• 航空戦艦伊勢と日向の物語


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    先の大戦も、こんにちの戦いも、明治以降の日本の歪みを正そうとする神々の試練ではないか、という人がいます。「伊勢」と「日向」の名を与えられた船が、使いものにならないとされながら、結局この二艦が、あまりにも目覚ましい活躍をしたこと。それは戦後生まれの私たちが、ダメだ、古臭いぞと思っていることが、本当はいちばん大切なことだったこと。そういうことを神々はいま、私たちに教えてくださっているのかもしれません。


    20220406 伊勢
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    航空戦艦は、艦の前方が戦艦、後甲板が空母になっているという、実に不思議な日本だけが保持した軍艦です。
    この艦は、同型で二隻作られ、ひとつが「伊勢(いせ)」、もうひとつが「日向(ひゅうが)」と名付けられました。
    日本神話を司る伊勢神宮(正式名称は単に「神宮」)と、日本神話発祥の地である日向からとられました。どちらも神々の所在地からいただいた名前です。
    この二艦、建艦はされたものの「実戦で使い物にならない」と言われていました。
    このため先の大戦の開戦時には練習艦に使われていたのです。

    その「実戦で使い物にならない」はずの二隻が、

     戦争を最期まで戦いきり、
     数々の敵艦および敵機を撃墜し、
     激戦のさ中にエンジンを停止して日本の誇る軍艦の乗員を救助するという離れ業をやってのけ、
     日本最後の航空燃料を持ち帰り、
     そして日本海軍最後の主砲を発射して沈黙しました。

    まさに鬼神をも泣かしむる大活躍をしたのです。
    今回は、そういうお話です。

    もともとこの艦は、航空戦艦として計画された船ではありません。最初は扶桑(ふそう)型の大型戦艦として計画され、建艦されたのです。扶桑型大型戦艦の建造計画は4隻で、
     一番艦「扶桑」
     二番艦「山城」
     三番艦「伊勢」
     四番艦「日向」
    という陣容で、大正二(1913)年に建艦が計画されました。

    計画は計画です。
    実際の建艦は、一番艦の「扶桑」が建艦にはいったところで、残る三隻は、建艦を無期延期とされてしまったのです。
    なぜかというと国会から「財政上の理由」で建艦に待ったをかけられたからです。

    戦艦の建造は、莫大なお金がかかることです。
    大正年間は、ひとときの平和の時代だったし、経済的繁栄が謳歌された時代でもありました。
    ですから多くの国会議員が
    「軍艦などにお金を回すくらいなら
     内政用に予算を使え!」
    と主張したのです。

    それはそれで正しい考え方でしょうし、戦争という非常時のことは、平和な平時にはなかなか想像しにくいことでもあろうかと思います。
    けれど、そもそも国の仕事というのは、火災には消防、犯罪には警察、国際戦争には軍、天災には備えと復興など、非常時のためにあるといっても良いのだと思います。
    平時は、民間が努力すれば足りるのです。
    けれど非常時には、民間の力だけではどうにもならないから、共同体としての国の出番になるのです。

    日本では、歴史を通じて、貨幣経済が進展していてもお米を税の中心に置き続けました。
    それがなぜかといえば、非常時にお米は食べることができるけれど、お金は食べることができないからです。
    非常時にはお米が大事です。
    だから税はお米で取ったし、武士の俸祿もお米だったし、年貢米も2年分は常に備蓄したのです。

    明治以降、西洋化の波に押されて、国のエリートほど洋風化し、日本が天然の災害の多発する国であり、いつ非常時がやってくるかわからない国であることが忘れられていきました。
    だから神々は、この10年後の大正12年には関東大震災を起こされたのです。
    それは、しっかりと国を護れよ!という神々からのメッセージであったのかもしれません。

    ところがこの時代、国会は二大政党が交互に政権を取る状況にありました。
    内閣が予算案をつくっても、国会の承認がなければ予算の執行ができません。
    国会は、選挙で選ばれた議員で構成されますが、議員は選挙に落ちたらただの人です。
    だから国家予算を自分の選挙区の選挙民にもたらして人気を取ります。
    鉄道敷設や道路建設、各種公的建物建築などです。
    これをしなければ選挙に落ちるのです。
    従って、国家の安全保障や、外地において何が起きているか、長期的視野に立っが国家の行く末は、口端には乗せても、実際の行動は、地元利益優先となります。

     
    一方、この時代の国際情勢は、第一次世界大戦が勃発した年です。
    日本は東亜の強国として、この大戦に参戦することになりましたが、一方において日本が標榜する人種の平等は、欧米の植民地利権を持つ大金持ちたちからみたら、あからさまな敵対行為となった時代でもありました。
    第一次世界大戦後に行われたパリ講和会議で、日本が「人種の平等」を主張したことは、それ自体は人道的に良いことです。

    しかしこのことは、政治音痴な行動でもありました。
    なぜなら、日本一国で、世界の先進諸国(欧米列強諸国)を敵に回すことになる主張であったからです。
    逆に言えば、この会議で我が国が欧米列強諸国を前に、堂々と「人種の平等」を主張するなら、世界を敵に回して日本一国で戦い勝利することができるだけの軍事力や経済力がなければ、そのような主張は政治的には「してはいけない」ことであったともいえるのです。

    歴史を学ぶということは、ただ何年に何があったとか、歴史をドラマとして楽しむことではありません。
    どうしてそうなったのか。
    なぜ防ぐことができなかったのか。
    いま私たちはどうしたら良いのか。
    そういうことを「自分の頭で考える」、その思考力や洞察力を養うためのことです。
    ただ「知ってる」とか「覚えてる」、あるいは「感動した」、「泣いた」だけでは、学ぶ意味がないのです。

    そもそも植民地利権を持つ諸国の大金持ちたちからすれば、日本は敵になるし、東洋で欧米の下請けをしながらアヘン等の売買で大儲けをしている連中からしたら、日本は明らかな敵となるのです。
    この連中はカネを持っているし、庶民を騙して動員する技術にも長けています。
    そういう、まるで悪の権化のような連中を相手に、日本一国で正義を振りかざす。
    それがどれだけ恐ろしいことになるのか、私たちは歴史から学ぶ必要があるのです。

    このような国際環境下にあって、日本が強くなければ、弱いとみなされた瞬間に、日本国自体が袋叩きにあい、そのことは当然に外地にいる多くの日本人にとっての命の危険が及ぶ脅威となる時代下にあって、海洋国である日本は、海軍力の増強が不可欠になっていたのです。
    けれど予算がかかる。

    さらに、当時の日本政府は、軍艦の発注を、それまでの英国やフランス、ドイツ等ではなく、日本国内に発注しました。
    軍艦建造は、巨額の資金がかかりますから、これを国内発注すれば、国内景気は二桁成長になります。
    ところがそれをするということは、西洋諸国には、日本の海軍力増強が、何のメリットももたらさない、むしろ日本が強国になることは、彼らにとっては歓迎できない状況になったのです。

    日本は、大正2年に日本が財政上の理由で戦艦の建造を停止しました。
    これにより、日本は諸外国から侮られました。
    そして追い詰められて大東亜戦争へと突入し、敗れて国土を灰燼にし、多くの日本人の人命をも失いました。

    このお話をすると、時代は航空機の時代に移っていたとか言い出す人がいるので、もうすこし補足します。
    明治から大正にかけてのこの時代には、まだ航空戦力の時代は到来していません。
    巨大かつ頑強な装甲を施して、大口径の砲塔を据え付けた巨大戦艦が、世界の海を制することができるとされた時代です。
    まさに「大鑑巨砲が正義を守る」時代です。

    当時、すでに航空機は登場していましたが、まだ馬力の少ない複葉機の時代です。
    航空機の爆弾も、手に持って下に投げ落としていた時代です。
    運行中の軍艦を飛行機が沈めるなどということは、完全に不可能とされていた時代であったのです。

    当時の世界の三大強国は、「日、英、米」の三カ国でした。
    日本は、有色人種唯一の、白人支配に対抗できる強国として、世界の期待を一身に担う国家となりました。
    実際には、日露戦争は辛勝です。
    戦争に勝利したとはいってもロシアからの賠償金はもらえず、国家財政は極めて厳しい状況に置かれていました。

    けれどそれは日本から見た視点です。
    白人支配に苦しめられている世界中の有色人種諸国からみたら、日本は、まさに夢のような繁栄を続ける夢の国だったのです。
    しかも日本は、世界最強の植民地国家である大英帝国と同盟関係にあります。
    つまり世界から見れば、世界第一位の強国と、それに並ぶ第二位の強国が、東西でガッチリと同盟関係を結ぶ関係にあったわけです。
    これは、のちのちの世でいえば、全盛期のソ連と冷戦時代のアメリカが、同盟国となったようなもので、この同盟に勝てる国は、世界広しといえども、どこにもありませんでした。

    日英同盟が締結されたのは明治35(1902)年、
    失効となったのが大正12(1923)年です。

    日英同盟の締結後、ちょっとした「大きな変化」が起こりました。
    それが明治三十九(1906)年の、大英帝国による戦艦「ドレッドノート」の就役です。
    この船は世界初の蒸気タービンエンジンを搭載し、巨大戦艦でありながら、超高速走行が可能、しかも装甲は厚く、敵のどんな大砲の弾もはじき返す。
    さらに世界一の巨大主砲を装備し、この主砲は、世界のどの戦艦の最強装甲でさえも打ち破るというシロモノでした。

    ドレットノートは、たった一隻で、他国の大型戦艦二隻分の戦力を有し、たった一隻で、世界中のどの艦隊と勝負しても勝ち抜けるだけの戦力を保持しているというまさに、破格のバケモノ戦艦だったのです。

    そんなバケモノ戦艦を英国が開発し、就航させたのです。
    世界最強の女王戦艦が就航したら、世界は英国にひれ伏さなければならなくなります。
    なぜなら「トレッドノート」一隻が来るだけで、他の国々の艦隊は、ひたすら逃げまわらなければならなくなるからです。

    こうなると日本も、軍事バランス上、強大な力を持つ戦艦を建造せざるを得なくなります。
    なぜなら日英の軍事バランスがくずれれば、日英関係は「同盟」関係でなく、「主従」関係に化けてしまうからです。
    そもそも同盟関係というのは、古来、きわめてご都合主義的なものです。
    同盟関係を破る口実があったり、利害関係が反目すれば、その瞬間、同盟関係は霧散します。
    このことは歴史が証明しています。
    要するに同盟関係というもの自体が、張り子の虎でしかないのです。

    世界は「力が正義」です。
    「理屈が正義」ではないし、弱い者は、どんなに理論的に正しいことを言ったとしても、「力」の前に屈服せざるを得ない。
    それが世界の現実です。
    このことはいまも同じです。
    現実に日本は、世界のATMになってしまっているではありませんか。

    この時代の世界は、「トレッドノート」の就役にともなって、未曽有の巨大戦艦建造ラッシュに突入しました。
    日本ももちろんそうだったし、米国ももちろん同様です。

    ここで問題なのが、米国の立ち位置です。
    米国は新興国です。
    アメリカ合衆国が建国されたのは十八世紀ですが、南北が統一されて統一国家となったのは、日本の明治維新の頃です。
    その米国は、明治31(1898)年にスペインとの米西戦争に勝利してグアム、フィリピン、プエルトリコを手に入れ、
    明治32(1899)年には、フィリピンに戦争をしかけてフィリピン独立を鎮圧して米国支配下に置いて植民地とし、
    さらに明治33(1900)年には、義和団事件の平定のためと称して、清国への派兵を実現しています。

    要するに当時の米国は、まさに米西戦争や米比戦争、あるいは義和団事件をきっかけにして、東亜の植民地支配に乗り出していたわけです。
    そして太平洋を渡って他国を支配するには強大な海軍力が必要です。
    同時に米国の東亜進出にあたっての最大の障害が、武士の国、日本だったわけです。

    ところが間の悪いことに、その日本は、世界最大の強国である大英帝国と同盟関係にある。
    この時点で米国が日本に喧嘩を売れば、同盟関係にある英国とも一戦交えなければなりません。

    実家が英国にあるという人々が多い米国において、そんなことは世論が許さないし、そもそも軍事的には英国や日本と同じだけの軍事力を持ったとしても、(英1+日1)対、米1、つまり、2対1で勝ち目はない。
    したがって当時の米国は、日本に手出しをすることはできず、また日本に遠慮をしながらでなければ、東亜における植民地支配地の拡大はできない、という情況にあったのです。
    ただし、日英同盟が破棄され、日本が弱国化すれば、米国は、築き上げた太平洋艦隊を駆使して、東亜を好きなように侵略し、分捕ることができるようになる。

    そういう時代背景の中で、一方で英国が「トレッドノート」を就航させ、一方で日本が国際経験に不勉強な外交オンチの政治家によって、新型戦艦の建造を停止したのです。 

    あとで詳述しますが、結果として戦艦の建造は行っています。
    これは海軍からの相当なクレームで、ようやく予算がとれたからです。
    けれど予算をケチられなかで無理やり強力戦艦を作ろうとした結果、設計に無理が出てしまいました。
    結果、扶桑級の新造戦艦は、実戦で「使い物にならない」ツマラナイ船になってしまったのです。
    艦船がツマラナイ船となることで何が起こったのかというと、軍事バランスが崩れました。

    このチャンスをほっておいてくれるほど、世界は甘くはありません。
    日本おそるに足らずと見た米国は、大正11(1922)年に、米国の首都ワシントンで軍縮会議開催を呼びかけました。そして、日、英、米の保有艦の総排水比率を、三:五:五と決めてしまいます。

    しかもこの会議に出席した日本政府の代表は、これで軍事予算を軽減できて財政が潤った、世界が軍縮に向かって、良かったよかった、と小躍りして喜んでいます(バカです)。
    もちろんそこには、スパイ工作もからんでいたことでしょう。
    そしてこの代表団は、なんと陛下の勅許も得ないで、独断でこれを決めてきてしまったのです。

    これは幕末に井伊直弼が、天皇の勅許を待たずに独断で日米和親条約を締結し、その結果、日本の金(gold)が大量に米国に流出し、日本から金(gold)がなくなってしまった構図と同じです。
    とかく日本という国は、政府が陛下を軽んじると、ろくなことにならない。

    日本国内では、政府の勝手なワシントン条約批准に、これは陛下の統帥権を干犯した大問題である、との抗議運動が起こって内政は大混乱します。
    そして翌年八月には日英同盟が失効する。継続はありません。変わって米英が同盟国になりました。

    つまり、世界の三強国(日、英、米)は、それまでの、
     (日5+英5)対(米5)
    という関係が崩れ、一夜にして、
     (日3)対(英米10=英5+米5)
    という関係になったのです。
    つまり「軍事バランスが変わった」のです。

    米英の10に対し、日本3です。
    日本に勝ち目はありません。
    日本は一夜にして「軍事弱国」になってしまったのです。

    ここまでくれば、あとは日本の力を削ぐだけです。
    米国は、日本の行うありとあらゆる国際政策に対し、なんだかんだと難癖をつけるようになりました。
    そしてついに米国は、支那の不良武装集団である蒋介石軍閥に、裏から資金と武器弾薬、食料を渡し、支那大陸にいる日本人を殺害したり、拉致したり、日本人婦女を強姦したりと、あくどい戦争挑発行為を行いはじめたのです。

    誤解のないように申し上げておきますが、日本が大陸に進駐していたのは、1901年の北京議定書に基づいた、世界11カ国との協調による国際平和維持部隊(いまでいうPKO)のためです。
    この議定書は義和団事件(1899年)によって、国内にいる外国人を皆殺しにしようとしたチャイナ政府の不埒な振る舞いに対し、世界11カ国が内覧の続くチャイナの治安維持のために、軍を派遣するというものでした。日本は国際社会の要請に基づいて、やむなくチャイナに軍を派遣していたのです。

    ところがたまたま1918年から1920年にかけてスペイン風邪が大流行しました。
    この風邪は、当時の世界の人口が20万と言われていたなかにあって、5億人が罹患し、1億人が亡くなったというたいへんな風邪です。
    とりわけ衛生環境の悪いチャイナでは、諸外国は「あとは日本よろしく頼む」とばかり、自国の軍隊を引揚げてしまっていたのです。
    ワシントン軍縮会議(1922年)、日英同盟破棄(1923年)は、このスペイン風邪のすぐ後の出来事です。
    そしてついに米国が日本にハルノートを突き付け、日本が開戦に踏み切ったのが、先の大戦です。

    要するに、日本が日華事変や大東亜戦争に向かわざるを得なくなったその遠因を手繰り寄せれば、それは、英国が「トレッドノート」を建艦し、日本が扶桑級四隻の軍艦建造を「財政上の理由」から「渋った」ことが、遠因である、ともいえるわけです。

    この時代、世界の有色人種としての完全な独立国は、日本だけでした。
    そしてその日本は、世界に人種の平等を主張していました。
    それは欧米列強諸国の植民地支配による利権を脅かすものでした。
    そうした中にあって、日本がスキを作れば、すかさず日本は追い詰められる。
    そういう極めて厳しい国際環境の中に日本はあったのです。

    とりわけ植民地支配者として大儲けをしていた欧米の資本家や、その下請けとなってアヘンの売買などを取り仕切って大儲けをしていたチャイナ・マフィアたち、つまり資金と暴力を持っていた人たちにとって、日本は敵そのものとなったのです。

    かくほどまでに、外交というのは難しいものなのです。
    いまの、ただ外国の言いなりになっている外務省に、果たして日本の危機管理が可能なのか。
    私たちは、現在の国政の在り方を抜本的に考え直していく必要があります。
    そういうことに気づかせてくれるのも、実は「歴史」なのです。

    さて、このような難しい政局にあって、国政を担う議員たちが、自分の選挙区における目先の利益、もっというなら自分の選挙区の票数が最大の関心事の議員たちが、国家予算権を握っていたということは、民衆にとっての最大の不幸です。
    国際情勢の中においては、いかに財政上の苦労があろうが、軍事バランスを常に「強者」に置いておく努力がなければ、国家は他国に軽んじられ、追いつめられます。
    このこともまた、歴史の教訓として、私達は常に頭に入れておかなければならないことです。

    もうすこし述べます。
    そもそも軍は、戦争をするためのものではありません。
    戦争を未然に防ぐためのものです。
    そこを間違えると、財政上の理由でケチった何百倍ものツケを払うことになり、国の経済は傾き、国民の生命や財産を危険にさらすどころか、国家も国民も、何もかもを失うハメになるのです。
    その原因を作ったのが、大正二年の、「国民の生活が第一」と民生重視をうたい、軍艦建造反対を行なった日本の国会であったわけです。

    さて、こうして予算に待ったをかけられたのが、扶桑級大型戦艦の「扶桑」、「山城」、「伊勢」、「日向」の四艦でした。四艦は、計画段階で予算に待ったがかけられ、ようやく大正二(1913)年に「扶桑」、大正三年に「山城」が建造開始となりました。

    ところが、世界最強クラスの戦艦を建造しなければならないという海軍の要求に対し、大幅な圧縮予算です。
    いざできあがってみると、一番艦「扶桑」、二番艦「山城」とも、なんと主砲を打つと機関が壊れるというなさけなさです。
    予算をケチられた状態で、無理な装備を施した結果、設計そのものにひずみが出てしまったのです。

    これでは戦いに使えません。
    やむをえず「扶桑級」戦艦としての建造はあきらめ、あらためて「伊勢級」戦艦として、着工開始になったのが「伊勢」と「日向」です。

    しかし、刻々と動いている世界情勢の中で、あらためて一から設計しなおすだけの時間的余裕は、日本海軍にはありません。
    そこで「若干の改良型」として、「伊勢」は大正六(1917)年、「日向」は大正七(1918)年にそれぞれ就役しました。

    大正から昭和のはじめにかけて、「伊勢」と「日向」の姉妹は、少ない予算の中で、徹底的に船体の改良をされました。
    さらに昭和九(1934)年、緊迫する世界情勢の中で行われた伊勢と日向の大改造は、すさまじいものでした。
    少ない予算の中で、なんとかして艦の性能をあげるように工夫と努力が積み重ねられた結果です。

    第一に、艦の主砲の最大仰角が四十五度に引き上げられました。
    当時の主砲というのは、仰角が上がれば上がるほど、砲弾が遠くに飛ぶようになります。
    そのかわり命中率が下がる。
    それでも「伊勢」と「日向」は、砲台の仰角としては最大の四十五度という、限界仰角にまで引き上げたのです。
    要求されたエンジンの搭載が予算の都合でできないから、船速が遅い。
    だからせめて、砲弾を遠くに飛ばそうとしたのです。

    けれど、もともと最大仰角二十五度で設計された船です。
    それを一気に引き上げて砲弾を遠くに飛ばすようにしたのです。
    ですから命中精度の向上は、もっぱら乗員の猛訓練に委ねるとされました。
    これによって姉妹の射程距離は、なんと3万3千メートルにまで伸び、なんと33キロ先の目標に向かって正確に着弾させることができるようになったのです。
    日本人おそるべしです。

    次に装甲が格段に強化されました。
    これで、少々の魚雷にあたっても、船はビクともしなくなりました。

    さらにエンジンには、小型で安価な新型タービンエンジンを搭載しました。
    これによって、最高速度は25・3ノット(およそ時速47キロ)にまで引き上げられましたが、それでもまだ世界の標準艦には追い付けない。
    そこで新型の対空機銃や高角砲によって、対空防御力を向上させ、さらに光学機器や新型測機器、レーダー、無線などを搭載しました。

    それでも速力が遅いことは、機動部隊の艦としては致命的です。
    どうしても30ノット(およそ時速55キロ)はほしいのです。
    結局「伊勢」も「日向」も、これだけの大改造を施されながら、大東亜戦争の初期には低速艦であるとして実戦配備されませんでした。
    あくまで姉妹は「練習艦」としてだけ使用されることになったのです。
    一生懸命努力したのに「使えない奴だ」と相手にされなかったようなものです。

    そんな姉妹に、実戦投入の命令が来たのが、昭和十七(1942)年六月のミッドウエー海戦でした。初の実戦配備です。「伊勢」も「日向」も、猛烈な訓練を施されました。待ちに待った実戦配備なのです。
    その訓練のときの嬉しそうな伊勢と日向の姉妹の様子がまるで目に浮かぶようです。

    そんな折に重大事件が起こります。
    昭和十七(1942)年五月五日、愛媛県沖で主砲の発射訓練を行っていた「日向」の、艦尾五番砲塔が突然大爆発を起こしてしまったのです。
    砲塔部が吹っ飛び、乗員54名が一瞬にして亡くなってしまいました。
    やはり仰角に無理な負担があったのです。

    やむなく緊急でドック入りした「日向」は、砲塔部がそっくり外されることになりました。
    その穴を鉄板で塞いで、上に25ミリの四連装機銃を突貫工事で装備しました。
    せっかく高性能な主砲を取り付けてあったのに、これを外して機銃装備になったのです。
    付け焼き刃とはこのことです。ところが、その付け焼き刃が、あとでとんでもない活躍をします。

    「伊勢」と「日向」はミッドウェー作戦に参加しました。
    理由は、試作品とはいえ、他艦にはないレーダーが装備されていたからです。
    ところが速度の遅い姉妹が、戦場となったミッドウエー沖にまだ到達しないうちに、海戦で日本は大敗してしまいました。
    せっかくのレーダーもここではまったく活かされず、日本は、大切な空母を失ってしまいます。

    失われた空母力を補うため、日本は、急きょ間に合わせでも構わないから、空母を用意する必要に迫られました。
    商船や、水上機母艦など、ありとあらゆる船を空母に改造することが検討されますが、どれも帯に短したすきに長しです。
    結局、建造中の大和型戦艦の三番艦である「信濃」を空母に改装すること、および、事故で後ろ甲板を損傷して鉄板でふさいでいる「日向」、同型の「伊勢」を航空戦艦に改造することが決定されました。

    ところがもともと戦艦として設計された「伊勢」と「日向」には、艦の中央に巨大な司令塔(艦橋)があります。
    これを壊して空母に改造するとなると、完成までに一年半はかかってしまう。
    それなら艦の後部だけを空母にしてしまえ!ということでできあがったのが、「航空戦艦」という形だったのです。

    「伊勢」は呉の工場で、「日向」は佐世保の工場で、空母にするための大改造を施されました。
    艦の中央に巨大な艦橋があるために、空母として航空機の発着陸に必要なだけの十分な滑走路が確保できません。
    そこでどうしたかというと、まず離陸にはカタパルト(射出機)を使用することにしました。
    これなら長い滑走路が必要ないからです。

    カタパルトは、新型のものを備え付けました。
    これは30秒間隔で、飛行機を射出できるというすぐれものでした。
    これが二基備え付けられました。
    これによって全機発艦に要する時間は、わずか5分15秒にまで高められました。
    当時としては世界最速です。

    では着艦はどうするかというと、一緒に航海する空母に着陸させればよい、ということになりました。
    空母側だって艦載機を満載しているわけです。
    そこに「伊勢」「日向」から発進した飛行機が着陸してきたら、もといた空母の飛行機が着陸するスペースがないはずです。
    それがどういうことかというと、「出撃後に墜とされるから艦載機の数が減る」という、いささか乱暴な理屈でした。
    残酷な話ですが、それは現実でした。

    さらに航空戦艦への改造と併せて、「伊勢」「日向」には、ミッドウエーの教訓から、対空戦闘能力の徹底強化が施されました。これによって対空用三連装機銃が、なんと104門も配備されました。

    それだけではありません。新開発の13センチ30連装の対空ロケット砲も6基装備しました。
    各種対空用の射撃指揮装置も増設し、「伊勢」と「日向」は、「超強力防空戦艦」としての機能を身に着けたのです。

    こうして完成した姉妹は、昭和十九(1944)年十月に戦線に復帰しました。
    けれど、いよいよ飛行機を積むということになったとき、艦載機となることを予定していた飛行機が、台湾沖航空戦で全機損耗してしまったのです。
    結果、「伊勢」と「日向」は、半分空母の半分戦艦でありながら、艦載機をまったく持たないという、なんとも情けない姿で、同月24日のレイテ海戦に、小沢中将率いる第三艦隊の一員として参加しました。

    この日フィリピン沖で、米軍のハルゼー提督率いる艦隊は、日本海軍殲滅のため、なんと527機もの大飛行編隊を繰り出しました。
    ものすごい数です。数人の仲間と過ごしているところに、527匹の蠅が襲って来た様子を想像してみてください。
    どれだけおそろしい状態であったかおわかりになると思います。

    この戦いで、小沢艦隊は、空母4隻を失う大損害を被りました。
    けれど・・・けれどです。
    この猛烈な戦いの中で、ついこの間まで練習艦としてしかみなされず、使い物にならなないと相手にされず、航空戦艦に改造されながら、航空機の搭載がされなかった「伊勢」と「日向」が、獅子奮迅の大活躍をするのです。

    二人の姉妹は果敢に対空線を挑み、両者あわせて百機近い敵機を撃墜してしまったのです。
    しかも二艦とも、これだけの奮戦をしていながら、ほとんど無傷でした。

    「伊勢」に至っては、群がる敵機との戦闘の最中に、自艦のエンジンを停止させて、被弾して沈没した旗艦「瑞鶴」の乗員を救助するという離れ業までこなしています。
    戦闘中にエンジンを停止するということは、艦が停まる、ということです。
    停まっている船は、爆撃機から投下される爆弾を避けることができません。
    ですから普通なら、敵爆撃機との戦闘中にエンジンを停止するなど、まさに暴挙としか言いようがないのです。

    ところが「伊勢」は、強力な対空砲火で敵爆撃機を近寄らせず、戦艦設計の強力な装甲は敵弾を跳ね返し、群がる敵機を片端からはたき落しながら、「瑞鶴」の乗員百名余を、機関を停止したうえで海上から救助してしまったのです。
    これは世界の海軍史に残る偉業です。

    レイテ沖海戦の結果、日本海軍は完全に制海権を失いました。
    日本の戦況はますます厳しさの一途をたどりました。
    この海戦に生き残った「伊勢」と「日向」は、以後、輸送艦として、主に物資の運搬に用いられます。
    航空戦艦を輸送船に使うなど、もったいない話にみえるけれど、当時の状況下では、強固な装甲を持つ戦艦が輸送任務をこなすことが、もっとも安全確実なことだったのです。

    「伊勢」「日向」の姉妹は、昭和十九年十一月、シンガポールから航空燃料、ゴム、錫などを内地に運びました。
    途中で、何度も米潜水艦に狙われましたが、こちらはもともとが戦艦です。
    なんどとなく米潜水艦を撃退しつつ、無事に内地にたどり着きました。
    そしてこのとき「伊勢」「日向」が持ち帰った航空燃料が、日本が外地から持ち込んだ「最後の航空燃料」となりました。

    沖縄戦における特攻隊や、東京、大阪、名古屋等の大都市への本土空襲に果敢に立ち向かった戦闘機が使用した燃料は、この姉妹が持ち帰った燃料です。
    また戦艦大和の最後の出撃のときの燃料も、このとき姉妹が持ち帰った燃料でした。

    けれどその姉妹は、持ち帰った燃料は他艦や航空隊に提供し、自艦は、自走するための燃料さえもなくなって、呉で動かない「海上砲台」として使用されることになります。
    動かない砲台となった「伊勢」と「日向」の姉妹に、終戦間近の昭和二十年七月二十八日、米軍機が猛攻撃加えてきました。

    姉妹は敵の爆弾を動いて避けることができません。
    人間で言ったら木に縛り付けられて動けない状態で、群がる敵と戦ったようなものです。
    それでも伊勢も日向も果敢に戦いました。
    艦底に大穴を開けられ、艦は大破着底してしました。それでもまだ戦いました。

    姉の「伊勢」は、大破着底した状態で対空射撃ができなくなりました。
    そこで「伊勢」は、群がる敵機に向かって、主砲をドンと放ちました。
    戦艦主砲です。発射と同時に起こる巨大な衝撃波で、操縦不能に陥った敵機がパラパラと墜ちてきたそうです。
    そしてこの砲撃が、日本海軍の戦艦が放った最期の主砲発射となりました。

    冒頭にも書きましたが、「伊勢」と「日向」の名前は、ともに日本神話ゆかりの名前です。
    「日向」は、神話発祥の地、天孫降臨の地です。
    天照大御神と神々の子孫である歴代天皇が祀られているのが「伊勢」です。
    そして日本神話は、神々の成長の物語でもあります。
    いってみれば、できそこないの船としてできあがってしまった「伊勢」と「日向」の姉妹は、いろいろな事件を経て、航空戦艦というものすごい兵器に生まれ変わりました。

    そして日本海軍華やかりし頃には、使い物にならない船として、練習艦にしかされなかった二艦が、
    ミッドウエーの敗戦後、戦況厳しくなったなかで、誰よりも活躍し、
    最後の最後まで抵抗する要(かなめ)の艦となり、
    そして最後まで抵抗して、
    日本海軍最後の主砲を放ち、沈黙しました。
    それはまるで、日本神話の物語そのものを見ているような生涯でした。
    「伊勢」も「日向」も、後世に生きる私たちの目から見て、実に「かっこいい」生涯でした。

    私は、神々というのは、やはり本当におわすものだと感じています。
    なぜなら、我が国に「果たして神々はおいでになるのか」と疑問に思えるほどに世の中が荒れても、後になって歴史を振り返れば、なるほど、そういう意味があったのかと、納得させられるものが歴史の中にあるからです。

    たとえば663年の白村江の戦いで、日本は大敗しました。
    ところがこのことが原因となって、日本は万世の泰平を開く国家の統一と「おほみたから」を育むための都機能の充実と、国家統一の精神性の基となる古事記などの史書の編纂が行われました。
    実に、いまの日本があるのは、この戦いがあってのことでした。

    また平安末期から鎌倉初期にかけて、それまでの平和の日々がまるでうそのような内乱の日々が続きました。当時のご皇族や諸々の貴族たちはこれをたいへんに嘆き、その結果生まれたのが、百人一首です。
    けれどその内乱があり、日本の武士たちが合戦馴れしていったことによって、日本は蒙古襲来を跳ね返しています。
    ユーラシア大陸を制した蒙古の大軍を打ち払うことができたのは、当時の世界にあって日本だけでした。

    戦国時代には、まさに群雄割拠で国内がおおいに乱れましたが、このとき世界では、まさにスペイン・ポルトガルによる有色人種国の植民地支配と文化の破壊が徹底的に推し進められていました。
    日本は、戦国大名たちが戦(いくさ)慣れしていることで、まさに、この世界を制した二大勢力を追い払い、江戸300年の泰平の世を築いています。

    幕末の黒船来航以降、日本国内はおおいに乱れました。
    その乱れは、実はいまでも続いています。
    明治初年以降、今年で145年になりますが、その間、いわゆる不平等条約による差別が日本になかった時代は、1911年から1922年までのわずか11年間だけです。
    日本はいまも不平等条約下にあります。
    少し前までの日米航空協定も不平等条約でしたし、EUとの関係においても日本で重大犯罪を犯した者であっても、EUに逃げ込めば治外法権が適用されます。
    日本は主権国であるようでいて、実は全然主権国ではないのです。

    白村江にしても、元寇にしても、戦国にしても、混乱の原因となる事件等が生じてから、安定する状態になるまで、いずれもおよそ200年前後を要しています。
    たとえば戦国時代の始まりは1467年の応仁の乱ですが、徳川政権となり、鎖国が実施され、蝦夷の大規模反乱も抑えられて、国内が完全に平和な状態になるのは1670年頃のことです。

    人が病気になって入院することは、パソコンやスマホのりスタと同じで、魂がリスタをしようとしていることによるのだという説があります。
    国もひとつの人と例えるならば、混乱(=病気)は、何かのリスタを神々が図ろうとしている、つまり様々なアプリがメモリを占拠して動作不良になっている状態を、いちど整理してきれいにすることで、また軽やかな状態に戻そうとしているのだ、とも考えられます。

    先の大戦も、こんにちの戦いも、明治以降の日本の歪みを正そうとする神々の試練ではないか、という人がいます。「伊勢」と「日向」の名を与えられた船が、使いものにならないとされながら、結局この二艦が、あまりにも目覚ましい活躍をしたこと。
    それは戦後生まれの私たちが、ダメだ、古臭いぞと思っていることが、本当はいちばん大切なことだったこと。そういうことを神々はいま、私たちに教えてくださっているのかもしれません。


    ※この記事は2011年5月のねずブロ記事のリニューアルです。
    日本をかっこよく!
    お読みいただき、ありがとうございました。


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Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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