• 秀吉の朝鮮征伐は、実は秀吉の明国征伐


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    私たちは、スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った秀吉の壮大な気宇と誇りを、いまこそ見習うべきときにきているのではないでしょうか。
    このために我々は「秀吉の朝鮮征伐」は、実は秀吉が「明国と朝鮮半島で戦った」事件であることを、あらためて理解する必要があります。

    大阪城
    20231002 大阪城



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    大東亜戦争で、たとえばパラオで激戦が行われましたが、日本はパラオの住民や軍と戦ったわけではありません。あるいはいまのベトナムやカンボジアのあたりは、当時はフランス領インドシナと呼ばれるフランス領のエリアでしたが、ここを占領するに際してわが国が戦ったのは、あくまでフランスであって、いまのベトナムやカンボジアと戦ったわけではありません。
    同様に秀吉の明国征伐も、戦いが半島に限定して行われていただけで、戦った相手は明国軍であって、李氏朝鮮国軍ではありません。

    秀吉の朝鮮征伐について、このブログで最初に書いたのは2012年10月のことでした。
    その後『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人、第一巻』にも、このことを掲載しました。
    先日、ある方々とお話をしていましたら、「ねずさん、秀吉の朝鮮征伐は、そもそもスペインの植民地支配に対するわが国の自立自存のための戦いであったのです」と仰っていただきました。
    それだけだいぶ、この説が普及してきたということで、たいへんうれしく思いました。
    たいせつなことは誰が言い出したかではなくて、誰が言い出したかさえもわからないくらい「常識化」することにあります。

    私たちの戦いの本質がここにあります。
    戦いというと闘争を思い浮かべて誰かと対立したり、誰かを非難したり、いがみあったりすることだと思っておいでの方が多いですが、
    叩きあったりつぶし合ったりするだけの対立と闘争は、全体の幸福を破壊します。
    我々が求めているのは、どこまでも全体の幸福であり、よろこびあふれる楽しい国です。

    そもそも「秀吉の朝鮮征伐」という言葉自体に、トリックがあることを私達は知らなければなりません。
    実際にはこの事件は「秀吉の明国征伐」であり、その戦いが半島に限定されたのは、秀吉がスペインの情勢を横目でにらみながら、意図して明国の直轄領に攻め込まないでいたからにほかなりません。

    そもそも当時半島にあった李朝は、明国の一部です。

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    1 世界史の視点から朝鮮出兵の真意を探る
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    最近の韓国で、豊臣秀吉はもっとも嫌われている日本人のうちの一人なのだそうです。
    文禄・慶長の役で朝鮮半島に攻め込んだというのが、その理由だそうです。
    一方、この出兵に際し、日本と朝鮮半島の海峡で戦った李舜臣は、まさにヒーローとされているそうです。
    彼らの言い分によると、李舜臣の活躍によって、日本は海上を封鎖され、朝鮮半島への補給路を断たれたために、半島からの撤退を余儀なくされたからなのだそうです。
    韓国人にとって歴史はファンタジーですから、そう「思い込みたい」気持ちも分からないでもありません。
    けれど、事実関係はまるで異なります。

    李舜臣についていえば、なるほど朝鮮の海将として文禄元年8月29日(1592年)に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいますが、あえなく敗退しています。
    また、慶長3年11月18日(1598年)の露梁海戦ですが、これは、停戦協定が結ばれたあと半島から引あき揚げる途中の日本の軍船に追い打ちをかけた卑劣な戦いでした。
    しかも李舜臣は、この海戦で返り討ちにあって戦死しています。
    李舜臣によって、海上補給路を断たれたという事実は、どこにもないのです。

    そもそも、秀吉の朝鮮出兵については、誤解と偏見がまかりとおっています。
    戦国時代や秀吉を描いた歴史小説においても、秀吉の朝鮮出兵が「なぜ行われたか」について、きちんと踏み込んで書いているものは大変少ないのが実情です。
    おおかた秀吉の朝鮮出兵は、次のような理由によるものとされています。

    ・秀吉がもうろくしていたために起こした。
    ・秀吉の成長主義が引き起こした身勝手な戦いであった。
    ・戦いを好む戦国武士団を朝鮮、中国に追い払い、殺して数を減らすためだった。

    いずれも「木を見て森を見ず」です。
    仮に秀吉がもうろくしていたとしても、当時の日本は、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。
    もうろくジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。

    秀吉の成長主義が招いたという話にしても、信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強く、それぞれの大名は領地が増えなくても、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたわけです。
    金持ち喧嘩せずという言葉がありますが、食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。

    では、なぜ秀吉は朝鮮出兵を行い、世の大名たちも、これに追従したのでしょうか。
    この問題を考えるには、日本国内だけに目を向けていては答えは出てきません。
    秀吉が朝鮮出兵をするに至った背景には、当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。
    そしてそういう国内外の事情を理解したからこそ、東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力し、兵を出しているのです。

    そもそも、二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)というのは、十六世紀における東アジアでの最大の戦いです。
    文禄の役だけでも、日本は約十六万人の軍勢を朝鮮半島に送り込み、朝鮮と明国の連合軍は二十五万人の大軍でこれを迎え撃ちます。慶長の役では、日本は再び約十四万人を動員します。
    天下分け目の関ヶ原の戦いにしても、東軍七万、西軍八万ですから、いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかが分かります。

    そしてこの時代、世界全体を見渡せば、世界中に植民地を獲得した「スペイン帝国」が、植民地からもたらされた莫大な富によって覇権を握っていました。
    太陽の沈まない国と形容され、黄金の世紀を謳歌していたのです。
    そのスペインは、東アジア地域の戦略統合本郡である総督府を、ルソン(いまのフィリピン)に置いていました。
    そして、東アジア植民地の拡大を着々と進めていたのです。

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    2 遅れてしまった日本占領計画
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    スペイン人が日本に最初にやって来たのは、天文十八年(1549年)のことです。
    宣教師、フランシスコ・ザビエルの来日がそれです。
    当時の宣教師の仕事は、表向きはキリスト教の伝道ですが、本当の仕事は、将来その地を植民地とするために情報を収集することや、さまざまな懐柔工作です。

    実際にキリスト教を伝道しながら、ありとあらゆる手段を使い、多くの人を改宗させます。
    そして、それらの人々を味方につけ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、抵抗する者を殺戮し、その地を植民地占領していくのです。

    内乱に明け暮れていた戦国大名たちは、そんな宣教師の目的を知りません。
    最初は西洋からやって来た宣教師たちを、快く受け入れていました。
    実際、ザビエルはあちこちの大名に招かれ、なかにはキリスト教の信者になった者もいました。
    宣教師たちの仕事は順調に進んでいるかに思われました。

    ところが唯一、日本がほかの国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、またた日本人は瞬く間にコピーし、それを量産してしまったことです。
    気がつけば、なんと日本は、鉄砲保有数で世界一になってしまいました。
    その数、当時の世界の鉄砲数の半分にあたる約50万丁。
    もっともこれは、最盛期の数ですが、鉄砲は戦国時代の日本に、ものすごい勢いで広がっていったのです。

    これには宣教師たちも驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書には、次のような記述があります。

    「スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向けるしかありません。」

    人口なら、日本より南米やインドのほうがはるかに数が多いわけで、城だって日本は平城が主流ですから、アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。
    にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、「鉄砲の数が圧倒的で、軍事力で日本には敵わない」とは、国王宛ての上書に書けないからです。

    そして、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向ける」ように進言しているのです。
    こうしてスペインは、日本での布教活動に注力していきます。

    一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。お隣の明国もスペインは植民地化を狙っています。
    こちらは鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。
    ただ国土は広く、その調略には手間がかかります。

    ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。
    朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。
    それだけのことです。

    スペインは明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に「一緒に明国を奪わないか」と持ちかけています。
    ところが日本は、まるでそんなことに関心がありません。
    そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。

    信長は、比叡山や本願寺まで攻めたため、まるで第六天の魔王であるかのように描かれることが多いですが、実際には、信長の戦いの目的は、「一日も早く戦乱の世を終わらせる」ことに尽きたのです。だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが、最近になって発見された各種文書から、次第に明らかになってきています。

    これは秀吉も同様です。
    しかも、農民の出だから農民の気持ちが分かるのです。
    戦乱によって農地が荒らされることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんと分かっていたからこそ、秀吉は人気があったのです。

    要するに、当時の信長、秀吉にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、お隣の明国になどかかわっていられなかったのです。

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    3 朝鮮出兵は安全保障上の理由から
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    ところが、秀吉が日本を統一すると、次第に明国への対策が大きな政治課題となって浮上してきました。
    どういうことかというと、これにスペインが関係しているのです。

    スペインが日本を攻めようとしても、遠路の航海を余儀なくされますから、世界の覇権国とはいえ大軍を差し向けることは不可能です。
    仮にスペインが海を渡って攻めてきたとしても、数のうえからいえば少数であり、火力、武力ともに日本のほうが圧倒的に優位です。
    したがってスペインとの直接対決ならば、日本が負ける心配はありません。

    ところが、スペインが明国を植民地として支配下に収めると状況が変わってきます。
    スペインに支配された明国兵が、数の力にモノをいわせて日本に攻め込んできたら、日本は数多くの鉄砲を持っているとはいえ、これは大変なことになります。
    まさに、元寇の再来。大きな脅威です。

    この脅威を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかありません。
    火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明国の緩衝地帯として置くことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができるのです。
    このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、明治日本が行った政策と、当時の状況が酷似していることをあらわします。

    さらにいえば秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊がイギリスに敗れ、スペインが海軍力を大幅に低下させていることを知っています。
    ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性はまずありません。

    一方、国内で秀吉は、長く続く戦乱の世を終わらせようと、全国で刀狩りを実施します。
    刀狩りそのものは、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時に庶民から武器を奪うことは日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。
    もし日本が他国侵逼の難にあったときは、大きな痛手となるでしょう。

    ならば、武力がまだ豊富なうちに余剰戦力を用いて朝鮮出兵を行い、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。
    これは我が国の安全保障上、必要なことであったわけです。

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    4 スペインに強硬な態度で臨んだ秀吉
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    こうして秀吉は、文禄の役(1592~1593年)、慶長の役(1597~1598年)と二度にわたる朝鮮出兵を行うのですが、同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行っています。
    何をしたかというと、スペインに対し、「臣下の礼をとれ」と迫ったのです。
    最初にこれを行ったのが、文禄の役に先立つ一年前、天正18年9月(1591年)のことです。

    秀吉は東亜地域の拠点、ルソンにあるスペイン総督府に、原田孫七郎を派遣し、
    「スペイン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。
    世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
    まさに、気宇壮大というべきです。

    対するスペイン総督府にしてみれば、これはきわめて腹立たしいことです。
    しかし、隣国であるイギリスの国力が増し、自国の防衛を優先させなければならない当時のスペインの現状にあっては、日本に対して報復的処置をとるだけの力はありません。
    悔しいけれど放置するしかありません。
    すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。

    驚いたのはスペイン総督府です。
    日本が明国を征すれば、その国力たるや東アジア最大となり、スペインにとって政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。
    しかも、海を渡って朝鮮出兵をするということは、兵員を海上輸送する能力があるということですから、いつ、ルソン島に日本が攻めて来てもおかしくありません。

    慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
    これがマニラの日本人町の始まりです。

    さらにスペイン総督府は、同年七月にドミニコ会士、フアン・コーボを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。
    このとき、膨大な贈り物も持参しています。
    いかにスペインが日本を脅威に感じたかということです。

    けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。
    重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。
    その内容がすさまじいです。
    「スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、ルソンにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ」というものです。
    そして、
    「それが嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ。このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ」というのです。

    ところが秀吉の書簡を受け取ったフアン・コーボは、帰路、遭難してしまいます。
    本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が百パーセント、スペイン国王の怒りを買うことが分かって、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。
    けれどおそらく、これは後者ではないかと私は見ています。

    ────────────
    5 秀吉の世界戦略
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    さて、フアン・コーボの遭難のおかげで、秀吉の書簡はスペイン総督府には届かなかったわけですが、当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。
    けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。

    秀吉は10月には原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせたのです。
    文禄2年4月(1592年)、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。
    そしてこのとき、たまたま在マニラの中国人約二千人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。

    スペイン兵は応戦しますが、多勢に無勢です。
    これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、瞬く間に中国兵を殲滅してしまいます。
    日本強し。
    原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。

    けれどゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。
    世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、とてもじゃないが報告できることではありません。
    ゴメスは困り果ててしまいます。

    そして、翌文禄3年4月(1594年)に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウティスタを特使に任命し、日本へ派遣します。
    要するに、特使の派遣を繰り返すことで、少しでも時間稼ぎをしようとしたのです。

    名護屋(現、佐賀県唐津市)で秀吉と会見したペドロは、スペインがいまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。
    普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。
    けれど秀吉は聞く耳を持ちません。
    ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。

    なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。
    理由があります。

    第一に、国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。
    この時代における国際関係というのは、やるかやられるか、つまり上下の関係しかありません。
    たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかなかったのです。

    第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。
    そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作を行います。
    現に、世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地にされていたのです。
    ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ。あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。これしかなかったのです。

    いくさ第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。
    武力で日本を統一したあとは、「刀狩り」を行い、内乱の芽をつんで太平の世を実現しようとしています。

    けれど、刀狩りをして庶民から武器を奪うことは、一方において日本を弱化させることを意味します。
    ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を、日本からできる限り遠ざける必要があったのです。

    ────────────
    6 スペインの戦略とサン・フェリペ号事件
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    名護屋における秀吉とペドロとの会見が物別れになると、スペインのゴメス総督は、日本への軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまいます。
    そして後任の総督としてやって来たのが、ルイス・ダスマリニャスです。

    ルイスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本の
    戦力を冷静に分析します。
    そして、ゴメスの分析どおり、もし日本とスペインが東アジアで正面から衝突すれば、スペイン側に勝ち目がないことを知ります。
    そこでルイスは秀吉との直接交渉は避け、一人また一人と、宣教師を日本に派遣するという戦略をとりました。つまり時間を稼ぎ、その間に当初の戦略どおり、日本に布教をしていこうとしたのです。

    文禄3年(1594年)には、ルイス総督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士四人が日本に派遣され、日本での布教を再開しました。
    秀吉もこれは認めています。

    ところが慶長元年(1596年)のことです。
    スペインの貨物船、サン・フェリペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。
    救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べました。
    そこで驚くべき事実が明らかになります。
    なんとサン・フェリペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、次のような証言をしてしまったのです。

    「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると次は軍隊を送り、信者に内応させてその伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」

    報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26名を逮捕しました。
    そして彼らを長崎に送り、「キリシタンを続けたいなら外国へ出て行け。日本に残りたいなら改宗しろ」と迫りました。
    迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。

    イエズス会の腹はこうです。
    26名の信者をイエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。
    こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、信仰による団結心をたかめる。
    まあ、このあたりの話は、本題からかなりそれるので、次の機会に詳しく書くことにします。

    ────────────
    7 民族の気宇と誇り
    ────────────

    要するに秀吉の朝鮮出兵は、統一国家をやっと形成した日本が、スペインによる東洋の支配から国を守るために下した決断であった、ということです。
    このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ていてもまったく分かりません。
    当時の世界情勢、東アジア諸国の情勢を視野に入れなければ、秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、そして多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのかが理解できません。

    もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の世界の動きは、スペインがロシアに変わったほかはきわめて似ています。
    同じことが歴史上、繰り返されたということなのです。

    もし、秀吉が朝鮮出兵を行わず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたことでしょう。
    明国がスペインの植民地になっていた可能性は非常に高いのです。
    当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。

    そしてスペインの植民地となることは、どういう意味を持つのか。
    そのことは、いまの南米諸国が、見事に教えてくれています。

    現在、南米に南米人の純粋種は存在しません。
    白人との混血種だけです。

    アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完璧に抹殺されてしまいました。
    いまこの地域に住んでいるのは、ほぼ白人種です。
    ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が先住民族と白人との混血です。
    純血種はいません。

    日本も中国も朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。
    南米のようなことにならなかったのは、秀吉と配下の戦国武将たちが、スペインと真っ向から戦う姿勢を示したためです。

    ちなみに、秀吉の死去にともなって、日本は朝鮮半島から撤収し、慶長の役は終わりました。
    「だから朝鮮出兵は秀吉の気まぐれで起きた戦争だ」というのは、大きな間違いです。
    半島に出兵した武将たちは、自ら進んで真剣に戦ったのです。

    私たちは、スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った秀吉の壮大な気宇と誇りを、いまこそ見習うべきときにきているのではないでしょうか。

    そして「秀吉の朝鮮征伐」は、秀吉が「明国と《朝鮮半島で》戦った」事件という意味の言葉であることを、私たちはあらためて理解する必要があるものと思います。


    ※この記事は2020年10月の記事の再掲です。
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    大化の改新不存在説は、こうした日本のもつ凄みから、世間の耳目を逸らそうとする政治的な動きであって、学問ではありません。私達は、本来の学問を取り戻すべきです。

    20221004 天智天皇
    画像出所=https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87-102574
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    日本に希望の火を灯す!

    大化の改新といえば「蒸し米(六四五年)で祝う大化の改新」などと、年号の語呂合わせで覚えておいでの方も多いのではないかと思います。
    ところが近年、「大化の改新はなかった」という学説が、一部の日本人かどうか疑わしい歴史家の中で声高に言われています。

    なかっという理由は、
    1 日本人が漢字を用いるようになったのは670年ごろのことである。
    2 したがって、それより25年も前の645年にこのような凄みのある改革が日本人にできるはずがない。
    というものです。

    要するに日本の文明は、中国から朝鮮半島を経由したもたらされたものであるという認識の上に我が国の歴史を語ろうとする「無理」が、結果としてこのようなトンデモ説を生んでいるのですが、これがトンデモ説だということは、日本が一世紀の中頃には、すでに後漢に使いを送り、その使いのことが後漢書にはっきりと書かれていることからも明らかです。
    後漢書によれば、日本からの使いは、自ら太夫と称し、金印を受け取ったとあります。
    有名な「漢倭奴国王」の金印です。

    印鑑は、昔も今も文書に押すものです。
    文字文化がなければ、金印は無用の長物です。

    しかもこれが金印であることにも注意が必要です。
    中国王朝には、印に種類があって象牙印が最高で、これは中国皇帝のみが用いることができます。
    その下に、オリンピックと同じ金・銀・銅の種類の三種類の印があります。
    金印は中国と対等な大国にのみ与えられる印です。
    銀印は、それに継ぐ国、
    銅印は別名泥印とも呼ばれ、中華からみたときに、とるにたらない小国の王に与える印です。

    朝鮮半島の歴代王朝に与えられた印は、すべて泥印です。
    泥印しかもらえない国が、金印国に文明を授けたのでしょうか。
    もし一世紀の日本が半島以下の文明と国力しか持たなかったのなら、日本も泥印だったはずです。
    ところが日本には、金印が与えられているのです。
    ということは、当時の日本は、漢の大帝国からみても、対等といえる超大国であったということです。
    そして当然のことながら、文字も縦横に使い、外国語である漢文にも通じていたからこそ、日本に金印が与えられているのです。

    歴史は科学です。
    そして科学は、事実を論理的かつ合理的に積み上げたものです。
    科学は嘘を付きません。
    事実を論理的かつ合理的に考えていけば、朝鮮半島経由で日本に文明がもたらされたということは、まったくありえないことなのです。

    つまり日本は、大化の改新よりも六百年も昔から、国語のみならず漢語も使いこなしていたのです。
    だからこそ中国との交易や使節の往来も可能だったのです。

    仏教の伝来は、この金印から4百年も後のことですが、これは当時日本に対する朝貢国(日本の属国)であった百済の王が、日本に仏僧と仏像と仏典を贈ったというものです。
    常識的に考えて、朝貢国が宗主国に何らかの贈り物をする場合、それなりの国力のある国であれば、宗主国が喜んでくれそうな自国の産物を送ります。
    ところが百済が送ったのは、他国の唐の仏教の経典であり、僧侶であり、仏像でした。
    このことが意味することは明白です。
    百済には日本以上の産物がなく、唐の国の仏典を日本に贈るしかなかったということです。
    つまり、百済よりも日本のほうが進んだ文化を持っていたということです。

    この仏教公伝の理由もまたふるっています。
    公式な記録として残っている事実ですが、当時朝鮮半島の南部は日本の直轄領だったのです。
    その直轄領を、百済の王が、日本の政府の高官である大伴金村に賄賂を贈って、自国の領土に組み入れてしまうのです。

    第一にこれに猛反発したのが、百済に組み入れられた伽羅地方の民衆でした。
    伽羅の民衆はこれを不服として、その後100年間に渡って百済への税の支払いを拒み、日本に税を収め続けたのです。
    つまり百済の国力は、伽羅地方の民衆の力にさえも及ばなかったということです。
    ちなみに百年後にどうなったのかというと、百済が滅んでなくなってしまいました。

    第二に、賄賂によって宗主国の土地を勝手に手に入れたということについて、当時の天皇が激怒されるのです。
    さりとて、当時の最大勢力の豪族である大伴氏を切るわけにもいかない。
    そこで大伴金村と百済の王が、考えに考えた末、天皇に唐の国の仏教の経典と仏僧と仏像をプレゼントするのです。
    なんとか天皇の怒りをなだめようとする、これは苦肉の策であったわけです。

    これにより百済はもとの朝貢国の地位に戻ります。
    ちなみにこの時代、朝貢国の王は、宗主国の王に跡継ぎの王子を人質として贈ることとされていました。
    これは、万一、その国の王が裏切ったとき、跡取りの王子を殺害することで、その国は未来をなくす、という仕組みです。

    一方、人質となった王子は、宗主国で育ち、宗主国の娘を嫁に迎えて子を生みます。
    子は、朝貢国と宗主国のあいの子ですから、これが幾世代か行われると、事実上、その国の王は宗主国の血をより濃く持つことになります。
    こうして国と国が一体化していくということが古代においては行われていたのです。

    ちなみにこの仕組みは、おそらく大国主神などの時代から広く行われていた仕組みであろうと思われます。
    日本全国には諸国があり、かつてはそれぞれの国が独立国であったものが、いつしか日本列島全体を天下とする統一国家が形成されていったわけです。
    その際に用いられたのが、各国との血の交わりであったのであろうとされています。

    というわけで、仏教の経典を贈ってもらって日本が喜んだということは、すでにその時代には日本は漢字を縦横に読みこなす力があったということです。
    そしてその力は、半島から授かったのではありません。

    現在わかっているところでは、1世紀に作られた陶器に、墨で書かれた文字が見つかっています。
    つまり1世紀の時点で日本はすでに漢字を用いていたことになります。

    そして日本には、漢字に訓読みがあります。
    これはもともと、かなり進んだ文化性を持つ「かな文字」文化が日本に定着していて、あとから漢字を輸入したこと以外に、理由が成り立ちません。
    そもそも漢字に、その国の言語である訓読みを与えている国は、日本しかないのです。

    仏教の経典の場合は、実はこれとは逆の流れです。
    漢字で書かれた仏教の経典というのは、もともと梵字で書かれていたものを、鳩摩羅什がもとの言語の「音をそのままに」、意味と音が共通する漢字で書き写したものです。

    こうしたことは、古代においてはよく行われたことで、おそらく、君が代の音律が、そのままヘブライ語でも読めるといったことも、これと同系統の事柄であろうと思われます。

    ちなみに日本語の五十音は、五十音のひとつひとつが意味を持つ音で、これを一字一音一義と言います。
    一音ごとに意味があり、一音ごとが神様のお名前です。
    だから我々日本人は、かなのことを「神名(かな)」と呼びます。

    おもしろいことに、そのかなの一音毎の意味は、ほぼ万国共通なのだそうです。
    たとえば英語の一人称は「I(アイ)」ですが、大和言葉で「あ」は広大無辺な時空間、「い」は伝える意思を意味します。
    英語は構文上「I」を多用しますが、それは広大無辺な時空間、伝えたい様々な思いを、伝えたいということから、多用されているというわけです。

    同様に「Love(らぶ)」の「ら」は場を示し、「ふ」は増えること、つまりこの場で子を作りましょうという意味がもともとの「らぶ」の意味だといった、楽しい話もあります。
    楽しいというのは、本当かどうかはわからないけれど、そう考えると、世界中の言語がもとはひとつだったのではないかといった想像も働いて、楽しいよね、といった意味です。

    さて、大化の改新というのは簡単におさらいすると、中大兄王子(天智天皇)と中臣鎌足が、権勢を誇っていた蘇我入鹿、蝦夷(えみし)親子を誅殺した(乙巳の変)のあと、直後に即位した孝徳天皇の御名によって発布された一連の改革の詔(みことのり)のことを言います。

    その改革内容の主なものは、
    1 公地公民制
    2 令制国の実施
    3 戸籍と課税台帳の作成
    4 税制改革(租・庸・調)
    であったとは、学校の歴史の授業で習うことです。

    そしてこの中の最大のポイントが公地公民です。
    公地公民というのは、
    「国内の全ての土地は天皇の土地であり、
     国内の全ての民は天皇の民である」
    という規定です。

    ここで問題なのが、天皇の位置づけです。
    大化の改新では、天皇を国家最高の権力者としていないのです。

    このことは世界の常識とは異なります。
    なぜなら世界では、王は、神の代理人であり、地上における神として国家の全ての土地、財産、民衆を私的に支配する国家最高の神の代理人であり、最高の政治権力者であり、国のすべての所有者です。

    ところが日本では、天皇は神々の代理人であるけれど、政治権力者ではありません。
    天の下は神々の所有物であり、天皇はその神々と直接繋がられる国家最高権威です。
    そして政治権力は、その天皇の部下が担うとされました。

    このことは実に合理的な仕組みといえます。
    なぜなら、政治権力の行使には、常に責任が伴うからです。
    責任なき権力が、暴君しか生まないことは、世界の歴史が証明していることです。
    そして同時に、神に責任を問う人はいません。
    ということは、神は政治権力者にはなりえないということです。

    神に祈る人も同じです。
    仮に政治家が、国を思うように動かすために、神官に神への祈りを依頼したとします。
    結果が、当該政治家の政治が大失敗であったとき、その罪は神官にあるのでしょうか。
    罪が神官にあるのなら、神官は神々の代理人ですから、本人である神に罪があることになります。
    政治権力は、神に責任を押し付けるのでしょうか。

    このように考えれば、政治責任は、あくまで政治家が負うべきものとした我が国の7世紀の大化の改新が、世界の政治史を、1400年も先取りした、たいへんなシステムであったことがわかります。
    それが公地公民です。

    さらに天皇は、民衆を「おおみたから」とします。
    このように規定することで、天皇直下にある政治権力者たちの仕事は、天皇の「おほみたから」たちが、常に豊かに安全に安心して豊かに暮らせるようにすることが仕事となります。

    安倍晴明といえば、陰陽師で有名ですが、安倍晴明は朝廷の陰陽寮の長官ではありません。
    陰陽寮に所属する一介の陰陽師です。
    その安倍晴明の年収は、現代の相場に換算すると年間5億円ほどあったといいます。
    年収5億円です。
    さぞかし良い暮らしができるであろうと思うのは、現代日本人の錯覚です。
    実際には、5億円分のお米を算出する土地の管理を委ねられていたのです。
    その土地のことを荘園といいますが、その荘園が、凶作等の事態になったとき、その荘園の人々を養うのは安倍晴明の役割とされました。
    ですから数年続きの凶作ともなれば、贅沢どころか借金まみれになって、荘園の人たちを養わなければならなかったのです。

    この仕組みをより強化充実させるために整備されたのが、戸籍と課税台帳です。
    日本の地名は、その多くが漢字二文字、苗字も多くは漢字二文字となっていますが、これはこのときに戸籍と課税台帳を整備するために、中大兄皇子が地名を漢字二文字で書き表すようにと御触れをしたことに由来します。

    いまでは、地名には漢字一文字や、三文字で書き表す地名や苗字がありますけれど、それらの多くは、大化の改新以降に、なんらかの事情で異なる文字数になったものです。
    したがって「大化の改新はなかった」と主張している学者さんの苗字も、漢字二文字であるということは、まさしく「大化の改新があった」から、漢字二文字の苗字になっているわけです。
    住んでいる土地の名前も、漢字二文字で書き表されているのです。

    さて、大化の改新のはじまりにあたる乙巳の変(おつみのへん)についても、多くの教科書などが「天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が起こしたクーデター」と説明しています。
    これまた「本当に学校の教科書なの?」と疑いたくなるような不思議な記述です。

    クーデターというのは世界中どこでも、
    「身分の低い者が、
     身分の高い権力者を打ち倒して、
     その地位に就くこと」
    をいいます。

    ところが「乙巳の変」では、蘇我入鹿は朝廷における役席者でもなんでもありません。
    いわば一民間人でありながら大金持ちで、天皇の親任も受けずに勝手に職位を自称し、天皇の地位や権威までをも脅かす存在となっていた人物です。
    このことが異常事態であることは、たとえば会社において部長の辞令も出ていないのに、誰かが勝手に部長を自称して職務を壟断することを想像したらおわかりいただけようかと思います。
    これを天皇の皇子(みこ)である中大兄皇子が誅殺したのです。

    つまり「乙巳の変」は、正当な身分を持つ位の高い者が、身分が低いのに権力を横取りしようとした者を倒した事件です。
    これは「懲罰行為」であって、「クーデター」ではありません。

    そして大事なこと。
    「大化の改新」は、「新たに改めた」と書かれています。
    それがいつのことかといえば西暦645年です。
    この年、日本は初めての元号を「大化」と制定しました。

    独自の元号を名乗るということは、我が国が自立自尊の国家として中華文明と決別するという明確な意志を表します。
    「大化の改新」の「大化」にある「化」は、人が立ち姿で身をかがめた姿を言います。群臣百卿が、全員揃って天皇の前に身を大きくかがめる。
    これが我が国最初の元号です。

    「改新」の「改」は、古いものを叩いて新しく蘇生させる際に用いる字です。
    もともと日本は天皇のシラス国です。
    ですからその状態を「新たに元に戻す」というのが「改新」の意味です。

    つまり大化の改新は、
    「天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指した」
    のではなく、
    「天皇を中心とするシラス国の復活をした」
    のです。

    その証拠は、大化の改新の翌年に打ち出された改新の基本方針の中に明確に書かれています。

    1 公地・公民とし、豪族が私的に私有していた土地や民衆を天皇の直轄に戻す。
    2 そのために班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)によって戸籍と、土地の登記簿をつくる。
    3 全国を国と郡ぐんに分ける。
    4 租庸調(そようちょう)による税制を引き、国が税を直接取り立てる。

    要するに「戻す」のです。
    「新たに始める」のではないのです。

    大化の改新は孝徳天皇の時代に行われたことですが、すべてを成し遂げたあと、これを推進した中大兄皇子は、孝徳天皇から数えて二代後に天智天皇となられています。
    つまり天智天皇は、皇太子殿下のときに大化の改新を断行し、それが一段落してから、政治の上の機構である天皇となられたわけです。
    その天智天皇の御製が、実は百人一首の一番歌になっています。

     秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
     わが衣手は露にぬれつつ

    この御製は、天智天皇が、天皇自らが農事に精を出されているお姿を詠まれた御製です。
    君民一体となって、みんなが豊かに暮らして行く。
    それが日本本来の姿です。

    大化の改新不存在説は、こうした日本のもつ凄みから、世間の耳目を逸らそうとする政治的な動きであって、学問ではありません。
    私達は、本来の学問を取り戻すべきです。


    日本をかっこよく!

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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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