久松五勇士

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久松五勇士


久松五勇士(ひさまつごゆうし)について、お話してみようかと思います。

戦前は教科書に載り、誰もが知っていたお話です。
日露戦争における日本海海戦で、日本海軍がロシアの誇る世界最強艦隊であるバルチック艦隊を撃破殲滅したことは、みなさまご存知のことと思います。

このとき、ロシア・バルチック艦隊が、ロシアのウラジオストクにあるロシア太平洋艦隊と合流してしまったら、日本海軍に勝利はなくなります。

日本海軍が日本海の制海権を失うと、大陸にいる日本陸軍は孤立し、ロシア陸軍の完全に餌食となってしまう。

まさに乾坤一擲の大勝負とはこのことで、日本海軍は、なんとしてもバルチック艦隊がロシア・太平洋艦隊と合流する前に、これを叩かなければならなかった。

ところが、はるばる喜望峰を超えてやってきたバルチック艦隊を、日本はフィリピンのバシー海峡あたりで見失ってしまう。

バルチック艦隊はどこに行った!?
もしかするともうすでにウラジオストクに到着したのではないか。
太平洋を迂回するのではないか。
日本海を直進するのではないか。

さまざまな憶測が乱れ飛びます。
レーダーなどない時代です。
敵艦は、目で見て発見しなければなりません。

当時の日本海軍には、八方に手をまわして警戒、防衛、迎撃体制をとるだけの余裕なんてありません。
敵、バルチック艦隊を殲滅しなければ、日本に日露戦争の勝利はない。

そのバルチック艦隊を殲滅するためには、日本海軍の戦力を集結させなければならない。
集結させるということは、つまり一か所に集結するわけで、その集結している場所以外のところをバルチック艦隊が通過したら、もはや日本に勝機はないのです。

日本中が固唾を飲んでバルチック艦隊の行方を心配していた明治38(1905)年5月23日、宮古島の沖合で漁業をしていた奥浜牛という青年が、バルチック艦隊を目撃します。

奥浜牛の乗った帆かけ船の小さな漁船の近くを、バルチック艦隊が通過したのです。

バルチック艦隊も、彼の乗った船を目撃します。
しかし、たままた彼の乗った船が龍の絵柄の大漁旗を掲げ、沖縄の海人独特の長髪をしていた。
このため幸いなことに、艦隊側では彼を中国人と誤認し放置してくれたのです。

奥浜青年は、バルチック艦隊の通過を見届けると、即座に網をあげ、宮古島の漲水港(現・平良港)に、報告のために駆け込みます。

それが、5月26日の午前10時頃のことだった。

そして、漲水港の駐在所で状況を話し、すぐさま駐在所の警察官と一緒に、宮古島の役場に駆け込みます。

宮古島役場は、大騒ぎとなります。
いま、日本海軍が躍起になって探しているバルチック艦隊を発見したのです。
すぐさま日本海軍に報告しなければならない。

ところが、当時の宮古島には、通信施設がないのです。
無線も電話もない。

役場の重役たちは、島の長老達と会議をひらき、すぐさま石垣島にこの情報を知らせようと決意します。
石垣島には郵便局があり、そこからなら無線電報で日本海軍に知らせることができるのです。

しかし宮古島から石垣島までは、170キロの距離があります。
当時は、モーターボートも飛行機もヘリもありません。
あるのは、サバニと呼ばれる手漕ぎボートだけです。
サバニというのは、全長9メートル足らずの丸木舟です。

長老たちは、宮古島の島民の青年から、屈強な若者5人を選抜します。
選ばれたのは、松原村の垣花善、垣花清兄弟、与那覇松・与那覇蒲兄弟、久貝原村の与那覇蒲の5人です。

5人は、すぐに宮古島を出港します。
そしてなんと、15時間、ぶっとおしで丸木舟を漕ぎに漕ぎ、ようやく石垣島の東海岸に到着します。

ところが、せっかく石垣島に着いたのに、折からの干潮のために港に入ることができない。
やむをえず彼らは、潮が満ちるのを待って、ようやく港に船を付けます。

到着した時には、さすがに全身の骨が砕けるかと思うほど、5人ともくたくたに疲れ切っていた。

そこで港の住民に、郵便局はどこあるかと聞くと、なんと港からは険しい山を越えた反対側に局はある。
電話のある時代ではないのです。
車があるわけでもない。

5人は、疲れた体にムチ打って、30キロの山道を5時間かけて、走って峠越えをし、ようやく27日午前4時に、八重山郵便局に到着します。

局員は、5人から文書を受け取り、電信を那覇の郵便局本局へ打ちます。
電信はそこから沖縄県庁に打たれ、そこから東京の大本営へと伝えられた。

そのときの電文です。

~~~~~~~~~~~~~~~~
五月ニ八日午前七時十分 八重山局発
五月ニ八日午前十時 本部着

発信者 宮古島司、同警察署長
受信者 海軍部

本月二十三日午前十時頃、
本島慶良間間中央ニテ軍艦四十余隻、
柱、二、三、
煙突二、三、
船色赤ニ 余ハ桑色ニテ、三列ノ体系ヲナシ、
東北ニ進航シツツアリシガ、
内一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモアリ。

但シ、船旗ハ不明。右、報告ス。

~~~~~~~~~~~~~~~~

実際には、同じく28日午前4時45分に、海軍に徴発されていた日本郵船の貨客船「信濃丸」が、「敵艦見ユ」の文句で有名な、
「敵艦203地点ニ見ユ0445」を打電し、これが海軍軍令部が確認した最初のバルチック艦隊発見の報告となりました。

久松五勇士の報告が軍令部に着いたのは、午前10時なので、約4時間遅れです。

けれど、いまどきの「自分さえよければ」という考えからは、絶対に、絶対にこんなにたいへんな久松五勇士のような行動はできないです。

彼らが15時間もかけて、荒海を手漕ぎ船で乗り越え、さらに陸にあがって5時間も駆けに駈けたのは、彼らがたとえ本土から遠く離れた島の漁師であったとしても、公に奉じるという国家意識を明確に持っていたからであると断言できます。

戦前は、彼ら久松五勇士の物語は学校の教科書に掲載され、日本本土だけでなく、満州や台湾、パラオ、フィリピン、インドネシアなど、日本が統治した諸国の教科書でも広く紹介されました。

ところが久松五勇士に関する記述は、戦後GHQによる干渉がはじまると、すぐに教科書に、真っ黒に墨を塗られ、以後、教科書から完全に姿を消してしまいます。

でもね、みなさん。
やっぱり、久松五勇士って、絶対に「英雄」だと思うのですが、みなさんはいかがですか?

舟形の顕彰碑


上の写真は、もと海上自衛官の方が宮古島を訪れた際に撮影された、久松五勇士の舟形の顕彰碑です。

この方は、この顕彰碑を見て、次のように語られています。

~~~~~~~~~~
フネを支える5本の柱の一本一本が5勇士なのです。

この碑を見た時、私は船乗りとはフネに乗っている者ではなく、この舟形を支える柱のように、フネを海に浮かべ続け、海のを乗り切るためにフネを支え続ける者たちなのだと思ったものです。

雨、風、波の中でフネの中に入って来る水(船乗りはアカと呼びます。)をひっきりなしに汲み出さねばフネは沈んでしまいます。

また海の上では浮かんでいるだけでは到底目的地に到達できません。

潮流、風波の影響を考慮しつつ目に見えぬ目的地を思いつつそこへの修正針路を取らねばなりません。

久松5勇士はそのような意味に於いても、勇敢かつ稀有なる船乗りであり、宮古の人たちだけでなく、日本人が一様に誇りとできる勇者達です。
~~~~~~~~~~

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日露戦争 日本海海戦 「CG再現」


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コメント

ねずきち

海真珠さん、ありがとうございます
なによりの励みになります。ありがとうございます。
それにしても、素晴らしいご祖父様をお持ちですね。
日本の誇りです。

海真珠

有難うございます。
祖父の名前を見つけました。
全文は、読んでいませんがお礼がしたくてコメントしました。
久松五勇士の一人は私の父方の祖父です。
私が、生まれる前には亡くなっていました。
去年父もなくなり、先月には本家の伯母も亡くしましたので、近頃少しぼんやりしていました。
私の知らない話も知る事が出来て良かったです。

珊島

遅かりし1時間 (9)
「本月二十三日午前十時頃、
本島慶良間間中央ニテ軍艦四十余隻、
柱、二、三、
煙突二、三、
船色赤ニ 余ハ桑色ニテ、三列ノ体系ヲナシ、
東北ニ進航シツツアリシガ、
内一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモアリ。
但シ、船旗ハ不明。右、報告ス。」

「船色赤ニ・・」これは喫水線下の色でしょうね。「余ハ桑色ニテ・・」黒紫だと解釈しますが純然たる黒ではなかったのか、海の紺碧が映えてそう見えたのか。私が特に注意を引いたのが次の文です。

「東北ニ進航シツツアリシガ、
内一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモアリ。
但シ、船旗ハ不明。右、報告ス。」

遭遇時点での艦隊針路は北西のはずです。「海の史劇」でもそうでした。また「内一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモアリ」これは仮装巡洋艦「テレク」のことでしょう。ロジェストヴェンスキー司令長官は5月20日、陽動作戦のため太平洋進出を捕獲したイギリス船「オールドハミヤ号」と仮装巡洋艦「クバン」に命じ、さらに徹底を期するため22日に「テレク」にも太平洋進出を命じました。「坂の上の雲」では3隻とも22日となっていますが、「海の史劇」では「テレク」だけが22日です。このことからも遭遇日時は22日であることが裏付けられます「テレク」の針路も本では北東または北北東となっていますが電文では南東です。艦隊針路を北東というあたり、奥浜牛は方向を90°錯覚している感がします。

奥浜牛が釈放されたのが23日午後5時~24日午前零時の間で場所は宮古島北北西方350km~400kmの地点と推測しています。23日夜には第二戦艦戦隊司令官フェリケルザム少将が病死します。艦隊が北東に変針するのは25日の朝からでした。

ともあれ奥浜牛のマーリャン船はその時まで拿捕拘束された。そう考えないと空白の4日間が説明できないのです。「坂の上の雲」でも奥浜牛は駐在警察官に厳しく尋問された様子が窺えます。それは時間経緯の不自然さ、拿捕の有無を問われたためではないでしょうか。

珊島

遅かりし1時間 (8)
4日間が謎だと言いましたが、実は簡単なことなんですね。奥浜牛はバルチック艦隊に拿捕、拘束、曳航され取り調べられたことが十分に考えられます。艦隊は決して中国人として見逃しはしなかった。考えてみれば当たり前のことです。島は近くですし哨戒船かもしれない、そうでなくとも島に渡れば通報される恐れは十分にある。拿捕しないわけがない。小説には先入観を抱かされますね。

それでは、拿捕されたとして釈放された日時は、場所はどこでしょうか。そのヒントが吉村昭著「海の史劇」にありました。それによりますとロジェストヴェンスキー司令長官は5月23日午前5時、沖縄諸島西方海上にて石炭積み込み作業のため艦隊を停止させています。

位置は宮古島北方約300km、久米島西方約150kmの海域でしょうか。私はバルチック艦隊は宮古・沖縄本島ラインを北西方向にて横断したと考えています。北、もしくは北東であれば宮古島、久米島に近づきますので発見される危険性が高い。

石炭積み込み作業は午後3時30分に終わりますが、直後に司令長官は「戦闘準備を完了せよ」を始めとして命令をひんぱんに発します。そのため艦隊には多少の混乱が生じました。それは5時まで続きます。それゆえ奥浜牛が釈放されたのは午後5時以降ではないかと推察するのです。艦隊としては奥浜牛をできるだけ島から離したい、3時半釈放では島に近くてまだまだ安心できない。

ここでもう一度五勇士の電文を読んでみます。

珊島

おそかりし1時間 (7)
先に五勇士の宮古島出発日時には諸説があるといいましたが、当然ながらバルチック艦隊の第一発見者である奥浜牛の宮古張水港入港日時にもいろいろな説があります。「坂の上の雲」では郷土史家源武雄氏の説を紹介し5月26日朝としていますがそれは当時役人であった大野楠生の日記に拠るものです。

変化の少ない島の日常ですからバルチック艦隊発見の報は一大事であります。ですからこの日付はかなり確証が高いといえましょう。地元では25日説が有力ですが私は電報の発信日時からしても5月26日説が正しいと思っています。

そこで当然疑問に出てくるのが、5月23日午前10時の発見でありながら、5月26日朝の入港ではいくら何でも遅いのではないかと言うことですね。遭遇場所から宮古本島までは約150km、マーリャン舟速を時速5kmとしても30時間あれば到達します。遅くとも5月24日午後8時までには着く。

さらに「坂の上の雲」では実際の遭遇日時は5月22日であるとしています。吉村昭著「海の史劇」にも宮古沖縄本島間のバルチック艦隊通過日時は5月22日正午とあります。実際、私が博物館の展示電報を読む限りにおいても日付は5月22日とも読めます。当時の電信員のくせ字には悩まされますね。「今頃何だ、この電信は」という気持だったかもしれません。

話をもどします。実際の遭遇日時が5月22日10時であれば5月26日朝の入港までには4日間の開きがある。これが私にとって謎でした。

太平山

郷土の英雄を取り上げて頂いてありがとうございます
ねづきち様

私は宮古島の出身です。この度は我が郷土の英雄をとりあげて頂きましてありがとうございました。私も幼少の頃からこの話は聞いていたのですが、実は何が凄いのか正直わからなかった。というのも当時の私は沖の怖さというものを知らず、船は漕げば目的地につくものと思っていたからです。沖釣りで島から沖10kmの所に行き、凪と言われる2mの波を体験して初めて彼らの凄さを思い知りました。
知っていますか?沿岸では水平線まで見える海も10km沖では波が双璧のようにそそり立ち、さらには波上から波下までのアップダウンで平衡感覚を失って腹の中までひっくり返りそうな感覚に襲われるんです。なるほど板一枚下はあの世とはよく言ったものだと実感しました。
その中をあの5人は石垣島を目指したのかと思うと、その使命感と勇気に本当に尊敬せずにはいられませんでした。

帝国の強制で嫌だけれどもやらざるを得なかったと左系の教師やマスコミ達は言いますが、こんなの嫌々やったら絶対目的を果たせぬまま死にますって。強固な使命感に支えられたからこその偉業だと私は思っています。

珊島

遅かりし1時間 (6)
・5月23日 奥浜 牛 バルチック艦隊遭遇
・5月26日朝 奥浜 牛 宮古張水港入港
・同日午前10時 奥浜 牛 島庁報告
・同日 駐在警察官・奥浜牛 調書作成
・同日 駐在警察官、奥浜牛に印鑑作成を命令
・同日橋口軍六島司 八重山行き使者を募集
・同日垣花善 八重山行きを受諾
*5月27日 午前4時45分 信濃丸「敵艦隊見ゆ」打電
*同日 午前5時05分 連合艦隊出撃「本日天気晴朗なれども波高し」
・5月27日午前5~8時 奥浜牛印鑑持参捺印、調書完了
・5月27日午前8~9時 垣花善他4人石垣島向け大泊浜出発
*5月27日午後1時35分 連合艦隊戦闘開始下令、午後1時55分Z旗掲揚
「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ」
*同日午後2時07分 バルチック艦隊砲撃開始
*同日午後2時10分 連合艦隊砲撃開始
*同日午後7時10分 連合艦隊砲撃中止・夜間攻撃命令
・5月27日午後11時~28日午前0時 五勇士、石垣島伊原間海岸着
垣花善、与那覇蒲は陸路から、残り三人は西海岸を迂回し登野城へ向かう
・5月28日午前4時 垣花善、与那覇蒲 八重山郵便局到着
・5月28日午前8時10分 八重山郵便局「敵艦隊見ゆ」打電
・5月28日午前10時00分 大本営「敵艦隊見ゆ」受信
*5月28日午前10時53分 バルチック艦隊降伏

珊島

遅かりし1時間 (5)
ところで、五勇士の発信時間は電報により判明しましたが、五勇士がいつ宮古島を出発したのかは諸説があり定まっていません。司馬遼太郎著「坂の上の雲」では関係者の証言から5月26日午前9時をもとにストーリーを展開しているように見えます。日にちに関してはボカシていますが、同時に司馬氏は郷土史家源武雄氏の考証を記しています。それによると奥浜牛が張水港に入港したのが5月26日で5勇士が石垣島に上陸したのが5月28日午前9時すぎとなっています。

宮古島市総合博物館の展示資料では26日未明に出発し、同日午後8時ごろに石垣島の東海岸に着き、翌27日西海岸を迂回して午前9時ごろ八重山警察署に到着し打電したとあります。電信が届いたのが5月28日午後6時10分といいますから、いくらなんでもこれではあんまりですね。地元郷土史家のレベルが疑われます。またこういう解説文を平気で展示する宮古島市総合博物館もどうでしょうか。

そこで私が「坂の上の雲」と寄贈された電報を参考にして五勇士の行動を時系列にまとめてみました。以下がそれです。

珊島

遅かりし1時間 (4)
郷土史家たちは、どうして間違えたのか迂闊と言えば迂闊です。八重山局発、本部着の文字が見えたならそれが発信時間、受信時間を意味することはすぐ解することができたはずです。たとえそれが見えなくても電文では横書きはしないということが分かっておれば、それはすぐ判読できたでしょう。何よりも「前」の略字に注意すべきでした。

郷土史家たちは殆どが護憲派です。穿つつもりはありませんが、ある種の意図を感じずにはいられないのです。「遅かりし1時間」はデマで本当は海戦が終了して遅れに遅れて届いた。そう思いたかった、その先入観のなせる業でしょう。以下は博物館に展示されている「久松5勇士顕彰式」の説明文です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「久松5勇士顕彰式」

1934(昭和9)年頃から大阪愛日小学校校長稲垣国三郎を中心に、「日本海々戦秘史」「遅かりし1時間」「久松5勇士」のキャッチフレーズのもと、この漁師たちを顕彰しようとする運動がすすめられた。

その結果、1935年5月27日の海軍記念日には、海軍大臣から漁師たちに表彰状と銀盃が贈られ、更に、同年12月には、久松小学校に於いて「久松五勇士顕彰式」が催された。この式典には稲垣校長も自ら来島し、郷軍愛日分会、愛日校職員、愛日教育界からの記念品贈呈を行うとともに、宮古教育部会員に対し講演等行った。

この顕彰式を境に「久松五勇士」の愛国美談が語られるようになったが、翌1936年11月に催された「独逸皇帝博愛記念碑建立60周年記念式」をも含めてこの「五勇士」は、日中戦争へ向けての世論づくりとして利用された要素を含んでいる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
どうにも冷たくて、嫌らしい表現ですね。いかにも反戦平和主義者が書きそうな文です。しかし、今回ねずきちさんのお陰で間違いを見つけることができたのは収穫でした。あの説明文は正さなければなりません。

珊島

遅かりし1時間 (3)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
久松五勇士

1904(明治37)年バルチック海のリバウ港を出発したロシアの太平洋第二艦隊(バルチック艦隊)は、1905年5月19日、安南の港を経由し北上した。日本の連合艦隊は、同艦隊に関する情報提供を全国に指令した。

このような状況下、5月23日午前10時ごろ那覇から宮古島へ向かう一隻の馬艦(マーリャン)船が東シナ海を北上する同艦隊に遭遇し、その顛末が宮古島司・橋口軍六に報告された。
当時、これを打電するには石垣島に渡らねばならず、橋口島司は警察署長と談義の上、久松から5名の漁師を選び、打電報告の任務を託することになった。

漁師たちは、26日未明、大泊の浜をサバニで出発、同日午後8時ごろには石垣島の東海岸についたが、引き潮と遠浅のため上陸できず、翌27日、西海岸の登野城に迂回。午前9時ごろ八重山警察署に到着して、ロシア艦隊宮古島沖通過の報告を打電させた。

ちなみに、この報告が海軍に届いたのは5月28日午後6時10分で、このころには既に日露の海戦(日本海海戦)は終わっていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私はそれを読み少々がっかりしながら、博物館を出ました。しばらくしてハッ!として立ち止まり博物館へ引き返しました。気になっていた小文字の意味が解ったような気がしたからです。あの文字は「前」の略字ではないかと閃いたのですね。

戻ってよくよく目を凝らして見ました。間違いない、「前」であればねずきちさんの電報と辻褄が合う。いわゆる午前となるとあの十八が発信、受信の時間になる、すなわち次の通りになります。

「   月  日 午   八時十分 」
  五  ニ八    前
「   月  日 午   十時   」

*八重山局発、本部着の文字はよく見えませんでした。時間の欄を横から読むと十八時となってしまいます。

午前10時と午後6時10分、もう大勢は決しており、8時間の差なんて変わりはないのではないかと思うでしょうが、午前10時はまだ戦闘続行中です。ロシア艦隊が降伏したのが午前10時53分ですから戦闘が終了してから届いた訳ではない。もしこんな表現が許されるなら、久松五勇士の電信は「間に合いし1時間」になるでしょう。

珊島

遅かりし1時間 (2)
いつの頃からか定かではありませんが、1980年代では五勇士の電信は日本海海戦が終わった後、届いたらしいというのが巷説から定説となっていました。その根拠は電報の出現にありました。ねずきちさんが紹介されたた電報です。

その原本でしょうか、現在宮古島博物館に展示されています。ねずきちさん紹介の電報を読んで、これは違うのではないかと疑問に思いました。ねずきちさん紹介の電報の日付時間は以下の通りです。

「五月ニ八日午前七時十分 八重山局発」
「五月ニ八日午前十時 本部着」

私はあの電文にあるのは受信の日付時間だけで発信の日付時間はなかったのではと思っていました。それで確認に博物館へ行きました。その電報は昭和49年7月9日に海上自衛隊沖縄航空隊司令1等海佐 杉浦喜義氏が寄贈されたものです。

ガラス越しから見る電文の文字は小さくてよく読めませんが、日付は五月二八日、時間の欄では横に十八と読め、下の分の欄には右よりに十と読めます。時間の欄では午の印字の下に手書きの小文字がありますがよく読めません。平仮名の「お」の字にも見えます。

私はそれで受信時間は五月二八日十八時十分、すなわち午後六時十分であると解釈しました。展示されている説明文のとおりでした。説明文を以下に紹介します。

珊島

遅かりし1時間 (1)
「禍福はあざなえる縄の如し」さん「sky」さんのコメントを読み、そうなることは分かっていてもやはり複雑な感は否めませんでした。その件に関しては一旦措くとして、久松五勇士が発した電報について新たな発見がありましたので、それについて述べてみます。

東宝の「日本海大海戦」が公開されたのが昭和44年(1969年)でした。今思うとよくぞ久松5勇士を出してくれたものだと感心します。これは沖縄の本土復帰への支援の意味もあったのではないかと私は推察しています。前年の昭和43年に第二次佐藤、ジョンソン会談で沖縄の本土復帰が約束されました。

しかし約束はされたものの、本当に帰れるのだろうかとの思いは子供心にも抱いており、私達は半信半疑でありました。何しろベトナム戦争は続いていましたから、そう簡単にアメリカが返すはずがないとの考えが強かったのですね。

昭和44年は島でNHKが放映されて1年ちょっとで、皆がテレビのおもしろさに引きつけられた年でもありました。その時の人気番組は石坂浩二主演の「天と地と」で前年の「竜馬がゆく」よりも夢中になったものです。「天と地と」に対抗したのか映画では「風林火山」が上映されましたが、私達生徒の間では断然「天と地と」に人気がありました。

謙信役においても同じです。石原裕次郎の謙信よりも石坂浩二の謙信に軍配を挙げる人が多かったですね。謙信の持つロマンチシズムは石原裕次郎謙信には感じ難い。それと富田勲作曲の「天と地と」のテーマ音楽が非常に感動的だったせいかもしれません。

前置きが長くなりましたが、そのような状況の中で観た「日本海大海戦」は本当に明るかったと、夢と誇りを与えたくれた映画だったと思います。本土復帰も約束され、島にとっては希望の光が見えた、「遅かりし1時間」を素直に信じていた時代でした。

当時は「坂の上の雲」は発刊されていませんでしたが、今ふり返るにあの頃が宮古島の「坂の上の雲」だったかなとの感懐を抱きます。

※前田剛力様

ドイツの商船ロベルトソン号救助の話、紹介ありがとうございます。よくご存じで、大変驚きました。地元でも関心を持つ人は少ないのにと思うと感謝するばかりです。あらためて御礼申し上げます。他の話に対しても。

偏差値50

前田剛力様
 ブログ主様にも匹敵する、お話のご紹介ありがとうございます。日本人って本当にすばらしい。

春風

No title
前田剛力 さま

すばらしい本のご紹介ありがとうございました。
早速購入しようと思いました。

本文にもコメント欄にも大感激しました!!

sky

沖縄は
私は、本土から沖縄に来て住んでいるのですが、やはりここは反日左翼に汚染されています。新聞、テレビはもちろん、本でも偏向報道や捏造が、日々垂れ流されています。

文化も中国に影響されているものが多いみたいで、中国になってもいいと思っている人がいました。
本土の人たちが思っているよりも汚染されています。

こちらへ来た頃はきれいに見えた海も、ほとんどの海岸が埋め立てられて、珊瑚は離島へ行かなければほとんど見れないし、排水がそのまま海に流れていたりします。
今さら、辺野古の埋め立てをどうのこうの言う以前の問題です。

私は沖縄に住んで、沖縄が嫌になりました。
本土へ帰ったら、もう沖縄へは来たいとは思わないでしょう。

Sugar

国を愛する熱き心に感激いたしました
初めてこのお話を知りました。ロシアに勝った事は知っていながら、ハラハラ、ドキドキして読ませて頂きました。沖縄の人達の国を思う熱い心に感激いたしました。このお話とは真逆の、先日のホリエモンなる輩の「尖閣なんて小さい島なんてあげてしまえばいい!何か問題がありますか?」という怒りを禁じえない発言をどうしても思い出してしまいます。海底に数多の宝が埋蔵されている海だからこそ中国が侵略に来ていることも、沖縄の方たちの国を守る熱き心を無にするこのような発言は本当に情けない事だと思います。

禍福はあざなえる縄の如し

沖縄が手遅れになる前に何とかしたいですね
学生時代から付き合いのある友人の話です。この話を公開する事は本人から了承を得ています。

友人は沖縄が好きで、就職してからの何年かは毎年旅行に行っていました。レンタルスクーターで現地を回り一人旅を楽しんでは土産話を聞かせてくれていました。

ところが、ある年を境に沖縄に行かなくなり台湾に行くようになりました。仕事が順調で旅先をグレードアップしたのかと思い、二、三年経った頃に理由を尋ねました。

彼は旅先で本当に美味しいものを食べたかったら、地元の人が集まる場所に行けば良い、という考えの持ち主で観光地から離れた所にある居酒屋などに出入りしていたそうです。その年もそうして町の人が集まる居酒屋で美味しい料理を楽しんでいたそうです。

で、1人の男性と意気投合してすっかり出来上がった頃基地の話になって、その男性は「沖縄からアメリカの基地を無くさないといけない!それが沖縄県民の悲願なんだ!」とやったのですが・・・・

友人は現実論者で、地政学的に沖縄に米軍基地がどうしても必要だと思っているのでそう言った所「何でそんな事を言うんだ!あんた、広島の人だろ(友人は広島出身
です)、広島はアメリカにあんな酷い目に遭わされたのに何で分らないんだ!」といわゆる

標準語

でひと時怒鳴り散らされ、その後数時間に渡って延々と説教をされたそうです。

彼は幾度か転勤していますが、首都圏での生活が一番長く、どんなに遠く離れた場所で出会っても東京の人間はすぐ分るそうで、実際7割ほどの確立で見抜くそうです。おそらく東京の人間が沖縄で反米運動をやっているのだろうと言っていました。

その件ですっかり沖縄が嫌いになってから、彼は台湾に行くようになりました。「台湾はいいぞ~」が口癖です。

杜若

No title
彼らの国思う勇気は賞賛すべきものだと思いますしこんな事実が今に伝えられないのは残念です。
当時は国民が一体になってこの国を守るとの意識が強烈にあったのだとも思います。

それに引き比べると、当時以上に危機的な状況でも多くの国民が真実からいつも遠ざけられる昨今はなんとも情けない状況です。真実を伝えないマスコミの罪は限りなく重いと思います。

前田剛力

少女二十三名の救助
この話も教訓例話辞典に載っていたものですが、これは外国、オーストラリアのシドニー港での救助劇のようです。
明治26年夏ということは分かっていますが、練習艦の名前は分からず、ネットで調べても情報はありませんでした。もし、何か分かればお教えください。

この話をずっとシドニーの人々が覚えていてくれれば、もう少し友好的になれるのでしょうが。

少女二十三名の救助

 明治二十六年の夏、士官候補生に百人を載せた日本練習艦がオーストラリアのシドニー港に錨をおろした。その頃はまだ「日本」という国名もあまり知られていない時であるし、軍艦も小さいし、背の低い黄色い肌の候補生達が町を歩いていると、何しにきたといわんばかりに軽蔑の眼をもって見送る有様であり、子供たちは珍しがって、ぞろぞろとついてきて悪口をいうほどであった。
 それは投錨して三日目のことであった。その日の午後、港内で待ちの学校生徒の舟遊びがあり、二百隻にも余る大小のボートが、港一ぱいにこぎ回った。陽が傾きかけると、埠頭めがけて帰ってきたが、相当遠い所まで行っていた一隻のボートは町に灯が入る頃、やっと朗らかな少女達のコーラスを乗せて、薄暗い海面をすべってきた。
 そのとき急にきゃーつという悲鳴、恐ろしい水音、少女の泣き呼ぶ声が伝わってきた。大型のボートが転覆したのだ。
だが埠頭まではまだ遠い。港内には幾隻かの汽船が停泊していたが、どの船もこの恐るべき遭難を知らぬもののように、静まり返っていた。
その時であった。日本の練習艦から、さっと一条の探照灯の光が流れ出た。光に照らし出された海面には、覆ったボートにしがみついた少女達が、声を限りに助けを求めている。
「遭難だ、救助!」と艦長が叫ぶと、候補生達は先刻からの悲鳴を聞きつけていたので、ボート係りがボートをおろすよりも早く、海に飛び込んだ。
候補生たちの働きは目覚ましく、ボートにしがみついていた者はもとより、一度波に沈んだ者まで、一人残らず救い上げて二十三人の少女は艦載ボートで無事に埠頭に送られた。
 翌朝のシドニーの新聞には、前夜の椿事が大見出しで報道され、どの新聞も筆をそろえて日本候補生の勇敢と親切をほめたたえた。町の人達の態度もがらりと変わり、候補生達が町を歩くと、握手を求めるやらお礼をいうやら、かえって閉口するほどであった。
 その謙譲な態度が、なおさら町の人々を感動させ、翌々日には町の公会堂で、盛大な感謝の集まりが開かれ、全市民の代表によって日本候補生の万歳が叫ばれた。

前田剛力

軍艦春日の偉勲
これは軍艦春日が難破したイギリス商船乗組員を救出した話です。日本の周りの海は世界でも最も航海の難しい場所のようで、トルコ軍艦エルトゥールル号の救助劇にも劣らぬドラマがたくさんあるのですね。
でも救助された恩を忘れずに親日になる国もあれば、スッパリ忘れて反日もしくは嫌日、侮日になる国もある。民族性なのでしょうか。

軍艦春日の偉勲

 神戸から横浜に向けて航行中、大正十五年六月十五日午前三時、暴風雨のために伊豆神津島の南西銭洲の岩礁に擱座した、英国汽船シティー・オブ・ネープルス号(5937トン)乗組船長アール・オーマンノール以下、英国人十八名、インド人五十五名、、合計七十三名は、真二つに折れて岩礁の上に乗り上げたのち甲板上に集合して、激浪ほゆる洋上に恐ろしい夜を三晩明かしたが、救助のために出動した軍艦春日及び駆逐艦浦風乗組員の決死的努力によって、十七日午前八時までに全部救助され、春日に収容されて、午後五時半横浜に入港、英国総領事に引き渡されたが、一同はわが海軍の勇敢と親切に、泣かんばかりの感激と感謝を現わした。
 七十三名は皆男ばかりであった。「風浪依然として高く救助の望みなし」との浦風からの無線電信により、十六日午後五時横須賀を出向した軍艦春日は、陰暦七日の月光淡き洋上を急航し、十七日午前五時汽船遭難現場に到着し、ただちにカッター四隻を下して、乗組員の救助に取り掛かったが、遭難場所は岩礁が多く、風はやんだが、丈余の激浪が物すごく、カッターは木の葉のように翻弄され、一つ間違えば激浪とともに岩礁にたたきつけられそうな危険な状態である。しかし今救助しなければ、数時間後にはもっと荒れそうな模様となり、七十三名を見殺しにしなければならぬ。この時春日運用長坂部少佐は、第三分隊の金井一等兵とともに素っ裸となり、敢然怒涛の中に飛び込んだ。二人はようやくネープルス号の推進機の下に泳ぎ着き、縄梯子を伝って上甲板によじ上り、、カッターとネープルス号をつなぐ命の綱を張った。少佐が上甲板によじ上った時、そこに集まっていた船長オーマンノール以下五名は、感極まって少佐に抱きついて喜んだ。三昼夜にわたって浪風吹きすさぶ海上に呆然として救いを待った彼らが、少佐に抱きついて感激した時、あたかも旭光は海上に輝き出た。救助艇員は皆オールを立てて万歳を叫び、ほかにはたとえようもない荘厳な光景を現出した。
 軍艦春日は再生の喜びに包まれた七十三人を乗せて、十七日午後五時半横浜港外に投錨した。疲労困憊の中にも、遭難者はいずれも割合に元気よく艦上に立ち並び、出迎えのランチを見て、帽子を振り手を打って喜んだ。春日からは嚠喨たる軍艦マーチが吹奏された。やがて太田艦長は一行に別れをつげ、船長オーマンノールと感慨無量の握手をかわして「ではご機嫌よう」というと、船長は無言ではらはらと涙を流している。周囲に立ち並んでいる遭難船員の英国人も、一人として涙を流していない者はない。帽子のない者、カラーのない者、汗と油に汚れた作業着のままの者、いずれも直立のまま頭を垂れていた。そのうちに救われた英国の一人が、英国国歌を歌い出すと、一同は泣きながらそれに和した。そこへランチで出迎えの英国総領事ホルムンが上がってきた。まず太田艦長と握手、続いて船長と握手、互いに言葉もなかった。こうして、英国船員は、群がるわが水兵に別れを惜しみながら、六時十分ランチに移り、最後にオーマンノールが移る時、春日は静かに英国国歌を吹奏して餞とした。
 遭難船員の上陸とともに、各方面から集まった同情は非常なもので、着替えの洋服や見舞金などの寄贈が続々として届けられ、いずれも日本海軍の決死的救援と、日本国民の手厚い同情とに感激の念を燃やし、英国の新聞は筆を揃えてこれを報道して、感謝の意を表した。

前田剛力

宮古島島民のいい話
ねずきちさん、初めまして。
いつもいつも素晴らしい日本人のお話を有難うございます。これらのお話を読むたびに、日本人の素晴らしさに感動、感謝。ぜひ我々が次の世代につないでいかなければ、と思います。
今日のお話が宮古島の島民たちの英雄的な話でしたので、同じ宮古島の島民がドイツの船を救ったお話を読んだのを思い出して、ここに書かせていただきました。
これは「教訓例話辞典」という世界中の感動的な話を600話も載せた本からの転用です。ここにはほかにも戦艦春日がイギリス人船員を救った話やシドニー港で少女23人を救助した日本の練習艦の話もありました。

宮古島のほまれ
 明治六年ドイツの商船ロベルトソン号は、日本の近海で大暴風雨に遭った。帆柱は吹き折られ、ボートは押し流され、荒れ狂う大波の中に、三日三晩揺られて、ついに沖縄県の宮古島の沖で、海中の岩礁に乗り上げてしまった。
 船員たちは、壊れた船に取りついて、力の限り助けを求めている。
 この難破船を遥かに認めた宮古島の見張りの者は、すぐに人を集めて助け舟を出した。しかし、波が高いので、どうしても船に近づくことができない。止むなく引き返すうちに、日はとっぷりと暮れてしまった。仕方がないので、その夜は海岸に篝火をあかあかとたいて、難破船の人々を励ましながら夜を明かした。
 あくる日は風も衰ろえ、波もいくらか静かになった。島の人々は今日こそと勇み立って、海に乗り出した。舟は木の葉のように揺られ、たびたび岩に衝突しそうになったが、みんなは力の限りに櫓をこいで、やっと難破船にたどり着いた。救助はなかなか困難であったが、疲れ切っている十余人の船員を、一人残らず助け出して帰ることができた。
 傷の手当をしたり、薬を飲ませたりして、島の人々は親切に介抱した。言葉が通じないので、各国の国旗を出して見せると、初めてそれがドイツ人であることがわかった。
 ひと月あまりたつ間に、ドイツ人達は元気を回復した。島の人々は一艘の大きな船を貸してやって、ドイツ人を本国に帰らせることにした。出発の日、島の人々は鐘や太鼓をたたいて、にぎやかに見送った。幾人かの人は、小舟に乗って案内しながら、沖合いまで送って行った。ドイツ人達は涙ながらに手を振って、見えなくなるまで見返っていた。
 船員達は月日を重ねて無事に本国に帰ることができた。ドイツ皇帝カイゼルはこのことを聞いて大変に喜び、記念碑を作って軍艦で宮古島に送った。その記念碑は、今も島の海岸に立っていて、島の人々の美しい心をたたえている。

小倉っ子

久松五勇士の話。この度初めて聞きました。素晴らしい若者たちが1905年には居たのですね。日本を愛し日本に尽くし。今は売国奴の政府と首相、閣僚。日露戦争当時の日本に早く巻き戻さなくては。

赤いチューリップ

【重要】全国 要検討制度一覧
スレ違い失礼いたします。

全国 要検討制度一覧 (リンク・転載フリー) 
http://johokosa.blog98.fc2.com/blog-entry-7.html
※青字は個別の記事があります。意見募集終了後の更新など遅れる場合があります。

・ご自分や知人などがお住まいの地域が載っていないかご確認ください。
 もし載っていた場合は、知人にもお知らせください。
・「どのような制度か」など、ご自分でもお調べください。
 参考記事:
 自治基本条例と外国人参政権の関係  
 男女共同参画について 
 子ども権利条例について
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
有志のご協力をお願いします。

珊島

宮古島より(2)
案の定といいますか地元識者の意見もあってイベントは急速に萎み「平和への使者久松五勇士」にすり替えられ書状を持ってサバニ(琉球カヌー)を漕いで石垣へ行くという有様になってしまいました。民主党参議院議員喜名昌吉の白船「全ての武器を楽器に」の走りです。あれから20年、100周年に当たる今年は久松五勇士の顕彰イベントはおろか県内外でも全く話題にも上がらず忘れ去られた存在となってしまいました。日露戦争100周年記念も日本国家は何一つ祝することはないので無理からぬことだとは思いますが「久松五勇士よ今一度」桜チャンネルの皆様方には紹介したくここに投稿する次第です。<

http://www.ch-sakura.jp/oldbbs/thread.html?id=199892

今から5年前の投稿でしたが、現在の宮古島は当時と比べて変わったのかどうか、5勇士に関しては殆ど沖縄タイムス、琉球新報、地元マスコミから語られることはありません。NHKで「坂の上の雲」が放映されているのにも拘わらず、ですね。今年の年末には日本海海戦がいよいよ放映されます。久松五勇士が出るのかどうか楽しみにしていますがNHKですからあまり期待はできませんね。

>東宝の「日本海大海戦」ではこの青年たちの役を松山省二さんらがやってましたね<

名無しさん、そうでした、松山省二さんでしたね。私が覚えているのは島司役の田崎潤さんでした。

珊島

宮古島より(1)
ねずきち様

久松5勇士の紹介まことにありがとうございました。よもやねずきちさんから紹介されるとは夢にも思わず、望外の喜びにて感謝に堪えません。色々と感想を述べたいのですが、5年前チャンネル桜に投稿したものがありましたので、それを転載します。

>ガーランド様が教えてくれたHPを開いて見て今では全く見られなくなったあのタッチの絵が当時の情景とあの時代の雰囲気をよく醸し出していて「昔見たような絵だな」ととても懐かしく感じました。
http://web.hpt.jp/neuronal2/kaisen.htm

中でも私が驚嘆したのはある一枚の絵でした。宮古島久松5勇士がバルチック艦隊を発見する時の絵です。これまで久松5勇士の事は当時(昭和初期)新聞や雑誌でも報道され教科書にも載ったことがあると聞かされていただけに実物を見て驚いた次第です。(これは貴重な資料です。ガーランド様御礼申し上げます)

今から40年程前でしょうか三船敏郎が東郷平八郎に扮する東宝映画「日本海海戦」は久松5勇士が出ているということで島の映画館は連日超満員でした。島の首長を演じた俳優が「ここには無線はナャ〜ン」と島言葉を発するやいなや館内は笑いと拍手と指笛の渦で、老若男女何の屈託もなく誇らしく観たものです。

20年前の1985年、島では久松5勇士80周年記念として「久松5勇士を再現し先人が残した偉業を今一度振り返り後世に残していこう」とイベントが企画されトライアスロン開催と相俟って島は燃えていました。しかし県内マスコミはそれに冷ややかで「問題ありはしないか久松五勇士再現」というタイトルで批判の矢を浴びせました。

いわく「戦意昂揚のためには何でも利用する、という一つの例で国家が言い出せばデマでも真実になる類である」「何を今さら何の目的でという気がしてならぬ」「漁民の勇壮という表面よりも、その背景にこそ真実がある」「久松漁民は肉弾三勇士になぞらえて久松五勇士と称せられ愛国的英雄として映画や舞台でも盛り上げられ、国民の戦意昂揚に利用されていった」「軍国主義によってつくり出され戦意昂揚のために利用された久松五勇士はそっとしておくのが一番いい」等々です。これを読むと気が滅入るというか腹が立ってしまいますね。司馬遼太郎著「坂の上の雲」では暖かく肯定的に記されているのに県内マスコミはそれに言及することなく全く無視していました。

22

韓国人による日本人教育
独立記念館を見学した高校生の作文(上)
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-3310.html#comment

独立記念館を見学した高校生の作文(下)
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-3311.html



福島県は、韓国との交流推進に向け平成23年度、県内の高校生を「親善大使」として韓国に派遣する。県と韓国の伝統文化体験交流などを繰り広げ、高校生の相互理解を深める。

-

No title
東宝の「日本海大海戦」ではこの青年たちの役を松山省二さんらがやってましたね。

愛信

大阪府、過払い金返還で無償支援 債務者の負担軽減図る
大阪府、過払い金返還で無償支援 債務者の負担軽減図る
http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011020601000301.html

過払い金を取り立てに大活躍した当事者が、大阪府、
過払い金返還で無償支援これこそ正に税金の無駄
遣い。
詳細は
【カルト狂弁護団懲戒請求の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/sgm/sgm1.cgi

-

No title
久松五勇士という呼び方は知りませんでしたが、宮古島の人達がバルチック艦隊を発見し命がけで海を漕ぎ渡って連絡したという話は読んだ覚えがあります。たしか司馬遼太郎の『坂の上の雲』だったか。
乃木大将への低評価で最近は保守派からは批判も少なくない小説ではありますが、戦後ジャーナリズムの状況を考えれば、評価すべき点もやはり少なくないかと思います。

共通一次世代

No title
過去の歴史の中では、表に現れない「努力」、広く人に知られることのない「功績」があるのだと思います。

民主党がマスコミを使って国民を扇動し、政権交代ができたのも国民がそういった「見えない努力」「知られることのない頑張り」をそのまま見過ごしてしまったからだと思います。

ならアピールをすればいいじゃないかと言われても、日常生活の中ではさほど興味もなく、マスコミが騒いでいる時だけ耳を貸すような状況で誰がまともに聞いてくれるでしょうか。また、真面目に訴えれば訴えるほど、マスコミの一方的な「〇〇が悪」という刷り込みによってどんどんマイナスに追い込まれていくという悪循環でしかありません。

昨日、名古屋市長選挙が行なわれ、圧倒的な強さで河村市長が再選されました。

私にはそもそも名古屋市議会リコールから、「なんて独裁的なのか」という思いを持っていますが、名古屋市民も、また、他の国民もこの市長に対しては民主党の政権交代選挙と同じ方向で見ているとしか思えません。

テレビで名古屋市議会議長の短いインタビューを聞いたことがあります。冷静な方に見えました。
河村市長がこの一年議会を含め、どのような行動をしていたのか知りたくてネットで検索して偶然見つけたのが、この名古屋市議会議長のブログでした。↓

【横井利明オフィシャルブログ】http://blog.livedoor.jp/minami758/

今朝も、「朝ズバ」では、みのもんたが河村市長を生中継でインタビューして持ち上げていました。

私たちはマスコミの流す情報しか通常知り得ません。
この市長が議会に対してどのような態度で出席していたか。また、市議会議員報酬についての内訳、と市長給与の違いなど、様々な観点から冷静に見ることが出来るのは。むしろ上で紹介した横井氏のブログです。

名古屋も大阪と同じく「都構想」が持ち上がっているようです。今の仕組みを一気に破壊するかのようないわば革命的なものを強引に推し進めるのが河村市長や橋下大阪府知事だと思います。

民主党の政権交代も同じでした。
現実とかけ離れた状態で今の組織を全部潰し、一気に「構想」というよりも「妄想」に突っ走っていく。恐らく確信的にそれを行っている。彼らのやり方はひとつひとつ確実に承認を得ながらの「改革」ではなくて、「独裁」による「革命」に近いと思います。

その」妄想」に走った民主党は、与党になって現実との辻褄合わせが全くできなくなり完全に表のマニフェストが破綻していることは疑いようもありません。

しかし、まだ、懲りもせずに、中身をろくに知らないままに、市民や国民は「煽り立てる声」に流され、賞賛し、それを当然のごとく受け入れる。

議会で行なわれていることは何も知らないまま。

河村市長や橋下知事ら「煽り屋」が重要な地方の首長になっている現実が本当に恐ろしく感じます。

彼らの「名古屋を愛している」「大阪を愛しているからこそ」という言葉は将来何をもたらすのか・・・。

-

No title
いつもすばらしい話をありがとうございます。
現代の日本で同じような状況になった場合、ご指摘のとおり「自分さえよければ」という行動をするであろうし、そもそも反日マスコミの情報操作により大艦隊の所在がそんなに重要だということさえ気づかないかも知れませんね。

愛信

2月7日衆議院予算委員会審議中継を見ています
2月7日衆議院予算委員会審議中継を見ていますhttp://www.shugiintv.go.jp/jp/wmp.asx?deli_id=40770&live=yes&media_type=wb
(動画)
【動画ニュース掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
【動画ニュース最新版タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。

ありがとう
バルチック艦隊は、出航まもなく英国東方のドッガーバンクで
パニックに駆られて漁船を砲撃し、撃沈破したため、
英国世論が憤激し、親日反露熱が一挙に高まりました。
日本近海での漁船攻撃を回避したのも、
この一事に懲りたせいでしょう。
日本にとっては、災い転じて福となった好例と言えるでしょう。

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No title
毎回、貴重なお話ありがとうございます。 訂正をお願いします。 日本海海戦が始まったのは5月27日です。 バルチック艦隊を恐れたのは、ウラジオストックに逃げ込みそこを根拠地として、日本の輸送路を破壊するからでした。 この時点ではウラジオには有力な艦は残っていないと思います。 上村艦隊にやられたからです。

-

ねずきちさん、いつも有り難うございます
■國家や民族ばかりでなく、個人の場合でも同じですが、一人の人間を他の人間と區別し得るもの、詰り、その人をその人たらしめてゐるもの、それはその人の過去以外の何物でもありません。記憶喪失者の例を見れば、その事實はおそらく自明の事と思はれます。自分が何者であったか、どういう生き方をし、誰と附合つてゐたか、さういふ過去の記憶を喪失した人間は、同時に未來をも失ふのであります。過去を失へば、現在をも含めて今後どうして生きて行つたら良いか、何をすべきか、その方途も根拠も全く失つてしまふのです。人が未来に向つて行動を起す出發點はその人の過去であつて、現在そのものでは決してない。なぜなら、現在とは過去の集積そのものだからです。
(中略)
過去の歴史や傳統的な生き方を否定した以上、日本人が國家、或は民族としての連帯感、共同體意識を失つてしまつたのは當然の話で、その事に気付かぬ限り、日本は滅びると言つても、それは必ずしも私の脅迫的激語とは申せますまい。

田恆存「滅びゆく日本」(産經新聞 昭和四十四年二月一日)


■眞に學問を求める者は學問をする。自ら勉学せず、しかも與論調査か何かで「今日の大學は改革を必要とするか」と問はれれば、「必要とする」答へる。さういふ者に向つて(齋藤)緑雨はかう言つてゐる。

要するに學問は自己を諒解するの道にあらず、辯解するの具なり。

田恆存「教育の普及は浮薄の普及なり」(潮 昭和四十四年五月號)

久智

崇高な護国意識に敬意
おはようございます。
私達 日本人の祖先の皆様のその純粋で 崇高な護国意識と行動が、日本のみならず 周辺諸国の方々への共鳴と規範となっていた事に 改めて畏敬の念が沸き立って参ります。

GHQの干渉により この様な崇高な事実が 一時消されても、 今はこうして皆様と一緒に掘り起こし、伝え広めて行ける現在、護国観に日々新たな希望と、ご先祖様の方々に恥じぬ様 頑張らなければ。

本日は「北方領土の日」ですね、今から156年前 安政元年(1855年)2月7日に、当時の帝政ロシアとの最初の国境の取り決めがあった 日露和親条約が結ばれた日から 約90年後に 狡猾 残忍非道な方法で北方領土が蹂躙され奪われ、多くの日本人住民の皆様の命が犠牲になり66年目になる今年… 今の売国政権や過去の交渉に関する政治的スタンスはとにかく、改めて 国民の皆様と共に 強い危機意識を持って今日からまた頑張りましょう。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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