いや、正確にはパラオは、日本の「委任統治領」でした。
「委任統治領」というのは、国際連盟規約第22条に基づいて、国際連盟の指定を受けた国が、一定の非独立地域を統治する制度です。
この制度は、もともとは、白人諸国が有色人種諸国を統治する、というより植民地として支配することに国際法的正当性を与えるために作られたものです。
だから、パラオは日本の植民地だった、という人がいます。
違います。
パラオは、あくまで国連からの正式な委任によって、日本が統治したものであり、その日本は、パラオから収奪するどころか、教育、文化、行政、法制度、都市インフラにいたる、あらゆるものを与えました。
けれどそんなことより、もっともっと「はるかに大きなもの」を、日本はパラオに与えました。
そしてそのことを、パラオの人々は、いまも大切にしてくださっています。
それが、これからお話しする、勇気と愛の物語です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まりました。
日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、1,200メートルの滑走路2本を持つ飛行場を完成させています。
パラオは、開戦した日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の太平洋防衛圏上の、重要な拠点となったのです。
日本にとって、防衛上重要拠点であるということは、敵対する米軍にとっては、脅威です。
なぜならフィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、パラオ・ペリリュー島の日本軍基地は後背部を脅かす存在だからです。
昭和18(1943)年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画しました。
当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。
米軍は、刻一刻と迫ってきます。
島民たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。
日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。
そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともに「戦おう」と決めました。
こうした村人の会議という制度は、パラオ古来の慣習です。
いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します。
全員です。
そして話し合いは、全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。
議場に籠って話し合い続けるのです。
そうして、みんなの意思を固める。
全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。
当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。
中川中将は、熊本の玉高の出身で、陸軍士官学校の第30期生です。
日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんだったそうです。
中川大佐がパラオ、ペリュリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことでした。
家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って
「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。
「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。
温厚で、日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体でわかるものです。
そしてそういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み・・・一緒に戦うこと・・・をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。
ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。
そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」
中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。
一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。
しばしの沈黙のあとです。
中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。
村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
耳を疑った。
(俺たちのことを「土人」と言った?)
そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。
断られたからではありません。
土人と呼ばれたことがショックでした。
怒りではありません。
あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。
日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。
それが「土人?」
信じていたのに。
それはみせかけだったの?
集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。
ただただ悲しくて、悔しくて。
みんな泣いてしまいました。
何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。
島民たちは、悄然として船に乗り込みます。
島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。
汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。
次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。
そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。
船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。
船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。
誰もが笑っています。
歌声が聞こえます。
そこには中川隊長の姿もありました。
他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。
素敵な笑顔だったそうです。
当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。
昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたが切って落されました。
島に立てこもる日本軍10,500名。
対する米軍は、総員48,740人です。
火力に勝る米軍は、その日から、航空機と艦砲射撃によって、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を小さなペリュリュー島に投下しました。
最初に米軍は、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払いました。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。
そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000人が島に上陸を開始しました。
米軍の上陸用舟艇が、続々とやってくる。
島はじっと沈黙したままです。
米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らしました。
そのときです。
突然の集中砲火が、米軍の上陸部隊を襲ったのです。
それまで、地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したのです。
水際での戦闘は凄惨を極めました。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却をしています。
この戦闘で、米軍の血で海岸が赤く染まりました。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。

オレンジビーチ10月30日には米軍第1海兵師団が全滅しました。
米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。
将官が倒れるほど、それほどまでに、すさまじい戦いだったということです。
この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続していました。
けれど、日本軍には、補給が一切ありません。
食料も水もない。
夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと水を汲みに行って米軍の猛火に遭います。
だから水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていました。
日本軍の抵抗は次第に衰えを見せはじめます。
米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。
11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。

その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。
そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。
こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。
米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過していました。
中川隊長の異例の奮闘に対して、昭和天皇は、嘉賞11度、感状3度を与えられています。

中川州男大佐
明治31(1898)年1月23日生まれ
昭和19(1944)年11月24日戦死
享年47才戦闘が終結したあと、米軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。
米兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしだったのです。
戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。
彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体をひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれました。
戦後、パラオは、米国の信託統治領となります。
けれど、米国は、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。
島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始します。
そして、ようやく戦争から36年目の昭和56(1981)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」となりました。
そのパラオが米国の信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成6(1994)年のことです。
独立したとき、パラオの人々は、独立記念の歌を作りました。
以下がその歌詞です。
一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわものたちはみな散って
ペ島はすべて墓(はか)となる
(注:ペ島=ペリュリュー島のこと)
二 小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾射ち尽くし食糧もない
三 兵士は桜を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四 日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日は散る
ペ島の”桜"は散り散りに
玉砕れども勲功はとこしえに
五 今もののふの姿なく
残りし洞窟の夢の跡
古いペ島の習慣で
我等勇士の霊魂守る
六 平和と自由の尊さを
身をこなにしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七 どうぞ再びペリリューヘ
時なしさくらの花びらは
椰子の木陰で待ちわびし
あつい涙がこみあげる
そして、下にあるのが、独立したパラオ共和国の国旗です。
この国旗は、パラオ国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になった国旗なのだそうです。
パラオ共和国国旗

周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわしています。
月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。
そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。
お亡くなりになられた、英霊の方々に深い哀悼の意を表するとともに、深く深く感謝いたします。
また、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延び、終戦の2年後まで戦い続け、昭和22(1947)年に投降しています。
【ペリリュー島の戦い】
日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名
米軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名
村人の死者、負傷者、0名
パラオについて、読者のNさんから、次のようなお便りをいただきました。
~~~~~~~~~~~
最近あまりいい話がないと思いますので溜飲をさげる意味ということで、私がパラオ共和国に行ったときのお話しをしようと思います。
今から3年ほど前に新婚旅行でパラオ共和国に行ってきました。
12月の中旬に成田からグァムへ行き、そこから乗り換えてパラオに着いたときは夜の8時過ぎでした。
空港から出てバスに乗るとパラオの国旗の隣に日の丸が掲げられていました。
日中、観光でバスに揺られながらあちこちを廻ると、島と島を繋ぐ道路に必ず日の丸が刻まれたモニュメントがありました。
それらを見る限り日本のODAが如何に正しく使われているかがよくわかります。
街のあちらこちらにも日の丸が掲げられていました。
夜家内と外に食事をしましたが、いまいち食べ足りないと思い、散歩だてらに中心街を散策していると(中心街と言っても500mくらいのメインストリート)広い駐車場にハンバーガーの屋台があったので、早速注文をしてできたてのバーガーを家内とほうばりながら食べていると、さっきまで駐車場でギターの弾き語りをしていた初老の老人が近づいてきて
「君たちは日本人か?」
と聞かれたので、イエスと答え新婚旅行で来たと家内が伝えると、老人は大粒の涙を流しながら私の肩を抱きました。
そのとき老人が言ったことは家内が言うに
「日本の人がこの国に来てくれて本当に嬉しい。ハネムーンの行き先にここを選んでくれて本当にありがとう」と言ってくれたそうです。
この出来事でパラオの人々が如何に日本の人たちに対して特別なものを持っているかよくわかりました。
私たちの血税がこういう風に役に立っているということを実感するためだけでもパラオには来る価値が十分すぎるほどあります。
子供が大きくなったら後学のためにももう一度パラオに行こうと細々と貯金をしています。
~~~~~~~~~~~
このメールと一緒に、Nさんが、下の2枚の写真を送って下さいました。
海に沈むゼロ戦
旧日本軍のトロッコ跡

上の写真は、島に散ったゼロ戦です。
忘れてはならないのは、このゼロ戦に、日本海軍の優秀なパイロットが乗っていた、ということです。
そのパイロットの命とともに、ここにゼロ戦が、当時のままに眠っている。
もうひとつのトロッコ跡は、ここで日本の軍人さんたちが、銅などの採掘していたときのものです。
すこし、パラオのことを書きます。
パラオが、白人の植民地となったのは、明治18(1885)年のことでした。
スペインが植民地として支配したのです。
スペインの統治は、たいへん過酷なものでした。
スペインによる統治は、明治32(1899)年に、ドイツの植民地になるまでのわずか14年ほどの間のことです。
けれどたった14年で、パラオの人口は、約90%も減少してしまったのです。
もともと、人口2万人くらいの島国です。
そのうちの90%が命を奪われた。
それがどういうことか、想像してみてください。
忘れてならないのは、植民地支配を受けた国々では、大なり小なり、同様のことが起きた、という事実です。
南米では、文明そのものが滅び、いまでは昔の言語、習慣さえもわからなくなっている。
ほんの200年に満たない昔が、まるで超古代文明のように、その痕跡しかなくなっているのです。
米国においても、先住民族であるインデアンが、もともとは北米大陸に800万人の人口があったのに、いまでは、わずか35万人。しかもその全員が、白人との混血です。
「植民地になる」ということは、そういうことなのだ。
そのことを、私達はちゃんとわきまえる必要があります。
私達の先人が、日本が植民地とならないために、(なったら10人中9人が殺されるのです)、どれほどの犠牲と努力をはらい、日本を護り抜いてきてくれたか。
そのおかげで、いまの私達が生きています。日本という国があります。
平和を満喫し、世界中のおいしい料理を食べることができ、エアコンの効いた部屋で過ごせるという豊かな生活を送ることができています。
それは他の誰でもない。私達の先人たちが、私達を守ってくれたおかげです。
そういうことを、私達は、ちゃんと知らなきゃいけないし、子供達に教えなきゃいけないと思います。
さて、スペイン統治によって、パラオは、人口の9割が失われたパラオは、もともと、産業のある国ではありません。
スペインは、もうこれ以上パラオから収奪するものがなにもないとなったとき、わずか450万ドル(日本円で4億円くらい)で、パラオを含むミクロネシアの島々をドイツに売却してしまいました。
買ったドイツは、パラオの原住民を使役して、ココナッツの栽培などにチャレンジするのだけれど、あまり効率はあがらない。
同時に、ドイツもスペイン同様、現地の人々への教育や道路、流通の整備、産業の育成や法や行政諸制度の整備などは、まったく行っていません。
そのドイツが、第一次世界大戦で負けた後、パリ講和会議において国際連盟が結成され、戦勝国である日本が、ドイツ領であったパラオを含むミクロネシアの島々一帯の統治を委ねられることになったのが、大正8(1919)年のことです。
パラオが、日本の「委任統治領」となったのです。
日清、日露を戦い、西欧諸国に匹敵する強国となった日本は、第一次世界大戦のあとに行われたパリ講和会議で、新たに設置される国際連盟の憲章に、「人種の平等」を入れるように提案しました。
けれど、これは英米の頑強な抵抗にあって、頓挫してしまいます。
代わりに日本に与えられたのが、ドイツが所有していたパラオを含むミクロネシア一帯の統治です。
これは、ひとつには、日本に資源のないミクロネシアを与えれば、さしもの日本も西欧諸国と一緒になり、植民地支配者としての収奪をはじめるであろう、よしんばそこまでなかったとしても、日本の支配地域を太平洋に大きく張り出させることによって、日本の海軍力を削ぐ効果を生むことができるであろうという見通しのもとに行われたものであったと言われています。
ところが、こうした西欧諸国の企図とは裏腹に、なんと日本はパラオ統治の委任を受けるとすぐに、パラオに南洋庁を設置し、パラオに、学校や病院、道路などを建設をはじめ、地元民の教育と、行政制度の確立、街のインフラの整備と産業振興をはじめたのです。
それまでの世界の委任統治というものは、収奪するだけのものです。
ところが日本は「奪う統治」ではなく「与える統治」をはじめました。
その結果がどうなったかというと、日本が委任統治を開始した頃の、パラオの先住民の人口は、わずか6,474人です。
それが、いまやパラオは、人口20,303人(2005年)、なんと人口が3倍にも増えたのです。
当時、パラオに新しくできた学校には、若き日の中島敦も赴任しました。
中島敦といえば、「山月記」や、「李陵、弟子、名人伝」の著作で有名です。
彼の文章は、漢語体のいわゆる名文調で、この世でもっとも美しい文章を書く人とまでいわれ、絶賛を浴びた人です。
そういう優秀な人材が、パラオの人々のための教科書編纂掛として現地に赴任したりしていたのです。
日本はパラオで、日本語の教科書を使い、日本語の教育を行いました。
これには理由があります。
パラオには、パラオ語を書くための文字がなかったのです。
そして近代教育を施すため、たとえば数学や地理、歴史等の教育を行うにあたって必要な単語も、パラオにはありませんでした。
ですから、すくなくともいったんは、そうした単語を豊富に持つ日本語で教育を行うしかなかったのです。
パラオの子供たちは、実によく勉強してくれました。
なんとパラオの子供達は、日本本土を含む、日本の支配地域の全域が参加する全日本共通テストで、総合第二位の成績を勝ち取っています。
これは、パラオで日本が、優秀な教育を施していたということの証拠であるとともに、パラオの子供達が、いかに教育を受けることを歓迎していたかがわかる逸話です。
ところで、教育を受けるための学校、あるいは医療を受けるための総合病院、あるいは車も走れる道路などは、いったいどのようにして造るのでしょうか。
まったくそういう都市インフラの整備事業にずっと接してこなかった現地の人たちに、いきなり「街を作れ、道路を作れ、橋を架けろ」と言われても、できる相談ではありません。
このことは、いまこれをお読みの、あなたが、(建設業関係のお仕事ではない人であるという前提で)、いきなり東京タワーを作れ、といわれるのと同じで、そうそう易々とできることではありません。
では、日本はどうやってパラオのインフラを整備したかというと、日本は、日本の歳費を用いて、パラオに土木建築業者や教師、行政官吏を派遣したのです。
「やってみて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」です。
まずは日本人が、やってみせてお手本を示す。
そして、現地の人にも、すこしずつやってみてもらう。
そのうえで、成果があがったら、ともに喜びをわかちあう。
日本パラオに派遣した職員の数は、軍隊を除いても、なんと2万5千人です。
そして日本は、パラオにあらゆるインフラを整備したけれど、それはことごとく、日本の国費で賄いました。
そして戦後は、前々からの宣言の通り、すべてのインフラをパラオの先住民たちに無償で譲り渡しています。
日本統治時代のコロールの街並み

ちなみにこの写真、大正から昭和初期頃に撮影されたとみられるパラオの町並みなのですが、写真の右側にハングル文字が映っているのがおわかりになりますでしょうか。
昨今の在日朝鮮人などは、日本が彼らの言語を奪ったなどとわけのわからないことを言いますが、日本人とともにパラオに来て働く彼ら朝鮮人のために、日本人はちゃんと彼らの文化を尊重したお店を作り、彼らのためのハングル文字の看板まで出しています。
短い期間でしたが、日本は委任統治を受けたパラオで、たくさんのことをしました。
学校をつくり、教育を与え、司法、行政、立法を教え、街のインフラを整備しました。
けれど日本人がパラオに遺したもの、それは、そうしたインフラよりももっともっと大きなもの・・・「ほんとうの勇気」、「ほんとうのやさしさ」だったのではないでしょうか。
中川隊長以下、勇敢に戦い、散って行かれたみなさまに、あらためて黙祷をささげたいと思います。
<ご参考>
◆アンガウルの戦いと人種差別
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-890.html◆ランボーは日本人だった! 舩坂弘軍曹物語
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-708.html
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コメント
かず
2020/01/25 URL 編集
湯飲み
昨今日本人であることが恥であるというような言論が多くなり不満を抱えていましたが、パラオの人々が歌として国旗として、日本に尊敬の念を向けてくださることを知り、涙が出そうになりました。
日本人は昔から慈愛のある人々で、その姿勢に答えてくれる外国の人たちもいる。とても喜ばしい事です。
改めて、日本人として生まれ育ったことを誇らしく思います。
2018/10/04 URL 編集
名無しさん
2014/03/23 URL 編集
アンジェラマオ
それにしても許しがたいのは、プロレスのA猪木ですね。この人今パラオに出入りしてて、パラオの酋長から島1つ貰える位入り込んでるんでて、取材に来たマスコミに「俺はここでは大統領以上の人気なんだ」とご満悦。まあ、それは嘘ではないのだろう。人たらしの才能は高いのでこの人は。で、これ私の推測なんだけど、この人絶対にパラオの人たちに入っていく時に「俺は日本でスーパースターのプロレスラーで子供から老人まで知っている。国会議員もやっていた」てな事をアピールして懐に入っていったに違いないんです。これはまあ嘘ではない訳でそれは別に構わない。でもね、私がこの男に腹が立つのは、そうやって日本での大物ぶりをアピールしてそれによりパラオの人たちに良くしてもらえるのはこうやって日本の先人達がパラオの為に尽くしてきた過去があっての話ですよ。
スペイン人が「俺はスペインではスターだ」といっても絶対こんな扱いはされない。
その事をこいつは全然解かっていない。パラオの人達に人気があるのも自分の人間的魅力の為だとでも思ってるんだろう。
さらにそれに加えて日本で自分の名声を利用して反日活動をやっいる。それも朝鮮総連なんかと組んで拉致問題に対してもふざけた発言をしている。こういう人間にはこの世に生きていてもらいたくないですね。
2014/03/05 URL 編集
マジカルアイ
このブログでもっと、真実の日本を勉強したいと思います。有り難うございます。
2013/10/13 URL 編集
みなみ
学校で教えられてきた戦時中の日本人は悪いことをしてきたというイメージが覆されました
とにかく感動と感謝の気持ちでいっぱいです
最後まで読んで本当に良かったです…!
2013/09/22 URL 編集
ころん
私たちはパラオの人々になにが恩返し出来ると思いますか?
2013/07/26 URL 編集
胡蝶蘭
こちらのページを私のブログで紹介させていただきました。
2013/07/01 URL 編集
名無しさん@ニュース2ちゃん
「パラオ政府が日本の外務省に対して、再統治の要請を打診してきた」
というニュースがテレビで流れましたね。政府はアメリカへの遠慮もあって丁重にお断りしたらしいのですけれど。。
日本はアジアの国々に悪逆非道のかぎりをつくしたと教え込まれていた私が非常に不思議に思い、アジアの歴史を本当に勉強するきっかけになった出来事でした。
2012/12/02 URL 編集
匿名
終戦後 一時は、閉鎖しましたけど政府より太平洋地域との交流があるのでまた再開してほしいと頼まれたそうです。
戦前より太平洋との交流があり戦前は、饅頭やさんや豆腐やさんと日本の文化そのもので日本人も沢山いたそうです。
2012/10/07 URL 編集
ねず
お役に立ててうれしく思います^^☆
2012/08/19 URL 編集
おじいちゃん
2012/08/19 URL 編集
おじいちゃん
今から転載させて頂きます。
どうも有難うございました。
2012/08/19 URL 編集
ねず
拡散のために書いているブログです。
転載歓迎です。
ご自由にお使い下さい^^
2012/08/18 URL 編集
おじいちゃん
素晴らしいブログに出会えた事に感謝申し上げます。
実に素晴らしいの一言です。涙が溢れるのを堪えな
がら最後まで読ませて頂きました。
こんなに良い物は日本の全国の方々に読んで頂きたい
と思っています。
我儘なお願いですが、これを私のブログに掲載したい
と考えております。出来ましたらご許可いただければ
と思い無理なお願いに参上しました。
宜しくご検討の程、お願い申しあげます。
また、出来上がりましたらご報告し、内容を検分して
頂ければ思います。
厚かましいお願いですが宜しくお願い申し上げます。
2012/08/18 URL 編集
シー太の母
2012/08/16 URL 編集
桜子
ポツダム宣言骨子、全部気に入らないのですが、特に私が気にいらないのは6番目に書かれている文言、6.日本を世界征服へと導いた勢力を除去する。
何をふざけた事をと思いました、自衛の戦い(GHQ最高司令官であったマッカーサーも認めています)になぜ世界征服を導いた勢力が日本の中いるのですか?
で、ポツダム宣言を基に東京裁判(戦犯裁判)です。
この裁判を「野蛮人の首祭り」と評した人がいたとの事ですが、そのとうりだと思います。昔、蛮族というのがいた時、酋族間で争いが起こって戦う。
負けた方の首を携えて持ち帰り、屋根に並べて首祭りをやり、憎しみを晴らしたと伝えられています。
東京裁判も同じ事です、東京裁判の判決は、結論だけで理由も証拠も明確を欠いて、不条理な裁判であったと言う事です。
勝者は正義で負けた方は全部悪というわけです。
始から裁判前に政治的に決まっていたともいわれています。
パル判事が二年八ヶ月かけて昭和3年から昭和20年まで、18年間の歴史を調べ、綴っています。
それに、もともと国際法に戦犯裁判などの拠るべき法規は無い。
ならば戦犯という言葉すら存在しないという事です。
戦犯と呼ばれ処刑された方々の名誉、何としても回復して差し上げるべきです。
それには史実を知らしめなければいけないという事です。
私がもっとも悲しくて腹立たしいのは、日本を護る為に尽くした同胞の方々を、平気で戦犯と言ったり、書いたりするマスコミです。
どこの国に同胞を戦犯呼ばわりする国があります?怒り心頭です。
そのマスコミの皆さんの命も、先の戦いで命を捨て日本を護ってくれた皆さんのおかげなのです。現在の日本の状況も含め、もうそろそろ本当の事を報道されては?
よって、GHQ占領政策破棄、東京裁判破棄。
2012/08/08 URL 編集
とし
いつもたくさんのすばらしいお話しをありがとうございます。
パラオに一度いってみたくなりました!!
教科書にもっともっと載せて日本人のすばらしさを話したほうがいいとおもいます。
日本人に生まれてよかったそう思える人が増えたらもったもっと世の中はよくなるのに。
2012/08/08 URL 編集
ハギノ
それに応えてくれるパラオの方々、受けた恩を忘れず学校で子供達に教え続けてくれている台湾の方々、嬉しく思います。片やあの国はと考えると、民族性としか言いようがありません。
中山成彬氏がブログでねずさんにエールを送っていらっしゃいます。「我々に新しい知識と勇気を与えてくれています。日本人が立ち上がるまで頑張ってもらいたいと願っています」私からも、お願いします。
2012/08/07 URL 編集
ねずさんファンです。
いつも心熱くさせてくれるお話を紹介していただき、ありがとうございます。
知らない事ばかりで、大変勉強させていただいております。
知り合いにも知って欲しくて、facebookのいいね!ボタンをクリックしてみるのですが、「最近のアクティビティ」とかいう記事になってしまい、「リンクについていいね!と言っています」のようになりません。
このブログを読んでらっしゃるみなさんは、ちゃんと「いいね!」が反映されますでしょうか?
2012/08/07 URL 編集
シロヒゲ
ただ、ただ、目頭が熱くなるのを押さえることができません。
戦争に負けても、誇り高き日本!
それを事実に反して貶めようとする輩。
もっと、もっと、こういう事実を教育等で拡散すべきだと思います。
先人の為にもね。インターネットの発達で反日の嘘が明らかになってきたのが救いです。事実を正しく認識し、自虐的史観から脱出し、日本人としての誇りを回復すべきです。
そのためにも、反日勢力を駆逐していかないと、日本が解体される恐れが現実となりつつありますからね。
ところで、機会があれば是非、台湾とパラオは行ってみたいと思います。
貴重な情報ありがとうございました。
2012/08/07 URL 編集
この島に上陸したければ俺の屍を越えてゆけ
これから起こる戦いはただ事ではないと気づいていたはずです。
この島に残ればおそらく生還は望めないし、
きっと死ぬだろうと感じていたはずです。
でも一緒に戦いたい。島の人々の意思は相当固い。
死を覚悟している人々を前にして説得するほうはとても大変です。
中途半端なやさしさが時として悲劇を生みかねない。
だからこそ多少乱暴な言葉を使ってまでして
怒鳴りまでして断らなければならなかったんだろうと思います。
言われた側は大変なショックです。裏切られた気持ちでいっぱいです。
さっきまで頑固だった島民が全員おとなしく黙って船に乗るしかない。
島民899名全員を安全な場所へすみやかに避難させたことで、
この中からひとりの犠牲者も出さなかったんですね。
以下(米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ)より
「既に制空、制海権を手中に納めていた米軍が死傷者併せて一万余人を数える犠牲者を出して、ペリリュー島を占領したことは、今もって大きな疑問である」
「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」
2012/08/06 URL 編集
ねず
コメント欄で引用のお断りをしようとしたのですが、受付不可になっているようでしたので、ご依頼ができず、心苦しく思っておりました。
これを機会に、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
2012/08/06 URL 編集
三四郎
パラオ当局は、自国海域での違法操業を阻止するための発砲と説明。詳しい状況は不明だが、 同紙は「(パラオ当局と漁船との間で)激しい衝突」があったとしており、取り締まりに対し、漁船が 激しく抵抗した可能性がある。
同紙によると、違法操業の漁船を上空から捜索していたパラオ当局の航空機が墜落し、当局者ら 3人も行方不明になっているという。
パラオは台湾と正式な外交関係を持っており、中国との国交はない 引用 共同通信
この後、パラオ当局は中国人船員一人につき千ドルの罰金、合計二万五千ドルを北京政府に課して船員を解放しました、その気概見事です。尖閣で海上保安庁の巡視船に体当たりされても、事なかれ主義で対処した我が国とは大違いですね。
こんなことになるのも、戦後日本人が決して忘れてはならない大切な事を忘れてしまったためだと思います、というより意図的に忘れさせられているのですが・・・
※ 記事「日本の原風景に学ぶ」で私の小論(たぶん私のだと思いますが)をとりあげていただき有難う御座いました。遅まきながらこの場を借りてお礼申し上げます。 三四郎 頓首
2012/08/06 URL 編集
まいど
護国を願って絵馬を書いてみたのですが、そこにあった絵馬を見てみると、「護国英霊の名誉回復」と書いてありました。
全くその通りだと思いました。
まずは護国英霊の名誉回復!
※ちなみに、その周りには、「○○くんと仲良くなれますように」とか「中国語とハングル語で食っていけますように」などと書かれた絵馬もあり、何を書いてもいいけど、ここは靖国神社だよ!って突っ込みいれたくなりました。
2012/08/06 URL 編集
流し目佐助
どうかお許しください。
署名に協力お願いします。
【米国下院慰安婦決議撤廃!ホワイトハウス請願】
従軍慰安婦は日本軍の性奴隷というのはウソです。署名に協力をお願いします。
下記の署名自体は米国のホワイトハウスが集めているので安心して署名が出来ます。
http://sakura.a.la9.jp/japan/
【参考記事資料】
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120511/amr12051111250007-n1.htm
2012/08/06 URL 編集
民主党は共産主義です
国を発展させるには侵攻を続けることが必須であるかの如くに。。
ねずさんの記事にもあったような気もしますが、自国を蔑む国は必ず亡びると云われます。
日本の偉大な英霊方々のおかげで周りから支えられる日本があります。
歴史を知る事(面白さも)の大切さを教えて下さるこのサイトに感謝いたします。
おまけ 反原発かと思ったら http://www.jrcl.org/
2012/08/06 URL 編集
アンテナ
そんな当たり前の日本にする為には戦う覚悟が必要です!
拡散しましょう!!
2012/08/05 URL 編集
在日の犯罪
インターネットのお蔭で知ることが出来ました。
こんな朝鮮餓鬼が日本に何十万人といるのが現実です!
http://d.hatena.ne.jp/NOFNOF/20120714/1342249401
2012/08/05 URL 編集
ねず
本来ならおひとりおひとりに、お礼を申し上げなければならないところ、多忙にまかせて、お返事を書けないでいることを、深く詫び申し上げます。
本文に、ちょっとだけ、追加をしておきたいと思います。
なにかというと、この、島の人たちが中川隊長のもとにやってきたときというのは、すでに島の防衛施設の建設・・・建設とは名ばかりで、実際には洞窟の穴掘り人夫仕事・・・がすでにはじまっていたときなんですね。
それも猛暑の中。
ですから、まさに島は「猫の手も借りたい」くらいの忙しさなんです。
そのなかで、島民らが協力を申し出てくれたというのは、島にいた軍人さんたちからしたら、実はほんとうにありがたい申し出だったわけです。
隊長と島の代表が面談した指揮所は、屋外の簡易施設です。ですから、中の声は外から丸聞こえなんですね。
その中で、島の代表団が、協力を申し出た。
当然、日本の軍人さんたちにも話は聞こえているし、みんな耳をそばだてているわけです。
中川中将は、そこで、大音声で一喝しました。このとき、「大声で一喝した」というところが、実はたいへんに重要な意味を持っていると思うのです。
どういうことかといいますと、中将は、冷淡に「土人と・・・」と言ったわけではない。
大声で、怒鳴った。
ということは、その言葉は、島の代表者たちに聞かせるだけでなく、近くにいた日本の軍幹部たちにも聞かせようとの意図があったと思うのです。
中川中将は、国を出るとき、もはや帰還は望めないことを妻に語っています。
島で死ななきゃならない。それは、中将ひとりではなく、島にいる日本の軍人全員が死ぬことを覚悟する、ということです。
何のために自分たちは死ぬのか。
中将は、そのことを、村人たちへの一喝とともに、軍幹部全員に知らしめたのだろうと思います。
そして日本の軍人さんたちは、その中将の思いを理解したからこそ、島人たちが出港するとき、みんなでジャングルから走り出て手を振るという行動に出た。
そんなことを思うと、ほんとうに涙があふれて。。。。。
2012/08/05 URL 編集
桜子
なのに現在にいたっても厚顔無恥。
パラオの人達は戦前、戦中、戦後も日本に対し感謝の念を持ち続けています。
日本は感謝など求めてした事ではありません、人間として当たり前の事、当たり前の国策に従っただけです。
そして先の戦いでペリリュー島だけではありません、何処の戦場においても、軍紀を守り、人間として当たり前の事を当たり前に行ってきました。
つまりは日本国として又、日本人としてのアイデンティティを持っていたからこそです。
素晴らしい国家であり、素晴らしい人間教育がなされていたという証です。
パラオにあるKBブリッジという韓国が作った橋ですが、半年後に見事に崩壊、2 名が死亡、4 名以上が怪我。建設業者は一切の謝罪も補償もなく逃亡、韓国政府は知らんぷり。
その後、日本が政府開発援助により鹿島建設が30億円をかけ無償で立派な橋をかけなおしました。
新しい橋の名は「日本 - パラオ親善の橋(Japan Palau Friendship Bridge)」というそうです。
ここでも韓国の正体見たりです、にも関わらず今だに歴史、文化など、何んにおいても自国(韓国)が一番、そりゃそうでしょう、捏造、横取り、何でも有りですもの。ほんと、おかわいそう。
ねずさんも言われていますが、>けれど日本人がパラオに遺したもの、それは、そうしたインフラよりももっともっと大きなもの・・・「ほんとうの勇気」、「ほんとうのやさしさ」だったのではないでしょうか。
私も同感です。また、パラオの人達の素晴らしいところは感謝できる心を持ち、それを持ち続けているということです。
裕福とは? ある意味今の日本人よりずっとずっとパラオの人の方が裕福ではと思います。
また愚痴ですが、何処とは申しませんが、こちらがいくら誠意を示しても理解できない国もあります。
今の日本、お付き合いする国の選択、間違っていません? そう思います。
2012/08/05 URL 編集
ななし
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20120804-00000023-ann-soci
トルーマン大統領の孫、広島慰霊祭へ参列。
原爆慰霊碑に花を手向け、亡くなった方への哀悼とともに二度とこんな事がないよう祈る。
2012/08/05 URL 編集
天同 叶
最近のテレビ番組は殆ど韓流に独占され、此処は何処の国かと疑うばかり・・・こんな良い話を再現ドラマにして何故放映出来ないのか?
「日心会」のおすすめ記事01、02のどの項目を取っても夫々十分に1時間の立派な「教育番組ドラマ」が作れる筈です。
日本には大企業、資産家は数知れず存在する筈ですが、金儲けだけに興味があって「愛国の為の出費」は
厭だと言う人ばかりなのですか?
それとも、口先では「憂国を声高に叫んでも」自ら泥まみれに成り率先して働こうという「不言実行」の士は居ないのですか?
石原都知事は尖閣買い取りを提唱し10数億円を集めました。奈良の薬師寺は般若心経の写経のみで100億円余の浄財を集め昭和、平成の大改築を成し遂げています。
要は人を得る事です。ペリリュー島で日本人の名を高らしめたのは、中川中将の高潔な人格です。
翻って現今の日本・・・必ず然るべき人材が出現する事を信じて止みません。
2012/08/05 URL 編集
yuki
本当に先人たちが優しく、愛にあふれて勇気を持った方々だったと判ります。
もうすぐ15日ですね。靖国神社に参拝する事は叶いませんが、護国神社への参拝に行くようになりました。
これからもこのようなお話、もっと教えて下さい。
2012/08/05 URL 編集
委任統治
毎日わずかな食料で毎日殴られこき使われ、
人口を減らし、過酷な生活を余儀なくされ、
戦争となれば最前線に配置され弾除けに使われる。
日本が統治した地域はほぼ例外なく、教育施設やインフラ整備、
交番設置、医療機関の充実などを大筋無償で行い、
生活水準の向上により現地住民の人口増加をもたらしている。
制海権、制空権を失って一切の補給が無く、圧倒的な火力の前に完全包囲され、
死を覚悟して最後まで戦った日本軍人にとっての思いは一つである。
本土に残してきた家族に戦火が及ばぬよう、一日でも長くこの島を死守すること、
そして、地元住民を戦火に巻き込まぬよう努めること。
2012/08/05 URL 編集
ぼちぼちでんな
パラオに残留した日本陸軍は遊泳特攻隊を編成して戦闘を継続していました。
そして、1945年3月10日には《海上奇襲隊「海の虱」が、米駆潜艇1大破、同2中破、死傷者100》の戦果を挙げたと打電しています。
玉砕を免れた日本軍は、果敢な攻撃をパラオでも続けていたのです。
2012/08/05 URL 編集
れいさき
こんな素晴らしいエピソードこそ日本人のすべての人達に、そして子供達の教科書に必要な歴史だと思います。
私は日本人に産まれて誇りに思います…散って逝った方々のご冥福をお祈りいたします。
2012/08/05 URL 編集
楠 正成
戦争を推進するわけでは、ないですが こういう実話も教育に入れるべきではないだろうか、日本人は、もっと誇りを、もつべきだとも思います
この誇り高い日本人達の死を犬死に、しない為にも 日本を愛してくれる日本人が増える事を望みます
逆に自分の国を愛したり、誇れない国に反日と言う思想が生まれるのかなと、思います
2012/08/05 URL 編集