と、その前に、日本三代美女の衣通姫、小野小町、藤原道綱母の三人ですが、この三人のなかで年代的にもっとも古いのが衣通姫(そとおりひめ)で、5世紀の人です。
時代でいったら古墳時代です。
記紀で紹介されている女性で、その美しさは、衣を通して輝を発したところから、その名前がつけられました。
記紀では、どちらも絶世の美女として紹介しているのですが、ただ古事記と日本書紀ではその記事の内容が異なっていて、古事記では禁断の恋に落ちた衣通姫が、流罪になった恋人を慕って愛媛まで行き、そこで愛する人と心中したとなっているのに対し、日本書紀では允恭天皇に寵愛されたお妃(きさき)でありながら、皇后の嫉妬によって逢えなくなった不遇の美女として描かれています。
二番目に古いのが小野小町で、こちらは平安中期、9世紀の中頃の女性です。
いまでもたとえば「あきたこまち」などの名前に形容されたり、あるいは町内の美人のことを「◯◯小町」などと形容したりされているくらい、時代を越えて愛されている女性です。
三番目に古いのが藤原道綱母で、平安中期ですから10世紀の女性で、「蜻蛉日記(かげろうにっき)」の著者でもあります。
情熱的な歌人で、清少納言の枕草子にも紹介されています。
三人とも、古い時代の人だけに、肖像画のようなものは残されていません。
ただ、絶世の美女として紹介されています。
なかでもおもしろいのが小野小町です。
諸説あるのですが、有力なのが、小野小町が秋田県の出身だ説です。
秋田美人といえば、目鼻が大きく、顔立ちがくっきりしていることで知られています。
ですのでもしかすると小野小町も、そういう秋田美人系の美人だったのかもしれません。
そうなると、これまた面白いことになります。
と申しますのは、美人の物差しが変わって来るのです。
昔、学校で「天平美人」などという言葉を習った方も多いのではないかと思います。
天平時代というのは、奈良時代、つまり8世紀ですが、その頃から平安期にかけて、我が国では「引き目かぎ鼻」、つまり細目で鷲鼻の女性が美人とされた、これを「天平美人という」などと学校で教わった方も多いと思うのです。
つまり大昔の美人は、現代とはまるで異な美観で、だから美人の要件も時代とともに異なっていたというわけです。
小野小町は、この説をひっくり返してしまうのです。
そもそも人間の美的感覚というのは、地域的にも歴史的にも、そうそう変わるものではありません。
世界中どこに行っても、美人は美人です。
トロイのヘレネも、クレオパトラも楊貴妃も、おそらくいまの世にいても美人でしょう。
つまり、引き目かぎ鼻からはほど遠い秋田美人の小野小町も、現代人の感覚でみても、やはり美人だったであろうということになるのです。
絵画でも彫刻でも、時代を越えて美しいものは美しいものです。
ならば人だって、美人は時代を越えても美人です。
であれば、引き目かぎ鼻が天平美人の要素だなどというのは、単なる思い込みか、一方的な決めつけでしかないということです。
現代美人は、古代や中世の世に行っても美人でしょうし、逆に古代や中世の美人が現代社会に蘇っても、やはり美人なのだろうと思います。
そもそも絵画の世界では、引き目カギ鼻の天平美人が古代日本の美人の要素だと言いながら、同時代の彫刻は、奈良の大仏にしても、弥勒菩薩像にしても、あるいは阿修羅像(下の写真)にしても、目も大きいし、現代人の目からみても、実に整ったお顔立ちをされています。

江戸時代には、美男美女のことを「目病(や)み女に、風邪ひき男」などと形容しました。
最近では「目ヤニ女」なので、目が大きいのだろうなどと誤解されていますが、本当は「目病み女」です。
「目病み」というのは、目を病んでいると不自由なので男性が手を差し伸べたくなる風情で余計に愛しい、風邪引き男は女性が面倒観たくなる風情というわけで、ここにあるのも、見た目の問題ではなくて、互いの思いやりの心です。
つまり、見た目ではなく、心のやさしさ、思いやりの深さこそ大事とされていたわけです。
さて、この三人が「日本三大美女」と呼ばれるようになった理由です。
ここにも実に日本的な精神性が隠されています。
そこで今日は、「小野小町」を中心に、その精神性とはいったい何かを観て行こうと思います。
さてその小野小町ですが、小野小町という名前は本名ではありません。
本名は、これまた諸説ありますが、おそらくは吉子(よしこ)であったろうといわれています。
ただ、この時代官位を持つ女性たちは、本名ではなく、官位などで呼ばれるのが慣例でした。
もっとも位の高い女性は、いうまでもなく天子様の正妻である「皇后」です。
次いで中宮(ちゅうぐう)、妃(きさき)、女御(にょご)、更衣(こうい)と続きます。
このうち「女御」までは、部屋が与えられましたが、「更衣」は大部屋暮らしです。
ただ、さすがに我が国の中世というのは思いやりがある時代だったのだなあと思えるのは、「更衣」たちは、なるほど大部屋暮らしではあるけれど、その大部屋の中を屏風や几帳などで三畳間ほどの空間に仕切り、そこを自分たちの部屋のようにしていました。
その仕切られた区画のことを「町」といい、「◯◯町」という名称も、実はここからきています。
ですから小野小町というのは、小野家から宮中にはいった後宮の女性で、身分は「更衣」で、大部屋で小さな「町」をつくって暮らしていた女性、となります。
その小野小町は、たぐいまれな美人で教養にあふれた才女であり、多くの男性たちから恋文を送られ、その恋文を、ある日、小野小町みずから、京の都の山科(やましな)にある随心院というお寺に埋めました。
その埋めた場所が、小町文塚として、いまも残っています。
小町文塚(随心院)

そしてここではいまも毎年3月に、小野小町ゆかりの「はねず踊り」が行われています。
ちなみに「ねず踊り」ではありません(笑)
さて、この小野小町が残した有名な歌が、古今集から百人一首に紹介された次の歌です。
花の色はうつりにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに通釈は、「空から雨が降ってる様子を眺めている間、自分がいたずらに時を過ごしていたその間に、花の色は褪(あ)せてしまった」とされているようです。
これだけ聞いたら、気がつけばいいかげんおばさんのになってしまった小野小町が、私だって昔は美人だったのよとでも言いたげな歌に聞こえます。
けれど、いつも言うことですが、和歌というものは、本当に言いたいことはグッと握って話さない。
読み手にその心を連想させ、その連想の広がりが広ければ広いほど、良い歌とされるものです。
ですから、小野小町のこの歌が、古今集からさらに百人一首にまで引用され多くの人々に愛されたのは、ただ「おばさんになって、あたしも色あせてしまったわ」などという、そんな中途半端な歌では決してないし、そうとしか読めないなら、あまりにも寂しいと思うのです。
この歌をねず流で解釈すると、まず、「花の色」の花は、この時代、主に桜をイメージしています。
一義的には、なるほど桜の「色がうつりにけりな」という、その「色」とは、色彩そのものであると同時に、カタチあるもので、桜は、華やかに咲いて、あっという間に散っていくところに、ひとつの美学がありますから、「花の色はうつりにけりな」で、「咲いた桜も散っていく」。
「いたずらに」は、「気がつけば」ですから、「気がつけば桜の花も散っていくわ」となります。
「わが身世にふる」は、「ふる」が「降る」で、雨が降る「降る」ですから、自分の身と、世の中に降る雨を「眺めせし間に」です。
ただ、注意したいのは、「花の色」が褪せたり、花が散ったりと書いていないことです。
「花」をあえて「桜」と特定せずに、単に「花」と呼んでいる。
ということは、季節に応じて、色やカタチのことなる花が咲いているわけです。
そして、「いたずらに」は、「時を過ごしてしまった」という意で、降る雨は、涙でもあるわけです。
そうなると、通解すれば、
「降る雨を眺めている間にも、季節ごとに様々な花が咲いては散っていきます。咲く花ごとに、たくさんの恋が芽生えては消えて行きます。わたしもいたずらに年を重ねてしまったけれど、また我が身を焦がすような恋をしてみたいものだわ」という意味となるものと思います。
いくつになっても、恋する心を忘れない。
その恋は、いくつになっても、女性を美しく輝かせます。
ですから、美しい小野小町は、また、いくつになっても、恋するトキメキを忘れないういういしい心を持つ女性でもあった、その心が託された歌が、この歌の心であろうと、思います。
申し訳ないが、いくら若い頃美しても、年をとって心身共に色あせてしまったら、もはや美人とは呼ばれません。
百人一首が、この歌を、天下第一の美人の歌として選んだのは、小野小町が、単に若い頃美人だったというだけでなく、いくつになっても、心の若さと恋するトキメキを忘れない女性であったからこそ、なのではないかと思います。
本当の美人とは、単に若さだけが美人の要件ではない。
年を重ねても、心の美人は、むしろ年を重ねることによって、ますますその心の美しさに磨きがかかる、そして恋する心やトキメキは、年齢に関わらず女性を輝かせる。
そういう歌だからこそ、この歌は、数ある名歌の中でも「百人一首」に選ばれ、千年以上の長きにわたって、多くの人々に愛され続けた歌になったのです。
小野小町の歌で、もうひとつ。
いろ見えて
うつろふものは世の中の
人の心の
花にぞありけるこれは通解では、世の中の人の心なんてものは、みるみる変わって行くものだとい意味とされています。
けれど、よく読めば、「色=空(色即是空、空即是色)」ですから、「世の中の人の心なんてものにはカタチなんてないものだけれど、カタチがないからこそ『花』なんだよね」という意味になります。
そしてその「カタチのないもの」を愛する心こそが、美しさといえるものなのではないか、そんな意味が込められた歌と読めるのです。
まだあります。
うたたねに
恋しき人を見てしより
夢てふものは
たのみそめてきうたた寝してたら恋しい人の夢を見ました。夢は頼りなく儚(はかな)いものだけれど、その人の夢をみることを頼みに思う(夢で遭いたいと願う)ようになりました、というわけです。
若い頃なら、逢いたいと思う人には、ある意味、簡単に逢うことも可能です。
けれど、年を重ねて来ると、様々な制約のもとで、逢いたいと思う人になかなか遭えなかったりする。
そんな逢いたくても逢えない人に、夢で逢おうとする女性の心。
はかなくもあり、また情熱的でもある、そんな女性の想いを、この歌はとても格調たかくあらわしているように思えます。
これが92歳まで生きたとされる小野小町の歌なのです。
いくつになっても、恋する心を忘れない。
そういう、実年齢にかかわらずいつまでも輝きを失わない、あるいは美しいままで輝きを放ち続ける小野小町の心が、まさに日本を代表する美女として、小野小町が千年以上にわたって賞賛され続けた理由なのです。
世に「傾国(けいこく)」とか、「傾城(けいせい)」とされた女性は、数々います。
世界各国で、美女と賞賛された女性の多くは、若くて美しくて、そのあまりの美しさゆえに、国王や武将の心をとらえて放さず、ついには猛将と呼ばれた男でさえも、その美女のために国を滅ぼしてしまう。
だから「傾国」です。
トロイのヘレネしかり、楊貴妃しかり、クレオパトラしかりです。
けれど日本における美女は、単に若さとか美貌だとか、スタイルが良いということだけを問題にしたものではありません。
それ以上に、年輪を重ねるごとにますます磨かれ、完成されていく人間としての心根の美しさを失わない、若さとか、スタイルの良さとか、見た目の美しさだけじゃない、そういう輝きを持った心をこそ、私たち日本人は、千年以上もの昔から、美女として大切にしてきたのです。
なぜそう言えるのかといえば、それこそ「花の色はうつりにけりないたづらに」です。
美しさを単に「見た目」の良さでしか考えようとしないと、「花の色はうつりにけりないたづらに」の歌も、単に「おばさんになって色褪せた」としか解釈できなくなってしまうのです。
そうではなくて、「いくつになっても、恋する心を忘れない」、そういう心の輝きを大切にする。
それが日本の古典文学の特徴であると思うのです。
衣通姫が心中したのは、いまでいったら中年になってからです。
若い頃の慕情を、いくつになっても忘れず、最後には愛する人と死んでまで想いを遂げる。
あるいは藤原道綱母は、子を設け、母となり、愛する人が摂政となって、忙しい日を送り、逢うことさえもなかなかできない寂しい日々を送りながらも、たぎる心を失わず、愛する人を一途に思う心を詠んだ歌がたくさん残されています。
この時代は、まだ化粧品も発達していず、ほとんど素顔のままで生きた時代です。
人間、どんなに美しい女性であったとしても、寄る年波は、美貌もスタイルにも老いを迎えます。
けれど、いくつになっても、またどんなに年を召されても、逆にいえば、年輪を重ねるごとにますます輝きを増すのが、人の心というものです。
そして、たとえいくつになっても、その心の輝きをもつ人は、男でも女でも、人として美しい。
ですから日本三代美女は、ただ見た目の美しさによる美人ということではなくて、見た目以上に心が美人だったからこそ、時代を超えて、美人と呼ばれ続けきたのです。
つまり、そこに我が国の精神性を重んじる文化のたいせつな部分がるのだと思うのです。
実際、たとえば参議院議員の中山恭子先生、あるいは先般の東京五輪招致にあたってスピーチをされた高円宮妃久子様など、まさに衣の下からさえも輝きを放つと形容できるほどのお美しさをもっておいでです。
そしてその美しさは、人としての心から発する美しさであろうと思います。
単に肉体美を競う美人ではない。
心の美しさこそ大事とする。
人としてそのように美しく年輪をかさねていくことこそ、幸せなことなのではないだろうかと思います。
女性のことから書き出しましたが、男でも同じです。
40歳を過ぎたら、男は自分の顔に責任を持てといわれます。
いくつになっても、老いてさえも心の輝きを失わない。
日本三代美女は、美しい女性たちですが、同時に、年輪を重ねても心の輝きを失わない、そういう女性を理想とした日本社会をも象徴しているのだと思います。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
励みになります。
天皇陛下がおわす、世界一の国家 日本
【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

日心会メールマガジン(無料版)
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

拡散しよう!日本!ねずブロへのカンパのお誘い
ねずブロで感動したら・・・・
よろしかったらカンパにご協力ください。
【ゆうちょ銀行】
記号 10520
番号 57755631
【他金融機関から】
銀行名 ゆうちょ銀行
支店名 〇五八(店番058)
種目 普通預金
口座番号 5775563
【問い合わせ先】
お問い合わせはメールでお願いします。
nezu@nippon-kokoro.com
コメント
-
愛する人を気遣う衣通姫のこの一首の歌に感動します。
一途な愛が彼女の心を美しく輝かせたのでしょうね。
心の美人は年齢や外見の美醜に関係なく美人だと思います。
心こそ大切にして、いくつになっても人を国を思い愛し敬う気持ちを持ち続けたいと思いました。
2015/01/12 URL 編集
皇国の住人
いろ見えて
うつろふものは世の中の
人の心の
花にぞありける
小町殿のこの歌、心に響きました。響き入ったと言ったほうが
正しいかもしれません。この歌をよんだ瞬間に思ったことは、
世の中は常にうつろい、人の心も花のように脆くも崩れ去って
しまうことが世の理ではあるけれども、我が心に偽りの無い
花を宿していれば、どんなことがあろうとも、我は生きてゆける。
このように思いました。一途ということです。
何時の時代にも通ずる普遍的な心を歌にしてしまった。
小町殿の歌に、物凄く興味が湧いてきました。
これほどまでに心に響くとは・・・。
奥ゆかしさ、これほど説明に困るものはないと思いますが、
しかし、これを抜きに日本人は語れないですね。
2013/09/22 URL 編集
希恵
初めてねずさんのお話を間近で伺いましたが、熱い思いのブログから想像していたお顔よりも、ずっと優しそうで温厚なお顔をされていました。
お話も面白く、ぐいぐいと引き込まれ、大変興味深く拝聴いたしました。
本も出版されると伺い、どんなご本なのか、今からとても楽しみにしております。
私は過去に日本近代史を「侵略」と教わってきましたので、「反日」をどう捉え、どう対していくのかということが、あまりわかっていなかった人間です。
しかし、李明博の陛下への侮辱行動や民主党政権の施政のお陰(?)で目覚め、今は日本人が「本来の日本」を取り戻すべく努力していきたいと思っています。
「日本人は、しっかりと歴史の真実を見据え、戦後にねじ曲げられた歴史から、真実の歴史を取り戻さなければなりません。」
ねずさんがよくおっしゃる言葉ですが、本当にそうだと思います。
この頃そうした情報や本が多く出されていますが、とても喜ばしいことです。
先日、ネットで『THE NEW KOREA 朝鮮が劇的に豊かになった時代』が話題になっていることを知りました。
http://amzn.to/1gCoAfZ
80年近く以前に、米国から依頼された植民地運営調査の一環で日本の朝鮮統治を調査した英国人学者アレン・アイルランドが著したものを、日英対訳で日本で出版されたものです。
彼は的確な証拠を挙げながらこう言います。
「これまで私が尋ね歩いたイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、ポルトガル領のいずれの植民地もよく統治されていたが、その多くの植民地よりも、(日本の朝鮮統治は)政府の行政手腕のみならず、民衆の文化的掲載的発展においても優れているのである。」
ねずさんが「日韓併合の真実と李承晩ライン」でおっしゃていた、自分達を「神」「人」「獣」の中の「人」と認識していた西欧人の一人である、この行政学者(彼は偏見は少ないとは思いますが)は、
「獣」であった日本が統治しているKOREAを見て、相当に驚嘆したのではないかと想像します。
しかし、だからこそ彼の報告書は、一層「信憑性」があるものだとも言えます。
こうしたことは、学校では教えて貰えることはなく、知らせてくれる人もいませんでしたが、
実は意外と明治以降に、外国人が日本を評価する本が多く出されているらしいです。
どうしてそうした良書が、これまで日本で訳本が出されていなかったのかが不思議です。
日本人は自らの誇るべき歴史をあまり知りません。
戦後は意図的にそれを奪われてきましたが、それを取り戻さねばなりません。
間違った認識でいわれなき非難を受けてばかりでは、素晴らしい日本を作ってくださったご先祖、未来の日本の子孫達に申し訳が立ちません。
この本で書かれていることを多くの日本の人に、いえ在日や韓国の人にも是非知ってもらいたいと思います。
この本をねずさんのブログで紹介していただくことは叶いませんでしょうか?
以前にねずさんも紹介されていた『日本人はとても素敵だった』を出版している桜の花出版の本です。
付録として付いている巻末の編集者の人の言葉も感動します。
日本の未来だけでなく韓国の未来も案じている出版社の「心」が感じられます。
個人の蔵書としてばかりでなく、大学や地域の図書館が蔵書として持つように、購入リクエストも薦めていただければと思います。
何卒宜しくお願い致します。
長々と失礼いたしました。
2013/09/19 URL 編集
桜子
わが身世にふるながめせしまに
====
まるで自分のことを言われてるような気持ちでした。
すでに人生の折り返し点を過ぎて、姥桜と称されてもおかしくない年齢に達し、今までを振り返り、自分は何をしてきたのだろう、人様にではなく、自分に恥じない人生を送ってきたのだろうか?
文章を読ませていただき、改めて自問自答しております。
遅くに覚醒した私ですが、ねずさん始め愛国ブログで勉強させて頂き感謝しています。
恋など遠の昔に忘れてしまいましたが、改めて日本に恋して生きたいと思っています。
2013/09/19 URL 編集
西尾幹二全集
西尾幹二全集第8巻『教育文明論』の刊行
目 次
Ⅰ 『日本の教育 ドイツの教育』を書く前に私が教育について考えていたこと
今の教師はなぜ評点を恐れるのか
九割を越えた高校進学率――もう一つの選別手段を考えるべきとき
教育学者や経済学者の肝心な点が抜けたままの教育論議
わが父への感謝
競争回避の知恵と矛盾
文明病としての進学熱――R・P・ドーア氏の講演を聞いて
Ⅱ 日本の教育 ドイツの教育
第一章 ドイツ教育改革論議の渦中に立たされて
第二章 教育は万能の女神か
第三章 フンボルト的「孤独と自由」の行方
第四章 大学都市テュービンゲンで考えたこと
第五章 世界的視座で見た江戸時代以降の教育
第六章 進学競争の病理
第七章 日本の「学歴社会」は曲り角にあるか
第八章 個人主義不在の風土と日本人の能力観
終 章 精神のエリートを志す人のために
あとがき
主要参考文献
Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判
自己教育ということ――『日本の教育 智恵と矛盾』の序
どこまで絶望できるか
「中曽根・教育改革」への提言
経済繁栄の代価としての病理
矛盾が皺寄せされる中学校教育
校内暴力の背後にあるにがい真実
臨教審、フリードマン、イヴァン・イリッチ
「教育の自由化」路線を批判する
「競争」概念の再考
教育改革は革命にあらず――臨教審よ、常識に還れ――
再び臨教審を批判する
臨教審第二部会に再考を求める
臨教審第一次答申を読んで
なぜ第一次答申は無内容に終わったか
「自由化」論敗退の政治的理由を推理する
文教政策に必要な戦略的思考
「臨教審」第二次答申案を読んで
大学間「格差」を考える
飯島宗一氏への公開状
臨教審最終答申を読んで
Ⅳ 第十四期中央教育審議会委員として
講演 日本の教育の平等と効率
西原春夫前早大総長への公開質問状
大学審議会と対立する中教審の認識
中教審答申を提出して
有馬朗人東大学長への公開質問状
Ⅴ 教育と自由 中教審報告から大学改革へ
プロローグ
第一章 中教審委員「懺悔録」
第一節 指導者なき国で理想の指導者像は描けず
第二節 「教育改革」論議はなぜ人を白けさせるのか
第三節 答申から消された文部省批判
第二章 自由の修正と自由の回復
第一節 「 格差」と「序列」で身動きできない日本の学校
第二節 文部省文書のスタイルを破る
第三節 公立学校と私立学校の宿命的対比
第四節 入学者選抜は「大学の自治」か
第五節 なぜ地獄の入口に蓋をするのか
第三章 すべての鍵を握る大学改革
第一節 混沌たる自由の嵐を引き起こすために
第二節 私の具体的な大学改革案
第三節 “競争の精神(アゴーン)”を忘れた日本の学問
終 章 競争はすでに最初に終了している
第一節 誰にでも開かれているべき真の自由
第二節 効率から創造へ
付 録 学校制度に関する小委員会審議経過報告(中間報告)抄録
Ⅵ 大学改革への悲願
大学を活性化する「教育独禁法」
講演 大学の病理
有馬朗人第十五期中教審会長にあらためて問う
Ⅶ 文部省の愚挙「放送大学」
後 記
http://www.nishiokanji.jp/blog/
2013/09/19 URL 編集
ひろし
高校生や中学生に簡単に体罰(本当は暴力) を加える未熟な教師が後を絶ちません。この連中はお預かりしている子ども達を何だと想っているのだろうか。 多分この未熟な教師達は日本を愛する気持ちも、国体の意味もわからず教鞭をとっているのでしょう。 人格が確りしている教師であれば、言葉の力で生徒を鎮めることもできるし、正しく導くことも出来ます。 私も拳骨を頭に頂戴する位は何度もありましたが、今の教師達の体罰とやらは、執拗に何度も暴行を加えているのは、体罰ではなく傷害です。 そんな連中は教鞭をとらないで貰いたい!
2013/09/19 URL 編集
にっぽんじん
2013/09/19 URL 編集
にっぽんじん
原子炉建屋の損傷がなければ、原子炉の冷却は循環冷却が可能です。しかし損傷していて炉内の水が外部に漏れていて地下水がなければ、炉内の液面を保つために外部から炉内に水を供給する必要があります。その量は今の地下水の流入量に相当します。
そうなれば原子炉内の汚染水は直接地下水となって海に出ていきます。その場合、人間の手ではどうしようもなくなります。
問題点は3点です。
1.タンクにくみ上げた汚染水を無害化する技術があるか。
2.その処理能力が地下水の流入量より多いか
3.無害化した水の処理方法があるか
無害化しても処理方法がなければ福島の原発処理は不可能です。が、無害化した水は海に放流することが可能です。生活排水や工場の排水も無害化して海に放流しています。
海に放流出来ない理由があるとすれば、科学的根拠のない「不安」です。原発反対派に聞きたい。
汚染水を海に放流するのが良いか無害化した水を放流するのが良いか。どちらを選択するのでしょうか。これは原発再稼働とは関係ありません。福島原発対応の問題です。
地下水の流入量をゼロにするような愚策は避けて欲しいと素人の私は考えています。
2013/09/19 URL 編集
ポッポ
もう20年位前だったと思いますが、あるテレビ番組で日本の古代学の先生(名前は、覚えていません。)が、平安時代の美人そのままとして、その座にいた由紀さおりさんを、べた褒めしていました。
民主党の海江田代表は18日、駐日韓国大使と韓国政府が福島県など8県の水産物輸入を全面禁止したことについて会談し、これの解除要請をしました。
韓国が水産物輸入を禁止したことについては、彼らの放射能に対する知識の欠如とオリンピック開催に対する妨害対策ですから放置しておけば、諸外国から国際的常識の通じない国として笑われるだけのことです。
それよりも、民主党政権によって実施された、韓国食品の「輸入食品等事前確認制度」を取り消して欲しいのです。
私は、日本の海産物は安心していますが、韓国食品のキムチは韓国の曳船観念の無さから汚物に汚染されていますから、胃腸に不安を抱えているため食べられません。
ついでに、海江田氏は政権にあるとき、権力を振り回していました。東京電力の事故を大きくした一端は、あると思っています。もちろん、そのときトップであった菅元首相の責任は、言い尽くせない位です。検察当局からの呼び出しに応じなかったことは、どんな理由を言っても、自己の都合が悪いためであることが明白です。
俗に、バブル以来の20年間の不景気と言いますが、この3年半の民主党政権は、それ以上の災厄を日本にもたらしたと思います。
特別攻撃隊は、日本だけが組織として実施したと考えていましたが、ナチスドイツにおいても、これが実施されていました。
実施された作戦は1945年4月7日で、作戦名はエルベ特別攻撃隊(自己犠牲攻撃隊)。作戦の目的はエルベ川周辺に攻撃機を展開し、連合軍の爆撃機に体当たり攻撃をするものです。使用機はメッサーシュミット(Bf109)を中心とする180機ですが、攻撃機は軽量化のため機関銃、照準器、座席後部の防弾鋼板、無線送信機(受信する必要はあっても、送信する必要はないため。)が外されていました。脱出用パラシュートは装備されていましたが、パイロットのほとんどは、これを使用する技術はなかったと推察されます。それから、爆弾は搭載されていません。
実施日の状況は、動員された180機の内、故障や燃料不足のため実際に飛び立てたのは150機余り、さらに途中の故障などで帰投する機が相次いだため、敵に接触したのは100機程度と見られます。
戦果は4発爆撃機60機以上の撃墜とされ、未帰還者数は77人とされました(米軍の発表では撃墜は17機で、体当たり攻撃による墜落は8機、5機が大破墜落、帰還したが損傷していたのは147機、内109機は修理困難。)。
この作戦は、指揮官のハヨ・ヘルマンの発案ですが、日本の特別攻撃隊も参考にしています。また、1944年11月頃、ゲーリングに作戦の是非を打診していますが却下されており、許可されたのは1945年3月8日でした。
最終許可は、ヒトラーが出しています。実施に踏ん切りがつかなかったのは、宗教上自殺を禁じられているためと、部下を死地に追いやる指揮官の感情でしょうか?
作戦許可日から作戦実施日までの期間が短いこと、教官に経験の少ないこと、参加隊員が若く未熟であること、訓練の質が低いこと、航空燃料が不足していること等は、作戦に参加する隊員が気の毒なくらいです。
ドイツの特別攻撃は、この時の隊員がすべてのようですが、実施時期が敗戦直前でしたから、これ以上の実施はできなかったでしょう。また、ゲーリングは、戦果に期待外れだったようです。
なお、ハヨ・ヘルマンは戦後弁護士となり、97歳で亡くなっています。
日本と異なり、完全な敗戦となったドイツでは、戦争責任のすべてをナチスに負わせることで敗戦処理を行いました。そのため、特別攻撃隊のことも大きく捉えることができなかったようです。
2013/09/19 URL 編集
もみじん
本当にそのとおりだと思います。
年を経るたびに魅力的な男になるべく、努力していきたいです。
2013/09/19 URL 編集
団塊の世代の後輩
2013/09/19 URL 編集