李舜臣についていえば、なるほど朝鮮の海将として文禄元(1592)年8月29日に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいますが、あえなく敗退しています。
また、慶長3(1598)年)年11月18日の露梁海戦(ろりょうかいせん)では、明国と朝鮮の連合軍の指揮を執りながら、日本軍の圧倒的な戦力の前に、戦死しています。
李舜臣によって、日本が海上補給路を断たれたという事実は、どこにもないのです。
そもそも、秀吉の朝鮮出兵についても、誤解と偏見がまかりとおっています。
戦国時代や秀吉を描いた歴史小説においても、そもそも秀吉の朝鮮出兵が「なぜ行なわれたか」について、きちんと踏み込んで書いているものはたいへん少ない。
おおかたは、秀吉の朝鮮出兵は、
◆秀吉が耄碌していたために起こした戦いだった、
◆秀吉の成長主義がひき起した身勝手な朝鮮征服の戦いであった、
◆戦いを好む戦国武士団を朝鮮、Chinaに追い払い殺して数を減らすための戦いだった
などと、ほとんど意味不明の解説がなされているようです。
まさに、木を見て森を見ず、です。
そもそも、仮に秀吉が耄碌爺であったとしても、当時の日本は、江戸日本も含めて、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。
耄碌ジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。
秀吉の成長志向が招いたという解説にしても、信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強かった体制であり、領地がもらえなくても、それぞれの大名は、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたわけです。
金持ち喧嘩せずとはよく言ったもので、食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて、戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。
では、なぜ秀吉は朝鮮出兵を行ない、世の大名たちも、これに追従したのかが問題となります。
実は、このことを考えるには、日本国内だけの事情をいくら考えても答えはでてきません。
そもそもなぜ、秀吉の時代に日本が一国にまとまったのか、そして朝鮮出兵をするに至った背景には何があったのか。
実はそこには、当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。
そしてそういう国の内外の事情を理解したからこそ、東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力し、兵を出しているのです。
そもそも、二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)というのは、16世紀における東アジアでの最大の戦いです。
日本からは約16万の大軍が朝鮮半島に送り込まれたし、朝鮮と明国の連合軍は、戦力25万の大軍です。
天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いにしても、東軍7万、西軍8万の激突ですから、いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかがわかります。
この時代、世界全体を見渡せば、まさにスペイン国王が、世界を制した時代です。
世界の8割は、スペインの植民地となっていました。
そのスペインは、東亜地域では、ルソン(いまのフィリピン)に、東アジア地域全体の戦略統合本郡である総督府を置いていました。
そして信長、秀吉の時代、スペインによってまだ征服されていなかったのは、東亜では、明国と日本だけとなっていたのです。
そのスペインが、日本に最初にやってきたのは、天文18(1549)年のことです。
日本では、宣教師のフランシスコザビエルの来日として歴史に記録されています。
当時のスペイン宣教師というのは、表向きの役割はキリスト教の伝道ですが、裏では立派な軍事組織を持つ、僧兵軍団です。
実際のキリスト教の伝導とは異なり、それぞれの国民に受け入れられやすそうな調子の良いことを言って改宗させ、頃合いを見計らって、軍隊を送り込み、人民の殺戮や財宝の強奪、ひいては植民地占領をしていたのです。
日本が内乱に明け暮れていた時代の戦国大名たちは、最初は、宣教師たちについても、ただのものめずらしさしかありません。
ザビエルは、あちこちの大名に招かれ、大名たちもキリスト教の信者になったりもして、伝道師たちを快く受け入れていました。
ところが唯一、日本が他の国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、日本人はまたたくまにコピーし、それを量産してしまったことです。
気がつけば、日本の鉄砲所持数は、なんと、世界全体の半数を占める莫大な数になってしまいました。
宣教師たちも、さすがにこれには驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書にも、このことについては明確な記述があります。
〜〜〜〜〜〜〜〜
スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。
よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向けるしかありません。
〜〜〜〜〜〜〜〜
住民数を言うなら、南米やインドの方がはるかに住民数が多いわけで、城塞の堅固さも、日本の平城は、アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。
にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、単純に、鉄砲の数が圧倒的で、とても軍事力で日本には敵わない、ということです。
だから、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向ける」というのです。
こうしてスペインは、日本での布教活動に、まず注力していきます。
一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。
お隣の明国も、スペインは植民地化を狙っています。
こちらは、鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。
ただ、大陸は広く、その調略には手間がかかる。
ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。
朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。
それだけのことです。
さてそのスペインですが、明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に、一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。
ところが日本には、まるでそんなことに関心がない。
そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。
信長は、比叡山を攻めたり、本願寺を攻めたりと、まるで第六天の魔王であるかのように描かれることが多いですが、実際には、次々と行なった信長の戦いの目的は、一日も早く戦乱の世を終わらせることに尽きた。
だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが、最近になって発見された各種文書から、次第にあきらかにされてきています。
このことは秀吉も同様で、なぜ秀吉が人気があったかといえば、百姓の代表だから百姓の気持ちがわかる。
戦乱によって農地が荒されることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんとわかってくれている人物だったからこそ、秀吉人気はあったのです。
要するに、当時の日本の施政者にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、わざわざ明まで出かけて行く理由はひとつもない。
ところが、日本が秀吉によって統一され、なんとかその治安と太平を回復すると、今度は、対明国への対策が大きな課題となってきます。
どういうことかというと、スペインが日本に攻めて来たとしても、彼らは海を渡ってやってきます。
スペインとの直接対決ならば、海を渡ってやって来るスペイン人は、数のうえからいえば少数であり、火力、武力ともに日本の方が圧倒的に上位です。
従って、日本がスペインに攻略される心配はまるでない。
ところが、スペインが明国を植民地として支配下におさめると、様子が違ってきます。
いかに数多くの鉄砲を日本が持っているとはいえ、スペインに支配された明国兵が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、これはたいへんなことになる。
元寇の再来です。
これは驚異です。
となれば、その驚異を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかない。
火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができる。
このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、明治日本が行なった政策と、当時の状況が酷似していることをあらわします。
さらにいえば、秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊が、英国との戦争に破れスペイン自体が海軍力を大幅に低下させていることを知っています。
ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性は、まずありません。
一方、長く続く戦乱の世を終わらせようとする秀吉は、全国で刀狩りを実施し、日本の庶民から武力を奪っています。
これはつまり、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時にこのことは、もし日本が他国侵逼の難にあったときは、日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。
ならば、武力がまだ豊富なうちに、余剰戦力を用いて、朝鮮出兵を行ない、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。
これは我が国の安全保障上、必要なこと、であったわけです。
こうして秀吉は、文禄の役(1592〜1593)、慶長の役(1597〜1598)と二度にわたる朝鮮出兵を行なうのですが、同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行なっています。
何をしたかというと、スペインに対して、日本に臣下としての礼をとれ!と申し出たのです。
最初にこれを行なったのが、文禄の役に先立つ1年前、天正18(1591)年9月のことです。
秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。
世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
まさに、気宇壮大というべきです。
対するスペイン総督府にしてみると、これはきわめて腹立たしいことだけれど、すでに無敵艦隊が消滅し、海軍力を大幅に低下させている現状にあっては、日本に対して報復的処置をとれるだけの力はありません。
悔しいけれど、放置するしかない。
すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。
驚いたのはルソンのスペイン総督府です。
日本が、朝鮮、明国を征すれば、その国力たるや、東亜最大の政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。
しかも、海を渡った朝鮮出兵ということは、いつ、ルソン島のスペイン総督府に日本が攻めて来てもおかしくない。
慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町の始まりです。
さらにスペイン総督府は、同年7月には、ドミニコ会士の宣教師、フアン・コポスを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。
このとき、膨大な贈物も持参している。
いかにスペインが日本をおそれていたか、ということです。
けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。
重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。
その内容がすさまじいです。
スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、マニラにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ、というのです。
そして、それがお嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ、このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ、というのです。
この秀吉の書簡を受け取ったコポスは、帰路、遭難します。
本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が100%スペイン国王の激怒を買うことがわかって、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。
けれどおそらくこれは後者ではないかと私は見ています。
さて、コポスの遭難のおかげで、秀吉の書簡は、スペイン総督府には届かなかったわけですが、当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。
けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。
秀吉は、10月には、原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせたのです。
文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。
そしてこのとき、たまたま在マニラのChinese約2000人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。
スペイン兵は、応戦しますが、多勢に無勢です。
これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、またたく間にChina兵を殲滅してしまいます。
日本強し。
原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。
けれど、ゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。
世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、とてもじゃないが報告できることではありません。
ゴメスは、なんとか時間をかせごうとします。
そして、翌文禄3(1594)年4月に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に任命し、日本派遣します。
要するに、特使の派遣を繰り返す中で、少しでも時間稼ぎをしようしたのです。
名護屋でペドロと会見した秀吉の前で、ペドロは、スペイン王国が、いまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。
普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。
けれど、秀吉は聞く耳を持たない。
ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。
なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。
理由があります。
第一に、国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。
この時代における国際関係というのは、やるかやられるか、つまり上下の関係しかありません。
たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかなかったのです。
第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。
そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作(まさにいまChinaやKoreaによって行なわれている日本解体工作と同じ)を行なう。
現に、世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地にされていたのです。
ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ。
あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。
これしかなかったのです。
第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。
並みいる敵は、圧倒的な武力で制圧する。
その上で、武力そのものも奪ってしまう。
つまり「刀狩り」を行い、そうすることで秀吉は、「戦のない世の中」を実現しようとしています。
けれど、同時に刀狩りをして日本人から武力を奪うことは、一方において日本人を弱化させることを意味します。
ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を日本から出来る限り遠ざける必要がある。
名護屋におけるペドロ・バウチスタ・ベラスケスとの会見も、平行線となったスペインのゴメス提督は、日本との軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまいます。
そして後任の提督としてやってきたのが、ルイス・ダスマリニャスです。
ルイス・ダスマリニャスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本の戦力を冷静に分析します。
そして、ゴメスの分析通り、もし日本とスペインが、東亜で正面から衝突すれば、むしろスペイン側に勝ち目がないことを知ります。
そこでルイスは、秀吉との直接交渉は避け、ひとり、またひとりと、宣教師を日本に派遣するという戦略をとる。
つまり、時間を稼ぎ、その間に、当初の戦略通り、日本に宣教をしていこうとしたのです。
文禄3(1594)年には、ルイス提督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士4人が、日本に派遣され、日本での布教を再開しました。
秀吉も、これは認めています。
ところが、慶長元(1596)年のことです。
スペインの貨物船、サン・フェリーペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。
救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べにあたりました。
そこで驚くべき事実があきらかになります。
なんとサン・フェリーペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、
「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」と証言したのです。
報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26人を逮捕しました。
そして彼らを長崎に送りました。
キリシタンを続けたいなら、外国へ出て行け。
日本に残りたいなら、改宗しろ、というわけです。
迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。
磷付にして、晒してほしいと、申し入れたのです。
イエスズ会の腹はこうです。
26名の信者を、イエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。
こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、侵攻による団結心をたかめる。
まあ、このあたりの話は、本題からかなりそれるので、また今度詳しく書くこととして、要するに秀吉の朝鮮出兵は、スペインによる東洋の支配に対して、統一国家をやっと形成した日本が、いかに国を護るかを考えた上での決断であった、ということです。
このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ても、まったくわかりません。
当時の世界情勢、東亜諸国の情勢をみなければ、秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、そして多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い、兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのかが、理解できない。
もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の世界の動きは、スペインがロシアと変わっただけで、まったく同じことが歴史上、繰り返された、ということなのです。
もし、秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたか。
スペインは、当然のことながら、明国を植民地としての支配下に置いたことでしょうし、当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。
そしてスペインの支配地となることが、いかなる意味を持つのか。
そのことは、南米の様子が、見事にまで現代に伝えています。
いま、南米に南米人の純粋種は存在しません。
白人種との混血種だけです。
アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完ぺきに抹殺されてしまいました。
このエリアの女性たちは、手当たりしだい強姦されたあげく、子を産む前に殺戮されたのです。
ですから、いま住んでいるのは、ほぼ白人種です。
ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が、先住民族との混血です。
純血腫はいません。
強姦され、放置され、子を産み、いまに至っています。
日本もChinaもKoreaも、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。
なぜそうなったかといえば、秀吉たちが、スペインと真っ向から戦う姿勢を明確に見せたためです。
ちなみに、慶長の役は、秀吉の死去にともなって、中止となり、日本は朝鮮半島から撤収しました。
だから、これは秀吉の気まぐれでおきた戦争だというのは、大きな間違いです。
半島に出兵した大名たちは、それぞれに真剣に戦ったのです。
ではなぜ日本が撤収したか。
こたえは簡単です。
スペイン自体が、英国やオランダに押されて、国力を低下させ、もはや東亜に構っていられなくなったのです。
わたしたちは、いま、スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った秀吉の壮大な気宇と誇りを、いまこそ見習うべきときにきているのではないでしょうか。

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コメント
ぼにぼに
今日の産経新聞にタイトルのような記事があり、それを見て、「これは豊臣秀吉の朝鮮半島出張と同じシチュエーションだなあ。」と思いました。
しかも現代はクレイジーな連中露助とシナに、北将軍追加。
見回してみたら侵略しない日本がいるもんだからまーた擦り寄ってきたんですね。
自民党にはここで福沢諭吉の脱亜論、実行してもらいたいです!!
2022/08/16 URL 編集
-
2021/07/11 編集
名無し
2021/03/30 URL 編集
-
しかしもう少し論拠、エビデンスを交えて説明して欲しい。
大変だとおもうけど、そうしないと歴史家からは妄想として無視されるだけ。
2020/12/20 URL 編集
-
日本に帰れなかった人たちがスペインに残り、その子孫がハポンさんという名字で沢山いらっしゃり、今年、伊達の御当主様御一行がスペインを訪れる予定とか。
私は大阪育ちなので秀吉さん好きですし、伊達政宗も好きなので、両方を悪く思いたくないです。
2020/01/23 URL 編集
1980年以降の学校から実質購入した歴史教科書 全部資源回収
人種・人権差別と見られるかもですが、
部落の方?
在日特権で日本の政治家を長く遣っておられる?
詳細不明ですが、長が腐ると部署などの下も腐りますから。
当日投票は絶対に行くべきだし、選管も幹部人選と投票箱を海外に見習って透明で且つ高さ高くし、期日前の保管場所も大事になってくる。
ネタから逸れてしまいましたが、文化財を守る・正しい教育・世界に通用する日本独自の心、徳、思想 武士道 を継承する一つの防衛策であります。
2019/09/02 URL 編集
1980年以降の学校から実質購入した歴史教科書 全部資源回収
一例
タイトル 放火放尿強奪
コメント イビル
2019/09/02 URL 編集
1980年以降の学校から実質購入した歴史教科書 全部資源回収したぜよ
天守閣内部に秀吉 朝鮮出兵の音声映像説明があり、その上の文章案内を読んでみると、「征服」と書いてあり、単語「スペイン」、「日本国をスペイン明国その他共同体から守るため」というようなご案内が全く 描かれていなかった。
行政や公共団体が記録文字案内を間違える間抜けではないので(特に国や政府レベルで嘘塗り目的で「ミス」を利用するときはあるが)、公衆電話で大阪城天守閣や大阪市に、「担当部課内部が朝鮮や悪魔に乗っ取られていないか、気は確かか」と問い合わせしたいと考えた次第です。
*なかなかまわりが静かな公衆電話はないです
別件で、
徳川家康は大阪夏の陣で兵力秀吉の3倍で勝ち、卑怯にも秀吉大阪城と周辺地形を家康設計にぐちゃぐちゃに変えやがった威人です。
江戸は豊かにしたけれども、利根川の流れを大幅に変えて自然破壊した物人。
他は知らんが、これらだけを見て、よく家康、徳川家康と持てはやされるが、個人的に納得できないので、凄くなく単なる勝者の驕った言動、スペイン帝国・イギリス植民地征服国頭首と同じ私利私欲悪魔だと、
白人や朝鮮の頭首よりかはマシだと思われる。
2019/09/02 URL 編集
古美門研介
これ、子供にもわかるようにジャンプとかで漫画にならんかな。
正確には「秀吉の病死による自主撤回」ですね。
2019/07/29 URL 編集
草加一郎
それ程の衝撃を今頃受けている私の何と間抜けな事か…
全てのコメントに至るまで一気に読破させて頂きました。
此れからの人生の心情に大きな転換を強いられています。
此処で得た貴重な情報を今後拡散する一員に加えて頂ける事に感謝いたします。
2019/01/30 URL 編集
七柴
最初の名簿に載せられたのは25人です。
後で一人が殉教に志願して加わり26人となりました。
枝葉末節ですが、御存じではあろうかと思いつつも
書かせて頂きました。大変良い記事を有難うございます。
2019/01/27 URL 編集
-
スペインがアラブから解放されるとユダヤ人は追い立てられ、アムステルダムに大量移住した。
次いで、イングランドのクロムウェルを資金援助して政権奪取させ、クロムウェルはブリテン島で360年続いたユダヤ人禁止令を解除し、ロンドンがユダヤ人の一大拠点になった。
2019/01/12 URL 編集
-
より正しい表現は「明遠征」ではないだろうか
2019/01/10 URL 編集
歴女?
2018/10/21 URL 編集
名無し
知っていた部分と新たに知った部分、勉強になりました。
2018/01/16 URL 編集
おがた
2016/11/16 URL 編集
チーム大谷
2016/07/09 URL 編集
でんのうおとこ
2016/06/12 URL 編集
名無し太閤殿下ありがとう
無敵のスペインをも撃退する目的があったとは
太閤殿下に改めて御礼申し上げる。
代々の天皇陛下も感謝されてる事でしょう。
ありがとうございます。
ただ、もし植民地化されて、
混血となってしまっていたら、
サッカーだけは今以上に強かったのかな
2016/04/19 URL 編集
-
ttp://togetter.com/li/948108#c2569087
2016/04/19 URL 編集
大坂卓也
本当に朝鮮出兵の理由は今まで腑に落ちていなかったのです。
世界征服をたくらむ秀吉の野望?
のような印象で描かれるものが多くて、
天下統一はしたものの、一歩間違えば
まだまだ足元から崩れてしまうリスクを、
秀吉ほどの人間が考えるだろうか?
といつも疑問に思っていました。
有難うございました。
2016/04/01 URL 編集
武田ひさこ
この朝鮮出兵などは特にそうでした。
朝鮮半島とは歴代、本当に困った関係が続いていましたが、そこにヨーロッパからの魔の手が加わっていて、それでよく徳川三百年の泰平の世が送れたものだと思います。
こんな日本の本当の歴史を私も拡散していこうと思います。
これからも様々な視点からのお話を楽しみにしています。
2015/10/26 URL 編集
立川則文
2015/08/15 URL 編集
あげは
秀吉の朝鮮出兵にも、ずっと疑問がありましたが、これで納得できました。
秀吉のようなタカ派の外交手腕を今後の日本政府にも期待したいと思います。
以前、ツイッターでこちらのブログを紹介した所、スマホなど一部では閲覧不可能になっていると知りました。
どうやらソフトバンクのようです。
FBやmixi日記機能ならば、閲覧の範囲も広がりますので、コピペして本当の史実を広めたいと思います。
ずっと真実を知りたいと思っていましたので、こちらのブログにはいつも感謝しております。
自虐史洗脳された人々に真実を伝える時にも強い味方です。
2014/11/27 URL 編集
通りすがり
2014/09/30 URL 編集
-
私は無学な人間なので現朝鮮のことは別にしてもスペイン帝国の現アルゼンチンウルグアイへの侵略植民化の内容と色の理由に衝撃受けました。
学生の頃はただ年表を覚えるような歴史にウンザリしていましたがこれからは『侵略と原住民』から歴史を紐解き『差別と血脈』を考えたいと思います。
私は日本人の優しさ文化ユーモアを尊敬しています。今も長い歴史のある祖先・祖国の大地の上で暮らせていることに誇りに思い勇気を感じます。
逸脱、個人的にはこの国の若者の自殺が大変悲しいです。人生の楽観視が足りないとか言われますが日本人に必要なのは、湾曲矯正され奪われてきた愛国心と誇りだと思います。若者と教育なくしてこの美しい国を残すことは出来ません。今後も様々な情勢や困難が立ちはだかると思いますが私達には特別な祖先が見守っていてくれている事を忘れてはいけません。がんばれ日本人。
2014/08/27 URL 編集
-
推測していたのですが、いかんせん根拠が無くもやもやしてました。
裏付けが取れて良かったです。すっきりしました。
でも、秀吉の朝鮮出兵を肯定すると、第二次世界大戦の日本の行動も
肯定することにつながりかねないので、米中韓の反発にあうでしょうね。
(アメリカは原爆の根拠を日本軍の侵略戦争の残虐性に求める必要があるので
侵略を肯定する要素は認めないと思います。)
多分この歴史は闇に葬られっぱなしになると思います。
2014/07/13 URL 編集
昭和青年
太平洋戦争も、敗北せずあのまま朝鮮と一緒だったら・・今何百万人の在日がいたんだろう?
2014/06/28 URL 編集
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2014/05/22 編集
-
文章も読みやすいし、内容的にも納得できました。
よく考えたら当たり前ですが日本史と世界史はつながってるんですよね。
「秀吉の愚行」とする(アルツハイマー説までありますが)論調の物はおそらく戦後の中韓に遠慮した政治の所為なのかもしれませんが、この記事のように出来事の背景や周辺情勢について触れながら「ちゃんと理由があったんだ」と説明されると説得力が全然違うし、何より面白い!
年表とにらめっこするだけの歴史は意味がない!
これからも面白い記事いっぱい書いてください。期待してます。
2013/10/19 URL 編集
アジアの史実
どこぞの強制有料テレビ局も大型時代ドラマとして視聴料を使用して取り上げてほしいですね。
秀吉個人がこれだけの情報分析と戦略的決断を行ったとは考えにくいことから、参謀として活躍した多くの人物の史実も知りたいものです。
日本人は時局変化に敏感で変わり身も早いですね
300年後の日本は、黒船事件などの外圧を正確に分析した結果、鎖国政策では外圧に対抗できないと速やかに判断し、国政を国防・対外戦争準備に180度切り替えたのが大政奉還、明治維新であり、明治政府の多くの英断と実行力は「坂の上の雲」だけでは語り尽くせぬものであり、今こそもう一度再評価をすべき時です。
日清戦争、日露戦争とはまさに危機的状況予測に対して「間に合った」のです。
2013/09/26 URL 編集
これからを考える 翔
勝手なんですが、記事を私のブログで紹介させていただきました。
他にもいくつか紹介させていただいているのですが、事後報告になってしまってすみません。
これからもっと他の記事を読ませていただいて勉強させていただこうと思います。
今後のご活躍をお祈りしております。
2013/09/17 URL 編集
アジア
秀吉は素晴らしい。
耄碌したとかほざいてる自虐史観の走狗は消えてほしいですね。
2013/09/15 URL 編集
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なぜスペインに秀吉からフェリペ二世に送られた甲冑があるのか。
秀吉は海外の情勢も見ていたんですね。
キリシタン弾圧も近代以降の戦争も全て安全保障の為だった。そのことを伝えない歴史書はもうなくすべきだと思います。あと国史と世界史は一緒に教えるべきだと思います。
2013/06/14 URL 編集
名無しさん@ニュース2ch
それほどのことがあったなら、もっとそれを裏付ける資料が
残されていても良いのではないかと思います。
(単に一般に広まっていない、または大阪城と共に燃えて
しまったのかもしれないですが)
戦国時代の文書は色々残っていて今でもたまに発見される
ので、今後裏付け資料が出てくると面白いですね。
2013/05/23 URL 編集
JT
2013/02/05 URL 編集
来哉
2012/12/06 URL 編集
ちぇりー
2012/11/14 URL 編集
初詣は靖国神社
2012/10/06 URL 編集
ふうむ
日本人としての危害を子供から・・・
2012/08/03 URL 編集
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2012/08/03 URL 編集
アロン
誇張される李舜臣の実態のコピペです。
長くなりましたが以上です、長文すみません。
初期に朝鮮水軍が日本水軍に
勝つことができた理由として、
秀吉は天下統一前後から、政治的政策のため
水軍を軽減していて弱体化していたこと。
そもそも海戦の予定はなかったこと。
日本船は戦闘艦ではなく小型の輸送船だったこと。
朝鮮水軍にとって地の利をえているホームグラウンドで有利だったこと。
しかし、日本水軍が陸上防衛に移りはじめたら、
朝鮮水軍は損害が増え始め活動は鈍った。
慶長でも巨済島海戦では朝鮮水軍は壊滅、
鳴梁で少数の先鋒には勝利したが、
後続の強大な日本水軍の前に逃走して
朝鮮水軍基地も攻撃され、島も占領された。
順天戦でも朝鮮水軍は敗退している。
李舜臣は、大局に影響を与えない
輸送船相手に戦術的勝利を初期に
あげていたのが実相。
2012/08/01 URL 編集
アロン
南原城の戦い・稷山の戦い、巨済島、いずれも日本勝利。
過大評価されている鳴梁海戦では、日本水軍の中型船のみを用いた先鋒に
損害を与えたが、その後は日本水軍の圧力に耐え切れず、
李舜臣は北に逃走、全羅道も制圧され、水軍基地も占領された。
末期の戦いでも、
泗川の戦い (島津軍 7000VS明朝軍29015)島津の報告3万8千討ちとる
明史8万を失うとある いずれも誇張だろうが、大損害を被ったことは推測できる。
順天城攻防戦(小西軍13700VS明朝軍55000)陸海とも多数の死傷者と舟23~39を失うとある
僉使黄世得も戦死
第二次蔚山城(加藤軍10000VS明朝軍29500)権応銖の報告では明軍の被害は数え切れないとある。
いずれも明朝軍が敗北を喫している
12万以上を動員した一斉攻勢は失敗した。
宣祖実録十月十二日↓
全ての攻撃で敗退した。これにより三路に攻めた明・朝鮮軍は
溶けるように共に潰え、人心は恐々となり逃避の準備をした
露梁の戦いも、島津の8000と明軍と朝鮮軍の2万&伏兵という好条件にもかかわらず、
朝鮮軍は李舜臣が討ち死に、明軍も鄧子竜が討ち死に。 島津軍と小西軍を殲滅できず。
以上のことから明朝鮮に負けた要素は探し出せず、日本軍の自主撤退が正解。
2012/08/01 URL 編集
アロン
掲載させてください。
以下からコピペです。
負けというかなんというか、ただ左翼や半島人、在日が言う、
「朝鮮軍や明軍に圧倒されて、戦闘に負けて後退した」というのとは
カナリ違うのは確かだね。
秀吉軍の食料不足の原因には、李舜臣は関係なく、
文禄・慶長を通じ日本の兵站ラインである名護屋-壱岐-対馬-釜山の
海路は確保されており、釜山の物資が不足したことはない。
文禄では以下が要因。
1
朝鮮軍が弱過ぎて、予想より早く制圧しすぎたこと。
明から李氏朝鮮に日本の手引をしていると詰問された程。
2
小西行長が和平交渉をしながらという曖昧な状態で、
攻勢か防御かの意思決定がハッキリせず、食料の補給が遅れたこと。
3
文禄の役前後の朝鮮は腐敗政治や天災、農奴の脱走により、深刻な食料不足だった。
そのため現地調達もままならなかった。
4
義兵や脱走農民による補給路の襲撃による食料の遅配のため内陸部の部隊は食糧不足に
悩まされたため(義兵は李氏王朝の倉や民衆からも略奪することも多かった)
また平壌陥落も、小西行長が和平交渉期限が過ぎたにも関わらず、
律儀にも返答の使者を待っている時に、4倍近い明鮮軍の奇襲を受けて
善戦したものの、明軍指揮官の勧告を受け入れ城を明け渡した。
フロイスも、従軍した将士たちから聞き取りしたところ、
唐入りの秀吉軍の死者のうち戦闘による死者はわずかで後は病死と記している。
翌文禄2年からは本土からの補給の開始と突出していた
部隊が南部に後退したので解消。
準備を整えた慶長の役では補給の破綻は起きていないし、
慶長4年8月の豊臣秀吉の死までの間、遠征軍は
予定されていた作戦計画をすべて完遂させていた。
2012/08/01 URL 編集
あ太郎
それは偽善者を見抜く慧眼の士であること。
他の大名と比べてみぃ。天と地ほどの差があらぁな。
2012/07/31 URL 編集
自然葉
目からうろこといいますか、今回のテーマには感動しました。
昭和前期(大東亜戦争の前の昭和)の日本の近代の歴史については、渡部昇一氏の日本史や展転社の諸本を学び、歪んだ日本史学(ほぼ日共系の講座派の流れをくむ左翼史観)を払拭したつもりでおりました。
しかし、それ以前の日本史(いわゆる近世史)は、全くのブランクでした。
ぜひ日本国民のために小名木さんの新日本史を書いてください。徳富蘇峰の「近世日本国民史」を書き換える名著を期待しています。
2012/07/31 URL 編集
あつし
今回の文禄、慶長の役の記事は、まさに目から鱗でした。
私は長い間、この朝鮮出兵の意味が分からなかったのです。今回の記事で納得です。
秀吉は、私の中で英雄の一人になりました。
ありがとうございます。
2012/07/31 URL 編集
南は北朝鮮
関ヶ原以上の軍勢を 船まで仕立てて送り込む 莫大な費用・労力には全然 見合いません。
全世界に支配を及ぼしていた スペイン・ポルトガル やがてはオランダ・イギリス・フランスなどへの対抗策だったとは・・・・眼から鱗が何枚も落ちた感じです。
天草や長崎では キリシタン弾圧を観光の目玉にしている感じが ありますが 小生は キリシタン弾圧こそが 最も正しい政策だったと思う・・・とガイドの人に言って妙な顔をされた事があります。当時の宣教師は 愛だの平和だのを口にしながら 奴隷貿易や先住民の虐殺を止めようともしなかったのです。愛とか平和とかを口にするのは 偽善者の典型なのでしょう。
それを見抜いた秀吉や家康こそ 偉人です。
2012/07/31 URL 編集
みーたん
私は、今日のお話しを読むまで、秀吉のことを最後は朦朧して明に出兵したとんでもない人!と信じていました。
申し訳ないことです。
これからも、いろいろ教えて下さいませ。
暑い中、力作ありがとうございました!
2012/07/31 URL 編集
hehehe
ことが必要なことで現在の一つを。
アメリカの干ばつで穀物、特にトウモロコシが不作なのは
かなりの影響があるのは、ご存知かと思いますが、
実は、海運の業績にも影響が大きいです。
穀物運搬用の船舶は、他のものが輸送できない専用船
ですので。
しかも日本の船員を養成する機関が危機的状況なのは
ご存知かと思います。
日本の生命線である海運に対する補助育成は、続けな
ければ、まずいのに削減されまくりですから。
外国の海運会社頼りでは、いざという時に必要な物資が
手に入らないです。
震災の時で入港拒否とかで判っているはずなんですが、
改善しないといけない事案の一つですね。
米干ばつの影響、穀物貿易量の減少率、過去19年で最大か
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M802J36S973E01.html
2012/07/31 URL 編集
通りすがりの主婦
2012/07/31 URL 編集
桜子
戦前迄はその歴史を生かし、常に国防とは?という認識の上で国策を行ってきたと言えます。
そして時代、時代により国防政策を生かし、日本を守ってきたのです。
なぜ強かったか、それはねずさんが常言われている事ですが日本人が持っていたアイデンティティの他ならないのです。
こうしてねずさんの記事で勉強させて頂けば頂くほど情報量の少ない時代にも関わらず、いかに先人達に先見の明があったか、というのを思い知らされます。
そして反対に、現代においてはコンピューターという文明の機器があり、膨大な情報が得られるのにも関わらず、その馬鹿さぶり、(勿論その中に過去の私も含む)先人達が今を見たら呆れかえると思います。もし先人達からコメントが頂けるとしたら、どんなコメントが頂けるのかな?とふと思ったりします。
同じ事が繰り返されている現在の日本、もう戦前のようにはいかないでしょう。
「盲(めしい)たる民世に踊る・・・」これでは亡国あるのみです。
何度もコメントさせて頂いたと思いますが、外敵からの脅威、国内においても問題山積、(民主になってなを加積)。
しかし国亡くして何の議論かとも思われます。
まずは外壁をがっちり固め、同時に内に潜む獅子身中の虫の退治、そう思います。
それもこれも日本国民一人ひとりにかかっています、正念場ですね。
2012/07/31 URL 編集
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本やテレビで見たり学んだりして以来のモヤモヤした疑問がすっきり解消した気分です。
学校では日本史と世界史を別々に教わることが多く、同時期の出来事であっても全く別の記録としてしか認識出来なかったように思います。
大航海時代以降の世界は、たとえ地球の裏側であっても無関係ではいられなかったということが納得出来る話ですね。
2012/07/31 URL 編集