和朝廷は弥生時代に倭国を築いた朝廷がそのまま大和地方に本拠を移したものに他なりません。
    弥生時代は縄文時代の延長線上にあります。
    弥生人は決して渡来人などではなく、縄文時代からずっと日本に住み続けた同じ日本人です。
    そしてその弥生時代がまさに卑弥呼の登場する時代です。
    その倭国が東上しながら古墳時代をつくり、そして奈良県の大和盆地に都を構えたのが大和時代です。

    その大和朝廷は、第三回の遣隋使で
    「東の天皇、つつしみて西の皇帝にもうす」
    と書いた国書を持参しました。
    これが日本が対外的に「天皇」を名乗った最初の出来事です。
    西暦六〇八年の出来事です。

    この大和朝廷が「日本」を名乗ったのが六八九年です。
    つまり天皇の存在は日本という国号よりも「古い」のです。
    そして万世一系、昭和天皇は第百二十四代の天皇です。
    ご在位は歴代天皇の中で最長です。昭和の時代は世界恐慌から支那事変、先の大戦、戦後の復興、東京オリンピック、そして高度成長と、激動の時代を生きられたのが昭和天皇です。

    その昭和天皇の辞世の御製です。

     やすらけき世を 祈りしも いまだならず
     くやしくもあるか きざしみゆれど


    この御製は昭和六十三年八月十五日に陛下が全国戦没者遺族に御下賜遊ばされたものです。
    「安らかな世をずっと祈り続けたけれど、
     それはいまだなっていない。
     そのことが悔しい。
     きざしはみえているけれど、
     そこに手が届かない」
    という意味と拝します。

    昭和天皇は崩御される直前に、「悔しい」と詠まれておいでなのです。
    どこまでも国民のためを思うご生涯を遂げられた昭和天皇の思いに、わたしたちは日本国民として、ちゃんと答えているのでしょうか。


    ※この記事は2011年3月から毎年掲載しているものです。
    日本をかっこよく!

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    はじめにニュースです。
    ねずブロの朗読動画が始まりました。
    第一回は「ひふみのお話」です。
    以後、毎週土曜日午前10時公開予定です。
    皆様の応援をよろしくお願いします。


    お時間のある方は、下の動画を御覧いただきたいのですが、この動画の中で、いまは亡き加瀬先生が、
    「日本は昭和20年8月15日に戦いの矛をおさめたが、日本が東京裁判によって東亜諸国を侵略したとして裁かれていた、まさにそのときに、東亜の諸国は再び植民地支配しようと戻ってきた(東京裁判で日本を侵略国として裁いていた)諸国と、東亜の諸国は果敢に戦っていた。大東亜の戦いは終戦の日以降も続いていたのだ。」
    との指摘をなさっておいでになります。

    これはとても重要な指摘です。

    終戦記念日特別番組第二弾!! 日本はいかに『理想の人種平等の世界』を作ったのか?! 加瀬英明 中村功


    先の大戦について、大東亜戦争という日本政府が閣議で決定していた呼称を禁じ、太平洋戦争(The Pacific War)と呼ぶことを強制したのはGHQ(General Headquarters)です。
    なるほど米国では「The War in the Pacific」と呼ばれています。
    けれど先の大戦で日本が戦っていた場所は、太平洋だけではありません。
    日本は東亜諸国の植民地を開放するため、東アジア全域を戦場として戦っていたのです。
    ですから同じく戦争当事国のひとつとして日本と戦った英国は、先の大戦を「極東戦争」と呼んでいます。

    英国の歴史家であるクリストファー・ソーン(Christopher Thorne)やA・J・P.・テーラー(Alan John P. Taylor)たちは、
    「先の大戦は、
     日米間で使用されている『太平洋戦争』では、
     戦争の地理的・地政学的側面の性格づけが、
     とくにその広範囲にわたる影響に関しては
     ほとんどなされていない。
     日本はアジアにおける
     英国の勢力を駆逐するために
     戦争を始めたのであり、
     結果として英国は植民地を失い
     敗北したのだから、
     極東戦争、
     あるいは日本が用いている
     大東亜戦争と称することが適切である」
    と指摘しています。

    また日本においても、国際政治学者の柳沢英二郎氏や、加藤正男氏などは、
    「日米戦争は西太平洋の覇権をめぐる闘いとしての戦争であり、
     日本にとっては東南アジアにおける
     勢力圏確立のための手段であったのだから、
     『アジア・太平洋戦争』と呼ぶべきである」
    と指摘しています。

    そもそも戦争というのは、単一の目的によって行なわれるものではありません。
    さまざまな事象が折り重なって、外交上の最後の手段として行われるものです。
    このことは、現在眼の前にある台湾有事を考える上においても同じで、なにかひとつの理由や目的でドンパチが始まるというものではありません。
    歴史に学ぶということは、そういうことをしっかりと考える力を養うということです。

    先の大戦の開戦当時の日本は、有色人種として唯一と言って良い独立国家であり(タイも独立を保っていたとはいえ、ほぼ完全に英国の指揮下にありましたから、すでに完全な独立国とは言い難い)、かつ国際政治上、きわめて大きな勢力を持つ国でした。

    そんな日本が欧米諸国から追い詰められるようになった原因のひとつが第一次世界大戦後に開催されたパリ講和会議(1919年・大正8年)で、このとき日本が国際連盟憲章に
    「人種の平等を入れるべし」
    との案を正式に国際舞台に出したことです。

    これは人道的には正しい主張です。
    唯一の有色人種国である日本としては当然の主張であったともいえます。
    しかしこの主張は、植民地支配によって富を得ていて政治的な影響力が大きい欧米諸国の経済人すべてを敵に回すことになりました。
    それまで世界最強の海軍国である大英帝国と対等な同盟関係を結んでいた日本は、これによって欧米諸国(の大金持ちたち)にとっての明確な「敵」となりました。

    一方で有色の諸民族からは、日本は期待の星となりました。
    それは期待の星というより、日本の国旗は太陽ですから、期待の太陽ともいえるほど強い期待でした。

    これも上の動画のなかで加瀬先生が述べられていますが、昭和5年(1930年)当時、独立を守ろうとしていたエチオピアの王子が、日本の華族出身の黒田雅子さんと婚約に至ったことがありました。
    それほどまでに、日本に対する期待は高いものであったのです。

    当時大評判になったこの婚約は、残念なことに欧米諸国の猛烈な反対によって破談になりました。
    なかでもイタリアのムッソリーニは、強硬に反対を唱えていたのですが、なんとそのムッソリーニは、破談の5年後の1935年(昭和10年)にエチオビアに侵攻しています。
    このときムッソリーニは、国際条約で使ってはいけないとされている毒ガスを用いてエチオピア軍を壊滅させました。
    こうしてエチオピアは、イタリアの植民地になりました。

    こうして欧米列強による理不尽が次々と行われる中、日本は大東亜共栄圏構想を打ち上げ、東亜諸国の独立と発展を標榜しました。
    500年続いた植民地支配を守ろうとする欧米諸国。
    植民地の解放して人種の平等を目指す日本。
    両者の溝は深まりました。

    一方で、日本が統治や統治協力をした台湾、半島、満州、チャイナは、荒れ果てた土地がいつのまにか広大な農地に変わり、街は整備され、人々の生活は豊かになり、教育もちゃんと行われるようになって行きました。
    つまり、欧米諸国にとって、植民地として支配する魅力が増して行きました。

    昭和14年にナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発すると、またたくまにフランスは制圧され、英国本土も空襲を受けるようになりました。
    英仏ともに、ドイツを打ち破るには、どうしても米国に参戦して貰う必要がありました。
    けれど当時の米国大統領であったルーズベルトは「絶対に米国民を戦争に巻き込まない」ことを公約として三度目の大統領選を戦い勝利した大統領です。
    そのままでは米国がヨーロッパ戦線に参戦することはありえない。

    そこで国際政治上で日本を追い詰め、日本に米国への攻撃と開戦をさせる。
    米国は日本と戦争になると、日本と同盟関係にあったドイツとも戦争当事国の関係になります。
    つまり米国は、ヨーロッパ戦線に参戦することになる。
    形勢不利な英国チャーチルにとって、日米を開戦させることは、どうしても不可欠の政治的要素となったのです。

    そして昭和16年、ついに戦争になる。

    戦争は、日本国中が焼け野原になって、昭和20年8月15日に日本は自主的に戦闘を終結させました。
    けれど、それで大東亜の戦いが終わったわけではありません。
    東亜諸国は、日本が敗れたあと、再び自国を植民地支配しようと戻ってきた欧米諸国と果敢に戦い、ついにそれぞれの国が独立を手にしています。

    並べてみると以下のとおりです。

    昭和20年年8月17日 インド、パキスタン、インドネシアの独立記念日
    昭和20年9月2日   ベトナムの独立
    昭和21年7月4日   フィリピン独立記念日
    昭和23年1月4日   ビルマの独立記念日
    昭和23年2月4日   スリランカの独立記念日
    昭和23年8月15日  韓国の独立記念日
    昭和23年9月9日   北朝鮮の独立記念日
    昭和24年12月7日  台湾の独立記念日
    昭和28年11月9日  カンボジアの独立記念日
    昭和29年7月19日  ラオスの独立記念日
    昭和29年10月1日  中共の独立記念日
    昭和38年9月16日  マレーシアの独立記念日
    昭和40年8月9日   シンガポールの独立記念日
    昭和46年3月26日  バングラディッシュの独立記念日

    これら諸国は、日本の終戦以後、再び舞い戻ってきた欧米諸国とそれぞれ独立記念日以後も果敢に戦い、勝利し、そしてようやく独立を果たしました。

    たとえばインドネシアでは、独立宣言は日本が戦いを終了した翌々日です。
    しかしオランダはこれを認めず、インドネシアを再植民地化しようとして英国の協力を得て軍事侵攻しています。
    この戦いは、昭和24年(1949年)12月のオランダ-インドネシア円卓会議によるオランダからの無条件での独立承認の日まで、まる4年間も続きました。

    この戦いで、インドネシアに残留した日本軍人3千人のうち、およそ千人が命を失ないました。
    ちなみにこのときインドネシアにいた華僑は、オランダ側に加担してインドネシア人に銃を向けています。

    ただし、国家というものは軍事的な戦いによって独立を勝ち得たとしても、それだけで国ができあがるわけではありません。
    国家が国家として成立するためには、国を営むための行政機構の整備や法整備、経済的繁栄を支えるための経済、財政政策などが必要です。
    これはたとえていえば、生まれたての赤ちゃんに、母親がいないと子が生き残れないのと同じです。

    ひとあし早く戦争を終結させていた日本は、まさに東亜諸国の母となって、各国の支援を行い、それぞれの国の法整備、行政機構の整備、企業誘致、観光資源開発などに、莫大な援助を行ないました。
    そしてその行動は、まさに母と同じく、無償の、ただ一方的な愛情によるものでした。

    東亜諸国のこうした独立への動きは、そのままアフリカの黒人諸国や、中東諸国にも伝播していきました。
    1900年のパリ・オリンピックの参加国は、世界24カ国です。
    これは参加しなかった国が多かったのではなくて、世界に「それしか国がなかった」からです。
    たとえば、いまのインドネシアからベトナム、ラオス、などのあたりは、フランス領インドシナという名の、フランスの一部の地方であり、インドは英国領のなかのインド地方でした。

    ところが2020年開催の東京五輪では、参加国数が205カ国です。
    これは、世界中のそれぞれの有色人種諸国が独立を果たした結果です。
    そしてその独立の背後には、日本による無償の、また無私の努力と、日本の激しい戦いがあったのです。

    年表学という学問分野があります。
    それは、年表に掲載するその年における最大のエポック(出来事)をひとつ決める学問分野です。
    では20世紀における最大の出来事とは何でしょう。
    それは、
    「500年続いた植民地支配の終焉」
    です。

    そしてこれを実現したのは、間違いなく日本です。
    もし、日本の戦いがなければ、おそらく21世紀となったいまでも、世界は欧米列強による植民地支配のままに置かれていたことでしょう。
    いまなお白人の贅沢のためだけに存在する、私権の認められないただの家畜、それが有色人種に与えられた地位となっていたことでしょう。

    日本は世界の良心ともいえる国です。
    その日本人が、どこかの国の真似をして、アコギな道に進んだとしても、日本にはそのような歴史も伝統も有りませんから、アコギな道では、おそらく日本は世界に敵いません。

    日本は、個人であっても国であっても、どこまでも良心と誠意の善の道を進む。
    清らかであたたかかくて、明るい、それが日本書紀に書かれた「清陽(すみてあきらか)」の心です。
    そして日本男児は、いくつになっても、そのような国柄を守る清潔で正義感あふれる男であらねばなりません。
    それが日本男児の「ますらをの道」です。
    「ますらを」とは、りっぱで勇気があってやさしい男を意味する大和言葉です。

    最後にひとつ。
    2万年前、まだ海面が低かった時代、日本列島から小笠原諸島、グアム島、パラオ、西パプア、フィリピン、台湾、琉球諸島、日本列島まで、向こうに見えている島伝いにぐるりと一周することができました。
    島伝いに船で進むと、何ヶ月もかかって、元の島にまで戻ってくるのです。
    もしかすると、わ(輪・環)のクニという言葉は、そこから来たているのかもしれません。

    ちなみに「ムー大陸」という言葉がありますが、古語で「む」は広大なを意味します。
    いま太平洋の海底を調べてみると、どこにもかつて大陸があったことを示す場所が存在しませんが、上に述べた環状の島々のことを、古代の人達が、「広大な環」という意味で「ムー」と呼んでいたことは、十分にありえることと思います。

    我々はこれまで、日本が農耕民族だと教えられてきましたが、農耕民族というのならチャイナもコリアも農耕民族です。
    けれど、どうみても、どこからみても、チャイニーズやコリアンと日本人とでは気質がまるで違います。

    理由は簡単です。
    もともと万年の単位で、わじん(倭人・環人)たちは、海洋で暮らす海洋民族であったのです。
    このことが日本人の精神性に深く関わっています。

    陸上に住む人々よりも、葦で造った帆船を操作して暮らすわじん(倭人・環人)たちの行動範囲は、ものすごく広いものとなります。
    そしてアカホヤの破局噴火のときに、そんなわじん(倭人・環人)たちが、まさに世界に散り、世界に文明文化を伝えてきたのではないか。

    また、モンゴルの大帝国を築いたのも、日本の黄金と、源義経のますらをぶりです。
    そのモンゴルが崩壊した後に起きたオスマン・トルコの興隆も、日本の黄金が影響を与え、幕末に日本から流出した黄金は、その後の欧米の動乱の原因となっています。
    そして先の大戦で、日本は世界から植民地を駆逐しています。

    その大戦で国土を焼土と化した日本は、またたくまに国土と経済を復興させ、日本が独立に導いた東亜諸国に経済的活力を与え、いままさに大東亜は繁栄を謳歌しています。
    そして豊かになった世界では、欧米も東亜諸国も、南米も中東やアフリカでも、日本アニメは大人気です。
    またMADE IN JAPAN製品は、世界で最も安全で安心で品質の良い製品に与えられたブランドとなっています。

    さまざまな意味において、日本は、歴史を通じて世界に良い影響を与え続けた国柄を持ちます。
    希望は、現実に根ざしたところから生まれます。
    陽(日、霊(ひ))はまた昇ります。


    この記事は2020年8月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
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  • 台湾有事と東沙諸島、そして金門島における根本博元陸軍中将の活躍


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    「金門島」はチャイナ福建省からわずか1.8kmのところに、まるでチャイナ大陸にへばりつくようにある島です。
    そこはいまも台湾の勢力圏です。
    台湾有事の際、真っ先に中共の標的になるのが、その「金門島」であると言われています。

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    日本に希望の火を灯す!

    台湾は、チャイナ大陸の福建省から南シナ海で180kmの距離にある島国です。
    ところがその台湾について不思議なことがあります。

    そのひとつが「金門島(きんもんとう)」です。
    「金門島」はチャイナ福建省からわずか1.8kmのところに、まるでチャイナ大陸にへばりつくようにある島です。
    そこはいまも台湾の勢力圏です。
    台湾有事の際、真っ先に中共の標的になるのが、その「金門島」であると言われています。

    ただし、「金門島」の対岸には、チャイナきっての商業の街であり、人口530万人(2022年)の「厦門(あもい)」があります。
    厦門は華僑の町であり、港湾都市であり、先進工業都市でもあります。

    もし台湾有事によって「金門島」が中凶の標的になると、厦門市の経済活動が一時的にせよ、停止することになります。
    あるいは、台湾側の反撃によって、厦門がミサイルの標的になります。
    すると困るのがチャイナにおいて莫大な利権を持つ華僑たちです。

    戦争は思想で起こることもありますが、ほとんどの場合、お金儲けが目的で起こります。
    台湾有事が起こりそうで起きないのは、台湾有事となれば、厦門の華僑たちが大損するという背景もあるのです。

    一方、我が国にとっては、台湾有事は重大な関心事項です。
    「東沙諸島」とい環礁の島があります。
    台湾の高雄から南西におよそ430km、香港の南東約340kmの南シナ海に浮かぶ小さな環礁です。
    戦前戦中までは日本領だったところで、戦後は台湾領になっている美しい島です。
    いまは、居住者はいず、若干の台湾軍が駐屯しているだけです。

    ところが台湾有事によって、この島を中凶に奪われると、日本はシーレーン、つまり石油を日本に輸入するための海の道を失います。
    つまりタンカーが南シナ海を通れなくなり、フィリピンの東側の太平洋上をタンカーの通り道にしなければならなくなります。
    ところがその道は、台風のルート上です。
    タンカーの走行にたいへんなリスクが生じるようになります。
    加えて、航海距離が伸び、その分の燃料費が高く付くことで、石油の代金が上がります。
    レギュラーガソリンがリッター500円くらい、軽油でも350円くらいになってしまうことになるのです。
    このことが、すでに鉄道輸送を失い、トラック輸送が中心となっている日本経済に与える影響は極めて大きいと言わざるを得ません。

    それだけに台湾有事は、もちろん台湾の人々の安心な暮らしを維持すること、琉球諸島を護ることを含めて、日本にとって重大な関心事となっています。
    けれど、そんな台湾有事にあたって、逆に中凶側のウイークポイントになっているのが、「金門島」であるわけです。

    それにしても、どうして「金門島」は、いまだに台湾の勢力圏なのでしょうか。
    それに、どうして台湾本島は、国共内戦当時、チャイナ共産党に攻められたなかったのでしょうか。
    大東亜戦争後、米英の支援を絶たれた国民党は、チャイナ各地で八路軍に敗れ続け、ついに蒋介石はチャイナ大陸を追い出されました。
    八路軍側が圧勝したからです
    にもかかわらず八路軍は、台湾本島に攻め入ることをしませんでした。
    なぜでしょうか。

    実は、ここに日本人が関係しています。
    これは戦後六〇年間、封印されていた史実です。

    チャイナで中華人民共和国が建国宣言する二ヶ月前、金門島で国民党軍と共産党軍による激烈な戦いが繰り広げられました。
    戦いは、国民党軍の完膚なきまでの完全勝利となりました。
    この戦い以降、チャイナ共産党は国民党への追いつめ作戦(攻撃)を止めました。
    だから台湾はいまも国民党政権が存続し、台湾は台湾として存続しています。

    このことは、金門島の戦いが、当時破竹の勢いだったチャイナ共産党軍に、国民党を攻める意欲さえも失わせた、ということです。
    共産党軍は、そこで何をおそれたのでしょうか。

    それが、「戦神(いくさかみ)」です。
    その国民党側に「戦神(いくさかみ)」がいたからこそ、チャイナ共産党軍は金門島ひとつを陥とすために、どれだけの兵力の損耗をするかわからないと恐怖したし、以後の台湾侵攻をあきらめたのです。

    この事実が明らかにされたのは平成二〇(2008)年のことでした。
    そして、このときの「戦神」こそ、日本陸軍の名将、根本博元陸軍中将です。

    根本博陸軍中将
    根本博中将



    根本陸軍中将は、明治二十四(1891)年に、二本松藩(福島県岩瀬郡仁井田村・現須賀川市)で生まれました。
    二本松藩は、織田信長から「米五郎左」と呼ばれて信頼された猛将丹羽長秀の直系の丹羽氏が治め、徳川将軍家への絶対の忠義を最大至上とした藩です。
    あまり知られていませんが、戊辰戦争において二本松藩は、最大の激戦と呼ばれる勇猛無比の戦いを行った藩としても知られています。

    そんな二本松に育った根本博陸軍中将は、仙台陸軍地方幼年学校を出て、陸軍中央幼年学校にあがり、陸軍士官学校を二十三期で卒業し、陸軍大学三十四期生として陸軍に任官、以後ずっと陸軍畑を歩み続けました。

    その根本陸軍中将がなぜ台湾の国境紛争に関わったのか。
    そこには理由があります。

    実は、終戦当時、根本陸軍中将は駐蒙軍司令官としてモンゴルにいたのです。
    八月九日以降、ソ連軍があちこちで略奪や暴行強姦、殺戮を繰り広げている情報は、もちろん根本陸軍中将のもとにもたらされました。

    そして八月十五日、中将のもとにも武装解除せよとの命令が届けられました。
    しかし、こちらが武装を解除したからといって、日本人居留民が無事に保護されるという確証は何もありません。

    考え抜いたあげく、根本陸軍中将は、
    「民間人を守るのが軍人の仕事である。
     その民間人保護の確たる見通しがない状態で
     武装解除には応じられない」
    とし、
    「理由の如何を問わず、
     陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。
     これに対する責任は一切司令官が負う」
    と、命令を発しています。
    駐蒙軍の意識は、これによって一様に高まりました。

    八月十九日、ソ連軍とチャイナ八路軍の混成軍が、蒙古の地へなだれ込んできました。
    彼らはソ連製T型戦車を先頭に押し出し、周囲を歩兵で固め、空爆を駆使し、数万の軍勢で一気に日本軍を踏みつぶそうとしてきました。

    激しい戦いは三日三晩続きました。
    結果がどうなったか。
    ソ連軍が敗退し、蒙古侵攻から撤収したのです。
    根本陸軍中将率いる駐蒙軍が戦いに勝利したのです。

    さらにこの戦いに先だち、根本陸軍中将は日本人居留民四万人のために列車を手配し、日本人民間人を全員、天津にまで逃しています。
    しかも各駅には、あらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運び、避難民たちが衣食に困ることがないように入念な手配までしていました。

    当時、張家口から脱出した当時二十五歳だった早坂さよ子さんの体験談がのこっています。

    「張家口は
     ソ連邦が近いのでソ連兵が迫ってくるという話に
     戦々恐々と致しました。
     五歳の女子と生後十ヶ月の乳飲み子を連れてとにかく、
     なんとか日本に帰らねばと思いました。
     駅に着きますと
     貨物用の無蓋車が何両も連なって待っており、
     集まった居留民は皆それに乗り込みました。
     張家口から天津迄、
     普通でしたら列車で七時間位の距離だったと思いますが、
     それから三日間かかってやっと天津へ着くことが出来ました。
     列車は「萬里の長城」にそって走るので、
     長城の上の要所々々に
     日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、
     皆で手を振りました。
     そして兵隊さん達よ、
     無事に日本に帰ってきてと祈りました」

    多くの日本人居留民の犠牲が重なった他の戦域とくらべ、なんとものどかな逃避行の手記です。
    それだけ根本軍団の手当が行き届いていたということです。

    八月二十一日、ソ連軍を蹴散らした中蒙軍は、夜陰にまぎれ、戦地から撤収しました。
    列車は全部、民間人避難のために使っていたから、軍人さんたちは徒歩で退却しました。
    途中の食料は、最早所有者のいなくなった畑のトウモロコシを生で齧(かじ)ったそうです。

    たとえどんなに苦労してでも、たとえ装備が不十分であったとしても、助けるべき者を助ける。
    そのために命をかけて戦い、自分たちは最後に帰投する。
    強いものほど先頭に立って苦労をする。
    苦労することを厭わない。
    これがかつての帝国陸軍軍人の姿であり、私たちの若き日の父や祖父の姿です。

     *

    モンゴルでの戦闘に勝利した根本陸軍中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯しました。
    そこで根本陸軍中将は、北支方面軍司令官兼駐蒙軍司令官に就任しています。
    このとき北支には、軍民合わせて三十五万人の日本人がいました。
    根本元陸軍中将は、その全部の命を預かる身となったのです。

    この頃チャイナでは、蒋介石率いる国民党軍が、幅を利かせ、あちこちで乱暴狼藉を働いていました。
    とりわけ日本人に対しては、あらゆる蛮行が加えられていました。
    ところが北支方面では、根本陸軍中将率いる北支軍が断固として武装を解かない。
    日本軍と国民党軍の小競り合いや、ソ連の支援を得た八路軍との戦いは、各地で無数にあるのだけれど、根本陸軍中将に率いられた日本の北支軍は、どの戦いでもチャイナ側を完膚なきまでに叩きのめしました。

    すでに装備も不十分、弾薬も底をつき出しているはずなのです。
    それでも日本軍を破れない。
    次第に根本陸軍中将の存在は、国民党軍や八路軍の中で、「戦神(しゃんせん)」と呼ばれて恐れられるようになりました。
    どんなにチャイナの軍が頑張っても、根本陸軍中将の軍を破れないのです。
    だから、日本人の根本将軍は「戦いの神」に違いない、人は神には勝てない、そう呼ばれるようになったのです。

    昭和二十(1945)年十二月十八日、蒋介石は、自身で直接北京に乗り込み、根本陸軍中将に面談を申し込みました。
    断る理由はありません。
    むしろ両者の争いを早急に終わらせ、国民党軍の協力を得て日本人居留民を無事、安全に日本に送り返すことの方が先決です。

    はたして蒋介石は、
    1 根本陸軍中将率いる北支方面軍とは争わない
    2 日本人居留民の安全と、無事に日本へ帰国するための復員事業への積極的な協力をする
    と約束してくれたのです。

    チャイナでは、約束というのは相手に守らせるべきもので、自分が守る気はまったくない、というのが常識です。
    ですから根本陸軍中将は、蒋介石の協力に感謝し、
    「東亜の平和のため、そして閣下のために、
     私でお役に立つことがあれば
     いつでも馳せ参じます」
    と約束しています。
    蒋介石側に約束を守らせるためには、こちらが強いというだけでなく、相手方へのメリットの提供が必要だったからです。

    会見の結果、在留邦人の帰国事業は、誰一人犠牲を出すことなく、約一年で無事全員が完了しました。
    こうして北支36万の日本人は、全員無事に日本に復員することができたのです。

    こうして全てを終えた根本陸軍中将は、昭和二十一(1946)年七月、最後の船で日本に帰国されました。

     *

    それから三年経った昭和二十四(1949)年のことです。
    チャイナでは国共内戦が激化し、戦いは共産党軍の圧倒的勝利に終わろうとしていました。

    そんな折に、東京多摩郡の根本元陸軍中将の自宅にひとりの台湾人青年が尋ねて来ました。
    彼は李鉎源と名乗り、台湾なまりの日本語で、
    「閣下、私は傳作義将軍の依頼によってまかり越しました」
    と語りました。

    傳作義将軍は、根本陸軍中将が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に世話になった恩人です。
    そのころ、チャイナ本土を追われた蒋介石の国民党は、台湾に逃れ、そこを国民党政権の拠点とし、福建省での共産党軍との戦いを繰り広げていました。
    八路軍との戦いは、国民党側が敗退につぐ敗退をしていました。
    このままでは蒋介石自身も命が奪われ、台湾が共産党の支配下に落ちるのも目前という状勢でした。

    「なんとか閣下のお力を貸していただきたい」
    そういう李鉎源の申し出に、根本陸軍中将は、いまこそ蒋介石が復員に力を貸してくれた恩義に報いるときだとおもいました。

    けれど、当時はGHQが日本を統治していた時代です。
    旧陸軍士官に出歩く自由はありません。
    そもそもMP(ミリタリー・ポリス)の監視付きです。
    しかも無一文。
    渡航費用もありません。

    けれどある日、根本陸軍中将は、釣り竿を手にすると、普段着姿のまま家族に
    「釣りに行って来る」
    といい残して家を出ました。
    そしてそのまま台湾に渡航するための工作活動にはいりました。

    ちなみに昔の帝国軍人というものは、仕事のことを一切家族に言わないのが常識です。
    軍事は機密事項であるし、軍は人と人との人間関係が極めて濃厚な場所です。
    あいつは気に入らない、などとついうっかり妻に話し、聞いた妻がたまたまその相手と会ったときにしかめつらでもしたら、ただでさえ濃厚な人と人との繋がりにひびがはいる。
    昨今では「軍は命令で動くもの」とばかり思っている人が多いけれど、それ以上に、みんなが納得して動くという状態を築いていたのが帝国陸軍です。

    やらされて戦うのではないのです。
    感情面と理性面の両方で、戦いを納得していたからこそ、帝国陸軍は強かったのです。
    このことは日本人なら、誰でもすぐに納得できることだろうと思います。
    昨今のエリートさんは、人間関係を上下関係だけでしかみようとせず、命令すれば下は動くと思っている人が多いようです。
    そういうものではないのです。
    みんなが納得し、自分の意思で動くようになったときに、はじめて本当の強さが発揮できるものです。

     *

    さて台湾を行きを決意した根本陸軍中将は、まず戦前の第七代台湾総督だった明石元二郎の息子の明石元長に会いました。
    明石元長は台湾で育ち、戦後は日本にいて台湾からの留学生や青年を援助していました。

    台湾に国民党がやってきて以降、彼ら国民党が、元からいる台湾人(旧日本人)を何かと差別し、いさかいが耐えないことは明石元長も承知しています。
    しかし蒋介石率いる国民党が、毛沢東の共産軍に負ければ、その時点で台湾は共産党政権に飲み込まれ、台湾の同胞たちはもっと悲惨な眼に遭ってしまいます。
    チベット、ウイグルの悲劇は、そのまま台湾民衆の悲劇となるのです。

    明石は、なんとかして軍事面で蒋介石を支援しなければならないと考えていました。
    そのためには、戦いの神様と呼ばれた根本陸軍中将を台湾に送り込むしかない。

    けれど終戦直後のことです。
    明石も無一文でした。
    根本陸軍中将に声をかけたはいいけれど、中将を台湾まで渡航させるための費用がない。
    当時、金策に駆け回っていた明石氏の手帳には、
    「金、一文もなし」
    と書かれています。

    明石は、資金提供者を求めて回り、ようやく小さな釣り船を手配しました。
    根本陸軍中将は、その釣り船に乗って、昭和二十四(1949)年六月二十六日、延岡の港から台湾に向かって出港しした。
    出港を見届けた明石元長氏は、東京の自宅に戻り、そのわずか四日後に過労で死んでいます。
    まだ四十二歳の若さでした。
    いまでいう過労死でした。
    どれだけご苦労されたかが偲ばれます。

     *

    根本陸軍中将を乗せた釣り舟は、普通なら琉球諸島を点々と伝いながら台湾に向かうところ、GHQに見つからないようにと、延岡から海を最短距離で一直線に、台湾を目指しました。
    ところが途中の海は、大しけとなりました。
    出港から四日目に船が岩礁に乗り上げ、船底に大穴をあけてしまいました。

    乗員全員で必死にバケツで海水を汲み出し、板を貼付けて応急処置し、しみ出す海水を何度もバケツで汲み出しながら、台湾に向かいました。

    そして出港から十四日をかけて、ようやく台湾北端の港湾都市の基隆(キールン)に到着したときは、船はボロボロ、乗っていた根本陸軍中将以下全員は、まるで浮浪者のような姿になっていました。
    これでは怪しい人と見られても不思議はありません。

    一行は全員、その場で不審な密航者として逮捕されました。
    ちなみに当時の中将の写真が残っていますが、平素どちらかというと下膨れで、どっしりとした体型の根本陸軍中将が、このときばかりは、頬がこけ、手足もガリガリに痩せ細っています。
    ご苦労がいかばかりだったか偲ばせます。

    根本陸軍中将は牢獄の中で、通訳を介して
    「自分は国民党軍を助けに来た日本の軍人である」
    と何度も主張しました。
    けれど看守達は、
    「何を寝ぼけたことをいっているのか」
    とまるで相手にしませんでした。
    まあ、身なりをみれば、当然の反応であったといえようかと思います。

    それでも二週間もすると、どうやら基隆(キールン)に、台湾を助けにきた日本人がいるらしいというウワサが広がりました。
    そのウワサを聞いたのが、国民党軍幹部の鈕先銘(にゅうせんめい)中将でした。

    鈕中将は、根本陸軍中将が北チャイナ方面軍司令官だった頃に交流があった人物です。
    この話を聞いたとき、鈕中将は反射的に椅子から立ち上がったそうです。
    根本陸軍中将の人格と信念を知る鈕中将は、
    「あの人なら台湾に来ることもあり得る」
    と直感したのです。

    できた人物ほど行動が早いものです。
    鈕中将はその場で車を基隆(キールン)に走らせました。

    鈕中将が来ると知らされた看守らは、慌てて根本陸軍中将ら一行を風呂に入れ、食事をさせました。
    根本陸軍中将らは、急に看守達の態度が変わったので、
    「いよいよ処刑か」
    と覚悟を決めたそうです。

    現れた鈕中将は、根本陸軍中将の姿をひとめ見るなり、
    「根本先生!」
    と駆け寄り、その手をしっかり握りました。
    それまで共産党軍にさんざん蹴散らされ、辛酸を舐めてきたのです。
    鈕中将にとって、戦神根本の出現が、どれほどありがたく、大きな存在であったことか。

    根本陸軍中将らは鈕中将とともに、八月一日に台北に移動しました。
    そこで国民党軍の司令長官である湯恩伯(とうおんぱく)将軍の歓待を受けました。

    湯恩伯将軍は、日本の陸軍士官学校を出た親日派の将軍です。
    日本語も流暢です。
    二人は、すぐに打ち解けました。

    さらに根本陸軍中将が台湾に来て、湯将軍と会っているというウワサは、蒋介石総統の耳にもはいりました。
    蒋介石も行動の早い人です。
    その場ですぐに根本陸軍中将に会見を求めました。

    根本陸軍中将が応接室に入ると、蒋介石は、
    「好(ハオ)、好(ハオ)、好(ハオ)、老友人」と固く手を握ったそうです。
    老友人というのは、古くからの信頼する友人という意味です。

    しばらく話が弾んだ後で、蒋介石は真剣な顔で根本陸軍中将に切り出しました。
    「近日中に、湯恩伯将軍が福建方面に行く。
     差し支えなければ
     湯と同行して
     福建方面の状況を見てきていただきたい」
    快諾した根本陸軍中将に、蒋介石は感激して
    「ありがとう、ありがとう」と繰り返したそうです。
    これは本心からのものでした。

    実はこの会見の二ヶ月前に、国民党は上海を失っていたのです。
    上海防衛軍を指揮していたのは、湯将軍でした。
    そこへ共産党軍が殺到したのです。

    上海を失った事で、国共内戦の行方は誰の目にも明らかとなりました。
    五日前には米国務省も、
    「チャイナは共産主義者の手中にある。
     国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」
    と、公式に国民党への軍事援助の打ち切りを発表していたのです。

    上海を失った国民党軍にとって、チャイナ大陸での最後の足場が福建でした。
    それも、海岸沿いにある商都、厦門(アモイ)界隈だけが、国民党が守る唯一のチャイナ大陸での足がかりとなっていました。
    つまりここを失えば、国民党は完全にチャイナ本土の支配権を失い、一方で共産党軍が、一気に台湾まで攻め込んで来る。
    そうなれば、もはや蒋介石の命もない・・という追いつめられた情況にあったのです。

    福建行きを承諾した根本陸軍中将を、湯将軍は「顧問閣下」と呼び、食事の際には一番の上席に座らせました。
    いくら根本陸軍中将が恐縮して辞退しても、湯将軍はそれを許さなかったといいます。
    戦を知る湯将軍は、それだけ根本陸軍中将の実力を理解していたのです。

    昭和二十四(1949)年八月十八日、根本陸軍中将ら一行は、福建に向けて出発しました。
    根本陸軍中将は、国府軍の軍服を与えられ、名前は蒋介石から贈られたチャイナ名の「林保源」を名乗りました。
    厦門(アモイ)に到着した根本陸軍中将は、同地の地形等を調べ、即座に「この地は守れない」と判断しました。

    商都、厦門は、厦門湾の中にある島です。
    北、西、南の三方を大陸に面し、狭いところではわずか二キロしか離れていない。
    三方から攻撃を受ければ、厦門はあっという間に陥落してしまいます。

    さらに厦門は商業都市です。
    二〇万人もの住民が住んでいる。
    そんな場所で戦えば、当然、民間人に犠牲が出る。
    さらに戦闘になれば、軍隊だけでなく、民間人の食料も確保しなければなりません。
    つまり、二〇万食が余計にかかるのです。
    それだけの食糧の供給は不可能です。
    つまり厦門では、持久戦ができないのです。

    一方、厦門のすぐ対岸にある「金門島」は厦門湾の外側に位置します。
    海峡の流れが速く、これを乗り越えるためには、速度の速い船を使ってもスピードは出ません。
    つまり上陸に時間がかかる。
    しかも島の人口はわずか四万です。
    島民達は漁業やさつまいもの栽培で生計を立てています。
    島では、食料自給が可能です。
    つまり大陸との通行を遮断されたとしても、金門島を拠点にすれば長期間戦い抜けるのです。

    その日の夜、根本陸軍中将は、湯将軍に、自分の考えを話しました。
    そして「共産軍を迎え討つのは、金門島をおいてほかにありません」と断言しました。

    しかし湯将軍は押し黙ってしまいました。
    すでに上海を失っているのです。
    厦門を放棄すれば、共産軍は厦門を落としたと宣伝するだろう。
    そうなれば湯将軍は再び敗軍の将となり、ひいては蒋介石の信頼をも失うことになるやもしれない。

    けれど根本陸軍中将は言いました。
    「いまは台湾を守ることが、
     国民党政府を守ることです。
     そのためには戦略的に金門島を死守することが力となります。
     自分の名誉ではなく、
     台湾を守る道筋をつけることが、
     軍人としての務めではありませんか?」

    この言葉に湯将軍は決断します
    「厦門は放棄。
     金門島を死守する!」

    基本方針が固まると、さらに根本陸軍中将は作戦を深化させました。
    共産軍は海軍を持っていません。
    彼らが海峡を渡るためには、近辺の漁村からジャンク船と呼ばれる小型の木造帆船をかき集めることになるだろう。
    ジャンク船なら、海で迎え討つこともできるが、それでは敵の損害は少なく、勢いに乗った共産軍を押しとどめることはできない。
    ならば敵の大兵力をまず上陸させ、その上で一気に殲滅して国民党軍の圧倒的強さを見せつけるしかない・・・。

    根本陸軍中将は大東亜戦争時に日本陸軍が得意とした塹壕戦法を再び採用します。
    海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させ、陸上に誘い込んで殲滅する。
    これは硫黄島や沖縄で、圧倒的な火力の米軍に対して大打撃を与えた戦法です。

    根本陸軍中将は、共産党軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築や、敵船を焼き払うための油の保管場所、保管方法など、日夜島内を巡りながら、細かなところまで指示を与えてまわりました。

    十月一日、毛沢東による中華人民共和国の成立宣言が発せられると、勢いに乗った共産軍は、廈門さえも捨て、金門島に立て篭る国民党軍に、
    「こんな小島をとるには何の造作もない、
     大兵力を送り込んで
     残党をひねり潰すだけのことだ」
    と豪語しました。

    十月半ばには金門島の対岸にある港でジャンク戦の徴発が始まりました。
    船がまとまった十月二十四日の夜です。
    そしていよいよ金門島への上陸作戦が始まりました。
    この日、金門島の海岸は、上陸した共産軍二万の兵士であふれかえりました。

    彼らが上陸する間、島からは一発の砲撃も銃撃もありませんでした。
    共産軍は悠々と全員が島に上陸しました。
    そして露営陣地の構築に取りかかりました。
    そのとき・・・。
    突然彼らが乗船してきた海上のジャンク船から火の手があがりました。

    火の手はあっという間に広がりました。
    油を注がれた木造の小船は、次々と燃え上がりました。
    つまり、共産軍は、完全に退路を絶たれたのです。

    そして夜が明けました。

    辺りが明るくなりかけたころ、突然島の中から砲撃音が鳴り響きました。
    そしていままで何もないと思っていたところから、突然国民党軍の戦車二十一両が現れて、三十七ミリ砲を撃ちまくりながら、海岸にひとかたまりになっている二万の共産党軍に襲いかかりました。

    逃げる船は既にありません。
    共産軍は、国民党軍の戦車隊が出てきた方角とは反対側、つまり金門島の西北端にある古寧頭村に向かって逃げ落ちる他ありません。

    これまでずっと敗北を続けてきた国民党軍です。
    ほとんど初めてと言ってもよいこの快勝に、兵士たちは血気にはやりました。
    そしてそのまま一気に古寧頭村に追い打ちをかけようとしました。

    ところが根本陸軍中将は、これに待ったをかけました。
    「このままでは巻き添えで、
     一般の村民に被害が出る。
     村人たちが大勢殺されたら、
     今後、金門島を国民党軍の本拠として
     抵抗を続けていくことが難しくなる」

    そして、古寧頭村の北方海岸にいる戦車隊を後退させると、南側から猛攻をかけさせました。
    そのうえで、敵に逃げ道を作って北方海岸方面に後退させ、そこを砲艇による海上からの砲撃と、戦車隊による挟み撃ちで、敵を包囲殲滅するという作戦を湯将軍に提示しました。
    湯将軍は、根本陸軍中将のあまりの作戦見事さに、これをそのまま採用しました。

    十月二十六日午後三時、根本陸軍中将の作戦に基づく南側からの猛攻が始まりました。
    敵は予想通り、村を捨て、北側の海岸に向かって後退しました。
    そこにはあらかじめ、砲艇が待機していました。

    砲艇が火を吹く。
    反対側から戦車隊が迫る。
    共産党軍に逃げ場はありません。
    砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化し、午後十時、共産軍の生存者は武器を捨てて全員降伏しました。

    この戦闘で共産軍の死者は一万四千、捕虜六千となりました。
    国民党軍は、怪我人を含めて三千余名の損傷でした。
    戦いは、あまりにも一方的な国民党側の大勝利に終わったのです。

    わずか二昼夜の戦いで、共産軍の主力が殲滅したというウワサは、あっという間に広がりました。
    これまで敗退続きだった国民党軍がいきなり金門島で大勝利したのは、「戦神」と呼ばれる日本人の戦闘顧問がついたからだとも・・・。

    日本陸軍の強さは、当時、世界の常識です。
    その日本の戦神が、国民党軍のバックについた。
    それは共産軍からみれば死神以上に恐ろしいことです。

    しかも悪いことに、このときの共産党軍は、中華人民共和国の建国宣言をしたばかりでした。
    国民党に対する圧倒的勝利が連続していたから、気を良くして建国宣言したのです。
    ところがその基盤が固まらないうちに、国民党軍に完膚なきまでに叩きのめされたとなれば、共産党の威厳を損ねることになります。
    そしてこういうときの共産党のやり方は、決まっています。
    「すべてなかったことにする」です。

    こうして共産軍の進撃は完全に止まり、金門島は70余年を経た今日も、台湾領でいます。

    十月三十日、湯将軍ら一行は、台北に凱旋する。湯将軍一行を迎えた蒋介石は、このとき根本陸軍中将の手を握って「ありがとう」とくり返したといいます。
    けれど根本陸軍中将は、
    「北支撤退の際、蒋介石総統にはたいへんな恩を受けた。
     自分はそのご恩をお返ししただけです」
    と静かに語りました。

    結局根本陸軍中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また、日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないからと、金門島での戦いに際しての根本陸軍中将の存在と活躍については、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしました。

    ただ、行きのときの漁船での船酔いがよほどこたえたのか、はたまた蒋介石のお礼の気持ちか、帰りは飛行機で帰国されています。

    羽田に着いたとき、タラップを降りる根本陸軍中将の手には、家を出るときに持っていた釣り竿が、一本、出たときのままの状態で握られていました。
    それはあたかも、
    「ただちょいとばかり釣りに行ってただけだよ」
    といわんばかりの姿でした。

    中将は家を出るとき、家族に「釣りに行って来る」と言って出られました。
    そのときの釣り竿をずっと持っていたのです。
    どんなに激しい戦地にあっても、途中にどんな困難があっても、そして何年経っても、決して家族のことを忘れない。
    それは根本陸軍中将の、父として、夫としての家族へのやさしさだったのかもしれません。

    奥さんや娘さんも偉いです。
    ただ出ていったときと同じ姿で、まるで出かけたその日の夕方にでも帰ってきたかのように釣り竿を手に帰宅した夫に、ただいつもと同じように「おかえりなさい」と言って、夕餉を用意し、そのまま夫が死ぬまで、
    「あなた、どこに行っていたんですか」と問うこともしませんでした。

    軍人の妻とは、そういうものと心得ていたからと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、釣り竿を持って出ていったその日から、夫は突然、行方不明になったわけです。
    奥さんはその間、子を抱えて、終戦直後という食料も衣類もない過酷な時代を、ひとりで乗り越えるしかなかった。
    さぞかしたいへんなご苦労があったものと思います。

    けれど3年経って夫が、つい今朝出ていって、まるでその日の夕方帰宅したかのように帰ってきた。
    その日も、それからのまる40年間も、奥さんは夫が死ぬまで、一度も夫に、どこに行っていたのか、何をしていたのかと尋ねることをなかったし、いない間の苦労を夫に咎めだてすることも一切なかったといいます。

    日本では古来、男女は対等です。
    どちらが上ということはありませんし、支配と被支配の関係でもありませんし、隷属の関係でも、依存関係でもありません。
    対等ということは、男女がともに精神的に「自立」しているときにはじめて成り立つものです。
    そして咎めだてしなかったということは、そこに絶対的な夫婦の信頼があったということです。

    また娘さんも同様に、父をまったくとがめることをしなかったそうです。
    つまり親子の間にも、自立と本物の「信頼」という強い絆があったのです。
    すごいことだと思います。

    いつの日か、根本博陸軍中将ご夫妻の映画ができたら良いなと思っています。
    そしてそのような映画が、上映中止に追い込まれることなく、多くの日本人の賛同を得ることができる、そのような日本にしていくことこそ、いまを生きる私たちの使命なのではないでしょうか。


    ※この記事は、2012年11月の記事のリニューアルです。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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