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倭塾を9月23日(土曜日)13時半から開講します。場所は東京・富岡八幡宮の婚儀殿2Fです。
今回のテーマは、「楽しく学ぶ童子教」です。詳細は↓
https://www.facebook.com/events/976326236830525/この日の倭塾では、終了後に懇親会を開催します。懇親会は事前申込が必要です。懇親会参加ご希望の方は下のURLからお申し込みください。
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https://x.gd/0m2AW■□■━━━━━━━━━━━━━■□■海から海へ、島から島へ。 気候の良い美しい島々を転々としながら、大海原を駆けて暮らす。 そんな暮らしを、私達の祖先はしていたのかもしれません。
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日本に希望の火を灯す!トップの絵はディズニーアニメの『モアナと伝説の海』のポスターチラシに使われていたものです。
この映画、大好きで、これまでいったい何回観たことか、というくらい、家族や孫まで揃って鑑賞させていただいています。とてもおもしろいアニメ映画です。
我々戦後教育を受けた者は、縄文時代とか弥生時代という時代区分が常識です。
ところが戦前戦中までの日本には、縄文・弥生といった時代区分はありません。
戦前戦中までは皇国史観ですから、土器の区分としての縄文・弥生の区分はあっても、時代区分としての縄文時代、弥生時代という用語はなかったのです。
戦後は、その皇国史観がGHQによって否定されたことで、にわかに考古学研究と発見が相次ぎ、このためもともと土器の区分であった縄文弥生の用語が時代区分としても用いられるようになりました。
ほんの半世紀前までは、スマホなんてものはこの世に存在しなかったのに、いまでは誰もがあたりまえに持つ時代になっています。
時代はどんどんと変化していくわけですが、歴史学の世界も、これと同じで、日々様々な研究成果が発表されながら進化しています。
ですから、過去に教科書に載っていたから、間違いを教えられていたのではなく、学会の常識が進歩し、変化しているのです。
だいたい学会では、いま定説となっていることでも、5年もすれば「?マーク」が付くようになり、20年もすると、それまでの説がひっくり返ります。
それは「間違っていた」のではなく、それだけ研究が日々進化しているということです。
新説は、毎日のようにどこかで発表されますが、その新説が学会の定説になるためには、裁判の証言と同じで、あらゆる角度からの反対尋問にさらされなければなりません。
そしてその反対尋問に対して、ひとつひとつ丁寧に回答していって、はじめてその説が定説になります。
その意味で、新説を述べるということは、ある意味、常に袋叩きの洗礼を受けることを覚悟する、ということでもあります。
世の中で常識化する、ということは、実はそういうことです。
逆に言えば、反論がなされない(反対尋問の洗礼を受けない)ということは、まったく世の中から相手にされていないということでもあります。
ですから、いまある定説は、否定されるのが当然のことですし、新説もまた否定されるのがあたりまえのことなのです。
よく、否定された、自分は被害者だ、という人がいますが、実は肯定も否定も、どちらも世の中から相手にしてもらえた(注目された)という意味で、それはとても良いことなのです。
大切なことは、肯定も否定も、どちらも幼児のようにただ言い張るのではなく、真面目に研究すること。
そして、当該議論はいくら激しくても良いけれど、相手の人格攻撃だけは絶対にしないこと。
簡単に言えば、大事な議論をしているのに、「お前のかあちゃん、でーべそ!」と言った瞬間に、議論はそのような発言をした者の負けになるし、発言権さえも失うのです。
これが万国共通の議論のルールです。
さて、縄文土器という用語は、実は東京品川区の大森貝塚に由来します。
実は、9月16日は、その大森貝塚でエドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse)が第1回の発掘調査を行った日です。
明治10年(1877年)のことです。
モースは米国の動物学者で、招かれて東大教授となった人ですが、同年6月に、たまたま横浜から新橋へ向かう途中、列車の中から崖に貝殻が積み重なっている様子を見つけるのです。
そしてその第一回の発掘調査を行ったのが、9月16日であったのです。
この発掘調査では、土器や土偶、土製耳飾り、ニホンジカの角で出来た釣針、石斧、石のヤジリ、鹿や鯨の骨や人骨片などが発掘されています。
そしてこのときに発掘された土器に縄目の模様が付いていたことから、最初は索文土器とか、大森貝塚から出土したから貝塚土器などとも呼ばれるのですが、それがまわりまわって、いつのまにか縄文土器の名が定着することになりました。
この発見が、我が国における考古学の始まりです。
というのは、江戸時代までの日本では、たとえば東北の亀ヶ岡遺跡で発掘された土器、土偶などは、単に地中から掘り出された過去の遺物として、いわば観光土産品のような形で国内で売買され、その一部が海外に流出していたような状況であったわけです。
古いものであるということはわかるけれど、それがどのような価値を持つ物かがわからない。
だから、単に「あった、見つけた」だけのものであったわけです。
これが大森貝塚の発掘以降、我が国でも西洋にならって、遺跡から出土する遺物や遺構などの史料をもとに、人類の活動とその変化を研究する学問としてのアキアロジー(Archaeology)を、日本語で「考古学」として学問の一分野が形成されました。
すると早速、なんとその考古学の本拠地ともいえる東京帝国大学の敷地内である東京市の向ヶ岡の弥生(やよい)から縄文式の土器と、縄文土器とは明らかに製法の異なる土器が、ほぼ完全な形で出土します。
そこでこの土器が、弥生式土器と呼ばれるようになるわけです。
ところが、こうした縄文土器、弥生土器の考古学的発掘と、歴史学が結びつくことはありませんでした。
というのは、歴史学というのは、過去に起きた事実を、時系列に沿って論理的かつ再現性があるようにストーリー化していく学問です。
つまり、土器が出た、というだけでは、ストーリーが組めないのです。
こうなると考古学の発見を歴史学に反映させることができません。
当時の歴史学は、あくまで2600年以上昔の初代神武天皇以前は、いわゆる神代(かみよ・しんだい)であって、神々の時代なのだと規定されていましたが、では縄文弥生の土器群は、神々が使っていたものと規定されたのかというと、そうはならないのです。
なぜなら、土器があるだけで、ストーリーがない。
ちなみにここでいう神々とは、西洋でいう人智を超越した唯一絶対神ではありません。
これは我が国の古くからの考え方で、計算してみるとわかりますが、700年もさかのぼったら、日本全国の人々は、全員が親戚になります。
ですから400年くらい前までは、○○家のご先祖という言い方をしますが、700年以上さかのぼると、もはや○○家のご先祖とばかりはいえず、天下万民(つまり日本に住む日本人のこと)全員が血の繋がりをもってしまいますから、それ以前の時代の人々は、ご先祖をずっと上(かみ)の方にさかのぼった、我々日本人の共通のご祖先という意味で、「かみ(神・上)」と呼んだわけです。
そしてその「人々の共通のご先祖の時代」としての「神々の時代」の出来事を時系列にまとめて整理して筋書き化したものが、神語(かむがたり)とされていました。
ところが戦後にGHQによって神話教育が否定されると、単に土器の区分にすぎなかった縄文土器、弥生土器の名称が、戦後には時代区分としての「縄文時代、弥生時代」へと変化しました。
このことは、実はもともとは「縄文時代、弥生時代」という時代区分は、我が国の神話教育を否定するための政治用語であったことを意味します。
なんと歴史用語ではなかったのです(笑)。
ところが神話教育をしたら、かえってたいへんなことになってきました。
まず、占領期間中に、考古学への関心が一気に高まってきました。
先鞭を付けたのが、市井の考古学研究家の相沢忠洋(あいざわただひろ)で、彼は納豆などの行商をするかたわら、昭和21年に群馬県赤城山のふもとで相次いで石器を発見するのです(岩宿遺跡)。
そして昭和24年には、明らかに人工品と認められる槍先形石器(黒曜石製の尖頭器)を発見しました。
石器は、自然石をそのまま使用していた時代が旧石器時代、自然石を人間が使いやすいように加工して使うようになってからのものが新石器時代と区別されます。
そして世界の新石器時代が、おおむね8千年ほど前とされていた時代に、なんと相沢忠洋は、3万年前に日本では新石器時代が始まっていたことを証明してしまったのです。
新石器は、世界で古いものとしては、
ヴォレンドルフ遺跡(オーストリア) 約2万5,000年前
コスチョンキ遺跡(ロシア) 約1万4,000年前
アフォントヴァゴラ遺跡(ロシア) 約2万年前
ナワモイン遺跡(オーストラリア) 約2万1,500年前
マランガンガー遺跡(オーストラリア) 約2万9,000年前
などがあります。
我が国で発見された磨製石器は、それらのいずれのものよりも古いものです。
そしてさらにいうと、これら世界で発見された古い時代の磨製石器は、その後、これら磨製石器を用いていた種族が、どのように文化を発展させていったのかを示す遺物遺構がまったく発見されていません。
つまり、ポツンと、これらの石器が、過去の古い時代のものとして、いわば「取り残されている」わけで、むしろ、そうした磨製石器文化を持った人が、たまたまそこにやってきたのだと解釈したほうが、よさそうなものなのです。
ところが岩宿遺跡の周辺には、縄文時代の遺跡がいくつもあります。
つまり、発見された3万年前の槍先形石器を使っていた人たちが、その後、どのように文明を発展させてきたのかを時代ごとに追うことができるという、世界に類例のない発見となったのです。
ちなみに石器というと、なにやら原始的なものというイメージをお持ちの方も多いのではないかと思いますが、実は石器は、鉄器が普及しなかった地域では20世紀になってから普通に使われているものですし、また石器の製造技術は、なんと現代の最先端の半導体のシリコンウエハースの研磨技術の基礎にもなっているのです。
20世紀になってからも石器時代さながらの生活が営まれている地域もあれば、半導体加工にまで進歩した地域もあります。
この違いがどこから生まれているのかと言うと、実は「脅威への対抗のための技術の蓄積」によります。
この脅威が、西欧では戦いや殺戮であったし、日本の場合は自然災害でした。
逆に言えば、気候の良い南の島であれば、石器時代のままの生活でも、一生、食べるに困ることがないのです。
さて、新石器は、相沢忠洋の発見のあと、さらに調査が進み、我が国では最も古いものはおよそ4万年前には磨製石器が造られていた・・・つまり世界最古の石器文明が営まれていたことが、確認されるまでに至っています。
とりわけ長野や沼津で発掘された磨製石器は、なんとさらに8千年さかのぼる3万8千年前という途方もなく古い時代のものであることが確認されました。
しかもその磨製石器は、なんと伊豆諸島の神津島産だったのです。
伊豆半島の突端から、神津島までは、海上57キロの海路になります。
外洋の速い流れを越えて神津島まで往復する。
しかも帰路には、石を運んでくるわけです。
どう考えても、丸木舟や、丸木につかまって泳いで渡ることができません。
ということは、その時代に、すでに我々の祖先たちは、石を積んで海上57キロの道を船で往復できるだけの船舶技術と、航海技術を持っていたということになります。
そしてそのような船は、今でも南洋の島々で用いられています。
それが、葦でできたアウトリガー付きの帆掛船です。(トップの写真は木造船を想定しています)
万年の単位の昔と、現代とを結びつけるのはおかしいと思われるかもしれませんが、食べ物が十分にあり、気候も良ければ、人は原始生活のままで何の不自由も感じないものといえます。
南洋の島々の人々が、つい何十年か前まで、太古の昔さながらの生活スタイルであったのも、それ以外が生きるために必要がなかったからと言えるからです。
さらに、万年の単位で時代をさかのぼるときには、海岸線を今と同じだと考えてはいけません。
現代の海面の高さは、この20万年くらいの間では、かなり高い時代にあたります。
4万年前から3万年前あたりですと、海面はいまよりも70〜80メートル低く、さらに2万年前になりますと、海面はいまより140メートルも低くなります。
これは、氷河期の影響で陸上にたくさんの氷が出来、その分、海面が下がっていたからです。
逆に、高温化が進みますと、陸上の氷が溶け出すだけでなく、海水そのものが熱膨張を起こします。
すると海面が、これまでの最大で、いまより5〜20メートル高くなります。
そうなると世界の大都市はおおむね水没します。
このような次第で、神津島に渡って磨製石器を手に入れていた3万年前から4万年前の時代、そして特に海面が低かった2万年前まで時間をさかのぼりますと、
九州から台湾、フィリピンにかけて、
九州からパラオにかけて、
関東から、グアム島にかけて、
それぞれ、下の写真の薄い水色のところが、ほぼほぼ陸上に突出します。
まるでパラオやフィリピンの島々のように、向こうに見える島から島へと、有視界で航海しながら、南へと進むことができたわけです。
まるで『モアナと伝説の海』で描写されたような、島伝いに海を旅する海洋民族が、実際にいたであろうことは、十分に考えられることになるわけです。(下図)

その時代の海は、公害なんてありませんから、現代の南太平洋の島々の海のように、まさに透き通った海であったことでしょう。
とりわけこの海面が低かった時代には、ユーラシア大陸と北米大陸を隔てるベーリング海峡が、陸地によって封鎖されていた時代です。
薄い水色のところは古代には陸地だった

つまり氷河期であったとはいえ、北極海の冷たい水は太平洋に流れ込まず、太平洋内は赤道からの暖流が還流していたでしょうから、上に述べた島々のある辺りは、氷河期とはいえ、たいへんに暖かったであろうことが推定できます。
海から海へ、島から島へ。
気候の良い美しい島々を転々としながら、大海原を駆けて暮らす。
そんな暮らしを、私達の祖先はしていたのかもしれません。
そもそも人間がどうして「裸のサル」になったのかといえば、陸上の特にジャングルでの生活や、寒冷地での生活なら、やはり猿のように体毛があった方が合理的なのです。
男性の方ならご理解いただけると思いますが、素裸で森や草むらを駆けたら、10メートルも進まないうちに大事なところが草で切れて血まみれになってしまいます。
ところが小さな島での暮らしですと、猿のように体毛があるとかえって生きづらくなります。
なぜなら、海に潜って魚を取るからです。
小島が暮らしやすいのは、東西南北どちらから風が吹いて海が荒れても、島の反対側なら海は凪ぎ、漁獲も貝拾いも、海藻取りもできて、飢える心配がないからです。
ただし、ある程度の島の大きさは必要です。
なぜなら、そうでなければ真水が取れないからです。
海に潜るには、体毛がない方が体を乾かしやすいし、大きな魚を船に引き上げるには、四足歩行よりも、踏ん張りの効く二足歩行の方が合理的です。
ただし、島の暮らしには、ひとつ難点があります。
それが、子孫が増えて島の人口が増えると、その島だけでは食料を賄い切れなくなる、ということです。
古事記を読みますと、イザナギとイザナミの子供達が、国生み神話の中に、たとえば伊予に愛比売(えひめ)、讃岐の国には飯依比古(いいよりひこ)が向かったといった記述があります。
人口が増えてきて、その土地だけでは全員が食べていけなくなった時、結婚した兄貴や姉が別の土地を求めて、他の土地に渡る。
これは普通に起こり得ることです。
そしてこのような習慣が、島で暮らしていた3〜4万年前からの我が国の伝統であるとしたら・・・。
さらに、別の島に渡ろうとするときには、航海の都合上、海が凪(なぎ)のときに、波(なみ)に乗って出発する必要があります。
さらに島に渡るのは、必ず若い男女でなければなりません。
なぜなら、そうでなければ、行った先の島で子をなすことができないからです。
「いざ、(海が)凪(なぎ)だ」
「いざ、(海の)波(なみ)に乗って、出かけよう!」
祖先たちのこのような活動が、もしかすると「イザナギ、イザナミ」という名前に象徴されているのかもしれません。
日本は、世界最古の歴史を持つ国だと、よく言われます。
けれどそこでいう「最古」というのは、巷間いわれる5千年とか8千年と言った規模のものではなくて、実は、万年の単位にまでさかのぼる、とんでもなく古い歴史です。
そして大切なことは、いつの時代にあっても、子や孫は、かわいくて仕方がないものだ、ということです。
子や孫には、絶対に幸せになってもらいたい。
そう思うのは、ごく自然なことです。
そうした愛情の何十、何百の世代の積み重ねの上に、私達の命があります。
そしてその積み重ねは、単に生命体としての命の連鎖というだけでなく、愛情の連鎖でもあるのです。
※この記事は2021年9月の記事のリニューアルです。
日本をかっこよく!お読みいただき、ありがとうございました。
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第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F