サイパンの玉砕戦



今日は参院選の投票日です。
私は比例区(二枚目の投票用紙)は
中山恭子」と書きました。

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サイパン島最大の町ガラパン
サイパン島最大の町ガラパン


サイパンの玉砕戦について書いてみようと思います。
昭和19(1944)年6月15日から7月9日にかけての戦いです。

ロバート・シャーロットという従軍記者が書いた「死闘サイパン」という本があります。
その本の中に、上陸第一日目の午後遅くにシャーロット自身の目の前で起こった出来事が書かれています。

~~~~~~~~~~~~
チャラン・カノアの未完成の滑走路の端で、その夜のためにタコツボをせっせと掘っていると、突然けたたましい叫び声が聞こえた。

「あの穴のなかに日本兵がいるぞ!」
そう叫んだ海兵隊員たちは、私がタコツボを掘っているところから約3メートルばかりはなれた、丸太でおおわれた砂丘の方を指さした。

その声が終わるやいなや、穴にひそんだ一人の日本兵が、われわれの頭上に乱射をあびせながら飛びだしてきた。
彼はそのとき銃剣で武装しているだけだった。
一人の海兵隊員が、この小男の日本兵を目がけて手榴弾を投げつけた。

その日本兵は痩せていて、身長1.5メートルにも足りなかった。
彼は爆裂によって吹きたおされた。
すると、この日本兵はふたたび立ちあがって、手にしていた銃剣を、敵に向けないで自分の腹に、差し向けた。

そして彼は、自分で腹を掻き斬ろうとしたが、まだハラキリをはじめないうちに、海兵隊の誰かが撃ち倒してしまった。
そのため、だれも切腹をおわりまで見られなかった。

しかし、日本兵はじつに頑強であった。
彼はまたもや起きあがった。

カービン銃を持った海兵隊員が、この日本兵にまた一発、撃ちこんだ。
それからさらに三発も撃った。

その最後の一弾は、この日本兵の真っ黒な頭の皮を3センチばかりはぎとった。
彼は苦しみでのたうちながら死んだのである。
~~~~~~~~~~~~~

いまとなっては、このときに勇敢な戦いをした日本人が、誰であったのかはわかりません。
水際作戦のために、海岸沿いに掘った穴のなかで、米艦隊からの猛爆をじっと堪え、おそらく戦友たちは全員爆撃にやられておなくなりになったのでしょう。

彼は、米兵たちが上陸してくるのを、タコつぼの中でじっと待ち、夕方の薄闇を待って、たったひとりの斬り込み突撃を図りました。
当時としても、身長150cm足らずというのは、かなり小柄です。
しかも、痩せこけていました。
艦砲射撃のために、体中に大怪我をしていたかもしれません。

シャーロットは、「乱射をあびせながら飛びだしてきた」と書いています。
ですが当時の日本人が持っている銃は、速射できるサブマシンガンではありません。
三八式歩兵銃です。
明治三八年制のこの銃には、米軍の銃のような速射能力はありません。
一発ごとに、ガチャンと弾をこめる。

なんと幼稚で古臭い銃を使っていたのかと、笑う人もいるかもしれません。
しかし、軍の装備にはその国の哲学が反映されます。
美意識といった方が適切かもしれません。

ハンディタイプの歩兵用機銃は、5.5ミリ弾を用います。連射するから反動を抑えるために、弾が小さくなる。
そして弾が小さい分、敵兵を容易に殺さず、怪我を負わせるにとどまります。

戦場は過酷なところです。
平時とは違います。
軍にとって、死亡した兵はそれまでですが、戦傷者は、救助しなければなりません。
そして戦傷者の増加は、軍の機動力を損ね、軍の敗北を招きやすくします。
悲しいことだけれど、それが現実です。
しかも大怪我をした兵士の多くは、結果としてはほとんど助かりません。
長く、痛い思いをして苦しみ抜いたあげく死亡します。

これに対し、三八式歩兵銃は、6・5ミリ弾を用います。
この弾は殺害力が大きい弾丸です。
当たった相手は、まず即死します。

卑怯な真似をして敵に余計な負担をかけさせない。
戦う時は健康な者同士で、正々堂々と戦う。
敵兵を殺すときは、一気に殺して、敵兵を苦しませない。
残酷なようだけれど、戦地においては長く苦しむよりは、即死した方が、撃たれた本人にとっては、幸せなことといえようかと思います。
しかも三八式歩兵銃は、連射や速射には向かないけれど、命中率が極端に高い。

敵軍に対し、正々堂々、最小の被害で戦意そのものを削ぎ、降伏に導く。
古臭いとか、連射力がないとか、後世の人たちからはボロカスに言われる三八式歩兵銃だけど、そこには、いかにも日本人らしい明確な哲学があります。

シャーロットが目撃した日本人が持っていたのは、その三八式歩兵銃です。
おそらく、タコつぼから這い出した日本人の兵隊さんは、歩兵銃で二発撃ち、二人の米兵を倒し、そのまま銃剣突撃して、敵をひとりでも多く倒そうとしたのでしょう。

身長わずか150cm、敵の米兵は、190cm台です。
オトナと子供くらいの体格差があり、しかも、敵は多数です。

たったひとりでも、彼は戦いました。
手榴弾で吹き飛ばされても立ち上がりました。
重傷を負い、万事休すと、腹切って戦友のもとに行こうとすることも許されず、銃で撃たれて転倒し、さらに3発を撃ち込まれ、頭の皮をはぎとられて(顔の傷はものすごい血が流れます)、そして「苦しみのうちに死んだ」と書かれています。

当時、サイパン島に立て篭もった日本の兵隊さんたちは、その戦いに勝ち目がないことは、とっくに知っていました。
場所は島、敵は海上を征圧し、圧倒的な火力で陸、海、空から攻撃をしかけてくる。
誰がどうみても、不利な状況であり、全滅させられるかもしれないくらいのことは誰だってわかります。
彼らはそれでも降伏などせず、戦いました。

ひとつには、サイパンに多くの民間人がいるということです。
その民間人に対してさえも、米軍は容赦なく艦砲射撃やら航空機による爆撃を行い、しかも上陸すれば軍服を着た兵であろうが、民間人の女子供であろうが、まったく問答無用で殺戮をしかけてきたのです。
ならばもはや戦うことしか選択肢はありません。

二つめには、サイパンを奪われることは、サイパンから日本本土に向けての空襲を許すことになります。
そうなれば、祖国にいる父や母、幼い兄弟姉妹、友人たち、大好きだった彼女たちが、同じように無差別に蹂躙され、殺されてしまう。
ならば、それを防ぐためには、一日でもいい。
戦って、戦って、敵をこの島に釘付けにするしかない。

みっつめには、戦いに「勝つ」ために戦いました。
敵の圧倒的な火力の前に、全滅させられるかもしれない状況です。
それでもみんなで、「勝つため」に戦いました。
それはどういうことなのでしょうか。

スポーツ競技でも、碁や将棋なででも、「戦い」というのは、常に「勝ったり負けたり」の連続です。
早い話がサイパンの戦いでも、あるいは沖縄戦でも、極地においては、日本側が敵を圧倒していた(つまり勝っていた)場面は多数あります。
戦いは、小さな戦いの連続が大きな戦い全体の結果に影響を及ぼします。
サイパンでの戦いが、仮にそこで全滅したとしても、自分たちが戦って戦って戦い抜いた先に、大東亜戦争全体を通じての大義の実現ができたならば、それは戦争目的を達成した、といういことになります。

サイパンを攻めて来たのは、米軍です。
けれど米軍の戦争目的は、サイパンの占領が最終目的ではありません。
同様に、日本におけるサイパン島も、大東亜戦争全体を通じた戦いのための、ひとつの局地戦です。

当時の世界は、2013年のいまの世界と異なります。
白人の植民地主義、覇権主義が世界を覆い、有色人種は「人間」とさえ認識されない、ただの「ヒトモドキ」と認識された時代です。
そして500年続いた白人植民地支配が世界全体を覆いつくし、その中で実際に有色人種を現地支配していた人々が、白人貴族であり、世界の人類の中の特権階層をなしていた時代です。

日本人は、白人種ではありません。
私たちは、肌の黄色いカラードです。
世界に、最後に残ったカラード民族が、世界を支配する白人たちに戦いを挑んだのです。

彼らは、あとに続くことを信じました。
自分たちが死んでも、世界の民衆が立ち上がり、自由を手に入れる。自分たちの世界を取り戻す。奴隷として支配される状態から抜け出す。
そのためには、その緒戦を戦う日本は、どこまでも清く正しく勇敢であり続けなければならない。
みんながそのように考えていました。
それがあたりまえの常識でした。
だからこそ、指揮官たちが切腹してお亡くなりになられたあとも、総員突撃を敢行しました。
なぜなら、人には自分の命よりも大切なものがあるからです。


米軍が上陸した初日、夜襲をしかけようとする日本軍に対し、米軍は休みなく照明弾を打ち上げ、一晩中、海岸一帯を真昼のように明るく照らし出して防御を図りました。
日本軍は夜襲によってなんとか頽勢を挽回しようとするけれど、真昼のような明るさでは、夜襲の効果も半減してしまいます。

それでも我が軍は、夜襲を敢行しました。
米軍の絶え間ない照明弾によって、あたりは真昼のように明るい。
その中を圧倒的な米軍の火力を前にしながら、なんとか白兵戦に持ち込もうと突撃攻撃を行い、その日のうちに日本側の2個大隊と、横須賀第一陸戦隊がほぼ全滅しています。
日本軍は、島の北部へ退却しました。

翌16日、米軍第二七歩兵師団が上陸し、日本側の飛行場に向かって進撃してきました。
途中には、サトウキビ畑が広がっています。
日本側は、このサトウキビ畑にひそみ、米軍を襲いました。
やわらかいさとうきびでは、姿は隠せても、敵の猛射は防げません。
ですからこれは、捨て身の戦法でした。

米軍は火炎放射器で、畑をまるごと焼き払いました。
日本兵が、体中火だるまになって飛び出すと、それを全員で撃ち殺しました。
火が燃える。
日本人が飛び出す。
よってたかって撃ち殺す。

射撃する米兵にめがけて、火だるまになった日本兵が立ち上がって銃撃する。
米兵が撃ち殺される。
この日いっぱい、夜半までそうした戦いが繰り広げられました。

この日の夜も、日本側は、飛行場奪回のために戦車第九連隊(44輌)を先頭にたてた8000名で、米軍に総攻撃をかけました。
しかし、数十発連続して撃ったら、砲身が真っ赤に焼けて、撃てなくなる日本側の砲門に対し、米軍は、一時間に野戦砲800発、機銃1万発という猛射で、対抗します。
これにより日本側守備隊8000名が、ほぼ全滅してしまう。

18日の時点で、日本陸軍サイパン守備隊の斎藤義次中将は、飛行場を完全に放棄します。
けれどそのために、南部に残された日本軍が完全に孤立してしまいます。

ここまでの攻防戦で、ひとつ触れておかなければならないことがあります。
それは大本営の晴気誠(はるきまこと)陸軍参謀のことです。

サイパンにおいて、敵の上陸を水際で食い止めるようという作戦は、大本営の晴気誠陸軍参謀によるものです。
しかし、敵の圧倒的な火力の前に、結果として敵上陸を許し、さらに敵上陸後3日間の戦いは、日本側の敗退と多大な兵力の損耗に終わっています。
そもそも水際作戦のために、日本軍の陣地、火力は海岸付近に集中していたし、これが敵の艦砲射撃や空襲の的にもなってしまっていたのです。
このため守備隊は早々に壊滅してしまいました。

水際作戦を考案した大本営の晴気参謀は、この作戦の責任を感じ、自らサイパンへ行って玉砕戦を行いたいむね、志願しました。
けれど、いまさらひとりの参謀が行ったところでどうなるものでもないし、晴気参謀を送り届けるために損耗する兵力の方が、逆に高くついてしまいます。
さらに有能な参謀を失うことは、日本としても避けなければならないことです。
志願は、却下されました。

しかし、晴気参謀は、このときの作戦の失敗を、ずっと胸に抱き続けました。
そして、もはや水際では防衛戦はできないと、この後の作戦では、すべての作戦において、敵を内陸部に誘い込んでの抵抗戦に切り替え、米軍の損耗を増やしました。

そしてすべての戦いに、頭脳と智慧の限りを尽くした晴気参謀は、終戦を迎えた昭和20年8月17日、それまでの戦いの全責任をとって、大本営馬場の上にある大正天皇御野立所に正座し、同期生に介錯を依頼して古式に則って見事、割腹自決を遂げています。

晴気誠陸軍少佐
晴気誠陸軍少佐


晴気少佐は、8月10日に遺書を先にしたためています。
割腹は、覚悟の上のものだったと推察されます。

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戦いは遠からず終わることと思う。
しかして、それが如何なる形に於て実現するにせよ、予はこの世を去らねばならぬ。
地下に赴いて九段の下に眠る幾十万の勇士、戦禍の下に散った人々に、お詫びを申し上ぐることは、予の当然とるべき厳粛なる武人の道である。

サイパンにて散るべかりし命を、今日まで永らえて来た予の心中を察せられよ。
武人の妻として、よくご納得がいくことと思う。
しかして、予の肉体は消ゆるとも、我が精神は断じて滅するものにあらず。
魂はあく迄皇国を護持せんのみ。
予はここにこの世におけるお別れの言葉を草するにあたり、十年間、予と共に苦難の途を切り抜け、予が無二の内助者たりし貴女に衷心より感謝の意を捧ぐ。

又、予は絶対の信頼を以て、三子を託して、武人の道に殉じ得る我身を幸福に思う。
然るに、夫として、又父として物質的、家庭的に、何等尽すことを得ざりし事を全く済まぬと思う。

今に臨んで、遺言として残すべきものは何ものもない。
予が精神、貴女が今後進むべき道は、予が平素の言、其の都度送りし書信に尽く。
三子を予と思い、皇国に尽す人間に育ててもらえれば、これ以上何もお願いすることはない。
三子には未だ幼き故に何事も申し遺さぬ、物心つくに伴い、貴女より予が遺志を伝えられよ。
予がなきあと、予が残したる三子と共に、更に嶮しき荊の道を雄々しく進まんとする貴女の前途に、神の加護あらんことを祈る。

予が魂、また共にあらん。

昭和二十年八月十日記
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なんとかしてサイパン島で戦う兵士達、および被災している民間人たちを助けようと、東条英機首相は、米艦隊の重包囲をおして救援を差し向けようと聯合艦隊に命じ、「あ号作戦発動」を発令します。
なんとしてでも、救援を差し向けようとしたのです。

けれど作戦のために出撃した日本側機動部隊は、マリアナ沖で敵の物量の前に大敗を喫し、18日から19日にかけてのたった2日間で、艦載機400機を失うという大損害を招きます。
そして帝国海軍航空部隊はこれによって完全に制空権を失ってしまう。

こうしてサイパンにいた3万の日本軍は、開戦から9日目の6月24日の時点では、重傷者ばかり、わずか6000名が残るのみという状況になってしまいます。
守備隊の斎藤義次陸軍中将は、ここで海岸防備体制から、作戦指揮を籠城戦に切り替え、島の中部の山岳地帯にあるタポチョ山に防御線を敷きます。
洞窟を利用した抵抗戦に切り替えたのです。

この斎藤中将の作戦指揮は、大本営の当初の指揮とはまるで異なるのものでしたが、サイパンにおいて、この時点でもっとも有効な防衛手段となりました。
山岳地帯に籠城して戦う日本軍の前に、米軍のサイパン島攻略隊は、20日以降、まるで進撃が進まず、死傷者ばかりが続発するという事態になってしまったのです。

この米軍の戦闘の模様は、ジャーナリスト達によって、逐一米国本土で報道されていました。
その結果、米国本土では世論が沸きたち、大部隊によって「楽勝」だと宣伝していた米軍に対し、世論の非難が集中します。
このため米軍は、攻撃手であった第27師団長のラルフ・スミス少将を更迭しています。

この時点で、日本側に残っていた兵力は、わずか6千名です。
しかも、食べるものさえろくになく、弾薬も乏しい。
加えて、普通なら瀕死の重傷患者として病院のICUで絶対安静を言い渡されるくらいの状態になっている兵隊さんたちです。
それがうなるほどの火力を備え、日本の11倍の大兵力を持ち、空と海からも援軍を得ていた米軍上陸部隊に対して、島中央部で互角の戦を行ったのです。
島の守備隊の敢闘精神や、讃えるべしです。

しかし3日間の激しい戦いの末、空爆によって防衛ラインを破壊され、火炎放射機によって洞窟を焼かれた日本は、6月27日には、ついにタッポーチョ山を米軍に占領され、島の北側にあるサイパン最大の街、ガラパン市街に逃れる他なくなります。

ガラパンは、市街です。
民間人が多数います。
民間の施設もあれば、中立的医療施設もある場所です。

こうした市街戦を行う際は、本来なら、ここでも民間人の避難のための警告と避難のための時間を充分与えること・・・それがハーグ陸戦条約に定められた国際ルールです。
けれど米軍は、容赦なくガラパン市街を空襲し、艦砲を撃ち込み、陸戦隊によって銃撃を加えました。

このため2万人の民間人がいるガラパン市街では、必死で民間人を守ろうとする日本軍と、民間人、軍人の区別なく容赦ない攻撃を加える米軍との間で、6月28日からなんと5日間にわたる激戦が繰り広げられることになります。

そのガラパンもついに墜ち、日本軍と民間人たちがついにサイパン島最北部にあるマッピ岬まで逃れました。
しかしその時点になっても、ガラパンの街の中の倒壊した家屋の中には、多数の日本兵が隠れ、陸続と侵攻してくる米軍を撃ち、手榴弾を投げ、銃剣で刺し、米兵をその場に釘付けにしていました。

ここで、サイパンにいた民間人について触れておきます。
「米軍迫る」との情報に基づいて、実はサイパンでは、軍が事前に民間人の疎開を勧奨していたのです。米軍が来る前に、なんとかして民間人を先に避難させようとしていました。

このため、サイパン戦がはじまる前の3月3日に、「あめりか丸」と「さんとす丸」、5月31日には「千代丸」が島民を満載して出港しています。

ところがこの船は、疎開用の非武装船の旗を掲げていたにもかかわらず、米軍の潜水艦によって撃沈されてしまうのです。
あっというまの沈没です。
乗員は全員、行方不明(死亡)しています。

そんな状況のもとでは、どうせ死ぬくらいなら、兵隊さんと一緒に島に残って、なんでもいいからお手伝いしよう。
そう思うのが人情というものです。

実際、島に残留した民間人2万人の日本人は、最後まで日本軍を信じ、ガラパンを失ったあとも、日本兵について島北部にあるマッピ岬まで逃れてきていました。
一方で、米軍に拿捕された民間人も多数います。

その人たちについて、サイパンの戦いに従軍した田中徳祐陸軍大尉(独立混成第四七旅団)が、次の目撃談を残しています。

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米軍は、拡声器をいくつもすえつけ、一日中、「米軍は虐待しません。米軍によってよい待遇が受けられます。みなさん投降してください」と呼びかけた。
しかし、その呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子は、全員が素っ裸にされ、数台のトラックに積み込まれた。
「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。

滑走路に集った老人と子供の周りにはガソリンがまかれ、火がつけられた。
たちまち阿鼻叫喚のちまたと化した滑走路。
我慢ならず我兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続けた。
火から逃れようとする老人や子供を、米兵はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れた。

二人の米兵は、草むらで泣いていた赤ん坊を見つけると、両足を持ってまっ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。
「ギャッ!」といふ悲鳴を残して蛙のように股裂きにされた日本の赤ん坊とそれを見て笑う米兵士。

こんなに優勢な戦闘にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。
マッピ岬では、岩の間に一本の青竹を渡し、それに裸にされて股から串さしにされた婦人を見た。
自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が、五体をバラバラに切り刻まれて倒れているのを眼前に見た。
~~~~~~~~~~~~~~~

結局、日本側は、この時点で生き残った少数の兵隊さんと、2万人の民間人が、マッピ岬のある島の北端に押しこめられました。

洞窟の外では、米軍の砲弾が炸裂し、走り回る戦車のキャタピラ音、機銃の掃射音、火炎放射機の焦げた油の臭い等で、この世のものとは思えぬ惨状がくりひろげられています。
逃げのびる日本兵と民間人たちには、女子供老人の区別なく、水も食べ物もない飢えとの戦いが何日も続いています。

7月6日、日本軍最期のときを迎えて、南雲中将、斉藤中将以下陸海軍の最高首脳は地獄谷と呼ばれる司令部壕内で、敗戦の責任をとって、自決します。

このときの模様です。
南雲海軍中将は、次のように訓示を行いました。

=======
サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ。
米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり。
然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず。

人の和を以って今日に及び、
今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る。
無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり。

サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止まるも死、進むも死。
死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す。

余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。
戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。
=======

このときに立会った陸軍参謀によれば、7月6日午後10時、司令部にて斎藤義次陸軍中将が中央に、南雲忠一海軍中将が右に、井桁敬治陸軍少将が左に正座し、日本の方角を向いて宮城遥拝を行ったあと、割腹。
同時にそれぞれの専属副官が後頭部を撃ったとのことです。

南雲中将が、腹に刃を突き立て、斬り割いているとき、副官は「よろしうございますか」と声をかけたそうです。
南雲中将は、従容として「どうぞ」と答えられたといいます。
斎藤陸軍中将がこのとき32歳、南雲海軍中将が享年57歳でした。

陸海二人の将官を失った守備隊本部から、この日2つの命令書が出されました。
命令書は謄写版で印刷され、壕の外を通る将兵に手渡されています。

~~~~~~~~~~~~~
【命令書1】

今や止まるも死。進むも死。
人の死生はすべからく、その時を得て、帝国男児として本懐なり。
今ここに米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。

戦陣訓に曰く「生きて虜囚の辱めを受けず」。
勇躍全力を尽くして従容として悠久の大儀に生きるを悦びとすべし。
ここに将兵とともに聖寿の無窮、皇国の弥栄を祈念しつつ敵を索め進発す。続け。

【命令書2】

サイパン守備隊は先に訓示せるところに随い、
明日7日、米鬼をもとめて攻勢に前進し、
一人よく十人をたおし、以て全員玉砕せんとす。

~~~~~~~~~~~~~

この命令書は、南雲中将、斉藤中将の起草のように言われますが、ちがうと思う。

おそらく、ふたりの尊敬すべき最高首脳の自害に立ち会った副官が、壮絶な覚悟のもとに玉砕戦を呼び掛けたというのが実際のところでしょう。
命令書は謄写版で印刷され、壕の外を通る将兵に手渡されていきます。
玉砕命令は口伝えに生き残りの将兵に伝えられました。

7月7日、マッピ岬から約5キロ南方のマタンシャに集結したのは、静岡・名古屋・岐阜で編成された第四三師団を中心とした3000名です。

一説によれば、この時点で生きていた日本の将兵は1万人程度だったともいいますが、片手片足がなくなっていても、とりあえずこの時点で歩行が可能だった、もしくは「動ける」者が、約3000名だったといういうことであろうと思われます。

サイパン戦に終始従事した加賀学氏は、当時の様子を次のように振り返っています。

~~~~~~~~~~~~~~~

大半は何のための集合かも知らず、
「ガラパンに友軍が上陸するから、北方からも進撃する」とか
「玉砕突撃だ」
「ガラパン奪回だ」とかささやかれていた。
そうして集まった“最後の兵”たちも、小銃を持つ者は少なく、特科兵(大砲や戦車などの兵)や軍属は竹竿や木の枝に鉄棒や帯剣を付けた槍を持ち、素手の者は手榴弾を吊っているのみというありさまだった。

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3000名は、三つのグループに分かれ、それぞれ生き残りの佐官クラス(少佐、中佐、大佐)が指揮し、ガラパンのアメリカ軍陣地へ向けて突撃しました。
指揮官の一人だった平櫛孝氏(第四三師団参謀、中佐)は次のように書いています。

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7月7日午前3時30分を期し、ワーッと喚声をあげて米軍に向かって突進した。
私とともに山際を進む者は約千名。
小銃を持たぬ兵もいる。
この突撃は、はじめからその効果を期待しない突撃だ。
世によく「万歳突撃」というが、そんな浅薄なものではない。
アメリカ側は“狂気”というが、むしろそれに近い。
しかし、病的な狂気ではない。
十分に己れをコントロールして、誰からも強いられたものではない「狂気のごとくみえる本心」からの行動である。
したがって突撃前進の姿勢も大きい。
敵との距離が150メートルにせまっても誰も伏せもしない。
アメリカ側でも、この戦闘の基本動作以前の突撃に面食らったのか、たちまち今までの静寂を破って、赤、白、緑、黄の曳光弾とともに機関銃をアメあられと撃ちこんできた。

(「第四十三師団サイパン玉砕戦」所収)

~~~~~~~~~~~~

この突撃を目の当たりにした米国人ジャーナリストのロバート・シャーロッドは、このときの模様を次のように書いています。

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この日本軍の大逆襲がおわったとき、山と重なった日本兵の死体は、タラワ島の玉砕戦の場合よりもさらに密度が高かった。
すなわち、幅300メートル、長さ約2000メートル足らずの場所に、およそ2000名の日本兵の死体が横たわっていたのだ。
そしてある場所では、これらの死体は四段に高くかさなりあっていた。
私の推測では、四人のうち一人の割合で自殺をとげていた。
そしてここでも、自殺の証拠は右手と胸部が吹飛ばされて、死体からなくなっていることであった。
鉄道の土手の反対側には、少なくとも40名の日本兵の死体が、これまた地上に横たわっていた。
しかし、その付近に小さな家があり、その床下にはさらに何人かの日本兵の死体があった。
私は死体の数を6個まで数えたが、たぶんそこには1ダースぐらいあったであろう。
私の見たこれらの死体は全部、自決したものであって、いずれも自分の手投げ弾によって、その右手はもぎ取られ、胸部または首は吹きとんでしまっていた。

~~~~~~~~~~~~~

一方、マッピ岬に取り残された民間人は、岬からつぎつぎに身を投げて自決しました。
あるいは断崖を降りて円陣を組み、手榴弾で集団自決しました。
ある者は幼子を抱えて入水して命を絶ちました。

日本民間人の玉砕のもようは、米軍の目前でくりひろげられています。
マッピ岬は、後にバンザイ・クリフと呼ばれるようになりますが、このとき、岬から身を投げた民間人は、最低でも8000人だったといいます。

ここでひとつ重要なことを書いておかなければなりません。
このバンザイ・クリフで日本人の婦女たちが投身自殺する模様は、映像となって、毎年8月15日の終戦記念日頃になると、繰り返しテレビで放映されています。

その映像の原盤をみると、撮影している米人たちが、まるで娯楽映画を楽しむように、その人が次々と投身自殺をしていく光景をみて、歓声をあげている音声がはいっています。


制止するべきではありませんか?
言葉が通じなかったとしても、その崖に銃弾でも撃ち込めば、婦女たちは崖から飛び込むことをあきらめたとは考えられませんか?
ここにすべてがあらわれています。


サイパンの戦いで玉砕した日本軍は41,244名です。
そして重症のため、米軍に捕獲され、捕虜となったのが、2438名。
米軍の死傷者は、公称で、戦死3441人、負傷11,465人です。

ただし、米軍に初日の死傷者はこの数に含まれていません。
また、戦傷して病院に担ぎ込まれたあとに死亡した者は戦傷者としてカウント、治療のあと隊に復帰した者は戦傷者に含まれていません。
従って、死傷者の数は、おそらくは1万5000〜2万人であったろうと思われます。

戦争は悲惨なものです。
絶対に繰り返してはなりません。

しかし、それでも「世界に戦争があること」を否定することはできません。
なぜなら、それは現実だからです。
そして、相手が弱いとみるや、徹底して蹂躙しようとする悪者が、現実にこの世にはいるのです。
日本に原子爆弾が落とされたのは、その時点で「絶対に日本から報復される惧れがなかったから」です。

サイパンで、民間人の婦女子や老人、子供が、ひどい目に遭わされました。
それは、最早その時点の日本側守備隊、あるいは日本本土から、報復の惧れがまったくなかったからです。

もしサイパン戦の時点で、日本に強大な軍事力が保持され、米本国への報復力があったならば、米軍は民間人の家屋への爆撃や艦砲射撃ができません。
なぜなら報復の恐怖があるからです。
そういう微妙なバランスが、悲しいことですが、人類の平和を微妙に維持しています。

「ボクはケンカはしません」ということは、立派な心がけです。
しかし、だからといって体を鍛え、何ものにも負けない強い体と心を鍛えることを怠ったら、万一のときにあなどられるだけです。

国家でもおなじことです。
スイスは永世中立を宣言しているから責められないのではありません。
万一の場合、スイス人全員が最後のひとりまで武器を持って戦うとしているから、そんなヤバイところを誰も責めようとは思わない。

戦争は悲惨です。
けれど、悲惨だからといってそこから目をそむけても、現実は何も解決しません。
強盗被害に遭った。家族が殺された・・・そこから目をそむけても、事態は何の解決にもならないのです。
二度と強盗に遭わないように、平素から120%の準備を怠らない。
それこそが本来のあるべき姿です。

軍備を持つからイケナイのではありません。
武器を用いて威嚇して他人に言うことを聞かせようとする無法者が現にいるから、日ごろから備えを充分にして、武器を持っている無法者達にすきなようにさせないということが大事です。

自分の国は自分で守る。
そのための強い心と軍事力を取り戻す。
それこそが、日本を取り戻す、ということだと私は思います。

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西村眞悟 核抑止力と安全保障


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コメント

ネトウヨ抹殺委員会

クソネトウヨが
おまえサイパン行って来いや。んで、「日本を守るんだあ」って叫んで来い。

ひとつ教えてやろうか。
おまえみたいなアホがあの戦争を引き起こしたんですよ。

さっさと死んで欲しいね。

あ、あと自分に都合のいいように捏造するのやめとけよ。

いつも見ています

娯楽映像の入手先について
 ブログに記載のありましたバンザイ・クリフの投身自殺の映像ですが、無音と思っていました。
 この映像の原盤に、投身自殺をしていく光景をみて、歓声をあげている音声が入っているとありますが、まったく知りませんでした。
 また、普通の「人間」として、理解することがまったくできません。
 そのような映像はいったいどこにいくと、入手又は閲覧できるものか、教えていただけませんでしょうか。

 現代は何でもビジュアルで説明する時代だと思います。
 当時のそのような映像があるのであれば、今からでも遅くはない、いやむしろ今こそ、そのような映像をもって、もっと広めていただいたほうがいいのではないかと思います。フォックスと呼ばれた男ではアメリカも日本も同じ「人間」という前提になっており、そのようなイメージが定着することと思います。


粕谷真人

昔、他のところで書いたもの
最近のサヨクが米国を批判しないで、保守がやっている。

昔は、米ソ冷戦構造があって、日本は米国についていたので、米国の戦争犯罪を言いたくても言えなかった面があり、ソ連のシンパとはいえサヨクがそれを代弁していたのだが、最近のさよくはなんですかな。もう、存在価値がないです。おそらく、ウヨク(保守の側)が、取り上げられなかった声を代弁しないといけないのだろうな。

ポーランド人の爪の垢を煎じて飲もう。

冷戦時代のポーランドではカチンの森事件はドイツのしわざとされソ連のしわざとは公式に語れなかった。しかし、ポーランド人は忘れなかった。日本人はポーランド人の爪のあかをせんじて飲むべきで、できないやつは日本人でない。

PS:
上の二つを他の所に書いたが、まとめると歴史に関する戦いは長期戦にならざおえないので、いつか反撃の時がくるから事実を語り継いでくしかないのだろう。

千代に八千代

ミンス、凶惨、捨民消えて無くなれ!(`_´)
中山恭子さん当選おめでとう御座います!

やはり、維新にいても御活躍を期待せずにはいられません。

降名も消えて無くなれ!(`_´)

ハチ公

銃器に関して間違った記述が散見それますので、あえて一言わせていただきます。

>ハンディタイプの歩兵用機銃は、5.5ミリ弾を用います
たぶんトンプソンM1A1短機関銃のことであろうと思いますが、この銃の使用弾薬は45口径拳銃弾で、発射速度はライフルに比べ遅いものの、大口径のため当たればほとんど即死です。
ちなみに米軍の制式採用小銃はM1ガーランドで口径は7.62ミリと三八式よりも大きくそれこそ一撃必殺です、口径が1ミリ違えば着弾時の衝撃は2倍近くなります、また戦場医療の発達した米軍においては小口径の三八式で撃たれたぐらいでは(急所以外)生存率はかなり高かったようです。

共通一次世代

中山恭子さん!おめでとうございます!
当確、早かったですね。バンザイしました!

安倍内閣を外から支えてくれる強い味方!
拉致被害者ご家族の皆さんもきっとほっとされていらっしゃるでしょうね。
本当に嬉しいです!!

本当によかった・・。(嬉し涙)

夕凪

中山先生よかったです!
選挙区:自民
比例:中山恭子先生
これで行きました!

tooy

おめでとうございます。
中山恭子女史の参議院選挙当選!!
嬉しい祝杯です。

読者

どうしても考えがまとまりません
もう頭が混乱してしまい・・・、どうか皆様、拡散願います。
 この「素っ裸にされ連行された婦人たち」はその後輪姦され、棄てられたのだと思いますよ・・・。墓も無く、どれほど無念でしょうか。米軍は日本兵の遺体を残飯捨て場に投げ込んでいた鬼畜集団ですから、この程度のことはやったでしょう。
 それがいま韓国の慰安婦デマに喜んで加担しているんですからね。腐りきっています。親米を通り越した従米保守論客に今回の記事を読ませて感想をお聞きしたいものですよ。
 なお、その遺骨の上に建てられたリゾート施設で遊び呆けてきたのが戦後の日本人です。
 私はだいぶ前に会社の同僚にサイパンに行こうと言われましたが、断わりました。断じて遊びで行く所ではないと思ったからです。(見事に変人認定されました。これが現実です。)
これはグアムも沖縄も同じだと思っています。
 さて皆様に読んでいただきたい本を紹介いたします。
「キリスト教は邪教です!」講談社@新書・摘菜収著、これは版を重ねて今も書店に並んでいます。
 内容はニーチェの「アンチクライスト」の骨子の解説です。キリスト教のドグマ(独善)が白人至上主義と結びついたのが全有色人種にとって悲劇の始まりだったと痛感しますよ。
 私の勤務先の近所には大正末期建立のプロテスタント教会があります。(明治中期にできたものの関東大震災で全壊しました)そこの周りには昭和初期の木造民家が今もいくつか残っています。要するに爆撃を免れたのです。これは立教大学も聖路加国際病院も全く同じです。
 いくら変人といわれようと「髪を金に染める者」「教会で結婚式を挙げる者」は悪魔に魂を売った者等であると今後も訴えていきます。
 ともあれ全ての国想う読者の皆様、共に歴史の真実をあきらめずに拡散しましょう。一層の拍手とクリックを!

ポッポ

サイパンの玉砕戦においては、映画、小説でアメリカ人の書いたタッポーチョの奇跡を読んだことがあります。戦争が悲惨であったのはもちろんですが、大尉以下約50名の部隊が民間人を保護しながら戦ったことが書かれていました。
この部隊は終戦後に降伏したのですが、その方法は上官からの降伏命令に従う形式をとっていました。これは、フィリピンのセブ島で降伏された小野田寛郎少尉もそうでしたが、降伏命令に従わない場合は戦犯になる可能性があったと思います。
もっとも、降伏命令に従って降伏したにも関わらず、その後の処遇が抑留であったという馬鹿げた行動を行ったソ連は、日ソ中立条約の一方的廃棄とともに、信用できない国家であることから、これから開始されるであろう日ロ間の様々な条約交渉において、注意を要することだろうと思います。
間違っても、ロシアが反日教育をしていない良い国だとは考えてはいけないと思います。条約を一方的に廃棄され、終戦後の捕虜をハーグ条約を無視して長期間抑留のあいだ強制労働に供され、どさくさ紛れに北方領土を占領したソ連(ロシア)に対して、反ロシア教育をしていない国が日本なのです。

宮崎一区民

今朝護国神社行って、兵隊さん達に護国候補全員の当選祈願+何としてでも濡れ衣晴らす約束をして来ました。
錆びたヘルメットや軍刀、家族への手紙等見て改めて奮起しました。

さて‥そろそろ選挙結果が出る頃かな? 
結果や如何に(οдО;)!?

shengxin

ねずさん、自分も比例区は中山恭子さんに入れましたよ。
あの方を落選させてはいけませんよね。

日本女性の見本のような方だと思います。

姫空木

困った左翼
宮崎駿がなにやら書いてましたが、支離滅裂で意味不明でした。

全て日本が悪いという思想に染まって、憲法9条があるから日本は
平和というとんだ勘違いをしていました。
戦後の左翼教育がみごとに花開いた結果ですね。

「風の谷のナウシカ」で、風の谷に攻めてきたトルメキア軍は
ハッキリ言ってお上品な軍だから良かったんです。
それが中国や韓国の軍なら、ナウシカをはじめ谷の女性はすべて
凌辱されて、男性は殺されていたでしょう。
武器を捨てて無抵抗になったからそれで済むというわけではないのです。
それが全くわかってない。

慰安婦に謝れとか、領土問題は折半しろとか、アホかと思いました。
韓国が竹島を占拠した時に、日本人の漁師が拿捕されて殺されたり
人質にされたりしたことを知らないのでしょうか。
泥棒どころか「誘拐犯や殺人者に追い銭」をしろと?

現在の日本人がひ弱でマーケット主義で、裁縫も縄を縛ることも、
何もできないとも書いてましたけど、それこそ戦前教育をぜーんぶ
否定した結果ではないのでしょうか?
家族制度を否定し、嫌なことは我慢しなくていいんだよと教え、
過度の個人主義と完全能力主義が今の殺伐とした日本を作っているのでは
ないでしょうか?

でも、一番呆れたのは「人がいなければ日本はものすごくきれいな島だと
思った」という一文。
この人、ホントに日本人が嫌いなんでしょうね…。


アジア

三八は見た目は同じでも改良が加えられていますよ。連射もできます。幼稚なのはバカサヨですね。万歳突撃は崇高な精神によって敢行されたのです。狂気ではありません。
虐殺魔米畜こそまさに鬼畜。コイツらこそ狂気ですねw未開の蛮族w
日本人はそこまで小さくないし、米畜はそこまででかくない。
日本人は大人、バカサヨ、米畜は糞餓鬼、幼稚。

shengxin

すみません、ねずさんの記述に誤りがあるように思い書かせていただきます。

米軍の機関銃に関して、携行兵器としてのサブマシンガンであるなら45口径ですから直径1センチちょっと、半径で言えば5.5ミリぐらいになると思います。拳銃にしても米軍はコルト45ですからこれも同じ。かーびん銃となれば約8ミリぐらいでしょうか38口径ぐらいだったと思います。

対して日本軍の三八式。
口径は6.5ミリと小さいのは正式採用された時の国際法に則り決定されたものだとか。
撃たれた相手方は余程致命的な部分でない限り三八式の弾は死に至らしめることは無かったそうです。確かに後方へ送らなければいけなかったのですが、弾が小さい分回復も早く、日本兵と違い体力も有った外国人兵は通常よりも早い原隊復帰となっていたそうです。

その後、99式の7.7ミリになりましたが、十分に行渡らずに新旧併用になったわけです。

ちなみに諸外国の歩兵銃の口径ですが、大体8ミリ前後が標準のようです。

ただ、第一次世界大戦当時、口径が小さいライフルも結構あったので、その当時の基準で三八式は作られているのだと思います。

アメリカはマン・ストッピングを重視する携行があり、大きな口径で撃って相手を止まらせる事が大事といった観念を持っていたようですよ。

ただ、日本人などアジア諸国の有色人種を人以下のような感覚で戦争をしていたのは事実。
白人じゃないんだから遠慮する必要ないという状態でしたね。

その意識を変えてくれたのは日系二世部隊で、凱旋時には大統領が周りが止めたにもかかわらずじきじきに出迎えたという話もありますね。

日本人は外国の国籍に移っても(敵対することになっても)その国に対してしっかりとした義務を果たすというすばらしいものを持っていました。

しかし日教組教育が大事な部分を失わせていったように思えます。
終戦から昭和60年ぐらいまではまだ比較的まともな教育だった気がします。
性教育にしても、少し平和主義的ではあったにしても兵隊で参戦した人がまだ沢山居たからでしょうね。

今はもう酷いものです。

そして、最近宮崎某というアニメ監督さんが憲法の事や軍隊の事を言っていたようですが、お花畑過ぎている気がします。
漫画家さんのやくみつるさんも似たような主張をしていましたね。

最近の兵器は無人でやることがはやっているようですね。
まるでゲーム感覚。
これでは命の大事さを考えてという気持ちは薄れますよね。

やっぱり日本が世界をリードしなくては腹黒い国々と人をまともにできませんよ。
その前に教育から始めないといけませんね。

terag3

戦争を美化するなと言う批判はやめよう
昨日の「背中の静ちゃん 大石清兵長」のコメントにも書きましたが日本軍人たちの勇猛果敢な戦闘ぶりは、何も神風特攻隊だけではありません。本日エントリーされた「サイパン」にしてもあの「硫黄島」にしても日本軍将兵たちの祖国を守ろう、愛する者たちを守ろうと言う気高くも優しい思いやりの心が、我が身を犠牲にすることを厭わず鬼神のごとく敵に立ち向かわせたのです。

それは武士道に通じる日本人独特の心情だと思います。そのような日本軍独特の戦いに敵兵は恐れを抱いたのです。

<日本と戦争すると、とんでもないことになる>・・・神風特攻作戦にせよ、サイパン、硫黄島の戦いにしろ、みんな同じです。その戦いぶりに敵は恐れおののいたのです。
確かに作戦のミスも有ったと思いますが、そのミスを我々日本人が責めることは英霊たちを冒涜することに繋がります。

戦争を美化するなと言う言葉で、大東亜戦争を戦った将兵たちの奮闘ぶりを無視すると言うのは余りにも独善的で有り日本人にあるまじき言動だと言えるのではないでしょうか。

日和

おはようございます。先ほど選挙に行ってきました。
中山恭子先生に投票済です。

楠 正成

WJF
在日に乗っとられてるようです

関係切ったほうが良いです
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年生まれ。浜松市出身。上場信販会社を経て執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。またインターネット・ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。「歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに」という理念を掲げ活動する。古事記・日本書紀・万葉集などの原文を丁寧に読み解き、誰にでも納得できる日本論を発信。

《著書》日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、その他執筆多数。

《動画》「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

講演のご依頼について

最低3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。
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E-mail info@musubi-ac.com
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○受付時間 
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