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太平洋の楽園ハワイのことを書いておこうと思います。
実は以下の記事は、4年前に一度アップしたものですが、今回、リニューアルしてお届けしたいと思います。
18世紀末にハワイを発見したのは、有名なキャプテン・クックです。
そのクックを先頭に、ハワイに来島した白人たちが持ち込んだのが、貿易商、キリスト教宣教師たちなのですが、彼らが持ち込んだのは実はそれだけではありません。
麻疹、結核、コレラ、ハンセン病、梅毒までも持ち込んだのです。
キャプテン・クック

これは、かつての太平洋の島々に共通していた事項なのですが、彼らにはもともと「土地所有」という概念がありません。
その代わり、たとえばバナナの木などは、誰の所有かが、かなり厳格に定められたりしています。
そんなハワイの人々に、欧米から来た白人達は、ただ同然で土地を買い占めました。
なんと、国土の75%以上を所有してしまったのです。
ハワイの先住民たちは、追いつめられ、クックが来島した頃30万人だった人口が、1872年にはわずか5万7千人にまでに減少してしまいました。
国民の8割の人口が失われてしまったのです。
ちなみに欧米によって植民地化された国は、ほぼ例外なく人口が8〜9割減少しています。
なかでももっとも悲惨だったのは、アメリカインデアンで、彼らはかつて北米に約800万の人口があったものが、欧米人の上陸後、いまではわずか35万人にまで人口が減少、しかもインデアンの純血種は、いまや皆無です。
全員が白人との混血です。
これが何を意味しているかは、申上げるまでもないことだと思います。
さて、ハワイ諸島を統一したのは、カメハメハ大王です。
大王がハワイ諸島を統一したのは、19世紀、日本の明治のはじめ頃のことでした。
カメハメハ大王

大王は、欧米人種と対抗するために、明治維新のときの日本と同じように、一方で彼らから武器・弾薬を買い、一方で種々の部族がひしめくハワイ諸島を統一したのです。
武器購入資金は、サトウキビ等の輸出など、国内産業の発展によって賄いました。
しかし輸出相場の変動、疫病の蔓延、白人たちによる暴行等によって、国力は徐々に衰退していってしまいました。
実は、カメハメハ大王の孫にあたるカラカウワ大王が、1881年に日本に来日しています。
当時の日本は、有色人種で唯一の独立国でした。
有色人種の希望の星だったのです。
そしてこれが、外国の大王、つまり要人が日本に来た、最初のできごとでした。
来日したカラカウワ大王は、アメリカ人の随行員らを出し抜いて、日本人通訳のみを連れ、密かに赤坂離宮を訪れて明治天皇との会見を願い出ました。
天皇側は夜中の訪問を不審に思ったけれど、とりあえず会見に応じました。
カラカウワ大王

大王は、明治天皇にハワイ王国の内憂外患の窮状を述べました。
そして、5つの事柄について、日本の協力を要請しました。
1 日本人移民の実現
ハワイ人の人口減少を同一種族である日本人の植民で補う。
2 やがて王位を継ぐことになる、姪のカイウラニ王女と日本の皇族の山階宮定麿親王との婚約。
3 日本・ハワイの合邦
(ハワイを日本にしたいと申し出たのです)
4 日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設。
5 日本主導による「アジア連邦」の実現。
しかし、明治維新後わずか14年の日本には米国と対抗できるだけの力はありません。
やむなく明治天皇は、翌年カラカウア大王に特使を派遣して、婚姻を謝絶しました。
カイウラニ王女

ただ、移民については実現し、1884年、日本・ハワイ移民協約が締結します。
明治18(1885)年、第一陣の日本移民がホノルルに到着しました。
このときハワイでは盛大な歓迎式典が行われ、カラカウア大王自身もこれに列席しています。
そして日本酒が振る舞われ、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会まで催されました。
明治24(1891)年1月、カラカウア大王が病死し、後を継いで後継者に、大王の実妹のリリウオカラニが女王に即位しました。
明治26(1893)年1月15日のことです。
リリウオカラニ女王は、ハワイの民衆に選挙権を与えるために、ハワイの憲法を変えようとしました。
宮殿前には、女王を支持するハワイの大勢の民衆が集まりました。
けれど、この憲法改正案には、ひとつ問題がありました。
この憲法が施行されると、市民権を持っていない白人たちは、選挙権が得られない、つまり参政権を否定されるのです。
米国公使のスティーブンスは、翌16日、「米国人市民の生命と財産を守るために」と称して、ホノルル港に停泊中の米軍艦ボストンから、海兵隊160余名を上陸させ、政府庁舎や宮殿近くを制圧します。
そして軍艦ボストンの主砲の照準を、イオラニ宮殿に合わせます。
宮殿前には、大勢のハワイ市民が集まっているのです。
スティーブンスやハワイ最高裁判事サンフォード・ドールら在ハワイ米国人達は、この状況で女王の身柄を拘束し、王制打倒のクーデターを強行しました。
ハワイの王族や軍、あるいは国民達は、女王奪還を企図し、徹底抗戦の構えを見せたのですが、市民が人質に取られているという状況を前に、リリウオカラニ女王は「無駄な血を流させたくないと、退位を決意します。
この瞬間、ハワイ王国は滅亡してしまったのです。
危機感を持ったカラカウア大王が来日から僅か12年後のことでした。
リリウオカラニ女王

しかしハワイには、将来の日本との合邦もあり得るという前提で、2万5千の日本人が入植しています。
そこで急きょ、日本から派遣されたのが、巡洋艦「浪速」と「金剛」でした。
2月23日、到着した「浪速」と「金剛」は、米軍艦ボストンの両隣に投錨します。
艦長は、若き日の東郷平八郎です。
東郷平八郎は、いっさい米人たちと会おうとせず会話も拒み、ただ黙ってボストンの両隣に「浪速」と「金剛」を停泊させました。
もちろん砲門は、まっすぐ前を向いたままです。
けれど、完全な臨戦態勢です。
ボストンからしたら、これほど気持ちの悪いものはありません。
両側の日本の巡洋艦の主砲が、ちょっと横を向いただけで、ボストンボストンは沈没を免れないからです。
東郷平八郎は、実弾をもって戦うのではなく、米人たちに無言の圧力を与えることで、ハワイ市民の混乱や、市民に対する白人の略奪を阻止したのです。
かつて日本に来日したカラカウア大王は、キリスト教宣教師によって禁止されていたフラダンスを復活させた大王でもありました。
ですからフラダンスの父と呼ばれています。
そして、東郷平八郎氏と親交があったといわれるハワイ王国最後の女王リリウオカラニ女王が、作詞作曲したフラの名曲が、あの有名な「アロハ・オエ」です。
Aloha 'Oe アロハ・オエ(あなたに愛を)
Ha'aheo ka ua i na pali
Ke nihi a'ela i ka nahele
E hahai ana paha i ka liko
Pua 'ahihi lehua o uka
Aloha 'oe, aloha 'oe
E ke onaona noho i ka lipo
A fond embrace a ho'i a'e au
Until we meet again
山たちこめる雲 霧化し森の間間
さがす谷咲く花 潤むいのちつぼみ
ふるさと ふるさと
うるわしのああ まほろば
もう一度 抱きしめて
さようならふるさと
とてもやさしい、いかにも太陽の恵みを燦々と浴びた南国の曲という印象がありますが、そこに歌われているのは「うるわしの古郷、もう一度抱きしめて、さようなら古郷」なのです。
名曲アロハオエの美しい旋律の陰には、侵略者に踏みにじられ祖国を失ったハワイの民の悲しみが隠されています。
このリリウオカラニ女王の決断は、ポツタム宣言受諾のときの昭和天皇のご聖断を思い浮かべさせます。
そのとき昭和天皇は「一人でも多くの国民に生き残ってもらって、その人たちに将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法は無いと思う。みなの者は、この場合、私のことを心配してくれると思うが、私はどうなってもかまわない」と語られました。
古来、国王というものの多くは、むしろ逆に、国民の命などどうなっても構わないから、国王だけが生き残る、という選択をしています。
これは世界中がそのような歴史にいろどられています。
けれど、国王がむしろ逆に、「我が身はどうなっても構わない。ひとりでも多くの国民の命を守りたい」とご決断されているわけです。
リリウオカラニ女王は、退位し、ハワイ王国は滅亡しました。
日本も、もしかしたら同じ道をたどったかもしれない。
あるいはいま、たどりつつあるようにさえ見えます。
けれど、日本のポツタム宣言受諾のときの天皇のご聖断と、リリウオカラニ女王のときとの違いは、退位があったかなかったによる違いです。
ハワイは、退位という現実の前に、それ以前にあったハワイの古くからの文化のすべてが失われてしまいました。
日本も、もしかしたら黒船来航以後、欧米列強によって国民の人口の8割が失われ、さらに国そのものがこの地上から消えてしまっていたのかもしれないのです。
いいかえれば、いま私達がこうして生きているのは、天皇の民として生きた先人達の、まさに血の滲むような努力によるものだし、その努力によって、私たちは私たちの国の文化や伝統を、いまだに(かろうじてかもしれないけれど)保つことができています。
そこが大事なとこなのではないかと思います。
もうすぐ春休み。
なかにはハワイにバカンスにお出かけになる方もおいでかもしれませんが、そういう歴史があったのだという事実も、どこかでちょっぴり、お子様たちなどにお話いただけたらと思います。

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コメント
takechiyo1949
『…いっその事アメリカの州になって、日本国は滅んだ方が良いだろう?どうせ永久に奴隷なんだから。』
極々少数ですけど、我國にもこんな輩もいる訳です。
しかし、ボサっとしてるとホントに何処かに吸収されます。
ハワイの事は悲しい物語です。
世界は実に腹黒いと思います。
國は強くなければなりません。
2019/03/07 URL 編集
三日月
今回の記事美しくて切なくて感動しました。
ここしばらく体調を崩していたのですが、元気が出ました。
私は私のできることを、毎日、少しずつでもいいから頑張っていこうと思います。、
2013/03/08 URL 編集
ミーチャンハーチャン
日本人用のガイド(ボランティア)が付き、ハワイの悲しい歴史も詳しく知ることができます。
http://www.hawaii123.com/oahu/sightseeing/bishop.html
2013/03/06 URL 編集
ポッポ
西欧や米国が新たな植民地を求めてアフリカ、アジアを席巻した時代。軍事力を持たない小国は、巨大な軍事力を持つ国に狙われると、地図から消されました。
日本が植民地にされなかったのは、幕末から明治に掛けて、様々な形で努力されたからだと思います。
ところで、中国の毒ガス攻撃は、収まらないです。
今日の熊本県などは、PM2.5が100マイクログラムになったそうですが、中国の環境予算は、昨年よりもタッタの12パーセントしか増やしていない。中国の軍事予算は10.7パーセント増ですから、これに比べると多いという問題ではありません。PM2.5の迷惑を考えると、極めて少ない予算です。
少ない予算でも、サイバーで技術を盗み、毒ガス除去の機械を1台買えば千台コピーするから大丈夫と言うことでしょう。
あるときには世界の先進工業国だと言い、あるときには開発途上国だと言う。日本ではこれを2枚舌というのですが、中国には4000年の智慧はないのでしょう。
2013/03/05 URL 編集
中国のこと
とても参考になっています。
また遊びに来ます!更新楽しみに待っていますね!
2013/03/05 URL 編集
団塊の世代の後輩
2013/03/05 URL 編集
ミニ水仙
女王の深い哀しみが伝わり、胸が締め付けられる思いがします。
日本の皇室の存在に改めて感謝し、国民が守っていかねばならないと痛感しました。
2013/03/05 URL 編集
ガトー
軍艦の話しでは、剣術の居合いを思い起こさせます。
武力の美しい使い方で平伏モノでした。
2013/03/05 URL 編集
ミモザ
ねずさんの記事を読むたびに深い悲しみに包まれます。
新しい、平和な未来を築くために、何をしたら良いのでしょうか?
こんな小さくて微力な私に・・何かできる事はないのでしょうか?
2013/03/05 URL 編集
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2013年03月04日 日本人215人を救助したトルコ航空の元機長死去
日本人215人を救助したトルコ航空の元機長死去
イラン・イラク戦争中の1985年、テヘランに取り残された日本人215人を救出したトルコ航空の元機長、オルハン・スヨルジュ氏が2月24日に死去していたと「小さく」報じられています。
イラン・イラク戦争の最中だった1985年3月17日に、イラクのフセイン大統領(当時)が、48時間経過後にイラン領空を飛ぶ飛行機は、民間機といえども撃墜すると突然に宣言しました。
タイムリミットは1985年3月19日の20時となりました。各国は大慌てで救援機を飛ばすのですが自国民の救出で手一杯で、日本人は乗せてくれません。
日本ではJALが組合の大反対で救援機が飛ばず、政府も社会党(当時)の「自衛隊を戦闘地域に派遣してはならない」との主張で自衛隊機も派遣できず、あっという間にタイムリミットが近づいてしまいました。
最終的に215人の日本の民間人が、文字通り戦闘地域に見捨てられたのです。
そこへ奇跡的に手を差し伸べてくれたのがトルコ政府でした。トルコ航空機を2機テヘランに飛ばし、215人全員を乗せて脱出させてくれたのです。先月亡くなられたスヨルジュ元機長が1番機を操縦して3月19日19時15分にテヘランを飛び立ち、2番機が飛び立ったのが、何とタイムリミットの20時だったと言われています。つまりイラン領空で撃墜される危険性もあったのです。
この2機の乗務員も、結果的にその機に乗れずに陸路で脱出したトルコ人も、日本人救出を当然のことのように考えてくれていました。
その当時、日本政府は「我が国とトルコ政府の長年の友好関係のたまものである」などと他人事のように言っていたのですが、本当の理由は1890年9月16日に600人以上の乗務員を乗せて和歌山県串本町沖で座礁沈没したトルコ海軍の「エルトゥールル」号の救助を覚えていてくれていたからです。
串本町民も死者を出しながら最終的に69名を救出し、嵐で漁に出られずに乏しくなった食料を分け与えながら衰弱で死者が増えるのを防いだのでした。
トルコでは教科書に載っており、国民のだれもが知っている話のようです。
ところで、この事態をトルコ政府に説明し、救援機を出してもらえるように頼んだのは伊藤忠商事のイスタンブール所長だった森永尭氏です。旧知のオザル首相(当時)に文字通り「日本人を代表して頼み込んだ」のです。
森永氏は、2010年に「トルコ 世界一の親日国 危機一髪! イラン在留日本人を救出したトルコ航空」という本を出されています。本誌もアマゾンで頼みました。
外務省の説明では、野村豊・在イラン大使(当時)の尽力ということになっていますが、違うようです。尤も野村大使ら大使館員は、215人の脱出後も現地に留まっており、外務省としては勇敢な外交官であったことは認めてあげなければなりません。
しかし、この「平気で日本人を危険地域に見捨てる」日本政府の体質は、今も全く変わっていません。
北アフリカのチュニジアで2011年1月14日、23年間の独裁政治をおこなっていたベンアリ政権が倒れ、国内が大混乱になりました。
その時点のチュニジアには、200人の在留邦人と、ほぼ同数の観光客が滞在していました。一応不測の事態に備えて救出方法が議論されたのですが、当時は経営破綻して公的資金のお世話になっていたJALは救援機を飛ばすとは言わず、当時の民主党政権はわずか数人しかいない社民党(当時の社会党)の繰り返す「戦闘地帯に自衛隊を派遣してはならない」に遠慮して政府専用機を出せず(自衛隊員が操縦するからです)、おたおたしているだけでした。
結果的に大事には至らなかったのですが、日本政府は1985年当時から「何の進歩もしていない」ことになります。
スヨルジュ元機長の死去で、また重要な話題が風化してしまいそうなので、取り上げました。
ご冥福をお祈りいたします。
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裏はとってませんが、衝動的にここに投稿しました。
http://yamikabu.blog136.fc2.com/blog-entry-703.html
合掌・・・。
2013/03/05 URL 編集
クボタ
明治天皇や東郷平八郎も、なんとかしてやりたいという気持ちを持ちながら、さぞ歯がゆかったことでしょう。
戦前、ヴェトナムなど東南アジア諸国からも改革独立の為、多くの留学生が日本を目指しましたが、彼等を植民地化していた欧米がそれを知ると、日本に圧力をかけ、阻止しようとしたと聞いています。
日本が外圧に屈しないほど強い国であったなら、東南アジアや南西諸島国家と手を携え、海洋諸国連合を作って繁栄することもできたかもしれません。
そう考えると、江戸時代の鎖国体制は国内の安定・繁栄は得られたものの、アジア全体にとってはマイナスな側面もあったのかもしれませんね。
2013/03/05 URL 編集