赤とんぼの戦い

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神風竜虎隊別れの宴(台湾新竹基地)
神風竜虎隊別れの宴(台湾新竹基地)


以前「赤とんぼ」というタイトルで、記事を書かせていただき、この記事は平成23年に発行された航空自衛隊の機関誌「翼」にもご掲載いただきました。

先日、この記事を読まれたというYさんからメールをいただきました。
この戦いに参加された第三龍虎隊のパイロットのひとりの息子さんです。

Yさんは、ご自宅の仏間に飾ってあるお写真のスキャン画像を一緒に送ってくださいました。
それが冒頭のお写真です。
(写真はクリックすると拡大して見ることができます)

この写真の裏にはお父様の字で、
「神風竜虎隊 別れの宴(台湾新竹基地)」
と書かれてあるそうです。

撮影されたのは昭和20年7月26日、場所は台湾新竹航空基地です。
まさに、出撃前の別れの宴のときのものです。

左から5番目が、第三龍虎隊を指揮され、見事散華された三村兵曹です。

お写真で、三村兵曹は、飛行マフラーをしていません。このことに気付いたYさんのお父さまが、自分の絹のマフラーを渡してあげたのだそうです。
このとき、特攻人形も一緒に渡したと、日記に書かれてあるそうです。

過去記事なので、すでにお読みになれている方もおいでになるかもしれませんが、赤とんぼの戦いというのは、大戦末期に、台湾にあった通称「赤とんぼ」と呼ばれる複葉式の練習機が、見事、特攻を果たした史実のお話です。

九三式中間操縦練習機(通称:赤とんぼ)
九三式中間操縦練習機


この飛行機は、昭和九年に練習機として採用された飛行機です。
鋼管フレームの複葉機で、躯体は木、翼は布張りです。

日頃は練習機として、機体を識別しやすい「オレンジ色」に塗装されていたことから、多くの国民から「赤とんぼ」の名称で親しまれた飛行機です。

飛行機としての性能は、当時使用されていた戦闘機などと比べて圧倒的に低く、たとえば当時の戦闘機は、だいたい時速600キロくらいのスピードで飛んだのですが、「赤とんぼ」は特攻のための250キロ爆弾を搭載すると、その飛行速度は最大で時速130キロくらい。
しかもエンジン全開、フルスロットル状態で、ようやく空に浮いているという状況でした。

その「赤とんぼ」が、見事、特攻作戦を成功させ、米駆逐艦キャラハンその他三隻の艦艇を撃沈破の大戦果を挙げたのです。

せっかくですので、物語を過去記事から引用します。
まだお読みになられていない方も、是非この機会にご一読賜われればと思います。

昭和19年の軍歌「加藤隼戦闘隊」の歌詞に、「艱難辛苦(かんなんしんく) 打ちたえて、銃弾うなるその中で、必ず勝つの信念と、死なばともにと団結の、心で握る操縦桿」というくだりがあります。

まさに天下の公民として、東亜諸国への被支配の暴政に立ち向かい、ふるさとの家族や仲間たち、そして未来の国民(それはつまり私たち、いまをいきる日本人です)のために、そして沖縄にいる同じに日本人の命を守るために、自らの命を犠牲にし、あらゆる難関を乗り越えて戦い、散華された当時の若者達や国の心の理解に、この史実の物語が少しでも役立てば、と思う次第です。

=======
九三式中間操縦練習機、通称「赤とんぼ」は、練習機として日ごろはオレンジ色に塗装されて空に舞っていたことから、多くの国民から「赤とんぼ」の名前で親しまれていた飛行機です。
けれど大東亜戦争の末期には、自動車で言ったらすでに11年落ちになっていたわけで、当時としては、すでに軍用機としては、相当型落ちの旧式飛行機であったことは間違いありません。

ただ、いいところもあって、燃料のガソリンに、アルコールを混入した「八〇丙」という劣悪な燃料でも飛ぶことができました。
大東亜戦争末期の昭和20年は、日本の石油輸入量はゼロです。こうした機は、ある意味、実に貴重な存在だったわけです。

昭和20年7月24日、台湾の竜虎海軍基地で、この九三式中間操縦練習機で、夜間爆撃訓練をしていた三村弘上飛曹以下7名、計8名に、特攻命令が下りました。
7月26日早朝、台湾の新竹基地に到着した彼らに、「神風特別攻撃隊第三竜虎隊」の命名式と別盃式が行われます。
このときの模様が、Yさんが送ってくださった冒頭の写真です。

式が終わると、彼らはすぐに出発しました。
台湾の宜蘭基地を経由して、石垣島に向かい、そこから先島諸島、宮古島へと移動するのです。

これは本来なら、台湾からひとっ飛びの距離です。
しかし、それができるだけの性能が、この飛行機にはなかった。燃料も持たなかったし、とにかく速度が遅いから、飛ぶのに時間がかかる。
この移動だけでも九三式中間操縦練習機にとっては、たいへんなことです。

実は、「第三竜虎隊」に先だって「第一、第二竜虎隊」が台湾を出発しています。
しかし、第一も第二も、飛行中に機体に故障が続出、さらに天候不良が重なって、両隊ともほぼ全機が与那国島へ不時着し、飛行不能となり、攻撃が中止されていたのです。

こういう機まで、特攻作戦に参加させる。
特攻機の向かう先は、沖縄の海でした。
そこまでしてでも、日本は、沖縄を護ろうとしたのです。

28日夜半、「第三竜虎隊」は、赤トンボに、250キロ爆弾をくくりつけました。
これまた無茶な話です。
当時の戦闘機は2000馬力級です。
対する赤トンボのエンジンは、わずか300馬力しかない。
爆弾をくくりつけたら、それだけで機の性能の限界に挑む飛行になるのです。

おかげで、宮古島を離陸してすぐに、8機の内の1機がエンジントラブルに見舞われてしまいました。
限界を超えてエンジンを全回転させているのです。無理もありません。
やむをえず、その機は引き返しました。
引き返した機は、ようやく宮古島に到着したのですが、着陸までエンジンが持たず、機が大破しています。

残る7機は、三村隊長機を先頭に、整然と隊列を組んで沖縄に向かいました。
しかし、やはりエンジンが不調となり、2機がいったん宮古島に引き返しています。
残る5機は、そのまままっすぐに米艦隊の群がる沖縄の海に向かいました。

沖縄までたどり着くだけでもリスキーな赤トンボです。
その沖縄の海には、見渡す限りの米軍、大艦隊がいます。
到着したとしても、速度の遅い赤とんぼに、猛烈な敵の対空砲火をかいくぐり、見事、特攻を成功させることができるのでしょうか。

当時の戦闘機は、時速600キロくらいのスピードで飛びました。
しかし、250キロ爆弾を搭載した赤トンボは、時速130キロがようやくです。

三村隊長は、出発前の日記に、
「九三中練で死ぬとは思いもよらず」
「九三中練とはちょっと情けないが、我慢しよう」と書いています。
どうみても、できるはずもない作戦であったのです。

ところが奇跡が起こりました。
まず、赤とんぼ隊は、米軍のレーダーに発見されなかったのです。
いや、正確には、レーダーに発見されていたのでが、「飛行機と思われなかった」のです。

実は米艦隊は、当時、最新式のレーダー探知機を使って、赤とんぼ隊を150Km先で捕捉していました。
ところが、赤トンボは、極めて操縦性能の良い練習機です。
夜の海を海上すれすれに飛んでいます。
そのため、レーダーに捕捉されにくく、しかも機体は木と布です。
たまにレーダーに反応しても、光点は、点いたり消えたりだったのです。
しかも、あまりに飛行速度が遅い。

米艦隊の中でも、議論になります。
レーダーに出たこの光点は、鳥か、飛行機か、誤反応か?

本来なら、特攻攻撃に備えて準備万端整えるのに、その迷いが、米軍の戦闘準備を遅らせてしまいます。
そして米軍が、ようやく「敵機だ」と気が付いたときは、すでに赤トンボ隊は、艦隊のわずか20キロ、到着までわずか10分弱の距離まで近づいていたのです。

敵機来襲。
米艦隊は大慌てて、特攻攻撃に備えます。
けれど、当時の艦船の戦闘準備というのは、そんなに何分でできるような簡単なものではありません。艦上は大混乱に陥ります。

敵は、どこだ!?
見れば、もう目の前を超低空で日本機がやってきています。
しかもそれはなんと、古式ゆかしい二枚羽根の飛行機です。

当時、米軍が日本の特攻機対策のために採用していた対空用の高射砲は、飛来する飛行機のすぐそばで破裂すると、弾薬の中の鉄片が四散し、弾が直接当たらなくても、敵機を撃墜できるというものでした。

ところが、練習機赤トンボは、あまりの低空飛行です。
高性能高射砲を、その角度で撃ったら、友軍の艦船に弾が当たってしまう。

それでも果敢に近距離砲を使って、米艦隊は全艦をあげて迎撃を行います。
滅茶苦茶に弾が飛んでくる。
赤トンボは、低速です。
何発もの弾が、赤トンボに命中しまました。
いや、命中したはずでした。

ところが、赤トンボは、墜ちないのです。
対空砲火の弾は、敵機に当たると炸裂するようにつくられているのです。
ところが、赤トンボは、布張りです。
弾は、当たっても貫通してしまって炸裂しない。
エンジンか、燃料タンクか搭乗員に命中しない限り墜ちないのです。

三村隊長以下7機の「第三竜虎隊」は、全機、敵弾を受けて機体を穴だらけにしながら、さらに敵艦隊に肉迫します。

敵の輸送船には目もくれません。
狙いはあくまで敵の軍艦です。

最初の一 機が、米軍の誇る最新鋭駆逐艦「キャ ラハン」の右舷に体当たりしました。
「赤 とんぼ」は、低速でしかも機体も軽いから、艦上で爆発炎上し、木端微塵になりました。
通常、これだけでは固い装甲を施した駆逐艦は沈没しません。

ところが「赤とんぼ」が、やっとのこと で吊り下げてきた二五〇キロ爆弾は装甲弾です。
爆弾は機関室まで突入し、そこで大爆発を起こしました。
「キャラハン」の機関室のすぐ脇には、対空弾薬庫がありました。
炎はこれに誘爆し、艦は大爆発炎上したのです。
そして午前2時35分に沈没してしまいました。
あっという間の得出来事でした。

米軍は、大東亜戦争当時の自軍の被 害については、いまにいたるまで、その場であっという間に完全に沈没した 艦以外は「沈没」として発表していません。
たとえば大破炎上して数時間の後に沈んだ船は、それが敵である日本の船なら「撃沈」に加えられますが、自軍の船なら「大破」として発表しています。
戦いの場では沈んでいない、 というわけです。

けれどこのときの「キ ャラハン」は、どうにも誤魔化しようのない、まさに「沈没」とされました。
そしてこの駆逐艦「キャラハン」が、 米軍の発表する最後の「特攻機に沈められた艦」です。

続く二番機は、「キャラハン」のすぐ近くにいた駆逐艦「プリチット」にめがけて突入しました。
「プリチット」 の対空砲火開始は、なんと「赤とんぼ」との距離が1500メートルに迫ったと きでした。
それでもギリギリ、艦のわずか1.8メートル手前で、「赤とんぼ」を撃墜したのです。
しかしこの日のために訓練を積んだ「第三竜虎隊」の執念だったのでしょうか。
「赤とんぼ」は、海上に激突する寸前に搭載した250キロ爆弾を、機体から切り離したのです。
爆弾は海面に激突する「赤とんぼ」を離れ、そのまま「プリチット」 に命中します。
「プリチット」は、大破炎上します。

このことは、艦までわずか1.8メートルの距離にせまった「赤とんぼ」の機体の中で、パイロットに明確に意識が残っていたことを示しています。
死のほんの0コンマ何秒の瞬間まで、その闘志は衰えていなかった。
そしておそらく、その時点では全身に敵の重火器の砲火を浴び、もしかしたら肉体の一部は飛ばされてなくなっていたかもしれないという、過酷な状況の中で、それでも彼は、操縦桿をひき、爆弾投下スイッチを操作して、「ブリチット」に250キロ爆弾を当てているのです。
まさに闘神そのものです。

一方、 「プリチット」の近くにいた、米駆艦「カシンヤング」は、「赤とんぼ」 二機を撃墜しました。
ところが、いったん宮古の基地に引き返した「赤とんぼ」 二機が、機体の整備を終え、すぐに後方から発進してきていたのです。

この二機も、やはり米軍のレーダーに発見されずに飛来しました。
そして気がついたときに は、最初の特攻攻撃が終わってホッとひといきついていた「カシンヤング」 の目の前にこつ然と、その複葉の機体をあらわしていたのです。

「カシンヤング」は、迎撃準備をするヒマさえありませんでした。
超低空を飛行してきた二機の「赤とんぼ」は、仲間の敵討ちとばかり、「カシンヤング」 の右舷に激突しました。
「カシンヤング」 は、艦の中央部が大爆発し炎上します。
この戦闘で、「カシンヤング」は22人が戦死、45人が重傷を負っています。

さらにこの戦いで、米駆逐艦の「ホラスAバス」にも特攻機が命中しています。
タイミングからして、これも「赤トンボ」の「第三竜虎隊」による戦果であるとしか考えられません。

結局、「第三竜虎隊」7機中4機が命中しています。
成功率57%です。
大戦果です。

いま、宮古島の市営陸上競技場の東の嶺に、彼ら「神風特攻隊第三次竜虎隊」の碑が建っています。
そこには、次のように記載されています。

【建碑の由来】
もう何も思うまい何も思うまいと、思うほどこみ上げる父母への思慕、故郷の山河。
今生の別れの瞼にうかぶ月影淡く孤独を伴に無量の思いを抱き、唯ひたすら沖縄へこの胸中いかにとやせん。
ああ途絶の死真に痛恨の極みなり

 一九四五年七月二十九日夜半
 神風特別攻撃隊第三次竜虎隊上飛曹 三村弘
 一飛曹 庵 民男
  同  近藤清忠
  同  原  優
  同  佐原正二郎
  同  松田昇三
  同  川平 誠

義烈七勇士は、日本最後の特攻隊として、世界恒久の平和を念じつつ、ここ宮古島特攻前線基地を離陸。
沖縄嘉手納沖に壮烈特攻散華す。
その武勇萬世に燦たり。
願はくば御霊安らかに眠られよ。
父母のみむねに

 神風特別攻撃隊竜虎隊一同
 一九九五年七月二十九日
 神風特攻第四次竜虎隊員
 滋賀県水口笹井敬三


【鎮魂の詩】

紺碧の海 風亦清し
島人素朴にして
人情濃いなり
誰か思わん 此の地激戦跡なるを
瘡偉飢餓将兵僵る
相図る戦友建碑の事
鎮魂痍悼安眠を祈る
幾たびか島を尋ねて遺族感泣す
更に願う
島を守りて 平和の全きを

 昭和六三年 十月吉日

この文を書く前、たまたまウィキペディアで「特別攻撃隊」の記事を読んでみたら、そこには、次のように書いてありました。

「元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していた為、極端に速度が遅く、航続距離も短い複葉機や固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は、敵機の好餌であり、ほとんど戦果をあげられなかった。

だがまったく使えなかった訳でもなく、僅かながらも戦果を挙げている(九三式中間練習機による特攻は、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦1隻を撃沈している)。」との記述がありました。

冗談じゃあないです。
「わずかばかり」とは何事か。
しかも、戦果は駆逐艦1隻の撃沈だけではない。

戦後、私たち日本人は、こうして命をかけて戦った帝国軍人を、微妙な言い回しで辱められ、貶められてきました。

でも、もう、真実に目覚めるときです。
いつまでもお人よしで騙され続ける日本人ではいけない。

事実は事実として明確に主張し、断固として自存自衛を確立した日本を、いちにちも早く取り戻すべきだ、と強く思います。

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空廠 九三式水上中間練習機


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コメント

25歳

No title
私のようなともすればまだまだ若い若者が自国のために散らす自らの命。そこにあった想いとは一体どのようなものだったのか、考えさせられます。

そしてその若者たちが今の日本を見たらどう想うのか。
周辺国には物腰低い態度で米国に飼いならされたこの気高い国の変わり様を見てどんな落胆の表情を浮かべるのか。
それだけならまだしも今の日本国民はこの英雄たちのことを何も知らない。そして彼らがどんな想いで国のために死んだのかさえ知らず、その史実さえ正しくない。
私たちの責務であるこれからの日本、これをどう考えるのか。自分たちの子供に何を語り告げられるのか?
現代の私たちがこのような罰当たり者では日本という国はなめられ搾取されるだけの国になるのは当たり前ではないかと納得すらしてしまいました。
このブログを見る度、今の日本ではただ事実を知ることですら途方もなく長い戦いになるのだと感じさせられます。そして私たちの(特に若者の世代の)意識はもはや日本という国を離れんばかりに虫の息であることも感じてしまいます。
彼らの死地に赴く眼差しが常に私たちの後ろにあることを忘れてはならない、そう思いました。

珊島

風の盆
今日8月21日は旧盆の送り火、本土と違い沖縄では盆は旧暦でやります。当然ながら旧盆の送り火は満月の夜となります。宮古島の今朝はあいにくの台風、午後からは解除になるにしても満月が見られるのは厳しいでしょう。おぼろ月でも見られたらいいのですが。

月を見るたび、龍虎隊が思い出されます。龍虎隊が出撃した1945年7月29日は月齢19.9日、月の出22時34分(那覇)、宮古島では10分ほど遅れて22時44分となりましょうか。今年7月29日の月齢は21.2日で当時の月齢とほぼ同じです。

去った5月29日、海軍記念日翌日に第三龍虎隊の69回忌慰霊祭が行われました。参列者は庭月野英樹様、笹井良子様、松本定幸様、栗之脇逸美様の4氏。その模様は地元新聞、TVでも報道され広く住民にも龍虎隊のことが知られることとなりました。

http://www.miyakomainichi.com/2013/05/50399/

しかしながらその後、6月23日の慰霊の日、7月29日の69回忌の日、8月15日の終戦記念日と参拝供花しましたが、他の供花を見ることはありませんでした。それだけに昨年の太田淑子様の献花が印象深く思い起こされます。一目で女性だと判りました。あのブーケは台風に飛ばされるまで1~2か月ほど傍に取って置きました。

第三龍虎隊隊員の写真を見ると父の世代ですが、息子のように思えて来ます。送り出した特攻隊員の親の気持ちが分かる気がしました。今日は風の盆、参拝する度、しきりに聞こえた「風の盆」の歌を捧げます。

http://www.youtube.com/watch?v=IC3pdTHed_A

第1回「赤トンボの戦い」の記事

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-964.html#comments


赤とんぼ

先輩ですか、私は1935生まれ
私は、爆撃を受けた体験があります、便りくださいませんか、お話させてください。

江田一成

七軍神の御霊に感謝
七軍神のお話しに感銘しております。
申し訳ありませんが、お断りもせず勝ってにFBに転写させて戴きました。
今、我々にできる事は英霊に援軍をおくる事だけです。感謝を捧げる事しかありません。これからもよろしくお願いします。

七森

No title
宮古島に在住のものです。こちらのブログは昨年ごろから良く読ませて頂いています。この日の記事を読んで最後の特攻隊、第三龍虎隊の慰霊碑を今日初めて訪れ、手を合わさせて頂き、命を懸けて日本をお守りいただいたことに感謝を捧げてきました。今迄、まったく知らなかったのですが、こちらをはじめとする様々なサイトで、今の日本の平和はたくさんの英霊の皆様の御蔭なのだと知るようになり、今日こうやって手を合わすことが出来たのは良かったです。場所も記事に書かれてありましたので、すぐに訪れることが出来ました。日本兵のことがもっと正しく伝わり、国のために命をかけて守ってくださった英霊の皆様が安心して日本を見守っていただけますよう思います。有難うございました。

太田淑子

No title
毎日 拝見させて頂いております。
「赤とんぼの戦い」を以前拝見させて頂き 昨年7月の上旬に 宮古島に訪れた時に心ばかりでしたが 献花させて頂きました。
三村隊長 そして出撃された特攻隊員の皆様の面影が分かりませんでしたが この度お写真が載せられ お会いする事が出来ました事 嬉しく思います。 
お写真を拝見しながら 三村隊長 そして隊員の皆様に
「やっと お会い出来ましたね」 と 一人言を言っておりました。
凛々しい お姿と この日本を守るために出撃された事を日本人として 忘れてはいけません。
宮古島を 去る日 宮古空港で南に向かい 海ゆかば を歌い 涙でした。

龍虎隊員の息子のY氏です

第三龍虎隊
早速掲載されていて嬉しい限りです。
父は戦後30年をかけて、三村兵曹のご遺族を探しあて、遺品をご遺族に手渡すことが出来ました。
当時小学生だった私も、家族旅行をかねて、ご遺族にお会いすることができ、墓前(お骨はありません)にお参りすることができました。

たくさんの戦死された方や、戦争を生き延びてくれた父や母に感謝していきています。

父の日記を読んでいると、戦友の名前ががたくさん出てきますが、父にとっても私に取っても家族だと思っています。

台湾には死ぬまでには必ず行って、拝んできたいと思っています。

-

No title
今日も泣かされました。
本当に美しいお写真です。真の皇国公民です。
この国をお守り頂き感謝します。

繁田 慎吾

あらためて感謝の心をささげます
自然に涙があふれました。あらためて今ここに生きていられるのも、偉大なる先人のおかげであることを教えていただきました。それにしても、赤とんぼまで・・・と思いましたが、逆に成果が上がったことに少し痛快な気持ちにさせられました。この敢闘精神を今の若い人たちもきっと持っているそう思っています。日本人だから。
最後に、このような、貴重な話を掲載いただきありがとうございました。

ビオラ

ねずさん、今日もためになるお話しをありがとうございました。
Sさんも、お話しとお写真をご紹介下さいましてありがとうございました。
これからも、関係者の方々の生のお話しを伺えるねずブロであればな~と思います☆

赤とんぼ。
忘れてはいけませんね。

-

ご先祖様に感謝
素晴らしいご先祖様を持てたことを、心の底から尊敬し感謝します。
そして、日本の歴史が縄文の時代から現代まで、限りなく日本人の目線で史実を語ることが当たり前になることを願ってやみません。

桜子

No title
冒頭のお写真を拝見しただけで、彼等の全ての思いが伝わってき、涙が溢れてきました。

今の日本人でこの方達の眼差しを直視できる方がどれほどいるでしょう。
私は自信を持って直視できるレベルにはまだまだほど遠いと思っています。

生きて帰還された方々の書籍を随分と読んできました。
ご自分の口を通し語られているので、その場に自分もいるかの如きの臨場感です。
亡くなられた英霊の方々も含め、全ての兵士の皆さんがどの様なお気持ちで戦われたか手に取るように感じられます。
感じられるだけに心が痛みます。

壱岐春記大尉、マレー沖海戦の戦い後、両国の兵士の冥福を祈り海中に花束を捧げた方です。
壱岐大尉が残された言葉が印象的でした。
「戦争はやってはいけない、しかしこちらがその気がなくても相手のある事だ、日本を護る為にはどうするかという事を真剣に考えないといけないのでは」と言われています。
私はその言葉が、先の戦いを経験された全ての兵士のお気持ちではないかと思っています。

>事実は事実として明確に主張し、断固として自存自衛を確立した日本を、いちにちも早く取り戻すべきだ、と強く思います。

同感です。

yuki

いつもありがとうございます。
ねず様のこういったお話しを読むたび、先人たちはご自分の命を犠牲にしてにhンを、未来を護ってくださったのだと、つくづく思います。
戦後、日本は彼らに対してどんな言葉を浴びせてきたか・・
戦犯?侵略戦争?とんでもない事です。

全国に祀られている碑を見かけたら、必ず手を合わす様にしています。
きっと彼らは喜んでくれていると思います。

-

No title
私も涙が出ました。
こういうお話を小学校のころに知りたかった。
日本のために命をかけて戦ってくれた人のことを知っていたら、常に恥ずかしくない人生を送ろうとしたはず。
英霊のおかげで生かされた自分も国のために頑張ろうと思ったはず。
すべてが「もしも」の自分が恥ずかしい。
私ももっと亡くなった祖父から話を聞けばよかった。

団塊の世代の後輩

No title
江田島市、元海軍兵学校(現海自幹部学校)に特攻に行かれた英霊の皆様方の遺書が展示されています。で腹の立つ話です、数年前、韓国の密漁船がマスゴミに取り上げられました。このバカコリアどもは日本領海内を漁業資源を根こそぎさらっていく泥棒どもですが、何と彼らの高速密漁船を「カミカゼ」と命名しているそうです!そんな神経をしているから韓国はダメなのです!いっそ北朝鮮、シナに滅ばされてしまえ!と思うのですが、我が国の防衛上それは許されることではありません・・困ったものです・・。やっぱり現時点できちんと信用できる国と結託しないといけませんね・・ちなみに海保は海上安全保障分野での協力を求め、フィリピン沿岸警備隊増強のために我が国の退役した警備艇12隻を寄贈したとのことです。やっぱり売国民主政権が退陣してよかった!!

北犬

知りませんでした。そして涙で溢れています。介護現場で働いていますが、軍人さんは昨年で二名亡くなりました。もっとお話を聞きたい、そんな思いです。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦
『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』
『誰も言わない ねずさんの世界一誇れる国 日本』
最新刊
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』
『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』

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