小町園の悲劇

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終戦直後の東京
終戦直後の東京


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皆様へ
昨日、これまでのFC2ブログから、bloggerブログに引っ越しましたと、皆様にご案内したのですが、たいへんなことがわかりました。なんと、bloggerは、英語サイトが元になっているので、日本のスマホ以外の普通の携帯電話では、読むことができないというのです。
ねずさんのひとりごとは、携帯で毎日閲覧されている方が多いので、これは困ります。
十分な下調べができていなかった私が悪いのですが、そういうわけで、元のこのFC2ブログに戻ります。
URLは、↓コチラです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/
お騒がせしてたいへん申し訳ないのですが、ブックマークをもとのこのブログに戻していただけるとありがたいです。
小名木善行 拝
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終戦直後、進駐軍のための慰安施設が日本国内に設置されました。
今日はその実話(体験談)です。
韓国のねつ造慰安婦と違って、こちらは実際にあったとっても辛いお話です。
独立自尊を守るということが、どんなに大切なことかを読み取っていただければうれしく思います。

物語は、昭和20(1945)年8月のことです。
RAAという組織が日本におかれました。

この年の14日、日本はポツタム宣言を受託しました。
そして進駐軍を迎えるにあたって、時の東久邇(ひがしくに)内閣が、当時のお金で一億円という巨費を投じて、昭和20(1945)年8月22日に設置した組織が、RAAでした。

RAAというのは、「Recreation and Amusement Association」の略です。
直訳すれば「レクリエーションとお楽しみ協会」となります。
現実に日本国内におかれた、国営の特種慰安婦施設です。

ここで慰安婦は「Serving Ladies」と呼ばれました。
施設名は、そのものズバリで、「Sex House」と英訳されました。
第一号店が開設されたのは、マッカーサーが厚木飛行場に降り立った日より2日早い、昭和20(1945)年8月28日のことです。
場所は東京・品川の大森海岸の駅前の老舗料理屋でした。
この料理屋は、「小町園」といい、ここを改造したのです。

昨今、中共政府が露骨に日本支配を狙っています。
また、韓国や在日Koreanも、日本を支配しようと企てているといわれています。

けれど「他国の支配を受ける」ということが、いったいどういうことを呼ぶのか。
日本国内で実際にあった出来事を、その「小町園」で女中をしていた方が、体験を手記に綴っているので、ご紹介したいと思います。

この体験談を通じて、戦争に負けるということ、他国に占領され、支配されるということが、どういうことなのか、すこしでもご理解いただけたら幸いに思います。
なぜならそのことは、逆に言えば、いかに「国」というものが大切でありかけがえのないものであるか、といことの裏返しでもあるからです。

東洋において、唯一、植民地奴隷になることを拒否し、国を守り抜いた先人たちが、戦後においても、ギリギリのところでこの国が崩壊するのを踏みとどまらせてくださいました。
おかげで、今日の日本の繁栄があります。

「いま」というのは、突然天から降ってきたものではありません。
個人の人生でも、国家でも、過去の蓄積が「いま」を作っています。
私たちが、いま、こうして一定の生活ができるようになったのも、すべて先人たちのおかげである、ということをみんなで再確認したいのです。

文章は、昭和20年代に書かれたものです。
原文は文語体ですが、読みやすくなるよう、いつものように、ねず流で口語体に編集しています。

原文には、書いた人の記名がありますが、ここでは割愛します。
あまりにかわいそうで悲惨だからです。

以下に引用します。

~~~~~~~~~~~
大森海岸の「小町園」と聞けば、いまの中年の御紳士方なら、ずいぶんと懐かしがる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

戦前は、今のように、温泉マーク(注:ラブホテルのこと)が都内のあちこちにありませんでしたので、そういう場合にたちいたりますと、京浜国道をひと走り、大森の砂風呂へ行こうと、みなさん、よく大森海岸までお越しになったのです。

小町園も、そういう目的のために建てられた、海に面した宮殿のような大きい料亭でございました。
戦前の、落ち着いた、奥ゆかしい小町園を知っている方に、終戦当時に小町園が描き出したあの、悪夢のような姿を、想像していただけるでしょうか。

現に、その光景を目にした私でさえ、今はウソのようで、これからお話することを誰も信じていただけないのではないかとおそれています。
けれど、小町園の柱のひとつひとつ、壁の一面一面には、日本人の娘さんの貞操のしぶきが、流した血のあとが、しみついているのです。



忘れもしません。
あれは終戦の年の、昭和20年8月22日のことでした。
ご主人が銀座の方へお出かけになって、かえっていらっしゃると間もなく、私たちのいる女中部屋の方へ、
「ここがRAAの第一施設になるらしい」という噂が伝わってきました。
女中部屋はそれを聞いて、ハチの巣をつついたような騒ぎになりました。

私には、そのRAAというのがわかりません。
聞いてみると、特殊施設協会とかいって、政府と警察と、それから私たち業者などが一緒になって作っているお役所で、お金は政府が一億円も出しているということでした。

でも私たちが驚いたのは、まだ見たこともないアメリカ兵がここへ入ってくる、ということでした。
そのRAAというのは、進駐軍を迎えてサービスをする施設だというのです。

「それじゃ、毛唐(けとう)の慰安所になるってこと?」
みんなびっくりしました。

その頃はまだ、パンパンという言葉はありません。
アメリカ兵は「鬼畜米英」などと新聞に書かれ、私たちも素直にそれを信じて、アメリカ兵は人肉を食うなどと思っていたのです。
皆の不安も無理ありません。
しかし、あとの騒ぎをいま振り返ってみますと、アメリカ兵は人肉こそ食べなかったけれど、それを同じことをした、と思わずにはいられないのです。

RAAの施設には、はじめ、日本橋の三越があてられる予定だったそうです。
けれどさすがに三越が承知しなかったので、大森海岸の料亭では?ということになり、うちに決まったという話でした。

その話が伝わった翌日には、なんと大工さんが50人もやってきました。
そして昼も夜もぶっつづけで、こわれたところや、いたんだ箇所を直しはじめました。

さあ大変です。
いよいよアメさんがくるのが本当だとわかると、女中の中にはひまをもらって、辞めていく人もあるし、毒薬を懐にして、いざとなったらこれを飲んで死んでやるといきまく者もいます。

私も家さえあれば、逃げて行きたいところでした。
けれど、家は焼けて住むところがありません。
それで、ええ、ままよ、と悪く度胸を据えてしまったのですが、その当時は、女中も、あとから来た慰安のひとたちも、そういう家がないから仕方がないという人が多かったのです。

ご主人は、私たち20人ほどの女中を集めました。
そして、
「この小町園は、御国のために、日本の純潔な娘たちを守るために、米兵の慰安所として奉仕することになった。慰安婦たちは、ちゃんと用意してあり、あなた方女中には手をつけさせないようにするから、安心して働いてくれるように」と訓示なさいました。
けれど私たちは、パンティを2枚履くやら、大騒ぎでした。

いよいよ明日の28日、厚木へ進駐軍の第一陣が乗り込むという、その前日のことです。
お店の前に二台のトラックがとまりました。
そこから若い女の人ばかり30人ばかりが降りて、中へぞろぞろと入ってきました。

リーダーみたいな男の人が、RAAの腕章をしていました。
その女の人たちが、進駐軍の人身御供になる女だとすぐわかりました。
私たちは集まって、いたましそうに、その人たちをみやりました。

モンペをはいている人もいます。
防空服みたいなものをつけている人もいます。
ほとんど誰もお化粧をしていないので、色っぽさなど感じられませんが、しかし何と言っても若い年頃の人たちばかりですから、一種の甘い匂いのようなものがただよっていました。

この人たちは、みんな素人(しろうと)のひとでした。
のちに応援にきたひとは玄人(くろうと)の人もいましたが、はじめ小町園に来た人は、みんな素人の娘さんだったのです。

銀座の八丁目の角のところで、
「新日本の建設に挺身する女事務員」という大看板を出して集めた人たちだったのです。
ですから、進駐軍のサービスをするということはわかっていても、そのサービスが肉体そのもののサービスだとは思わなかった人たちもいました。
なかには、そのときまで生娘だった女性も、何人かまじっていたのです。

前にちゃんとした官庁に勤めていたタイピスト、
軍人の御嬢さん、
まだ復員してこない軍人の奥さん、
家を焼かれた徴用の女学生など、前歴はさまざまで、衣服、食糧、住宅など貸与の好条件に飛びついてきた人たちでした。

その30人の人たちは、もちろん、ちゃんと着物を与えられ(まちまちの着物でしたが)食物も与えられ、部屋ももらいました。

しかしその上に、何をもらわなくちゃならなかったか、その人たちは、翌日から知ったわけでした。



8月28日には、アメリカ軍が、厚木基地に進駐してきました。

何という早さなのでしょう。
もうその晩には、新装をこらし、灯りをあかあかとつけたお店の前に、組み立ておもちゃみたいな自動車が停まりました。
そこから5人の兵隊が、何かお互いにがやがや英語でしゃべりながら、入ってきました。

それがはじめてのお客でした。

その人たちは、缶詰のビールを持ち、めいめい腰にピストルを下げていましたが、私たちが考えていたより、ずっと紳士的な態度で、
「ここに御嬢さんたちがいると聞いてきたが」といって、カードを通訳のひとに見せました。

それには、お店の地図が書いてありました。
いつの間にかRAAの方で、こんなカードを印刷したらしいのです。

主人はよろこんで、この5人の「口切り」のお客様をもてなそうとしました。

この人たちは、靴のまま上がろうとしたり、ふすまをドアと間違えて、押して外してしまったり、そんなヘマをやりましたが、上がると広間でおとなしく持参のビールを飲みはじめました。

広間で特別に招いた大森芸者の手踊りを見せました。
けれど彼らはそんなものはさっぱり興味がないようで、しきりに、お嬢さんはどこにいるのだと聞き、料理をはこぶ私たちを抱きすくめようとしたり、なかには、いきなり部屋のすみで押し倒して裾に手をいれようとしたりする兵隊もありました。(和服がめずらしかったのでしょう)

それで私たちは、ご主人に言って、5人の兵隊に、慰安婦の部屋にひきとってもらいました。
なにしろ、素人の娘さんたちですから、はじめてみる外国兵の姿にふるえ、おののいて口もきけません。

それをまるで赤ん坊でも抱くように、ひざの上に抱き上げて、ほおずりしたり、毛だらけの大きな手で
「かわいい」とでも言っているのでしょう、何か言いながら、あちこち体を撫で回したりしているのを見て、私は急いで障子を閉めました。

廊下で聞いていると、あちこちの部屋で悲しそうな泣き声やら、わめき声やらがしました。
泣き声は女で、わめき声は男です。

おそらく何か月もの間、殺伐な戦場で、女の肌に一度も触れないできたのでしょう。
その、たまりにたまった思いを、一度にとげようとしているのでしょう。
物音や、声を聞いていると、女の私でさえ、変な気持ちになりました。
もう何年もそういうことからは遠ざかっていた私ですから。

そして、ああ、やっぱり、日本は負けたのだと、日本の娘がアメリカの兵に犯されている物音を廊下で聞きながら、はじめてそのとき、敗戦の実感が胸にしみ、涙が出てきました。

5人のアメリカ兵は、その夜、12時頃までいて帰りました。
私はタバコを1箱、チップにもらいました。

部屋へ行ってみると、部屋中にアメリカ人の体の匂いが甘酸っぱく漂い、そのなかでRAAの娘さんが顔をおおっていました。
素顔で体中汗でひかり、いかにも苦しそうに息をはいていました。

聞いてみましたが、恥ずかしがって何も言いません。
しかし、皆の話を総合してみると、彼らは思ったよりずっと親切だったそうですが、何しろ体が大きいし、はげしいので、みんなくたくたにされてしまったようでした。

その5人の兵隊たちが満足したのも無理はありません。
彼らは幸せだったのです。処女もその中にひとりいましたし、そうでないのも、ながい間、そううことから遠ざかっていた、おぼこな女ばかりでしたから。
だから、女の人も疲れてしまったのです。



しかし、そんなのんきなのは、この晩だけでした。
この5人は、嵐の前触れのようなものだったのです。

翌日は、昼間から、ウワサを聞いた彼らが続々とやってきました。
大勢になれば、もう遠慮なんかしていません。
土足でずかずか上り込み、用のない部屋に入り込んだり、女中や事務員まで追い回したりします。

10日ほど経ったとき、その騒ぎはどうしようもなくなりました。
ほかにも、ポツポツそういう施設ができかかっていたのでしょうが、私たちからみたら、なんだか東京中の進駐軍が、みんな私たちのろころへやってくる気がしました。

ジープが前の広場に、十台も二十台もとまっていて、あとからあとから、兵隊たちはやってきました。
はじめてやってきた30人の女のうち、ふたりは、最初の晩にどこかへ逃げて行きました。

残った娘さんたちがお客をお迎えしていたのですけれど、部屋が足りません。
まるで体格検査場みたいに広間を屏風(びょうぶ)で仕切って、そこに床を敷いて待たせ、一部屋になっているところも、兵隊たちが障子をこわしてしまったので、開けっ放しでした。
女たちはそれを嫌がりましたが、兵隊たちの方は平気で、かえって面白がって口笛を吹いたり、声をかけたりして楽しんでいました。

ひとりの男が中にはいると、あとの列が、ひとつづつ前へ進みます。
まるで配給の順番でも待っているようでした。
その列が廊下にあふれ、玄関に延び、ときには表の通りまで続くときもありました。

私たちも、ぶっ倒れそうになりながら、その兵隊たちの間をかけまわって、用をたしました。
気を張ってないと、待っている気なぐさみに、どんなことをされるかわからなかったのです。
接吻をされたり、お乳に手を入れられたり、私もしまいには神経が太くなってしまって、接吻なぞ、何度もされました。
なにしろ、右を向いても左を向いても、そんな風景ばかりなのですから。

ひどい目にあったのは、募集で集まってきた女の人でしょう。
みんな素人の娘さんたちなのです。
はじめての日に処女をやぶられて、一晩にひとりの男の相手をするだけでも、心が潰れるほどのことだったでしょうに、毎日、昼となく夜となく、一日に最低15人からの、しかも戦場からきた男の人を相手にしなくてはならないのです。

素人の女ですから、要領というものを知りません。
はげしく扱われれば、正直に女の哀しさを見せてしまいます。
それではたまったものではありません。

たちまち別人のようになって、食事もろくにとれず、腰の抜けた病人のようになってしまう人が多かったのです。
どうしてこんなアシュラのようなところから、みんな逃げ出さなかったのか不思議に思うのですが、逃げようにも逃げる気力さえなくなっていたのかもしれません。

どこの部屋からも、叫び声と笑い声と、女たちの嗚咽(おえつ)が聞こえてきました。
それを聞いていると、日本の女が、戦勝国の兵隊の蹂躙にまかせられているという気がしみじみとしました。

それは、それから何年にもわたって、日本の全土にわたって行われたことの縮図でした。見本でした。

私たち女中のなかからも犠牲者が出ました。
よっちゃんという19の子は、布団部屋にはいったところを、数人の兵隊に見つけられ、なかでイヤがるのを無理に輪姦されて、
「お姉さん、あたし・・・」
と私に泣きついてきました。

傷口を洗ってやりましたが、裂傷を負っていました。
「わたし、好きな人がいたの。こんなことになるんだったら、復讐してやるわ、兵隊たちに!」
そういって、翌日から慰安婦の方へまわって、お客をとるようになりました。

しかしこの子は、もともとそういうことが好きだったらしく、それに外人の体がめずからしく良かったのでしょう。
復讐どころではなく、何人のお客を迎えても、鼻歌交じりで、きゃっきゃっといって、兵隊たちと騒ぎまわっていました。

一日に60人のお客をとったという女が表れたのも、その頃の話です。
そのときは、ペイディ(ねず注:バーゲンセールのようなもの)だったのです。
朝から横になったきりで、食事も寝ながらとるという調子だったそうです。

でもその女性は、もうそれっきり立てなくなって、病院に送られましたが、すぐ死にました。
精根を使い果たしたのだと思います。



そんな毎日が続いても、お客はあとから、あとから増えるばかりで、収拾のつなかい混乱におちいってしまいました。
女たちは、もちろん短期の消耗品みたいなものでしたけど、それでも使い物にならなくなれば困ります。

ご主人は、銀座のRAAに応援を求めました。
RAAの方では、はじめの失敗に懲りて、今度は新宿や吉原から集めた玄人の女を、補充に30人ほどこっちへ送り込んできました。
そしてRAAのほうに応募してくる素人の娘さんは、いったん吉原などへ送り、そこで泣いたりわめいたりしないように実地訓練をするという方法をとったようです。

こんど来た人たちは、何といっても、そういうことには慣れている人たちですから、一晩に10人や20人のお客をとるのは平気です。

「それでもねぇ、やっぱりなんだかヘンよ。体が違うでしょ? それに言葉は通じないし、おまけに向こうでは、女のご機嫌をとろうと思って、いろんなことをしてくるでしょ? こっちはなまじっか、そんなことされないで、早く切り上げてくれた方がいいと思うんだけど・・」
などと、くわえタバコで、私たちに、そんなことを打ち明ける人もいるほど、なれていました。

この人たちが来てからは、だいぶうまくいくようになり、兵隊同士のケンカや、女中の犠牲者たちも少なくなりました。

はじめにきた30人の女の人は、その2~3か月の間に、病気になったり、気が違ったりして、半分ほどになっていました。

しかしその半分の人も、現在ではきっとひとりも、この世に残っていないと思います。
それほどひどかったのです。

まったく消耗品という言葉がぴったりとあてはまる人たちでした。
とても人間だったらできないだろうと思われることを、若い、何も知らない娘さんたちがやったのです。
そしてボロ布のようになって死んでいったのです。

そうこうしているうちに、方々に同じ施設ができました。
お店の近くにも、やなぎ、楽々、悟空林と続いて開業しましたので、うちへ入るお客も、自然少なくなり、一時の地獄のような騒ぎもおさまりました。

でも、今度は、世の中全体に、そういう風潮がひろがっていくのが、私たちにもわかりました。
若いお嬢さん風の女の人が、玄関にはいってきて、主人に「働かせてください」と頼むことがありました。
理由を聞いてみると、路でアメリカ兵に強姦されて、家に帰れないから、というのでした。

自分から、アメリカ兵に媚を売る女になっていく人も、何人かありました。
今思うと、こうしてあの頃、東京中にパンパンなるものが生まれつつあったのですね。

私はそれから何か月か経って、とうとうアメリカ兵のひとりに犯され、お店をやめましたけれど、あの頃の小町園のことを思い出すと、悪夢のように思われます。
~~~~~~~~~

以上が、小町園の女中だった方の手記(体験談)です。

RAA(特殊施設協会)は、日本が進駐軍を迎えるのにあたって、日本人の一般の女性たちが性の被害に遭うことをおそれて、設置した協会施設でした。
「善良で清純な婦女子を守るために」設置したのです。

政府は、日本全国の都道府県に「外国駐屯慰安施設等整備要項」を出し、公娼、私娼、芸妓を中心に、慰安婦を集めました。
けれどそれでは数が足りず、昭和20年の9月下旬には、全国紙に慰安婦の募集記事がRAAによって掲載されています。

そこにはこう書いてあります。
~~~~~~~~~~
女子事務員募集
年齢18~25歳まで
宿舎、被服、食糧支給
~~~~~~~~~~

戦後の焼け野原で、住むところも食料も衣服さえも替えがなかった時代です。
しかも、優秀な適齢期の男たちは、みんな戦地に行き、そこで多くが戦死し、抑留されました。
この結果、終戦直後の日本国内の適齢期の男女比率は、男1に対して女5の割合だったのだそうです。

加えて、国内経済は壊滅状態です。
就職のあてなどありません。
敗戦後二年間の失業者は600万人です。
女性に限っていえば、まったく就職のあてなどなかったのです。

本文にある小町園では、三井銀行の事務員をしていた娘さん(処女だったといわれている)が、はじめての客に黒人兵をとり、気が変になって、その日のうちに京浜急行の電車に飛びこんで亡くなりました。
これも実話です。

横浜に設置された山下町の「互楽荘」では80人ほどの女性が集められ、小町園から4日遅れの9月1日に開業していますが、どこでどう話を聴きつけてきたのか、開業の前日に百人を超える米兵がカービン銃を突きつけて押し込み、そこにいた14人の女たちを蹂躙しました。
翌朝、泥靴の跡も生々しい女たちが、虫の息で転がっていたといいます。

さらに「互楽荘」では、開業二日目、黒人兵からひどい目に遭わされたことのある女性が、別の黒人兵に嫌悪感をあらわにして相手をするのを嫌がり、それを無理やり犯そうとしたために女性が逃げ出した。
怒った黒人兵がそれを追い、首を絞めて殺してしまった、という事件も起きています。

この事件では、MP(米軍の憲兵)が駆けつけ、逃げようとしたその黒人兵を射殺しました。
この結果、横浜の「互楽荘」は、その日のうちに閉鎖になりました。

世界の軍隊の中では、まだマシなほうと言われている米軍でさえ、これなのです。

これが悪名高い中共の人民解放軍だとどうなるか。
チベットを見ればわかります。

チベットは、2千年の歴史のある国です。
そこに中共軍が、チベットはChina固有の領土であると一方的に宣言して進駐しました。

その結果、4500あった寺院は破壊し尽くされ、今ではたったの45しか残っていません。
15万人いた僧侶は、今はたったの1400人、一般市民で虐殺された者は128万人です。
国民の5人に一人は殺された。

女たちは強姦され、殺され、子供たちは教育の機会を奪われて、いまやチベットの文盲率は男子で60%、女子で82%です。
これは現在進行中の話です。

本稿で、日本政府がRAAを用意したことには、嫌悪感を持たれる方も多いかと思います。
けれど当時の政府は、より多くの国民を守るために、そういう選択をせざるを得なかったのだということを、書き添えておきます。

つまり、慰安施設を、ちゃんと用意しておかなければ、一般の婦女子が犠牲になるのです。
それを防ぐために、慰安所を設けたのです。
もし、政府がそれをしなければ、上に書いたような悲劇は、単にその施設内のできごとというのではなく、一般の日本人女性の被害となったことでしょう。

現に、日本よりすこし前に占領されたベルリンでは、街の女性が少女から老婆まで、なんと8割が強姦されています。

そういう事態を防ぐために、苦汁の選択をしたのだ、そうやってひとりでも多くの日本の婦女子を守ろうとした人たちがいたのだ、そのおかげで、日本が7年間もの占領統治を受けながら、日本人として純潔をいまだに保つことができているのだ、ということに、私たちは感謝しなければならないと思います。

また終戦という混乱の時期にあって、国内においてさえ「小町園」のような悲劇が起こった、だから「戦争がいけないんだ」というのも、議論の飛躍です。

なぜなら、敗戦によって占領を受けた国は、戦後65年経った今でも、「小町園の悲劇」がいまだに延々と継続しているのだ、という、この事実を見落としてはならないからです。
先ほど述べたチベットしかり、ウイグルしかり、です。

日本は、有色人種として植民地奴隷になる道を選ばず、自存独立のために明治以降、必死になって国を支えてきました。
おかげで日本は、植民地にならず、日本人は奴隷にならずに済んだのです。

もし、なんの抵抗もしないで奴隷になる道を選んだのなら、いまのアジア諸国も、アフリカ諸国も、いまだ植民地のままです。
日本も日本人も生まれたその日から死ぬ日まで、一生、男はタダ働き、女は操を無視され、私有財産もプライバシーも自由もない生涯を、何百年も過ごさなければならなかったのです。

いま、沖縄を中共にくれてやろう、などという不埒なたくらみをする連中がいます。
いうまでもなく、反日左翼の連中です。

選挙になると、わざわざ住民票を1000人単位で移してまで、インチキ選挙を繰り広げ、沖縄を中共に売る工作をしています。
同時に、彼らは反日を扇動し、あおっています。

けれど、彼らは沖縄が日本でなくなったとき、沖縄県民が受けるであろう悲劇をちゃんとわかっているのでしょうか。

日本を外に売り渡そうなどと、ろくでもないことを考える前に、いかにして日本が往年の姿を取り戻し、住みよい日本になるかをちゃんと考えるのが、筋というものです。

また、日本国内におけるRAAで働いた女性ですが、朝鮮半島における売春婦(慰安婦)とは決定的に異なる点が2つあります。

日本国内のRAAは、政府の外郭団体です。
いわば政府の機構でした。
これに対し、朝鮮半島における慰安所施設は、Koreanの女衒が、日本軍の駐屯基地の周辺で勝手に始めた商売であったということが、まずひとつ。

それと二つ目には、RAAの慰安婦女性たちは、宿舎、被服、食糧が支給されたただけで、給料は普通の女子事務員とほとんど変わりがありません。
これは当時の日本政府にお金がなかったことも一因で、このため、米軍の進駐後に誕生した街の街娼(パンパン)の方が、はるかに稼ぎが良いということから、RAA職員よりもパンパンとなることを選ぶ女性が増え、この結果、RAA施設はその後、自然消滅的になくなってしまいました。

これに対し、朝鮮半島の慰安婦たちは、日本の兵隊さんたちの月給の数十倍の給料を稼ぎ、当該女性のみならず、その女性の親戚一同までが生活状況を一変させるという状況にありました。
また、慰安所において、小町園や互楽荘で起こったような暴力事件や死亡者が発生するということもまったく、ただの一件もなかったのです。
このことは、事実として、歴史に止めておくべきことであろうと思います。


それともうひとつ。最後に大切なことを書きます。

小町園での悲劇をご紹介しましたが、最初は東京銀座の三越が慰安所に充てられる予定だったという事実です。
三越は、断固これを拒否しました。
断った理由は、江戸時代から続く老舗の伝統を踏みにじられてなるものか、という三越の「誇り」です。
おかげで三越は慰安所にならずに済みました。

もし、このとき三越が、政府の要求をのんでいたら、いまごろ三越はどうなっていたでしょう。

たとえどんな相手でも、横暴な要求は断固拒否する。
そんなあたりまえのことをしたおかげで、三越は、いまや世界の三越に成長しています。

すなわち、成長し、未来を切り拓く力というものは、常に「誇り」から生まれるのだ、ということです。

思えば、黒船来航以来の日本を守ったのも志士たちの「誇り」でした。
日清、日露、大東亜戦争を戦ったのも、日本人の「誇り」でした。
そして戦後の奇跡的とさえいえる驚異の戦後復興を成し遂げたのも、私達日本人の「誇り」でした。

いま不況に沈む日本が失っているもの。
それは、日本人としての「誇り」なのではないでしょうか。

逆にいえば、日本がこれから未来に向けて成長し、発展し、より豊かな生活を取り戻すのに必要なこと。
それこそまさに「日本人の誇り」なのです。

ともあれ、戦後の時代に犠牲になった多くの女性たちに、感謝をこめてご冥福をお祈りしようと思います。


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コメント

三毛猫

No title
ねずさん、何時も有難うございます。
過去に図書館から著書を借り、拝読しました。
GHQは、上陸すると早速民家に不法侵入し、婦女子を片っ端から強姦、輪姦した事は、当時の新聞で大男(米兵)の犯した性犯罪が報道されています。
読んでいて怒り心頭、胸糞悪くなり、吐き気を催す程汚らわしい。
従軍慰安婦は、戦時中ですが、RAAは、戦後ですからね。
日本は、イギリスの代理戦争である日露戦争の借金を金融ユダヤ資本に返済し終わったのが1986年でした。
借金が、無ければ、日本は、こんな惨めな目に逢わなかったでしょう。
スーパーで米国産の牛肉やサクランボ等は、絶対買いません。
でないと、夜中に寝てる時、家を焼かれ親を失って、途方に暮れて女給募集とか事務員募集とかで日本政府に騙されて米軍の穢れた下の処理をさせられていた娘さん達に申し訳がたちません。
拝読させて頂き、有難うございました。

-

No title
頑張ってくれ
応援する

履歴書

No title
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

なお

「ベルリン・ある女たちの一人の物語」
似たような題材をテーマにした映画が2008年
制作された、ドイツ・オランダ合作の映画。
「ベルリン・ある女たちの一人の物語」
第2次世界大戦敗戦後のドイツ、ベルリンで
ソ連兵たちが略奪や暴行を繰り返していた。
主人公の女性はアパートに住む女性たちを救うべく
自らソ連軍将校の愛人になったと言うショッキング
な内容です。
原作は「ベルリン終戦日記・ある女性の記録」
と言うタイトルで、匿名で出版された体験記で
出版された1950年代当時、西ドイツ国内で
センセーショナルな話題としてとりあげられ、ドイツ
女性の恥を描いたと激しい批判を受け、2000年
初頭まで本の再販はされなかったそうです。

桜子

No title
先の戦いにおいて各戦線に慰安所を設けたのは血気盛んな若者が戦っているのです。
何処の国も現実こういう問題に頭を痛めていたといいます。
先の戦いに於いても現地の女性に迷惑をかけるわけいきません、そういう配慮の基に青春のはけ口としてそのような場所を設け、慰安婦を募集しました。
そこには斡旋をする業者がいました。
当時の慰安婦は一生喰うに困らないほどの報酬を受け取っていました。
この様な事は周知の事実です。
この慰安婦問題に関してはルバング島から帰還された小野田寛郎元少尉はじめ多くの方も語っています。
よって強制連行なんてとんでもない話です。

昨日は終戦の日、日本国中が祈りの日でした。
特亜、何かするのでは?とは思っていたのですが、尖閣上陸、やってくれました。
特亜に関しては、ほんと言ってコメントする事すら馬鹿馬鹿しく、ほとほと疲れます。
さて、政府の対応は?と思っていましたが案の定でした・・・・。

わは

No title
ねずさん
はじめまして。震災により、常にサバイバル意識を持っていなければ
色々と苦労する事を経験しました。
その経験から最初は地震予知サイトを見て廻っていましたが
そのうち一つのサイトから、ねずさんのところに行き着きました。
今では、すっかりねずさんファンです。
今まで自分が感じていた日本国に対する違和感が、このサイトを
読んでいると全て説明出来る事となりました。
今からでも、遅くないので停戦記念日から67年たったので
何とか、素晴らしい日本国に戻る活動を出来たらと感じています。
今後共、よろしくお願いします。
45歳、宮城県在住の男より

憂国

今回の記事ですが
ぜひとも拡散願います。
私もやります。
皆さん、お願いいたします。

語り継ぐ

「善良で清純な婦女子を守るために」
善良で清純な婦女子が犠牲になった。

年上の女性が戦争の話から「日本人はパンパンとかになって、、、」と言ったので「あなたは進駐軍に強姦されたの?」首を左右にふるので「誰のお蔭で酷い目に合わないですんだと思っているの」と、事務員募集で騙され、恐怖から気がふれたり、自殺しなければならなかった気の毒な方々の代弁をしました。年上の女性はしみじみと聞き入っていました。

何もかも失い路頭に迷っていた清純な日本女子を騙した政府には腹が立ちます。鬼畜の顔色を伺い娼婦ではなく清純でなければいけないと気使い、米軍に媚た卑怯者! 

白人を日本人は特別扱いする傾向がありますが只の人間、人間性、あらゆる面で日本人のほうが格段優れています。それは知るべき事実です。

PS:日本軍は外国人は騙さず慰安婦募集と記載していました、上の方、じょあさんへ疑問の答えです。

八百屋お八

No title
お題違いと、既出だったらすみません。
京都府が、あの韓国男子サッカーチームの一員に特別栄誉賞を与えます。

http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-235a.html

質問・抗議先

京都府広報課
〒602-8570
京都市上京区下立売通新町西入
電話:075-414-4071
ファックス:075-414-4075
e-mail:koho@pref.kyoto.lg.jp
京都府 文化環境部 スポーツ振興室・文化政策課
(p) http://spogaku.pref.kyoto.lg.jp/sport/kyoto_prize.html

shengxin

慰安婦と書かなかったのは
おそらく慰安婦(売春婦)だと当然の報酬を払わなければいけなくなるわけです。
ねずさんが書かれていたように、当時の日本政府はお金が無かった。
そこでの代金はやってきた米兵が払うものではなかったのではないかと思われます。

確かに慰安婦といって募集をすればそれなりの人達が沢山来るでしょうが、。しかし、日本政府は事務員として嘘をついて募集をした。
この事こそ日本政府が賠償しなければいけないものだと思います。

負けた時の悲惨さはまだ米軍だったから良かったのかもしれません。
アメリカやイギリスは女性にはある程度の敬意を払っていましたからね。
でも、ソ連、CHINAは違います。ものとしか見ない。
買ったものは負けたものに何をしてもいいという意識。
だからチベットやウイグルで行われたことは当然の事であり、話題にしないのです。

今度は負けてはいけません。たとえ売国的行為を政府がしても、国民は理性を持って正すのです。
日本しかアジアをまとめられる国は無いのですよ。
指導的立場に戻らねばいけません。

-

No title
途中で気分が悪くなり、全部は読めませんでした。
真実を知らせるべく英訳して米国の人権団体に送ったり、
インターネットにアップして世界中に広めたほうがよいかもしれませんね。
日本人の美徳ではないかもしれませんが。。。

上田隆男

No title
昭和21年4月に中学(旧制)に入学した者ですのですし、田舎に居ましたのでこの話は知りません。ただ、新聞などはGHQの検閲があり、本当のことが書けず、強姦魔を色の黒い大男などと表現していたことは微かに覚えています。この当時のジャーナリストの方が真実を伝えようと言う気概があったような気がします。

ポッポ

No title
このことを、よくブログにされたと思います。
大東亜戦争における、日本の最大の恥部といっても、過言ではないです。

占領軍の兵隊が、日本女性のすべてを強姦して回らないようにと慰安所を作るというのは一つの考え方でしょうが、慰安婦を募集するに際して事務員とした。そして事務員だと思い、真実を知らずに応募してきた女性は、そのまま慰安婦にされてしまった。・・・・おぞましい事実です。
これは、開設されて1ヶ月くらい経った頃、人権上の問題で廃止されたと聞いていたのですが、気の毒だったとしかいえません。

戦後、様々なところで占領軍による暴行、強姦事件が発生しました。各新聞はそのことを報道して(同時に注意を、呼び掛けていたと思います。)
いましたが、そのうちに占領軍によるとは書かなくなったそうです(占領軍の圧力でしょう)。
その後の新聞は、色の白い大男とか色の黒い男と、表現しました。

中国は尖閣諸島ばかりか、沖縄も狙っています。理由や手段の方法はともあれ、もし占領、併合、自治領何でもいいですが、彼らが自治権を持てば、どうなるかは、チベットやウィグルを見れば分かります。
念のため、一度くらい試してみればと言うのは、日本の民主党政権がこの3年で何をしたかを、考えれば分かることです。

小学校、中学校、高等学校では、日本の歴史を必修にして、その中身は日本の立場から正しいものにしなくてはなりません。
日教組も自虐史観もいらない、日本人が誇りを持てる正しい歴史を教育し、国旗と国歌は敬意を持って見なければなりません。

私は、国歌を教員に歌唱させる大阪市の橋本市長に、(この点では)賛同します。なにしろ彼以外は、教職員組合と教員に対して正面から向かっていかないのです。

Pin

No title
今日本が失っているものは「日本人の誇り」でもあるでしょうが、それ以前に「まともな近代歴史教育」だと思います。


さきもり

No title
日々日本の本当の歴史に 目から鱗が落ちる思いです。日出ずるこの国が 再び輝き出す事を 信じています。どうか 末永く 健筆を 振るわれん事を 祈ります。名古屋の戦争展に行って参りました。尊い数多くの 戦没者の靈に黙祷していました。

じょあ

No title
国の機関が慰安婦を募集するのに「事務員」と偽っていたという話は衝撃的です。従軍慰安婦は戦地売春婦だと思っていましたが、募集にやましいことも一部あったのでは?とも思わせてしまいます。

なぜこのような嘘の募集が行われたのでしょうか。
当時の背景からすれば、慰安婦と書いても応募はあったと思います。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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