重巡洋艦「熊野」の生きざま



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重巡洋艦「熊野」
重巡洋艦「熊野」


日本海軍が誇る、重巡洋艦「熊野」の物語を書いてみようと思います。

津波に襲われ、多くの仲間がお亡くなりになり、瓦礫の山で生き残った人々に、さらに地震被害が襲いかかる。
それでも、頑張り抜いている東北の人々の姿が、なんだかかつて日本が誇った重巡洋艦「熊野」の姿に似ているように思えるのです。

「熊野」は、ミッドウエーや、レイテ沖海戦を闘い、仲間の艦が、みんな沈んでしまった中で生き残ります。
けれど満身創痍です。

そんな「熊野」に、敵は容赦なく襲ってくる。
艦が弱っているから、沈めやすいとでも思ったのかもしれません。

しまいに艦首まで吹き飛ばされた。
それでもまだ動き、闘った。

「熊野」は、結局最後は沈んでしまいました。
けれど、そのしぶとさに、世界がド肝を抜いています。

「熊野」はもともと、軽巡洋艦として造られた船です。
ですから、小柄です。
小柄で、ちっちゃいけれど、打たれても打たれても、立ち上がった。
その姿は、まるで日本人そのものです。


もともと、「熊野」は、最上型の4番艦です。
川崎重工の神戸造船所で建造されました。
艦名の由来は、紀伊半島にある熊野川に因んだといわれています。

最上型の巡洋艦というのは、もともとは軽巡洋艦枠で造艦されています。
出来上がってから、重巡洋艦になったという経緯を持っています。

ご承知の通り、明治38(1905)年、日本は、日露戦争の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を破りました。

このロシア艦隊は、世界最強と唄われる英国艦隊に匹敵する唯一の大艦隊です。
それが、アジアの小国、日本の艦隊に、いともあっさりと全滅させられてしまったのだから大変です。

まだ、世界が、「海を征する者は、世界を征する」とされた時代です。
日本の勝利は、世界に激震を走らせた。

いちばん危機感を持ったのは、英国です。
この時代、英国が支配していた地域は、地球上の地面の27%です。
その支配力の源泉にあるのが、大英帝国の強大な海軍力です。
それが破られる危険があるとなれば、危機感を持つのがあたりまえです。

戦後の左翼系歴史書などによると、ロシアにアジア南下の意図はなく、すでにこの時代には、力による支配の歴史は終わりを告げていたのに、日本だけが一方的にアジア侵略を目的として大国ロシアに挑んだなどと、バカなことを書いているものがある。

その解釈に従えば、大正11(1922)年のワシントン軍縮会議による、英米日仏伊の主力艦保有比を、5:5:3:1.67:1.67の制限も、平和のための良心的軍縮だったということになるけれど、とんでもない話です。

英ソ仏米は、「黄色い猿」を支配していたのです。
その一角が、「黄色い猿」によって、倒された。
そのことに彼らが危機感を持たなかったと解釈する方が、どうかしています。

この時代、欧米列強が支配していた地表は、英国に次いでソ連が16%、仏が9%、米が6.7%です。
英ソ仏米のわずか4カ国で、地球上の地面のなんと58.7%を支配していた。
その割合は、江戸時代から大東亜戦争の終結時まで、なんら変わっていません。

現実には、日露戦争が終わった翌年、危機感を持った英国が、まず、革命的巨大戦艦「ドレッドノート」を就航させています。
この船は蒸気タービン搭載した大型戦艦で、速度、砲の数、威力、装甲、どれをとっても当時のの世界最強戦艦で、これによって英国海軍に匹敵するバルチック艦隊を破った日本海軍よりも、海軍力で一歩抜きんでた。

明治35年には、日本と英国は同盟国となっていますし、その意味では、英国と日本は敵でなく味方同士です。
けれども、たとえ味方同士であっても、侮れない実力を身につけておく。

とかく日本人的感覚では、同盟して仲良しになったのなら、もう軍事は考える必要はないなんて甘いことを考えがちだけれど、硬軟両方を使い分け、常に強者の地位を保持することで、自国の安全と権益を守るというのは、国家外交の基本です。
そこに甘さはない。

一方、この時代の新興国家であるアメリカからみると、本来植民地支配というのは、他国の住民を働かせ、その富を自国のものとして国家の繁栄を図るというものなのだけれど、なるほど面積ではそれなりの植民地を持つとはいっても、そのほとんどは太平洋の島々とフィリピンです。いずれも島しょです。

そして、まだ植民地と支配地の確定していないChinaの北側にある満州地方は、もともと一年の半分が凍土となる荒地にすぎなかったものが、日本の進出依頼、荒地がどんどん緑豊かな農地に代わって行っている。
もし、アメリカがChinaの大地を支配するならば、そこで生産される食料は、米国民が生涯遊んでいても食べていけるだけの膨大なものになります。

その米国のChina支配にあたって、もっとも邪魔な勢力が、人種の平等と民族協和を高らかに歌い上げる日本だった。

米国からしてみれば、日本の軍事力を削ぎ、日英同盟を解消させれば、いよいよChina侵略が目前という状況です。

こうして開催されたのが、先に述べたワシントン軍縮会議で、これによって大戦艦の保有率では、日本を抑え込むことができた。

そこで大喜びで日英同盟を破棄させ、新たに英米同盟を締結するのだけれど、そうしたら日本は、巨大戦艦ではなく、小型の巡洋艦を数造りだした。

限られた予算の中で、国を守るために必死に知恵を絞った者が日本にはいた、というわけです。

そして日清日露の戦いを子細に検討すると、大艦もさりながら、実は日本の海戦では、小型艦が実に重要な働きをしている。
小が大を討つというのが、まさに日本軍の、これは陸軍も同じですが、お家芸です。

これではたまらんと、米国主導で開催されたのが昭和5(1930)年のロンドン軍縮会議です。

この軍縮会議には、米、英、日、仏、伊の五大海軍国が参加したのだけれど、そこで決議された条約の内容をみると、
「日本の補助艦全体の保有率を、対米比を、6.975とすること」などという記述となっている。
つまり、この会議におけるターゲットは、あきらかに日本であったということです。
この会議を裏で仕切っているのは誰かも、この一文で一目瞭然です。

日本海軍は、政府が勝手に決めてきたこの条約に対処するため、まだ余裕のあった軽巡洋艦の枠を利用して、翌、昭和6(1931)年、ロンドン条約でいう15cm砲搭載の軽巡洋艦4隻の建造を決めます。
これが、最上型巡洋艦で、今日のお題の「熊野」は、その4番艦にあたります。
そしてこの年10月には「最上」、12月には「三隈」の2隻が起工された。

昭和10(1935)年7月、8月に、この二隻は相次いで竣工したのたけれど、この最上型巡洋艦は、小粒だけれど、重巡洋艦に匹敵する艦載装備が施されています。

まず、20センチ主砲搭載の重巡洋艦に対し、15センチ砲の数で対抗しています。
しかもこの砲、いつでも20センチ砲に取り換えれるように工夫されている。
つまり、いつでも軽巡から、重巡に変更できるようにした。

加えて、対空火力が、とてつもなく強い。
まるで高射砲要塞です。

また防御面では、甲板や舷側の装甲がぶ厚くて、少々の魚雷や砲撃では沈められないよう工夫されています。

走行性能はとみると、エンジン出力はなんと、あの戦艦大和と同じ15万2000馬力です。超破格です。
この強力エンジンで、しかも艦が小さいから、速力はなんと37ノットです。
まるで海のフェラーリです。

さらに被害時の不燃化が徹底して図られていて、普通の戦艦なら木を使うところも、ぜんぶ鋼板が使われています。
しかもご丁寧に、木目調にしてある。
さらに毒ガス被害も想定して、ガス対策のための洗浄室まで設けてある。

軽巡洋艦と侮るなかれ。
中身は、大型戦艦に匹敵する、当時としては最先端の性能を持つ船として、就航したのです。

そして、洋上の訓練航海に出た。
このとき編成されたのが、第四艦隊です。
そこで、事件が起こった。

訓練中に台風がきたのです。
中心付近の最低気圧は、960ミリバール。
訓練海域では風速36メートルの暴風が記録され、高さ20メートルの高波が艦隊を襲ったのです。

この台風の影響で第四艦隊は、参加艦艇41隻のうち、19隻が損傷してしまいます。
とりわけ吹雪型駆逐艦2隻は、波によって艦橋から前の艦首部分が、まるごと切断されて波に持ってかれてしまった。

「最上」、「三隈」も甚大な被害を被ります。
強度上の問題で外板に亀裂や凹凸ができ、船体が歪んで一部の砲塔が旋回困難になってしまったのです。

日本近海での台風との遭遇ですらこれです。
実際に遠洋に出れば、波はもっと高く、風も雨もケタ違いです。
そうしたあらゆる災害に耐えれなければ、軍艦といえません。

この事故は、第四艦隊事件と呼ばれ、日本海軍は、このときの被害を受けて、海軍艦艇全部に、補強工事施を施します。
「最上」「三隈」は、そのために重量が重くなり、最高速度は37ノットから、35ノットに低下した。

こうした一連の事故や改装を経て、昭和12(1937)年、最上級軽巡洋艦の三番艦「鈴谷」、四番艦「熊野」が、完成します。

そして「鈴谷」と「熊野」は、昭和13(1938)年に、艦隊に編入され、昭和14(1939)年には、当初主砲として搭載されていた15.5センチ砲を、晴れて20センチ砲に換装し、軽巡洋艦から、重巡洋艦へと成長する。

昭和16年12月、大東亜戦争が開戦となると、「熊野」は、マレー上陸作戦、アンダマンやビルマの攻略戦、バタビア沖海戦などに参加し、次々と大きな戦果をあげていきます。
そして昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起こる。

この海戦で、「熊野」兄弟の長女にあたる「最上」は中破、二女の「三隈」は沈没してしまいます。
闘いの最中、「熊野」も米艦載機の攻撃で大被害を受け、混乱の中で「最上」と衝突事故まで起こしてしまうのですが、それでも「熊野」は沈むどころか、ますます強靭に敵への砲撃を加えます。
あまりの「熊野」の強靭さと火力に、むしろ米軍の方が、驚いたと記録されている。

不思議なことに「熊野」は、開戦当初から、数々の海戦に参加するのだけれど、敵の空襲でそれなりの被害を受けながらも、沈むような状況に追い込まれたことがまるでない。
これはもう、幸運としかいいようがない、ということで、戦争半ばからは、「熊野」が旗艦となり、「鈴谷」「利根」「筑摩」の3艦を率いて、第七戦隊となります。

そして、昭和19(1944)年10月、運命のレイテ沖海戦に第七戦隊は、栗田艦隊旗下で参戦する。

10月24日、栗田艦隊旗艦の戦艦「武蔵」は、米艦載機の猛攻撃を受けて、航行不能に陥ってしまいます。
戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15の威容を誇った栗田艦隊は、旗艦の武蔵が大破し、重巡の「麻耶」「愛宕」が潜水艦の魚雷で沈み、「高雄」も雷撃で大破、「朝霜」「長波」「妙高」も、中破して帰投していきます。

ところがこれだけの激しい戦いの中、なんと「熊野」以下4艦で構成する第七戦隊は、まるで無傷。
悠々と敵を倒し、さらに翌25日早朝にはサンベルナルジノ海峡を突破します。

そして夜が明けた午前6時44分、艦隊は艦載機を満載した米機動部隊を発見します。

これまで敵航空機にさんざんやられっぱなしだった艦隊は、喜び勇み、7時3分、敵艦隊に向けて主砲を発射します。

このときの敵艦隊は、米海軍の護衛空母部隊です。
兵力は空母6、艦隊駆逐艦3、護衛駆逐艦4です。

「熊野」は、猛然と最大出力で米空母に向けて一直線に詰め寄ります。
すると敵艦隊は、空母を守れとばかり、煙幕を張り、「熊野」が空母を目視できないようにしてしまいます。

目標が視認出来なくなった「熊野」は、さらに速度を上げる。

そのとき、煙幕の中から米駆逐艦の「ジョンストン」が、「熊野」の真横に飛び出してきます。
体を張って、「熊野」の突撃を阻止しようとしたのです。

日本艦隊は、もちろん「熊野」一艦ではありません。
煙幕から飛び出すということは、自身が敵前に身を晒すことになる、きわめて危険な行動です。
それでも「ジョンストン」は我が身を晒しながら、突進する「熊野」に向けて、5門の主砲を全開にして砲撃を加え、さらに5連装発射菅2基から10本もの魚雷を一気に発射して、「熊野」を倒そうとします。

距離、約9000メートルです。
もはや、敵空母は目前というところです。

「熊野」は、これまでの幸運を信じ、「ジョンストン」の発射した主砲や魚雷に目もくれずに、空母に向かって突進する。

7時25分、「熊野」は左舷から突進してくる3本の魚雷を補足。
やむをえず回避行動をとり、2本をかわします。
けれど、最後の1本が、「熊野」の左舷側から、艦首一番砲塔横に命中する。

大音響とともに、「熊野」は艦首の錨孔から前を吹き飛ばされてしまいます。

「熊野」は、双方の砲声響くど真ん中で、艦首から浸水が始まり、停船を余儀なくされます。
そして砲弾が渦巻き、米空母から次々と敵航空機が発艦してくる中を、必死で、吹き飛んだ艦首の修繕を行います。

そしてどうにか、時速20キロで航行できるところまで、回復する。

この間、煙幕から飛び出して「熊野」を叩いた「ジョンストン」に向けて、「榛名」が報復の主砲を撃ち込みます。

なにせ敵の姿が見えている。
日頃の訓練の賜物です。
「榛名」の主砲弾は、全弾が「ジョンストン」に命中。
さらに第十戦隊の「雪風」などが砲撃を加え、レイテの海に沈めてしまいます。

一方、艦首を吹き飛ばされた「熊野」は、これ以上の戦闘の継続ができません。
やむをえず「熊野」は、米軍の空母艦載機が、空を舞うレイテ近海を、12ノットという超ノロノロ運転で、単艦、修理のためにマニラへと後退します。

ところが、単艦で帰投する途中、おそらく上空から見る「熊野」は、艦首が吹き飛ばされていて艦様が変わっていたので見分けがつかなかったのでしょう。「熊野」はなんと日本軍の飛行隊に襲われてしまいます。
最初は水上爆撃機「瑞雲」3機です。
続いて艦上攻撃機「天山」1機が飛来し、爆弾を投下してきた。

幸い、命中弾はありませんでした。
「熊野」の乗員たちは、友軍機の錬度が落ちていること、彼らが敵味方の区別すら満足に出来なくなっていることを痛感します。

17時15分、ノロノロ走行を続ける「熊野」に向けて、米軍の爆撃機35機が、襲ってきます。
「熊野」は単艦です。航空隊の護衛もない。
しかも満身創痍です。

それでも「熊野」は、猛然と対空砲火を開始し、敵艦載機から投下された爆弾をすべて回避、そして撃墜こそできなかったものの、敵爆撃機を全部追い払ってしまいます。
すごいものです。

翌朝8時過ぎ、再び、米艦載機が襲ってきます。
戦雷爆合わせて30機の編隊です。

「熊野」は猛然と高射砲で対抗したのだけれど、うち3機が朝日を背負って目くらましで「熊野」に突進し、爆弾を投下する。
なんとか一機目の爆撃は回避したのだけれど、2番機の3発が艦橋と煙突に命中、「熊野」は25ミリ機銃群が全滅し、艦橋左舷の高射砲、高角測距儀、水上電探室が壊滅してしまいます。

そして破壊された煙突の鋼鈑が、横の高角砲に垂れ下がり、高角砲も使用不能になってしまう。
この戦いで、乗員40名が戦死します。
それでも「熊野」の乗員たちは、粘りに粘り、ついに敵戦雷爆を打ち払います。

しかし、煙突をやられた「熊野」は、ついに航行不能に陥ってしまう。

その「熊野」を、1時間後、さらに15機の米軍雷撃機が襲います。
「熊野」は、すでに航行不能に陥っている。
人で行ったら、瀕死の重傷を負った状態です。

それでも残った砲の全てを使いきり、砲弾を米艦載機の鼻先に集中させた。
そうすることで、敵機が雷撃行動をとること自体の阻止を図ったのです。
高速で空を飛ぶ敵航空機が、まさに雷撃しようとする瞬間を狙って、その鼻先に砲弾を集中させるのです。

こうして「熊野」は、15機の編隊の攻撃を、全部かわしてしまいます。
そして一発の命中弾も受けずに敵機を追い払う。
まさに練達の砲兵ならではの応戦です。

戦いの最中にも、乗員の一部は、艦の復旧作業をしています。
そして、10時過ぎ、「熊野」は、かろうじて航行できるようになる。

速度は時速18キロくらいです。
その速度で「熊野」は、必死でコロン湾に向かう。

15時、やはりレイテから後退してきた重巡「足柄」と駆逐艦「霞」がようやく「熊野」と合流します。

16時05分、コロン湾に入港。
油槽船「日栄丸」から燃料補給を受け、やはり撤退してきた重巡「那智」、駆逐艦「沖波」とも合流する。

そして敵に見つからないように、夜間に出航し、他の船とともに、10月28日午前6時にマニラ港に入港します。

ところがせっかくマニラに入港したのに、「熊野」は投錨できない。
艦首を吹き飛ばされて、主錨が失われていたのです。

そこで、先にマニラに入港していた特務艦「隠戸」に横付して、両艦を縄でくくり、工作部に応急修理をしてもらうことにした。

さすがは工作部です。
わずか6日で、めちゃめちゃに破壊された艦首を成形し、煙突を破壊されて使えなくなっていたエンジンを、8基のうち、4基まで復旧させてしまいます。

連合艦隊司令部からは、「熊野は青葉とともに適当なる護衛艦を付し、または適宜の船団に加入の上内地に回航すべし」との命令が出ます。

時間があれば、完璧に修理したいところです。
けれど、このままマニラにいたら、さらなる空襲を受ける危険がある。
それに、とにかく動ける以上、同じく日本に帰還するマニラの油槽船や海上トラック船を護衛しなければなりません。
それが帝国軍人であり、巡洋艦の使命です。

3日後の11月6日午前7時、「熊野」は、同じく巡洋艦の「青葉」とともに、日本に向かって帰投する輸送船団らを守って、マニラを後にします。

船団の速度は、わずか時速15キロです。
しかも「熊野」も「青葉」も、敵に襲われたときの迎撃用の高射砲の、肝心の弾薬が残り少ない。
「熊野」に至っては、この時点で使える砲塔は、一部の主砲と、25ミリ機銃30門だけです。
その状態で、「熊野」は、13隻の輸送船の護衛の任にあたった。

船団は、沿岸ギリギリを北上しました。
右舷を、ギリギリ岸に近づけていれば、敵潜水艦が襲ってきても、船は沖に向いた左舷だけ注意すれば足ります。

出発から3時間経った午前10時、リンガエン湾の北側で、艦隊は、哨戒にあたっていた米潜水艦団、「ブリーム」「グイタロ」「レイトン」「レイ」の4隻に見つかります。

10時10分、米潜水艦団は、日本の輸送船団に襲いかかります。

4隻の潜水艦は、わずか35分の間に、全艦が、輸送船団に向かって計4回の波状攻撃で魚雷を放ちます。

けれど、日本の船団は、この魚雷攻撃をいち早く察知して回避行動をとります。

最初の魚雷攻撃は、全艦が、これを回避します。
米軍の魚雷は、むなしく岸の岩に激突して爆発した。

2度目の魚雷攻撃も、全弾、回避に成功します。
輸送船はどれも小粒で、的が小さいうえに日本人乗員の操船技術が巧みなのです。

そうと知った米軍潜水艦群は、その標的を全艦、「熊野」に向けてきます。
なにせ船団の中では、「熊野」がいちばん的が大きい。

3回目の攻撃は、まず「レイトン」が6本の魚雷を全弾、「熊野」に向けて放ちます。
「熊野」はこれを回避するために、取り舵を切り、そのため背にしていた岸から離れてしまいます。

その直後、米潜水艦の「レイ」が、「熊野」に向けて、4回目の魚雷攻撃を仕掛けます。

「熊野」は、ようやっと動いているだけのエンジンを全開にして、そのうち2本をかわします。
しかし、次いで放たれた3本目の魚雷をかわしきれなかった。

3本目の魚雷は、レイテで直撃を喰らい、応急処置で修理したばかりの艦首に再び命中します。
「熊野」は、第一砲塔から前を、吹き飛ばされてしまう。

すかさず4本目の魚雷が発射されます。
これは「熊野」の一番機械室に命中し、機械室を破壊して隔壁を吹き飛ばします。

「熊野」は、この攻撃で、エンジンルームが浸水し、完全に航行不能に陥ってしまう。
船体は、右舷に8度傾き、26名の乗員が死亡。
残りの乗員は、手作業で海水を汲みだし、もはやようやく船が浮かんでいるだけの状況となります。

これを見た米潜水艦の「レイ」は、「熊野」に止めを刺そうと、「熊野」に近づきます。
ところが、そこには、海底に大きな岩が突き出ていた。
「レイ」は座礁し、船体をバックさせてこれを逃れるけれど、浸水が激しく、それ以上の追撃が出来なくなります。

そして魚雷を撃ち尽くした米潜水艦たちは、その場を去っていく。

この時点で「熊野」は、またしても航行不能です。
乗員たちの必死の作業で、なんとか浸水を喰い止めたものの、機関が動かない。

やむなく船団の中の油槽船で、曳航しようとするのだけれど、浸水を含めて1万トン以上の重量となった重巡洋艦を、2200トンの油槽船でまともに曳航できるはずもありません。

けれど、折からの追い風の幸運に助けられ、船団は、わずか時速3キロという、這うようなスピードで航行し、翌7日15時に、サンタクルーズ港に入港します。

サンタクルーズ港というのは、小さな漁港です。
なんの港湾設備もない。
とりあえず、そこで船を停泊させ艦の修理をしようとするのですが、そこに折からの台風が襲いかかります。

やむなく「熊野」は、輸送船団を先に行かせます。

いよいよ台風がやってくる。
「熊野」は、船首を敵に吹き飛ばされています。
ですから錨がない。

しかたがないので、錨口にロープを結んで岸につなぎ、錨代わりにしたのだけれど、やってきた暴風雨に、ロープが切られ、船が湾内を流され始めます。
そのまま岸辺に激突したら、一巻の終わりです。
乗員たちは、艦に積んであった約3トンのホーズパイプを海底に垂らします。
これがかろうじて、海底にひっかかり、ようやく艦が流されずにすんだ。
またしても「熊野」は生き残ったのです。

台風が去ったあとの11月12日、救難艇「慶州丸」が到着します。
「慶州丸」は、マニラから、第103工作部隊を乗せてきてくれた。

そこで乗員全員で力を合わせて、艦の復旧作業を始めます。

9日後、努力の甲斐あって、ようやくエンジンの一部が回復。
艦は、時速10キロほどで航行できるようになります。

けれど、あちこちで蒸気漏れを起こしています。
これでは、たちまち真水が不足してしまう。

そこで乗員たちは、なんと手作業で真水500トンを艦内に運び込みます。
500トンです。
よくやったものです。

しかも、ろくな設備もない艦内で、船の修繕中や、水を運び込んでいる最中に、どこからともなく米軍機が現れて、空襲を仕掛けてくる。
その空襲の都度、乗員の戦死者が続出します。
やむなく敵を追い払うために高射砲を撃つのだけれど、そのためにただでさえ不足気味の弾薬が、急速に欠乏してしまう。

11月22日、マニラから補給船がやってきます。
「熊野」は、高射砲機銃弾4500発と応急資材、糧食、軽油等の補給を受けます。
4500発とはいっても、30門の高射砲で割ったら、一門わずか150発です。

速射したら数分で、なくなってしまう。

25日、マニラから海防艦「八十島」が応援にきてくれます。
そこで、「熊野」は、負傷者を「八十島」に移乗させ、マニラの病院に搬送してもらうことにした。
けれど「八十島」は、出発直後に撃沈され、負傷者も、海に沈んでしまいます。

「八十島」を撃沈させた敵機は、続けて湾内にいる「熊野」に集中攻撃をしかけてきます。
迎え討つ「熊野」には、弾がありません。

「熊野」は、敵機めがけて、一発必中で弾を撃ちます。
連射したら、弾が持たないのです。
狙い定めて、一撃必殺。
あまりに正確な「熊野」の迎撃に、米軍機は、全機、離反してその場を去っていく。

残りの弾薬3000発です。
砲門1門あたり、残り、わずか80発しかありません。

数時間後、再び敵機が来襲します。
これは米空母「タイコンデロガ」の搭載機で、SB2Cという、米海軍の主力爆撃機です
しかも20機以上の大群です。

場所は狭い湾内です。
しかも「熊野」は、エンジン出力を全開にしても、時速10キロしか速度を出せない状態です。
そんな「熊野」に、海上の艦船爆撃を専門とする米軍のSB2Cの爆弾や魚雷が、次々と命中します。

まず、艦橋後部に1発が命中。
そして艦橋後部に、連続して2本の魚雷が命中。
一番砲塔横と飛行甲板横にも、1本ずつの魚雷が命中。
爆弾が二番砲塔に命中。
その他、数十発の砲弾を浴びて、ついに「熊野」は、左舷に傾き、そのまま転覆してしまう。
このとき、艦長以下400名も、一緒に海に沈みます。

昭和19(1944)年11月25日15時30分のことです。

沈没時、船を逃れて岸まで泳いでたどり着いた生存者は639名でした。
けれど、その大部分は陸戦隊としてフィリピンに残り、そのうち494名がフィリピンの山野で散華されています。

「熊野」の戦死者は、累計989柱。
乗員の9割に達しています。

~~~~~~~~~~

昭和43(1968)年のことです。
観光中のダイバーが、サンタクルーズで、海底に沈んだ「熊野」を発見します。

そして船内から、ご遺骨約50柱を海底から持ち帰っています。

~~~~~~~~~~

重巡洋艦「熊野」のお話をさせていただきました。

「熊野」の最後については、当時中尉として艦に搭乗していた左近允尚敏さんの回顧録が、ネットで公開されています。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-kumanonosaigo-sakonjyou.html

ご興味のある方は、ご一読されるとよいと思います。

どんなにつらくても、苦しくても、泣きたくなるほど悔しくても、周りに誰もいなくなっても、最後の最後まであきらめず、未来を信じて戦い抜くのが、日本人です。

重巡洋艦「熊野」は沈んでしまいました。
けれど、ボクたちは、「熊野」を忘れない。

そして、何があっても最後まであきらめずに戦い続けた「熊野」の心は、ボクたち日本人の心に、未来永劫、永遠に生き続けるのだと、思います。

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コメント

ポッポ

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横浜市の中隊長 様

重巡熊野については、呉海軍墓地に軍艦熊野の慰霊碑があるようです。
私は言ったことがないので詳細は分かりませんが、参考に紹介させていただきます。
ホームページは、「呉海軍墓地①」で検索しますと、判りやすいと思います。これの、1ページの巡洋艦の慰霊碑の写真の中に、軍艦熊野慰霊碑がありました。

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また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

ポッポ

No title
いつも、いい話をありがとうございます。
ミッドウェイのときに、巡最上と衝突したのは三隈ではなかったでしょうか? また、最上型は設計のときから条約期限終了後に手法を取り替えることを、考慮していたと思います。
その後保管されていた15.5cm主砲は、大和と武蔵の副砲に使用されたと記憶しています。

つべしろ

熊野の成り立ちがある
 現在の神社神道は日本書紀を基軸としている。神話の世界の話は、国津神=出雲、天津神=大和=天皇家祖神という2元論で語られ、出雲=根の国=黄泉の国という不吉なイメージを与えようとしている。しかし神道への深い思いがこういう、いじわるな解釈は本流の解釈として認定しがたい。
 しかし今年、先に古事記編纂1300年となり、日本人が神道や神話について深く考えることを内々戦々恐々と見守っているのは神道関係者の一角ではないだろうか。古事記はかつて禁断の書で宮中の奥に眠っていたとされている。それを、江戸期の国学者本居宣長が解釈付きで世に知らしめたため、宮中の五摂家をはじめとする古代から続く貴族たちは当時同様な思いでいたに違いない。
 五摂家は元をただせば、藤原鎌足にたどり着き、その子不比等が日本書紀の編纂時の有力者だったことを考えると、状況証拠だけで何となくその意図するところが分かるのである。天皇が万世一系として男系の血統を絶やさないことを大原則にしたがるのも、天皇の妃を自分の血族の女子を送り込み、外戚政治によって政権の中枢に永遠に居たいがためであった。現に、平安時代になると強力な外戚政治である摂関政治の形態を完成させ、藤原氏は大いに繁栄した。
 つまりは、先に出た古事記と後の日本書紀の差異と言うものは、藤原氏にとっての都合不都合で変えたものと言う見方が当を得ているのではないかと思う。特に日本書紀は、大化の改新で対立し滅ぼした蘇我氏を徹底的に悪者にしている。最近、蘇我氏側の聖徳太子を悪く言う本が散見される。お札に載らなくなって権威が落ちたのかとも考えたが、これも藤原氏側の現在まで至る勢力によって日本書紀的論法が復活しているのかとも取れる。そこでの古事記1300年なのである。逆に言うと明治というこの古代勢力の復活の反作用として聖徳太子や武内宿祢をお札に乗せたのはよいバランス感覚でそれだけの碩学の士がいたということだろか。そういうものは仏法勢力によって供給されてきてもおかしくはない。仏教の日本普及における要因は様々あるが、滅びた蘇我氏の貢献も多いのである。
 以上のことは歴史学の専門家では到底発言できない。喋ると仕事を干されるからだろう。藤原氏側の人間は歴史に絡んだ分野の学問でネットワークをつくり目立たないように学術の指向する方向性を制御している節がある。歴史学の分野の人間の奇行を聞いたりする。出雲からこれ以上考古学的大発見が起こらないでほしい。と発言する人間がいる。あるいは、旧石器ねつ造事件のようにあのような不正の情熱は学問上の名声欲しさでは説明できない不気味なものを感じる。これは古い貴族システムを戦前に復活させたためであるが、このような、天皇にまとわりついて権力を維持しようとしていたのは藤原氏に限ったことではないと思う。しかも天皇家の血統が長く続いている(ようにみえる)理由もこの様なところから来ているものと言えなくもない。それで、記紀成立前後の(物部)→(蘇我)→(藤原)の権力変遷を念頭に、記紀成立の背景と考古学的な情報を基に以下展開を行う。

 こういう視点で、出雲神話を考えると古事記にくらべ日本書紀は大幅にその記述が減じられているので、記述内容は藤原氏には不都合か不要だった。歴史的に考えると古事記成立時代に比べ日本書紀撰上720年は完全に文字時代にあり語部たちの顔色を窺わなくてもよかった時代だったかもしれない。
 しかし古事記も712年とそんなに変わらないじゃないかとの反論も出るが、著名な古事記研究者、三浦佑之氏によるとその時代より5~60年古いものだという。それは天武朝あたりになろうが、そのころに神話を語る語部がいたと出雲国風土記には報告されていて、藤原氏が蘇我氏を滅ぼした大化の改新も丁度その付近にあるから一つの時代の節目だったのだろう。
 それなら、古事記はどういう勢力を背景に書かれたかと言うと、その当の滅ぼされた蘇我氏系だったものと考える。天皇の祖神アマテラスと比肩させたスサノオは出雲地域で古くから四隅突出墳丘墓という石棺や石室を伴い墳墓表面に石を敷き詰めた様式の大型墳丘墓をつくり古くから作り、その作り方は後のたとえば蘇我馬子の石舞台古墳の方墳を思わせるものがある。さらに注意深く古事記を読むと、天地創造がおこり始めて具体的地点を指した地名が、国産み神産みをおこなった伊邪那美神の埋葬地、出雲と伯耆の堺の比婆山とあり、これも蘇我氏の本貫だった地点付近を指していることが考えられる。つまり天皇の祖神が現れる以前から、神々との関係があったことを匂わせる構図を取っているからである。具体的に言うと古事記では根之堅洲国とされる島根県安来市あたりであろう。
 つまり、古事記も日本書紀と同様、蘇我氏に都合のよい作りになっている疑いが濃厚である。しかし、神話があれだけふんだんにあるのは、まだ語部の力が強い時代に編纂されたものだからだと思う。内容を削るとその分の失業者が現れ、問題が生じたのではないかと考えられる。語り部は、今でいう有名歌手のような地位を占め、神話各部をそれぞれのレパートリーとして、その人選は何かコンクールのようなもので決まったように思う。そうしないと、選りすぐりの人材が集まらないし、その能力の高さゆえ高いブライドをもっていたことが出雲国風土記の内容からも見て取れる。彼らはそれぞれの勢力の代表なのだから。
私はこのような状況下の編集方針は、以下の4点であったと考える。(1)内容は削ってはならない(2)内容の単語単位の言い換えは韻を踏んでいれば許される。(3)内容の追加挿入も許される。(4)内容の順番の入れ替えもある程度許されるが大幅には許されない。ということが考えられる。(1)の理由は先述したが、(2)(3)も同様である。(4)はABCDEFの並びをABCEDFは許されるがFBCDEAは許されていないと考えることで古さの権威と言うものを尊重した。いや、古事記神話のメインテーマーは蘇我氏が最も古い天皇を超える名家であることをひそかに語っていることを考えると当然かもしれない。(2)は和歌の技法や現代のダジャレに通ずるところもある。
 神話時代は(天地神創造)→(出雲神話)→(国譲り)→(九州神話)と大まかにとらえられ神武東征に繋がる。ここで藤原氏が蘇我氏を滅ぼしたように蘇我氏も物部氏を滅ぼしている。あの強引な藤原氏でさえ日本書紀で蘇我氏自体の抹殺が出来なかったのは神話時代の出来事ではなかったことが理由と考えることもできるが、蘇我氏だって神話時代の編集方針に語り部の縛りがあることをここでは想定しているため、大豪族物部氏の神話がないのは不自然ではないか?と思われるのである(疑問1神話期物部不在)。これを解消しようとして出ていた書物である「日本先代旧辞本紀」は偽書とされているがそういった反動から重要視されていると考えられる。また、最も古い名家であると蘇我氏が言いたいのならもっと直接的に言うことが出来なかった理由もあり、そこに神話の複雑な展開の意味があるのではないかと言う疑問もわいてくる(疑問2神話展開の非直線性)。

 ここで、出雲の考古学的展開を述べてみる。銅剣銅鐸の大量出土が島根県にいくと喧伝されているが、いずれもお祭り(今のイベント)の集客力を高めそれで権威を競っていた社会だったので、ビッグイベントが流通経路を変化させるといった社会的インパクトはあったことは十分考えられるが、それが今日の天皇に続く王権の発達に必ずしともつながらない。つまり、古代天皇の武断的イメージに直結するのはやはり鉄器の流入に端を発する。大勢の集団を動員しないと農地面積の拡大と蓄財は出来ず、王の墓を巨大にできず、戦争により領土拡大ができないが、いずれも鉄器が青銅器よりも圧倒する。というかもともと青銅器は祭器、楽器、巨大食器などでいずれも現代のイベントものに登場するものに向いていたというのが金属学的性質上妥当であり金銀銅ともそういった性質で世界各地の古代文明で展開されている。青銅器は木器と鉄器の中間的加工性を有し、鉄器は石器と青銅器のバランスを兼ね備えた使用時の耐久性能をもっているという関係がある。よって、前者はソフト的金属素材であり後者はハード的金属素材である。ここでもちいたソフト/ハードの関係は、ハードの革命はたまにしか起きず、それが起こるとソフト的展開が発達するが、それが飽和すると次のハード革命が無いとそんなに発展がないという現在の技術発展状況の比喩をしているのである。つまり青銅器はある種の変化をもたらしたかも知れないが、依然縄文性の文化を色濃く残していたことを意味していたと見たほうがよいのではと思う。
 四大河文明圏などでは青銅器の時代が長く続いたので、金属を貨幣として用いる方法が広まった。その名残は、金がいまだ貨幣の代わりを狙っている状況に見て取れるが、極東アジアの事情は違い、青銅器なるものは断片的かつ短命で、鉄器に移行してようやく王権が確立し始めたとみるのが良いような感想を持つ。
 こういった状況の中、画期的な書物が出ていた。弥生時代の先端技術で鉄器充溢社会を想定させる四隅突出墳丘墓に関する本が「四隅突出型墳丘墓の謎に迫る」出雲市教育委員会編ワン・ライン(1995)にすでに出ていた。しかしそれは最も輝いていた出雲の西半分の話が主題となり、それが古墳時代になるとぶっ潰れて清々したような締めくくりになっている。しかし、それでもそういった弥生後期の全国に先駆け王墓をもった出雲というものが、基本的には東西の二極の方墳文化の中心地があって安来、西谷を中心とした構造をとっていたことを物語っている。これは黄泉比良坂を境界として根之堅洲国と葦原中国で出雲が構成されていたとする古事記の記述と全き合致を呈するのである(たとえば、安本美典著「邪馬台国と出雲神話」勉誠出版(2004))。
 全国に先駆け発展した王墓文化は大陸との結びつきの濃厚さを意味し、鉄器の出土数は北部九州に劣るものの多く出土し、それを効率的に使う集権的社会構造があったことを意味していると考古学者らも想定している。そういった先端的社会構造を持った出雲は弥生時代において既に北陸や東北と言った地方へ日本海沿いに展開した大勢力となったことが四隅突出墳丘墓の分布状態より明らかになっている。確かに北部九州が最も大陸の恩恵を受け、鉄器などの発掘数も最も多い地域であった。しかし彼らは吉備までを東限とし、それより東には鉄器が流通されていないことは考古学が明らかにして来たことである。

 以上のような考古学的状況から歴史作家;関裕二は、当時大和への鉄の供給を止めた九州に代わり、大陸から出雲経由の鉄の流入経路を作り上げたことにより、出雲は発展したと分析している。ここで想像されるのは、当時の吉備を西限とした当時の東日本の社会と言うものを考えると、縄文的文化圏だったと考えられる。大陸からの移民や難民が縄文社会をつくったことは教科書に載るほどの定説であるが、北部九州圏や吉備圏の弥生人たちは縄文的な社会と敵対関係を作っていたことが考えられる。一方、出雲のやり方は同じ弥生人(当時の大陸文化を背景に社会を構成したものを本文ではそう呼ぶ。) でありながら、縄文人により懐柔的方法で、日本海沿岸部の広域に短期間のあいだ勢力形成が出来たのであろう。多分、元帝国が短い期間で大帝国を築いた方法論から考えると、大幅に縄文的風習に寛容だったのではということは、出雲が縄文食である蕎麦の西限に位置づけられることからも想像できる。このころの大和あたりから青銅器がおびただしく出るが、縄文人社会でも青銅器は容易に作れていたとも想像できる。あるいはアニミズム的宗教観から青銅器製造には熱心になったものの鉄器に至ってはそれが及んでいなかったのかもしれない。とにかく、祭祀(イベント)を成功させ縄文系文化圏の一大流通拠点になっていたのは想像に難くない。そこで祀られていたのが大物主であり、未だに「大三輪(大物主)はんは、神武はんより先や」と奈良県民が言うというのも頷ける話である。
 このような縄文人の聖地に対し、弥生人たちは流通の拠点という物理的側面だけでそこを占領し、大和朝廷が出来たのが実際のところだろう。そのため大和朝廷は梅原猛がいうように、大和にいた神々を全部大国主に纏めて出雲で祀らせたのが出雲大社であるという旨を「神々の流竄」でいっていることは正しいと思われる。しかしそれでも縄文拠点であったという事実が、沢山の大寺院を建立してきたにもかかわらす奈良時代じゅう大和朝廷に不都合な影響(たとえば縄文人たちのテロのようなもの)を与え続けたため、ついに平安遷都を行ったというのがマクロ的に見た歴史的な真相ではなかったか?権力者同士の抗争に原因をもとめるものも多いが、首都移転と言うものはそういう動機では行われにくいと思っている。

 出雲神話とだいぶ外れた論調になっているという印象を持つかもしれないが、梅原猛の言が180度変わっているという声を聴くが、かつてのベストセラー「神々の流竄」も最近の「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」もどちらも当たっているという側面を持っているが、それを統合する意思が彼にないのが寂しいといいたくなる。
 それでは、すべて出雲神話がそういう縄文神の島流しのためにかかれているのかというとそうではない。入り組んだ構造をしている。まずオオクニヌシの神話は島流し理論で描かれているという説明は当を得ている。しかしイザナミやスサノオの話はそうではなく蘇我氏(あるいはそれ以前の大和で大きな力を持った葛城、賀茂系などの出雲系豪族)の伝承をかなり正確に伝えていると考えられる。つまり、王を中心とする国家の最初の提案者は出雲(蘇我系)なのだと。古事記には他にもこれを回りくどく言っている。オオクニヌシへも天皇家へも王権の証レガリアはスサノオ(蘇我系)が与えていると。つまり縄文/弥生とか大和/出雲という二元論がおかしいのであって端的に言うと、(縄文人)(出雲系弥生人=蘇我系)(非出雲系弥生人=物部系ほか)の三極構造の動きが大和王権(すなわち天皇制)の成立に深くかかわっているといった見方をする必要性を深く感じる。

 このように考えると、スサノオとオオクニヌシは同じ出雲神のグループとしてあつかってはことを見誤る可能性がある。オオクニヌシは多くの呼び名があり、多数の勢力の神々を習合した神だと考えられる。これらの、神々の中心は大和政権を、大和を中心として作り上げていった時に征服された縄文系の勢力の神々であったと考えられ大物主も含まれる。
すなわち、オオクニヌシの後半の話で「国譲り」の話は、大和で繰り広げられた縄文VS弥生の攻防戦だったものであろうしそれが書き換えられたものと見なされる。そのため、その後大和はニギハヤヒ(吉備系=物部氏)によりなんの大きな争いごともなく支配している構図が描かれ、神武東征の話がこれに続くのである。この改変をおこなったのは古事記に先立って物部氏によって書かれた建国神話の時点であろう。まだ征服されていない縄文人たちにお前らの神々は出雲にいて、大和にはいないからあっちに向かえといって気をそらそうとしたものと考えられる。
 この中で、物部建国神話を考えてみる。古事記は物部建国神話にスサノオ神話を書き加えたものとなっていて、ニギハヤヒの話も矮小化している。先に述べた物語の内容を削ってはならないという編集方針は物部氏が滅びたので通用しない。このくだりによって、物部氏は物部氏で天皇より古く、他の豪族より一つ頭上だということを主張していたはずである。そのほかはほとんど物部建国神話を踏襲しているが、神世七代のあたりは蘇我氏の国際的情報収集能力の高さを考えると海外の情報に触発され加筆されたのかもしれない。すくなくとも、伊邪那美の埋葬地が出雲と伯伎(伯耆)の比婆山とした内容は蘇我系の挿入があったとしてもおかしくはない。考古学的にも出雲は古墳時代に入ると、それまで出雲全域を支配していた蘇我系が、東部(根之堅洲國)は支配を維持したが西部(オオクニヌシの前半の話でいう葦原中国、後半は大和を意味している。)は吉備系(物部系)が占領し、そこにオオクニヌシを祀る出雲大社を建立したことが十分考えられるのである。西出雲はその後、古墳時代後期にはふたたび蘇我系が奪回に成功するが、その時点が物部氏の滅亡と時期を一にするのではないかと考える。このような顛末で、物部建国神話に出雲は導入され、それに蘇我氏がスサノオ神話を加筆することで古事記神話中の出雲神話は形成されていったものと考えられる。この西部出雲の奪回のことがスサノオによるヤマタノオロチ退治だったのかもしれない。

 古事記は近代に入り様々な影響を与えた。明治維新の尊王派の流れは古事記が発展を促した国学に源をたどることが出来る。それと薩長土肥の武士勢力を動力にして維新は成功するが、公家勢力が政治に関与するようになり、国家神道は日本書紀の理念で固められた。神社へ行ってみると良い。古事記風の須佐之男よりも日本書紀風の素戔嗚と書いたものの方が多い。今でも見えない力が働いていて伝統を愛するやり方に偏向がみられる。紙幣に聖徳太子や武内宿祢の肖像を載せることなどで中和する必要があると考えられる。

出雲古代ファン

古事記1300年旅行ルートのご案内
 鳥取県の白兎海岸での白ウサギの話のあと、オオクニヌシの神は、八十神にいじめられたあたりが鳥取県日野郡あたりで、その後根之堅洲国のスサノオ神からも試練を受ける。このあたりは島根県安来市あたりになろうかと思います。そうやって島根県松江市にある黄泉平坂を通って、出雲大社のある島根県出雲市へと向かいます。こうやって、オオクニヌシの神の移動に合わせて観光するのも一興だと思います。

愛信

5.11(木)国会大包囲! 日本復興の第一歩は菅民主党内閣打倒! 国民行動&国民大集会 中継を見ています。
5.11(木)国会大包囲! 日本復興の第一歩は菅民主党内閣打倒! 国民行動&国民大集会 中継を見ています。http://www.ch-sakura.jp/1428.html
平成23年5月11日(木)
13時00分 国会大包囲!国民行動
17時00分 国民大集会

【動画ニュース掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
【動画ニュース最新版タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。


愛信

【知と技のコラボ】次世代型植物工場と太陽光発電
【知と技のコラボ】次世代型植物工場と太陽光発電
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/09/20110509-052550.php

竹葉氏は約?年間にわたる植物生理の研究に取り組
んだ経験から、農薬を使わず、自然環境に左右され
ず安定的に野菜、作物を収穫できる植物工場の必要
性を強く感じている。 工場で生産する植物は人間用
に限らず、家畜や牛、馬の牧草などを1年中生産で
きる。 
養殖魚の餌にする藻類の生産も可能になる新規産
業の勃興、果てしなく広がる技術革新が興る。

【関連情報】
【燃料電池の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kfn/kfn0.cgi

【植物工場の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/sgr/sgr0.cgi
【植物工場のタイトル一覧】最新版はこちらをクリックして下さい。

a6m5

艦型マニア
画像は高雄型摩耶ですね、高雄型では摩耶のみ防空強化のため前部砲塔を2基に減らしてます。
日本は造船技術の高さから艦型が美しい軍艦が多い、アジアの中で日本だけが大国米・露を相手にできた所以か。

愛信

【時間変更】国会大包囲!菅民主党内閣打倒!国民行動&国民大集会
【時間変更】国会大包囲!菅民主党内閣打倒!国民行動&国民大集会
http://www.youtube.com/watch?v=NSx2DI87vpc&nofeather=True
(動画)
◆内容
平成23年5月11日(水) ※開始時間が変更になりました!
12時00分 準備(第二議員会館集合)
13時00分 国会大包囲!国民行動     
集合:第二議員会館前     議員会館前・首相官邸前・民主党前等での抗議行動
17時00分 国民大集会 
場所:憲政記念館講堂(~19時00分)     東京都千代田区永田町1-1-1 
TEL 03-3581-1651 
半蔵門線・有楽町線・南北線 永田町駅2番出口より徒歩5分
※プラカード持参可(ただし、民族差別的なものは禁止)
※国旗以外の旗類・拡声器の持込はご遠慮下さい
◆主催
頑張れ日本!全国行動委員会草莽全国地方議員の会
チャンネル桜ニ千人委員会有志の会
◆御連絡先
頑張れ日本!全国行動委員会
TEL 03-5468-9222
http://www.ganbare-nippon.net/
※ チラシ(PDF版)は こちら → http://www.ch-sakura.jp/sakura/H230511_flyer.pdf
◆チャンネル桜公式HP
http://www.ch-sakura.jp/

【動画ニュース掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
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愛信

【陸山会公判】「紙袋にお金入っていると思った」 現金授受同席の社長が証言
【陸山会公判】「紙袋にお金入っていると思った」 現金授受同席の社長が証言
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110510/trl11051013330001-n1.htm

【関連情報】
小沢の悪事マスコミ隠蔽http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/csozw.cgi
小沢の悪事政治経済http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/csozws.cgi

数え切れない悪行の数々、陳情窓口の一本化は民主党議員
であらずば国会議員にあらず。国際ODA事業窓口の一本化
は小沢一郎であらずば日本企業の受注かなわず。

【経済・政治の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj.cgi
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ミヤビ

私たちは「熊野」を忘れない!!
ねずきちさん
今日も素晴らしいお話ありがとうございました。

今も、被災地で頑張って下さっている方々と重なり、涙が出ました…

日本は、何千年も昔から、このような防人の方々に守られてきたのですね。

ありがたいことです。

また、Mlの方でも、ねずきちさんの解説楽しみにしております。

お忙しいでしょうが、よろしくお願いいたします

aixin

「日本から補償金」3万人だます 韓国の団体幹部ら摘発
「日本から補償金」3万人だます 韓国の団体幹部ら摘発
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110509/crm11050909470004-n1.htm

【関連情報】「併合100年『共同宣言』」 とは なんぞや?
http://blogs.yahoo.co.jp/success0965/archive/2010/8/6

仙谷氏が「友人」とする方(反日極左の高木健一弁護士)は、
http://www.youtube.com/watch?v=piYEA2VsQY0&nofeather=True
フィリピンや韓国の慰安婦補償請求訴訟などに深くかかわった
きた弁護士で、インドネシアの元慰安婦の登録作業を始めた
際には、現地人に強く勧め、実際には慰安所で働いていない
女性でも「何らかの性的被害にあった」と申告することになった。

【マスコミ隠蔽の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj4.cgi
【マスコミ隠蔽のタイトル一覧】最新版はこちらをクリックして下さい。

共通一次世代

No title
下記のコラム、皮肉りながら真意をついていると思います。↓

【『浜岡原発 天才菅直人 :』 小幡 績 2011年05月10アゴラ - ライブドアブログ】
http://agora-web.jp/archives/1324290.html#more

=========(一部抜粋)
菅直人が久々に政治家として力を発揮した。

彼ほど徹底したポピュリズムを目指し、かつ人気が上がらない総理は歴史上存在しないが、政治家としての面目躍如だ。

浜岡原発の停止要請は完璧なスキームだ。これを直感で決めたのなら、やはり彼は天才であるし、日本にとって彼は天災だ。
=========

菅は、自分が「歴史に残る総理」となることを頭に描いていると私も思います。

そしてそれは、多くの人々の命を奪った津波を利用し、不安をかきたてながら原発をも利用する。

まるで、早く地震が来ないか、早くまた津波が来ないか、と嬉々として待っているようにしか私には見えません。

権力を乱用し、権力に溺れるものというのはこういう人間なんだと。目のあたりにすると本当に恐ろしく感じます。

菅の存在自体が自分たちに一番不安を与えている。

共通一次世代

誠実さなど一欠片もないのが民主党。
米軍が被災地で見た自衛隊は、彼らを「本気にさせた」と。
力と忍耐。これは兎にも角にも日々の訓練の賜だと思います。

そして彼らに備わっているのは「誠実な心と行動」。
自衛隊の人たちはどうやって培ってきたのでしょうか。

佐藤正久議員のツイッターにありました。↓
http://twitter.com/#!/SatoMasahisa
========
第10師団音楽隊。学校が被災した小学校を応援するために、校歌の楽譜を取り寄せ、名古屋市守山で練習し、別な場所での小学校卒業式での式典後に校歌等の演奏。感動の卒業式だったようです。卒業生から御礼のお手紙や手作りの感謝の看板も。まさに「労り」と「絆」ですね。
5月9日
=========
第10音楽隊の被災地での活動記録です。↓
http://www.mod.go.jp/gsdf/mae/10d/butai/butai/10band/activity.htm
合い言葉は「誠心(まごころ)を被災地へ!」だそうです。
第10師団は名古屋市守山区にあるとのこと。

佐藤議員は信頼できる議員です。
本当に、今、与党が自民党であって欲しかった。
麻生さんがあのまま、総理であって欲しかった。

民主党になってから、
八ッ場ダムはどうなった?普天間はどうなった?
ダムを作るのやめた!!!基地は県外に移転する!!!
それで後はどうなったのか?

全てほったらかしじゃないか。
菅の「浜岡原発止めろ!!!」も全く同じだ。
中部電力社長の記者会見は、声を荒らげることはなかったけれど、明らかに「怒り」を持った会見だった。当然でしょう。

なんども言うけど、こんなのでいいんだったら、みのもんたでも総理は務まる。

口蹄疫の時、どうだった?
GW中、口蹄疫で悲鳴をあげつつあった宮崎を無視し、カストロに会いに行った赤松。国民のどれほどがこの卑怯者を知っているのか・・。

今年のGWは、どうですか?
地震対策副本部長かなんだか知らなiいが、フィリピンに行ってゴルフですか。
石井一は、金丸訪朝団の前の先遣隊として北に行く時、拉致被害者の有本恵子さんのご両親から託された石岡さんの手紙のコピーを帰国後、「あんな手紙くらいでは」と言い、手紙の存在自体を握り潰した。
自民党の一番汚い連中が今、民主党にいる。


pmjsinji

ありがとうございます。
熊野を取り上げていただいてありがとうございます。
私の伯父(父の兄)が熊野の乗組員でした。
昭和19年10月レイテ沖で戦死しています。転戦に次ぐ転戦であり、ほとんど生存者がいなかったとは知っていましたが、詳しく知ることができ感謝しています。

イシコウ

No title
熊野の乗組員の練達の凄さ、諦めない心、見習う事ばかりです、ただ、熊野は残念ながら沈みましたが、日本は沈みませんよ。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
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