さて、本題に入る前に、昨日の記事で、日本は鎖国と開国を繰り返してきた、というお話を書きました。
ちなみに平家の落人のことを昨日の記事に書いていますが、平家の落人狩り、あるいは徳川幕府による豊臣の落人狩りのいずれもそうですが、平家一門や豊臣一門を、全国津々浦々に追いつめて殺害したという事実はありません。
そのように言われているだけです。
実際には、平家あるいは豊臣の時代に日本に帰化して日本に住み着いた渡来人のなかの、いわゆる「不逞外国人」を追いつめて狩ったにというのが実際のところです。
実際、平姓を名乗る方は、いまも多くおいでになるし、豊臣の残党といっても、たとえば安芸浅野家なども、まさに秀吉の妻の兄の家柄ですが、ちゃんと幕末から現在にいたるまで、家名を存続させています。
もし本格的に平家に連なるもの、あるいは豊臣家に連なる者を皆殺しにしたのが、残党狩りというのなら、こうして家系がいまも存在していることなど、あり得ません。
もっといえば、平家を追いつめた源氏は、鎌倉三代将軍で事実上滅び、平家一門の北条家が幕府の執権となっています。
また、徳川幕府二代将軍秀忠は、まさに秀吉の養子だった人物です。
残党狩りはありました。
にも関わらず、平氏も豊臣の血筋も今に残っている。
要するに「残党狩り」の対象になったのは、あくまで「残党と称して悪さをする人」であったということです。
そしてその中の多くは、おそらくはChinaやKoreaからの不逞渡来人たちであったであろうことは、その後に、国内治安が極めて良好になっているという史実を考えれば、簡単に察しがつくというものです。
日本には、どこぞの国のように他民族や異教徒を一方的に殺戮したり、弾圧したという歴史はありません。
むしろそれらを自然な形になんとかして日本の文化の中に取り込もうと努力を重ねる。
たとえば米国でさえ、大東亜戦争の頃、米国在住の日系人を全員拘束して収容所送りにしています。
Chinaの民族浄化と称するウイグルやチベットへの弾圧や殺戮は、まさに現在進行形の事態です。
これに対し日本は、たとえば関東大震災の渦中においてさえ、警察は朝鮮人を保護しています。
むしろ、朝鮮人だからといっていたずらに排除するのではなく、あくまで排除の対象は、不逞行為を働いた者に限る。取締の対象は、あくまで不逞行為であって、人種や民族ではない。
そういう姿勢は、昔も今もなんら変わりません。
元寇のあと、神風に生き残った元と朝鮮の兵士たちを、鎌倉武士団が多数拿捕し、首を刎ねているけれど、これさえも、そうした元、朝鮮兵たちが、強姦、強盗、窃盗等の狼藉を働いたことが原因です。
悪ささえしなければ、日本は、戦時捕虜は、ちゃんと当該国に国費をもって送り返しています。
「送り返す」といえば、秀吉の朝鮮征伐の際に、捕虜として日本に連れて来られたChineseやKorean等がいます。
これらは、儒者、陶工などの特定の技術知識集団で、それら知識や技術を学ぶために、日本が連れ帰った者たちです。
当時の記録を見ると、これらは「捕虜」というより、むしろ知恵のある者たちとして、敬い、歓迎されたとしています。
ですから、なるほど彼らには「国に帰れない」という悲しみはあったかもしれないけれど、知識人あるいは技術職人として、日本にいて、尊敬され、敬われ、十分な食物や、身の回りの諸事をこなす家人さえも与えられ身分の保障までされています。
ところが、名目上は「戦時捕虜」となるこれら渡来職人たちについて、当時の李氏朝鮮は日本に対して返還を申し出ます。
日本が朝鮮半島から連れてきたのは、儒家と技術者(陶工)です。
このうち、儒家はほとんどが帰国を希望したため、あご足つきで、朝鮮に送り返しています。
ところが、技術職人である陶工たちは、その多くが朝鮮帰還を拒否し、自らの意思で日本に残りました。
これには理由があって、李氏朝鮮では、陶工たちは白丁(奴隷)であり、収奪の対象であり、最下層の賤民です。
上から司令されたものを強制的に作らされ、少しでも反抗したり、作ったものが両班の気に召さなければ、極めて残酷な体罰が科せられました。
ところが日本では、古来、日本社会は技術者(職人)を高く評価され、研究、開発まで面倒をみてくれ、家人まで与えてくれる等の便宜まで図ってくれ、体罰による身の危険もなく、好きなだけ、思う存分に仕事ができる。
もちろんなかには、それでも日本人を信じられなかったり、どうしても故郷に思い残すところがあって帰国を申し出た者もいたけれど、ほとんどの職人たちは、むしろ日本に残って腕を振るいたいと願ったのです。
つまり、圧倒的大多数の朝鮮人職人さんたちは、日本に居残ったわけです。
ところが李氏朝鮮にしてみれば、これが気に入らない。
あくまでも「返せ!」というわけです。
そうした李氏朝鮮の姿勢は、特に朝鮮との国境を接する対馬の対馬藩にしてみれば、大きな問題です。
なぜなら対馬藩は、島の田畑に限りがあるため、基本的に海洋からの漁労収入と、日本本土および朝鮮との交易が藩の財政と民政の柱だったからです。
つまり対馬藩は、日本と朝鮮の間にあって、昔も今も、たいへんなご苦労をされていたわけです。
対馬の領海内での漁業操業の安定化のために、対馬藩は、徳川幕府と李氏朝鮮の和解を願いました。
一方、李氏朝鮮は、慶長の役のあと、ようやく明軍の脅威が去り、国情が安定してきたのだけれど、そうなると、むくむくと鎌首をもたげてくるのが、いつもの朝鮮の自尊肥大です。
李氏朝鮮は、対馬藩に対し、日本が朝鮮征伐の謝罪をし、捕虜を帰すなら、国交を開いても良いともちかけます。言うことをきかなければ、武器を持たない対馬の漁民に対して危害を加え、対馬に軍を出すというのです。
いつもの朝鮮のやり方です。
そうなったとき何が起こるか、対馬の人たちには、元寇の際の苦い思い出があります。
皆殺しにされ、女達は強姦され、裸にして軍船に吊るされた。
こうした李氏朝鮮の意向に、対馬藩がどれだけ困ったかは、想像に難くありません。
一方で、日本側の見方はどうかといえば、当時の李氏朝鮮を「国」としてさえ認識していません。
どういうことかというと、当時の日本もいまの日本も同じで、国は民のためにある、民あっての国である、というのが、古来変わらぬ日本人の考え方です。
そうした日本人の眼から見ると、当時の朝鮮半島は、李氏朝鮮という明と通じた暴力団が、朝鮮半島内を縄張りとして身勝手な暴虐暴政を行っているだけの未開の地域でしかない。
当時、全世界の鉄砲の半数を保持し、世界最強の軍事大国となっていた日本にとって、そうした朝鮮半島の暴力団との交流は、「外交」の名にさえ値しないと考えられたのです。
これは、おおむね正しい認識というべきです。
そうはいっても、相手が暴力団のようなものだからこそ、対馬藩にしてみれば、一層困るのです。
やむをえず対馬藩主の宗義成は、朝鮮出兵とは無関係の藩内の罪人たちの喉を水銀で潰して声を出せないようにしたうえで、「朝鮮人捕虜」として、李氏朝鮮に差し出します。
李氏朝鮮側も、形式が整っていれば「日本が捕虜を帰した」と公式には発表できるため、事実を知りながらこれを黙認して捕虜(実は罪人)たちを受け取りました。
李氏朝鮮の要求に従ったわけですから、これでひと安心、となるはずでした。
ところが、ひとつ要求が通ると、ますます増長して要求をエスカレートするのが、古来変わらぬ朝鮮人の特徴です。
今度は、日本の徳川幕府に、「国書をもって朝鮮征伐行為を謝罪せよ」と言ってきたのです。
日本にしてみれば、戦いの相手は、あくまでも明国です。
朝鮮半島にある李氏朝鮮は、明国の出先機関であり、同じ朝鮮人から搾れるだけ搾り取っている暴力団でしかありません。
つまり、李氏朝鮮は国家の名にさえ値しない。
仮に大東亜戦争で玉砕した島しょの守備隊長が、米国政府に向かって謝罪を要求したとしても、米国がまったく相手にしないというのと、同じことです。
けれど、そうはいっても、その朝鮮と領海を接する対馬藩にとっては、李朝との交流は、死活問題です。
困りきった対馬藩宗家では、慶長10(1605)年、日本の謝罪国書を勝手に偽造し、李氏朝鮮に提出しました。
とんでもない、というご意見もあろうかと思いますが、李氏朝鮮は、日本の謝罪さえあれば、それ以上、ことを荒立てることなく、対馬藩の領海への侵害もしないと約束したのです。
このことは、平成10(1998)年の日韓共同宣言のときの日韓外交と酷似しています。
このとき日韓共同宣言をまとめたのは、当時外務大臣だった高村正彦氏(衆議院議員、現・自民党副総裁)ですが、氏はこのとき、金大中韓国大統領(当時)から、
「一度謝れば韓国は二度と従軍慰安婦のことは言わない」と説得され、
「痛切な反省と心からのおわび」を共同宣言に明記しました。
その結果何が起こったかといえば、ひとたび日本政府から「反省とお詫び」を引き出すや、韓国は手のひらを返したように、今度はこの共同宣言をネタにして、慰安婦問題を日韓関係のカードに使い、賠償を要求し、韓国への巨額の財政援助をゴリ押しし、さらに世界中で、日本が朝鮮人をセックス奴隷にしたと宣伝してまわっています。
日本人の感性では、「綸言汗の如し」といって、ひとたび口に出したなら、それを守るのが信義の道です。
まして、国や公共団体などの公的なものは、嘘は許されない。
前言をひるがえすなど、あってはならないこととされています。
ところが、朝鮮蛮族には、そうした考えはありません。
ケモノと同じで、「いま」が満足できれば、真実などはどうでもいい。
要するに、ケモノたちにとっては、約束などは、その場限りの言い逃れにすぎないのです。
実際に、朝鮮半島に渡り、そうした朝鮮人の習性を、日常的に目の当たりにしていた慶長・元和・寛永の頃の日本は、ですからそうした朝鮮人の体質、政情を体験的に熟知しています。
ですから、家康も、秀忠も、家光も、李氏朝鮮の言い分など、まるで頭から相手にしていません。
ひとつ皮肉な話があります。
対馬藩のことです。
対馬藩は、国書まで偽造して李氏朝鮮との関係修復をしようとしました。
これを推進したのが、藩主の宗義成です。
けれどこうした二枚舌は、日本人がもっとも嫌うものです。
このため家老であった柳川調興(やながわしげおき)が、三代将軍徳川家光に、「嘘はいけない」と藩主の宗義成を告訴したのです。
柳川調興というのは、たいへんな教養人で、China語、Korea語にもよく通じ、古今の書物にも精通する人物でした。
おそらく、それだけに藩主の行動が許せなかったのでしょう。
江戸幕府内でも、幕府の官僚の一部は、柳川氏の意見を、もっともだと評価したようです。
そこで江戸幕府では、家光の命で、江戸城大広間に、江戸にいた全国の大名を全員総登城させたうえ、将軍家光の前で、対馬藩主の宗義成と、対馬藩家老の柳川調興を直接対決させました。
理は、柳川調興にあります。
嘘はいけない。
まして国書の偽造など、もってのほかです。
ところが、その場にいた全国大名の総意と、家光の判断は同じでした。
結論は、藩主宗義成はお咎めなし。
家老の柳川調興は津軽に流罪となったのです。
なぜでしょう。
なぜ嘘はイケナイと言った柳川調興が罰せられ、偽書を書いた宗義成が無罪とされたのでしょう。
普通に考えれば、これはおかしな判決です。
けれど、このことは時代背景を考えると、理由は明白です。
現実に朝鮮出兵をしてきた全国の大名たちからすれば、民を人として扱わず、民に対して暴虐と貪りの限りを尽くし、平気で奪い、殺し、その肉を食らう李氏朝鮮の一族は、まさに獣であり、国の名に値しない。
獣に対して自己防衛のために偽書を送り、対馬藩の民衆の安寧を図るのは、たびたび熊に襲われる村人たちが、熊に偽の餌を与えて、熊からの被害を食い止めようとするのと同じである。
つまり、宗義成の行動は、藩主として当然の行いであると看做したのです。
そして李朝を「人の王朝」と考える家老の柳川調興のほうが、むしろ実態をわきまえない「曲学阿世の徒」であり、さらにはその曲学に基づいて藩主を告訴するなど、もっての外です。
だから、遠島流罪となった。
江戸の武家社会では、この事件を「柳川一件」といい、幕末から明治にかけても、学問が空理空論に走ることを戒めた事件として、大切な教訓とされました。
要するに簡単に言うと、勉強ができて通訳ができるからといって、民を靖んじるという執政の本義を失っては、国民の生活を守ることはできないし、そういうことでは人の上に立つ武士は勤まらない。
いかに学問ができ、いい大学を出ようが、いくら理屈を言おうが、国を靖んじ、民の安寧を離れては、それは曲学阿世の徒でしかない、ということです。
もっとも対馬藩では、この事件で漢籍、朝鮮語に通じた柳川調興がいなくなり、朝鮮と直接交渉ができる通訳がいなくなってしまった。
やむなく藩主の宗義成は、幕府に泣きついて京都五山の僧の中から漢文に通じた碩学を派遣してもらい、ようやく外交ができる体制を整えたという後日談まで残っています。
さて、こうした対馬藩宗家の努力もあって、李氏朝鮮からは、江戸時代を通じて、都合12回、朝鮮からの特使(朝鮮通信使)が、来日しています。
(最終回の12回目は、対馬に差し止めとなり、日本本土には来ていません)
初回が慶長12(1607)年で、最終回が江戸後期の文化8(1811)年です。
当初の3回は、国交回復や捕虜返還交渉のためとされていますが、以降の9回は、いずれも、新将軍就任の祝賀のための来日です。
その朝鮮通信使の第11回目、おおむね朝鮮通信使が、制度として定着していた宝暦14(1764)年の朝鮮通信使の記録が、いまに残っています。
このときの朝鮮通信使は、徳川家治が第11代将軍に就任したことへの祝賀のための来日です。
その通信使の一行の中に、金仁謙という者がいて、来日したときの模様を詳細に書き遺しているのです。
これが「日東壮遊歌」で、本にもなっています。
希少本で、いまでは古本がすごい高値になっていますが、この本の中に、当時の朝鮮人官僚が見た率直な日本への感想が書かれています。
日東壮遊歌―ハングルでつづる朝鮮通信使の記録 (東洋文庫)
そこには次のように書かれています。
〜〜〜〜〜〜〜
●1764年1月22日 大阪
100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、 銅の屋根で、黄金の内装だ。
この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。
Chinaの伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の1万倍の発展だ。
北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」 と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。
●1764年1月28日 京都
街の繁栄では大阪には及ばない。
しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
悔しい。
「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
悔しい。
この犬のような倭人を全て掃討したい。
この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。
●1764年2月3日 名古屋
街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。 凄い。
自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ、この旅で最高だ。
中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。
人々の美しさも最高だ。
特に女性が美しい。 美しすぎる。 あれが人間だろうか?
「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、
美しさを失うだろう。
(帰路にて)
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。
我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。
●1764年2月16日 江戸(東京)
左側には家が連なり、右側には海が広がっている。
山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船。
全てが大阪や京都より三倍は優っている。
この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。
〜〜〜〜〜〜
これが来日した朝鮮使節の実際の感想です。
この感想が、いまから248年前の朝鮮人の日本を見た感想であり、その感想は、当時来日した朝鮮人にとっても、現代日本に来る朝鮮人にとっても、ほとんど変わりがない、ということは注目に値します。
そして、自分たちが思っていた「我が国が一番」という認識(認知)と、実際に自分の目で見たときの認識(認知)が、あまりにも不一致(不協和)だったとき、本来なら人は他国に倣って自分たちも進化しよう、進歩しようと考えるのがあるべき姿なのですが、それができるのは、福沢諭吉のような立派な人物くらいなもので、多くの場合、あるいは一般的には、こうしたときに、むしろ相手国を、
「こんなに素晴らしい情況を作っているのは、絶対に何か裏があるに違いない」
あるいは、
「この美しさを奪ってやろう、破壊してやろう」等々と、不埒な思考に走る。
これが「認知的不協和」と呼ばれるもので、こうした認知不協和が、理性ではなく嫉妬という「感情」にわたるものだけに根が深い、というお話は、先般、認知的不協和の記事で書かせていただきました。
実際、金仁謙の上の文にも、
「悔しい。 この犬のような倭人を全て掃討したい。 この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。」と、およそ理性では考えられないような不逞な思考に走っている様子が描かれています。
戦後の日本政府の間違いは、こうした不埒な思考(感情)に走っている朝鮮人(韓国人)に対し、懐柔のために日本がむしろカネや利権や技術を提供したことにあります。
そうなると彼らは、かえって自分たちの「感情が正当化された」と考え、より一層、過激で不可解な行動に走る。
理屈じゃない、感情が、そのように仕向けてしまうのです。
感情は、とかく低レベルであればあるほど、激しくなります。
足を踏んだ、踏まない、言葉遣いが気に食わない、肩がぶつかった、ガンを飛ばされた等々です。
人は、とかく次元の低い感情であればあるほど、過激に走る。
そういう斜めにしか物事を見れなくなった認知的不協和症状の相手に対しては、関わりをもたないことが、最良の防衛策です。
相手にせず、関わらず、近寄らない。
そうすることで、彼らが経済的にも社会的にも追いつめられれば、自然と、反省の息吹も芽生えるというものです。
さて、その朝鮮通信使ですが、おもしろい絵があります。
京都大学が所蔵している「鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節」の絵です。
鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節

この絵は、朝鮮通信使が鶏を盗んで乱闘になっている有名な絵です。
ご覧いただくとわかります通り、白昼堂々の往来で、朝鮮通信使一行が、日本人の町民からニワトリを強奪し、騒ぎになっている様子がみてとれます。
場所は辻の中央です。
ニワトリを奪おうとする朝鮮通信使たち、そうはさせじともみ合う町人たち、足下には明らかに日本人と見られる町民が倒れています。
通信使を押さえつけようとする町民、ニワトリを奪い取って、別な通信使に渡そうとしている朝鮮人、そうとうな騒ぎであり、乱闘があったことが伺えます。
日本では、官が民の所有物、たとえばニワトリなどを勝手に泥棒するなどということは、まず考えられないことです。
なぜなら、官は民のためにあるというのが、官民両方の「常識」だからです。
けれどそれは、あくまで「日本の常識」であって、「朝鮮の常識」ではありません。
では、朝鮮ではどうだったのか。
それについては、明治初期に、日中韓を旅行した英国人女性イザベラ・バードの朝鮮紀行に詳しく紹介されています。
〜〜〜〜〜〜
彼らは、たいがい内気で、わたしたちの姿が目に入るとあわてて鶏をひっつかんで隠してしまう。
伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民たちを脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
(イザベラ・バード「朝鮮紀行」P133~P137)
〜〜〜〜〜〜
要するに1392年から1910年まで、500年続いた李氏朝鮮では、支配階層である貴族(両班)が、庶民(白丁)からニワトリや卵を勝手に奪うのは、支配者としての「当然の権利」であったのです。
ニワトリや卵だけではありません。
魚も、食べ物も、穀物も、欲しいものがあれば、勝手に奪う。
目の前にアベックがいて、その相手の女性が気に入れば、その場で平気で奪う。
幼子を連れた若い母親がいて、その母親が気に入れば、その場で蹂躙する。
日本では「官は民のためにある」が常識ですが、朝鮮半島ではあくまで「民は官のためにある」のです。
上下関係が何よりも優先する。
上に立つ者は、下のものをどれだけ犠牲にしても構わない。
それがあたりまえの常識です。
それが、朝鮮流儒教です。
彼の国の常識です。
この傾向は、いまでも続いています。
日本では子供に「思いやりのある立派な大人になれ」と教えます。
けれど、朝鮮では「とにもかくにも人の上に立て」と教えます。
下になったら、何もかも奪われる。
だから、どんな卑怯な手を使ってでも上に立った者が勝ちというのが、彼の国の古来変わらぬ常識だからです。
日本とは、根底にある「常識」が異なるのです。
同じくイザベラバードの朝鮮紀行に、次の一節もあります。
〜〜〜〜〜〜
高級官僚や両班はお付きの行列を連れ、
行政官の屋敷に泊まり、贅沢な食事をとる。
快適とはほど遠い宿屋に泊まり、
村の食べ物をとらなければならないはめに追いこまれたとしても、
すべて最上のものが選ばれ、
それに対して代金は支払われない。
(同上P168)
〜〜〜〜〜〜
下々の者が、それによって飢え死にするようなことがあったとしても、官僚は我関せず、なのです。
自分がその場で贅沢ができればそれで良いと考える。
日本人にはあり得ない感性です。
そういう一行が、朝鮮通信使として日本に来たのです。
宿泊施設の旅館では、部屋にある布団から、花瓶や、食器、掛け軸まで盗まれた。
朝鮮通信使が去った後の部屋は、まさに「引っ越した後の空き家」状態になったといいます。
そしてそのことは、何も18世紀の大昔のことばかりではありません。
昨今の対馬には韓国人観光客が大勢やってくるけれど、例えばタクシーで、降りるときにカネを払わずに走って逃げていく。
あるいは、料金を払っても、その支払いの際に、五百円玉とそっくりの五百ウォン(価値は十分の一)を混ぜてくる。
その場で気づいて、注意しても、何事か大声で喚き散らして、泣き寝入りさせられてしまう。
スーパーでは、並んでいるバナナを、カネも払わずにその場で食べてしまう。
店員が気づかなければそのまま金を払わずに立ち去る。
コンビニでは、5、6人の集団でやってきて、一人が支払いをしている間に他の者が万引きする。
若い女性客は陳列棚の口紅をその場で使って元の棚に戻すので、売り物にならなくなる。
料理屋には、食べ物を持ち込み、注文しない。
旅館では、シャンプー、リンス、タオルから、トイレットペーパー、果は部屋に据え置きのテレビまで、残らず持ち去ってしまう。
部屋や建物を汚し、フロントやエレベーターなどの公共スペースで、平気で大小の用をたす。
部屋の中で何をするのか、便臭が激しく(日本人女性を騙して部屋に連れ込み、スカトロ行為をしているというウワサあり)、部屋に臭いが付く。
支払いの段階になってクレームをつけて値切る。
浴場施設では、湯船の中で平気で石鹸を使い、体を洗う。
日本人客が嫌がって来なくなり、廃業した温泉もある、等々。
これが西暦2012年の対馬で、実際に起こっていることです。
山本博文さんが書いた「江戸時代を探検する」 (新潮文庫)には、次の記載があります。
〜〜〜〜〜〜
通信使の随員の中には、段々と尊大な行動をする者も現れた。
出船の時に、前夜 出された夜具を盗んで船に積み込んだり、
食事に難癖をつけて、
魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、
予定外の行動を希望し、
拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあった。
〜〜〜〜〜〜
実は、上に紹介した金仁謙が来日したときの第11回朝鮮通信使の帰り際、ひとつの事件が起こっています。
明和元(1764)年4月6日のできごとです。
この日の昼、大阪の長浜の荷揚げ場で、朝鮮通信使の中の下級役人のひとりが、鏡を失くしたと突然騒ぎ出したのです。
通信使の都訓導(中級官人)の崔天宗という者が、これを咎め、
「日本人は、盗みの仕方が上手だ」と、悪口を言いました。
このとき、朝鮮通信使たちの通訳をしていた対馬藩士の鈴木伝蔵は、自分で落して失くしたのか、盗られたのかもまだわからないうちに、日本人を泥棒呼ばわりするのはけしからんと、崔天宗にこのときとばかり、
「あなたは日本人のことをそのように言うが、あなた方は食事の際に出た食器や飾りの品々を、勝手に持ち帰っているではないか。これをどう思うのか」と言い返したのです。
すると鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、突然火病を起こして怒り出し、人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も打ち据えました。
鈴木伝蔵は、自分はあくまで通詞(通訳)であり、朝鮮通信使たちをもてなす立場です。
だからその場では、我慢しました。
けれど、下級武士とはいえ、武士は武士です。
杖で打ち据えられて、ただ黙っていたのでは、武士の一分が立ちません。
思いつめた鈴木伝蔵は、その夜、崔天宗の喉を槍で突き刺して殺害し、奉行所に自首し、切腹しました。
よく、朝鮮使節をさして、「日本に儒教をはじめ、さまざまな文化や技術を伝承した」と書いている教科書などがありますが、残念ながら鶏泥棒の文化や技術が、日本に伝承されたという記録はありません。
つまり、朝鮮使節が日本に文化を伝えたなどという事実は、まったくないです。
当時の朝鮮からの日本の輸入物は、朝鮮人参と、China産の生糸と絹織物です。
他方、朝鮮通信使たちが喜んで持ち帰ったのが、サツマイモでした。
当時の朝鮮は、毎年のように飢饉が発生していたのです。
ところが日本では、飢饉のとき、サツマイモを栽培(芋は収穫が早い)して、多くの人が助かったという話から、通信士使たちは、種イモだけでなく、植え方、貯蔵法、料理法まで学んで持ち帰り、自分たちのためにこれを栽培したといいます。
ちなみに、この朝鮮通信使によって朝鮮半島に日本から持ち込まれたものに、タバコと唐辛子があります。
いま、朝鮮料理といえば、唐辛子を使ったキムチが定番ですが、キムチに使われる唐辛子は、日本から朝鮮半島に伝わったものです。
鎖国をしていても、海外の動勢は、国家として常に監視しておかなければならないのは当然のことです。
ですから、ほんのわずかな窓口での交流は続けましたが、ものめずらしい外国人が来日するとなれば、中央から歌舞伎一座や、相撲興行がやってくるというのと同じで、大歓迎するのが、日本の庶民の常です。
ですから朝鮮使節を迎えるための踊り、なんていうのも、今に伝えられています。
ところが、肝心のこの朝鮮使節、実にとんでもない連中で、自称朝鮮国王の使いでありながら、道中で、まるで不良中学生ばりに、道中で悪さばかりする。
一回の通信使でやってくるのは、だいたい450人くらいの団体です。
そのうちの100人の水夫が大阪に留まり、350人が、徒歩で江戸向かっています。
釜山を出発してから、半年くらいの滞在です。
さらに、朝鮮通信使には、対馬藩から800人の護衛の武士が同行しています。
800人の警護がいてさえ、朝鮮通信使は、あちこちで問題を起こしたのです。
幕府は、この朝鮮通信使のために、毎度100万両の予算を計上しています。
それだけの接待をしたのです。
けれど、彼ら朝鮮通信使たちは、風呂にはいる習慣がないから臭い。
日本の旅籠や、街道のあちこちにある茶店には、いまで言ったらコンビニみたいなもので、ちゃんとトイレがあるのに、路上で大小の用をたす。
朝になると、350人が一斉に、往来の路上で大用をたすことを考えてみてください。
どれだけ迷惑なことか。
けれど、街道の村々では、30年に一度のこの朝鮮通信使たちの歓迎のために、歓迎のための踊りや祭りなども企画し、実行しています。
負の面もたくさんあったけれど、それでも歓迎をする。
楽しかった思い出を、たいせつにする。
それが日本人です。

そうそう、最後にひとつ。
朝鮮通信使は、壱岐対馬を通って来日したのですが、壱岐を治める平戸藩では、使節の無事な航海を祈って藩主自らが、邇自神社(にじじんじゃ)に参拝し、順風祈願をしています。
表向きは、あくまで、無事な航海を願ってのことです。
けれど、本音は、
「一日も早く壱岐から出て行ってもらいたい」
というものでした。
隣人と仲良くする、常に仲良くしたい、というのは、日本人の変わらぬ習性です。
けれど、まともな人たちなら、そうやって仲良く暮らすことはとても大切なことだけれど、まともでない人たちまでごっちゃにするのは、国民の生活そのものを破壊する原因となります。
冒頭に掲げた朝鮮通信使一行の図は、まことに豪勢な行列です。
幕府は、30年に一度の朝鮮通信使の行列のために、莫大な予算を計上して、通信使たちの行列を荘厳しました。
けれどそれは、あくまで30年に一度のイベント毎だったからです。
逆にいえば、それだけのおもてなしはするけれど、それ以外には「朝鮮人は来るな!」ということなのです。
私は、ChinaやKoreaについて、限定的な鎖国を実施せよ、国内にいる在日外国人の通名を廃止せよ、という立場をとり、国政にそのはたらきかけをしていますが、これは民の生活の安全と安穏を保つための、最低限の国の使命であると思っています。
さて、明日は沖縄の記事を書きます^^
お楽しみに♪

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コメント
102代目天皇:秘密の花園
「源氏の巴紋(三巴)の入った太鼓」を朝鮮通信使が持ち歩いていますが、
何処から手に入れたのでしょう?
江戸城までの道中でしたら、鎌倉から?
江戸城で会談した際の手みやげ?
江戸城は、徳川が天皇家を襲撃して強奪した皇居です。
東ノ宮なんて名は、天皇家にはありません。資料にありません。
天皇家の名字は「中渡」と記載されており、
高貴な身分は、部下がその名を記す際、名の間に空白を置く風習があり、
部下すら空白の一文字を知りませんでした。
お察しがつくかと存じますが、神の様に「ノ」を入れます。
天皇家に存在しない偽者達が皆「ノ」を入れた様に、
「野バラの咲く故郷が恋しい。」と記し、馬車に乗り、膝上ブーツを着用し、
黒髪が産まれると鬼とされた天皇家は、
徳川の親戚の東ノ宮達など1滴も血を交いしません。
2013/10/13 URL 編集
UM
朝鮮通信史は寒流スターなみの人気だって大嘘つぶやてますね^^;
なんつーか朝鮮になびくと嘘をかさねないと生きていけない惨めな人生になるのかな
2013/07/31 URL 編集
彩
従軍慰安婦の欺瞞について下田市議の田坂富代さんが
非常にユニークな観点から綴っていらっしゃるので
ご紹介させてくださいませ。
http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/
自民党高村副総裁~従軍慰安婦はいなかった~
2012/10/25 URL 編集
dark-moon
長男が高校に通っていた時(工業高校でほぼ男子オンリー)に入学式、卒業式と他に
数回学校に行きました。
行事の時は君が代を歌ったのですが その時「国歌斉唱!みなさまご起立願います」
とすばらしい一声とともに 先生たちが一斉に バッと立ち上がったのです。旦那と「まるで昔の軍隊みたいだね」と
言うくらいビシバシとしていましたが、校長先生はじめ、先生方は胸をはって、君が代を歌っていたのを思いだしました。卒業式は生徒の壇上でパフォーマンスもありましたが
きちんとする所はビシッとしていて、すごいなと思ったものです。
まだ作られたヨン様ブームのちょっと前ですが 韓国マンセーの気配が近づいて
いただろう時期で、この学校の先生たちはみな危機感を持って 色々やっていたのかなと
今になって思います。先生たちは、みな立ち上がって君が代を歌っていました。
中学校の時は座ったままの先生が居た記憶があります。今思うと・・・日教組だったんだなと思いました。2−3人程度だったですけど。
話しは前後しますが やはり長男が高校の修学旅行の時に 市内の私立高校は
その当時(11年ほどまえ)で韓国に行く学校が数校ありました。海外だぞーとか
威張っていましたが アメリカだったな?小規模でしたがテロがあり
国内で京都、奈良に変わりました。長男の学校ははじめから 大阪ーユニバーサルー東京でしたので変更はありませんでした。旅行に行く場所ではなくても テロがあれば
行く先を変更していたのに、今の日本はいったいなんだ・・政府が乗っ取られると
こんなにも変わるのだとしみじみ思いました。
今思うと 色々つながってくることがわかって ああアレもかと思うことがたびたびです。早く解散させたい、安心して暮らせる日が早く来ることを。
2012/10/24 URL 編集
ポッポ
先日の、江戸城では裏口から入った図を見て、自分の知識が誤りであったことを知ったわけですが、裏口から入った図も、鶏を盗んで町人と喧嘩朝鮮使節の絵も、秘密にされていたものとは考えられません。何故、明白な間違いを教科書に掲載するのか? 日本の教科書は国の検定を受けなければならないのですから、国の検定がおかしいとしかったとしか思えません。・・・・・せっかく先人が、正確な資料を残してくれたのですから、子孫がそれを忘れてはいけないのです。
現在使用されている教科書の内容は、どうなのかが気になります。
ところで、中国が尖閣諸島にやたらと監視船を派遣しています。
また、極秘の次官会議をしたとのことですが、中国は民主党の政権の間に、尖閣諸島で何らかの権利を確保しようと画策しているのでしょう。
総選挙になって民主党が政権の座を失えば、中国のもくろみは失敗すると中国も分かっているのです。
10月20日に火災を起こした中国の大型貨物船の乗組員を、海上保安庁が救助しましたが、中国は駐福岡総領事館が直ちに体制を取ったと自画自賛し、日本側への謝意はなかったとのことです。
1920年に尖閣諸島で中国人を救助したときには、中国の長崎総領事が日本側にお礼状を書いているのが、現在の中国の尖閣諸島侵略の邪魔になってるからでしょう。
他国に助けられても礼も言わない。中国の民度は、明治時代よりも下がっています。
2012/10/24 URL 編集
彩
従軍慰安婦で思われるのはキーセンで、
まだ低年齢の少女の売り買いを
禁止したのは、併合時代の日本ですね。
それをいたいけな少女を性奴隷のなんのって、自らを棚に上げ。
第一、キーセンという国家売春に
終止符が打たれたのはついこの間、
確か2004年のことですよ。
2012/10/24 URL 編集
日和
2012/10/24 URL 編集
貼り付け
~支配の快感に酔いしれる自家中毒患者=マスコミ
TBS代表取締役会長・日本民間放送連盟会長:井上弘
ウィキペディア「井上弘」
「日本の頭脳 世界も驚く名言集」
◆(1998年 TBS副社長時代 入社式にて)
「テレビは洗脳装置。嘘でも放送しちゃえばそれが真実。」
◆(2002年 社長就任時 入社式にて)
「社会を支配しているのはテレビ。これからは私が日本を支配するわけです。」
◆(2003年 入社式にて)
「日本人はバカばかりだから、我々テレビ人が指導監督してやっとわかるんです。」
◆(2005年)
「NHK受信料を値上げして、その一部を民放にも分配するべき。」
◆(2012年 民間放送連盟会長就任 入社式にて)
「君たちは選ばれた人間だ。 君たちは報道によって世の中を動かす側の人間。対して一般国民は我々の情報によって動かされる人間だ。
日本は選ばれた人間である我々によって白にも黒にもなる。」
TBSだけではない。
http://web.trend-review.net/blog/2012/10/002400.html#more
2012/10/24 URL 編集
にっぽんじん
昨日、2010年出版の東アジア近現代史(日露戦争と韓国併合)(岩波講座)を読みました。日本と韓国の歴史学者の共著でした。歴史認識はその人の立ち位置でそれぞれ異なります。しかし、歴史の事実は共通のハズです。
日本人の書いたものは「いつ」「誰が」「どこで」「何をした」かという事実をもとに自分なりの解釈で書いていました。が、韓国人の書いたものはその事実が良く分かりません。
日本を加害者にするためか事実を曲げているものもあります。日本の朝鮮総督府が行った土地の調査に関しても、朝鮮がやっていたものを日本が継承したかのような表現で書いています。
文章は抒情的で私から言わせれば、歴史書としては「落第」です。このような近現代史が平然と日本で発行されていることに怖さを感じました。日本は歴史の事実を正しく世界に発信していく必要があります。
そうすれば多くの韓国の慰安婦(売春婦)を逮捕しているニューヨーク市は恥ずかしくて「慰安婦通り」などという下品な名称の通りは作れないでしょう。
2012/10/24 URL 編集
桜子
それにしても何時の時代でも問題を起こしてくれる民族ですね。
益々進化してるような気がします。
「朝鮮使節の記録」の中に日本の繁栄ぶりというか民度の高さについて書いています、書いてるまではよかったのですが、最後に「嘆かわしい、恨めしい、悔しい、この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい」などと文章に残しています。
「朝鮮王の徳で礼節の国にしたい」思わず笑ってしまいました。
こんなことが書ける事態、どこをどう考えればそういう発想になるのか、摩訶不思議、理解不能。
「普通は 「この様な国に自国も努力してなりたい」そう書きます。
ましてや使節団に選ばれるような人達ですからこちらの感覚としてはそれなりの人と普通に思います。
しかし彼の国の普通は普通であって普通では無いのです。
で、「恨めしい、悔しい から何がなんでも取っちゃえ!」ですか、お話しにもなりません。
使節団が日本に来て、1910年日本が韓国併合するまで何百年という長き時代が過ぎたにもかかわらず、日韓併合以前の韓国の写真を見る限りでは何も変って無いようですね。
使節団が来る度日本はお金、人材を使い「おもてなし」、しかし見る限りでは「百害あって一利無し」、日韓併合しかりです。
国を自分達の手で何とかし、つまり「努力」するという文化は進化せず、「横取り」の文化は進化し続けてるのでしょうね。
もともと人間として持っている物が違いすぎます。
お付き合い御免被ります。
余談ですが、今日は戦艦「武蔵」がレイテ沖海戦、シブヤン海に沈んだ日です。
そして明日は、同じレイテ沖海戦で関行男大尉、敷島隊の隊長として神風特別攻撃隊の先駆けとなり散華された日です。
全ての英霊の皆さんに感謝します。
2012/10/24 URL 編集
とんがり
http://japanese.joins.com/article/589/161589.html?servcode=A00§code=A10
2012/10/24 URL 編集
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2012/10/24 URL 編集
terag3
時に学校で学びましたが、これほど詳細な内容ではありません。
また対馬藩の藩主と家老の内部告発事件では、藩主が国書の偽造を
したことを「嘘はいけないこと」として訴え出た家老に対しての
幕府、将軍家光および江戸城に集められた全国の大名たちの判断は
同じで、藩主にはお咎めなし、逆に嘘はいけないとして告訴した
家老が津軽へ流罪となった「柳川一件」など、学問が空理空論に
走ることを戒めた事件として、現代の社会と比べると本当に考え
させられるお話でした。
そしてまた、248年前の「朝鮮通信使」の感想を読んで最後の
動画、朝鮮通信使「韓国の嘘を許さない」を視聴して遠い過去の
出来事であった日本の国史が本当に良く分かるお話でした。
このお話を拡散させて頂きます。どうも有難うございました。
2012/10/24 URL 編集
馬い御飯
毎日の更新、ありがとうございます。
明日の沖縄のお話も楽しみにしています。
(⌒▽⌒)
2012/10/24 URL 編集
ななし
本日もねずさんのブログをじっくり読ませて頂きました。
この中で気になる記載が1つ。
日本では「官は民の為」
朝鮮では「民は官の為」
とありますが、この「民は官の為」と言うのが、現在の日本の状況にそっくりのような気がします。
官僚、政治家が私腹を肥やす為に民がある。
という風に見えてなりません。
特に官僚、もしかして日本の官僚は儒教文化に犯されたのではないでしょうかw
2012/10/24 URL 編集
河童工房('◇')
>日本の文化の中に取り込もうと
>努力を重ねる・・・
考えてみると併合(合邦)したときに
こういう政策をしてきたこと
これが半島の人たちには我慢ならなかったのかも
しれませんね。
もっとも、彼等には通過点でしか無い国柄ですから
なにも誇れる物が無いわけですけど。
2012/10/24 URL 編集
勉強になります
日本の皇室は、世界に比類無き万世一系の文化と伝統を誇れると思いますが、存続の危機を感じています。
世界文化遺産として世界から認められた形で守り続けていくのが良いと私は思います。
2012/10/24 URL 編集
大拡散希望
「人権委員会設置法案」反対!!
Unknown (sakuranran)
「口だけ保守」森本防衛相の個人事務所です。
以前はバイト募集などで公開していたようですが、国民の声を恐れてか、現在はほとんど一般には知られていません
●森本敏(防衛大臣)個人事務所:
TEL03-3500-3258、
FAX03-3504-8258、
〒105-0001 東京都港区虎ノ門1-11-11七久保ビル5F
ひとつ積極的に掲載、拡散していただければと思います。
2012/10/24 URL 編集
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しかし、どこまで相手の横暴を我慢するか、線引きが難しいような。
結局、民が我慢できなくなるまでなのでしょうか。
現在も国民が我慢できなくなるまで、安寧を優先し、
国民が切れて(安寧より変化を望んで)初めて、動くのかな。
2012/10/24 URL 編集
あ太郎
2012/10/24 URL 編集
イシコウ
韓流、K-ポップごり押し、未だにやってる馬鹿みたいなTV・・・
正しい歴史、隣国の歴史、日本の歴史を復活させれば日はまた昇りますね
そうなると困る国が敵国です。
2012/10/24 URL 編集