昭和12(1937)年7月29日、北京の西50キロにある通州市において、数百人の日本人居留民が虐殺されました。
大東亜戦争のきっかけのひとつになったともいわれる「通州事件」です。
通州の日本人居留民は、日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生によって、世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。
支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみもなく、屍体までもいたぶった。
ようやくかけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状でした。
通州事件を、私達日本人は決して忘れてはいけません。
なぜなら、この事件は、一から十まで全て事実だからです。
以下は、その通州事件の体験者であるSさんの体験談です。
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【Sさんの体験談】
私は大分の山の奥に産まれたんです。
すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。
それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。
そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。
それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさんという支那人と出会ったのです。
このTさんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。
大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさんが私に「Sさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。
私は最初は冗談と思っていたので、
「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。
そのときは全く驚きました。
冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。
でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。
「Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。
それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。
それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさんは強い言葉で私に迫ります。
それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。
支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。
でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。
でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさんはそれを絶対に許しません。
自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。
それで仕方ありません。
私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。
長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。
私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。
そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。
通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。
通州事件の惨劇02

それは昭和九年の初め頃だったのです。
Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。
しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。
今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。
通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。
私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。
私はTさんと結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。
すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。
それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。
遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。
私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。
そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。
そして、商売の方もうまく行くようになりました。
Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
だから買う人にとってはとても便利なんです。
Tに頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
Tさんも北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。
この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。
ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。
そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。
私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。
それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。
そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。
何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。
Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。
そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。
只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。
私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。
そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。
だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。
私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。
そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。
するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。
するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。
日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。
そして安重根という人の話を語りました。
伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。
私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。
こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。
Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。
こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。
私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。
私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。
道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。
目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
私が日本人であるということは通州で知っているのはTさんの友人二、三人だけになりました。
日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。
そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。
大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。
この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。
その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。
行商に歩いていると日本人に出会います。
私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。
すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が、
「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。
最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。
特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。
私はあまり心配だから、あるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。
それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。
それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。
それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。
私はTさんには悪かったけれど、紙一杯にこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。
そして最後に用心して下さいということを書いておきました。
この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。
これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。
こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。
これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。
でも何も変わったことはありません。
これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。
このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。
昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。
そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。
日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で、
「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。
その当時のよく言われた言葉に、
「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。
私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。
支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。
こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。
しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。
そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。
私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。
三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。
私はびっくりしました。
それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。
しかし日本に帰るべくTさんが日本の状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。
そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって、
「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。
それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。
何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。
来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。
でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。
しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。
そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。
日本人の居住区にもよく行きました。
この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。
そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。
私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。
でもTさんはそれを許しません。
それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。
支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。
このときはとても悲しかったのです。
それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。
ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。
相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。
だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。
このことが大変悲しかったのです。
私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。
でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。
こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさんは一番心配していました。
Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさんも半分は日本人の心を持っていたのです。
それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。
一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、
「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」
と言うのです。
そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。
いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。
それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。
しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。
Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。
今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。
そして「危ない」「危ない」と申すのです。
それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。
六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。
だからといって逃げ出すわけにもまいりません。
そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。
それが七月になると、
「日本人皆殺し」
「日本人は人間じゃない」
「人間でない日本人は殺してしまえ」
というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。
鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。
そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。
支那人達が大騒ぎをしているのです。
何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。
私はびっくりしました。
そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。
でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。
こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。
この頃でした。
上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。
済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。
蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。
この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。
私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。
この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。
どこかへ戦争に行っていたのでしょう。
通州事件の惨劇03

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。
突然私はTさんに烈しく起こされました。
大変なことが起こったようだ。
早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。
Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。
町には一杯人が出ておりました。
そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。
でもまだ辺りは薄暗いのです。
何がどうなっているやらさっぱりわかりません。
只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。
私はTさんと一緒に逃げながら、
「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。
でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。
私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。
それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が、
「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。
突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。
最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。
私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。
もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。
それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさんのその手にぐんと力が入りました。
そして、
「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」
と私を抱きしめるのです。
それでも私が駆け出そうとするとTさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。
私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。
ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。
そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。
それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。
私はTさんと結婚して支那人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。
でもあのとき誰も止める者がなかったら日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。
それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。
それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。
通州事件の惨劇04

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。
誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。
そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。
何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。
私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。
そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。
只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。
Tさんの手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。
日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。
それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。
何か生臭い匂いがするのです。
血の匂いです。
人間の血の匂いがして来るのです。
しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。
沢山の支那人が道路の傍らに立っております。
そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。
そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。
その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。
その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
体はぶるぶると震えておりました。
その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。
そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。
保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。
そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。
支那でも七月と言えば夏です。暑いです。
薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。
すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。
しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。
娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。
そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。
学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
そして下着を取ってしまいました。
娘さんは「助けてー」と叫びました。
と、そのときです。
一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。
恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。
すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。
何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
頭が割られたのです。
でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。
娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。
パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。
そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
服が破けます。
肌が出ます。
血が流れます。
そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。
そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
血がパーッと飛び散ります。
その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。
腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。
それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
又腹を突きます。
胸を突きます。
何回も何回も突き刺すのです。
沢山の支那人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。
その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
暴虐無惨と申しましょうか。
あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。
この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。
この娘さんは既に全裸になされております。
そして恐怖のために動くことが出来ないのです。
その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
そして陵辱をはじめようとするのです。
支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。
ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
どうしても陵辱がうまく行かないのです。
すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。
そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。
こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。
ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。
私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。
目をしっかりつぶっておりました。
するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
私は思わずびっくりして目を開きました。
するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。
何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。
その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。
見てはいけない。
見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。
ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。
それから剣で首を切り落としたのです。
その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。
投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。
そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。
しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。
そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。
私は立っていることが出来ない程疲れていました。
そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。
この残虐行為をじっと見つめていたのです。
腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。
そしてその首はないのです。
何とも異様な光景です。
想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。
ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。
私はハッと自分にかえりました。
すると何か私の胃が急に痛み出しました。
吐き気を催したのです。
通州事件の惨劇05

道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。
Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。
でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。
私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。
私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。
私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。
私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。
若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。
しかし支那人のTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。
だから黙って通してくれたと思います。
日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。
殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。
あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。
私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。
そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。
そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。
痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。
とても人間のすることではありません。
悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。
いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。
日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。
集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。
支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。
この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。
十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。
こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。
そしてそれだけではなかったのです。
学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。
そして勿論裸足にしております。
その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。
そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。
でも倒れることは出来ません。
外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。
学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。
私は思わずTさんにしがみつきました。
Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。
そして私の耳元でそっと囁くのです。
「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。
勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。
そして私とTさんの周囲には何人もの支那人達がいました。
そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。
氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。
兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般の支那人は全く無表情で只黙って見ているだけなのです。
しかしようもまあこんなに沢山支那人が集まったものだなあと思いました。
そして沢山集まった支那人達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。
勿論これはいろんなことを言えば同じ支那人ではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。
これも又異様のこととしか言いようがありません。
こんな沢山集まっている支那人達が少しづつ移動しているのです。
この沢山の人の中には男もいます。
女もいます。
私もその支那人達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。
日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。
旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。
二人とも真っ青な顔色でした。
一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。
しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
どうしてやることも出来ないのです。
言葉すらかけてやることが出来ないのです。
二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
いやその一部からは出血さえしております。
髪はバラバラに乱れているのです。
とてもまともには見られないような可哀想な姿です。
その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。
女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。
左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。
しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。
そしてそこにバッタリ倒れたのです。
すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。
この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。
私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。
私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。
そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。
そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。
そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。
人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。
それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。
一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。
そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。
私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。
それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。
何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。
さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。
この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。
そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。
しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。
私もTさんもどうすることも出来ないのです。
もうこんなところにはいたくない。
家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。
そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。
沢山の日本人が殺されています。
いやまだ殺され続けているのです。
あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。
そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。
私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。
耳を覆ってみても聞こえるのです。
又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。
旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。
するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。
お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。
お婆さんは仰向けに倒れました。
学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。
誰も見ていません。
私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。
そして、「くやしい」と申すのです。
「かたきをとって」とも言うのです。
私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。
「いちぞう、いちぞう」
と人の名を呼びます。
きっと息子さんかお孫さんに違いありません。
私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。
するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。
そして息が止まったのです。
私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。
そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。
Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。
すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。
そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。
それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。
何とその女の人はお腹が大きいのです。
七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。
学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。
この女の人は何もしゃべれないのです。
恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。
ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。
歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。
学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。
そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。
兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。
妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。
とそのときです。
一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。
そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。
これで事態が一変しました。
若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。
学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。
するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。
学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。
すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。
私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。
七名も八名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。
ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。
私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。
ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。
するとどうでしょう。
この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。
この兵隊も銃を落としてうずくまりました。
でもこの日本の男の人の働きもここまででした。
この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。
日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。
日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。
これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。
日本の男の人はぐったりなって横たわりました。
それでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。
そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。
それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。
私はあんな残酷な光景は見たことはありません。
これはもう人間の行為ではありません。
悪魔の行為です。
悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。
頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。
目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。
縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。
人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。
十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。
私はTさんにすがりついたままです。
何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。
地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。
そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。
そしてそれだけではありません。
別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。
一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。
このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。
その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。
そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。
しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。
この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。
野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。
そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人達は同調することは出来ませんでした。
まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。
そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。
この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。
出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。
そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。
学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。
とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。
フラフラと立ち上がりました。
そして一生懸命逃げようとしたのです。
見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。
このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。
妊婦はバッタリ倒れたのです。
すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。
するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。
しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。
国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。
私は何をするのだろうかと思いました。
そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。
だが支那人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。
剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。
赤い血がパーッと飛び散りました。
私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。
実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。
妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。
お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。
そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。
片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。
ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。
あまりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。
こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。
「日本人が処刑されるぞー」
と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。
しかしそれは支那の学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。
私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。
このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんが支那人であったということです。
そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちは支那人の嫁さんだから私も支那人だと思い込んでいたのです。
そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私も支那人だと思うようになっていました。
そして早く本当の支那人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。
そしてこの一、二年の間は支那語も充分話せるようになって、誰が見ても私は支那人だったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私を支那人としか見ていないのです。
それで支那のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。
それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を支那人によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。
それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。
それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはり支那人です。
私の心は通じておりません。
そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。
家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。
それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。
そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。
そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。
ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。
保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。
集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。
恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。
何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。
そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。
すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。
するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。
私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。
みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。
そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。
引き金に手をかけたらそれが最期です。
何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。
そのときです。
日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。
するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。
その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。
バタバタと日本の人が倒れて行きます。
機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。
そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。
このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。
しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。
そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。
兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。
只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。
五十数名の日本人は皆倒れているのです。
その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。
ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。
何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。
保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。
こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。
全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。
するとどうでしょう。
見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。
何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。
これは一体どういうことでしょう。
私には全然わかりません。
只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。
もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。
私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。
私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。
その近水槽の近くに池がありました。
その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。
あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人もの支那人がいるのでそれは出来ません。
若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外の支那人達はおかしく思うに違いありません。
国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。
そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人達からあの人はおかしいではないかと思われる。
Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。
それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。
そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。
殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。
そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。
国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。
そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。
ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。
そして首を前の方に突き出させたのです。
そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。
この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。
これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。
この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。
するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。
二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。
合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。
そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。
池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。
私はもうたまりません。
Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。
そして見たくはなかったけど池を見ました。
真っ赤な池です。
その池に蓮の花が一輪咲いていました。
その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。
Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。
しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。
昼過ぎでした。
日本の飛行機が一機飛んで来ました。
日本軍が来たと誰かが叫びました。
ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。
悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。
実際に日本軍が来たのは翌日でした。
でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。
とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。
このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。
私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。
私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。
こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。
でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。
そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。
~~~~~~~~~~~~~~
以上です。
通州で被害に遭われた方々のご冥福をお祈りしたいと思います。
このお話は、教育社発行しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」という本からの引用です。
デジタル化にあたっては、「blog:徳島の保守」のみなさんが、財団法人慧燈財団、前理事長であられた、調寛雅(しらべかんが)さんのご子息様のご許可を頂き、引用掲載され、当ブログで再掲させていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1ちなみに文中に出て来るSさんの夫、支那人のTさんは、支那共産党のスパイだったと言われています。
また、被害に遭遇されたSさんは、事件後、日本陸軍によって事情聴取を受けるのですが、そのあまりの可哀想さに、取り調べにあたった軍人さんが、彼女のお婆さんの体験をもとに、佐賀の因通寺にお連れしたのです。
因通寺は、たいへんに歴史のあるお寺で、しかも陛下にも奏上されたことのある由緒正しい立派なお寺です。
昭和天皇が戦後佐賀に行幸されたときは、このお寺を尋ねられてもいます。
日本陸軍の担当官は、上層部とも連絡をとりあい、このSさんの心が少しでも救われるようにと、因通寺に、彼女をお連れしているのです。
そして彼女は傷心の日々を、このお寺で過ごされています。
そして問わず語りに語った彼女の体験記を、ご住職がまとめられたのが、この体験記なのです。
たいせつなことがあります。
それは、この事件は、単に73年前のひとつの特異な事例ではない、ということです。
支那では、いまでも法輪功やウイグル、チベットで、同じことが繰り返されています。
そしていま、民主党政権のもとで、多数の支那人学生が日本に居留し、また今年7月1日のVASA要件緩和によって、多数の人民解放軍が日本にやってきている、ということです。
在日朝鮮人が走狗となって使われ、日本人は残虐だ、日本は悪い国だ、日本人は皆殺しにしなくてはならないなどとマッチポンプの役割を果たします。
そして支那人たちが大挙して日本にやってくる。
子供の頃から徹底した反日教育を受けて育った支那人たちが暴発したとき、そこで何が起こるのか。
沖縄は、いま、中共の工作によって日本人に貶められた自分たちは被害者だ、という妄想に取りつかれようとしています。
それが暴発したとき、沖縄で何が起こるのか。
歴史は繰り返すといいます。
しかし、73年前に日本人が受けたその酷い仕打ちを、絶対に繰り返してはなりません。
ここは日本です。
日本の地は、日本人が守らなくていったい誰が守るのか。
通州事件は、私たちに大切な何かを教えてくれているのだと思います。
最後にひとつ。
「なぜ通州に、日本軍が駐屯していたか」です。
日本軍は、この地を占領していたのではありません。
この前に、世界を震撼させた恐怖の
義和団事件が起こっています。
この事件で清朝政府に治安維持能力がない事が分かったため、明治34(1901)年の義和団議定書で、居留民保護のために国際平和維持軍が設立されたのです。
その議定書に基づき、米英仏伊日5カ国が、36年間もの間北京周辺に大部隊を駐屯させ、居留民の保護を行ったのです。
各国駐屯軍は大砲や戦車まで持っていました。
そして各国の駐屯軍は、支那人が自国の居留民に対して、たった一度でも暴行を働くと、これに対して徹底的な軍事的制圧を行っています。
たとえば、自国の居留民ひとりが支那人によって乱暴されるようなことがあると、暴徒たち全員に、大打撃を加えています。
欧米人たちにとって、支那人は、支那人に限らず有色人種は、人間ではないと看做されたからです。
ところが日本は、同じ東洋民族として、支那人たちに仁政を行いました。
支那人に対し、人としてやさしく接しました。
普通なら、これに感謝の心が芽生えます。
けれど支那人たちは、まったく逆に「日本人は何をしても反撃してこない」と考えたのです。
そして、通州において、それが具体的な形となって顕われました。
南京大虐殺などというホラ話と異なり、通州事件は実際にあった事件です。
当時の模様は、世界中の新聞で報道されています。
日本人は、この事件を絶対に忘れてはならない。
絶対にです。
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中国人による性的拷問の実態
コメント
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言葉に出来ないほどの、中国人による日本人虐殺。大虐殺。
2017年の現在でも、スーダン、ミャンマーで同じ光景が中国共産党軍によって起きていると聞きます。
差別ではなく、中国、朝鮮を【虐殺】を平然とすることのできる人種と区別し、覇権を許さず。管理されるべき人種だと思う。
2017/08/22 URL 編集
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2014/05/01 編集
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冀東防共自治政府が損害賠償をすることになり、
同年12月24日池宗墨長官自ら北京日本大使館に
森島参事官を訪問の上、
賠償金120万円を手交し、事件の解決となった。
参考)当時の軍人の年報 と モノの価格
少尉 850円 <貧乏少尉
中尉1130円 <やりくり中尉 ≒大卒エリートサラリーマン初年収
大尉1900円 <やっとこ大尉
少佐2640円 ※1931年ダットサン 11型フェートン1350円
中佐3720円 ※1936年トヨダAA型3350円(名古屋店頭渡し)
大佐4400円 ※1935シヴォレー 4000円 ≒ 40.6cm戦艦主砲弾
少将5000円 ※1935リンカーン・ゼファー9000円
中将5800円 ※1935キャデラック・フリートウッド 3万5000円
大将6600円 ※1937九一式戦闘機 7万円, 戦艦大和 1億3780万円
第二次世界大戦において日本が喪失した軍事資産総額 約700億円
2012/10/03 URL 編集
monk
ちなみに 孔子の好物は 干した 人肉でした。
中国本土では 現在でも 会員制の 高級レストランで
若返りや 精力剤として 堕胎した胎児を食べさせるお店が あるそうです。
残酷さも ここまでくると 絶句です・・・・
2012/09/25 URL 編集
春夏秋冬
この通州事件を読みかえして、ここで証言されているような数々の悲劇が、中国人らによってまた起こされるのではないか、との危惧をもちました。
拡散希望ということなので、拙記事の最後で恐縮ですが、「こわ~い話」として勝手に引用させていただいております。出来るだけ多くの人に、この通州事件を知っていておいて欲しいものです。
2012/09/19 URL 編集
初詣は靖国神社
2012/09/19 URL 編集
れいに
子供の足を切り落として火に投げ込んだり、
妊婦の腹がやぶけ胎児がでてくるまで踏み続けたりと
いう記事を読んで吐き気を催したことがあります。
残虐などという言葉では言い表せない虐殺だと思いましたが、この記事はそれを遥かに超える気持ち悪さです…
忘れません、絶対に。今を生きる私たちが、この真実を紡いで伝え続けていくことが、私たちのなすべきことだと感じました。
2012/06/27 URL 編集
アロン
問題は日本国内にいる左翼(共産主義者)だと私は思います。
彼らがすべてをおかしく方向へ、誘導していますからね。
南京や従軍慰安婦も朝日新聞がやらかしました。
あと中韓の非常に疑わしい【日本の蛮行】の主張に
日本の左翼が嬉々として加担し、それを垂れ流しています。
9条、君が代反対、国旗反対、戦争反対、人権、平等、反原発、
外国人参政権推進、人権擁護法推進、国籍改正法など、
すべて国民が危険な目に遭いかねないものばかりです。
国家に対する意識が希薄になれば、外国人が大量に入ってきて食い物にされて、
防衛に対する意識が希薄であれば、領土も盗られ放題で、
安易な人権意識だけが植えつけられると、
犯罪者であろうがモラルがなかろうが人権があるというだけで、
同等の権利を与えて犯罪・不正の温床になる。
↑これは実際に欧米や、日本以外のアジアで起きていることです。
移民、参政権はヨーロッパ各国、カナダで大問題になっています。
とくに華僑に扇動されて米軍を追い出したフィリピンは、
途端に領土を中国に盗られました。
>中国人と日本人が同じに見えてくる
それは少し違うと思います。
中国は軍拡を推し進め、ブータンや南沙諸島を強奪しています。
尖閣諸島も狙われています。
たびたび特定アジア側から持ち出される【歴史問題】で、
内政干渉をされ、補償済みのことを蒸し返され、日本の左翼と手を結んで
血税をとっていくもあるんですよ。
日本は何もしていないどころか、反対に向こうは黙っていることを
いいことに過激な要求や行動をとっています。
それが現在です。
そしてこの手の歴史問題は左翼がいつまでも、日本に贖罪意識を
植えつけたままにしておいて、上記の危険な法案や事態を
招くためにやっているので、絶対に譲ってはいけません。
名無しさんの仰ることもよくわかるのですが、
現在、反日左翼や反日在日がいる限り無理でしょうね。
2012/03/08 URL 編集
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今よく聞く「情弱」「情報操作」「メデイア操作」て言葉は何回何回も頭の中に浮かべて来る。中国人も日本人もますます同じに見えて来る。
言ってる事が中国語と日本語の違いだけです。
戦争はどっちが正しい、どっちが間違い?
人類歴史上全ての戦争は勝ったものは正義、負けたものは全てを負う。
どの国のどっち側の被害者も似たような経験をしている。
個々の体験を見て聞いて、個人の感情を暴走するよりも、我々今生きてる者がなにかをすべきなのか、なにかをしちゃいけないのか。
つくつく勉強させられたと感じます。
戦争そのもを憎むべきではないか?
もしも あの戦争がなかったら、我々はここで今、なにを語っているでしょう・・・
2012/03/08 URL 編集
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アドレス泥棒だと思われます
良いコメントをわざと書いて、アドレスを盗む
、、
2012/02/19 URL 編集
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この時は、自分も日本人であることが申しわけないと思っていましたがネットのおかげで真実がわかった今、日本人であることを本当にうれしく思います。日心会とねずきちさんを応援します!
2011/05/01 URL 編集
名無し
地獄です。
2011/02/15 URL 編集
元組合活動家
2011/01/21 URL 編集
嘘つき野郎
2010/12/24 URL 編集
砂狐の屍
以前「中国残酷物語」という昔話風の本を読んだのですが近代の中国に通じるところが多くあります。
生きて虜囚の辱めを受けずという戦時訓の理由も彼らの行う拷問まがいの処刑法をみてみると
わかるような気もします
2010/12/24 URL 編集
suna
この本が絶版なのはあまりに残念です。私も読みたいので、復刊ドットコムで復刊リクエストをしました。
以下でアクセスできますので、投票をお願いします。
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=52160
2010/12/12 URL 編集
joy
2010/12/01 URL 編集
反NHK
バックに中国様様の小汚い経団連がいるせいで。
これだけ、危険な民族が、日本に大量に流入してくる
危険性や彼らような犬畜生にも劣る民族に外国人参政権をあたえることの危険にはなにもふれない。
日本の教科書には通州事件すらふれてない。
また、似たような事件が中国で起きるだろうが、
経団連はじめ、中国に進出した企業の従業員は
それなりの覚悟をしておくべきですね。
2010/11/23 URL 編集
★kazu★
中津留達雄を貴女はご存知ですか??
8月15日の終戦記念日にむけてNHK特集番組2001年のこの番組の中で「最後の特攻隊長23年の人生」というタイトルで、城山三郎氏が特攻隊基地跡を訪れ、終戦の日の夕刻、沖縄に特攻機で宇垣中将と共に飛び立った中津留達雄大尉のこと
その血縁者です。亡き母の従兄です彼は・・・
日本では今マスコミを通じ国民を洗脳し戦後国民は勝者である国の言いなりとなり貪欲な人達により法律もシーラカンス 政治家とお金とマスコミを牛耳って国民を洗脳しています。ある意味凄く怖いです。
過去に戦争をした国現在も戦争をしている国は大なり小なり同じような体験をされています。
戦争は人間を狂気に落とし入れます。
未だ過去の罪を口を閉ざしたままの人もいれば死ぬ前にと告白する人もいます。
この国から戦争体験者が居なくなる事も残り僅かです
少しでも多くの人達に知って頂きたいと思いますので
私のブログにリンクを貼らせて頂きます。
世の中の人間から生きるための最低の欲望しか持たない動物のような生き方が出来る事を私は願っています。
お身体大切に長生きして下さいませ。
2010/11/11 URL 編集
やっきー
絶対にできない。そもそも過去の日本の犯罪歴を見ても
ここまで狂気の殺し方など一例もないのだ。
一体どんな思考ならここまで非情になれるのだろうか?
2010/10/22 URL 編集
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http://rocketnews24.com/?p=51899&utm_source=feedburner&utm_medium=feed
10月16日中国内陸部の都市・成都で起こった反日デモの大義名分は、あくまで「領土問題の抗議」であったはず。しかし一部のデモの参加者が、どさくさ紛れに一般人の女性の服を脱がすという、許されざる行為に及んでいたことが判明した。
現地メディアの報道によると、成都でデモが起こった10月16日午後、ファストフード店で友達と一緒にランチを取っていた女性に向かい、突如、反日学生たちが押し寄せてきた。ランチ中の女性たちは中国の伝統衣装「漢服」を身に着けており、それを日本の和服(きもの)と学生たちは見間違えたらしい。
近づけばそれが和服でないことは誰の目にも明らか。にも関わらず、引っ込みがつかなくなったのか、これ幸いと思ったか、学生たちは女性の服を脱がし、最後はTシャツ一枚にしてしまったという。その後、女性は「トイレに逃げ込んだ」という。
最終的に彼女は、心優しい通行人にズボンをもらって無事家に帰ったというが、学生たちは「反日」の名を借りて、やりたい放題やっているもよう。「反日活動は欲求不満のはけ口」とも言われているが……。まさに暴徒といったところだ。
2010/10/21 URL 編集
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国会会議録検索システムで検索してます
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=16092&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=9&DOC_ID=6356&DPAGE=1&DTOTAL=12&DPOS=3&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=16239
松原議員GJです
2010/10/17 URL 編集
togyo
9月7日の尖閣諸島中国漁船衝突事件から24日の船長釈放まで何が起きたのか。
東シナ海ガス田交渉中止、ハッカー攻撃、日本人学校襲撃、反日デモ、 レアアース輸出禁止、フジタ社員4人拘束、中国監視船常態化。
中共か華僑か、バックまでは知らないが、無法者船長ひとり拘留できない国家力。
これで良いわけがない、次は核心的利益!ですよ。
あれから1ヶ月経とうとも、喉もとに匕首を突きつけられたままです。
中国政府によって発表された英文の尖閣問題に関するコメントの中の「Core Interest」を正確に伝えた新聞は日本にはまったくありませんでしたね。これはアメリカでは非常に話題になっています。外務省などの公式文書において、英語でCore Interestという言葉を使った場合、それは「次は戦争も辞さない」という意味になります。中国は尖閣問題を「Core Interest」と表現しました。つまり、これが通らなければ戦争をしてもよい、ということを正式に外交文書として残したことになります・・・・これなぜ、日本では報
道されないのかとても不思議ですね。因みに中国がこの用語を使ったのは例のチベット問題の時です。
http://gnews.x0.com/20101005_181138/
日本のマスコミは、世界の中の日本の今を、報道しません。10月2日2600人渋谷尖閣デモ、CNNや中国をはじめ世界中で報道されたのに、日本のメディアは報道規制、情報操作をしています。
10.2 中国の尖閣諸島侵略糾弾 2100人デモ行進1 "日の丸"は何て美しい!
http://www.youtube.com/watch?v=W4NP8OrLRPQ
10.2 中国の尖閣諸島侵略糾弾 2100人デモ行進2 核武装をして国を守るぞ!
http://www.youtube.com/watch?v=WhelHfnbIQU
中共へ向け、国民ひとりひとりが竹槍一本構える覚悟が必要なのです。
2010/10/16 URL 編集
琉球太郎
>沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされる。
>使用された銃弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。
>このほか、砲弾6万18発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。
>また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では鉄の雨や鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)などと呼ぶ。
南京で小火器しかもっていなかった日本軍が、この沖縄戦の死者数を上回る30万の虐殺ができるわけがない。
2010/10/13 URL 編集
Jumonzi
何が人間をここまで残虐にするのでしょうか?
人間は誰しもこのような惨殺ができる一面を持っているのでしょうか?
正直このような話を見ると、憎悪感を拭えませんが怨み対怨みでは根本解決はできないように思います。
全く考えさせられます。
事実は事実として伝えていかなければなりませんね。
情報公開ありがとうございます。
しかし、酷過ぎる。
2010/10/13 URL 編集
わさび漬け
>さらに言えば南京大虐殺は博物館を建てるほどの
証拠があり通州事件の比ではない。 <
バッカじゃない! 中国共産党の国をあげての「捏造」でしょうが。 20万人の人口しかいない南京でどうやって30万人も虐殺できるのよ。
しかも世界の報道記者が集まっているのに誰も確認していない。中国人からの伝聞だけ。 あげくは「唯一確認できる報告がイギリス人外交官の外電でありその内容は「頻発する殺人」と伝えているが当時南京の欧米人が目撃した殺人事件は存在せず全て中国人からの伝聞によるものであるため虚偽報告の可能性が指摘されている。虚偽報告を伝えた要因として当時の中国政府から大量の献金を受け取りそれにより買収され反日的報道をした」というたぐい。
さらに翌年の中国当局の南京の人口調査では25万人に人口が増えている。 笑止千万。
「日本の海保の艦船がぶつかってきた」と主張している現在の中国共産党とまったく同じ。 捏造のみ。
通州事件で中国人が日本人をなぶり殺した方法と抗日記念館の蝋人形のそれとが酷似してるのは、奴らの「殺し方」だからである。 人肉を食らうのも奴らの食習慣である。 日本人には有り得ない。
日本人で女子供をあのような悪魔のごとき殺害方法のできる人間はいない。 日本の戦国時代にもあのような描写は皆無である。 あきらかに「人種」が違う。
反ネトウヨ よ おまえさんが中国人なら「なるほど」と驚かないが、日本人なら中国で暮らして来い。
少しはかの国の「国民性」と「本性」がわかるだろうよ。
2010/10/12 URL 編集
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中国の悪事がわかると裁かれて当然のため、まずは無害は善人を悪人に仕立てることに長年必死です。それは政治的にも簡単で効率的でしょう?
中国は既にお金もあります。世界の複数の場所から様々の手段で、一見正しそうな善人を勘違いさせるような偽事実作りに必死なのです。
物事を数や大きさ肩書きにとらわれずに、正しいものが何かを一人一人自分で考えていくことが、自分も自分たちも平和に暮らすための基本です。
もう世界には中国びこっています。
中国人の大部分が慾を利用され操作されているのでしょうが
操作された人々に抹殺されたら世界中の真実は永遠に戻らないと考えると恐ろしいものもあります。
2010/10/11 URL 編集
うたのすけ
真実を知らせ、広めるのも大事でしょうが、
それよりも日本男児、常日頃から体を鍛えておくことが大事だと思う。
2010/10/09 URL 編集
のじこ
新潟があぶない!という内容のミクシーの日記からサーフしてきて読ませていただきました。
正直、一度途中で読めなくなりました。
そんな場面、見たことないのに気持ち悪くなってしまって;
参考のため、ねずきちさんのブログ紹介させてくださいね。
2010/10/09 URL 編集
おデビン
頭の上から何かが抜けるような気持ちで読ませていただきました。
同じ人間としての括りはできないんですね。
共産党がそうさせるのか?エゴがそうさせるのか?過去と言えば過去の惨事ですが一旦侵攻が始ると倫理も法律もぶっ飛ぶのは間違いの無い事実のようですね。
日本人の強さを目覚めさすか?シナよ。そうなって泣きいれても遅いで。
2010/10/08 URL 編集
りょうこ
寝床で本を読んでいる主人が、ここに通州事件の事書いてあるのある?と聞かれたので、
「南京事件」の総括、に書かれていたので、本をめくってすぐ伝えました。
あれ?読んだ事あるのにと主人・・・
今、再読していますが、
私は、ねずきち様のブログを読んで欲しいのです!
2010/10/08 URL 編集
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誠に勝手ながら、今エントリーをpdf化させて頂きました。
もし、プリントしたいという方がいらっしゃればご利用いただけたらと思います。
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1185998.pdf.html
OpenOfficeにより作成した元ファイル
http://www1.axfc.net/uploader/Sc/so/160518
2010/10/07 URL 編集
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日本人には人情がありますが、特亜人にあるのはその真逆です。
遺伝子的な特徴の違いがあると言われても納得します。残念ながら、彼等は容易には変わらないでしょう。
第2の通州事件を日本国内で起こす可能性もゼロではない…
特亜人が日本の隣人なのは仕方ありません。
しかし、途方もない残虐行為を嬉々として働きながら、日本と日本人を貶める言動を繰り返す彼等とは一線を画し、日本の平和のためにも日本から出ていってもらわなくては。
そしてもっと信頼できる別の隣人(東南アジア、インドなど)との絆を育むべきだと思います。
2010/10/06 URL 編集
ねずきちフアン
英文に翻訳して全世界に発信するのも大変結構で必要なことですが、まずは敵は無知蒙昧な日本の政治家です。ぜひとも彼らにこの通州事件を、この文面を、拡散すべきです。憲法を改定して、自衛隊を国軍にして、一刻も早く防衛力を向上させなければ日本は危険です。政治家一人一人にこの通州事件の文面を送り感想を聞いてください。きっとシナ人に対する考えが変わるはずです。
2010/10/06 URL 編集
まん
卑怯者め。共産党の犬が。
どうせアンタたちは、金か将来の地位をもらう為にそんなことしてるんだろう。
少しでも誇りや国を思う心があるなら、こんなところで工作なんかせず、自分のとこの国民の為に働けよ。
自由に発言したい。でも死ぬのが怖い、っていう中国人のカキコミを見て、日本人である私は泣いたよ。で、アンタたちには、自分の同胞の為に泣くことはあるのか?
彼らに同情する心を持っているのか?
私は中国をけして信じない。尊敬できる中国人がいくらいようとも、アンタたち共産党は、彼らを全員ころすことが簡単に出来るから。
2010/10/06 URL 編集
tarochan
http://news-hassin.sejp.net/
2010/10/06 URL 編集
tarochan
http://news-hassin.sejp.net/
2010/10/06 URL 編集
kk
2010/10/06 URL 編集
やっぱり
右左の考えの違いはあっても本来日本という国を愛しその郷土、家族を愛し日本という国を侵略しようとする外国があれば敢然と立ち向かい排除するはず。
ところが日本の左翼と称される人達は日本を愛するどころか日本という国が崩壊し他国、特に中国や南北朝鮮の隷属化に置かれるような事を平気で行なっている。
これは明らかに売国奴そのものの行いだ。
このような連中がいる事を日本国は許しているだけでも
世界に例を見ないほど平等な国だと思う。
このような日本国が嫌いなのであれば出身国か自分達が憧れて?いる国にとっとと帰化すればよい。
日本国に生まれ育ちながら、あるいは日本国に世話になり支援を受けていながら日本国を貶める人達は日本国に
いる必要は無い。
2010/10/06 URL 編集
共通一次世代
以下はネットで拾った反日左翼のコメントです。「無防備宣言!!」の極みです。
=========
抵抗は相手の力を生みます
力は我々弱者からすべてを奪うでしょう
無抵抗は我々弱者の自分を守るべき唯一の武器なのです
沖縄戦で日本軍のいなかった島々には米軍は上陸しませんでした
武器さえなければ戦争は起こりません
これは実際の経験から導き出された現実的な答えなのです
=========
>沖縄戦で日本軍のいなかった島々には米軍は上陸しませんでした
テレビでも以前「証言」なるものをやってたらしいですね。↓
【慶良間の沖縄戦】
http://www.okinawainfo.net/kerama/warkerama.htm
===============(以下抜粋)
以下は以前テレビ番組で知ったことです。
渡嘉敷島の東海上に前島という島があります。しばらく無人島でしたが、何年か前に一家族が島に戻り生活をしているようです。戦前はここにも人が住んでいました。
ここでは日本兵がいるからアメリカ軍も攻撃してくるのだ、と言う事で駐屯を拒絶するという、当時ではとても困難な意思表示をしてそれを貫きました。
この島にも米軍は上陸しましたが、日本軍がいないことがわかると「この島は砲撃もしないし、捕虜もとらない。安心していつもの通り生活をしてください。」と言ってそのまま引き揚げたということです。
強大な戦力ではなく無防備が最高の命を守る防衛になったわけで、 現在の基地強化による日本の防衛なるものを見ていると、色々考えさせられるものがあります。
================(以上)
沖縄の観光案内のようなHPでこのようなことが語られていることにおぞましさを感じます。
で、「日本兵に殺された」だの「日本兵は悪だ」などと騒ぎ立て、そんな残虐な日本兵よりも信頼できるハズの米軍に対して沖縄が今、どんなことを言ってるかといえば、「米軍出て行け」。そして尖閣事件が起こったあとは「中国が来るから、自衛隊に守らせろ!」
辻元清美のピースボートが「自衛隊反対!!」と叫びながら、ソマリア沖で海賊に襲われそうになり、自衛隊にSOSを出して助けてもらったのとまるで同じ。
論理回路は途中で混線し、バチバチと熱を出して断線。はじめと終わりは全く逆の要求。
原子力発電反対!!→だったら冷房付けるな!電気をつけるな!
アメリカは悪い国!!→だったら自分の子供を留学させるな!
無防備宣言!!→だったら家に鍵をかけるな!!泥棒入っても警察呼ぶな!!
日本嫌い!!→だったら日本から出て行け!!
民主党政権になって、「キチガイ」という言葉をテレビに向かってつぶやくことが増えました。
2010/10/06 URL 編集
初コメ
映画化するべきだと思います
2010/10/06 URL 編集
おれんじ
本当に恐ろしい、おぞましい事実を教えていただき、有難うございました。こういう事が今この瞬間にも行われていて、決して報道されないばかりに存在しないことになっている現実が空恐ろしく感じました。
日本が侵略云々と言ってる人は一度シナ人に侵略されてみれば良いのです。
以前、「赤いコーリャン」という中国映画を見ました。その中で日本軍が中国人の皮を生きたまま剥ぐというシーンがありましたが、見た瞬間「こんなことはありえない!」と感じました。今日、このエントリーを読んで、あれがシナ人達が日常的に行っている事なのだと分かりました。
シナ人は自分たちが100%有利に立った時は必ずこういう行為に出ます。今はまだその時ではないと機会を伺っているだけです。本当に本当に気をつけなければいけないと思います。
ちなみにその映画はイギリスで上映されていました。イギリス人が捏造された日本人の残虐行為を信じてしまったのではないかと思うと胸が痛みます。
応援クリック
2010/10/06 URL 編集
ototo9
月刊テーミス2010年10月号の見出しによれば
天皇陛下の訪韓計画が進んでいるとのことです。
2010/10/06 URL 編集
blog「徳島の保守」
通州で起きた、言上げするもおぞましい惨状を多くの人に知って頂き、確固たる日本人への覚醒が起きる事を切に望みます。
ねずきち様、ありがとうございました。
2010/10/06 URL 編集
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http://www5b.biglobe.ne.jp/~yasuma/nihonenomanote.htm
2010/10/06 URL 編集
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また、多くのチベット人女性の子宮内に機器が埋め込まれているが、
何の装置なのかということはもちろん、埋め込まれていることすら教えられていない。
この装置の金属が腐蝕したり、肉が装置に癒着した例が報告されている。
http://tibet.turigane.com/tibetanrights.html
平和的なデモに参加、チベット国旗に似たものを所持、「独立」を口にするなどの行為だけで投獄され残虐で執拗な拷問が待っている。
現在でもチベットの監獄・収容所では凄まじい処刑、拷問が行なわれ、独房監禁、ゴム管を使っての囚人のロヘの放尿、
血液・体液の強制抽出、雪の中への裸での放置、中国人看守たちによる強姦等が行なわれていると言う。
<数々の拷問>
鉄の棒や銃床で打つ
むち打ち
四肢、特に足首の関節をハンマーなどで叩く
曲がった釘のついたバットで叩き、肉を引き裂く
皮膚を針でつきさす
爪の下に竹串を挿入する
電気棒でショックを与える
食事や薬を与えない
氷点下の独房で裸にして冷水を浴びせる
炎天下、防寒着を着せて長時間立たせる
熱い煙突にくくりつける
トゲのある手錠をかけ、天井から吊るして火あぶり
血液を強制的に抜き取る
猛犬に攻撃させ、肉を引きちぎらせる
大量の水を飲ませ、失禁させ、辱める
ゴム管で囚人の口に放尿する
仏画で排泄物を運ばせる
拷問のビデオを見せる(最も一般的に見せられているのは、僧が手と足を釘で打たれて磔にされ、2度銃で打たれ、吊るされて、生きながら火で焼かれる映像)
強制収容所等から生還した人たちの証言をまとめると、チベット全体で収容者のおよそ7割が死亡している。
http://www.tibethouse.jp/human_rights/index.html
<これからの日本>
また日本も民主党が推し進める政策よりチベット化の危険性が心配されている
・外国人参政権、外国人住民基本法、重国籍(二重国籍)
→ 外国人でも日本の政治に参加、生活上日本人と同等かそれ以上の権利を獲得、ただし義務は放棄
・移民1000万人受け入れ(家族や親族はこの人数に含めず)
http://www.matsui21.com/media/03/08_10voice.htm
・国籍法改正案: 海外の人を認知することで国籍簡易取得(ただし20歳未満に限る)
http://www.youtube.com/watch?v=V8lpzQjzXnE
・人権侵害救済法案(人権擁護法案)
→ 日本人を一方的に弾圧できる法案。逆らえば何度でも氏名公開、出頭、家宅捜査、糾弾、過料、報復などの社会的制裁が待っている
<在日マスコミの正体>
朝鮮日報 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞(本社) 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1
関連会社:(株)東京放送(TBS)、(株)毎日放送(MBS)、RKB毎日放送(株)
東亜日報 〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
朝日新聞(本社) 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT)
ニューヨークタイムズ東京支局 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2
関連会社:(株)テレビ朝日グループ
韓国日報 〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞(本社) 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1
関連会社:日本テレビ放送網(日テレ)
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
NHK放送センター 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
2010/10/06 URL 編集
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2010/10/06 URL 編集
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1949~1979年の30年間で中国側に殺されたチベット人の数は120万人。
2010/10/06 URL 編集
nukunuku
で、結局「悪いのは日本で、日本の保守派は右翼で、右翼は悪い」って、言いたいん?^^;www
で、中国には、もっと右傾化しろって?( ̄□ ̄;)
中国自体は極右そのもの!
中国共産党は極右官僚の独裁王朝主義国家そのものやん^^;;;wwww
なんで、アンタらチャンコロは、自分のことを「相手のこと」に置き換えて、すぐにいうの?恥がないん?
。。。そうか、チャンコロは「恥」の意味もわからんのか。。。
もう、帰れ!野蛮な中国に帰って毒餃子を毒粉ミルクでのんで、死んじゃえー\(^ ^)/ バンザーイ
2010/10/06 URL 編集
neko
今回記事をみる勇気はありませんでした
日本人だからとかではなく、人として理解ができません・・・
どうしてこんな事ができるのか・・・本当に本当にわかりません
この事件は私達に何を伝えているのか?それすらもわかりません
もし生まれ変わりがあるならば、せめて今、幸せであってほしいとそれだけを願います
2010/10/06 URL 編集
mido
でも、チベット人やウィグル人にしていることを見ると,やはり事実なのかとやりきれなくなります。同胞がやられたから、、、だけでなく、人としてなぜ?と怒りというより深い深い悲しみで心がいっぱいになりました。
酷い殺され方をした方はもちろん、このような極悪非道を犯さざるを得なかった,低い魂をもった残虐者の魂の救いを祈ります。
2010/10/06 URL 編集
vf
尖閣まで占領されて昔と同じに情けない弱腰中国、今回もへっぴり腰かよ
憎悪を煽られた日中低脳国民の哀れなけたたましさだけが空しくこだまするなあ。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/gyakusatu.html
いつまで経っても弱虫奴隷根性が抜けない中国は、他人事ながら情けない。
つい70年前、自国の家族を靖国英霊という侵略強盗殺人の犯罪軍隊に2000万も虐殺されているのさえもう忘れたらしい。
自国も自国民もぐしゃぐしゃにされたのを忘れたのか、ビビリの中国よ。
日本やアメリカにいいようにカモられても、遠吠えだけだ。
「日本様にレアアース禁輸なんて政府は言っていませんよ。」だって、情けない奴っちゃ。
カワハギ漁の貧乏漁船がある日突然、チョーハイテクの海保2隻にボコボコにされ、いつもと同じように操業していた漁師まで逮捕されたのに、
セコイ泣き言だけだ。
http://esashib.hp.infoseek.co.jp/ozawa01.htm
民主党政権つぶしに沖縄海保と沖縄検察が見え透いた指示を受け「領土紛争」を起こしたことを中国が知らないはずはないだろ。
知らなかったのか、アホ中国。
尖閣はいつものようにバカ日本国民を愛国世論に煽るダシに使われたのを
中国が知らないはずはないだろ!
中国は政権潰し合いの政争に、ただ良いように利用されたのに、なにも出来ないへっぴり腰かよ。
http://critic6.blog63.fc2.com/blog-entry-40.html
調べてみて愕然とした。
今度の西松事件の捜査と小沢秘書逮捕の一件は、官邸の漆間巌と検察の大林宏の二人の連
携作業なのではないか。
今の日本は、外形は違うが中身は戦前の大日本帝国と同じになっていて、
過激な右翼のイデオロギーを内面化したチンピラが権力機構の頂点に立ち、彼らの理想と目標に従って統治が行われている極右官僚国家である
2010/10/06 URL 編集
無名
前の文化を破壊し尽くすという繰り返される
歴史のなかで、脈々と受け継がれてきました。
当然、その本性は、中国共産党にも受け継がれ、
まさにチベットをはじめとする民族浄化という形で
現在進行形なのです。
さらに、「中国大虐殺史 なぜ中国人は人殺しが好きなのか」
(石平 ビジネス社 2007年)でも紹介されている、
食人文化も、シナの歴史でもあります。
シナ人の残虐たる本性を、一人でも多くの日本人は知る
べきであると、通州事件の日本人が受けた凄惨たる悲劇
に触れ、あらためて実感した次第です。
2010/10/06 URL 編集
見張り員
拝読していて胸が動悸を激しく打ちました。シナの残虐性は古代からあったようですが近現代に至ってまでこういう鬼畜以下のことをしている民族となかよくしろといわれても・・。
いつ豹変してこういう残酷なことをするかと思えば友好なんか結べませんね。
南京事件もどうせ自作自演、日本軍に罪擦り付け、なんでしょう。
こういう民族を「いらっしゃい~」する民主党政権、よく歴史を学んでから言ってほしいです。
2010/10/06 URL 編集
-
鹿だと言い張るお国柄ですからね。
中国を援護する人も、同様です。
国籍不明の現与党も、同様です。
のらりくらりしてる仙谷は中国を
信じているようですが、そういう
者がのさばっていると、日本は危ないですね。
はやく民主党を倒して、売国勢力を
消滅させないと。
えらそうな事言ってすみませんが、
ろくでもない民主党の支持率が高いのは、変です
!
お分かりいただけましたか?
2010/10/05 URL 編集
nukunuku
帰れ!腐れチャンコロ!人殺しチャンコロ!フリーチベット!いまどき虐殺してるなボケー!日本を侵略しようとするなアホォーーー!><凸
ちなみに、南京事件って、中国の便衣隊が日本人を含む南京市民を虐殺して、駆けつけた日本兵に罪を擦り付けたんやん( ̄□ ̄;)ナンテコト
ホントに息吐くように嘘つくな、糞チャンコロは。。。
東京裁判?そんなもん、根拠もなしに一方的やったって、証明されつくしてるやろwwww
アンタは、どこの田舎モンやねん^^凸ハヨ カエレ 腐った中国にwwwwwww
2010/10/05 URL 編集
nukunuku
とはいえは、今の中国では、この手記を「日本を中国に、中国を日本に」置き換えて、偽りの南京大虐殺という、作り話を戦後繰り返し中国人に刷り込んできたんですよね( ̄□ ̄;)ガビィーン
チャンコロが全員悪党の悪鬼だとは思いたくないけど、幼少の頃から反日を刷り込まれている以上、危険極まりないのは、間違いない。私でも、この手記読んだだけでもチャンコロに対する殺意が沸々と湧いてくるもの(~~;)#
そんなチャンコロを1千万人も2千万人も移民で日本に入れて、参政権与えようとか、自殺行為にも程がある。
先ずは国内のチャンコロとチョンを全て帰国させて、日本人の日本人による日本人の政治を取り戻すべき。
帰化した元在日も一緒に帰したほうがいい。
その上で、国内充実させて、そこから、中国朝鮮以外と親密になっていけばいい。
その方が戦争で解決する必要も少なくなるかもしれないし。日本がチベットみたいになる可能性も少なくなる。
今、手を打たないと、外国人参政権や2割近いチャンコロが入ってきてからでは遅いもんね><v
排斥主義が平和につながるかもって、思った^^;wwww
2010/10/05 URL 編集
雄二
ヒトラーを公然と賛美する「ネトウヨ」がいるほど、日本の右傾化はかなり重症のように見受けられる。
「通州」ってどこの国の地方なの?何しに行ったの?虐められた通州の人々が反抗して侵略者に反撃しただけな話、侵略者は逆に訴えているようなもので、「南京虐殺事件」の方がよっぽど日本人犯罪者が裁かれるべきだ。当時南京にいたドイツ人が証言している。
2010/10/05 URL 編集
日本のハリマオ
北米・欧州・インド・東南アジア諸国・豪州を忘れてはならないだろう。
そのとき中国は元の木阿弥と化し、国の一切が崩壊して二度と立ち上がれなくなるであろう。世界から躊躇ない猛攻撃を受けるであろう。
この世の歴史で未だかつて悪党が栄えた試しはなく、
また栄えると云うことは断じてないのである。
君らに親があり先祖があり子供があるなら、
それが我が身のことならそんな輩に限って人一倍に
憐(あわ)れみを垂れ乞うのであろう。
卑怯な者はそれと同等以上の苦しみを味わうのは常である。
2010/10/05 URL 編集
稲おやじ
貴殿は正しく純粋なる日本人と確信致しました。
貴方様の日本を思う気持ち
祖国の為なら、ご自身の魂も捧げるとの御心
正しく日本人の鏡
素晴らしく感動致しました。
今後とも、日本の為に昼夜を問わず御尽力賜りますよう
宜しく御願い申し上げます。
追伸
申し遅れましたが
反ネトウヨ殿の御両親様はさぞや
素晴らしい凛とした御顔の大和民族と存じます。
御両親様に宜しく御伝えいただきますよう、今後とも何卒宜しく御願い申し上げます。
2010/10/05 URL 編集
怒涛
著者: 東中野修道、
発行所: 草思社
極機密文書 「国民党中央宣伝部国際宣伝処工作概要]をもとに検証!
南京大虐殺の源流は、虚報とプロパガンダ本だった!
2010/10/05 URL 編集
怒涛
著者: 東中野修道、小林進、福永慎次郎
発行所: 草思社
ー (南京虐殺) 証拠として通用する写真は1枚もなかった!
のべ3万枚を越す関連写真との比較照合、そこに写る影の長さの計測など、
あらゆる手法で143枚の信頼度を検証した画期的研究 -
2010/10/05 URL 編集
護国
2010/10/05 URL 編集
怒涛
「中国大虐殺史」
-なぜ中国人は人殺しが好きなのか ーなぜ残虐になれるか
著者: 石平 〔中国人ジャーナリスト、日本国籍取得)
発行所: ビジネス社
この英文訳は 「史実を世界に発信する会」
http://hassin.sejp.net/ で読むことができます。
英文: Society the Dissemination of Historical Fact
http://www.sdh-fact.com/ (A History of Massacres in China)
2010/10/05 URL 編集
素浪人
2010/10/05 URL 編集
ヒサア旧聞
この話を聞くと、ますますもってシナ人とは到底相容れることのできない民族であることがわかりました。
私が以前勤めていた会社はシナから梅干の原料となる梅を輸入していたのですが、その際に上司から「シナ人は梅の実でないものでも梅と言い張る習性がある」というふうな話を聞かされました。ただ、そのころはまったく国際社会にも精通しておらず、そういう類の話を聞いても「まあ、そういうこともあるか」ぐらいの認識でしか捉えていなかったように思います。今にして思えば、まことに恥ずかしい限りです。
そのよう話はシナでは取るに足らないことであり、こういうお国柄であればこそ毒ギョーザ事件やオリンピックでの数多くの捏造、インチキコピー商品の大量生産等々、どんな不正行為でも平気でやれてしまうのですね。長い間国際社会から締め出されていた理由がわかる気がします。
やはりシナ人は血を見るのが大好きな民族なのでしょうか。毛沢東政権以降も文化大革命に天安門事件、民族浄化の名の下に行ったウイグル人、チベット人の大虐殺と、列挙すれば切りがないくらいの大惨劇が繰り返されています。シナ人は世界一残忍で冷酷な民族です。そんなシナに媚び諂う菅、仙谷といった連中はいったいどういう神経をしているのでしょうか。尋常ならざる神経の持ち主であることは間違いのないところです。
私ひとりの力ではどうにもならないことですが、ひとりでも多くの人にこの真実を広めてゆきたいと思います。
2010/10/05 URL 編集
コピペ
まっとうな国民の皆さん、よかったですね。
いや~、メデタイ!
ところでバカウヨさん、ほんとは「反日映画」好きなんでしょ? できるたんびに大騒ぎしてるもん♪
2010/10/05 URL 編集
コピペ
あらたに決定的な資料を掘り起こすとか、大虐殺否認派がなした歴史学界への貢献は皆無と言わねばなりません。
それにしても、バカウヨさんたち。
いくら政府とマスコミの半分、インターネットという「日本社会の点と線」だけ牛耳り、この国を支配した気になったところで、そして国内でだけ「反日映画」を見せないよう頑張ったって、外の世界がこんな成り行きではぜんぜん意味がありゃしませんね。
「大虐殺なんて」とあいかわらず言い張ってるのは、地球上で日本のバカウヨどもとあのイカサマ臭い「テキサス親父」だけだしさ(笑)。
しかも、日本のバカウヨ政治家が先の大戦を正当化するようなこと口から出そうものなら、内外から猛烈に叩かれ、たちまち発言を撤回しなけりゃならないという現実。
これは日本が弱い国で嫌われ者だからじゃありません。
それどころか、平和国家としての大きな実績は諸外国から高い評価を得ています。
2010/10/05 URL 編集
反ネトウヨ
普通に日本人も認めています
2010/10/05 URL 編集
イシコウ
私は、心を開けそうにありませんが・・
2010/10/05 URL 編集
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2010/10/05 URL 編集
八目山人
よく見ろ反ネトウヨ。
http://www.youtube.com/watch?v=Nr_eThF6I00&feature=related
2010/10/05 URL 編集
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ここは憎しみが溢れていますね。
国によって情報操作をされているが、それを知らない日本人と中国人。そんなに違いますか?
2010/10/05 URL 編集
2010/10/05 URL 編集
プク
2010/10/05 URL 編集
YUKO
小学生の頃、腹を引き裂かれ腸が出た死体を児童会館で見た記憶が残っています。戦争で日本人がやったと説明してありました。もしかしたらそれは日本人でやったのではなく中国人の仕業なのではないのでしょうか。
そんな気がしてなりません。
私は英語ができません。
本当にどなたか今日の惨状を世界の人に伝えてください。
間違った戦争史観を覆す為にもどうかお願いします。
2010/10/05 URL 編集
手取川
日清戦争以後だとおもわれます。 日清戦争そのものの日本軍の死者はあまりいませんが、中国軍の捕虜になった兵士が何人かいたようです。 この捕虜を生きたまま無残な処刑をしたことが、中国軍と行動していた欧米の記者によって世界に知らされた。 これを知った日本軍は、捕虜になって惨殺されるより、死を選ぶ方を採用したといわれています。 実際には捕虜になっても、オーストラリアのように輸送機からジャングルへ突き落したというのもあります。 これは彼らの語り草になっている。 アメリカ軍も日本兵の遺体から金歯を剥がしたり、頭蓋骨を土産として持ち帰ったりしています。 今でも時々新聞などに出る。武運長久の日章旗の返還にしても、元は日本兵の遺体から剥ぎ取ったものでしょう。それでも返してくれるだけまだいいか。
つい先日もアフガ二スタンで、アメリカ兵が殺したタリバンなどの耳を集めて持ち帰ったとか。理解に苦しむ。
西大后も最も寵愛された側室の手足を切り、生きたまま便壺へ落としたのでなかったかな? 国のトップがそんな事をする国だから、その根性は今も残っている。あいつらを信用などしてはならない。
とにもかくにも中国人は、日本の常識など通用しない民族であることを今一度知るべきではないかと思う。
2010/10/05 URL 編集
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>博物館を建てるほどの証拠があり(爆)
出直してこいよ反日サヨクかシナ人かは知らんがな!
2010/10/05 URL 編集
反ネトウヨ
通州事件と南京大虐殺はどちらも昭和12年。
さらに言えば南京大虐殺は博物館を建てるほどの
証拠があり通州事件の比ではない。
何を根拠に南京大虐殺をホラ話とするのか
理解に苦しむ。
2010/10/05 URL 編集
真実
私は日本人が侵略して中国に酷い事をしてきたと思ってました。
南京大虐殺も本当だと思っていました。でもねずきちさんのブログや
以下の動画を見て、中国は日本人に対して、何も言う権利はないという
事がはっきり分かりました。
http://www.youtube.com/watch?v=Nr_eThF6I00&feature=related
2010/10/05 URL 編集
taizou
読んでるだけで疲労感を感じ、最後まで読めませんでした。
2010/10/05 URL 編集
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http://ameblo.jp/000hime/entry-10667583397.html
海外メディアのメールアドレスのっています。
2010/10/05 URL 編集
2010/10/05 URL 編集
涼子
ねずきちさんには申し訳ないのですが、
あまりにも残虐で、最後まで読めませんでした。
中国人・韓国人の残虐さはある程度知っていましたが、
ネットに掲載されている写真を交えて読むと、もう駄目。
2010/10/05 URL 編集
上総介三郎
ずっと以前から、毎日訪問させて頂いてます。
私は、もう堪えられない憤怒に満ちております。
日本人よ、どうか覚醒してくれ!
銭金、飯の種をシナ人半島人にちらつかされて、
魂を、日本人のDNAに刻まれた誇りを捨てないでくれ!
2010/10/05 URL 編集
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と言いたい。
2010/10/05 URL 編集
一庶民
こんな地獄絵図がこの日本でも起きようとしているのか
悪鬼どもの手引きをする者はあまりに多い
私ら庶民に出来ることは何だろう
2010/10/05 URL 編集
八目山人
当時、新聞が詳しく報じて、日本では大騒ぎになったと言っていました。
しかしアメリカの軍人などには、「また日本が嘘話を作って、シナの悪口を言っている。」などと言う人も居たそうです。
また事件の現場に欧米の記者を入れなかったので、欧米ではそれほど報じられなかったとも聞いています。
渡部昇一氏などは「あの時、欧米の記者を大々的に入れて、世界にシナの残虐性をアピールしておけばよかった。」と言っておられました。
2010/10/05 URL 編集
かざくるま
真実を知った、日本人は絶対にあきらめない。
反日勢力に苦しめられた日本人が大勢いるのだ。
私も日本を守ります。ねづきちさんGJ
2010/10/05 URL 編集
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2010/10/05 URL 編集
フリーチベット
2010/10/05 URL 編集