岩崎弥太郎と竜馬伝



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岩崎弥太郎
岩崎弥太郎


ある方からメッセージをいただいたのですが、最近「龍馬伝」というテレビ番組をやっていて、そこではなぜか岩崎弥太郎が腰抜けの狂言回しの役で登場しているのだそうです。

その方は、これは意図的に日本を貶めるものだと、お怒りです。
ボクも同感です。

岩崎弥太郎は、三菱財閥の創始者であり、日本経済の発展に大きく寄与した、ちょっと人並み外れた豪胆さを持つ偉人です。

ちなみにいまの日本では、サラリーマンはボーナスをもらいますが、日本で最初にボーナスを支給したのも、岩崎弥太郎がです。
もし、弥太郎がいなければ、勤め人がボーナスをもらうという制度は、なかったかもしれない。

弥太郎は、社員の奮闘に少しでも報いようと、我が国で最初のボーナスを支給したのです。
その岩崎弥太郎を、腰ぬけの狂言回し扱いし、それが制作側の意図的なものであるとすれば非常にタチが悪い。

そこで今日は、岩崎弥太郎について書いてみたいと思います。

岩崎弥太郎は、幕末の激動の中を駈け抜け、武士から実業家に転身して、一代で三菱を創始した男です。

弥太郎は、天保5(1834)年、土佐藩の地下浪人だった岩崎弥次郎と妻・美和の長男として井ノ口村(現・安芸市)で生まれています。

岩崎家というのは、山祇氏の末裔で、山祇氏というのは、甲斐源氏の棟梁職を現す「御旗」「楯無鎧」を八代にわたって相伝した家です。
日本古来の原住民の家系です。

そういわれてみれば、岩崎弥太郎の顔立ち(角ばった顔にどんぐり眼)って、縄文系の骨格そのものかもです。

岩崎家が土佐にやってきたのは、おそらく戦国時代よりも前といわれています。

その頃の土佐の大名は、長宗我部家です。

長宗我部家というのは、平安から鎌倉時代の初期に土佐に渡ってきた「宗我部氏」が開祖で、たまたま土佐には、別に「宗我部」という家があったため、住んでいた長岡郡の「長」の字をとって「長宗我部」と名乗ったといわれています。

ちなみに「宗我部」の「宗我」が、「蘇我氏」と音が似ていることから、奈良時代に登場する蘇我氏の末裔であるという説もあるそうです。

長宗我部家は、戦国時代におおいに発展し、四国全土をほぼ制圧してします。

その長宗我部家の強さの秘密ですが、それは「一領具足」と呼ばれる半農半兵の家臣団にあるといわれています。

「一領具足」というのは、半農半兵の長宗我部軍団で、一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を持ち、いつでも直ちに召集できるように、農作業をしているときも、常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたために、一領具足と呼ばれるようになった。

土佐物語には「死生知らずの野武士なり」と書かれています。
農業で鍛えた体に、命知らずの戦士というわけです。

ところが慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で、長宗我部家が石田光成側、つまり西軍に付いていたために、改易されてしまう。

後任は山内一豊です。

一豊は、長宗我部家の元家来だった一領具足と呼ばれる在地の武士たちを土佐藩士として採用します。
しかし、彼らは容易になびきません。
山内家に猛烈に抵抗し反乱を繰り返した。

そりゃそうです。
飛鳥朝時代に連なる蘇我氏の家系の誇り高き長宗我部の家人です。
流浪の民から身を起して信長の家臣団になり、秀吉に仕えて細君のド根性で出世した一豊のようなナリアガリとは家格が違う。

山内家は、対抗上やむなく藩内の要衝を身内の重臣で固め、さらに山内家の家臣団に重点的に藩の役職を配置します。

そして山内家ゆかりの家臣団を「上士」。
長宗我部から山内家で召し抱えた武士を「郷士」と呼んで、身分上も差別した。

「上士」は、家老、中老、馬廻り、小姓組、留守居組などの要職に就きます。
「郷士」は、用人、徒士、足軽などの身分の下級武士です。

弥太郎の家は、長宗我部の一党ですから、もちろん「郷士」です。
家は古く、由緒もある。

しかし江戸三百年の太平は、かつての誇り高き一領具足の生活を圧迫し、ついに曾祖父の岩崎弥次右衛門の代に郷士の「株」を売ってしまいます。

ちなみに江戸時代で「株」といえば、権利のことです。
「郷士」には郷土の「株」というのがあります。
「株」のおかげで、士分としての名字帯刀が許される。

土佐藩では、藩の財政が悪化した江戸中期から、臨時収入源として、郷士の「株」の売買を奨励します。
「郷士」が町人に「株」を売れば、抵抗勢力がひとつ減るし、藩の懐も豊かになる、というわけです。

商家などで、小金を貯め込んだ家は、喜んでこの「郷士株」を買った。

買った商家は、江戸の身分制度の士農工商のいちばん下の身分から、士分の名誉を得て、苗字帯刀を許される、最上級の士分となる。

江戸中期に、この「郷士株」を買ったのが、龍馬の坂本家です。

坂本家は、もともとは豪商です。
先祖が明和7(1770)年に郷土株を買って武士になった。

家は商業も続けているし、農業も経営していて豊かです。
加えて郷士株を買い取ることで、武家の身分も手に入れたわけです。

一方、岩崎家は、本来は郷士株を売ったので士分ではありません。
ところが、40年以上「郷士」だった家は、株売却後も、苗字帯刀と武家の家格は維持できた。

そのかわり、山内家からの棒碌はありません。
「地下浪人」と呼ばれる最下級の浪人者で、足軽以下の武士で一番下の身分です。

いってみれば、下級公務員だったけれど、その地位を売って、失業者になったわけです。

一時金は手に入るけれど、それを使い果たしたら、苗字帯刀こそ許されているものの、もうカネはありません。

おかげで、岩崎弥太郎は、子供の頃、極貧の中で育ちます。

極貧の中で育った弥太郎ですが、実は母親の美和が、安芸浦西ノ浜の医者の娘だったことから、弥太郎は、幼少の頃から土佐藩随一の儒学者である岡本寧浦に学ぶなどして学問環境にだけは恵まれた。

このあたり、昔の人は偉いです。
どんなに生活が苦しくても、子供の未来を第一に考えた。

だいたい子供に子供手当だけ出せばいいってもんじゃありません。
肝心の教育が日教組教育じゃあ、しゃれにもならない。

カネはなくても、どんなに貧乏だろうと、どんなに生活が苦しかろうと、未来を担う子供たちには、立派な教育を授ける。
これがオトナのすることです。

戦前の陸海軍の学校などは、まさにこの典型です。
授業料は無料で、全寮制。親の経済的負担はなし。
そのかわり、そこではとびきり優秀な英才教育が行われた。

話が脱線しましたが、弥太郎は、幼ない頃からとびっきり頭脳が明敏だったようです。
12歳ときには儒者小牧米山に弟子入りし、さらに小牧氏の紹介で、土佐藩随一の学者である吉田東洋の門下生となっている。

吉田東洋
吉田東洋


頭脳明晰、体格優良。この時代の武家は、いかに秀才であっても武芸がダメなら、ダメ男です。

弥太郎は、文武両道に秀で、14歳になると、藩主山内豊照の前で漢詩を披露し、さらに書も講じて褒美をもらうほどになっています。

安政元(1854)年、21歳になった弥太郎は、江戸詰めになった土佐藩士奥宮周二郎の従者として江戸へ行き、あちこちの塾の戸を叩きます。
そして翌年、千代田区神田駿河台にあった安積艮斉(あさかごんさい)の見山塾に入門した。
ここでも弥太郎は、頭脳明晰な逸材として、すぐに頭角を顕します。

この江戸遊学では、岩崎家では、先祖伝来の山林を売って遊学費を捻出したそうです。
このあたりも非常におもしろいところで、家格の古い岩崎家は、フローの収入はまるでなくて、超がつく極貧家庭だったけれど、先祖伝来の資産はたっぷり持っていた。

ルーマニアというのは古代ローマ帝国の末裔の国で、だからRomâniaです。
旧東欧圏だったから、国も民間も貧しくて公務員の年収が日本円で7万円ほどなのだけれど、どこも旧家で、中世からの遺品などをたっぷりと持っている。
ストックでみたら、ものすごいお金持ちの国です。

要するに富には、フローの富とストックの富がある。
いまの日本は、経済大国とはいっても、フローばかりです。ストックがない。

江戸で勉強に励む弥太郎ですが、安政2(1855)年、弥太郎の父・弥次郎が、酒席での喧嘩により投獄されてしまいます。

知らせを受けた弥太郎は、馬を使った早飛脚ですら14日かかる江戸~高知の道のりを、なんと雪の箱根をひた走り、大阪からは船で甲浦へ渡り、わずか16日目の12月29日の夜には井ノ口村に着いてしまう。
鍛え上げたすさまじい体力あってのことです。

土佐に戻った弥太郎は、父の喧嘩の様子を短期間に把握し、父の喧嘩が、実は冤罪であった事実をつかみます。

で、郡奉行に、しつこく赦免を迫った。

当時のしつこいというのは、単にメールやインタネットの掲示板で、ごちゃごちゃと匿名で悪口を書くというようなナマヌルイものではありません。
弥太郎は士分ですから、刀にかけて赦免を迫る。

これがあまりに激しかったことから、郡奉行は恐怖して、逆に弥太郎を世間を騒がす不逞の輩として投獄してしまいます。

ところが、転んでもただでは起きないのが弥太郎です。
獄中の同房だった商人から、算術や商学を学びます。
これは弥太郎にとっては、たいへんな知的収穫だった。

武家社会というのは、算盤勘定を忌み嫌う、という特徴があります。
武士道というのは、道徳概念であり規範で、「かくあらねばならぬ」というのが最優先の道です。「損得勘定」とは対極にある。

ですから幼少の頃から儒学を通じて武士道一筋に学んできた弥太郎にとって、牢獄の中で出会った商人から教わる算術や商学は、アナタノシラナイセカイです。
実に刺激的だった。

もともと頭がいい男だから、上達も理解も早い。
獄中の弥太郎は、商学と算盤に熱中しています。

ついでにまたちょっと脱線しますが、江戸時代の牢屋についてです。
日本における江戸時代の牢屋というのは、おそらくこの時代のどの国の牢屋よりも近代的だったといえそうです。
たとえ犯罪者でも、人はちゃんと人としての待遇を与えられた。

要するに封建時代の牢屋というのは、どこの国でも狭い空間に大勢の人を閉じ込め、風呂も使わせず飯も残飯程度の支給だった。
天井が低くて立てない牢屋や、横になって寝るだけの空間がとれない、満員電車のような牢屋も多かった。

お隣の朝鮮などでは、牢屋の不潔と残酷さは眼をおおうばかりで、食事はおかずなしの雑穀のみ、当然、風呂はなし。さらに監獄内は狭く、そこに多数の囚人を送り込むから、囚人たちは体を伸ばして寝ることすらできない。
囚人が増えると、牢屋の人滅らしのために、獄吏が好き勝手に囚人を殺害して「処理」していた。

ところが同じ時代の日本では、牢屋には風呂もあったし、食事もそれなりのものが出た。
江戸日本の牢屋は、世界で一番近代的だったのです。

さて、牢屋で算術と商学を学んだ弥太郎は、約7ヶ月で、牢屋を出されます。
ただし、苗字帯刀剥奪、井ノ口村追放となった。

弥太郎は、江戸勉学を断念し、神田村(現在の高知市鴨田)に引っ越して、そこで漢学塾を開きます。

もとより学問に秀でて、教え上手でもあった弥太郎の塾は大繁盛し、塾開設の2年後には、追放も赦免となり、家名も回復します。

学問への夢を捨てきれない弥太郎は、安政5(1858)年、吉田東洋のもとに入門します。
この当時、吉田東洋も蟄居中の身で、少林塾(鶴田塾)を開いていたのです。

そしてその少林塾には、後の明治政府で逓信大臣や農商務大臣を歴任する後藤象二郎や、自由民権運動で有名な板垣退助なども通っていた。

ちなみに後藤象二郎は、吉田東洋の甥(おい)にあたります。
そしてこの頃の後藤象二郎は、当時、現職の幡多郡奉行だった。

こういう高官と、学問の場で一緒に修行できるというのも、当時の日本の特徴です。

後藤象二郎
後藤象二郎


ある日のことです。
吉田東洋は、後藤象二郎に宿題を与えます。

提出された答案をみた吉田東洋、いささか驚いた。
実に素晴らしい出来です。

これだけの答案は、象二郎のものではあるまいと、吉田東洋は後藤象二郎を呼び出し、本人に直接問いただした。

ウソは、武士道の恥です。
象二郎は、「ハイ、岩崎弥太郎にやってもらいました」と、あっさりすっきり素直に答えた。

「そうか、アノ藩侯の御前で、講義をしたあの岩崎弥太郎がいるのか」

少林塾の門弟の数は多いです。
門弟たちには、学問の状態によって上下があり、吉田東洋の講義を直接聞けるのは、高弟たちだけです。

しかしこの事件がきっかけで、吉田東洋は数多くの門人のなかで岩崎弥太郎を一目置き、高弟に準じる扱いに格上げしています。

同じ頃江戸では、幕府大老の井伊直弼が、勅許を待たずに日米修好条約に調印をします。さらに「安政の大獄」を断行した。

幕末風雲急を告げる時代です。
藩は藩政を改革し、できる者を積極的に登用しなければならなくなった。

土佐藩は、吉田東洋を赦免し、藩政に復帰させます。
そもそも吉田東洋の思想は、富国強兵論に基づく門閥政治打破、流通機構の統制強化。洋式兵器の採用という現実主義です。
まさに時を得た。

もともと吉田東洋の蟄居というのも、藩主容堂の親戚などを呼んだ酒宴の席で、座が乱れて、松下嘉兵衛という男が東洋の頭に手をかけたのを、
東洋が、「武士の頭に手をかけるとは何事か」と、松下を殴った、というものです。
それで謹慎となっていた。

要するに太平の世の中では、たとえ高官の武士であっても、素手で暴力を振るったらそれだけで職を解かれ、蟄居を命ぜられた。

ところが黒船が来航し、国内が騒然となると、なんとしても藩の財政を立て直し、洋式の軍備を整えて藩を抜本的に改革しなければならない。
そのためには、少々問題があろうがなかろうが、有能な人材の登用が不可欠です。

藩政に復帰した吉田東洋は、さっそく藩の財政危機の救済策として、藩内の産業育成と海外貿易(武器や軍艦を買わなくちゃならない)開始のために、長崎に市場調査団を派遣します。

そしてこの調査団の一員に、東洋は24歳の岩崎弥太郎を抜擢する。

弥太郎は、翌年(安政6年)8月には藩の下級役人である下横目役(郷廻)として登用されますが、これも吉田東洋の推挙によるものです。

下横目役としての弥太郎の役割は、藩の過激派である土佐勤王党の監視や脱藩浪士の探索などです。

ちなみにこの頃の坂本竜馬は、まだ千葉道場で剣術の稽古をしていた頃で、危険人物としてのチェック対象にはいっていません。

弥太郎は、下横目の役割をこなしながら、市場調査団として派遣された長崎に、この頃たびたび出かけています。
そうして弥太郎は、海外事情を学び、外国人との交流も図った。
兵器は外国人から買うのです。
買う金は、土佐の物産を外国人に売って賄うのです。
外国人との交流は当然です。

ところがこの時代、長崎には全国の藩から人が集まり、外国人との取引を図ろうとしています。
ものすごい競争率です。
そこで、外国人との交流を深めるため、諸藩は外人を料亭に招いて接待した。

藩の輸出入を担当する弥太郎も、当然、これをやりますが、それには多額な金が必要です。

弥太郎は、藩から与えられた接待費を使い果たし、さらに費用がたりないからと金策のため土佐に戻ります。

これがいけなかった。
ある程度開明的な人には理解できる弥太郎の行動も、古くからの因習だけしかわからない頭の固い藩の年寄りたちには、まるでわからない。

そもそも地下浪人出身の身分いやしき者が、下級役人の分際で想像を絶するような多額の藩費を浪費し、しかも許可も得ずに勝手に土佐に戻ってきた、とんでもない、というわけです。

おかげで弥太郎は、万延元(1860)年に、解職され、謹慎処分となる。

無職となった弥太郎は、郷里に帰ろうとしますが、下横目として藩内の過激派の事情に通じ、頭が良く行動力も臍力もある弥太郎を、奉行所は手放しません。

また長崎の交易を担当する武士たちも、弥太郎がいないと話が前にすすまずにコマル。

弥太郎は、無役ながら、そのまま高知城下の姉夫婦の家に居候し、それまでの職の手伝いを行います。

手伝いといっても、ある程度の謝礼は入ります。

おかげですこしばかりフトコロ具合が良くなった弥太郎は、借財をして郷士株を買い戻し、文久2(1862)年2月1日には17歳の高芝喜勢と結婚した。弥太郎29歳です。なんと12歳も年下の女房です。

といっても、当時はこれが普通だったようです。
商家などでは、番頭さんは40歳を過ぎてから独立し、のれん分けして店を持ち妻帯します。
嫁さんになるのは、17~20歳くらいの女性ですから、なんと20歳以上歳も離れている。

さて、同じ年の4月8日のことです。
土佐藩では、藩政を揺るがす大事件が起こります。

吉田東洋が下城途中、帯屋町の自宅近くで、暗殺されたのです。

土佐勤王党の監視や脱藩士の探索の手伝いだった弥太郎は、正式に元の職に復帰し、東洋暗殺の犯人の探索を命じられます。

そして犯人逮捕のため、同僚の井上佐一郎と共に、大坂に向かう。

京・大阪で探索にあたる弥太郎と井上でしたが、突然、弥太郎だけが帰国を命ぜられます。必要な届出に不備があったのです。
役人というのはやっかいなものですね。

でも、これが、運命の分かれ道となります。
一緒に大阪に探索に行った井上佐一郎は、弥太郎が帰国した直後に、岡田以蔵らによって暗殺されてしまう。

国に戻った弥太郎は、京・大阪の実情から、むしろこれからは勤王党の時代かもしれないと、下横目の仕事を辞し、わずかな手持ち資金で材木商を始めます。
戦乱を予測し、郷里の山林を伐採して売れば儲かると踏んだのです。

ところが、当時の材木商は、藩の組合によって完全に牛耳られ、新参者の介入できる余地はなかった。
弥太郎の材木商は、またたくまに失敗し、彼はふたたび一文無しになってしまいます。

失意の弥太郎は、女房を連れて郷里に帰り、農作業の手伝いをして糊口をしのぎます。

ちょうど弥太郎が失意の中で農作業の手伝いをしている頃、郷里に帰っていた坂本竜馬が第一回の脱藩をしています。元治元(1864)年、のことです。

年が明けて慶應元(1865)年9月、坂本龍馬は、西郷隆盛の支援を受けて、長崎で浪士結社、貿易結社、商社である海運会社「亀山社中」を結成します。

坂本竜馬
坂本竜馬


一方、吉田東洋亡きあとの藩内で実力をつけた後藤象二郎は、翌、慶應2(1866)年2月、殖産興業や西洋風の科学教育振興のために、総合施設「開成館」を創設し、その貨殖局に岩崎弥太郎を勤務させます。

後藤象二郎は、当初、開成館主導で土佐の物産を、江戸や大阪、長崎で売って、そのカネを持って土佐の富国強兵を図ろうとしたのです。
ところが、武家のにわか商売では、なかなかうまくいかない。

そこで後藤象二郎は、商売の経験もある(とっても材木商をやってあっという間に失敗した男ですが)弥太郎に白羽の矢を立てて藩職に復帰させ、翌年には弥太郎を、土佐藩の商務組織・土佐商会の主任兼長崎留守居役に大抜擢した。

なんと弥太郎は、長崎に駐在して藩貿易の一切の責任を負う立場になったのです。長崎留守居役です。
これは身分としてはれっきとした土佐藩上士です。

水を得た魚のように、弥太郎は開成館の長崎商会で、外人たちと軍艦や武器の買い付けや、土佐物産の輸出の商取引を次々と成功させます。

その長崎には、やはり土佐藩出身の坂本竜馬がいます。
慶応3(1867)年4月、弥太郎の働きかけで、後藤象二郎は、竜馬の「亀山社中」の経営を、まるごと土佐藩で引きとる。
同時に坂本竜馬の脱藩も許します。

この時点で、坂本竜馬の「亀山社中」は、土佐藩の商務組織である土佐商会の下位機構となったわけです。

要するにどういうことかというと、竜馬の「亀山社中」は、外国人商人をはじめ薩長など、幅広い人脈があり人手もあって営業力はあるけれど、カネと社会的信用がない。

一方、土佐藩直営の長崎商会は、資金と藩をバックにした社会的信用はあるけれど、人脈と営業力がない。

竜馬にしてみれば、伊予大洲藩から船を借りて揚々と海運業をしたいけれど、その資金と船を借りるだけの社会的信用がないわけです。なにせ竜馬は脱藩浪人であり、脱藩前も身分は一介の郷士にすぎない。

そこへ、土佐藩が長崎商会を作って乗り出してきた。
両者が手を握れば、双方にとてもメリットがあるわけです。

さらに竜馬は、剣術の腕前は北辰一刀流免許皆伝の腕前だけれど、勉強はまるでダメ。成績も悪かった。

亀山社中は、竜馬を慕って人はたくさん集まっているけれど、人を囲う以上、竜馬は彼らに飯を食わせなきゃならない。

ところが、このとき竜馬についてきていたお竜さんは、色気があって三味線はうまかったけれど、炊事洗濯は、まるでダメです。

竜馬の亀山社中は、設立と同時に資金繰りに悩まされていたというのは、まあ、あたりまえといえばあたりまえの話です。

さらに経営には、豪胆さだけでなく、智慧と緻密な計算が要求されます。

そこへ土佐藩が進出してきた。藩の長崎商会は、土佐の物品を売らなきゃならないし、外国人から兵器も買いつけなきゃならないけど、なにせ人脈がナイ。

しかもそこにいる岩崎弥太郎は、子供の頃からの知己であり、頭もよく、算術にも通じている。

両者が手を握るのは、あるいみ当然の流れでもあったわけです。

で、亀山社中は、土佐藩のものとなった。
経営は、土佐藩長崎奉行の岩崎弥太郎がみます。

竜馬たちは、土佐藩長崎商会の営業部隊として海援隊を名乗る。

状況が整うと、竜馬は早速土佐藩の信用で、伊予大洲藩から「いろは丸」を借り受け、この船で意気揚々と、海援隊の隊士たちを乗せて、長崎から大阪に向けて出航します。

ところが、この「いろは丸」が沈没してしまう。。

「いろは丸」という船は、45馬力、160トンといいますから、外洋船舶としては、ほんの小さな船です。

ようやく瀬戸内海に入って、静かな波の中を航行中、紀州藩船の明光丸(150馬力、887トン)と衝突してしまう。

船の大きさの違いを考えたら、大型トラックと原チャリの事故のようなものです。
「いろは丸」は、あっという間に沈没してしまった。

衝突事故の非は、明らかに紀州藩の明光丸にあります。

しかし、相手は徳川御三家の紀州藩です。

竜馬は賠償請求の交渉出向くにあたり、「紀州藩と一戦交える覚悟ゆえ、万が一の時は妻をよろしく」と手紙に書いています。
家格の違う交渉事は、それほどの難事だったのです。

ところが、竜馬の必死の交渉が、なかなか進まない。

そもそも家柄を重んじる紀州藩です。
たかが郷士の浪人者風情に膝を屈するわけにはいかない。

だいたい普通に考えて、この手の緻密交渉事に、竜馬のような大風呂敷タイプは、やや不向きです。

これでは話にならないと、竜馬に代わって弥太郎が交渉役を交代します。

なんと弥太郎は、この難しい交渉を、もちまえの剛腕で、またたく間に紀州藩に非を認めさせてしまった。

このあたりの状況を考えると、弥太郎が実に学力が高かったこと、土佐藩をバックに交渉できたこと、当時の武士にしてはめずらしいほど、算盤勘定が巧みだったことなどがあげられるかもしれません。

あとは紀州藩の支払うべき賠償金の額を決める交渉だけです。
弥太郎は、続けて紀州藩と、詳細の調整に入ります。

同じ頃、長崎に帰った竜馬は、もちまえの大風呂敷を発揮して、後藤象二郎に会って、政権を朝廷に返す案である「船中八策」を披露します。
こういう政治的というか、大風呂敷は竜馬の得意な世界です。

案を聞いた後藤象二郎は、すぐにこの案の凄みを理解した。

幕府が政権を朝廷に返納することで、将軍家は一大名となっても新政府内での発言力を温存できる。
さらに薩長の討幕の理由もなくなる。国内の治安を復活させることができる。
欧米の軍事力(海軍力)に対抗するには、何より国内での戦費の流出を防ぎ、諸藩が一致して新政府を打ち立て、列強国に対抗しなければならない。

竜馬の船中八策は、まさに一石が二鳥にも三鳥にもなる妙案だったのです。

後藤象二郎は、すぐにこの案を土佐藩の前藩主である山内容堂に進言します。
上洛した容堂は、10月3日には、この案を将軍に大政奉還の建白書として提出。
同月15日には、そのまま大政奉還が実現した。

こう書くと、船中八策が、そのまま大政奉還を企図したもののように聞こえますが、船中八策の前文は、以下のものです。

~~~~~~~~~~~~~~
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及および天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新たに至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。
~~~~~~~~~~~~~~

要するにこの竜馬案は、ある意味、竜馬の新時代向けての大風呂敷、青写真です。

これを後藤象二郎やは、将軍家ご安泰のための妙案として活用したわけです。

別に竜馬を否定するわけでもなんでもありませんが、当時、薩長と徳川の争いは、下手をすれば世をふたたび戦国時代のような群雄割拠の時代に逆行させてしまう危険さえあり、刀を抜いた刃傷沙汰も日々あちこちで繰り返され、外からは欧米列強に狙われるという、非常にややこしい状態にあったわけです。

そうした中にあって、施政者たちの最大の関心は、「万機口論に決すべし」などという理想論ではなくて、いかにして国内の安定化を図るかにあった。

その問題意識に対して、船中八策の「天下の政権を朝廷に奉還せしめ」が、まさに「これだっ!」となったわけです。

決して竜馬が大政奉還を実現したわけではない。

このあたり、司馬遼太郎の「竜馬がいく」では、主役の竜馬をひきたてるために、やや竜馬の貢献を、特別扱いしていますが、事実は、竜馬の大ホラの中に、まさに天下の太平を願う施政者たちの心を動かすものが、含まれていた、ということです。

一方、いろは丸沈没事件の方ですが、弥太郎の交渉によって、12月、紀州藩はついに賠償金の支払いに応じます。その額なんと7万両です。

その報告が土佐藩にもたらされたとき、京にいた竜馬は、この知らせを知らないまま、近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺されてしまいます。

この頃になると、長崎よりも天下の台所に近い神戸の港が、外国との商取引の中心地となります。
竜馬を失った長崎の海援隊はそのまま分裂解散し、翌、明治元(1868)年4月には、土佐商会の長崎支店も、閉鎖されます。

この稿は、弥太郎の物語なので、竜馬のことはほどほどにしておきたいのですが、ついでですので、竜馬暗殺についてのボクの私見を書いておきます。

真実はわかりません。
ただ、竜馬暗殺については、時期を考えると、下手人は紀州藩の人、もしくはその関係者だった可能性が高いのではないかと、ボクは見ています。

犯人は見廻組だとか、新撰組だとか、いろいろな説があるけれど、もし、治安を取り締まる見廻組や新撰組がやったなら、彼らは、たからかに竜馬のお命頂戴つかまつったと、宣言するか、あるいはちゃんと竜馬殺害を自分たちの「手柄」として記録したはずだと思うのです。

また尊王攘夷派にとって、開国を図ろうとする竜馬が邪魔だったという説も、この時点でなぜ竜馬なのかの理由にならない。

唯一、この時点で竜馬を殺害しておかしくない位置にあったのが、紀州藩なのではないかと思うのです。

なにせ、竜馬のあやつるオンボロ船を沈没させたくらいのことで、紀州藩は7万両もふんだくられたのです。
紀州藩士にしてみれば、たかが浪士風情があやつる小舟ひとつで、藩を追い込むなど不届き千万です。これは憤懣やるかたない。

しかし、オフィシャルな席で藩のお偉方と交渉している岩崎弥太郎は殺すわけにいきません。
そんなことをしたら、藩対藩のいくさになってしまいます。

ところが、実際に船をぶつけた張本人の坂本竜馬が、不用意にも京にいる。
この時点で、紀州藩の若者たちにしてみれば、竜馬斬るべし!となったとしても、なんら不思議はないし、もしそうであれば、竜馬の暗殺者がいったい誰なのか、いまだにまるでわからないということも、納得できます。
まあ、これはあくまでも、ボクの思いです。


さて、話を戻しますが、紀州藩との難しい交渉事を終わらせた岩崎弥太郎は、この頃になると、外国人商人たちとの交渉窓口も、長崎よりも神戸の港の方が、中心地になっていたころから、長崎の土佐商会をたたんで、大阪の土佐商会に移ります。

そして土佐藩の収入源となる貿易の管理を取り仕切り、格式馬廻役に昇進。
さらに明治3(1870)年には、土佐藩の少参事に昇格して、大阪藩邸の責任者になっています。

少参事というのは、藩の中老格です。
地下浪人の身分から異例の出世を果たしたのです。

翌年、明治新政府は、各藩が発行していた藩札を廃止して、全国共通の通貨である円の発行の検討にはいります。

要するに藩札という諸藩が発行していた通貨が、ただの紙切れになるわけです。
このウワサは、またたく間に広がり、土佐藩でも藩札が大暴落をはじめる。

ところが、このとき弥太郎は、10万両の資金を調達して、信用のなくなった藩札を安く大量に購入します。

そして、明治4(1871)年7月、廃藩置県令と同時に藩札廃止令が発せられ、藩札は明治新政府が当時の実勢相場で買い取ると宣言した。

安く買い叩いて仕入れた藩札です。
この藩札を時価で政府に買い取らせることで、弥太郎は巨万の富を手に入れます。

さらに廃藩置県にともない、各藩がそれぞれ即時にやっていた商取引会社は、事実上解散を命ぜられます。

弥太郎は、手にした富で、個人商店、九十九商会(つくもしょうかい)を設立し、土佐藩の借金を肩代わりするカタチで、藩所有の船3隻を買い受け、高知~神戸航路のほか、東京~大阪間の海上輸送業をはじめます。

ちなみに九十九(つくも)というのは、土佐湾の別名です。

当時の海運業最大手は日本国郵便汽船会社です。
これに対し弥太郎の九十九商会は、新興海運会社でしかありません。

しかし、ただ乗せてやると威張っている郵便汽船に対し、弥太郎は店の正面におかめの面を掲げ、ひたすら笑顔で応対することを心がけた。

店員で武士の意識が抜けずに笑顔の出来ない者には、弥太郎は小判の絵を描いた扇子を渡し 「お客を小判と思え」と指導したそうです。

こうして営業を順調に伸ばした弥太郎は、明治5年は九十九商会の称号を、三川商会に改称。これは経営幹部である川田、石川、中川の「川」の字にちなんで付けた名前です。

そして三川商会の「三」を意匠してマークにしようと、土佐藩主であった山内家の三葉柏と、岩崎家の三階菱の家紋を合わせて、三菱のマークを作ります。

そして明治6年3月には、社名も三菱と改称した。

三菱マーク


明治10(1877)年、西南戦争が起こると、もともと西日本に強い三菱は、軍用船需要を独り占めにし、ここでなんと1300万円という巨額の運送料収入を得ます。
更に戦後の軍需品処分でも大きく儲ける。

明治18(1885)年2月、弥太郎は50歳でその生涯を閉じます。

そして、極貧から学問ひとつで身を起こし、度重なる試練に全力であたった剛腕実業家岩崎弥太郎の子供たちである三菱は、とにもかくにも「お客様を第一にする」という哲学をもって、明治、大正、昭和と大発展を遂げます。

そしていまや三菱商事、三菱重工、三菱東京UFJ銀行の御三家と、他に三菱化学、三菱地所、三菱電機、三菱自動車、菱食など、グループ49社の日本を代表する名門企業グループとなった。

たとえば菱食は、三菱グループの中では小さな会社ですが、なんと国内の食品流通VANのネットワークを押さえています。
さらに日本が輸入する食品原材料については、なんと7割のシェアを持っている。

三菱重工の作る自動車は、巷間、いろいろ言われるけれど、乗ったらわかるけど、とてつもなく性能が良い。

東京駅の皇居側、丸の内界隈というのは、俗に「三菱村」と呼ばれていて、ここの土地・建物はほぼぜんぶ三菱がオーナーです。

ちなみに東京駅のすぐ前には三菱商事の本社ビルがあります。
この建物がすでに老朽化し、手狭になっているからと、実は、ずいぶん前に三菱商事は本社を品川に、立派なビルを作って移転した。

そしたら、クレームがついたのです。

もともと三菱の本社が東京駅のスグ前にあることで、地方の有力者やお金持ちが上京したときに、駅を降りて、あるいは帰り際に、ちょこっと三菱商事に顔だしすることができた。

それが三菱商事の本社が品川に引っ越したら、いままでなら東京駅から電車に乗る前に、ちょこっと三菱商事に立ちよれたのに、今度はいちいち品川まで行かなくちゃならないから面倒くさいと、あまりお客様が訪ねて来なくなってしまったというのです。

新たに作った本社ビルは大事にしたいし、さりとてお客様はもっと大事です。
そこで、三菱商事が何をしたかというと、新幹線の駅を品川に作った。
新幹線を品川に停めちゃったのです。

いま新幹線が品川に停まるのは、実はそういう背景です。
さすがは天下の三菱商事です。

こういうことを横暴だとか言わないでください。
それだけの資金力と社会的影響力を持つ企業体を国家が持たないことのほうがもっと問題です。

GHQは、戦後、財閥を解体しましたが、国家を基礎とする企業が政治的に大きな力を持つというのは、実は国民にとって、非常に良いことです。

なぜかといえば、国家の発展と会社の発展がそのままイコールだからです。

すくなくとも、外国の言いなりになって、国益よりも外国の利益に手を貸すような企業より、これははるかにましなことです。

財閥があるということは、実は国家にとってはたいへんなメリットです。

だからこそ「復讐の意図」をもって「日本を解体」しようとしたGHQは、財閥解体を命じたのです。

戦後左翼は「軍と結びついた財閥があったから戦争が起こった」いうけれど、これは明らかな「まやかし」です。

少し考えればわかることです。
国が負ければ、いちばん被害を被るのは財閥です。

さて三菱ですが、品川の本社ビルのまん前に新幹線の駅を作ったものの、やはり上京したお金持ちさんたちにとっては、そこでいちいち降りるのは面倒くさい。

とまあ、勝手なものですが、それでどうなったかというと、三菱商事は、もとの東京駅前の本社ビルを復活させてしまいました。
つまり、本社の主要機能を、もとの東京駅前のビルに戻したのです。

天下の三菱商事ですら、そこまでしてお客様を大切にする。
この姿勢は、見習うべき点だと思います。

そういえば、ボクが社会人なりたてのころ上司から、お客様のことを「キャク」と呼ぶことをきつくたしなめられたことがあります。

「キャクじゃない。お客様と呼べ」というのです。

単に言葉だけの問題じゃないのですね。姿勢の問題なのです。
いまにして思えば、とても良いことを教わったと感謝しています。

それにしても、これだけの立志伝中の人物である岩崎弥太郎を、テレビ番組で貶め辱めるというのは、なにやら日本を解体しようとする支那の陰謀くさくて、嫌ですね。

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「龍馬伝」の岩崎弥太郎の描写にクレーム

そういえば「竜馬伝」で岩崎弥太郎役をやっている香川照之という役者、支那で制作した売国映画「南京!南京!」に酷薄無情な日本軍人の役などやっていましたね。。。



日本の心を伝える会 日心会

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コメント

ぷれっくす

No title
フィクションとはいえ史実を元に作られたのですから、事実関係には厳密でなければいけないですね。
あくまでも演出、解釈の範囲に留めなければ。

実在の人物をタイトルに使いながら史実に無い物語を見せらては興ざめと言うものです。

元組合活動家

No title
武道経験者として龍馬伝の殺陣についてのコメントありましたので、私もひとこと・・そもそも時代劇の殺陣についてはあくまでもきれいに「演技」することが前提であり、真剣を前提のいわゆる「古武道」とは異なります。NHK大河ドラマとはいえ、膨大にお金をかけた黒沢映画とは違いますので、それにクレームをつけるのはコクというものです・・参考までに・・

murarin3

弥太郎や象二郎はそんなにひどかったですか?
龍馬伝での弥太郎も象二郎も非常に魅力的に演じていた作品だと思ってみていました。特に終盤は完全に龍馬より魅力的に演じていたと思います。高杉晋作役と合わせこの3人が本作品の価値を高めていたと思います。確かに小山ゆうと武田鉄也の「おーい龍馬」との類似性は否定できませんが、決して弥太郎を単なる狂言回しとして描かれていた作品とは思えませんでしたし、象二郎についても前半あえて残虐的な側面を強調することで、最後を感動的に収束させる技巧だと思って見ていました。史実を追うというよりもフィクションとしてトータルの作品として楽しめばいいのではないかと感じた次第です。

-

No title
はじめまして。
よかった同じようにNHK歴史ドラマが異常に感じている人がいて。昔の日本人が礼儀正しく綺麗好きで周りを不快にさせない民族なのはおばちゃんにおじいちゃんみてればわかるはず。その祖先はもっと厳しく子孫の為に命を削り日本のため家族の為自分が恥ずかしくないよう振舞う日本人が日本人であるのにあの幕末活躍した人間があまりにも酷過ぎる。かわいそうでなりません。昔の人の写真みればわかるはずです。
土佐英信流習ったことある者にとってあの殺陣もひどい。刀の扱い方が幼稚すぎます。昔の日本人は刀は大事に扱いました。

共通一次世代

No title
>偽善かもですが、悪いとこは悪いと思いますけど、他の国の良い所は良いと認める気持ちも持ちたいです。

私たち日本人はそういう気持ちはずっと持ち続けていると思います。

昔も今も。

その日本人の「優しさ」を食い物にし、「優しさ」に尖った刃物を何度も何度も気が狂ったように突きつけてくるのは誰であろう反日の連中です。
彼らは巧みににその「日本人の優しさ」という甘い部分を突いてきます。おそらく、スキがあったらすぐに丸め込まれ、相手の手のうちにハマり、相手の作ったアリ地獄に陥るような状況に追い込まれかねかないほどに、今の反日勢力は「やり方」が姑息で、練り上げられていて、社会を幅広く覆い尽くしています。

「いいところもある」のは殺人犯にだって言えることです。
いいところがあるから許す。この間違った判断が被害を更に大きく甚大なものにさせてしまいます。

あのコンクリート殺人の犯人も結婚し子どもが生まれ、家庭を持っているそうですね。自分の家族には温かい父親でいるでしょう、おそらく。しかし、根本は変わっていないと思います。許すべきではないと私は思います。

このような「理不尽」が、もし自分の間近に起こったら、私は絶対に耐えられません。

悪意を持って行われることに対して、ぜったいに甘い態度を見せるべきではないと思います。
「反日」に対しても同じです。「反日」は完全に悪意を持ってなされる行為です。

この日本をどうしても守りたいという思いがおありなら、「甘さ」を捨てなくてはいけない。もうそこまでの「危険水域」に入ってしまっていると思っています。

仰っている言葉は、最も反日に利用されやすく、最も反日に大喜びされてしまう言葉です。

いわば、反日連中が十八番で使う「人権」という言葉に敗北し、また、自分を少しでもよく見せたいとする自分のエゴにも負けてしまった、それくらいに思ったほうがいいと思います。

振り回されない「強い心」が今一番必要だと思います。

どろ丸

はじめまして
はじめまして。
宮崎の口蹄疫の一件からこのサイトの存在を知り、日本の政治に関心を持たなくてはならないのだな!と気付かされました。
とても勉強になってます。

今回は「龍馬伝」についての記事と言う事で、弥太郎の本当の生涯を知れてとても面白かったです。

確かに史実とかけ離れていますが「ドラマ」を描く上では仕方ない部分だったのもあるのではないでしょうか。
主人公を美化するのはよくある事ですし、そのままの弥太郎にしたら「弥太郎伝」になっちゃいますし。
それにまだ最終回じゃないので、これから弥太郎の大どんでん返しが始まるんだと思います。
それに劇中でも龍馬や弥太郎の家族が弥太郎の事を「お前は本当は心持の強い奴(若しくは、心根の優しい奴)」と言っています。
駄目男に仕立てたいならそんな台詞カットなんでは。。。

個人的にはタダの郷士だった龍馬、そしてあんなどん底暮らしだった弥太郎ががここまで変える事ができたんだから、一般人の皆さんも頑張ればここまで変えられるんだ!だから、今のクソ政治の真実をなんとか知って変えていきましょう!ってメッセージのようにも思えます。

街中にヤシの木?みたいなのが生えてるのが個人的には謎ですが、100%反日みたいなものでは無いと思います。

私にも言えますが表だけで一体何が分かるというのですか。

大切な事を隠す世の中で本当の事を見つけるのは私含めて政治に関して若輩者な人にはとくに難しいかもしれません。
でも一人の人間として、日本に生まれたからには日本を大事にしていきたいと、私は「龍馬伝」やねずきちさんのサイト等を見て思いました。
偽善かもですが、悪いとこは悪いと思いますけど、他の国の良い所は良いと認める気持ちも持ちたいです。

みかん

龍馬伝は見なくなりました。
この記事を読むまでもなく、龍馬伝は最初の数回で見る気がしなくなりやめました。
参議院選挙の民主党の菅さんのCMがやたらに流れ、龍馬の名言、日本を洗濯するが使われてました。

やたらに民主党が龍馬だの明治維新だのを語るので嫌気がさし、じゃあ龍馬伝もそのプロパガンダかと思えてきました。
そもそも脚本がつまらない気がします。

漠然と感じてたことが、そうだったのかと思えました。

マトリックス

漫画お~い竜馬
あの弥太郎のイメージは武田鉄矢原作の漫画お~い竜馬とそっくりだと思いました。
大福帳を腰にぶらさげていた姿を見たとき確信しました。
漫画では確かそろばんを腰にぶらさげていました。

higurashi

すっきりしました
岩崎弥太郎初登場の際、テレビガイドという雑誌の特集で人物の写真と俳優のコメントを見たのですが、『貧乏な設定とはいえ、ここまでするか?と・・・』と、本人も驚いた様子がありました。
俳優さんは仕事と割り切って我慢したのかもしれませんが放送局側の意図が見えました。竜馬伝は岩崎弥太郎登場シーンの確認をし、不快感からテレビを切りました。
NHKは本当に駄目ですね。先日、息子が偶然点けた子供番組は最悪でした。
小さな女の子が、友達(人じゃなく、サボテンと椅子ですよ!)とおやつのケーキ?を分けるというシーンでした。
サボテン「仲良く『さんぶんこ』しようか」
女の子「さんぶんこ?」
サボテン「2人で分けるときは半分こ。3人だから『さんぶんこ』」
『さんぶんこ』なんて言葉使いませんよね。それに女の子の友達が人でも動物でもないことにも強い不快感を感じ、息子に話してからテレビを消しました。
母は「たかが子供番組に目くじら立てなくても・・・」と言いますが、反日仮面ライダーといい、ダイエットするドラえもんといい、おかしな番組が多すぎて、テレビなんかに子供を任せてはいかんと、逐一、一緒に見た違和感について息子と話し合っております。

共通一次世代

No title
>山内家の三葉柏と、岩崎家の三階菱の家紋を合わせて、三菱のマークを作ります。

私も名無しさんと同じく感動しました。
 
いつごろ行ったか、はっきりと記憶してないのですが、一度、岩崎弥太郎の生家を訪れたことがあります。
入館料を取ることもなく、「ちょっとお邪魔しますね。」という感覚で覗いた生家。高知の「安芸」という、海にも山にも近いのどかな田舎から、日本三大財閥、三菱の創始者が生まれたことが、とても不思議な感じがしました。

岩崎弥太郎というと、弥太郎の孫で、昔、テレビで知った「エリザベス・サンダーズホーム」の沢田美喜さんをすぐに思い出します。偽善でない本当の行動家。強い方だなぁと思います。弥太郎の血がやっぱり流れている方だなぁと感じます。

エントリーを読んでると、「仰げば尊し」の歌詞にある「身を立て、名を上げ、やよ励めよ」という言葉も頭に浮かびます。
昔の人は文句なく強かった。そう思います。気力、体力、知力、ふんだんに使っていたんだと思います。
今の政治家が「自分は龍馬の生まれ変わりだ!幕末の志士だ!」などとなぞらえるのがバカバカしく聞こえます。

ドラマはもうほとんど見なくなりました。
すべてが「プロパガンダ」」に成っていると思えて仕方がなくなってきました。俳優さんたちもそれにのめり込む。プロパガンダに加担させられ、自身も洗脳されるのだと思います。

特定の人間が特定の思想を以て制作される「歪んだ、作られた歴史」に比べて、「現実の歴史上の人物」から、今を生きる人たちに繋がる「系図」はとても興味深いです。

【系図でみる近現代 第51回 岩崎弥太郎・弥之助・久弥・小弥太】
http://episode.kingendaikeizu.net/51.htm

【系図でみる近現代 第16回 エリザベス・サンダースホーム 澤田美喜 岩崎久弥 安田祥子
http://episode.kingendaikeizu.net/16.htm

思わぬ繋がりがあってほんとうに面白いです。
澤田美喜さんの息子さんと結婚されたのは、妹の由紀さおりさんと童謡を歌っている安田祥子さんでした。

こうして脈々とつながっていくのですよね。

愛信

「サポーター会費、900人分水増し」民主・下条議員元秘書らが告発状
「サポーター会費、900人分水増し」民主・下条議員元秘書らが告発状
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100903/crm1009032355022-n1.htm
 告発状によると、下条氏は平成17年春、
秘書らに指示し、支援企業である建設会社
の社員ら約900人分の名義を借りたうえ
で、党のサポーターとして登録。

不正に人数を水増しした党・サポーターが
日本の総理大臣を選択する民主党代表
選挙に参加する事は公職選挙法違反である。

【経済・政治の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj.cgi
【政治・経済タイトル一覧】最新版はこちらをクリックして下さい。
[民主党代表選挙情報]
http://www.aixin.jp/smjh/sjmenu.cgi

裸族のひと

No title
>北朝鮮との軍事危機を捏造する日米マスコミのインチキにだまされる国民はもういない。
>北朝鮮の核開発や拉致を惹起させたのは、日米軍部の核密約や軍事挑発や果てのない軍拡だ。

釣れますかぁ?在日か北朝鮮の工作員の方でしょうか。今どき北朝鮮を擁護するなんて・・・。おまけにそれに脈絡も無くスレ違いのコメント、全くネチケットもなっていませんねぇ。


三菱の創業者に限らず、日本の偉大な人物はことごとく貶めたいのでしょうね。昨今の教科書は、昔と違って何故か日本の偉人が少なくなっているらしいですし。だいたい、三菱の社員なら社員教育で岩崎弥太郎を知っているはずだから、三菱の関係者から非難や抗議が有っても良さそうな気がするのですが・・・。

とにかく、日本の子供達には日本の偉人達についてもっと教える事が必要だと思いますね。そうすれば歴史にも興味が湧くし、先達が守ってきた日本という国を、自然に愛する事ができるのではないでしょうか。

-

追加ですいません
三菱のマークは柏でしたか、山内家のマーク。
やは郷土愛があったんですね。(感動)

-

司馬遼太郎
私は司馬遼太郎でしか、岩崎弥太郎の存在は知らないんですが、あまりいいイメージで書かれてませんでした。
竜馬さえ光ればまあ、よかったからああなったんだろうですが。同じく、福沢諭吉も軽薄才子だったというような表現のせいかあまりいい印象はありません。
やはり、歴史ものはもっとたくさん、読むべきだと思いました。たった、一作読んだだけで人を評価してはいけませんね。もっとも、司馬遼太郎読まなきゃおそらく岩崎弥太郎の存在も朦朧としてわからなかったと思いますが。

twister

大変参考になりました!
いつも拝見させていただいています。
今回の岩崎弥太郎の生涯については知らないことばかりでとても勉強になりました。
また面白かったので一気に最後まで読んでしまいました。
秀才であり武士の気概もしっかり持っているというのは人物像としても魅力的だと感じました。
大河ドラマの描写はちょっとかけ離れすぎて別人みたいですね。
むしろ竜馬と対象的な人物像はそのまま演出に取り入れていけばもっと両者を光らせることができるように思えます。
格好の描写にクレームがあったというような話は聞いていましたが、それ以上に、主役ではないとはいえ登場人物が史実から完全に離れてしまうのは演出の範疇を出てしまっているので作品としてもったいないです。
とはいえ当時の時代や人物に興味を高めてくれていますし、ひとつの時代の切り取り方だと考えて楽しんでいます。
大河ドラマでは投獄されたときに商人から学ぶ辺りから見たのですが、本記事でそこに至るまでの動機や生い立ち、土佐の歴史的背景までたどっていくと、岩崎弥太郎自身の持っている行動力や指向性が終始一貫していて、強い信念と誇りを持っている人物であることがうかがえます。
紀州藩説についても初めて聞きましたが、下手人が敵対している立場なら何らかの形で後世に伝わるでしょうから、証拠を残すことが不名誉だったり都合が悪い立場というのはあり得る線だと感じました。
時間がとれる時期になったら岩崎弥太郎についてもっと多くの文献に触れてみたいと思います。

手取川

我が先祖も郷士
 母の実家、私のお里は代々郷士をしておりました。
若い時家系図を見せてもらいましたら、歴代の名前の横に郷士と書いてあったんです。 加賀藩は幕府に楯突くようなことが無かったから、年貢を納めれば後は自分のもの。 幕末にはその村の庄屋の代わりをしていたとか。  明治になって武士の制度が無くなってからは禄高の低い武士たちは苦労をしたのですが、里は田畑がそのまま手元に残ったので食うに困らなかったそうです。  また資金もあったため、後年、駅前で米屋を営んでいたと母が言っておりました。 お里のおじいちゃんの自慢は銀のキセルだったとか。 村の貧農の子供たちには漢字を教えていたとも。 良い時代だったんですね。  加賀藩も手を出せない地域がありました。能登に天領があったんです。 もう一つは富樫一族、 前田家の家来の中には富樫の名前はありませんから。 
 母の妹、私の叔母は能登の元大庄屋に嫁ぎました。今も覚えているのは玄関の天井に籠がぶら下げてあったことです。 これは田んぼの見回りに使ったとか。 鴨居には槍とか長刀なんかも。 叔母の家の近くに小学校があるんですが、元は叔母の家の敷地だったそうで、町へ寄付したそうです、、その代わりに家の横に道を作らせと。それもこれも昔の話です。

スカーレット

取り上げてくださり、嬉しいです!
幕末が大好きで、「龍馬伝」も関心を持ってるのだけど、
なにしろ、岩崎弥太郎の描き方は、決して、見る人が、カレに好感を抱かせないですね・・・。
でも、香川照之の演技は怪演だと思います。
で、今や三菱の人達も、セールスの時に「創設者はかご売りでして・・・」と挨拶するそうです。
あの「鬼が来た」も見ましたが、確かに、嫌な日本兵を演じていました。
彼は日本の映画「劍岳」では、日本人の山の道案内役を、上手く演じていましたよっ。
俳優だから、色々な役を演じでしょうが、一つとって、反日俳優だとは言えないのではないでしょうか?

確かに「龍馬伝」出だしの風景からして、雰囲気が中国ぽいです。
感性が中国的な雰囲気です。

また以前、横浜港の様子を描くのに、中国ロケをしていたこともありました。

最初の頃の土佐の上士・下士を描いた際も、上士の描き方が、NHKお得意の、戦前の日本兵そっくりな描き方で、不愉快でした。
後藤象二郎の描き方も酷くて、今まで知っていた、上の写真のような性格には描かれていませんね。

全ての事に、フィルターが掛かっている感じはします。
でも、真実の弥太郎の姿を知って、すっきりしました。

犬HKのサブリミナル演出
トルコ軍艦エトゥールル号遭難と救助の美談は、日本・トルコ友好の原点とされ、
その120年にあたる今年は「トルコにおける日本年」と位置づけられていますが、
犬HKはそのことを十分に報道しないばかりか、当てつけがましくも
『トルコ軍行進曲』を龍馬伝では岩崎弥太郎登場場面のBGMに使用しております。
これに『悪意がない』などとは、良識ある日本人には決して思われないことでありましょう。

s

No title
沖縄海兵隊も日本軍部も国を破壊する腐ったゴミだからいらない。
代表選で小沢一郎が有利な状況になり、
海兵隊はいらないと発言した途端に、
アメ公が9月3日、「北朝鮮が核実験をするかも」と慌てて発表した。
「軍事危機を捏造する日米マスコミのいつものインチキ」
北朝鮮との軍事危機を捏造する日米マスコミのインチキにだまされる国民はもういない。
北朝鮮との軍事危機を捏造する日米マスコミのインチキにだまされる国民はもういない。

北朝鮮がミサイル発射や核実験を行った翌年には、米国からの援助が増加。(春名名古屋
大学院教授)日G09・4・9
http://esashib.hp.infoseek.co.jp/teposodo01.htm
【ワシントン時事】米タフツ大学のイ・ソンユン講師は2日までに、米外交専門誌フォーリ
ン・アフェアーズ(電子版)に寄稿し、北朝鮮が建国記念日前日の8日や朝鮮労働党創建日
の10月10日に新たな核実験を行う可能性があると指摘した。

それがどうした!

北朝鮮の核開発や拉致を惹起させたのは、日米軍部の核密約や軍事挑発や果てのない軍拡だ。
北朝鮮の核開発や拉致を惹起させたのは、日米軍部の核密約や軍事挑発や果てのない軍拡だ。
北朝鮮の核開発や拉致を惹起させたのは、日米軍部の核密約や軍事挑発や果てのない軍拡だ。

幕末大好き

No title
 今回の岩崎弥太郎に関する記事ですが、大変勉強になりました。ねずきち様の仰る通り、NHKの『龍馬伝』が、日本人を貶める意図で製作されているとしたら、誠に残念な限りですが、個人的には、これはあくまでフィクションとして楽しんでおります。
 恐らくですが、『龍馬伝』を観て、高知に観光で訪れた方に対して、現地の観光ボランティアガイドの人達は、ドラマの岩崎弥太郎と、実際の岩崎弥太郎とは、随分違うという事は説明されていると思います。
 また、このドラマを切っ掛けにして、岩崎に興味を持った方は、実際に書籍で弥太郎のことを調べると思います。
 ただ、ドラマを史実そのものであると受け取ってしまう方もいるので、そこは少し心配です。
 岩崎役の香川照之さんも、「過剰な演技」であるとか、「反日俳優」であるとか、様々に批判されていますが、私は、香川さんは素晴らしい俳優であると感じています。決して上手い俳優さんではありませんが、味のあるいい役者だと思います。
 あまり、中国の反日プロパガンダのような映画には、今後は出演して欲しくないと願うばかりです。
 今回の龍馬伝は、砂塵の舞う中、埃だらけの人間たちが多く登場し、今までにない大河ドラマになっていますが、これも一つの幕末時代の解釈と見れば、どうでしょうか?
 

No title
岩崎弥太郎を極貧でひねくれた性格に描くのは
龍馬という人物を鮮やかに描くための手法です。
たとえば、シャーロック・ホームズという人物を描き出す為に
ワトソンはほとんど推理の出来ない人物になっています。
語り手が凡庸、主人公が鋭敏というパターンは
小説やドラマでよく使われる手法です。
敢えて反日というのは
単なるこじつけにすぎません。

-

日本人の気質を蔑む演出
朝鮮の日本統治前の風俗が汚いという日本側の評に対し、日本の江戸時代もこんなに汚かったんだよと日本人に刷り込もうとしている意図が龍馬伝には見えます。
NHKに抗議のメールをしてみましたが、あの煙たい空気はどこの国かと思わせる最低の演出です。きれいな海岸の岩陰から煙が立ち上っている様は滑稽でした。

ROM専

香川照之といえば「鬼が来た」というカンヌでグランプリとった中国映画にも出てましたね。お得意の残虐日本兵の映画ではあるんですが、ちょろっとしか出てこないが諸悪の根源で裏で工作してるであろう謎の中国兵が八路軍っぽいんですね。残虐日本兵部分は間違いにしても日中戦争の縮図のように思えてくる興味深い映画です。手続き上の問題とされてますが中国国内では上映禁止の映画です。

愛信

宇宙ロマン、大阪でも 「はやぶさ」カプセル、17日から西日本初公開
http://sankei.jp.msn.com/science/science/100902/scn1009021757013-n1.htm
宇宙航空研究開発機構は2日、小惑星
探査機「はやぶさ」のカプセルなどの部
品を、大阪市の近鉄百貨店阿倍野店で
も一般公開すると発表した。西日本での
公開は初。

日本の科学技術を救った詳細は
【はやぶさの名前の由来】をカッチとね。
民主党の業務仕分けは「はやぶさ」の関連
予算を大幅減額しました、あの蓮舫の二番
ではダメなんですかで有名に成りました、
そして研究開発を出来なくして、今までの
研究成果と巨額の開発委託料を朝鮮に
渡す目論見が大きく外れたのです。 
はやぶさの帰還は日本科学技術を救った
のです。 ありがとう「はやぶさ隼」
【旅の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/tabi/tabi.cgi
【旅タイトル一覧】最新版はこちらをクリックして下さい。

一読者

No title
先日見た、龍馬伝の一コマを書きます。

宿屋で、おりょうさんが釜焚きをしている風呂に入る竜馬。
これは良くある場面です。
すると、竜馬が無言で竜馬をのぞいている視線を感じる。
そちらを見ると、以前からの知り合いの侍が竜馬をじっとのぞいている。竜馬は懐かしさに、風呂を飛び出し、その侍と裸のまま水浸しで抱き合う。
と、ここまで見て、あれ?と思いました。
竜馬は宿屋にいるわけで、その侍も、宿にたずねてきたわけだから、宿の人間に竜馬のことをたずねているわけで、宿屋の人間は、普通、少々お待ち下さいというものではないでしょうか?
まさか、たずねてきた人がいきなりずかずか風呂場に押しかけたら、宿の人はお待ち下さいと追っかけてきませんか?
また、ちゃんと見ていないので、この時期の竜馬の設定が分かりませんが、もしすでに、竜馬の手配書が回っている時期だったら、宿の人は竜馬の所在は言わないだろうし、もし勝手に上がり込んだら、大きな声で竜馬に注意するだろうし、第一、ちゃんとした侍が勝手に宿に上がり込んで、無言で、男の風呂場をのぞき込むなど、あるのでしょうか?
その侍は、その後、竜馬と食事を共にするのですが、メシをぼろぼろこぼしながら食べています。しつけの厳しい侍が、そんな食べ方しますか?

書き出せばきりがありませんが、このドラマは、ほとんど全編、この様な調子で、まるで侍は、一年中精神不安定で、怒鳴りまくっている存在になっています。

だから、どうして日本人が、ふざけるなと言わないのか、不思議で仕方ありません。

プク

No title
侍が団子を食べながら歩いているシーンを見たときから、
侍を貶めていることが分かりました。

一読者

No title
先日、溝口健二監督の映画を見て、完成度の高さにびっくりすると同時に、こういう映画は、監督、スタッフ、役者まで、日本の文化へのかなりの素養がないと作れないとつくづく思いました。で、どうして、日本文化の素養のある人材を育てないのかと思ってしまったのですが、ふと思ったのですが、世界に侍を広めた黒澤監督は、生前、ずいぶん叩かれていましたよね。座頭市などで、素晴らしい演技をした勝新太郎も、さんざん叩かれましたよね。三船敏郎も、結構スキャンダルに巻き込まれていましたよね。娘は創価になってしまったし。
一方、全然面白くない、在日映画が、賞を取ったりしていましたよね。

なんか、長い長い計画を感じるのですが。

いかがですか?

sunbird

鋭い考察、興味深い。
 なんとなく、汚すぎる弥太郎にほんまかいな?と思いながら、洗脳されかけていたが??あまりに竜馬と、差付け過ぎで、あの頃こんな女みたいな竜馬がいたはずないし、とにかく、エンタテイメントといっても、ここまで来ると歴史の歪曲のレベルかもしれません。よく書いてくださいました。

1300

No title
NHKにとってはミツビシは最右翼の企業ですから目の敵なんじゃないですかね。
ミツビシの車叩きも実はそのあたりに根本があるのかもしれません。

コロすけ

No title
最後の動画の「公正中立のNHK」という言葉が大変皮肉に聞こえますね。
NHKが偏っているのは、主に報道、ドキュメンタリー系の番組かと思っていましたが、ドラマも偏っているとは…。

「龍馬伝」の敗因

補足
言い忘れましたが、前回のシーンでは、拷問にかけられた岩崎弥太郎が「龍馬が薩長同盟の仲介役をやっている」事をうっかり口走り、それによって龍馬の命が決定的に狙われる切っ掛けを作るなど、弥太郎が龍馬暗殺の引き金を引いた様な設定になっていました。

ちなみにNHKは、この砂塵ドラマを台湾や韓国へも輸出するそうですが、視た人は、日本は古くから砂漠化と禿山化が進み、人々は連日砂嵐に見舞われながら、水に飢えていたに違いないと勘違いする事でしょう。

「龍馬伝」の敗因

異常なまでにホコリっぽい「龍馬伝」の低視聴率
過去の視聴率を調べる事ができますが、「龍馬伝」の視聴率は、非常に低調です。

http://tv-audience-rating.seesaa.net/

最近では、13~15%台と振るいません。
個人的には、ハラハラドキドキで面白いと思って視ていますが、如何せんホコリっぽい番組です。
登場人物たちが歩くだけで、もうもうと砂塵が舞い、画面が砂嵐で見難くなるほどです。
私はじっとりとした京都の夏も、中国北部の空が黄ばんだ夏も経験していますが、この空気観は、“高温多湿”でジメジメした日本のそれではありません。
砂漠化が進む“中国西域”並みのホコリっぽさです。
それから、土佐の大殿様や後藤象二郎を、必要以上に冷酷非道の虐待好きの様に描いてしまい、子孫や縁の人が見たら心を痛めるのではないでしょうか?
龍馬の活躍は痛快ですが、思いやりに欠ける番組だと思いました。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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