リーチェンの桜の木 肥沼信次医師の物語



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肥沼信次博士
肥沼信次博士


ドイツの東側、ポーランドとの国境近くに、リーチェン(Rietschen)という街があります。

リーチェン市には、市内各所に桜の木が植えられ、毎年春には、きれいな桜が咲きます。
また、毎年3月には、ドイツ、ポーランドの少年少女たちの柔道大会が行われています。

なぜこのようなことになったのか。

第二次世界大戦のあと、ドイツは東西に分断されました。
リーチェン市のある東ドイツは、ソ連の支配下に置かれ、共産主義の厚い鉄のカーテンに阻まれて、ある出来事が隠されてしまったのです。

その出来事に、日本人が関与している。

その日本人というのが、医師の肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)氏です。
彼は、明治41(1908)年に、東京の八王子で外科医肥沼梅三郎氏の次男として生まれました。

幼いころから優秀で、東京府立二中(現立川高校)を卒業後、日本医科大学に進学、そこから東京帝国大学(現東大)放射線研究室へと進みます。
昭和12(1937)年、29歳になった肥沼信次は、ドイツに渡ってベルリン大学医学部放射線研究室で学び、同大学で東洋人として初の教授資格を取得します。

昭和14(1939)年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻します。
第二次世界大戦の始まりです。

9月3日には英国とフランスがドイツに宣戦布告、9月17日にはソ連が東からポーランドに侵攻。
翌昭和15年には、ドイツ、イタリア、日本が三国同盟を締結し、昭和16年には大東亜戦争が開戦となりました。

そんな激動の時代の中、ドイツは国内の全職業集団のナチ化をすすめます。
ナチス思想に忠誠を誓わない学者や官僚、教師らは、次々と公職追放となります。
このとき、ベルリン大学だけで数百人の学者が職を奪われ追放されている。

昭和19年2月15日には、ついにナチスが肥沼博士にも、ナチスへの宣誓を強要してきた。
もう待ったなしです。
やむなく肥沼博士がナチスに提出した宣誓書が残っている。

そこには次のようにあります。
~~~~~~~~
私はドイツ職業組合に所属せず、純潔な日本人であり、日本国籍を有する。
~~~~~~~~

肥沼博士は、ヒットラーへの忠誠を示す宣誓をあくまで拒んだ。
宣誓書で、自分は日本人であると堂々と宣言した。

当時、日本とドイツは同盟関係にあったとはいえ、これはものすごいことです。
命さえも危険にさらす。
肥沼博士がいかに意思の強さと勇気を持つ人であったかがわかるエピソードです。

翌昭和20年1月、ベルリンは連合軍の大空襲を受けます。
街は焼け野原となった。
ベルリン大学も粉塵に帰してしまいます。

同年3月、ドイツにあった日本大使館は、ナチスの敗北必至とみて、日本人在独者に帰国命令を出します。
このとき約300人の日本人が、ドイツ南部からチェコスロバキアを経由して日本に向かう。

ところが肥沼博士は、日本大使館の避難勧告と帰国命令を無視し、誰にも告げずに、反対方向の、まさにソ連が攻めてくるポーランドの国境の街、エバースパルデに向かったのです。

当時、肥沼博士を助けていた人に、シュナイダー夫人という人がいました。
肥沼博士35歳、シュナイダー夫人32歳です。

婦人は軍人だった夫を亡くし、5歳になる一人娘のクリステルを育てていた。
幼い子供を抱えたシュナイダー夫人に同情を寄せた肥沼博士は、シュナイダー夫人が妹の住むエバースパルデに疎開すると聞いて、医師である自分がそこに行けば、何かの役にたてるかもしれないと考えたのです。

エバースバルデでの疎開生活がどのようなものだったのかは、いまとなっては知るすべもありません。

ただ、肥沼博士ら一行がエバースバルデに疎開していたとき、そこから25キロほど南に下ったところにあるリーチェンという街で、発疹チフスが蔓延します。

発疹チフスというのは、高熱を発し、全身に発疹ができて、脳症状まで起こる伝染病で、いまでも国際監視伝染病のひとつに数えられている病気です。
シラミによって媒介される病気で、戦争、貧困、飢餓など社会的悪条件下で流行し、第一次世界大戦では、対戦中にヨーロッパで数百万の死者を出しています。

リーチェンという街は、中世から栄えていた歴史のある、人口5000人ほどの古都なのだけれど、戦争によって市街地の9割の建物が灰燼に帰し、そこにポーランドから追放されたドイツ兵やドイツ難民、被災民が押し寄せ、人口が数倍に膨れ上がっていた。

下水も壊れ、衛生環境も極度に悪化した中で、敗戦後であり極度の飢餓がそこを襲った。
人々の生活環境が最悪の状態となったところへ、法定伝染病の発疹チフスが大流行したのです。

リーチェンを制圧していたソ連軍は、市内にあったナチスの戦車隊訓練学校の跡地を利用して、そこに「伝染病医療センター」を作ります。
要するに、伝染病に罹った人を、そこに隔離したわけです。

ところが、医療センターとは名ばかりで、医師がいない。
そこで白羽の矢が立ったのが、25キロ北にいる日本人の肥沼博士だったわけです。

法定伝染病の蔓延する街の、しかも衛生環境も最悪の医療センターに行く。
医者なら誰でも嫌がります。
現に、ソ連軍が依頼した医師たちは、だれひとりその要求をのむものはいなかった。
リーチェンの街の医師たちも、全員戦争に駆り出され、誰一人のこっていなかったのです。

そんな中、肥沼博士は、たったひとり、リーチェンの医療センターに向かいます。

肥沼博士が医療センターに着くと、そこには医師は肥沼博士ただ一人で、赤十字から派遣された助手が一人と、看護婦が7人、調理師が3人だけでした。
しかも看護婦のうち5人はチフスで亡くなっていた。

患者は、病院のベッドだけでは足りず、毛布の代わりにワラを敷いて、廊下にまで患者たちが寝かされている。
吐瀉物や排便による悪臭の中で、患者たちは病気だけでなく飢えにも苦しみ、そのうえ薬や消毒液、ガーゼなどの医療用品も不足、患者は次々に死んで行く。

看護婦たちでさえ嫌がる汚くて臭い不衛生な所へも、彼は平気で往診に出向き懸命に治療にあたります。
このとき、肥沼博士に命を助けられたマルサ・クラスケさんが、平成5(1993)年に取材に答えて話してくれたときの模様が、「大戦秘史、リーツェンの桜」という本に書かれていますので、紹介します。

~~~~~~~~
当時、私の70才になる舅のヴィルヴァルトが発疹チフスにかかってしまった。
1945年夏に、主人が戦争から帰ってきていたが、体が弱まっていてすごく衰弱しておりました。

村にはシュモレーさんという頭の病気を治す医師がいただけです。
そんな時、暮れに舅が発疹チフスにかかり大変困ってしまいました。

村人に相談したら、リーツェンに日本人医師がいて、その医師に治療して貰った人がこの村にいる、その医師はドイツ語をよく話すチフス専門医なので、是非治療して貰ったらと勧められました。
その話しを聞いて、父もその日本人の先生に診てもらおうと思いました。

でも夫も衰弱しており、どうやってリーツェンまでいくか悩みました。
鉄道は爆撃でやられていて、隣の駅までしか動いていなかった。

家には馬を一頭飼っていましたが、非常に弱っていて、しかもこの馬は役所に内緒で飼っていたのです。
当時、馬は役所に徴発されていたのですが、農家ですので一頭だけ隠していたのです。
見つかると取り上げられてしまいます。
でも馬でいく以外にないと引っぱり出して、主人が病をおして肥沼先生を迎えに出かけて行きました。

弱い馬だったので途中で倒れてしまい、そのあとは歩いて、やっとのことで肥沼先生のところまでたどり着いてお願いすることが出来ました。
肥沼先生は主人にすぐ行きますからといってくれました。

本当に肥沼先生は来てくれたのです。
たった一人で寒い中を。

おじいさんは、生まれて初めてお医者さんが家まで往診に来てくれたと大変喜びました。
これまで家に来てくれるお医者さんはいなかった。

先生は診察したあと持ってきた薬を全部置いていってくれました。
その後2回、治療にやってきてくれました。

私の舅は比較的高齢にもかかわらず、治療を受けて治りました。
その後、10年も生きられたということは、それだけでも奇跡ですね。肥沼先生のおかげです。

実は、肥沼先生のところに頼みに行く時、最初ためらいがあったのです。
というのは、この辺りにもソ連軍の兵隊がいて、日本人の医者と関わり合いをもったら、と心配したからです。でもその心配は無用でした。

肥沼先生は診察料のことを口にしませんでした。
うちだけでなく、他の家ででもです。人を慰め、握手を求め、薬を運んで救助を急いでくれて……。
すべてが狂乱・興奮状態であった時代にですよ。
本当にそういう先生がいたのかと、今の人には信じられないでしょうけど、大変素晴しい尊敬できるんです。
~~~~~~~~

当時、マルサさんが住むこの村には、30軒の農家があったのだそうです。
そしてどの家にも一人以上の発疹チフス患者がいた。
肥沼博士は、この村にまで、荷馬車で治療に幾度も通ったのです。

取材のとき、クラスケ夫妻は肥沼博士のことを、子々孫々伝えていくとおっしゃられたそうです。
そしてその取材のとき、おさげ髪の、目の澄んだ優しい表情に満ち満ちているお孫さんが、
「小学校、中学校でも先生が肥沼先生のことを話してくれます」と、話してくれたそうです。

肥沼博士が勤務した伝染病医療センターから、5キロほど離れたところには、難民収容所がありました。
そこでも発疹チフスが流行した。

この難民収容所は、ポーランド領地から逃げてきた多数のドイツ人の収容所です。
そこでは発疹チフスだけでなく、マラリアや赤痢まで流行していた。

そのため難民収容所には大勢の衰弱した患者が横たわり、栄養失調で手足は枯れ枝のように痩せこけ、暗い部屋のなかで、苦しくてうめき声を上げていたそうです。
さながら地獄のような惨状だった。

最初に肥沼博士が診察のためにこの収容所を訪れたとき、同行した若い看護婦は、あまりに悲惨な状況を前に、怖くて部屋に入ることができなかったといいます。

ところが肥沼博士は、何のためらいもみせずに部屋に入って行った。
博士は感染に怯える様子もなく、患者一人一人の手をとって優しく声をかけ、患者を励まし、治療にあたった。

当時、日本人はドイツでも勤勉な民族として知られていました。
また武士道の精神を持つ勇敢な民族としても知られていた。

肥沼はそのような日本人をイメージさせ るかのように、不眠不休で、それでいていつも優しく患者に話しかけていたといいます。

そして患者や看護婦たちから見た肥沼博士は、勇敢な日本のサムライそのものに見えたといいます。

伝染病に感染したのは大人たちだけではありません。
子供たちも数多く感染した。
肥沼博士は、子供達にもできる限りの治療をつくし、おかげでこのとき何人もの子供が助かった。

治療に欠かせない医薬品は、肥沼博士自身が、あちこち走り回ってようやく調達しました。
ソ連の野戦病院へは、寿司詰めの汽車で2時間、そこから徒歩で2日の距離を進み、何度も断られながら辛抱強く頼み込んで薬を手に入れています。
そして抱えられるだけの医薬品を持ち帰ると、惜しみなく患者に薬を与えた。

また栄養失調に苦しむ患者のために、食料を求めてバルト海沿岸までも奔走しています。

何百人ものドイツ人が、こうして肥沼博士の献身的な治療で危機を脱します。
彼は不眠不休で働き、自宅に帰ると服を着たままソファーに倒れ込んだ。

こうして献身的な治療を続けた肥沼博士なのだけれど、彼はいつも笑顔で患者たちを励ましながら、個人的なことは何も話そうとしなかったといいます。
なぜここにいるのか。
なぜここまでして治療に打ち込むのか。

肥沼博士が話したことといえば、「日本の自然はとてもすばらしい。富士山は美しい山で、特に桜はたいへん綺麗だ。桜の花をみんなに見せてあげたい」というようなことだけだったそうです。

しかし疲労が重なった肥沼博士は、ついに難民収容所からの帰り道で発疹チフスに倒れてしまう。
自宅で療養にあたったけれど、昭和21年3月2日には、悪寒と発熱の症状で起きあがることさえできなくなってしまった。

心配して看護婦たちがやってきたけれど、彼は、自分にチフスの治療薬や注射を使うことを拒否します。
そして、看護婦たちに言った。

「はやく患者さんのところにもどりなさい。そして貴重なクスリは他の患者に使ってほしい。」

昭和21年3月7日、博士の症状はますます悪化します。
ちょうどその日は、家政婦のエンゲルさんの16歳の誕生日だったのだそうです。
肥沼博士は、額の汗を拭き取ってくれるエンゲルさんに、
「誕生日おめでとう、誕生祝いを やれずにごめんね」と弱々しい声で言ったそうです。

そして、ひとこと、「桜が見たい」とつぶやいた。

翌3月8日午後1時、肥沼信次博士は、シュナイダー夫人、家政婦のエンゲル、病院の看護婦たちに看取られながらリーツェンの自宅で亡くなります。
享年38歳でした。

遺体は粗末な棺に納められ、冷たい小雨の降る中を市民に囲まれて、自宅からフリート広場の墓地まで運ばれました。

戦争が終わり、ソ連に占領された東ドイツ、ブランデンブルク州のリーチェン市では、伝染病医療センターの建物は、猛威を振るった発疹チフス沈静後に閉鎖され、リーチェン市の市役所となります。

ソ連の衛星国となった東ドイツでは、市内のいたるところに秘密警察がいて、市として肥沼信次博士を公に賞賛することはできませんでした。
けれど、肥沼医師に助けられた多くの人々は、彼の功績を忘れず、肥沼医師の墓を建て、四季を通して花を絶やさなかった。

そうです。
肥沼医師に助けられたリーチェンの市民たちは、命と引き換えに自分たちの救ってくれた肥沼医師への感謝の心を忘れなかったのです。

それから43年後の平成元(1989)年、ベルリンの壁が崩壊し、東ドイツの共産主義者ホーネッカー大統領が失脚しします。
そして東西ドイツは統一された。

リーチェン市では、43年間封印されてきた肥沼信次医師に対する感謝の気持ちを、晴れて公にできるようになったのです。

リーチェン市では、地元の郷土史家のシュモーク博士が、肥沼信次に関する住民の証言を集め、歴史に埋もれようとしていた彼の功績を公にします。
シュモーク博士の調査は、ドイツの新聞で報道される。
それをきっかけにドイツでは、肥沼の身寄り調査が始まります。

彼が日本人であることは、住民たちはみんな知っています。
けれど彼の経歴は、誰も知らない。
どうしてリーチェンに来たのかもわからない。
そもそも肥沼医師が、どこの誰なのかさえわからない。

ドイツ・アカデミー会員の長老で、フンボルト研究所所長のピアマン博士は、肥沼信次という人物に強い関心を寄せます。
そしてドイツ大学の客員教授で、当時ドイツに駐在していた桃山学院大学の村田教授に肥沼信次の調査を依頼した。

村田教授は肥沼信次医師の遺族や家族を捜そうと、日本大使館や文部省などに照会するけれど、どこもまるでわからない。

やむなく村田教授は、朝日新聞の尋ね人欄に肥沼信次の名前をのせます。

そして平成元年12月14日、肥沼信次の弟さんである肥沼栄治氏が、東京で見つかります。
弟の栄治氏は、兄の死を日本赤十字社から知らされていたのだけれど、どこでどのようにして亡くなったのかは、まるで知らなかった。

肥沼信次の身元発見の知らせが、村田教授からピアマン博士、ピアマン博士からシュモーク博士、シュモーク博士からリーチェン市長へと伝えられます。

リーチェンの人々は自らの感染という危険を恐れず、自分たちの生命を守ってくれた肥沼の過去を初めて知りました。

平成5年、リーチェン市役所の入り口に肥沼信次の記念プレートが飾られます。
そこには、
~~~~~~~~~~
肥沼信次はこの建物で自ら悪疫に感染し、倒れるまで多くのチフス患者の生命を救った。
~~~~~~~~~~
と刻まれた。

平成6年、リーチェン市議会は、満場一致で、肥沼信次博士の功績をたたえ、彼を名誉市民とすることを決定します。
肥沼信次博士は、リーチェンの名誉市民となり、彼の墓は、市が永遠に責任もって管理することになったのです。

平成6年、弟の肥沼栄治氏がリーチェン市を訪れます。
そしてリーツェン市長をはじめ多くの人たちの歓迎を受けた。
栄治氏は、兄の墓に花を捧げます。

その日、リーチェンの当時の生き残りの人達から、兄の信次が最後に「桜を見たい」と語ったという話を聞きます。

日本に帰った栄治氏は、リーチェンの市民から預かった寄付金で、リーチェン市に100本の桜の苗木を送ります。
その苗木のひとつは、肥沼信次医師の墓にも植えられた。

「桜を見たい」と語った兄の夢は、ようやく48年ぶりに叶えられたのです。

そしてリーチェン市は、市内の各所に桜の木を植えます。
その桜は、いまでは大きく育ち、リーチェンの街中で桜が見られるようになった。

平成12年7月1日、リーチェン市は、市役所前の広場に、肥沼信次の記念碑を建て、その除幕式を行います。
式には多くの人々が参列した。
ドイツの新聞は、この除幕式を大きく報道しました。

そして郷土博物館には、肥沼信次の胸像とその生涯を説明した碑が建てられた。

また肥沼医師の墓も建て替えられました。
高さ1メートルの大理石に、ギリシア神話に登場する医術の神ア スクレピオスが持つ「蛇の巻きついた杖」が彫られ、肥沼が医師であることが示され、墓標には「伝染病撲滅のため自らの命を捧げた」と刻まれています。

さらにリーチェン市では、毎年、肥沼信次が亡くなった3月に、ドイツ、ポーランドの少年、少女たちの柔道大会が行われることになりました。

この大会には「肥沼記念杯」と名付けられ、数百人の参加者が試合前に彼の墓に花をささげます。
柔道着に身を包んだ少年少女たちが墓前に整列し、自分たちの祖父母を救ってくれた恩 人の冥福を祈る。

少年少女が通う学校でも、肥沼信次医師の物語は、学校の授業で取り入れられ、人としての立派な生き方として紹介されています。

遠い異国の地で、肥沼信次博士は、自分の命と引き替えに多くのドイツ人の命を救いました。

彼は学者として優秀であっただけでなく、それ以上に人間として素晴らしい日本人でした。
医師として、患者救済の責任をはたし、人間として愛と倫理観を持ち、日本人としての勇気と正義を実践した。

リーチェン市の人々の心の中には、肥沼信次の名は永遠に生き続けることでしょう。

【参考】
舘沢貢次著「大戦秘史、リーツェンの桜」
平成医新:肥沼信次(リーツェンの桜)
http://blog.m3.com/yonoseiginotame/20100201/6



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コメント

takechiyo1949

誇りに思います
『私は純粋な日本人であり、日本国籍を有することをここに誓います』
ナチス相手に一歩も引かない。
帰国のチャンスを無視して、汽車2時間と徒歩2日で薬を調達。
救われた五歳の少女ギセラは、成人して薬剤師になったそうですね。
彼にとって病室は戦場!
勇敢かつ献身的な治療!
真似できる事では無いです。
心から誇りに思います。
合掌

八王子っ子

肥沼博士顕彰碑のためのチャリティイベント
ドイツで多くの人命を救った肥沼信次博士の顕彰碑のためのチャリティイベント「お帰りなさい!Dr.肥沼」が2016年12月4日八王子市のいちょうホール(大ホール 午後1時開場 午後1時半開演 大人2000円 小人500円)で開かれます。
主催は八王子ボランティアネットワーク肥沼信次の偉業を後世に伝える会です。
私は関係者ではありませんが、肥沼博士の学校の後輩たちにこのイベントのお知らせが来たので、ここでお知らせさせていただきました。
興味がおありの方はぜひいらしてください。
(宣伝になってしまいすみません。もしもブログ主旨に合わないようでしたら削除してください。)


匿名くん

肥沼信二博士について
今、テレビバラエティーにて初めて知った事実。
自らを犠牲にし多くのチフス患者の命を助けた勇敢な戦士は凄いね。
今の日本人医師等に肥沼博士の爪の垢を煎じて飲ましてやりたいぜ。

おさかなくわえた名無

リーツェンの桜
ねずきちさんのお陰で、素晴らしい日本人の功績をまた知ることができました。
感動して涙があふれました。
「大戦秘史、リーツェンの桜」もコミックもぜひ読んでみようと思います。

-

福島の子供達の手紙は真実
都合の悪い真実から目を背ける輩に何を言っても無駄。

共通一次世代

子供を蝕む朝日と毎日の小学生新聞を有害図書指定にして欲しい
【熱血!与良政談 :「お外遊び」ができる時=与良正男】(毎日新聞毎日新聞 2011年9月14日 東京夕刊)
http://mainichi.jp/select/opinion/yora/

==========
私の手元に今、全国の子どもたちから寄せられた手紙とはがきの束がある。毎日小学生新聞(毎小)編集部が、野田佳彦首相が就任した直後から募集している「野田総理への手紙」の数々だ
9日付の毎小に一部が紹介されているが、すべてに目を通して改めて驚いたのは「元々、関心の高い子どもたちなのだろうが、何てよく政治を見ているのだろう」ということだった。

例えば千葉市の小3女児のこんな手紙。「いままですぐに総理大臣がかわってしまって、せっかく決まっていたことも、またかわってしまったりしたので、野田総理はがんばって長く総理大臣をつづけてほしいです」
(中略)

「野田総理への手紙」は〒100-8051(住所不要) 毎日小学生新聞編集部あてで今も募集中。いずれ本人に届ける予定だ。(論説副委員長)

==========


参考に・・。↓
【拝啓・野田総理2011:野田総理への手紙(その1) - 毎日jp(毎日新聞)】
http://mainichi.jp/life/edu/maishou/news/20110909kei00s00s004000c.html


子供を全面に押し出してくる「訴え」は「卑怯者」たちの常套手段ですね。。
沖縄の基地反対集会での高校生の訴えも同じです。

そして今や何の倫理観も持たないマスコミはどんな手口でも出来ると思わなければいけないですね。

学校はもちろん、公民館、児童館などで貼られている「毎日小学生新聞」や「朝日小学生新聞」は「ペンによる凶器」と言えると思います。

-

世界で一番悲しい街・福島市に住む小学5年生の女の子の絶望聞いて
わたしは、ふつうの子供を産めますか?
何さいまで生きられますか?
なぜ福島市は、ひなんにならないのですか?
ひなんくいきにしてほしいです。 福島市民の命よりお金のほうが大切なのですか?
毎日長そで、長ズボン、マスク、ぼうしでとても暑い日も学校にいっています。
外でも遊べません。
まども、あけられません。
ふつうの子供を産みたいです。

「福島の子どもたちからの手紙・わたしたちを助けてください」より
http://www.aera-net.jp/summary/110828_002539.html

愛信

露太平洋艦隊に原子力空母
露太平洋艦隊に原子力空母
http://kakutatakaheri.blog73.fc2.com/blog-entry-2744.html

ロシアは空母を何処で使うのだろう、その事を考慮して反日売国民主党革命政党の動向
に警戒心を高めよう。

【前航空幕僚長の国防問題の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj10.cgi
【前航空幕僚長の国防問題タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。

ヤマトタケ

No title
人命無視の事故処理、尖閣侵犯。

長崎県の公立高校の中国への修学旅行を中止するように電凸・メールお願い。

長崎県教委高校教育班 095-824-1111 
FAX 095-824-5965
ご意見・ご提案 pref.nagasaki.jp/edu/form/index

底辺労働者に人権無し

被曝者高速増殖炉フクシマ
累積被ばく100ミリシーベルト超 原発作業員135人
 国、県、所在町で構成する県原子力発電所労働者安全衛生対策連絡会議は14日、福島市で開かれ、東京電力が福島第1原発事故の収束で緊急作業に従事した作業員のうち、外部被ばく、内部被ばく合わせた累積被ばく量が100ミリシーベルトを超えた作業員は6月末までに東電社員108人、協力企業27人の計135人に上ったと報告した。東電が外部被ばく、内部被ばくを合計した累積被ばく量で100ミリシーベルトを超えた作業員の人数を発表したのは初めて。
 緊急作業には6月まで、約1万3000人が従事しており、100ミリシーベルト超の作業員は全体の1%程度となる。東電によると、高濃度汚染水の処理や原発施設内のがれき処理など高線量地域での作業が継続されるなど、今後も100ミリシーベルトを超える作業員は増える見通し。
http://www.minyu-net.com/news/news/0915/news5.html

愛信

反日売国マスコミが隠蔽している、今日の日本の諸問題である6重苦について質問されています。
9月15日10:00~本会議(参)審議中継を見ています
反日売国マスコミが隠蔽している、今日の日本の諸問題である6重苦について質問されています。
http://www.webtv.sangiin.go.jp/generator/meta_generator_wmv.php?ssp=6309&mode=LIBRARY&pars=0.8336198519465859

9月15日14:00~本会議(衆)審議中継を見ています
URL 未定

【動画ニュース掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
【動画ニュース最新版タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。

猫のひげ

花王FAX凸
ねずきち様ご苦労さまです。
こういう話を日本でも語り継ぐことが大切ですね。

16日は花王デモの日です。
デモと同時にFAX突撃はいかがでしょう。

花王(株) メディア企画センター
FAX 03-3660ー7809
ここしか判りません。広告関係の部署であることは確かです。
 
文面は「ウジテレビ」などの品格を欠いた表現でなくきちんとした美しい日本語を使うのが良いのではないでしょうか。

ついでにフジテレビと電通もあります

(株)フジテレビジョン 
総務局 FAX 03-5500-8133
営業局 FAX 03-5500-8093

(株)ビーエスフジ
総務局 FAX 03-5500-1775

(株)電通
役員  FAX 03-6217-0259
     FAX 03-6217-0203
秘書室 FAX 03-6217-5946

-

コミック リーツェンの桜
この方をモデルにしたコミックがあります。
http://www.futabasha.co.jp/wm/wm_wriezen.html
現在3巻まで出版されていて、まだ連載中です。

共通一次世代

長くなりますが、記事のリンクが切れてしまっているので・・。すみません・・
>肥沼医師に助けられたリーチェンの市民たちは、命と引き換えに自分たちの救ってくれた肥沼医師への感謝の心を忘れなかったのです。

肥沼医師という日本人の存在を誇りに思うと同時に、リーチェン市民が「感謝の気持ち」をずっと持ち続けていてくれたことが「リーチェンの桜」を実現できたのだと。
また共産主義の「施し」の欺瞞を感じずにはいられません。

改めて「恩」というものを考えます。
「笠地蔵」「鶴の恩返し」・・小さい頃、これらの昔話が自分も好きでした。
御恩を忘れること。また恩を押し付けること。恩を仇で返す事。このどれもが「恥じるべきこと」だと感じ、自分も振り返り猛省するところです・・。

そういえば、何年か前、生活保護を受けた女性が「恩返しに」と自治体に百万円寄付した記事を思い出しました。


★産経新聞 2008年5月30日WEB配信(リンク切れ)
=========
【「肩の荷がおりました」元生活保護受給者が100万円恩返し】

「岡田さんに見てもらいたい」-。
茨城県取手市内に住む70歳代の女性がそう言って見せたのは、自分の預金通帳。
20年ほど前に生活保護を受けていたという女性はその後、職を得てコツコツと貯金を続けた。
年金生活者となった今、「恩返ししたい」と話し、同市に100万円を寄付した。
「岡田さん」とは、20年ほど前、同市のケースワーカーとして女性の相談に乗った岡田儀春政策調整課長(53)。
岡田課長は今月26日、女性から突然、電話を受け、「その節は大変お世話になりました。今は年金をいただき、税金も納める生活ができています。ついては、市に恩返しをしたい」と持ちかけられた。
女性は、母親と2人暮らしだった昭和62年ごろ、自身の病気もあって生活保護を受けていた。
その2年後ぐらいには仕事に就き、生活保護を辞退した。
 
岡田課長は電話を受けた翌日、女性に会った。
女性は貯金をおろして岡田課長に現金100万円を渡し、そのまま2人で社会福祉協議会までいって寄付した。
「これで肩の荷がおりました。ありがとうございました」。女性はすがすがしい顔をしていたという。

岡田課長は「今どき、ほんとうにこんな人がいるのかとびっくりした。生活保護の不正受給などがあるなか、実にすごいことだと思う」と話している。
同市では寄付金を車イスの購入資金に充てることにしている。
=============

更に1年後・・・・

★中日新聞 2009年8月1日 (リンク切れ)
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二十一年前に受けた生活保護の恩返しに-と、取手市に現金百万円を寄付した女性(77)が、今度は、リフト付き軽乗用車の購入資金百万円を寄付した。この寄付金で 購入した車両が三十一日、障害者の移送サービスをする特定非営利活動法人(NPO法人) 「活(い)きる」(染野和成理事長)に寄贈された。 

女性は昨年五月、「年金をもらい税金を納める生活ができるのも地域のおかげ。 恩返しがしたい」と、生活保護を受けていた当時の同市担当者(54)を捜し出し、寄付した 約百万円で車いす二十九台を購入し、市社会福祉協議会に寄贈した。

女性は当初、リフト付き車両の購入を希望。年金の一部をコツコツとためた貯金全額の約二百万円を寄付しようとした。
担当者が「通院費もある。気持ちは十分伝わった」と、いったんは思いとどまらせたが、今年四月、「あれから一年たったが、どうしても残り百万円も寄付したい」と申し出があった。

女性は、デイサービスで利用する同法人を担当者に紹介。四年前にスタートした同法人も、検討していたリフト付き軽乗用車の購入資金として活用することを快諾し、寄付金に自己資金四十万円を加えて車両を購入したという。

染野理事長は「苦労して生きてきた人に(活動を)理解されてありがたい。重度の人が多いので
活用させていただく」と感謝。女性は「全額を寄付できたし、希望通りリフト付きの車も買えたので、これで気が済みました」と話しているという。
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「助けてもらって当然」
この風潮はマスコミの煽りも含めた共産主義的欺瞞とも言える「施し」に国民が乗ってしまった結果とも言えると思います。年金問題も然り。カネ、カネ、カネ・・。当時散々マスコミを使って煽った民主党の長妻昭の罪は甚だ大きいと思います。
そして「子ども手当」を2年前に初めて聞いた時、こんなことを「あたりまえ」だと思う国民の多さに愕然としたのを今も忘れません。

この取手市の女性は、自立出来ることをまず第一に。そして税金を払うという日本国民としての責任を果たし、それを達成した後に更に日本社会への恩返しを。
本当にお手本のような方だと思います。

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東京電力、福島原発事故の作業員に対し、無償で提供してきたレトルト食品やパンを有償に切り替える
 節電の夏が終わり、東京電力が“逆襲”に転じている。原発事故を人災と断じた
メディアに「甚だ遺憾」と抗議し、衆議院に対しては、事故時の操作手順書の大半を
黒く塗りつぶして提出。来年度以降の電気料金を値上げし、半減した社員の賞与を
元の水準に戻すことを検討しているとの情報もある。その一方で、福島第1原発で
命がけで働く作業員には食事の無料支給の打ち切りを決定。被災者には補償の請求に
160ページもの説明書を押しつけるなど、批判はますます強まりそうだ。
 のど元過ぎれば…を地でいくように、東電は3・11以前の“殿様商法”に戻り
始めている。福島第1原発で収束作業にあたる作業員に対し、「感謝の気持ちは
変わらない」としつつ、これまで無償で提供してきたレトルト食品やパンを、
13日から有償に切り替えた。
 もともと食事の無償提供は、あまりに粗末だった作業員の食環境を改善するため、細野豪志首相補佐官(当時)の声かけで5月に始まったもの。今回の冷酷な仕打ちで、
作業員のモチベーション低下が懸念される。
 「東電が作業員に支払う日当は数十万円などといわれていますが、何重ものピンハネ
によって、実際に作業員が手にするのは1万円程度。年収1000万円を超える東電の社員や、
約5億円の退職金を受け取ったとされる清水正孝前社長以下、歴代役員は何も感じないのでしょう」
(同原発の取材を続けるライター)(中略、詳細はソースにて)
身内に甘く、作業員、利用者、被災者に厳しい東電の体質が徐々にあらわになってきた。

http://news.livedoor.com/article/detail/5862084/

愛信

国務大臣の演説に対する質疑(代表質問)
第177回国会審議中継
9月15日12:30~
国家基本政策委員会審議中継を見ています
URL 未定

9月15日14:00~
本会議審議中継を見ています
URL 未定

第178回国会本会議中継2011年9月14日 (水)
開会日 : 2011年9月14日(水)
会議名 : 本会議
収録時間 : 2時間 22分
案件(議題順):
国務大臣の演説に対する質疑(代表質問)
横路孝弘(衆議院議長)  13時 02分  01分
谷垣禎一(自由民主党・無所属の会)  13時 03分  1時間 04分
樽床伸二(民主党・無所属クラブ)  14時 07分  34分
衛藤征士郎(衆議院副議長)  14時 41分  01分
古川禎久(自由民主党・無所属の会)  14時 42分  39分
http://www.shugiintv.go.jp/jp/wmpdyna.asx?deli_id=41282&media_type=wb&lang=j&spkid=19603&time=01:48:29.5

【動画ニュース掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
【動画ニュース最新版タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。

goen

とても感激する話です
 今日の文面は違和感無く読めました。
   先人の勇気と行いに敬意を表します。

なずもも

日本人は読んでください
日本人ならこのブログを読んでほしい。
なぜこんなに心が震えるのか分からない、
ひょっとしたら日本人にしか伝わらないのかもしれない、
だけど人間なら本当はだれでもわかる感情だと思う。
ねずきちさん、これからも応援しています。
宜しくお願いします。

和田

今日もクリック!!
ねずきちさん、今日も素晴らしい話をありがとうございます。
遠い異国の地に桜の花が咲いて本当によかった!!
日本民族万歳!!

ミー

素晴らしいお話のご紹介をありがとうございました。
ねずきちさんが教えて下さる、日本では語り伝えらるなかった、日本人の勇気ある立派な方々を知るたびに、日本人として嬉しくなります!!
日本人を誇りに思うことができます!!
これからも、よろしくお願いいたします♪
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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