横井小楠に学ぶ



人気ブログランキング←はじめにクリックをお願いします。

横井小楠肖像
横井小楠肖像


ひとつの時代が変わろうとするとき、先覚者となる人々は、日本ではありとあらゆる迫害を受けます。
ほんとうに、どうしてここまで言われなきゃなんないの?というくらい、逆に言えば売国左翼の大物でさえ、ここまでは言われないだろうというくらい、ありとあらゆることを言われ、嘲笑され、馬鹿にされる。

情けないけれど、これも日本の姿です。

戦後65年間、祖国を護るために散って行かれた英霊たちは、まるで非道な極悪人の侵略者のごとく言われ続けました。

誰に言われたかといえば、彼らが護ろうとした祖国の子や孫たちからです。
ボロカスに言われ続けた。
こんな辛い非常識なことがあるでしょうか。
命がけで守った子や孫から、まるで人非人のような侵略者であったと思われているのです。

沖縄戦で散華された日本軍は、沖縄県民を護るために、武器弾薬の乏しい中で必死になって戦い続けました。
その日本軍の将兵のことを、戦後の日本人は、沖縄県民を苦しめ殺害した凶悪犯のごとく言い立てた。

満州が崩壊したとき、同邦人を護るためにランドセルにダイナマイトをぎっしり詰めてソ連の戦車に体当たり突撃した日本兵は、日本人を護らずに卑怯卑劣にも逃げた悪人どもと言われている。

言っているのは誰なのか。
他の誰でもない、日本人です。
英霊たちが、かけがえのない、ひとつしかないご自分の命を散らしてまで護ろうとした祖国の子や孫たちから、彼らはそう言って辱められ、誹謗され、中傷され、嘲笑され、辱められ続けている。

その批判する側、中傷し、嘲笑する側の現代日本人はどうなのでしょうか。

夏はエアコンの効いた部屋にいて、戦前の日本では考えられなかったような美食を食み、贅沢な衣装を着て、マイカーを転がし、口では平和を唱えながら、道義を忘れ、いかにも自分だけは正しいという顔をしながら、他人を辱め、嘲笑し、中傷することをなんとも思わない。


横井小楠という人がいます。
江戸時代末期の人で、坂本龍馬など、幕末明治維新の志士たちがこぞって一目置いた人物です。

横井小楠は、まだ天下が江戸幕府の統治下にあった時代に、天皇のもとに天下を統一し、人材を広く登用して、議会政治を実現すべしと説いた。
まさに時代の先覚者でした。

そして彼は、西洋の帝国主義は覇道を目指すものであるとし、日本は王道政治で徳を重んじる有徳国家を目指すべし、と説いた。

坂本龍馬の船中八策も、その後近代にまで連なる五箇条の御誓文も、その大元は、この人物の著です。
つまり横井小楠は、まさに明治新政府の土台となる政治思想を明確に解き明かした、維新の人物中の大人物です。

勝海舟は「氷川清話」の中で、横井小楠を次のように書いています。
~~~~~~~~~~
おれは今までに、天下で恐ろしいものを二人見た。
それは横井小楠と、西郷南州だ。
~~~~~~~~~~

その横井小楠は、「開国を進めて日本をキリスト教に改宗させようと化している」という、まったくのデタラメ、でっちあげで中傷され、辱められ、武士資格まで剥奪されました。

なんと横井小楠を貶めようとした人々は、、横井小楠の「偽書」までねつ造して彼を貶めています。
そして横井小楠は、「秘かに皇室転覆を企てたとする容疑」で告発されたのです。

彼の生涯は、貶められ、辱められ、侮辱され、中傷され、嘲笑され続けた生涯です。

そして横井小楠は、倒幕派であり尊王攘夷派である十津川郷士によって、京都で暗殺されました。
志を同じくすると信じた味方に裏切られ、殺害されたのです。

よく「正論をもって他者を批判する人」がいます。
申し訳ないが、ボクはそういう人をあまり信用しません。

そうではなく「正論をもって、こうする」あるいは「こうしたい」と述べる人は信用できると考えます。
人を信用するというのではなく、その「論」を信頼する。

だいたい人を非難中傷するために、もっともらしい「正論」を吐く人物というのは、多くの場合、その「論」よりも、もっと別なところに下賎な「下心」があるものです。
ボクはそう思う。

そんな者に乗せられたら、神罰があたる。
そう思っています。

横井小楠の人生を振り返ったとき、いちばん感じてしまうのがここの部分です。

彼は、文化6(1809)年の生まれです。
いまの熊本県の肥後で、熊本城下の坪内町で生まれました。
幼いころから文武に秀で、藩校である時習館を卒業後、28歳で時習館の塾長にまでなっています。

塾長となった横井小楠は、塾寮改革のための新制度樹立を藩に建議し採用されるのだけれど、肝心の寮生たちの裏切りに遭い、目的を頓挫してしまう。

失意の中で、家老の長岡監物に見いだされた横井小楠は、天保10(1839)年に、藩命によって江戸に遊学しし、林大学頭の門下生となります。

そこで知り合ったのが、先日ご紹介した川路聖謨や、水戸藩士の藤田東湖です。

川路聖謨は、幕臣として幕府と命運をともにした傑物、藤田東湖は、尊王攘夷を唱えた人物です。
ちなみに藤田東湖の父親である藤田幽谷は、我が国で最初に「日本は富国強兵によって外国と対抗する実力を養うべし」と説いた人物としても有名です。

若き日の横井小楠は、こうした時代の生んだ傑出した人物と出会い、薫陶を受け、自らを鍛え抜いていきます。

ところが、天保11(1840)年、横井小楠31歳のとき、彼は酒に酔って大喧嘩をしてしまいます。
古来、知識の人は、知識の人を呑んでかかります。
実学を説き、学んだことを生かさずして何の人生ぞ、と考える横井小楠に対し、酒の席と言いながら、これを嘲笑し、青二才がと笑い者にする。
横井小楠は、これに激怒し暴行をしてしまう。

いかに理由があるとはいえ、酔って暴力事件を起こしたというのは大罪です。
横井小楠は、この事件によって翌天保12(1841)年、藩命によって帰郷し自宅蟄居を命じられる。
社会的に追われたわけです。

それでも横井小楠の周りには、長岡監物、下津久馬、元田永孚、萩昌国など、「言ってるだけ保守」、「能書き保守では駄目だ。行動を起こさずして何の学問ぞ」という同志が集まり、熊本藩内で「実学党」を起こします。

けれどこの「実学党」は、藩の安定を重視する筆頭家老らと対立し、ことあるごとに藩の体制派から中傷され、嘲笑されることとなる。

横井小楠は、それでめげず、自身の心を励まして「時務策」を書き、藩の経済行政の立て直しを建議します。
ところが、藩の財政改革を説いただけのこの「時務策」は、なんと藩の政策を批判したと捉えられ、横井は、藩政に楯突く狼藉者とされてしまう。

ちなみにこの「時務策」というのは、
1 藩上層は贅沢をせず、下級武士や民衆への施しを厚くすること
2 農業の振興を図り、離村農民を保護して農村を復興すること
3 特権商人を藩権力から切り離すこと
等を説いたものです。

いまでいうなら、内閣閣僚は贅沢をせず、民間への財政投資を拡大して、民需の活性化を図ること。その際、外国人特権商人のような連中に仕事を与えるのではなく、国内民間企業の公共工事受注を振興すること、といったような内容といっていい。

ところがこれによって、藩内では、ますます横井の立場は悪いものになります。

それでも横井は、天保14(1843)年、私塾「小楠堂」を開き、多くの門弟を育てます。
その名声を聞いて、教えを故意にやってきたのが、福井藩士の三寺三作(みでらさんさく)です。嘉永2(1849)年のことでした。

福井に帰郷した三寺は、熊本にものすごい先生がいる、と藩内で横井の人物を吹聴します。

そして嘉永4(1851)年、横井小楠が西日本の遊歴をした際、福井を訪れて3週間あまり三寺家に滞在します。
そして藩内の若い武士たちに、横井の学問思想を説きます。

さらに帰郷した横井は、福井藩のために、翌年には「学校問答書」を書き送る。

この「学校問答書」というのは、学政一致を説いたもので、「己を修める心で政事の心とする」というものです。
身分の上下、貴賎、老少、有閑の別なく、常に講学せよと説く。

~~~~~~~~~
抑此学校と申すは、蘩倫綱常を明らかにし、脩己治人、天然自然、学術一定の学校に候へば、此れに出でて学ぶ者は、
重き大夫(家老)の身を云うべからず、
年老いたもの衰えたる云うべからず、
有司職務の繁多を云うべからず、
武人不文の暗を云うべからず。
上は君公を始として大夫・士(一般藩士)の子弟に至るまで、暇あれば打ち交わりて学を講じ、或いは人々身心の病痛を儆戒し、或いは当時の人情・政事の得失を討論し、或いは異端邪説詞章記誦の非を弁明し、或いは読書会業経史の義を講習し、徳義を養い知識を明にするを本意といたし、朝廷の講学と元より二途にて無之候。
~~~~~~~~~

これを読んで、大感銘を受けたのが、当時の福井藩主であった松平春嶽です。
熊本藩内では、横井小楠は、いわば札付きの危険人物です。
素行は酔って刃傷沙汰を起こす不良であり、藩の政治を公然と批判する危険人物です。

ところが人物は人物を知る。
熊本藩では、まったく評価されない横井小楠を、幕末の大人物である松平春嶽は、その人物の大きさを見抜き、なんと安政4(1857)年には、小楠を政治顧問として福井へ招き入れたのです。

松平春嶽という人は、幕末四賢侯の一人とうたわれる英邁な藩主です。
第12代将軍、徳川家慶の従弟でもある。

嘉永6(1853)年にペリーの乗った黒船が襲来したときには、水戸徳川家の徳川斉昭らとともに海防強化と攘夷を説き、大老、井伊直弼が朝廷の勅許なしでアメリカとの日米修好通商条約を調印したときには、水戸の徳川斉昭らとともに江戸城に不時登城をして抗議し、その罪で強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受けた人でもある。

外国と条約を結ぶ行為は、国として行う行為であるのだから、当然天皇の勅許を得た上でなければならない。
あたりまえのことです。
理論上は幕府というのは、数ある大名家の中から、朝廷からの勅許を得て日本国内の内政を担っている筆頭大名という存在でしかない。

それを朝廷をないがしろにして、幕府が勝手に日本国として条約を結ぶなどということは、まったくもって理屈に合わない。

このとき大老の井伊直弼は、ハリスから「日本が開国に応じないなら英米仏の三か国が日本に攻め入る。もし日本が米国との和親条約に応じるなら、米国が英仏から日本を守りましょう」と言われて、これを呑んでいます。

この少し前には、阿片戦争があり、清国は列強にほしいままに侵略される憂き目を見ていた。

なるほどもしこのとき井伊直弼が、ハリスの要望を受け入れてなかったら、日本には米英仏が上陸して来て、たいへんな事態になったかもしれません

けれど、たとえそうであったとしても、天皇の了解なしに幕府が勝手に外国と条約を結ぶというのでは、これは筋が通らない。

筋を通して天皇の裁可をあおぎ、日本国を諸大名が別々の「国」を名乗る連合国家ではなく、日本という単一の国と変え、同時に富国強兵を図ってできるだけ短期間に国軍の装備を整え、欧米列強の侵略に備える。

そのギリギリの選択をしなければならないことを、いかに大老職にあるとはいえ、一介の彦根藩主ごときが勝手に諸外国と条約を先に締結してしまうとは何事か。

このときの福井藩主松平春嶽や、水戸の徳川斉昭の怒りは、手に取るようにわかる気がします。
あまりの怒りから、徳川斉昭は心筋梗塞となって亡くなってしまっている。

このことに腹をたてた水戸の英才たちは、江戸城桜田門の外で登城途中の井伊直弼を待ち受け、これを暗殺しています。

ちなみにこの事件は、最近「桜田門外の変」という題名で映画化されています。
ボクも先日、ひさしぶりにDVDを自宅で観たのですが、内容がとてもよかった。
おすすめです。

水戸藩は、この事件で、水戸藩内で先を正確に見通し、学問と行いを一体化できる優秀な若者達の多くを失います。
さらに水戸天狗党の乱で、藩内のとびきり優秀な若者を失い、結果、その後約70年にわたって、水戸から時代を代表する人物が出なくなった。

このことは実はとても重要なことを意味していて、どこの世界でも、とびきり優秀な人物は、やはり同様に優秀な人物を見抜き、これを登用する、ということです。
ところがそうした「とびきり優秀な人物」が、政変によって殺され、失われてしまうと、結果、ボンクラが政権や行政運営を担うことになる。

ボンクラが高く評価するのは、やはりボンクラな人物です。
凡庸な人物には、大人物は危険人物にしか見えない。

このことは実に単純な理屈です。
凡庸であるかないかは、「やれる人物」か「やれない人物か」という違いです。
「やれない」「できない」というのは、「能力がない」か、「やる気がない」ということです。

「やる気」も「能力」もない凡庸な人物は、「能力ある者」や「やる気のある者」はおそろしい人物にしか思えない。
そして同時に、能力もやる気もある人物は、たいていの場合、どっか大間抜けなものです。
たとえば横井小楠が、酒によって乱暴を働くようなものです。

そうなると凡庸な人物は、よってたかってその大間抜けなところばかりを針小棒大に評価し、やる気も能力も発揮できないように封じ込めようとする。

立って歩けば、石につまづいて転んで大怪我をすることもあります。
けれど立って歩かなければ時代は変わらない。
それを自分は安全なところで寝そべっているだけで、
「ほらみたことか、あいつは転んだ。だいたいああいう人間というものはたいしたことはないのだよ」
などともっともらしいことを言う。
世間の人は、それを見て、ああなるほど、などと納得してしまったりする。

ひとつだけ言いたいのは、何事かを「やる人」というのは、多くの場合、どっかアホだ、ということです。
アホな大馬鹿者でなければ、自らの身を省みず、何かの行動をするなんてことはできない。

いま、多くの保守の人達が、日本を変えようと立ち上がっています。
私生活の時間を犠牲にし、ときに生活までも犠牲にして、それでもなんとかしなければと立ち上がっている。

この暑い最中に、街宣デモをするなんてのも、よほどの馬鹿でなければできません。
だって、家でポテトチップスをかじりながら、ビデオでも見ていた方がよっぽど楽です。
それでも、立ち上がる。

横井小楠が、松平春嶽に招かれて、福井へ到着したのは安政5(1858)年4月、小楠50歳のときのことです。
そして同年9月には安政の大獄がはじまった。

松平春嶽は、この安政の大獄によって隠居・謹慎処分となるけれど、そうした時代の中にあって横井小楠は福井藩にとどまり、藩校明道館で教鞭をとる傍ら、藩政全体にも大きな影響力を及ぼすようになります。

このとき福井藩にあって横井小楠が説いたのが、「民を豊かにすることが富国であり、強力な国家をつくることになる」、「外国とは道理に基づいて交易を行うべし」というものです。

福井藩では、この横井小楠の教えをもとに、殖産興業策を推進し、富国強兵を図った。
そして横井小楠は、万延元(1860)年10月には、「国是三論」をまとめます。

この「国是三論」という書物は、要約すれば「世界万国の政治を論ずる力量があって初めて日本国を治めることが出来る、日本国を統治する力量があって初めて一藩を治めることが出来る」という主張です。
これは現代でも立派に通用する議論と言えるのです。

Chinaなどの特ア三国の状況や意思、米国やユーロの国々の思惑、東亜や中東の状況など、世界全体の政治の流れを十二分に掌握したうえで、日本を治める。あたりまえといえばあたりまえのことです。
けれど不思議なことに、どういうわけか目先の党内事情のほうが、優先する。
馬鹿な話です。

安政7(1860)年3月3日に、桜田門外の変で井伊直弼が殺害された後、安政の弾圧は収束します。

その翌年の文久元(1861)年、横井小楠は、はじめて松平春嶽に面謁(めんえつ)する。
ここで横井は、春嶽公に、幕府の政事総裁職に就くことを進言します。

これを受けて翌文久2(1862)年5月、勅命を受けて一橋慶喜が将軍後見職に、そして松平春嶽が政事総裁職に就任する。

徳川慶喜と松平春嶽は、井伊直弼が行なった大獄は甚だ専断であったとして、
井伊家に対し10万石削減の追罰、弾圧の取調べをした者の処罰、大獄で幽閉されていた者の釈放、桜田門外の変・坂下門外の変における尊攘運動の遭難者を和宮降嫁の祝賀として大赦する。

松平春嶽のブレーンとなった横井小楠は、幕政改革のために縦横に腕を振るいます。

このときに横井小楠が建議したのが「国是七条」です。
この「国是七条」は、この後、坂本竜馬の「船中八策」、由利公生の「五箇条の御誓文」の原案として引き継がれて、明治政府の基本方針となる。

この頃、将軍徳川慶喜が横井小楠に会い、その評価を書き残しています。
~~~~~~~~~
昨夜、横井平四郎(横井小楠)に対面せしに、非常の人傑にて、はなはだ感服せり。
談話中、ずいぶん至難をおぼゆる事柄に、尾ひれをつけて問うこころむるに、いささかも渋滞することなく返答せしめが、いづれも拙者どもの思へるところよりは、数層立ち上りたる意見なりし。
~~~~~~~~~

横井小楠の人物に感銘を受けた徳川慶喜は、横井小楠を幕閣として登用したいと肥後藩に申し出ます。
けれど横井を小人物としてしか評価していなかった肥後藩は、これを断る。
世の中というものは、往々にしてこうしたことがおこるものです。

そしてこの年の12月、事件が起こります。
それは文久2(1862)年12月19日のことでした。

肥後藩の江戸留守居役、吉田平之助の別宅の2階で、横井小楠は、吉田平之助、都筑四郎、谷内蔵充ら3名と、横井小楠が松平春嶽のお供で、京へ登る直前の送別会(酒宴)を開いていたのです。

谷内蔵充が急用で帰った後、残った三名で大いに呑み、酒宴が盛り上がっていたとき、突然、覆面姿の三人組みが、乗り込んで来て、横井ら三名を殺害しようと斬り込み襲撃をしてきたのです。

とっさの判断で横井小楠は、階段を駆け降りて越前藩邸に走り、事情を話して大小を受け取って、越前藩士とともに引き返した。
襲撃犯たちは去ったあとだったけれど、この襲撃で吉田と都筑が重傷を負い、吉田は2ヶ月後に亡くなっている。

事件後肥後藩では、横井小楠が仲間を見捨てて逃げたのは「士道忘却」であるとして、横井を集中非難します。

事件の経過からすれば、小楠らは吉田邸で大小の刀を預け、丸腰で酒宴をしていたのであり、そこに抜刀した浪士がなだれ込んで来たわけです。
教われた三名は、それぞれ手近なものを投げつける等して抵抗し、その場からはとりあえず逃げるしかない。

横井は、逃げた後、越前藩邸に逃げ込み、そこで大小を借り受けて、現場に戻っているのですから、本来なら避難されるいわれなどないものです。

ところが、横井小楠は、肥後藩士の身でありながら、他藩で高禄をもって迎え入れられ、しかも幕閣として要職を担っている。
横井小楠に対する、いわば嫉妬、ヤキモチの感情が、肥後藩内にくすぶっていたわけです。

勝海舟が、世の中に怖い男を二人見た。ひとりは西郷隆盛、もうひとりは横井小楠であるとまで、その人物を讃え、名君の誉れ高い松平春嶽も、将軍の徳川慶喜も、これはすごい男だと評した横井小楠は、肥後藩内では、ただの嫉妬の対象であり、士道を忘れた不届き者、でしかなかったわけです。

肥後藩は、直ちに横井の身柄を越前藩から引き取って、熊本に送還するよう手配します。
熊本に引き取って厳罰に処そうとしたわけです。

人物というのは、世の中にそうそう多くいるわけではありません。
松平春嶽は横井のために自ら必死の弁護を行い、その結果、横井は、越前藩にて身柄一時預かり、ということになった。

すると肥後藩では、由利公正など、横井小楠の仲間たちを逮捕投獄し、武士としての名誉を奪って斬首までしようとします。

これを聞いた横井は、そんなことをされてはかなわないと、単身、肥後に向かう。

仲間たちを助けるために、どうしても熊本に帰るという横井に対し、松平春嶽をはじめ、多くの人々が肥後藩に対する助命嘆願をしたのだけれど、肥後藩は「藩の決まりを無視することは出来ない」と態度を硬化させ、とりあえず横井の斬首は免れたものの、なんと武士としての士籍剥奪、知行没収処分とした。
文久3(1863)年12月のことです。

この結果横井は、慶応3(1866)年12月の王政復古後の明治新政府よって召命があるまで、まるまる三年間、熊本市郊外で、武家としての身分さえない浪人者として、小作農をして暮らすことになる。

幕末から戊辰戦争にかけての、まさに維新の動乱期の一番大切なときに、新しい国の形を造る上で、最も必要な非凡な才能を持った横井小楠が、一浪人者の小作農としての三年間を過ごすことになったのです。

肥後藩の高官たち、つまり藩政を担う者たち、言い換えると横井小楠を追い込んだ人達というのは、秀才です。たいへんに頭の良い人達だった。弁もたつし頭もいい、人柄も悪くない。
けれど、彼ら肥後藩の高官たちにわかっていなかったことがひとつと、大きな間違いがひとつあった。

わかってなかったことというのは、幕末の動乱期、つまり「今が非常時である」ということを彼らはまったく理解していなかった。
平時には「あたりまえのこと」が、非常時には「非常識なこと」となり、平時には「異常と思えること」が、非常時には「当然のこと」となる。
彼らの最大の間違いは、非常時なのに平時の心構えしかなかったこと。これがひとつ。

もうひとつの「大きな間違い」というのは、藩を超えて日本のために大抜擢された横井小楠という人物を、彼ら肥後藩の高官たちは、単に自分たちを出し抜いた男として嫉妬していたこと。

彼らは、あくまで横井小楠という人物を、肥後藩の下級武士としてしか見ていなかった。
素行も決してよろしくない。飲めば大暴れするし、藩政は批判する、要するに危険人物、面倒を起こす人物、奇行をする人物と見ていた。

そんな下っ端のいわば「わけのわからん男」が、松平春嶽に見いだされて幕府の高官となった。
幕閣といえば、早い話が、肥後藩主よりも社会的立場が上の人物です。
それが我慢ならない。
あんなボンクラの駄目男が、どうして我々秀才よりも上に行くのか、許せん!という嫉妬が肥後藩の高官たちの心の中に棲みついた。

けれど明治維新という大革命で、あらたに出来上がった明治新政府は、国内だけでなく、国外の欧米列強とも対峙していかなければならないのです。
そうした時代の大きな変化の中にあって、大切なのは人材です。

なかでも早くから世界に眼を向け、新しい時代の到来を告げ、新時代の未来像までをも描ききっていた横井小楠は、人材中の大人材です。

そういう人物を、肥後藩は、藩をあげて干上げた。

坂本龍馬の建議などによって、明治新政府は、明治元(1868)年、新政府命令として横井小楠を新政府の参与として迎え入れます。
参与といえば、いまでいったら内閣の三役を兼ね備えた大臣級です。
他にこのとき参与となったのは、大久保利通、木戸孝允、後藤象二郎らがいる。

新政府は、小作農をしていた横井小楠を、いきなり参与としただけでなく、なんと従四位下に任命した。

太政官に出仕することが決まった横井小楠は、明治2(1868)年1月5日、参内の帰途、十津川郷士らによって、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で暗殺されます。
享年61歳でした。

殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものです。
原文だと「夷賊二同心シ天主教ヲ海内二蔓延セシメントス」とある。

これにはさらに下地があって、
新政府の開国政策に不満を持つ者たちが、横井が書いたとする「天道覚明書」という偽書まで作成していて、なんとそこには、熊本で小作農をしていた横井小楠が、秘かにご皇室を転覆しようと企てていたと書いてあった。
まるっきりの、でっちあげです。

希代の天才的思想家は、こうして珍妙な誤解によって志を断たれました。

いま日本は、第三の国難を迎えていると言われています。

一度目は、13世紀の元寇でした。
二度目は、大東亜戦争の敗戦です。
そしていま、日本は建国以来、初めて日本という長い歴史と伝統ある日本を、売国政権誕生によって失おうとしている。

中共は、2050年には完全に日本を掌中におさめて属国にしようとしています。
その中共に、国務大臣で170万票の支持を集めた蓮舫が行き、日本は本来Chinaの属国であるべき国であるという内容の発言を堂々としてきています。

そうした未曾有の国難にある日本は、まさに幕末動乱期同様、非常時にあります。

ひとつ言えるのは、この非常時において、平時の「常識」を高らかに歌い上げる者は、日本の癌でしかない。

いま日本に必要なことは、何が何でも保守に政権を取り戻すことです。
そのためには、一方において、フジテレビを囲むなどの街宣活動や、政治に訴える直接的な政治活動が不可欠といえます。

同時に、そうした政治運動が、世論の支持を得て行くためには、ひとりでも多くの人に、日本という国の素晴らしさを再認識し、日本の心に目覚め、日本国を守るという国家観に目覚めていただくことなのではないかと思う。
そして、そうした運動は、日本を変えるために、日本を取り戻すために絶対に失ってはならないことだと思います。

横井小楠は、若い頃から奇行が目立ち、藩内では浮いた存在となりました。
そして浮いている横井小楠が、明治新政府の参議にまでなった。明治天皇を囲む西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允などと並ぶ、7人衆のひとりにまでなった。

藩の高官たちからみれば「あんな小物がどうして」と、それは腹立たしい存在となったことでしょう。

そして証拠をねつ造され、あらぬことを書散らされ、それを真に受けた十津川藩士たちによって篭を襲われ、斬り殺された。

横井小楠の思想は、世界の中にあって、日本は諸侯が割拠する分権政治体制ではなく、一国の統一を図り、民衆を富ませ、その民間活力をもって世界の文物を学び、吸収し、強兵化を図るという、現代にもそのまま通じる政治思想です。
彼はまさに先覚者だった。

その先覚者を、時代を理解できない小利口な上士たちは、よってたかって引き摺り下ろし、ぬれぎぬを着せて殺害した。

日本は、いま、変らなければならないときです。

その変らなければならないときに、日本人は、中山成彬先生や、西村真悟先生、西川京子先生のような優秀な時代の先覚者を政権の座から降ろし、変って蓮舫や、秋篠宮殿下に暴言を吐くような中井洽や、毎日新聞社のWAIWAIで、日本女性を英語版で、まるで色気違いの売春婦のように中傷し続けた長野の矢崎公二のような大馬鹿者国政に送り込んだ。

よく、日本がこんなにまでなってしまったのは「GHQのせいだ」という人がいるけれど、ボクは違うと思う。
なるほどGHQは日本解体を目論んだけれど、それでも昭和27年以降は、日本は日本人によって政治の運営がされるようになったのです。

日本がここまでおかしくなったのは、他の誰でもない。日本人である私たちひとりひとりのせいです。

であるならば、日本を取り戻すことができるのも、私たちひとりひとりの日本人です。

他人ではない。自分が変ること。
そうして身の回りにいる、ひとりひとりの日本人に、日本人の素晴らしさを訴え続けること。
売国政治家から、新政保守の政治家に、政治を取り返すこと。

いまの危機に、日本は再び第二、第三の横井小楠を失う愚を、絶対にしてはならない。
そう思います。

よろしかったらクリックを。
 ↓ ↓
人気ブログランキング

横井小楠記念館(四時軒)を見学 津軽じょんがら節 高橋裕次郎
この記事が気に入ったら
いいね!しよう
\  SNSでみんなに教えよう! /
\  ねずさんの学ぼう日本の最新記事が届くよ! /

あわせて読みたい

こちらもオススメ

コメント

隠れ念仏

熊本は女性が大人物ばかりでなので、男性は押され気味の様な気がします(^_^;)。
政治的には地域性と言いますか、土着性が希薄な為、強力なリーダーが育ち辛い所はあるかも知れません。
でも、熊本城の石垣を作った石工達は良い仕事をしてます。
鹿児島の五大石橋の岩永三五郎や、東京の万世橋の橋本勘五郎。
水不足で苦しむ農民の為にと、惣庄屋である布田保之助の要請に応えて、石工達が架けた通潤橋もあります。
武威で鳴らすばかりが男ではありませんね。

yamatotake

中国への修学旅行への反対ご協力ください
人命無視の事故処理・尖閣侵犯。

長崎県公立高校の中国への修学旅行を中止するよう電凸・メールお願い。

長崎県教委高校 095-824-1111(代表) 095-894-3354(直)

FAX 095-824-5965  E-mail s40120@pref.nagasaki.lg.jp

意見https://www.pref.nagasaki.jp/edu/form/index3.html

愛信

フジテレビが掲揚していた日の丸はボロボロだった11.9.19フジ抗議街宣
フジテレビが掲揚していた日の丸はボロボロだった11.9.19フジ抗議街宣
http://www.youtube.com/watch?v=-7A8OrDzPRk&nofeather=True
(動画)
9.19フジテレビ抗議デモが炎上 前編 汚れてボロボロの国旗を取り替えよ!
田母神俊雄会長、抗議文をフジ職員に手渡す11.9.19フジテレビ糾弾
【9/19】フジテレビ抗議デモ 1 抗議文提出【頑張れ日本】
【9/19】フジテレビ抗議デモ 2 国旗お届け【頑張れ日本】
【9/19】フジテレビ抗議デモ 3 国旗騒動①【頑張れ日本】
【9/19】フジテレビ抗議デモ 4 国旗騒動②【頑張れ日本】
【9/19】フジテレビ抗議デモ 5 フジテレビ社内へ【頑張れ日本】
【9/19】フジテレビ抗議デモ 6 国旗騒動③【頑張れ日本】
9/19フジテレビデモ【チャンネル桜】フジから古い国旗奪還

【正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現】
フジTVボロ国旗事件詳報
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4385.html
【動画ニュース掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
【動画ニュース最新版タイトル一覧】はこちらをクリックして下さい。

ゆかり

No title
本日の記事とても勉強になりました。
日本人が悪い、確かにその通りだと思います。
ただ、あの時代と今が違うのは、あの時代は
成りすまし日本人がいなかったということです。
今は日本人の顔をしたエセ日本人がたくさんいるので
日本人が悪い、だけではないと思います。
やはり攻撃は最大の防御ですから、
日本人の防御だけで済まない。
事はかなりやっかいです。

-

今日の記事で、正論で相手を誹謗中傷するような人間の思惑には乗りたくない。とありましたが、それは少し疑問です。何故なら、問題は正論を述べた者の人格にあるのではなく、その正論が正論であるかどうかにあるからです。感情論でもって相手の論を嫌えば、必ず判断を見誤るでしょう。陸奥宗光を可愛がった坂本龍馬のように、論そのものを大切にしたいです。

谷 豊

熊本の人物!
私もしばらく熊本に住んでいましたので
「横井小楠」の名前は聞いていましたが、
ここの文を読むまで、どういう人物か
分かりませんでした。ありがとう御座いました。

熊本には「熊本城」「阿蘇」とか地域的な名所は
数多くありますが、人物というとなかなか浮かんで
来ません。
お隣の鹿児島はそうそうたる人物を輩出している
のに・・・です。

熊本で良く知られている武将に「加藤清正」がいますが
その清正でさえ、天草征伐では武士の風上にも置けない
卑怯な事をしました。治山治水では能力を発揮しました
が、卑怯な人物という点では尊敬できないのです。

それらしい人物が出ないのは、自分の命を捨ててでも
国の為に何かをしてやろうという気質が希薄な地域性
にあるのではないかと思っています。

大本営

原発利権と自民党
菅 空からの視察であまりの損傷に廃棄を指示
      ↓
東電 廃炉拒否、未だ使えるとゴネて廃棄に難色し大丈夫と大ウソの報告
      ↓
菅 東電の報告を信じて任せる
      ↓
東電 原発、ドッカーン、失敗して東電トンズラ準備
      ↓
菅 あまりにも無責任な東電に「東日本つぶれるじゃないか、逃げるなこのクソ会社」とキレる

菅は失敗したことに怒ったんじゃない放射能撒き散らかしたまま逃げようとした東電に怒った。
それを萎縮すると擁護した三井の子飼いで東電とずぶずぶの石破茂という構図。
国民を置き去りにして逃げるのは核燃料機構と電気屋官僚と日本皇軍の伝統。

http://esashib.web.infoseek.co.jp/tohokuzisin05.htm

きなこ

No title
共通一次世代さんのコメントを読んで泣けました。一日も早い政権交代を望みます。

愛信

自民・石原氏「国会開かないなら税金ドロボウ」 民主に国対幹部辞表問題の決着求める
自民・石原氏「国会開かないなら税金ドロボウ」 民主に国対幹部辞表問題の決着求める
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110920/stt11092011370002-n1.htm
イカサマ政権公約で日本国民から騙し取った民主党政権の延命のために税金ドロボウと言われ
ても、何一つ疚しい事は無いと嘯く小沢一郎に支配された民主党と売国反日テレビ局・マスコミは
日本人はまだ騙せると考えている。

【関連情報】
国会会期4日間を2週間延長しても9月20日(火)審議の予定無し。
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi

【経済・政治の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj.cgi
【経済・政治の掲示板】最新版タイトル一覧はこちらをクリックして下さい。

共通一次世代

No title
どうしても麻生さん、安倍さん、中川さんとダブらせてしまいます。
2年前、麻生さんが中山さん、田母神さんを更迭し、靖国に参拝しなかったことで保守派は散々麻生さんを批判しました。

でも私は、麻生さんは、保守の批判を浴びてまでも「政治的抹殺」から中山さん、田母神さんを守り、そして靖国を「政争の具」から守ったと思っています。自分が考える「政治的抹殺」というのは「言論さえ封じ込められる状態」です。

そして、麻生さんが当時、何よりも守りたかったのは「日本」だったと思います。必死だったと思います。

麻生さんは一番、何が敵なのかわかっていたし、何を優先すべきかわかっていた。一番「忸怩たる思い」をしたのは麻生さん本人であったと思います。

そして今の今まで、麻生さんから、あのときの国民への不平不満など一度も聞いたことはありません。
麻生さんがいつも思っているのは「日本と日本人の底力に、一点の疑問も抱いたことがありません」。この言葉に尽きます。

所信表明演説でおっしゃった「この言葉よ届けと念じます」。
本当に届いてほしかった。国民に聞いてほしかった。

日本国民を信じてやまない政治家の存在を国民は抹殺しようとした。国民が反省しない限り、前には進まない。
非公開コメント

検索フォーム

ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

スポンサードリンク

カレンダー

05 | 2021/06 | 07
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -

最新記事

*引用・転載・コメントについて

ブログ、SNS、ツイッター、動画や印刷物作成など、多数に公開するに際しては、必ず、当ブログからの転載であること、および記事のURLを付してくださいますようお願いします。
またいただきましたコメントはすべて読ませていただいていますが、個別のご回答は一切しておりません。あしからずご了承ください。

スポンサードリンク

月別アーカイブ

ねずさん(小名木善行)著書

ねずさんメルマガ

ご購読は↓コチラ↓から
ねずブロメルマガ

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
テーマは、ご自由に設定いただいて結構です。
講演時間は90分が基準ですが、会場のご都合に合わせます。
E-mail nezu3344@gmail.com

電話  080-4358-3739

スポンサードリンク

コメントをくださる皆様へ

基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメント、および名無しコメントは、削除しますのであしからず。

スポンサードリンク