• 天皇と日本


    日本が外交文書に最初に「天皇」という言葉を用いたのが西暦608年の第三回遣隋使の「東天皇敬白西皇帝」です。そして「日本」という国号が最初に用いられたのが西暦645年の天皇による高句麗・百済の使者への「明神御宇日本天皇」の詔です。つまり天皇は日本よりも古い。日本は天皇あっての日本です。それが歴史です。


    20231130 京都御所



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    世界中どこの国でも、学校で自分たちの住む国の建国の歴史や建国宣言の内容を教えます。
    あたりまえのことです。
    国があるから国民なのです。
    自分たちの所属する国の建国の歴史や経緯、また建国の理念を教えることは、国家として当然のことです。

    チャイナやコリアのように、たとえその建国の経緯や理念が荒唐無稽な絵空事であっても、彼らは彼らなりに、最低限の建国の歴史や経緯や理念をしっかりと学校で教えます。
    もちろん米国でも建国の歴史や理念を教えます。
    なるほど米国の独立宣言を諳(そら)んじることができる人は少ないかもしれないけれど、米国が独立戦争を行ったこと、その独立戦争に勝利して独立宣言を行ったという事実は、米国人なら誰でも知っていることです。
    米国人でなくても、日本人も知っています。

    世界にはオリンピックに参加する国が206ヶ国あります。
    そのどの国においても建国の歴史や建国宣言の内容を教えます。
    しかし戦後教育を受けてきた日本人で、日本建国の経緯や歴史、あるいは建国の詔(みことのり)を学校で教わった記憶を持つ方はいるのでしょうか。

    日本は教育を憲法で義務化している国です。
    国家の行政機関として文部科学省もあります。
    日本という国があるから憲法があり文部科学省もあります。
    ところが憲法で義務化している小中学校で、我が国の建国の経緯や理念、あるいは建国宣言を、その文部科学省の所轄する小中学校で教えていません。
    教科書にも書かれていません。
    文科省はいったいどこの国の教育監督庁なのでしょうか。

    教育関係者のなかには、日本は戦後に大日本帝国から日本国という「別な国」になったと言う人もいます。
    なるほどそれは事実です。
    けれどそれはステイト(State)、つまり政治体制としての国のことを言います。
    ステイトで言うなら、江戸時代は徳川ステイトです。室町時代なら室町ステイト、鎌倉時代なら鎌倉ステイトです。
    信長の時代なら、日本は信長ステイトです。
    では、江戸時代や鎌倉時代などは、別な国なのでしょうか。
    そうではありません。

    なるほど政治体制(ステイト)は異なりますが、日本は日本です。
    歴史伝統文化は、古代大和朝廷の時代、あるいはもっと古くは縄文時代から日本はずっと続いています。
    そうした歴史伝統文化に基づく国のことを、政治体制とは切り離して「ネイション(Nation)」と言います。
    ネイションは、歴史伝統文化をひとつにする国のことを言います。
    その日本ネイションの中心にあるのが天皇です。

    日本が外交文書に最初に「天皇」という言葉を用いたのが西暦608年の第三回遣隋使の「東天皇敬白西皇帝」です。
    そして「日本」という国号が最初に用いられたのが西暦645年の天皇による高句麗・百済の使者への「明神御宇日本天皇」の詔です。
    つまり天皇は日本よりも古い。
    日本は天皇あっての日本です。それが歴史です。

    天皇は、日本というネイション(民族の共同体)における王や皇帝ではありません。
    王は権力者、皇帝はその王の中の大王を意味しますが、日本の天皇は、そんな大王らに権力を与える、もっとはるか上位のご存在です。
    現代風の言い方をすれば、国家最高権威であり、国民の象徴(Symbol)であり、国民統合の象徴です。
    そしてその象徴によって、国の最大の宝が国民であると規程されます。
    これを国民主権と言います。
    国民主権は、天皇の存在によって担保されているのです。
    このことを古い言葉では、民が天皇の大御宝であると述べられていました。
    天皇の下にある国全体のことを「天下(あめのした)」と言いますが、今も昔も、日本は天皇によって、国民が大御宝とされている国なのです。

    その大御宝たちが、誰もが安全に安心して豊かに暮らすことができるように最善を尽くしていくのが、政治権力としてのステイト(政治体制)の役割です。
    政治体制は、日本では、搾取のためのものでもなければ、一部の人たちだけが贅沢三昧な暮らしをするためのものでもないのです。

    こうした栄えある国号を、現代の日本でも使っています。
    およそ1400年前に用いられていた国号を、いまなお使っている国は、世界の中で日本だけです。
    そしてこのことは、日本が世界最古の国として、いまも続いていることを意味します。
    世界で最も古い国が日本です。
    子どもたちにこのことを教えないのは、ほんとうにもったいないことです。

    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           


    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 八幡太郎義家と安倍貞任に学ぶ日本人の民度


    物語を通じて大切なことをちゃんと理解できる国民の民度の高さがあったからこそ、この物語は、歴史を通じて大切に語り継がれてきたのです。「古着だからね」程度のおバカな理解なら、この物語が歴史の中で生き残ることはないのです。


    20211112 義家と貞任
    画像出所=http://blog.livedoor.jp/shirakinouen-ja9kikai/archives/67411870.html
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    永承6(1051)年に起きた前九年の役は、陸奥の豪族の安倍一族が時の国主に反抗することで始まった奥州の大乱です。
    都から、討伐隊として源義家が派遣されました。

    源義家の別名を八幡太郎義家といいます。
    武芸の神様である八幡大菩薩の名をいただいた名将で、天下第一武勇之士ともいいます。

    その源義家に、おもしろい逸話があります。

    ある日のこと、源義家が、敵の大将の安倍貞任(あべさだとう)を馬で追いかけました。
    追う義家、逃げる貞任。

    義家は、貞任に
    衣のたてはほころびにけり」と句を投げつけました。
    すると貞任は、振り向きざまにっこり笑って
    年を経し糸の乱れの苦しさに」と、上の句を返した、というお話です。
    その返歌の見事さに、義家は構えていた弓を降ろし、貞任を逃がしてあげたとか。

    これは義家と貞任の歌問答としてたいへん有名なお話です。
    最近の学者さんたちの解説を読むと、そこには、表現はいろいろあるものの簡単に言えば、
    義家の「衣のたてはほころびにけり」というのは、逃げる貞任の「服装が乱れていたことを指摘」したもの、
    貞任の「年を経し糸の乱れの苦しさに」は、「衣服が古着だからねえ」と答えたと書かれています。

    要するに、服装を乱し、丸くなって逃げていく貞任が、衣服が乱れているのは、古着だからだと答えた歌だから、見事な歌だ、というのです。

    しかし、両者とも、仮にも一軍の大将です。
    それが古着云々で、しかもそんなことが歴史に残る歌問答で、後世に至るまで名場面として語り継がれるなんていうことがあるでしょうか。
    ちょっと待ってくれといいたいのです。

    この歌問答に流れる一番大事な思想的背景を見落しているから、間違えるのです。
    あるいは日本を、どうにも遅れた国としたいという、おかしな思想に取り憑かれるから、そのような情けない解釈しかできなくなるのです。

    そもそも義家も貞任も、天下の公民(おほみたから)を預かる武家の大将であるという気概のもとに戦っています。
    公民(おほみたから)というのは、天皇の宝ということです。
    その宝たちが豊かに安全に安心して暮らせるようにするために戦っている。
    その意識のもとに、二人は対決しているわけです。

    はじめの義家の「衣のたてはほころびにけり」は、いわば、北斗の拳のケンシロウの
    「お前はもう死んでいる」
    と同じ意味です。
    義家は弓の名手であり、その剛弓は三枚重ねた鎧(よろい)さえも撃抜くほどの威力であり、しかも狙いが正確。
    その義家が、貞任に狙いを定め、弓を引き絞って
    「貞任、おまえの衣のたてはほころびにけり」と呼びかけています。
    これはつまり「お前はもう死んでいる」という意味です。
    北斗の拳との違いは、こちらはリアルだという点です。

    この呼びかけを聞いた貞任は、馬をとめ、振り返って
    「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を返しました。
    それが何を意味しているかというと、
    「300年続いた律令体制が崩れ、
     国司の横暴に多くの天下の公民たちが苦しんでいる。
     その『苦しさ』のために、
     俺たちは立ち上がったのだ」
    という意味です。
    これを、矢を向けられた瞬間に、ニッコリ笑って堂々と返しています。

    そうなると「お前はもう死んでいる」と下の句で詠んだはずの義家の歌が、ぜんぜん違う意味になってしまいます。
    つまり長い年月の間に崩れた律令体制で、天下の公民の生活が苦しくなり、それを守るために立ち上がったという貞任の主張を、義家の「衣のたてはほころびにけり」が補強してしまうのです。
    つまり政権側を代表している義家が、むしろ反体制側の貞任の言い分をまるごと認めたことになってしまう。

    つまり貞任は、義家の投げつけた「お前はもう死んでいる」にを受けて、律令体制の各種矛盾が表面化した世相を上の句に詠むことによって、安倍貞任は義家の下の句の意味をまるで違うものに瞬間的に変えてしまったのです。
    実にみごとなものです。

    「年を経し糸の乱れの苦しさに」
    →律令体制が長い年月の間に乱れ、庶民が苦しい生活を予備なくされている。だから俺たちは立ち上がった。
    「衣のたてはほころびにけり」
    →衣の縫い目のほころびは、律令体制はほころびた、
    となってしまったのです。

    これでは、さしもの義家も、弓を下ろすしかありません。

    どこかの半島の方にはわからないことのようですが、日本社会は、支配者が民衆を奴隷にして君臨するという大陸的支配社会ではありません。
    民が、あらゆる政治権力に認証を与える国家最高権威である天皇の「おほみたから」とされてきた国柄を持ちます。
    つまり政治権力者たちは、天皇の宝である民(たみ)を預かっていて、その民たちが、豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくことに最大の責任を負っていたのです。

    ですから武士たちにとっても、民こそが一番の宝です。
    民の生活の安寧のためにこそ、立ち上がっているのであり、そこにこそ武士の存在価値と権威があります。

    八幡太郎がその剛弓を構えて、狙いを定め、「お前はもう死んでいる」と詠ったら、狙われた貞任が「それは体制の死を意味する」と上の句で答えたわけです。
    そうなると、そのまま弓を射たら、体制のために戦っている義家は、自分の弓で体制を射る、つまり「自分がおおみたからのために戦っているという、その戦いの原点を、自分から否定することになってしまうのです。

    もっと簡単に言いますと、貞任の句は、「世の乱れで民が苦しんでいる」という句です。
    朝廷に対する反乱軍の事実上の大将(実際の大将は貞任の親)が、世の乱れに立ち上がった、と詠んだわけです。

    討伐軍の義家は、弓を構え、狙いを定め(義家の弓は強弓で一撃必殺)、その上で「お前はもう死んでいる」という意味で「衣のたてがほころんだ」と詠みました。
    これを逆手にとられて、「世の乱れの苦しさに」と返されたのです。
    そうなると、義家の句の意味は、「お前はも死んでいる」ではなくて、世が乱れて民の生活は苦しくなり、しかも世は乱れ、ほころんでいる」という意味になってしまうのです。

    ということは、討伐軍の事実上の大将である義家(こちらも実際の大将は父)自身が、「世が乱れている」ということを認めたことになってしまう。
    まさに、「してやられた!!」という状態なのです。

    命を狙われながら、即興でそこまで深いやりとりができる。
    この歌問答が、後世に残る名場面とされているのは、実にこのことを言っているのです。
    そしてここでも「天皇のもとにある公民」という概念が出てきています。

    安倍貞任が、大陸のような地域の支配者であり、民が奴隷のように支配されているだけという、支配者、被支配者の関係としてしか歴史を見ないと、この一番大事な点がわかりません。
    だから、
    「お前はもう死んでいる」
    「古着だからね」
    という薄っぺらな解釈しかできなくなるのです。

    けれど、日本社会が「天下の公民」という基本理念を共用する社会であり、武士たちがその民を守るためにたちあがっているという背景を考えれば、この歌問答は
    「お前はもう死んでいる」
    「それは体制の死を意味する」という問答となり、
    一瞬のやり取りの中で、安倍貞任の即興の歌が冴え渡るのです。

    そして貞任が、瞬間的にそこまで歌を返したということは、貞任の精神の中に、日頃から自分たちは私利私欲のためではなく、民のために戦っているのだという強い信念があったことを示します。

    そしてこうしたことを、物語を通じてちゃんと理解できる国民の民度の高さ、これがあったからこそ、この物語が歴史を通じて大切にされてきたのです。
    「古着だからね」程度の理解なら、この物語が歴史の中で生き残ることは、まず絶対にありません。

    「天下の公民」という言葉は、「あめ(天)のした(下)」にあって「おほみたから(公)」とされている「田んぼで働くみんな(民)」を意味します。
    つまりこれが「天皇のもとにある公民」です。

    そういうことをちゃんと理解できる国民がいて、はじめて「古着」ではなく「体制の変革」という物語の趣旨が理解できるし、この物語が国民に愛され続けてくることができたのです。

    こういうことが、天皇否定、階級闘争史観の左翼頭脳では、まったく理解できない。
    そして子供達に、古来変わらぬ日本人の素晴らしさを伝え、教えることができない。
    昨今の教育の悲しい現実です。

    変えるのは、「いま」です。
    「いま」と言われてもピンと来ないかもしれません。
    けれど戦後、日本を支配していたそのトップにあったものが、いま壊れそうになっているのです。
    あと数年を経ずして、それは壊れていきます。

    つまり日本は、完全に自立していかなければならないし、そのチャンスが目の前にやってきているのです。
    そんなときに、他人の批判や悪口ばかりを繰り返していても、ロクな未来はやってきません。
    いまこそ、日本人が日本の原点を学ぶときなのです。
    そのことが、日本の未来を築き、日本を再生していくのです。


    ※この記事は2014年11月のねずブロ記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           


    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 再び健康と長寿


    誰もが豊かに食べていくことができる環境があるから、いざとなったら互いに助け合うことができる。それが日本の原風景です。


    11世紀と13世紀の世界地図
    東が上に描かれており、画面向かって左下にヨーロッパ、下の真ん中が地中海、右がアフリカで、真ん中から上がユーラシア大陸。その頂点に日本が描かれている。
    20231128 オリエント



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    古事記に、神武天皇が兄師木(えしき)、弟師木(おとしき)を討(う)ったときの歌があります。
    次の歌です。

    楯並(たてなめ)て 伊那佐(いなさ)の山の
    木(こ)の間(ま)よも い行(ゆ)き守(まも)らひ
    戦(たたか)へば 我はや飢(ゑ)ぬ
    島(しま)つ鳥(とり) 宇養(うかひ)が伴(とも)
    いま助(す)けに来(こ)ね

    《原文》
    多多那米弖 伊那佐能夜麻能 たてなめて いなさのやまの
    許能麻用母 伊由岐麻毛良比 このまよも いゆきまもらひ
    多多加閇婆 和礼波夜恵奴  たたかへば われはやゑぬ
    志麻都登理 宇上加比賀登母 しまつとり う かひがとも
    伊麻須気尓許泥       いますけにこね

    《現代語訳》
    盾を並べて伊那佐の山の
    樹木の間にまで行って見守り戦って
    はやくもお腹が空いてきた
    島にいる鵜飼(うかい)の友よ
    すぐに助けに来てくださいな

    実はここに、我が国建国の原点となるたいせつな事柄と、日本人の健康と御長寿の謎が隠されています。

    「島にいる鵜飼(うかい)の友よ、すぐに助けに来てくださいな」
    というのですが、何の助けが必要かといえば、その理由は「戦ってお腹が空いてきた」からです。
    つまり「助け」というのは、「食料を持ってきてくださいな」という意味だとわかります。

    では「島にいる鵜飼(うかい)の友」とはどういう人達かといえば、ひとことでいえば、瀬戸内の人々ということになります。
    なぜなら神武天皇は、この戦いに先んじて、まる17年も、博多から広島、岡山と、船を使って移動し、そこにとどまっていたからです。
    広島や岡山は、瀬戸内に面しています。

    なぜそこに長期滞在していたのかにも理由があります。
    農業指導をしていたからです。
    このことは、神武天皇に同行された兄の五瀬命(いつせのみこと)の名で明らかになります。
    五は五穀です。五穀とは米・麦・あわ・きび・豆。転じて、穀物の総称です。
    瀬は、膝より下の浅瀬のことです。つまり田んぼを意味します。
    つまり五瀬命は、田んぼと畑の神様であり、今風に言うなら農業指導者です。

    その農業指導を誰に行っていたのかと云うと、「島で鵜飼をしている人々」です。
    これは漁業をして新鮮な魚介類を食べていた人々を表します。

    つまり神武天皇の一行は、新鮮な魚介類を食べて暮らしていた人々に、農業の指導をしてきたわけです。

    魏志倭人伝によれば、倭国の人々の寿命は八〜九〇年ないし百年です。
    魏志倭人伝は三世紀の書物ですが、その頃の日本人の寿命が、現代と変わらないことが書かれています。
    同じ時代の、というより、ほんの18世紀ごろまでの世界では、長生きしても50年。
    チャイナでは40歳まで生きることができれば大幸運で、だからその年齢になると「老師」と呼ばれました。
    あの国では、35歳くらいまでに、疫病と飢餓によって、村ごと全滅してしまうことがよくあったのです。
    とにかく衛生環境が劣悪だったし、収奪もひどかった。
    だから、そうした歴史から、世界で唯一、食の禁忌のない国となり、人の肉が普通に売られ、食べられるようにもなったわけです。
    日本人など、日清戦争の際には、大陸に渡った日本の兵隊さんの戦死者13,800人中、11,894名が疫病での病死です。

    西欧でも、飲料水の安全性が低く、やはり平均寿命は24〜25歳です。
    目一杯長生きする人でも、50歳まで生きることができる人は稀だったのです。
    白雪姫に魔法使いのお婆さんが登場しますが、そのお婆さん、実年齢はだいたい40歳前後です。

    これに対し、日本人の寿命は80歳をゆうに超えていたのです。
    このことは地球全体からしたら、まさに日本は「不老不死の国」に見えたことでしょう。
    しかも日本は、世界最大の黄金の産出国だったのです。
    こうなると、世界から見たら日本は天国にしか見えない。

    だから13世紀頃までの世界地図では、東が「上」に描かれ、その頂点に日本が丸く描かれました。
    丸は太陽のシンボルです。
    そして神の国を意味しました。
    その神の国がある方向が「オリエント」です。
    そして神の国に至る道が「オリエンテーション」です。

    そうした健康と長寿が、どうして日本で可能だったのかといえば、その答えは簡単です。
    新鮮な魚介類と、安全な作物、きれいな水によって人間が支えられて来たからです。

    人間の体は「食べたもの」と「空気」からしか出来ていません。
    ろくでもないものに味付けだけして食べていれば、体がだんだんおかしくなるのはあたりまえだし、良いものを食べていても空気が悪ければ、人の体は蝕まれます。

    逆に「健康に良いもの」を食べ、緑豊かなおいしい空気のある土地を保っていれば、人は健康で長生きが可能です。

    新鮮な魚介類をいただくのなら、海や川がきれいでなければなりません。
    縄文時代の暮らしを考えてみてください。
    貝塚というのは、縄文時代の村のゴミ捨て場です。
    ゴミ捨て場があるということは、ゴミを「海洋投棄」していなかったということです。
    つまり、海で暮らしながら、同時に海を大切にしてきたのです。

    陸での稲作や畑作も同じです。
    水田には水をひきますが、その水は、場所によっては遠くの川の水をひいてきます。
    その川は、青天井です。
    最近では日本に外国人がたくさん入ってきたことと、日本人が外国人化していることから、川や土手にコンビニの弁当の残りカスやら、小便の入ったペットボトルなどが不法投棄されていますが、このようなことが起きるようになったのは、洋風化が素晴らしい、セーヌ側が世界で一番美しいなどと、嘘八百の宣伝がなされるようになった明治以降の話です。
    江戸時代まで、川にものを捨てる、土手にものを捨てる、大小便をするなどということは、子供でも考え付きもしなかったほど、川が大切にされたのです。

    また畑の土はよく耕されて柔らかなものでした。
    よく出来た肥えた土というのは、実は健康な人の腸内環境と同じです。
    だから土さえも食べることができるほどです。
    腸内環境と同じ土から作物ができる。
    その作物を調理して食べる。
    食べた作物は、畑と同じ環境で分解消化される。
    排泄したものは、発酵して畑の栄養素とする。

    そうやって誰もが豊かに食べていくことができる環境があるから、いざとなったら互いに助け合うことができる。
    それが日本の原風景です。

    日本政治は、日本人の健康と長寿をしっかりと支える。
    そういうものであってもらいたいと思います。



    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           


    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 満洲大豆


    愛情を注がれた大豆は、世代を重ねるごとに、元気いっぱいのエネルギーに満ち溢れた大豆になっていきます。こうした大豆は、とても美味しく、お豆腐などに加工しても、味がぜんぜん違うし、食べた人を元気にします。ところが幾世代にもわたって、ブルドーザーと農薬で機械的に育てられた作物は、やはり味も機械的になります。人が、人の形をしていれば、人であると言えないように、人と共に生きる農作物もまた「大豆の形をしていれば大豆」ではない。


    20191110 満洲大豆
    画像出所=https://twitter.com/m_uroko/status/882209257600327680
    (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
    画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    もともと何もない荒れ果てた荒野だった満洲が、なぜ日本が関与した時代から急激に発展したのでしょう。
    満洲について政治、軍事から語るものは多いが、経済の面から紐解(ひもと)いたものは少ないようなので、これについて考えてみます。
    その答えが大豆(だいず)にあります。

    きっかけは明治の中頃、商社マンとして満洲に一番乗りした山本条太郎(やまもとじょうたろう)にあります。
    後に満鉄総裁になった男です。
    彼は慶應三(1867)年生まれ、福井県旧御駕町出の元福井藩士の子です。
    明治十三 (1880)年、12歳で神田淡路町の共立学校(現・開成高校)に入学したのですが、病弱なため2年で中退しています。

    そして学問をあきらめ、三井洋行(現・三井物産)横浜支店に丁稚奉公(でっちぼうこう)に出ました。
    働き者で主人の覚(おぼ)えもめでたく、21歳のとき、選ばれて上海支店に転勤しました。
    ここでも彼は抜群の商才を買われています。

    明治二十三(1890)年、彼が23歳のとき、上海フランス租界(そか)の近くの交差点口に、三井支店長の社宅が建設されました。
    この建物は一万坪の土地に、三階建ての本館と別館、更に付属の建造物があり、広大な庭には池、温室、芝生の野球場と5面のテニスコートが作られ、正門から本館の玄関までには、実に百メートルの小道があり、樹齢30年以上の桜が280本も植えられていたそうです。

    そしてここで毎年3月に園遊会が開かれ、国内外の2千人の官民人が招待されました。
    当時この園遊会に招待されなかった者は社会的に紳士として認められていないとまでいわれたそうです。
    それだけに招待客の選出には細心の配慮と苦心が重ねられたのですが、これを完全に取り仕切っていたのが山本条太郎でした。
    とにかく頭が切れ、礼儀正しく、よく働く男だったのです。
    そういう人物だからこそ招待客の接待役を仰(おお)せつかったのでしょう。

    明治三十四(1901)年、山本条太郎は34歳の若さで三代目上海支店長に就任しました。
    当時の上海支店長の社宅は、車庫には防弾処理を施された8人乗りのキャディラックが1台、8人乗りビュイック1台、中型車が2台、支店長専用車として停(と)まっていました。
    車そのものが大金持ちか大臣でもなければ乗れなかった時代です。
    これだけの車を備えることができたのは、それだけ三井物産上海支店に実力があったということです。

    車のウインドガラスはどれも3センチ以上の厚さがあり、ドアも不注意に開けて人にぶつかると、人が吹っ飛んでしまうほど重量のあるものであったそうです。
    もっともそれだけに車が重く、リッター1キロも走らないから、条太郎はもっぱら営業マンの乗る普通車ばかり使っていたそうです。
    営業マン用の車は、防弾処理などされていないから危険な車ですが、軽くてよく走る。
    このあたり身の安全より行動を優先した条太郎らしさがあらわれていておもしろいと思います。

    上海支店長に就任した山本条太郎は、日本の商社マンとして、はじめて満洲に乗り込んでいます。
    当時の満洲は、広大な荒れ地が広がるだけの緑のない半(なか)ば砂漠地帯でした。
    当然、作物など作れません。
    けれど条太郎は、この荒れ地で、細々ながら大豆が栽培されていることに目をつけました。

    大豆は温帯、亜熱帯産の植物です。
    満洲は亜寒帯です。
    本来気象条件が合わないのです。
    ただ大豆を筆頭に、いわゆるマメ科の植物は、根に「根粒菌(こんりゅうきん)」が繁殖(はんしょく)します。
    根粒菌が繁殖するから、根の又(また)のところに、コブのようなものができます。
    コブの中で繁殖した根粒菌は、大豆が空気中から吸った窒素や地中から吸い上げた水から、アンモニアなどの有機物を排泄します。
    この有機物を栄養源にするから、大豆は痩(や)せた土地でも育つのです。

    山本条太郎は、これに目を付けました。
    気候を調べたり、品種改良の可能性を検討し、徹底して満洲での大豆の栽培の可能性を探りました。
    条太郎が面白いのは、満洲での大豆の生育を研究している最中、つまりまだ満洲で大豆が生産段階に入っていないときに、早々と販路の開拓に手をつけている点です。

    彼は大正九(1920)年には、英国に赴(おもむ)き、欧州での満洲大豆の独占販売権を得てしまっています。
    当時の欧州には、大豆を食べるという習慣がなく、大豆はもっぱら油をとって燃料にするためにのみ栽培されていました。
    これを食べさせる。
    条太郎は大豆の加工の仕方や料理の指導まで行い、欧州全土に大豆の売り込みをかけています。

    こうして、ほんの数トンあるかないかだった満洲の大豆は、山本条太郎が名付けた「満洲大豆(まんしゅうだいず)」の商品名とともに広く栽培されるようになり、条太郎が満鉄総裁に就任した昭和二年には、満洲の大豆生産高は、じつに年間500万トンに達するものとなりました。
    このうち400万トンが輸出用で、欧米向けが200万トン。日本向けが200万トンでした。
    なんと満洲は、世界最大の大豆生産国になったのです。

    満洲において日本は、明治三十八(1905)年の日露戦争の勝利で、長春から旅順口までの満洲鉄道全ての権利を手に入れました。
    翌明治三十九(1906)年には「南満洲鉄道株式会社」(満鉄)を設立しています。
    少し考えればわかることですが、鉄道があっても、ただやみくもに大地が広がっているだけのところに列車が走るだけでは、なんの収益も産(う)みません。

    日露戦争以前にロシアが、そんな、なんの収益のあてもない満鉄を作ったのは、あくまでチャイナや朝鮮、日本への軍事侵攻、南下政策のためです。
    ところがその満鉄を、日本は民生用、つまり満洲の産業育成のために用いたのです。
    とにかく大豆は欧州に無限ともいえる市場が開けたのです。
    大豆は作れば作るだけ売れました。収穫量の8割以上が商品として輸出されたのです。

    売れるから作る。
    作るから売れる。
    そのために荒れ地を開拓する。
    開拓するから農地が広がる。
    農地が広がれば、生産された大豆を運ぶために、鉄道が必要になる。

    そこで満鉄が満洲全土にアメーバのように伸びたのです。
    そして路線が交差するターミナル駅には、多くの物資や人が集まりました。
    こうして、わずか20年前には荒涼とした漠土(ばくど)にすぎなかった満洲は、短期間に緑豊かな一大農園地帯に変貌(へんぼう)したのです。

    満洲に住む農民は、大豆と小麦を売り、自分たちはトウモロコシやアワを食べたといいます。
    それほどまでに売れたのです。
    大豆は満洲の住民にとって、まさに黄金となったのです。
    当時の記録によれば、満洲の対外貿易の50%以上が大豆です。

    日本が経営した満鉄は、ただ大豆栽培を奨励しただけではありません。
    大連(だいれん)には「農事試験場」と「中央試験所」が建設されましたが、「農事試験場」は大豆の品種改良や栽培試験、「中央試験所」は大豆の利用研究を進めています。

    ここで研究開発されたのが、大豆油(サラダ油)の近代的製造法です。
    おかげでいまや世界中の食卓をサラダ油が潤(うるお)しています。

    中央試験所には、当時総勢千名を超える人員がいたといいます。
    さらに満鉄中央試験所では、大豆蛋白質(たんぱくしつ)による人造繊維、水性塗料、速醸醤油製造法の技術展開、大豆硬化油、脂肪酸とグリセリン製造法、レシチンの製造法、ビタミンB抽出、スタキオースの製造法の確立などを行っています。
    現在世界が大騒ぎしている大豆油を原料とするバイオ燃料の研究も、世界の先鞭をきって開発研究に取り組んだのは、満鉄中央試験場であったのです。

    それだけではなく、満鉄が設置した農事試験所関係施設はなんと満洲全土で90ヶ所に及んでいます。
    発表された研究報告は約千件、特許が349件、実用新案47件です。
    試験所の様子については、夏目漱石も視察した模様を小説の中で紹介しています。
    満鉄が大豆に注いだ情熱は並大抵のものではなかったのです。

    満洲は、大豆農場が広がることで、関連産業が発展し、生産穀物の中継点となるターミナル駅が発達し、そこが街になり人口が増えることで、人々が使用する電力や交通、流通などの産業が発展していきました。
    こうして満洲に大都市が誕生しました。
    そして日本は、満洲において五族共和と人種の平等を目指したのです。

    日本は満洲統治にあたり、つぎの三項目を基本として掲げました。
    1 悪い軍閥や官使の腐敗を廃し、
      東洋古来の王道主義による
      民族協和の理想郷を
      作り上げることを建国の精神とし、
      資源の開発が一部の階級に
      独占される弊を除き、
      多くの人々が餘慶(よけい)を
      受けられるようにする。
    2 門戸開放、機会均等の精神で
      広く世界に資本をもとめ、
      諸国の技術経験を
      適切有効に利用する。
    3 自給自足を目指す。

    日本はこの理想を実現するために、満洲国建設に伴う産業開発5カ年計画を策定し、当時のカネで48億円という途方もない資金を満洲に提供しています。
    そして大豆、小麦といった農産物に加えて、鉄、石炭、電力、液体燃料、自動車、飛行機などの産業を育成したのです。

    さらに日本は、満洲における人材教育に力を注(そそ)ぎました。
    なぜなら、満洲経済の発展のためには、人材の育成が不可欠だからです。
    約束を守り、時間を守るという、いわば「あたりまえのこと」があたりまえにでき、人々が創意工夫をし、公に奉仕する精神がなければ、経済の発展などありえないのです。
    このことは、いまの日本の教育と真逆です。
    日本経済が衰退するのも道理です。

    満洲では、農業、産業、教育の振興と都市部の発展にあわせて、満鉄の路線の総延長が、昭和十四(1939)年には、なんと1万キロメートルを超え、バス路線は2万5千キロメートルに及ぶものになりました。
    満洲航空輸送会社による国内航空路も、網の目のように張り廻らされました。
    こうして満洲は、世界有数の経済大国として成長していったのです。

    しかし日本が満洲に施(ほどこ)したこと、これはチャイナから満洲までの広大な大地の植民地支配を狙う米英からすれば「余計なこと」でした。
    なぜなら、たとえば英国は満洲から大豆を大量に輸入しています。
    ならば満洲を自国の支配地に置けば、すなわち完全自由貿易状態、TPP状態に置けば、そこで生まれる利益は、すべて自国のものになるのです。
    しかも植民地ならば、有色人種に給料を支払う必要もありません。
    そうなれば人件費コストは下がり、儲けは倍加します。

    同様に、その時点でいまだ大陸内に支配地を持たない米国にしてみれば、満洲を支配することは、そこで生産される大豆やトウモロコシ、小麦の栽培で、世界の食卓を支配できることになります。
    当時の米国は、フィリピンや太平洋の島々を植民地にしていましたが、そうした島々では、広大な地所を必要とする農場の経営はできないのです。

    貧乏人には誰も振り向きません。
    けれども儲けて金を持っている人物のところには人が集まります。
    なかにはそれを奪おうとする者たちも現れます。
    人も国も同じです。
    満洲が豊かになると、ここに欧米が垂涎(すいぜん)を流し出したのです。

    満洲国は民度も高く、産業も発達していました。
    ここを植民地として奪えば、奪った国は繁栄が約束されるのです。
    同時に満洲には、前々からロシアが南下圧力をかけていました。
    このことは日本にとって脅威であるだけでなく、チャイナの中南部を実質的な支配下に置いていた米英にとっても、同じく脅威でした。
    ロシアに生まれたコミンテルンは、平気で治安を乱し人を殺すからです。

    さらにいえば、当時まだ新興国であった米国は、とにもかくにもアジアの大陸中に植民地がほしい。
    いまでは米国は、自国で大豆やトウモロコシや小麦を作っていますが、広大な大地が広がる黄色人種の国家を植民地にすれば、なにも自分たちで汗水たらして働らかなくても、カラードを使役して、彼らの土地で農作物を作らせればよいのです。

    目の前には、満洲の荒れ地が、見事なまでの農地となって広がっていました。
    荒れ果てた大地が、見事なまでの緑豊かな豊穣な大豆畑になっていました。
    しかも大豆は、もともと亜熱帯性植物です。
    そうであれば、これを満洲ではなくチャイナで作らせれば、収穫高は北のはずれの満洲の比ではない。
    市場はすでに日本がヨーロッパで作っています。
    ジョンウエインさながらに、これを銃で奪えば、彼らにとって「人類の原罪」である労働をしなくても、腹いっぱい飯が食えて、贅沢三昧できるのです。

    ひとつ付け加えておきます。
    農作物は、人の子と同じで、愛がなければ育ちません。
    このようなことを申し上げると、放っといても育つじゃないか!とお叱りを受けそうです。
    けれど、人の子も農作物も同じなのです。
    手間ひまをかけ、たっぷりと愛情を注がれた子は、すくすくと元気いっぱいに育ちます。
    他方、ただ育ちさえすれば良いとばかり、機械的な育てられ方をすると、(もちろん年が経てば大人になりますが)、大人になっても、どこか斜めというか、歪みを持ってしまうのです。
    植物も同じで、たっぷりと愛情を注がれて、元気いっぱい育った大豆から種を採り、これをまた蒔いて育てることを繰り返すのです。
    それが毎年、幾世代にも渡って繰り返されるのです。

    愛情を注がれた大豆は、世代を重ねるごとに、元気いっぱいのエネルギーに満ち溢れた大豆になっていきます。
    こうした大豆は、とても美味しく、お豆腐などに加工しても、味がぜんぜん違うし、食べた人を元気にします。
    ところが幾世代にもわたって、ブルドーザーと農薬で機械的に育てられた作物は、やはり味も機械的になります。
    人が、人の形をしていれば、人であると言えないように、人と共に生きる農作物もまた「大豆の形をしていれば大豆」ではないのです。

    日本文化は、古来、体験をとても大切にします。
    断食や水行、座禅など、万巻の書をいくら読んでも、いくら話を聞いても、体験してみなければ、その凄みはわかりません。
    これと同じで農作物も、たとえばピーマンの形をしていればピーマンではないのです。
    愛情込めて育てられたピーマンと、機械的に育てられたピーマンでは、形は同じピーマンですが、味がぜんぜん違います。
    こういうことは、実際にそういう食べ物に接してみないとわからない。

    わかりやすい上手な説明が思い浮かびませんが、たとえば、です。
    縄文時代に行って、縄文人たちに機械的に育てられた農作物を、入手しやすいからといって彼らに売っても、おそらく彼らは自前の畑や、山や林から採ってくる作物を捨てないのではないかと思うのです。
    なぜなら、味がぜんぜん違う。エネルギーが違う。
    ウチの畑の作物は、食べたら元気になるけれど、工業生産された作物は食べてもお腹は膨れるけれど、元気にはならない。それどころか病気になる。

    近年の日本人は、商業資本の宣伝のせいで、味付けが美味しければ、美味しい料理と思っています。
    けれど欧米では、もちろん味付けも大事だけれど、オーガニック野菜であることや、無農薬であることが、それ以上に大切にされているし、メディアでそういうことの大切さを、まさにふんだんに国民教育しています。
    知らぬは日本人ばかりです。

    話が脱線しました。
    米国は、満州の大豆を奪いたい。
    そこで行われたこのとのひとつがABCD包囲網です。
    (これも付言しますが、国家レベルの意思決定は、常に複数の要素によって決定されます。ここで述べているのは、そのなかのひとつが大豆であった、ということです)

    満洲経済の根幹が大豆であることはここまでに述べた通りですが、満洲はもともと土壌(どじょう)が酸性です。
    大豆の栽培は、土壌がアルカリ性である必要がありました。
    酸性の大地をアルカリに改良するためには、大量のリンが必要だったのですが、そのリンを、当時の満洲は米国から輸入していたのです。

    米国はこれを一方的に打ち切りました。
    大豆は満洲経済の根幹です。
    その大豆は、リンがなければ大豆が育ちません。
    満洲経済は基盤を失うのです。
    同時にこのことは日本人の食卓にも重大な影響を与えます。
    日本人は大豆を味噌汁や醤油、豆腐などで、主食並みに消費するからです。
    陸海軍の糧食も同じです。

    満洲大豆で腹をうるおしていた日本人にとって、米国のリン輸出規制はまさに一大事となったのです。
    日本が大東亜戦争の開戦に踏み切らざるを得なかった理由のひとつに、満洲におけるリンの輸出規制というファクターがあったことも忘れてはならないのです。

    しかし、チャイナの大陸から満洲の大地に手を伸ばし、そこを植民地支配しようとする米英の目論見は、大東亜戦争における日本軍の奮戦によって潰(つい)えました。
    植民地支配によって働かずに食おうとした米英は、結局は日本と戦って多くの人命を犠牲にしただけでなく、植民地をことごとく手放すことになったのです。

    彼らはよほどくやしかったのでしょうか。
    米国はGHQを日本に派遣するや否や、日本が満洲や本国で研究していた農作物や新種の種などをこぞって米国に持ち帰りました。
    そしてこれを米国内の広大な農地で栽培しました。
    それらは荒れ地に強い農作物でした。
    結果としていまや米国は、世界最大の農業国家になっています。

    それだけでなく、負けた日本には、農業政策に干渉し続け、結果として小麦も大豆も今では日本の農家がいくら生産しても儲からないような仕組みになっています。
    おかげでかつては日本中いたるところで見られた麦畑や大豆畑は、昨今ではほとんど見かけることがなくなりました。
    日本は国内で年間434万トンの大豆を消費しますが、このうち420万トンを輸入に頼っています。
    いまや日本は世界第三位の大豆輸入国です。

    大豆を、暗い所で発芽させたものがモヤシです。
    未熟大豆を枝ごと収穫して茹(ゆ)でたら、ビールのつまみの枝豆です。
    完熟大豆を搾(しぼ)ると、大豆油(サラダ油)ができ、煎(い)って粉にしたものが、きな粉です。
    蒸して発酵させると味噌・醤油、納豆菌で発酵させたものが納豆です。
    熟した大豆を搾(しぼ)れば豆乳、その残りカスがおから、豆乳を温めてできる表面の膜が湯葉(ゆば)、これににがりを入れて固めたものが豆腐です。
    豆腐を揚げたものが厚揚げ、焼けば焼き豆腐、茹(ゆ)でれば湯豆腐、凍(こお)らせれば高野豆腐ができあがります。

    今日、我々日本人が大豆を、これだけ様々な形で加工して食しているのは、それだけ大豆が日本人にとって古くてなじみの深い食品だからです。
    そしてここまで多種多様に大豆に工夫を凝らして食しているのは日本だけです。

    ビールを飲みながら、もやし炒(いた)めを食べながら、納豆ごはんを食べながら、豆腐をつつきながら、是非、ご友人やご家族の方々に、大豆と満洲のお話をしていただけたらと思う次第です。


    ※この記事は2011年2月のねずブロ記事をリニューアルしたものです。
    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           


    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 健康、長寿、繁栄


    我が国では、国のすべてが、人々の「健康、長寿、繁栄」のためにその仕組みの原点が形成されてきたのです。


    20231126 御長寿



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    魏志倭人伝は、チャイナの歴史書である『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条のことをいいます。
    そこに3世紀頃の日本の民間人の様子が次のように描かれています。
    いまから1800年くらい前の日本の様子です。

    ========
    その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む
    ========

    会同というのは、簡単にいえば、村の会議のことです。
    いまで言ったら町内会や、マンションの自治会の会議のようなものです。
    その会議の「坐起」、つまり席順が、
    「父子男女別なし」
    と書かれているわけです。
    席順に、身分の上下や貧富の差や男女の性別は関係ない、と書かれているわけです。

    では、どのような席順で会議が行われていたのでしょうか。
    この答えが、千年以上前の西暦868年頃に編纂された養老令の注釈書である『令集解』の中にあります。

    この書の中に『古記』という、いまから千三百年くらいまえの738年頃に成立した大宝令の注釈書(いまは現存していない)が断片的に引用されています。
    さらにその『古記』のなかに、もっと古い文献の引用として、「一云(あるにいわく)」という節が多数用いられて引用されています。

    なんだかやっかいですが、『令集解』の中に『古記』が引用されていて、その『古記』が、さらにもっと古い文献を引用していて、それが「一云」として、『令集解』に書かれているというわけです。

    その「一云」として引用された文献の名は伝わっていません。
    いませんが、これが実におもしろい史料で、7〜8世紀頃の日本の庶民の生活の模様が、そこに活き活きと描かれています。
    原文は漢文ですので、おもいきってねず式で現代語してみます。

    =========
    日本国内の諸国の村々には、村ごとに神社があります。
    その神社に、社官がいます。
    人々はその社官のことを「社首」と呼んでいます。

    村人たちが様々な用事で他の土地にでかけるときは、道中の無事を祈って神社に供え物をします。
    あるいは収穫時には、各家の収穫高に応じて、初穂を神社の神様に捧げます。
    神社の社首は、そうして捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付け、その利息を取ります。

    春の田んぼのお祭りのときには、村人たちはあらかじめお酒を用意します。
    お祭りの当日になると、神様に捧げるための食べ物と、参加者たちみんなのための食事を、みんなで用意します。

    そして老若男女を問わず、村人たち全員が神社に集まり、神様にお祈りを捧げたあと、社首がおもおもしく国家の法を、みんなに知らせます。

    そのあと、みんなで宴会をします。
    宴会のときは、家格や貧富の別にかかわりなく、ただ年齢順に席を定め、若者たちが給仕をします。

    このようなお祭りは、豊年満作を祈る春のお祭りと、収穫に感謝する秋のお祭りのときに行われています。
    =========

    これが、いまから1300年前の、日本の庶民の姿です。
    まだ渡来仏教が、一般庶民への布教が禁じられていた時代のことで、庶民のもとには神社しかなかった時代の様子です。
    収穫時に各家の収穫高に応じて初穂を神社に奉納し、神社は捧げられた供物を元手として、稲や種を村人に貸付ける」という記述があります。

    このことは古い神社ではいまでも当時の習慣がそのまま残っていますので、すこし詳しく解説しますと、収穫期に、採れたお米は半分を税としてお上に納め、半分を神社に奉納します。
    そんなことをしたら食べるものがなくなってしまうではないかと思うのは早計です。
    今年採れたお米を、お上と地元の氏神さまに半分ずつ収めるということは、2年分貯まるとお上のもとにも、地元の神社にも、両方にまる1年分のお米が備蓄されることになります。

    このようにして、災害に備えて食料となるお米を備蓄し、3年経ったお米をみんなで取り崩して食べたのです。
    この制度は、つい最近、昭和44年までずっと我が国に続いた制度です。
    ちなみに「お上にできたお米の半分を税として収める」とありますが、お上はこうして集めたお米を3年目にはそのうちの8割を公共工事など様々な名目で民間に還元します。
    時代を通じて我が国の農業従事者の人口は、全体人口の95%を占めていましたが、こうすることで国内で生産されたお米が、常に全国民に行き渡るという形になっていたのです。

    神社は、戦後になって宗教法人法に組み入れられて、「神社は神社のもの」になってしまいましたが、もともと戦前戦中まで、神社は近隣の人たちの共有財産でした。
    近所の神社のことを氏神様(うじがみさま)といいますが、氏神とは、産土神(うぶすなかみ)のことです。
    つまり土地の神様のことを言います。
    よく「引っ越ししたら氏神様に挨拶に行きなさい」と言いますが、だいたいご近所にその土地の町名を持った神社があるものです。これが土地の神様です。

    『一云』では、その神社に村のみんなが月に一度集まって、宮司さんから中央の指示を聴いたり、神語りなどの勉強をしたりしていた様子が描かれています。
    そして会議のあとは、必ず「直会(なおらい)」が行われました。
    これはいまでいう懇親会です。

    この直会の席順について、『一云』は、
    「家格や貧富の別にかかわりなく、ただ年齢順に席を定めた」
    と書いているのです。

    社会的身分や、貧富の別なく、そこでは、ただ年齢順。
    実はこうした単純年齢順の席次は、いまでもちょっと田舎の方にいけば、そうした習慣が続いていたりします。

    つまり、『魏志倭人伝』に書かれている3世紀後頃の日本の庶民の様子は、そのまま「一云」に書かれている千年前の日本の姿だし、現代にも続く日本人の姿だということです。
    時代はちゃんとつながっているのです。

    ではここで問題です。
    どうして席次が「単純年齢順」だったのでしょうか。

    世界中どこでも、席次というのは重要です。
    身分の高い人が上座に座り、身分の低い人が下座に坐る。
    場合によっては身分の低い人は、座敷にも上げてもらえず、土間で食事をしたりする。

    上座に坐るのは、いつだって「社会的地位が高い人」であったり、「お金持ち」であったりします。
    西洋化した現代日本でも、そうした姿はそこここに見られますし、会社などでは社長が
    「今日は無礼講で行こう」なんて言いながら、席だけは最奥、つまり最上位の席を絶対に譲らなかったりします(笑)。

    ところが2〜3世紀の日本、7〜8世紀頃の日本、そして現代日本においても、ちょっと田舎の方に行けば、席次は単純年齢順なのです。
    大抵の場合、最年長がお婆ちゃんですから、女性のお婆ちゃんが最上位席。
    次にやはりお年寄りの爺ちゃんや婆ちゃんたちが座り、下座に行くに従ってだんだん若くなる。

    このことは何をしめしているのでしょうか。
    席の上下は、とても大切なことです。
    それを無視したら、たいへんな失礼にあたるものです。
    それが単純年齢順であり、社会的地位が高くても、どんなにお金もちでも、年齢の前には下座に着かなければならないのです。

    実は、ここに日本文化の非常に大切な一面があります。
    それは、
    「我が国は、社会的地位や財力より
     『健康』と『長寿』を大切にした」
    そういう社会を形成してきた歴史を持つということだからです。

    いまでも、たとえば100歳になるお婆ちゃんのもとで、3世代、4世代の子や孫、ひ孫までが勢ぞろいしたような写真を観ると、たいていの人が目を細めて「幸せ」を感じます。
    そしてなんだか、「生きるって素敵だな」って思ったりします。

    ところが内閣の発足の際の階段での総理大臣以下閣僚たちの集合写真を見て、そこに「幸せ」を感じる日本人は、当事者でもない限り、まずほとんどいません。

    あるいは懇親会のパーティなどで、お金持ちのスポンサーさんの社長さんなどが長々と壇上で挨拶をしていると、参加者のほぼ全員が退屈を感じたりします。
    アメリカ映画のように、そこで称賛の嵐が吹くなんてことは、まずありません。

    つまり、日本では「健康と御長寿」が、何世紀にもわたって、何より大切な、人の幸せと考えられてきたということを、この事実は示しています。

    国政は、国民の「安全、安心、安定」を目指します。
    それがなぜかと言えば、国民が「健康と長寿」を得るためです。

    国家権力は、軍事力、警察力、財務力ですが、国家が権力を用いて守ろうとしているのは、国民の「安全、安心、安定」です。

    つまり、我が国では、国のすべてが
    「健康、長寿、繁栄」
    のためにその仕組みの原点が形成されてきたのです。


    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           


    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • インパールの戦いから学ぶこと


    インパールの戦いがなぜ破れることになったのか、作戦のどこにどのような落とし穴があったのかは、あくまで軍事の専門家にとっての重要な研究要素です。我々一般人がインパールの戦いから学ぶべきことは、まったく「別な」ところにあります。


    20231125 とんぼ



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    トンボの眼は、個眼というひとつひとつの目が集まってできているのだそうです。
    その眼の数は、トンボの種類によっても異なりますが、少ないトンボで1万個、多いものですと3万個にも達するそうです。

    トンボの眼のことを「複眼」といいます。
    世の中を見る時に、「単眼」で見るのか、それとも「複眼」で見るのか。
    単眼が、二眼になるだけで、物は立体的に見えます。
    「複眼」になったら、世界はいったいどのように見えるのでしょうか。
    これを「複眼的思考」と呼ぶことにします。

    今回も、昨日に引き続き『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第一巻』から、インパールの戦いをお送りします。
    インパールの戦は、大戦末期、日本が英国軍にさんざんに負けた戦いであり、作戦を指揮した牟田口中将はこのため戦後、まさにボロカスに言われ続けました。
    なるほど、勝つか負けるかの軍事という見方では、そのように見えるのであろうと思います。
    また軍事の専門家の方の見方であれば、なぜ破れたのか、作戦のどこにどのような落とし穴があって敗戦に至ったのかは、重要な研究要素です。
    ただ、我々一般の日本人がインパールの戦いから学ぶべきことは、まったく別なところにあるように思うのです。
    それは、戦いに参加し、敗軍となった日本の兵隊さんたちの、あまりにも真面目で、あまりにもせつないものであった、その行動です。

    なぜこのようなことを記事にするのかといえば、物事は一面的な見方ではいけないと思うからです。
    複眼的思考によって、物事を違う角度で考えてみる。
    するとそこから、いままで見えていなかった感動が、誇りが、次々とこぼれだすことがあります。
    これが日本の歴史の特徴です。
    諸外国のなかには「歴史認識」という虚構を通じてみなければ、恥ずかしくて生きていくことさえ難しくなってしまうような歴史を持った国や民族もあります。

    けれども日本の歴史はまったく逆です。
    標準化された「歴史認識」ではボロカスに言われていることでも、複眼的思考をもって歴史を振り返ると、そこにはまるで、トレジャーハンターが宝物を見つけたときのような衝撃と感動と日本人としての誇りをみることができます。

    *******
    インパール作戦
    『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第一巻』より

    ▼あまりにも不自然な作戦

    大東亜戦争の末期、昭和19年3月から6月にかけて、日本陸軍はビルマ(現、ミャンマー)からインド北東部の要衝、インパールを攻略しようとして作戦を発起し勇戦しました。
    けれど補給の不備で攻略を果たせず、空と陸からイギリス軍の反攻を受けつつ退却しています。

    この退却ルートで負傷し、飢えて衰弱した体でマラリアや赤痢に罹患した日本の軍人さんたちの大半は、途中で力つきてお亡くなりになりました。
    沿道には延々と日本兵の腐乱死体や白骨が折り重なっていたことから、その街道は「白骨街道」と呼ばれています。
    このとき生還した兵の記録に次のようなものがあります。

     *

    道端に腰掛けて休んでいる姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。
    また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り、真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。
    そのかたわらに飯盒と水筒はたいてい置いてある。
    また、ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。
    地獄とは、まさにこんなところか......。
    その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。そ
    のような姿で屍は道標となり、後続のわれわれを案内してくれる。
    それをたどって行けば、細い道でも迷わず先行部隊の行った方向が分かるのだ。
    皆これを白骨街道と呼んだ。
    この道標を頼りに歩いた。
    (『ビルマ最前線』小田敦巳)

     *

    イギリス軍はこの退路にもしばしば現れ、容赦なく銃弾を浴びせたそうです。
    死体のみならず負傷し罹患して動けない日本兵まで、生死を問わずガソリンを掛けて焼きました。
    こうした酸鼻な敗戦だから、作戦を指導した牟田口中将は戦後あらゆる非難、罵声を浴びせられました。
    負ければ賊軍は世の習いです。

    しかし、いくらそんな批判をしても、失われた生命は帰ってきません。
    むしろ戦争を知らない世代である私たちにとっては、そうやって歴史を批判することよりも、そこから「何を学ぶか」が大切なことだと思います。
    そういう姿勢でこの作戦を見ていくと、驚くべき事実や不思議な出来事が浮かび上がるように、はっきり見えてくるのです。


    ▼インド兵を温存せよ

    昭和十八年九月の御前会議で、絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域を定め、この外郭線において敵の侵攻を食い止めようという戦略が決定されました。
    インパール作戦は、その基本戦略に反しています。
    なぜなら、国防圏の外側にあるインドに、撃って出ようというのです。
    どうしてこの時期にこういう作戦を立てたのでしょうか。

    しかも、はじめは反対していた大本営も、当時日本に滞在していたインドの独立運動家、チャンドラ・ボースの強い要請を受けて、作戦の実施を認めたといいます。
    もしかしたらインドの独立に火をつけることで、退勢が濃くなってきた大東亜戦争の戦争目的を改めて世界に訴える意味が重視されたのかもしれません。

    守るイギリス軍は15万です。
    攻める日本軍は9万です。
    亜熱帯のジャングルの中の陸戦ですから、大型の火砲は使えません。
    ですから当時のジャングル戦は、なにより歩兵の数がものをいいました。
    数で劣る日本軍は不利です。

    ところが実は、ほかにインド国民軍4万5千がいたのです。
    この兵力を加えれば日本の兵力はイギリスとほぼ並びます。
    ところが日本軍はそのインド国民軍のうち、どうしてもという6千人だけを連れて行き、残りをまるごと温存したのです。

    普通の国ならこうした場合、インド軍をむしろ前に立てて、自国軍主力の犠牲を少なくしようとするのが自然です。
    これはインド独立のための戦いなのです。
    インド国民軍を前に出して何も悪いことはありません。

    ところが日本軍はそうしませんでした。
    むしろ自分たちが戦いの先頭に立ったのです。
    戦闘のプロである日本軍の幹部は、これがどれだけ困難な戦いになるかは分かっていたはずです。
    だからインド兵を後ろに置き、自分たちが先頭に立ってインドを目指したのです。

    日本軍の下級将校も、自分の部隊に配属された少数のインド兵を温存しました。
    こうした日本軍の心意気は必ずやインドに伝わり、インドの決起を促す。
    下級将校クラスであれば、当然そのくらいのことは考えていたはずです。

    末端の兵士はそこまで具体的には考えていなかったかもしれないけれど、アジアの人々が植民地支配のもとで虐げられ続けてきたことは承知しています。

    果たして遠からずインドは独立しました。
    その意味を知ればこそ、戦後の東京裁判に独立間近のインドは歴史の証人として、パール(パル)氏を判事として送り込んだのかもしれません。


    ▼インド解放のため死しても戦う

    驚くことに、こういう惨烈な戦いであったにもかかわらず、終始日本兵の士気は高かったのです。
    インパール作戦は補給を無視した無謀な戦いであったというのが、戦後の定説となっています。
    しかし、日本軍は戦闘のプロです。
    作戦以前の問題として、第一線への補給が困難であることは当然、分かっていたことです。
    ましてアラカン山脈に分け入る進撃です。

    後方との連絡の細い山道は常に上空からの銃爆撃にさらされて、命令も情報も伝わってこなかったに違いありません。
    その中を日本兵たちは、ほんの数人の塊となってイギリス軍と戦い続けたのです。

    一人も降伏しない。
    誰も勝手に退却しない。
    敗戦となり軍の指揮命令系統が崩壊しても、ひとりひとりの日本兵は弾の入っていない歩兵銃に着剣して、後退命令が来るまで戦い抜いたのです。

    そうした闘魂の積み重ねで、一時はインパールの入り口を塞ぐコヒマの占領まで果たしています。
    前半戦は勝っていたのです。
    食料乏しく、弾薬も尽き、医薬品は最初から不足し、マラリアやテング熱、赤痢も横行するなかを、日本軍は二カ月間も戦い抜いたのです。
    有名なワーテルローの戦いだって、たった一日です。
    戦いの二カ月というのはものすごく長い期間です。
    相当高い士気がなければ、こんなことは不可能です。


    ▼世界最高の軍紀を誇った日本軍

    日本軍の軍紀は称賛に値すべきものでした。
    餓鬼や幽鬼のような姿で山中を引き揚げる日本の将兵たちのだれ一人、退却途中の村を襲っていないのです。
    すでに何日も食べていない。
    負傷もしている。
    病気にも罹っている。

    そんな状態にもかかわらず、退路に点在していたビルマ人の村や民家を襲うどころか、物を盗んだという話さえ、ただの一件も伝えられていないのです。
    これは普通では考えられないことです。
    銃を持った敗残兵が民家を襲い、食糧を略奪するなどの乱暴をはたらくのは、実は世界史をみれば常識です。

    戦場になったビルマですが、現地の人たちは戦中も戦後も、日本軍に極めて好意的です。
    それは日本の軍人が、そういう不祥事を起こさなかったからです。

    戦後、実際にインパール作戦に従軍された方々によって、たくさんのインパール戦記が刊行されたけれども、驚くことは、民家を襲わなかったことを誇る記述を、誰一人として残しておられないということです。
    戦争に関係のない民家を襲わないなんて「あたりまえ」のことだったからです。
    むしろ、退却途中でビルマの人に助けてもらった、民家の人に食事を恵まれたと感謝を書いている例が多い。
    それが日本人です。そういう生き方が我々の祖父や父の若き日であったのです。


    ▼勝利を祝わなかったイギリス軍

    この戦いはイギリス軍15万と日本軍9万の大会戦です。
    有名なワーテルローの戦いはフランス軍12万、英蘭プロイセンの連合軍は14万だから、ほとんどそれに匹敵する歴史的規模の陸戦です。

    にもかかわらず、不思議なことにイギリスは、このインパールの戦いの勝利を誇るということをしていません。
    戦いのあとインドのデリーで、ゴマすりのインド人が戦勝記念式典を企画しました。
    けれどイギリス軍の上層部は、これを差し止めたと伝えられています。
    なぜでしょうか。

    理由は判然としません。
    しませんが、以上の戦いの回顧をして、私は何となく分かる気がするのです。
    それは、「第一線で戦ったイギリス軍は、勝った気がしなかったのではないか」ということです。

    自分たちは野戦食としては満点の食事を取り、武器弾薬も豊富に持ち、必要な物資は次々と補給される。
    そして植民地インドを取られないために、つまり自国の利益のために戦っている。
    それなのに日本兵は、ガリガリに痩せ、誰しもどこか負傷し、そして弾の入っていない銃に着剣して、殺しても殺しても向かってくる。
    それが何と自国のためではなく、インドの独立のため、アジアの自立のためです。
    そんな戦いが六十日以上も続いたのです。

    ようやく日本軍の力が尽き撤退したあとに、何万もの日本兵の屍が残りました。
    それを見たときにイギリス人たちは、正義はいったいどちらにあるのか、自分たちがインドを治めていることが果たして正義なのかどうか......。
    魂を揺さぶられる思いをしたのではないでしょうか。

    実際、インパールで日本軍と戦ったあと、インド各地で起きた独立運動に対するイギリス駐留軍の対応は、当時の帝国主義国家の植民地対応と比べると、あまりにも手ぬるいものとなっています。
    やる気がまるで感じられないのです。

    ガンジーたちの非暴力の行進に対して、ほとんど発砲もしないで通しています。
    以前のイギリス軍なら、デモ集団の真ん中に大砲を撃ち込むくらいのことは平気でした。
    そして、戦後の東京裁判でイギリスは、インドがパール判事を送り、パールが日本擁護の判決付帯書を書くことについて口を出していません。
    そこに私はインパール作戦が世界史に及ぼした大きな、真に大きな意義を感じるのです。


    ▼「分かる」ということ

    唯物史観という言葉があります。
    犯罪捜査と同様の手法で歴史を観ていく考え方で、すべては証拠に基づいて判断する、状況証拠は証拠にならない、というものです。

    けれど、日本の歴史というのは、むしろ書いてあることは「......と日記には書いておこう」という程度のものが多いのが実際です。
    建前上のことを文字にして残し、その実情や心は、分かる人には「分かる」ようにしておく。

    それがあたりまえのように行われてきたのが、日本の歴史です。
    血の通った人間が、悩み苦しみ、決断して行動し、時には死を賭として戦い、そういった人生がいくつも重なりあって歴史という大きなドラマは紡がれているのです。
    多層織りなす歴史を単なる記録として扱ってしまえば、そこから学ぶものは血が通わない無機質な、実際には役に立たない知識ばかりになってしまいます。

    「分かる」ということは、たんに書いてあることを覚える、知るということとは意味が違います。
    歴史の奥に隠された先人の意志や心情にまで思いを馳はせることで、歴史は色彩豊かな世界を私たちに見せてくれ、真に役立つ知識を授けてくれるのだと思います。

    **********

    以上が本に書いたことです。

    すべての物事には、原因があって結果が生まれます。
    ということは、いま、何かの問題を抱えているとして、その問題点は、これまでの経緯から生まれた結果だということができます。
    同じ行動からは同じ結果しか生まれません。
    戦後の日本が弱化した、あるいは日本人の精神性が砕けたというのなら、それは戦後75年間の日本の行動という原因によってもたらされた結果です。

    ではそれを改善したい、問題を解決したいならどうすればよいか。
    ただ現状批判を繰り返してボヤいたり、ぐちを言ったり、悪口を言ったところで何の解決にもならないことでしょう。
    いやむしろ、そんなボヤきや愚痴や悪口によって、新たな政権が発足するような事態にでもなれば、それこそ日本のおわりです。

    問題を解決するには、その原因を調べ、除去し、あるいは修正していかなければなりません。
    そうであれば、戦後75年間で蓄積されて、いまや常識になっていることは、はたしてそれが本当に常識の名に値するものであるのかを再考していく必要があります。

    そしてこのときに必要になるのが、
    「複眼的思考」であり、
    物事を「違う角度で考えてみる」という思考であり、行動です。

    それによって私達は真実から「日本の美しさを知る」ことができます。
    そこには感動があります。
    そして感動は、世の中を変える力になる。
    私はそう信じています。

    お読みいただき、ありがとうございました。

    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           


    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

  • 健康な批判と、不健康な悪口


    選択は、他人ではない。
    自分自身にあるのだと思います。


    20231124 yes No



    人気ブログランキング
    応援クリックこちらから。いつもありがとうございます。

    批判と悪口は違います(笑)
    批判は客観的な視点から意見を述べることであり、建設的で、多くの場合健康的です。
    一方、悪口は攻撃的であり、相手を傷つけたり侮辱したりする意図が含まれます。

    悪口が起こる理由には4つの要因があるといわれています。
    感情のコントロール不足、コミュニケーションの欠如、低い自己肯定感、社会的影響です。

    1 感情のコントロール不足
    怒りや嫉妬などの感情でついつい高ぶってしまい、自分の感情を抑えることができずに口に出てしまうようなケースです。つい、カチンときてしまうなんてことは、誰でもありますよね?

    2 コミュニケーションの欠如
    考えや感情などは、言葉などを通じて人に伝えますが、これには伝えられる側にも、一定の「察する」というスキルが必要になります。
    日本文化は、もともと「察する」ことを大切にした文化ですが、戦後の教育ではこうした「察する」力がまったく訓練されないため、相互のコミュニケーションに支障がでることがあります。
    結果、自分の思いが適切に伝わらず、つい攻撃的に悪口を言ってしまうことがあります。

    3 低い自己肯定感
    ありのままの自分を受け入れるのではなく、自分の価値を必要以上に低く感じてしまうと、逆に他人を貶めることで自分の価値を見出そうとしてしまう。そして他人への悪口に走る。これまた現代病のひとつです。

    4 社会的影響
    周りの人の悪口に釣られて、自分も同調しておもわず悪口を言ってしまうケースです。

    ネット言論において、多く見られるのが、このうちの2〜4ですが、冒頭に述べた通り悪口は、基本、攻撃的ですから、そうした人たちの発言は、いきおい相手を傷つけること、侮辱する傾向となり、言葉遣いも感情的で乱暴になります。
    そうした感情的な言葉は、傍で見ていて決して気持ちの良いものではないのですが、ネットの場合、匿名性があることに加え、悪口を言っている自分を正当化するために、発言がより過激化し、過激化することによって、その悪口という言説に固執が生まれ、事態をより深刻にしていきます。

    いささかカルトじみた発言に思われるかもしれませんが、おもしろいもので、魂の次元には「主語がない」のだそうです。
    集合意識という言葉があるように、魂の次元ではみんなが繋がっていますから、他人の悪口を言えば、それはそのまま自分の悪口を言っていることになります。
    同様に自分で自分を拒否すれば、周囲からも拒否されることになる。

    ですから「あいつはとんでもない奴だ」と言えば、魂次元では「あいつ」という主語がありませんから、自分自身のことをとんでもない奴だと述べていることになるし、その言葉が汚ければ汚いほど、他人を傷つけているつもりでいて、自分を傷つけることになってしまうのです。

    そしてもうひとつは、影響の輪です。
    いくら関心があっても、自分で影響できない事柄に集中しても、何の影響も効果もありません。
    自分で影響できること。
    その影響できることで、日本を少しでもよくするために顔晴る。
    それこそが、いまの日本に求められていることだと思います。

    なにしろ日本は、30年間、所得も上がらず、むしろ下がりっぱなしなのです。
    そこから日本を再起三起させていくために、自分できること。それが影響の輪です。

    いつの時代も建設は死闘です。
    破壊は一瞬だといいますが、その破壊がすでに30年も続いているわけです。
    このまま崩壊していくのか。
    それともひとりひとりがイマジナル・セルとなって目覚めていくのか。
    選択は、他人ではない。
    自分自身にあるのだと思います。

    そもそも、何が良くて、何が悪いのかなんて、神でもなければわからないことです。
    人にできることは、チャレンジしていくこと。
    健康な批判を受けて改善していくこともチャレンジです。
    悪口に扮動(ふんどう)されずに、力いっぱい前進していくことも、またチャレンジです。

    常に前向きでありたいと思います。


    日本をかっこよく!

    お読みいただき、ありがとうございました。
    ◆一般社団法人日本防衛問題研究所 ホームページ https://hjrc.jp/
    ◆YOUTUBE
     希望の日本再生チャンネル https://www.youtube.com/@nippon-kibou
     日心会公式チャンネル https://www.youtube.com/@user-kz8dn8xp9w
     結美大学 https://www.youtube.com/@musubi_univ


    人気ブログランキング
    ↑ ↑
    いつも応援クリックありがとうございます。


    講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、メールでお申し出ください。
    info@musubi-ac.com

    『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
    登録会員募集中 ¥864(税込)/月  初月無料!


    【次回以降の倭塾】
    第103回倭塾 2023/9/23(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F
    第104回倭塾 2023/10/21(土)13:30〜16:30 富岡八幡宮 婚儀殿2F

                           


    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    \  SNSでみんなに教えよう! /
    \  ねずさんのひとりごとの最新記事が届くよ! /

    あわせて読みたい

    こちらもオススメ

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
電話 072-807-7567
○受付時間 
9:00~12:00
15:00~19:00
定休日  木曜日

スポンサードリンク

カレンダー

10 | 2023/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさん(小名木善行)著書

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク