• 新たな自分に挑戦する


    そもそも何が正しいかなんて、時代や民族や場所によってまちまちです。
    ですから、どれが正しい、どれが間違っているというのはおかしな議論です。
    どの思想からも、どの解釈からも常に自由であること。
    そして常に改善し改革し、新たな自分に挑戦し続けること。
    それが一番大事なことなのだと思います。

    20221018 夜明け
    画像出所=https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/dawn?q=dawn+
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    日本に希望の火を灯す!

    今日、10月31日はハロウインです。
    ハロウィンというのは、もともとこの日がケルト人の暦で大晦日にあたり、この日に先祖の霊がたちが帰ってくるという、日本で言うならお盆のようなお祭りが起源です。
    これがキリスト教と混じり、悪霊がやってくるという真逆の意味になって、そうした魔物たちから身を守るために人々が仮装をしたり仮面をつけたりするようになる。
    それがさらに米国に伝わって、子どもたちのお祭りになったものとされます。
    つまり、日本とはなんの関係もないお祭りです。

    ところが先日岸和田市にお伺いしたところ、街中で夜、辻占いのようなテーブルが出て、そこでロウソクを点けて、仮装した爺ちゃん、ばあちゃんたちが子どもたちを迎えるというイベントが行われていたのです。
    そしてそのイベントに、神社やお寺さんが全面的に協力をしていました。
    「素晴らしい!」と思いました。

    信仰の純粋さを求めるのではなく、町おこしや、よそのお年寄りと子どもたちとの交流、神社やお城といった古くからの施設と子どもたちとの交流、つまりそうした取り組みによって、岸和田の子どもたちや、若いご夫婦が、街の歴史や伝統に接し、街を郷里として愛するようになる。
    そのことは、街を良くする第一歩となるものであるからです。

    キリスト教やイスラム教等では、信仰の純粋さを求める人たちの話をよく聞きます。
    肉体は穢れたものだからと、ひたすら肉体を苛(さいな)んだり、純粋な信仰のためにテロを働いたり。
    彼らは、ひとつの信仰のために、それ以外の多くの人々が殺戮されても、それが当然と考えるかのようです。

    同様に我が国においても、思想や宗教に純粋さを求める人たちがいます。
    たとえば革命思想かそうでないのかという議論から、かつては連合赤軍事件なんてのが起こりましたし、
    近年では「保守か、保守でないのか」なんて議論がそれにあたります。

    けれど私たちは、思想を持つ生き物である前に、そもそも生き物としての人なのです。
    そして何が正しいかなんて、人の頭脳を超えるものです。
    人にできることは、いまこの瞬間に、いまあることを改善し、改革し、いままでできなかったことや、新しいことに、勇気を持ってチャレンジすること。
    それだけです。

    たとえとして、保守であれば、真正であることが求められたりもします。
    保守としての純粋化を追求すること。
    それ自体は、自己へのチャレンジなので良いことだと思います。
    しかし真正であろうとすることによって、排他的になり、社会性を失えば、それは害毒になります。
    真正を追求することと同時に、社会性にもチャレンジしていく。
    そういうことが大切なのではないかと思います。

    お名前を出して恐縮ですが、百田先生は新党を立ち上げられました。
    彼は、新しい小説にチャレンジし、国史にチャレンジし、言論活動にチャレンジし、そして今度は新党にチャレンジしています。
    その意味で、先生のチャレンジ精神は素晴らしいと思います。
    ただし、思想として純粋さを追求するあまり、排他的敵対的になったら、ちょっとまずいのかもしれません。

    少し考えたら、誰にでもわかることです。
    人には、純粋も真正もないからです。
    誰もがどこか穢れており、誰もがどこか心得違いをしています。
    いまは正しいと思われていることも、神々の視点から見たら、大きな履き違えかもしれません。

    ひと昔前までは、モノを得ること、高級品を得ること、お金を得ること、財産を得ることが良いことであり、正しいことであるとされました。
    その後には、とにかく安いものを得ることが正しいこととされる時代もありました。
    けれど今は、モノや値段より、心の豊かさや満足といったことが、求められる時代になりました。

    時代が変われば、価値観は変わるのです。
    何が正しくて、何が間違っているかなど、神々でもなければわからないことです。
    そうであれば、純粋も真正も、それが正しいかどうかなど、わかるものではありません。

    人はもっと自由で、かつ経験的だと思うのです。
    そして人でなければできないことがあると思うのです。
    なぜなら、人は、霊止(ひと)だからです。
    人の体は霊(ひ)の乗り物だというのが、神話の時代から続く日本人の思考です。
    肉体は、動くために食を摂り、子孫を残すために生殖に励みます。
    バクテリアから昆虫、動植物から、一番大きな霊長類である人間も、皆同じです。
    人は、肉体の欲求に縛られています。

    霊(ひ)は自由ですから、地球の反対側にも、他の惑星にも、過去にも未来にも、宇宙の果にだって思うだけで行くことができます。
    けれど触れることができないのです。
    体感することができないのです。
    だから霊(ひ)は、肉体を手に入れ、様々な体験をし、さまざまなチャレンジをします。
    そうすることで、自由な霊(ひ)が、経験という貴重なものを手に入れることができるからです。

    思想や、歴史、哲学等には、さまざまな思考があり、それぞれが正しいと自己を主張しています。
    人の顔や形が違うように、さまざまな形があります。
    それが一番良い状態だと思うのです。
    みんな同じなら、それはファシズムです。

    どちらが正しい、ではないのです。
    みずからは純粋真正を追求しながら、同時に他者の思考思想への許容力を持つ。
    そうすることで、ひとつの思考からの自由を手に入れ、さらに成長し、愛を深めていく。

    愛することというのは、異なるものを愛でる心を持つことです。
    人を愛するのなら、人が持つ異なる思想も愛する。

    そもそも何が正しいかなんて、時代や民族や場所によってまちまちです。
    ですから、どれが正しい、どれが間違っているというのはおかしな議論です。
    どの思想からも、どの解釈からも常に自由であること。
    そして常に改善し改革し、新たな自分に挑戦し続けること。
    それが一番大事なことなのだと思います。


    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 昔の解釈、いまの解釈


    昔の子供たちは、誰もが学校に行きたがったし、家の用事で学校を休まなければならないときは、友達にノートを持ってきてもらって、
    「今日、先生、どんなお話をしてくれた?」と、瞳を輝かせて、授業内容を教わりました。
    どうしてそのようなことが起きていたのでしょうか。

    20221024 尋常小学校授業風景
    画像出所=https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f444549948
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    日本に希望の火を灯す!

    具体例があったほうがわかりやすいと思いますので、教育勅語を例にとります。
    全文というわけにはいきませんので、書き出しの部分です。

    *****
    朕惟フニ
    我カ皇祖皇宗
    國ヲ肇ムルコト宏遠ニ
    德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
    我カ臣民
    克ク忠ニ
    克ク孝ニ
    億兆心ヲ一ニシテ
    世世そノ美ヲナセルハ
    此レ我カ國體ノ精華ニシテ
    敎育ノ淵源
    亦實ニ此ニ存ス

    *****

    こうした文語体の文章は、わかりにくくて難しいので、昨今では現代語に訳されることが多いです。
    たとえば明治神宮で発行している「教育勅語」のリーフレットには、次のようにあります。

    *****
    国民の皆さん、
    私たちの祖先は、
    国を建て初めた時から、
    道義道徳を大切にする、という大きな理想を掲げてきました。
    そして全国民が、
    国家と
    家庭のために
    心を合わせて力を尽くし、
    今日に至るまで美事な成果をあげてくることができたのは、
    わが日本のすぐれた国柄のおかげであり、
    またわが国の教育の基づくところも、
    ここにあるのだと思います。

    *****

    こうして現代語訳していただけることは、最初の取っ掛かりとしては、文語体の古い文章に馴染みのない現代人にとっては、たいへんにありがたいことです。
    けれど、それでわかったような気になっていると、実にとんでもない大事なことを見落としてしまいます。

    昔の人は、ひとつひとつの単語や漢字ごとに、その深い意味を学んでいました。それが日本の教育でした。
    ですから、教育勅語の文が、文語体で書かれているのは、ただ難しく書こうとしているのではなく、あたりまえのことですが、そのひとつひとつの文字や漢字の意味に、込められた思いがあるからです。
    つまり、そうした言葉のひとつひとつの深い意味を、昔の人はしっかりとわきまえながら、その意味を受け止めていたわけです。

    それがどういうことなのか、上の教育勅語の文で説明を試みてみます。
    (これが完璧だというわけではありません。他にももっと深い意味があると思いますが、わかりやすくできる範囲で述べてみたいと思います。)

    「朕(ちん)惟(おも)フニ」
    ここで「惟(おも)フ」という単語が用いられています。
    「惟(おも)フ」は「思う」と違って、スズメがチュンチュンと跳ねるように、どこに飛んでいくかわからない千路に乱れた心を意味します。
    ですからここは、単に「思っている」ということではなくて、
    「わたくしが千路に乱れる心でいろいろと乱れ考えてみますに」
    といった意味になります。

    「我カ皇祖皇宗(こうそこうそう)」
    「我が皇祖(こうそ)」は、この文を下賜されたのは明治天皇ですから、明治天皇の皇祖、すなわちご皇室のご祖先という意味です。
    ご皇室のはじまりは、初代神武天皇ですから、いわば「神武天皇以来」といった意味になります。
    問題は「皇宗(こうそう)」で、「宗」という字は、「おおもと」を意味します。
    そしてご皇室のご祖先、すなわち神武天皇のご祖先は、神話の時代の天照大御神であり、天照大御神のご祖先は、初の男女神であるイザナギ、イザナミにまでさかのぼります。
    そしてイザナギ、イザナミの前には、国常立神や、天之御中主神がおわします。
    つまり天地創生の神々、時空間創造の神々がおわします。
    ということは、ここでいう「我カ皇祖皇宗(こうそこうそう)」とは、
    「天皇のはじまりである初代神武天皇以来の皇統、さらにそれ以前の神話の時代の神々」
    といった意味になります。

    「國(くに)ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ」
    「肇」という字は、神々によって啓(ひら)くことを意味します。
    したがって、「国を肇むる」とは、我が国が神々によって啓(ひら)かれたということを指します。
    それが「宏遠(こうえん)ニ」です。
    「宏」という字は、「宀(うかんむり)」が屋根を示し、その屋敷の中を右手で探している象形で、単に広いだけでなく、さまざまな複雑な要素を絡めながら、奥行きが深いときに用いられる漢字です。
    似た意味の漢字に「広(廣)」がありますが、こちらは屋根の下に黄金を身に着けた人がいるという象形で、黄金を身に着けた人が住む家ですから、大きな家だろうということで、そこから「そのような家は、屋敷が広い」という意味になり、「広いお屋敷」を意味するようになった字です。
    ということはここでいう「國ヲ肇ムルコト宏遠ニ」は、
    「その神々の御意思によって国が肇められてから、我が国は遠い昔より様々な出来事を経験し」
    といった意味になります。

    「德(とく)ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ」
    「徳」という字は、歩いて進むことを意味する「彳」に、まっすぐな心を意味する「悳(とく)」が合わさった字で、まっすぐな心で進むことを意味します。
    その「まっすぐな心で進むこと」を植樹するように、しっかりと植えてきた。
    それだけでなく「深厚」、つまり「深く厚く」してきた、と書かれています。
    つまり「德ヲ樹ツルコト深厚ナリ」は、
    「まっすぐな心で進むことを、樹を植えるようにしっかりと育(はぐく)み、さらにその徳を深く厚くしてきました」
    とこのように述べているわけです。

    ここまでをまとめますと、次のようになります。

    ****
    朕惟フニ わたくし(明治天皇)がわたくし自身で千路に乱れる心でいろいろと乱れ考えてみますに
    我カ皇祖皇宗 天皇のはじまりである初代神武天皇以来の皇統、さらにそれ以前の神話の時代の神々、
    國ヲ肇ムルコト宏遠ニ その神々の御意思によって国が肇められてから、我が国は遠い昔より様々な出来事を経験し、
    德ヲ樹ツルコト深厚ナリ まっすぐな心で進むことを、樹を植えるようにしっかりと育(はぐく)み、さらにその徳を深く厚くしてきました。

    ****

    昔の人は、教育勅語の原文から、これだけの深い意味をしっかりと受け止める勉強をしてきたし、文章を読むときには、そういう読み方ができるように日々研鑽を重ねてきていたわけです。

    そのためには、言葉の定義が、全国共通でしっかりと国民の中に定着していなければなりません。
    教育はそのために行われたし、だからこそ教科書を国の機関である文部省が発行していたし、教育指導要綱が置かれて、その意味するところがしっかりと子たちに伝わるように教育が行われていたわけです。

    このことは、子たちにとって、おおきな知的刺激になります。
    もっと知りたい、もっと学びたいという意欲を生みます。
    だから子供たちの誰もが昔は学校に行きたがったし、家の用事で学校を休まなければならないときは、友達にノートを持ってきてもらい、「今日、先生、どんなお話をしてくれた?」と、瞳を輝かせて、授業内容を教わろうともしたのです。

    現代教育は、子どもたちにはむつかしいことなどわかりっこないから、やさしく、簡単にしたほうが良いのだと、しています。
    そんなことはない。
    実は子どもたちは、とっても優秀なのです。


    ※この記事は2022年10月の記事の再掲です。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 君が代


    君が代を否定する人たちは、
     日本の伝統を知らない(教養がない)、
     平和を守る気持ちがない(好戦的)、
     人を未来永劫愛するという心がない(愛を知らない)
    残念な人たちです。

    20231029 君が代



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    日本に希望の火を灯す!

    明治維新の頃のことです。
    横浜の英国大使館の護衛部隊の軍楽長に、ジョン・ウィリアム・フェントン(John William Fenton)という人がいました。
    フェントンは、薩摩藩の青年たちに吹奏楽団の指導をしていました。
    これが「薩摩軍楽隊」で、日本初の吹奏楽団です。

    当時の日本では、楽器といえば琴や三味線、和太鼓、和笛、他には雅楽で使われる笙(しょう)に篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)などくらいです。
    そこに西洋の吹奏楽を教えるのですから、フェントンは言葉も通じないし、さぞかしご苦労だったことと思います。

    ちなみにこの「薩摩軍楽隊」は、フェントンの指導によって明治元年(1871年)には「日本海軍軍楽隊」へと発展して、現在に至っています。
    海上自衛隊の音楽隊といえば、歌姫の三宅由佳莉(みやけ ゆかり)さんや、二代目の中川麻梨子さんが有名ですが、(ちなみに陸自の鶫 真衣(つぐみ まい)さんも素敵です)、そうした現代の歌姫の活躍も、もとをたどせば英国人フェントンの指導があったわけです。

    そのフェントンが、明治2年(1872年)10月、大山巌に会ったとき、次のように進言したことが伝えられています。
    「明治新政府には、なにか儀礼音楽が必要です。
     何かふさわしい曲を選んだらいかがでしょう?」

    「なるほど」とうなづいた大山巌は、数人と相談して、平素自分が愛唱している薩摩琵琶歌の「蓬莱山」に引用されている「君が代」を選び、作曲をフェントンに頼みました。
    ちなみにこの歌の歌詞は次のようになっています。
    「めでたやな 
     君が恵みは久方(ひさかた)の
     光り長閑(のどけ)き春の日に
     不老の門を立出(たちい)でて
     四方(よも)の景色をながむれば
     峰の小松に雛鶴(ひなづる)棲(す)みて
     谷の小川に亀遊ぶ
     君が代は千代に八千代にさざれ石
     巌(いはを)となりて苔のむすまで・・・」

    この歌は、当時の薩摩藩で、おめでたい席でいつも歌われた謡曲だったそうです。
    そこでフェントンは、このなかの「君が代〜」の部分だけを取り出して、そこに作曲を施します。
    ところが、これがイマイチ評判が悪い。
    アイルランド民謡ぽくて、どうにも日本的でないのです。
    このときの曲は、いまYoutubeで聞くことができます。
    → https://youtu.be/nwro06_tLZw?si=xYSypc6-RA776I2t

    そこで1876年(明治9年)に、海軍楽長・中村祐庸(なかむらすけつね)が、「君が代」の楽譜を改訂したいとする上申書を海軍軍務局長宛に提出しました。

    ジョン W.フェントンと中村祐庸(すけつね)
    ジョン W.フェントンと中村裕庸


    その上申書には、次のように書かれていました。

    「(西洋諸国において)
     聘門往来(へいもんおうらい)などの
     盛儀大典あるときは、
     各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、
     以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、
     その君主の威厳を発揮するの礼款において
     欠くべからざるの典となせり」

    偉いなと思うのは、フェントンです。
    曲変更の上申書が出されたということは、フェントンの作曲が否定されたも同じです。
    では、フェントンがこのとき怒ったかというと、それが違うのです。
    むしろフェントンも、曲調の変更に積極的に同意してくれたといいます。
    フェントンは、日本に住み、日本人と接することで、日本人の思いやりの心を学んだのかもしれません。

    ようやく1880年(明治13年)、明治政府は、宮内省雅樂課に委嘱して、君が代の新たな作曲に乗り出します。
    そして宮内省の奥好義の作品が選ばれることになりました。
    その奥好義の旋律に、一等伶人(雅楽を奏する人)の林広守が補作しました。
    さらにこの曲を、国歌なのだから、もっと荘厳しようと提案し、実行してくれたのが、当時当時音楽教師として日本に滞在していたドイツ人の音楽家フランツ・エッケルトです。

    つまり君が代の旋律は、いわばイギリス、ドイツ、日本の合作なんですね。
    最初から、国際色豊かに作られているのです。

    そんな「君が代」に、次のようなエピソードがあります。
    山田耕作といえば、ペチカ、赤とんぼ、この道などの有名な文部省唱歌の作曲家として有名ですが、そんな山田耕作がドイツに留学していた若い頃、ドイツの大学の音楽教授たちが、世界の主な国歌について品定めをはじめたのだそうです。
    そしてこのとき第一位に選ばれたのが、日本の「君が代」だったそうです。


    さて「君が代」の歌詞です。
    君が代の歌詞は、古く、平安時代の延喜5年(905年)に醍醐天皇の勅命によって編纂された『古今和歌集』の『巻7、賀歌の初めに「題しらず」「読み人知らず」として、掲載された歌です。
    万葉集から撰者らの時代までの140年間の名歌を集めた歌集で、このときのカナ序文を書いたのが紀貫之です。

    清少納言の『枕草子』には、『古今和歌集』集を暗唱することが、平安中期の貴族にとって教養とみなされたとも書かれています。
    そして君が代は、その後に編纂された、『新撰和歌集』にも、『和漢朗詠集』にも掲載されてます。

    ここが実はすごいのです。
    なにがすごいかというと、『古今和歌集』に掲載されたときの「君が代」は、歌い出しが「我が君は」となっていたのです。
    ここでいう「我が君は」の「君」は、天皇を指します。
    つまりもともとは天皇を称える賀歌だったのです。
    ところがその後に続く『新撰和歌集』も『和漢朗詠集』も、いずれも同じく「君が代」を賀歌の筆頭歌としていながら、その歌い出しが現代と同じ「君が代は」に変わっているのです。

    このことが意味することは重要です。
    近年においても、たとえば軍歌の「同期の桜」が、
     貴様と俺とは同期の桜
     同じ【航空隊の・兵学校の】庭に咲く
    などと、一部が変えられて歌い継がれていますが、このように替え歌が行われるということは、それだけその歌が一般的に広く流通したことを意味します。

    「君が代」についていえば、おそらく『古今和歌集』が編纂した頃には、その編纂のすでに何百年か前から、「君が代」が広く歌われていて、たまたま『古今和歌集』が天皇の命による勅撰和歌集であったことから、編者が賀歌の筆頭歌に、君が代を「我が君は」という歌いだしで掲載したのであろうと思われます。
    つまり、おそらくはこの時点で、すでに君が代を「君が代は」と歌い出す者もいれば、「我が君は」と歌う人もいたわけです。
    だからこそ、続く歌集では、「君が代は」と書かれているのではないでしょうか。

    そもそも大和言葉は、一字一音一義です。
    一音ごとに意味があります。
    そして「君が代」の「きみ」は、もともとは
     き=広がるエネルギー=男性=イザナキ
     み=たいせつな本質 =女性=イザナミ
    です。
    イザナキ、イザナミは、それぞれ「いざなうキ」と「いざなうミ」であり、そこから「キ」は男、「ミ」は女を表します。
    だから男性が「おきな(翁)」、女性が「おみな(嫗)」といいます。

    つまり「君が代」は、男と女の代が、千代に八千代に〜と歌われているわけで、だからこそ賀歌(お祝いの席で歌われる唄)として、広く流通していたし、それだけ一般化していたからこそ、替え歌もあった、ということになるのです。

    そして我が国における「き」と「み」の最初がイザナギとイザナミです。
    その二人から生まれたのが、天照大御神です。
    その孫がニニギノミコトであり、
    そのニニギの孫が、初代天皇となる神武天皇で、そこから今上陛下まで万世一系の天皇が続くのが日本です。
    だから「き・み」は、そのまま天皇を意味するのです。

    ちなみに天照大御神は、漢字で書いたら「天を照らす大御神」ですが、先程述べましたように大和言葉は一字一音一義です。
    するとアマテラスオホミカミとなり、
     ア=生命の広がり、広大な時空間
     マ=受容、原点
     テ=放射
     ラ=場
     ス=進行
    となり、広大な時空間のすべてを受容する原点であり、そこから放射するすべてのエネルギーの根幹の場であり、すべてのエネルギーの進むべき道を示す神、という意味になります。
    だから最高神なのです。

    そして「千代に八千代に」は、永遠です。
    「さざれ石」細かな石が固まってできた「礫(れき)岩」です。

    さざれ石
    さざれ石


    礫岩形成の順序はこうです。

    日本列島の周辺に地向斜という細長い海ができる。
    そこに大陸から運ばれてきた小さな石(さざれ石)が堆積を続ける。
    何千万年という長い間に、小石が圧力で固結して岩石となる。
    そこが、やがて地殻変動で、隆起して山脈となる。
    そしてその山脈から発見されるのが、さざれ石の“礫岩”です。


    そんなにながい間、気の遠くなるような永い間、ずっとずっと君を守り抜く。
    いや、それだけじゃない。その岩に、苔がはえるまでも、ずっとずっと・・・

    この歌詞のどこが軍国主義なのでしょうか。

    戦争云々をいうなら、どこの国でも、戦争のときは国歌を歌い、その軍隊は、国旗を掲げて戦争をしています。
    実際、どこの国の国歌も国旗も、みな戦争につながっています。
    外国の国歌です。

    【中華人民共和国国家】
    立て、奴隷となるな
    血と肉もて築かむ
    よき国 われらが危機せまりぬ

    今こそ 戦うときは来ぬ
    立て立て 心合わせ敵にあたらん
    進め進め 進めよや

    なんともまぁ、血なまぐさい。
    興味のある方は、曲を検索してみてください。
    めっちゃ、勇ましい旋律にもなっています。


    【アメリカ合衆国国歌】
    見よや 朝の薄明かりに
    たそがれゆく 美空に浮かぶ
    われらが旗 星条旗を

    弾丸降る 戦いの庭に
    頭上を高く ひるがえる
    堂々たる星条旗よ
                           
    おお われらが旗のあるところ
    自由と勇気共にあり

    ちなみに戦争をいうなら、1480年(文明12年-室町時代)から、1941年の(昭16年)までの戦争の回数は、次のようになっています。

    イギリス 78回
    フランス 71回
    ドイツ  23回
    日本    9回

    日本は、極端に少ないのです。
    日本はそもそも争い事を好まないのです。

    そして明治天皇の有名な御歌・・・

    四方の海
    みなはらから(同胞)と思う世に
    など波風の 立ちさわぐらむ

    「みなはらから」です。
    平和を希求し、人々が互いに争うことなく、人々が千代に八千代に栄えようとする陛下の御心が、この一首をみてもあきらかです。

    要するに、君が代を否定する人たちは、
     日本の伝統を知らない(教養がない)、
     平和を守る気持ちがない(好戦的)、
     人を未来永劫愛するという心がない(愛を知らない)
    残念な人たちである、ということです。
    もっというなら、ただのクズだ、ということです。


    ※この記事は2009年7月の記事の再掲です。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 歴史学と神話学


    神話を通じて神様の声を聞くなら、それは神学です。
    神話が書かれた時代を探り、当時の人たちがどのような目的で何を伝えようとしたのかを聞くなら、それは歴史学です。
    神話が歴史なのではなくて、神話から、神話を書いた先人たちの声を聞くのが歴史です。

    20231028 神話



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    日本に希望の火を灯す!

    刑事ドラマなどでお馴染みの、法医学担当の医師は、刑事事件などに際して、異状死となったご遺体の死因の診断、死後経過時間の推定、身元不明死体での個人識別などを行います。
    こうして法医師はご遺体から事件の様子を「聞き」、捜査も犯人逮捕後の裁判も、そこで「聞いた」客観的事実に即して行われます。

    ご遺体から「聞く」のが法医学分野なら、過去の歴史から先人たちの思いを「聞く」のが歴史家の役割です。
    過去の歴史上の事件や人物を軸にして、そこにファンタジーを加えたものが文学です。

    文学と歴史学の違いは、そこにファンタジーの要素が入るか否かにあります。
    歴史はあくまで客観的事実に基づき、すでに過去となった出来事の詳細を調べ、お亡くなりになった何十年、何百年、あるいは何千年前の人々の思いを「聞く」のが歴史です。

    その意味で、法医学と歴史学は、ともに科学です。
    そして目の前のご遺体から、被害者の言葉を聞くのが法医学なら、過去の歴史から当時の人々の声を聞くのが歴史学です。

    その意味で、たとえば近代史分野では、昨今の歴史学会等で、かつての日本陸軍が大陸で蛮行の限りをつくしたかのように語られ、またそのことが小中学校の義務教育の社会科教科書に記載されたりしているのは、科学ではなく、ただのファンタジーです。
    しかもその時代を生きた人々の声をまったく聞こうとせず、自己の思い込みだけで語っているただの小説です。

    その意味で小説家は「思い込みの人」であり、科学者ではありません。
    それが犯罪捜査なら、まったく犯人ではない人に向かって「犯人だ」と決めつけるようなもので、その意味では危険極まりないものです。
    そしてファンタジーを信じてしまうと、今度は科学的真実までもが、嘘に見えてしまいます。
    こうなると、それらは歴史の名を借りた、ただの宗教であって、ますます真実と乖離していきます。

    歴史は、あくまで客観的事実に基づき、科学的に当時の人の声を聞くものです。
    そしてそれが文献資料であれば、その文献資料を書いた人たちが、何を伝えようとしたのか。
    これを書いた人々の声をしっかりと「聞く」のが歴史学です。

    ということは、もっというなら、歴史は、過去の先人たちの声を「聞く」学問です。
    そうであるなら、古事記や日本書紀は、我が国の歴史書として、間違いなく価値ある書です。
    なぜなら、そこに先人たちの思いが詰まっているからです。

    神話は歴史ではないという人がいます。
    これはその通りです。
    神話と歴史の違いは、日時時系列が整っているか否かの違いです。
    つまり、その出来事があったのが、「いつか」が明確なものが歴史。
    明確でないものが神話です。

    かつて、神話を歴史にしようとした人たちがいました。
    そのために、たとえばニニギのミコトが天孫降臨されたのは、西暦何年の出来事なのかが真剣に討議された時代もありました。
    けれどそれは「わからないこと」です。
    わからないから神話なのです。

    では神話に意味はないのか。
    それは違うと思います。
    イザナギ、イザナミ神話にしても、日本の創生の神々にしても、日本全国に様々な伝承が神話としておそらく残っていたのです。
    それらを集大成して、日本書紀が発表されたのが養老4年(720年)のことです。
    古事記なら、序文に書かれたことを信頼するなら和銅5年(712年)のことです。

    書かれたものには、書いた目的があります。
    とりわけ日本書紀は、当時の朝廷によって、成立以後、我が国の教科書として千年以上にわたって広く用いられてきた歴史があります。
    そしてそうであるなら、日本書紀を編纂した人たちが、どのような意図を持ち、何を伝えようとして、様々にあった神話を統合して、いま残されている物語にしたのか。
    その先人たちの声を聞くのが、まさに歴史家の仕事であり、歴史学です。

    神話を通じて神様の声を聞くなら、それは神学です。
    神話が書かれた時代を探り、当時の人たちがどのような目的で何を伝えようとしたのかを聞くなら、それは歴史学です。
    神話が歴史なのではなくて、神話から、神話を書いた先人たちの声を聞くのが歴史なのです。

    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 阿修羅像


    奈良興福寺の阿修羅像をもとに、日本文化の底深さを考えてみたいと思います。

    阿修羅像(奈良・興福寺)
    20171027 阿修羅像
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    日本に希望の火を灯す!

    奈良の興福寺といえば、法相宗大本山で、藤原鎌足、藤原不比等親子ゆかりの寺院であり、また藤原氏の氏寺としても知られています。
    このお寺は、奈良時代には四大寺、平安時代に七大寺の一つに数えられるほど、強大な勢力を誇ったお寺でした。
    鎌倉時代・室町時代には幕府は大和国に守護を置かずに、興福寺にその任を委ねています。
    また徳川政権下においても、興福寺は知行2万1千余石を与えられ、大名に並ぶ権威を持っていました。

    興福寺といえば、有名なのがトップの画像にある阿修羅像です。
    奈良時代の作とされ、現在は国宝。
    像の高さは153.4cmです。

    現代日本人の20歳以上の身長の平均は、男性が167.3cm、女性154.2cmですが、先の大戦中は男が160cm、江戸時代から明治初頭では155cmでした。
    ですからおそらくこの阿修羅像は、当時の日本人の成人男性の平均身長くらい、つまりほぼ等身大であったろうといわれています。

    この阿修羅像、本当に複雑な表情をしています。
    戦前の小説家の堀辰雄は、1941年10月に、当時奈良国立博物館に寄託展示されていた阿修羅像に目を留めて、その表情について、
    「何処か遥かなところを、
     何かをこらえているような表情で、
     一心になって見入っている。
     なんというういういしい、
     しかも切ない目ざしだろう」
    と描写しています。
    わかる気がします。

    ところが不思議な事があります。
    何が不思議かというと、この像の名前が阿修羅像であることです。

    阿修羅というのは、古代インドのサンスクリットの語の「 asura」を漢字表記したものです。
    「sura」は、生命や生存を意味します。
    「a」は、その否定形です。
    つまり「a-sura」は、生命や生存(sura)を否定する、つまり生きることを否定するという意味を持ちます。
    つまり仏に仇なす敵の生存を否定する。
    だから阿修羅というのは、仏敵を倒し滅ぼし征圧する闘争の神様とされます。
    これは阿修羅を単に修羅と書いても同じ意味です。

    その阿修羅は、もともと闘争神であったけれど、須弥山で釈迦に帰依した後は、釈迦を外護し、仏敵を滅ぼす闘争の神様となりました。
    つまり阿修羅は、本来はたいへんに勇ましい神様なのです。

    ところが興福寺のこの阿修羅像は、そんな戦いや闘争よりも、むしろ物悲しさを感じさせる表情をし、しかも両手を合わせて合掌しています。

    ちなみに下にあるのは、同じく興福寺にある因達羅(いんだら)大将像です。
    こちらは十二神将のうちの一柱ですが、まさに勇ましさを絵に描いたようなお顔をされています。
    しかし、ではどうして阿修羅像は、戦いの神様なのに、この因達羅大将のような剛勇なお顔に描かれていないのでしょうか。

    因達羅大将像
    20171026 因達羅大将像


    実はここに日本的人物観の特徴があります。

    阿修羅は、この十二神将よりも高い地位にある神様です。
    要するに将軍達の中の大将軍の地位にあります。

    大将軍であれば、数々の戦いを指揮します。
    そして戦いがあれば、たとえそれが勝ち戦であったとしても、敵味方に数多くの死傷者が出ます。
    その一人ひとりには、家族がいます。
    親がいて、妻がいて、子がいて、友がいます。
    ひとりの死は、数多くの家族や友人たちに悲しみをもたらします。

    将は、戦いに勝つことが使命ですが、実は同時にそのすべての悲しみを背負う立場でもあります。
    乃木大将もそうでした。
    乃木希典大将については、司馬遼太郎などはさんざんですが、実は乃木大将は、難攻不落の要塞戦である旅順戦を、世界史上類例のない短期間、そして世界史的には驚くほど最小の兵の損耗で制した、世界の陸戦史上、ある意味最も名高い名将軍でした。

    そして乃木大将は、日露戦争の戦没者の供養にと、私財を投げ売って、全国の神社に「忠魂碑」を寄進された方でもあります。
    それだけではありません。
    戦傷者として、戦いの最中に腕を失った兵たちのためにと、自ら義手を研究開発し、世界に例のないモノを掴んだり、字を書くことまでできる、現代世界のコンピューター制御の義手でさえできないすごい義手を考案し、これを戦傷兵達のために、これまた私費で寄贈したりまでされた方です。

    その乃木大将のお写真を見ると、やはり阿修羅像のごとく、悲しみを背負った目をしておいでです。
    人には、戦わなければならないときというのは、あるのです。
    そして悲しいことに、戦いは多くの悲しみを生みます。
    その悲しみを背負うこと。
    もしかすると、それが将軍なのかもしれません。

    だからこそ、奈良時代に造られた阿修羅像は、まさに、悲しみをその表情にたたえているということができます。
    そして、いわゆる仏教国というのは、世界に多々ありますけれど、世界の中で、阿修羅像に、十二神将のような豪壮さではなく、こうした悲しい表情を蓄えさせた彫刻を施しているのは、実は日本だけです。

    しかし乃木大将は、日常的に悲しい表情だったわけではありません。
    体中からオーラを発しているかのような、気品と凄みを両立された方であったといわれています。
    実は阿修羅像のお話にも、後日談があるのです。

    下の写真は、松永忠興氏という、我が国仏教彫刻の復元模造の第一人者が復元した阿修羅像です。
    もちろん本物を装飾したのではありません。
    本物と寸分たがわぬレプリカを作り、本物の表面にわずかに残された塗料の成分を分析して、作られた当時の像を再現するのです。

    すると阿修羅像は、前身が真っ赤な憤怒色で塗られ、口には髭が蓄えられていたことがわかりました。
    そして目もとの化粧などを、復元してみると、そこに現れたのは、悲しみの表情ではなく、身分の高い貴族の大将軍のお顔立ちが出てきたのです。

    松永忠興氏による復元模造。
    20171027 阿修羅像復元


    将は、悲しみを背負うものと上に述べました。
    けれど、同時に上に立つ者は、その悲しみをこらえて、何事もなかったかのような表情をたたえるものである、という思想が、なんとこの阿修羅像には施されていたのです。

    化粧を外せば、そこにある素顔は、まさに悲しみを背負った表情です。
    けれど化粧を施したお顔は、はっきりとした強い意思をたたえ、十二神将たちの猛将を従えた立派な貴族の表情なのです。

    この奥深さ、この芸術性。
    それがなんと、いまから1300年前の日本の奈良時代の芸術なのです。


    ※このお話は、2017年10月の百人一首塾での講義をもとに、その一部を編集してお伝えしたものです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 老農・石川理紀之助


    明治の気骨という言葉があります。
    気骨の原点にあるのは「公に尽くす」ことです。
    みんなのために尽くす人生。
    人生は決して自分だけのものではないということを、理紀之助は私たちに教えてくれているような気がします。

    石川理紀之助
    石川理紀之助



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    日本に希望の火を灯す!

    「老農」という言葉があります。
    他に、篤農、精農、農聖、農哲などの呼び方があります。
    在来の農法を研究し、自らの体験を加えて高い農業技術を身につけて農村における農業指導をする人のことです。

    老農という言葉が使われだしたのは明治にはいってからのことです。
    江戸時代までは「農学者」とか「本草学」、あるいは「興産方産物掛」などと呼ばれていました。
    沢庵和尚が広げた「たくあん」、高野山から広まった「高野豆腐」も有名ですが、いつの時代でも、誰だって美味しいものは大好きです。
    あたりまえのことですが、食を大切にした我が国において、農業と農業指導の歴史はものすごく古いものです。

    いま学者といえば、たいてい本の虫になっている人達のことをいいます。
    このように「体を動かさないで頭だけを使うのが学者」というようになったのは、実は戦後のことです。
    それ以前は、江戸時代もそうでしたし、明治大正昭和初期までずっとそうでしたけれど、基本的に学者というのは、体を使う人達でした。
    知行合一が重視されたというだけでなく、
    「机上の学問を、自ら進んで実社会に活かしてこそ学問」
    というのが、学者の誇りとされていたのです。

    ですからたとえば幕末の適々斎塾を開いていた緒方洪庵にしても、進んで長崎まで勉強に行っているし、塾を開いてからも、自ら種痘のために、大阪各地を回って一般の人達が疱瘡に罹らないよう、種痘の普及に努めました。
    あるいはみなさまよくご存知の吉田松陰も、ただ松下村塾を開いて若者たちを教えていたのではなく、自ら率先して行動を起こしました。

    農業指導に関しても、江戸時代には農業全書を著して日本農学の祖といわれた宮崎安貞、実践的農業の書を著した大蔵永常、あるいは農業指導者として活動した佐藤信淵などにしても現場に出るという活動を、ものすごく大切にしていました。

    戦前戦中の日本の東大の国際政治の教授や、世界の民俗学の教授たちなど、世界中をまわって自分の足で各地を歩き、また地元住民と起居をともにして現地の様子をつぶさに把握し、それを本にまとめ、また生徒たちに教えていました。
    だからこそ当時の東大は世界の名門大学のひとつとされていたし、世界中から留学生たちがやってきていたのです。

    昨今の東大が、特に文系において、発展途上国の大学以下の評価しかされていないのは、まことに残念なことです。
    しかしそれは当然のことでもあるのです。
    戦後にGHQによる公職追放があって、江戸時代の昌平坂学問所以来の伝統的な行動派教授たちが追放され、その後釜に屁理屈ばかりを言って特高に捕まっていた共産主義者らが教授職に就きました。
    結果、すでに世界中で壮大な実験の結果、多数の人命を犠牲にして国家が崩壊した共産主義をいまだに信仰していたり、国を愛さないことを正義と勘違いしていたり、あるいは机にかじりついて教授間の権力闘争だけに明け暮れるような人物が、いまだに最高学府の教授陣であり続けています。
    そのような体たらくで、東大が世界の名門大学になどなり得ようはずもないのです。

    だいたいまともな書籍を焚書して、アカ系の学者が捏造した本だけを世に残し、「本も論文も引用先が明らかでなければ信頼に値しない」などと、おかしな空論が言い出されるようになったのは戦後のことです。
    それまでは、一流の学者は、自分で考え、自分で行動して得た一次情報を提供す人でした。
    当然、引用先なんてありません。
    必要に応じて引用先を明らかにすることはあっても、引用がなければ論に値しないなどというのは、頭のおかしなヘンタイの所業でしかないのです。
    引用先が大事なら、引用先の文書を読めば良いのであってそのような論は論考の名に値しないというのが一般的な考え方でした。

    そもそも論考というのは、事実と意見から成り立ちます。
    医学分野など、理系学問でも引用先の明記は必須とされていますが、それは実際の手術の術式や、発見された新たな数理や実験結果の引用であって、意見の引用ではありません。
    ところが昨今の我が国では、特に文系学問において、文献資料などに書かれた「意見」を引用しなければならないとしている。
    これはまことにおかしな理屈です。
    なぜなら文系学問というのは、本来答えのない学問だからです。

    「老農」が、我が国において貴重な存在として尊重されたのは、「老農」は、西洋的、分析的な近代農学に対して、古典的経験的な農業技術を活用した人達であり、そこに実践があったからです。
    そんな明治の「老農」のひとりに秋田県の石川理紀之助(いしかわりきのすけ)という人物がいました。

    石川理紀之助は、弘化二(1845)年、いまの秋田市金足小泉の奈良家の三男として生まれました。
    慶応元(1865)年、21歳のときに、秋田郡山田村(現昭和町豊川山田)の石川長十郎に婿養子に入ました。
    ところが理紀之助が養子にはいった石川家は、旧家だけれど借金もぐれでとても苦しい生活でした。

    理紀之助は「このままではいけない」と、近隣の農家の若者たちと語り合い、「山田村農業耕作会」を結成しました。
    そして「豊かな村づくり」を合言葉に、それまでの個人の営みとしての農業を、農民を広く組織した集団的農業に改革に乗り出したのです。
    理紀之助の取組みは、大成功を納め、彼自身も石川家の借金を数年で完済してしまっています。

    「山田村にすごいやつがいる」という噂がひろまりました。
    秋田県は理紀之助を秋田県庁の勧業課に招きました。職員にしたわけです。
    理紀之助28歳、明治五(1872)年のことでした。
    こういう試験や学歴、家柄や門閥にこだわらず、必要とあればどんどん民間から人材を登用するというのは、古くからの日本の伝統です。

    じつはこの頃、秋田県農業では腐米(くされまい)問題に頭を痛めていました。
    ただでさえ寒冷地で稲作が困難な地域です。
    そこへ稲の病気が流行ったのです。
    理紀之助は原因を追究し、収穫時の米の乾燥方法に新しい方法をあみだして、県の腐米改良指導に尽力し、功績をあげました。
    さらに理紀之助は、寒冷地に適したおいしいお米の生産の普及を目指し、明治十一(1878)年には「種子交換会」を開催しました。
    いまでも秋田で続いている「種苗交換会」のはじまりです。

    理紀之助は、こうして行政の農業指導官としての実績をあげながらも、官という上からの指導の限界を痛感しました。
    ほんらいなら、お百姓のみんなと、毎日一緒になってやらなければだめだと思うようになったのです。
    彼は、行政官としての仕事とは別に、各地の老農を結集して自主的な農事研究団体として「暦観農話連」を結成しました。明治十三(1880)年、理紀之助35歳のときです。

    このときの理紀之助の言葉があります。
    ========
    何よりも得がたいものは信頼です。
    信頼は、つつみかくさず教え合うことから生まれます。
    進歩というのは、厚い信頼でできた巣の中で育つのです。
    ========
    まさにその通りです。

    最近ではなんでもマニュアルにしたり、法律を作ったり取り締まったりしさえすればなんとかなると考える人が増えていますが、規則や決まり、ルールやマニュアルが人を育てたり進歩を導くものではありません。
    互いの厚い信頼関係こそが、人を育て進歩を育くみます。
    なぜなら人は人との関係の中でしか成長しないからです。
    人の成長がなければ、そこに進歩はない。あたりますぎるくらいあたりまえのことです。

    「暦観農話連」には、結成早々に74名の老農たちが参加しました。
    ここで大事なのは、早々に74名の「老農たち」が参加した、という点です。
    老農と呼ばれる農業の達人、あるいは農業指導者が、明治初期にたくさんいた、ということです。
    そしてそれは江戸時代にもたくさんいたし、もっといえば神話の時代から数多くの老農がたくさんいて、全国の農産物指導を担っていたのです。日本は古来、そういう国だったのです。

    暦観農話連
    暦観農話連


    その「暦観農話連」で理紀之助は、会合の都度近くのお寺や農家に泊まり、自炊しながら催しを支えました。
    夜になれば時のたつのを忘れてみんなと話し込みました。
    こうすることで理紀之助は、農業への熱い夢と情熱を、みんなと共有したのです。

    「暦観農話連」による信頼の輪と固い絆は、こうしてだんだんに広がり、明治の末にはなんと499名の会員を擁する老農集団となっていました。
    会員は秋田県にとどまらず、お隣の山形、宮城や、遠く埼玉からも仲間が集まっています。

    さらに理紀之助は、明治15(1882)年から6年にわたって、二県八郡49カ町村の「適産調(てきさんしらべ)」を実施しました。
    各地の土壌、面積、人口、戸数、生産物、自作農地と小作農地の収入、農作業、生活習慣などを総合的に調査し、調査結果とその地の農業の再建計画を作成したのです。
    このときの理紀之助のレポートは、731冊に及ぶ膨大なものです。

    適産調
    適産調


    この調査のとき、理紀之助とその仲間たちは、つねに顔を覆う白布と、葬儀料、死亡届のための戸籍謄本を身につけていました。
    旅先でいつ死んでもいいようにです。
    自分が旅先の道中で死んだ時、旅先の人に迷惑をかけてしまう。
    だからすこしでもその迷惑を減らせるようにとの配慮からです。

    実はこうした習慣は、古くから続いている日本の習慣です。
    江戸時代ですと、当時の通貨は「小判」ですが、旅をするときには、その小判を襟の中に縫い付けました。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんも、襟には一両小判が縫い込んであったのです。
    一両はいまでいったら、だいたい六万円くらいです。

    明治十六(1883)年、三十九歳の時、理紀之助は役人の職を辞しました。
    そして故郷の山田村の救済のためです。

    実は明治十(1877)年ころから、米の値段が上がり出すのですが、五年後の明治十五(1882)年には、逆に米の値段が急落したのです。
    これに冷害が重なりました。
    どの農家も借金に悲鳴をあげますた。
    至るところで食べれなくなる農民が増えたのです。
    理紀之助の故郷の山田村もまた借金であえいでいました。

    「この息も絶え絶えの農村を救うにはどうしたらよいのか」
    これまで培った知識と技術をもとに農民に戻り田畑を耕し、山田村を建て直したいと、理紀之助は山田村に帰り、村人に次の提案をし「山田経済会」を発足させました。

    一 質の良い肥料を作り、これまでの倍の量を田んぼに施し、米の収量を増やす。
    二 収量が増えた分を借金の返済にあてる。
    三 無駄遣いをやめ、暮らしに必要なものは「共同で」買う。
    四 養蚕をとりいれ副業に精を出す。
    五 仲間外れが出ないよう、助け合い、励まし合う。

    困ったときに収穫高を増やしたり副業を振興したり無駄遣いやめようというのは、昨今の国政や、会社などでもよく言われることです。
    けれど理紀之助は、さらにそこから一歩進めて、「暮らしに必要なものを共同で買う」ということを実施したのです。

    実は、収入というのは、生産高と常に等しいものです。
    生産し、働いた分が収入になるからです。
    ところが価格が急落するというのは、生産量に対して、収入が減った状態を意味します。
    収入が減ったからといって、生産量を減らしたのでは、ますます収入が減ります。

    デフレのときに、リストラして生産量を減らせば、ますます収入が減るのです。
    少し考えたら誰にでもわかるあたりまえのことですが、世の中というのは、デフレになったら生産量を減らす(=リストラ)したり、税を引き上げて、人々の減った収入からさらに収入を減らそうと考える人がいます。
    頭のおかしな人としか言いようがありません。

    これに対し、理紀之助が行ったことは、実に理にかなっています。
    デフレで生産量に対して収入が減ったのだから、みんなでお金を出し合って、もっと生産量をあげ、収入を増やそうとしたのです。

    理紀之助は「山田経済会」を発足すると、毎朝午前3時に、掛け板を打って村人を起こしました。
    そして早朝からみんなで力を合わせて農作業を行ないました。
    夜明け前の闇に、毎朝「コーン、コーン」という掛け板の音が響き渡る。村人が集まります。
    そしてみんなで農作業をする。
    山田村はこうして村人たちの努力と協力で、わずか五年で村の借金を完済してしまいます。
    その当時に、理紀之助が詠んだ歌があります。

     世にまだ生まれぬ人の耳にまで
       響き届けよ 掛け板の音

    吹雪の朝のことです。理紀之助がいつものように午前3時に打ち終えて、雪まみれになって家に入ると、妻が、「このような吹雪の朝に、掛け板を打っても誰にも聞こえないし、ましてやこの寒さでは、誰も起きて仕事をしようとはしないでしょう」と、言ったそうです。

    理紀之助は、「そうかも知れないね。でも私は、この村の人々のためだけにやっているのではないのだよ。
    ここから五百里離れたところの人々にも、また五百年後に生まれる人々にも聞こえるように打ってるんだ」
    理紀之助の志が、単に目の前のことだけではなく、遠く未来を見据えたものであったことが、この一語にあらわれています。

    毎朝3時に村民の起床を促した掛け板
    毎朝3時に村民の起床を促した掛け板


    明治三十四(1901)年、理紀之助56歳のとき、尊敬している前田正名(まえだまさな)から、九州の霧島山(きりしまやま)のふもとの開田事業の手伝いを頼まれました。
    前田正名が五百町歩の新田を開いたから、来てくれないかというのです。
    手紙にはこう書いてありました。

    ========
    私は、この開かれた新田で、新しい農村をつくろうとしている。
    そこで、あなたおよびあなたの同志数人に来てもらい、あなたたちの考える理想の村づくりをしてもらいたいと思う。
    しかし、私は開田のために、もう資金がなくなってしまった。
    なのであなた方に来てもらっても、日当も報酬も払えないし、往復の旅費も支払えない。
    だから、費用は自前で、できれば一年ぐらい滞在して指導をしてもらいたい。
    ========

    いやはやずいぶん無茶な話です。
    農業指導に秋田から九州まで来てくれ。ただし、カネはない。交通費も日当も、給金も、ぜんぶ自前で、しかも仲間を連れてきてくれ、というのです。

    理紀之助は、自分は行くにしても、仲間はついてきてくれるだろうかと悩みます。
    そして正月早々、仲間に集まってもらってじっくりと話しました。
    みんな快諾してくれました。
    そしてそれぞれが家族や親類をまわって金を工面し、不在中のことについても話し合い、大変な無理をしながらも「先生と同行して勉強したい!」と申し込んできてくれたのです。

    一行は、明治三十五(1902)年四月始めに、出発しました。
    鹿児島まで汽車で行き、ここで一泊します。翌日から馬車に乗って北上し、宮崎県北諸県郡中霧島村(現在の北諸県郡山田町)の谷頭(たにかしら)の事務所に着いたのは、4月20日の夕方でした。

    わらじを脱いで板の間に上がると、脚絆(きゃはん)(旅行時に歩きやすくするため足に巻く布)も解かずに、すぐに明日からの行動計画と自分たちの日課表を決めて、それを壁に張り付けました。
    谷頭は、桜島が噴火したとき、難を逃れてきた人々が住み着いたところです。
    一帯は霧島山の火山灰でできた台地で、樹木も十分に育たず竹林が茂っている。
    畑からは芋(いも)しかとれない。
    村には、すでにあきらめムードが漂っています。

    理紀之助は翌朝から日程表に決められた通り、午前3時に起床の掛け板を打ち鳴らしました。
    けれど誰も来ません。
    そして朝7時頃になって、みんなそれぞれの自分の畑にバラバラに出かけて行きました。

    理紀之助は村人を集め、農業振興のための方針を話そうとしました。
    ところが理紀之助は、秋田弁です。谷頭の人たちは薩摩弁、まるで言葉が通じません。
    筆談しようにも、村人たちは読み書きができない。
    しかも、自分たちがどんなに貧しくても、そういうものなのだ、とあきらめきっています。

    このとき、理紀之助は、秋田から一緒に来た仲間たちに次のように語りました。
    =======
    私たちは、まず指導しに来たのだという考えを捨てよう。
    この村の一員となりきって行動するようにするのだ。
    そしてこの村の欠点やここの人々の劣っていることを決して口にしないこと。
    欠点を直そうと思ったら、自分たちの生活や行動で気付かせるようにしていくこと。
    農業のことについて聞かれても、自分の知識や体験で断定的な話をしないようにすること。
    =======

    実は、ブータンでダショーの称号をもらった西岡京治も、台湾や朝鮮半島、満州で日本人が行ったやり方も、全部、これと同じです。
    どこまでも謙虚に、そしてみんなを交えて、みんなの合意を形成する。
    それが日本のやり方です。

    理紀之助は、仲間たちと朝にわらじをつくり、それを庄内の店に売りに行ったら十銭儲かったとか、竹かごを売って十五銭儲かった、などと村人たちに話しました。
    村人たちは、早朝に仕事をする習慣がなかったのだけれど、そんなに儲かるなら、じゃワシらもやってみようということになり、一人、二人と早朝に集う人が出てきました。

    さらに理紀之助は、夜は子供たちのために夜学を開きました。
    こうして理紀之助たちの指導が始まって二週間、村の中にほのかな希望が芽生え、明るく生き生きとした雰囲気が生まれてきます。
    早起きする人も増えて、どこの村よりも多く貯金するようになってきたのです。
    夜学の子供たちも、眼を輝かせて学問に励む。その様子は、外を歩く者が足を止めて見入るほどだったといいます。

    こうして理紀之助が前田正名と約束した6ヵ月が過ぎたとき、いよいよ谷頭を去ろうとする頃には、村のお年寄りや若者、子供たちまで全員集まって、別れを惜しんでどこまでもついてきてくれました。
    帰れといっても帰らない。
    理紀之助は、別れを惜しむ村の人たちの純情に、涙を流さずにはいられなかったそうです。

    理紀之助ら一行の、このときの心は、その後、全国の講演会で紹介され、日本の台湾や朝鮮半島、満洲での現地農業指導にそのまま活かされました。
    台湾でも、満州でも、私たちの先人達は、まったくそのようにして現地の人々と一緒に開墾をしたのです。

    その結果、台湾では米の生産高が30年で3倍以上、サトウキビの生産高は26倍、朝鮮半島ではわずか15年の間に農業生産高が2倍に増え、満洲の大豆の収穫高は14年で164倍に増えています。
    人々に笑顔が戻る。みんなが労働の喜びを共有する。
    そうして喜びをわかちあった現地の人々を漢奸狩りと称して、支那は虐殺の対象とした。人間の所業じゃありません。

    ちなみに満洲(いまの支那東北省)の耕地面積は、日本の満洲統治時代に開墾した当時のまま増えていません。
    その一方で、農業従事者の人口は約3倍に増えています。
    食えようになったからではありません。ふたたび貧困が支配しているのです。

    理紀之助は大正四(1915)年、70歳でその生涯を閉じました。
    亡くなる前の最後の仕事は、秋田県仙北郡強首村の救済事業でした。
    当時、理紀之助は、よく次のように語ったそうです。
    「俺は農民だ。農民が農民を助けないで誰が助けると言うのだ。」

    そう言って、老いる体にムチ打って、毎朝三時に掛け板を鳴らし続ける理紀之助のもとには、多くの若者たちが馳せ参じてくれたそうです。
    「これら青年を見よ。わしらの意志をしっかり受け継いでくれている。これこそが世に残す財産だ」
    理紀之助が残した最後の言葉です。

    石川理紀之助の生涯を尋ねれば、決して豊かな暮らしをしていたわけではないし、どちらかといえば生涯富には恵まれず、貧乏な生活を送った人です。
    けれど彼の生涯は、心根の豊かさを私たちに想起してくれます。

    明治の気骨という言葉があります。
    気骨の原点にあるのは「公に尽くす」ことです。
    みんなのために尽くす人生。
    人生は決して自分だけのものではないということを、理紀之助は私たちに教えてくれているような気がします。


    ※この記事は、2010年3月の記事をリニューアルしたものです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 特攻隊 光山文博(本名・卓庚鉉)大尉


    新たな世界へ。
    新たな日本へ。
    日本は、いま、6000年の時を超えてよみがえろうとしています。

    光山文博(本名・卓庚鉉)大尉
    20161030 光山文博
    (画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    日本に希望の火を灯す!

    知覧基地から飛び立ち、散華された特攻隊の中に、朝浅人の光山文博(本名・卓庚鉉)大尉がおいでになりました。
    その光山大尉の物語が、日本弥栄の会が発行する雑誌『玉響』(平成28年11月号)に掲載されています。
    古い記事ですが、編集部と著者のW氏両方のご許可を得ていますので、再掲したいと思います。

    特攻に20名ほどの朝鮮系日本人が散華しているのです。
    その代表的な人物の一人、光山文博大尉(本名・卓庚鉉)。
    日韓併合以降、朝鮮よりも賃金状況の高い日本へ多くの朝浅人が海を渡りました。
    戦後に蔓延る「強制連行」や「徴用」などとはもちろん全く別で、当時朝鮮は日本だったのです。
    卓庚鉉もその一人で、祖父が朝鮮での事業失敗から一家で京都に移住してきたのです。

    創氏改名とは「日本が朝鮮植民地支配の際に、皇民化政策の一環として、朝浅人から固有の姓を奪い、日本式の名前に強制的に変えさせた。これを拒否しようとしたものは非国民とされ、様々な嫌がらせを受け、結局は日本名に変えた」というような説がまるで定説であるかのように流布されてきましたが、これも事実ではなく、「朝鮮名のままだと商売がやりにくい」といった理由から、多くの朝浅人が日本名に改名したのです。

    卓庚鉉の一家もそれによって光山文博となったのです。

    光山は小学校を卒業後、名門であった立命館中学へ進学した事を考えると、優秀な少年であった事が伺えます。
    その後陸軍特別操縦見習士官(特操)を志願。
    見事、試験に合格し、同校の第一期生となりました。

    併合後、日本は朝浅人に徴兵制を適用しませんでした。
    早坂隆(ノンフィクション作家)によれば、昭和12年(1937年)、日本の衆議院議員となっていた朝鮮出身の朴春琴が「朝浅人志願兵制度」を請願。翌昭和13年(1938年)、「陸軍特別志願兵令」が公布されたことにより、朝浅人による兵卒の志願が認められるようになりました。

    日中戦争下、朝浅人の志願兵は右肩上がりに増え続けたと言います。
    そして彼らは、日本軍が朝浅人に門戸を閉ざすことこそ「差別」「屈辱」であると主張し、少なからぬ朝浅人が「日本人と共に戦いたい」と入隊を希望したのです。

    そんな時流の中にあって、光山も志願により昭和18年(1943年)10月、鹿児島県の南部に位置する大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入校しました。
    そう、富屋食堂との物語が始まるのです。

    そんな光山も他の若き青年たちと同じように、休みになれば富屋食堂に顔を出し、優しく出迎えてくれるトメさんを母親のように慕っていました。
    出会って間もない頃、光山は自分が朝浅人だとトメさんに打ち明けました。
    当時、朝浅人の民度は日本のそれとは圧倒的に低く、今と同じように問題を起こす事も少なくなく、それに対して日本人にあっては朝浅人を軽蔑する事実は確かにありました。
    それは差別でもなく当然の事です。
    合わないものは合わない、嫌いなものは嫌いなのですから。

    そんな境遇にトメさんは例に漏れず誠心誠意迎え入れます。
    むしろ特に光山には気を配っていたようです。
    転属した先でも光山はトメさんに便りを綴っていたほどです。

    そして昭和19年10月、光山は陸軍少尉を拝命。
    しかしそんな中、光山に突然の不幸が届きます。
    京都にいる母親が逝去するのです。死に目に会えなかった光山に、父から手紙が届きます。
    「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」。

    その後光山は何かを決したように特攻を志願するのです。
    白人たちは戦線の最前線に植民地兵を配備し、自分たちは戦場を後ろから組み立てているのが常套作戦だったのです。
    しかし当時の日本軍は、熾烈な戦場で他の民族を前線に送る事はしませんでした。
    日本兵が最前線に立つのです。
    それは日本が世界に人種差別撤廃を掲げていた事と無関係ではなかったと思います。

    当時光山の志願に対しても上官が何度かそれを確認したのです。
    しかし光山の強い意志は上官も心を動かされます。
    日本に誇りを持つ光山の父の想い。母親の死。
    そして心の支えであった富屋食堂のトメさんたち。
    次々と飛び立つ戦友たち。

    日本人でも朝浅人でもなく、光山は一人の人間として、男として、後世の未来を背負って飛び立つのです。
    「長い間、いろいろありがとう。
     おばちゃんのようないい人は見たことがないよ。
     俺、ここにいると
     朝浅人っていうことを忘れそうになるんだ。
     でも、俺は朝浅人なんだ。
     長い間、本当に親身になって世話してもらってありがとう。
     実の親も及ばないほどだった」

    「おばちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。
     だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、
     よかったら、これを形見だと思って取っておいてくれるかなあ」。

    光山は形見としてトメに自らの財布を手渡し、トメは自分と娘たちが写った写真を差し出しました。
    遠い朝鮮の歌であるアリランを唄う光山とトメさん、そして娘たち。
    四人は最後の晩に肩を抱き合うようにして大粒の涙を流しました。


     ***

    流鏑馬(やぶさめ)というのは、第59代宇多天皇が896年に源能有に命じて制定されたことがはじまりなどと、いろいろなところに書かれていますが、実は、これはある事実の隠蔽工作です。
    では、実際にはいつ流鏑馬が始まったかというと、539年に、第29代欽明天皇が、宇佐八幡宮で、三矢を射たのが実は流鏑馬のはじまりです。
    たとえ神事としても天皇が矢を射るというのは、なにやらものすごいことですが、では何のために三矢を射たのかというと、朝鮮半島における高句麗・百済・新羅の三国の乱を鎮めるためでした。

    この頃の日本は、すでに天皇を中心とする国民国家が成立していましたが、朝鮮半島は、要するに、上古の昔から反日と親日が入り交じる非常に複雑な場所だったわけで、その朝浅人たちが極めて親日的になったのは、この2千年ほどの歴史の中で、大東亜戦争の終戦までのほんの20年ほどだったわけです。

    引用を続けます。

     ***

    朝鮮半島における日本統治時代とは1910年から45年までの35年間であり、その日韓併合は欧米の凶悪な植民地支配とは全く性質は異なるものでした。
    欧米の植民地支配とは自国の利益のために隷属化し、搾取、暴力の蔓延る支配でした。
    白人以外に人権などなく、今で言う家畜のような扱いだったのです。
    そのような白人列強の時代の中、李氏朝鮮王朝の腐敗は凄まじく、国民の文化・生活・精神レベルは筆舌に尽くしがたい状況すらありました。

    そんな中、日本が朝鮮半島で行った事は、原始的な生活文化から道路、鉄道、大学、病院など全て含めたインフラを整備し、教育を施し、近代化をはかりました。
    その累計支援総額は現在の価値ならば約63兆円と言われており、これはあくまでも日本政府の支援であり、官民からの資産は簿外されています。

    更に日本は敗戦後1951年9月8日に締結したサンフランシスコ講和条約により在外資産を放棄していますが、その中で朝鮮半島に日本が残した資産価値は、GHQの試算によると現在のレートで約17兆円。
    また1965年に日韓基本条約を締結し、日本政府は韓国に対して「無償で3億ドル」「有償で2億ドル」さらに「民間借款として3億ドル」を供与しています。

    もちろんこれは経済的な要素であり、それ以上に日本人が朝鮮半島で心血を注いだエネルギーは計り知れません。
    もちろん何かしらの利益の為に朝鮮半島に渡るものはいたとしても、世界の植民地ではその国の民族は激減するのが常と言う中、朝浅人人口は35年の間に倍増している事から、植民地支配などと言うものとは真逆のものである事が容易に理解できます。
    しかし戦後の極度な左翼的自虐史観が日本国民を覆いつくし、こうした先達の苦労、そしてその愛と勇気はいつの間にか汚名に変わります。

    阿部元俊さんは大正九年、三歳のときに朝鮮に渡り、そこで学生時代を過ごした人です。
    文字通り、日本統治下の朝鮮を体験したのですが、氏はこのように当時を振り返ります。

    「私が朝鮮にいたころ、
     日本人による朝浅人いじめの話は、
     噂としてもまず聞いたことがありません。
     とくに、ソウル郊外の水原にいたころは、
     日本人が少ないからと珍しがられて、
     地域の人たちはみな親切にしてくれていましたしね。
     少なくとも水原では私の知る限り、
     日本人と朝浅人とが衝突したとか、
     喧嘩したとか、
     何かのトラブルがあったといった話は
     聞いたことがありません。

     ソウルでもそうでした。
     学校では、
    『ここは朝鮮だ、
     我々は他人の国によそからやって来て住んでいる。
     朝浅人と喧嘩したり、
     朝浅人をいじめたりは
     絶対にしてはいけない』
     と盛んに言われていましたし、
     親からも厳しくそう言われていました。

     私の父は医者で、
     貧困な農民たちの治療に励んでいましたが、
     それで病原菌をもらってしまいまして、
     腸チフスと赤痢にかかってしまいました。
     父が病院を辞めるときには、
     多くの朝浅人が家にやって来て、
    『どうか辞めないで、ここにいてください』
     と泣いて別れを惜しんでいました。

     戦後、日本に帰ってから、
     朝鮮に住んでいた日本人は
     朝浅人をさかんに苦しめたという言葉を、
     当然のようにぶつけられましたが、
     自分の体験からすると、
     いったいそれはどういうことなのか、
     どう考えてもわかりません。
     喧嘩ということだけでなくて、
     問題になるようないじめとか、差別とか、
     一般生活者の間ではほとんどなかったということを、
     私は自分自身の実体験から自信をもって言うことができます」

    敗戦と同時に日韓併合が終了すると、日本にいた朝浅人の多くが戦勝国民と言い始め、暴力から身を守るすべも失い弱り切った日本人に暴行や拉致、虐殺を始めました。
    続く朝鮮戦争では、半島で自国民への暴行や虐殺の嵐が吹き荒れたため、一部の人たちが日本に密航する朝浅人も続出しました。
    それらが更に暴力によって日本社会の闇を作り上げ、慰安婦問題を筆頭に様々な捏造を繰り返し、日本の中枢に食い込み利権を固めてきました。


     ***

    ということで、記事はまだまだ続くのですが、以上の展開を、いわゆる在ニチ問題と捉えても、おそらく問題の解決はありません。
    もっと根が深いのです。

    国の形のことを英語で「ネイション」「ステイト」と言います。
    「ネイション」は、歴史的民族的な集合体としての国です。
    「ステイト」は、政治的組織としての国です。

    戦後の日本は、いわば敗戦利得者ステイトです。
    戦争を経済として考えると、日清日露戦争の頃は、日本は軍艦も武器も、西欧製のものを使っていました。
    日本が日進日露に勝利できたのは、西欧諸国が日本の味方に付いたことが大きく影響しています。

    ところが大正時代には、内需拡大のためにと、武器の生産が国内に切り替えられました。
    このことは内需を拡大し、結果、大正デモクラシーの日本の繁栄をもたらしたのですが、その一方で、西欧諸国からすれば、実は日本はなんの商売相手にもならなくなりました。

    さらに日本は、第一次世界大戦後のパリ講和会議で「人種の平等」を語り始めました。
    この主張は、人道的には正しい主張です。
    けれど、西欧諸国で支配層にある植民地利権を持った大金持ちたちにとっては、自分たちの財産を失わせる(日本に侵略され、日本に奪い取られる)ことを意味しました。
    こうして日本は世界の敵となりました。

    終戦後、日本は再び西欧諸国(とりわけ米国)の支配下に置かれることになりました。
    米国にしてみれば、日本は市場です。
    日本人は勤勉でよく働きますから、よく働かせて、その利益を吸い上げる。
    これを効率的に行うために、日本国内にある少数民族の朝浅人に特権が与えられ現在に至っています。
    567も、迷惑駐車も、防衛予算倍増問題も、すべてその延長線上にあります。

    しかし、そうして収奪をしてきた西欧諸国は、特に米国を中心として自壊が始まっています。
    一部の権益者である大金持ちが、その財産を増やすために、公然と多くの人の命や財産を奪う。
    およそ6000年続いたこの世界の仕組み、とりわけ600年続いた植民地支配の構図が、いま終わりを迎えようとしています。

    そのなかで日本は、財力と武力による支配の時代を終わらせ、庶民こそが宝となる新たな民衆の世紀のはじまりに、実は重要な役割を担っています。
    日本は、いま、新たな世界のリーダーとしての未来を担いうる日本になるための、新たなステイトに生まれ変わろうとしています。

    浅人の中にも、素晴らしい人はたくさんいます。
    新たな世界へ。
    新たな日本へ。
    日本は、いま、6000年の時を超えてよみがえろうとしています。


    ※この記事は2018年10月の記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           

    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567
○受付時間 
9:00~12:00
15:00~19:00
定休日  木曜日

スポンサードリンク

カレンダー

09 | 2023/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク