バックナー中将と石原正一郎大尉

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サイモン・B・バックナー中将
バックナー中将


先日、沖縄戦での高級参謀であった八原博通大佐のことを書きましたが、その中で、米陸軍バックナー中将について後日ご紹介しますと書かせていただきました。

大東亜戦争における沖縄戦は、米軍側では「アイスバーグ(氷山)作戦」と呼ばれるものです。

もともとは、日本の大本営が読んだ通り、米軍は台湾攻略計画の「コーズウェイ(堤防)作戦」を策定していたのです。

ところがフィリピン進攻の成功によって、日米の戦力格差が格段に開いたと確信した米軍は、台湾攻略作戦を棚上して、沖縄作戦の展開を決めた。
これが、昭和19(1944)年10月3日の出来事です。

この日、米統合参謀本部は、沖縄作戦の立案を太平洋地域総司令部に指示します。
太平洋地域総司令官は、米海軍のニミッツ元帥です。

ニミッツ元帥は、10月25日には、沖縄攻略のための「アイスバーグ作戦計画」を策定し、さらに翌昭和20(1945)年1月6日には、作戦概要を各部隊に通達する。

この計画は、実際に沖縄戦が始まる3月下旬までに何度も微調整され、おかげで作戦計画の細部に至るまで精巧なものとなります。

そして米陸海空軍統合作戦計画として完成した「アイスバーグ作戦」で、ニミッツ元帥の総指揮官のもと、参加兵力、54万8000人、軍艦318隻、特務艦船1139隻という大部隊による沖縄上陸作戦が展開されたのです。

欧州戦線を含め、これだけの規模の作戦は、世界史上に残る大作戦です。
沖縄の日本軍守備隊は、充分な装備もないまま、これだけの兵力を迎え討つことになったのです。

米軍の最前線に立つ沖縄本島の上陸部隊は、米国第10軍の18万2000人です。
指揮官は、サイモン・B・バックナー・ジュニア(Simon Bolivar Buckner, Jr)陸軍中将です。

バックナー中将は、南北戦争で、南軍の将軍であったサイモン・B・バックナーの息子です。

米国陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、アラスカ軍司令官としてアリューシャン戦線に従軍。その後、士官学校教官を経て、沖縄戦で上陸作戦の指揮官を委ねられた。

沖縄本島での戦いは、4月1日から6月22日まで、82日の激しい戦いとなります。

そしてこの戦いの中、沖縄県民を救うために、本土からは約1900機の特攻機が出撃した。

特攻隊の攻撃に対して、この頃の米海軍は、新開発の近接信管をもって対抗しています。

近接信管というのは、5インチ高角砲から発射される対空用の高射砲です。
この砲弾は、砲弾を中心に半径15メートルに電波が発射されていて、その電波が飛行機を察知した瞬間に炸裂する。
弾が当たらなくても、近くに特攻機が来ただけで、飛行機にダメージを与えて撃墜してしまうのです。

そんな近接信管による砲弾を、まるで弾で幕を張るかのように撃ちまくる。
若い日本の特攻兵は、そんな中を命を捨てて、海上に群がる米艦隊に突入したのです。

特攻機は、この時代、すでにオクタン価の高いまともなガソリンを搭載できなくなっています。
粗悪なガソリンで飛行場を飛び立っても、敵地に着く前にエンジンがオーバーヒートする。
整備に整備を重ねても、質の劣化したガソリンでは、飛行機の本来の性能もままならない。

それでも彼らは、力の出ない飛行機に250キロもの大きな爆弾を積んで、夜間、目視だけで敵のレーダー網をかいくぐって敵艦隊に接近し、特攻攻撃を行った。

米軍は、何十キロも手前で、すでにレーダーで何機が、高度何千メートルでやってきたのか、正確に把握しています。

そして大量の戦闘機で迎撃をする。
特攻機は、飛来する数十機の米軍戦闘機の出迎えを、重たい爆弾を抱えながらふりきり、ようやく目視で確認した敵艦に向かって突撃する。

敵艦からは、近接信管による砲弾が飛んでくる。
近くで炸裂した砲弾は、爆弾に仕掛けられた無数の鉄片とともに、特攻機と搭乗員に多大なダメージを与える。
大怪我をし、血まみれになった状態で、飛行機の体制をなんとか立て直し、特攻機は敵艦に向かう。

武力の乏しい、敵輸送艦を狙うなら、まだたやすいのかもしれません。
しかし、これだけ厳しい状態の中の特攻でありながら、彼ら特攻兵たちは、敵の軍艦や、空母といった軍用艦に対してだけ、攻撃を行っています。
武器を持たない敵への攻撃はしない。
それが日本の特攻隊員たちの武士道です。

こうした彼ら特攻兵の活動について、「当時の特攻機はほとんど撃墜され、実際に体当たりできた飛行機はなく、特攻は犬死にそのものだった」という人がいます。

これは違います。
申し訳ないが、そのことは、敵将のニミッツの一言がすべて証明しています。

沖縄攻略戦の総指揮官であったニミッツ提督は、18万人の地上軍を指揮する陸軍のバックナー陸軍中将に、次のような異例の申し入れをしたのです。

これは、米軍の戦時記録に、明確に残されている出来事です。

~~~~~~~~~~~~~
海軍は一日に1.5隻の割合で艦船を失っている。

5日以内に第一線が動き始めなければ、貴官の更迭を求める。
~~~~~~~~~~~~~

特攻機の攻撃が、何の成果もない犬死にだったとするなら、このニミッツ提督の言葉は、いったいどのように説明したらよいのでしょうか。

米軍の記録によれば、日本側の特攻攻撃により、米軍の軍艦34隻が沈没し、米軍の空母、戦艦368隻が重大な損傷を受けています。

特攻に飛び立った飛行機は1900機です。
おおむね4~5機の編隊で敵地に向かって飛んでいます。
攻撃回数を、1900÷5=380回とするなら、402隻の船に損傷を与えたという事実は、ほぼ全隊が、特攻攻撃で一定の成果をあげたということになります。
簡単な算数の問題でしかない。

それを「なんの成果もなかった」だと言いきるような連中には、正直、へどが出る思いです。

ちなみに話は飛びますが、北米大陸にいたインデアンは、日本人と同じモンゴロイド種です。

いまから約1万8000年前、地球気温が急速に寒冷化し、北極や南極の氷地帯が拡大して、海面が140メートルも下がって、北米大陸とアジア大陸、樺太、北海道、本州、四国、九州などが地続きになったのです。

そして急速な寒冷化に、食を失ったバイカル湖のあたりにいたモンゴロイドが、大移動を行った。
そして一部が太平洋を南下して日本に住みつき、一部がベーリング海峡を渡って北米に住みついてアメリカ・インデアンになっています(遺伝子の分析から)。

白人たちが新大陸と称して北米大陸に移民し始めたとき、そこには約800万人のインデアンがいたそうです。

そのインデアンが、殺され、抹殺され、いまや全員、白人の遺伝子を体内に持つ混血となって、人口は約35万人となっています。

武器を持たない北米インデアンは、次々と殺戮されました。

もはや、800万のインデアンの各部族が、どのような生活習慣をしていたのかさえ、わからないものとなっている。

ただ、北米のインデアンで、勇敢に戦ったアパッチ族などに関しては、いまではインデアン側の史料には何も残っていないけれど、白人の側の史料に、彼らがいかに勇敢に戦ったかの史料が、馬に食わせるほど、膨大な資料として残っています。

それと同じです。

日本で、いかにGHQが焚書をし、中共の工作員が古書を買いまわって記録を焼き、また洗脳に踊らされたバカな左翼偏向主義者に成り下がった一部の「教育者」や「平和主義者」を標榜する日本人が、いかに嘘八百を付きぬこうが、特攻兵や沖縄守備隊の勇敢な戦いは、「米軍の戦史」にさえ、きちんと残っている。

しかも大東亜戦争における米軍の記録は、自軍の被害について、その場で射殺もしくは炸裂を受けて即死した者だけが戦死、大怪我をして後方に運ばれた者は、戦死ではなく、戦傷者としてカウントしていたことなどは、いまでは誰もが知る常識となっています。

また、艦船においても、その場で轟沈したもののみが沈没、重大な損傷を受けて、2~3日後に沈んだ船は、記録上は損傷という扱いです。

日本の特攻攻撃が、米軍からみて、いかに恐怖であったか、事実を知れば知るほど、誰にでも理解されようというものです。

お話の脱線ついでに、もうひとつ言わせてください。

先ほど、「米軍の軍艦34隻が沈没し、米軍の空母、戦艦368隻が重大な損傷を受けた」と書きました。

そこに「輸送艦」の文字は見当たりません。

戦闘の勝敗だけを言うなら、敵に対するダメージは、ある意味、戦艦や空母よりも、輸送艦を叩いた方が、敵のダメージは大きいのです。

防御力が乏しく、食料、砲弾、ガソリン、兵員を満載した輸送艦を撃沈すれば、敵の戦力の消耗は計り知れない。
実際、日本軍の輸送船団は、南方戦線において数限りなく沈められています。

沖縄戦が始まる前に、沖縄から本土に疎開するために、沖縄県民を乗せた輸送艦は、3隻のうち、2隻までもが、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈んでいる。

しかし日本は、敵がどれほど強大であったとしても、こちらがどんなに寡兵であったとしても、どんなに不利な状況にあったとしても、防御力に乏しい敵輸送艦隊への攻撃をしなかった。

それが日本の武士の戦いというものだったのです。

ボクは思うのです。
日本はなるほど戦争では敵の物量の前に降伏したかもしれないが、すくなくともその振舞では、連合軍を圧倒していた。

さて、話が、脱線しました。

18万人の米軍の沖縄上陸部隊を指揮したバックナー中将は、果敢に沖縄戦を戦い、ついに5月24日には、日本軍の司令部のあった首里を制圧します。

日本軍の第32軍司令部は、南部島尻地区への撤退し、5月27日には津嘉山、30日には、さらに本島南端の摩文仁(まぶに)高地にまで、撤退します。

この時点で、第32軍は、戦力の80パーセントを消耗していた。

そして、八重瀬岳方面の日本軍守備隊の独立混成第44旅団も、6月14日には全滅します。
第62師団も、米軍の摩文仁高地進出を防ぐために全力反撃を実施して、6月15日、残存兵力の大半を失う。
6月17日には、喜屋武地区の第24師団も、師団としての組織的抵抗が不能になる。

こうした状況の中、6月18日午後1時15分頃、摩文仁高地の眞栄田の最前線の戦闘視察中のバックナー中将が、砲弾の破片を胸に受けて亡くなります。

受けた砲弾は、榴弾砲です。

最初の一発目が、中将の立っていたところから2メートルほどのところにある大きな岩に命中した。

中将は破片を受けて倒れる。
同行した米国人将兵も、爆風で吹き飛ばされたけれど、他は全員無傷だったといいます。

そして、海兵師団のサーキシャー2等兵が、バックナー中将に駆け寄った。

中将は、開口一番、「皆は大丈夫か?」と聞いたそうです。

サーキシャー2等兵は、
「将軍、大丈夫ですか、しっかりして下さい。あなたの家に帰りましょう」と励ました。

バックナー中将は、それを聞いて、力強く立ち上がろうとして、そのまま、どうと倒れます。
息は15分間ほどはあったけれど、結局、亡くなられます。

後に、日本側守備隊の牛島中将も亡くなっていますが、両軍の最高司令官が共に戦死するというのは、第二次世界大戦を通じて、極めて稀な出来事です。


このバックナー中将の死については、狙撃されたのだという説が、後年、日本国内で出ていますが、これは誤報です。

現に、このとき榴弾砲を撃った人物が生き延びています。
榴弾砲を放ったのは、当時、野戦重砲兵第一連隊中隊長だった石原正一郎大尉です。

部隊が位置していたのは、この丘から北に1300メートルほど離れた(当日車のメーターで測定)地点で、大砲を2門、草木で隠して敵がくるのを待っていた。

そこに、米軍のジープが来た。
敵が降り立ったのを見届け、砲弾を放った。

現地で大砲のあった場所から、バックナー中将の倒れた地点を眺めると、2000メートルくらい離れているように見えます。
これだけの距離で、よくぞ命中させることができたものだと、驚きます。

バックナー中将は、死後、沖縄に埋葬されますが、戦後、故郷に改葬されています。
そして、戦争が終わって9年目の、昭和29(1954)年、大将に昇進した。

榴弾砲を撃った石原氏は沖縄戦を、生き残ります。
そして、自分が放った砲弾が、バックナー中将を戦死させたことを、戦後になって知ります。

彼は、良心の呵責に悩み続けた。

世間では、あれは自分は狙撃したんだという者まで現れて、腹立たしいところもあったけれど、いまさら名乗り出るわけにも行かない。

結局、石原正一郎元大尉が、事実を明らかにしたのは、平成14(2002)年になってからのことです。

まさに、バックナー中将が亡くなったのと同じ、6月18日の琉球新報に、その記事があります。

~~~~~~~~~~~~~~~
【沖縄に通い続け慰霊、収骨続ける/元砲撃隊長の石原さん(東京在住) 】
(2002年6月18日 琉球新報)

1945年6月18日、米軍沖縄占領部隊総司令官サイモン・B・バックナー中将が糸満市真栄里の高台で日本軍の砲弾によって戦死した。

57回目の命日を前に、日本側の当事者である当時の野戦重砲第一連隊の中隊長だった石原正一郎さん(85)=東京渋谷区=が、中将の死について明かすとともに、44年間通い続けた沖縄への思いを語った。

石原さんが隊長を務める同連隊・球第4401部隊はこの日、真壁村(現糸満市真壁)に配備されていた。

昼すぎに「真栄里の丘に米軍幹部の車が集まってい る」との報告を受けた。

「双眼鏡で方角と距離を確認し、14人の砲手が作業を進めた。

残る砲弾は8発。
すべて4キロ先の丘に向け発射。

丘はがれきの山だった」 と振り返る。

これまで中将は、歩兵銃で狙撃されたとの説もあった。

しかし米軍側の戦死記録(米国陸軍省編/外間正四郎訳「日米最後の戦闘」)にも
「日本軍の砲弾が観 測所の真上でさく裂。

吹き飛ばされた岩石の一つが中将の胸にあたり十分後に絶命した」と記されており、石原さんの証言と一致する。

使用されたりゅう弾砲は戦後、米軍が保管していたが、石原さんが「戦友の遺品」として返還を要求。
現在、靖国神社境内に展示されている。

これまで事実を公にしてこなかったが、

「私ももう85歳。事実を語り残すべきだと思った」と話す。

昭和60(1985)年には、中将が倒れた高台に慰霊碑を建立。

「米軍人が戦友の墓参りをする場を作りたかった」という。

またドキュメンタリー作家の上原正稔さんの仲介で現在は、中将の家族と手紙のやりとりも行っている。

体調を崩す2年前まで、44年間、6月には沖縄を訪れ、遺骨収集を行い、慰霊祭に出席した。

「尊い命を奪われた人々の無念さを思うとやり切れない。
沖縄に通い続けたのは、生き残った者として当然やらねばならないことだから」
と話す。

「6月23日は、国の慰霊の日にしなきゃいかん」
と力を込めて語る石原さん。

今年も沖縄へ行くことはできないが、自宅で静かに手を合わせ23日を迎える。

~~~~~~~~~~~~~

石原さんの所属した野戦重砲兵第一連隊は、連隊長山根忠大佐以下739名が、戦没されています。
石原正一郎さんは、その連隊のわずかな生存者のうちの一人です。

この記事を見たドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)さんは、この記事を見て、石原氏の存在を知ります。

そして石原氏に会い、
「バックナーのご家族は、貴方を恨んだりはしないから、家族あてに手紙を書いてみたらどうか。手紙は、私が届けます」と話します。

そして上原氏は、石原氏が書いた手紙と、英訳した文章をバクナーの息子さんに渡した。

バックナーの息子さんは、
「そういうことは僕は一切気にしていません。
知らせてくれて有難うと伝えてください」とおっしゃられたそうです。
さすがは、南北戦争の将軍の家柄です。

戦場では、お互いが死力を尽くして戦ったのです。
バックナー中将の息子さんは、そこのことを知って、「気にしていないから」とメッセージを下さったのです。

時はすこし前後するけれど、昭和43(1968)年に、日本軍守備隊第32軍の総大将だった牛島満大将の奥さんと、バックナー中将の奥さんが、沖縄の摩文仁を訪れています。

牛島大将の奥さんは、バグナー中将が戦死された眞栄田の丘も訪れ、中将のご冥福をお祈りされています。
そして、バックナー中将の奥さんもまた、牛島大将が自決した摩文仁の司令部壕を訪れ、お祈りを捧げられた。
そして、お二人とも、「砲兵山吹之塔」に参拝された。

「砲兵山吹之塔」というのは、昭和41年(1966年)6月22日に、石原さんの寄贈により建立されたもので、野戦重砲兵第一連隊球第4401部隊、山根部隊長以下739柱、および、配属鉄血勤皇隊員12柱が祀られています。

そして、石原さんは、建立された年から、毎年欠かさずこの広場で年6月22日に催される慰霊祭に出席された。

「砲兵山吹之塔」と石原正一郎さん
(昭和63年撮影)
「砲兵山吹之塔」と石原正一郎さん


石原さんは、バックナー中将を倒した榴弾砲まで、戦後、米軍から譲り受け、これを靖国神社に奉納されています。

実は、このバックナー中将の死が、沖縄戦に大きな影を落としています。

バックナー中将は、前線を視察にたちながら、日本軍の統制のとれた戦いぶり、すくなくとも緒戦において、物量も兵力も圧倒的な米軍を完全に釘づけにした抜群の戦闘手腕に、牛島中将に対しても深い敬愛の情を持つようになったといわれています。

そこで彼は、急遽、在米日系人の沖縄出身者を投降の説得役として呼び寄せ、また、自ら筆をとって牛島中将に降伏勧告文を送ったのです。

気がつけば、牛島中将ととバクナー中将は、共に同じ年齢、同じ階級です。
そして、ふたりとも、陸軍士官学校の校長経験者です。
兵科も、歩兵出身です。
そして戦いは、双方とも果敢です。

バックナー中将は、そうしたことから、牛島中将に強い親近感を感じていたのです。
そのバックナー中将の投稿勧告文です。

~~~~~~~~~~~~
第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ

牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。

貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。
私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。

然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の使用する所となりました。
この上、貴下が戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。

私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を救助せられる事を勧告します。

明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待機させます。

貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。

昭和20年6月11日
米軍上陸軍司令官 中将 サイモン・バクナー
~~~~~~~~~~~

そして皮肉なことに、バックナー中将の投降勧告文書は、牛島中将が受け取る前に、バクナーが爆死してしまい、両軍の和解はできずに終わってしまいました。

ただ、ひとついえることは、牛島中将以下の沖縄守備隊の兵士達が、
戦争は、人類のもっとも汚ない面だけれど、ときに、人のもっとも美しい姿も見せてくれます。

私たちは、二度と、悲惨な戦争はしてはならないと思う。

けれども、だからといって、当時、戦わざるを得なかった状況の元で、果敢に戦った日米両軍の兵士たちを貶めるというのは、これは、人としてあってはならないことだと思います。

両軍が勇敢に戦った、その事実は事実として認めたところに、バックナー中将の奥さんや、息子さんたちのように、真の友情が芽生えるのではないか。

「彼を非し、我を是し、彼を是し、我を非す」のではなく、「彼も我も是し」田中に、はじめて、謙虚に歴史から学ぶという姿勢が現れる。

そうすることではじめて、互いに対立し争い合うのではない第三の道、すなわち互いに認め合い学び合い、協力し合うという建設的な道が開けてくるのではないかと思います。

そしてたいせつなことは、そういう建設的な思考は、ただ平和平和とお題目を唱えれば実現できるというものでは決してないこと。

平和を守るためには、常に血のにじむような努力が必要であるということも、忘れてはならないことなのだと思います。

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コメント

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No title
この話のどこが美化なんでしょうね?
どこかの誰かが隠そうとしてきた事実をそのまま書いておられるだけなのに。
左から見れば真ん中でも右に見えるのと同じで、ただの事実が美化と見えるのだから、さぞかし薄汚い根性の持ち主だろうと思いますよ。
過去を正しく見つめる事の何が悪いのでしょう?
事実を事実と言って何が悪いのでしょう?
捏造してまで卑下する事が平和への道?
日本人が誇りを奪われ俯いて暮す事は、日本人以外の誰かさんにとっては都合が良さそうですね。

iza6773

もう一つの特攻隊の話!
日本が終戦した8月15日過ぎたころ、ソ連は【日ソ不可侵条約】を破り、満州・樺太・千島列島を略奪した。
【北海道】を分捕ろうとソ連は企(たくら)んだが、朝鮮半島に待機していた【特攻隊機】に恐れをなして、諦めた!
★.現実に北海道に侵略した時点で、命を掛けて守ろうとした人達がいた事を忘れてはいけない!
また、条約を破り、シベリアへ強制連行した日本兵の補償を、今一度請求し直す事を進める。
条約は破る為にあるとソ連は言っているから、条約(請求しない)は無視して結構。

団塊

No title
特攻犬死論のコメの方の、世代に興味がありますね。
僕の世代の頃は、教師の中にも特攻生き残りが居て、女性教師も特攻教師には特別(良い意味で)の感情を抱いてるのが子供心にも良く分かる感じだった。
そんな環境ですから、授業で特攻犬死なんて論題でしたよ。

思えば学校が腐り始めたのは団塊が社会に出てからなのかね。

やっぱり

No title
日本の反日左翼はただの売国奴です。

日本の国が滅びて喜ぶような者達は売国奴という呼び名こそふさわしい。

我々の御先祖様の残してくれたものをしっかり引き継いで子孫達に残していかなくてはならない。

其の大事な日本の伝統、文化、生活習慣をどんどん崩壊させる日教組、反日左翼、在日の特亜人は本当に最低だ。

日本の武士道が大事な事であり、それが国際社会から
尊敬を受けていた事は痛いほど理解いたします。
しかしながら中国のような輩と戦わねばならなくなった時
其の崇高な武士道を一時的といえど封印し彼らの弱点を
徹底的につかなければならないと勝てない事も理解いたしました。

日本が崩壊、滅亡にいたらぬようにする為にはいたしかた無いと思います。日本が滅亡しては元も子もなくなります。

イシコウ

No title
卑怯な真似はするな、言い訳はするな。
これが、小さい時に死んだ爺ちゃんが言ってた言葉です。

共通一次世代

No title
卑怯なことはしたくない。日本人は正々堂々と戦う。
何に於いてもそうやって前に進みたい。そう思うのが日本人だと思います。

全国で行なわれている日本でのデモの動画を見ても、やっぱり日本人でよかったと思います。
いくら反中デモでも、絶対に中国の国旗に☓印をつけたり燃やしたり踏んづけたりしようとは思いません。日本人なら誰もがそうだと思います。これも日本人の「誇り」だと思います。

☓印をつけた日の丸の前を背に平気な顔をして反日デモをする国会議員が国家公安委員長であることは極めて異常だと改めて思います。

先の戦争で日本のために戦い、日本を守りぬいた方々を延々と貶め、また、今日の自衛隊の方々をいとも簡単に「殺人集団だ」などと糾弾する反日左翼を絶対に許すことは出来ません。

「卑怯」といえば、昨日のニュースで、菅直人とインドのシン首相が握手をしている場面を何度か見ました。EPA(経済連携協定)締結。インドとの戦略的互恵関係・・。

EPAの締結に向けた交渉の開始をまず取り付けたのは安倍さんです!
しかし、あたかも菅直人の功績であるかのようにマスコミは報道しましたね。

外交における「戦略的互恵関係」という言葉は「価値観外交」とともに安倍さんと麻生さんが「自由と繁栄の弧」を理念として進めていたものだと思います。尖閣事件の時に菅がこの言葉を頻繁に使っているのを聞いて、とても違和感を覚えました。どういうつもりでこの言葉を言っているのか私には分かりません。安倍さんや麻生さんが中国に対しても使うこの言葉の意味と、菅のそれとは全く意味合いが違う。中国属国外交に等しい菅内閣が使う言葉ではないはずです。

そして勿論、インドとの関係も、そもそも安倍さんと麻生さんが連携プレーで築き上げてきたものであることは間違いありません。

マスコミは、安倍さんがインドの国会で「強いインドは日本の利益、強い日本はインドの利益」と訴えたスピーチ『二つの海の交わり』に対して、随所で30回以上の拍手が起こり、スピーチ終了後は聴衆が総立ちとなるスタンディングオベーションとなった(下記の外務省HPより)ことなど全く報道しませんでした。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_abe/iim_07/india_gai.html

また、麻生さんが引き続きインドとの連携を深め、いかに対中国包囲網を確立しようと努め、いかに国益を優先していたか、国民のどれほどが知っているでしょうか。↓

【『日印首脳会談』麻生、シン両首相、「安保共同宣言」に署名 】
http://www.youtube.com/watch?v=v0o1CUpBFrU

菅直人という人間は、味方が非難されているときは、庇うどころか自分は関係ございませんとばかりに雲隠れし、また、他人の功績を横取りする卑怯者ですね。

【インドのシン首相 国会演説 2006年12月14日 前編】
http://www.youtube.com/watch?v=Y5AW9EBGAms

↑安倍内閣の時に、国賓として来日したシン首相の国会演説です。
日本のODAに対する心のこもった感謝とパール判事の声明等について語られています。(3分あたりから)
壇上から見て向かって左側の野党席はガラガラです。民主党、社民党、共産党は欠席したんですね。(8分50秒あたりから)

国賓として来日し、日本への正しい歴史認識によって日本に対して最大級の感謝の意と今後の連携を伝え、素晴らしいスピーチを披露してくれたインドのシン首相。そしてそれを完全に無視する売国民主党とマスコミ。
彼らはシン首相の「戦後、パール判事の下した信念に基づく判断は今日に至っても日本で記憶されています」という言葉を余程聞きたくなかったんでしょう。

【インド首相の親日演説…中共との黒い友情は不要】(東アジア黙示録さんブログより)   
http://dogma.at.webry.info/200612/article_14.html

民主党は日本人の党じゃない。本当に吐き気がします。

-

No title

■スイス政府「民間防衛」に学ぶ http://nokan2000.nobody.jp/switz/

■スイス政府 『民間防衛』 http://www.amazon.co.jp/dp/4562036672/

ぷか

No title
中国を萌えさせる平和活動が活発化してる。
中国人の日本人差別用語「日本鬼子」をキャラ化して
中国人を萌えさせる平和活動に皆さんも参加しませんか?
ttp://suiseisekisuisui.blog107.fc2.com/blog-entry-1492.html
「ルール」日本鬼子の文字を入れる・角2本・薙刀・和服・女の子
ぜひ「pixiv」に投稿よろしくポコ♪

ローターリー

「バクナー中将の碑」がある糸満市の
者です。

10年ぐらい前になりますか、わたしの店に米人の夫妻が訪ねてきて「バクナー中将の碑」のことを聞かれたので、糸満市真栄里にある碑に車で出向いて案内した。

感激するかなと思ったが、「此処ではない、地形が違う」と言う。此処しかないが、、、と思ったが。ま、とにかく帰路に送り届けたのだが、、、、。

彼のかたは、礼も言わずに、偉そうにして立ち去った。
いまでも戦勝国。とでも思っているのじゃぁないか。と感じたが。

素浪人

当時の先人は優れて高潔…
だが、私が特攻兵ならば、攻撃しやすい輸送船を狙う。現代人たる私の限界かも知れんが、正直な所だ。自分の身を犠牲にするのだから、同胞を殺しまくっている敵を、少しでも多く地獄に送りたい、そう考えると思う。

-

No title
wktk氏のご意見に強く同意します。

戦前や戦時中に限らず、過去の日本の真実に肯定的だとみるやいなや、その人の人格まで攻撃する連中が大多数をしめる現代日本。彼らは自分たちが与えられた”自由”を満喫しながら、その”自由”を与えてくれた人々を貶めることで真実を隠してきました。しかし、いくら彼らが試みても”真実”そのものは曲がりもしなければ折れもしません。それはこの記事のバックナー中将の息子さんや石原氏が証明してくださっています。高潔(この言葉の意味すら、自称”平和主義者”には理解できないでしょう)な人々の行いを理解できるのは高潔な人々だけであり、高潔な人々とは人間です。

下賤な存在の主張は下賤なものたちにしか理解され得ず、人間の心を持たないものは人間を理解することはできません。”美化”とはまさに、真実を覆い隠すことを好むものたちにしか出来ないことであり、真実をありのままに伝えることは”美化”ではありません。真実を「美化だ」と唱えるのは、真実を好まないものたちだけなのです。

真実を好まないものたちは真実を知ることはなく、故に永遠に自らやその家族を欺き続けるでしょう。彼らは結局、家族も友人も持たず、人を愛することも知らない故に、そういう「普通の人間」の行動も思考も理解することはできないのです。

”自ら勇敢に戦った者にして初めて
英雄を心からほめたたえるだろう。
暑さ寒さに苦しんだものでなければ
人間の値打なんかわかりようがない。”
(ゲーテ)

京太郎

戦場は人間の真価が問われる究極の舞台
「戦場は人間の真価が問われる究極の舞台」
この言葉は、沖縄戦のレポートで最も執筆の多い、ドキュメンタリー作家上原正稔氏が語っているものです。
沖縄戦を「人間が人間でなくなる日」などと語るのは、偏った編集、捏造、更には史実を歪曲させている大田○秀氏を始めとする沖縄の左翼識者達です。
公の為に死を決意した人達に接した方々の証言やその場面を記述している中に共通した表現があります。
それは、「後光が射しているようだった」です。
沖縄戦が開戦する3か月前に知事として赴任した島田 叡
氏は、ねずきちさんのブログでも紹介されたように、指導者の鏡のような生き方をされ、今尚、沖縄県民の敬慕をあつめています。
島田氏の座右の銘「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」と沖縄県知事の内示を受けたときに「私が断れば誰かが行かなければならなくなる。私は死にたくないから、代わりに行って死んでくださなんて言えないじゃないか」と語られた事から、島田氏は沖縄県民の為に一命を捧げる為に赴任されたことは明らかです。
沖縄戦に散華された将兵の中にも「俺はここで武人として恥ずかしくない死を決断した」という人物は少なくありません。
上原氏は、戦場で勇敢な行動をするのは、普段ヤクザのように人を威嚇している者ではなく、ごく平凡な目立たない人物だとも言っていますが、これらの方々の多くは家族や友人との関係が良好な人物で、いざという時には利他に徹することのできる人物です。
戦場に美談は無いと言っている方は、金城和彦著「嗚呼沖縄戦の学徒隊」の一読を勧めたい。
沖縄では、凄まじい同調圧力によって公に語れていないだけであって、隠されている美談は沢山眠っています。
これは、県史の編集を手掛けた星 雅彦氏から聞きました。

wktk

No title
美化うんぬん言っている人はよほど読解力がないようですね。

「特攻機の攻撃が、何の成果もない犬死にだった」は嘘だと論じてるんですよ。
数字と証言を元にした論拠を美化ですか?
笑えないジョークです。
美化で言うなら中共や北朝鮮が一貫して行なっていますよ。どうぞ、そちらを非難されてはどうですか?

それと武士道。
青山さんが「武士道とは人のために死ぬこと」だとおっしゃっています。
これに私はまったく同意するんです。
たしかに特攻で戦況が変わるわけでもなく、特攻で散華された若き英霊の方々はこれについて大いに悩まれました。

彼らが悩み苦しんだ挙句、出撃前にたどり着いた境地は、「日本人の誇りのために死ぬんだ」ということです。

戦争に負けた後の祖国が一体どうなるのか?
英霊の方々はこれを非常に心配されていた。
白人に侮りを受ければ、日本人はそれこそ白人が植民地で行なってきたような家畜扱いを受ける。

特攻はいわばそれを回避させるための予防線です。
特攻で白人に植え付けられた恐怖が戦後の日本人を守ったんです。
「1億総玉砕」という愚かな考えが、白人に真実味を持って聞こえてくれば、日本人を追い詰めるようなことはできないでしょう。

確かに特攻は全面的に賛同を得られる行為ではないかもしれません。
ただ特攻で散華された英霊の方々は、一見愚かに見えるその死で戦後の日本人を守ったんです。

現代の日本人が当たり前に享受していることは、日本の未来のために懸命に戦った日本人の悲しみと苦しみの上に成り立っている。
彼らの思いを侮辱するのなら日本人をやめることです。
私が何より許せないのは、反日左翼が日本の過去の功績にフリーライドしていることです。

日本からは自由に出て行けるので、日本が嫌いなら日本から出て行くべきだ。

それとシナ人が調子に乗っていますが、これは日本人の強さを知っている人間がいなくなってしまったからでしょう。

おっさん

特攻隊の戦果にで感じたこと
昭和27,28年頃中学生でしたが、学校等で「特攻隊は犬死だた」と聞くことが屡ありました。私は聞いた瞬間腹が立っていました。大人が言っているので、何にも言えなかったのですが、とにかく腹が立っていました。私の親類に戦死したような人はいませんでしたが。私自身はその真逆でよくぞ戦ってくださったと思っていました。このブログを見て、その戦果をデーターで示されたことに感謝します。
皆さんのコメントを見ていると、戦争を美化してはならないと書かれていますが、このブログは戦争を美化しているとは思いません。あるがままをデーターで示されていることだと思います。武士道を言い募るなとのコメントもありますが、今の日本があるのはこの大東亜戦争まではあった武士道のお陰だと思います。今の日本はこの大事な武士道がすたれてしまっています。マレーシアの国会議員をされたラジャー・ダト・ノンチックさんは「昔の日本に帰れ」と言われています。全文は長いのでアドレスを示します。
http://ilovenippon.jugem.jp/?eid=364

経済界は金、金、金だけです。今回の尖閣諸島の領海侵犯犯の釈放にしても、武士道からはかけ離れ、しかも国際法を無視した、国際社会を破壊する行為でした。そのために世界中から日本は見下される立場になってしまっています。武士道を取り戻す必要があります。

愛国一途

軍事評論家=佐藤守のブログ日記より
軍事評論家=佐藤守のブログ日記 に「塹壕で母は生まれた」と題して
フリーパーソナリティ、ルポライターの富永麻子さんが、沖縄の海自第5航空群で話されたものが、朝雲新聞に『塹壕で母は生まれた』という題で掲載されたものを転載されていました。
是非お読みください!

沖縄戦でのこういった話を広めていきたいものです!


◎塹壕で母は生まれた 軍事評論家=佐藤守のブログ日記 2010-10-23http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/

■塹壕で母は生まれた
 21日、史料調査会で『普天間問題の本質を探る』と題して、当時の資料を紹介しつつ、如何に当時の報道がでたらめだったかと語ったところ、「データが全く違うので質問しようがない」という声が聞かれた。尤もであろう。
当時、『契約切れで国が不法占拠』『地主、明け渡し申請へ』(沖縄タイムズ)等と報じられ、一連の基地反対闘争に火をつけた読谷の『楚辺通信所』の実態を見ても、約15万坪のうち、60坪を所有する知花氏一人が反対していたのだから。
地主総数は443人、すでに契約書にはんこを押したのは442人、つまり、知花さん一人だけが反対していたのである。普天間もそうで、地主約2300人中704人が反対と報じられていたが、その所有面積は136万坪中600坪、99・5%は契約済みだったのだから、704名は意志強固な『反戦一坪地主』だった。
こんな民主主義のルールを無視したわがままな『行動』ひとつ、統制できなかったのが当時の政府だったのである。
とにかく、沖縄をめぐる各種報道には眉唾物が多い。ノーベル賞作家でさえ、ウソの資料を引用してのうのうとしている・・・。帝国軍人を貶めることに生きがいを覚えているのだろう。

ところで、先日後輩から、目頭が熱くなるエピソード記事のコピーが届いた。少し長くなるが今日はこれをご紹介しておきたいと思う。
フリーパーソナリティ、ルポライターの富永麻子さんが、沖縄の海自第5航空群で話されたものが、朝雲新聞に『塹壕で母は生まれた』という題で掲載されたものである。
≪私の祖母の話です。
太平洋戦争末期の沖縄戦の最中、祖母は那覇市首里の儀保に住んでいました。夫が兵隊に行った後、彼女は懐妊していることを知りました。
しかし、その頃(アメリカ軍の攻撃で)首里方面が危険だといわれ、逃げねばならなくなり、彼女は首里から南部へ逃げることとなりました。
日に日にお腹が大きくなり、初産であったので不安だったそうです。首里から南部の糸満市磨文仁まで逃げたのですが、たどり着いた防空壕の中はもういっぱいで、中に入れてもらえませんでした。懇願しても、妊婦が防空壕内で産気づき、大声でも出されたら困るということでした。そのとき祖母は「もうだめかもしれない」と思ったそうです。
野外をさまよっているとやがて陣痛が来ました。産気づいた祖母はその場にしゃがみこみ、「父ちゃん、ごめんね・・・」とつぶやいたそうです。戦地にいる祖父はまだ妻のお腹の中の赤ちゃんの存在も知りません。
地面にうずくまったまま、本当に自分はお腹の赤ちゃんと一緒に死んでしまうのだと思った時、ある一人の日本兵が塹壕を開けてくれ、「ここに入りなさい」と言ってくれたそうです。
そこは兵士が隠れる塹壕で、とても狭く横たわるスペースなどはなく、立ったまま入るような状況でした。彼女は戦争の中でも子供を生む覚悟をしていたので、自分でハサミや消毒液を持っていました。そこで塹壕の中で立ったまま私の母を出産し、自分でハサミを使ってヘソの緒を切ったそうです。
しかし、そこは戦場です。兵士がこもる塹壕に赤子を抱いた女がずっといられるわけはありません。周りを見れば拳銃や弾薬もおかれたままで、「早くここを出なければ・・・」と思ったそうです。そこで急いで自分が着ていたオーバーで赤ん坊をくるみ、外に出ました。
そこで驚いたのは、そこには武器を構えた日本兵がいて、彼女の周りを警戒していました。その日本兵の方が祖母のいる塹壕を守ってくれていたのです。その兵士は赤ん坊を見て、「無事に生めてよかった」と言ってくれたそうです。
続いて兵士は言いました。「こんな戦争の状況下で、もう一生出会うことはないだろう。だから、せめてこの子の名前を呼んでからお別れしたい。この子に名前をつけてもらえないだろうか」
それで彼女は「この戦争が早く終わってほしいから、日本が勝って戦争が終わるように『勝子』と名づけます」と答えました。
すると兵士は首を振り、「この戦争は確実に負ける。『勝子』ではいけない。この戦争からこの子が生き延びて平和な世の中で暮していけるように、平和の二文字から和を取って『和子』と名づけなさい」といってくれたそうです。それを聞いて、彼女は泣きながら「ありがとうございます。おっしゃるとおり『和子』と名付けます」と答えました。
日本兵は生まれたばかりの赤ん坊の頭をなでながら、「和子ちゃん、生きなさい!」と力強く言ってくれたそうです。
それが母の誕生日、6月3日のことでした。日本軍司令官が自決し沖縄戦が終わるのは、それからわずか20日後のことでした。
その後、彼女は米軍の捕虜となり結果として赤ん坊とともに生き延びることができたのです。おそらく祖母を塹壕に入れてくれた日本兵がいなければ母は生まれず、私も産まれてくることはありませんでした。
沖縄では、住民が日本兵に苦しい目に遭わされたといういろいろな話が残っています。でも、それは何より戦争が悪いのです。
いま、自分があるのは祖母を塹壕に迎え入れてくれた日本兵がいてくれたおかげだと、私は心から感謝しています。だからこそ、私は母が戦中の塹壕で生まれた話を少しでも多くの方に伝えていきたいと思っています。≫

私も沖縄でいろいろ「報じられていない」お話を伺った。悪意ある宣伝記事がはびこる中、こんなエピソードを知っていただきたく、無断転載させていただいた次第。

sunbird

美化は目を曇らせる。
 事実以上に美化の危険せいあり!事実であっても戦争に美化はつき物であり、弊害もある。

 戦争には勝利しか善はない。敗者のたわごとのたぐいである。と断ぜざるを得ない。勝つ為に総力を結集するのが戦争である。それもしないのが良いと孫子の兵法にある。

TEXAS

No title
真珠湾攻撃で、燃料貯蔵タンクを破壊していれば~~~と今でも思っています。

日本は、白人のインディアンに対する殺戮の歴史から何も学んでいなかったのでしょう。


東郷平八郎

No title
補給部隊を攻撃しなかったことが、武士道を振りかざすほどに美徳な行為だったなどとは、どーしても納得がいきません。
特攻隊は いままさに日本軍人・民間人を問わず攻撃をしている敵に向かって突っ込んでいったのです。
1週間先・一ヶ月先のこと考える余裕などなかった。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
近日発売
『日本書紀』(タイトル未定)

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